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言語学・ゲームの結末を求めて(その3) [宗教/哲学]


単語
単語

たんご
word

  

単に「語」ともいい,文と並ぶ文法の基本的単位。しかし,その定義および認定は,意味,形,職能のいずれに重点をおくかによって異なる。ほぼ共通に認められる点は,意味の面,アクセントなどの音形の面で一つの単位としてのまとまりをもち,職能的にもほかの単語がなかに割込むことがなく,内部要素の位置を交換することが不可能で,常にまとまってほかの単語と文法的関係をもつことであろう。また,正書法で分ち書きを行う際には,単語がその基本単位となるのが普通。日本語文法では,おもに学校文法でいう「助詞」「助動詞」「形容動詞」を単語とするか否かの認定で説が分れる。橋本進吉らは3つとも1単語,山田孝雄,時枝誠記,服部四郎,渡辺実らは「助動詞」の一部と「助詞」の大部分を単語,「形容動詞」は2単語,松下大三郎らは「助詞」「助動詞」とも単語以下の単位,「形容動詞」は1単語で動詞の一種とみなす。





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[ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 2008]


単語
たんご

ことばの最も基本的な単位として,我々が日常的・直観的に思い浮かべるのが単語である。そして我々はこの単語を一定のルールに従って結合させ,より大きな単位である文を構成し,それを表出することによって,他人との間にコミュニケーションを成立させているのである。したがっていわばことばの基本的な〈駒〉として,日頃用いる辞典は単語を集めその意味を記したものという意識があるし,外国語の学習にあたっても,何はともあれ一定数の単語の習得が養成されるのである。もちろん,単語はより小さな単位である音韻から成り立っているわけだが,個々の音韻は特定の意味と結び付いているわけではないのであり,この意味で単語は話者の意識では基本的かつ最小の単位と普通はとらえられていると言えるだろう。このような,単語的なものが,各言語の話者の意識内に存在することは,たとえば古い書記記録(碑文など)に,単語間のくぎりを示す記号が用いられていたり,スペースがあけられていることからもうかがわれるように,決して近代になって言語の科学的分析が行われるようになってからのものでないことがわかる。
 では,この単語には厳密にどのような定義が与えられるであろうか。実はこれはかなりやっかいな問題であり,文とは何かという問いかけ同様,単語についてこれで十分という答えを出すことはできない。たとえば,〈山〉〈川〉〈花〉〈時計〉〈歩く〉〈食べる〉〈寒い〉〈なつかしい〉等に対して,〈の〉〈が〉〈れる〉〈だ〉などは,どうであろうか。また〈おはし〉の〈お〉や〈ごはん〉の〈ご〉は単語なのだろうか。また〈神〉と〈お神〉は別の単語なのか,〈お神〉は1単語かそれとも2単語なのかという疑問も出てこよう。同じく〈読む〉〈読もう〉〈読め〉は別単語かどうなのか,どう考えたらよいのだろうか。このような事情は日本語に限らず,多くの言語について見られるのである。これらの問題は文法全体をどう構築するかという問題ともかかわってくるのであり,その中で単語をどう取り扱うかによってそれぞれ答えが違ってくるわけである。
 ただ一つはっきりと言えることは,我々が考える単語は必ずしもことばの最小単位ではないということである。すなわち一定の音韻連続と一定の意味(文法的意味をも含む)が結合したものは,たとえば〈寒い〉の〈‐い〉や,英語の playing の〈‐ing〉などもそうであり,これは単語の意識からはかけはなれたものである。言語学ではこの最小の有意義単位を〈形態素〉と呼ぶ。したがって単語は一つ以上の形態素から成り立っているということはできるわけである。しかし,これだけではなんら定義をしたことにはならない。そこでつぎに,文法的分析・記述を行う際に,単語というレベルをまったく立てないという立場は別にして,我々の素朴な意識に根ざす単語の姿を漠然とした姿のなかから少しでも輪郭をはっきりさせることは,むしろ文法記述の上からも有用であろうという見通しに立って,定義の試みのいくつかを以下に検討し,そこからどんな特徴を引き出すことができるかを見てみよう。
(1)書かれた場合にその前後にスペース等のくぎりが置かれ,しかもその中にはくぎりをもたない。――これは英語などの書かれた形についていうことができるし,上述のように古代からそのような例は見られる。しかし同じ書かれた形から定義してみても,これは日本語などの場合にはあてはまらないし,そもそも世界中の言語を見わたした場合,書記体系をもたない言語が圧倒的に多いという事実からすれば,書かれた形から単語を定義する試みは普遍的基盤を欠くと言えよう。
(2)音声的特徴を手がかりにする試みもある。――たとえば,書かれた場合のスペースに相当するものとしてポーズ(休止)を取り上げ,前後にポーズがあり,その途中にはポーズがないまとまりを単語とするのである。しかし,これも現実にはコンスタントに存在するわけでなく,実際の発話は音のとぎれない連続であることが普通なのである。また実際のポーズではなく,ポーズを置ける可能性としてみても大して変りばえはしない。たとえば日本語の場合だと,普通は仮名1文字分に相当する音(連続)ごとにポーズを置くことが可能であるが,そこからすぐに単語へと結びつけることは困難である。このほかに,アクセントや母音調和といった現象が手がかりになる場合もあるが,これもどの言語についても言える性質のものではない。
(3)意味面から,ひとつの意味的まとまりをもった単位とする。――これは何をもって〈ひとつの〉とするかが問題となるし,そもそも意味をどう考えるかという大きな問題を含んでいる。
(4)次に機能的な面からの定義として,アメリカの言語学者 L. ブルームフィールドの定義がある。これは,言語形式のうち文としてあらわれることのできるものを〈自由形式〉とし,最小の自由形式を単語とするものである。――しかし,この定義に従うと,日本語の多くの助詞や助動詞が,単語ではないということになる。
 これらの例からだけでも,単語が決して一つの視点からだけでとらえきれるものでないことが明らかであろう。一定の意味と音形をもち,しばしばそのまとまりが音声的・音韻的特徴によってしるしづけられているだけでなく,機能面でもそれらの特徴の単位として働きうるのであり,またそれを構成する内部要素は一定の順序に緊密に結合されている,といった形で複合的にとらえることによってのみ浮かび出させることのできるのが単語なのである。
 なお,こうして輪郭を与えられた単語は,さらに種々の観点から分類が可能である。すなわち,語形成に着目すれば,単純語,複合語,合成語といった分類が,また形態や意味などを基準にして名詞,形容詞,動詞などの品詞に分けることができる。                      柘植 洋一

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単語
単語 たんご 一定の意味をあらわし、文法上の働きをもつ言語の最小単位。

「山が高い」という文は、「山」「が」「高い」の3つの単語からできている。国語辞典、英和辞典の見出し語は単語である。

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絵文字
絵文字

えもじ
pictograph

  

絵を手段として事物を表現し伝達する方法。文字の最も原初的形態である。絵文字は多くの北アメリカ先住民族インディアンの部族で発達し,その他の諸民族の間にも見出される。しかし実際にはそれらは絵画的「記号」にすぎず,多くは個人的関係で,あるいは小人数の集団で通用するだけである。それが観念と直接に結びつかなくなり,特定の音と結びつき体系化されて「文字」と呼べるのである。世界の諸文字はいずれも絵文字から出て表意文字の段階に発展している。メソポタミアの楔形文字,中国の漢字は古代表意文字の代表的なもので,象形的性格を強くもっている。





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絵文字
絵文字 えもじ 考えをつたえたり、ある出来事を記録するために、それに関係ある絵をかいて文字としてつかったもの。文字のうち、もっとも原始的な種類。狭義には象形文字と区別して、その前の段階の文字をいう。ピクトグラフもしくはピクトグラムともよばれる。

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音素
音素

おんそ
phoneme

  

時間の流れにそって切った,音韻論の最小単位。音声学における最小単位である具体的単音に該当する。学者により,音素の見方,定義,その帰納方法を異にするが,服部四郎によれば,単音の分布を調べ,同じ音韻的環境に立って互いに対立をなす2つ以上の単音はそれぞれ異なる音素に該当し,補い合う分布を示す2つ以上の単音の場合は,当該の単音が実は同一の音がそれぞれの環境に同化してとった形であると音声学的に説明しうる場合にのみ同一の音素に該当するとみなし,そうでないときはそれぞれ別の音素に該当するとみなす。それに音韻全体を見渡して作業することにより,いかなる言語においても,離散的単位である音素が互いに他と関連し合い,全体として整然とした体系 (音素体系,音韻体系) をなしており,構造の面でも均整的になっていること,違う音素となっているからこそ,その言語において単語の音形を区別するのであって,ひいては意味の区別に役立つという機能をもつことが多いことなどが明らかになった。音素およびその連続は斜線に入れて/t/,/'atama/のように表記する。英語では,pillの音声記号は [phil] であるが音素記号は/pil/となり,この4文字単語は3音素から成る。「音韻」は「音素」と同義にも用いられるが,アクセントや声調,音節の構造なども含めた広い意味にも用いられる。同一の音素に該当する2つ以上の単音は異音と呼ばれる。





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音素
おんそ phoneme

語の意味を区別する音声の最小単位。人間が言語の伝達において発する音声は多種多様であるが,ひとつの言語で聞き分けられる音声の型すなわち音素の数はほぼ一定している。この音素の規定は1930年代から40年代にかけて言語学の主要課題であった。音素については,これを具体的音声から抽出された音声概念とするポーランドの言語学者ボードゥアン・ド・クルトネの素朴な見解から,一方では心理的実在としてある型をなすものとする E. サピアの説および同質の音声のグループと解する D. ジョーンズの見方に進み,ついに音素は虚構であるというアメリカの言語学者トウォデル W. F. Twaddell(1906‐ )の極論にいたった。これに対し,L. ブルームフィールドは音素を物理的実体としてとらえる立場を表明した。この線に沿ってプラハ言語学派の音韻論は,語の知的意味を区別できる音声的相違すなわち音韻的対立phonological opposition に基づき音素を分析すべきだと主張した。すなわち,より小さな連続した単位に分解できない音韻的対立の項が音素と見なされる。例えば,日本語で〈鯛〉[tai]と〈台〉[dai]という語を区別しているのは,子音の[t]と[d]である。これら音声はさらに小さな連続的単位に分解できないから音素である。同じく[tai]は〈パイ〉[pai]と〈才〉[sai]とも音韻的対立をなすので,それぞれ/p/,/s/という音素を取り出すことができる(音素は斜線/ /にはさんで表記される)。いまこれら音素の音声的特徴を下記に比べてみる。
 /t/ 無声・歯茎・閉鎖音
 /d/ 有声・歯茎・閉鎖音
 /p/ 無声・両唇・閉鎖音
 /s/ 無声・歯茎・摩擦音
 音素/t/と/d/を区別しているのは〈無声〉と〈有声〉という音声特徴であることがわかる。このように音韻的対立を可能ならしめる音声特徴を弁別的素性もしくは示差的特徴 distinctive feature という。/t/と/p/の対立から〈歯茎〉と〈両唇〉,/t/と/s/の対立から〈閉鎖〉と〈摩擦〉という弁別的素性を取り出すことができる。そこで,音素/t/は〈無声・歯茎・閉鎖〉という弁別的素性から構成されていることになるので,R. ヤコブソンは〈音素は弁別的素性の束〉であると規定するにいたった。これに対し,アメリカの構造言語学の立場では,相補的分布 complementary distribution の原則が重視されている。日本語のハ行音で〈フ〉[ァセ]には無声両唇摩擦音[ァ]が,〈ヒ〉[ぅi]には無声硬口蓋摩擦音[ぅ]が,〈ハ〉[ha],〈ホ〉[ho],〈ヘ〉[he]には声門摩擦音[h]が現れる。これら三つの音[ァ][ぅ][h]はいずれも無声摩擦という性質を共有し,しかも5母音[a,i,セ,e,o]との結びつきが相補う分布をなしている。このように類似したいくつかの音が同じ音声環境に立たないとき,これらの音声は同一音素の異音 allophone と見なされる。すなわち[ァ][ぅ][h]は音素/h/の位置異音である。また英語の[Khずt](h は気息化を示す補助記号)〈ネコ〉の末位の[t]は閉鎖が開放されないこともある。すると開放[t]と無開放[tツ](ツ は無開放を示す補助記号)は自由に入れ替えられるので,これらを音素/t/の自由異音と呼んでいる。こうした音素は音声の流れを区分した部分(分節)に割り当てることができるので分節音素と称する。これに対し,アクセントや連接のように分節することができないものを超分節音素と呼ぶ。例えば,英語の billow[ュbそlo㊦]〈大波〉と below[bそュlo㊦]〈下に〉は強勢の位置により意味が区別されるし,日本語の〈神〉[haャイi]と〈橋〉[haヤイi](ャ や ヤ は高低アクセントを示す補助記号)は高低アクセントの置き方で意味が変わってくるから,やはり音素の資格をもつ。また英語の an aim〈ひとつの目的〉は a name〈ある名前〉と同じく[トneim]と音声表記される。しかし正確には前者は[nヒ](ヒ は半長を示す補助的記号),後者は[n]であり,前者は後者よりも長く発音される。普通は net[net]〈網〉と ten[tenヒ]〈十〉の比較から,頭位の[n]よりも語末の[nヒ]の方が長い。そこでan aim の[nヒ]が長いのは語末の特徴と考えられるので,ここに音素の切れ目の連接/+/を挿入し,/トn+eym/と音素表記される。この連接も音素の機能を果たしている。しかし最近の生成音韻論は基底音を想定し,これに音韻規則を適用して具体的音声形を導く方式を考えているので音素の存在を認めていない。⇒音韻論      小泉 保

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音声学
音声学

おんせいがく
phonetics

  

人間の言語音声の生理学的,物理学的,心理学的研究を目的とする学問。話し手の調音の生理学的研究である調音音声学が最も盛んであり,かつては音声生理学の名称が音声学の意味で使われたこともある。第2次世界大戦後は,器械器具やコンピュータの発達により,音波の物理学的研究である音響音声学が著しく進んできている。最近では,調音の仕組みも,種々の実験装置を用いた動的な音声生理学的研究で新たな解明をみており,聴覚,知覚の面の研究も行われている。しかし器械の発達にもかかわらず,物理学的な器械音声学 (実験音声学) だけでは言語音声の研究としては不完全になりやすく,話し手の主観的意図,認識態度,音韻論的観点などを捨象することはできない。逆に,聴覚的観察方法で主観的に観察した音声的差異は,器械により客観化する必要がある。また音声学は音韻論と補い合う関係にあり,互いに他をより精密化するものである。音声学の知識は,言語の歴史的研究・比較研究にも必要であり,言語学にとって必須の基礎学問である。

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音声学
おんせいがく phonetics

音声は人間の発音器官により発せられる音で,これを言語伝達のために用いるとき言語音声という。音声学は言語音声を記述する科学である。音声による言語の伝達には三つの局面がある。(1)話者が発音器官を用いて音声を発すると,(2)これは音波となって空中を伝播する。(3)この音波は聞き手の耳に達してその鼓膜を振動させ音声として認知される。この三つの局面に対応した音声学が成立する。つまり(1)話者がいかにして言語音声を発するかを生理的に分析する調音音声学 articulatory phonetics,(2)言語音声を音波として物理的に分析する音響音声学acoustic phonetics,さらに(3)聞き手が音声音波をどのように聞き取るか心理的に分析する聴覚音声学 auditory phonetics の3分野に分かれる。(1)の調音音声学は調音活動の観察や実験を通し19世紀末から H. スウィート,ジーフェルス E. Sievers,O. イェスペルセンなどにより綿密に研究され科学として確立されるにいたった。(2)の音響音声学は以前からオシログラフのような器械を使用してきたが,第2次大戦中にスペクトログラフ spectrograph(商標であるソナグラフの名が使われることがむしろ多い)という音響分析装置が開発されてから長足の進歩をとげた。(3)の聴覚音声学は主要な部門であるが研究は端緒についたばかりである。そこで調音音声学と音響音声学について概説する。
塢調音音声学塋
調音音声学はどのような言語音声がいかなる調音活動によって発せられるかを記述する部門である。それには発音器官とその機能を心得ておく必要がある。言語音声は呼吸により肺から出る息すなわち呼気を用いるのが普通であるが,まれに吸気を使うこともある。呼気は気管を通って口もしくは鼻から抜け出る。口は食物を摂取する器官であり,鼻と気管は呼吸のための器官である。これら器官のうち音声を発音するために利用する部分を発音器官という。
【発音器官】
 発音器官 speech organ は口腔,鼻腔,咽頭,喉頭に大別することができる。呼気はまず喉仏(のどぼとけ)のある喉頭を抜けて咽頭へ入り,ここから口腔もしくは鼻腔へ分かれて出ていく(図1参照)。ただし口腔と鼻腔の両方から同時に息を吐くこともできる。そこでこれら息が音声に変わる通路を声道という。いま声道を口腔から奥へ向かって配置された発音器官を順次確かめていくと,まず上顎に付着している上位調音器官として,上唇と上歯があり,これに続き歯茎がある。その後部から深くほれて湾曲した硬い部分を硬口蓋,次に軟らかな粘膜に覆われた部分を軟口蓋と呼ぶ。さらに軟口蓋の先は垂れ下がった突起状の口蓋垂となる。次に下顎に付着する下位調音器官として,まず下唇があり,次に伸縮自在な舌がある。舌の表面は次のように区分される。口を軽く結んで休止状態としたとき,前歯に触れている所を舌先tip,上の歯茎に触れている部分を舌端 blade,硬口蓋に向かっている部分を前舌 front,軟口蓋に対している部分を後舌 back という。なお,前舌と後舌の中間を中舌 central と呼ぶことがある。また後舌の奥の舌の付け根を舌根という。音声を発するときは,上顎を固定し,下顎を上下に動かすので下位調音器官の方が積極的な器官と見なされる。ただし軟口蓋の後部は上下に移動して鼻腔への通路を開いたり閉じたりすることができる。
 次にのどと呼ばれている部分は咽頭 pharynxと喉頭 larynx に分けられる。咽頭は口から胃へ通ずる食物の道と鼻から気管に及ぶ息の道が交差している個所である。そして気管の入口に当たる喉仏のところが喉頭に相当する。喉頭には声門 glottis と称する息の関門がある。ここには声帯 vocal cords と呼ぶ2枚の弁があり,互いに接したり離れたりして,肺から流れ出る空気を遮断したり通過させたりする。こうした上位と下位の器官を用いて言語音声を発することを調音articulation と呼び,調音に参加する器官を調音器官 articulator という。
【子音の分類】
 子音は肺から流れ出る空気を声道において妨害するとき発する音である。そこで子音は妨害を起こす位置と方法によって規定できる。一般に妨害の位置を調音の位置,妨害の方法を調音の方法という。
[調音の位置]  上位器官に下位器官が接近もしくは接触する位置につき表のような音声学的名称が定められている。
[調音の方法]  上下の器官が接触する場合が閉鎖で,(1)完全に接触するものに閉鎖音,破擦音,鼻音があり,(2)不完全に接触するものに流音がある。これは(a)断続的に繰返し接触する顫(せん)動音(ふるえ音)と(b)1回だけこするように接触する弾音(はじき音)に分かれる。また,(c)舌を上位器官に接触させ,舌の側面から息を流し出すものを側音という。
 上下の器官が接近する場合は〈せばめ〉で,(1)摩擦する音を生ずるものを摩擦音といい,そのうちとくに,(a)気流が上歯に向けられて発するものが歯擦音,(b)そうでないものが非歯擦音である。なお(2)摩擦する音を生じなければ半母音となる。子音の分類にはさらに軟口蓋の位置と声帯振動についての記述が必要である。
[軟口蓋の位置]  軟口蓋が上がると,その後部が咽頭壁に密着し鼻腔への通路を閉じてしまう。したがって呼気はすべて口から抜け出るので,このとき発する音を口音 oral という。これに対し,軟口蓋が下がると,その後部が咽頭壁から離れ鼻腔への通路が開く。そこで呼気は鼻へ抜け出ていく。このとき発する音が鼻音 nasal である。
[声帯振動]  (1)声門にある2枚の声帯が接触し,空気の流れを遮断するとき声門閉鎖音[ボ]が作られる。咳(せき)は声門閉鎖の一種である。(2)声帯が軽く接するとき,肺から吐き出される空気は声帯を押しのけて流出する。このとき声帯が振動し声を発する。声を伴う場合を有声 voiced という。(3)声帯を少し離れた所まで接近させると,呼気は軽い摩擦音をたてる。これが声門摩擦音[h]となる。寒さにかじかんだ手のひらに息を吹きかけるときこの音が出る。(4)声帯を大きく引き離すと呼気はなんら妨げられることもなく声門を通って流れ出る。この状態を無声 voiceless という。
 子音はこの声帯振動の有無(有声か無声か)や先に述べた調音の位置,調音の方法によって規定される。例えば,[p]音は〈無声・両唇・閉鎖音〉と呼ばれる。ただしこれは口音に限る呼称であって,鼻音の場合は有声が普通であるから調音の位置だけ述べればよい。例えば[m]音は〈両唇鼻音〉と称する。
[おもな子音]  以下におもな子音について記述する。
(1)閉鎖音 stop(図2参照) (a)無声両唇閉鎖音[p]は日本語〈パ〉の子音。有声両唇閉鎖音[b]は日本語〈バ〉の子音。(b)無声歯茎閉鎖音[t]。日本語の〈タ〉の子音は舌端と歯茎で調音されるが,フランス語の[t]は舌先が前歯に触れている。有声歯茎閉鎖音[d]でも日本語の〈ダ〉の子音とフランス語の[d]は前述の要領に従う。(c)硬口蓋閉鎖音の無声[c]と有声[ゐ]では前舌と硬口蓋で閉鎖が作られる。ハンガリー語 ty⇔k[cuビk]〈めんどり〉,ma∪yar[maゑar]〈ハンガリー人〉。それぞれ〈チ〉〈ジ〉と聞こえる。(d)無声軟口蓋閉鎖音[k]は日本語の〈カ〉の子音。アラビア語では後舌を口蓋垂に接した口蓋垂閉鎖音[q]が用いられる。[qalb]〈心臓〉。有声軟口蓋閉鎖音[を]は日本語の語頭の〈ガ〉の子音。有声口蓋垂閉鎖音は[№]。(e)声門閉鎖音[ボ]は声帯を接合させて閉鎖を行う。ドイツ語では母音で始まる語の出初めに現れる。ein[ボain]〈ひとつ〉。
(2)摩擦音 fricative(図3参照) (a)無声両唇摩擦音[ァ]は両方の唇を近づけて発する。日本語の〈フ〉[ァセ]の子音。有声両唇摩擦音[ア]はスペイン語 lobo[loアo]〈狼〉に見られる。
(b)無声唇歯摩擦音[f]と有声唇歯摩擦音[v]では,上歯を下唇に近づけ唇をかむようにして発する。英語の five[fa㏍v]〈5〉。(c)無声歯摩擦音[ィ]には,舌先を前歯の裏に押しあてる歯裏摩擦音と舌先を前歯の先につける歯間摩擦音とがある。英語の thing[ィ㏍ペ]〈物〉は歯裏と歯間のどちらでもよい。有声歯摩擦音[め]は英語の this[め㏍s]〈これ〉に現れる。スペイン語の todo[toめo]〈すべての〉は歯間音である。(d)無声歯茎摩擦音[s]。日本語の〈サ〉の子音では舌端を歯茎に近づけるが,フランス語の sac[sak]〈袋〉では舌先が門歯の裏につく。有声歯茎摩擦音[z]は[s]の有声音。(e)無声硬口蓋歯茎音[イ]は舌端を歯茎の後部に近づける。日本語の〈シ〉[イi]の子音では舌先が下がっている。ドイツ語の Schuh[イuビ]〈くつ〉では唇が突き出される。有声硬口蓋歯茎摩擦音[ゥ]は英語のleisure[leゥト]〈ひま〉の語中に現れる。(f)無声硬口蓋摩擦音[ぅ]は硬口蓋に前舌を近づけて発する。日本語の〈ヒ〉[ぅi]の子音やドイツ語の ich[㏍ぅ]〈私〉に聞かれる。有声硬口蓋摩擦音[j]は英語 year[jiト]〈年〉の語頭に現れる。(g)無声軟口蓋摩擦音[x]は[k]の位置で発せられる摩擦音で,ドイツ語の Dach[dax]〈屋根〉やスペイン語の tajo[taxo]〈切る〉に使われている。有声軟口蓋摩擦音[ウ]は[x]の有声音で,スペイン語の fuego[fueウo]〈火〉の中に現れる。
(h)無声口蓋垂摩擦音[χ]は口蓋垂と後舌で摩擦音を出す。有声口蓋垂摩擦音[ェ]は後舌を後方へ押し上げ口蓋垂との間で摩擦音を発する。フランス語の r 音はこの型が多い。rouge[ェuビゥ]〈赤い〉。
(i)咽頭摩擦音は舌根を咽頭壁に近づけて発音される。無声音[エ]と有声音[ォ]はアラビア語の[エa]と[ォain]の文字に相当する音である。
(j)無声声門摩擦音[h]。日本語の〈ハ〉の子音で英語の house[ha㊦s]〈家〉の語頭音。この有声音[オ]は〈母〉[haオa]の語中に聞かれることがある。
(3)鼻音(図4参照) (a)両唇鼻音[m]。両方の唇を閉じて軟口蓋を下げる。日本語の〈マ〉の子音。(b)歯茎鼻音[n]は舌先が舌端で歯茎を閉鎖し軟口蓋を下げる。日本語の〈ナ〉の子音。(c)硬口蓋鼻音[カ]は前舌を硬口蓋に接触させて軟口蓋を下げる。日本語の〈ニ〉[カi]の子音に近い。フランス語の signe[siカ]〈しるし〉。(d)軟口蓋鼻音[ペ]は後舌と軟口蓋で閉鎖を作り軟口蓋の後部を下げる。日本語の鼻濁音〈ガ〉の子音で〈かぎ〉[kaペi]や英語の king[k㏍ペ]〈王〉に現れる。(e)口蓋垂鼻音[℡]では舌先を上げて後舌を後ろへ押しやり口蓋垂と接して閉鎖を作り軟口蓋の後部を下げる。日本語の撥音〈ン〉に相当する。〈金〉[ki℡]。
(4)流音 liquid(図5参照) (a)歯茎側音 lateral[l]は舌先を歯茎にあて舌の両側から息を流す。英語の lip[l㏍p]〈唇〉。(b)硬口蓋側音[ガ]は前舌と硬口蓋で側音を作る。スペイン語 pello[peガo]〈ひな鳥〉。(c)歯茎顫動音 trill[r]は舌先を歯茎にあて数回震わす。スペイン語の perro[pero]〈犬〉。(d)歯茎弾音 flap[キ]は舌先を1度だけ歯茎ではじく。スペイン語の pero[peキo]〈しかし〉。英語の語中の r 音sorry[sギキ㏍]〈気の毒な〉。(e)口蓋垂顫動音[㊤]は後舌を盛り上げて口蓋垂を振動させる。
(5)半母音 semivowel (a)両唇軟口蓋半母音[w]は日本語の〈ワ〉[wa]の子音。英語 wet[wet]〈ぬれた〉では唇の丸めが強く前へ突き出される。(b)非円唇硬口蓋半母音[j]。日本語の〈ヤ〉[ja]の子音。有声硬口蓋摩擦音よりも少し舌が低い。(c)円唇硬口蓋半母音[ク]は[j]の構えで唇を丸める。フランス語の nuit[nクi]〈夜〉。
(6)閉鎖 閉鎖音は上下の器官が接触する閉鎖の段階と,閉鎖の状態を維持して息をせき止め,口腔内の気圧を高める持続の段階,次に上下の器官を引き離し破裂音をたてる開放の段階からなる。ただし,この開放の仕方に三つの様式がある。
(a)有気音 aspirated 閉鎖が開放されてから少し遅れて後続母音の声帯振動が始まるとき気音aspiration が生じる。この気音を伴うものを有気音(帯気音)といい音声記号の右肩に[‘]印をつける。英語では強勢母音の前の無声閉鎖音は有気となる。pen[p‘en]。中国語でも[p‘i]〈皮〉のように有気閉鎖音が用いられる。なお気音を伴わないものを無気音(無帯気音)と呼ぶ。
(b)破擦音 affricate 閉鎖の開放がゆるやかに行われると摩擦音が生じる。このような閉鎖音と摩擦音のコンビを破擦音という。歯茎破擦音は,日本語の〈ツ〉[tsセ]の子音は無声,〈ズ〉[dzセ]の子音は有声の歯茎破擦音である。また,硬口蓋歯茎破擦音は,日本語の〈チ〉[tイi]の子音は無声,〈ジ〉[dゥi]の子音は有声の硬口蓋歯茎破擦音である。英語では,church[tイトビtイ]〈教会〉,judge[dゥゼdゥ]〈判事〉。このほかにドイツ語には両唇破擦音[pf]がある。Pferd[pfert]〈馬〉。
(c)無開放 unreleased 閉鎖音が閉鎖と持続の段階だけで終わり,開放が行われないとき無開放閉鎖音となる。英語の act[ず㊥ツt]〈行為〉において,連続する閉鎖音では先行する閉鎖音は開放されない。また,タイ語の語末閉鎖音は無開放である。[l¬pツ]〈消す〉。
(7)二次調音 ある音声を発するため特定の上下の器官を接近もしくは接触させるにあたり,他の器官も同時にその調音に参加するとき,二次調音が生じる(図6参照)。
(a)硬口蓋化 palatalized 音 ある調音を行うと共に舌の本体を硬口蓋へ向かって盛り上げる。日本語の拗音は硬口蓋化子音である。直音〈カ〉[ka]の[k]と拗音〈キャ〉[グa]の[グ]を比較すると,図6の初めの2図のようである。ロシア語ではこれを軟音と呼ぶ。мaтb[maケ]〈母〉。
(b)軟口蓋化 velarized 音 ある調音を行うと共に舌の本体を軟口蓋へ向かって盛り上げる。英語の語末に立つ暗い l 音は軟口蓋化側音[ゲ]である。kill[k㏍ゲ]〈殺す〉。ただし語頭では硬口蓋化されない明るい l を用いる。lip[l㏍p]〈唇〉。
(c)そり舌音 retroflex 舌先をそらしその裏を上位器官に接触もしくは接近させる。これは反舌音ともいう。そり舌歯茎閉鎖音は舌先の裏を歯茎後部に接する。無声[コ]と有声[ゴ]はスウェーデン語に見られる。fort[foコ]〈早く〉,mord[moゴ]〈死〉。そり舌歯茎摩擦音は舌先の裏を歯茎後部に接近させる。歯擦音の無声[サ]と有声[ザ]は中国語に現れる。[サト]〈社〉,[ザen]〈人〉。舌先を上げ歯茎後部に近づける非歯擦音[シ]は英語の語頭の r 音に用いられる。red[シed]〈赤い〉。この場合,摩擦がなく半母音に近いが,閉鎖音の後では摩擦音が聞こえる。tree[tシiビ]〈木〉。そり舌歯茎鼻音は[ジ]。そり舌歯茎弾音は[ス]。舌先の裏を歯茎後部に1回だけこするようにはじく。日本語のラ行の子音にこのそり舌[ス]を用いる人が多い。
【母音の分類】
 母音は肺からの空気が声道において妨害されて騒音をたてることなく口の中央を流れ出る音である。母音の音色は主として舌の形状によって決定されるため,舌の最高点を求め,その位置により母音を分類する方法がとられている。
(1)舌の上下の位置 舌面が口蓋に最も近づくものを高母音 high(狭母音),最も離れているものを低母音 low(広母音)とし,その中間を中母音 midと呼ぶ。
(2)舌の前後の位置 舌の最高点が前よりのものを前舌母音 front,後よりのものを後舌母音back,その中間を中舌母音 central とする。
(3)唇の形により,唇が丸められる円唇母音rounded と横に引きひろげられる非円唇unrounded 母音とに区別される。
(4)軟口蓋の位置 軟口蓋が上がり鼻腔通路が閉じて,口からのみ息が出れば口母音,軟口蓋が下がり鼻腔通路が開いて,鼻からも息が出れば鼻母音となる。
 (1)の上下の次元における高・中・低の3区分では不十分なので,それぞれをさらに二つに細分すると図7のような母音分類表が得られる。この表は正確な舌の位置を示すものではなく,音色の聴覚的印象により相対的に母音を配置したものである。
[おもな母音]  (1)非円唇母音 (a)前舌高母音[i]は日本語の〈イ〉に近い。(b)前舌低め高母音[㏍]は日本語の〈イ〉よりやや低く後寄りで英語 pin[p㏍n]の短母音に相当する。(c)前舌高めの中母音[e](狭い e)は日本語の〈エ〉に近い。(d)前舌低め中母音[ズ](広い e)。日本語の〈エ〉より低い。フランス語の bec[bズk]〈くちばし〉。(e)前舌高め低母音[ず]。日本語の〈ア〉と〈エ〉の中間で後寄り。英語の cat[kずt]〈ねこ〉。(f)前舌低母音[a]は日本語の〈ア〉より前寄り。フランス語 patte[pat]〈足〉。(g)後舌高母音[セ]。日本語〈ウ〉は少し前寄り。(h)後舌低め中母音[ゼ]。英語の[ゼ]はかなり前寄りで発音される。cut[kゼt]〈切る〉。(i)後舌低母音[ソ]は口の奥で発せられる。アメリカ英語の hot[hソt]〈あつい〉。(j)中舌高母音[ゾ]は[i]の構えで舌を後方へ引く。ロシア語の язык[jトzゾk]〈舌〉。(k)中舌高め中母音[ト]は英語のあいまい母音に相当する。aloud[トla㊦d]〈大声で〉。
(2)円唇母音 (a)前舌高母音[y]は[i]の構えで唇を丸める。ドイツ語 T‰r[tyビr]〈戸〉,フランス語 lune[lyn]〈月〉。(b)前舌高め中母音[φ]は[e]の構えで唇を丸める。ドイツ語 schÅn[イφビn]〈美しい〉,フランス語 feu[fφ]〈火〉。(c)前舌低め中母音[せ]は[ズ]の構えで唇を丸める。フランス語 cせur[kせェ]〈心〉。
(d)後舌高母音[u]は日本語の〈ウ〉と違い唇を丸めて舌を後方へ引く。英語 pool[puビゲ]〈プール〉,ドイツ語 Mut[muビt]〈気分〉。(e)後舌低め低高母音[㊦]は[u]よりもやや低く前寄り。英語の put[p㊦t]〈置く〉の短母音。(f)後舌高め中母音(狭い o)[o]は日本語の〈オ〉。フランス語 beau[bo]〈美しい〉の母音。(g)後舌低め中母音(広い o)[タ]は日本語の〈オ〉よりも舌が低い。フランス語 note[nタt]〈注〉。(h)後舌低母音[ギ]は[ソ]の構えで唇を丸める。イギリス英語 hot[hギt]。(i)中舌高母音[ダ]は唇を強く前へ突き出す。ノルウェー語 hus[hダs]〈家〉。
(3)基本母音 母音の調音における舌の動きを観察すると,前舌母音では高から低へ[i]→[e]→[ε]→[a]の順に口が開き,舌が斜めに下がっていく。これに対し後舌母音では,[u]→[o]→[タ]→[ソ]の順に舌が下がっていく。このためイギリスの音声学者 D. ジョーンズは図8のような母音四角形を提示している。これによると前舌母音系列は[i]と[a]の間が[e]と[ズ]で3等分され,後舌母音系列では[u]と[ソ]の間が[o]と[タ]で3等分されている。このように配置された母音を基本母音という。
(4)鼻母音 前述の母音の構えで軟口蓋を下げ,鼻と口の両方から息を出すと鼻母音となる。フランス語には4種の鼻母音がある。pain[p8]〈パン〉の[8](~は鼻音化の符号),un[チ]〈ひとつ〉の[チ],bon[b7]の[7],blanc[bl2]〈白い〉の[2]。
(5)無声母音 母音は通例,有声であるが,場合により無声となることもある。日本語では,無声の閉鎖音と摩擦音にはさまれた高母音の[i]と[セ]は無声化することがある。クシ[kヂイi]では[ヂ]が,シカ[イッka]では[ッ]が無声化している(。と ツ は無声化の符号)。
(6)そり舌母音 ある母音を調音しながら舌先を上げるとそり舌母音となる(図9参照)。アメリカ英語によく用いられる。(a)[ヅ]は[ト]の構えで舌先だけ軽く上げる。bird[bヅビd]〈鳥〉。(b)[テ]は[タ]の構えで舌先を軽く上げる。court[kテビt]〈法廷〉。(c)[デ]は[ソ]の構えで舌先を軽くそり上げる。cart[kデビt]〈車〉。
(7)二重母音 舌がある母音から出発し他の母音へ向かって移動しながら1音節を構成するものを二重母音 diphthong という。例えば,英語の I[a㏍]〈私〉では,舌が[a]の構えから高母音[㏍]へ向かって移っていくが,[㏍]の手前で調音を終えてしまう(図10参照)。これに対し日本語のアイでは,舌の構えは[a]から[i]に変わり2音節に数えられる。つまり母音の連続であるから連母音という。英語では,[e㏍][a㏍][a㊦][タ㏍][o㊦]のように高母音[㏍]と[㊦]へ向かう二重母音が用いられる。ただし,イギリスでは[o㊦]は[ト㊦]と発音される傾向がある。go[をo㊦]→[をト㊦]〈行く〉。ドイツ語には[a㏍][a㊦]のほかに円唇の二重母音[タ㍽]がある。
【韻律的特徴】
 言語音声の強さ,高さ,長さをまとめて韻律的特徴 prosodic features という。(1)強さアクセント(強弱アクセント),あるいは強勢 stress は音声を発する相対的な息の強さによる。英語では強勢に強[ュ]と弱の別があり,その位置が自由に移動して語の意味を区別する。below[b㏍ュlo㊦]〈下〉,と billow[ュb㏍lo㊦]〈大波〉。また,やや強い副強勢[ユ]が現れることもある。examination[㏍をzユずmトュne㏍イトn]〈試験〉。強勢がある位置に固定している言語もある。チェコ語では常に語の第1音節に強勢がくる。
(2)音の高さに相対的な区別や変化がある場合に高さアクセント(高低アクセント)pitch が認められる。日本語では,橋[haヤイi]と神[haャイi]のように高さアクセントの位置の違いが語の意味を区別する。高さアクセントの変動が音節と結びつくとき声調 tone となる。タイ語には,高[m⊂i]〈木〉,中[mai]〈マイル〉,低[mロi]〈新しい〉と3段の高さがあり,さらに上昇[m∞i]〈蚕〉と下降[m「i]〈燃える〉の別がある。前の三つの例のようにある一定の高さをもつものを音位声調,後の二つの例のように高さが上下の方向に移動するものを変位声調という。中国語は上[ma勦]〈媽〉と共に上昇[ma飭]〈麻〉と下降[ma勠]〈符〉それに下降上昇[ma勳]〈馬〉の四声をもつ。
(3)音の長さは,長を[ビ],半長を[ヒ]の記号で表す。英語では,有声子音の前の母音は無声子音の前の母音よりも長い。beat[biヒt]〈打つ〉と bead[biビd]〈じゅず玉〉。フィンランド語では,母音と子音の両方に長さの対立が見られる。tuli[tuli]〈火〉と tuuli[tuビli]〈風〉,kuka[kuka]〈だれ〉と kukka[kukビa]〈花〉。
塢音響音声学塋
声帯の振動により,肺から流れ出る空気は細かく切断される。この刻み方が細かいほど高い音となる。このような声帯振動の早さによる音の高さのほかに母音は2種類の固有の高さをもっている。音声をスペクトログラフ(ソナグラフ)にかけると,これらの高さは横縞となってフィルム(スペクトログラム)に写し出されるが,この縞をフォルマント(略称F)と呼ぶ(図11参照)。そして周波数の低いものから順次,第1,第2,第3フォルマントと名づける。
 普通,第1フォルマントは[i]―[ズ]―[ソ]の順に高くなり,[ソ]―[タ]―[u]の順に下がっていく。これに対し第2フォルマントは[i]―[ズ]―[ソ]―[タ]―[u]の順に下降する(図12参照)。われわれはこの二つのフォルマントの分布の仕方により音声として母音を聞き取るのである。第1フォルマントは舌の上下の高さに対応するが,フォルマントの低いものほど舌の位置は逆に高くなる。また第1フォルマントと第2フォルマントとの間の距離が舌の前後の位置を指す。その距離が大きいものほど前よりの母音となる。いま英語の母音におけるフォルマントの標準的数値に従って計算し,第1F と第2F との距離の値を横軸に,第1F の値を縦軸にとって逆比例のグラフを作ると図12のグラフとなる。調音音声学の母音四角形に似た配列が得られる。
 子音はその前後にくる母音のフォルマントの始めと終りに現れるゆがみにより認定される。図13の英語の[bずb],[dずd],[をずを]のスペクトログラムを見ると,各語の前後にある空白は閉鎖により音声がとぎれていることを示す。[b]音では第1と第2フォルマントの出始めと終りが下がっている。[d]音では第2フォルマントが1700ヘルツあたりを指している。[を]音では第2と第3フォルマントの出始めが下がり,終りで交差している。これは前と後の[を]音の調音点が異なることを示唆している。摩擦音はかすれの広がり方により,鼻音や側音は特有の薄いフォルマントの分布の型により見分けることができる。
 このように言語音声をフォルマントに分析するばかりでなく,スペクトログラムにフォルマントを書きこみ,器械を逆に操作して人工音声を合成することも可能である。最近ではこうした合成音声を被験者に聞かせ,どのように聞き取るかを調べる知覚音声学が発達してきた。⇒音韻論∥音声記号∥声                      小泉 保

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音声学
I プロローグ

音声学 おんせいがく 言語につかわれる音の、調音・物理的性質・聴覚的印象を研究する言語学の分野。実験音声学、調音音声学、音響音声学、聴覚音声学にわかれる。聴覚音声学は、言語音が人間の耳によってどのように認識されるかを研究する。

II 実験音声学

カイモグラフのような波動曲線記録装置やX線などの機械をもちいて、人間が発する音の調音上、音響上、そして聴覚上の性質についてデータを物理的に研究する。機械が精密であるほど、言語音をくわしく計測することができる。厳密にいえば、どの音もほかの音とはことなっている。

III 調音音声学

言語音声を発することを調音といい、調音音声学は、音声器官が音をだすために、口、鼻、のどにおける空気の流れをどのようにかえるかを研究する。ある音を記述する際には、音声器官のすべての運動を記述する必要はない。調音点がどこか、調音様式はどのようなものか、などいくつかの点についての記述でことたりる。こうした各音声の特徴は、音声記号によってあらわされる。もっともよくつかわれるのは国際音声学会(IPA)がさだめた音声記号で、[ ]の中に書いてあらわす。

調音にもちいる器官は、可動のものと不動のものがある。唇、顎(あご)、舌、声帯のように、可動のものを調音器官という。これらの動きによって、発話者は肺からの呼気を加工する。不動の部分には歯、歯の後ろの歯茎、硬口蓋(こうこうがい)、その後ろの軟口蓋がある。

上唇と下唇の双方で調音されるbのように、2つの調音器官によって調音される音と、調音器官と不動の部分で調音される音は、その接点(調音点)をつくる器官の名前でよばれる。舌が調音器官である場合は名前にあらわれない。たとえば、舌が歯茎に接して発音されるtの音は、歯茎音とよばれる。

調音様式は、発話者が可動器官によってどのように空気の流れを加工するかによってきまる。空気の流れを完全にとめると閉鎖音となる。空気が鼻腔(びこう)にもながれるようにすると鼻音となる。舌で接点をつくってその両側を空気がながれるようにすれば側音となる。一瞬軽くふれるだけなら弾音となる。空気の流れが摩擦をおこしながら、せまい隙間(すきま)をとおるようにすれば摩擦音となる。さまたげられずに空気が舌の中心の上をとおるようにすれば母音となる。

発話者は、舌の位置を縦方向(高・中・低)に、また横方向(前・中・後)にかえることによってさまざまな音色の母音を調音する。たとえば、「アイ」と発音すると、はじめは舌は低い位置にあり、高い位置へ移動する。「ウイ」と発音すると、はじめは舌は後方に位置していて、前方へと移動する。ア(a)、イ(i)、ウ(u)の3つの母音は、いわゆる母音三角形iauの頂点をなす。

母音の音色は、そのほか唇をまるくしているかいないか、顎を大きくあけているかいないか、また舌先を平らにしているか丸くしているかによってもことなる。また、二重母音を発音する際には徐々に前部上方、もしくは後部上方へと舌を移動させる。

そのほかにも言語音に関係する要素がある。通常音節は母音を中心としており、母音は音節の中でもっともよく聞こえる部分であるが、鼻音が音節の中心となることもあれば、母音的要素が音節の中心とならずに子音のような働きをすることもある。これを半母音という。

調音器官が緊張しているか弛緩(しかん)しているかでちがう音になることもある。有声音をだすためには、声帯をふるわせる。母音は有声音であり、英語では弛緩した子音はおおむね有声音である。調音の後に息を強くだしたとき、これを帯気音とよぶ。たとえば、英語のpie(パイ)という語の最初の音は帯気音[ph]なので、手を唇の前にかざすと息の流れを感じることができる。

IV 音響音声学

音響音声学は、言語音を、声道と他の諸器官のむすびついた共鳴器から発する音波として研究する。音波のほうが、調音よりも伝達の本質に近いといえる。なぜなら、人間が発する言語音と、たとえば鳥のオウムのような、まったくことなった道具立てをもちいて発する音が、聴覚的に同じ印象をあたえることもあるからである。

スペクトログラフをつかって、言語音の音波の特徴を記述することや、調音上の動きがどのような効果をもつかをしらべることができる。実験ではこれらの音波の一部をとりのぞいたものを再生して、ある言語の音に必須な特徴はどのようなものかをしらべることもできる。

V 歴史

音声学のもっとも初期の業績は、2000年以上前、サンスクリットの研究者たちの手によるものである。そのひとりである前400年代に活躍した文法学者のパーニニは、古くからの儀式での発音を正確につたえるために、調音を記述した。近世最初の音声学者は「デ・リッテリス」(1586)の著者、デンマーク人J.マティアスである。聾唖(ろうあ)者の教育にたずさわったイギリスの数学者ジョン・ウォリスは、1653年にはじめて母音を調音点によって分類した。

「聴覚論」(1863)の著者であるドイツの物理学者ヘルムホルツは、音響音声学を確立。フランス人神父ジャン・ピエール・ルスローは実験音声学での先駆者となった。19世紀末には、ポーランドの言語学者ジャン・ボードゥアン・ド・クルトネとスイスの言語学者ソシュールが音韻の理論を提唱した。アメリカでは、言語学者レナード・ブルームフィールドや人類学者・言語学者のエドワード・サピアが、音声学に多大の貢献をした。また、言語学者ヤコブソンは、すべての音韻体系に普遍的に存在する特徴についての理論をあみだした。

→ 言語学

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言語学・ゲームの結末を求めて(その2) [宗教/哲学]


言語
I プロローグ

言語 げんご 人間がたがいに情報を伝達するためにもちいる主要な手段。言語において、伝達の媒介となる手段の中心は音声であるが、文字のようなほかの手段を媒介とすることもある。

聴覚障害者の場合のように、音声をもちいて伝達することができないときは、手話のような視覚的な手段をもちいることもできる。

言語のもっとも重要な特徴は、言語記号とそれがあらわす意味の間の関係が恣意的(無関係)だということである。

つまり、「犬」という意味を、日本語で[inu]という音であらわす理由は、それが慣習によってきまっているという事実以外にはない。実際、同じ意味でも、英語ならばdog、スペイン語ならばperro、ロシア語ならばsobakaであって、言語によってそれぞれことなった音をもちいてあらわされている。

人間の言語は、ひろい範囲の内容を伝達することができるという特徴をもち、この点で動物の伝達手段とは性質がことなる。たとえば、ミツバチのダンスは、えさ場のある場所しか伝達することができない。→ ミツバチ

類人猿にも言語を学習する能力があることが知られていて、この能力の範囲が正確にはどの程度かについては議論がおこなわれているが、一般的には、2歳の人間の子供がもっている以上の言語能力を、類人猿は発達させることができないというのが、学者の一致した見解である。

II 言語学

言語学は、言語の科学的な研究である。言語学は、その対象とするものによっていくつかの分野にわけられる。音声学は言語の音を対象とし、音韻論は個別言語で音がどのようにもちいられているかを研究する。形態論は単語の構造、構文論は句や文の構造、意味論は意味の研究である。もうひとつの主要な分野である語用論は、言語とそれがもちいられる文脈との相互関係を研究対象としている。

言語一般のとらえ方として、共時的な観点と、通時的な観点がある。共時的とは、歴史上のある特定の時点における言語の状態に注目するものであり、通時的とは、言語の歴史的変化に注目するものである。この2つの観点に対応して、共時言語学と通時言語学(歴史言語学)がある。

このほか、言語学以外の学問分野との関連で、社会言語学、心理言語学などの分野もある。応用言語学といわれる分野もあり、主として外国語教育に言語学の方法を適用することを目的としている。

III 言語の構成要素

音声言語(→ 音声言語と言語障害)は、それ自体では意味をもたない音声によって構成されているが、音声はほかの音声とむすびつくことによって、意味をもつ実体をつくる。

たとえば、kとiの2つの音はそれだけでは意味をもたないが、くみあわされてkiとなると「木」という意味をあらわすようになる。これは「単語」とよばれる。単語がさらにくみあわされると「句」という単位をつくる。文の構造の基本をきめるのはこの句である。

1 言語の音声

世界の言語でもちいられているほとんどの音は、肺から空気をだして、それを喉頭と唇の間にある音声器官で変形させることによりつくりだされる。

たとえば、pの音は、唇を完全にとじて肺からくる空気をいったんとめて圧力を高め、それから唇をひらいて空気をだすことによってつくられる。sの音は、肺からの空気がとめられることはないが、舌が歯茎のすぐ近くにまでもちあげられて、気流の通過が部分的にさまたげられることにより生じる摩擦音である。

肺からの空気によってつくられるのではない音もある。不快感をあらわすとき、日本語や英語でもちいられる「舌打ち」の音がそのひとつである。この種の音は「クリック」とよばれ、アフリカのコイサン諸語やバントゥー諸語ではよくもちいられる音である。→ アフリカの諸言語

音声学は、音の物理的な性質を研究する言語学の分野で、さらに3つの下位分野にわかれている。音がどのようにしてつくられるかを対象とする調音音声学、人間の音声器官がつくりだした音波を対象とする音響音声学、音がどのようにして知覚されるかを研究する聴覚音声学である。

これに対して音韻論といわれる分野があり、音の物理的な性質ではなく、個々の言語における音の働きを問題とする。

音声学と音韻論の違いを次の例でみてみよう。英語のking「王」という単語の最初の音のkと、stick「棒」という単語の最後の音のkは、音声学的にはちがう音である。kingの場合は強い息をともない、stickの場合にはそうではない。

しかし、英語ではこの2つのkをつかいわけて単語を区別することはなく、英語を話す人々も、ふつう指摘されるまではその違いに気づかない。したがって、2種類のkの英語での働きは同じで、音韻論的にはこれを区別しないでよい。

ところがヒンディー語ではこの2つの音の働きがちがう。たとえば、khal「皮膚」では強い息をともなうkがもちいられ、kal「時間」では強い息をともなわないkがもちいられ、2種類のkの区別が単語の区別に役だっている。したがってヒンディー語では、音韻論的にも2つのkは区別されていることになる。

2 意味をもつ単位

言語学では意味をもつ最小の単位として、単語ではなく「形態素」といわれる単位が設定されている。たとえば、「みる」という1つの単語は、「みる」が現在で、「みた」が過去をあらわすことからもわかるように、「み」と「る」の2つの形態素にわかれ、「み」が「視覚によってとらえる」という意味を、「る」が「現在」の意味をあらわす。

「心理的」という単語も、「こころ」を意味する「心」と、「りくつ」を意味する「理」と、名詞を形容動詞にする語尾である「的」という3つの形態素にわかれる。

個々の言語にどのような形態素があり、その形態素がどのような仕組みでむすびついて単語をつくるのかを研究する分野を形態論という。

3 構文論(シンタクス)

文を構成する単語の並び方すなわち語順を研究する分野を、構文論または統辞論という。語順は言語によってことなる。日本語の基本的な語順は、「犬が人をかんだ」という文をみてもわかるように、「主語?目的語?動詞」だが、英語の基本的語順は「主語?動詞?目的語」であり、上と同じ意味の文は、A dog bit a manとなる。

また、日本語では「人を犬がかんだ」としても意味はかわらないが、英語でA man bit a dogとすると意味がまったくちがってくる。ブラジルで話されているヒシカリヤナ語のような「目的語?動詞?主語」という語順を基本とする言語もある。

言語の一般的特徴として、単語がまとまってすぐ文になるのではなく、単語が「句」という中間的な単位をつくり、句がならんで文をつくるという仕組みがあげられる。

日本語の「犬が人をかんだ」という文は、「犬」「が」「人」「を」「かん」「だ」という6つの単語でできているが、「犬」と「が」がまとまって「犬が」という句を、「人」と「を」がまとまって「人が」という句をつくり、その2つの句が「かん(かみ)」「だ」という動詞と助動詞の前にくることによって文ができあがっている。

句が一つの単位としてはたらいていることは、「犬が」と「人を」をいれかえて「人を犬がかんだ」としても意味はかわらないのに、「犬」と「人」だけをいれかえると「人が犬をかんだ」となって、意味がかわってしまうことからもわかる。

4 言語における意味

言語の意味を研究する分野は意味論とよばれる。意味論では、個々の形態素の意味がとりあつかわれるのはもちろんだが、文全体の意味も問題になる。

「犬が人をかんだ」と「人が犬をかんだ」という2つの文は、もちいられている形態素はまったく同じなのに、あらわしている意味はことなっている。これは2つの文の構造、つまり形態素の並び方がちがうからであるが、意味論では、形態素の意味が文の構造にしたがってまとめられて、文の意味を形づくる仕組みが説明される。

IV 言語習得

言語習得とは、幼児や大人がどのようにして言語をまなんでいくかを研究する言語学の分野である。

1 第1言語習得

第1言語習得は複雑な過程であり、まだよくわかっていないことが多い。幼児には、言語を習得することを可能にする資質が生まれつきそなわっている。

その資質としては、言語でもちいられる音声をつくりだすための音声器官の構造や、一般的な文法規則を理解する能力などがあげられる。しかし、このような資質は、ある一つの特定の言語を習得するためのものではない。幼児は、自分の周りで話されている言語をまなぶのであって、それが親の話している言語とはちがっている場合もある。

初期の言語習得について興味ある点は、幼児が話をするときには、文法的な規則をまもることよりも意味をつたえることを重視しているらしいことである。幼児が文法規則にしたがった文を話すようになってはじめて、言語能力に関して人間の子供が猿をこえるようになるのだと考えられている。

2 第2言語習得

第2言語習得とは、正確には第1言語を習得したあとで別の言語(外国語)を学習することをいうのだが、少年期をすぎてから第2言語を学習することの意味でつかわれることが多い。

幼児にとっては、2つ以上の言語をおぼえるのは簡単だが、少年期をすぎると、第2言語の習得には相当の努力をしなければならないし、多くの場合、幼児の場合よりも低いレベルにしか到達できない。

第2言語をうまく習得するには、その言語が話されている社会でくらすほうがよいのは確かである。また、アフリカの大部分の国々のように第2言語を習得する必要性の高い環境にいるほうが、第2言語をかならずしも必要としない環境にいる英語圏の国々にいるよりも、第2言語習得は成功する。

3 2言語使用と多言語使用

2言語使用とは、2つの言語をじゅうぶんにつかう能力をもっている状態であり、多言語使用とは、3つ以上の言語をじゅうぶんにつかう能力をもっている状態である。

英語や日本語を母語とする人々の間では、2言語使用は比較的まれだが、世界には2言語使用のほうが普通だという地域は多い。たとえば、パプアニューギニアの人口の半分以上は、土着の言語とピジン・イングリッシュの両方を話すことができる。

ただ、2言語使用や多言語使用といっても、複数の言語をつかう能力がまったく同じというわけではない。一方を他方よりもうまくつかえることもあれば、ある言語を話すのはうまいが、書く場合には別の言語のほうが上手だという場合もある。

V 言語の変種

言語はつねに変化しており、その結果、言語のさまざまな変種が発達している。

1 方言

方言は、ある言語を話す人々のうち、特定の一部の集団によってつかわれている変種のことをいう。言語学では伝統的には、方言という用語を地理的な言語変種をさすのにもちいてきたが、現在では、社会的に区分される集団に特徴的な言語変種についてももちいられる。

2つの言語変種が、ある言語の方言なのか、それとも別々の言語といえるほどにちがっているのかを決定するのは、むずかしい場合が多い。

言語学者は、この決定をする主要な基準として、相互に理解可能かどうかということをあげる。もし2つの言語変種がたがいに通じないならば、それらは2つの言語であり、たがいに通じて、相違点に規則性があるならば、同じ言語の方言だとみなされる。

しかし、このような定義には問題がある。なぜなら、どの程度まで相互の理解が可能ならば2つの言語変種を方言とみなしてよいかをきめる基準をもうけるのは、実際にはむずかしいからである。

相互理解には心理的な要因が大きく関係してくる。もしある言語変種の話し手が、別の言語変種の話し手のいうことを理解したいと思っているならば、理解したくないと思っている場合にくらべて理解の程度はあがるだろう。また、地理的に近い関係にある言語変種はたがいに理解できるが、離れれば離れるほど理解がむずかしくなるという事実もある。

さらに、方言と言語を区別するときには、社会的・政治的な要因がかならずかかわってくる。たとえば、中国にはたがいに通じない言語変種がたくさんあるにもかかわらず、それらは中国語という一つの言語の方言だとされるのが普通である。

方言が生じるのは、ある共通の言語を話している複数の集団の間の交流が制限された場合である。そのような状況では、ある集団の中でおこった変化は、ほかの集団へはひろがっていかない。

その結果、それぞれの集団の言語がしだいにちがったものになっていき、交流が制限される期間が長くつづくと、集団と集団の間での言語理解ができなくなる。とくに、ある言語集団が社会的にも政治的にもほかの集団から孤立するような場合、ことなった諸言語が生じるのである。

たとえば、ローマ帝国の各地で口語のラテン語にことなった変化がおこり、その結果、現在のようなロマンス諸語が生まれた。ロマンス諸語とは、フランス語、スペイン語、ポルトガル語、イタリア語、ルーマニア語などの諸言語のことをいう。

日常的には、方言という用語は、ある言語の標準語とはことなった言語変種のことを意味することがある。しかし、言語学では、標準語はある言語の一つの方言にすぎないとみなされる。

たとえば、パリで話されているフランス語の方言は、フランスの標準語になっているが、それはその方言自体になにか特別の特徴があったからではなく、パリがフランスの政治や文化の中心だったからにすぎない。

2 言語の社会的変異

社会的な要因によって生じた方言を社会方言といい、階級や宗教のような社会内部での区分が原因で生まれることが多い。

たとえばニューヨークでは、音節の最後のrの音を発音するかどうかは階級によって差があり、上の階級ほどrの音を発音する傾向にある。同じようにイギリスでも、ある社会的集団では、ほかの集団と自分たちを区別するために、hの音を独特な方法で発音することがおこなわれている。

特殊な語彙(ごい)をもちいる社会的な言語変種として、俗語(スラング)、隠語(ジャーゴン)などがある。「俗語」は、ある言語の標準的な語彙には属さない、くだけた語彙のことをさす。「隠語」は、法律家など特別の職業の人々がもちいる専門的な用語や、犯罪組織など秘密の集団によってもちいられる言葉で、部外者にはわからない語彙のことである。

言語の社会的な変種にくわえて、社会的な状況によって左右される変種のことを「使用域」という。あらたまった場面では「私は山田ともうします」というのに対し、くだけた場面では「おれは山田だ」というような違いが、使用域による違いである。

3 ピジンとクレオール

ピジンとは、別の言語を話す人々が、たがいに意思を伝達するための手段をつくりだす必要がでてきたとき、相手の言語をきちんとまなぶ時間がじゅうぶんにないような場合に発達する補助的な言語のことをいう。

ピジンでつかわれる語彙は、もとの言語から大部分をかりてくるのが普通である。しかしピジンの文法は、もとの言語の影響を強くうけている場合もあれば、どの言語の文法ともちがう独特のかたちになる場合もある。

ピジンはカリブ海や南太平洋の植民地でその多くが生まれ、パプアニューギニアで話されているピジン・イングリッシュがよく知られている。

ピジン・イングリッシュの文法は英語をもとにしているが、英語でThis man's pig has come「この男のブタがきた」というところを、ピジン・イングリッシュではPik bilong dispela man i kam pinisというように、英語の文法とはかなりちがう。→ 英語

ピジンは補助的な言語であり、それを母語として話す人はいない。いっぽう、クレオールは、ピジンがある集団の母語にまで発展したものである。したがってピジンと同じように、クレオールは、ある一つの言語から大部分の語彙をかりているし、文法は、その地域でもともと話されていた言語の文法をもとにしている場合がある。ピジン・イングリッシュやジャマイカのクレオールのように英語の語彙をもちいたピジンやクレオールを、「英語基盤」とよんでいる。

VI 世界の諸言語

世界に言語がいくつあるかは、言語と方言の区別をどこでするかによってかわってくる。たとえば、中国語を一つの言語とする見方もあれば、たがいに通じない方言もあることから、北京語と広東語などいくつかの言語に区別する立場もある。

たがいに通じるかどうかを基本的な基準とするならば、現在世界では約6000の言語が話されていることになる。しかし、話し手の数の少ない数多くの言語が、今では話し手の数の多い言語によってとってかわられる危険にさらされている。

学者の中には、1990年代に話されている言語の9割が、今世紀の終わりには消滅しているか消滅しかかっているだろうと考えている者もいる。

世界で話し手の数の多い主要12言語とその話し手の数は、以下のようになっている。

中国語、8億3600万人。ヒンディー語(→ インドの言語)、3億3300万人。スペイン語、3億3200万人。英語、3億2200万人。ベンガル語(→ インドの言語)、1億8900万人。アラビア語、1億8600万人。ロシア語、1億7000万人。ポルトガル語、1億7000万人。日本語、1億2500万人。ドイツ語、9800万人。フランス語、7200万人。マレー語(→ オーストロネシア語族)、5000万人。

第2言語として話している人の数もふくめるならば、英語の話し手は4億1800万人で、第2位となる。

1 言語の分類

言語学では、言語の分類は類型と系統という2つの基準でおこなわれる。

1A 類型による分類

類型的な分類とは、言語をある特徴ごとの類似点と相違点にしたがって類別するもので、同じ特徴をもつ言語は、その特徴については同じ類型に属することになる。

たとえば、英語と中国語はことなっている点も多いが、語順については、主語?動詞?目的語という同じ語順の類型に属している。

1B 系統による分類

系統的な分類とは、言語を、その歴史的な発達を基準として語族に分類するものである。語族とは、共通の祖先に由来する諸言語のことをいう。

たとえば、英語やドイツ語、フランス語などの言語は、すべてインド・ヨーロッパ語族とよばれる語族に属しており、これらの諸言語の祖先はインド・ヨーロッパ祖語といわれる。

2 インド・ヨーロッパ語族

インド・ヨーロッパ語族は、ヨーロッパから西および南アジアの地域にかけてひろく話されている諸言語である。この語族は、さらにいくつかの諸言語に下位区分される。語族の下位区分を語派とよぶ。

ヨーロッパ北西部では、ゲルマン語派が話されている。ゲルマン語派に属するのは、英語、ドイツ語、オランダ語、そしてデンマーク語、ノルウェー語、スウェーデン語などスカンディナビア諸言語などである。

ウェールズ語やゲール語などのケルト諸語は、かつてはヨーロッパのひろい地域で話されていたのだが、現在では西の辺

音声言語
音声言語

おんせいげんご
spoken language

  

口で言語音を話し,それを耳で聞いて了解する言語をいう。「話し言葉」ともいい,「文字言語」 (「書き言葉」) に対するもの。両者は,母語として文字言語をもたない民族はあっても,音声言語をもたない民族はないという関係にある。身ぶり,表情,広義のイントネーションが重要な働きをし,そのため,省略や不整表現が多く,文の切れ目が不分明で1文か2文かがはっきりしない,間投詞・間投助詞・終助詞が多く用いられるなど,文字言語とは異なる性質をもつ。音声言語にも口語的なもの (日常会話体,談話体など) と,文語的なもの (スピーチ,講演などや,アイヌの『ユーカラ』などの口承文芸など) があるが,一般的には,音声言語には口語的な語彙と文法が用いられる。その関係からも「口語」を音声言語の意味で使うこともある。





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言語音
言語音

げんごおん
speech sound

  

音声器官によって発せられ,言語に使用される「オト」をいう。物理的な総称としての「オト」と区別して単に「オン」ともいう。音声ともいうが,音声には,咳払いや作り笑いなどの表情音,口笛や動物の物まねなどの遊戯音といった非言語音まで含めていうことがある。咳やくしゃみは反射音であって音声ではなく,したがって言語音でもない。言語音は,それが表わす内容との関係が非必然的・約束的であって,客観的な知的叙述にも用いられ,分節的・組織的であるという性格をもつ。発音は言語音を発することをいう。なお,別に単音をさして言語音ということもある。





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文字言語
文字言語

もじげんご
written language

  

文字を媒介とする言葉。書き言葉,書写言語ともいい,文語と同義に使われることもある。文字言語は一般に固定性をもち,時間,空間をこえた伝達力をもつ。また書き言葉自体が一つの文体となって,方言差をこえた文字共通語の役割を果すことも多い。文字言語は場面に頼ることができないので,音声言語そのままの写しではなく,文脈の整合性,表現の完結性が要求される。したがってかなりの推敲が必要で,硬い論理的表現あるいは繊細な文学的表現に適している。「書き言葉」は,文字言語のこのような性質にふさわしい硬い文体的意義特徴をもち,日常会話では普通用いない語彙をさしていうことがある。





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文字(言語)
I プロローグ

文字 もじ Writing 言語記号を構成する成分で、視覚でとらえることのできるもの。ヨーロッパの諸言語でもちいられているローマ字や中国の漢字、日本の仮名など、世界ではかなりの種類の文字がつかわれている。

II 文字の種類

世界でつかわれている文字には、ローマ字、漢字、仮名だけでなく、アラビア文字、ヘブライ文字、アルメニア文字、タイ文字、チベット文字などたくさんの種類があるし、現在つかわれていない文字としても、エジプト文字(→ エジプト語)、楔形文字、エトルリア文字(→ エトルリア文明)、マヤ文字(→ マヤ)、ルーン文字などが知られている。

1 表音文字

しかし、文字の働きという観点からすると、文字は表音文字と表意文字という2つの種類に大きく分類することができる。表音文字は、言語でもちいられているひとつひとつの音、または母音を中心とした音の集まりである音節をあらわす文字のことをいう。表音文字のうちひとつひとつの音をあらわすものを「単音文字」または「アルファベット」とよび、ローマ字やアラビア文字、タイ文字、モンゴル文字など世界でもちいられている文字の大多数が単音文字である。

2 音節文字

音節をあらわす文字は「音節文字」とよばれるが、音節文字の代表は日本でつかわれている仮名である。平仮名の「か」は /ka/ という音節をあらわしているし、カタカナの「モ」は /mo/ という音節をあらわしている。純粋な音節文字の種類はあまり多くなくて、仮名以外で現在もつかわれているのは、アメリカ先住民の言語であるチェロキー語(→ チェロキー)を書きあらわすためのチェロキー文字とエチオピア文字ぐらいであるが、古代には、ヒッタイト楔形文字、古代ペルシャ文字、クレタ島で発見されてギリシャ語を書きあらわしていた線文字Bなどがあった(→ エバンズ)。

3 単音文字

朝鮮半島でもちいられているハングルやインドで話されているヒンディー語(→ インドの言語)をしるすためのデーバナーガリー文字、チベット文字などは、基本的な文字の単位は単音文字であるが、音節ごとにまとまって1つの文字のように書かれる。たとえば、/kan/ という音節は単音文字だと3つの文字がならぶことになるが、ハングルでは /k/, /a/, /n/ をあらわす3つの文字があつまって、全体として1つの文字単位を形づくっている。

4 表意文字

表意文字は、1つの文字がなんらかの意味に対応しているものである。漢字の「人」は「ヒト」という意味をあらわしているし、「雨」は「アメ」という意味をあらわしているので、漢字は代表的な表意文字である。しかし、「人」や「雨」は中国語でつかわれるときと日本語でつかわれるときとでは、それがあらわす音はことなっているし、同じ中国でもちいられる漢字でも、方言や時代によって1つの漢字があらわす音は同じではない。つまり表意文字をみてなんらかの音を対応させることはできても、その文字がどれか特定の音だけをあらわすということはないのであり、この特定の音をあらわすわけではないという点が表意文字を表音文字から区別する基本的な違いである。

表意文字は1つの意味的な単位に対応していて、この意味的な単位は単語であるのが普通だから、表意文字のことを「表語文字」とよぶこともある。現在でもつかわれている表意文字は漢字だけであるが、古代エジプト文字や古代メソポタミアのシュメール文字は、表意文字と表音文字の両方をもちいる文字体系であった。

III 文字の起源

人間が言語をつかうようになったのはおそらく今から数百万年前であるが、きちんと体系化された文字をもつようになったのはおよそ5000年前にすぎない。したがって、人間の言語の歴史からすると、文字の使用はひじょうに最近になって実現した事柄にすぎない。

文字がもちいられるようになったのは、人間の社会が複雑になって、言語によって伝達された内容を後からたしかめる必要性が生じたからであろう。文字の起源は、自然に存在する動植物などを具体的に表現した絵文字のようなものであったと考えられる。絵文字がしだいに具象性をうしなって、単純な曲線や直線の集まりとしてしるされ、それが人々の間で共通の伝達手段としてつかわれるようになったときが、本当の意味での文字の誕生である。このため、最初の文字は表意文字が中心であっただろうと考えられる。

IV 文字の系統

現在世界でつかわれている文字の起源はほぼ3つにまとめられる。中国の漢字、エジプト文字、それにメソポタミアの楔形文字である。漢字は表意文字であるが、エジプトとメソポタミアの文字は、表意文字と表音文字の両方がもちいられる文字体系であった。

1 中国の漢字

漢字は前1500年ごろに亀(カメ)の甲羅や動物の骨にきざまれた甲骨文字を起源とし、それ以来現在まで中国だけでなく日本や朝鮮半島でつかわれつづけている。中国の周辺にいた諸民族の中には、自分たちの言語を書きあらわすために漢字に似せた文字をつくったものがある。西夏文字、契丹文字、女真文字などがそれであるが、西夏文字以外は解読されておらず、またどの文字も現在ではつかわれていない。日本の仮名は漢字の字体を単純化して平安初期につくられた文字であるが、表意文字ではなく音節文字である。

2 エジプト文字

古代エジプト文字はほぼ5000年前につくられたと考えられている。約1000個の文字がつかわれていた。もっとも具象的で儀式用の神聖文字(ヒエログリフ)、その行書体である神官文字(ヒエラティック)、さらに字形が簡略化された草書体の民衆文字(デモティック)の3種類の字体が併用された。エジプト文字は、エジプト古代王朝を通じてつかわれつづけたが、のちにギリシャ文字を起源とするコプト文字にとってかわられることになる。

3 メソポタミア文字

メソポタミア文字は、5000~6000年前ぐらいにメソポタミアでつくられ、最初はシュメール語をしるすためにつかわれていたが、のちにシュメール語とは系統のことなるアッカド語やヒッタイト語にもつかわれるようになった。メソポタミア文字は、粘土板をとがった筆でけずって書かれたため、初期には具象的だったが、前1800年ぐらいまでには様式化されて楔のような字形の組み合わせになり、このため楔形文字とよばれる。

4 北セム文字

おそらくエジプト文字とメソポタミア文字の両方の影響をうけて、前20世紀から前15世紀の間ころに、シリア・パレスティナ地方でつくられたのが北セム文字である。北セム文字は1つの文字が1つの音に対応する純粋に表音的な文字で、大部分の表音文字体系はこの北セム文字を起源とする。同じセム系の言語であるアラビア語やヘブライ語を書きあらわすためのアラビア文字やヘブライ文字は東方の北セム文字を起源としている。

また西方では、フェニキア人を介してギリシャにつたわった北セム文字はギリシャ文字となり、このギリシャ文字は東方では、現在ロシア語などでつかわれているキリル文字のもとになったし、西方ではおそらくギリシャ文字の影響のもとにローマの北方でエトルリア文字がつくられ、このエトルリア文字をうけついで、現在西ヨーロッパ諸国でもちいられているラテン文字すなわちローマ字がつくられた。

古代ゲルマン民族の間では、ルーン文字とよばれる文字がつかわれていたが、これはエトルリア文字あるいはラテン文字の影響をうけてつくられたものといわれている。

北セム文字の一派であるアラム文字がインドにつたわると、デーバナーガリーなどのインド系の諸文字を生みだし、このインド系の文字からチベット、タイ、スリランカ、カンボジアなどの諸語をしるすための文字が派生した。アラム文字をもとにつくられたシリア文字は中央アジアから東アジアにつたわり、ウイグル文字、モンゴル文字、満州文字などの起源となった。

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文字
文字

もじ
writing

  

単語や音素のような言語単位に対応し,線的に配列されてその言語を表わすための,視覚的記号の体系。その体系をなすひとつひとつの記号 letter; characterも日本語では文字と呼ばれることが多い。概念や事件などを全体として表わす絵文字は言語単位に対応しないので,厳密な意味では文字でない。文字の対応する言語単位として単語,音節,音素があり,それぞれの文字を表語文字,音節文字,アルファベット (音素文字または単音文字) という。音節文字とアルファベットとを表音文字と呼び,それに対して表語文字を表意文字と呼ぶことがある。歴史的には,表語文字から音節文字が発達し,音節文字からアルファベットへ発展したということができる。非常に多数の文字が過去に用いられ,また現在も用いられているが,系統をたどればごくわずかの源流に帰着する。文字言語は音声言語に対して2次的なものではあるが,文字が語形を替える綴字発音のような現象もある。文明社会の言語生活における文字の役割はきわめて大きく,文字の普及や改革は重大な社会的問題となる。





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文字
もじ

言語を視覚的に表す記号の体系をいう。
【音声言語と文字言語】
 言語行動には,音声を素材とする〈音声言語行動〉と,文字を素材とする〈文字言語行動〉とがある。古くは,両者は十分に区別して考察されることがなかったが,両者の差異がしだいに明らかにされてからは,一般に言語あるいは言語行動という場合には主として音声言語ないしは音声言語行動をさしていうのが普通で,文字を媒介として成立する文字言語(行動)は言語の研究において第二義的な位置が与えられてきた。それは,人間の社会ではすべて音声言語行動がいとなまれているのに対して,文字言語行動をいとなまない社会があり,また文字言語行動がいとなまれている社会の中にも文字言語行動をいとなまない人々がいるからであり,さらに文字言語行動が音声言語を前提としなければ成立しえないと考えられるからである。しかし,すでに文字を用いることを知っているものにとっては,言語は,単に音声とつながる表象であるだけではなくて,同時に文字につながる表象である場合が多いので,言語行動において文字の果たす役割は大なるものがあり,また文明社会において文字の存在する意義はきわめて大きいものがある。
 音声と文字にはそれぞれ素材としての長所と短所がある。音声は身体にそなわっている諸器官の運動によって発せられるのに,文字はそれを書くための道具を必要とする。しかし,文字の発明・発達は,言語を時間・空間の制約から解放した点に最も大きな意義がみとめられる。音声は,その伝達される範囲に限りがあり,その範囲の中にいない人々には伝わらないし,また音声がすでに発せられたあとからその範囲内に入った人々もそれを聞くことができない。文字によって書かれたものは,それを移動することによって(話し手が移動する代りに),音声の伝わる範囲をこえる伝達が可能であり,したがって時間的制約もこえることになる。音声は消えてしまうものであるのに対して,文字によって書かれたものは幾度も繰り返し読むことができ,忘却の危険を避けることができる。正確さを必要とすることがらや,後になって問題とされるようなことがらが文字によって書きとめられるということで,文字の特徴が利用されている。今日では,諸種の機械の発明が音声による伝達の欠陥を補おうとしている。電話,テレビ,ラジオ,録音機などの使用がそれである。一方では,印刷技術の発達が文字の効用をさらに大きくしているのであって,その場合場合によって音声言語行動と文字言語行動がそれぞれの長所を生かしていとなまれているのである。
 文字は,このように,聴覚にうったえる音声言語行動を,視覚にうったえる伝達方法にうつしかえることによってその時間的・空間的制約をとり除く。ただし,視覚にうったえる伝達の方法は文字だけに限られるものではない。表情や身ぶり,旗などの色や動き,あるいは絵画的表現,縄などの結び目,木などの刻み目などによるさまざまな方法がある(なかには自己の記憶のための場合もある)。それらの中には〈絵文字〉とか〈結縄(けつじよう)文字〉(結縄)とか〈貝殻文字〉とかいうように何々文字と通称されているものもあるし,〈身ぶり語〉とか〈花言葉〉とかいうように,言語の一種であるかのような呼名の与えられているものもある。固有の意味における〈文字〉がこれらのさまざまな視覚にうったえる伝達方法と区別されるのは,何よりもまず,文字による表記が特定の言語の表現と緊密に結びついている点にある。言語には,音と意味の両面がある。すなわち,言語は聴覚映像と概念との結びつきによって成立している。文字は聴覚映像としての音の面だけを表したり,概念だけを表すことを目的としているものではなくて,その両者の結合した特定の言語記号を表すものである。いわゆる絵文字などが固有の意味における文字ではないというのは,それらが特定の言語における特定の概念と直接に結びついても,その言語においてその概念と結びついている特定の聴覚映像との間の関係が一定していない,言い換えれば,同じような意味を表すいろいろちがった読み方がゆるされる,ということによる。もっとも,手旗信号のように言語の音の面を旗の動き方の約束によって伝える伝達の方法もあるが,それは音声によって伝えられる範囲を空間的に拡大するにとどまり,上にみてきたような文字の性質をすべてそなえるものではない。文字が(音声)言語を表記するものであるといわれるのはこのような意味においてである。したがって,文字の分類として常識的に行われている〈表意文字〉と〈表音文字〉との別は,後にも述べるように,〈文字〉の性質を正しく表すものといえない。表意的とか表音的とかいう性質は体系としての〈文字〉についてみられるのではなくて,それぞれの体系を構成している個々の要素である〈字〉についていわれることなのである。
 文字体系を構成するこの個々の字については,〈字体〉と〈字形〉という区別が問題とされる。字は具体的な形をもって実現されるが,それは書き手のちがいにより,また同一の書き手にあっても,1回ごとに異なる形で実現される。すなわち,異なる〈字形〉をもって実現されるが,そのちがいをこえて一般には同じであると認められるのは〈字体〉を同じくしていることによる。活字の場合でも,たとえば,〈幸〉と〈紀〉,〈家〉と〈患〉とはそれぞれ形は異なるが同じ字体である。さらに,字体のちがいをこえて同じ字であると認められる場合がある。ギリシア文字の ユ(シグマ)は語末以外では σ という字体が用いられる。なお,草書,行書,楷書とか,ゴシック,イタリック,とかいうような文字体系の全体にわたる字体のちがいは〈書体〉といわれる。一方,字をその構成要素に分析して,たとえば A は,a と〈大文字化〉,という二つの要素から成るとして,それぞれを〈グラフィーム grapheme(字素)〉と呼ぶ試みもなされ,漢字の声符,義符などの構成要素もそのような扱いをしようとする試みもあるが,分析の客観的規準を見いだすのが困難で,研究の進展がみられない。
【文字言語の諸特徴】
 このように,文字は(音声)言語を目に見える形であらわす記号の体系であるといいうるが,音声言語行動のすべての面を書き表すことはないのが普通である。たとえば,日本語や英語の表記法などは高低あるいは強弱のアクセントを記していない。声調 tone が重要な役割をしているタイ語やベトナム語などの表記法ではその区別が書き表されているが,それでも文に加わるイントネーションや強調などのすべてが表記されることはない。
 また,音声言語行動と文字言語行動とではその成立する場面に大きなちがいがある。前者にあっては,表情や身ぶりが加わるし,相手の反応をみながら伝達の正確さを期することができるのに,後者にあってはそのようなことがない。したがって,文字で書く場合には当然音声言語行動とは異なるくふうが必要であり,音声言語とは別に文字言語の発達をみることになるのである。
 さらに,言語は時代とともに変遷するものであるが,文字による表記は言語の変遷に伴ってその表記法を変えていくということが困難であるので,〈音声言語〉と〈文字言語〉との差はしだいに大きくなる(ただし,いわゆる〈口語〉と〈文語〉との別はこれと一致するとはいえない。〈口語文法〉は音声言語の文法ではなくて文字言語に属する〈口語文〉の文法であった)。明治時代に行われた言文一致の運動はこのような音声言語と文字言語との間の差をちぢめようとしたものである。また,言語音とその表記法との間にずれが生ずると〈正書法orthography〉あるいは〈かなづかい〉の問題が生じ,さらに綴り字・かなづかいの改訂が要求されるようになる。この改革は大きな障害にぶつかるのが普通である。一定の字の連続がある特定の単語を表す習慣が固定すると,その単語の概念はその聴覚映像と結びつくと同時に,文字表記における字面全体の視覚表象とも結びつくものであって,個々の字を拾い読みするのではないから音との間のずれは問題にされないのが普通である。ことに音韻の変化の結果,もとは互いに異なる音の連続であった二つ(以上)の単語が同じ音連続になってしまった場合(同音異義語)に,綴り字が単語のちがいを示す役割をすることになる(例えば英語の night と knight,mail と male など)。日本での〈現代かなづかい〉に大きな反対があったのは,字面からの視覚表象とそれに結びついている語感との関係がたちきられることのきらわれたのがその理由の一つであった。
 現代かなづかいがそういう反対をおさえて実施されるようになったのは,だいたいにおいて旧かなづかいよりも容易である(現代の音韻とのずれがすくない)ためであるが,一方において障害となる問題の大部分が漢字のかげにかくれていることが注意される。漢語には同音異義語がきわめて多く,〈科学〉と〈化学〉,〈鉱業〉と〈工業〉などのように関係の近い単語の中にも音では区別されないものがあるが,文字の上ではその区別が表記されている。そして,漢語はこのような表記法だけの問題でなく,新しい単語が文字のほうから造られ,文字言語から音声言語にとり入れられるという問題をも提供している(英語においてもユネスコUNESCO とかビット bit(binary digit)とかいうように文字を媒介としての新造語も多くみられる)。また〈しょうこう(消耗)〉が〈しょうもう〉に,〈こうらん(攪乱)〉が〈かくらん〉に変わったのは,それぞれ耗の〈毛〉,攪の〈覚〉に対する音の類推によって(文字の影響によって)音が変わったと考えられている(英語などの綴り字発音 spelling pronunciation 参照)。文字言語は,したがって,音声言語を写し,その変化のあとを追っていくばかりでなく,逆に文字言語の影響によって音声言語が変化する場合のあることが知られる。
 なお,文字言語と音声言語との間に著しい差が生じても,文字言語は音声言語とは別個に存在し,まったく別の音声言語を使用する諸民族に同じように用いられる場合さえある。ヨーロッパにおける中世のラテン語,東洋の漢文,インドのサンスクリットなどは国語のちがいをこえて用いられた共通文字言語の代表的な例である。このような場合には,すでに固定した体系を正しくとらえ,それに従って正しく書くことが要求されるので,このような文字言語の研究は言語の研究における中心的課題となっていた。言語の研究史において音声言語が第一義的な対象とされるようになったのは,実は比較的新しいことだともいえるのである。
【文字の多様性】
 言語が社会習慣的に定まった記号の体系であると同様に,言語を表す文字もまたそれぞれ社会的習慣として定まった記号の体系である。ふつう,英語,フランス語,イタリア語などが同じ文字で書かれているとわれわれがいうのは,厳密にはそれぞれが体系を異にしているといわなければならぬにせよ,それぞれの体系を構成する字の大部分が字体を同じくしていることによって,漠然と同じであると感じるからである。しかし,それぞれ互いに異なる文字言語を表すのであるから,文字と言語との照応,それぞれの字の用字法は互いに異なっている。一方,日本語においては,その文字言語の表記に,漢字,ひらがな,かたかな,さらにはローマ字が用いられている。普通には,漢字とひらがなが主として用いられ,かたかなやローマ字は外国語,外来語,術語などを表したり発音の説明に用いられたりするというような違いがあるが,ともかく4種の文字が行われていることになる。漢字だけによる日本語の表記(《万葉集》などの例)は行われなくなってすでに久しいが,かなだけでもローマ字だけでも日本語は表記されうる(その場合に今まで漢字のかげにかくれていた同音異義語や漢字の字面にたよっていた単語などに問題が生ずることは,ここでは問わない)。世界にはさまざまな文字が行われており,また新しい文字を創造することも可能である。文字にはそれぞれ言語の書き表し方に違いがあり,それぞれの言語の構造の違いによって,それを書き表すのにつごうのよい文字とつごうのわるい文字とがある。いわゆる〈国字問題〉(国語国字問題)ではそれぞれの言語においてつごうのよい文字がもとめられるとは限らず,文字にそなわるその他の要因として,字の記憶の容易さとか世界における普遍性などが大きな位置を占めるのが普通である。
[字の形]  今日用いられている文字のほかに,かつて行われていた文字を含めると,文字の種類はひじょうに多く,それぞれにおける字の形や字の配列法など多種多様のものがある。古代の漢字やエジプト文字などのように,字の形の多くが物の形をかたどっているものは〈象形文字〉と呼ばれ,バビロニア,アッシリア,古代ペルシアの文字資料にみられる〈楔形(くさびがた)文字〉や,ヘブライ文字,パスパ文字などに対する〈方形文字〉の呼名はそれぞれ字の形に即して与えられたものである。ちなみに,古代エジプトの象形文字は〈ヒエログリフ hieroglyph〉と呼ばれ,それは〈聖刻文字〉ともいわれて,古代人の文字に対する神聖観のあらわれであると説かれるが,この術語は古代エジプト文字に限らず,ヒッタイト,クレタ島などの象形文字や漢字にも通用されている。
 ローマ字,ロシア文字,ギリシア文字などにはいわゆる〈大文字〉と〈小文字〉の区別があり,アラビア文字,モンゴル(蒙古)文字などには頭位形・中位形・末位形・(および独立位形)の3~4形があってそれぞれあらわれる位置によって異なる字体が用いられている。またインド系の文字では,その母音字に母音が単独で音節をなす場合の字体(独立形,摩多)と子音字(単独では特定の母音と結合した音節を表す)と結合する場合の字体(半体,体文)との区別を有するものや,子音字には他の子音字と結合する場合の別な字体を有するものなどがある。
[配列法]  字の配列の仕方についてみれば,モンゴル文字,満州文字のように縦に配列されるものと,ローマ字,ギリシア文字,アラビア文字などのように横に配列されるものとがある。漢字,かな,ハングルなどは前者の例であったが,今日では縦書き・横書きの両様がある。横書きには,さらにローマ字,ギリシア文字などのように左から右へ横書きされるものと,アラビア文字やヘブライ文字などのように右から左へ横書きされるものとがある。しかし,ギリシア文字は古くは右から左へ,左から右へと各行交互に方向を変えるいわゆる〈耕作型〉(あるいは〈牛耕式 boustrophedon〉)の書き方が行われたし,さらにさかのぼれば右から左に進む右横書きであった。縦書きか横書きかということも社会的習慣にほかならないのであり,漢字,かな,ハングルや古代エジプト文字のように縦横両様の書き方が普通に行われているものもある。ただし,ギリシア文字が右横書きから左横書きに変わった結果,ぽ がちょうど裏返しにした形の B に変わったような字体の変化が起こったし,また古代エジプトの象形文字で動物などの向きが進行方向の異なるにつれて変わっている(右横書きの場合には右に,左横書きの場合には左に向いている)ように,字の形とその配列の習慣とには密接な関係があることもある。これらに対して,字の形が縦に連なるようになっているモンゴル文字,満州文字などは横書きされることがない。
 次に行の進み方についてみると,横書きの場合にはいずれも上から下へ進むが,縦書きの場合には,漢字やかななどのように右から左へ進むのと,モンゴル文字,満州文字のように左から右へ進むのとがあり,後者は右横書きの文字の借用から縦書きに発展したためであると説明される。
 また,ローマ字,モンゴル文字などのように単語と単語との間に空間をおくいわゆる〈分ち書き〉の習慣をもっている文字がある一方,漢字,かな,インド系諸文字などにはそのような習慣がない。そのほか,固有名詞の前に空間をおくことによって敬意を表したり,あるいは行中における位置による尊敬・謙譲の意の表明など,字の配列における習慣は個々の民族によって独自のきまりがある。また〈句読(くとう)点〉と呼ばれる記号も文字によってさまざまな形がみられる。
【字の性質による分類】
 文字はこのようにその字の形や配列の仕方などに多種多様なすがたをみせているが,字とそれが表す言語の要素との関係から〈表意文字ideogram〉と〈表音文字 phonogram〉とに分け,後者をさらに〈音節文字〉と〈単音文字〉(あるいは〈音素文字〉)とに分ける分類が一般に行われてきた。しかし,すでにふれたように表意文字は音を表さずに意味だけを表し,表音文字は意味を表さずに音だけを表すというような説明は,厳密にいえば正しくない。表意文字の代表例とされる漢字は原則として1字1字が直接意味と結びついているが,同時にそれは特定の音とのつながりをもっていることを見失ってはならない。言語を異にする人々の間で漢字による筆談が成立するのはその特殊な用法にすぎないのであって,中国語を表記する漢字は中国語のそれぞれの方言における特定の音と特定の意味との両面と結びついており,日本語の中では日本語としての音と意味がそなわっている。もし概念が分析されず音を離れて書き表されるとしたら,定義上それは文字ではない。咎とか呟とか呱とかいう記号がそれであって,特定の音と結びついていないという性質によって言語の違いをこえて理解されるし,概念との結びつきが直接的であり,見た瞬間に了解されるような特徴が利用されているのである。一方において,かなやローマ字のように表音文字と呼ばれる文字は,その要素である個々の字は原則として特定の音(音節あるいは音素)と結びつき,意味とは直接のつながりがないが,文字としての機能においてはそれぞれの字の連続によって意味をもった言語を表記することが注意される。したがって今日では,文字を個々の字が表す言語の単位によって分類し,単語文字(あるいは表語文字),音節文字,音素文字とするようになっている。
[単語文字]  〈単語文字 word writing(logograph)〉は,ふつう表意文字と呼ばれるもので漢字やエジプトの象形文字の初期の段階にみられるように,個々の字が原則として単語に相当する単位を表す(表語文字)。ただし,この種の分類が原則的事実の上にだけ立つものであることは注意されなければならない。漢字の中にも〈珊瑚(さんご)〉とか〈鶺鴒(せきれい)〉などのように2字ではじめて単語に相当し,個々の字1字では意味のない例が,特に石の名や動物の名を表す字に少なからずある。それは単音節語である中国語に例外的にそれ以上意味のある単位(形態素)に分けることのできない2音節語が存在しているのに,漢字は2音節を1字で表す習慣がないからである。また,漢字の特殊な用法として,中国における漢字による外国の地名・人名の表記にみられるように,その固有の意味をはなれて音の面だけを利用する場合があるし,日本における〈万葉仮名〉などにおける漢字の表音的な用い方も同様である。
[音節文字]  〈音節文字 syllabic writing〉はかなで代表されるように,個々の字が単語の音の面を音節の単位にまで分析して書き表す。たとえば日本語の〈頭〉という単語は,かなでは〈あたま〉という3字で書かれる。音韻論的には日本語にモーラ mora(拍)という単位が認められるので,かなはモーラ文字であるともいわれる。1字はそれぞれ1モーラを表すが1モーラは1字で表されるとはかぎらない。拗音(ようおん)の場合の〈きゃ〉〈きょ〉などのように,2字で表されることがあり,また,/wa/に対する〈わ,は〉,/o/に対する〈お,を〉,/zu/に対する〈ず,づ〉などのように二つの字が同じモーラを表すのに用いられる場合もある。漢字は中国語の表記において1字が1音節を表すから単語文字であると同時に音節文字であるかにみえるが,音節文字は原則として個々の字が直接に意味と結びつかず,〈変体仮名〉のように同じ音節を表す異なる字体が用いられてもその用法が単語ごとに定まることのない自由な変種であるのに,漢字は原則として単語の違いに応じて異なる字が用いられるという点で区別される。
[音素文字]  〈音素文字 alphabetic writing〉はローマ字で代表され,日本語の〈頭〉という単語がローマ字では〈atama〉と5字で書かれるように,個々の字が単語の音を音素の単位にまで分析して表記する性質をそなえている。単音文字という名が避けられるのは,音声学的に変種の多い数多くの単音を書き分けることはないのが普通で,その表すところがそれぞれの言語における音韻論的最小単位である音素に近いからである。ただしこの1字1音素ということは字の機能についていわれることであって,実際の用字法においてはそれとかけはなれている場合が多い。言語音が変化してしまっても文字表記のほうは固定してそのまま使用される結果,音素と字との照応は乱れる。英語のローマ字表記が好例とされるように,1字がいろいろな音素を表したり,2音素の連続を表したりする一方,1音素に2文字が照応したり,さらには音と照応しない字すなわち黙字もある。
[要素の混在]  文字のこのような分類も,しかし,すべての文字がそのいずれかに分類しつくされるというわけにはいかない。ハングルは,たとえば saram(人)を〈矛霧〉と書くが,これは〈偃〉(s),〈倅〉(a),〈牟〉(r),〈倅〉(a),〈眠〉(m)のように分析され,一つ一つの字が音素と照応する音素文字であるが,字の配列においては音節の単位にまとめられて音節文字的性質をもそなえている。
 インド系の文字をデーバナーガリー文字についてみると,〈單〉(ka),〈啼〉(ta),〈喃〉(ma),〈喩〉(ya)などのように子音字はつねに母音 a を伴う音節を表す点で音節文字と認められるが,母音字に〈喇〉(a),〈喨〉(i),〈嗚〉(u),〈嗅〉(e)のような独立体のほかに〈嗟〉(´),〈嗄〉(i),〈嗜〉(u),〈嗤〉(e)のような半体があり,〈嗔〉(k´),〈嘔〉(ki),〈嗷〉(ku),〈嘖〉(ke)のような表記がみられるうえに〈嗾〉(kka),〈嗽〉(kta),〈嘛〉(ktya),〈嗹〉(kma),〈噎〉(kmya)などの結合字によって子音の連続をも書き表すので,音素文字的特性もそなえていることになる。
 また,古代エジプトの文字は,単語文字からやがて音節文字に移っていったが,その構成はきわめて複雑である。そこには,音節文字と単語文字の共存がみられるばかりでなく,漢字のいわゆる〈形声文字〉における義符にも比される種類の表意要素が混在している。子音字だけで転写される音節文字はその連結された形が二つ以上の異なる単語を示しうる場合が多く,そのあいまいさを避けるために表意要素がそえられるのである。
【文字の起源】
 日本の〈かな〉や朝鮮においてかつて用いられた〈吐(と)〉はそれぞれ別個につくられたものであるが,その起源をもとめれば漢字に由来するものであることは明らかである。多種多様の文字も互いに類似する点の多いものがあり,文字史の研究はしだいにその系譜的関係を明らかにしてきた。言語が一元であるか多元であるかの問題が多くの人の興味をひいてきたと同じように,文字の起源が一元であるか否かの問題も研究者の関心の大きな問題であった。結論から先にいえば,言語の起源の問題が解決されていないと同様にまた文字の起源が一元であるか否かも明らかにされていない。
 漢字は古来〈六書(りくしよ)〉と称して象形・指事・形声・会意・転注・仮借(かしや)の6項目でその構造が説明されており,転注と仮借は字の応用に関することで,前4項が構造の原則を示すと一般に考えられている。古くは象形と指事とによるものを〈文〉と呼び,形声と会意とによるものを〈字〉と呼んだことがあったが,象形と指事とによるものがまずつくられたものであって,いずれも絵画的な象形文字に由来する。
 ローマ字は〈ラテン・アルファベット Latinalphabet〉と称せられるように,ラテン民族によってつくりあげられた文字であるが,起源的にはロシア文字などとともにギリシア文字に由来する。ギリシア人はその文字をフェニキアの文字から借りたと信じていた。両者には字形の類似のうえに名称の類似がみられ,ギリシア語におけるアルファ,ベータなどという字母の名称(この名称からアルファベットという語がつくられた)は,ギリシア語では意味がなく,セム語によってはじめて意味をもつ(たとえばセム語族に属するヘブライ語のaleph は〈牛〉を意味し,beth は〈家〉を意味する)。したがって,ギリシア文字がセム系のフェニキアの文字を借りたものであるということはほぼ疑いがない。フェニキア文字(北西セム文字)は今日地球上に広く行われている文字の多くを派生させたものとして文字史上に大きな位置を占めるものであり,一方ギリシア文字は子音だけを表していたフェニキア文字を借り,そこに母音の表記を発達させた点に画期的な進歩がみとめられる。フェニキア文字は前13世紀にさかのぼる古資料が発見されているが,これを含むセム系の文字が系譜的にどこにつながるかということについてはいろいろむずかしい問題がある(簡単な線の組合せから成る字形の類似は偶然の類似もありうる)が,古代エジプトの象形文字にさかのぼるものであろうというのが通説となっている。
 メソポタミアで前3000年のころから前1世紀ころまでシュメール人からアッカド人にうけつがれて使われていた楔形文字は絵画的な象形文字から変化したものである。そのほかにも,前2000‐前1200年にかけてエーゲ海にさかえたクレタ文明が象形文字を残しており,シリア地方出土のヒッタイト文字には楔形文字によるもののほか前1500‐前700年と推定される象形文字がみられる。太平洋も南アメリカに近いイースター島で象形文字とおぼしいものが発見されているが,これはいまだに解読されず,あるいは単に呪術(じゆじゆつ)的目的のものにすぎないのではないかと疑われている。
 ともかく,世界の諸文字はその系譜をたどると少数の象形文字に由来するものであることが明らかにされた。したがって,文字が元来記憶のために描かれた絵(絵文字)から発達したものであろうということは当然考えられるところである。問題は絵から文字への発展が1ヵ所で起こり,それがしだいにひろまったのであろうか,あるいはそれぞれ独自に発展をみたのであろうかという点にある。しかし,文字はそれ自体ではこの問題に対する答を与えない。文字はその発達した段階においては字の形とそれによって表されるものとの間に必然的な関係が存在しないので,字の形の類似には系譜的関係の存在の可能性が含まれている。これに反して,文字の原始的段階における象形文字においては,字の形はそれがかたどるものの形との間に必然的な関係があり,字の形の類似は必ずしもただちに系譜的関係の存在の可能性を意味するものとはいえないからである。⇒象形文字
【文字の伝播と変遷】
 すでに見たように,文字はある民族から他の民族へと伝わり,あるいは字の形が変わり,あるいは字の性質が変わる。文字は言語を写すものであるから,ある言語の表記には適当であった文字も,構造の異なる他の言語の表記にはそのままで十分であるということはほとんどない。したがって,それぞれの言語に即したくふう・改訂が施され,それぞれ別個の発展をするのである。個々の文字の問題は,そのおもなものについてはそれぞれの項目において述べられているのでそれらの項に譲り,ここでは文字の系譜的関係と変遷を概観するにとどめる。
[おもな流れ]  漢字はそれにつながる漢文化とともに朝鮮,日本に,そしてベトナムに伝えられ,漢字で書かれた漢文はそれぞれの土地で異なる読み方がなされながら共通文字言語の役割を果たしている。一方において,単語文字である漢字がその意味をはなれて音節文字的に利用され,それぞれの言語を表記するようになった。日本の〈万葉仮名〉,朝鮮の〈吏読(りとう)〉がそれである。日本ではさらに万葉仮名の草体から〈ひらがな〉が,またその略体から〈かたかな〉がつくられ,音節文字としてしだいに統一され今日みられる字形をそなえるようになった。朝鮮においても〈吐〉と称せられるかたかなに類似した字形の音節文字を生み,漢文の間に挿入して用いられたが,それは〈ハングル〉の制定・普及によって消滅した。ベトナムにおいては自国語を書き表すために漢字をそのままの形で音だけを借りる(仮借)と同時に,たとえば数詞の〈三〉を意味する単語〈ba〉を表すのに〈巴〉を音符とし〈三〉を義符とする〈娃〉の字をもってするように主として形声による新しい字をつくり,まれには〈天〉と〈上〉との合成になる会意字〈樫〉のようなものをまじえて,漢字をさすところの〈チュニョオ〉に対して〈チュノム〉と呼んだ。ベトナム語は中国語と同様に孤立語的・単音節語的構造なので,ここでは漢字と同様に単語文字の段階にとどまった。ただし,この文字は字体が複雑でありローマ字による表記の普及によってしだいに行われなくなった。なお,漢字の影響を強く受けた文字に女真文字と西夏文字がある。
 楔形文字は単語文字から音節文字に進んだが,古代ペルシア語を写す楔形文字はさらに音素文字に近づきながら,アラビア文字による表記によってとってかわられた。エジプトの象形文字(エジプト文字)は,単語文字にはじまったが,その字の表す単語の最初の音を表すようになり,数多い字の中からしだいに少数の字が残されるようになったが,(古代)エジプト語は7世紀にアラビア語のために駆逐されてしまった。エジプトの象形文字につながると考えられるセム系の文字は後世の文字の発達に大きく寄与した。セム語とは東部のアッカド語,西部北方系のモアブ語,フェニキア語,ヘブライ語,アラム語,南方系のアラビア語,エチオピア語などからなる言語族に与えられた名称である。バビロニアとアッシリアでは古く楔形文字が行われていたのであるが,この言語は紀元前にアラム語に駆逐された。アラム語はヘブライ語などの多くの言語をも駆逐して,前3世紀から約1000年にわたり近東の公用語・共通文字言語として行われ,アラム文字による表記法はアジアの諸言語の表記法に大きな影響を与えたが,アラビア語のためにその勢力を奪われた。アラビア語はイスラムとともにひろまり,アラビア文字はペルシア,アフガニスタン,インド,マラヤ(マレー)など広範囲に行われ,トルコにおいても1928年にローマ字が採用されるまでアラビア文字が行われていた。エチオピア語はアフリカ東海岸に行われ,その文字は4世紀以来の碑文を残している。エジプトの象形文字はセム語族にとり入れられると,やはり単語のはじめの音節をとって音節文字とされ,さらにギリシア文字,ローマ字の音素文字へ発展した。1~2世紀ころにつくられた古代ゲルマン人の文字であるルーン文字(主としてスカンジナビア人やアングロ・サクソン人などに用いられた)やドイツ文字,ロシア文字などもこの系列に入る。また,セム系のアラム文字から派生した古代シリア文字は,縦書きのウイグル文字を生み,モンゴル文字,満州文字(満州語)へと発展する。さらに,インドの文字(インド系文字)もまたセム系文字に由来するものであって,ブラーフミー文字は古代フェニキア文字,モアブ文字に最も近い形から変化し,カローシュティー文字はアラム文字に最も近いとされている。インドでブラーフミー文字は南北両系に分かれ,北方系に属するグプタ文字から悉曇(しつたん)文字がつくられ,同じく北方系のナーガリー文字は上部横線の発達を特徴とし,今日サンスクリットのテキストに用いられている文字は,このナーガリーの転化したもので〈デーバナーガリー文字〉と呼んで,南インドに行われる〈ナンディナーガリー文字〉と区別される。今日も諸種の文字がインドに行われているほか,チベット文字(およびパスパ文字)などがインド文字に由来する一方,東南アジアのタイ,ラオス,クメール(カンボジア),ジャワやモン(およびビルマ(現ミャンマー))などの諸文字が南インド文字の系譜をひき,それぞれ独自の字体を発展させている(〈クメール文字〉〈タイ文字〉〈ビルマ文字〉〈ラオ文字〉などの項参照)。
 このように文字の伝播にはいろいろな場合があり,文字の使用を知らないところに輸入されることもあったし,日本におけるローマ字のようにすでに文字の用いられているところに新たに加わって共存する場合,ペルシアにおけるアラビア文字による楔形文字の駆逐,トルコにおけるローマ字によるアラビア文字の駆逐,ベトナムにおける同じくローマ字による漢字とチュノムの駆逐などの場合があり,一方では言語の消滅とともにその文字の使用の終わることもあったのである。新入の文字に対する在来の文字の抵抗は,その民族における識字層がすでに厚い場合や,文字につながる文化が高度に発達しているような場合には特に強いものがあるといえよう。また,文字が伝えられるのは文化の接触によるのであるが,とりわけ宗教の力は大きな要因となる。アラビア文字はイスラム教とともに広まり,インドの文字も仏教とともに伝えられた。ローマ字もまたキリスト教との関係をみなければならない。ヨーロッパにおける文字の分布はキリスト教の分派のちがいとの関係でながめられているし,東南アジアではイスラム教と仏教とキリスト教の勢力の伸展が,文字の消長の歴史に反映している。
 字体の変化は異民族間の伝播に伴って起こるとは限らず,同一民族内でも生ずる。たとえば漢字は,殷代に亀卜(きぼく)の用に供せられた亀甲や獣骨に刻まれた甲骨文の古風な字体から,殷・周代の銅器に刻まれた金文にみられる大篆(たいてん),秦の始皇帝の頌徳碑に刻まれた石文にみられるような小篆,というように字体の変遷が認められ,秦代の字体の統一を経て,隷(れい)書の発生から草書,楷(かい)書ができ,さらに行書が発達して唐代にその字体の統一が行われた。ここに,字体の変遷の要因の一つとして道具の問題がうかんでくる。草書,楷書のような字体は紙の発明普及と無関係には考えられない。古代エジプトの象形文字が〈神官文字 hieratic〉と〈民衆文字demotic〉という草書的字体を生んだのもパピルスの使用と関係がある。楔形文字の生じたのは,材料が石から粘土板にうつり,葦の茎の尖筆でつっこんで線をひくことによったのであり,ルーン文字が直線的なかど張った形をしているのは石,金属,象牙などかたい物質に刻んだためであったといわれる。また,印刷の発達と書写の能率のうえからは活字体と筆写体とが分かれた。さらに字の配列の仕方が字体の変化に影響することのあることはすでにみたとおりである。
 次に,字の性質のうえからみると,単語文字から音節文字へ,そして音素文字へという方向に変化している。しかし,そのことからただちにローマ字のような音素文字が最も進化した最もすぐれた文字であり,漢字のような単語文字は未開の文字であると断定するのは危険である。エジプトやバビロニアでは単語文字はやがて音節文字に変化したのに漢字が単語文字のまま今日に至っているのは,前者が多音節語的言語を表していたのに対して後者の表す言語が単音節語的であったということを無視することはできないであろう。単音節語的特徴をもつ言語における同音異義語の存在は純粋な音節文字あるいは音素文字による表記に困難な問題のあることも考え合わされる。文字の効用は個々の場合についてそれによって表される言語の構造との関係でも評価されなければならない。
 新しい文字の創作はこの問題にも関連がある。西アフリカのバムン文字は20世紀の初めにつくられ,アラビア文字やローマ字の存在を知りながらまったく関係のない文字をつくりあげているばかりでなく,単語文字に出発して音節文字化したという。アメリカ・インディアンのチェロキー族は19世紀に文字をつくったが,字体からみるとローマ字の大文字・小文字に似たものが多数みとめられながら,個々の字の音価は(たとえば R は[e]を,T は[i]を,Y は[gi]を表すというように)ローマ字のそれとはまるで関係のない音節を示すものである。また,中国の南西部の少数民族を教化するために,19世紀の末から線と丸の組合せで新しい音節文字が宣教師によって考案され,効果の著しいものがあることが報告された。このような新しい文字の創作は,また一方において文字史の研究および文字論における新しい観点の導入にも役だった。それらは字体こそ借りていなくても,あるいは同じような字体を用いてもまったく関係なしに用いているのであっても,文字体系の原理は既存の文字の影響を受けているということである。この文字体系の原理の伝播ということがとりあげられたとき,すでに字体の比較だけでは解決することのできない古代の文字の系譜的関係を,その観点から考察しようとする試みがある。ハングルも新字の創作として
    稔(k)→脈(k‘)
 妙(n)→粍(t)→民(t‘)
 眠(m)→務(p)→夢(p‘)
のような関係から,発音をかたどったものと説明されるのであるが,一方において,字体は異なるがその方形という形のうえの類似からパスパ文字の影響があるとされ,また前述のように音節文字的に配列される点には漢文の影響がみとめられている。⇒アルファベット∥漢字
【特殊な用途にあてられる文字】
 文字の効用はそれぞれの言語に即して考えるべきであるが,一般に単語文字あるいは音節文字では表記することが困難である言語が存在するのに対して,音素文字は,単語文字や音節文字で表記することが便利であるとみとめられる言語をも表記することができる。そこで,文字による表記の習慣のない言語を記述するような場合には,音素文字,その中でも最も広く行われているローマ字によって写すのが普通である。そのローマ字表記がその言語の表記の社会的習慣として定まるまでは,ローマ字の特殊な用法ということができよう。
 すでに文字表記の習慣のある言語についても,それがローマ字以外の文字である場合には幾つかの言語を比較対照する目的などのために固有の文字の代りにローマ字を用いる場合がある。その場合,固有の文字のつづりを離れてその言語の音をローマ字で〈表記〉する場合と,固有の文字のつづりに即してローマ字で〈転写〉(あるいは翻字)する場合とがあり,それぞれ目的に応じて長短がある。表記にあたって音声学的に表記しようとすれば,普通のローマ字では字が不足である。そこで〈音声記号〉が考案されている。それは個々の言語をこえて一般に言語音を表記する目的をもち,その使用者が特定の人々に限られている点で普通にいう文字とは性質が異なる。
 代筆などの場合には相手に書く時間を与えてゆっくり話せば普通の文字で書くことができるが,長い談話が普通の速度で行われると文字で書き写すことが不可能な場合が多い。〈速記文字〉(速記)はそのような談話の筆記のために考案されており,頻度数の高い単語や言い回しに対する記号も用意されている。しかし速記文字は筆記者が記憶のたすけに用い,筆記者によって普通の文字で書き直されるものであり,相手に読まれることを期待しない個人的色彩の強いものであるから文字ではないという意見が強い。
 盲人の用いる〈点字〉は視覚にうったえることができないために,それにかえて触覚にうったえる表記法である。その点で文字の定義からははずれるが,その表記法は,音節文字あるいは音素文字のそれとよく似た点も多い。また,やはり身体障害者である聾何(ろうあ)者が伝達の手段とする〈身ぶり語=手話(しゆわ)〉は視覚にうったえたものではあるが,文字には入らない。それはその場限りのできごとである点で音声言語に近い。しかし,その身ぶりと表される概念との間にはかなり直接的なつながりがあり,言語や文字のごとき記号の恣意(しい)性から遠いものであるから,別個の研究対象とされる。
 そのほか,文字は言語と同様に宗教的色彩をおびると神秘性が与えられて,まじないに用いられたりする。また言語芸術のうち文字言語は詩や散文の文学作品をつくりあげているが,文字は単にこれを表記するだけでなく,字の配置や選び方などによって字面からの審美性が求められることがある。文字は単に言語を視覚にうったえる方法で表すだけでなく,字の形や配列に装飾的価値が与えられる場合があり,漢字やかなにおいては芸術としての書道を生み出している。
【文字論】
 文字に対する関心は古く,その研究の歴史も浅くはない。しかし,その多くは文字史の分野に属する問題であった。中国において漢字の構成に関するすぐれた考察があったが,それも漢字の歴史的変遷につながる問題であった。すでに読むことのできなくなった文字資料の〈解読〉が多くの学者の多大な労力によって続けられてきた。文字の研究は〈碑文学〉としてあるいは〈文献学〉との関連において進められ,世界の過去および現在の文字の個別的研究およびその歴史的研究はしだいに具体的な文字に関する知識を増し,系譜的関係が明らかにされてきた。具体的な資料の収集整理が進むにつれて文字に関する一般理論の解明,すなわち〈文字論〉の確立に対する要請が高まり,従来の言語研究における文字論の軽視が問題とされるようになってきた。複雑な文字使用を行っている日本では,この問題に関心を寄せる研究者も少なくなく,その研究は大きな発展を見せるようになっている。
 なお,個々の文字の形については文中で言及されたそれぞれの項目を参照されたい。
                        三根谷 徹

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言語学・ゲームの結末を求めて(その1) [宗教/哲学]

言語学
言語学

げんごがく
linguistics

  

言語を科学的に研究する学問。複雑な言語現象のなかに共通にみられる社会習慣的特徴を分析的に研究し,究極的には言語現象そのものを解明することを目指している。言語学は言語の複雑な仕組みにいろいろな角度から接近する。言語の様式の違いにより,音声言語の研究と文字言語の研究とに分けられる。時間との関連では共時言語学と通時言語学に分けるのがソシュール以来の考え方である。言語そのものが共時的部分と通時的部分に分れているのではないが,総合的研究への方法論として,まず共時的な構造の記述から始め,それを時代的に積重ねていって,構造そのものの歴史の解明を目指しているのである。時間における言語の変遷は,空間においては方言差となって現れる。その方言の地理的分布から,言語の歴史や言語変化の要因を探る分野を言語 (方言) 地理学という。各方言 (言語) を比較研究し,それらの親族関係の証明,祖語の再構,および祖語から各方言 (言語) への分岐の歴史を明らかにする分野を比較言語学という。系統とは無関係に諸言語を対照させる研究は対照言語学という。言語構造内部の研究には音声学,音韻論,文法論 (形態論と統辞論) ,意味論 (意義論) などがある。言語と社会との関係は言語社会学で扱う。その他,言語心理学,言語工学,言語哲学などがある。言語研究の最初の業績は古代インドのパーニニの文典であり,ギリシア,ローマ,中国,日本でもかなり進んだ研究が行われたが,近代的な意味での言語学の成立は 19世紀の印欧語比較言語学によるところが大きい。青年文法学派の努力により,言語の歴史研究の科学的方法が確立した。 20世紀になり,ソシュールの提唱で共時論的研究が進み,構造言語学が興った。 20世紀中頃から変形生成文法など新しい接近法も提唱され,言語研究は活況を呈している。





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[ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 2008]

言語学
げんごがく linguistics

人間の言語を研究する学問分野。最初日本では〈博言学〉と呼ばれた。言語学は,人間の言語であるならばどの言語でも研究対象とし,したがって,研究者自身の母語が対象となることもある。人間の言語の第一義的存在が音声言語であることから,言語学はおもに音声言語を対象とするし,また,すべきであるが,文字言語の研究も重要であり,特に過去の言語の研究については文字言語に依拠せざるをえないことが多い。また,一般に言語学と呼ばれている分野には,主として言語そのものを研究する分野(狭義の言語学)と,言語とその他の事象との関係を研究する分野がある。
【共時言語学】
 言語そのものをおもに研究する分野は,そのアプローチのしかたからいって二つに大別しうる。まず第1に,ある一定の時期(多くの場合は現代)のある一つの言語に関してその構造などを研究するものがある。〈共時言語学〉〈構造言語学〉あるいは〈記述言語学〉などと呼ばれる。あらゆる人間社会は,人間自らが発する音声を用いて意思伝達,意思交換を行っている。そうした一回一回の行為には,その場限りの個別的なことがらも含まれてはいるが,そのような意思伝達・意思交換が可能なためには,その人間社会において音声による意思伝達のためのかなり固定的な社会習慣の総体としての言語が存在していなければならないはずであり,また,それにほぼ対応するものがその社会の各個人の脳裏に反映・蓄積されていてそれがいつでも用いられるようになっているはずである。そのような言語がどのような構造を有しているかを,各言語について解明し,それを通じて,人間の言語一般の姿を解明してゆくことは,言語学の最大の任務である。
 言語は,それを保有する人間集団の幾世紀にもわたる社会生活・精神生活の所産であるといえるので,どの言語も言語としての独自の価値を有し,ある言語が別の言語よりすぐれているといったことはいえず,全世界的に話し手を有する英語のような言語と数千(あるいはそれ以下)の話し手人口しか有しない言語の間に言語として優劣の差があるわけでもない。したがって,いかなる言語であっても,その研究はその言語の解明に役立つのみならず,人間の言語がいかなるものであるかを解明する上で〈平等の資格で〉貢献する。また,いかなる言語(ただし,母語として話す人間集団のいる言語)もそれ自体として独立した体系であるので,その研究は他の言語に関する研究結果からの機械的類推によるのではなく,その言語自体の真の姿,構造をつかみ出すことを基本にしなければならない。しかし,どの言語も人間の言語である限り一定の共通性を有しているはずであり,したがって,個々の言語の研究が人間言語一般の本質解明に寄与するわけであり,また,他の言語の研究成果,とりわけ他の言語の研究で有効であることがわかった方法論が別の言語の研究においてもプラスになるわけである。
 個別言語の構造の研究は,言語そのものの有する三つの側面に応じて,〈音韻論〉〈文法論〉〈意味論〉に分けてよい。
[音韻論]  音韻論的研究は,その言語がどのような音をどのように用いてその音的側面を構成しているかを研究する。どの言語も,ある数(通常,十数個から数十個)の〈音素〉と呼ばれる音的最小単位を順番に並べて単語などの音形をつくっていることがわかっているので,音韻論的研究の第一歩は,その言語にどのような音素が存在するのかということである。この研究は,一見容易に思われるかも知れないが,実際はかなり困難な仕事である。すなわち,それぞれの言語は独自に音的側面を構成しているので,それぞれの言語が用いている音素の音的実質が異なり,母国語の音韻に慣れきっている我々にとっては,母国語でない言語がどういう音を音素として用いているかを適確に把握するのはたいへんである。そもそも,どのような音を発しているのかわからなかったり,ある音とある音が同じといってよいのかどうかわからなかったり,ある点で異なる二つの音が音素として別の音素であるといってよいかどうかわからないことがある。したがって,この面での研究が可能になるためには,研究者が,人間の発しうるあらゆる音の調音のしかたと音響的・聴覚的性質についての十分な知識(すなわち,〈音声学〉の知識)を身につけている必要があるし,また,どういう音を同一音素としてよいかという点での方法論を確立している必要がある。また,音素が単語などの音形をつくりあげる際には,通常〈音節〉と呼ばれる中間的なまとまりをつくり,その音節が一つないしはいくつか結びついて単語などの音形をつくりあげるということがわかっているので,そのような音節がその言語においてどのような性格と構造を有するかを研究しなければならない。また,ある意味で,単語(場合によっては,それより少し小さいか大きいもの)の上に〈かぶさって〉存在しているといってよいような〈アクセント〉や,文全体にかぶさって存在しているといえる〈イントネーション〉の研究も重要である。なお,後述のごとく,同一単語(あるいは,同一形態素)の一部が,そのあらわれる位置によって形をかえる(音韻交替,音形交替)ことがある。それがどういうものであるかを研究する分野を〈形態音韻論〉と呼ぶ。⇒音韻論
[文法論]  発話の際の基準的単位としての〈文〉は,最終的には単語の列から成り立っているといえる。どのようにして単語から文ができあがるのか(逆にいえば,文がどういうふうに単語に分析されてゆくか)という全過程の中にある法則・規則の総体がその言語の〈文法〉であり,それを解明する分野が文法論である。
 まず,単語から見ると,その言語において単語とそれより小さいもの(〈接辞〉など。なお,なんらかの意味を有する音形の最小のものを〈形態素〉と呼ぶ。形態素一つで単語ができている場合もあれば,二つ以上でできている場合もある)がどのように区別されるかという問題がある。基本的には,ある程度以上に独立的であるかどうかで区別されているはずである。なお,形態素から単語ができる過程をも文法に含めることが多いが,少なくとも,その構成部分(つまり,形態素)の間の結びつきが個別的に形成される単語以下の場合のことがらと,結びつきが可能かどうかが規則的に決定されている単語以上の場合のことがらとは区別する必要があろう。次に,単語はその機能(どのような個所にあらわれうるか)のちがいに基づいて,いくつかの範疇(単語の範疇を〈品詞〉と呼ぶ)に分属しているが,どのような範疇が存在するかの研究がなされねばならない。また,一つの範疇の中にいくつかの下位範疇が認められる場合もよくある。ある範疇に属する単語は,その範疇特有の屈折(つまり,音形の一部がそのあらわれる位置によって交替する現象)を示すことがあるので,各範疇ごとの屈折の状態と性格を解明する必要がある。このように,単語に関係する研究分野は,従来,〈形態論〉と呼ばれてきた。
 次に,単語それ自体に関することを除き,単語から文にいたる過程を研究する分野を従来から〈構文論〉〈統語論〉などと呼んでいる(本事典では〈シンタクス〉の項を参照されたい)。単語がいきなり文をつくりあげるというより,なんらかの中間的なもの(〈句〉とか〈節(せつ)〉とか呼ばれるものや,〈文節〉などと呼ばれるもの)を形成し,それが最終的に文を構成するといった状態にあるので,どのような中間的なものがあり,それがどのような範疇(〈名詞句〉とか〈述語〉とかは,このような範疇の存在を主張する術語である)に分属しているかといったことが,この分野の中心的研究対象になる。また,文自体にどのような範疇が存在するのか,あるいはそもそも文に複数の範疇が存在するのかといった問題の解明も,この分野に含まれる。一般的にいって,文法論の分野は,学説によって多様なとらえ方がなされており,それだけ複雑な対象をかかえていることの結果であろう。⇒文法
[意味論]  言語の意味の面を研究するのが意味論である。その中心的課題は,単語の意味をどうとらえるかということにある。個々の単語は,固有名詞と若干の例外を除き,ただ一つの事象ではなく多くの事象をあらわすことができる。したがって,当然,同一の単語によってあらわされる事象に,ある面では互いに異なる性格を有するものが認められる。そのような事象を同一単語であらわすのであるから,その単語はそうした事象のすべてに含まれるある共通性に対応しているはずである。したがって,ある単語の意味を研究することは,その単語によってあらわされうる全事象にどのような共通性が含まれているかを解明することである。なお,ある単語がどのような共通性に対応するかは,基本的にはその単語独自のことがらであるから,よく似たことをあらわす二つの単語(同義語,類義語)があっても,どこか異なるはずだと考えるのが正当である。異なる言語の二つの単語についても同様である。一方,同じ音形であってもちがった単語であることがある(〈同音異義〉)(〈同音語〉の項を参照)。場合によっては,同音異義であるか同一単語であるかの判別が困難なことがある。しかし,同音異義であるものを同一単語とまちがえて意味を考えると,その音形では実際はあらわせないものまであらわせるかの如く主張する結果になるのが普通なので,このことを利用して同音異義か同一単語かを見分けることが多くの場合可能である。なお,単語の意味の研究の中でも,日本語の助詞とか助動詞とかといったもののように,独立度の低い単語(〈付属語〉)の意味の研究は,特に困難な場合が多い。また,個々の単語の意味だけでなく,ある屈折形(全体)の意味(たとえば,ドイツ語名詞の〈三格〉の意味とか,フランス語動詞の〈現在形〉の意味とか)の研究もきわめて重要であり,かつ,困難である場合が多い。また,それぞれの単語の意味を基礎として文全体の意味がどのように構成されているかといったことには,理論的問題がかなり残されており,ちがったアプローチの存するところである。
 意味論は,ある単語を固定し,それによってどういうことがらがあらわされるかを見るわけであるが,逆に,あらわされる事象の側に一定の分野を設定し,その分野の事象をどのようにあらわしわけているかを研究することもできる。〈語彙論〉と呼ばれる研究方法は,こうしたやり方を基本にしたものといえる。なお,本質的にはこれまで述べたことと変わらないが,方言を対象とする分野を〈方言学〉と呼ぶことがある。
 以上は,個々の言語の構造の研究について述べたものであるが,いくつかの言語を全体として,あるいは,それぞれの該当個所を比較研究する方法を〈対照研究〉と呼ぶ。特に外国語と母語との対照研究は,特に対照研究と銘打たなくても,外国語の事象を深く理解し,また母語自体の言語学的理解を深める上で有効である。また,人間の言語をある基準に沿って分類する方法を〈類型論〉(言語類型論)と呼ぶ。従来より,〈孤立語〉〈膠着語〉〈屈折語〉といった分類が有名であるが,これは一つの分類にすぎず,基準を別のものにかえれば別の分類が可能になる。⇒意味論
【通時言語学】
 言語は時とともに変化する。したがって,言語そのものを研究するもう一つの分野として,言語の変化を扱うものが存在可能であり,これを〈通時言語学〉〈史的言語学〉〈歴史言語学〉などと呼ぶ。言語は,音韻,文法,語彙および意味の全面にわたって変化してゆくので,それぞれの面の変化が研究の対象となる。ただし,ある言語についてその変化の研究が可能になるためには,その言語の二つの異なる時期の姿がわかっている必要がある。しかも,個々の変化も他の面との関連のもとに,かつ,他の面に影響を与えつつ起こると考えられるので,そうした二つの時期の姿ができるだけ厳密に分析・記述されている必要があり,したがって,上述の〈共時言語学〉は通時言語学の基礎であるといえる。さて,多くの言語の場合,過去の記録を有しないので,通時的研究はきわめて困難ということになるが,後述の比較方法を用いての他の言語(方言)との比較とか,現存の言語そのものの分析によって過去の姿が一定程度推定できる場合もある。なお,通時言語学の主要な関心は,これこれの変化が起こったという事実の確認だけではなく,言語がどのように変化してゆくものかという一般的法則・傾向の追求にも向けられている。通時言語学の一つの分野で,個々の単語などの語源を追及する分野を〈語源学〉(〈語源〉の項を参照)と呼ぶ。
 同一の言語から分岐して成立した複数の言語(方言)の比較によって,もとの言語(〈祖語〉)の姿を推定(〈再建〉)したり,分岐の過程を推定したり,あるいは,同一の言語から分岐した可能性のある複数の言語を比較して,それらが同一の言語から生じたこと(系統的親近関係の存在)を証明しようとする分野を〈比較言語学〉と呼び,そこで用いられる方法を〈比較方法〉と呼ぶ。音韻変化がおおむね規則的であることが最もよく利用される。インド・ヨーロッパ語族などの場合は,資料が古くまでさかのぼれる一方,今後新たな資料の発見の可能性が少なく,現存資料の解釈に重点を置かざるをえない分野といえようが,アフリカやニューギニアなどの場合は,現存言語の新たな調査・分析が直ちに比較研究の向上に貢献するといえる状況にある。
 言語(方言)が変化してゆく際,隣接する言語(方言)からの影響を受けて変化を起こす場合が多い。特に,語彙変化などにそういうことが多い。単語などの地域的伝播の姿を解明しようとする分野が〈言語地理学〉と呼ばれる。手法としては,たとえばあることがらをあらわす単語をある地域の多くの地点において調査し,地図(〈言語地図〉)にその分布状況をあらわし,その姿からその地域にどのような変化がどう起こったかを推定するものである。言語(方言)が互いの影響関係の下で変化してゆく姿を解明する上で大きく貢献した分野である。
【境界領域】
 以上述べたものは,主として言語そのものを研究する分野であるが,言語が人間および人間社会のその他の事象と無関係に存在するものではないことから,言語とその他の事象との関係を研究する分野が必要になる。言語と心理との関係,発話行動における心理などを考える〈言語心理学〉,幼児の言語習得過程を研究し,母語教育に役立てようとする〈幼児言語学〉(〈幼児語〉の項を参照)または〈発達言語学〉,言語障害を研究する〈言語障害学〉,母語や外国語の教育方法を研究する〈言語教育学〉(〈言語教育〉の項を参照),などがあり,また,〈言語社会学〉または〈社会言語学〉と呼ばれる分野は,言語の側の差異と人間集団の差異(階層のちがいとか出身地のちがいとか)の関係を多方面にわたって研究し,〈言語人類学〉は,言語の諸事象と文化人類学的諸事象の間の関係を調査・研究する。〈言語社会学〉には,言語政策などを扱う分野(〈言語工学〉とも呼ばれる)もはいり,また,複数の言語が話される国などの問題を扱う言語教育学的研究も含まれる。また,言語を数理的に扱う分野を〈数理言語学〉と呼ぶ。これらの諸分野は,それぞれが独自の分野であるとともに,互いに補い合うものでもある。
 個人の(あるいは,ある集団の,またはある特定の条件下における)言語使用上の特徴を研究する分野を〈文体論〉(〈文体〉の項を参照)と呼ぶ。主として,特定の作家の文体を研究することが多いが,庶民の言語生活上の文体的なちがいも研究の対象となる。
 日本語でも英語でも言語として研究するならば言語学に含まれるが,外国語を実用的目的のために習得すること自体は言語学とはいえない。ただし,ある言語を言語学的に研究した結果を利用することはその言語の習得にとってたいへん有利である。また,外国語の言語学的研究にとってその言語を習得することは必要ではないが,習得している方が研究にとってかなり有利である。
【言語学の歴史】
 人類は古代から自らの有する言語に関心を抱いてきた。古代インドにおいてはサンスクリットの精密な記述ができていたし,ギリシアにおいては言語の哲学的議論が盛んであった。近代言語学の歴史は,サンスクリットが西欧に知られ,遠く離れた地に話される言語のヨーロッパ諸語に対する顕著な類似が注目され,比較言語学が発達した(19世紀)ことに始まる。この中で,言語の系統的親近関係の証明方法や祖語の再建方法などが進歩した。20世紀初めより,特に F. ソシュールの提唱した共時言語学と通時言語学の峻別という考え方の影響で,言語の共時的側面の研究が強まり,どの言語においても整然とした体系的構造が認められることが明らかになってきた。当初は音韻面の研究が顕著な進歩を示したが(たとえば,プラハ言語学派のそれ),次に文法の面が進歩し,また,意味の研究もさまざまな理論的ちがいを含みつつ進歩してきた。文法の面では,N. チョムスキーの提起した〈変形文法理論〉(〈生成文法〉の項を参照)が一時期全世界的に支持者を獲得したかに見えたが,理論上の分裂傾向が強まり,またチョムスキー自身の考え方もかなり変化し,かつての勢いは見られない。
 日本においては,江戸時代より古語の研究の伝統があったが,明治以降の西洋言語学の輸入とその消化を経て,西洋諸語やアジア諸語の記述的研究,さらには新たな理論・方法論の開発・模索が続けられている。ただ,一方で外国の学説の無批判な受入れが見られる場合があり,また,発展途上国の言語や少数言語に対する研究がまだ社会的に重視されていないことと,そうした研究を遂行しにくい地理的条件が重なり,自らある言語をはじめから分析・記述し,そこから一般言語学的に通用する諸法則を引き出そうとする言語学者は残念ながら多数養成されているとはいえず,今後の課題となっている。⇒記号∥言語∥文字
                        湯川 恭敏

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言語学
I プロローグ

言語学 げんごがく 言語の科学的な研究をさし、分野としては、特定の言語の音・単語・文法の研究、ことなる言語間の関係の研究、すべての言語に共通な特徴の研究、などがある。また、コミュニケーションを社会学的・心理学的な側面から分析する分野もある。

言語を記述・分析するための、いくつかのことなった視点が存在する。まず、1980年代のパリのフランス語といったように、ある特定の時代の状態を研究することができる。このような研究を共時言語学とよぶ。これに対し、ある言語の、長い期間にわたる変化を対象とするのが通時言語学である。ラテン語が現代のロマンス諸語へと変化していく過程の研究は、通時的研究の一例である。20世紀の言語学は通時的視点と共時的視点の双方から研究がおこなわれているが、19世紀の言語研究は、通常、通時的視点からおこなわれた。

また言語学の研究は、理論言語学と応用言語学にもわけられる。理論言語学は、言語を記述したり、言語の構造を説明したりするモデルや理論の構築をめざす。応用言語学は、科学的な言語の研究の成果を言語教育、辞書の編纂、言語療法などにもちいる。機械翻訳と機械による音声認識は、20世紀後半において応用言語学が成果をおさめた分野である。

II 言語学の様相

個々の言語やその変化をしらべ、記述する方法はいくつもあるが、たいてい次のような研究によっておこなわれる。音声学と音韻論による言語の音の研究、形態論による音の連続、つまり単語の構成の研究、そして構文論による文の中の単語どうしの関係の研究である。そのほか、語彙(ごい)の研究や意味論による研究によってもおこなわれる。

1 音韻論

音韻論とは、特定の言語における意味をもつ音の研究と同定である。これに対して、音声学とは、すべての言語の言語音と、それらがどのように発音されるかについての研究である。

2 形態論

形態論は、特定の言語の中で意味をになう形態素とよばれる要素を対象とする。形態素には、英語のcranberryにおけるcran-のような語根、英語のbirdや日本語の「鳥」のような単語、英語のpreadmissionにおけるpre-や日本語の「お味噌汁」の「お?」のような接頭辞とopennessにおける-nessや「大きさ」の「?さ」のような接尾辞、さらには、英語のsing「歌う」とsang「歌った」、mouse「1匹のネズミ」とmice「複数のネズミ」のような、語の内部において時制・数・格といった文法的範疇(はんちゅう)をあらわす音の交替がふくまれる。

3 構文論

構文論(シンタクス)とは、文中での単語間の関係の研究である。例をあげると、英語でもっとも普通の語順はMary baked pies.「メアリーがパイを焼いた」にみられるように「主語?動詞?目的語」であり、Pies baked Mary.は英語の文として意味をなさない。これに対して、日本語の語順は「メアリーがパイを焼いた」にみられるように基本的には主語?目的語―動詞だが、日本語では文中の名詞の役割を「が」「を」のような助詞によって明確にあらわしているため、「パイをメアリーが焼いた」のように、語順の入れ替えが可能である。

III 20世紀以前の言語学

古代より19世紀にいたるまで、言語学とはおもに書記言語の文献学的研究であった。

前5世紀というはやい時期に、インドの文法学者パーニニはサンスクリットの音と単語を記述し分析した。さらにのちに、古代ギリシャとローマで文法的範疇という概念が確立された。

何世紀もののち、印刷技術が発達し、聖書が何カ国語にも翻訳されて、さまざまな言語の文献があらわれたため、ことなる言語どうしを比較することが可能になった。

18世紀初頭にはドイツの哲学者ライプニッツが、ヨーロッパ・アジア・エジプトの諸言語が共通の源から発しているのではないかという仮説を提起し、比較文献学・比較言語学の誕生をうながした。ライプニッツの推論は、一部ただしく一部あやまっていることがのちに証明された。

18世紀の終わりに、イギリスの学者ウィリアム・ジョーンズ卿(きょう)が、サンスクリットがギリシャ語やラテン語に似ていることを指摘し、共通の源から発生したのだろうとのべた。19世紀初めの言語学者たちはこの仮説をさらに追求した。

ドイツの文献学者ヤーコプ・グリム(→ グリム兄弟)とデンマークの文献学者ラスクは、ある言語の単語の音が、別の言語の関連のある単語の中の似た音と対応している時には、その対応は規則的であることに気がついた。たとえば、ラテン語のpater「父」とped-「足」という単語の最初の子音pは、英語のfatherやfootにおける子音fに対応している。

19世紀後半までには、音の対応に関して多くの分析がなされた。ヨーロッパの青年文法学派は、同族の言語間の音の対応が規則的であることだけでなく、そうした音の法則には例外はなく、例外とみえるものは他の言語からの借用などによるものだという仮説を提起した。たとえば、「歯」をあらわす単語がラテン語ではdentalis、英語ではtoothとなるように、ラテン語のdは英語のtに対応するはずである。しかし、英語のdental「歯の」という語はdという音をもっている。

青年文法学派は、これは、音の対応の規則から期待されるtをもつtoothがもとからの英語の語であるのに対し、dentalはラテン語からの借用だからであると説明した。

ことなる言語の関連のある単語どうしを比較して規則的な音変化を発見するこの方法は、比較言語学的方法とよばれ、これにより、語族、つまりおたがい関係がある言語どうしのグループの設定がおこなわれるようになった。この方法により、語族の中のより小さいグループである多くの語派をふくむインド・ヨーロッパ語族が想定された。英語は、この語族の中のゲルマン語派に属する言語である。

IV 20世紀以降の動向

20世紀において、言語学はいくつかの方向にわかれた。

1 記述言語学

記述言語学においては言語学者は、もとから存在する文献ではなく、母語話者からデータをあつめ、そのデータを音韻論、形態論、構文論といったいくつかのレベルにわけて、言語の要素を分析する。

こういった分析法は、それ以前にまったく記述されたことのないアメリカ先住民の諸言語を記述する必要にせまられたアメリカの人類学者ボアズとサピアが確立したものである。

2 構造主義

アメリカの言語学者ブルームフィールドは、ボアズやサピアなどの仕事にのっとって、意味をなるべく考慮しないで行動主義的に外的要素のみによって言語を分析することを提唱し、記録のない言語の音と文法構造を発見する技術の重要性を強調した。このような言語の分析方法を構造主義といい、言語学のみならず人類学や哲学思想にも大きな影響をおよぼした。

アメリカの構造主義が実際の発話を重視したのに対し、ヨーロッパの構造主義は実際の発話と区別して、その基底にある抽象的な言語の体系を重視した。この傾向は、スイスの言語学者ソシュールの講義録が彼の没後1916年に発行された時点にはじまる。ソシュールはラング(フランス語で「言語」)とパロール(「話」)という概念を区別した。ラングとは、ある言語の話者がその言語で何が文法的かということについてもっている知識であり、パロールとは、その言語での実際の発話である。

3 プラハ学派

1930年代にチェコスロバキアのプラハで盛んだったある学派は、言語の構造以上のものを問題にし、発話された言葉とその文脈との間の関係を説明することを目標とした。このプラハ学派の言語学者たちは言語内の要素の機能を重視し、言語の記述は、ある内容がどうやって伝達されるかということをふくむべきだと主張した。音韻論の分野では、音を調音上の、また聴覚上の要素へと分解する弁別素性の考え方が高く評価され、他の学派にもとりいれられている。

4 生成文法

20世紀半ばに、アメリカの言語学者チョムスキーは、言語学は言語の構造を記述する以上のことを、つまり言語において文がいかに理解されるかについての説明をすべきだと主張した(→ 生成言語理論)。彼によると、この過程は普遍文法という言語の知識、すなわち言語能力の理論によって説明できる。

言語能力とは、話者が、今まで聞いたことのない文もふくめた文をつくりだし、また理解することを可能にする、生まれながらの、ほとんど意識下の知識のことである。そして、ある言語において文法的に認容可能なすべての文を生成し、非文法的な文をすべて排除するようなシステムを生成文法とよぶ。

チョムスキーによると普遍文法の規則と個々の言語の規則は別であり、個々の言語においては普遍文法の規則とその言語に固有の規則の両方が適用される。これらの規則により、文の構成要素はさまざまな構成の中にあらわれる。たとえば「メアリーはポールにキスした」という能動文と「ポールはメアリーにキスされた」という受動文の両方が生成可能である。

5 現代比較言語学

20世紀における比較言語学は、南北アメリカ、ニューギニア、アフリカといった地域において語族をうちたてることをめざし、また、言語における普遍的な原則を追求する。世界の言語を類型論的に特徴づけること(→ 言語類型論)が新たに関心をあつめており、性別をもつ言語ともたない言語、主語を重要視する言語と主題を重要視する言語など、言語を文法構造と文法範疇にもとづいて比較することがおこなわれている。

例をあげると、スタンフォード大学の言語普遍性プロジェクトにおいて、アメリカの言語学者グリーンバーグと同僚たちは、「主語?動詞?目的語」といった基本的な語順が同じ言語は、ほかの特徴についても共通部分をもつということをしめした。こうした比較研究は、世界の言語の音・構造・意味の体系がどのような形をとる可能性をもっているかをさぐる試みである。

6 社会学・心理学的分析

心理言語学は、心理学と言語学の両方の分野の重なる部分の研究であり、子供による言語の習得、音声認識、失語症、言語と脳の関係を研究する神経言語学などを対象とする。社会言語学は、言語が社会の中でどのように機能するかを研究し、ことなった状況で人間が適切な言語行動をとるためにもちいる規則を記述することが目的である。どのような状況で人を「ミズ」「ミセス」「メアリー」「先生」、またはたんに「あなた」とよぶか、などが1例である。

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言語
言語

げんご
logos; language

  

人間に固有な意思伝達手段で,社会集団内で形成習得され,意思の相互伝達と抽象的思考を可能にし,社会・文化活動を支えるもの。また,社会の全体像を反映すると同時に文化全般を特徴づけるもので,共同体の成員は言語習得を通じて社会的学習と人格形成を行う。ソシュール以来,共同体の用いる言語体系をラング,個人の言語活動をパロールという。外的形式としての言語は,音声言語とこれを前提とする文字言語とに分れ,思考の発展は後者に負うところが大である。音声言語は発話と了解から成り,言語単位 (音素,形態素,単語) をもとに音韻体系,文法体系 (形態体系,統辞法) を構成する。音韻と意味,文字と音韻・形態素・単語の連合は社会習慣による。言語の数は 2500~3500とされ,分岐的 (祖語-語族,方言) 発達と統一的 (共通語志向) 発達の2傾向を示す。これら自然言語に対し,国際語 (エスペラントなど) や,ことに理論的普遍言語 (諸科学に共通) を人工語という。近代以降の世界と人間の記号化の進行とともに自然科学の諸分野では記号言語への接近が目立つが,記号に還元されない言語の本質についての省察は言語哲学の興隆をもたらしている。





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[ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 2008]


言語
げんご

人間同士の意思伝達の手段で,その実質は音を用いた記号体系である。〈ことば〉ということもあるが,〈ことば〉が単語や発話を意味する場合がある(例,〈このことば〉〈彼のことば〉)ので,上記のものをさす場合は,〈言語〉を用いた方が正確である。また,人間以外のある種の動物の〈言語〉をうんぬんすることも可能ではあるが,その表現能力と,内部構造の複雑さおよびそれとうらはらの高度な体系性などの点で,人間の言語は動物のそれに対して質的なちがいを有している。
【人間社会における言語の存在のしかた】
 言語がどのような形で人間社会の中に存在するのか,すなわち,その社会における発話行動の総体の中に存在するのか,あるいはその社会の成員の脳裏に存在するのか,について種々の議論があったが,正確には,まさにその二つの形をとって存在しているというべきであろう。個々の,意思伝達のための発話行動をとってみると,そこには偶発的なものや個人的なものが当然含まれてはいるが,その発話行動が複数の人間の間の意思伝達の一局面である限り,その中に意思伝達を可能にする,その社会一般に認められたもの(社会習慣)が含まれているはずである。その社会におけるそうしたものの総体が,言語の一つの姿である。その社会に生まれた(あるいは,加入した)個人は,そのような姿をとって存在する言語を習得しない限り,その言語の話し手とはなりえない。しかし,そうした言語も,それを習得した個人の集合である言語社会が存在しない限り,存在しえないし,その(一部の)具体的あらわれである発話行動自体が生起しえない。したがって,個々の成員の脳裏に蓄積された言語(あるいは,言語意識)も,言語のもう一つの姿である。この二つの姿は,互いを自己にとって不可欠な相手として,互いに支えあっている。
【言語の機能】
 言語は,上述のごとく,人間の意思伝達の手段であるが,機能としてはそれに尽きるものではない。思考を支える手段,自己の感情の表現手段,あそびの一手段といった機能をあげることができる。しかし,そのことによって,言語の本来の機能が意思伝達の手段であることを否定することはもちろん,軽視することもできない。まさにそういうものとして言語は発生し発達し,また,そういうものとして人間社会を成立させてきたのである。
 また言語が,思考を支える手段という機能を有することは次のように説明される。人間は,その集団的な認識活動の結果を言語のあり方・構造に反映させてきた。したがって,言語は人間の認識やその発展である思考を支え,補助できる力を本来的に有しているのである。
【音声言語と文字言語】
 以上は,いわゆる〈音声言語〉について述べたものだが,このほかに〈文字言語〉を有する社会がある。文字言語は,本質的には,音声言語の補助手段として成立し,音声言語に依拠して存在してきたものであるが,音声言語の方はそのあらわれ(発話)がすぐ消え去ってしまうのに対し,文字言語のあらわれは長く(あるいは永久的に)残るという特色を有するため,人間社会にとって音声言語にはない重要な意味をもっている。すなわち,書いた時点にその場に居合わせなかった人々にもその内容を知らしめることを可能にし,知識の譲渡,さらには,印刷術の発達によって知識の普及に大きな役割を果たす。したがって,近年,かつては無文字社会であった社会が文字を用いるようになる例が増えている。ただし,すべての言語社会が文字言語をもつようになったという状況にはほど遠いものがあり,また,文字言語を有する社会においても,それを使用できる人口が限られているなどの問題がある。また,文字言語そのものの性格から生ずる問題点も指摘される。その一つは,音声言語との乖離(かいり)傾向である。その最大の理由は,文字言語の方はいったん定まるとなかなか変化しにくいのに対し,音声言語の方は時とともに変化してゆくことにある。その乖離が進みすぎると,文字言語の方を改革する動きが生ずる。もう一つの理由は,文字言語が多くの場合,その国(地域)の支配的な方言に立脚して定まるという点にある。すなわち,それ以外の方言の話し手にとっては自らの音声言語とその文字言語が初めから乖離したものなのである。
【言語の構造】
 言語は,おおむね次のような構造を有している。
[文法]  発話の基準となる単位として〈文〉という単位が存在する。文は,理論的には長さの制限をもたず,また,その数も無数であるが,一定の構造(あるいは,いくつかの構造のうちのいずれか)を有する。文は,最終的には〈単語〉の列から成り立っている(こういう状態を〈分節〉と呼ぶことが多い)。たとえば,日本語の〈電車が来ましたよ〉は,〈電車〉〈が〉〈来る〉〈ます〉〈た〉〈よ〉という六つの単語の列から成り立っている,といえる。単語は,個々の言語において何を単語と認めるかで難しい問題があるけれども,どの言語にも存在する単位であり,どの言語社会においてもその数はおそらく数千を下らないであろう。ただし,数は多いけれども一応有限であり,有限個のものを組み合わせることによって無数の文が成立可能になるわけである。単語はその機能(つまり,文の中のどこにあらわれうるか)のちがいに基づいて,いくつかの範疇(単語の範疇を〈品詞〉と呼ぶ)のいずれかに所属し,そうした範疇のどれに所属しているかがわかればどのように用いうるかがかなりわかる状況を呈している。ある品詞に属する単語が,意味のちがいを伴って(あるいは,伴わずに)そのあらわれる位置によってその語形の一部を,その品詞に特有の形で交替させることがある。これを〈屈折〉(〈活用〉〈曲用〉などという術語も用いられる)と呼ぶ。屈折には,語形のある部分を1個所,かつ,それを全体として交替させるというものと,ある部分に交替しうる複数の要素が並んでいるもの,2個所以上で交替を示すものなどがある。このような交替する要素は〈接辞〉と呼ばれるが,正確を期するためには〈屈折接辞〉とでも呼ぶべきである。屈折接辞は,音形のちがいを無視して意味の同じものを同一物と考えると,ある品詞に属する単語(の本体,すなわち〈語幹〉)には原則としてそのすべてに直接もしくは間接的に接続しうる。その際かなり強く結びつくことを特色とする。一方,単語と呼びうるものにも,独立度の弱い(たとえば,それだけでは発話しにくい)ものがあり,別の言語の屈折接辞のような役割を果たすものがある。ただし,単語というべきか屈折接辞というべきか区別するのが困難な場合がある。さて,単語が単語同士で結びついて直ちに文を構成するのでなく,多くの場合,単語でもなく文でもない中間的な結びつきを形成する(先ほどの文では〈電車が〉とか〈来ましたよ〉)。このような結びつきにも範疇が認められる(文法研究で〈名詞句〉とか〈述語〉とかの術語を用いる場合,このような結びつきが,中間的なものであれ一つの単位として機能していることと,それらが範疇に分属していることを前提としている)し,また,文自体にも範疇区分をうんぬんすることができる。単語にどのようなものがあり,どのように結びついて最終的に文を形成するか,逆にいえば,文がどのようなものから成り立っていて,最終的にはどのような性格をもった単語の列に分析されるか,といったことの総体を〈文法〉と呼ぶ。文法というのは,言語の中で意味が関与する分野における規則性・法則性の総体であるともいえる。
 なんらかの意味に対応する音形のうち,それ以上分析できないものを〈形態素〉と呼ぶ。単語が意味を有するものにそれ以上分析できなければ,それは同時に形態素でもあるが,上述の語幹(それが分析不能の場合),屈折接辞も形態素である。さらに,〈お金〉の〈お‐〉のようなもの,〈金持〉の〈金‐〉のようなものも形態素にはいる。しかし,これらはそれが結びつきうる相手が個別的にしか規定できない(〈‐金〉が名詞(〈家〉)のように見えるからといって,〈お家〉とは普通いわない)し,その全体の意味も部分の意味から完全に予測できるものではない(〈金持〉は,お金をたくさん所有している人のことだが,〈太刀持〉は,太刀をたくさん所有している人ではない)。こうした種類の形態素の結びつき方をも文法に含めて考える説もあるが,このような本質的には個別的なことがらは,規則性の総体としての文法とは趣を異にしている。しかし,それぞれの言語には〈複合語〉〈派生語〉の構成のしかたに一定の傾向(〈造語法〉)があり,それが既知の要素を用いて単語の数を増加させる上での有効な手段となっている。
 文の構造がいかなるものであるかは,もちろん言語によって異なっている。しかし,人間の認識と言語との関係から,次のようなことは一般的にいえそうである。我々が外界を認識するとき,一挙にすべてを認識するのでなく,その一〈局面〉(たとえば,向こうから電車が近づいてくるといった局面)を他から切り離した形で認識する。その際その局面を認識の上で切り離すことを可能にするその局面の特徴とは,主としてその局面におけるなんらかの運動である。したがって,そのような運動にあたるものが,そうした局面に対応する言語的単位すなわち文の中に原則として必ず含まれていなければならず,かつ,原則として一つであるはずである。すなわち,〈述語〉(〈主語・述語〉の項を参照)と呼ばれうるものが,どのような言語でも文の必須成分としてあることが推測される。また,基本的には,述語があらわす運動となんらかの直接的関係にあるもの(つまり,その運動と同一局面に含まれるもの)をあらわす成分が同じ文に含まれうるものである,ということもできよう。このように考えると,文の構造と人間の論理形式とはともに〈局面の構造〉に規定された表裏一体のものということができる。ただし,論理形式の方は一義的であることを要求されないし,むしろある範囲の中で多様なものと考えられるのに対し,文の構造の方は一つとはいわないまでも,言語ごとに少数の種類に固定されていなければならない(そうでないと使いこなせない)ので,文の構造は多様な論理形式の一つもしくは少数を言語的に固定したものだといえよう。したがって,一つの言語の文の構造に対応する論理形式も,別の外国語の文の構造に対応する論理形式も,人間のそれとして存在するものであり,たとえば日本語の文の構造がある外国語のそれに異なるからといって,日本語を非論理的な言語とするような議論はまったくの妄言にすぎないし,他の言語についても同様である。
[音韻]  次に,言語の音の面に注目すると,単語(あるいは,形態素)は,意味を無視するならば,さらに小さい単位から成り立っている。音の面での最小単位を〈音素〉と呼ぶ。各言語はそれぞれある数(通常,十数個から数十個)の音素を保有し,それらを順に並べて単語などの音形を構成している(こういう状態も,〈分節〉と呼ばれる)。たとえば,〈船〉は h,u,n,e の四つの音素が一つずつこの順に並んでいる。同一音素はできうる限り同じ音であらわれる。すなわち,そのあらわれる位置によって前後とのつながりをスムーズにするような変異はあるが,それ以外の点では同一音であろうとする。音素は,平面的に並んで一挙に単語の音形を構成するのでなく,ある中間的まとまりを構成し,それが単語などの音形を構成するという状況を呈する。そのような中間的まとまりを〈音節〉と呼ぶ。音節の性格,構造は各言語によって異なるが,遠くまでよく聞こえるが発音にエネルギーを要する音(〈母音〉)を中心に,あまり遠くまで聞こえないが発音にエネルギーを要しない音(〈子音〉)をその前(または前後)に配置するという形が最も一般的である。ただし,あらゆる言語において母音と子音の区別が明確だというわけではない。各言語における母音の数は,多くて10をあまり超えない範囲にある。また,どの言語でも,音素の並び方にその言語固有の制限を有する。どのような音を音素とするかは言語によって異なるが,たとえば〈唇を用いる閉鎖音〉(破裂音)に有声音と無声音(b と p)の区別があれば,他の閉鎖音にも同種の区別があるといった,調音器官の運動形態の種類を比較的少なくしつつ多くの音を保有しようとする傾向が認められる。また,言語によって,同一単語内で,ある母音のあとにはある種の母音だけが立ちうるといった現象が認められることがある(〈母音調和〉)。
 単語(あるいはそれより少し小さいか大きいもの)の音形に,音素の区別に関係するものとは異なる音的特徴(強弱差とか高低差)が〈かぶさって〉いるような状況が認められる。これを〈アクセント〉と呼び,強弱が有意味的なものを〈強弱アクセント〉とか〈ストレス・アクセント〉,高低差が有意味的なものを〈高低アクセント〉あるいは〈ピッチ・アクセント〉と呼ぶ。さらに,別の音的特徴が用いられることもありうる。長さの等しい単語の間にアクセントの対立があれば,それだけで単語と単語を区別できることになる。アクセントがどの程度に複雑であるかは言語によって非常に異なり,単語の長さが決まればアクセントは一定という単純なもの(例,フランス語や日本の〈一型アクセント〉の方言)から,きわめて複雑な(ただし,高度に規則的でもある)ものもある。
 また,文全体あるいはその一部(ただし,かなり大きい部分)に〈かぶさる〉音的特徴を〈イントネーション〉と呼ぶ。多くの場合,音の高低の変化を実質とし,また,多くの場合その末尾の特徴で判別できる。なんらかの意味に対応する(たとえば,疑問文のイントネーションなど)ことが多い。
[意味]  単語は,固有名詞および若干の例外を除き,ある一つの事象をあらわすのでなく,多くの(理論的には無数の)事象を一つの単語であらわすようになっている。また,単語の音形と意味の間には,若干の例外(〈擬声語〉〈擬態語〉など)を除き,特別のア・プリオリな関係は存在しない(これを,〈記号の恣意性〉と呼ぶことがある)。しかし,一つの単語をとってみると,その単語によってあらわされうるすべての事象には,その単語によってはあらわされえない事象には総体としては含まれない共通性が認められる。いわば,単語は,決して個々の事象に対応しているのでなく,このようなある種の共通性(の総体)に対応しているのである。ある単語によってあらわされうるすべての事象に含まれる共通性,もしくは,その共通性の人間の脳裏における反映としての〈観念〉が,単語の〈意味〉と呼ばれてきたものである。単語のあらわす事象には,名詞の場合のように事物といえるようなものや,動詞のように動作・運動といえるものや,その他ある種の関係等々がありうるが,いま見た点では共通である。ただし,単語の音形と意味との対応が人間の意識を通じて成立するために,現実には存在しない事象をあらわす単語(〈幽霊〉など)やきわめて主観的な感情に対応する単語(〈嫌い〉とか〈オヤオヤ〉とか)もあり,また,現実に存在する事象をあらわしても,なんらかの感情のからむ単語(たとえば,〈野郎〉など)もかなりある。
 ある音形であらわされうるすべての事象に含まれる共通性(その音形が同一の単語なら,この共通性はその単語の意味にあたる)をすべて含む事象が,その音形によってはあらわされえないものの中に存在することがある。その場合,その音形は音形としては同一であるが,意味は一つではありえない。すなわち,単語としても一つではありえないことになる。そのような場合,〈同音異義〉と呼ぶ。同音異義には,偶然生じたものと,ある単語の音形が,もとの意味となんらかの形で似た意味をあらわすものとしても用いられるようになって(〈転用〉)生じたもの(これを特に〈多義〉と呼ぶことがある)があるが,ある特定時期の言語という観点(つまり,その言語の過去の事情を考慮しない観点。話し手大衆の観点である)から見ると,この両者に本質的差異は存在せず,明確な境界を引くこともできない。しかし,転用(を起源とする同音異義の存在)ということが許されていることは,比較的少ない語形で多くのことをあらわす上で大きな意味をもっている(〈同音語〉の項を参照)。
 単語と単語の,あるいは,一方もしくは両方が単語の列であるものの結びつきによってできあがる全体の意味は,その構成部分の意味にその結びつき方(あるいは,それら構成部分の属する範疇)の意味が付け加わったものである。文全体の意味も同様に(ただし,イントネーションの意味も付け加わって)できあがる。このような文も,それがあらわしうるのはただ一つの特定の事象(ある局面)でなく,ある共通性をもった無数の局面をあらわすことができるのである。
【言語と方言】
 言語を一つの記号体系と考える場合,完全に等質的な体系を仮定することが多いが,実際にはそのような等質的な言語の存在は期待できない。すなわち,方言差が大なり小なりどの言語にも存在する。方言差は時とともに拡大され,ついには二つの方言の間で相互理解が不可能になり,もはや二つの方言ではなく二つの独立した言語になる。ただし,言語と方言の区別は科学的にはほとんど不可能である。というのは,A 方言と B 方言,B 方言と C 方言の間は相互理解が可能でありながら,A 方言と C 方言ではそれが不可能だといった状況がいくらでもあるからである。また,独立の正書法を有するかどうか,一つの国の国語となっているかどうか,独自の名称を与えられているかどうか,などを言語と方言の区別とすることもあるが,相互理解が可能かどうか(全体的ちがいがどの程度であるかをはかる尺度として適当なものの一つである)という尺度にひどく違反する結果が出ることが多い。このように,言語と方言の厳密な区別は不可能であるが,一方,いかなる規準から見ても別個の言語であるものと,いかなる規準からも同一言語の方言であるものとは確かに存在し,この区別は有効でないわけではない。
 方言の主たるものは,地域のちがいによる方言であるが,〈社会的方言〉も存在する。ある階層,ある職業,ある人間集団に固有の〈方言〉のことである。それらの中には,その地域で通常話される言語(あるいは,地域的方言)を基礎として,一部に特殊な語彙や特殊な発音のしかたなどを取り入れたにすぎないものも多い。
 言語と方言の区別が不可能なので,世界にいったいいくつの言語があるかをいうことはできない。2000台から3000台の数値が示されることが多いようであるが,一つの言語と認める基準をかえることによって数は大きく変動する。同一地域内に複数の言語が存在する場合,相互の意思疎通のために〈共通語〉が発達することがある。もとからある言語の一つが共通語となることもあるし,一種の混合語(ピジン・イングリッシュなど)が生ずることもあり,また,性格的にその中間のものが生ずることも多い。ある地域の共通語を母語として話す集団が存在しない場合,その共通語はいろいろな意味で不安定で等質性を欠く。一方,本来は一種の混合語として生じたものでも,母語として話す集団が生ずれば,一般の言語と同じ安定性を急速に獲得する。共通語のうち公的に使用することを認められたものを〈公用語〉といい,国として公的に使用する言語を〈国語〉と呼ぶ。
【言語の変化】
 言語は時とともに変化するが,その際その根幹部分は比較的ゆっくりと,枝葉部分は比較的速く変化する。前者には,音韻,文法,それに身近な語彙などが含まれ,後者には語彙のうちのより文化的なものなどが含まれる。
 音韻面の変化のうち,音素の変化は,音素が一つの単位として機能していることを反映して,通常やはり各音素単位で起こる。すなわち,たとえばp が b に変化するとすれば,その変化はその言語のすべての p のあらわれに関して起こる。ただし,常に画一的に起こるとは限らず,条件(何の前とか何の後とか)によってちがった変化が生ずることも多いが,いずれにしても規則的である。これを〈音韻変化の規則性〉と呼ぶ。音韻変化の規則性は,いくつかの別の性格の変化によって乱されることがある。たとえば,他の単語などの音形との〈類推〉による変化もしくは変化抑制,特定の単語に個別的に起こる変化などがそれである。また,文法的に非常に異なる位置にある同一音素のあらわれは,ちがった方向の変化を被ることがある。
 単語の意味の変化は,そのあらわす事象の範囲が広まったり狭まったり,似てはいるが別のものに変わったりするが,また既述のような〈転用〉も,本質的には既存の音形を用いての新たな単語の創造であるが,それが起こり,その後にもとの単語が消滅すれば,ある一つの単語に意味変化が起こったかのように思わせるものである。また語彙変化は,ある事象をあらわす単語が類似の事象をあらわす別の単語に取って代わられる現象である。上述のごとく,身近な語彙ほど変化が起こりにくい。
 言語変化は,その言語の内的要因によって起こるだけでなく,他の言語(方言)からの影響によって起こることも多い。やはり枝葉部分によく起こる。他の言語(方言)から単語を受け入れて用いるようになることを〈借用〉と呼ぶ。一般には,政治的・文化的に高い集団の言語(方言)からそうでない方に単語が借用されてゆく傾向があるが,集団同士の接触の形態によって種々の例外的事態が生ずる。他の言語(方言)からの影響は,ある人間集団の〈言語の取替え〉にいたる場合がある。その際,多数者の中に少数者が取り込まれて多数者の言語を取り入れる場合は,その言語自体にあまり大きな変化が起こらないことが多いが,少数者の言語をその地域の多数者が取り入れる場合には,もとの言語の根幹部分がかなり残ることが多く,もとの言語の音韻をそのまま残して新しい言語をそれに適用させて話すようになることもある。
 言語の変化は,その言語の発展の一局面であるといえる。しかし,どうなることが発展であるかというと,語彙の増加による言語の表現能力の向上といった,誰にでも発展とわかるものを除くと,たいへん難しい問題である。母音の数をとっても,ある時期に増加するものもあればある時期に減少を示すものもある。したがって,何を発展とするかを言語の根幹部分について明言できるには,どのような構造が言語として最良なのかという困難な問題を解かねばならず,現時点での言語に関する知識では,それは多分不可能であろう。
 同一言語の方言差の発展として生じた複数の言語は互いに〈系統関係〉を有するといい,もとの言語を〈祖語〉と呼ぶ。互いに系統関係を有する言語の集合を〈語族〉と呼ぶ。一つの語族の中で,その祖語より分岐してできたいくつかの言語の一つを祖語とする言語の集合を〈語派〉と呼ぶ。同一祖語より分岐してあまり時間が経過しない場合(おそらくは数千年を超えない場合),上述の音韻変化の規則性によって,その二つの言語の音形と意味の似た単語同士の間に〈音韻対応(の通則)〉が認められる。すなわち,それらの単語(の音形)同士に関して,原則として初めから終りまで,該当個所の音同士が他の単語同士でも確認できる対応を示す現象である。ただし,あまり時間がたちすぎたり,一方もしくは両方の言語が他の第三の言語の影響を受けすぎたりすると,こうした音韻対応は見いだしがたくなる。世界各地域の言語の系統関係の研究は,進歩してはいるが,問題も数多く残され,意見のちがいもよく目だつ(〈比較言語学〉の項を参照)。
【言語の発生】
 言語は,猿から人間への進化の中で,共同して生活手段を獲得し,また集団で自らを守るために必要な,相互の意思伝達の手段として成立してきたものと考えられるが,それが成立するための条件としては,第1に知能の発達(認識能力,概念化能力ならびに音をある観念に対応させることを可能にする能力の発達),第2に発音・調音器官の発達(口の,堅いものをかみ砕く役割からの基本的解放を伴う,音をかなりの種類発音し分ける能力の発達),およびそれに対応する聴覚(微細な差異を聞き分ける能力)の発達が考えられる。しかし,言語が具体的にいつどのように成立したかを知ることは,現時点での知識からは不可能である。
 原始状態の言語がどのようなものであったかを,現存する言語の対照研究・比較研究から推定するのは,現存の言語があまりに高度に発達しすぎているために,たいへん困難であり,既述の二つの〈分節〉のどちらが相対的に先行して成立してきたのかについても確答を与えることができない。また,言語が1個所で発生した(単発生説)のか複数個所で発生した(多発生説)のかを証拠をもって判定することも不可能であるが,上述の議論から推察できるごとく,言語を必要とする状況が存在し,言語の成立を可能にする条件がそろっていれば,長時間を要するとしても言語を合法則的に生み出すことは可能だと考えられるので,単発生でなければならないとする理由は見いだしがたい。⇒記号∥言語学           湯川 恭敏
塢認知科学における言語塋
20世紀後半の言語学には,天動説から地動説への変化にも匹敵する,コペルニクス的革命があったと言われている。これは,広くは,心理学など,人間の知的な活動に関する学問全般に関わるために,認知革命という言葉で呼ばれる大きな学問的展開の一環でもある。すなわち,言語学という学問を,単なる言語の学問から,もっと広く,人間の知的能力に関する学問と位置づけることを意味する。そのため,心理学,生物学などとの境が薄まり,後の認知科学という学問の設立にまで至るのだが,これは,言語学が,狭い意味での人文科学から自然科学的な性格を帯びるようになったということでもある。
 言語学が自然科学的な性格を帯びれば,自然科学と同様に,必然的に普遍性を研究の中心に据えることになる。その意味で,各個別言語の研究に重点を置く伝統的な言語学と比較して,認知科学の中での言語学ということを考える場合には,この地球という規模で,人類全体に共通するような言語の性質を問題にすることが多い。
 しかし,われわれの一人一人は,なんらかの個別言語に縛られており,言語の普遍性を実感としてつかみにくい。われわれの母語と比較して,地球上で話されている言語の多様性の方が圧倒的に目につくからである。そこで,地球上で話されている言語を,宇宙人の言語学者になったつもりで観察してみよう。すると,地球上の人間の言語は多種多様な選択の可能性の中からごくわずかのものしか使っておらず,その意味では互いによく似ていることがわかるだろう。
【言語の誕生】
言語の研究は,通常,書かれた文字によってなされる。特に古い言語ではそうである。ところが,さらに古い言語には,文字による記録がない。たとえば日本語は中国から漢字が入ってくるまで,それを書き表す文字がなかった。したがって,6世紀より前の日本語の姿は正確にはわからない。しかし,日本語が6世紀より前から存在したことは確かである。世界の他の言語を見ても,文字で一番古いのがエジプトの象形文字〈ヒエログリフ〉やメソポタミアの楔形文字だが,せいぜい紀元前数千年よりさかのぼることはない。しかし,人間が言語を話し始めたのは数十万年前からだと考えられている。
 したがって,地球人の言語は音声言語が基本である。これは,地球には大気という,音を伝えるのに適した媒体があったことと,音が光のような指向性をもたず,同時に大勢の人に伝えるのにも適していたことが大きな理由だろう。さらに,地球上で,われわれ人類が類人猿と分かれて,今のような形に進化してきた際の解剖学的な要因も大きい。現在の人類は,ホモ・サピエンスという種であるが,ホモ・サピエンスの中にも,現在のわれわれに直接つながるものと,そうでないものがある。ユーラシア大陸の西の端にいたネアンデルタール人は,われわれの直接の先祖ではないが,人類は,このネアンデルタール人のころから音声言語を使っていたと考えられている。
 しかし,ネアンデルタール人と,現在のわれわれの直接の祖先のクロマニョン人との間では,言語の能力についてずいぶん違っていたのではないかとも考えられている。特に,化石として発見される頭蓋骨の顎の部分の骨格から,1分間に話すことのできる単語の数の推測値に大きな違いがあり,ネアンデルタール人はせいぜい1秒間に1語しか発することができなかったと考えられている。これでは,われわれ現代人の数分の1程度で,音声言語としてはとても実用にならず,情報を伝えるのに身振り手振りを多用していたと考えられる。音声言語だけで情報を十分に伝えることができるようになったのは,クロマニョン人になってからであろう。
 ネアンデルタール人とクロマニョン人との間で一体何が変わったのだろうか。ネアンデルタール人よりもさらに人間から遠い現在の類人猿を見ると,チンパンジーなどでは喉の構造が違う。言語の音声は,声帯という喉の奥の筋肉の対の間を,肺からの空気が通り抜けることによって生じる。チンパンジーにもこのような声帯はあるので,〈声〉を出すことはできる。しかし,それがあまり明瞭な音にならない。声帯が震えただけでは,音が小さく,他人の耳にまで届かないし,あまり明瞭な音にならない。人間の場合は,声帯の上の部分に広い空間があって,そこで共鳴を起こして他人の耳に明瞭に聞こえる音になっている。ギターやバイオリンの共鳴箱のようなものが声帯の上にあると考えればよい。ところが,類人猿の場合には,声帯の上の共鳴させる空間がほとんどなく,そのまま口や鼻に抜けてしまう。また,チンパンジーの場合には,喉を通る空気がほとんど鼻へ抜けてしまい,口から出る空気はごくわずかだという。つまり,彼らはいつも鼻声で話しているようなものであり,遠くの人と話をするのには向いていない。
 面白いことに,人間の赤ん坊も1歳くらいまでは声帯の上の空間が狭く,類人猿と同じような構造になっているらしい。それが,1歳をすぎて,直立して歩くようになると,声帯の位置が下がり,その上に大きな空間ができて大人と同じように明瞭な声が出せるようになる。人間の赤ん坊は1年の間に何百万年かの人類の進化の過程を体験するわけだ。
 地球のように大気が豊富な他の惑星の住人に,人間のような声帯とその上の喉の構造がないとしたら,他にどのような手段が言語を伝えるために考えられるだろうか。手,足,羽のような自由に動かせる器官を使って,それらを,叩くなり,擦り合わせるなりして音を出すことは地球上でも昆虫が行っている。しかし,手や足や羽を言語のために使用することはさまざまな点で不便である。人類は,言語に加えて,道具を発明し,それを使いこなしている。この二つの機能を,口と手という,二つの別々の器官に分担させることによって,柔軟性を獲得しているのである。道具を使いながら喋ることができなかったら,道具の使い方を仲間に教えることもできない。それでは,文明もさほど発達しなかっただろうと考えられる。
【音声の普遍性】
声帯から出た音は,喉から,舌と口蓋によってできる空洞を経て,唇と鼻の穴から外に出るという,かなり長い道のりを経るので,その間に多種多様な加工ができる。このような加工を調音という。調音によってさまざまな異なった言語音が作られる。調音法にどのような種類があるかを研究するのは音声学の仕事であり,一つの言語内でどのような調音法がどのように組み合わされて使われるかを研究するのは音韻論と呼ばれる分野の課題である。このように,言語にはさまざまな側面があるが,おのおのはある程度独立に,自律性をもって機能すると考えられている。ただし,まったくばらばらに動くのでなく,言語という全体を構成する部品として,連昔をもって動いている。言語のこのような性質をモデュラリティといい,言語学の下位分野も,それぞれのモデュラーに対応して設定されているのが普通である。以下では,各モデュラーにおける普遍性を見ながら,言語学の主な下位分野に簡単に触れていくことにする。
 日本語をはじめとして,世界の多くの言語では,いくつかの母音を使い分ける。母音は,喉から出た音を声帯の上の空間で共鳴させて,大きな音にしてそのまま口から出したものだが,その際に,空気の通り道の途中にある舌をさまざまな位置で上げたり下げたりすることによって音色を変えることができる。自分では気づかないことが多いが,〈イ〉という場合には,舌の先の方を上げる。〈ウ〉という場合にはその逆に舌の後ろの方を上げる。舌をすべて下げると〈ア〉で,〈イ〉と〈ア〉の中間の音が〈エ〉,〈ウ〉と〈ア〉の中間の音が〈オ〉になる。(図)
 世界の言語の中には,日本語より少ない,四つとか三つとかの数の母音しか使い分けない言語もあるし,英語のように,日本語よりはるかに多くの数の母音を使い分ける言語もあるが,大体,母音の数は3から9くらいの間に収まる。注目すべきは,母音の数からいうと,5母音の言語がもっとも多く,しかも日本語と大体同じ5母音の言語が多いということである。さらに興味深いのは,母音の種類は数と無関係でなく,もし母音が三つしかなかったら,例外なしに〈イ〉〈ウ〉〈ア〉の三つになることである。この三つは,三角形の頂点の位置に等間隔に並んでいて,互いに異なった音として聞きやすいので,当然といえるだろう。また,5母音ならば,ほとんど日本語と同じ五つの母音になる。これも,三角形の二つの辺の中点にさらに二つの母音を配置したものであるから納得がいく。
 類人猿の場合を考えると,まず,五つもの母音を明瞭に聞き分けたり発音し分けたりすることはできないということがわかっている。チンパンジーだと,三つぐらいまでは聞き分けができるようだが,その場合も,人間の言語の三つの母音とは異なり,〈イ〉と〈ウ〉,〈エ〉と〈オ〉は区別して聞き分けることができない。つまり,舌の高さの違いはわかるけれど,前後の区別ができないのである。また,自分で発話できるのは,〈ア〉〈ウ〉〈オ〉の三つに限られるということが観察されている。これは人間の言語の3母音体系とはかなり異なり,類人猿は,声帯の上の共振させる空間が小さいことに加えて,そもそも数多くの言語音を認識し分ける能力をもっていないということになる。もっとも,チンパンジーよりも人間に近いといわれるボノボ(ピグミーチンパンジー)の場合,アメリカで育てられているものには,英語を聞き分けることができるという報告もあるので,いちがいには断定はできないかもしれない。
 類人猿の喉の構造や母音の聞き分けの限界がわかる前は,彼らに人間と同じ音声言語を教えるという無駄な試みがなされた。今では,それは無理だとわかっているから,別の手段が試みられている。手話やさまざまな図形のパネル文字を用いた言語をあやつることができないかと考えて,チンパンジーに手話を使わせたり,図形のパネルを並べさせて〈言語〉を話させるという研究や,最近では,コンピューターにつながった大きめのキーボードを押させるという研究がいくつかある。日本でも京都大学の霊長類研究所のアイが有名だが,アイはものの名前だけでなく,色や代名詞の記号を覚え,最近では算用数字や漢字もいくつかは直接読めるようになったという。しかし,いかに賢いチンパンジーといえども,言語をあやつる能力になると,どうしても人間の3,4歳の子どもにはかなわない,というのが今までの研究の結果である。これはいったいなぜなのだろうか。これは実は,人間の言語がなぜ普遍性をもつのかという問題と深くかかわるので,他の面の普遍性をひと通り見てから,あらためて考えることにしたい。
【語順の普遍性】
一つの言語の中で用いられる音の数は限られているので,日本語と同じような音を組み合わせて使っている言語も多いが,日本語と外国語とが通常まったく異なった言語のように感じられるのは,音を組み合わせて作る単語がまったく異なるからである。また,さらに大きな違いは語順の違いである。語順の問題は音韻論の研究対象と考えることも可能だが,一般的には,統語論という,文を構成する要素の並べ方を研究する分野の対象とされる。
 語順の問題についても,地球人の言語の間にそれほど大きな違いがあるわけではないことがわかっている。たとえば,文の最も基本的な要素として,主語,目的語,動詞という三つを考えてみると,人間の言語のほとんどは,可能な6通りの並べ方のうち,主語―目的語―動詞,主語―動詞―目的語,動詞―主語―目的語という三つの型におさまってしまうのである。さらに,日本語と同じ主語―目的語―動詞という型は,4割から5割を占め,多数派である。英語のような主語―動詞―目的語の型が3割から4割で2位にはいり,この二つの型で大体8割程度になる。
 この8割を占める語順の共通性は,主語が他の要素よりも先にくるということである。また,第3位の型までで世界の言語のほぼすべてを尽くすことになるが,この3者に共通しているのは,主語が目的語よりも先にくるということである。つまり,地球上の言語は主語が目的語よりも先に現れ,さらに,その中でも多くは,主語が動詞よりも先に現れるということがわかる。
 その他にもさまざまな言語の統語現象を比較検討した結果,人間の言語の中に存在する統語的な規則性は各言語でばらばらなものではなく,まったく同じか,ほとんど同じ規則性に従っていることがわかってきている。たとえば,ほとんどの言語が,受身とか使役とかいう構文をもっていること,代名詞などの代用表現の振舞いがよく似ていること,などが指摘されている。このような観察から,後述の普遍文法という考え方がありうる仮説として出てくるのである。
【意味の普遍性】
意味論は言語の意味を研究する分野であるが,意味というのは,形式的には,言語と,言語が表現しているもの(言語の外の世界にあるもの)との間の関係である。それと比較すると,統語論では言語内部の構造のみを考察の対象としているが,本来,音のみで意味のないものは言語の要素ではないし,意味のみで音のないものも言語とは呼ばないのが普通である。
 言語の意味に普遍性があるということは,統語論の対象とするものより直観的にわかりやすいだろう。人間のように発達した知性をもった生物が,言語をコミュニケーションの手段として使って科学やビジネスを発達させ,文明を維持していけたのも,言語の意味に関する普遍性があったからこそである。
 しかし,言語の意味というものを直観以上のものにして,形式的に捉えるのは想像以上に難しい作業である。大雑把にいって,統語論的の形式的なやり方に準じて,意味を形式的に記述することを試みる形式意味論の立場と,後述の運用論(語用論)と近い立場から,人間の一般的な認知的メカニズムに照らして意味を記述していこうという認知意味論(認知言語学ともいう)の立場があり,今日,両者ともに盛んに研究が行われている。
【言語使用の普遍性】
いうまでもなく,言語は,それを使う人間なしでは存在し得ない。しかし,音韻論,統語論,(形式)意味論の研究対象としては,言語というものが,ある種の抽象的な存在として人間とは独立にあるとしても研究は成り立つ。それに対して,言語を使う場合の人間的な側面を研究する運用論(語用論ともいう)という分野では,話し手と聞き手という人間の関わりを無視することはできない。運用論は,統語論や形式意味論と比較すると,形式的な理論が成り立ちにくい分野である。しかし,多少非形式的であっても,統語論や意味論以上に人間の間の普遍的な性質が浮かびあがりやすい分野であるともいえる。たとえば,協調の原則というものが地球人同士の会話の場合には通常働いているという考え方がある。つまり,普通,人間は,相手にわからせようとして言語を発しており,聞く方も,相手の言うことをわかろうとして,その意図を察するというのである。
 協調の原則には,〈本当のことを言え〉という質に関する原理,〈余計なことは言うな,必要なことはみな言え〉という量に関する原理,〈関連のあることを言え〉という内容に関する原理,〈わかりやすい言い方をしろ〉という話し方に関する原理がある。これはいずれも,きわめて常識的なことであるが,興味深いのは,人間は,わざとこの協調の原則に反するような言語の使い方をすることがあるということである。しかし,その場合に,聞き手が,たとえば,相手が悪意をもっていると感じるとしたら,それは協調の原則が守られることを前提にしているからであり,また,逆に,悪意を感じるのでなく,話し手が直接言葉にできない裏の意味を感じることがあるのも,協調の原則を破るからにはそれなりの理由があるからと解釈するからである。協調の原則の中でも関連性原理は応用範囲が広く,一つの確立した理論となっている。
【普遍文法】
このように,宇宙人の目から見ると,地球人の言語には,言語のどのような側面においても,普遍的な性質があることがわかってきた。そのような普遍性は人間の間で共有され,類人猿など,人間以外の生物には観察されない。このような普遍性が存在することは単なる偶然なのだろうか,それとも何か根源的な理由があるからなのだろうか。1950年代にアメリカの言語学者チョムスキーが提唱し,今日盛んに研究されている言語理論である生成文法の考え方によると,それは,成長するにつれて言語を使うことができるようになる能力が,人間のみにあって類人猿にはないからである。
 人間の子どもも,生まれたばかりでは言語を使うことはできないが,1歳ぐらいになると,言語として用いる音を,大きく,明瞭に発音することができるようになる。そして,2歳から3歳になるにしたがって,1語文といわれる,一つの単語だけの文(たとえば〈マンマ〉〈オモチャ〉)から,2語文といわれる,物の名前やそれに対する行為を組み合わせた文(たとえば〈ワン イヤ〉(犬 嫌)〈パパ ゴホン〉(パバのご本)〈ママ アッチ〉など)に発達していく。
 2語文や3語文程度は,チンパンジーでも図形言語で表現することができるようになる。しかし,3歳をこえた子どもは急速に複雑な文を話すようになり,たとえば,4歳近くの子どもによって,〈カヨ オタンジョウビクルト ヨッツニ ナルノ〉というような,条件を表す文が,より大きな文の一部分として埋め込まれているという複雑な構造をしている文が発せられているのが観察されている。類人猿にはとてもこのような複雑な文を図形言語で表現することはできない。それに対して,母語の習得がうまくいかなかったという子どもは,人間の子どもならば(言語障害をもって生まれない限り)少ない。大人になってからは,どれだけ時間をかけて外国語を勉強しても,外国語の習得には一定の限界があることとは大きな違いである。
 今のところ,これを一番合理的に説明できるのは,言語に遺伝的なものを認めるという考え方である。類人猿は遺伝的に体の構造が人間と違う。こういう形態的な差が遺伝によるとすることには誰も異存はないだろう。チョムスキーは,言語についても,人間にのみ遺伝的に備わっているある種の認知能力をつかさどる部分が脳内にあると考え,言語機能と名づけた。
 言語の獲得に遺伝的なものが一切働かないと考えると,すべてを生まれてから学習することになるが,チョムスキーはこのような伝統的な考え方に対して,〈プラトンの問題〉という重大な問題があると指摘した。つまり,親は,学校の先生のようには子どもに言語を教えない。そればかりか,自分自身はたえず間違った言い方をしており,その意味では,子どもにとっては親の言語は非常に貧しい刺激でしかない,というのである。そのために,プラトンの記録したソクラテスの故事にちなんで,親が実際にしていることは,子どもがあらかじめ脳の中にもっているものを適切な刺激で外に引き出すことにすぎないと考える。
 しかし,言語が遺伝するとすると,いくつか問題がないわけではない。一つは,子どもは必ずしも親と同じ言語を話すようになるとは限らない,ということである。もちろん,たいていの場合,子どもは親と一緒に暮らすので,親と同じ言語を話すようになることが多いが,そうでない場合もある。たとえば,両親の話す言語と家の外で人が話す言語とが違う場合,子どもは二つの言語を同じような流暢さで話すようになり,いわゆるバイリンガルになる。これが極端な場合になると,生まれてすぐに両親と離れて,両親と違う言語を話す環境で育てられた子どもは,両親の言語は話すようにならず,周りの環境の言語だけを話すようになる。つまり日本人を両親にもつ子どもでも,遺伝的に日本語しか話せないのでなく,周りの環境によって話せるようになる言葉が変わるのである。
 これは,言語機能が遺伝的であっても,それがそのまま最終的に獲得される個別言語を遺伝的に決定するからではないからである。つまり,子どもに遺伝的に備わっているのは,どんな言語でも学ぶことができる潜在的な能力のみであり,子どもはそれを使って,周りの環境に合わせてどんな言語でも話せるようになるのである。このことをチョスムキーは,子どもには,普遍的な文法が生まれながらに備わっており,パラメーターの値の設定しだいで,どのような個別言語の文法にもなり得るのだと説明している。
 普遍文法なるものが存在し,わずかの刺激から子どもが一般的な法則を導き出し,親たちのデータを矛盾なく説明できるような最も合理的な文法を自分の頭の中に作ろうとしていることの間接的な証拠としては,子どもが,親が教えもしない,独自の言い方を作り出すことがある。たとえば,日本語を話す子どもは,たいてい,可能形として〈書けれる〉などの言い方を一時的にするが,これは〈れる〉に可能の意味があるということに気づいて,それを過剰に一般化して使うからである。つまり,子どもは決して親の口まねで言語を覚えるのではなく,親の間違いを訂正しつつ言語を獲得するのである。さらに,親は子どものお手本などではなく,パラメーターの値の設定のヒントを与える貧しい刺激を提供するにすぎない。子どもは,一時期,親たちの文法の不合理な点を勝手に修正してしまったりもするのである。
 以上の考察より,普遍文法の形はかなり制約されていることは明らかである。個別言語に依存した情報が盛り込まれていてはならず,できるだけ一般的な原理という形をしていなくてはならない。しかし,普遍文法の実際の形がどのようなものであるのか,ということに関しては,残念ながら,今の段階ではあまりはっきりしたことはいえない。ただ,非常に速い進度で研究が進んでおり,特に,近年,脳の周りの磁気を測定するなどの方法で,言語を使っているときの人間の脳の活動はどのようなものなのか,ということがだんだんとわかってきている。21世紀には,言語とそれをあやつる脳について,今よりずっと詳しいことがわかっているだろうと期待できる。
⇒生成文法
【言語と心/脳】
以上概観してきた生成文法の考え方が,それまでの言語学のやり方と一番大きく異なる点は,ひと口でまとめると,言語学の研究対象を言語(外在的言語,E-言語)から文法(内在的・内包的言語,I-言語)へと転換したことである。ここで,外在的言語というのは,それ以前のアメリカ構造主義などがもっぱらの研究対象としていた,人間の外に存在するものとしての言語のことであり,たとえば,録音した音声とか,紙に書いた文字である。これに対して,内在的・内包的言語というのは,人間の頭の中にあるもので,言語の音と意味とを関連づける規則の体系を指す。
 チョムスキーは,言語を研究するときに問題となるべきこととして,次のような段階的な目標を挙げた。
(1)言語を話し理解することができるときに私たち人間の心/脳には何があるのか。どのような知識のシステムがあるのか。
(2)この知識のシステムはどのようにして心/脳の中に獲得されるのか。
(3)この知識はどのようにして発話において使用されるのか。
(4)この知識のシステムの表現,獲得,使用の物質的基礎となる脳内のメカニズムは何か。
(1)で〈心/脳〉というのは,機能としての心と,それを支える構造としての脳という二つの側面を統一的に捉えた言い方である。現在までの研究は,(1)と(2)に対してある程度の仮説(すでにみた,普遍文法とパラメーターという仮説)を提案するまでにいたっているが,それは,物質的な脳というよりはそれを抽象化した心というレベルでのモデルであり,(4)の段階にいたって初めて,脳という物質的なレベルでの解明が行われることになる。
 言語の使用に関しては,チョムスキーが〈デカルトの問題〉と呼ぶ問題がある。これはデカルトやその弟子たちの考え方として紹介されているが,言語使用には創造的な側面があり,常に新しい表現が発せられ,それが理解されているという事実である。したがって,言語現象は本質的に無限であり,可能な言語表現には限りがない。一方,その無限の現象を処理する人間の脳の容量は有限である。このことから,普遍文法を基にして人間の脳の中に形成される文法は,言語現象をすべて記憶しているリストのようなものではなく,何かそのつど言語表現を生成できるようなシステムに支えられたものでなければならないことになる(生成文法という文法理論の名前も,文法のこのような捉え方に由来している)。このような,言語の無限性を捉えることができるような有限の計算機構には,自らを繰り返し使用していくような再帰的なメカニズムが含まれていると考えられており,統語論を中心にその具体的な姿がある程度明らかになっている。
 以上から,チョムスキーが,上に提示した四つの問題に対して与えた解答は,次のようにまとめることができる。
(1)言語知識は,心/脳の中にある内在的言語(文法)である。
(2)言語知識の獲得は,生得的な普遍文法に対する,個別的な変異のパラメーターの学習によって行われる。
(3)言語の使用は,このような有限の知識の再帰的な使用によって実現される。
(4)言語の脳内の物質的基礎の研究は依然として,ほとんどわかっておらず,将来の問題である。
チョムスキーは,上のような仮説のもとに,1950年代の第1次認知革命により,まず,人間の文法を有限の規則の体系として書くことを提案した。後に,それでは子どもの言語獲得をうまく説明できないとして,1980年代に第2次認知革命を起こし,文法を原理の体系として再編成した。現在は,さらなる大原理の体系として文法をいっそう抽象度の高い体系に構成しつつある。⇒言語学∥言語獲得∥失語症               郡司 隆男

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倫理学はノイラートの船か?(その6) [宗教/哲学]


景気循環
景気循環論

けいきじゅんかんろん
theory of business cycle

  

景気循環現象の発生要因を明らかにし,それら要因の組合せによって循環現象を考察する経済学の一分野。経済学史上景気の問題が初めて激しい経済学議論の対象となったのは,ナポレオン戦争後の過渡的恐慌の性格をめぐって,セーの法則 (販路説) をとる D.リカード,J.B.セーらが一般的過剰生産の不可能性を説き,他方 T.マルサスらがこれを否定して可能性を主張したときである。 1825年から資本主義の周期的恐慌 (景気循環) が始るが,この頃までにセーの法則が正統説となっており,まだ周期性については論じられていなかった。 J.ミルの『経済学原理』 (1848) では景気循環 (当時は商業循環,信用循環,商業恐慌ないし信用恐慌の循環性という形でとらえられていた) 問題も取上げられたが,周期的恐慌ないし景気循環を資本主義経済の本質的属性とみなした最初の経済学者は K.マルクスである。しかし,景気循環分析の始祖と通常考えられているのは景気の中期波動 (主循環) の発見者 C.ジュグラー (『フランス,イギリスおよびアメリカにおける商業恐慌とその周期的回転』〈62〉) で,この景気波動は彼の名にちなんでジュグラー・サイクルと呼ばれる。 1910年代になると限界革命の影響を受けた若い経済学者の間で景気現象が注目されはじめ,J.シュンペーターの新機軸説 (『景気循環論』〈1939〉) ,R.ホートリーの貨幣的景気理論,A.ピグーらの心理説,J.ホブソン,マルクス経済学者らの過少消費説,L.ミーゼスや F.ハイエクらの過剰投資説など,景気循環の原因についてさまざまな説が唱えられた。 30年代以降は J.M.ケインズの『雇用・利子および貨幣の一般理論』が決定的影響を与え,さらに景気循環の動学的分析の手法を確立した R.フリッシュや J.ウィクセルに始る北欧学派の貢献などをも媒介にして,J.ヒックス,P.サミュエルソンらのケインズ学派は投資関数と消費関数を中心とする景気循環のモデルを展開。乗数効果 (投資の所得造出効果) と加速度原理 (所得の投資誘発効果) の相互作用から景気現象を説明するモデルなどが第2次世界大戦後多数つくられている。特に投資関数の非線形性を強調するモデルを用いるものは非線形景気循環論といわれる。





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[ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 2008]


景気循環
I プロローグ

景気循環 けいきじゅんかん Trade Cycle 生産や消費などのマクロの経済活動が活発になったり、停滞したりする状況が周期的にくりかえされること。景気変動ともよばれ、資本主義経済に特有のものと考えられている。ひとつの周期で経済活動がそのピークをしめす状態を景気の山、反対にもっとも停滞した状態を景気の谷とよんでいる。また、ふつう景気の谷から山にむかう期間を好況、反対に山から谷にむかう期間を不況という。

II 4つの波

景気循環には、その周期をもとにしていくつかの種類があると指摘されている。第1に、かつてのソ連の経済学者コンドラチェフが発表した長期循環がある。これは、通常コンドラチェフの波とよばれ、48~60年の周期をもつものとされている。その第1の波は1780年代から好況をむかえ、1817年ごろに景気の山を記録し、40年代にかけて不況をむかえた動きである。第2の波は、40年代からの上昇局面にはじまり、75年ごろに景気の山をむかえ、90年代にむかって下降した周期である。第3の波は、19世紀末から1920年代にむかっての上昇局面とその後の下降局面である。

コンドラチェフ自身の考えは1920年に発表されたものであり、その後の循環については自身が分析したわけではないが、73年の石油危機の直前を景気の山とする1周期があったとする見方もある。このコンドラチェフの波の発生する原因は、鉄道や蒸気機関の普及、自動車の普及といった新技術、新製品の開発にあると考えられる。また、1814年のナポレオン戦争、65年のアメリカ南北戦争などの影響も指摘されている。しかし、このような長期循環が世界的規模でおこっているという点には疑問をもつ学者が多い。

第2の景気循環の類型としては、およそ15~25年の周期をもつとされるクズネッツの波があげられよう。これは人口の変化を背景に、とくにアメリカなどで顕著に観察された。この循環の原因は移民などによる人口の社会的増加、それにともなう住宅建設投資であるとされる。すなわち、移民として流入した人々は新たに住宅を建設し、それを原因とした景気の拡大が生じるが、その子供たちの世代が独立するころにふたたび住宅建設が活発化する。このような状況がくりかえされることによって景気循環が生じるというのである。

第3の景気循環の類型としては、主循環ともよばれるジュグラーの波がある。これは、設備投資とその減耗にともなう更新投資によって生じるものと考えられ、ふつう、たんに景気循環というときはこれをさすことが多い。ジュグラーはフランスの経済学者で、19世紀後半にこの景気循環に関する考え方を発表した。さまざまな経済指標の動きを分析したもので、今日でもその分析手法については評価されている。ジュグラーの波の周期は、およそ7~10年とされている。

第4に、キチンの波という短期循環がある。これは、およそ40カ月の周期をもつ循環で、在庫の増減にともなって生じるものとされており、在庫循環ともよばれている。この循環は、景気が後退局面にはいると在庫が増加し、それを減少させるために生産の減少や在庫の安売りをおこない、不況に突入することになる。この在庫調整がおわってから生産が増加しはじめると、景気は上昇局面にはいることになる。

III 景気循環の理論

経済学者が景気循環の原因に関心をもちはじめたのは、19世紀末から20世紀初頭にかけてであった。イギリスの経済学者ジェボンズは、太陽黒点説をとなえ、一時ひろくうけいれられた。黒点がでている時期は天候が悪化し、穀物は量、質ともに影響をうけるので、それが経済の変動をもたらすとジェボンズは考えた。同じくイギリスの経済学者ピグーは、経済界のリーダーが楽観的になったり悲観的になったりする心理的要因が、経済の流れに影響をあたえるという説をたてた。

イギリスの経済学者ホブソンが確立した過少消費説によれば、所得の不平等が経済の衰退をひきおこす。まずしい者は消費に余裕がなく、豊かな者は所得の一部を消費にまわすだけなので、市場は供給過剰になる。その結果、商品需要が不足するため、豊かな者は貯蓄にはげんで生産に再投資しないからである。この貯蓄の増加が経済的均衡をくずし、生産縮小のサイクルがはじまる。

オーストリアからアメリカにわたり革新理論を提唱したシュンペーターは、景気の上昇を、資本財生産を刺激する新しい発明や革新的企業家の行動と関連づけた。革新は連続しておこるものではないので、景気は拡大したり収縮したりせざるをえなくなる。

オーストリア生まれの経済学者ハイエクとミーゼスは、貨幣的過剰投資説をとなえた。彼らは、資源利用がこれ以上ひきあげられない地点まで生産が拡大すれば、経済が不安定になるのは論理的な帰結だという。こうして生産コストはあがり、このコストを消費者に転化できない場合は生産者は生産を縮小し、労働者を解雇する。

マネタリスト(→ マネタリズム)の景気循環説は、マネーサプライの重要性を強調する。多くの企業は生産のために資金をかりなければならないから、貨幣をいかに簡単にやすく調達できるかが彼らの決定に影響する。ホートリーは、利子率の変動が経営者に投資の増減を決定させ、景気循環に影響をあたえるという。

IV 加速度原理と乗数理論

すべての景気循環理論の基礎には、投資と消費の関係がある。投資にはいわゆる乗数効果がある。乗数効果とは、たとえば公共投資や労働者への賃金のような投下された資本が消費にまわされることによって次の生産を刺激し、それがまたより大きな消費を生む、というものである。同様に、消費にあてられる所得水準の上昇は投資に加速度効果をもたらす。需要が大きくなればそれにみあうように生産も拡大し、それがより高い投資意欲をつくりだすのである。

しかし、乗数効果と加速度効果は否定的な方向へもはたらく。投資の縮小はよりはげしい総所得の減少をまねき、消費需要の縮小は投資をいっそう減速させる。

ケインズが着目した乗数理論に加速度原理をくみあわせて景気循環理論にとりくんだのは、イギリスの経済学者ハロッドやサミュエルソンである。

V 新しい理論

近年の景気循環理論の発展としては、リアル・ビジネスサイクル論をあげることができる。これは、合理的期待形成学派などをふくむ新しい古典派や、ニューケインジアン(新しいケインズ派)との間での議論から生まれた考え方である。すなわち、技術水準や労働者の労働意欲といったリアルな要因が景気循環を生ぜしめる重要な要因となっているというものである。


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景気循環
けいきじゅんかん business cycles

近代の歴史的経験によると,人々の経済活動が市場を中心として行われるようになるのにともなって,全体としての経済活動は一様な成長を示すのではなく,そこに上昇期と沈滞期とが交互に,しかもある程度安定した周期をもって現れることが明らかとなった。たとえば W. S. ジェボンズは,16世紀初頭から1866年ないし67年にかけて,約10年の周期で恐慌が発生したとしている。このような経済の時間を通じての変動が,景気循環とよばれる現象と関係している。
 一国の経済活動の大きさは,そこで取引されるいろいろの財・用役(サービス)の取引量,ないし取引金額,すなわち,取引量に取引価格を掛けた値の大きさでとらえることができる。そして,それぞれの財・用役の取引量と価格は,その財・用役の市場での需要量と供給量の間の調整過程で変動する。ある財,あるいは用役の需要と供給がその市場で出会い,ある価格である数量だけ取引される。この場合,需要量と供給量とは,つねに一致しているわけではない。そして,需要が供給を超過し,超過需要がある場合には,供給量そのものより,むしろ供給量の増加率(成長率)が大きくなり,したがって取引量の成長率が上昇し,また価格そのものより,その上昇率(インフレ率)が高くなる傾向がある。逆に,供給が需要を超過し,超過供給がある場合には,供給量の成長率が低下し,したがってまた取引量の成長率が低下し,価格のインフレ率が減少する傾向がある。これが市場での需給調整過程である。景気循環現象は,市場のこの需要調整過程に関係すると考えられる。
【景気循環の定義】
 ところで,いろいろの財・用役は,大別すると生産物,資金,労働の3者に区分することができる。そこで,景気循環を次のように定義することができよう。すなわち景気循環とは,生産物,資金,労働の3市場における物価,利子率,賃金率という価格変数のインフレ率,および産出量,資金量,雇用量という数量変数の成長率に,ほぼ同時的に現れる循環的変動状況であり,それにはある程度安定した1年以上の周期がある(藤野,1965)。これに対してバーンズ A. F. Burns と W. C. ミッチェルは,1947年に次のように定義している。景気循環は,主として私的企業により,その活動を組織する国々での全体としての経済活動にみられる変動の一つの型である。一つの循環は,多くの経済活動においてほぼ同時的に起こる拡張,後退,収縮,回復から成り,回復は次の循環の拡張局面につながっていく。この変化の継起は再起的ではあるが,周期的ではない。すなわち,景気循環の期間は,1年以上の長さから10年ないし12年の長さまで変化する。すなわち,第1に,バーンズとミッチェルは,経済量の成長率と価格のインフレ率にみられる同時的変化として景気循環をとらえるのではなく,経済量なり,価格水準などの絶対的な大きさの同時的変動として景気循環をとらえた。そして第2に,彼らは,景気循環にある程度安定した周期があるとは考えなかった。
 まず,第1の点については,次のような問題がある。財・用役の生産量などの数量的な大きさ,たとえば実質 GNP(国民総生産)は,長い目でみて成長趨勢(すうせい)を示す。そして,高成長の時期,あるいは高成長の経済では,実質 GNP の絶対水準は低下しない(成長率がマイナスとならない)という現象が起こる。たとえば,第2次大戦後の日本,アメリカ,西ヨーロッパの諸国でそのような現象がみられた。すなわち,これらの国々はある時期には高い成長率で,そして他の時期はプラスの,しかし低い成長率で成長してきた。この場合,これらの国々で景気循環は消滅してしまったのであろうか。これらの国々では戦前に引き続き戦後も市場で財・用役の需要と供給とが調整されてきた。しかし,戦後の高成長期には,その需要調整過程で生産物の産出量の成長率はただ若干低下するだけで,マイナスとはならなかったと考えるべきであろう。そうすると,バーンズやミッチェルのように,いろいろの経済量の絶対的水準の動きによって景気循環をとらえることには問題が起こる。また,経済の循環的変動の動きと成長の動きをそれぞれ別個の理論で説明するのではなく,統一的に説明しようとすれば,絶対水準ではなく,成長率ないしインフレ率を景気循環をとらえる尺度としなければならなくなる。
 バーンズとミッチェルが拠(よ)った〈全国経済調査会 National Bureau of Economic Research(NBER)〉に属するミンツ I. Mintz は,成長循環growth cycle なる概念を唱え,景気循環に関するバーンズとミッチェルの定義を経済活動の絶対水準ではなく,その成長率で再定義している(1970,72)。これは,NBER の研究者もバーンズとミッチェルの定義を放棄し,藤野の定義に近い定義をとるにいたったことを示している。
【景気循環の周期性】
 しかし,バーンズとミッチェルにしろ,またミンツにしろ,彼らの定義では景気循環の周期性が認められていない。これが第2の点についての問題である。だが,市場の需給調整過程には,後に明らかにするように,理論的に考えて,比較的速やかに進行する側面,より緩慢に中期的に進行する側面,そしてさらにより長期的に進行する側面がある。そしてまた,事実的にみて,景気循環には,3~4年の周期をもったもの,10年前後の周期のもの,そして20年前後の周期のものが観測されている。
 さきに述べた10年周期の恐慌の観察を拡充し,フランス,イギリス,アメリカについて物価,利子率の変動などの動きを検討し,7年から10年くらいの周期をもった経済活動の循環運動を1880年代に発見したのは,フランスの経済学者ジュグラーC. Juglar(1819‐1905)である。J. A. シュンペーターは,この循環を彼の名にちなんでジュグラー・サイクルとよんだ。
 ところが,1920年代にはいって,キチン J.Kitchin(生没年不詳)が,アメリカとイギリスにおける1890‐1922年間の手形交換高,物価,利子率の変動を検討して,ジュグラー・サイクルのほかに平均40ヵ月の周期をもつ循環があり,一つのジュグラー・サイクルはしばしば3個の小循環,ときとして2個の小循環からなっていることを発見した。同様な循環がほぼ同時にクラム W. L. Crum により1866‐1922年のニューヨークの商業手形割引率の分析によって明らかにされた。これがキチン・サイクルである。
 他方,1913年,物価の動きを調べていたオランダのヘルデレン J. van Gelderen は,物価に上昇と下降に数十年かかる長期波動のあることを発見した。その後,22年,ロシアの経済学者コンドラチエフ N. D. Kondrat’ev は,イギリス,フランス,アメリカなどの卸売物価指数,公債価格,賃金率,輸出入額,石炭生産量,銑鉄生産量などを分析して,50年前後の長期波動のあることを主張した。これは,コンドラチエフの波,あるいはコンドラチエフ・サイクルとよばれている。
 さらに,1920年代の終りから30年代の初めにかけて,いま一つのサイクルが検出された。27年,ワードウェル C. A. R. Wardwell は,アメリカの10個の時系列を分析し,銑鉄生産量の8.96年から破産企業の総負債額の19.33年にわたる平均15年よりやや短い周期をもつ循環運動を発見し,これを〈主〉循環 major cycle とよんだ。主循環とはジュグラー・サイクルのことを意味していたので,ワードウェルは,ジュグラー・サイクルより長く,コンドラチエフ・サイクルより短い周期の循環運動の現れているのに気づかなかった。
 1930年になると,S. S. クズネッツは,アメリカ,イギリス,ドイツ,フランスなどのいろいろの商品の生産量と価格の系列からトレンドを除いた後に,20年を少し上回る平均周期をもったサイクルを発見した。彼は,このサイクルをコンドラチエフ・サイクルと同じ種類のものと考えていた。しかし,リグルマン J. R. Riggleman がアメリカの建設活動を分析し,平均17年周期のサイクルを発見してから,20年前後の周期のサイクルは,建設ないし建築活動との関連からみられるようになった。このサイクルは,クズネッツの名にちなみ,クズネッツ・サイクルないしクズネッツ循環とよばれ,またときに長期波動 long swing ともよばれている。
【需要と供給の調整過程】
 物々交換の経済では,交換の相手方を発見するのが困難であり,そこに不確実性をともなう。貨幣経済は,物々交換における取引の不確実性を軽減するため,人々が,ある特定財(貨幣)を一般的交換手段として授受することに合意することによって成立する。このことの結果として,貨幣は他の財に比して隔絶した地位を占めることになり,貨幣を提供して財を獲得する行為,すなわち財への需要は,容易に実現されることになる。しかし,財を提供して貨幣を獲得する行為,すなわち財の供給は,貨幣より流動性の低い財を最も高い流動性をもつ貨幣に換えようとする行為であり,交換の相手方である需要者を見つけ出すのは必ずしも容易ではない。つまり,貨幣経済では,財の供給者の立場からみて財の需要には不確実性がともなう。そこで,財を供給する企業は,不確実な需要量の大きさに制約されて生産活動を行うことになる。
 さて,市場で財の需要量と供給量とが食い違った場合,その間の第1次的調整としては,三つのしかたがある。第1は,生鮮食料品など貯蔵の困難な財の場合に典型的に起こる調整のしかたであり,超過需要があれば価格が急速に上昇し,また超過供給があれば価格が敏感に下落するケースである。これにより,需要量の減少と供給量の増加が促進される。
 第2は,企業が需要の不確実性に備えて,生産物の在庫をもち,需要量が予定した供給量を超える場合,製品在庫を取りくずして需要量を満たそうとし,また予定した供給量が実際の需要量を超える場合には,その差を製品在庫に吸収し,市場での取引量をできるだけ需要量の大きさに即応させようとする調整のしかたである。
 第3は,需要される財に個々の需要者の細部に関する特別の希望があるため,顧客の注文を待って財の生産が開始される場合であり,この場合には,企業は需要を一度その受注残高に吸収して,その生産量と需要量の間の調整を行っている。この調整のしかたは,造船業や重電機製造業,あるいは住宅やその他建物・構築物の建設業などにみられる。
 今日の生産活動の圧倒的な部分は,もちろん第2の調整のしかたがとられる生産活動によって占められている。貨幣を提出してその他の財を獲得するという需要活動が容易に実現されるのが,貨幣経済の特性である。貨幣経済のこの特性は,生産活動が第2のしかたで行われることによって大きな支持を受けることになる。そこでは,企業は,不確実な需要量について予想を立て,それにもとづいて行動する。その結果,実際の需要量がその供給予定量と相違すれば,製品在庫量でその間を調整するが,それと同時に,次の生産計画では,この経験にもとづいて需要量の予想される大きさについての想定を改めて,生産計画をこの新しい想定に調整しようとするであろう。そこではまた,需要量の新しい想定に対応して,新しい製品在庫保有量が計画されるであろう。そこで,製品在庫水準の変動を媒介として市場での需要量と供給量,ないし生産量の調整が進行する。いずれにしても,その時々の需要量に,その時々の供給量,ないし生産量を調整しようとするこの種の第1次的調整は比較的速やかに現れる。
 生産物の需要量と供給量との間の調整には,以上の第1次的調整より,より時間のかかる第2次的調整がある。企業は,不確実な需要に対処するため,製品の在庫をもっている。そしてそれに加えて,予備の生産能力をもっているのである。たとえば,需要量が供給量を超過すれば,差し当たって,製品在庫を取りくずして,需給ギャップに対処する。そして次には,生産設備の稼働率を高めて,生産量を拡大し,それによって需給ギャップへの対応を進めようとするであろう。
 この場合,企業の予備の生産能力の大きさは減少することになる。しかし,だからといって,予備の生産能力の大きさを需要量の拡大に見合って,直ちに拡張しようとするわけではない。企業が,不確実な需要に備えてその製品在庫水準を調整しようとする場合に比べて,その生産設備の水準を調整するには,より慎重である。それは,製品在庫の大きさは,相対的に低いコストで変更できるのに対して,生産設備の大きさを変更するにはより多額の支出を必要とし,しかも,一度,設備の大きさを拡張すると,それを縮小するには製品在庫の場合より長い時間を必要とするからである。
 企業の生産能力は,機械関係の設備,すなわち生産者耐久施設と,それらを入れる器としての工場・建物などの構築物とからなっている。そして,既存の工場内で生産者耐久施設の大きさを変動させるより,新しい工場を建設する場合のほうが,一度により多額の支出を行わなければならないであろう。そこで,機械関係の設備投資より,建設関係の投資のほうが一つの財として分割可能性が小さく,需要量の変動に対して,それだけ長い調整時間を必要とするであろう。つまり,需要量が増加し,生産能力の不足がみえはじめたとき,機械設備の増加によって既存の工場内での生産能力を増加させることは,新工場の建設によって生産能力を増加させることに比べて,より速やかに行われるであろうということである。そこで需要と供給の間の第2次の調整としては,機械設備水準の変動をともなう調整が,第1次の製品在庫水準の変動をともなう調整より,より長い調整時間をもって現れる。
 需要量と供給量の間の調整は,以上の第2次的調整から,より外延的な生産能力の変動をもたらす第3次的調整へと広がっていく。上にみた工場・建物などの建設活動がこれに関連する。ここでは,工場数の変動だけでなく,新しい企業の設立,既存企業の消滅など,企業数の変動も起こり,企業の産業間の移動という調整現象が発生する。それとともに,民間企業を中心とした民間部門の活動の変化に応じて,それを入れる器としての公共財,たとえば道路の大きさに変化が要請され,政府の建設投資に変動が生ずる。したがって,需要と供給との間の,第2次的調整より,より長い調整時間のかかる第3次的調整は,一国の建設資本ストックの大きさの変動,つまり建設投資の動きを通じて進行する。
【循環的変動の周期性】
 以上の検討により,生産物の需要と供給の第1次的調整では,製品在庫水準の変動と在庫投資の動きが,第2次的調整では,生産者耐久施設ストックの変動とこの関係の設備投資の動きが,そして,第3次的調整では,建設資本ストックの変動と建設投資の動きが密接に関係していることがわかる。そして,実際の投資の動きをみると,在庫投資は3~4年の周期の,生産者耐久施設は10年前後の,そして建設投資は20年前後の周期をもって変動していることを発見するのである。
 戦後の日本での民間投資の動きによってこの点を明らかにしよう。このため,図1には戦後の日本における各種の民間投資の GNP に占める割合の動きが示してある(1964年までは旧国民経済計算による計数であり,65年以降は新国民経済計算による計数である)。このうち,民間在庫投資・GNP 比率は,4年前後の周期で変動を繰り返している。第2に,民間企業設備投資・GNP 比率は,1955年の谷から出発して,65年の谷を経て,さらに78年の谷にいたっており,10年前後の周期の循環的変動を示している。この民間企業設備投資には,機械関係の生産者耐久施設のほかに建設投資が含まれている。そこで民間企業のうちの法人企業について,その総固定資本形成の中で機械設備等の投資の占める割合がどのように動いているかを調べてみよう(旧国民経済計算の計数による)。これは,図1の最上部でみられるように,1965年と75年で谷を示し,そして民間企業設備投資・GNP 比率が1965年と78年の谷の中間で最高水準を示す1970年には,やはりピークに到達していたのである。したがって,民間企業設備投資の中で機械関係の設備投資をとり出せば,その対GNP 比率はより明確に10年前後のサイクルを示すであろう。また民間企業設備投資・GNP 比率の1965年の谷は,1955年および78年の谷に比べて落込みが小さい。この動きと法人企業の総固定資本形成中の機械設備等の投資割合の動きを併せ考えると,もし民間企業の建設投資だけをとり出せば,その対 GNP 比率での1965年での落込みは小さく,その比率は,1955年ころから78年ころにかけて20年程度のサイクルが明りょうに示すと推定される。
 民間住宅投資・GNP 比率は,民間企業設備投資・GNP 比率より遅れて動いているようである。そしてそれは,多分,戦後の復興期の後に,1958‐59年から81年ころにかけて一つのサイクルを描いたと考えられる。すなわち,それは企業の建設投資とほぼ同様の変動パターンを示しているのである。
 かくして,在庫投資が4年前後の周期でサイクルを描き,機械関係の設備投資が10年前後の,そして建設投資が20年前後の周期の動きを示していることが明らかになった。このことは,製品在庫水準,機械設備資本ストック水準,建設資本ストックのそれぞれの変動を媒介として行われる生産物市場の需給調整における調整速度に違いがあり,製品在庫をめぐる第1次的調整は,機械設備をめぐる第2次的調整よりより早く進行し,第2次的調整は建設資本ストックをめぐる第3次的調整よりより急速に進むことを明示している。
 以上の生産物の需給調整過程を,さきにみた3~4年の周期のキチン・サイクル,10年前後の周期のジュグラー・サイクル,そして20年前後のクズネッツ・サイクルと対応させて考えると次のようにいうことができよう。すなわち,製品在庫の変動が重要となる需給調整過程ではキチン・サイクルが,機械設備の変動が重要となる需給調整ではジュグラー・サイクルが,そして建設資本ストックの変動が重要となる需給調整ではクズネッツ・サイクルが現れるということである。キチン・サイクルはときに在庫循環 inventory cycle とよばれ,またクズネッツ・サイクルは建設循環construction cycle とよばれる。それになぞらえていえば,ジュグラー・サイクルは設備循環equipment cycle とよんでもよかろう。あるいは,在庫循環を短期循環,設備循環を中期循環,建設循環を長期循環ないし長期波動とよんでもよいであろう。
 ここで戦前の日本経済についての検討にもとづき,中期循環と長期波動とに関して観測された事実を要約して示しておく。(1)長期波動は,通常,二つの中期循環からなり,その第1の中期循環では第2のそれに比べて経済活動の実質成長率とインフレ率が相対的に高くなる。(2)また第1の中期循環では機械設備ストックの成長率が,そして第2の中期循環では建設ストックの成長率が,相対的に高くなる。(3)法人企業数の成長率は長期波動を明示する。(4)法人企業の払込資本金(出資金),社債,積立金の合計でとらえた長期資金の成長率でみると,全法人,製造工業,商業では第1の中期循環でのその成長率ピークが,第2の中期循環でのそれより高くなる。他方,電力業,運輸業,金融業では,その成長率に長期波動がきわめて明確に現れる。(5)貨幣量と銀行貸出しの成長率は,全法人企業の長期資金と類似の動きを示し,他方,殖産興業目的のために発行された国債残高,および全地方債残高の成長率は,長期波動を明示し,第2の中期循環でピークをもつ。
 以上で述べた一つの長期波動の中でのその前半での動きと後半での動きは,さらに市場における需要と供給の調整が,第2次的なそれから第3次的なそれへと波及していくとしたことに,対応する現象ということができよう。
【世界の景気循環】
 ここで,戦前・戦後を通じてのヨーロッパ,アメリカ,日本での景気循環の姿について明らかにしておこう。戦前のヨーロッパ諸国やアメリカについての景気循環の山と谷の日付については,バーンズとミッチェルの研究がある。しかし,さきに指摘したように,われわれは景気循環への接近法に別の方法をもつ。そこで,ここでは,われわれが確定した景気循環の日付を示しておく。この場合,在庫循環に関する日付を問題にすることは,あまりに数多くのケースを含んで繁雑にすぎる。そこで設備ストックの変動を通ずる調整が中心的役割を果たすと思われるジュグラー・サイクル,すなわち中期循環(設備循環)について,景気循環の日付を示そう。
 ここでとろうとする方法は,なるべく多くの国について,なるべく同種のデータにより,なるべく同様のしかたによって,諸国ないし諸地域の景気循環の日付を確定することである。このためには,戦後については,OECD の《National Accounts ofOECD Countries》《Main Economic Indicators》により,OECD 加盟諸国の国内総生産(GDP),総固定資本形成(GFCF),産業生産指数などを相当数の国について戦後の相当期間にわたって知ることができる。それと同時に,ミッチェル B. R.Mitchell の《European Historical Statistics,1750‐1975》(再版1981)により,戦前の相当数のヨーロッパ諸国について,上のデータに対応する国民総生産(GNP),あるいは国民純生産(NNP),あるいは国内総生産の計数や,総固定資本形成,あるいは純固定資本形成等の計数,および生産指数などの計数が利用できる。そこで,これらの資料に,別のソースから戦前のアメリカと日本の対応する資料を付加して,ヨーロッパ,アメリカ,日本の戦前・戦後の中期循環の状況を調べた。
[ヨーロッパ諸国の景気循環]  まず,戦後のヨーロッパ諸国の中期循環について述べよう。中期ないし長期のサイクルは,固定資本形成に関するデータの動きに比較的明りょうに現れることが多い。しかも全体としての経済活動の中での投資活動の相対的な高まりの程度をみるには,GNPや GDP の中で,どれほどが固定資本形成需要を満たすために充てられているかをみるのが適当であろう。そこで,まず,OECD 加盟のヨーロッパ諸国について総固定資本形成・国内総生産比率(以下 GFCF・GDP 比率とよぶ)を計算した。この場合,ユーゴスラビアは社会主義国であるという理由により,またギリシアは西ヨーロッパの中心部から遠く隔離されているという理由により,われわれの検討範囲から除外した。
 この検討を通じて明らかになったことは,ヨーロッパ諸国の1952‐79年の GFCF・GDP 比率の動きにはいくつかのタイプがあるということである。まず第1は,GFCF・GDP 比率が明りょうに中期サイクルを示す国々で,その典型が西ドイツである。このグループに属するのは,ほかに,オーストリア,イタリア,ルクセンブルク,スイスである。これを西ドイツ型とよべば,ほかにこの西ドイツ型に準ずる二つのタイプがあり,その一つはベルギーとオランダの示すタイプであり,他はフィンランドとノルウェーの示すタイプである。これらの諸国以外のデンマーク,フランス,アイスランド,アイルランド,ポルトガル,スペイン,スウェーデン,イギリスでは,それらの GFCF・GDP 比率はほとんど中期循環らしき動きを示さないか,あるいは西ドイツ型と違った動きを示している。このうち,アイスランドは,後にみるアメリカ型の動きをみせているので,アメリカとともに検討する。
 そこで,西ドイツ型の諸国の場合と,西ドイツ型に準西ドイツ型の諸国も含めた場合とについて,それらの諸国での GFCF・GDP 比率に現れた中期循環の一般的状況を検討し,それによって,まずヨーロッパ地域における景気循環の状況をみることにする。この場合,検討対象とした個々のヨーロッパ諸国の GFCF・GDP 比率の動きから,ヨーロッパ地域全体での景気循環の状況をとらえるため,GFCF・GDP 比率にもとづく景気動向指数(ディフュージョン・インデックス,DI)を作成した。
 景気動向指数(景気指標)というのは,景気の動きを判断するために選ばれた複数個の経済指標系列のそれぞれについて,その数値が前月(あるいは前年)に比べて増加している場合には1の値を,増減のない場合には0.5の値を,そして減少している場合には0の値を与え,対象系列全体についてこれらの得点総計を対象系列数で割って,その結果を百分率で示したものである。この指数は0以上で100以下の値をとる。そして,それが,50より小さい値から50以上の値に変化するとき,景気はその谷に至り,そして,それが,50より大きい値から50以下の値に変化するとき,景気はその山をマークしたと考えられる。
 これは次の理由による。まず,景気の動きを判断するために選ばれた系列の大部分が前期に比べて増加しているときには,景気は上昇過程を続けていると考えられる。このとき,動向指数は50より大きい値をとっている。ところが,次に,その系列の中でしだいに減少に転ずるものが現れはじめ,そして半数が上昇傾向を示し,残りの半数が下降傾向を示すようになったとき,景気はそのピークにあることになる。すなわち動向指数が50より大なる値より50の値をとるとき,景気の山が現れる。そしてこの時点を過ぎると,今度は,選ばれた系列の中で,減少傾向を示すものの数のほうが多くなり,動向指数の値は50より小さい値をとる。この状態が続くかぎり,景気は後退を続けていると考えられる。しかしやがて,対象系列の中で減少より増加に転ずるものが現れはじめると,動向指数の値は大きくなり,それが50より小さい値から,50以上の値に転ずるとき,景気下降の傾向と上昇の傾向がちょうどバランスして,景気の谷に至ったと判断される。
 以上のような景気動向指数を,西ドイツ型のGFCF・GDP 比率の動きを示すヨーロッパ諸国および西ドイツ型に準ずる GFCF・GDP 比率の動きを示すヨーロッパ諸国について作成して図示したのが,図2である。ここには,西ドイツの GFCF・GDP 比率も示しておいた。
 西ドイツ型 GFCF・GDP 比率と DI(景気動向指数)は,オーストリア1952‐79年,西ドイツ1952‐79年,イタリア1952‐79年,ルクセンブルク1953‐79年,スイス1952‐79年の計数にもとづく。また準西ドイツ型は,ベルギー1954‐79年,オランダ1952‐79年,フィンランド1952‐79年,ノルウェー1951‐59年の計数にもとづく。
 景気動向指数は,50より大きい値から50より小さい値に転ずるとき,あるいは50より小さい値から50より大きい値に転ずるとき,必ずしもちょうど50という値をとるわけではない。そこで,景気の山と谷の判定において,原則として,時間の流れのうえで50以上の値の最終年を山の年,50以下の値の最終年を谷の年とした。
 以上の GFCF・GDP 比率と DI のほかに,各国の実質 GDP 成長率および産業生産指数成長率により,それぞれ景気動向指数を作成して循環的変動の状況を検討した。ただし,この種の成長率では,在庫循環の短期的変動が現れ,それにより中期サイクルの様態が不明りょうになるという問題がある。このため,各国の GFCF・GDP 比率の動き,および上に得た GFCF・GDP 比率 DI の山と谷の日付を参照して,成長率サイクルでの中期の変動の山と谷の日付を定めた。そして,谷から山へは,成長率はつねに上昇し,山から谷へはそれがつねに低下するという想定をとり,その下で動向指数を作成した。以上にもとづく戦後ヨーロッパの中期循環の山と谷の日付,および3個の DIの結果を勘案して定めた標準日付は,図5のようになる。なお,第2次大戦後,戦災から復興などの調整がヨーロッパ全体として終了し,中期循環の出発点となるのは1952年である。
[アメリカの景気循環]  次に,アメリカのGFCF・GDP 比率は,以上のヨーロッパ諸国のそれとは違った動きを示しており,カナダとアイスランドもアメリカ型の動きをみせている。そこでこれらによってヨーロッパの場合と同様に,GFCF・GDP 比率 DI,また実質 GDP 成長率 DI および産業生産指数 DI を作成した。GFCF・GDP 比率の動きでは,カナダのそれがアメリカのものよりより明りょうに中期循環を示すので,それと GFCF・GDP 比率 DI を示すと図3のようになる。そして図5のように中期循環の日付が得られる。このうち,標準日付の1949年の谷は,他の側面からの検討により確定した。
 OECD 加盟諸国の中で,西ドイツを中心とするヨーロッパの中期循環とも,あるいはアメリカを中心とするアメリカ型の中期循環とも違った動きを示すのは日本のそれである。
[日本の景気循環]  日本の GFCF・GDP 比率と実質 GDP 成長率を示すと図4のようになる。日本では,生産指数成長率より実質 GDP 成長率のほうが,中期循環の動きをみるには適当なようである。なお,図1に示した民間企業設備投資・GNP 比率のほうが GFCF・GDP 比率よりより明りょうに中期循環を示している。日本の GFCF・GDP 比率と実質 GDP 比率の動きより,日本の中期循環の日付は図5のようである。われわれは,第2次大戦前についても,以上とほぼ同様なしかたで,ヨーロッパ,アメリカおよび日本における中期循環の状況を検討した。そこで得られた中期循環の山と谷の日付を戦後のそれらとともに図示すれば,図5のようになる。1870年ころから第2次大戦までの全期間を通してみると,中期循環はほぼ同時的にこれらの3地域で出現していた。ことに景気の谷の時点についてそうである。ところが,第2次大戦後においては,1950年代の半ばより,日本→ヨーロッパ→アメリカの順に2~3年のずれをもって中期循環が発生しているようである。これは,景気の谷についてとくにそうである。
【景気循環の理論】
 さて,以上で検討した景気循環は,どのようなメカニズムの中から生まれてくるのであろうか。それが,市場での需給調整過程から生まれてくることは明らかであるが,そのプロセスをどのように説明すべきであろうか。3種の循環的変動が,在庫投資,設備投資,建設投資の動きと密接な関係をもっていることからもうかがわれるように,投資の動きが循環的変動の中で重要な役割を果たす。そこで現代の景気循環理論は,投資の変動の全経済に与える波及効果を説明する投資乗数の考え方を前提にして,投資の動きをどのように説明するかにより,いろいろのタイプのものに分かれている。
 このような景気循環理論は,体系の時間を通じての変動を示す定差方程式や微分方程式で表されることが多い。そして,大別して線形モデルと非線形モデルに分かれる。投資乗数と,加速度原理,すなわち所得ないし産出量の増加が投資を誘発する関係の二つを結合して得られる乗数・加速度モデルは,線形モデルとして示される場合が多い。その代表が P. A. サミュエルソンのモデルである。また L. A. メツラーの在庫循環のモデルもこの型のものである。この場合,循環的変動が,時間とともに発散するか,同一運動(単弦振動)を繰り返すか,あるいは減衰してついには消滅するかのいずれかとなる。発散の運動は現実にはみられないし,同一運動の繰返しは,体系がきわめて偶然的な状況にある場合しか生まれない。減衰する場合には,体系のいろいろの不規則な衝撃が加わるとすると,景気循環の永続を説明することができる。E. スルーツキーや T. ホーベルモの研究がそれである。
 しかしながら,景気循環の説明が不規則衝撃に依存してなされるということは,それがなお自己完結的ではないことを意味している。この欠陥を取り除くためには,体系を非線形化する必要がある。乗数・加速度モデルで発散解の場合をとりながら,完全雇用の天井と成長する独立投資の底をおくことにより体系を非線形化して景気循環を説明したのは J. R. ヒックスである。
 他方,アメリカの経済学者グッドウィン R. M.Goodwin は,実際の資本量が最適資本量より小さいか,等しいか,あるいは大きいかによって,投資の大きさが変化するとし,加速度関係を非線形化して,循環的変動とともに成長の現れる理論を構築した。
 さらに,それより前に,N. カルドアは,投資と実質産出額との関係,および貯蓄と実質産出額との関係が,それぞれ直線で表されるのでなく,非線形であるとし,この前提に資本蓄積の投資に及ぼす効果を考慮して循環的変動を説明するモデルを考えた。                藤野 正三郎

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ワルラス
ワルラス

ワルラス
Walras,(Marie-Esprit-) Lon

[生] 1834.12.16. エブルー
[没] 1910.1.5. モントルー近郊クララン

  

フランスの経済学者。ローザンヌ学派の創始者。 A. A.ワルラスの子。パリの鉱山学校中退後,ジャーナリスト,鉄道事務局員,協同組合銀行理事などを経て 1870年ローザンヌ大学経済学講座初代教授に就任し,以降経済学に専心した。経済的与件に変化がなく,完全な自由競争が行われている場合には,経済諸量は需要と供給の一般的な均衡関係を表わす連立方程式体系によって一義的に決定されることを主張する一般均衡理論を樹立した。 C.メンガー,W.ジェボンズと並ぶ限界理論創始者の一人であり,また一般均衡理論の始祖。ワルラスは純粋経済学,応用経済学,社会経済学の3部門から成る経済学体系を構想しており,純粋経済学部分だけが体系化された形で『純粋経済学要論』 lments d'conomie politique pure,ou thorie de la richesse sociale (1874~77) として公刊されているが,他の部門については論文集として『社会経済学研究』 tudes d'conomie sociale (96) ,『応用経済学研究』 tudes d'conomie politique applique (98) が出版されている。





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ワルラスの法則

ワルラスのほうそく
Walras' Law

  

各経済主体は予算の制約のもとで各人の効用を最大化するように消費量を決定するが,欲望が飽和しないかぎりはすべての予算を余すことなく最適量を決定する。この予算の制約条件をすべての主体について総計すると,すべての財の需要量の価値額は供給量の価値額に等しくなる。この恒等関係をワルラスの法則という。





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ワルラス,M.E.L.
I プロローグ

ワルラス Marie Esprit Leon Walras 1834~1910 フランスの経済学者で、今日のミクロ経済学の基礎をきずいた。父オーギュスト・ワルラスも経済学者なので、このレオン・ワルラスとともに2世代にわたる経済学者の家系である。フランス北部のエブルーに生まれる。理工科大学校の入試に失敗し、1854年に鉱山学校に入学したが、専門よりも哲学、歴史、文学に熱中した。24歳のときに父の強い希望をうけいれて経済学にすすむ決意をし、以後ジャーナリスト、協同組合運動などをしながら、研究をすすめた。

II ローザンヌ学派

こうした背景もあって、ワルラスの学風は、当時のフランスの主流派経済学とは大いにことなり、当初アカデミズムからは冷淡にあつかわれた。辛苦をなめたすえ、ようやく1870年に、スイスのローザンヌ・アカデミー(1891年に大学となる)に教授としてむかえられ、翌年、終身雇用権を付与された。以後ワルラスの本拠地は常にローザンヌであり、ここから、彼に端を発する経済思想の流れをローザンヌ学派ということがある。

III 一般均衡理論

主著としては「純粋経済学要論」(1874~77)があげられる。彼の体系は、さまざまな市場で取り引きされる財の需要、供給は、その財の価格だけでなく、その他の財の価格にも依存するとの想定のうえにうちたてられており、A.マーシャルの部分均衡理論と対比して、一般均衡理論とよばれる。

また、模索過程というアイデアをだし、これがのちに安定理論といわれる分野の発展につながった。模索過程では、各人の需要、供給が集計され、もし需要が供給をうわまわれば、オークショニアーとよばれる仮想のせり人がその財の価格を上昇させる。逆の場合は、オークショニアーは当該財の価格を下落させると想定されている。

こうして、最終的にはすべての財について需要量と供給量がひとしくなり、そこにおいてはじめて取り引きがおこなわれるというのが、ワルラスの想定なのである。ここで、最終的に需要と供給がひとしくなるような価格が到達可能であるか否かという理論的な問題が生じるが、これが安定理論とよばれる理論経済学の分野にほかならない。

ワルラスの影響力は絶大であり、その後のミクロ経済学の発展は彼の名前をなくしてかたることはできない。J.R.ヒックス、P.A.サミュエルソン、G.ドブリューら、のちの経済学者は、その意味で、すべてワルラスの体系の継承者である。


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ワルラス 1834‐1910
Marie Esprit Lレon Walras

フランスの経済学者。ジェボンズ,メンガーとならぶ限界革命の主役であり,またローザンヌ学派の始祖。パリの鉱山学校に入ったが,哲学,歴史,文学,芸術批評,小説の創作に熱中した。しかし経済学者であった父オーギュスト AntoineAuguste W. の希望もあり,ジャーナリスト,鉄道書記,協同組合管理者などをしながら経済学を研究。1870年にスイスのローザンヌ大学教授となり,92年まで在職。その経済学体系は,交換価値と交換の理論,ないし抽象的に考えられた社会的富の理論である純粋経済学,社会的富の経済的生産の理論ないし分業を基礎とする産業組織の理論である応用経済学,そして所有権の理論であり社会的富の分配の科学である社会経済学からなり,それぞれその著作《純粋経済学要論》(1874‐77),《応用経済学研究》(1898),《社会経済学研究》(1896)に対応する。しかし,経済学史上最も重要なのはその純粋経済学であり,経済の諸部門間の相互依存関係を強調した一般均衡理論を展開し,現代のミクロ経済学の基礎をきずいた。ワルラスはまず生産を捨象した純粋の交換の一般均衡を限界効用理論にもとづき考察し,次に生産を導入して生産要素の市場と消費財の市場の均衡からなる生産の一般均衡に進み,限界生産力説を検討する。さらに新資本財の生産を考慮に入れた資本化および信用の理論を展開し,最後に貨幣を導入して流通および貨幣の理論にいたる。そのいずれにおいても,均衡を決定する連立方程式体系を提示し,素朴ながらその解の存在を論じ,さらに実際の市場において需給の差による価格変動により均衡が成立する過程を予備的模索の理論として考察した。      根岸 隆

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ワルラスの法則
ワルラスのほうそく Walras’ law

経済全体に n 個の財が存在するとして,第 i 財の価格が pi(i=1,2,……,n),各財の価格が p=(p1,……,pn)であるときの第 i 財の総需要量を Di(p),総供給量を Si(p)(i=1,2,……,n)と記そう。そのとき任意の価格について

が成立することをワルラスの法則という。L. ワルラスがその一般均衡理論の数式化においてしばしば活用したもので,命名は O. ランゲである。この内容を言葉で述べれば,〈経済全体の総需要価値額は総供給価値額に恒等的に等しい〉ということになる。この法則が成立する理由は以下のとおりである。いま経済を構成する主体として消費者と生産者を考えてみよう。まず各消費者について,消費者の総需要価値額=消費者の総供給価値額+配当所得,という関係が成立する。ここで総需要価値額とは消費財の購入額の総計を,総供給価値額とは供給する生産要素(代表的なものは労働)からの報酬の総計をいう。また各生産者については,生産者の総供給価値額-生産者の総需要価値額=利潤,という関係が成立する。この左辺は生産物の価値額から投入物の価値額を差し引いたものである。ここで利潤はすべて配当にまわされるとすれば,上の二つの関係をすべての経済主体について合計することによってワルラスの法則が導出されることになる。この法則によれば第 n 財を除く n-1個の市場がすべて均衡していれば,第 n 財の市場も,その価格がゼロでないかぎり,均衡していなければならないことが知られる。⇒一般均衡理論          川又 邦雄

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サミュエルソン
サミュエルソン

サミュエルソン
Samuelson,Paul Anthony

[生] 1915.5.15. インディアナ,ゲリー

  


サミュエルソン


アメリカの理論経済学者。 1935年シカゴ大学卒業。ハーバード大学大学院を経て,40年マサチューセッツ工科大学経済学部教授。 47年学問的業績により第1回クラーク賞を受賞。第2次世界大戦中から政府関係機関の顧問として財政経済政策に関与していたが,J.ケネディ大統領のもとでは特別経済顧問として政策立案に貢献した。彼の経済学的立場はマクロ的所得分析とミクロ的価格分析とを新古典学派的立場から拡大,統合しようとしたものであった。また経済理論の数学解析的分析に果した役割も大きい (→新古典派総合 ) 。現代最高の理論経済学者の一人であり,博士論文をもとにした主著『経済分析の基礎』 Foundations of Economic Analysis (1947) で第2次世界大戦後の近代経済学の一方向を決定づけるとともに,初めて J.M.ケインズの所得分析を本格的に導入し,ほぼ3年ごとに改訂版を出して,日本を含め各国で広く用いられている教科書『経済学』 Economics: An Introductory Analysis (初版,48,第 13版,89) によっても戦後の経済問題の考え方に大きな影響を与えている。経済学すべての分野でなんらかの貢献をしており,70年第2回ノーベル経済学賞受賞。 R.ドーフマン,R.ソローとの共著『線形計画と経済分析』 Linear Programming and Economic Analysis (53) のほか多くの編著,論文があり,諸論文は 92年現在5巻の論文集に収められている。





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サミュエルソン,P.A.
サミュエルソン Paul Anthony Samuelson 1915~ アメリカの経済学者。インディアナ州に生まれ、1935年にシカゴ大学を卒業、41年にハーバード大学で博士号を取得。40年、マサチューセッツ工科大学助教授となり、66年には最高の地位である研究所教授に任じられた。この間、経済諮問委員会やFRB(連邦準備制度理事会)をはじめ各種研究機関の顧問や評議員として、さらにケネディ大統領やジョンソン大統領の経済顧問として活躍した。また、エコノメトリック・ソサエティ(国際計量経済学会)やアメリカ経済学会、国際経済協会の会長を歴任。さらに、「ニューズウィーク」誌のコラムニストをつとめるなど新聞・雑誌に多数の評論を執筆しており、20世紀を代表する経済学者としてその活躍は多岐にわたる。

サミュエルソンはハーバード大学時代にジュニア・フェロー(助教授なみの待遇で3年間自由に研究できる特別奨学生)として物理学や数学にも手をそめており、このことが緻密な数学的手法の導入という彼の経済学における基本姿勢を生みだした。2大主著のうちのひとつ「経済分析の基礎」(1947)は、数学的方法論を展開した近代経済学の古典的名著である。また、世界で20カ国以上の言語に翻訳され、もっとも多く販売された経済学テキスト(400万部以上)としても知られる「経済学」(1948)は、近代経済学の標準的入門書であり、これらの著作が経済学における数学の使用を定着させたといっても過言ではない。

当時の米英のわかい経済学者の多くと同様、サミュエルソンもまた経済界を席巻し「革命」とまでよばれたケインズ経済学に強い影響をうけた。しかし、彼の業績はケインズ経済学にとどまらず新古典派的価格理論もふくめ、あらゆる経済学の分野におよんでいる。サミュエルソンの名を冠した経済学の定理も多い。研究業績のおもなものだけでも、乗数理論と加速度原理を統合した景気循環理論、バーグソン=サミュエルソン型社会的厚生関数による厚生経済学への貢献、公共財の理論、顕示選好理論、代替定理による産業連関分析の基礎づけ、ターンパイク定理と最適成長理論、スツルパー=サミュエルソン定理など数しれない。また、彼はケインズ経済学を新古典派体系の中にとりこむ新古典派総合という試みを提示したが、これはその後彼自身により撤回された。

前掲のほかの主著としては、経済分析への線型計画法の応用を提示したソローおよびドーフマンとの共著「線型計画と経済分析」(1958)などがある。1970年にノーベル経済学賞を受賞。


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サミュエルソン 1915‐
Paul Anthony Samuelson

20世紀を代表するアメリカの経済学者。インディアナ州に生まれ,1935年シカゴ大学卒業,36年ハーバード大学修士,41年博士。マサチューセッツ工科大学(MIT)助教授(1940),準教授(1947)を経て,66年以来同大学のインスティチュート・プロフェッサー。主著《経済分析の基礎 Foundationsof Economic Analysis》(1947)は経済主体の行動を数学的に解析した古典で,経済学における数学の使用を不動のものにした。《経済学Economics》(1948,14版1980)は300万冊14版を重ね,20ヵ国語以上に翻訳された,経済学の最も標準的な教科書である。彼の名とともに知られる経済学の定理は数多く,《サミュエルソン論文集》全4巻(1966‐77)には,消費者理論,生産者理論,厚生経済学,資本理論,国際経済学,財政学,金融論,人口論,経済学説史,数学,統計学など,経済学のあらゆる分野にわたる論文が収められている。〈経済学における最後のジェネラリスト〉と自他ともに認めるゆえんである。実物的経済理論をケインズ的財政政策で補完する〈新古典派的総合 neo‐classical synthesis〉の立場に立つ。1947年ジョン・ベイツ・クラーク・メダル受賞。70年ノーベル経済学賞受賞。アメリカ経済学会,エコノメトリック・ソサエティ,国際経済協会の会長を歴任。
                         久我 清

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ヴィルフレート・パレート
パレート,V.F.D.
パレート Vilfredo Federico Damaso Pareto 1848~1923 イタリアの社会学者・経済学者。パリに亡命中のイタリア人家庭に生まれ、トリノ大学で理工系の学問をまなび、鉄道の技師となった。その後、経済問題についての著述や、政治学と哲学の研究をはじめ、1893年にスイスのローザンヌ大学で政治経済学の教授の地位につき、それからの一生をスイスですごした。

パレートは社会学にも興味をもち、1916年に最主要著書とされる「一般社会学概念」をあらわした。その中で個人と社会の行為の本質について考察し、エリート階級の優越性についての理論をうちだしたが、この理論はイタリアにおけるファシズムに影響をあたえたといわれる。

また経済学の面では、資源配分に関する「パレート最適」の概念や、所得分布に関する「パレート法則」を考案した。著書に「経済学講義」(1896~97)、「経済学提要」(1906)がある。


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ヴィルフレド・パレート
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ヴィルフレド・パレート(Vilfredo Frederico Damaso Pareto,1848年7月15日 - 1923年8月19日)はイタリアの技師、経済学者、社会学者、哲学者。

目次 [非表示]
1 生涯
2 経済学上の功績
3 社会学上の功績
4 主な著作
5 参考文献



[編集] 生涯
パレートは、1848年にパリで生まれた。パレートがイタリア国外で生まれた理由は、彼の父が、自由主義革命家マッツィーニの指導する青年イタリア党の革命運動に参加して官憲の追及を受けたため、パリに亡命して、その地でフランス人女性と結婚したためである。

パレートは当初、理数系の道を進み、トリノ工科大学で数学、物理学、建築学を修めた。卒業後は鉄道会社に技師として就職するが、父親の影響からか政治の世界への関心を強め、自由主義の立場から政府批判を展開し、積極的な政治活動を行った。その結果、社会的地位が脅かされるようになり、会社を退職して一時的にスイスで隠遁生活を送るようになる。

その後、ある自由主義経済学者の紹介によって純粋経済学の大家レオン・ワルラスと知り合い、ワルラスの影響から経済学の研究に分け入っていくことになった。やがて、その研究実績が認められ、1893年にワルラスの後任としてローザンヌ大学で経済学講座の教授に任命された。彼はそこで、経済学における一般均衡理論(ローザンヌ学派)の発展に貢献し、さらに厚生経済学という新たな経済学の分野を開拓した。

20世紀に至って、パレートの学問的な関心は経済学から社会学へと移って行き、それと同時に自由主義的・民主主義的な思想・運動への批判を強めていった。これは、彼の政治活動の失敗や自由主義・民主主義への幻滅によるものだとも考えられる。

第一次世界大戦後には、ジョルジュ・ソレルに招かれたこともあるソレルの信奉者だったパレートはベニート・ムッソリーニを評価したため、彼の社会学理論はファシスト体制御用達の反動理論との批判を受けるようになった。ちなみにムッソリーニは社会主義者時代にパレートの講義を聴講したことがあった。

晩年において、病に冒されながらも精力的に社会学の体系化を試みるが、その途上、1923年に75歳でその生涯を閉じた。


[編集] 経済学上の功績
パレートは、ワルラスの均衡理論を発展させ、「パレート効率性(パレート最適)」という資源の生産および消費における最適かつ極限の状態を概念として提起したことで知られている。これは、一定量の資源を複数の人間が利用する場合において、個人の効用(満足度)が他者の効用を損なうことなく、極限まで高められた状態(配分について交渉を行う余地の無い状態)のことを意味している。つまり、「パレート効率性」とは、資源の有効活用の原理ということができる。

さらに彼は、数理経済学の実証的な手法(統計分析)を用いて、経済社会における富の偏在(所得分布の不均衡)を明らかにした。これはパレートの法則とよばれている。この法則は、2割の高額所得者のもとに社会全体の8割の富が集中し、残りの2割の富が8割の低所得者に配分されるというものである。

パレートは、このような概念によって、社会全体の福利の適正配分と効用の最大化を目指す経済政策を理論的に基礎づけ、厚生経済学におけるパイオニア的存在となった。


[編集] 社会学上の功績
パレートは、それまでの経済学における研究業績を応用し、実証主義的方法論に基づいて社会の分析を行っていった。もともと自然科学を出発点として経済学・社会学の分野へと進んだパレートは、実験と観察によって全体社会のしくみ、および変化の法則を解明しようとした。

特に、経済学における一般均衡の概念を社会学に応用し、全体社会は性質の異なるエリート集団が交互に支配者として入れ替わる循環構造を持っているとする「エリートの周流」という概念を提起したことで知られている。そしてパレートは、2種類のエリートが統治者・支配者として交代し続けるという循環史観(歴史は同じような事象を繰り返すという考え方)に基づいて、19世紀から20世紀初頭のヨーロッパで影響力を持っていた社会進化論やマルクス主義の史的唯物論(唯物史観)を批判した。

さらに、人間の行為を論理的行為(理性的行為)と非論理的行為(非理性的行為)に分類し、経済学における分析対象を人間の論理的行為に置いたのに対し、社会学の主要な分析対象は非論理的行為にあると考えた。つまり現実の人間は、感情・欲求などの心理的誘因にしたがって行動する非論理的傾向が強く、しかも人間の非論理性が社会の構造を規定しているとみなしたのである。このような行為論は、その後アメリカの社会学者タルコット・パーソンズの社会システム論に影響を与えることになった。

パレートは、初期の総合社会学にはない新しい視点に立ち、独自の社会学理論を構築したところから、マックス・ヴェーバーやエミール・デュルケームと並ぶ重要な社会学者の1人として位置づけられている。


[編集] 主な著作
経済学講義(Cour d'Economie Politique, Laussanne. 1896)
一般社会学大綱(Trattato di sociologia generale. 1917-19)

[編集] 参考文献
ヴィルフレド・パレート(北川隆吉、板倉達文、広田明訳)『社会学大綱』(現代社会学体系・青木書店)ISBN-10:4250870448
作田啓一、井上俊編『命題コレクション 社会学』(筑摩書房)ISBN-10:4480852921
田原音和・田野崎昭夫・阿閉吉男他著(新明正道監修)『現代社会学のエッセンス 社会学理論の歴史と展開(改訂版)』(ぺりかんエッセンスシリーズ・ぺりかん社)ISBN-10: 4831507210
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%88" より作成
カテゴリ: イタリアの経済学者 | イタリアの社会学者 | 19世紀の社会科学者 | 1848年生 | 1923年没

一般均衡理論
一般均衡

いっぱんきんこう
general equilibrium

  

経済におけるすべての市場が同時的に均衡していること。つまりある時点でのすべての財・サービスの価格と数量が変化しない状態を指す。この理論は,L.ワルラスによって展開され,J.ヒックス,P.サミュエルソン,G.ドブリューらによって発展がなされた。各財の需要と供給は,その財の価格のみならず,他のすべての財の価格に依存すると考えられる。需要関数は,消費主体の効用最大化行動からすべての財の価格の関数として導かれる。供給関数は,生産主体の利潤最大化行動からすべての財の価格の関数として導出される。市場において,すべての財の需給が一致するよう財の価格が調節され,一致したところで一般均衡価格が決定される。これに対して部分均衡は,他の事情において等しいという条件のもとで,当該の財に限定して需給均衡を考える。





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一般均衡論
一般均衡論 いっぱんきんこうろん General Equilibrium Theory フランスの経済学者ワルラスを始祖とする経済学の体系で、経済を多数のミクロ的な個別的経済主体の相互依存の関係として把握し、市場価格の需給調節機能を前提にして、経済のすべての部門でどのようにして一般的な均衡状態が成立するかを明らかにしようとする理論体系のこと。その後、イギリスの経済学者ヒックスによって一般均衡体系の安定性などの研究の深化が行われ、サミュエルソンらによる資本蓄積を含む一般均衡論の動態化や蓄積過程の最適性に関する研究、K.アローやG.デュブリューらによる新しい数学的手法を用いた一般均衡論の展開など、一般均衡論は現代の数理経済学の最も中心的な研究課題となっている。

(現代用語の基礎知識 2002 より)


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一般均衡理論
いっぱんきんこうりろん general equilibrium theory

市場経済において,さまざまな資源はどのようにして各財の生産のために用いられ,それがどのように消費者間に配分されるかという経済学の基本問題に対して,経済体系の相互依存を考慮した一つの基本的解答を与えるものが一般均衡理論である。この問題を分析するための自然な方法は,価格機構が最も理想的に機能する完全競争市場の場合を想定してみることである。一般均衡理論の創設者 L. ワルラス以下多くの経済学者が設定したのも,まさにその場合である。一般均衡理論は二つの支柱から成り立っている。その一つ主体的均衡の理論では,個々の消費者と生産者が与えられた市場価格のもとでどのように行動するかを明らかにし,つづく市場均衡の理論では,いままで所与としていた市場価格の決定について論述する。
 いま一人の消費者(家計)を考察の対象としてみよう。完全競争市場においては,彼の直面する価格は所与であり,その所得もさしあたって一定であるとみなすことができる。彼はその所得と価格のもとで効用を最大にするように各生産物とサービス(彼の余暇を含む)の需要量を決定するものと仮定すれば,その最適解は諸価格と所得に依存して決定される。この対応関係は各財について一つずつ定まるが,それが彼の需要関数を与えることになる。市場の需要関数は,それを個人について合計することによって得られる。なお,すべての価格と所得が同一比率で変化しても,消費者の実質的世界は不変であるから,各財の需要量も不変であることに注意しておこう。つまり各需要関数は,ある財一つの価格を1となるように価格ベクトル(と所得)を基準化したときの値を与えるだけで定まってしまうのである。
 つぎに代表的な生産者(企業)について考えてみると,競争市場においては各価格に対してさまざまな生産計画(すなわち資源その他の生産要素の投入量と生産物の産出量)のもたらす利潤が定まる。いま生産者が技術的に可能な生産計画の中で利潤を最大にするものとすれば,最適な計画は諸価格に依存して決定される。このようにして,生産物に対する供給関数と生産要素に対する需要関数が求められる。すべての価格が同じ比率で変化しても,最適な生産計画は変わらないと考えられるから,これらの関数はある財の価格を1としたときの値を与えるだけで定まってしまうことに注意しておこう。なお,これまで消費者の所得を需要量を説明する一要因としたが,その源泉は彼の所有する労働能力と企業利潤からの配当等であるから賃金率を含めた諸価格によって表現される。したがって彼の需要関数は結局価格のみの関数とみなすことができる。
 さて市場においてある価格ベクトルが与えられたとき,ある財の需要量が供給量を上まわればその財の価格は上昇し,下まわれば下落し,需要と供給が一致する点において初めて取引が行われると考えられる。この需給一致をもたらす価格が均衡価格であり,そのときの需要関数,供給関数の値が均衡消費量と均衡生産量とを定める。外的条件に変化がないかぎり,その状態が維持され,そのように資源配分が決定されるというのが均衡理論の基本的思想である。ここで総需要と総供給とを等置すると,財の数だけの方程式が得られるが,〈ワルラスの法則〉によって一つの方程式は他から導かれてしまう。一方,価格の数は財の数に等しいが,需要関数,供給関数は価値尺度に選んだ財の価格を1としてよいから,財の数より1少ないことが知られる。このように独立な方程式の数と未知数(価値尺度財の価格を1としたときの他の財の価格の数)は等しいから,各市場についての需給の均等を保証する価格体系の存在が原理的に確認されたことになる。
 一般均衡理論は L. ワルラスによって創設されて以来,V. パレート,J. R. ヒックス,P. A. サミュエルソンらによって発展させられた。現代の均衡理論はたんに資源配分の決定の機構を明らかにし,その安定性を明らかにするだけでなく,経済の外的条件の変化が経済変数に与える影響の解明,資源配分のさまざまな機構がどの程度望ましい成果をもたらすかについての分析をもその主要な課題とするものである。⇒市場均衡 川又 邦雄

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部分均衡理論

抽象的に申しますと、「部分均衡」とは、個別の市場の需給均衡を満たすような価格を考えるもので、「一般均衡」とは、全ての市場の需給均衡を同時に満たすような価格を考えるものを指しています。

具体的に申しますと、「部分均衡」は、たとえばワルラス調整過程という理論を使って均衡を求め、「一般均衡」は、たとえばエッジワース・ボックスという理論を使って均衡を求めます。そして「部分均衡」は、たとえば余剰分析という概念で良いか悪いかを考え、「一般均衡」は、たとえばパレート最適性という概念で良いか悪いかを考えたりします。このように抽象的な意味が違うというよりも具体的な手法が違うと考える方が分かりやすいかもしれません。

また「部分均衡」は一つの財しか考えないということではなく、「部分均衡」でも複数の財を想定して分析を進めていくのですが、一つの市場だけの均衡を考えるのが「部分均衡」で、すべての市場の均衡を考えるのか「一般均衡」ということになります。ですから、均衡を導出する過程において「部分均衡」でも「均衡均衡」でも、一つの変数を使って話を進めていくような過程もあるし、二つの変数を使って話を進めていくような過程もあります。

 ネットから
フランシス・イシドロ・エッジワース
フランシス・イシドロ・エッジワース
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フランシス・イシドロ・エッジワース(Francis Ysidro Edgeworth, 1845年2月8日 - 1926年2月13日)はイギリスの経済学者。アイルランドの名家に生まれ、スペイン人の血統も引く。


[編集] 生涯
17歳の時にダブリンのトリニティー・カレッジへ進学し、オックスフォード大学ベリオル・カレッジを卒業。そのころからその記憶力と機知は顕著であった。1877年に弁護士の資格を授けられる。ロンドン大学で、最初は論理学を、ついで経済学を教え、オックスフォード大学の経済学教授となる(1891年 - 1922年)。1889年と1922年には大英学術協会の経済学部会の会長であった。王立統計学会の会長・王立経済学会の副会長・大英国学士院の会員を歴任する。イギリスの有力な経済学誌"Economic Journal"には、1891年の創刊から彼の死に到るまで、有能な編集者として関わり続けていた。フランス語・ドイツ語・イタリア語・スペイン語に通じ、あらゆる機会に応じてミルトン・ポープ・ウェルギリウス・ホメロスのような古典から自由に引用ができるという伝統に属した人であった。生涯独身で、国際的な幅広い人脈を保ちつつ、皮肉と諧謔と超然とした態度、そして多くの奇行・逸話で同時代人に強い印象を与えている。


[編集] 思想と著作
エッジワースの初期の経済思想に影響を与えていたのは、ウィリアム・スタンレー・ジェヴォンズとアルフレッド・マーシャルであり、特にマーシャルとはともに数学と倫理学を通じて経済学に達したという類似点がある。エッジワースは社会科学に数学の手法を適用した先駆者の一人である。彼自身はその手法を「数理心理学」と名づけていた。

1877年の『倫理学の新方法と旧方法』("New and Old Methods of Ethics")では、ヘンリー・シジウィックの著書の論評という形をとりながら、功利主義と計量の問題を論議している。1881年にあらわれた『数理心理学』("Mathematical Psychics : Essays on the Application of Mathematics to the Moral Sciences")では、エッジワースは「感覚の、つまり快楽・苦痛の計算法」についての論述をさらに進めている。「ある場合にはより大きな、しかし、ある場合にはより小さな快楽単位の集まり、幸福の量が観察できる」ことが、数学を経済に応用できる根拠となるように、彼には思われた。

エッジワースの、道徳学に対する数学の応用として、「確信、つまり確率計算」がある。確率論そのものへの述作は1884年の『マインド』誌に寄稿された『見込みの哲学』("The Philosophy of Chance")がある。しかし、後年になるとエッジワースは確率よりも統計学へと興味の中心が移行し、確信や見込みのような主観が大きく左右する対象を数学によって規定できるかということについて、疑いをもつようになってきたようだ。心理学では、全体は部分の総和に等しくなく、数量の比較は意味をなさず、小さな変化が大きな効果をもたらし、一様で等質な連続は仮定できない。ただ哲学上の普遍性は主張できないとしても、大量の統計資料は現実に応用して差し支えないほど確実性を備えている、とエッジワースはジョン・メイナード・ケインズに答えている。

エッジワースは限界理論が前提していた功利主義の倫理と心理学を最後までもちつづけたのであり、そうした確信のもとに、経済学への貢献を果たした。(1)契約曲線 (2)エッジワース・ボックスなどのように経済価値を測定するために指数を使用したことと、確率計算を統計学に応用し、ウィルヘルム・レキシスが創始したドイツ学派にイギリスの研究家を接触させたことが、後世にとって特に有益であった。

エッジワースの著作は、彼自身により"Papers relating to political economy", 3巻(1925年)として集録されたが、ほかの膨大な数の論文は雑誌などに散在している。文体は気まぐれで、古典の引用と数式が入りまじり、生彩に富み脈絡は曖昧という矛盾した性格を兼ね備え、翻訳に適さないせいか、いまだ日本語訳がない。


マーシャル
マーシャル

マーシャル
Marshall,Alfred

[生] 1842.7.26. ロンドン
[没] 1924.7.13. ケンブリッジ

  

イギリスの経済学者,ケンブリッジ学派の始祖。ケンブリッジのセント・ジョーンズ・カレッジで数学を専攻し,1865年第2位で卒業して同カレッジのフェローに選ばれた。 77~81年ブリストルのユニバーシティ・カレッジの学長兼経済学教授,83~85年オックスフォードのベリオル・カレッジのフェロー兼経済学講師を経て,85年ケンブリッジ大学教授。 90年王立経済学会の設立やその機関紙"Economic Journal"の発刊にも尽力し,91~94年王立労働委員会委員をつとめる。最初は分子物理学の研究を意図したが,グロート・クラブに加入した頃 (1867) から社会の貧困問題を契機に哲学,倫理学,心理学を研究し,70年代初めに経済学に定着。その後は理論面の研究を進める一方,新興国における保護主義の実情視察のため渡米,この頃からアメリカ,ドイツの台頭によってイギリスの産業上の主導権の急速な失墜に関心をもつようになった。主著『経済学原理』 Principles of Economic (90) の公刊で経済学者として不動の地位を確立したが,その基礎となった処女作であり,夫人 M.P.マーシャルとの共著"The Economic of Industry" (79) も注目されている。彼の経済学はしばしば部分均衡理論として特徴づけられているが,これはその供給面の分析,特に時間要素の取扱いと密接な関連をもつ。長期にわたる研究の成果である『産業貿易論』 Industry and Trade: A Study of Industrial Technique and Business Organization,and Their Influences on the Conditions of Various Classes and Nations (1919) と『貨幣・信用及び商業』 Money,Credit and Commerce (23) もマーシャル経済学の必読書。





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マーシャル,A.
マーシャル Alfred Marshall 1842~1924 イギリスの経済学者。ロンドン中部のワンズワースに生まれ、1863年ケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジを卒業。当初は哲学や倫理学に関心をもったが、68年を境に経済学の研究に転じた。なお、当時political economyとよばれていた経済学に、現在もちいられているeconomicsという名称を確立したのはマーシャルである。75年、新興国の保護貿易政策をしらべるためアメリカにわたり、帰国後77~81年にブリストルのユニバーシティ・カレッジの学長をつとめた。イタリアで1年をすごしたのち、82年に教授としてブリストルに復帰した。83~85年オックスフォード大学ベリオール・カレッジ経済学講師をへて、85年ケンブリッジ大学の初代経済学教授となり、1908年に高弟ピグーにその職をゆずるまで在職した。

マーシャルは主著「経済学原理」(1890)において、それまでの正統派(古典派)経済学の理論を再編成し、それに当時新しい試みとして提示された限界効用理論を融合し発展させることで、今日新古典派とよばれる経済学の基礎を確立した。この著書は当時の経済学の支配的な学説となり、マーシャルの地位を不動のものにした。

マーシャルは、経済学を現実の分析のための手引きと認識していたから、緻密な理論展開とともに現実問題や政策論についても数多くの提言をおこなっている。

マーシャルは、ピグーやケインズなど、以後の経済学の発展に重要な役割をはたした数多くの経済学者を門弟とし、彼を創始者とする、ケンブリッジ大学を中心としたイギリス経済学の正統的学派をケンブリッジ学派とよぶ。ケンブリッジ大学でマーシャルの直接の後継者となったピグーは厚生経済学においてすぐれた業績をのこし、また、マーシャルの貨幣理論に強い影響をうけたケインズは、その後、古典派を真っ向から批判し、のちにケインズ革命とよばれた衝撃を経済学にもたらした。

そのほかの主著として、「産業と商業」(1919)がある。


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マーシャル 1842‐1924
Alfred Marshall

イギリスの経済学者。ロンドンに生まれケンブリッジ大学を卒業。1885年から1908年までケンブリッジ大学の経済学教授を務め,A. C. ピグー,J. M.ケインズをはじめとする一群の経済学者を育てて,ケンブリッジ学派を形成した。主著《経済学原理》(1890)はその後30年間にわたって8版を重ね,当時の支配的学説として世界中に影響を及ぼした。スミス,リカードからイギリス経済学の正統を引く J. S. ミルの《経済学原理》(1848)は,1871年にミル自身による最後の改訂版として出版されたが,そのころマルクスの《資本論》(1868),ジェボンズの《経済学の理論》(1871),メンガーの《国民経済学原理》(1871)など新しい動向を象徴する著作が現れるようになっていた。それは時代の変化とともに権威を失いつつあった古典学派(古典派経済学)に対する反乱の時代であった。その影響は経済学のさまざまな分野に及んだが,価値の理論の分野では,リカードのあいまいさに対するジェボンズの反発から生じた論争が,商品の価値の決定において生産費と需要の演じる役割をめぐって闘わされた。マーシャルは,価値が供給と需要の均衡する点において決定されるという命題を基盤として,経済の世界のあらゆる要素を相互的に位置づけることによって,この論争に終止符を打った。すなわち生産物の価値の決定においては,古典学派の強調した生産費を供給側の要素として,またジェボンズの強調した効用を需要側の要素として位置づけた。マーシャルはこうして,古典学派が需要の諸力よりも供給の諸力を強調したのは彼らの正しい直観に従ったものであると主張した。経済学では,一つの時代を支配した学説は時代遅れとして簡単に片づけられない真理を含んでいるものである。このような古典学派の復活を意味するマーシャルの経済学は新古典派経済学(狭義)と呼ばれる。
 彼の研究分野は価値の一般理論のみならず,さまざまな特殊研究の分野にもわたっており,とりわけ貨幣理論は彼の得意とする領域であった。その領域での研究は,後にケインズが進む道を整えた。しかし,彼の研究のこの部分はケンブリッジ大学での講義を通じて口頭で伝えられたため,十分には伝わらなかった。それらが《産業と貿易》(1919),《貨幣,信用,商業》(1923)として公刊されたのは彼の晩年であったため,外の世界に対する影響力は損なわれていたのである。日本においては主著《経済学原理》は1928年に翻訳・出版されている。                 白井 孝昌

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ブキャナン
ブキャナン

ブキャナン
Buchanan,James Mcgill

[生] 1919.10.2. テネシー,マーフリーズバラ

  

アメリカの経済学者。テネシー大学卒業。シカゴ大学で博士号取得。ジョージ・メーソン大学の公共選択研究センターを設立,所長となる。「小さな政府」構想の支持者。ケインズ的マクロ財政政策に対する批判で有名。その分析手法として政治学と経済学の一体化を研究。利益団体や投票者の行動が政府予算の決定に強く反映することを指摘。政治的・経済的意思決定プロミスの分析に新しい手法を取入れ,その構造を解明し,公共選択理論の発展に先駆的役割を果す。 G.タロックとの共著『同意算定論』 Calculus of Consent (1962) は同理論の基礎文献である。理論経済学者としてはやや傍流に属する研究とも考えられていたが,その功績が認められ 1986年ノーベル経済学賞受賞。





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ジェームズ・M・ブキャナン
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ノーベル賞受賞者
受賞年: 1986年
受賞部門: ノーベル経済学賞
受賞理由: 公共選択の理論における契約・憲法面での基礎を築いたことを称えて

ジェームズ・マギル・ブキャナン・ジュニア(James McGill Buchanan Jr.、1919年10月3日 - )は、公共選択論の提唱で知られる米国の経済学者、財政学者。1986年にノーベル経済学賞を受賞した。ヴァージニア学派の中心的人物のひとり。ジョージ・メーソン大学の教授を長い間務めている。また、ログローリングの理論の徹底した解析もおこなった。

シカゴ大学で博士号を取得。1940年にミドルテネシー州立大学を卒業。





[編集] 主要著書
J・M・ブキャナン / G・タロック〔著〕(宇田川璋仁監訳)『公共選択の理論-合意の経済論理』、東洋経済新報社、1979年12月(James M. Buchanan and Gordon Tullock, The Calculus of Consent: Logical Foundation of Constitutional Democracy, Ann Arbor: University of Michigan Press, 1962.)
J・M・ブキャナン / R・E・ワグナー〔著〕(深沢実・菊池威訳)『赤字財政の政治経済学-ケインズの政治的遺産』、文真堂、1979年4月(James M. Buchanan and Richard E. Wagner, Democracy in Deficit: the Political Legacy of Lord Keynes, New York: Academic Press, 1977.)
ジェムズ・M・ブキャナン〔著〕(小畑二郎 訳)『倫理の経済学』、有斐閣、1997年2月(James M. Buchanan "Ethics and Economic Progress",1994)




カント
カント

カント
Kant,Immanuel

[生] 1724.4.22. ケーニヒスベルク
[没] 1804.2.12.

  

ドイツの哲学者。近世哲学を代表する最も重要な哲学者の一人であり,またフィヒテ,シェリング,ヘーゲルと展開した,いわゆるドイツ観念論の起点となった哲学者。批判的 (形式的) 観念論,先験的観念論の創始者。 1740~46年生地の大学で神学,哲学を学んだ。卒業後,家庭教師を長い間つとめ,55年ケーニヒスベルク大学私講師。その後,エルランゲン,イェナ各大学から招かれたが固辞し,70年ケーニヒスベルク大学の論理学,形而上学教授となった。 96年老齢のため引退。主著『純粋理性批判』 Kritik der reinen Vernunft (1781) ,『実践理性批判』 Kritik der praktischen Vernunft (88) ,『判断力批判』 Kritik der Urteilskraft (90) 。





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カント,I.
I プロローグ

カント Immanuel Kant 1724~1804 ドイツ啓蒙期の哲学者。ケーニヒスベルク(現ロシアのカリーニングラード)に生まれ、終生この地にとどまった。9年余りの家庭教師生活ののち、1755年にケーニヒスベルク大学の私講師、70年に同大学の論理学および形而上学正教授となる。81年、「純粋理性批判」によって、合理主義と経験主義を総合した超越論主義を主張。つづいて、88年「実践理性批判」、90年「判断力批判」を発表し、みずからの批判哲学を完成した。

II 純粋理性批判

カントの批判哲学の根幹をなすのは「純粋理性批判」であり、その目標は人間の認識能力をみきわめることにあった。その結果明らかにされたのは、人間の認識能力は、世界の事物をただ受動的にうつしとるだけではなく、むしろ世界に能動的にはたらきかけて、その認識の対象をみずからつくりあげるということである。

つくるとはいっても、神のように世界を無からつくりあげるわけではない。世界はなんらかのかたちですでにそこにあり、認識が成立するには、感覚をとおしてえられるこの世界からの情報が材料として必要である。しかし、この情報はそのままでは無秩序な混乱したものでしかない。人間の認識能力は、自分に本来そなわる一定の形式をとおして、この混乱した感覚の情報に整然とした秩序をあたえ、それによってはじめて統一した認識の対象をまとめあげるのでなければならない。

カントによれば、人間にそなわるその形式とは、直観の形式(空間と時間)と思考の形式(たとえば、単一か多数かといった分量の概念や、因果性のような関係の概念など)である。そうだとすれば、「すべての物は時間と空間のうちにある」とか「すべては因果関係にしたがう」という命題は経験的には証明できないにもかかわらず、すべての経験の対象に無条件にあてはまることになる。というのも、空間や時間や、因果関係といった形式によってはじめてその対象が構成されるからである。それはたとえば、すべての人間が緑のサングラスをかけて世界をみた場合、「世界は緑である」という発言がすべての人間にとって正しい発言とみなされるのに似ている。

この理論によって、カントは近代自然科学の世界観を基礎づけることに成功する。しかしその代わりに、人間が知りうるのはこうした形式をとおしてみられた世界、つまり現象の世界だけであり、世界そのもの、つまり物自体の世界は不可知だということになる。また、これらの形式は、経験される現象世界についての判断にもちいられるものであるから、その範囲をこえて「自由」や「存在」といった抽象概念に適用することはできない。無理に適用すると、たがいに対立する主張が同時に真だと証明されてしまうこまった事態が生じるとカントはいい、この事態をアンチノミー(二律背反)とよんだ。

III 倫理学と美学

カントは理論理性につづいて、「実践理性批判」で実践理性を分析し、「人倫の形而上学」(1797)においてみずからの倫理学体系を確立する。彼の倫理学は、理性こそが道徳の最終的な権威だという信念にもとづいている。どのような行為も、理性によって命じられた義務の意識をもっておこなわれなければならない。理性による命令には2種類がある。「幸福になりたければこのように行為すべし」というふうに、ある目的のための手段として行為を命じる仮言的命令と、無条件に「このように行為すべし」というふうに、人間一般につねにあてはまる定言的命令である。カントによれば、定言的命令こそが道徳の基礎である。カントは、さらに「判断力批判」において、美学と有機的自然(物理的、無機的自然とはちがう生物の世界)をあつかい、彼の批判哲学を完成することになる。

IV その他の著作

カントの著書には上にあげたほかに、批判哲学以前のものとして、「天界の一般自然史と理論」(1755)などがあり、批判哲学以後のものとして、「プロレゴメナ」(1783)、「自然科学の形而上学的原理」(1786)、「たんなる理性の限界内における宗教」(1793)、「永久平和のために」(1795)などがある。

V カント哲学の影響

カントはもっとも影響力の大きかった近代思想家である。彼の弟子であるフィヒテ、それにつづいたシェリングとヘーゲルは、カントの現象と物自体の対立を否定して、ドイツ観念論という独自の観念論哲学を展開していく。また、ヘーゲルとマルクスが駆使した弁証法は、カントがもちいたアンチノミーによる論証法を発展させたものである。ケーニヒスベルク大学におけるカントの後継者のひとりであるヘルバルトは、カントのいくつかの観念をみずからの教育学の体系にくみいれた。


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カント 1724‐1804
Immanuel Kant

ドイツの哲学者。西欧近世の代表的哲学者の一人。東プロイセンの首都ケーニヒスベルク(現,ロシア領カリーニングラード)に馬具商の長男として生まれ,幼児期に敬虔主義の信仰篤(あつ)い母から大きな影響を受ける。当地のフリードリヒ学舎を経てケーニヒスベルク大学に学び,当時ドイツの大学を支配していたライプニッツ=ウォルフの哲学に触れるとともに,師 M. クヌッツェンの導きのもとに,とりわけニュートン物理学に興味を寄せる。大学卒業後ほぼ10年間家庭教師をつとめながら研究を深め,1755年《天界の一般自然誌と理論――ニュートン物理学の原則に従って論じられた全宇宙の構造と力学的起源についての試論》を発表,ニュートン物理学を宇宙発生論にまで拡張適用し,のちに〈カント=ラプラスの星雲説〉として知られることになる考えを述べる。同年,ケーニヒスベルク大学私講師となり,論理学,形而上学はじめ広い範囲にわたる科目を講ずる。60年代に入り,ヒュームの形而上学批判に大きな衝撃を受け,またルソーにより人間性尊重の考えに目覚める。70年ケーニヒスベルク大学教授となる。就職資格論文《可感界と可想界の形式と原理》には,空間,時間を感性の形式と見る《純粋理性批判》に通じる考えが見られる。81年,10年の沈黙ののちに主著《純粋理性批判》刊行。さらに,88年の《実践理性批判》,90年の《判断力批判》と三つの批判書が出そろい,いわゆる〈批判哲学〉の体系が完結を見る。ほかに主要著作として,《プロレゴメナ》(1783),《人倫の形而上学の基礎》(1785),《自然科学の形而上学的原理》(1786),《たんなる理性の限界内における宗教》(1793),《人倫の形而上学》(1797)などがある。
[カント哲学の基本的性格]  〈世界市民的な意味における哲学の領域は,次のような問いに総括することができる。(1)私は何を知りうるか。(2)私は何をなすべきか。(3)私は何を希望してよいか。(4)人間とは何か。第1の問いには形而上学が,第2のものには道徳が,第3のものには宗教が,第4のものには人間学が,それぞれ答える。根底において,これらすべては,人間学に数えられることができるだろう。なぜなら,はじめの三つの問いは,最後の問いに関連をもつからである〉。カントは,《論理学》(1800)の序論でこのようにいう。彼の考える哲学は,本来〈世界市民的〉な見地からするもの,すなわちいいかえれば,従来の教会のための哲学や学校のための哲学,あるいは国家のための哲学といった枠から解放されて,独立の自由な人格をもった人間としての人間のための哲学でなければならなかった。カントは,そのような哲学を打ちたてるために三つの批判書を中心とした彼の著作で,人間理性の限界を精査し,またその全射程を見定めることに努めたのである。
 〈私は何を知りうるか〉という第1の問いに対して,カントは,《純粋理性批判》で,人間理性によるア・プリオリな認識の典型と彼の考える純粋数学(算術・幾何)と純粋自然科学(主としてニュートン物理学)の成立可能性の根拠を正確に見定めることによって答える。すなわち,これらの学は,ア・プリオリな直観形式としての空間・時間とア・プリオリな思考形式としてのカテゴリーすなわち純粋悟性概念の協働によって確実な学的認識たりえているのであり,霊魂の不滅,人格の自由,神などの感性的制約を超えた対象にかかわる形而上学は,これらの学と同等な資格をもつ確実な理論的学としては成立しえないというのが,ここでの答えであった。
 〈私は何をなすべきか〉という第2の問いに,カントは,《実践理性批判》で,感性的欲求にとらわれぬ純粋な義務の命令としての道徳法則の存在を指示することによって答える。道徳法則の事実は,理論理性がその可能性を指示する以上のことをなしえなかった〈自由〉な人格の存在を告げ知らせ,感性的制約を超えた自律的人格とその不可視の共同体へと人々の目をひらかせるとされるのである。こうして,道徳法則の事実によってひらかれた超感性的世界への視角は,さらに第3の問い〈私は何を希望してよいか〉に対しても答えることを可能にする。すなわち,ひとは,理論的な認識によって決定不可能な霊魂の不死,神の存在といったことどもを,自由な人格による行為が有意味であるために不可欠の〈実践理性の要請〉として立てることが可能になる,とカントは考えるのである。
 カントは,このようにして,ニュートン物理学に代表される近世の数学的自然科学の学としての存立の根拠を明らかならしめ,ヒュームによる形而上学的認識への懐疑からも多くを学びながらそれにしかるべきところを得せしめ,さらに,ルソーによる自由な人格をもつ自律的人間の形づくる共同体の理想をいわば内面的に掘り下げ,西欧形而上学のよき伝統と媒介せしめる。ここに,人間の知のすべての領野を,近世の自由で自律的な人間理性の上にあらためて基礎づけるという作業が,人間としての人間とその環境世界の具体的日常的あり方へのカントの生き生きとした関心に支えられて,ひとまずの完成をみる。カントの哲学が,その後フィヒテからヘーゲルにいたるいわゆるドイツ観念論からさらには現代哲学のさまざまな立場の展開にかけて,たえず大きな影響を及ぼしつづけて今日にいたり,日本においても,とりわけ明治後期から大正時代における新カント学派の移入このかた,大きな影響を及ぼしているのは,以上のような彼の哲学の性格のゆえと考えられる。                       坂部 恵

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ロールズ
ロールズ

ロールズ
Rawls,John Bordley

[生] 1921.2.21. ボルティモア,メリーランド
[没] 2002.11.24. マサチューセッツ,レキシントン

  

アメリカの社会哲学者。著書『正義論』A Theory of Justice (1971) において,従来英米で有力であった功利主義に代わって社会契約説の伝統を新たな装いを凝らしたうえで復権させ,自由と平等のかねあいとしての社会正義の基礎の問題に答えることを試みて大きな反響を呼ぶ。これは以後活発な議論を呼び起こすもととなった。プリンストン,コーネル各大学に学び,コーネル大学,マサチューセッツ工科大学を経て,1962年ハーバード大学哲学教授。 1974年アメリカ哲学協会会長。





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ロールズの公正

ロールズのこうせい
Rawls' Justice

  

ロールズの正義ともいう。アメリカの哲学者 J.ロールズにより 1971年に提示され,経済学者に多大な影響を与えた所得分配の公正にかかわる理論。この考え方は差別原理とも呼ばれる。社会的に公正な仕組みとは人々がいまだ社会における位置づけが定まらないうちに選択する社会制度であるとする。各個人は相互に両立する範囲内で最大限の自由を等しく享受でき,社会的不平等は,社会的弱者の厚生が確保され,すべての構成員が機会平等である場合にのみ許容できるとする。この結果,社会的公正の尺度は,最も恵まれない人の公正の度合いで測ること (マクシミン基準) になる。





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ロールズ,J.
I プロローグ

ロールズ John Rawls 1921~ アメリカの哲学者。メリーランド州ボルティモアに生まれる。10代で哲学の勉強をはじめ、とくに道徳の問題に興味をいだくが、ケント・スクール卒業後3年間の兵役中に政治の問題にも関心をよせるようになる。プリンストン大学大学院に復学し博士号取得後、1950年から母校の哲学教師をつとめる。そのかたわら経済学にも関心を広げ、当時最新の経済理論を研究する。その成果と博士論文で展開した倫理学の問題をあわせて、独特の「原初状態」の理論を提唱した。

II 公正としての正義

その後コーネル大学、マサチューセッツ工科大学をへて、1962年からハーバード大学の哲学教授に就任。その主著「正義論」(1971)で「公正としての正義」の理論を体系的に展開し、社会倫理学への関心を高めた。これは、最大多数の最大幸福を正義とした功利主義にかわる、新しい社会正義の原理を論じたものである。自由で平等な道徳的人格者たちがつくる「原初状態」という状況をかりに設定し、その中で全員が一致して合意できるものが正義だとする彼の正義論には、カントの道徳論の影響がみられる。


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ロールズ 1921‐
John Rawls

アメリカの哲学者。ハーバード大学教授。その著《正義論 A Theory of Justice》(1971)において,功利主義に取って代わるべき実質的な社会正義原理を〈公正としての正義 justice as fairness〉論として体系的に展開し,規範的正義論の復権をもたらした。平等な基本的自由を保障する原理の優先が強調され,最も不利な状況にある人々の利益の最大化のための社会経済的不平等が正当化されるとする〈格差原理〉が提唱されているところに,その正義原理の内容的特徴がみられる。〈原初状態〉という仮説的状況で自由・平等な道徳的人格者たちが全員一致で合意するものとしてこのような正義原理が導出・正当化されるという,社会契約説的構成がとられており,このような方法論は,自律性と定言命法に関するカントの考え方を手続的に解釈した〈カント的構成主義〉と名づけられている。                 田中 成明

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倫理学はノイラートの船か?(その5) [宗教/哲学]


パグウォッシュ会議
パグウォッシュ会議

パグウォッシュかいぎ
Pugwash Conference

  

正式名称は「科学と国際問題に関する会議」 Conference on Science and World Affairs。ラッセル=アインシュタイン声明をきっかけとして開かれた国際科学者会議。第1回会議は 1957年7月にカナダのパグウォッシュで開かれ,東西の科学者 22人が参加。「科学者の社会的責任」「核兵器の管理」「原子力の利用と危険」をテーマとして討議し,核実験による人体への影響を警告して,「原水爆実験を禁止せよ」との声明を出した。その後,毎年1~2回場所を変えて会議を開き,軍縮問題,平和問題について具体的に検討し,社会に無関係でありえない 20世紀の自然科学とその研究に従事する者の道義的責任について討論を重ねている。会議終了後,多くの場合,専門委員会報告の付録として声明を発表,それはパグウォッシュ声明として知られている。たとえば 58年9月の第3回会議はオーストリアのキッツビューエルで,原子力時代の危険と科学者の役割について協議し,核戦争だけでなくすべての戦争絶滅を呼びかけた「ウィーン声明」を発表した。また 77年8月ミュンヘンの第 27回会議で 20周年を迎え,「パグウォッシュ運動の原則についての声明」を採択した。 76年8月 28日,京都で第 25回パグウォッシュ会議シンポジウムが開催された。 95年創設者のロートブラットとともにノーベル平和賞を受賞。





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パグウォッシュ会議
I プロローグ

パグウォッシュ会議 パグウォッシュかいぎ Pugwash Conference 正式には「科学と世界問題に関するパグウォッシュ会議 Pugwash Conference on Science and World Affairs」という。自然科学者や社会科学者などを中心に、軍縮と平和に関して討議する国際会議である。1957年7月に第1回会議がカナダのノバスコシア州のパグウォッシュ村でひらかれたので、この名前がある。

II ノーベル平和賞受賞

パグウォッシュ会議は、1955年7月にイギリスの哲学者バートランド・ラッセルやドイツ生まれのアメリカの物理学者アインシュタインら11人によってだされたラッセル=アインシュタイン宣言の呼び掛けを実践するための会議として招集された。宣言はアメリカのビキニ水爆実験以後の核兵器の危機的な状況をうけて、「人類という種の一員」の立場にたつことの必要性を強調し、全面核軍縮のみならず戦争の廃絶をうったえている。11人の署名者の中には、日本の物理学者湯川秀樹もふくまれていた。年に1~2回の総会と課題別のセミナーがおこなわれている。95年8月、広島で日本ではじめてのパグウォッシュ会議(第45回)がひらかれた。95年度のノーベル平和賞が、パグウォッシュ会議および議長であったイギリスの物理学者ジョセフ・ロートブラットにおくられた。

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ラッセル=アインシュタイン声明
ラッセル=アインシュタイン声明

ラッセル=アインシュタインせいめい
Russell-Einstein Statement

  

イギリスの哲学者 B.ラッセルらが 1955年7月9日に発表した核兵器廃棄などを提唱した声明。米ソの核軍備競争の激化を背景に,ラッセルがアメリカの物理学者 A.アインシュタインと話合ったのがきっかけで,湯川秀樹を含む世界の著名な学者8人の署名を得てアメリカ,ソ連,イギリス,フランス,中国,カナダの6ヵ国の元首または首相に送られた。この声明は,核戦争の大規模な破壊性を具体的に説き,各国の政府に対し,国際紛争の解決のためには戦争に訴えず,平和的手段を発見することを勧告し,また全般的軍備撤廃の一部としての核兵器廃棄などを主張した。同声明は世界的に反響を呼び,パグウォッシュ会議が開かれるきっかけともなった。





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ロートブラット
ロートブラット

ロートブラット
Rotblat,Joseph

[生] 1908.11.4. ポーランド,ワルシャワ
[没] 2005.8.31. イギリス,ロンドン

  

ポーランド生まれのイギリスの物理学者。パグウォッシュ会議創設者・会長。 1932年ワルシャワのポーランド自由大学で修士号,1938年ワルシャワ大学で博士号を取得。 1939年イギリスのリバプール大学教授。 1944年アメリカのロスアラモスで進められた原爆開発を目指すマンハッタン計画に参加したが,ナチス・ドイツには原爆をもつ意志がないことを知り,計画参加の条件としていた信頼が裏切られたとして計画から離脱してリバプールに戻った。第2次世界大戦後はイギリスの市民権を得て,放射線医療の研究に傾注,1950~76年ロンドン大学セント・バーソロミュー医学校教授。 1955年バートランド・A.W.ラッセルによる核兵器拡大の批判宣言にアルバート・アインシュタインらとともに署名 (→ラッセル=アインシュタイン声明 ) 。この宣言が 1957年のパグウォッシュ会議の創設につながる。 1995年には核廃絶を目指すパグウォッシュ会議とともに,ノーベル平和賞を受賞。原子物理学や世界平和などに関する著作がある。





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ロートブラット
T.H.グリーン
グリーン

グリーン
Green,Thomas Hill

[生] 1836.4.7. ヨークシャー,バーキン
[没] 1882.3.26. オックスフォード

  

イギリスの哲学者。オックスフォード大学ベイリオル・カレッジで学んだ。 1860年同大学フェロー,78年同大学道徳哲学教授。当時支配的であった H.スペンサーの経験論的自然主義,J. S.ミルの感覚論に反対し,ドイツ観念論,ことにカント,ヘーゲルの影響を受け,新カント学派,新ヘーゲル学派の立場から,いわゆる自我実現論 self-realization theoryを提唱した。主著"Introduction to Hume's Treatise of Human Native" (1874) ,A. C.ブラッドリー編『倫理学序説』 Prolegomena to Ethics (83) ,R. L.ネットルシップ編"The Works of Thomas Hill Green" (85~88) ,B.ボーザンケト編"Theory of Political Obligation" (95) 。





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グリーン 1836‐82
Thomas Hill Green

イギリス新理想主義学派の哲学者。オックスフォード大学に学び,同大学道徳哲学教授となって生涯を過ごした。プラトンをはじめギリシア哲学を研究するとともに,ドイツ観念論哲学に深く学び,主著《倫理学序説》(1883)などで自我実現を核心とする人格的自由主義の哲学を説いた。それは,当代の経験主義的自然主義,実証主義的現実主義の思潮を批判して,精神的価値の積極的実現を求める自我の完成を,個人の人格形成の目的とするとともに,これを促進するのが社会の義務と考える哲学であった。そこから彼は,この目的実現のための国家の積極的干渉を認め,放任的自由主義に代わる社会改良主義的な新しい自由主義の政治哲学を説いた。彼の哲学は,日本でも西田幾多郎や河合栄治郎などによって学びとられ,日本の自由主義の思想的基盤の形成に影響した。                     荒川 幾男

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H.スペンサー
スペンサー

スペンサー
Spencer,Herbert

[生] 1820.4.27. ダービー
[没] 1903.12.8. ブライトン

  

イギリスの哲学者。学校教育のあり方に疑問を感じ,大学に入らず,独学であった。ダービーの学校教師を3ヵ月つとめたのち,1837~41年鉄道技師となる。その後,『パイロット』紙の記者を経て,48年経済誌『エコノミスト』の編集次長となったが,53年伯父の遺産を相続したため退職し,以後,著述生活に入った。終生独身で,大学の教壇に立たず,民間の学者として終った。進化論の立場に立ち,10巻から成る大著『総合哲学』 The Synthetic Philosophy (1862~96) で,広範な知識体系としての哲学を構想した。哲学的には,不可知論の立場に立ち,かつ哲学と科学と宗教とを融合しようとした。社会学的には,すでに『社会静学』 Social Statics (51) を著わしたが,社会有機体説を提唱した。日本では,彼の思想は外山正一らの学者と板垣退助らの自由民権運動の活動家に受入れられ,『社会静学』は尾崎行雄により『権理提綱』 (72,改訂 82) として抄訳され,また松島剛 (たけし) により『社会平権論』 (81) として訳されたほか,多数の訳書がある。ほかに『教育論』 Education (61) ,『社会学研究』 The Study of Sociology (73) ,『自叙伝』 An Autobiography (1904) 。





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スペンサー,H.
スペンサー Herbert Spencer 1820~1903 イギリスの社会哲学者。社会学の創始者のひとりにかぞえられることが多い。ダービーに生まれ、学校教育をうけることなく、独学で多数の著作をのこした。ラマルクの影響をうけた独自の進化論にもとづき、科学の分化した知識を包括し統合する総合哲学の体系を構想した。

スペンサーの社会学は、進化の法則を社会発展にあてはめたもので(→ 社会ダーウィニズム)、小規模の部族社会から国民社会への変化を、統合化と分化のダイナミズムによって説明している。人為的な規制を脱するところに進歩があるとする彼の自由放任主義的な考え方は、アメリカをはじめ、明治初年の日本にも受けいれられ、自由民権運動に思想的な根拠をもたらした。著書には、「社会学原理」3巻をふくむ「総合哲学体系」全10巻(1862~1896)がある。


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社会ダーウィニズム
社会ダーウィニズム しゃかいダーウィニズム 個人と社会の進化は、ダーウィンが自然選択説で記述した類型にしたがうとする、19世紀後半に定式化された理論。社会はしだいに進歩・発展していくという社会進化論とは別物であるが、両者は近年まで区別されずにもちいられてきた。

ヘッケルやH.スペンサーらの社会ダーウィン主義者は、人間は動物や植物のように生きぬくために、つまり、人生で成功するために競争するのだと確信した。富裕になったり力をもったりする人たちは「適者」であり、反対に社会経済的に低い階層は不適者である。そして、人類の進歩は競争によるものであり、競争の勝者が人類を支配できるとした。この理論は帝国主義、人種差別主義(→ 差別)、経済の自由放任主義、とりわけドイツ人の優秀さを強調したナチズムの哲学的な支柱としてもちいられた。こうした社会ダーウィニズムは、20世紀に進化論のみならず社会科学の研究においても、新たな科学的な発見が自然選択の役割を縮小させると、その評価をおとした。

日本には加藤弘之や建部遯吾(たけべとんご)らによって、明治期に多くの西欧思想とともに導入された。欧米の場合と同様に、社会進化論との区別もあいまいなままに、帝国主義に理論的な根拠をあたえることで統治努力と強くむすびついたが、今日では逆に強い非難をあびるにとどまらず、もはや話題になることさえ少なくなったといえる。


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スペンサー 1820‐1903
Herbert Spencer

19世紀イギリスの哲学者,社会学者。ダービーに教員を父として生まれた。学校教育を受けず,父と叔父を教師として家庭で育った。ロンドン・バーミンガム鉄道の技師(1837‐45)および《エコノミスト》誌の編集部員(1848‐53)を経て,1853年以後死ぬまでの50年間はどこにも勤めず,結婚もせず,秘書を相手に著述に専念した。大学とは終生関係をもたない在野の学者であったが,著作が増えるにつれて彼の名声はしだいに高まり,とりわけその社会進化論と自由放任主義は J. S. ミルや鉄鋼王 A. カーネギーをはじめ多くの理解者,信奉者を得て,当時の代表的な時代思潮になった。晩年は栄光に包まれただけでなく,その思想はアメリカに W. サムナーのような有力な後継者を見いだして,1920年代アメリカの社会学,社会思想の中枢をなした。
 彼の主著は膨大な《総合哲学体系 A Systemof Synthetic Philosophy》(1862‐96)で,全10巻の構成は,第1巻《第一原理》(1862),第2~3巻《生物学原理》(1864‐67),第4~5巻《心理学原理》(1870‐72),第6~8巻《社会学原理》(1876‐96),第9~10巻《倫理学原理》(1879‐93)となっている。その哲学観は,実証的科学の提供する知識以外のところに何か哲学固有の知識の領域があるということはなく,諸科学の分化した知識を包括し統合することが哲学であるという,科学中心主義の哲学である。だから彼が総合哲学と呼ぶものは,諸科学が提供する進化についての知識,たとえば天文学が教える天体の進化,生物学が教える生物進化,社会学が教える社会進化等についての知識を統合した,進化についての一般原理を体系化することを目的とする。彼が進化というのは物質の集中化と運動の分散化であり,この進化の法則は無機体,有機体,社会(彼は社会を超有機体であるとした)を通じてあてはまる。彼の社会学はこの進化の法則を社会発展に対してあてはめ,これを未開社会や歴史上の諸社会についての文献的知識によって例証したものである(社会進化論)。社会に関して物質の集中化に相当するのは,人類が小規模の部族社会から国民社会にむかって統合化の規模を拡大してきたことである。また社会に関して運動の分散化に相当するのは,機能分化が進み環境への適応能力を増してきたことである。統合化の度合いが進むにつれて社会は,単純社会→複合社会→二重複合社会→三重複合社会,と進化する。また環境への適応様式が進むにつれて社会は,軍事型社会から産業型社会へと進化する。
 スペンサーの社会学は,有機体システムとのアナロジーによって社会を〈システム〉としてとらえ,これを維持システム,分配システム,規制システムに分かち,社会システムの〈構造〉と〈機能〉を分析上の中心概念とした点で,現代社会学における構造‐機能分析の先駆とされる。またその社会進化論に裏打ちされた自由放任主義,すなわちいっさいの人為的な規制を廃することが最大の進歩を実現するという考え方は,自由放任という経済政策上に発する概念を,社会全般に拡大したものとして重要な意義をもち,とりわけ政府規制を好まないアメリカで熱狂的に迎えられた。また同じ理由から,彼の諸著作は明治10~20年代の日本で自由民権運動の思想的よりどころとして迎えられ,数多くの訳書が出版された。 富永 健一

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プラグマティズム
プラグマティズム

プラグマティズム
pragmatism

  

1870年代の初めアメリカの C.パースらを中心とする研究者グループによって展開された哲学的思想とその運動。ギリシア語のプラグマから発し,プラグマティズムとは,行動を人生の中心にすえ,思考,観念,信念は行動を指導すると同時に,逆に行動を通じて改造されるものであるとする。そして行動の最も洗練された典型的な形態を科学の実験に求め,その論理を哲学的諸問題の解決に応用しようとするもの。代表的哲学者は,パースをはじめ W.ジェームズ,J.デューイ。彼らの理論は,明治の頃日本に紹介されたが,特に第2次世界大戦後デューイの教育理論は,教育思想に大きな影響を与えた。





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プラグマティズム
プラグマティズム Pragmatism 19世紀アメリカの哲学者パース、ジェームズなどによってとなえられた、はじめてのアメリカ独自の哲学。ある命題がただしいかどうかは、その命題が実際に役にたつかどうかにかかっていて、思考の目的は行為をみちびくことにあり、観念の重要さはその結果によるという考え方。プラグマティズムは実際に役にたたないような考えを否定し、真理はそれをもとめる時や場所や目的によってきまると主張した。この考え方は、20世紀初頭のアメリカの哲学界を大きくまきこんだ。

アメリカの哲学者・教育者デューイは、プラグマティズムを道具主義という新しい哲学に発展させた。イギリスでも、シラーがプラグマティズムのその後の発展に貢献した。

19世紀前半の功利主義と同じく、プラグマティズムは自然科学が実際に利用できる哲学であった。


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プラグマティズム
pragmatism

アメリカの最も代表的な哲学。日本では〈実用主義〉と訳されることがあるが,この訳語はこれまでプラグマティズムに関して多分に誤解を招いてきており,最近ではこの訳語を使う人は少ない。プラグマティズムは哲学へのアメリカの最も大きな貢献であり,実存主義,マルクス主義,分析哲学などと並んで現代哲学の主流の一つである。プラグマティズムを代表する思想家には C. S. パース,W. ジェームズ,J. デューイ,G. H. ミード,F. C.S. シラー,C. I. ルイス,C. W. モリスらがいる。プラグマティズム運動は〈アメリカ哲学の黄金時代〉(1870年代~1930年代)の主導的哲学運動で,特に20世紀の最初の4分の1世紀間は全盛をきわめ,アメリカの思想界全体を風靡(ふうび)するとともに,広く世界の哲学思想に大きな影響を与えた。1930年代の半ばごろから外来の論理実証主義,分析哲学がアメリカの哲学を支配するようになってプラグマティズム運動は退潮したが,パース,ジェームズ,デューイらの古典的プラグマティズムはアメリカの思想界に深く根を下ろし,依然大きな影響力をもっている。実際,一時期プラグマティズムを圧倒して絶大な影響力をもっていた論理実証主義,分析哲学自体が,時が経つにつれて逆にプラグマティズムの影響と反批判を受けて転向ないしは退潮し,かわって再び〈プラグマティズムへの転向〉〈より徹底したプラグマティズム〉(W. V. O. クワイン),〈ネオ・プラグマティズム〉(M.ホワイト)などと呼ばれる新しい傾向が見られるのは,アメリカにおけるプラグマティズムの根強い影響を示すものと言えるであろう。
[プラグマティズムの多様性]  しかし一口にプラグマティズムと言っても,パース,ジェームズ,デューイらの古典的プラグマティズムはもとより,あらゆるプラグマティストたちの思想はすべて多様に違う。しかもプラグマティズムは教育思想,社会および政治思想,法理論,歴史哲学,宗教論,芸術論,数理論理学,言語および意味の理論,記号学,現象学などの多領域に及び,これらの多領域にわたってプラグマティストたちの関心もきわめて多岐に分かれている。こうしてプラグマティズムははなはだ広範多領域に及んで現代思想の発展に寄与しているが,しかし一方それを体系的に解釈しようとすると,プラグマティズムほど多義的で,矛盾,対立に満ちたとらえがたい思想はないであろう。P. ウィナーが言うように,あらゆるプラグマティストたちの多様に異なる関心や見解,〈種々のプラグマティズムの歴史的文化的多側面〉は,一つの一般的定義にはとても収まらない。A. ローティ編《プラグマティズムの哲学》(1966)もパース,ジェームズ,デューイらのプラグマティズムの多義性に加えて,さらに論理実証主義,分析哲学との交渉史においてますます多様化したプラグマティズムの姿を示している。その序文でローティは言う,プラグマティズムとは〈一般的家族的類似性を帯びた諸見解から成るある思想圏を指す符ちょうと考えるのが最も至当である〉と。プラグマティストたちの間にはつまり L. ウィトゲンシュタインの言う〈家族的類似性〉以上のものはない。したがって,プラグマティズムの一般的定義を求めるよりも,ここではおもにプラグマティズムの三大思想家パース,ジェームズ,デューイの思想を概説し,さらに日本におけるプラグマティズムの受容について若干触れておきたい。
[パース]  プラグマティズムの創始者はパースであり,〈プラグマティズム〉という言葉も彼の造語である。しかしこの言葉は後にジェームズ,シラーらによって世に広められ,プラグマティズムと言えば主として彼らの思想を意味するようになった。そこでパースはあらたに〈プラグマティシズムpragmaticism〉という言葉を造語し,特に彼独自の立場を意識的に強調する際にはしばしばこの言葉を使っている。プラグマティシズムの〈icism〉は通常の〈ism〉とは違って,ある学説をより厳密に定義し,より限定的に用いることを意味しているとパースは言う。こうしてジェームズ,シラー,さらにはデューイらによって大きく拡大発展させられたプラグマティズムに対し,パースは彼のプラグマティシズムを次のように限定している。第1に,プラグマティシズムは〈それ自体は形而上学説ではなく,決して事物についての真理を決定しようと企てるものではない〉。それは難しい言葉や抽象的概念の意味を確かめる一つの方法にすぎない。第2に,難しい言葉とか抽象的概念というのは〈知的概念(科学的概念)〉のことで,プラグマティシズムはわれわれのすべての言葉や概念にではなく,もっぱら科学的知的概念にのみ適用される。
 こうしてプラグマティシズムは科学的知的概念の意味を確定する一つの方法であるが,その方法とは,ある科学的知的概念の意味を確定するには,その概念の対象がわれわれの行動の上に実際にどんな結果を引き起こすかを,あらゆる可能な経験的手続によって確かめよ,というものである。この方法を論理学の一つの守則として定式化したものがパースの有名な〈プラグマティズムの格率 pragmatic maxim〉で,その格率におけるいわゆる〈実際的結果〉という概念が後にジェームズらによる多くの誤解を招いた問題の概念である。パースの言う〈実際的結果〉とは,たとえばジェームズが言うような〈だれかの上に,なんらかの仕方で,どこかで,あるとき生ずる〉具体的特殊的心理的効果のことではなく,それとはむしろ逆に,未来のあらゆる状況において,もしある一定の一般的条件を満たすならば,いつでもだれでも実験的に確かめることのできる結果――言いかえれば,合理的に思考し,実験的に探究するすべての探究者たちが最終的に意見の一致にいたらざるをえないような客観的一般的結果――を意味している。このようにパースはすべての合理的実験的探究者たちが最終的に意見の一致にいたらざるをえないような〈実際的結果〉に科学的知的概念の意味を求める。それだけではなく,パースはさらに〈すべての合理的実験的探究者たちの最終的な意見の一致〉において見いだされるものが真理であり実在であると言う。こうしてパースのプラグマティシズムは科学の諸概念の意味を確定する一つの方法であるにとどまらず,さらに真理と実在に関する理論でもある。
 また,パースは形而上学的にはスコラ的実在論の立場に立っていて,彼にとっては普遍者,一般者,法則性が真の実在である。普遍的一般的法則的なものの在り方はパースの現象学の用語では〈第三次性〉と呼ばれ,そのほかに〈第一次性〉は情態の性質,質的可能性の存在様式を意味し,〈第二次性〉は現実的単一的個体的事実の存在様式のことである。そしてこれらの三つの現象学的カテゴリーにおいて,プラグマティシズムは〈第三次性〉の概念にのみかかわるが,ちなみに〈知的概念〉〈実際的結果〉〈真理〉〈実在〉などはすべて〈第三次性〉のカテゴリーに属する。このように〈第三次性〉にのみかかわるという点でもパースのプラグマティシズムはより限定された学説であるが,それはパースの現象学,形而上学に支えられており,決して形而上学を否定するものではない。
[ジェームズ]  R. B. ペリーは〈プラグマティズムとして知られる現代の運動は主としてジェームズがパースを誤解したことから結果したものであるというのが正しく,かつ公平であろう〉と言う。このペリーの見方にはもちろん異論もあるが,しかしこの見方はいくつかの最も基本的な点でプラグマティズムの歴史をより正確に伝えていると言えるであろう。すなわちパースとジェームズとは哲学的気質,関心,立場においてひじょうに違う,際立って対照的な思想家で,ふたりの思想およびプラグマティズムの概念にははじめから本質的に重要な違いがあるということ,したがってジェームズが広めたプラグマティズムは決して一般に考えられているような,つまりパースのプラグマティズムの概念の単なる延長発展ではないということである。このようにふたりは相いれがたい思想家であるので,確かにジェームズは多くの点でパースを誤解している。しかしその誤解はジェームズ自身がパースに劣らぬ独創的な思想家で,パースとは独立にすでに独自の思想を確立しているがゆえに生じたものである。よって誤解というかわりに,ジェームズのプラグマティズムは,パースの概念から示唆を得ながら,しかしパースとはひじょうに違う関心と立場から,ジェームズ自身が創設したもう一つの新しいプラグマティズムであると言える。
 そこでプラグマティズムを正確に理解するにはまずパースとジェームズの立場を対比し,ふたりの相違を知ることが肝要であるが,その相違はおおむねつぎのように要約できるであろう。(1)パースがプラグマティズムをおもに論理学の主題として,より限定的に考えていたのに対し,ジェームズは宗教論,人生論,世界観的哲学へとプラグマティズムを拡大した。(2)パースは哲学の科学化を主張し,厳密な科学的哲学の確立を企図したが,一方ジェームズは哲学の生活化を主張した。そしてジェームズによる哲学の生活化はプラグマティズムの普及には貢献したものの,多分にプラグマティズムを俗流化した。(3)パースはスコラ的実在論の立場に立って,普遍的一般的法則的なものを真の実在と考えるのに対し,ジェームズの思想は唯名論的傾向が強く,彼にとって実在は多元的,流動的で,われわれが直接経験する顕著に具体的,特殊的,個体的事象を意味している。したがって,(4)プラグマティズムの主要概念の一つである〈実際的結果〉についても,パースは一定の一般的条件の下でいつでもだれでも確かめることのできる客観的一般的法則的結果を考えているのに対して,ジェームズは〈抽象的で,一般的で,無気力なものに対する顕著に具体的で,単一的で,特殊的かつ効果的なもの〉を考えている。(5)パースが真理と実在の探究において主観,個人的意志を排し,真理と実在をわれわれの意志に関係なく,外からの強制として,つまり合理的に思考し実験的に探究する者ならだれもが認めざるをえないものとして考えるのに対し,ジェームズは〈信ずる意志〉の哲学,主意主義の立場に立って,人間ひとりひとりの具体的主体的意志の行使を重視する。このようにパースと対比してみると,ジェームズのプラグマティズムを顕著に特色づけているのは,唯名論的傾向,個人主義,心理主義,直接経験主義,主意主義,実践主義,反主知主義であると言えよう。
[デューイ]  パース,ジェームズとともに,プラグマティズムを代表するもう一人の偉大な思想家はデューイである。デューイはプラグマティズムの大成者で,20世紀初頭から30年代にかけて全盛をきわめたプラグマティズム運動の中心的な指導者である。プラグマティズムはデューイにいたって最も大きな発展を遂げたが,そのデューイのプラグマティズムは教育学,心理学,社会学,政治学,倫理学,論理学(探究の理論),文化の哲学,芸術論,宗教論などの多領域に及ぶ実に広大かつ多面的な思想である。そしてこのようなデューイの広大で多面的プラグマティズムは,全体として実践的人間学または〈生活の哲学〉としての性格を有し,デューイの哲学的関心は理論的探究にとどまらず,つねに人間および社会の現実的具体的諸問題の解決という実践的課題に向けられている。本来〈プラグマティズム pragmatism〉という言葉はギリシア語の〈プラグマ pragma〉(〈行動,実践〉の意)に由来し,それは語義どおりに訳せば行動主義,実践主義,または行動の哲学ということになるが,デューイにとって〈行動〉とは人間生活のあらゆる営みを意味し,行動の哲学はすなわち生活の哲学である。そしてこのデューイの行動即生活の哲学の根底にあって,その核心を成しているのは彼の自然主義と道具主義であろう。
 デューイはパース,ジェームズのプラグマティズムを継承しながら,さらに C. ダーウィンの進化論から決定的な影響を受けることによって,独自の自然主義的プラグマティズムを確立した。その自然主義とは,いっさいの先験主義を否定し,自然と経験,物質と精神,存在と本質,自然的生物学的なものと文化的知的なものの隔絶を説いてきた伝統的二元論をすべて排して,人間のあらゆる社会的文化的精神的営為は自然的生物学的なものから発し,それとの連続性によって成り立っていると主張する立場である。デューイの自然主義においても,人間の本性はもちろん人間の文化的精神的営為にある。しかし人間ははじめから文化的精神的存在であるのではない。人間はまず自然的生物学的な〈生活体〉であり,そこで生物学的生活体としての人間はまずその自然的環境との不断の相互作用において自然的生命を維持し,自然的生活を営まなければならない。こうして人間はその自然的生命,生活に不可欠な自然的諸条件の下で生活をはじめるが,しかし人間の生活はもちろん単なる自然的生物学的次元にとどまるものではなく,他の動物とは違って,人間本来の生活は,思考とか認識とか言語の働きなどの知的活動を媒介にして営まれる文化的精神的生活である。その場合,しかしこのような人間の知的活動は先験的なものではなく,人間生活体とその環境との不断の相互作用を通して,そこに起こる生活上の諸困難,諸問題を解決する必要から,すなわち道具的に機能的に生じ発展するものである。こうしてデューイの自然主義は必然的に彼の道具主義にいたる。その道具主義とは,人間は道具の使用によって,他の動物に比べてはるかに大きな環境に対する適応能力をもっているが,同様に人間の知性は人間がよりよくその環境に適応し,よりよい生活を営むための手段であり道具であるという主張である。そしてデューイは科学の方法を最もすぐれた知的探究の方法と考え,人間のいっさいの社会的文化的精神的営為において科学的実験的探究の態度と方法を強調した。
[日本におけるプラグマティズム]  以上パース,ジェームズ,デューイの思想を通してプラグマティズムを概観してきたが,そのプラグマティズムが最初に日本にはいったのは1888年で,元良(もとら)勇次郎によるデューイの心理学の紹介にはじまっているようである。その後,93年には元良がこんどはジェームズの心理学を紹介し,1900年にはイェール大学の心理学教授 G. H. ラッドが来日して,ジェームズの心理学について講演し,その翌年桑木厳翼がジェームズの《信ずる意志》の思想を紹介した。なお,ジェームズの〈直接経験〉〈純粋経験〉の思想は西田幾多郎,田辺元,出隆らに影響を与えている。一方,デューイの心理学,倫理学,教育思想も中島徳蔵,田中王堂らによって紹介された。このようにジェームズとデューイの思想はかなり早くから日本に受容されているが,ジェームズの思想が日本のアカデミズム哲学者たちの注目を引いたのに対し,デューイの思想は在野の思想家たち(田中王堂,杉森孝次郎,帆足(ほあし)理一郎ら)に受け入れられ,アカデミズム哲学との対決に重要な役割を果たしていることは注目される。そして日本におけるプラグマティズムの主流は在野派であり,その最も代表的な思想家は田中王堂であろう。彼はデューイから直接最も大きな影響を受け,〈書斎より街頭に〉を標榜して哲学の生活化を主張し,道具主義を唱え,〈徹底的個人主義〉〈民主主義〉を説いた。プラグマティズムは第2次大戦前の日本では特に大正デモクラシー期に最も盛んに摂取された。そして敗戦後,再びデューイを中心にプラグマティズムの研究がいっそう盛んになり,日本の民主主義運動,教育改革に大きな影響を与えた。⇒分析哲学∥論理実証主義              米盛 裕二

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パース
パース

パース
Peirce,Charles Sanders

[生] 1839.9.10. マサチューセッツ,ケンブリッジ
[没] 1914.4.19. ミルフォード


アメリカの哲学者。プラグマティズムの祖とされ,また形式論理学,数学の論理分析にも貢献。ハーバード大学卒業後,主として合衆国沿岸測量技師として活躍。晩年は隠栖して哲学研究に没頭。 1878年の論文『われわれの観念を明晰ならしめる方法』 How to Make Our Ideas Clearにおいて,概念の意味はその概念によって引出される実際の結果によって確定されると主張し,この説は友人の W.ジェームズにより「プラグマティズム」と命名された。しかしパースは自己の説を「プラグマティシズム」と呼んで,前者から区別した。死後8巻から成る論文集が編纂された。





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パース,C.S.
パース Charles Sanders Peirce 1839~1914 アメリカの哲学者・論理学者・自然科学者。マサチューセッツ州ケンブリッジに生まれ、ハーバード大学にまなぶ。1864~84年にハーバード大学などで論理学と哲学をときおりおしえたが、教授として定職にはつかなかった。67年、イギリスの数学者ブールによってつくられた論理学の体系に注目し、ブール代数を修正拡大した。

パースはプラグマティズムの創始者として有名である。彼の考えによれば、どんな対象や考えでも、それだけでは正しくも重要でもなく、それをつかったり適用したりすることで実際手にする結果だけが重要となる。したがって、ある考えや対象の「正しさ」とは、それがどれほど役にたつのかを経験的に吟味することによってきまる。この考え方は、ジェームズやデューイによってさらに発展させられたが、それはパースの考えとはかならずしも一致していない。

記号論理学や記号論などをふくむ広範囲にわたるパースの先駆的な業績は、現代の哲学や社会学に大きな影響をあたえ、今なお多くの可能性をひめている。死後、全8巻の「パース論文集」(1958)が刊行された。


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パース 1839‐1914
Charles Sanders Peirce

アメリカの自然科学者,論理学者,哲学者。プラグマティズムの始祖で,現代記号学(記号に関する一般理論)の創設者のひとり。また記号論理学,数学基礎論,および科学方法論の現代的発展における先駆者のひとりでもあり,〈合衆国が生んだ最も多才で,最も深遠な,そして最も独創的な哲学者〉と言われる。
 マサチューセッツ州のケンブリッジに生まれ,父親ベンジャミン・パース Benjamin P.(1809‐80,ハーバード大学の数学と自然哲学の教授で,当時のアメリカにおける最大の数学者)の下で特別の家庭教育を受け,ハーバード大学に学んだ。期待どおりに数学,物理学,論理学,科学哲学などの多領域で頭角を現し,大いに将来を嘱望されていたが,その偏屈な性格と離婚問題などに加えて,当時のアメリカの学界はまだ論理学の研究に関心がなかったために,大学に定職を得ることができなかった。1887年にはペンシルベニア州の山村ミルフォードに隠筒,91年には61年以来勤めてきた合衆国沿岸測量部の技師もやめ,晩年は貧困と孤独と病苦のなかで過ごした。隠筒生活のゆえに学界からも遠ざかってまったく無名の人となり,死後も長い間世に埋もれてきた不遇の人である。しかし1931‐35年に遺稿が大半を占める《チャールズ・サンダーズ・パース論文集》全6巻(1958年にさらに2巻が加えられて,現在は全8巻)が出版され,そのうえ30年代の半ばころからアメリカの哲学界を風靡(ふうび)した外来の論理実証主義,分析哲学の影響の下で特に形式論理学の研究,数学および経験科学の基礎論的研究などが盛んになるにつれて,それらの分野の最もすぐれた先駆者のひとりであったパースの存在がとりわけ注目されるようになった。爾来パース哲学への関心がひじょうに高まって,その影響はいまや論理学,科学哲学,科学史研究,記号学,現象学,言語学,文学理論などの多領域に及んでいる。
 パースはきわめて多面的な哲学者で,その思想はとても一つのイズムには収まらない。一般にはプラグマティストとして知られているが,しかしプラグマティズム(彼は1905年にプラグマティズムをより厳密に再定式化し,W. ジェームズらのそれと区別して,〈プラグマティシズム pragmaticism〉と改名)はパース哲学の重要ではあるがその一部分を占めるにすぎず,全体系を意味するものではない。パースは彼の〈諸科学の分類〉において哲学の構想と体系を示しているが,それによると,彼は厳密な科学的哲学を体系立てようと企図していることがわかる。そしてその科学的哲学は現象学,規範科学(美学,倫理学,論理学を含む),形而上学(存在論,宗教的形而上学,物理的形而上学を含む)の3部門から成る。パースはこの体系を完成することはできなかったが,その厳密な基礎学となるべき〈現象学〉を創設し,さらに,その現象学の原理――パースは〈第一性〉〈第二性〉〈第三性〉と呼ばれる三つの普遍的現象学的カテゴリーを導き出している――に基づいて緻密な記号の分類を行いつつ,きわめて独創的・包括的な記号理論(記号学)を創設した。論理学においても三つのカテゴリーにしたがって論証を〈演繹(えんえき)〉〈帰納〉〈アブダクション abduction〉の三つのタイプに分け,それぞれの論理について多くの著述を残している。形而上学では普遍的一般的法則的なもの(現象学的には〈第三性〉と呼ばれる存在の様式)の実在を主張する独自のスコラ的実在論の立場に立って,それをプラグマティズムの形而上学的前提とし,さらにその立場から形而上学の諸問題を論じている。現在の《論文集》はほぼこの体系にしたがって編集されているが,完全なものではなく,未編集の遺稿はまだかなり残っている。しかし《論文集》で見るかぎりでも,パース哲学は多面的かつ広大な独創的思想の宝庫である。⇒プラグマティズム            米盛 裕二

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ジェームズ
ジェームズ

ジェームズ
James,William

[生] 1842.1.11. ニューヨーク
[没] 1910.8.26. ニューハンプシャー,チョコルア

  


ジェームズ


アメリカの哲学者,心理学者,いわゆるプラグマティズムの指導者。小説家 H.ジェームズの兄。 1861年ハーバード大学理学部へ入学,のち同大学の医学部へ移籍。 67~68年ドイツに留学し,フランスの哲学者 C.ルヌービエなどの影響を受け,心理学,哲学に心をひかれた。 69年卒業,学位を得たが開業せず,療養と読書に過した。 72年ハーバード大学生理学講師。のち心理学に転じ,伝統的な思考の学としてではなく生理心理学を講じ,実験心理学に大きな貢献をした。また,ドイツの心理学者 C.シュトゥンプを高く評価。さらに宗教,倫理現象の研究に進み,その後哲学の研究に入った。その立場は根本的経験論に基づく。そのほか,82年頃から心霊学に興味をもち,アメリカ心霊研究協会の初代会長をつとめた。主著『心理学原理』 The Principles of Psychology (1890) ,『信ずる意志』 The Will to Believe and Other Essays in Popular Philosophy (97) ,『宗教的経験の諸相』 The Varieties of Religious Experience (1901~2) ,『プラグマティズム』 Pragmatism (07) ,『根本経験論』 Essays in Radical Empiricism (12) 。





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ジェームズ,W.
I プロローグ

ジェームズ William James 1842~1910 アメリカの哲学者、心理学者。プラグマティズムを思想的に大きく発展させた。

父のヘンリー・ジェームズはスウェーデンボリ派の神学者、弟のヘンリー・ジェームズは高名な小説家。おさないころはヨーロッパ各地ですごし、ハーバード大学で化学を専攻、のちに医学をまなび、学位をとる。博物学者アガシーを隊長とするブラジル生物探検隊に参加したこともある。病気療養後、1873年からハーバード大学で生理学、80年以降は心理学と哲学をおしえる。ニューハンプシャー州で死去。

II 心理学

ジェームズは最初の著作「心理学原理」(1890)によって、思想家としての名をあげた。この著作は、心理学における機能主義の原理をおしすすめたもので、哲学の1分野でしかなかった心理学を、現代の実験心理学の位置にまで高めた。

さらにジェームズは、この経験的方法を哲学と宗教にも適用し、神の存在、魂の不死、自由意志などの問題を、ひとりひとりの具体的な宗教的、道徳的経験にもとづき探究した。これらの主題に関する彼の考えは、「信ずる意志」(1897)や「宗教的経験の諸相」(1902)で展開されている。

III プラグマティズム

1907年に出版された「プラグマティズム」は、パースによってとなえられたプラグマティズムについてのジェームズ独自の考えがまとめられている。ジェームズはプラグマティズムを、科学の論理的基礎についての批判から、すべての経験の価値をきめる方法に拡大した。彼は、観念の価値はその結果によってきまり、もしなんの結果ももたらさないのであれば、その観念は無意味であると考えた。これは、仮説によって予想された事態が実際おこれば、その仮説はただしいとする科学者の方法と同じであると主張した。

「根本的経験論」(1912)で、多元的宇宙を論じ、絶対的なものによって世界を説明する考えを否定し、絶対的な形而上学的体系や、現実は統一された全体だという一元論的考えに異論をとなえた。ジェームズは、純粋経験である意識の流れを重視し、絶対主義よりも相対主義、一元論よりも多元論の立場をとった。彼の哲学は、デューイなどの哲学者によってさらに展開された。


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ジェームズ 1842‐1910
William James

アメリカの心理学者,哲学者。アメリカにおける実験心理学の創始者のひとり,哲学においてはプラグマティズムを広い思想運動に発展させ,現代哲学の主流の一つにした指導的学者として知られる。父親のヘンリー・ジェームズ Henry J.(1811‐82)は宗教・社会問題の著述家,父親と同名の弟は著名な小説家。ニューヨーク市に生まれ,幼時期(1843‐45),少年時代(1855‐60)をヨーロッパ各地で過ごし,1860年に画家を志望してアメリカの宗教画家 W. M. ハントに師事したが,まもなく才能がないことを知って断念,翌年には,ハーバード大学のロレンス科学学校に入学し,はじめは化学を専攻,後に解剖学と生理学を学び,さらに医学に進んだ。医学部在学中にハーバードの著名な博物学者 J. L. アガシーを隊長とするブラジル生物探検隊に参加(1865‐66),アガシーによって科学的関心を強くそそられ,実証的精神を培われた。その後療養と実験生理学の研究のため再び渡欧,68年にハーバードに帰ってその翌年医学部を卒業,病気のためしばらく隠居した。73年からハーバード大学で解剖学と生理学を教え,75年からさらに心理学の講義を担当,そして79年から哲学を教えはじめ,しばらく心理学と哲学の教授を兼任したが,97年からは専任の哲学教授となって1907年まで教えた。
 ジェームズは,幼少,青年期における長い滞欧生活に加え,ハーバード大学在任中も療養,研究,学会出席などのためにたびたび渡欧して,深くヨーロッパの風土,文化,思想に親しみ,その影響を強く受けた。したがってもちろんジェームズの思想はヨーロッパ的色彩に濃く彩られているが,一方,彼はまた,だれよりも如実にアメリカの伝統を受け継ぎ,その伝統に根ざした最もアメリカ的な思想を確立した思想家であるとも言われる。しかしジェームズの哲学を一般的哲学史のなかに正しく位置づけて評価することを怠って,もっぱらそのアメリカ的性格を強調し過ぎれば,彼の真の思想と哲学的業績を歪曲することになるという警告があることも忘れてはならない。ともあれ,ジェームズの哲学の核心はなんといっても〈信ずる意志will to believe〉の思想であろう。そして〈信ずる意志〉の哲学として見れば,ジェームズの哲学の諸特性も容易に理解できるであろう。〈信ずる意志〉の哲学であるがゆえに,ジェームズの哲学は顕著に行動の哲学であり,具体的生の哲学である。というのは,〈信ずる意志〉とは〈行動する意志〉のことであり,人間として生きるための積極的かつ具体的な意志,信条にほかならないからである。ジェームズが絶対主義を排して相対主義を,決定論を否定して非決定論を,一元論に対して多元論をとるのも,世界および人生の根底につねに人間の自由意志すなわち〈信ずる意志〉を据えて考えているからである。この立場に立つがゆえに,また,ジェームズの哲学は著しく個人主義的,唯名論的にならざるをえない。プラグマティズムにおいてジェームズがたとえば C. S. パースの場合とひじょうに違うのも,パースが,(一定の条件さえ満たせば)いつでもだれでも確かめられる客観的実験的結果を重視し,それに基づく科学的信念の固め方としてプラグマティズムの方法を考えたのに対して,ジェームズは人間ひとりひとりの具体的意志の行使を重視し,そしてプラグマティズムの意味基準を〈だれかの上に,なんらかの仕方で,どこかで,あるとき生ずる〉結果に見いだそうとするからである。そのほかジェームズの哲学を顕著に特色づけている実践主義,具体的経験主義,反主知主義,反形式主義なども,あるいは彼の哲学的関心が特に宗教の問題に向けられていることも,すべて〈信ずる意志〉の思想に拠っていると言える。主著には〈意識の流れ〉やジェームズ=ランゲ説の主張を盛り込んだ《心理学原理》2巻(1890),《信ずる意志》(1897),《宗教的経験の諸相》(1902),《プラグマティズム》(1907)などのほか,西田幾多郎にも影響を与えた《根本的経験論》(1912)がある。⇒プラグマティズム   米盛 裕二

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デューイ
デューイ

デューイ
Dewey,John

[生] 1859.10.20. バーモント,バーリントン
[没] 1952.6.1. ニューヨーク

  


デューイ

プラグマティズムに立つアメリカの哲学者,教育学者,心理学者。哲学のプラグマティズム学派創始者の一人,機能心理学の開拓者,アメリカの進歩主義教育運動の代表者。バーモント州立大学卒業後ジョンズ・ホプキンズ大学で心理学者 G.ホール,哲学者 C.パースなどに学んだ。 1888~1930年ミネソタ,ミシガン,シカゴ,コロンビアの各大学教授を歴任。その間日本,中国,トルコ,メキシコ,ソ連などを旅行し社会改革の実情を視察した。またトロツキー査問委員会委員長,アメリカ平和委員会の一員として政治的,社会的にも活躍。その哲学の特色は,伝統的哲学の絶対性や抽象的思弁を排し,哲学的思考は経験によって人間の欲求を実現するための道具であり,哲学的真理は善や美と並ぶ目的価値ではなく,それらを実現するための手段とみなすところにある。このインストルメンタリズムと呼ばれる立場を教育学に応用して進歩主義教育の理論を確立,その他政治学,社会学,美学などの分野にも貢献した。主著『心理学』 Psychology (1887) ,『民主主義と教育』 Democracy and Education (1916) ,『経験と自然』 Experience and Nature (25) ,『確実性の探求』 The Quest for Certainty (29) ,『人間の問題』 Problems of Men (46) など。





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デューイ,J.
デューイ John Dewey 1859~1952 アメリカの哲学者、教育学者、心理学者。バーモント州バーリントンに生まれ、1879年バーモント大学を卒業、ペンシルベニアとバーモントで2年間教師をつとめた。84年にジョンズ・ホプキンズ大学で博士号を取得したのち、シカゴ大学の主任教授やコロンビア大学の哲学教授などを歴任。プラグマティズム運動の中心的指導者として活躍し、その考え方を世界にひろめた。

プラグマティズムは、哲学者パースが伝統的なものの考え方に対して自分の考え方を強調しようとして最初にもちいたものであり、ギリシャ語のプラグマ(行為、事実)を重んじるという意味であったといわれる。デューイは、この考え方をもとに経験という概念を核心にすえ、実際的な経験の中にはたらく考えを重視する。ゆえに、経験はわれわれの日常の生活そのものであり、生活すなわち経験、経験すなわち生活である。

デューイは、このプラグマティズムの考え方にもとづいた教育改革に大きな関心をしめし、シカゴ時代には、経験から出発する実験学校をシカゴ大学に設置した。その目標は経験のたえざる拡大による成長と成熟の達成であった。デューイの教育改革に関する思想と提案は、おもに彼の著書の「学校と社会」や「民主主義と教育」などにのべられているが、アメリカの教育の発展に大きな影響をあたえた。その見解は、教科中心よりも児童中心、形式学習よりも活動をとおした教育、伝統的教科の習熟よりもむしろ職業教育を強調した進歩主義教育運動の原点となった。


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デューイ 1859‐1952
John Dewey

アメリカの哲学者,教育学者,社会心理学者,社会・教育改良家。哲学ではプラグマティズムを大成して,プラグマティズム運動(20世紀前半のアメリカの哲学および思想一般を風靡した哲学運動)の中心的指導者となり,その影響を世界に広めた。教育においてはプラグマティズムに基づいた新しい教育哲学を確立し,アメリカにおける新教育運動,いわゆる〈進歩主義教育〉運動を指導しつつ,広く世界の教育改革に寄与した。心理学では機能主義心理学の創設者のひとりで,社会心理学,教育心理学の発展にも多大の貢献をしている。
 バーモント州のバーリントンに生まれ,1879年にバーモント大学を卒業,3年間高校の教職に就いたのち,82年にジョンズ・ホプキンズ大学大学院に進み,2年後に博士課程を終えて学位を取得した。84‐94年ミシガン大学で教え(ただし,88‐89年はミネソタ大学の招聘教授),94年にシカゴ大学に招かれて哲学,心理学,教育学科の主任教授,1904年にコロンビア大学に転任,30年に退職するまでそこにとどまった。デューイはシカゴ大学在任中に二つの画期的な仕事をした。その一つは,アメリカにおける進歩主義教育運動の原点となった〈実験学校 Laboratory school〉をシカゴ大学に設置したこと(1896。その教育原理を《学校と社会》(1899)として刊行),もう一つは,1903年にデューイと彼の同僚たちによる共同研究《論理学的理論の研究》が出版され,そこにプラグマティズムの新しい一派,いわゆる〈シカゴ学派〉が形成されたことである。デューイのこれらの仕事はコロンビア大学に移って大きく開花し,全国的な教育改革運動,プラグマティズム運動に発展した。
 デューイの哲学および教育思想の核心を成しているのは彼の〈経験〉の概念である。経験をもっぱら知識論の問題として,つまり認識論的概念として取り扱ってきた伝統的哲学の主知主義的偏向を排して,デューイはそれをわれわれの日常的生活そのものとして,人間の生活全体の事柄として――生活すなわち経験,経験すなわち生活として――とらえる。彼はまた,自然と経験,生物学的なものと文化的・知的なもの,物質と精神,存在と本質などの隔絶を説くいっさいの二元論を否定し,それらの連続性を主張し強調する。人間は〈生活体〉であり,そして生活体としての人間はまず自然的・生物学的基盤の上に存在している。人間の本性は,もとより人間の社会的・文化的・精神的営為にあるが,しかしその人間の本性は決して自然的・生物学的なものとの断絶によってではなく,それとの連続性の上に成り立っているのである。このデューイの連続主義は人間の経験すなわち生活が自然的・生物学的なものから発し,さらに世代から世代への伝達によって連続的に発展することを説くもので,人間性を自然的・生物学的なものに単純に還元解消するいわれのない還元主義ではない。生活のもう一つの基本原理は,生活は空虚のなかで営まれるものではなく,生活体とその環境(生活体の生活を支えかつ条件づけるいっさいの外的要因)との不断の相互作用の過程であるということである。そしてこの原理によれば,思考とか認識とか,その他人間のあらゆる意識活動は,その相互作用の過程の中で,そこに起こる生活上の諸困難,諸問題を解決するために,道具的・機能的に発生し発展する。
 デューイは人間経験の本質をいま述べた生活の二つの基本原理――連続性と相互作用の原理――に求める。そしてこの二つの原理から,デューイのあらゆる思想――知識道具主義,精神機能論,探究の理論としての論理学説,自然と人間経験の世界を連昔する〈自然の橋〉としての〈言語〉の概念,自由な社会的相互交渉と連続的発展を基本的特色とする生活様式としての〈民主主義〉の概念,生活経験主義的教育原理など――が導かれる。デューイは多作家で,M. H. トマスが作成した著作目録は150ページに及ぶ膨大なものである。その中から主著として,《民主主義と教育》(1916),《哲学の改造》(1920),《人間性と行為》(1922),《経験と自然》(1925),《論理学――探究の理論》(1938)などを挙げることができよう。なお彼は,著作活動だけにとどまらない行動する思想家であり,中国,トルコ,ソ連などへの教育視察・指導旅行,サッコ=バンゼッティ事件での被告弁護活動などは特によく知られている。⇒プラグマティズム                 米盛 裕二

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道具主義
道具主義 インストルメンタリズム

インストルメンタリズム
instrumentalism

  

道具主義,器具主義などと訳されるように,観念,知識,思想などを人間の行動のための道具,生活のための手段と考える立場。プラグマティズムの一派で,J.デューイが代表者。実験主義とほぼ同意。





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道具主義
道具主義 どうぐしゅぎ Instrumentalism アメリカの哲学者デューイによってとなえられたプラグマティズムの発展したかたち。思考を人間の実際の行動の際の道具と考える立場。この考え方によれば、困難な事態に遭遇した人間にとって、その事態を解決するのに役にたたない思想や知識はその名に値しないことになる。観念や知識はあくまでその実際の働きによって評価され、人間の経験の途上でそれらが道具として役にたつかどうかがもっとも重要なことなのである。

このような道具主義の実際的で経験中心の考え方はアメリカの思想界に大きな影響をあたえ、デューイやその信奉者たちは教育や心理学の分野でかなりの成功をおさめた。


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J.バトラー
バトラー

バトラー
Butler,Joseph

[生] 1692.5.18. バークシャー,ウォンティジ
[没] 1752.6.16. バス

イギリスの神学者,哲学者。グロスターの非国教会派アカデミーに入学。のちに長老派主義に不満をもち,国教会に加わった。オックスフォード大学卒業後,1718年司祭。 38年ブリストル主教,50年ダーラム主教。おもな業績は『説教集』 Fifteen Sermons (1726) ,および『自然宗教と啓示宗教のアナロジー』 The Analogy of Religion,Natural and Revealed,to the Constitution and Course of Nature (36) である。後者においてバトラーは,当時のイギリスで広まりつつあった理神論や理性主義の風潮に対して,啓示宗教としての正統的キリスト教教義を擁護した。



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バトラー 1692‐1752
Joseph Butler

英国国教会の聖職者,ダラム主教,哲学者。長老派教会員の家庭に生まれたが国教会に改宗し,ブリストル主教(1738)を経て,1750年ダラム主教就任。《宗教の類比》(1736)で自然宗教と啓示宗教の〈類比〉を論証して,啓示宗教としてのキリスト教の伝統的な正統教義を弁証した。倫理学者としては,道徳生活は人間本性にかなった生き方であるとして,ホッブズ以来の利己主義的な功利主義を批判するなど,後世の思想家に影響を及ぼした。                       八代 崇

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厚生経済学
厚生経済学

こうせいけいざいがく
welfare economics

  

さまざまな経済環境において最適な状態は何であるかを規定し,実際の経済で運営されているメカニズムがその最適な状態を達成できるか否か,達成できないときにはどのような政策が必要か,などを分析する経済学の一分野。すなわち社会厚生の概念に内容制約を加えて経済政策が妥当かどうかの基準を確立し,その応用を企図する経済学である。「かくあるべし」という規範命題を追究する学問であって,「こうである」という実証命題を追究する実証経済学 positive economicsと対照をなす。 J.ベンサムを起源とし,ケンブリッジ学派の A.ピグーが『厚生経済学』 The Economics of Welfare (1920) で体系的に展開した。





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厚生経済学
厚生経済学 こうせいけいざいがく 実証経済学に対する用語で、ある特定の価値判断にしたがって、市場などの経済組織の成果を評価する、経済学の1分野。ピグーの主著「厚生経済学」(1920)に由来し、規範経済学ともいう。実証経済学は事実記述的経済学ともよばれ、経済組織における諸作用の因果性を法則の形で解明することを目的としている。これに対して厚生経済学は、経済組織の成果をたんに評価するだけでなく、それが不適切に運行されているような場合に是正する方法を提示することをもその内容としている。その意味で、厚生経済学は経済政策に理論的な根拠をあたえるものと考えられる。

厚生経済学でもちいられる価値判断としては、パレート基準がもっとも一般的である。これは、イタリアの経済学者パレートによってしめされた経済組織の効率性をたしかめる基準である。

すなわち、ある活動によって、ほかのいかなる人の効用水準をも低下させてはならないという条件下で、ある人の効用水準を上昇させうるならば、その活動をパレート改善的であるという。また、同じ条件下で、ある人の効用水準を上昇させえない状態をパレート最適という。つまり、パレート最適とは社会全体からみると、まったく無駄なく財や資源が配分されている状態をさす。

消費者と生産者にとっては、各自の財または資源を自由に交換することによってパレート最適を達成しうる。競争が均衡にいきついた状態はパレート最適であるという命題は、厚生経済学の基本第1定理として知られている。

1930年代になると、ヒックスなどが先頭にたって新厚生経済学を主唱した。これは、ピグーが個人の効用を合計することによって社会全体の効用をもとめることができると考えていたのに対して、個人間の効用比較をおこなわずに経済厚生をとらえたものである。新厚生経済学においては、分配よりも交換を重視し、効率性にかかわる最適条件をもとめることで、経済厚生を評価した。

ついでバーグソンやサミュエルソンらは社会的厚生関数をもちいて、分配と交換をともにふくんだ経済厚生の評価をおこなった。しかし、この試みに対してアローは、民主主義社会において社会的厚生関数を定義すること自体が不可能であると主張した。


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厚生経済学
こうせいけいざいがく welfare economics

規範経済学ともよばれ,所与の価値判断に照らして経済組織の運行機能を評価することを課題とする。経済学のこの分野を初めて体系的に取り扱った A. C. ピグーの主著《厚生経済学》(1920)の標題に従って,厚生経済学とよばれることが多い。
 厚生経済学は,特定の価値判断を提唱ないし主張するものではなく,考察に値すると思われる所与の価値判断の帰結を示すことがその課題である。これまでに考察された価値判断の中で中心的なものはパレート改善の基準である。どの個人の満足水準も低下させず,少なくとも1人の個人の満足水準を高める変化をパレート改善という。実現可能な資源配分で,もはやパレート改善不可能なものをパレート最適という。これは,資源がむだなく効率的に使われている状態である。厚生経済学が確立した中心的命題の一つに,外部経済や外部不経済(外部経済・外部不経済)あるいは公共財がない経済において,完全競争市場で均衡として達成される資源配分はパレート最適であり,また逆に,任意のパレート最適は完全競争市場の均衡として達成できるという基本定理がある。現実の市場で完全競争は厳密には成立していないから,その働きに任せておけばパレート最適が達成されるという必然性はないが,完全競争状態に近づけることによってパレート最適に近いものを実現しようとする経済政策の根拠となるものは,この基本定理である。しかし,この定理の成立の背後には,外部経済,外部不経済,公共財が存在しないという大前提がある。放送局の放送サービスや国家の国防サービスのような公共財は現実に存在し,外部不経済は公害という形でもみることができる。したがって市場における競争が完全であってもパレート最適が達成される必然性はなくなり,独占的要素を排除して競争を完全な状態に近づけるという政策の理論的根拠は弱くなる。かりに上記の大前提が満足されたとしよう。この場合でも,ある産業で完全競争が成立せず,その状況は変更できないものとしたとき,残りの産業のあり方はどうあるべきかという問題がある。残りの産業がどうあろうとも,厚生経済学の基本定理により,パレート最適の達成は困難であろう。この場合の問題は次善 second best 問題とよばれ,その解は残りの産業で完全競争を成立せしめることとは異なることが知られている。この主張は次善定理とよばれる。
 パレート最適の達成がいくつかの理由で妨げられるとき,経済政策の問題としては,なんらかの改善を実行することが考えられる。多くの経済政策の効果はある個人には有利に作用し他の個人には不利に作用するから,一般にパレート改善を実行するものではない。したがってパレート改善という価値判断だけに頼れば,経済政策の可否を決定できない場合が多い。そこで,この価値判断を次のように拡張することが考えられた。二つの資源配分 A,B について,A を個人間で再分配して資源配分 C に到達して C が B のパレート改善となるようにすることが可能なとき,A が B より良いと判断するのである。この考え方は補償原理とよばれるが,この原理によれば,A が B より良く同時に B が A より良いという矛盾した判断が生ずることがあり,このままの形では使えない。そこで,いくつかの変形された補償原理が提案されたが,成功しているとはいえない。
 厚生経済学の基本定理,次善定理,補償原理に関係する価値判断は資源配分の効率性にかかわるものであるが,資源配分の公正に関する価値判断も考察の対象となる。古くから論議されているものは個人間の平等な配分を正当化しようとするものであるが,十分な根拠を見いだすのは困難である。一般に価値判断を表現する方法として,評価すべき資源配分にその望ましさに応じて数値を割り当てる社会的厚生関数という概念が用いられることがあるが,これを民主的手続に従って構成することは不可能であるという K. J. アローの一般可能性定理が知られている。これは,厚生経済学が基礎を置く社会的価値判断の形成には困難が伴うことを示している。この定理を出発点として社会的選択理論とよばれる分野が発展している。                      長名 寛明

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ピグー
ピグー

ピグー
Pigou,Arthur Cecil

[生] 1877.11.18. ワイト島ライド
[没] 1959.3.7. ケンブリッジ

  

イギリスの経済学者。ケンブリッジ大学キングズ・カレッジ卒業。 1903~04年ロンドン大学講師,04~07年ケンブリッジ大学講師をつとめ,08年 A.マーシャルの跡を継いで 43年まで同大学経済学教授。主著『厚生経済学』 The Economics of Welfare (1920) では,いかにして社会から貧困を追放するかというケンブリッジ学派の問題意識に基づき,社会の経済的厚生の増大に関する理論経済学的分析を展開した。また雇用理論に関する J.M.ケインズとの論争や,その過程で論じられたピグー効果でも有名である。『失業の理論』 The Theory of Unemployment (33) ,『雇用と均衡』 Employment and Equilibrium (41) ほか著書多数。





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ピグー,A.C.
I プロローグ

ピグー Arthur Cecil Pigou 1877~1959 イギリスの経済学者。軍人の子としてワイト島のライドで生まれた。ハロー校卒業ののちケンブリッジ大学のキングズ・カレッジにすすみ、以来一生を通じてそこにとどまった。1908年に師マーシャルの後をついで31歳の若さで経済学教授となり、44年にD.H.ロバートソンにひきつがれるまで35年間にわたってその地位にあって、マーシャルが創始したイギリスの正統的古典経済学の一派、ケンブリッジ学派を継承していった。

II 厚生経済学を創始

著書、論文は多数にのぼるが、なかでもその名を不朽のものにしたのは、「富と厚生」(1912)を改訂増補した「厚生経済学」(1920)である。この大著において彼は、一般的厚生のうち貨幣の尺度で測定できる部分を経済的厚生とよび、その具体的な対応物である国民所得が大きくなるほど、またその配分が平等になるほど、そしてその変動が小さくなるほど、経済的厚生は増大すると説いた。

ただしこれら3つの命題のうち最後のものは、のちに切りはなされて「産業変動論」(1926)という別の書物にうつされ、現在の版は最初の2つの命題を支柱として構成されている。

そうした基本的立場にたって、彼は市場のメカニズムがどこまでのぞましく、どこに欠陥をもつかを詳細に検討し、後者の面については産業への課税や補助金の交付、富者から貧者への所得の再分配などを提唱した。

III 失業問題をめぐって

他方、彼は労働問題や失業問題にも深い興味をよせたが、その「失業の理論」(1933)は、のちにケインズの痛烈な批判の標的となり、両者の間にははげしい論争が展開された。しかし、依然として古典派の立場は堅持したものの、彼はしだいにケインズの考え方にも理解をしめすようになり、「雇用と均衡」(1941)ではより広い包括的な境地に到達した。

ケインズ派とのこの論争過程を通じて彼は、失業が存在する結果、貨幣賃金や物価がさがりつづければ、保有金融資産の実質価値が向上するから、消費需要が増大し失業者を吸収するはずだという見解を表明した。今日のマクロ経済学においてピグー効果として知られるものがこれである。


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ピグー 1877‐1959
Arthur Cecil Pigou

イギリスの経済学者。イングランドのワイト島に軍人の子として生まれる。A. マーシャルの後継者として1908年に母校ケンブリッジ大学の経済学教授となり,44年まで在職した。また通貨や税制などの政府委員会に関与して実際界でも活動している。著書は30冊に近く,パンフレットや論文は100編をこえる。彼の名を高めた《厚生経済学》(1920,4版1933)は,社会の経済的厚生ないし福祉を最大にするという目標からみて,自由な市場経済のはたらきはどこまで有効で,どこに欠陥をもつかを明らかにし,それを是正するための経済政策の理論を展開している。ピグーはまた早くから労働問題や失業問題に関心をいだいていたが,とくに《失業の理論》(1933)はケインズの激しい批判の対象となった。ピグーは当初これに強く反発したが,後にはケインズの貢献を高く評価するようになった。そうした総合的な立場は彼の《雇用と均衡》(1941)に示されている。なおケインズ派との論争の過程において,賃金と物価が低落すれば人々の保有する貨幣的資産の実質価値が高まり,それが消費を増加させるかもしれないという考え方が示唆され,これは〈ピグー効果 Pigoueffect〉(実質残高効果ともいう)と呼ばれるようになった。⇒厚生経済学          熊谷 尚夫

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資産効果
しさんこうか assets effect

さまざまな経済主体の行動に影響を与える要因として,それぞれが保有する資産の大きさを挙げることができる。この資産効果は,もう一つの主要因である所得効果(所得効果・代替効果)と併置されるものである。経済学で資産効果が初めて問題となったのは,J. M. ケインズの消費関数をめぐってであった。ケインズは《一般理論》で,消費を決定するおもな要素として国民所得を挙げて,限界消費性向の大きさが,投資や財政支出の乗数効果(〈乗数理論〉の項参照)と密接な関係をもつということを強調した。それに対して,新古典派の経済学者たちの間から,消費を決定するもう一つの重要な要因として,保有資産の残高が挙げられ,資産効果の存在が,ケインズの乗数効果に無視しえない影響を与えるということを指摘した。その代表的な経済学者は A. C. ピグーであったので,資産効果はしばしばピグー効果とも呼ばれる。
 現在,資産効果は狭い意味でのピグー効果だけでなく,もっと一般的な意味に用いられている。とくに,合理主義的な経済学の立場をとる人々のなかには,経済行動を決定する主要因は,すべての種類の資産(労働力を生み出す人的資本まで含めて)の純価値を総計した純国民資産の大きさであると主張し,資産効果こそ最も重要な概念であると考える経済学者もいる。       宇沢 弘文

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ヒックス
ヒックス

ヒックス
Hicks,(Sir) John R(ichard)

[生] 1904.4.8. ウォリックシャー
[没] 1989.5.20. ブロックリー

  

イギリスの経済学者。オックスフォード大学卒業後,ロンドン,ケンブリッジ,マンチェスター各大学の教職を経て,1946年オックスフォードのナフィールド・カレッジのフェロー,52年オックスフォード大学教授,65年同名誉教授。 A.マーシャルから部分的に J.M.ケインズにいたるまでのケンブリッジ学派の業績を集大成するとともに,オーストリア学派,スウェーデン学派の業績を摂取しつつ,L.ワルラス,V.パレート流の一般的均衡理論を大きく躍進させた『価値と資本』 Value and Capital (1939) はケインズの『雇用・利子および貨幣の一般理論』とともに 20世紀前半における経済学上最大の古典の一つと目されている。近年は微視的価格理論よりも時間要素も含めたうえでの資本や貨幣問題の領域で活躍中。 64年ナイトの称号を受け,72年 K.J.アローとともにノーベル経済学賞受賞。夫人は S.J.ウェッブの娘で,財政学者として著名な U.K.ヒックス。主著は上記のほか『賃金の理論』 Theory of Wages (32) ,『景気循環論』A Contribution to the Theory of the Trade Cycle (50) ,『資本と成長』 Capital and Growth (65) ,『資本と時間』 Capital and Time (73) 。





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ヒックス,J.R.
ヒックス John Richard Hicks 1904~89 イギリスの経済学者。ウォーリックシャー州レミングトン・スパに生まれ、1926年オックスフォード大学ベリオール・カレッジを卒業。26~35年ロンドン・スクール・オブ・エコノミックス(→ ロンドン大学)の講師、35~38年ケンブリッジ大学のフェロー、38~46年マンチェスター大学教授をへて、46年オックスフォード大学ナフィールド・カレッジのフェローとなる。52年同大学教授となり、65年名誉教授になった。

ヒックスの業績は経済学のあらゆる分野におよび、そのほとんどすべてがその後の経済学に画期的な影響をおよぼしている。主著「価値と資本」(1939)は、ワルラスおよびパレートの、多数の財の価格は相互に関連して決定されるとする一般均衡理論に新たな発展をくわえた、新古典派経済学の集大成ともいえる名著である。この中でヒックスは、ことなる時点の均衡状態を比較分析する比較静学的手法を駆使して、消費者と企業の主体的均衡および市場の均衡の安定条件をもとめたが、これらの分析手法の多くは現在でも理論経済学の標準的な方法としてもちいられている。

また、「景気循環論」(1950)では、加速度原理と乗数理論にもとづきながらも景気循環を経済成長にむすびつけ、いわゆる制約循環の理論を展開した。また、「資本と成長」(1965)をはじめとする多くの著作においては、資本蓄積と成長過程に関する綿密な分析を発展させた。さらに、ケインズの利子理論を修正した新しい利子率決定の方式IS・LM曲線分析もヒックスの提唱によるものである。

そのほかの主著として、「賃金の理論」(1932)、「需要理論」(1956)、「貨幣理論」(1967)、「経済史の理論」(1969)、「資本と時間」(1973)、「ケインズ経済学の危機」(1977)などがある。1964年ナイトの称号をあたえられ、72年ノーベル経済学賞を受賞。


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ヒックス 1904‐89
John Richard Hicks

イギリスの経済学者。イングランドのウォリックシャーに生まれ,オックスフォード大学卒業後,ロンドン・スクール・オブ・エコノミックス(LSE)講師,ケンブリッジ大学フェロー,マンチェスター大学教授を経てオックスフォード大学教授(1952‐66),またオールソールズ・カレッジのフェロー(1952‐)。主著《価値と資本 Value and Capital》(1939)は,ワルラス,パレートの一般均衡論に北欧学派の立場を摂取し,価格経済構造を微視的社会像として定着させた古典である。序数的効用理論(限界代替率)に基づく需要供給理論,連関財の理論,静学的安定論,経済理論の動学化を主要テーマとして,個人と社会,静学と動学を貫徹する共通原理を追求している。研究の出発点であった《賃金の理論》(1932)においても,〈中立的技術進歩〉や〈代替の弾力性〉という新概念を提唱して大きな影響を与えた。論文《ケインズ氏と一般理論》(1937)でいわゆる IS‐LM 曲線を提唱したが,これはケインズ理論の核心を表現しえたものとして学界に受け入れられ,今日のマクロ経済分析の基本的道具の一つとなっている。IS‐LM の静学的立場は《景気循環論》(1950)において,加速度原理と乗数過程(乗数理論)の相互作用による動学的展開に発展した。《資本と成長》(1965)では固定価格モデルと伸縮的価格モデルの区別を提唱し,その後の不均衡マクロ分析の展開に影響を与えた。ほかに《経済史の理論》(1969),《ケインズ経済学の危機》(1974)などの著書がある。1964年列爵。72年ノーベル経済学賞受賞。          久我 清

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倫理学はノイラートの船か?(その4) [宗教/哲学]


意味論
意味論

いみろん
semantics

  

(1) 言語学の一部門としての意味論,(2) 記号論 semioticの一部門としての意味論,(3) その他の意味論,に分けられる。 (1) は最も広い意味では,言語のさまざまのレベルにおける意味のあり方を研究する分野。まず,意味とは何かという根本的問題が課題になり,個々の具体的問題として,単語内部の意味的構造,単語間の意味的関係 (類義,反義,包摂など) ,統辞論的構造の間の意味的関係などがある。言語学の歴史のなかで,一つの分野として注目されたのは比較的最近のことであり,現在,理論の枠組みや意味記述法に関して多種多様の説が提案されている。 (2) においては構文論,語用論とともに記号論の一部門をなし,ポーランド学派,ウィーン学団の記号論理学者たちを経て,C.W.モリスによって学問的に基礎づけられた。 (3) その他の意味論としては,社会心理学における意味論などがあげられる。





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意味論
いみろん

ふつうセマンティクス semantics のことをさす。記号(言語を含む)の意味に関する科学で,言語学,哲学,論理学などにおける研究領域として取り扱われる。
【言語学における意味論】
 言語学における意味論では語および文法を含むあらゆる言語表現手段の意味を研究するが,ときには語の具体的な意味だけを対象とする場合もある。この場合の意味論は語彙論の一部となる。語の表現形式とそれによって示される内容との関係は形式から内容を研究する方法と,内容から形式を研究する方法の二つがあり,前者をセマシオロジー semasiology,後者をオノマシオロジーonomasiology(命名論)と呼ぶ。すなわち,セマシオロジーでは,[yama]と発音され〈山〉と書かれる語の形式が言語外現実の何に対応するかを研究し,オノマシオロジーでは,〈地面が高くなっている〉という言語外現実が所与の言語ではどのように命名されるかを研究する。
 セマシオロジーは一部で上記の意味論(セマンティクス)と同じ意味で使われることもあるが,多くの場合歴史的立場から見た語の意味の変遷だけを示し,語の意味の共時的(サンクロニック)な研究(歴史的変遷を追う通時的(ディアクロニック)研究に対し,一定の時期における一定の言語の状態総体の研究)にはセマンティクスの語を用いることがすすめられている。意味論の定義にしばしば語の意味の研究およびその意味の変遷という定義がなされるのは,意味論の発展してきた道を反映し,この間の事情を物語っている。
 語という形式が一部の例外を除いて原則的には対応の意味と必然的関係がなく,その間の関係が約束事によっているとすれば,すなわち地面が高くなっているところを〈山〉と呼ぶのはこの言語での約束事であり,こう呼ぶ必然性がなければ,語は一種の記号であり,意味論は統語論(シンタクス)および語用論(プラグマティクス)とともに確かに記号論の一部を構成する。しかし,語は“一種の”記号として,“自然”言語を形成しているので,自然言語以外の記号体系を扱う分野の研究とは異なった扱いが必要となる。ここにおいて論理学的シンボルとその意味の関係の研究を扱う論理学的意味論は言語学的意味論とは違うことが明白になる。論理学的シンボルにはそのシンボルの素材としての実体がなく,そのシンボルで表現されるものの歴史的変化はありえない。ところが自然言語では語の意味が,例えば[kuruma]は車→自動車のように変化する。すなわち,語の形式と内容の関係が歴史的に変化していく。このことをポーランドの論理学者 A. シャフは自著の《意味論序説》(1960)において,〈言語学的意味論の特徴をなすのは意味の歴史の研究,言語に対する歴史的な取組み方にある〉と述べていて,語の意味と並んでその意味の変化および変化の原因を対象としているところに言語学的意味論の独自性がある,とみている。自然言語の記号としての記号の性格と機能,自然言語のもつ同音異義語や多義語にみられる多義性,さらに,そのことからくる危険性などが,論理学的意味論の立場から見た言語学的意味論の問題点と考えている。
 意味論はこれまで言語学的意味論と哲学的意味論が互いに補い合う形で発展してきており,現在では一方で言語学,もう一方で哲学の二つにまたがる典型的な境界領域の学問となっている。
 今日用いられるのと似通った〈意味の科学〉という意味でセマンティクスなる語が使われたのは,フランスの言語学者 M. ブレアルの《意味論研究》(1897)ないし,《言語の知的法則,意味論断片》(1883)であるが,この時点でもまだ意味の変化を支配する法則を意味しており,これ以前のドイツの学者 K. H. ライジッヒのセマシオロジーとほぼ同じ内容である。しかし,20世紀に入りやがて F.de ソシュールが出て,言語研究を通時的(ディアクロニック)と共時的(サンクロニック)に区別することが学界に定着するに及び,意味論の分野でもこの区別が導入され,前者にセマシオロジー,後者にセマンティクスが使われることが多くなってきている。この後,意味論の研究は歴史的研究から共時的研究に中心が移り,今日ではどのように意味を記述するかに関心の中心がある。
 意味の研究は言語の研究の主要な一部門を形成するとはいえ,音に関する研究(音韻論,音声学)や形態論とは異なり,依然として確立した研究方法も,基本的な単位も定まっておらず,近代の言語学に特徴的な構造主義的立場からの研究も,そもそも語彙が構造をなすという必然性がなく,語彙が仮に構造をなしているとしても,構造の中のもっともゆるい部分であるので,うまくいかない。言語学的意味論はこのような困難を抱えており,科学的な学問として成立するためにはこれらの困難を除去しなければならない。論理学的意味論,哲学的意味論はこれらの障害をそれぞれ除去したもので,論理学的意味論では語のかわりに論理的シンボルを用いて語という実体のもつ意味の曖昧(あいまい)性を除去し,哲学的意味論では概念の分析をして表現形式への関係を考慮しないでいる。しかし,これらの意味論は厳密で科学的であるとはいえ,自然言語の語という実体を扱えず,また語のもつ形式から離れてはすでに言語学的とはいえない。言語学を純粋な科学にまで高め,意味の研究にもその厳密さを求めた L. イェルムスレウの研究が理論的方法の序論を述べただけに終わり,実際の展開がなかったのはそのためであり,また現在多くの言語学者の意味論的分析と称するものが,意味そのものの分析に陥っているのもそのためである。〈後家(ごけ)〉という語を〈人間+女+配偶者を失った〉と分析しても,ここには形式との対応がないのは明白である。とはいえ,この種の分析はかなり進歩してきて,比較的少数の要素の組合せで莫大な数の語の内容が記述される可能性があり,一例をあげればポーランド出身の A. ビェジュビツカの業績などは注目を集めつつある。
 これまでの言語学的意味論で注目を集めたのはドイツのトリーア Jost Trier(1894‐1970)の考えた意味場の理論で,客観的現実が人間の意識の中に反映される場合,言語的に形成される際にその言語の意味論的下位体系をなすなんらかの網をくぐることになる。現実のある断片は言語の一定の意味場と対応するが,この意味場は具体的な言語ではそれぞれ異なって区分されるという考えである。この立場は語というものを完結した語彙体系の一単位と考える点で構造主義の影響下にあり,これまでの語彙に体系を認めない立場と異なっている。この立場をさらにすすめたのが L.ワイスゲルバーで,ポルツィヒ Walter Porzig(1895‐1961)の立場もこれに近いが,ポルツィヒはもう一つの言語学的意味論の研究方法である連語 collocation による分析(後述)にも近づいている。
 意味を分析するとき,客観的な手段で分析したいというのがこの分野の悲願であり,その結果考え出されたのが,ある語が出てくる環境を調べ,それによって語の意味を記述していこうとする立場である。ポルツィヒは動詞(あるいは動詞的意味)が一定の名詞(あるいは名詞的意味)を前提とする(たとえば das HÅren(きく)‐das Ohr(耳))ことに注目し,このような動作とそれを行う器官だけではなしに,さらに多様な関係をも見いだし,他の品詞にも広げていくことにより意味を記述しようとしている。このように一つの語を記述するのに他の語との関係を考慮する連語による方法は,それぞれ異なった主張があるとはいえ,J. ファース,A.K. ハリデーらのロンドン学派の学者にも見いだされる。また,ポルツィヒのように語の関係を見いだしていこうという考えは,古くは K. ビューラーや,近年では T. ミレフスキなどのポーランドの学者にもみられる。
 現在までの言語学的意味論の研究はまだ萌芽だけで,これまでに研究された方法での語彙の全体的記述はまだ当分先のことと考えられている。最近の言語学的意味論研究で新しく登場したのは語の意味ではなく,文における語の機能の研究である。これは語彙的意味の研究に対立する文法的意味の研究といえよう。たとえば,動詞の性質から文構造の本質を見いだそうとする理論のうち,もっとも成果が上がっているのはテニエールL. Tesni≡re の《構造的統辞論要理》(1959)で,構造主義的立場でありながらすでに N. チョムスキーの生成文法と数多くの共通点をもっている。
 チョムスキーから起こった生成文法は最初は主として統辞論を対象としていたが,しだいに意味論の領域の問題を取り上げるようになり,多義語,同音異義語というような伝統的分野での新解釈を提示すると同時に,文法的意味や文構造の意味にも理論的研究が発表されている。とはいえ,生成文法の各派でそれぞれ異なった主張がなされており,形式的アプローチで説明できない場合,ここでも哲学的意味論や,記号論の他の分野である語用論の援助を求めるなど,まだ研究は安定した理論的基盤を得るにはいたっていない。⇒言語学
【論理学と記号論における意味論】
 論理的意味論とは言語表現の意味の研究を扱う論理学の一分野で,より正確にいえば記号を運用する諸規則の論理的システムの解釈の研究である。論理的意味論の基本的概念はいわゆる命名の理論と,いわゆる思考内容の理論の二つに分かれる。この分野では言語の意味特性の記述にはもはや自然言語では不十分で,メタ言語(記述を目的にした人工度の高い言語)が必要になる。論理的意味論を初めて詳細に研究したのはG. フレーゲで,その発展に寄与したのはポーランドのルブフ・ワルシャワ学派に属する論理学者たち J. ルカシェビチ,T. コタルビンスキ,K. アジュキェビチ,T. タルスキ,その他では R. カルナップ,W. クワインなどであり,この論理学的意味論は数理言語学,機械翻訳,自動情報処理などの発展に伴って広い応用領域がある。
 一般意味論は記号論的意味論の意味での意味論の心理学,社会学,政治学,美学などへの応用で,C. W. モリスの記号の一般理論とも,カルナップ流の意味解釈の理論とも違う。A. コジプスキによって始まったとされるこの一般意味論の考え方はすでに C. K. オグデンと I. A. リチャーズの共著《意味の意味》(1923)の中にも似た考えがあり,この考えの非哲学性のゆえに S. I. ハヤカワ,A. ラポポートをはじめ多くの同調者がアメリカの実用主義者(プラグマティスト)や論理実証主義者の中にいる。
 記号論的意味論とは記号体系の内部構造を研究するシンタクス,記号体系とそれを利用する者との関係を研究する実用論(語用論)と共に記号論を構成する三つの分野の一つで,対象の思考内容(すなわち所与の表現に含まれた情報により,表現を対象に結びつけること)の表現手段としての記号体系を研究する分野である。⇒記号
                        千野 栄一

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意味論
I プロローグ

意味論 いみろん 言語記号、つまり語句や文の意味の研究。セマンティクスsemanticsともいう。意味論の研究者は、「~の意味は何か」というような疑問にこたえようとする。そのためには、記号の性質や内容がどのようにしてつたえられるかを知らなければならない。具体的には、意味とはそもそも何であって、話し手によって意図された意味が、聞き手に解釈される仕組みはどのようなものなのかということである。

II 意味論の分野

意味論は、大きくは哲学的意味論と言語学的意味論に分類されるが、一般意味論とよばれる研究分野もある。哲学では、意味と現実の関係、意味と行為の関係が考えられる。言語学では、言語という体系にかかわるかぎりでの、意味を構成する要素や特徴が研究される。一般意味論では、意味が人間の思考や行動にあたえる影響が考察の中心になる。

1 応用分野

意味論は、応用分野もひろい。人類学は、記述的な意味論をもちいて、人々が文化的に重要だと分類しているものを研究する。心理学は、理論的な意味論をとおして、理解するという行為の心的な過程の記述や、人間が音声や文法と同様に言語の意味をどのようにして獲得するかを明らかにしようとする。動物行動学(→ 動物の行動)は、人間以外の動物がおこなうコミュニケーションを研究する。

一般意味論では、同じ意味をあらわすとされる記号が、実はことなった価値(暗示的意味)をもつことを分析する。たとえば、「イエナの戦の勝利者」と「ワーテルローの戦の敗北者」がともにナポレオンをさすような場合である。一般意味論の流れをくむ研究として、文学批評や文学においてもちいられる比喩(ひゆ)表現の分析がある。

III 哲学的意味論

19世紀の終りにフランスの文献学者ブレアルは、「意味論研究」を提唱し、言語記号や言語表現にあたえられる意味の探求をめざした。1910年にイギリスの哲学者ホワイトヘッドとラッセルが「プリンキピア・マテマティカ」をあらわし、この著作はウィーン学団の哲学者たちに大きな影響をあたえた。この学団は、論理実証主義とよばれる厳密な哲学的方法を発展させた(→ 分析哲学と言語哲学)。

1 記号論理学

ウィーン学団の指導者のひとりであるドイツの哲学者カルナップは、記号論理学を発展させることにより、哲学的意味論に大きな貢献をした。記号論理学とは、記号や記号があらわすものを分析するための学問体系である。

論理実証主義では、意味とは単語と事物の間の関係であり、意味の研究は経験に基礎をおくと考えられていた。そして、言語は理想的には現実を直接に反映するものであり、記号は物事の写像であるとされた。

1A メタ言語と対象言語

しかし、記号論理学では、数学的方法によって、記号が表示するものを、日常言語よりもはっきりと正確にあらわそうとする。したがって、記号論理もそれ自身言語ではあるが、ある言語について解説するための形式的な言語であり、「メタ言語」とよばれる。これに対して、メタ言語によって解説されるほうの、日常言語は「対象言語」とよばれる。→ メタ言語と対象言語

1B 真理条件的意味論

対象言語である日常言語の文は、その構造にしたがって、「論理式」とよばれる記号論理の表現に翻訳される。つまり、日常言語の文の意味を、論理式によって表示するわけである。その論理式は、さらに、現実と対照させられて、論理式があらわしている事柄が現実にも存在していれば、その論理式は「真」であるし、論理式のあらわす事柄が現実に存在しなければ、それは「偽」である。こうして、論理式の意味が解釈される。

論理式の意味を解釈して、真であるか偽であるかを決定するような意味論を、「真理条件的意味論」とよぶ。たとえば、「地球はまるい」という文は、「地球」という単語によって指示されるものが、まるいものの集合にふくまれているときに真だと解釈される。私たちのもっている世界についての知識によれば、この文は真である。いっぽう、「地球はひらたい」という文は、同じように私たちの知識にしたがえば、偽となる。

1C 日常言語の哲学

論理実証主義者たちの意味論は、私たちの実際の世界についての経験や知識にもとづいて、文のあらわす事柄の真偽を決定する、真理条件的意味論であった。しかし、このようにして意味を理解する方法は、部分的にしかうまくいかなかった。

オーストリアとイギリスで活躍した哲学者のウィトゲンシュタインは、記号論理をもちいた真理条件的意味論に反対し、思考は日常言語にもとづいているのだと主張して、「日常言語の哲学」を提唱した。彼によれば、記号がすべて世界にあるものを指示するわけではないし、文がすべて真か偽かの値をあたえられるわけではない。このことから彼は、文の意味は、その用法によって明らかになるのだと考えた。

1D 発話行為論

ウィトゲンシュタインの日常言語の哲学から、現代の発話行為論が発展した。イギリスの哲学者オースティンは、人は話すことによって言明や予言や警告などのなんらかの行為をおこなうのであり、ある表現の意味はそれによっておこなわれる行為の中にみいだされると主張した。

アメリカの哲学者サールは、オースティンの考えをさらにすすめて、記号の機能と、それがもちいられる社会的な文脈を関連させる必要があると論じた。

サールによれば、言葉によって少なくとも3つの行為がおこなわれる。(1)発話行為。これは、表現があらわす事柄のことである。(2)発話内行為。話すことによっておこなわれる、約束や命令や主張などのことである。(3)発話媒介行為。話し手が、話すことによって聞き手におよぼす行為のことで、聞き手をおこらせたり、なぐさめたり、説得したりするような場合のことである。

話し手の意図は、言葉のもつ発話内の力によって聞き手につたえられる。しかし、言葉による意味の伝達が成功するためには、もちいられた表現が適切で誠実なものであり、聞き手がもっている信念や世界についての一般的知識に合致するものでなければならない。

哲学的意味論は、以上のように、真理条件的意味論と発話行為論に分類される。ただ、発話行為論に批判的な学者の一部は、この意味論が、言語そのものの意味ではなく、コミュニケーションの中での意味を主としてとりあつかっており、したがって、言語の実用的な側面の一部を分析しているにすぎないと考えている。

つまり、記号の指示するものや事柄そのものではなく、記号をもちいる話し手や聞き手がもっている世界についての知識にかかわるだけのものだというのである。このような学者たちは、意味論とは、話し手や聞き手からはなれて、記号それ自体の解釈に限定されるべきものだと考えている。

IV 言語学的意味論

言語学的意味論には、記述的意味論と理論的意味論がある。

1 記述的意味論

記述的意味論では、個々の言語で記号がどのような意味をもつかが考察される。最大の記号である文は、単語からなりたっていて、文の意味を記述するためには、それを構成する単語の働きを知る必要がある。

1A 「項」と「意味役割」

文を構成する単語の中で、文の意味の枠組みを決定する重要な働きをするのは、述語である。述語は動詞、名詞、形容詞のどれかからなりたっているのが普通である。

日本語のように動詞、名詞、形容詞が、その形をみればすぐにわかるような言語であれば、文の述語がどれかを理解するのは容易だが、中国語のように、単語の形がかわらない言語であれば、文の構造によって述語を決定することになる。たとえば、「食べる」という動詞が述語である文ならば、まずはおおまかに「誰かが何かを食べる」という事柄をあらわすことになる。その「誰か」と「何か」をあらわすのが、名詞の働きになる。

述語のあらわす事柄との関係でとらえられた名詞のことを「項」とよび、述語との関係で項のはたす役割のことを「意味役割」とよぶ。意味役割としては、ある行為や動作をおこなう「主体」、ある動作をうける「対象」、ある行為や動作によって利益をうける「受益者」(日本語ならば「~に」「~のために」であらわされる)などがある。

1B 述語の意味役割

「食べる」という動詞は、そのあらわす事柄の性質によって、それぞれ「主体」と「対象」という意味役割をもつ2つの項を必要とする。必要とする項の数という観点から述語を分類した場合、動詞「食べる」は「二項述語」とよばれる。

これに対して、「走る」という動詞は、主体という項が1つあればよいから「一項述語」になる。「~は学生だ」「~は大きい」のような文にみられる、名詞や形容詞の述語の多くは、一項述語である。

また、「あたえる」という動詞は、「XがYにZをあたえる」という文をみてもわかるように、必要とされるのは「主体」(X)、「受益者」(Y)、「対象」(Z)の3つである。したがって、動詞「あたえる」は三項述語に分類される。

1C 主語の意味役割

英語では、たとえばJohn is running「ジョンは走っている」という文では、is runningという述語動詞の形は、三人称単数現在形であるが、動詞の人称と数をきめているのは主語のJohnである。したがって、英語のような言語では、文の主語がどれであるのかをきめるのはむずかしくない。

いっぽう日本語では、「太郎は勉強した」と「太郎と花子は勉強した」という2つの文では、「太郎」は単数、「太郎と花子」は複数であるのに、「勉強した」という動詞の形は同じである。したがって、日本語のような言語では、主語がどれかをきめるのは、英語ほど簡単ではない。

ただし、英語の、John is eager to please「ジョンは人に気にいられたいと思っている」とJohn is easy to please「ジョンをよろこばせるのは簡単だ」という2つの文で、主語は両方ともJohnであるが、最初の文のJohnの意味役割は「主体」であるのに対し、2番目の文のJohnの意味役割は「対象」である。このように、主語や目的語という単語の文法的な働きと、その意味的な働きはちがうこともある。

1D 成分分析

言語学的な意味論のうち、ある言語の単語が、どのような基本的な意味成分からなりたっているのかを分析する分野を「成分分析」という。

成分分析の成果は、ある言語を話している人々が、自分たちをとりまく世界をどのようにみているかを明らかにするものと期待されている。つまり、話している言語の性質によって、人々のものの見方が左右されるという考え方であり、これを提唱したアメリカの言語学者・文化人類学者サピアとウォーフにちなんで、サピア・ウォーフの仮説(言語相対仮説)とよばれている。

成分分析では、共通の性質をもつものや事柄を指示する単語は、ある意味の場を構成する。そして、その意味の場に属する各単語の意味を区別するのが、意味特徴や意味成分といわれるものである。たとえば、「海」「湖」「池」「沼」という単語は、「水がたまっている場所」という意味の場を形成し、それぞれの単語の意味は、大きさや水の性質などの意味特徴によって区別される。

1E 普遍的な意味特徴

成分分析では、すべての言語に共通の普遍的な意味特徴をみいだすことが目的とされる。そして、個別言語が、その意味特徴をどのように組みあわせて個々の単語の意味を形づくっているかを考察することにより、各言語の独自性が明らかになると考えられている。普遍的な意味特徴という考えは、フランスの文化人類学者レビ・ストロースによって、いろいろな文化における神話や親族の体系の分析にもちいられた。彼によれば、個々の文化は、表面的にはかなりちがっているものの、人々が社会を組織したり、社会の中で自分の占めている位置を解釈するやり方は、深層においてはおどろくほど類似しているという。

2 理論的意味論

文の構造を記述し説明する理論の代表は、「生成文法」である。

2A 生成文法と生成意味論

生成文法の基本的考え方は、文の構造には、抽象的な構造である「深層構造」と、実際に話される形である「表層構造」の2種類があり、深層構造を表層構造にかえる働きをするのが「変形規則」だというものである。この文法では、表層構造に意味を解釈する規則を適用することにより、文の意味の表示がえられるとされている。

いっぽう、生成意味論では、文の意味を決定するための必要な要素は、すでに深層構造においてあたえられている。つまり、深層構造を構成する単位は、単語ではなく、意味特徴や意味役割などなのである。

ただ、深層構造に変形規則が適用されて表層構造がみちびかれるという点は、生成文法と同じであり、生成意味論の変形規則は、生成文法にくらべて、ひじょうに大きく構造をかえてしまうという特徴がある。

文の意味を、生成文法のように表層構造から意味解釈規則によってみちびくのか、それとも生成意味論のようにすでに深層構造の段階で表示されているものとしてとらえるべきかは、議論の余地のある問題である。ただ、いずれにしろ、意味の理論的な分析により、文の意味を正確にあらわす一般的方法が提出され、「太郎はおこりやすい」と「太郎はだましやすい」という、構造は同じだが、「太郎」の意味役割がちがう2つの文の意味と構造の関係をただしく説明できることなどがもとめられている。

3 一般意味論

一般意味論で主として考察されるのは、単語がどのように評価され、そしてその評価が人々の行動にどのように影響をあたえるかである。

一般意味論は、ポーランド生まれのアメリカの言語学者コジプスキによってはじめられ、意味論学者であり政治家でもあるアメリカ人のハヤカワによって長期にわたり研究がすすめられた。そして、単語を単なる象徴以上のものとして使用することにひそむ危険を、人々に知らせることを目的とする場合にもちだされた。

このため、言語によって人々の思考に影響をあたえようとした著述家たちの間では、一般意味論はひじょうに人気があった。このような著述家たちは、一般意味論で提唱された決まりにしたがって、不正確な一般化、柔軟性のない態度、あいまいな表現などをさけるようにしてきた。しかし、哲学者や言語学者の中には、科学的な厳密さがないとして、一般意味論を批判する人々もあり、この方法は人気をうしなってきている。

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自然言語処理
自然言語処理
しぜんげんごしょり natural language processing

プログラム言語のような人工的に設計された人工言語に対して,歴史的経緯を経て自然発生的に形成された日本語や英語のような言語を自然言語という。両者の区別は自明ではないが形式言語理論によれば,その文法の数学的性質は明らかになる。さて,自然言語を扱う学問として歴史的には言語学がある。これに対して自然言語処理は自然言語を計算機で扱うことを念頭においた情報科学の一分野であり,比較的新しい。言語学にせよ自然言語処理にせよ,その対象は記号化されたデータとしての自然言語である。紙に書かれた文字や音声のような記号化される以前の状態の言語は,音声認識やパターン認識のような記号化プロセスを通して記号化されて初めて自然言語処理の対象になる。例外的に初期から記号化されているのはキー入力された文字である。
 現代の自然言語処理の応用分野としては以下のものが代表的である。(a)ワープロの仮名漢字変換,(b)機械翻訳。最近では WWW 上のテキスト翻訳が注目されている。(c)自然言語インターフェース。特に最近ではマルチモーダルインターフェースの一部という位置づけであろう。(d)情報検索に関連して,全文データベース検索,情報抽出,文書要約がある。(e)その他,対話システム,推敲支援,ターミノロジー抽出などが挙げられる。
[言語学のモデルと自然言語処理モデュール] 自然言語理解における処理の階層的モデルとして,言語を扱うことにかけては先輩の言語学における階層構造が使われた。これを以下に記す。
(1)音韻論 音素,アクセントなどから文字あるいは単語がどのように構成されるかについての理論であり,音声処理においては基礎となる。
(2)形態論 文字から単語が構成される枠組みについての理論であり,日本語のベタ書きテキストから単語を切り出す形態素解析の基礎となる。
(3)統語論 単語から文が構成される枠組みについての理論。統語論に基づき,単語間の係り受けなど文の構造の認識などの処理を構文解析という。
(4)意味論 文と世界との関係についての理論である。文とその文が記述する世界の関係を同定する処理を意味解析という。
(5)語用論 話し手,聞き手という発話状況まで考慮に入れた意味や会話の規則性についての理論である。談話構造理解において役立つ。
 このように言語学の階層性に対応して自然言語処理のプログラムモデュールが形成されることが多いが,処理モデュールとしててはむしろ階層にまたがることが多い。たとえば形態素解析モデュールでは構文や意味を利用することが多い。またワープロの仮名漢字変換でも構文に関する規則を利用することが一般的になっている。
 ところで言語理解という代表的自然言語処理において文から究極的に抽出すべき意味とは何であろうか。言語(名詞,名詞句,動詞,動詞句,文,談話,会話)とそれが表す世界のありようとの対応づけのことである。世界のありよう自体は述語論理のような意味表現の枠組みでなされることが多い。そこで,自然言語処理では,文からこの意味表現へ対応をつけるまでを行う。具体的には,(a)名詞や動詞句のような文の要素や文自体の曖昧さ解消,(b)単語によって記述された表現,場合によっては省略された部分が参照する物事の推定,などを含み,総体として意味表現に対応させる処理である。理解の反対方向の操作である文生成の場合は,意味から逆の道筋をたどって文を作る。
[言語情報資源] 自然言語処理においては扱う対象となる言語情報資源には,(1)コーパスと呼ばれる整理された大量の文データ,(2)言語の構造を記述した文法,(3)言語に関する知識を集約整理した辞書がある。
 コーパスは,自然言語処理および言語学さらに言語教育の実用の場において使用する言語情報資源である。単なる文の集りではなく,構文構造などの付加情報をタグとして付加したタグつきコーパスが増えてきている。タグつきコーパスは研究上も重要な言語情報資源であるため,タグの付け方自体も自然言語処理や文書処理の大きな分野になりつつある。
 自然言語処理のための文法は比較的新しい。生成文法に始まり,名詞句や動詞のような文法カテゴリーの書換え規則として文法を記述する句構造文法が発展した。さらに1980年代から各単語が文中で使われる際の制約として文法を記述する単一化文法の研究が進んだ。単一化文法は文を構成する単語のもつ制約を満たすような推論過程として構文解析を行う体系であり,HPSG(主辞駆動文法)が有名である。このように,言語の性質を個々の単語のもつ情報として記述する方向へ進んでいる。そこで,自然言語処理における辞書という言語情報資源は単に見出し語と品詞情報の集りという性質を超えて豊富な情報を担うようになる。こうして自然言語処理で利用する今日の電子化された辞書は,言語情報資源の中核をなすことなった。辞書においては文法情報のだけでなく意味についての記述もなされる。しかし,〈社会〉のような単語の意味を明示することは大変難しい。そこで,意味としてはむしろ他の単語との関係を記述するシソーラスが有力である。たとえば,シソーラスには〈人間は哺乳類の一種である〉〈哺乳類は脊椎動物の一種である〉というような概念間の階層構造を網羅的に記述している。
[手作りから機械学習への展開] 自然言語処理の実際の処理アルゴリズムは探索や知識,ヒューリスティックを利用する。知識は主として手作業で作られた情報を用いていたが,歴史的転回点が1990年代に訪れた。すなわち,手作業での文法や辞書構築の限界が認識され,大量の言語データであるコーパスを処理することで代用しようという動きが現れた。たとえば,(a)個々の単語に関する言語的知識のコーパスからの機械学習による獲得,(b)翻訳事例からなる2言語の平行したコーパスを利用し,ある言語の文の翻訳文を翻訳される言語における対応する文を探し,これに若干の修正をして作る事例ベース機械翻訳,などが主要な技術として確立されつつある。
自然言語処理についての解説書は多数あるが,言語学から自然言語処理までを広範に扱っている岩波講座〈言語の科学〉全11巻は入門書かつ専門書として好適である。⇒形式言語∥音声情報処理∥パターン認識             中川 裕志

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自然言語処理
I プロローグ

自然言語処理 しぜんげんごしょり Natural Language Processing 自然言語とは人間が日常的につかっている日本語その他の言語をいい、コンピューターのプログラミング言語などの人工的な言語に対比するときにつかわれる用語である。こうした人間がつかう日常の言語を、直接コンピューターで処理することを自然言語処理という。

II 人工言語と自然言語

人工言語は表現できる範囲が限定されてしまうが、その範囲内では確実で高度な表現ができる。一方自然言語では、あいまいな要素もふくまれるが、人工言語では表現しきれない豊かな内容を表現することができる。

プログラミング言語は、コンピューターにどのような処理を実行させるかを伝達するには最適の形式をもっている。たとえば「A = 0だったらこの関数をよびだして、ここを繰りかえして…」というようにである。しかし、プログラミング言語は、ある程度の専門的知識がなければ理解することも、表現することも困難である。

III 自然言語処理の必要性

コンピューター用の人工言語が理解できないとコンピューターがつかえないとすれば、コンピューターは専門家だけのものになる。

最近ではOSが高性能化して、かなりコンピューターもあつかいやすくなってきたが、もし日本語で命令を入力するか話しかけるだけでコンピューターが動作すれば、より多くの人々がコンピューターをあつかえるようになる。自然言語そのものは、かならずしも語彙(ごい)の定義や明確なアルゴリズムにそってつかわれるとはかぎらないので、いかにしてあいまいな要素や省略をふくみながら、人間が相互におこなっているようなコミュニケーションをコンピューターと人間の間で実現するかが、自然言語処理にとって重要視される。→ 音声認識

自然言語での会話や文章の要約、英文の翻訳などの機械翻訳といった処理も自然言語処理が対象とする重要な研究分野のひとつである。なお、自然言語で表現されている意味までたちいった文脈理解や、コンピューターが人間と同程度に対話をおこなうようにする研究分野は、自然言語理解とよばれ、人工知能のひとつと考えられている。

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ラムゼー
ラムゼー

ラムゼー
Ramsey,Frank Plumpton

[生] 1903.2.22. ケンブリッジ
[没] 1930.1.19. ケンブリッジ

  

イギリスの哲学者,数学者。ケンブリッジ大学で数学を修め,同大学講師をつとめた。 A.ホワイトヘッドと B.ラッセルによる命題関数の理論の修正とそこに示されているタイプ理論の簡約化を主張。また L.ウィトゲンシュタインの初期思想の影響を受け,そのトートロジー理論や説明理論を発展させた。主著『数学の基礎と論理学的諸論文』 The Foundations of Mathematics and Other Logical Essays (1931) 。





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[ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 2008]
A.ホワイトヘッド
ホワイトヘッド

ホワイトヘッド
Whitehead,Alfred North

[生] 1861.2.15. ラムズゲート
[没] 1947.12.30. マサチューセッツ,ケンブリッジ

  

イギリスの哲学者,数学者。 1885年ケンブリッジ大学講師,1914年ロンドン,24年ハーバード各大学教授。ライプニッツや H.グラスマン,G.ブールの影響を受けて数学の記号論理学的考察を試み,B.ラッセルとの共著『プリンキピア・マテマティカ』 Principia Mathematica (3巻,1910~13) により,論理主義の確立に貢献。次いで自然哲学へ進んで物理学の哲学的考察を試み,24年アメリカに渡ってからは哲学,形而上学の思索に入り,世界の宇宙論的考察を試みた。また教育哲学の領域にも貢献した。主著『自然認識の諸原理』 An Enquiry concerning the Principles of Natural Knowledge (19) ,『自然という概念』 The Concept of Nature (20) ,『科学と近代世界』 Science and the Modern World (25) ,『象徴主義』 Symbolism (28) ,『過程と実在』 Process and Reality (29) ,『理性の機能』 The Function of Reason (29) ,『観念の冒険』 Adventures of Ideas (33) ,『自然と生命』 Nature and Life (34) 。





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ホワイトヘッド 1861‐1947
Alfred North Whitehead

イギリスの数学者,哲学者。ケント州ラムズゲートで英国国教会牧師の家に生まれる。ケンブリッジ大学で数学を専攻し,生徒の一人 B. A. W. ラッセルと協力して,数学を形式論理学から演繹(えんえき)することを企て,《プリンキピア・マテマティカ》3巻(1910‐13)を著す。この著作は記号論理学の歴史における画期的な業績として評価されている。ホワイトヘッドの知的関心は当初から数学や論理学における演繹的方法と同時に,直接に経験され,観察される自然の世界に向けられており,1910年ケンブリッジを去ってロンドン大学に移ってからの約15年間は,この両者の総合が彼の哲学の中心課題となる。《自然認識の諸原理》(1919),《自然の概念》(1920),《相対性の原理》(1922)はいずれもこの課題と取り組んだ,科学の哲学をめぐる著作である。24年ロンドン大学の応用数学教授であったホワイトヘッドはハーバード大学哲学教授に就任するためアメリカに移り,以後約25年間,宗教哲学をふくむ壮大にして緻密な形而上学体系の建設に専念する。この時期の主要著作には《科学と近代世界》(1925),《過程と実在》(1929),《観念の冒険》(1933)などがある。
 哲学者としてのホワイトヘッドの第一の特徴は,卓越した数学者,科学者でありながら,近代の多くの哲学者のように,科学において有効であることが立証された考え方や方法をそのまま哲学の領域に適用する誤りに陥らず,哲学に固有の課題を見てとり,それにふさわしい方法を発展させたことである。彼によるとそのような誤りを犯しているのが〈批判学派〉であり,彼らは明晰・判明な認識の追求と言語慣用の限界内における分析に安住して,われわれの思想の根本的前提に反省を加えようとはしない。ところが,この反省こそ哲学であり,この思想的冒険をあえてする哲学が〈思弁学派〉である。ホワイトヘッドは思弁哲学を〈それにもとづいてわれわれの経験のすべての要素が解釈されうるような,一般的観念の整合的,論理的,必然的体系を組み立てようとする努力〉と定義するが,それは経験的と合理的の両側面をそなえた彼自身の哲学の要約にほかならない。ホワイトヘッドの哲学は〈プロセス哲学〉〈有機体の哲学〉として特徴づけられるが,それは経験および世界を静的・アトム的なものとしてではなく,きわめて根源的な仕方で動的・時間的なもの,その全体を創造的過程としてとらえているからである。通常,独立的事物ないし事実として理解されているものは,世界全体としての創造的過程のなかではじめて成立し,意味をもつものであり,またそれら事物のそれぞれが全体を反映する創造的過程であり,経験であるとされる。彼はこのような創造的過程において見いだされる秩序の根源を神と呼ぶが,それはプロセスのうちにあるものとして有限であると同時に,プロセスに対して確定を与える,超時間的根源であるかぎり無限なる者である。ホワイトヘッドはみずからの形而上学と整合的なこの神概念が,伝統的な超越的無限存在という神概念よりもキリスト教的であり,福音書の説く神をより忠実に反映すると考えており,この考え方が今日〈プロセス神学〉として広範な影響力をもつに至っている。             稲垣 良典

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ホワイトヘッド,A.N.
ホワイトヘッド Alfred North Whitehead 1861~1947 イギリスの数学者・哲学者。20世紀のデカルトといわれた20世紀有数の哲学者。

ケンブリッジ大学にまなび、1885~1911年まで同大学で数学をおしえ、その後、ロンドン大学で応用数学と力学をおしえる。24年にアメリカにわたり36年までハーバード大学で哲学をおしえる。ハーバード大学名誉教授。王立協会、英国学士院の一員でもある。

もともと数学者であるが、哲学や文学の素養も深いホワイトヘッドは、論理学、科学哲学、形而上学あるいは宗教、教育などについての多くの著作をのこした。ケンブリッジ大学時代の生徒ラッセルとともに、記号論理学の画期的著作である「プリンキピア・マテマティカ(数学原理)」(3巻。1910~13)をあらわす。

ホワイトヘッドはそれまで科学でつかわれていた基礎的な概念を検討しなおし、自然科学についての新たな哲学をとなえた。対象の知覚とその知覚された対象間の関係から出発する彼の方法は、「自然認識の諸原理」(1919)や「自然の概念」(1920)などにくわしい。

アメリカに移住後、ホワイトヘッドは、宗教や文明論などもとりこんだ壮大な形而上学の体系にとりくむ。「過程と実在」(1929)に結実するこの考えは、自然や社会のあらゆる現象を最新の自然科学の知見もふまえて、統一的に説明している。この時期の著作には「科学と近代世界」(1925)、「観念の冒険」(1933)などがある。

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B.ラッセル
タイプ理論
タイプ理論
タイプりろん theory of types

B. A. W. ラッセルが1901年に発見したいわゆる〈ラッセルのパラドックス〉を解決しようとして提出した理論(1908)と,その単純化,制限の解除,および変形の総称。階型理論ともいう。大ざっぱにいえば,ある言語に登場する名辞は一般に階層組織を持ち,ある階層に属する名辞にはそれよりも高い階層の名辞しか帰属しないという思想にもとづいて論理学と数学の言語を再構成し,その言語中ではパラドックスが生じないようにする理論である。ラッセルは〈ある要素集合はその集合によって初めて定義されるものを要素とすることはできない〉という悪循環原理 vicios‐circle principleにもとづいてこれを行った。こうして,個体集合はそれ自身個体ではなく,個体集合の集合はそれ自身個体集合ではないことになる。しかし彼は,〈エピメニデスのパラドックス〉を初めとする意味論的パラドックスもこの原理にもとづいて解決されるべきだと信じたため,最初提出された理論は分岐タイプ理論 ramified theory of types というきわめて複雑なものであった。彼はあとで意味論的パラドックスを別に扱うべき異種のものであることを認めてこの理論を単純タイプ理論 simple theory oftypes に簡単化し,《プリンキピア・マテマティカ》の第2版でこれを採用した。タイプ理論のあとの発展は,理論の存在論的な面をいかに形式的な統語論に再構成するか,統語論的階層制限をどれほどゆるめ,あるいは変形してもパラドックスを生じないかということであった。しかし日常言語における語句の階層的構造は明確には認められず,悪循環原理は哲学的な存在論,カテゴリー論において生かされるべきものとされる。⇒パラドックス
                        中村 秀吉

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ウィトゲンシュタイン
ウィトゲンシュタイン 1889‐1951
Ludwig Wittgenstein

20世紀におけるもっとも重要な哲学者のひとりで,いわゆる分析哲学の形成と展開に大きな影響を与えた。ウィーンのユダヤ系の家庭に生まれ,1908年以後は主としてイギリスで活動し,オックスフォードで没した。彼の哲学の発展はふつう前・後期の2期に分けられるが,前期の思想は生前公刊された唯一の著書である《論理哲学論考》(1922)に集約されており,フレーゲおよび B. A. W. ラッセルとの関係が深い。他の著作はすべて弟子たちの手で遺稿から編纂され,とくに《哲学探究》(1953)が後期の代表作とされる。なお,《論考》の発表後しばらく哲学から離れていた彼が再渡英し,ケンブリッジ大学に戻った29年から,この《探究》の執筆を始める36年ころまでを〈中期〉と呼んで区別することもある。すべての時期を通じて彼の哲学は,言語の有意味性の源泉を問い,言語的な表現と理解の根底にあってこれを可能ならしめている諸条件を探究するものであった。しかし前期の思想と(中)後期の思想のあいだにはかなり顕著な性格の違いがあり,その影響も異なる方向に働いた。同じく言語の明晰化を主目的とする分析哲学者でも,記号論理学による科学言語の構成を目ざすひとは《論考》を尊重し,日常言語の記述によって伝統的な哲学問題の考察をすすめるひとは《探究》から学んだ。なお中期の著作としては《青色本・茶色本》《哲学的考察》《哲学的文法》があり,後期には《探究》のほかに《断片》《確実性の問題》などがある。第2次大戦後の日本でも彼の哲学に対する関心は活発で,研究書や論文の数も多い。
 前期《論考》の哲学では言語の基本的な構成単位を〈要素命題〉と呼ぶが,これは例えば画像や立体模型と同様に,一定の事実を写す〈像〉であると考えられ,それら要素命題から論理的に構成されたものとして分析できる命題だけが有意味と認められる。彼はこの原子論的な言語観に基づき,世界の諸事実を記述する経験科学の命題と,もっぱら言語の形式にかかわる数学・論理学の命題を峻別した。また形而上学的な〈自我〉や価値・倫理などの伝統的な哲学問題は元来〈語りえぬ〉もの,言語ないし世界の限界の外にあるものとする。一見すると《論考》の哲学は,論理実証主義者の反形而上学的な科学哲学を先取りしたもののようであるが,じつは彼の真意は,人間の根本の生きかたにかかわる問題をあくまで尊重し,これらを〈内側から限界づけ〉て事実問題との混同を防ぐところにあった。その後彼は《論考》の言語観にみずからきびしい批判を加え,しだいにあらたな考察の地平を切り開いていったが,その際とくに重要な意味をもったのは〈自我〉の問題である。《論考》の中核である〈像の理論〉は,要素命題の記号を言語外の対象に対応づけ,命題を事実の写像たらしめる主観の作用を暗黙のうちに前提していた。これは言語主体たる〈私〉を有意味性の根源とすることであり,そのかぎり,〈私の言語の限界〉をもって世界そのものの限界とする独我論の立場を脱することはむずかしい。後期のウィトゲンシュタインは,こういう〈私的言語〉の想定が《論考》のみならず広く哲学的な言語解釈の根源になっていることを見抜き,この想定の背理と不毛を徹底的に追及した。この批判作業を通じて,後期における〈言語ゲーム〉の哲学の基礎が固められる。言語は物理的な記号配列や,これに意味付与する精神作用としてではなく,一定の〈生活形式〉に基づき,一定の規則にしたがって営まれる〈行為〉として考察されることになった。さまざまな言語ゲームの観察と記述によって彼は哲学の諸問題を解明したが,最晩年には古典的な〈知と信〉の問題に深く踏みこみ,言語ゲームそのものを支える〈根拠なき信念〉をめぐって思索した。後期の哲学は社会・文化・歴史など,人間生活の諸相につき示唆するところが多い。⇒分析哲学∥論理実証主義                      黒田 亘

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感覚




こころ

知,情,意によって代表される人間の精神作用の総体,もしくはその中心にあるもの。〈精神〉と同義とされることもあるが,精神がロゴス(理性)を体現する高次の心的能力で,個人を超える意味をになうとすれば,〈心〉はパトス(情念)を体現し,より多く個人的・主観的な意味合いをもつ。もともと心という概念は未開社会で霊魂不滅の信仰とむすびついて生まれ,その延長上に,霊魂の本態をめぐるさまざまな宗教的解釈や,霊魂あるいは心が肉体のどこに宿るかといった即物的疑問を呼び起こした。古来の素朴な局在論議を通覧すると,インドや中国をはじめとして,心の座を心臓に求めたものが多いが,これは,人間が生きているかぎり心臓は鼓動を続け,死亡するとその鼓動が停止するという事実をよく理解していたためで,〈心〉という漢字も心臓の形をかたどった象形文字にほかならない。心を心臓とほとんど同一視するという点ではヨーロッパでも同様で,英語の heart,ドイツ語の Herz,フランス語の cせur などがすべて心と心臓の両方を意味するのも,そのなごりと思われる。ただし,医学思想の発展をみた古代ギリシア・ローマ期では,ヒッポクラテスが〈脳によってわれわれは思考し,見聞し,美醜を区別し,善悪を判断し,快不快を覚える〉と記して以来,心の座を脳や脳室に求める考えが支配的になり,この系譜はルネサンス期をへて19世紀初頭の F. J. ガルの骨相学にまで及んでいる。
 心の問題を身体的局在説の迷路から解き放ち,思惟を本性とする固有の精神現象として定立したのはフランスのデカルトで,彼がいわゆる松果腺仮説を提出したのも,心身の相関をそれで説明しようとしたものにほかならない。心が固有の精神現象であるなら,その成立ちや機能を改めて考える必要があり,17世紀後半からの哲学者でこの問題に専念した人は多い。心を〈どんな字も書かれていず,どんな観念もない白紙(タブラ・ラサtabula rasa)〉にたとえた経験論のロック,心ないし自我を〈観念の束〉とみなした連合論の D. ヒューム,あらゆる精神活動を〈変形された感覚〉にすぎないと断じた感覚論のコンディヤックらが有名で,こういう流れのなかからしだいに〈心の学〉すなわち心理学が生まれた。ただし,19世紀末までの心理学はすべて〈意識の学〉で,心の全体を意識現象と等価とみなして疑わなかった。その後,ヒステリーなどの神経症で,意識されていない心のなかの傾向に支配されて行動することが S. フロイトらにより確かめられ,こうした臨床観察や夢の分析を契機として心の範囲は無意識の分野にまで拡大され,同時に,エス(イド),自我,超自我といった層構造や,エディプス・コンプレクスなど各種の〈観念複合〉,投影(投射)や抑圧などの防衛機制がつぎつぎと見いだされた。こういう視点に立つかぎり,現代の心の概念はひじょうに複雑化しているといえるが,心という素朴な主観的イメージそのものは未開人と文明人とでそれほど違っているとも思えない。               宮本 忠雄
【哲学における〈心〉の概念】
 ここでは主として哲学の観点から〈心〉の概念の変遷と,この概念をめぐる今日の問題状況とを概観する。心とはふつう身や物と対照される言葉であるが,哲学の世界でも事情は変わらない。大観すれば古代以来の西洋哲学の展開を通じて,身‐心あるいは物‐心の関係をめぐって二つの考えかたが交錯し対立しながら現代に至っている。一つの傾向は心を身体や物体との連続あるいは親和の関係でとらえ,他方はその間の非連続と対立関係を強調し,身体的・感覚的な存在次元を超える理性的な精神活動にもっぱら注目する。発生的な順序では第1の見方が古く,心あるいは魂に相当するギリシア語の〈プシュケー psych^〉(ラテン語ではアニマ anima)は,原義においては気息(息)を意味し,生きた人間の身体に宿ってこれを動かし,死に際してその身から離れ去る生気のごときものを指す言葉であった。しかしアテナイを中心とする古典期のギリシアでは,もうひとつ別の用法がすでに一般化している。すなわち,感覚,欲望,情念のような感性的機能とは異なる,まったく理性的な精神作用の主体を指す言葉としてもこれが用いられた。この意味のプシュケーは理性を表すヌース nous に近く,ラテン語でこれに対応するのはメンス mens あるいはアニムス animusである。プラトンの諸対話編にはこの第2の型の霊魂観が典型的に表現されており,理性的な霊魂の不滅が真剣な哲学的議論の主題になっている。アリストテレスの《霊魂論》も,プラトンと同じく,心の理性的・超越的な存在性格を強調したが,それと同時に人間の心的生活が,たとえば栄養摂取や感覚‐運動の機能に関して植物的・動物的な生命活動と連続するという一面も見逃さず,総合的・調和的な心理学説をつくり上げている。
 こういう古典ギリシアの哲学的霊魂観がやがて霊肉二元のユダヤ教・キリスト教的な宗教思想と結びつき,西洋の思想的中核を形成するに至る。西洋近世における自然科学の勃興とその後の発展は,アニミスティックな自然観を退け,全物質界を法則認識の対象として客観化する認識態度によってもたらされたが,そういう思考法を培ったのもこの霊肉分離の宗教的・哲学的な伝統であったといわれる。この観点から見るとき,17世紀前半の代表的体系であるデカルト哲学の歴史的意義は大きい。それは伝統的存在論の物心二元の枠組みによって,科学的な世界観の基本構造を明確に表現している。ただしデカルトの場合も,感覚や意志行為を考察する場面では,心身の分離ならぬ合一が明らかな経験的事実として認められていた。そこで分離と合一という,心身関係ないし物心関係の一見矛盾する二側面を統一的に説明することがデカルト説を継承する人々の課題となり,ひいては近・現代を通じての哲学の重要問題となった。その間の注目すべき展開としてカントは,物質現象と実在的・因果的な関係に立つ〈経験的〉な主観と,物的・心的な全現象をおのれの対象とする〈超越論的〉な主観とを峻別し,これをもって彼の批判哲学の基本見解とした。この見解はもとより霊魂観の第2の類型に属するが,カントのあとをうけたドイツ観念論の哲学は精神主義ないし理性主義の傾向をさらに徹底させ,あらゆる現象の多様を超越論的主観のうちに吸収し,あるいはこの源泉から発出させる唯心論の形而上学として展開した。
 しかし心に関する哲学説の第1類型もまた根強い伝統となって今日に及んでいる。ことに19世紀後半から20世紀はじめにかけては,実証主義ないし科学主義の立場をとる人々の間で心理現象の唯物論的説明や,進化論に基づく自然主義的解釈が盛んであった。現代の哲学的状況を見ても,これまで心の哲学の主流を形成してきたデカルト的二元論や超越論的観念論に対して,大勢としては批判的である。これら古典的学説の基礎仮定に対する批判の作業が重要な哲学的認識の確立につながった例として,まず挙げるべきはメルロー・ポンティの《知覚の現象学》(1945)であろう。これは超越論的哲学も経験主義哲学もひとしく閑却した身体の意義を,現象学的考察の対象として初めて主題化した労作である。意識の諸現象はみな身体という,客観であると同時に主観でもある両義的な存在の世界へのかかわりとして解釈されている。また言語分析の方法によるものとしては,G. ライルの《心の概念》(1949)がデカルト的二元論の批判に成果を収めたが,より根本的・持続的な意義をもつのはウィトゲンシュタインの《哲学探究》(1953)で,伝統的な心の概念の根底である私的言語の見解に徹底的な吟味を加え,〈言語ゲーム〉や〈生活形式〉を基本概念とする新たな哲学的分析の境地を開いている。これらに共通するのは心にまつわる理論的先入見を取り除き,生活世界の経験に立ち返って心の諸概念をとらえ直そうという態度である。これらを継承しつつ,関連する諸科学の研究成果をも踏まえた心の総合的認識に達することが現在の哲学的課題であろう。⇒体(からだ)∥心身問題∥物        黒田 亘
【日本語における〈こころ〉】
 人間の精神活動の内容や動きをいう〈こころ〉という日本語は,古くは身体の一部としての内臓(特に心臓)をさす場合が多かった。8世紀の《古事記》《日本書紀》《万葉集》には,〈こころ〉の枕詞として〈肝(きも)むかふ〉〈群肝(むらぎも)の〉が用いられており,また〈心前(こころさき)〉(胸さきの意),〈心府(こころきも)〉の語がみえる。いわゆる五臓六腑の総称が〈群肝〉で,心臓がそれらの〈肝〉に対して位置するところから〈肝むかふ〉といい,また〈肝〉の一類として〈心肝〉と呼んだのであろう。〈肝稚(きもわかし)〉(精神的に未熟の意,《日本書紀》)の例がみられるように,心の活動の源が身体の中心を占める臓器にあるとし,とりわけ鼓動を発する心臓が重視されて,精神の内容,はたらき全般を〈こころ〉と称するにいたったらしい。したがってこの時期には,身体と精神の対立の意識はなお熟しておらず,むしろ〈こころ〉の動きは身体活動の一部とみられていたことが,さきの語例からうかがえる。〈こころ〉にかかわる言葉に,〈心痛し(こころいたし)〉,〈心に乗る〉(心を占める意),〈穢心(きたなきこころ)〉といった即物的表現が目につくのもそのためであろう。《万葉集》の歌にはおびただしい〈こころ〉の用例があるが,その表記は〈許己呂〉〈情〉〈意〉〈神〉とさまざまである。当時はまだ〈なさけ〉という語は発生しておらず,知,情,意にわたる精神活動が総じて〈こころ〉と呼ばれたわけだが,なおそこに知,情,意を区別する意識もきざしつつあったとみられる。
 〈こころ〉に深くかかわる語に,〈こころ〉のはたらきをいう〈思う〉がある。〈思う〉も〈こころ〉と同様に多面的な精神作用を包括する語だが,しばしば〈恋う〉と同義に用いられるように,情緒的な含意が強い。そこで11世紀前後から,より知的な思弁作用をさす語として〈考える〉があらわれ,以後,文字の使用流通とともに普及をみるにいたる。こうした〈こころ〉の作用を示す語の展開にともない,〈こころ〉はしだいにその身体性を希薄にし,肉体に対する〈精神〉の意味に傾いていった。たとえば,同じ〈心ある〉とのいい方でも,古代ではおおむね人間以外の山川鳥獣についてそれらが〈感情を持つ〉意を仮定形で示すのに対し,中世では人間の知性,教養をさすように変わってきている。現代においても,〈こころ〉は〈気持〉〈感じ〉といった類義語に比べ,より主体的・能動的な精神状態にかかわって用いられるわけだが,しかし他方〈精神〉の語に対してはなお原初の身体性をとどめているといえよう。⇒気        阪下 圭八

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私的言語
私的言語
してきげんご private language

ウィトゲンシュタインが《哲学探究》で用いた重要な概念の一つで,感覚,感情,意志,思考といった内的な体験をまったく自分だけのために記録する言語を想定して名付けた。この言語に属する単語は内的直接的な現象のみを指し,外から観察できる表情や動作とは無関係に意味がきまっているので,他人には通じない。ウィトゲンシュタインによるとこの虚構の言語は,他人が理解できないだけではなく,実は用いている当人も〈理解しているようにみえる〉だけで,元来〈言語〉の名に値しない。しかも近・現代の哲学者の多くは,《論理哲学論考》を書いたかつてのウィトゲンシュタインも含めて,常識と科学の言語の基底に〈私的言語〉を想定し,公共言語も結局はすべて〈私〉の意味付与によって構成されたものと考えている。彼は,この言語観こそ多くの哲学的迷妄の源泉であるという。1960年代に,この〈私的言語〉批判をめぐって賛否の議論が活発であった。       黒田 亘

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日常言語学派
日常言語学派
にちじょうげんごがくは Ordinary Language School

1950年代にイギリスで形成された,日常言語の分析を中心にすえる哲学の学派。哲学的問題は,たとえば存在とは何か,いかなるものが善か,という問いに示されるように,ことばの意味にかかわるところが大きい。そこで哲学の諸問題をその表現に用いられる言語を分析することによって解こうとする学派が生まれた。日常言語学派はその一つである。それは近代論理学に依拠して言語を再構成し,このような形式的言語を用いて問題を再定式化しようとする人工言語学派と対立する。日常言語学派は,問題の哲学的概念や哲学的命題は形式的言語の構成によってではなく,われわれの日常的言語使用のあり方を綿密に考察することによってのみ解明されるとする。言語使用のあり方は人工言語学派の考えるように形式的に法則化できず,とくに使用の具体的条件に依存すると考えるからである。日常言語への定位は,存在や善の概念を分析したケンブリッジ大学の G. E. ムーアによって先鞭をつけられ,日常的言語使用のあり方は中期以降のウィトゲンシュタインの考察の中心となった。一方,オックスフォード大学の J.L. オースティン,G. ライル,ストローソン等もやや独立に日常言語の分析から哲学的問題に接近した。こうして50年代に日常言語学派が形成されたのである。その影響はまもなく分析哲学全体に及び,論理学,意味論,存在論,認識論,倫理学の各分野がそのために面目を一新した。しかし最近では人工言語学派の流れを耀む人たちによっても別の方法による日常言語の解明が大きく前進したために,狭い意味での日常言語学派は衰退した。⇒分析哲学              中村 秀吉

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独我論
独我論
どくがろん solipsism

唯我論,独在論ともいう。ラテン語の solus(~のみ)と ipse(自我)とをつないでできた言葉で,一般には自我の絶対的な重要性を強調する立場のことをいう。古くは実践哲学の領域で,自己中心的もしくは利己的な生活態度や,それを是認する道徳説に対して用いられたが,今日では認識論的,存在論的な見解をあらわす言葉として使うのが普通である。すなわち全世界は自我の意識内容にほかならず,物や他我の実在を確実に認識することはできない,またそれらに自我と並ぶ実在性は認められないとする見解をいう。
 デカルトやカントに代表される西洋近世・近代の観念論哲学では自我が探究の原点であり,すべての事物を自我の意識内容もしくは観念とみなす立場で認識問題や存在問題の考察を始めるのがたてまえである。この傾向の哲学的思索は独我論と結びつきやすく,たとえばカント哲学の一面を継承したフィヒテは,非我の存在はすべて自我により定立されるから独我論こそ観念論哲学の正当な理論的帰結であり,物や他我の実在は実践的,宗教的な〈信〉の対象であるほかないと説いた。類似の見解は17世紀のデカルト派や,ロック以後のイギリス経験論者にも見られる。一方,観念論哲学に反対の立場からは,独我論への傾斜をもってこの哲学の根本欠陥とする批判が繰り返されてきた。20世紀ではウィトゲンシュタインが,独我論についてもっとも深く考察している。彼は《論理哲学論考》で,私の理解する言語の限界がすなわち〈私の世界の限界〉であり,したがって私と私の世界とは一つであると述べ,言語主義的独我論とも呼ぶべき思想を提示した。その後彼の見解は変化し,遺著《哲学探究》では《論考》の独我論や,その背景となった哲学的言語観,すなわち言語の意味の源泉は個我の意識内容にあるとする〈私的言語〉説に徹底的な批判を加えている。 黒田 亘

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直観
科学哲学
科学哲学

かがくてつがく
philosophy of science

  

広義には科学についての哲学的考察の意であるが,狭義には現代欧米の分析哲学における科学論をいう。前者は,近世以降,F.ベーコン,R.デカルトに端を発し,18世紀にはイギリスの伝統的な経験論,カントによる科学の批判的方法論 (→批判哲学 ) ,フランスの唯物論などがあげられるが,19世紀になると,マルクス主義の立場からの社会科学方法論,マッハらによる不可知論的な経験批判論,新カント派の W.ウィンデルバント,H.リッケルト,E.カッシーラーによる自然科学的認識の方法論が輩出した。後者は 1923年頃哲学者 M.シュリックを中心としたウィーン学団,28年設立のマッハ協会などの統一科学運動を先駆として,科学論理学,論理実証主義の立場からの科学哲学の運動が展開されている。





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[ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 2008]


科学哲学
かがくてつがく philosophy of science

科学に対する哲学的考察,あるいはその哲学的基礎づけの作業の総称。また,内容的に,あるいは方法論的に科学に接近した哲学傾向一般を指す場合もある。
[歴史的背景]  科学哲学の歴史は,哲学の歴史とともに古い。そもそも,古代ギリシアにおいて哲学が始まったとき,それは〈アルケー=万物の根源〉を問うものとして現れたものであり,それは直ちに,科学そのものの課題の起点でもあったと考えられる。その意味で,哲学は元来,広義の科学哲学として開始されたとも言いうる。現代に直接連続する科学哲学の原型としては,近世初頭のデカルトの哲学を挙げることが至当であろう。彼は当時の数学や自然科学を範型として,いわゆる〈方法的懐疑〉を遂行し,コギト(われ思う)の明証性に至り,心身二元論の哲学を構築し,やがて現在に至る科学哲学への道の先鞭をつけることになる。また,カントの哲学でさえ,その最大の動機の一つがニュートン物理学の基礎づけであるという意味において,科学哲学の一つの範例であったと見ることができる。さらに,イギリス経験論とドイツ観念論の対立論争そのものが科学的認識の基礎づけに関して争われたものであると言える。F. ベーコンの科学方法論への洞察,ロックの実験的精神,D. ヒュームの因果性の分析,G.バークリーの知覚論,さらに,新カント学派諸家の科学批判などはすべてこのような背景の中から生まれたものである。また,科学方法論を直接テーマとしたのは J. S. ミルであった。科学的帰納推理に関する彼の研究は現代科学哲学の一つの源流と考えられる。この帰納的方法論の尊重はやがて,マッハやデュエムの実証主義の基礎を築き,そして,遂に,現代の科学哲学を生み出すことになるのである。
 現代科学哲学の成立と興隆をもたらした直接の契機は,科学と哲学の両面の中に求めることができる。まず,科学の面において,19世紀初頭以来の科学の急展開の結果,科学の細分化が行き尽くし,そこに,科学全般を通ずる方法,課題,概念に対する全的,統一的視野が要求されるに至った。また,他方,物理学を頂点とする科学的世界像は非日常化の一途をたどり,われわれの生活世界との乖離は著しく,ここで改めて,われわれの生活体験と科学的概念,科学的体系,科学的説明などとの関係が新たに,また厳しく問われることになったのである。他方,哲学の領域においては,とくに,20世紀初頭以来,過去の思弁的形而上学に対する反感と批判がさまざまな形の言語分析の哲学を生み,すでに,一種の科学批判の学として成立していた現象学とも間接的に相たずさえて,科学内部における問題意識にこたえて科学哲学を生み出すのである。かくして現れた最初の科学哲学が,マッハ,ポアンカレ,デュエムらの科学者による科学論であり,そして,1930年前後のウィーン学団の新しい活躍の中で,〈科学哲学〉という名称が現代的な意味において徐々に定着していくことになるのである。
[科学哲学の課題]  (1)科学的世界観の確立 現代の科学哲学は1930年代の論理実証主義の勃興を機に始まったと考えられるが,そこでまず急務とされたのは,過去の形而上学的世界観を排して,科学に基づく新しい世界観を確立することであった。そのために,実証的,経験的命題を認識の唯一の根拠として許容するという厳しい態度がとられ,そこで,経験的命題をほかから識別する規準,いわゆる経験的意味の検証規準が規定される必要があった。しかし,経験的ということを感覚的報告という意味にとるとそこに個人的感覚の私性の問題が生じて,科学としての客観的公共性に至ることができないという難問が起こり,単なる感覚の寄せ集めではない〈物〉を含む言語が科学的世界記述のために必要であるという見解に至らざるをえなかった。この私的な感覚的経験と物世界との関係をめぐる問題はその後も一貫して科学的認識の根拠に関する基本問題として生き続けている。ウィトゲンシュタインによって深められたと言われる〈私的言語〉の問題もその一例である。
(2)科学理論の構造 また,現実の科学理論がいかにして構築され,いかなる構造をもち,また,それがいかに対象に妥当するかということも科学哲学の基本的課題である。ミル以来,科学の方法は本質的には経験からの帰納であると言われてきた。しかし,現在〈帰納の正当化〉はひじょうに困難であると見られている。さらに,現代諸科学は単に帰納法によって構築されると見ることは不可能であり,たとえば,物理諸科学に見られるように数学を含む演繹的方法の役割が大きく介入し,〈仮説演繹法〉が科学方法論の基本的形態であると一般に評価されるようになった。これに関連して,ポッパーの〈反証可能性理論〉による帰納の否定の議論は注目に値する。また,これら議論に伴って,科学法則や科学的説明の本性をめぐって多くの新説が現れた。とくに,それらにおける演繹性の強調が大きな特質である。この話題に関してはとくにヘンペルの業績が大きい。また最近,科学史からの教訓として,〈観察と解釈〉の問題が話題を呼んでいる。一般に科学理論は現象の観察から得られるとみなされているが,しかし,実は,この関係は逆転しているおそれがある。すなわち,われわれにとって純粋で中立的な観察というものは元来ありえず,すべてはすでに現に存在している理論や解釈によって汚染されているのであり,したがって,科学革命というものも,新しい観察の出現によってなされるというよりは,むしろその時代の理論的パラダイムの転換によってなされると考えるべきであるということになる。この話題では T. クーン,ハンソン R. Hanson,ファイヤアーベントなどの業績が大きい。
(3)決定論と自由の問題も一つの重要テーマである。ニュートン物理学が決定論的自然観を明瞭に示しているのに対し,現代量子力学は非決定論の立場に立つように見える。この対立をいかに解釈するかということは,科学の本質に直接かかわる課題である。
(4)心身問題がいわゆる心身科学の急展開に伴って科学哲学の中心的テーマの一つになりつつある。これはまた精神と物質の二元論をいかにして超克するかという哲学それ自体の根本問題に直結する。
(5)論理や数学の本性を問う問題も一つの中心問題である。これらのいわゆる〈必然的真理〉の根拠は,たとえばカントにより,その先天的総合性に求められたりしたが,現代数学や論理学の実態からはこの解釈は困難となり,公理主義や規約主義の考え方が大きく進出する。また,とくに先天性の問題に関しては,たとえば,ローレンツらによる生物学からの挑戦もあり,今後の議論の高まりが予想される。
(6)その他,倫理学や社会科学に関しても類似の科学哲学的考察がそれぞれの領域に浸透している。倫理言語の構造,社会的規範性の根拠,それらにおける経験の役割などが大きなテーマとなる。⇒分析哲学∥論理実証主義    坂本 百大

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科学哲学
I プロローグ

科学哲学 かがくてつがく Philosophy of Science 科学とくに自然科学を対象とした哲学的な考察。科学の認識論的基礎づけから批判的相対化までふくみ、科学論あるいは科学基礎論ともよばれる。私たちがつかっている「科学」という言葉の語源はラテン語のscientiaであり、もともとは「知識一般」という幅広い意味をもっていた。しかし、西欧近代のいわゆる「科学革命」以降になると、西欧的自然科学というかぎられた意味の言葉になっていった。

II 科学哲学の先駆けと本格化

科学革命とは、N.コペルニクスの「天球の回転について」(1543)からはじまり、G.ガリレイやR.デカルトをへて、I.ニュートンの「自然哲学の数学的原理(プリンキピア)」(1687)で終結する、16世紀から17世紀にかけての思想運動である。→技術と文明の「近代科学の成立」

このときに生まれた科学は、経験的な観察から出発し、もっとも有効な武器として数学をつかう機械論的な自然観という特徴をもっていた。F.ベーコンの帰納法や、デカルトの物体の属性を「延長」とみる考え方、I.カントのア・プリオリな総合判断の論証(→ ア・プリオリとア・ポステリオリ)には、どれも、こうした自然観の哲学的基礎付けという側面があり、彼らの仕事は科学哲学の先駆けといえる。

19世紀半ばには「第二の科学革命」がおこり、1834年に、イギリスの自然哲学者・科学史家であるW.ヒューエル(1794~1866)がscientistという言葉をつくっている。このことからも、科学者が時を同じくして、科学的な研究をおこなうことで収入をえられる専門的な職業人となったことがわかる。また、科学そのものも大学などの高等教育機関で組織的に研究・教育されるようになった。

この「科学の制度化」こそが、長い間哲学の中の一分野にすぎなかった自然哲学を「科学」として独立させることになり、ヒューエルが「科学哲学」という言葉をはじめて書名につかうなど、科学哲学という研究分野も本格化する。

この時期の科学哲学にとって、もっとも大事なことは、科学の認識論的正当性を確立させることだった。この点で代表的な仕事としては、帰納法の精緻な研究をこころみたJ.S.ミルの「論理学体系」(1843)や、仮説演繹法(えんえきほう)の先駆的研究をおこなった天文学者としても名高いイギリスのJ.ハーシェル(1792~1871)の「自然哲学研究序説」(1830)がある。

III 科学の変化とウィーン学団

19世紀末から20世紀はじめになると、科学そのものの内部に変化がおこりはじめた。数学では、従来の発想をくつがえす非ユークリッド幾何学が成立し、集合論でもB.A.W.ラッセルらによってパラドクスが発見された。物理学においては、相対性理論と量子力学が登場した。これらは、ユークリッド幾何学とニュートン力学という、近代科学がゆるぎようのない基礎としてきたふたつの理論をおびやかすものとなる。

こうした科学の新しい動きに対処すべく、さまざまな議論がなされた。なかにはE.フッサールの「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」(1936)のように、科学批判へむかう考察もあったが、大半は科学をまもろうとするものだった。古くからある理論を新しい理論の限界事例として解釈し、その中の一部として位置づける。つまり、科学理論の連続的進歩という考え方をまもろうとしたのである。

このとき大きな役割をはたしたのが、オーストリアの研究者たちによって結成されたウィーン学団である。1920年代末から活動をはじめ、科学哲学の活性化にきわめて大きく貢献した。中心的な活動メンバーは、R.カルナップ、H.ライヘンバッハ(1891~1953)、O.ノイラートらである。

彼らは、反形而上学(はんけいじじょうがく)を軸に、記号論理学を駆使して新たな実証主義(論理実証主義)をとなえ、そうした枠組みの中で、理論をどのように検証するか、科学的な説明はどうあるべきか、帰納法をいかに正当化するかなど、いくつもの問題を精密に論じている。ウィーン学団がめざしているところは、その宣言文のタイトル「科学的世界把握―ウィーン学団」(1929)にみごとに集約されている。すなわち、哲学さえも科学化し、実証主義の祖といえるA.コントが夢にみた「統一科学」をうちたてようとした。そのために重要な役割をになうのが、検証可能性の原理である。つまり、科学と非科学の区別は、その命題の意味を経験的に検証できるかどうかにあると考えたのである。

IV 新科学哲学へ

ウィーン学団は優秀な研究者を数多く生み出し、一時期は「科学哲学」の代名詞のようにもいわれていた。そして、その影響力も当然のように大きかった。しかし、第2次世界大戦後の科学哲学はこの論理実証主義との対決から出発することになる。

たとえば、K.R.ポッパーは「探求の論理」(1934)において、検証可能性にかえて反証可能性を主張しはじめた。この批判的合理主義は、ハンガリー生まれのイギリスの科学哲学者I.ラカトシュ(1922~74)らにうけつがれている。また、アメリカの論理学者・哲学者であるW.van O.クワインは、「経験主義の2つのドグマ」(1951)において、検証ないし反証は科学全体の中でおこなわれるとする全体論をとなえた。これはアメリカの哲学者R.ローティらのネオ・プラグマティズムとして展開されている。

しかし、今日もっとも大きな影響力をもっているのは、1960年代に登場した「新科学哲学」である。ウィーン学団がとなえる論理実証主義の鍵(かぎ)となるのは検証原理だが、検証が成立するためには、「理論(仮説)の言語(理論言語)」と「それを検証する言語(観察言語)」が区別されなければならない。新科学哲学は、この2種類の言語の区別を攻撃の的にした。L.ウィトゲンシュタインの後期の考えに着想をえたアメリカの科学哲学者N.R.ハンソン(1924~67)は「観察の理論負荷性」という考え方を提唱し、どんな観察や知覚も理論と無関係ではありえず、一定の背景的理論によって制約されていると主張した。この主張をより広くとらえなおして、科学哲学の状況を劇的にかえたのが、T.S.クーンの「科学革命の構造」(1962)である。

彼によれば、2種類の科学がある。それは、科学者たちが是認する一定の研究規範(パラダイム)の枠内でおこなわれる「通常科学」と、そうした既成のパラダイムとぶつかる新しいパラダイムをもつ「異常科学」である。「科学革命」とは、ことなるパラダイムの断続的転換のことであり、この転換に合理的な根拠はない。さらに、これらのパラダイムの間には、共通の尺度もないのである(→ 共約不可能性)。このパラダイム論によって、進歩史観はくずされ、西欧科学の優位もおびやかされる。

クーンの登場後、P.K.ファイヤアーベントは、この動きをもっともラディカルにおしすすめ、ある種の非合理主義にまで到達している。もしクーンのいうパラダイム転換の主張を徹底させれば、科学と非科学の間の線引きが不可能になる恐れが出てくるが、ファイヤアーベントはこの線引き問題さえ無効だという。西欧科学は人類がくみたててきた思考形式のひとつにすぎず、しかも最良というわけでもない。西欧医学と中国医学にもし何がしかの優劣の差があったとしても、それはその医学をささえ、生み出した政治や経済、教育など社会制度の違いにすぎないというのだ。

今日の科学哲学は、西欧近代科学ないしそれをモデルにした知を正当化し基礎づけるというよりはむしろ、それを批判的に相対化し、ひいてはほかの知の領域との境界を撤廃する方向にすすんでいるといっていいだろう。

→ 科学史:科学

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帰結主義
帰結主義という言葉はG. E. M.アンスコムが1958年の論文「近代の道徳哲学」で用いた造語である[1]。それ以来、帰結主義は英語圏の道徳理論を通して一般的になっている。その歴史的起源は功利主義にあるが、帰結主義が登場する以前の功利主義でも、倫理的熟慮に適切なものは行為の帰結だとみなされていた。この歴史的な結びつきのせいで、両者は一緒にされてしまう。功利主義はすべての帰結主義理論の重要な形式的性格、行為の帰結に焦点を当てること、を備えた立場として理解可能である。帰結主義について基本的な枠組みの他に言及されることはあまりないが、数多くある帰結主義理論に何度も登場する問題がいくつか挙げられる。

何が帰結の価値を決めるのか?言い換えれば、何をよい事態として数えるか?
誰が、何者が、道徳的行為の第一の担い手となるのか?
何が行為の帰結であるのかを誰が判断するのか、また、いかに判断するのか?

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

理想主義的功利主義
理想主義的功利主義とは、帰結主義の一種ではあるが、それまでの功利主義のように快楽を最大にするのを目的にするのではなく、直観によって善であると把握されるさまざまなものを行為の目標とする立場。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ムーアのパラドックス
ムーアのパラドックスとは、「外で雨が降っており、かつ、わたしは外で雨が降っているとは思っていない」というタイプの言明が非常に馬鹿げているというものである。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
常識的実在論
認識論においては、世界の実在に関する常識的実在論の立場を取ったことで知られる。1939年の「外的世界の証明」と題する論文でムーアは、「ここに手がある」と言いながら手を挙げることで手の存在の証明には十分であると主張した。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
分析哲学
分析哲学

ぶんせきてつがく
analytic philosophy

  

広義には,哲学の基本態度を分析に求める反形而上学的哲学諸流派をいう。特に 19世紀末から欧米で盛んとなった。その代表的なものは,(1) イギリス経験論の伝統を生かそうとするケンブリッジ実在論,(2) ウィーン学団の論理実証主義,(3) ウィーン学団とアメリカのプラグマティズムの結びついた分析的プラグマティズム,(4) ケンブリッジ分析派の精神を継承し,日常言語の分析を通して真理,価値の意味を明らかにしようとするオックスフォード学派の諸流派である。これらは論理的分析や記号論理学を利用したりして問題の明確化をはかり,場合によっては問題の無意味化 (消去) を行う。狭義の分析哲学はウィトゲンシュタインの晩年から今日の日常言語学派やおもにアメリカにおける意味論的分析をさす。





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分析哲学
ぶんせきてつがく analytic philosophy

哲学的問題に対し,その表現に用いられる言語の分析から接近しようとする哲学。論理分析logical analysis,哲学的分析 philosophicalanalysis ともいう。言語の分析にかぎらず広く言語の考察から哲学的問題に迫ろうとする哲学をすべて〈分析哲学〉と呼ぶこともあるが,これは不正確である。
 言語分析は20世紀の初頭,B. A. W. ラッセルとG. E. ムーアによって始められたといってよい。彼らは当時イギリスにおいて盛んであった,世界は分析しがたい一つの総体だとするヘーゲル的思考に反対して,世界は複合的なものであり,要素に分解しうるとし,この考えを実体間の外在的関係の理論によって論理学的,形而上学的に基礎付けた。ムーアは物や時間,場所など常識が存在するとするものをすべて実在すると考えたが,それらの概念を綿密に分析することによって言語分析への通路を開いた。これに対してラッセルは,〈黄金の山を論ずるときにはある意味で黄金の山は存在しなければならない〉とするマイノングの考えに反対して記述理論に到達したが,それは,たとえば〈現在のフランス王ははげである〉という言明の主語が見かけ上のものであって本当は主語ではないとするというような言語分析であった。ラッセルは存在論に言語分析から迫ったのである。彼はこの記述理論の他方で経験世界に関する多くの言明に登場する名前を消去して,真に存在するものの名前とそのような存在者を指す変項だけしか登場しない言明に置き換えていった。このとき,ラッセルにとって真に存在するものは,1910年代から20年代にかけては,個別的な〈感覚与件〉ないし〈事件〉であって,物や心,時空的位置のような他の存在者は前者から構成されるものであった。このような構成の手引となったものは,彼自身その構成に寄与した数理論理学の言語であった。日常言語による表現はかならずしも存在構造をそのまま反映するものではない。むしろ論理学の人工言語こそわれわれに存在の構造を教えてくれる。彼が若きウィトゲンシュタインの影響のもとに書いた《論理的原子論の哲学》(1918)はこの思想をよく表している。
 ラッセルに影響を与えたウィトゲンシュタインは《論理哲学論考》(1922)において,ラッセルよりもさらに徹底して世界を単純・独立な〈事態〉の複合として,〈事態〉をまた〈対象(実体)〉の連鎖としたが,それは世界を完全に明瞭に表現したときの言語表現に〈示される〉ものと考えた。20年代の後半から30年代にかけて盛んとなった論理実証主義は《論考》時代のウィトゲンシュタインから大きな影響を受けたが,一方先鋭な実証主義,反形而上学,科学主義とくに物理学主義をもって知られる。しかし論理実証主義者,とくにその代表者カルナップは《論考》の思想を規約主義的に変形して理解し,哲学的活動を一種の言語分析として規定した。それは形而上学に対してはその言明の無意味性を主張し,特殊諸科学に対してはその言語の統語法を論ずる論理的統語論を構成することであった。形而上学的言明が無意味であるとはその真理性が検証できないことである。その原理は有意味性の規準を検証可能性におくことである。ラッセルとウィトゲンシュタインの思想を受け継いで論理学と数学はトートロジーとし,言語を数理論理学の言語になぞらえて一種の計算体系として,人工言語として再構成されるとする。それは学問の各分野に即した別々の言語として行われるが,その構成は一意的なものではありえず,構成の成果に照らして修正される規約的なものである。しかしこの考えは実証主義と言語論の両面から間もなく行き詰まる。検証可能性による意味論はせまきにすぎて,自己を含めたすべての哲学を無意味にするばかりでなく,科学の多くの表現が無意味になってしまうことがわかってきた。その上,ある言語の考察は,たとえ人工言語に対するものであっても,統語論の角度だけでは不十分で,意味論的考察が必要であることが,タルスキーの真理論などを機縁に明らかになってきた。そこでカルナップは,タルスキーの真理論の示唆によって分析的真理や様相概念を意味論的に定義しようとした。
 以上のような分析哲学の動向に対しては,二つの角度からの痛烈な批判が50年代になされることとなる。一つはクワインを代表とするものである。それは伝統的な哲学においてもカルナップにおいても当然のものとして前提されていた分析的言明と統合的言明との原理的区別を否定するものであった。それは〈意味とは何か〉という問題を改めて提起した。クワインは一般に意味,内包,属性,命題を実体的なものとしてとらえることに異議を唱えたのである。もう一つは日常言語に着目する角度である。それまでの言語分析は論理学や数学の言語を範型にとった人工言語を主要な対象としたが,がんらい言語とは日常言語であり,日常言語のあり方を子細に点検すると従来の言語分析の方法は根本的に誤っていることがわかるとするものである。その代表的な論者は後期のウィトゲンシュタインであった。彼は〈真の言語形式は実在形式を写し出している〉という《論考》の根本思想を一擲した。言語の現実の機能を具体的に吟味してみると,名前が対象を指し,単純文が原子的事態を表すというような素朴なことはいえず,同じ文も場面が違えば違った役割をする。言語とは世界の写し絵ではなく,人間の相互交流の一形式,生活形式であるにすぎない。〈言表の意味とはその使用である〉。こうして50年代にはとくに日常言語学派がイギリスにおいて隆盛を極めることとなったが,それは語や文の意味や指示をその使用の状況・脈絡において考察するものであった。日常言語が重要なことは,心の働きや行為を表す語が基本的に日常言語であることによってわかる。言語分析は日常言語の考察に至って初めて伝統的な哲学的問題の解明に寄与することができたといってよい。しかしその方法はすでに言語分析の枠を超えているともいえる。またあまりにも事例主義的な日常言語学派の方向も行き詰まり,最近では論理学におけるモデル理論を援用したり,新しい言語学の成果を取り入れたりして日常言語の解明が進んでいる。⇒論理実証主義
                        中村 秀吉

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分析哲学と言語哲学
分析哲学と言語哲学
I プロローグ

分析哲学と言語哲学 ぶんせきてつがくとげんごてつがく Analytic and Linguistic Philosophy 英米を中心に展開された20世紀の哲学運動。論理実証主義や日常言語学派の総称。哲学の本来の活動は、言葉やそれによって表現される概念をはっきりしたものにすることだという考え方を共有している。このような言葉の分析によって、言葉の混乱によって生じた哲学的な諸問題を解消することを目的にしている。

II 言葉の分析

分析哲学者や言語哲学者の言葉の分析の仕方は、さまざまである。それぞれの語句の意味をはっきりしたものにして哲学でなされる言明のあいまいさをなくすことをめざす哲学者もいれば、意味のある文と無意味な文をわける基準をつくるために、発言が意味のあるものとなるための一般条件をきめようとする哲学者もいる。あるいは、数学的な記号であらわされる形式的な記号言語をつくりだそうとしている学者もいる。

彼らは、厳密で論理的な言葉ができれば、哲学で問題にされていることがらは、よりあつかいやすくなると考える。

しかし、この運動に参加した多くの哲学者は、日常つかっている自然言語に目をむけた。いろいろな哲学上の問題がおこるのは、時間や自由などといった言葉をふつうの使い方からはなれて考えるときである。したがって日常の言葉の使い方に注目することが、多くの哲学の難問をとく鍵(かぎ)となると彼らは考えた。

III ムーアとラッセル

言葉の分析自体は、プラトンの対話編にもみられるが、20世紀になるとまったく新たなものとして登場した。ロック、バークリー、ヒューム、ジョン・スチュアート・ミルなどのイギリス経験論(→ 経験主義)の伝統とドイツの論理学者フレーゲの著作の影響をうけ、20世紀の言語分析の哲学をはじめたのはムーアとラッセルであった。

2人はともに、ケンブリッジの学生のころに、本当に存在するのは絶対的なものだけだというブラッドリーに代表されるヘーゲル的観念論に反発し、哲学の研究において言葉を重視する姿勢をとった。これにより、彼らは20世紀の英米圏の哲学のあり方を決定づけた。

ムーアにとって哲学は、なによりもまず分析である。哲学の仕事は、複雑な命題や概念をもっと単純でわかりやすいものにすることである。この仕事が成功すると、哲学上の主張がただしいか、ただしくないかをはっきりきめることができる。

ラッセルは、世界と対応している理想的な言葉を考えた。ラッセルによれば、複雑な文は、原子命題とよばれるもっとも単純な文にわけられる。その文は世界の最小単位である原子事実に対応している。このような言葉の論理的分析によって世界との対応をたしかめる考え方を、ラッセルは論理的原子論とよんだ。

IV 論理実証主義者たち

ケンブリッジ大学のラッセルのもとに、分析哲学の歴史において中心的な役割をはたすウィトゲンシュタインがやってくる。彼は最初の主著「論理哲学論考」(1922)において哲学は言語批判だと主張し、言葉は世界の像であるという、ラッセルの論理的原子論と同様の考えを展開した。

この時期のウィトゲンシュタインにとって、意味のある文とは、世界の像である自然科学の命題だけであり、自然をこえた、神や倫理についての文は無意味な命題であった。

ラッセル、ウィトゲンシュタイン、マッハなどの影響をうけ、哲学者と数学者のグループが、1920年代のウィーンで論理実証主義(→ 実証主義:ウィーン学団)といわれる運動をはじめた。シュリックとカルナップが中心となり、ウィーン学団は分析哲学の歴史の中でもっとも重要な役割を演じた。彼らによれば哲学の仕事は意味の分析であり、新しい事実の発見や世界全体について説明することではない。

論理実証主義者は、意味のある文は分析的命題と経験的に確認できる命題の2つであるとした。分析的命題は、論理学や数学の命題であり、つかわれている言葉によってそのただしさはきまる。経験的に確認できる命題というのは、少なくとも原理的には感覚経験によって検証されるこの世界についての命題である。このような命題にのみ意味があるとする意味の検証理論によれば、科学的な文だけが事実についてのただしい主張であり、形而上(けいじじょう)学や宗教や倫理に関する文は、事実についてはなにもいっていないことになる。

V ポッパーによる批判

しかしこの検証理論は、ポッパーをはじめとする哲学者たちによって徹底的に批判された。ウィトゲンシュタインも自らの「論理哲学論考」の考えを否定し、「哲学探究」(1953)に結実する新しい思想を展開する。この本で彼は、日常の場面での言葉の使い方に目をむけ、言葉の多様な姿を明らかにした。

VI 言語ゲーム

その過程で「言語ゲーム」という重要な考えが生まれる。科学者、詩人、神学者などはそれぞれことなった言語ゲームをおこなっている。したがって、ひとつの文の意味は、その文があらわれる文脈、そしてその文がつかわれている言語ゲームのルールから理解されなければならない。ウィトゲンシュタインによれば、哲学とは言葉の混乱によって生まれた問題を解決する作業であり、そのような問題の解決の鍵は日常の言葉の分析であり、言葉の適切な使用なのである。

VII 日常言語学派

そのほかに、日常言語学派とよばれるイギリスのライル、オースティン、ストローソン、独自の意味論、存在論をうちたてたアメリカのクワインなどが活躍した。

ライルによれば哲学の仕事は、あやまった表現を論理的により正確な表現にすることである。人はしばしば文法的に同じ表現をつかうことによって、ありもしないものを、あるかのように誤解する。たとえば心と身体について同じ表現がつかわれているからといって、心と身体が同じあり方で存在するわけではない。

オースティンは、哲学の研究を日常の言葉の細かい違いに注目することからはじめた。発言することが行為そのものである場合が存在することを指摘し、言語行為の一般理論、つまり、発言するとき人がなすさまざまな行動の記述による理論を生みだした。

ストローソンは形式論理と日常の言葉の関係を分析し、日常の言葉は複雑なので形式論理ではうまく表現できないと主張した。したがって日常の言葉を分析するためには、論理学以外のさまざまな道具が必要だと考えた。

クワインは言葉と存在論(→ 形而上学)の関係を考察した。哲学者がつかっている言葉の体系によって、その哲学者の存在論がわかるといった。したがって、どのような言葉をつかうかは、まったく便宜的なものになる。

以上のように言葉を分析することが哲学の使命だとする考え方は、記号論理学的な厳密性を追求する立場と日常の言葉の分析をする立場にわかれてはいるものの、現代哲学の主要な流れをかたちづくっている。

→ 認識論:意味論:論理学

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B.ラッセル
ラッセル

ラッセル
Russell,Bertrand Arthur William, 3rd Earl Russell

[生] 1872.5.18. モンマス,トレレック
[没] 1970.2.2. メリオネス,ミンフォード


イギリスの哲学者,数学者,評論家。ケンブリッジ大学で哲学,数学を専攻,1916年反戦運動により罷免されるまで同大学で講師をつとめた。 50年ノーベル文学賞受賞。初め数学者として出発し,数学は論理学的概念に還元できるとして『数学の諸原理』 Principles of Mathematics (1903) ,『プリンキピア・マテマティカ』 Principia Mathematica (3巻,10~13,A.ホワイトヘッドと共著) を著わし,のちの論理学に多大な影響を与えた。以後哲学の研究に入りイギリス経験論に立った認識論 (マッハ主義,新実在論 ) を展開するが,ここでも数学の研究を通して得られた論理学の成果を取入れている。社会評論家,社会運動家としても 50年代の反スターリン運動,パグウォッシュ会議の開催,ベトナム戦争反対の「ラッセル法廷」などを通し,個人の尊厳擁護と世界平和のために貢献。主著『西洋哲学史』A History of Western Philosophy (45) 。





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ラッセル 1872‐1970
Bertrand Arthur William Russell

イギリスの哲学者,論理学者,平和運動家。ノーベル文学賞受賞者(1950)。伯爵。ケンブリッジ大学に学び,幾何学の基礎にかんする研究で母校のフェロー資格を得,のち講師となる。数学の基礎の研究を志したが,一方で新ヘーゲル主義の影響を受け,一時世界は分析不可能な全体だと考える。しかし20世紀初めころから世界を単純なものの複合体と考え,その単純なものとして感覚所与 sense‐datum をとるに至る。ここに至るには主語‐述語形式を命題と存在の基本と考えるライプニッツの存在論の批判があずかって力があった。こうして古典的な主語‐述語の論理学の代りに関係の論理学を唱導し,さらに数学者ペアノ,フレーゲの業績に触発されて新しい数理論理学を構想。これとともに数学(解析学)を論理学に還元することをはかる。その成果は《数学の諸原理》(1903)に盛られたが,その出版直前に集合論における重要なパラドックス(ラッセルのパラドックス)を発見(1901)。これはのちの論理学,数学基礎論,意味論の動向に大きな影響を及ぼすものであった。ラッセルはタイプ理論の案出によってこのパラドックスを解決し(1908),師 A. N. ホワイトヘッドとともに大著《プリンキピア・マテマティカ》(1910‐13)を著して数理論理学と数学を論理学に還元する論理主義の金字塔を建てた。一方,いわゆる〈記述〉理論を発表して(1905),見かけ上の主語‐述語形式言明を存在言明におきかえる方策を案出,これをもとに存在の種類をできるだけへらす唯名論的な存在論を完成せんとした。それは言語分析・論理分析を哲学に役だてた模範である。ラッセルにとってこのときの基本的存在者(実体)は感覚所与ないし〈事件 event〉であり,物と心,時空的位置などはこれから構成されるものであった。しかし彼はかならずしもこの一元論に徹底したわけではなく,しばしば物との二元論に傾き,知覚の因果説に立ったり,心的働きの位置づけに苦労したりもした。この方面では《哲学の諸問題》(1912)から《人間の知識》(1948)に至るまで多くの著作がある。しかしその立場は基本的にいってむしろ正統的な経験主義である。
 同様なことは倫理学や社会・政治思想についてもいえる。ラッセルはきわめて強い道徳的信念と旺盛な社会的関心の持主であった。自由と平等,反戦,反権力を主張しただけではなく,そのために闘った。男女両性の平等と自由恋愛を主張しただけではなく身をもって実践した。第1次大戦に反対してケンブリッジ大学から追放されただけではなく,投獄の憂目にもあったが,ビキニの水爆実験(1954)以来核兵器廃絶運動に身を挺し,アインシュタインとともにパグウォッシュ会議を主催し(1957年以降),イギリスにおいて〈百人委員会〉を組織したりした(1960)。またアメリカのベトナム戦争に反対してサルトルらと〈ベトナム戦犯国際法廷〉を開いてこれを糾弾した(1967)。しかしラッセルの倫理社会思想は,だいたいにおいて J. S. ミル流の個人主義,功利主義,民主主義である。ただいっそう急進的で無神論的である。彼の特色はつねに明快な結論を追求し,得た結論はどんな障害があってもごまかさずに実行しようとしたところにあるといえよう。             中村 秀吉

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ラッセル,B.A.W.
I プロローグ

ラッセル Bertrand Arthur William Russell 1872~1970 イギリスの哲学者・数学者。ノーベル文学賞受賞者。

ケンブリッジ大学にまなび、卒業後同大学トリニティ・カレッジの特別研究員になる。最初、数学の研究をこころざしたラッセルは、数学者ペアノとフレーゲの影響下に、数学を論理学によって説明しようとした「数学の諸原理」(1903)を刊行する。

II 記号論理学の著作

その後、ホワイトヘッドとともに、記号論理学(→ 論理学)の記念碑的著作「プリンキピア・マテマティカ(数学原理)」(3巻。1910~13)をあらわし、数学を論理学の概念によって基礎づけ、数論や記述理論など多くの画期的な研究をおこなった。

「哲学の諸問題」(1912)では、当時主流であった、すべての対象や経験は観念の中にあるという観念論を批判し、感覚によってとらえられる対象は心に依存しているわけでなく、それ自体で存在していると考えた。

III 論理実証主義への影響

ラッセルは1930年代の論理実証主義(→ 実証主義)の運動に多大な貢献をした。ウィトゲンシュタインはケンブリッジ大学でのラッセルの弟子であり、ラッセルの論理的原子論に強い影響をうけている。ラッセルの自然や知識についての研究は、認識論における経験主義的な考え方をふたたびよみがえらせた。

IV 平和運動

ラッセルは第1次世界大戦に反対して投獄され、ケンブリッジ大学からも追放された。大戦後ソ連をおとずれ、社会主義の現状に失望し、社会主義批判を表明する。1944年にイギリスにもどり、トリニティ・カレッジのフェローに復帰、その後アインシュタインらとともに、反戦、核兵器廃絶運動を熱心にすすめた(→ パグウォッシュ会議)。また結婚や教育についてのわかりやすく急進的な随筆も多くのこした。ほかの著作には「西洋哲学史」(1945)、「人間の知識」(1948)など多数ある。


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『プリンキピア・マテマティカ』
プリンキピア・マテマティカ

プリンキピア・マテマティカ
Principia Mathematica

  

イギリスの哲学者,数学者ホワイトヘッドとラッセルの共著による数学書。3巻,1910~13年刊。論理主義学派の基本的かつ記念碑的な書物。彼らは数学を論理学の一部門と考え,記号論理学の成果に基づき,論理的概念 (記号論理) によって数学を基礎づけることを試みた。本書の根本的な問題点は,逆理の問題であり,その解決法として還元公理,無限公理などが提出された。





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プリンキピア・マテマティカ
Principia Mathematica

A. N. ホワイトヘッドと B. A. W. ラッセルの共著。3巻。1910‐13年刊行。《数学原理》とも訳される。自然数(基数)は集合によって定義され,これをもとにいっさいの数学(解析学)的命題は論理学のことばで述べられ,論理学の原理から導き出されるという,数学基礎論における論理主義の立場を実際に行ってみたもの。ここでいう論理学は数理論理学(記号論理学)で,この論理学もこの本で初めて便利に記号化され,欠点はあるがほぼ完全に体系化された。そのためこの本は数理論理学の古典とされる。なお集合論における〈ラッセルのパラドックス〉は初版では分岐階型理論という複雑な理論で解決されているが,第2版では単純階型理論という簡明な理論によって処理されている。
                        中村 秀吉

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新実在論
新実在論

しんじつざいろん
New Realism

  

20世紀初頭にアメリカでは,W.モンタージュ,R.ペリー,E.ホルト,W.ピトキン,E.スポールディング,W.マービンの共著『6人の実在論者のプログラムと第一の政策』 (1910) で顕在化し,『新実在論』 (12) でその名を得た運動で,イギリスの T.ヌウン,B.ラッセル,G.ムーアらの動きと呼応し,両グループまた個人間の考えの違いをこえて,観念論に反対し真正な哲学を形成するとともに科学との新たな結合を試みた。その考えは,(1) ものの存在は,知られるということから独立している。 (2) また,ものの間に成立する関係も,客観的で人の意識からは独立している。 (3) ものは心的な模写を通して間接的に知られるというよりは,直観的直接的に知られることを主張するが,客観的に外在するものを人間がいかにして認識するのか,また (3) が主張されるのであれば,どうして誤謬や幻想が生じるのかを満足に説明できず,1914年頃 A.ロウェジョイらの「批判的実在論」に取って代られた。





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G.E.ムーア
R.B.ペリー
ペリー

ペリー
Perry,Ralph Barton

[生] 1876.7.3. バーモント,ポウルトニ
[没] 1957.1.22. マサチューセッツ,ケンブリッジ

  

アメリカの実在論哲学者。ハーバード大学哲学教授。 1912年ほかの5名の若いアメリカ人哲学者とともに新実在論を唱え,外界は認識主体に依存しないことを主張。また価値の基礎を「興味」におき,これに基づいて善・悪の倫理を展開した。第1次世界大戦への従軍の経験をもとに戦闘的民主主義を唱えた。主著"The Present Conflict of Ideals" (1918) ,"Present Philosophical Tendencies" (25) ,"General Theory of Value" (26) ,"The Thought and Character of William James" (35) ,"Puritanism and Democracy" (44) ,"Realms of Value" (54) 。





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ペリー 1876‐1957
Ralph Barton Perry

アメリカの哲学者。バーモント州のポールトニーに生まれ,プリンストン大学とハーバード大学で学び,1902年から46年までハーバード大学で教えた。アメリカ思想史の研究者でもあり,特に W. ジェームズ研究の権威で,《ウィリアム・ジェームズの思想と性格》2巻(1935。1936年度のピュリッツァー賞受賞)の著者としてもよく知られている。ペリーの哲学的立場はみずから〈新実在論〉と称しているもので,論理学,数学および自然諸科学において究明される実体は心的なものではなく,認識する精神とは独立に存在し,それらの実在性は認識のされ方にはまったく依存しないと説く。ペリーらの新実在論運動は伝統的観念論哲学を激しく攻撃し,さらにプラグマティズム運動とも批判的にかかわりながら,〈アメリカ哲学の黄金時代〉を飾った。なお,彼は倫理学および広く価値論一般に最も大きく貢献し,その分野で特に著名である。著書にはアメリカ思想史,W. ジェームズに関するもののほかに,《新実在論》(1912,ペリーを含む6人の新実在論者たちの共著),《価値の一般理論》(1926)などがある。        米盛 裕二

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倫理学はノイラートの船か?(その3) [宗教/哲学]


直観
直観

ちょっかん
intuition

  

直覚とも訳される。元来みることを意味する。推論的思考によらない直接的な知識獲得。日常使われる直観は勘と同様の意味の予感であり,憶測か無意識的な推論であって本来的な直観とはいえない。哲学では一般に直観とされるものに公理および推論の規則の認識がある (ともに性格上推論によっては得られない) 。倫理学では道徳的価値の認識は直観によるという説がある (J.バトラーら) 。直観は人間の認識能力に直接与えられた論理的検証の不可能な1次的かつ自立的認識である。カントは感覚的場面で直観をとらえて論理的認識と対立させ,ベルグソンは直観を対象と一体化する具体的認識と考えて,抽象的知性と対立させた。





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直観主義
ちょっかんしゅぎ intuitionism

L. E. J. ブローエルによって提唱された数学基礎論における立場をいう。数学を単に形式的な論理的演繹の体系と考える形式主義や論理主義に対して,直観に基づく精神活動によって直接にとらえられるものとして数学を再構築しようというもの。たとえば,〈性質 p(x)を満たすような x の存在〉を示すのに,〈いかなる x に対しても,p(x)ではない〉ことを仮定して矛盾を導くという論法が数学でしばしば用いられるが,x が無限の対象を動く場合には必ずしも明白なものとは認められない。p(x)を満たす x が具体的に与えられるか,あるいはそのような x が原理的に見いだせることが確認されてはじめて〈p(x)を満たす x が存在する〉ことが確かめられるのである。このように,直観主義においては数学で通常用いられる論理(古典論理)の無制限の使用,とくに排中律(p∨¬p)の無批判な使用を拒否する。みずから規定した立場に基づいてブローエルが進めた解析学は通常のものとかなり異なった様相をもっており,形式主義の立場に立つ D. ヒルベルトと激しく対立した。その後,ハイティング Arend Heyting らによる直観主義者の用いる論理の公理化(直観主義論理),K. ゲーデルによる解釈,クリーネ Stephen ColeKleene による帰納的関数を用いての解釈などにより直観主義の立場はかなり明白なものとなり,今日,直観主義数学ないし構成的数学として発展している。また,証明論においてヒルベルトのいう有限的・構成的手法とは実は直観主義者的手法といっても過言ではないことがわかってきた。
                        柘植 利之

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直観
I プロローグ

直観 ちょっかん Intuition 直観は哲学においては、経験からも理性からも独立した、認識の一形態である。直観能力や直観的知識は、一般に心の内的な性質とみなされる。さまざまな哲学者にさまざまな(ときには相反する)意味でつかわれてきたので、個々の著作にあたらなくては、この語を定義することはできない。

直観という概念には、明らかに2つの源泉がある。ひとつは数学で考えられる公理(証明を必要としない自明な命題)であり、もうひとつは神秘的な啓示(知性の力をこえた真理)という考え方である。

II ピタゴラス派

直観はギリシャ哲学、とくに、数学の研究と教育に力をいれたピタゴラスとその学派の哲学者たちの思想で重要な役割をはたした。また、多くのキリスト教哲学でも重視された。人間が神を知る基本的な方法のひとつと考えられたのである。直観に重きをおいた哲学者としては、スピノザ、カント、ベルグソンがあげられる。

III スピノザ

スピノザの哲学においては、直観は認識の最高形態であって、感覚から生じる「経験的」認識と、経験に根ざした推論から生じる「理性的」認識の両方をこえている。直観的知によって、個人は、宇宙を秩序ただしい統一的なものとして理解でき、そうすることで個人の精神は「無限なるもの」(神=自然)の一部になることができるというのである。

IV カント

カントは直観を知覚、つまり「現象」に限定するが、そこには心の働きも関与している。彼は直観を2つの部分にわける。ひとつは知覚される外的対象からくる感覚与件(うたがいようのない感覚)であり、もうひとつは心の内にある知覚の「形式」、つまり感覚与件の受け入れ方である。人間はかならず空間と時間という形式でものを感覚する。この形式だけを感覚与件なしに、あらかじめとらえる直観が、「純粋直観」といわれる。空間と時間という純粋直観に数学はもとづいているとカントは考えた。

V ベルグソン

ベルグソンは、本能と知性を対置し、直観を本能のもっとも純粋な形式とみなす。知性は物質的な事物を考察するのには適しているが、生命や意識の基本的な本性を知るのには適さない。直観とは、生命の本能が直接くもりなく自覚されたものである。直観によって人は、意識に直接あたえられる生命の流れにはいりこみ、概念や記号によっては表現しえないものと合一することができる。

これに対して知性は、分析することしかできないが、分析とは、絶対的な物や独自な物をとらえるよりも、むしろ対象のもつ相対的な側面に光をあてるものなのである。真に実在する絶対的な物は直観によってのみ理解されうるとベルグソンは考えたのである。

VI 直観主義者たち

倫理学者の中にも、直観主義者あるいは直覚主義者といわれる人たちがいる。彼らは、道徳的価値(善悪)は直観によって直接知られると考え、道徳的価値が経験から生じると考える経験主義者とも、理性によってきまると考える合理主義者とも対立する。


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直観主義
直観主義(intuitionism)とは、直観という能力によって何が善かを把握できるという立場。善についての判断は善についての事実判断であり、認知主義の一種である。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

直観主義

ちょっかんしゅぎ
intuitionism

  

哲学および数学上の用語。哲学においては,直観を認識の基本とする理論をいうが,直観の定義によってさまざまに異なる。現在直観主義は大きく2方面から考えられる。すなわち,直観を真理把握,価値判断の根本的機能としながら,それを知的直観と感性的直観に分つ立場 (フィヒテ,シェリングなど) と,反省や概念などの一切の主知的要素を排し,存在の把握は直観,体験によってのみ可能とする立場 (ベルグソンが代表的) である。この2つの立場は美学や倫理学においてもさまざまに主張されている。数学上の直観主義とは,オランダの数学者 L.ブローウェルによって主張された数学基礎論の一立場をいう。彼は数学は論理の法則に従って推理するものではなく,数学的直観によって進められるべきであり,論理法則こそが直観から逆に帰納されるべきであると主張した。これは H.ワイルによって発展させられ,論理学のうえに数学を基礎づけようとするフレーゲ,ラッセル,ラムゼーなどの論理主義と鋭く対立している。





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フィヒテ
フィヒテ

フィヒテ
Fichte,Johann Gottlieb

[生] 1762.5.19. ラメナウ
[没] 1814.1.27. ベルリン


ドイツの哲学者。ドイツ観念論の代表者の一人。イマヌエル・カントの影響を強く受けた。 1792年匿名で出版した『あらゆる啓示の批判試論』 Versuch einer Kritik aller Offenbarungは出版前にカントに見せ,称賛を得た。 1793年イェナ大学教授となり,1794年知識学を提唱した。自我を絶対的原理とする彼の知識学では,意識は事物 Tatsacheではなく,事行 Tathandlungであり,自由に自己自身を定立する自我は純粋活動であるとされた。 1798年無神論争を起こし,1799年イェナを追われ,1807年新設のベルリン大学教授となった。 1807~08年ナポレオン1世によるフランス軍支配下のベルリンで『ドイツ国民に告ぐ』 Reden an die deutsche Nationを講演し,ドイツ国民の愛国心を鼓舞。フランスとの戦争に看護師として志願していた夫人がチフスにかかり,夫人から感染して死亡した。主著『全知識学の基礎』 Grundlage der gesamten Wissenschaftslehre (1794) ,『人間の使命』 Die Bestimmung des Menschen (1800) ,『現代の特質』 Grundzge des gegenwrtigen Zeitalters (1806) 。



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ドイツ観念論
観念論
I プロローグ

観念論 かんねんろん Idealism 広義には、意識や精神的なものを原理とする哲学上の説をいうが、さまざまな立場がふくまれる。形而上学においては、精神を真の存在とする唯心論の立場を意味し、精神も物質的な要素や過程に還元できるとする唯物論に対立する。しかし、観念論は本来、外界の事物は精神の観念にすぎないとする認識論上の立場であり、この場合には実在論に対立する。実在論は精神から独立した実在を主張するため、実在の本当のあり方は認識できないという懐疑主義におちいりがちである。観念論はこうした懐疑主義に対しては、実在の本質は精神であり、したがって実在は精神によってのみ認識されると主張する。

また観念論は、理想の追求や理念の実現をめざす生活態度をもさし、この場合は理想主義の意味になる。

II プラトン

観念論idealismという用語は、プラトンの「イデアidea」に由来する。イデアとは、知性によってのみとらえられうる超感覚的で普遍的なものである。つねに変化する個々の感覚的なものは、自らの理想的原型であるこのイデアのおかげで存在しうるし、認識しうると、プラトンは主張した。

III バークリーとカント

近代になって、このプラトンのイデアが意識の表象とか観念と解されるようになると、主観的観念論が成立する。その代表者は、18世紀アイルランドの哲学者バークリーである。彼によれば、あるということは知覚されるということであり、心は知覚の束である。そして外界の対象の真の観念は、神によって直接人間の心のうちにひきおこされるのである。

これに対して、ドイツの哲学者カントは、認識の材料を外界にもとめる点では経験的実在論をとるが、この材料をまとめあげ、認識を可能にする条件を、人間の直観と悟性の形式にもとめる点では観念論を主張する。彼によれば、人間が知りうるのは、物が現象する仕方だけであり、物それ自体がどのようなものかは知りえない。彼の観念論は、超越論的観念論とよばれる。

IV ヘーゲル

19世紀ドイツの哲学者ヘーゲルは、物自体は認識できないとするカントの見解を批判して、絶対的観念論を展開する。絶対的観念論は、すべての物の実体は精神であり、すべては精神によって絶対的に認識されうると主張する。ヘーゲルはまた、人間精神の最高の成果といえる文化、科学、宗教、国家などが、自由で反省的な知性の弁証法的な活動を通じて生みだされてゆく過程を再構成してみせた。

カントにはじまり、フィヒテ、シェリングをへてヘーゲルにいたる観念論は総称してドイツ観念論とよばれる。また、こうした観念論思想の流れは、19世紀イギリスのブラッドリー、19世紀アメリカのパースやロイス、20世紀イタリアのクローチェなどにもみいだされる。

→ 西洋哲学


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ドイツ観念論
ドイツかんねんろん deutscher Idealismus[ドイツ]

〈理想が現実を支配する〉という考え方に焦点を合わせて,ドイツ理想主義とも訳される。カント以後,19世紀半ばまでのドイツ哲学の主流となった思想。フィヒテ,シェリング,ヘーゲルによって代表される。彼らはカントの思想における感性界と英知界,自然と自由,実在と観念の二元論を,自我を中心とする一元論に統一して,一種の形而上学的な体系を樹立しようとした。ドイツ観念論の中心的主張は自我中心主義にあり,フィヒテがこの傾向を一貫して保持したのに対して,シェリングは神と自然へと,ヘーゲルは国家と歴史へと自我の存立の場を拡張し,前者はショーペンハウアーの非合理主義に,後者はマルクスの社会主義に大きな影響を与えた。
 デカルト以後,西欧近代哲学は全体として自我中心主義の性格を持つが,ドイツ観念論は,自我に何らかの意味で実在の根拠という性格を見いだし,自我を中心として観念性と実在性との統一を企てる。フィヒテによれば〈すべてのものは,その観念性については自我に依存し,実在性にかんしては自我そのものが依存的である。しかし,自我にとって,観念的であることなしに実在的なものは何もない。観念根拠と実在根拠とは自我において同一である〉。実在性と観念性との相互関係の場を見込んでいる点では観念論も唯物論(実在論)も同様であるが,両者の統一を観念性の側に意識的に設定するのが観念論の立場である。フィヒテは,人間の自由が可能であるためには,観念論の立場をあえて選ぶべきだと考えた。また自我が何らかの意味で実在性の根拠になる以上,自我の能動面である悟性が,実在性の受動面である感性とひとつになる場面が自我自身の内にあると考え,それを〈知的直観〉(直観的悟性)と呼んでいる。カントは,本来,能動的である悟性が,実在に関与する感性とひとつになるならば,それは主観が実在を創造するのと同じことになると考えて,〈知的直観〉を神の知性に特有のものとみなした。知的直観の有無に神と人間との,絶対者と有限者との区別を置いたのである。この両者が〈あらゆる媒介なしに根源的にひとつである〉(シェリング)とみなす立場は,神と人との区別を否定するという危険をはらむ。フィヒテやシェリングは,観念論の立場を前提としながらも,神の人間化を避けようとして,神秘主義の傾向に走った。
 ヘーゲルは,〈絶対的なもの〉が人間知の到達できない〈彼岸〉にあるという考え方をきびしく退けた。哲学は人間知の〈絶対性〉にまで達成しなければならない。すなわち,感覚から始まる人間知の歩みは〈絶対知〉にまで到達しなければならないと考えた。宗教は,まだ絶対知ではない。宗教の最高段階であるキリスト教は,人間知の絶対性を内容としながらも,神人一体の理念をイエスという神格に彼岸化し,その内容を表象化している。この彼岸性,表象性,対象性を克服したところに〈絶対知〉がなりたつ。ヘーゲル自身は,宗教と哲学とは同一内容の異なった形式であると主張して,無神論者という自分に対する疑いを晴らそうとした。しかし,ヘーゲル左派は,ヘーゲル哲学の本質が神の彼岸性を否定する点にあると解して,〈神学の秘密が人間学にある〉(L. A. フォイエルバハ)と説いた。ドイツ観念論は,神秘主義と唯物論との対立という結果を招いたのである。
 カント的な二元性を〈ただひとつの原理〉から導くことによって,克服すべきだという主張を掲げたのは,ラインホルト Karl Leonhard Reinhold(1758‐1823)である。彼は〈意識そのものには,対象との区別の側面と,対象との関係の契機が含まれる〉という〈意識律〉を第一原理とし,意識そのものに,実在性(対象との関係)と観念性(対象との区別)という契機を含みこませた。フィヒテは,同じく自我そのものに両契機を設定するに際して,ラインホルトのように〈意識の事実〉(表象の事実)に拠ることは誤りだと考えた。〈事実は何ら第一の無制約的な出発点ではない。意識の中には事実よりも根源的なものがある。すなわち,事行 Tathandlung である〉。実践的・能動的な自我に事実以上の根源性を見いだすことからフィヒテは出発した。そして A=A と同じ真理性をもち,なおかつより根源的なものとして〈我=我〉を導き出す。ここから彼は自我の内に非我もまた定立されることを独特の論理で展開する。〈絶対我は,我と非我とを内に含み,しかもこれを超越するところのものである〉。A=A(同一律)は,たんに言葉の使用規則ではなく,あらゆる事物が感性の多様性に解体されることなく自己同一性(単一性)を保つ根拠として考えられていた。もし同一性の根拠が,我=我(見る我と見られる我の同一)にあるとしたら,物の存在そのものに,見る―見られる(主―客)の同一性という,〈対立するものの同一性〉という構造があることになる。ここからヘーゲルは弁証法論理を樹立するにいたる。
 ドイツ観念論の時代的背景には,英仏における近代化に〈おくれたドイツ〉という事情がある。それゆえかえって近代主義が内面化・観念化されて,哲学の内に体系化される。後進性の特徴として,宗教批判が無神論に達することなく汎神論となり(スピノザ主義の受容),個我の解放が個人主義とならずに能動的自我の絶対化となり,近代社会の現実的確立ではなく理念化された法哲学の確立(フィヒテ,ヘーゲル)となる。他方,観念化された先進性のあらわれとして,主客二元論の構図が打破され,唯物論,現象学を生み出し,自我中心主義はロマン主義と結びついて神秘主義,実存主義の下地となり,理念化された国家共同体論は社会主義に影響を及ぼした。なお,イギリス経験論のドイツ観念論への影響は,ラインホルトにみられるようにカント哲学の心理主義的解釈となって現れ,自我の能動性を絶対化する方向で〈カントの限界〉を克服することが,経験論の克服になると考えられた。経験論との根本的な対立点は,存在者一般の同一性の根拠として,ドイツ観念論が能動的自我の同一性を原理とした点にある。自我論における対立は現代哲学にも及び,観念論・実存主義・現代存在論と,経験論・唯物論・精神分析学との間に,顕在的にせよ潜在的にせよ,さまざまの論点の違いを生み出している。⇒イギリス経験論                      加藤 尚武

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イギリス経験論
イギリス経験論
イギリスけいけんろん British empiricism

多くの場合,大陸合理論と呼ばれる思想潮流との対照において用いられる哲学史上の用語。通常は,とくにロック,G. バークリー,D. ヒュームの3人によって展開されたイギリス哲学の主流的傾向をさすものと理解されている。通説としてのイギリス経験論のこうした系譜を初めて定式化したのは,いわゆる常識哲学の主導者 T. リードの《コモン・センスの諸原理に基づく人間精神の探究》(1764)とされているが,それを,近代哲学史の基本的な構図の中に定着させたのは,19世紀後半以降のドイツの哲学史家,とりわけ新カント学派に属する哲学史家たちであった。とくに認識論的な関心からカント以前の近代哲学の整理を試みた彼らの手によって,ロック,バークリー,ヒュームと続くイギリス経験論の系譜は,デカルト,スピノザ,ライプニッツ,C. ウォルフらに代表される大陸合理論の系譜と競合しつつ,やがてカントの批判哲学のうちに止揚された認識論上の遺産として,固有の思想史的位置を与えられたからである。その場合,例えば,ロックの認識論がカント自身によって批判哲学の先駆として高い評価を与えられた事実や,ヒュームの懐疑論がカントの〈独断のまどろみ〉を破ったと伝えられるエピソードは,そうした通説にかっこうの論拠を提供するものであった。
 確かに,イギリス経験論の代表者をロック,バークリー,ヒュームに限りつつ,それを,大陸合理論との対照において,あるいはカント哲学の前史としてとくに認識論的観点から評価しようとする通説は,次の2点でなお無視しえない意味をもっている。第1点は,ロックからバークリーを経てヒュームに至るイギリス哲学の系譜を,感覚的経験を素材として知識を築き上げる人間の認識能力の批判,端的に認識論の発展史と解することが決して不可能ではないことである。ロックの哲学上の主著が《人間知性論》であるのに対して,バークリーのそれが《人知原理論》と名付けられており,ヒュームの主著《人間本性論》の第1編が知性の考察にあてられている事実は,バークリーとヒュームとの思索が,ロックによって設定された認識論的な問題枠組の中で展開された経緯をうかがわせるであろう。そこにまた,先述のリードが,ロック,バークリー,ヒュームを懐疑論の発展史的系譜の中に位置づけた主要な理由もあったのである。
 従来の通説がもつ第2の意義は,それが,大陸合理論とイギリス経験論との対比,カント哲学によるそれら両者の統合という図式を提示することによって,錯綜した近代哲学史の動向を描き分けるのに有効な一つのパースペクティブを確立したことである。思想の歴史を記述する場合,個々の思想家を一定の歴史的構図の中に配置して時系列における相互の位置関係を確定する作業が,いわば方法的に不可欠であると言えるからである。
[経験的世界の解明]  けれども,ウィンデルバントの言う〈近代哲学の認識論的性格〉を極度に強調しつつ,イギリス経験論の系譜を認識論の発展史と解してきた従来の傾向は,イギリス経験論の成果をあまりにも一面的にとらえすぎていると言わなければならない。例えば,イギリス経験論の確立者と評されるロックの思想が,人間の経験にかかわるきわめて多様な領域を覆っている点に象徴されているように,イギリス経験論がその全行程を通して推し進めたのは,単に狭義の認識論の理論的精緻化ではなく,むしろ,人間が営む経験的世界総体の成り立ちやしくみを見通そうとする包括的な作業であったと考えられるからである。しかも,このように,イギリス経験論を,人間の経験とその自覚化とにかかわる多様な問題を解こうとした一連の思想の系譜ととらえる場合,そこには,その系譜の始点から終点へのサイクルを示す思想の一貫した動向を認めることができる。端的に,人間と自然との交渉のうちに成り立つ自然的経験世界の定立から,人間の間主観的相互性を通して再生産される社会的経験世界の発見に至る経験概念の不断の拡大傾向がそれである。こうした動向に注目するかぎり,イギリス経験論の歴史的サイクルは,通説よりもはるかに長く,むしろ F. ベーコンによって始められ,A. スミスによって閉じられたと解するほうがより適切であると言ってよい。その経緯はほぼ次のように点描することができる。
 周知のように,〈自然の奴隷〉としての人間が,観察と経験とに基づく〈自然の解明すなわちノウム・オルガヌム〉を通して〈自然の支配者〉へと反転する過程と方法とを描いたのは,〈諸学の大革新〉の唱導者ベーコンである。力としての知性をもって自然と対峙する人間精神の自立性を確認し,自然的経験世界における人間の主体的な自己意識を確立したベーコンのこの視点は,イギリス経験論に以後の展開の基本方向を与えるものであった。その後のイギリス経験論は,自然的経験世界に解消されえない経験領域の存在と,その世界を認識し構成する人間の能力との探究を促された点で,明らかにベーコンの問題枠組を引き継いでいるからである。その問題に対する最初の応答者は,ホッブズとロックとであった。彼らは,ともに,国家=政治社会を人間の作為とし,人間の秩序形成能力を感性と理性との共働作用のうちに跡づけることによって,自然的経験領域とは範疇的に異なる人間の社会的経験世界のメカニズム,その存立構造を徹底的に自覚化しようとしたからである。けれども,彼らが理論化してみせた社会的経験世界は,たとえ人間の行動の束=状態として把握されていたとしても,なお,現存の社会関係に対置された als ob,すなわち〈あたかもそうであるかのごとき〉世界として,現実の経験世界それ自体ではありえなかった。彼らが,人間の行為規範として期待した自然法は,あくまでも理性の戒律として,現実の人間を動かす経験的な行動格率には一致せず,また,彼らが人間の行動原理として見いだした自己保存への感性的欲求は,どこまでも単なる事実を超えた自然権として規範化されていたからである。
 〈道徳哲学としての自然法〉に支えられた規範的な経験世界を描くにとどまったホッブズとロックとに対して,人間の主観的な行動の無限の交錯=現実の社会的経験世界のメカニズムを見通す哲学的パラダイムを提示したのがバークリーであり,ヒュームであった。バークリーが,〈存在とは知覚されたものである〉とする徹底した主観的観念論によって,逆に他者の存在を知覚する主観相互の〈関係〉を示唆したのをうけて,ヒュームは,人間性の観察に基づく連合理論によって,個別的な主観的観念をもち,個別的な感性的欲求に従って生きる人間が,しかも,全体として,究極的な道徳原理=〈社会的な有用性〉〈共通の利益と効用〉に規制されて間主観的な関係を織り成している経験的,慣習的な現実への通路を見いだしたからである。もとよりこれは,道徳哲学を,超越的規範の学から人間を現実に動かす道徳感覚の理論へと大胆に転換させたヒュームにおいて,権力関係を含む国家とは区別される社会,すなわち,個別的な欲求主体の間に成り立つ間主観的な関係概念としての社会が発見され,その経験的認識への途が準備されたことを意味するであろう。
 ヒュームのそうした視点をうけて,〈道徳感情moral sentiment〉に支えられた人間の間主観的相互性を原理とし動因として成り立つ社会のメカニズム,その運動法則を徹底的に自覚化したのが言うまでもなくスミスであった。彼は,有名な〈想像上の立場の交換〉に基づく〈同感 sympathy〉の理論によって,主観的な欲求に支配され,個別的な利益を追求する経験主体の行動の無限の連鎖=社会が,しかも調和をもって自律的に運動し再生産されていく動態的なメカニズム,すなわち社会の自然史的過程を解剖することに成功したからである。もとよりこれは,ベーコン以来,人間が営む経験的世界総体の自覚化作業を推し進めてきたイギリス経験論が,現実の経験世界への社会科学的視点を確立したスミスによってその歴史的サイクルを閉じられたことを意味するものにほかならない。しかも,人間の経験的世界は,それが,どこまでも経験主体としての人間によって構成される世界であるかぎり,必ず歴史的個体性を帯びている。したがって,そうした経験的世界の構造を一貫して見通そうとしてきたイギリス経験論は,実は,イギリスの近代史がたどってきた歴史的現実それ自体の理論的自覚化として,明らかに,固有の歴史性とナショナリティとをもったイギリスの〈国民哲学〉にほかならなかった。その意味において,イギリス経験論の創始者ベーコンが,イギリス哲学史上初めて母国語で《学問の進歩》を書き,また,その掉尾を飾るスミスの主著が《国富論(諸国民の富)》と題されていたのは,けっして単なる偶然ではなかったのである。        加藤 節

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バークリー
バークリー,G.
バークリー George Berkeley 1685~1753 アイルランドの哲学者、牧師。近代観念論の創始者のひとり。物質は精神から独立に存在しえないと主張した。いっぽう、感覚現象は、人間の精神につねに知覚をよびおこす神の存在を前提とするとも考えた。

アイルランドのキルケニに生まれ、ダブリンのトリニティ・カレッジにまなび、1707年このカレッジの特別研究員となった。1710年、「人知原理論」を出版。その理論があまり理解されなかったために、その通俗版である「ハイラスとフィロナスの3つの対話」(1713)を出版したが、この両著作における彼の哲学的主張は、生前にはほとんど評価されなかった。しかし、24年デリー大聖堂首席牧師に任じられ、聖職者としてはますます有名になっていった。

1728年に渡米し、バミューダ島にアメリカのわかい植民者と先住民族の人々を教育するための大学を建設しようとした。この計画は32年に放棄されたが、バークリーはアメリカの高等教育の向上につとめ、エール、コロンビアその他の大学の発展に貢献した。34年、クロインの司教となり、引退するまでこの地位にとどまった。

バークリーの哲学は、懐疑主義と無神論に対する回答である。彼によれば、懐疑主義は経験ないし感覚が事物から切りはなされるときに生じる。そうなれば、観念を介して事物を知る方法はなくなるからである。この分離を克服するには、存在するとは知覚されることである、ということがみとめられねばならない。知覚されるものはすべて現実のものであり、知覚されるものだけが、その存在を知られうる。事物は観念として心の中に存在する。

しかし他方、バークリーは、事物は人間の心と知覚から独立に存在するとも主張する。というのも、われわれは自分がもつ観念を自由に変更することはできないからである。この矛盾を解決するために、彼は神のような無限に包括的な精神を要請し、この神の知覚があらゆる感覚的事実を構成すると考える。

バークリーの哲学体系は、物質的外界の認識の可能性をみとめない。彼の哲学体系そのものはほとんど後継者をもたなかったが、独立した外界と物質の概念を主張する根拠に対するその批判には説得力があり、その後の哲学者に影響をあたえた。上記以外の著書に、「視覚新論」(1709)、「サイリス」(1744)などがある。


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バークリー 1685‐1753
George Berkeley

イギリスの哲学者。ロック,D. ヒュームらとともにイギリス経験論の伝統に連なる。アイルランドの生れで,一生アイルランドとの縁が深かったが,彼の家系はイングランドの名門貴族につながり,信仰の面でもきわめて敬虔な国教徒であった。ダブリンのトリニティ・カレッジで助祭に任命されて以来,聖職を離れたことがなく,30歳代には新大陸での布教を志し,バミューダ島に伝道者養成の大学を建設するため奔走した。政府の援助が続かず計画は挫折したが,1734年にはアイルランドのクロインの司教に任ぜられ,教区の住民に対する布教,救貧,医療に力を尽くした。哲学の著作としては20歳代半ばに発表した《視覚新論》(1709)と《人知原理論》(1710)がとくにすぐれている。しかしこの2著で展開された非物質論の哲学にしても,近代科学の〈物質〉信仰を無神論と不信仰の源とみなし,これに徹底的な批判を加えたもので,背後には護教者の精神が一貫して流れている。
 そのころバークリーが熱心に研究したのはマールブランシュとロックの哲学であるが,いずれに対しても自主独立の態度を持し,むしろふたりの学説を批判的に克服することで独自の立場を築いている。《視覚新論》では当時学界の論題であった視覚に関する光学的・心理学的な諸問題に独創的な解釈を施しつつ,非物質論の一部を提示している。彼によれば視覚の対象は触覚の対象とはまったく別個で,色や形の二次元的な広がりにすぎず,外的な事物と知覚者の間の距離は視覚によっては直接に知覚できない。対象のリアルな大きさ,形,配置なども同様である。われわれが視覚でこれらを知るのは,過去の経験を通じて両種の観念の間に習慣的連合(観念連合)が成立しているからで,デカルトやマールブランシュが説くように幾何学的・理性的な判断の働きによるのではない。全体として,数学的・自然科学的な概念構成の世界から日常的な知覚の経験に立ち返り,その次元で存在の意味を問いなおそう,というのがこの書の基本精神である。一方,《人知原理論》では,視覚対象は〈心の中〉に存在するにすぎないという前著の主張が知覚対象の全体に広げられ,〈存在するとは知覚されること(エッセ・エスト・ペルキピ esse est percipi)〉という命題が非物質論の根本原理として確立される。何ものも〈心の外〉には,すなわち知覚を離れては存在しないとすれば,もはや〈物質的実体〉の存在を認める余地はない,というのである。《人知原理論》は現象主義的な認識論の古典とみなされているが,バークリー自身の哲学は〈観念すなわち実在〉の主張で終わるものではなかった。むしろ観念とはまったく別個な,あらゆる観念の存在を支える〈精神的実体〉こそ真実在である,というところにその眼目がある。バークリーにとって,世界は究極的には神の知覚にほかならない。          黒田 亘

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懐疑主義
懐疑主義
I プロローグ

懐疑主義 かいぎしゅぎ Skepticism 人間の主観的知覚からはなれた、あるがままの事物を知ることはできないとする哲学の考え方。語源はギリシャ語のskeptesthai(吟味する)。もっと一般的な用法では、ひろく真であると信じられていることをうたがう態度をさす。懐疑主義は人間の認識の範囲と程度を問題にするので、つまるところは認識論になる。→ 認識論

II 古代ギリシャの懐疑主義

紀元前5世紀にギリシャで活躍したソフィストは、ほとんど懐疑主義者である。彼らの考えを表現している言葉に、「何も存在しない、もし存在するとしても、それを知ることはできない」や「人間は万物の尺度である」といったものがある。たとえばゴルギアスは、事物についてかたられることはすべて偽りであり、かりに真だとしても、それが真であることは証明できないといった。あるいはプロタゴラスは、人間が知りうるのは事物について各自が知覚したことだけであって、事物そのものではないと説いた。

懐疑主義をはじめて明確に定式化したのは、ギリシャ哲学の学派ピュロン派の人たちである。創設者のピュロンは、人間は事物の本性をまったく知ることができないのだから、判断を保留すべきだといった。ピュロンの弟子ティモンは、いかなる哲学上の主張に関しても同じ説得力をもった賛否両論をあげることができると主張した。

プラトンが創設したアカデメイアは、前3世紀ごろから懐疑主義にかたむいた。アカデメイア派はピュロン派よりも体系的であるが、いくらか徹底性にかけるところがある。たとえばカルネアデスは、どの意見も絶対的に真ではありえないと主張した。しかし、もしそうなら、何がよくて何がわるいのかを判断できないのだから、人間は行為できなくなるのではないか。この反論に直面してカルネアデスは、ある意見が他の意見よりも信頼できる(蓋然的である)ことはありうるとみとめてしまった。この不徹底さに不満をおぼえたアイネシデモスはピュロン派を復興させ、懐疑主義の立場をかためる10カ条の方式を整備した。古代末期のセクストス・ホ・エンペイリコスは、古代の懐疑主義を集大成した「ピュロン哲学の概要」などの著作をのこした。

III 近代の懐疑主義

セクストスの書物は、ルネサンス期に再発見された。16世紀のモンテーニュは、セクストスにならって人間の理性は無力だと説き、理性よりもキリスト教の信仰にしたがうようすすめた。17世紀にデカルトが懐疑主義を克服しようとこころみたにもかかわらず、懐疑主義はいっこうにおとろえなかった。

18世紀になると、近代懐疑主義のもっとも重要な代表者ヒュームがあらわれた。彼は、外界、因果結合、未来の出来事について、われわれが信じていることは真ではないかもしれないし、魂や神は存在するのかといった形而上学的問題も解決できないと考えた。同じ18世紀にカントは、ヒュームの懐疑主義を克服しようとこころみた。しかし彼もやはり、あるがままの事物(物自体)を知ることはできないとみとめざるをえなかった。

19世紀にヘーゲルが合理主義の体系の中に懐疑主義をくみいれようとしたが、19世紀終わりから20世紀初めにかけて彼の合理主義が崩壊するとともに、ニーチェやサンタヤーナのように、懐疑主義にかたむく哲学者たちがあらわれた。懐疑主義的な考えは、プラグマティズム、分析哲学と言語哲学そして実存主義といった、他の現代哲学の中にもみうけられる。

→ 経験主義:形而上学:西洋哲学:合理主義


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懐疑論
かいぎろん

〈検討〉を意味するギリシア語 skepsis に由来する西洋哲学用語(英語では skepticism)の訳として用いられる語。人間的認識の主観性と相対性を強調して,人間にとって普遍的な真理を確実にとらえることは不可能だとする思想上の立場。独断論 dogmatism に対する。広義にはあらゆる普遍妥当的な真理の認識可能性を否定する立場を指すが,狭義には特定の領域,例えば宗教や道徳において確実な真理に到達する可能性を否定する立場を指すのにも用いられる。このような立場は,一方では人間の思考や認識に対する否定的な態度さらにはニヒリズムにつながるが,他方では断定的な判断を避け,経験と生とを導きの糸として探究を続行しようとする実証主義的態度にもつながる。また懐疑論はつきつめていけば論理的矛盾に陥る――〈真理の認識は不可能である〉という断定は真理に関する一つの絶対的判断である――ので純粋な形では主張することができないが,それほど徹底しない場合でもそれ自身のために主張されるよりは,従来の見解を打倒するための武器あるいは疑うことのできない真理を発見するための手段(デカルトの方法的懐疑はその典型)として用いられることが多い。
 西洋哲学史上,懐疑論がとくに問題になるのは古代と近世初期である。古代の懐疑派は通常三つの時期に区別される。初期にはピュロン(その名に由来するピュロニズムは懐疑論の別名となった)とその弟子ティモン Timヾn がおり,彼らは何事についても確実な判断を下すのは不可能であるから,心の平静(アタラクシア)を得るためには判断の留保(エポケー)を実践すべきことを説いた。中期はプラトンゆかりの学園アカデメイアの学頭であったアルケシラオス Arkesilaos とカルネアデス Karnead^s に代表される。彼らはストア主義を独断論として攻撃し,とくに後者は蓋然的知識で満足すべきことを説いた(アカデメイア派ないし新アカデメイア派の語も懐疑論者の代名詞として用いられることがある)。後期にはアイネシデモスやセクストス・ホ・エンペイリコス等が属するが,前者は感覚的認識の相対性と無力さを示す10の根拠を提示したことで知られ,後者は経験を重んずる医者として諸学の根拠の薄弱さを攻撃し,またその著書はギリシア懐疑論研究の主要な資料となっている。近世においては,ルネサンスの豊かな思想的混乱の中で懐疑思想も復活し,伝統的な思想や信仰を批判する立場からも,逆にそれを擁護する立場からもさまざまなニュアンスの懐疑論が主張されたが,その中でもモンテーニュのそれはたんに否定的なものにとどまらず生を享受する術となっている点で,またパスカルのそれはキリスト教擁護の武器として展開されているにもかかわらず作者の意図を越えて人間精神の否定性の深淵を垣間見させてくれる点でそれぞれ注目に値する。なお D. ヒュームはしばしば懐疑論者のうちに数えられ,彼に刺激を受けたカントについても懐疑論との関係で論じられることもある。⇒不可知論                     塩川 徹也

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懐疑学派
懐疑学派

かいぎがくは
skeptikoi; skeptics

  

西洋古代における哲学の一派で3期に分けられる。 (1) 古懐疑派 プロタゴラスやゴルギアスの思想をふまえ,ピュロンが懐疑論を体系化。それゆえ懐疑論はピュロン主義とも呼ばれる。彼とその弟子ティモンは魂の平静を最高善とし,物の本性は不可知であり判断を差し控える (→エポケー ) べきであるとした。 (2) 中期アカデメイア派 アルケシラオスはピュロンをこえて絶対的懐疑論を樹立,ストア派を独断論として論争を始めた。カルネアデスは蓋然性を主張して前者を修正した。 (3) 新懐疑派 アイネシデモスは折衷主義に堕した懐疑論をピュロン説に引戻し,エポケの 10論拠を示した。アグリッパがその思想を継ぎ,アレクサンドリアに実証主義哲学の種子をまき,そこからセクストス・ホ・エンペイリコスが出て懐疑論の理論を集大成した。





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[ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 2008]
懐疑論
懐疑論

かいぎろん
skepticism

  

人間理性による確実な真理認識をおしなべて否定する哲学的立場。その変形されたものとしては,蓋然性を認める認識論的蓋然主義,経験的現象での真理認識は認めるがその背後なる超越者の認識を否定する不可知論,客観的真理を否定する相対主義などがあり,認識の局面をこえて実践面にそれを適用した宗教的,倫理的懐疑論がある。絶対的懐疑論は真理認識を否定するが,その主張自体は真理であるとしているのであるから,決定的な自己矛盾を含んでいるというのが,アウグスチヌスの批判である。古代の懐疑学派のほかに,近世のモンテーニュやバークリー,経験論を徹底したヒューム,物自体の認識を否定したカントらが懐疑論者と考えられる。





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懐疑論
かいぎろん

〈検討〉を意味するギリシア語 skepsis に由来する西洋哲学用語(英語では skepticism)の訳として用いられる語。人間的認識の主観性と相対性を強調して,人間にとって普遍的な真理を確実にとらえることは不可能だとする思想上の立場。独断論 dogmatism に対する。広義にはあらゆる普遍妥当的な真理の認識可能性を否定する立場を指すが,狭義には特定の領域,例えば宗教や道徳において確実な真理に到達する可能性を否定する立場を指すのにも用いられる。このような立場は,一方では人間の思考や認識に対する否定的な態度さらにはニヒリズムにつながるが,他方では断定的な判断を避け,経験と生とを導きの糸として探究を続行しようとする実証主義的態度にもつながる。また懐疑論はつきつめていけば論理的矛盾に陥る――〈真理の認識は不可能である〉という断定は真理に関する一つの絶対的判断である――ので純粋な形では主張することができないが,それほど徹底しない場合でもそれ自身のために主張されるよりは,従来の見解を打倒するための武器あるいは疑うことのできない真理を発見するための手段(デカルトの方法的懐疑はその典型)として用いられることが多い。
 西洋哲学史上,懐疑論がとくに問題になるのは古代と近世初期である。古代の懐疑派は通常三つの時期に区別される。初期にはピュロン(その名に由来するピュロニズムは懐疑論の別名となった)とその弟子ティモン Timヾn がおり,彼らは何事についても確実な判断を下すのは不可能であるから,心の平静(アタラクシア)を得るためには判断の留保(エポケー)を実践すべきことを説いた。中期はプラトンゆかりの学園アカデメイアの学頭であったアルケシラオス Arkesilaos とカルネアデス Karnead^s に代表される。彼らはストア主義を独断論として攻撃し,とくに後者は蓋然的知識で満足すべきことを説いた(アカデメイア派ないし新アカデメイア派の語も懐疑論者の代名詞として用いられることがある)。後期にはアイネシデモスやセクストス・ホ・エンペイリコス等が属するが,前者は感覚的認識の相対性と無力さを示す10の根拠を提示したことで知られ,後者は経験を重んずる医者として諸学の根拠の薄弱さを攻撃し,またその著書はギリシア懐疑論研究の主要な資料となっている。近世においては,ルネサンスの豊かな思想的混乱の中で懐疑思想も復活し,伝統的な思想や信仰を批判する立場からも,逆にそれを擁護する立場からもさまざまなニュアンスの懐疑論が主張されたが,その中でもモンテーニュのそれはたんに否定的なものにとどまらず生を享受する術となっている点で,またパスカルのそれはキリスト教擁護の武器として展開されているにもかかわらず作者の意図を越えて人間精神の否定性の深淵を垣間見させてくれる点でそれぞれ注目に値する。なお D. ヒュームはしばしば懐疑論者のうちに数えられ,彼に刺激を受けたカントについても懐疑論との関係で論じられることもある。⇒不可知論                     塩川 徹也

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エポケー
エポケー

エポケー
epoch

  

原語はギリシア語で,「判断中止」の意。古代ギリシアの懐疑論者たちの用語。何一つ確実にして決定的な判断を下すことはできないという懐疑論の立場から,判断を下すことを控える態度をいう。この態度は近世になりデカルトの「方法的懐疑」において,哲学の方法論として積極的な意義が見出された。 E.フッサールはデカルトの精神をくみながら,現象学的方法として,自然的態度によって生じる判断をかっこに入れて排去することを説き,これを現象学的判断中止 phnomenologische Epocheといった。





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方法的懐疑
方法的懐疑

ほうほうてきかいぎ
doute mthodique; methodical doubt

  

デカルト哲学の根底をなす方法。少しでも疑いうるものはすべて偽りとみなしたうえで,まったく疑いえない絶対に確実なものが残らないかどうかを探る態度。それは懐疑論と異なり,すべてを偽りとする判断ではなく,真理を得る方法としての意志的懐疑であり,徹底してなされる点で「誇張された懐疑」である。デカルトはこの懐疑を通してまずコギト・エルゴ・スムの真理を得た。





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認識論
認識論
I プロローグ

認識論 にんしきろん Epistemology 知識についての哲学的問題をあつかう哲学の一分野。知識の定義・起源・基準・種類・度合いや、知る人と知られる物との関係などを研究する。

II ギリシャと中世の問題

前5世紀のギリシャのソフィストたちは、確かで客観的な知識の可能性をうたがった。代表的なソフィストのひとりゴルギアスは、何物も存在しない、たとえ存在したとしても知りえない、知りえたとしてもつたえることはできないと論じた。プロタゴラスは、判断はそれぞれの人間によってきまるのであり、共通の基準などありえないといった。

ソクラテスとその弟子プラトンは、これらの考えに対して、イデアという、感覚をこえたかわることのない世界を想定した。その世界が、われわれに確かで客観的な知識をあたえるのであり、みたりさわったりできるものはその世界のコピーにすぎないと彼らはいう。したがって本当の知識をえるためには、イデアについての学問である数学と哲学をまなぶ必要があり、感覚にたよっていてはあいまいでいい加減な知識しかえられない。このイデアの世界について哲学的に探究することが、人間の使命だと彼らは考えた。

アリストテレスの考えは、イデアについての知識が最高の知識であるという点では、プラトンと同じだが、その知識にいたる方法はちがっている。アリストテレスによれば、ほとんどすべての知識は、経験によってえられる。その際必要なのは、注意深い観察と、アリストテレスによってはじめて体系化された論理学の規則の厳密な適用である。

ストア学派とエピクロス学派は、知識が感覚から生まれるという点ではアリストテレスと一致するが、哲学が人生の目的ではなく、実践的な導きであると考える点で、アリストテレスやプラトンと意見がことなる。

中世では、スコラ学のトマス・アクィナスなどの哲学者が、合理的な方法と信仰をむすびつけた。トマスは、感覚から出発し論理学によって確かな知識をえるという点で、アリストテレスの考えをうけついだ。

III 理性と感覚

17~19世紀の認識論の問題は、知識を獲得するのは理性によってなのか感覚によってなのかというものであった(→ 合理主義:経験主義)。理性によってであるというデカルトやスピノザやライプニッツは、知識は自明な原理や公理から演繹的に推論することによってえられると考えた。いっぽう、ベーコンやロックは、知識の源泉とその吟味は感覚、つまり経験によるものと考えた。

1 イギリス経験論

ベーコンは中世的な伝統を批判し、個別的な事実の観察、実験から一般法則をみちびく帰納法をはじめとする近代科学の方法を確立した。ロックは、知識は自明な諸原理から獲得されると考える合理主義者たちに対して、すべての知識は経験からえられるのであり、感覚によって外の世界の知識をえ、反省によって心の内部の知識をえると主張した。したがって、錯覚があるかぎり、外の世界についての人間の知識はけっして確実なものとはならない。

バークリーは、感覚によってのみ事物を知ることができると考え、「存在するとは知覚されることである」といった。ヒュームは、数学や論理学における、確実ではあるが世界についてはなにもいっていない知識と、感覚によって獲得される事実についての知識をわけた。事実についての知識は因果関係にもとづいているが、因果関係は論理的な関係ではないため、未来におこることについてはなにも確かなことはいえない。したがって、もっとも確実な自然法則でさえ、正しいものでありつづけるかどうかはわからない。この考えは哲学の歴史に重大な影響をあたえた。

2 カント以後

カントは、以上のような合理主義と経験主義をむすびつけようとした。たしかに合理主義者がいうように、数学や自然科学において確実な知識は存在するが、いっぽう、感覚経験からは確実な知識がえられないという点では、経験主義者のいうとおりである。では、なぜ数学や自然科学の知識は確実性をもつのか。

人間にはもともと、対象を認識するための一定の形式がそなわっているというのが、カントの答えである。人間は、そのような形式によってしか対象を認識できない。たとえば、因果性というのも認識の形式のひとつである。感覚経験自体からは因果関係の確実性は生じないが、物理学の因果的法則は、人間の側にそなわった因果性という認識形式にのっとっているために、すべての経験にかならずあてはまるはずなのである。

それはたとえば、すべての人間が緑のサングラスをかけて世界をみた場合、「世界は緑である」という発言がすべての人間にとって正しい発言とみなされるのに似ている。このように、知識の確実性の根拠を世界の側にではなく、認識する主観の側にもとめたカントの方法は、天動説に対して地動説をとなえたコペルニクスになぞらえて「コペルニクス的転回」とよばれている。

19世紀になるとヘーゲルは合理主義的な考えを復活させ、「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」といって、人間が歴史とともに発達することによって、絶対的で確実な知識に到達すると主張した。

プラグマティズムという考え方が、パース、ジェームズ、デューイなどによって19~20世紀にアメリカでおこった。経験主義的なこの考え方は、知識は行動のための道具であり、あらゆる信念は経験にとって役にたつかどうかで評価されると主張した。

IV 20世紀の認識論

20世紀になると認識論の問題はさまざまに議論され、多くのことなった考えを生んだ。フッサールは、知る行為と知られる物との関係を明らかにする現象学という方法を確立した。現象学では、知るためには知られる物にむかっている意識(志向性)があり、ある意味でその意識の中に知られる物はふくまれていると考える。

20世紀初め、ウィトゲンシュタインの影響下に2つの学派が生まれた。ひとつは論理実証主義(→ 実証主義)で、オーストリアのウィーンで生まれ、またたく間に英米にひろまった。論理実証主義者の主張によれば、科学的な知識だけが本当の知識であり、この知識は経験とてらしあわせることによって真であるか偽であるかがきまる。したがって、哲学がこれまで議論してきた多くの事柄は、真でも偽でもなく、たんに無意味なものとなる。

もうひとつの学派は日常言語学派で、言葉の分析を哲学のおもな仕事と考え、伝統的な認識論とはかなりちがった方向をとる(→ 分析哲学と言語哲学)。彼らは認識論でつかわれる知識や知覚といった用語が実際どのようにつかわれているかをしらべ、まちがったつかわれ方を正しいものにあらためて、言葉の混乱をなくそうとした。

→ 懐疑主義:形而上学


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実証主義
実証主義
I プロローグ

実証主義 じっしょうしゅぎ Positivism 経験一般と、自然現象についての経験をとおした知識にもとづく哲学の体系。経験をこえたものを対象にする形而上学や神学などを、じゅうぶんな知識の体系とはみとめない考え方。

II 成立と発展

19世紀フランスの社会学者・哲学者のコントによってはじめられた実証主義の考えのいくつかは、サン・シモン、あるいはヒュームやカントにまでさかのぼることもできる。

コントは人間の知識の発達を3段階にわけ、自然をこえた意志によって自然の現象を説明する神学的知識の段階から、自然をこえた説明はするが擬人的ではない形而上学的知識の段階をへて、経験的事実のみで説明をする実証的知識の段階へいたると説いた。最後の実証的知識の段階では、事実を事実で説明し、自然の現象の背後にそれをこえたものを想定したりはしない。

このような考えは、自然科学の発達にともない19世紀後半の思想に大きな影響をおよぼした。コントのこの考えは、ジョン・スチュアート・ミル、スペンサー、マッハなどによりさまざまにうけつがれ発展した。

III 論理実証主義

20世紀前半になると、伝統的な経験的事実にもとづく実証主義とはことなった、論理実証主義という考え方がおこった。マッハの考えをうけつぐこのグループは、ウィトゲンシュタインやラッセルの影響のもとに、論理分析により科学や哲学を考察した。ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」(1922)の影響をうけた論理実証主義者たちは、形而上学や宗教、倫理についてかたることは無意味であり、自然科学の命題だけが、事実とてらしあわせて検証することにより、正しいか正しくないか判断できると考えた。このような考え方は、その後さまざまな修正や発展をへて、多くの哲学者に影響をあたえた。


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カント
イェナ大学
イェナ大学

イェナだいがく
Friedrich-Schiller Universitt Jena

  

ドイツのイェナにある国立総合大学。正式名称はフリードリヒ=シラー大学。ザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒが 1548年に設立したアカデミーに起源をもち,58年大学としてドイツ皇帝の認可を得た。 18世紀末から 19世紀にかけて,シラー,W.フンボルト,フィヒテ,シェリング,ヘーゲル,ゲーテらが教授陣として活躍。教育学研究では,P.ペーターゼンのイェナ・プランで有名。神学,法学,医学,哲学,経済学,数学,化学,生物学,物理学・天文学・応用科学などの学部から成る。学生数約1万 500名,教員数約 300名 (1997) 。





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知識学
知識学

ちしきがく
Wissenschaftslehre

  

ドイツの哲学者フィヒテの主張した学問。知識を基礎づける知の形而上学であり,真の哲学とされた。一般には知識およびその体系としての個別的学問の前提,基礎,方法を対象とする学問であり,方法論と等しいものと考えられている。





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『独逸国民に次ぐ』
ドイツ国民に告ぐ

ドイツこくみんにつぐ
Reden an die deutsche Nation

  

ドイツの哲学者 J.フィヒテの演説。彼は 1807年から翌年にかけて,ナポレオン占領下のベルリンにおいてこの連続講演を行い,国民の覚醒を促した。これがドイツのナショナリズムに与えた影響は大きかった。





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シェリング
シェリング

シェリング
Schelling,Friedrich Wilhelm Joseph von

[生] 1775.1.27. ウュルテンベルク,レオンベルク
[没] 1854.8.20. ラーガツ

  

ドイツの哲学者。ドイツ観念論の系譜のなかで,フィヒテの知識学から出発し,そこでは排除されるべきものとして考えられていた自然をも,精神と同一の原理において把握するために独自の自然哲学を立て,のちに同一哲学として体系化した。特に芸術を哲学のオルガノンないし証書としてこれに高い位置を与えたことなどから,当時のロマン主義者たちから大きな共感を得,その哲学的代弁者と考えられた。その後ヘーゲル哲学が主流を占めるようになってからは,みずからの同一哲学をもヘーゲルの絶対的な弁証法と同じく,絶対者として神そのものにいたりえない消極哲学にすぎないとして,積極哲学を説いたが,世に受入れられず不遇のうちにこの世を去った。主著『先験的観念論の体系』 System des transzendentalen Idealismus (1800) ,『人間的自由の本質についての哲学的考察』 Philosophische Untersuchungen ber das Wesen der menschlichen Freiheit (09) 。





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H.ベルグソン
ベルグソン

ベルグソン
Bergson,Henri Louis

[生] 1859.10.18. パリ
[没] 1941.1.4. パリ



フランスの哲学者。各地のリセで教えたのち,1900年コレージュ・ド・フランス教授。第1次世界大戦中外交使節としてスペインとアメリカを訪問。 14年アカデミー・フランセーズに入会。国際連盟の知的協力委員会の議長もつとめ,27年のノーベル文学賞を得た。本来の時間は空間化されたものではなく持続であるという直観から出発し,独特の進化論的な生の哲学を打立てた。プルーストにも影響を与え,20世紀前半のフランスの知的世界の中心人物となった。主著『意識の直接所与についての試論』『物質と記憶』『創造的進化』『道徳と宗教の二源泉』。





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ベルグソン 1859‐1941
Henri Bergson

フランスの哲学者。正しくはベルクソン。幼少より秀才の誉れ高く,エコール・ノルマル・シュペリウールでは後の政治家ジョレスと首席を争う。卒業後,地方校教授を経て,1889年学位取得。1900年よりコレージュ・ド・フランス教授。タルドの後任として現代哲学を担当し,その名講義により一世を風靡(ふうび)する。第1次大戦ころより公的活動多く,道徳・政治科学アカデミー議長,アカデミー・フランセーズ会員,スペイン特派使節などを歴任。とくに17‐18年,特派使節としてのアメリカ派遣に際しては,孤高の大統領ウィルソンの胸襟を開かせうる数少ない一人として,合衆国参戦に尽力。戦後,コレージュ・ド・フランス名誉教授,国際連盟国際知的協力委員会会長。29年ノーベル文学賞受賞。30年レジヨン・ドヌール最高勲章受章。生涯,知識人としての最高の名誉に恵まれながら,つねに寡欲で献身的な聖人の面影を失わず,第2次大戦下のパリ,ナチスの提供する特権を拒みながら,清貧のうちに没した。
 その哲学は師であるラベソン・モリアン,ラシュリエらと同じく,フランス伝来の唯心論的実在論に属し,晩年カトリック神秘主義をも取り入れたが,同時代最新の科学的成果を渉猟したその思索は,実証主義的・経験主義的形而上学とも呼ばれる。真の実在とは何か。彼は,概念や言葉の空転を退けて内省に専念するとき,そこに意識の直接与件として現前する内的持続は,その疑いの余地なき明証性ゆえに,真実在,少なくともその一部とみなさるべきであるとする。そして,この内的持続への永い時間をかけた注意深い参入は意識にとって可能なのであるから,当時流行のカント・新カント哲学に抗して,実在認識は可能としなければならないと考えた。ただしカントのいう感性的直観や悟性によってではなく,超知性的直観によってである。かくて持続と直観をおのおの存在論的・認識論的原理として,西洋哲学史の伝統を批判的に克服しつつ,人間・世界・神をめぐる諸問題に新たな照明を当てていく。
 まず,内的持続は過去を包摂し未来を蚕食しつつ現在を進展する生動であるから,その存在様態は時間性にあるとしなければならない。そしてその進展は意識の生動として刻一刻新しい質の現出とその転変の連続を内容とするものであるから,等質的な物理学的時間とは次元を異にし,決定論の解釈図式が通用するものでもない。自由とはそれゆえこの内的持続への帰一であり,その発出としての純粋自我の行為である。他方,物質界は一瞬前の過去を惰性的に反復するだけであるから,このような持続の弛緩の極といえ,その他の宇宙の万象は,緊張のもろもろの度合による多彩・多様な創造的進化の展開であり,緊張の極はエラン・ビタル レlan vital,さらには一般人ならぬ天才・聖人らの特権的個人によって直観される持続としての神的実在である。そして倫理的・宗教的行為とは,カントのいう理性の律法による選択ではなく,かかる特権的個人の行為を通じて発出する神的エラン・ダムール レlan d’amour による地上的持続の方向づけとそれへの参与にある。永遠界に在るとされたプラトン的真実在は,かくて時間論的・キリスト教的視角から刷新され,物理学,数学をモデルに構築されたデカルト的宇宙観も,心理学,生理学さらには生物学という新しい時代の科学を踏まえて生動化される。そして近代哲学の至宝と難題をなしていた知性と心身関係は,前者は生命という持続からの派生物として相対化され,後者は持続のリズムによるその相関性を指摘され,おのおの新たな意味づけを得た。時間問題を重視する現代諸哲学への影響は大きく,認識論的問題意識の希薄さゆえに現象学からの批判もうけたが,その質的変幻の思想は最新の差異の哲学によってふたたび高く評価されつつある。主著《意識の直接与件に関する覚書》(別名《時間と自由》)(1889),《物質と記憶》(1896),《形而上学入門》(1903),《創造的進化》(1907),《哲学的直観》(1911),《道徳と宗教の二源泉》(1932)等。
                        中田 光雄

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ベルグソン,H.
I プロローグ

ベルグソン Henri Bergson 1859~1941 フランスの哲学者。ノーベル賞受賞者。純粋持続や生の創造的進化を説いて、さまざまな分野に広範な影響をあたえた。

1859年10月18日パリに生まれ、エコール・ノルマル・シュペリウール(高等師範学校)とパリ大学にまなぶ。81年より各地の高等中学校で教え、エコール・ノルマル・シュペリウール講師をへて、1900年コレージュ・ド・フランスの哲学教授となった。

II 著作活動

高等中学校教員を歴任中、博士論文「意識の直接与件に関する試論」(別名「時間と自由」。1889)を出版し、哲学者たちの高い関心をあつめた。この著書は精神の自由と持続についての彼の理論を表現する。彼によれば、持続とは流動的で量的測定をゆるさない意識状態の継起である。この著書につづく「物質と記憶」(1896)では、人間の脳の選択力が強調される。「笑い」(1900)は、喜劇をささえる心的機制をあつかっており、おそらくもっともよく引用される論文である。「創造的進化」(1907)では、人間の実存の問題が全体的に検討され、精神が純粋なエネルギー、エラン・ビタル(生の飛躍)として定義され、すべての有機的進化の原因とされる。1914年、アカデミー・フランセーズ会員となった。→ 純粋経験

III カトリックに改宗

ベルグソンは、1921年にコレージュ・ド・フランスを退職したのち、国際問題や政治、道徳、宗教の問題に関心をむける。また、ローマ・カトリックに改宗する(両親はユダヤ人であった)。21年以降は「道徳と宗教の二源泉」(1932)しか著作を出版しなかった。この著書で彼は、自分の哲学をキリスト教にむすびつけた。27年、ノーベル文学賞受賞。41年1月4日、死去した。

IV 思想的影響

ベルグソンの著作および数多くの論文と講演は、20世紀の哲学者や芸術家や作家に広範な影響をおよぼしている。彼はすぐれた文筆家であり、講演者であった。その神秘的だが生き生きとした語り口は、この時代の哲学者たちの形式主義的なスタイルの中で際だっていた。

ベルグソンの思想はしばしば直観主義の立場にたつ哲学派にむすびつけられるが、このように分類されるにはあまりにも独創的であり、折衷主義的でもある。とはいえ、彼が知性よりもむしろ直観の重要性を強調したのはたしかである。彼は、不活性の物質に生命の創造的活動を対置し、この活動は知性をこえて直観されねばならないと主張する。

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『意識の直接所与についての試論』
意識の直接所与についての試論

いしきのちょくせつしょよについてのしろん
Essai sur les donnes immdiates de la conscience

  

フランスの哲学者 H.ベルグソンの処女作。博士論文としてパリ大学に提出,1889年出版された。経験科学と H.スペンサーに影響されていた時期に,科学でいう時間は生の時間とは異なり持続しないということを洞察して着想。知性は言語を用いることによって必然的に質を量化し時間を空間化してしまうが,ありのままの心的現象すなわち意識の直接所与は純粋持続する質的存在であって直観によってのみとらえられるとし,さらにそこに存する具体的自我の全的表現である自由行為に論及。この2つの主題をとり,この著は『時間と自由』として翻訳されている。自然科学批判として構想され,根本的な二元論的判別を行なったこの論文は,生の観念を中心とする成熟期のベルグソン哲学の壮大な宇宙論の礎石となった。





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H.スペンサー
『物質と記憶』
物質と記憶

ぶっしつときおく
Matire et mmoire

  

フランスの哲学者 H.ベルグソンの著作。 1896年初版。副題に「身体の精神に対する関係についての試論」 Essai sur la relation du corps l'espritとあるように,古典的な心身問題を,物質的現象の意識のなかにおける繰返しである記憶の観点から論じたもので,四つの章と,概要および結論から成る。





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『創造的進化』
創造的進化

そうぞうてきしんか
L'volution cratrice

  

フランスの哲学者アンリ・ベルグソンの著作 (初版 1907) 。在来の進化論を批判し,新しい進化論を打出した。初めに生のみがある。この生は展開していくが,それには2つの方向があり,下向するものは生の力を失って物質となり,上向するものはエラン・ビタールの本性を保持して創造力として自己を実現していく。そこから植物,動物,人間の3者が生れるが,人間は種をこえて創造する。この過程の極に神が純粋な生命力として示される。創造する者という画期的な人間観を打出した書物である。





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『道徳と宗教の二源泉』
道徳と宗教の二源泉

どうとくとしゅうきょうのにげんせん
Les deux sources de la morale et de la religion

  

フランスの哲学者アンリ・ベルグソンの主著。 1932年刊。前著『創造的進化』に展開された独自の進化論を人間の創造活動の場面に発展させたもの。最初に成立する社会は道徳的責務によって成員を縛り,攻撃と防御の体制をもった排他的社会,すなわち閉じた社会であり,そこにあるのが閉じた,静的な道徳,宗教である。人はこの段階をこえ,飛躍して開いた道徳を実現しなければならない。それは創造的生命の源泉である神と合一する神秘家によって達成される。この創造的愛の飛躍の頂点をなすのがキリスト教的神秘主義である。以上の内容が「道徳的責務」「静的宗教」「動的宗教」の3章と「機械的と神秘的」を扱う終章を通じて展開されている。





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H.ワイル
ワイル

ワイル
Weyl,Hermann

[生] 1885.11.9. ハンブルク近郊エルムスホルン
[没] 1955.12.8. チューリヒ

  

ドイツの数学者。純粋数学と理論物理学の接続に大きな仕事をした。ゲッティンゲン大学で数学を学び,D.ヒルベルトの指導を受けた。同大学卒業後私講師,その後チューリヒのスイス連邦工科大学教授となり (1913) ,そこでアインシュタインと知合った。ワイルの仕事のきわだった特徴は,互いに無関係と思える領域を関係づけ,統一することであり,それは青年期の傑作『リーマン面の理念』 (13) に現れている。この本は関数論と幾何学とを統一する新しい学問領域をつくりだした。相対性理論について講義をまとめた『空間・時間・物質』 (18) は,相対性理論に対して彼がいかに深い理解をもっていたかを示している。電磁場と重力場を空間-時間の幾何学的性質としてとらえ,両者を統一する概念として統一場の理論をつくった。また,行列表現を用いて連続群論を展開した (23~38) 。これらの研究は『群論と量子力学』 (28) および『古典的群』 (39) にまとめられている。前者は理論物理学者たちの関心をひき,量子力学の研究において群論を使うことを流行させ,後者は典型的な教科書として,現在でも多くの読者をもっている。また,『数学と自然科学の哲学』 (27) において数学の基礎の問題を扱った。ゲッティンゲン大学教授となる (30) が,同僚の多くがナチスによって追放されるのをみてドイツを離れる決心をし,1934年からプリンストン高級研究所教授となり,51年に退職するまで,プリンストンにとどまる。退職後スイスに帰った。





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ワイル 1885‐1955
Claus Hugo Hermann Weyl

ドイツの数学者,物理学者。ホルシュタイン地方のエルムスホルンに生まれ,近くの町アルトナのギムナジウムを経て1904年にゲッティンゲン大学へ進み,08年に卒業,引き続き無給講師となる。1911年から12年にまたがる冬季学期の講義では,ワイヤーシュトラス流の関数論とリーマン流の関数論とを融合して,新しい分野を開拓した。これは《リーマン面の概念》という名で13年に公刊された。この年にチューリヒ工科大学の教授になった。このころには A. アインシュタインの相対性理論に関心をもち,重力場と電磁場とを統合した統一場の理論を発表,それを示したのが18年の著書《空間,時間,物質》である。26年にゲッティンゲン大学の教授になった。このときには群の表現論に関心を寄せていた。連続群を行列で表現することについての一般論を樹立し,量子論の研究に貢献した。このことをまとめたものが《群論と量子力学》(1928)である。しかし,ヒトラーの政策に耐えられなくなり,アメリカのプリンストン高等研究所からの招聘(しようへい)を機に1933年にアメリカへ渡った。息子のヨアヒム Joachim と有理型曲線を研究し,その成果をまとめたものが《有理型関数と解析曲線》(1943)で,これは数学界に新風を吹き込んだ。                 小堀 憲

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ワイル,H.
ワイル Hermann Weyl 1885~1955 ドイツの数学者。量子論と相対性理論に重要な業績をのこした。北部のエルムスホルンに生まれ、ゲッティンゲン大学で数学者ヒルベルトにまなび、1908年に卒業した。その後ゲッティンゲン大学でしばらく講師としてはたらき、13年にチューリヒ工科大学の教授となった。当時、チューリヒ工科大学にはアインシュタインもいた。30年にゲッティンゲン大学の教授となるが、33年にはナチからのがれて、アメリカ合衆国のニュージャージー州にあるプリンストン高等研究所の教授となった。

ワイルの数学の研究は、さまざまな分野にわたる。幾何学と関数論の統一は、トポロジーなどの分野で最新の概念をみちびき、ゲージ理論では電磁場と重力場を時空の幾何学的特性をもちいてあらわし、統一場理論の先駆けとなった。ワイルは、また、群の理論や整数論にも貢献した。

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D.ヒルベルト
ヒルベルト

ヒルベルト
Hilbert,David

[生] 1862.1.23. ケーニヒスベルク
[没] 1943.2.14. ゲッティンゲン

  

ドイツの数学者,論理学者。ケーニヒスベルク大学に学び,1885年学位取得。同大学の私講師 (1886~92) ,助教授 (92~93) ,教授 (93~95) 。 95年に F.クラインの推薦によって,ゲッティンゲン大学教授となり,生涯ゲッティンゲンにとどまる。当時のゲッティンゲンは C.ガウス,P.ディリクレ,G.リーマン,クラインによって,盛んな数学の伝統がつくられており,さらにヒルベルトが加わって,20世紀初めの 30年間は世界の数学のメッカとなった。ヒルベルトの業績をみると5~10年ごとに,かなりはっきりと専門が分れており,しかもそれらのすべての分野において画期的なものであった。彼の業績は 19世紀までの近代数学と異なる性格の現代数学の始りを告げるものである。パリの第2回国際数学者会議 (1900) の席上,「数学の諸問題」のテーマで講演し,数学における問題の重要性を指摘し,23の未解決の問題をあげて,将来の創造的研究の輪郭を示した。晩年は,ナチスの台頭により,孤独で寂しいものであったといわれている。



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ヒルベルト 1862‐1943
David Hilbert

ドイツの数学者。19世紀の終りから20世紀前半にかけ,全世界の数学の進歩を指導したもっとも重要な学者の1人であった。ケーニヒスベルクに生まれ同地の大学に学ぶ。1885年不変式論についての論文によって同大学の学位を得,翌年同大学私講師となりパリに留学。92年同大学教授。95年ゲッティンゲン大学教授となり,1930年退職までその職にあった。業績は数学全般にわたるが,不変式論に関する研究の後,幾何学基礎論,次いで代数的整数論,積分方程式論,解析学,理論物理学,数学基礎論へと研究の主目標を移した。その間一貫して進められたのは,数学全般に特有の純粋な論理の追究と,方法の単一化である。また興味ある問題を指摘して,数学の進んでいく方向を指示する驚嘆すべき直感力をもっていた。幾何学基礎論では,ユークリッド幾何学の完全な公理系を与えて,公理の間の関係を調べ,代数的整数論では,C. F. ガウス以来の深い結果を整理したうえに類体論の成立を予見した。積分方程式論に関しては,(後の命名であるが)ヒルベルト空間論をつくり,解析の問題としてはディリクレ問題,変分法の問題などを扱った。晩年には,数学の無矛盾性を問題とする数学基礎論に没頭した。1900年,パリに国際数学者会議のあったとき,主催者の依頼に応じて〈数学の問題〉と題する講演を行い,今世紀の数学研究の目標となるべき23の問題(ヒルベルトの問題)をあげた。それには,基礎論に関する〈連続体問題〉〈算術の無矛盾性の問題〉のほか〈リー群の定義に関する第5問題〉〈類体の構成に関する第12問題〉などが含まれる。そのうちにはすでに解かれたものもあるが,未解決のものもあり,いずれも学界の興味の中心とされ,それらの解決はつねに話題となった。30年代にドイツではナチスが政権をとり,晩年の生活は不幸であったが,数学への影響は今日に及んでいる。                    弥永 昌吉

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ヒルベルト,D.
ヒルベルト David Hilbert 1862~1943 19世紀末から20世紀にかけて世界の数学の進歩を指導したドイツの数学者。ケーニヒスベルク(現ロシアのカリーニングラード)に生まれ、ケーニヒスベルク大学にまなぶ。1892年ケーニヒスベルク大学特命教授となり、翌年正教授、95年ゲッティンゲン大学にまねかれ、この大学を世界の数学研究の中心にした。

業績は数学のひろい分野にわたり、整数論、変分法、積分方程式論で大きな成果をあげた。とくに幾何学の分野での貢献はいちじるしく、1899年の著書「幾何学の基礎」では、ユークリッド幾何学を点、線分、平面を、「上にある」「間にある」「平行である」「合同である」というように、ある関係としてとらえなおし、その関係の満足すべき公理を列挙した。これにより、幾何学は直観や現実の事象に左右されない、厳密な論理に支配される純粋数学となったのである。

1900年にパリで開催された国際数学者会議で20世紀の数学研究の目標となるべき23の問題をあげた。その後ほとんどが解決されたが、まだ未解決のものもある。彼は、一貫して数学の無矛盾性を確立しようとしたが、31年アメリカの論理学者ゲーデルによってそれが不可能であることが証明された。

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G.フレーゲ
フレーゲ

フレーゲ
Frege,Friedrich Ludwig Gottlob

[生] 1848.11.8. ウィスマル
[没] 1925.7.26. バートクライネン


ドイツの数学者,論理学者,哲学者。イェナ,ゲッティンゲンの各大学に学び,1874年イェナ大学講師,79年同大助教授,96年同大教授。数学基礎論における論理主義の開拓者の一人。ライプニッツ,ボルツァーノの影響を受け,数学は論理学によって構成されるべきであるとし,命題論理の公理の体系化を試みた。また記号論理学における意味論の領域でも先駆的役割を果した。主著『数学の基礎』 Die Grundlagen der Arithmetik (1884) ,『数学の原則』 Die Grundgesetze der Arithmetik (2巻,93~1903) 。





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フレーゲ 1848‐1925
Friedrich Ludwig Gottlob Frege

ドイツの数学者,論理学者,哲学者。ドイツ東部のウィスマルに生まれ,イェーナ大学,ゲッティンゲン大学で自然科学,数学,哲学を学び,1873年数学で学位をとる。そののち,1918年までイェーナ大学で数学を講じた。その関心は早くから数学の基礎に向けられ,当時の数学者,哲学者と盛んに交流したが,その見解は広く受け入れられなかった。しかし,算術を論理から導くといういわゆる論理主義の立場をとり,それを正当化しようという思索の成果は,20世紀の哲学に大きく貢献している。論理主義実現のために論理学自体の再検討が必要となり,その結果,現代の命題計算,一階述語計算のほぼ完全な体系を独立で構成し,アリストテレス以来の伝統論理をはじめて実質的に超える論理学を《概念記法》(1879)として提出した。次に,数の概念の哲学的考察に向かい,その考察をまとめた《算術の基礎》(1884)では,カントを批判して算術の真理を分析的なものとし,悟性に直接与えられる客観的な対象として数を定義する方法を探った。しかし,この定義を実現したかに思われた《算術の根本法則》第1巻(1893)の体系は,1902年ラッセルの指摘を契機とする再検討の結果,いわゆる〈ラッセルのパラドックス〉を含むとされた。フレーゲは論理主義の放棄を強いられ,晩年には算術の真理を総合的なものとする立場から再度基礎づけを試みた。このように,現代の数学基礎論,論理学の基礎を築いただけでなく,厳密で形式的に隙のない体系を求めて営まれた記号,言語に関する考察は,現代の言語理論の出発点となっている。ウィトゲンシュタインの思索はその圧倒的な影響下にあり,また,同時代の主流であった心理学主義的,形式主義的,物理主義的な数学論,意味論を批判して,言語使用を人間的行為としてとらえその中で記号の意味とそれが指し示すものを区別する意味論を提出した。
                         土屋 俊

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フレーゲ 1848‐1925
Friedrich Ludwig Gottlob Frege

ドイツの数学者,論理学者,哲学者。ドイツ東部のウィスマルに生まれ,イェーナ大学,ゲッティンゲン大学で自然科学,数学,哲学を学び,1873年数学で学位をとる。そののち,1918年までイェーナ大学で数学を講じた。その関心は早くから数学の基礎に向けられ,当時の数学者,哲学者と盛んに交流したが,その見解は広く受け入れられなかった。しかし,算術を論理から導くといういわゆる論理主義の立場をとり,それを正当化しようという思索の成果は,20世紀の哲学に大きく貢献している。論理主義実現のために論理学自体の再検討が必要となり,その結果,現代の命題計算,一階述語計算のほぼ完全な体系を独立で構成し,アリストテレス以来の伝統論理をはじめて実質的に超える論理学を《概念記法》(1879)として提出した。次に,数の概念の哲学的考察に向かい,その考察をまとめた《算術の基礎》(1884)では,カントを批判して算術の真理を分析的なものとし,悟性に直接与えられる客観的な対象として数を定義する方法を探った。しかし,この定義を実現したかに思われた《算術の根本法則》第1巻(1893)の体系は,1902年ラッセルの指摘を契機とする再検討の結果,いわゆる〈ラッセルのパラドックス〉を含むとされた。フレーゲは論理主義の放棄を強いられ,晩年には算術の真理を総合的なものとする立場から再度基礎づけを試みた。このように,現代の数学基礎論,論理学の基礎を築いただけでなく,厳密で形式的に隙のない体系を求めて営まれた記号,言語に関する考察は,現代の言語理論の出発点となっている。ウィトゲンシュタインの思索はその圧倒的な影響下にあり,また,同時代の主流であった心理学主義的,形式主義的,物理主義的な数学論,意味論を批判して,言語使用を人間的行為としてとらえその中で記号の意味とそれが指し示すものを区別する意味論を提出した。
                         土屋 俊

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倫理学はノイラートの船か?(その2-2)

メタ倫理学
メタ倫理学 (metaethics) とは倫理学の一分野であり、「善」とは何か、「倫理」とは何か、という問題を扱う。規範の実質的な内容について論じる規範倫理学と異なり、メタ倫理学においては、そもそもある規範を受け入れるというのはどういうことか、ということについての概念的分析、道徳心理学的分析、形而上学的分析などを行う。

出分析的倫理学

ぶんせきてきりんりがく
analytic ethics

  

規範倫理学的な価値判断や価値基準について,その論理的,意味論的,認識論的な性質を考察する倫理学。規範的倫理学に対するもの。対象言語とメタ言語の区別にならって,メタ倫理学ともいう。





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[ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 2008]典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
規範的倫理学
規範倫理学の学説

倫理学は「規範倫理学」「応用倫理学」「メタ倫理学」からなるといわれる。
「応用倫理学」は生命倫理・環境倫理など、現代社会が生み出す諸問題に倫理学的観点からアプローチする学際的領域で、技術倫理もこの一部である。
「メタ倫理学」は倫理の基本的用語、例えば「善い」「正しい」「べし」などの意味や用法を分析する学問である。
「規範倫理学」は「どのような行為が本当の意味で善い行為といえるのか」という問いに答えようとする試みといえる。

現代の規範倫理学を代表する学説には、
功利主義(目的論)倫理学
義務倫理学
徳倫理学
などがあるとされる。
以下では、功利主義倫理学と義務倫理学の学説を簡単に紹介する。

功利主義(utilitarianism)
功利主義の創始者はイギリスの思想家 ジェレミー・ベンサム(1748~1832)である。彼の唱えた古典的功利主義では、「幸せ」だけが「善」とされる。ここに「幸せ」とは「喜びで痛みのないこと」である。あらゆるものは「幸せ」のための手段となる場合のみ「善」であるとする。そして、人間の幸せの総量を増加させる行為を「正しい行為」とし、減少させる行為を「正しくない行為」とする。
このように考えると「最大多数の最大幸福」こそが、究極の目標となる。健康はそれ自体が善ではなく、幸せをもたらすものだから善だと考える。ここまでは容認できよう。しかしもっと極端な例を示せば、この考え方が万能でないことはすぐ分かる。
Aは健康でB、Cはそれぞれ心臓と肝臓を患っているとする。臓器移植を行えばBもCも必ず助かるとする。 Aを殺してBとCを助けると二人の生と一人の死であるが、何もしないと一人の生と二人の死である。最大多数の最大幸福はAを殺してBとCを助けることではないか?


真の功利主義に立てばそのような結論とはならないと反論するのは簡単である。それは各自に考えていただくこととして、ここで憶えておいて頂きたいのは、功利主義も万能ではないということだけである。
功利主義はベンサムから ジョン・ステュワート・ミル(1806~1873)、さらにヘンリー・シジウィック(1830~1900)、 リチャード・M・ヘア(1919~)と受け継がれていく。
ミルは「人間独特の能力の遂行」すなわち知性や感性、美徳といったものは肉体の快楽より高い価値があるとした。しかしいかなる状況でもこれに同意できるとは言えないであろう。
功利主義では「自分の最善の利益になることは、社会全体にとっても利益になり、逆もまた然りである」というのが前提となる。シジウィックはこれに疑問を抱いていた。
ヘアをはじめとする現代功利主義者は選好功利主義を唱えている。この考えに立つと「各人が幸せと認めるものを追求することを可能とする条件の達成」が究極目標となる。この条件とは自由(freedom)と福利(well-being)である。自由とは自分の人生の重要事項について他人から強制されないことである。自由であっても、飢餓や病気に苦しむのではなんにもならない。教育も大切である。これら自由を味わうのに必要なのが福利である。 日本国憲法が保証する基本的人権はこの2つであるといえる。

最大多数の最大幸福を目標とするなら、その達成にはどのような手段が最適か調べるのにコスト・ベネフィット分析(費用対効果分析)を用いることができる。これは幸福を経済的価値に置き換えて評価するもので、本来置き換えられない人の命さえお金に換算して考える。そういう問題はあるものの、単純に割り切りやすいことから多くの場面で使われる。ただ、単純に割り切ることが問題を発生する可能性があることを忘れてはならない。
古典的功利主義では割り切れない問題を解決するために 行為功利主義や規則功利主義 が提唱されている。
なお、功利主義は結果だけを大切にするという意味で結果論者の考え方だともいわれる。結果論というと胡散臭さを感じるのなら「帰結主義」という言葉を使えばよい。なにを目指すかという観点から「目的論」という呼び方もよくされる。このほうが「義務論」との対称性がいい。いずれにせよ同じ意味である。
目的論は功利主義だけではないことは注意されたい。例えば個人の「幸せ」を善としないで国家の反映を善とするなら、それは国家主義である。自分だけの「幸せ」を究極的目的とするなら、それは 「利己主義」である。自分以外の他者だけの「幸せ」が究極の目的なら、それは 「利他主義」である。

義務論(deontology)
一定のルールに照らしてその行為が正しいか否かを判断するのが義務論である。このモラル原理となるルールを義務と呼ぶ。現代においても功利主義と並ぶ規範倫理学の代表的考え方である。イマヌエル・カント(1724~1804)は、それが普遍化可能なときのみモラル原理は正しいと主張した。すなわち、ある行為がモラル的に正しいということは、その際に従ったルールを全ての人が採用できる場合であるという。自分にだけ特例を設けることは許されない。このように考えると、絶対的に守るべき一連のモラル原理を摘出することができる。例えば「人を殺すな」とか「嘘をつくな」などである。カントの考えでは嘘はたとえ人の命を救う場合でも許されない。
現代の倫理学者は モラル原理を一応のもの と考え、絶対的な何が何でも守るべきものとはみていない。デビッド・ロス(1877~1971)は次のような基本的義務のリストを作った。
過去の行為についての義務(約束を守り、犯した過ちには償いをする)
感謝の義務
公正の義務(功績と幸せが比例するようにする)
善行の義務(他人の状況を改善する)
自己改善の義務(倫理的・知的改善をする)
他人を傷つけない義務
ロスはこれを「一見自明な義務」あるいは「一応の義務」 (prima facie duty / conditional duty)と呼び、本来の義務(duty proper / duty sans phrase)ではないとした。ロスによると「嘘をつかない」とか「困っている人を助ける」というルールが正しいことは自明であるが、ある状況においてどのルールが優先されるべきかについては議論の余地がある。すなわち上記のリストは完全ないし最終のものとは主張しない。倫理規程を定めるということはある意味では義務論の立場に立っているといえる。規程そのものが義務のリストである。ただ、規程は一応の義務であって、何が何でも教条主義的に守るべきものではない。倫理規程が整備されていなくても義務論的立場で行動することはできる。それには 黄金律 を用いればよい。「人からしてもらいたいことを人にもせよ」ないし「人からしてもらいたくないことを人にはするな」である。

ウィキベティア



ヘアの功利主義と外的選好
ヘアの功利主義と外的選好

ヘアの功利主義と外的選好
京都大学

江口聡

本論の目的は、R. M. ヘアの功利主義の基礎づけの議論を概観し、さらに R. ドォーキンによって指摘されている外的選好の問題をヘアの立場から見てみることで、選好功利主義の有効性を吟味してみることである。


古典的功利主義
ヘアの議論を見る前に、まず簡単に古典的功利主義に目を配っておくことにする。ベンサムにはじまる古典的功利主義は、基本的に快楽説を基礎に置き、快楽の増加と苦痛の減少を唯一の善とし、さらに、各個人の快と苦を他のどの人の快や苦とも同じ価値をもつと見なす。

このような功利主義は、事実と論理にもとづき、経験的に検証できる事実に即した比較的に強い議論を行なうことを目指しており、魅力的であるが、しかしまた多くの反論にもさらされることになった。一般に提出される議論の要点は、おおまかには次のようになるだろう。

(1) 快・苦といった心理的現象と、われわれが価値があると見なす事柄との間には大きな差があると思われること。またこれに関連して、

(2) 一口に快といっても多様な快があり、異質の快楽を比べて測定することが可能であるのか、またそもそも比べることに意味があるのか、快の総量を増やすということに意味があるのか、という比較計量と総和に関する問題点、そしてもっとも重要な論点として、

(3)なぜわれわれは善(あるいは快)の最大化を目指さねばならないのか、という功利主義の基礎づけの問題。これに答えるためには、快苦と人間の行動決定との間の事実的問題の解明と、快苦と規範との間の関係づけの双方が必要となる。さらに、

(4)功利主義は、われわれが通常重要と見なしている正義や権利といった道徳的概念と相入れないことがありえると考えられ、したがって功利主義が提示する規範とわれわれの通常の道徳意識との間にはギャップがあるように思われるという問題

などがあげられるであろう。

ベンサム以降、ミルやシジウィック等に代表される功利主義者たちは、上のような問題点を、それぞれの方法で探求した。その流れの中でもヘアは、(3)の基礎づけの問題点をメタ倫理学という規範の内容に関して中立的な立場から行なっている点と、(4)の問題を道徳的思考のレベルの峻別によって解決しようとしていること、そして(1)と(2)の問題を、快楽ではなく選好を基礎概念として功利主義を構成することで解消しようとしている点で注目に値する。


メタ倫理から功利主義へ
ヘアの議論は一見明確でありかつシンプルである。その基本的な議論の筋道は次のようになる。

われわれは道徳的な思考や議論を行なうにあたって、「よい」「わるい」「べし」などの道徳の言語を用いる。したがって、この道徳の言葉の論理的性質を理解することなしには、道徳的問題に答える方法を見いだすことはできないはずである、ということがヘアの出発点であった。

道徳語、特に「べし」の論理的性質の研究によって明らかになったことは、道徳的判断は一般に、その中心的な用法では指令的(prescriptive)であり、また普遍化可能(universalizable)であるということであった。

道徳判断が指令的であるとは、形式的には、道徳判断は一つ以上の指令を含意するという性質であるとされる。平たく言えば、「べし」で表わされるような典型的な道徳判断は、一種の指令(prescription)である(MT 1.6)ということである。たとえば、「君はここでタバコを吸うべきではない」は、それが本気で (sincerely)言われている場合には、「ここでタバコを吸うな」という命令を含意している。このことは、ある人が「太郎はここではタバコを吸うべきではない」と言いながらも、「太郎、君はここでタバコを吸うな」には同意しないという場合を想像してみればすぐに理解されるはずである。この場合、われわれはその人の言っていることが理解不能になってしまう。

道徳判断が普遍化可能であるとは、道徳判断は、普遍的性質が同一の状況に対して同一の判断を含意するという性質である(MT1.6)。つまり「この状況ではA がなされるべきである」と発言することは、「この状況とまったく同じすべての状況では、Aがなされるべきである」という言明を含意している。先の例では「この状況とまったく同じすべての状況(たとえば妊婦がいる、あるいはタバコの煙が嫌いな人がいるなど、それが発言された状況と同じ状況)では、タバコを吸うべきではない」という言明を含意している。

ただし「普遍的(universal)」あるいは「普遍化可能」を「一般的(general)」と混同してはならないことに注意しておかねばならない。ここで言う普遍化可能とは、簡単に言えば固有名を含まない形に直すことができるという意味である。固有名を含む判断――たとえば「花子さんのいるところではタバコを吸うべきではない」――はそのままでは道徳判断の条件を満たしていないが、固有名を含まない、あるいは固有名を一般名詞に置き換えられるような判断―― 「妊娠3ヵ月で、自分はタバコを吸わず、エコロジーに関心があり、イチゴが好きで、現在つわりでひどく苦しんで1週間仕事を休んでいるような女性すべて(この中に花子さんが含まれることになる)の前ではタバコを吸うべきではない」――は一応のところ道徳判断の形式的な条件を満たしている。もっともこの例は、条件が奇妙なほど明細的(specific)であるが、ヘアは道徳判断は形式的にはどれほど明細的であってもかまわないしており、現にわれわれが抱いている「嘘をつくべきではない」といった道徳的原則も、実際には記述することさえできないほど明細的な条件が伴っていると考えている。

『道徳の言語』や『自由と理性』から『道徳的に考えること』までの間に、ヘアは、前に述べた言語の指令性と、判断主体の欲求(desire)あるいは選好 (preference)との間の関係を、より明確に前面に出すようになった。道徳判断は命令を含意するために、その命令に同意することなく本気で発言することはできない。単なる命令についていえば、太郎に対して「タバコを吸うな」と命令する人は、太郎がタバコを吸わないという事態がなりたつことを欲求している。つまり太郎がタバコを吸わないという事態がなりたつことを、それがなりたたないことより望んで(prefer)いる。これは道徳判断についても同様である。先にあげた「妊婦の前ではタバコを吸うべきではない」という(普遍的)道徳判断を下すには、それを発言する人は、同じようなすべての状況について、選好をもっているはずである。

これらの指令性と普遍化可能性という二つの性質を道徳判断の特徴と見なすことから、ヘアのメタ倫理学上の立場は普遍的指令主義(universal prescriptivism)と呼ばれる。ここまでのヘアの議論は、われわれの日常的な道徳語の用法に関するメタ倫理学の理論であって、これだけではなんら規範的な主張を行なっているわけではないことに注意しておきたい。道徳語の使用に関する規範を含んでいるということは言えるが、これは道徳的規範そのものとは区別されるべきである。

このヘアのメタ倫理学的な立場から、功利主義的規範理論との結びつきについてヘアは次のように述べている。重複するが重要な箇所であるので引用しておく。「批判的思考」についてはのちに述べるが、ここでは理想的な道徳思考と読み直して欲しい。

「・・・普遍化可能性の命題によれば、この状況に関してわれわれがある道徳判断を行なうなら、これと正確に類似した他の状況に関しても同じ判断を下す用意がなければならない。他の状況というとき、それらが現実の状況である必要はないことに注意されたい。それらは、正確に類似した、論理的に可能な仮想的状況であってもよいのである。・・・批判的思考の課題は、判断を行なう主体が、この状況だけでなく、それと類似するすべての状況にも適用できるような道徳判断を下すことである。これらの状況のうちには、現実の状況で他の当事者が置かれているそれぞれの立場を当の判断主体が占めることになる状況もそれぞれ含まれる。したがって、結局、全体的に見てすべての当事者にとって最善であるような判断でなければ、当の判断主体にとっても受け入れられないのである。このように、普遍的指令説が提供する論理的道具立てにより、われわれは、もし自分の下す道徳判断の意味を理解しているならば、批判的思考を行なうことで・・・注意深い行為―功利主義者が下すであろう判断と同じ判断に行き着くのである。(MT 2.6)」という。

これを具体的な例で見ておく(MT5, 6)。ここでも、タバコが好きな太郎と、嫌いな花子に登場してもらう。花子と太郎が同じ部屋にいて、太郎はタバコを吸いたいと思っているが、花子はタバコの煙を吸わされることを嫌がっている。もし太郎が道徳判断を下そうとするならば、彼はその判断をすべての同じ状況に下す用意がなければならない。この「同じ状況」の中には、自分が煙を吸いたくないにもかかわらず吸わされることになる花子と同じ立場に置かれている状況も含まれることになる。太郎は現にタバコが好きなのだから、このような状況は現実にはないかもしれないのでこれは単なる仮想的な状況に過ぎないことになるが、この仮想的な状況に対してもその道徳判断を下す用意がなければならない。また同じ「立場」には、どの程度タバコを吸いたいのか、あるいは吸いたくないのかという、それぞれがもつ選好の強度まで含まめて同じでなければ意味がない。つまり太郎は、もし彼が花子が今もっている選好(煙を吸わされたくない)をもちながら花子の立場に置かれても、「太郎はタバコを吸うべきである」や「太郎はタバコをすうべきでないことはない」に同意する用意があるのか、を考えねばならないのである。

ここで、太郎が形式的条件を満たした道徳判断を下すためには、彼は太郎自身の立場であれ、花子の立場であれ、どちらでも同意できるような判断をつくりあげねばならない。ここで太郎が、花子の置かれている状況を、それがどれほどいやなことなのかという選好まで含めて充分に知ることが可能であり、現に知ったと仮定する。すると太郎は、自分の立場でタバコを吸いたいという選好と、もし彼が花子の立場におかれたらタバコの煙を吸わされたくないという選好の両方をもつことになる。そこで問題は最終的には、この背反する二つの選好のどちらを充足させることを望むか、という太郎個人の内部での選好の比較の問題になる。

われわれは個人の内部でしばしば背反する選好を抱いており、その場合には結局より強い選好を充足させるという判断を行なっている。これと同じことがこの太郎の事例でもなりたつ。太郎自身のもともとの選好と、もし彼が花子の立場におかれたとしたらどうか、ということに関してもつことになる選好を比較して、より強度の強い方を充足するような判断を下すことになる。事実問題として花子の選好の方が太郎の選好より強いとすれば、結局太郎は「太郎はタバコを吸うべきではない」という道徳的判断を下すことになるであろう。この思考過程は花子の立場から始めても、また他の立場の人から始めても、充分な知識と明晰な論理を前提すれば、結論は同じものになるはずである。

このようにして、理想的な場合、道徳的思考者はそれ自体は道徳的規範を含まない「事実と論理」から思考を始め、最終的に同じ道徳判断を下すことになる。そしてさらにその結論は、選好をその質によらず強度によって比較し、より強いものを充足させるというものになる。選好の充足を効用と解釈すれば、この結論は功利主義的なものと言える。ここまでの議論は関係する人が二人であったが、三人以上が関わる場合でも同様の手続きで、関係者すべての選好を個人内に再現し、それを比較することになる。

事実についての充分な知識と論理的明晰さを仮定すれば、どの立場の道徳思考者も常に同一の判断に達し、そしてそれが功利主義者の結論と同じものになるとすれば、ここまでのヘアの議論は、メタ倫理学の立場から選好功利主義と呼ばれる功利主義の一形態を擁護するものになる。つまり、近道として功利主義的な規範的判断を行なってもよいということになる。

ヘアの功利主義の議論のもう一つの重要なポイントは、道徳的思考のレベルの峻別にある。上で述べたような理想的な道徳的思考は、完全な論理的な明晰さと、事実に関する充分な知識を要求するものである。したがって、生身の人間が簡単に行なえるようなものではない。自分の目先の利益を優先してしまうわれわれの傾向性や、実際の場面での思考の時間不足などを考慮するならば、そのつどそのつど上のような道徳的思考を行なうことは不可能である。むしろ、一般の生活でしばしば起こるような事例のほとんどでよい結果につながるような、おおまかな原則をあらかじめ選択し、通常はそれにしたがうようにした方が、全体としてよい結果になるはずである。われわれが現に信奉しているような道徳原則はこのようなレベルのものである。ヘアは前者の理想的な道徳思考のレベルを批判レベルと呼び、後者の通常の道徳思考を直観レベルと呼ぶ。批判レベルの道徳思考は、日常生活でもちいるための一般的な原則を選択し、また、それらの一般的原則が葛藤するような特殊な場合にのみ行なわれることになる。このレベルの峻別も、これ自体は道徳的な規範を含んでいないことにも注意しておきたい。ただしこのレベルの区別を単純な事実的命題と見なすわけにはいかないが、この問題については今回は触れることができない。


選好功利主義
このような形での功利主義の基礎づけは、多くの点で注目に値する。何度もくりかえしたように、ヘアの言う「道徳語の論理」も、関係者の選好を含む事実に関する知識も、それ自体としては道徳的な規範は含んでいない。にもかかわらず、「論理と事実」を充分理解したすべての道徳思考者が一致した結論に至ることになるとすれば、道徳判断の正しさの規準を提出しうることになるはずである。これが冒頭の(3)の功利主義の基礎づけに対するヘアの解答ということになる。なぜ効用の最大化を目指すのか、目指すべきなのか、という問いに対し、合理的な思考者が一致してそれを目指すような判断を行なうはずであるから、という解答を与えるわけである。

もう一つ重要な点は、ヘアのメタ倫理学によって基礎づけられる功利主義は、快苦ではなく選好を基本的概念とするものとなったということである。冒頭の (1)で述べたように、快や苦といった感覚と、われわれの価値意識との間には大きな差がある。われわれは実際に快をもたらさない事態に価値を見いだし、それを望むことがある。これを快という心理状態に還元するためには、「快」を非常に広い概念として用いねばならない。むしろ、快を感じるためにはそれに先行する欲求や選好を前提としなければならない。選好を基本的概念とすれば、快苦といった心理的観念という回り道をせずに、直接にわれわれの価値意識そのものを扱うことができるようになるのである。したがって原則的に(1) のタイプの問題は消える。また、(2)のなぜ快の総和の最大化を目指すかという問題は、なぜ選好の最大充足を目指すのかという問題に置き換えられることになる。そしてこれに対しては、個人の内部での価値判断あるいは合理的選択が選好の最大の充足であるから、という解答を与えられる。また快楽説につきものの、多様な快を同一の規準で計ることができるのか、という問題は、快を選好に置き換えれば、それをどれほど望むかという選好の強度に還元して一元化して取り扱うことができるようになる。ここから、実際の道徳問題で必要となる多様な価値意識の対立を取り扱うことができるようになるわけである。

さらにまた、道徳思考にレベルの区別を認めることによって、冒頭の(4)であげた選好の最大充足という直接に功利主義的な道徳性と、正義や権利といった他の道徳性との関係を明らかにする方策を見つけることができる。つまり正義や権利を、現実の状況で最善の結果をうむための二次的な原則ではあるが直観レベルでは厳守されるべき原則として扱う。そして批判レベルでの効用計算との間の見かけ上の背反にもとづく反論はレベルの混同によるものとして解消するのである。これによって、これまでにしばしば行なわれてきた直観にもとづく功利主義批判の問題点を明らかにすることができる。

このようにかなり有望に思えるヘアの理論であるが、細部を見るとかなり複雑で、難点も少なくない。本論では難点の一つとして、外的選好の問題を考えてみる。


外的選好
選好を中心に功利主義の理論を構成し、道徳的思考のレベルを峻別すしたヘアは、『自由と理性』で問題になった利害と理想の対立という問題を、選好を内容によらず強度によって比較し最大に充足するという手続きをもちいることによって解消することができた。これはMTでの大きなステップであると言うことができる。

しかし選好版の功利主義を採用すれば、快楽説をとった場合には問題にならなかった、固有の困難な問題を引き受けることにもなる。R. ドォーキンが功利主義批判に用いた「外的選好」の問題を取り上げてみる。この議論を簡単に紹介しておくと、次のようになる。

功利主義は、一人の効用を一人分と数え、質によらず平等とみなすことによって、形式的には平等主義的である。そしてヘアのように、快楽説をとらず、選好によって功利主義を定式化することには大きな魅力があるということをドォーキンは認める。ところが、ひとが抱く選好は多種多様である。われわれは自分が実際には経験しないことに対しても選好を抱く。たとえば、自分の親族が、自分の死後に幸福であることを望むことは、ふつう一般に認められるであろう。またわれわれは自分とまったく関係のない他人の不幸を望むことさえもある。

ここで自分が実際に経験する事態に関わる選好を個人的選好(personal preference )と呼び、他人が経験し、自分自身は経験しない事態に関わる選好を外的選好 (external preference )と呼ぶことにする。ドォーキンの批判のポイントは、選好功利主義者が社会全体の効用(選好の充足)を計算する際に、外的選好を計算に入れるならば、特定のひとの個人的選好が他のひとに比べ軽視されたり、あるいは特に重く計算しなければならない可能性があることを指摘し、これが功利主義の見かけ上のリベラルな平等主義と背反することを指摘することにある。これを理解しやすくするため、ドォーキンが挙げている例を紹介しよう。

ある都市の市民の多くが肌の色に関して人種差別的な意見をもっているとする。この都市で、二人のひと――白人と黒人――が同じ病気にかかり、その病気を治療するためには、希少な薬を必要とする。黒人の方が白人より病が重く、より薬を必要としており、それゆえ薬を投与されることをより強く選好しているとしよう。都市の多くのひとは、より多く必要としている黒人に与えるよりは、白人に与えられることを選好しているとする。この場合、この白人と黒人の個人的選好のみを考慮の対象とするならば、おそらくより必要としている黒人の選好のより強い選好を優先することになり、この場合功利主義は平等主義的な結論を下すことになる。だが、この都市の住人の外的選好まで比較考慮の対象にするとすれば、白人の病人の選好の方を重視することになり、功利主義は反平等主義的な結論を下すということになる。

上に挙げた例は人種差別的な選好に関するものであるために、異様な印象を与えるが、同じことは利他主義的・あるいは道徳的な選好に関しても生じる。これもドォーキンの例を挙げておく。ある都市が劇場かプールのどちらかを建設する予算がある。スポーツをすることをよいことであると考えている人々は、自分自身は水泳する習慣がなくとも、劇場よりはプールを建設するべきであると考えるであろう。このような場合、水泳を楽しむ人々は、「一人以上」に数えられていることになる、という。

このような事例は、ドォーキンがあげている例以外にも、次々と案出することができるであろう。また実践的な問題でもある。たとえば同性愛、あるいは売春などに関して、ある人々は、それを自分で経験しない――それが行なわれているかどうかさえわからない――場合にも、強い道徳的嫌悪を抱くかもしれない。その結果、たとえば同性愛の人々は、それが他の誰にもなんの被害も与えないのにも関わらず、道徳判断を行なえば自分の欲求を満たすことをあきらめねばならない、ということになることもあるだろう。外的選好を考慮に入れなければ、おそらくこのような結論は出ない。そこで外的選好を計算に入れるかどうかという問題は、結論を左右するような重大なポイントであるように見える。

さて、外的選好を考慮に入れることは、われわれの直観に反する点がある。しかし議論から簡単に排除するわけにはいかない。というのも、われわれがもつ選好は多くの場合個人的選好から切り離すことができないからである。たとえば、人は自分の近親者が自分の死後に幸福に暮らすことを望むことがあるだろう。このような選好は、その人自身がその選好の実現を経験しないにしても、事実と論理を理解しているかぎり、除外する理由はないように見える。ヘアの理論においても、選好はその内容を問わず強度によって比較するということが原則である。またこのような選好まで考慮に含めることができることが、選好功利主義の快楽功利主義に対する優位点でもあったわけである。

したがって、選好を中心に功利主義を構成しようとするならば、この外的選好の問題は、答えておかねばならない問題であると言える。


ヘアの解答
それではヘアの理論ではこの問題はどう扱われるのかを考えてみることにしよう。ヘア自身はMTの時点でも充分この外的選好の問題を意識してはいたが、直接にはほとんど論じていない。MTでは議論を単純にするため、暫定的に外的選好を排除して議論を進めると宣言しており(MT 5.6)、はっきりした判断は下さない。ただし、狂信者の問題を論じている箇所で、もう一度この問題に触れている(MT 10.6)。

ヘアがもちいている狂信者な医者の例を挙げておく。ある患者が、重い病にかかっており、これ以上延命措置を行なうことは患者の苦痛を増やすばかりであり、患者は延命措置をやめて欲しいという極めて強い選好を抱いている。それに対して、医者は、患者の選好はどうあれ、最大限の努力を下して患者が少しでも長く生きられるようにするべきであるという道徳的信念を抱いているとする。しかし、もしこの医者が、上で見た批判的道徳思考を行ない、患者の選好と状況を充分に知り、もし自分が患者の立場におかれたらという仮想的な状況に対して対応する選好を獲得すれば、彼は「患者の選好はどうあれ延命措置をするべし」という指令に同意することができないであろう。したがって、このような事例で狂信者な理想をもちつづけることはできないはずである。

だがここで外的選好を考慮の対象に入れるとすれば、医者は、彼の同僚や看護婦たち、あるいはもっと多くのひとが彼と共有している「医者は可能なかぎり患者を生かすべきである」という理想にも配慮することになる。この理想には、自分が経験するわけではないが、患者がひどく苦しむ結果になっても、延命を続けることがより望ましいとする外的選好を含む。したがって、これらの人々の外的選好を計算に入れれば、結果的に医者のもつ理想が患者の選好より重視されることになるかもしれないと思われる。

これに対してヘアは、この事例では外的選好を功利主義的な考慮の対象とする場合としない場合で結論はかわらないはずだと考えている。事実問題として、患者が苦しむことを望まない人々も多く存在するであろうから、医者やその同僚の外的選好は、反対の意見をもつこれまた多くの他の人びとの外的選好によって相殺されるはずである、というのである。

ドォーキンの問題に関してこの論法を使えば、問題の都市は人種差別的であるが、より範囲を広げて見れば、黒人の方に有利にするべきだと考えている人々もいるだろうから、これらの外的選好は相殺されることになるだろう、というものになる。だがこの解答では不十分であろう。社会の成員のもつ選好や理想は、ある程度偏りがあるとみなすことを認めないわけにはいかない。たとえば前世紀には、現在よりも人種差別的見解をもつひとの割合は多かったのではないだろうか。端的に言って、「反対の意見をもつひとの外的選好によって相殺される」かどうかは事実的問題であって、常に人々の外的選好どうしが相殺するということは言えない。したがってこれは直接にはドォーキンに対する解答にはなっていない。

もっともこれはヘアの立場では当然でもある。道徳的な判断は論理だけではなく事実にもとづかねばならず、社会の成員の選好に関する事実によらずに、一定の結論を下すことができるわけではない。むしろ事実に関係なくいつでも同じ結論を下すとすればそちらの方がおかしいとヘアならば言うであろう。

そこで、次のような解答が考えられる。この現実の世界では、自分に直接関わらない事柄に関する一般に外的選好は、個人的選好に比べればはるかに弱いと思われる。したがって、実際の場面では結論を左右するほどの問題にはならないであろう、というものである。実際われわれは自分が経験しない事柄に関してはいい加減な判断を下しがちであり、またそれに関する選好も弱いことが多い。もちろんこれも、何度もくりかえすように、人々の選好がどうなっているか、という事実にもとづく解答であるが、これはおそらくドォーキンの問いに対する一つの答えになりうる。この世界での現実の実践的な問題に対する解答としては、これで充分かもしれない。

しかしドォーキンが行なっているのは、実践的な議論であると同時に、理論的な議論でもある。選好功利主義が整合的な理論であるのかが問題なのである。単に実践的には問題ではないと示すだけでは充分ではない。

おそらくヘアの本当の解答は、次のような道徳思考のレベルの峻別ににもとづくものであろう。実際に社会の成員の多くが(たとえば)差別や格差を望むような社会であり、またその人々が事実を充分に知った上で論理的に混乱することなくそれを望んでいるのであれば、その人びとの選好を最大限に充足することが理論的にも正しいことなのである。したがって、ある特別な社会では、われわれが信奉している平等や正義に抵触するような道徳判断が正しいとされることも論理的にはありうる。それに疑問を感じるのはわれわれの道徳的直観が今の現実の世界で用いるために植えつけられているからである。この道徳的直観自体も現代のわれわれの社会においては功利主義的に擁護されるのであろうが、この直観と特別な社会に対する功利主義的な結論が食い違ったからといって、それだけではヘアの議論や選好功利主義に欠陥があることを示すことにはならない。それはわれわれの直観の限界を知らせるものでしかないのである。批判的レベルでの議論を行なうのならば、われわれの道徳的直観を持ち込むことはできないのである。そもそもヘアの理論では正義や平等は、選好功利主義によって擁護される直観レベルでの原則であり、それ自体が無根拠に優先されるものではない。選好充足の最大化は、理論的に平等に先行する原則なのである。

この解答は、直観的に平等の原則を主張するドォーキンに対してはたしかに有効な反論である。ドォーキン自身は、それではなぜ平等が重要なのか、ということについて、われわれの直観に訴える以上の基礎づけを行なうことはできないであろう。実際、今回取り上げている論文でもドォーキンは積極的になぜ平等なのか、という問題に答えているわけではない。したがって、ドォーキンが作り出した事例は、ヘアの功利主義に対してなんら脅威とならない。

さらにヘアは次のように答えることもできる。自分が直接経験しないことに対する選好は、多くの場合には変えることができるものであり、また変える必要があるものかもしれない。病気に苦しむ人の選好は切実なものであり、おそらく簡単に変えることはできないであろう。しかし、他の人々が抱いている外的選好は、多くの場合、教育や環境などによる後天的なものであって、病人の個人的選好に比べ容易に変更することができるであろう。もし他の人々の選好を変えることによって、のちのちよりよい結果を望むことができるのであれば、そうするべきかもしれない。これは先の狂信的な医師に関する議論の中でヘア自身が使っている論法である。

このように、ドォーキンが提示した外的選好の問題は、そのままではヘアの議論に対する批判とはならない。しかしではなぜ、ヘアはMTで外的選好に関してはっきりした態度をとらなかった、あるいはとれなかったのであろうか。


外的選好と個人内の合理的選択
ここでまず、外的選好を計算に入れることにはドォーキンの主張とは違った意味で直観に反する側面があることを指摘しておきたい。ドォーキンの批判のポイントは、選好功利主義は平等の原則や権利、正義などに関わる道徳的直観に反するように見えるということにあった。この点は上で見たようにレベルを峻別することによって回避できる。

しかし、ある事態が生じるかあるいは生じないかを知りえないひとが、その事態に関してもつ選好を考慮に入れる必要はあるのであろうか。先に例としてあげたが、売春が秘密のうちにお互いの同意の元に行なわれ、それがまったく他の人々に影響を与えないという場合に、なぜ売春に関して嫌悪感を抱く人々の選好を考慮に入れねばならないのであろうか。この場合直接関わりのない人びとの選好や意見は端的には「お節介」あるいは「余計なお世話」であり、そもそも考慮の対象にしなくてもよいものではないだろうか。この疑問はたしかに直観的なものである。しかしこれははたして道徳的な直観にもとづく疑問であろうか。

これを、われわれがリベラルな教育を受けてきたために、個人の自由を最大限に認めようという道徳的直観をもつように至ったからであると説明することは可能だろうか、と問えば、答えはおそらく否定的である。というのは、この疑問は、売春に賛成の人であろうと反対の人であろうと、またリベラルであろうがなかろうが感じられると考えられるからである。むしろこれは道徳的思考の方法や思考過程に関わる疑問であって、この疑問はドォーキンの反論とは異なり、道徳的な直観にもとづくものではないだろう。批判レベル、あるいは道徳的思考とは違ったレベルの問題ではないだろうか。それでは問題はどこから来るのか。この疑問を抱いてヘアの議論を見直してみる。

理想的な道徳思考は、人々のさまざまな選好を、個人の内部での複数の選好として再現し、それらの強弱を比較して最大に充足するコースを選ぶ、というものであった。他の人の外的選好もこの方法で個人のうちに再現できるとすれば、道徳的思考者は、(仮想的に)自分が経験することになる事態に関する選好と、自分が経験しない事態に関する選好との比較を行なうことになる。ここで問題は、この両者の選好もやはり等しく扱い、強度のみによって比較されるべきなのか、ということになる。つまり、上でわれわれが感じる疑問は、個人内での選好の比較と、その合理的選択に関わる疑問なのである。

ここで経験することがらに関する選好と、経験しない事柄に関する選好の間の選択をどう行なうか、ということに関して、またそれより上位の選好を想定しなければ問題は解決しないように思われる。今回は触れることができなかったが、実は同じタイプの問題は、個人での思慮分別の問題としても現れる。

このような個人内の選好充足や選好の比較といったメカニスムが、一種のブラックボックスになってしまっていることが、ヘアの理論のもっとも大きな問題点の一つであると思われる。ヘアの理論が充分納得のいくものとなるには、選好のより精密なクラス分けと分析、そして個人の合理的な選択に関する理論のバックアップが必要なのである。


文献
R. M. Hare, The Language of Morals, Clarendon Press, Oxford, 1952.

Freedom and Reason, Clarendon Press, Oxford, 1963.

Moral Thinking, Clarendon Press, Oxford, 1981.

邦訳

内井惣七・山内友三郎他訳『道徳的に考えること』(仮題) 近刊.

D. Seanor & N. Fotion (ed.)

Hare and Critics, Oxford, 1988.

特にGibbardとBrandtの論文とそれに対するヘアの返答が参考になった。

R. Dworkin, Taking Rights Seriously, Harvard University Press, Cambridge, 1977.

J. Griffin, Well-Being, Clarendon Press, Oxford, 1986.

内井惣七, 『自由の法則 利害の論理』, ミネルヴァ書房、, 1988.

山内友三郎, 『相手の立場に立つ』, 勁草書房、 1992.

神野慧一郎、 「功利主義の射程」, 岩波講座,転換期における人間8 『倫理とは』, 1989.




倫理学はノイラートの船か?(その2-1) [宗教/哲学]


進化論
進化論

しんかろん
evolution theory

  

生物進化の事実,機構,原因などに関する理論,またはそれらを研究する学問分野。生物の進化の素朴な考えは紀元前からあったが,近代的な進化論の芽生えは『動物哲学』 (1809) を著わしたフランスの J.ラマルクに代表され,C.ダーウィンの『種の起原』 (59) によって不動の学説として確立され,進化論といえばダーウィン説をさすほどである。ダーウィンの進化論は自然淘汰 (選択) 説と呼ばれたが,その後,実験生物学や遺伝学の発達に裏づけられつつ,現在の主流であるネオダーウィニズムへと発展した。定向進化の見方に一定の価値を認めるネオラマルキズムは 20世紀初頭に一時,生物学者や哲学者,思想家の一部から支持を受けたが,主流とはならなかった。分子生物学の発達とともに,分子レベルで進化の問題が論じられるにいたり,蛋白質の進化を中心として分子進化学の分野も成立している。化石から知られる古生物の進化は大進化で,定向進化説はおもに古生物学上の事実に基づいていた。





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[ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 2008]


進化論
I プロローグ

進化論 しんかろん Evolutional Theory:Theory of Evolution 生物進化に関する理論。進化論には、進化の実在を主張する理論と、進化のメカニズムを説明する理論という2つの意味がある。前者は、キリスト教原理主義者が、生物は神によってつくられたとする聖書の記述を信じて、創造説をとなえるのに対比していわれるもので、歴史にあたえた進化論の影響もこの意味においてである。進化の事実は、化石および地質時代の記録、現在の生物の地理的分布と各地域の生物相、および分子進化学(→ 進化生物学)的な証拠によって、科学的には疑いの余地なく確立されているが、アメリカ合衆国などでは現在も創造説を信じる人が多く、教育の現場を中心に論争がつづいている。→ スコープス裁判

進化のメカニズムとしての進化論の歴史については、チャールズ・ダーウィン以前と、ダーウィン=ウォーレスの進化論、進化の総合説、および現在の進化論の順で、以下に概説する。なお、本来的な意味の進化論には、生命の起源もふくめられるべきだが、ここではあつかわない。

II ダーウィン以前の進化論

進化とは、生物が時間とともに変化して、ことなった種類の生物になることである。生物が変化するという漠然とした認識は、古代ギリシャの自然哲学や東洋の輪廻転生的な自然観にもうかがうことができるが、歴史的な過程として、進化の認識が成立するのは、18世紀以後のことである。地質学が地球の変化を明らかにし、古生物学がことなった地層からことなった化石をみつけだし、比較解剖学が生物の構造には種をこえた共通性があることをしめし、発生学が卵から複雑な器官が形成される過程を、生物地理学が世界各地の生物相の特異性を明らかにするにつれて、あらゆる事柄が進化の事実をさししめすようになった。

こうした状況の中で、進化論的な発想の先駆けとなるものが、いくつかあらわれた。たとえば、ジョフロア・サンティレールやリチャード・オーエンが提唱した動物の器官の相似や相同という概念は、共通のプランからの進化を前提としていたし、フォン・ベアは、ヘッケルに先だって高等動物の初期胚が下等動物の成体に似ていることを指摘していた。また、反進化論者として有名なキュビエも、神による創造という枠内で、天変地異による新種の出現をみとめていた。そのほか、モーペルテュイやビュフォンも進化論的な考え方を公然と表明していた。

ダーウィン以前の体系的な進化論者として特筆すべきは、エラズマス・ダーウィンとラマルクである。エラズマスは、チャールズの祖父で、著書「ズーノミア」(1794~96)において、フィラメント状の原始生物からすべての動物が進化したことを明確にのべたが、進化の要因を環境の変化に対する動物の反応にもとめていた。ラマルクの進化論は、著書「動物哲学」(1809)にのべられていて、それによれば、生命は常に自然発生しており、その内在的な能力によってしだいに成長・複雑化していくという。さらに、環境への適応としてつかわれる器官が、獲得形質の遺伝を通じて発達することによって、生物の多様性がますと考えた。後世、この後者の点のみが強調されることになり、ラマルク説=獲得形質の遺伝とみなされるようになった。

III ダーウィン=ウォーレスの進化論

進化を裏づける証拠が蓄積されていったにもかかわらず、進化論はなかなか受容されることがなかった。その背景のひとつとして、すべてを神の創造に帰すキリスト教的な世界観、多様な生物の世界を静的な存在の連鎖とみなす中世的な世界観があった。また逆に、進化論が社会的に受容されるようになった背景には、産業資本主義の発展、自由競争による社会の進歩という時代精神があったことは事実である。しかし、ダーウィンの進化論(厳密には、アルフレッド・ラッセル・ウォーレスが同時発見者である)がそれ以前の進化論と一線を画し、最終的に社会にみとめられ、現代生物学の基盤となった最大の理由は、科学的な進化のメカニズムをはじめて提出したところにある。

有名な「種の起原」(1859)で、ダーウィンがのべている自然選択(自然淘汰)説の原理を要約すると次のようになる。あらゆる生物は、生存できる以上の子供をうむので、それらの子供どうしで必然的に生存競争が生じる。一方、子供の間には個体ごとに変異があるため、生存競争においては、より適応した性質をもつ個体が生きのこる。この過程の集積によって変種が生じ、変種が新しい種の発端になるというのである。ダーウィンの時代には、遺伝の法則はまだ発見されておらず、変異の原因も不明ではあったが、自然選択説は、生存競争と変異の組み合わせによって、神が介在しなくとも、種が自動的に進化するメカニズムを提示したのである。

ダーウィンの進化論は、社会進化論(→ 社会ダーウィニズム)や優生学といった形で、生物学以外の世界にも多大の影響をあたえた。また、生物学の歴史においても、人間をふくめてすべての生物を神秘の座から科学の対象にひきおろし、すべての生物現象を進化的適応という観点からみることを要請した点において、決定的な重要性をもっていた。

IV 進化の総合説

進化論そのものは、「種の起原」が出版されてから10年ほどで学界に広くうけいれられたが、自然選択説に対してはさまざまな異論が出された。19世紀末には、獲得形質の遺伝を強調するネオ・ラマルキズムや定向進化説が、アメリカの古生物学者コープやオズボーンなどによって主張され、多くの支持をえた。定向進化説は、化石の記録にもとづいて進化に方向性があるとするもので、その原因を生物の内在的な力にもとめた。オオツノジカの巨大な角、剣歯虎の長くのびすぎた犬歯は、定向進化の好例とされ、このような過度の発達は、自然選択説では説明できないとした。

また逆に、1900年におけるメンデルの法則の再発見者のひとりであるド・フリースは、突然変異こそが新しい種が生まれる原因であると主張する理論を1901年に発表した。それによって、軽微な連続的変異の集積が進化の要因であるとするダーウィンの自然選択説に異をとなえ、多くの支持者をえた。こうして、1910年代には、進化の説明理論としての自然選択説は、存続の危機に直面していた。

この危機を打開したのが、生物測定学(生物統計学:→ 遺伝)派に起源を発する集団遺伝学(→ 進化)の発展であった。アメリカのS.ライト、イギリスのR.A.フィッシャー、J.B.S.ホールデーンらによって、体系をととのえられた集団遺伝学は、集団の遺伝子構成(遺伝子頻度:→ ハーディー=ワインベルクの法則)を統計的に処理することによって、生物の形質には多数の遺伝子が関与しており、メンデル遺伝学の突然変異と連続的な変異が矛盾なく両立できることをしめした。これに、種分化(→ 種)における隔離の重要性を指摘したT.ドブジャンスキーやE.マイヤ、そして定向進化説を実証的に否定した古生物学者G.G.シンプソンらがくわわって、1930~40年代に、進化の総合説(総合学説)が確立される。

総合説は、ネオ・ダーウィン主義とよばれることもあるように、ダーウィンの自然選択説を、現代的な科学知識の上に再構築したもので、現在における正統派進化論として大多数の生物学者によってみとめられている。総合説によれば、進化は、集団の遺伝子構成の変化として理解される。つまり、突然変異や交配の際の遺伝的組み換えによって生じた遺伝的変異の集団内における頻度が、遺伝的浮動(→進化の「種分化」)によって非適応的に変動したり、あるいは自然選択の作用によって適応的に変動したりする。そして、それが、地理的な隔離をうけることによって、ことなった遺伝子構成をもつ変種集団になり、やがて別の種となると考えるのである。

総合説とダーウィンの自然選択説のもっとも大きな相違点は、ダーウィンの場合には自然選択の単位が個体であり、生存競争を通じて適応的な個体が生きのこることによって進化がおこると考えるのに対して、総合説では、自然選択の単位は遺伝子であり、適応的な遺伝子が集団中にふえることによって進化がおこると考えるところにある。ドーキンスの利己的遺伝子説は、このことを比喩的に強調したものである。

V 現在の進化論:総合説へのさまざまな異論

正統派進化論(総合説)に対して、さまざまな異説や異論があるが、その主要なものについて、現代生物学の知識にもとづいて検討してみよう。

1 創造説

まず、第1に、進化の事実を否定する創造説がある。先にものべたように、進化の事実は科学的に確立されたものであり、科学一般を否定するのでないかぎり、なりたたない主張である。この変形として、進化はみとめるが、それは神あるいはその他の超越的な存在がさだめたものだという説がある。そうした議論は、信仰の問題ではあっても、科学が介在するところではない。

2 ネオ・ラマルキズム、定向進化説、今西進化論

第2に、自然選択ないしは生存競争を否定し、集団のすべての個体が一斉に変化するという主張がある。ネオ・ラマルキズム、定向進化説、今西進化論などがこの範疇(はんちゅう)に入る。その場合、変化にむかう要因として考えられているのは、生命力のような内在的な力か、獲得形質の遺伝である。内在的な力は、それが具体的に提示されないかぎり、科学的に検証することができない。

獲得形質の遺伝は、現代遺伝学の知識にてらして否定される。逆転写現象(→ レトロウイルス)の発見によって、DNA→RNA→タンパク質というセントラルドグマに例外のあることが明らかになったとはいえ、一般的に個体が生涯に獲得した形質が、子供に遺伝的につたえられるメカニズムはみつかっていないからである。ただし、個体のレベルではなく、集団のレベルでは、適応的な遺伝子が世代を重ねるごとに集団内に広がっていくので、集団として獲得した適応的形質が遺伝していくようにもみえるが、これは見かけだけのことにすぎない。

3 中立説、跳躍遺伝子、分子駆動

第3に、遺伝子変異の原因に対する異論がある。従来の総合説では、突然変異と交配の際の遺伝的組み換えのみを想定していたが、遺伝学の発展によって、それ以外の形による変異も知られるようになった。ひとつは木村資生が指摘した生体分子の中立的進化で、この説(中立説)は、分子が環境とは無関係に進化するという意味において、自然選択説に衝撃をあたえた。しかし、その分子進化の原因は、突然変異と遺伝的浮動によって説明され、また機能的に重要なタンパク質における分子進化は、自然選択によって抑制されることが明らかになり、現在では総合説の枠組みと矛盾しないと考えられている。

また、マクリントックらが発見した跳躍遺伝子や分子駆動の存在は、染色体間あるいは個体間の水平的な遺伝情報伝達があることをしめした。これらは、親から子への垂直的な遺伝情報の伝達のみを考慮にいれていた総合説に、深刻な見直しをせまるものである。しかし、それらは、進化の基本的なメカニズムとして、自然選択説にとってかわるものではない。

4 断続平衡説

第4に、進化の漸進性に対する異論がある。グールド=エルドリッジの断続平衡説がもっとも典型的なもので、種が段階的に変化する小進化には総合説が適用できても、新しい種やそれより上位の分類群が出現する大進化には、大量絶滅などの環境の激変と、新しい形質の爆発的な発現が必要であると説く。この説は古生物学的な事実とはよく一致するが、生物学的なメカニズムは明確ではない。ただし、近年の分子遺伝学では、ゲノム中に、機能をもたない膨大な遺伝子や、多くの生物に共通する遺伝子群、多数の遺伝子を制御するマスター遺伝子などの存在が明らかにされており、これらの遺伝子が激変期に重要な役割をはたしている可能性はある。

5 細胞共生説

第5に、非連続的な進化の実例として、リン・マーギュリスが提唱した細胞共生説がある。これは、真核生物(動物や植物など)のミトコンドリアや葉緑体、鞭毛が別の単細胞生物との共生によって生じたとするもので、現在ではこの説が正しいことがほぼ立証されている。これは、自然選択とはまったく次元をことにした進化の様式で、高等動物の進化においても、共生微生物やウイルスの遺伝子が同じような形で影響をあたえている可能性は否定できない。

いずれにせよ、古典的な遺伝子像がくつがえり、ダイナミックに相互作用する遺伝子像がうかびあがってきた現在、単に自己の複製を子孫につたえるという遺伝子像だけで自然選択を考えるのは、進化の全容をかたることにならない。新しい知見をとりいれた新総合説とでもいうべき体系的な進化論の再構築が期待されるところである。


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進化論
しんかろん evolution theory

生物進化論の歴史は C. ダーウィン以前,ダーウィン,ダーウィン以後に大きく3区分することができる。しかしダーウィン以前のうち,古代ギリシアの自然哲学における進化思想は時代的にもかけ離れており,近代の進化論とは区別して扱われねばならない。
【ギリシア自然哲学】
 ミレトス学派のアナクシマンドロスは,大地の泥の中に原始生物が生じてしだいに発達し,さまざまの動植物ができ,最後に人間があらわれたと説いた。エンペドクレスは,動物の体のいろいろな部分が地中から生じて地上をさまよいながら結合し,適当な結合となったものが生存して子孫を残したとのべた。またアリストテレスとともにプラトンの弟子であったスペウシッポスも,生物が単純なものから複雑なものに進み,ついに人間を生じたとしている。これらの考えは,民間伝承と哲学が結びついたにすぎないともみられるが,また他方,造物主の観念に束縛されない自由性をもつ点で評価されることもある。アリストテレスは自然物に関し,無機物から下等植物,ついで順次に高等植物,植虫類,下等動物,高等動物,最上位に人間という配列がなされるということ,すなわち後世いう〈自然の階段 scala naturae〉の考えをのべた。もしこれを時空的発展として解釈すれば進化論ということになり,それでアリストテレスを進化論者の列に加える意見もあるが,一般には認められていない。ところで古代でも,アリストテレスと同時代のスペウシッポス以後には,進化論的観念があらわれていないということは,アリストテレスの目的論的生命観がそれだけ強固な支配力をもったことを示すものでもあろう。もっとも原子論者ルクレティウスの《事物の本性について》に進化の観念がほの見えているといわれることはある。のちにヨーロッパがキリスト教支配の時代にはいると,原子論と同様,もはや進化論はあらわれてこない。
【近代進化思想の誕生】
[フランス進化論]  近代になり生物進化の観念がまず最初に一つの流れとして認められるのは,18世紀なかば以降のフランスである。前世紀末における古代人と近代人の優劣論争で代表されるような,社会および人間に関する進歩の観念がその背景をなすとされる。18世紀的唯物論がこれに加わる。モーペルテュイ,ビュフォン,ディドロ,ドルバックらが主要な進化思想家としてあげられる。モーペルテュイとビュフォンが,ボルテールとならんでフランスへのニュートン力学の紹介者であることは,この力学がフランス思想に自然の合則性の観念を直接培って,進化観念の土台を準備したことを示している。ただしいうまでもなく,こうした進化観念の誕生と発展は,生物および地球に関する科学研究の発達を足場として可能になっている。フランス進化論の皮切りというべき著作は,モーペルテュイの《人間と動物の起原》(1745)で,モーペルテュイはまた遺伝学の先駆者としても評価されている。ビュフォンは大著《博物誌》(1749以降)の諸巻で進化をほのめかしているが,反対の意味にとれる記述もある。彼は地球の年齢を《創世記》にもとづくよりはるかに長大なものとし,それを測定するための実験も試みた。ビュフォンが進化論者として認められるなら,それはこのような地球に関する観念の変革と関係しているのであろう。ドルバックは《自然の体系》(1770)で,人間を含め生物が地表の変化にともない変化してきたことを説き,ディドロは現在の大動物も過去には小さいうじ虫のごときものであったとのべている。
 ラマルクの進化論は《動物哲学》(1809)で体系的に説かれ,C. ダーウィン以前の進化論のうち科学の学説としてもっとも整ったものである。彼の進化論がパリ自然史博物館の講義で最初にのべられたのは,19世紀のごく初年であるが,しかし彼の前半生は大革命にいたるまでの時代にすごされており,理神論を含め,彼の世界観には18世紀フランス思想の影響が印されている。ラマルクの進化論の根本は,無機物から現在も自然発生している原始生命が,内在する力によって発達し複雑化した生物になっていくが,しかし生物はまた環境の直接作用や習性の影響,つまりは獲得形質の遺伝により多様化していくということである。ラマルクの進化論は少数の学者の注目をひいたにとどまり,彼は周囲からは無神論者,唯物論者として非難された。
[イギリス進化論]  18世紀にはドイツの哲学者カントの進化思想もあげられる。それはとくに《判断力批判》(1790)にあらわれているとされる。だがフランス進化論とともに流れとして注目されるのはイギリスのものである。すなわち E. ダーウィンから断続してはいるが,その孫で大進化論者の C. ダーウィンにいたる流れであり,これもまた社会における進歩の観念を背景にすると見られる。ただしこの場合には,産業革命の進展以来の産業資本主義の発展期における進歩の観念であって,その時代の社会の諸観念を反映した進化論がしだいにうちたてられていくようになる。E. ダーウィンは著作《ゾーノミア》(1794‐96)で,生命は海中に誕生し発達して人間を生じたと説いた。ラマルクの進化論より早く,しかも進化要因を含めラマルクと共通するところが多い。しかし両者の進化論は互いに独立に形成されたと見られている。19世紀になり,C. ダーウィンの自然淘汰説の先駆となる研究もいくつかあらわれたが,当時は注目されず,チェンバーズ R. Chambers の著作《創造の自然史の痕跡》(1844)が自然神学との混合のような進化論ではあったが,一般の関心をよび多くの議論を起こさせた。C. ダーウィンの進化学説公表の直前にでた H. スペンサーの進化論では,進歩の観念との関係がきわめて密接である。彼は等質の状態から異質の状態に進むことをもって進歩であるとし,生物の進化をその一環として規定した。この考えには分業などの進んでいく当時の社会情勢が反映している。スペンサーは生物と社会の並行的な見かた(社会有機体説)にもとづき,生物進化論と並んで社会進化論を唱えた。
【ダーウィンの進化論】
 C. ダーウィンが種の起原,つまり進化についての系統的研究を始めたのは,ビーグル号航海から帰った翌年の1837年,28歳のときであり,学説の骨格も早く成り立っていたが,公表されたのは58年7月1日のリンネ学会においてである。マレー諸島滞在中の A. R. ウォーレスから送られてきた論文が,ダーウィン自身の自然淘汰説と同趣旨であり,結局,両者の論文を同じ表題のもとにおいたジョイント・ペーパーとして発表することになったのであった。この論文はほとんど理解されず,ダーウィンが急ぎ自説をまとめた著作《種の起原》が,翌59年11月に刊行されて初めて思想界に風雲を巻き起こすことになった。とはいえ,ダーウィン学説の普及には約10年を要した。
 ダーウィン学説の中心的な柱は自然淘汰説であり,ダーウィンは自分の独創的な学説としてとくにそれを強調しているが,器官の用不用というラマルク的要因も認めている。ところで自然淘汰説は,産業資本主義の発展期における自由放任(レッセフェール)的競争社会の観念が反映したものであるということが,早くから批評家たちによって指摘されており,一般の人たちが自然淘汰説を歓迎して受容したこともそれと関係があるとされる。ダーウィンとウォーレスが,ともにマルサスの《人口論》から示唆を受けていることもその見かたの根拠になっている。だが,もし自然淘汰説が単に社会観念の反映にすぎないものであれば,その点ではダーウィン以前の諸説と変わらないことになる。しかしそうではなく,進化論の歴史におけるダーウィンの真の意義は,学説のきっかけとなった観念とはかかわりなく,その学説を近代科学の方法の原則に従って整頓し体系化し,そうすることによって進化という問題を科学研究の対象として確立したことにある。科学研究の方法論に関してダーウィンは,W. ヒューエル,J. F. W. ハーシェルという当時の代表的科学哲学者の著作や彼らとの個人的接触から学び,また実践面ではライエルの地質学から学びとった。イギリスの科学哲学における前世紀の D. ヒューム以来の伝統が,ダーウィンにおいて重要な役割をしたことになる。⇒ダーウィニズム
【進化論の思想的影響】
 《種の起原》の刊行以後,ダーウィンの確立した道にそって進化の科学的研究が発展することになったが,進化論の受容は聖書の《創世記》の記述を否定するものとなるから,それは宗教とくにキリスト教の信仰にたいする大きな衝撃となった。だがそれだけでなく,進化論は人間の世界観あるいは社会思想にたいしきわめて多面的な影響を及ぼした。それらの影響には,進化論一般からのものとダーウィンの自然淘汰説からのものとを一応区別できる。進化の一般的観念は,世界の事象の歴史的な見かたをうながし,ものごとの科学的・実証的把握の重要さを印象づけ,それは教育理論に重大な変革を要請するものともなった。また人間の動物的本性,つまりサル的先祖からの進化に人々の関心を引きつけ,そのことは一方では改めて進化論の忌避を助長し,他方では人間行動の本能主義的理解にみちびいた。ダーウィン学説発表後に,通俗刊行物にもっとも多く掲載された記事は,人間のサルからの進化に関するものであった。
 つぎに進化論一般でなく,ダーウィンの自然淘汰説の思想的影響としてあげねばならないのは,人間の社会において生存競争が不可避の原理であるとの観念がさらに強化され,優勝劣敗あるいは弱肉強食の合理化の議論が頻繁になされるようになったことである。エンゲルスやマルクスも,ダーウィンの進化論に史的唯物論の立場で関心を寄せたが,同じころアメリカでは進化論が保守的社会観の理由づけに使われた。社会は漸次的に進歩する本性をもつものであり,その進歩を速めるなどのために無理な介入はすべきでないというのである。このように進化論からのきまった思想的影響というより,それぞれの社会で進化論がつごうよく受けとられている場合が多く,そのことは明治期の日本でも見られる。
 いま上でも触れたが,19世紀後半より20世紀前半にわたり,アメリカでは進化論の思想的影響がもっとも特徴的にあらわれている。ダーウィン学説とともにスペンサーの進化論が普及したことはその一つであり,また進化論がプラグマティズムの哲学の成立をうながしたことが注目される。進化論の哲学への影響は,フランスのベルグソンの《創造的進化》(1907)などいろいろあるが,プラグマティズムは最大のものといえる。
 進化論への世界の知的興奮は,20世紀前半に進化の科学的研究がいわば科学の軌道で安定して進められるようになってから,少なくとも外面的には沈静し,それは進化が科学的常識となったことを意味するものでもあった。ところがアメリカでは,1920年代なかばに進化論が反宗教的であるとの理由で,その教育を禁止する法律がいくつかの州でつくられ,それらの法律をめぐって訴訟が起こされた。問題はその後ながくくすぶっていて,60年代に再燃し,さらに80年前後に天地創造説と進化論を平等に教えさせるべきだという法案が出されて裁判沙汰となった。
【進化の科学的研究の発展】
 ダーウィンの進化論は,同国人 T. H. ハクスリー,ドイツの学者 E. H. ヘッケルらの活動で普及した。しかしヘッケルにしても,ゲーテ,ラマルク,ダーウィンを三大進化論者として並列するものであり,また進化は認めるが自然淘汰以外の要因を重視する意見も多くの学者によって出されるようになった。ラマルク説,定向進化説,隔離説などである。19世紀末年に近づくころより,A. ワイスマンによるネオ・ダーウィニズムが普及し,自然淘汰の万能が主張されたが,それは生殖による遺伝質の混合を淘汰の素材であるとし,遺伝質そのものは不変的であるとするものであった。そして前世紀末よりの遺伝学の発展も,生物の性質の不変性の面を強く印象づけ,そのため20世紀初年には進化の不可知論的時代とよばれる様相もあらわれた。この間にド・フリースの《突然変異説》(1901)が出され注目をひいたが,それは上記の情勢の中で出たためにいっそう関心を呼んだのでもある。やがて遺伝子説が確立され,突然変異が淘汰の素材であると考えられるようになり,1930年ごろからの自然淘汰説を柱とする集団遺伝学の発展で,新たな段階でのネオ・ダーウィニズムが基礎づけられ,それはまた生物学の諸分野の総合という面から総合学説 synthetic theory とも呼ばれた。
 分子生物学の成立と発展は,分子進化の研究を進化学の重要な分野として確立した。その成果として生まれた木村資生(もとお)の中立説(1968)は,自然淘汰万能の観念に問題を投じ,衝撃を与えるものとなった。またその後,自然淘汰によって新種の起原となるほどの新たな形質が生じうるか,進化の経過は果たしてダーウィン説でいうような連続的,漸次的なものであるかなどに関して,現代科学の成果をふまえた問題提起がなされ,進化学説への根本的再検討の気運が強まっている。
【日本の進化論】
 江戸時代末期近く石門心学者の鎌田柳泓(りゆうおう)(1754‐1821)が著した《心学奥の桟(かけはし)》(1816稿,1822刊)に進化の観念がのべられており,それは蘭学書よりの知識にちがいないが,詳細は不明とされる。明治時代に入り,松森胤保(たねやす)《求理私言》(1875)に進化のことが書かれたが,進化論の最初の体系的な紹介は1878年に東京大学動物学教授として来日したアメリカ人 E.S. モースによってなされた。その講義はのち石川千代松訳《動物進化論》(1883)として刊行された。石川は《進化新論》(1891)を,丘浅次郎は《進化論講話》(1904)にはじまる多数の著作を書き,進化論を普及させた。これらと並行しダーウィン,スペンサー,ハクスリー,ワイスマンなどの著作もあいついで翻訳された。明治期の日本には,アメリカを介してスペンサーの進化論,とくに社会進化論の大きな影響が認められるが,それを含め進化論の思想的影響は広範かつ多面的であった。もともとモースを招いたのは外山正一の発意であったが,彼は社会進化論に関心を寄せていた。モースと同じころ来日し,長く日本に住んだアメリカの哲学者で美術研究家のフェノロサも,スペンサーの社会進化論を普及させた。石川,丘の諸著でも進化論にもとづく社会観や人生観がのべられており,そのことは書物の普及のために重要な役割をした。哲学者加藤弘之は,自然淘汰説を知って天賦人権説を捨て,生存競争にもとづく優勝劣敗を社会の原理とする説に転じた。他方,明治後半より大正年代にかけて,当時のいわゆる社会主義者たちが進化論に関心を寄せた。幸徳秋水,大杉栄,堺利彦,山川均らであり,大杉は《種の起原》の翻訳もした(1914以降)。だが生存競争説は,社会主義への攻撃の論拠にも使われた。社会進化論と関連し法律進化論は,穂積陳重らの法理論に影響を与えた。
 昭和年代になり,生物進化の研究は進化学の名で呼ばれることが多くなり,小泉丹および駒井卓がこの学の成果のおもな紹介者として活動した。世界観などとの関係を離れ,純粋に科学的研究の問題として扱われるようになったのは,前に触れた世界における進化研究の新たな動向の反映でもある。駒井はネオ・ダーウィニズムの線に添ってみずからの研究も進めた。徳田御稔は遺伝学を重要な基盤としつつも,ネオ・ダーウィニズムへの批判を併せ行った。これら進化学の紹介を日本の進化論の第2段階とすれば,第3段階は日本の学者による独自的学説の樹立ということになる。前記の木村資生の中立説はその一つであり,また今西錦司はダーウィン批判の議論を展開し,種形成に関する新理論を提唱した(《ダーウィン論》1977,その他)。            八杉 龍一

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G.E.ムーア
ムーア

ムーア
Moore,George Edward

[生] 1873.11.4. ロンドン
[没] 1958.10.24. ケンブリッジ

  

イギリスの哲学者。ケンブリッジ大学教授 (1925~39) として,また哲学雑誌『マインド』の編集主幹 (21~47) としてイギリス哲学界における主導的役割を果した。 1903年『倫理学原理』 Principia Ethicaおよび『観念論の論駁』 The Refutation of Idealismを発表,この2作は当時のイギリス哲学界に流行していたヘーゲル主義的,カント主義的観念論を批判したもので,新実在論と呼ばれるムーア自身の哲学の出発点であった。彼は体系的哲学を否定し,言語分析あるいは論理分析により哲学上の諸問題に光を当てて,さらに新しい問題を発見してゆくという分析的方法を主張した。主著『哲学研究』 Philosophical Studies (22) ,『常識の擁護』A Defense of Common Sense (25) ,『哲学の主要問題』 Some Main Problems of Philosophy (53) など。





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ムーア 1873‐1958
George Edward Moore

イギリスの哲学者。初め F. H. ブラッドリーの新ヘーゲル主義の影響を受けたが,やがて外的事物や時空をはじめとして常識で〈ある〉とされるものはみな存在すると考えるようになる。その考察は緻密・執拗で,認識,存在,倫理の諸原理を概念分析によってとらえようとするもので,その方法は日常言語分析の先駆とされる。ラッセルとともに感覚所与理論を提唱し,倫理学においては善を分析不能な単純なもので,自然的事物やその性質とは本質的に異なるものとしながらもその客観性を認め,それは一種の直観によってとらえられるとする。主著《倫理学原理》(1903)。 中村 秀吉

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ムーア,G.E.
I プロローグ

ムーア George Edward Moore 1873~1958 イギリスの哲学者。倫理学や実在論擁護で有名。ロンドン郊外で生まれ、ケンブリッジ大学にまなび、1911~39年まで同大学でおしえる。

II 言語哲学への影響

ムーアにとって哲学とは、まず第1に分析である。それは複雑な命題や概念を、それと論理的に同じ意味をもつもっと単純な命題や概念によって緻密にとらえようとすることである。たとえば、彼はそれまでの一部の哲学者がとなえた「時間は実在していない」といった主張に対して、「わたしは昨日その記事を読んだ」などといった日常的時間にかかわる事実によって批判した。このようなムーアの、明晰さをもとめる念入りな概念の分析は、20世紀の言語分析の哲学に大きな影響をあたえた。

III 倫理学

ムーアのもっとも有名な著作は、「倫理学原理」(1903)である。その中で彼は、善という概念は、それ以上分析できない単純で定義不可能な性質をしめしていると論じた。彼によると、善は感覚によってではなく、道徳的直観によってわかる性質であり、自然なものではない。

「観念論論駁(ろんばく)」(1903)などの著作は、現代の哲学的実在論の展開に大きく貢献した。ムーアは経験と感覚を同一視することなく、経験論からしばしばおこってくる懐疑主義におちいらないようにした。われわれの外にある世界は、われわれの心の中だけにあるのではなく、それ自体で存在しているのだという常識の立場をまもったのである。

→ 分析哲学と言語哲学


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自然主義的誤謬
自然主義的誤謬

自然主義的誤謬(しぜんしゅぎてきごびゅう)は、 naturalistic fallacy の訳語である。20世紀初頭に G. E. ムーア が著書『倫理学原理』の中でこの言葉を導入した。その後この概念は、本当に誤謬なのかどうかも含めて、多くのメタ倫理学者によって再解釈・検討され、メタ倫理学の中心課題となってきた。
ムーアの議論 [編集]
ムーアによれば、自然主義的誤謬とは、「善い」(good) を何か別のものと同一視することである。その何か別のものの内には、われわれが経験できるような対象も含まれるし、われわれが経験できないような形而上学的対象も含まれる。「善い」を経験できるような対象(たとえば「進化を促進する」)と同一視するのが自然主義的倫理、「善い」を形而上学的対象(たとえば「神が命じている」)と同一視するのが形而上学的倫理である。この二つの立場が共通しておかしているのが自然主義的誤謬である。(『倫理学原理』p.39) したがって、一般の解説書によくある、「善を自然的対象と同一視するという誤り」という自然主義的誤謬の定義はムーアの本来の用法からずれている。

ではなぜ「善い」は定義できないのか。ムーアは、定義とは複合概念を単純概念の組み合わせにおき直すことだとした上で、「善い」は単純概念だからこの意味での定義のしようがない、と論じる。これは「善い」に限らず、「黄色い」でも同じことであり、「黄色い」を定義しようとする人も自然主義的誤謬と同質の誤りを犯していることになる。自然主義的誤謬はしばしば「「である」から「べし」は導けない」というヒュームの法則と同一視されるが、これもまたムーアの意図と違っているということが「黄色い」との対比からも明らかである。

自然主義的誤謬の概念を武器に、ムーアはスペンサーの進化倫理学やジョン・スチュアート・ミルの功利主義(以上は自然主義的倫理の例)カントの倫理学(これは形而上学的倫理の例)などを批判する。

ムーア自身の立場は、「善い」は直観によってのみ捉えることができる性質である、という直観主義であった。自然主義が「善い」と経験的対象の関係を定義的な関係だととらえ、「Xは善い」という命題が(ある種のXに対して)分析的な命題となると考えるのに対し、直観主義においては、「Xは善い」という命題は常に総合的な命題である。

ムーアに対する批判 [編集]
「善い」が単純概念だから定義できない、というムーアの議論はさまざまな論者から批判されている。もし単純概念だから別の単純概念の組み合わせには分解できないというだけであれば、「善い」を単一の単純概念と同一視する(「善い」は「快い」であるなど)のはかまわないはずである。(外部リンクの永井俊哉氏の議論を参照)

自然主義的誤謬という言葉自体も批判され、たとえばフランケナは「定義主義的誤謬」(definist fallacy) という言葉を提案している。

また、直観主義は、直観という正体不明のものを持ち出したことで非常に評判が悪く、支持者も少なかった。

直観という語をムーアはヘンリー・シジウィックの哲学的直観にならって使っている。この場合直観とは、中世的意味での悟性(知性)によって直接に知られるというものではなく、またカント的な意味で感性的な知覚でもなく、理性(推論能力)による吟味を経て得られたものと考えられている。

自然主義的誤謬をめぐるその後の議論 [編集]
情緒主義 [編集]
A.J.エイヤーらの情緒主義 において自然主義的誤謬は新たな解釈をうける。価値判断を間投詞などと類比的な単なる情緒の表現だと考える。つまり、経験的なものであれ形而上学的なものであれ、何かの事実を記述するという事実命題とは、本質的に異なるタイプの判断なのである。この立場からは、自然主義的誤謬とは記述と情緒の表現というまったくことなる性質の行為を同一視しようとする誤りだということになる。

普遍的指令主義 [編集]
情緒主義と異なる非認知主義の立場としてR.M.ヘアーの普遍的指令主義がある。ヘアーは自然主義的誤謬にあたる言葉として、「記述主義的誤謬」(descriptivistic fallacy) という言葉を使う。ヘアーも情緒主義にならって、この誤謬の本質は記述と記述でないものを同一視することにあると考えていたが、その場合の「記述でないもの」とは、ヘアーにとっては具体的には指令 (prescription) あった。

新しい自然主義 [編集]
近年のメタ倫理学においてはコーネル実在論や還元主義といった自然主義の立場が復興している。これらの立場は「善い」と自然的性質が定義によって同一になるのではなく、形而上学的に同一である(水とH2Oが同一であるというのと同じ意味で同一である)と考える。つまり、彼らは確かにムーアのいう自然主義的誤謬は誤謬であると認めつつ、自然主義者は必ずしもそうした過ちを犯す必要はない、と考えるわけである。


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ムーアの自然主義的誤謬批判
ムーアが糾弾した「自然主義的誤謬」とは、事実から価値を導く誤謬ではない。事実から価値を導くことができないならば、あらゆる価値判断は不可能になるが、それはムーアが意図したことではない。

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英米系倫理学に対する従来の常識は、以下のようなものだ。

論理実証主義的な意味の検証理論は価値述語に真偽の基準を否定し、日常言語学派も規範倫理学を断念し、価値語の<意味=使用>の記述に甘んじるメタ倫理学を提唱した。メタ倫理学は道徳心理学や道徳社会学などの実証科学とは一線を画すけれども、事実と価値を峻別する価値中立的・実証主義的な道徳言語学であることには変わりがない。

こういう常識からすれば、メタ倫理学の開祖たるG.E.ムーアは当然規範倫理学を放棄する端緒を作ったはずだが、その結果はともかくとしても、彼の『倫理学原理』の意図はむしろ逆に規範倫理学の基礎付けにあった ムーア自身は meta-ethics なる語を使っていない。岩崎武雄氏によれば[岩崎武雄: 現代英米哲学入門,280頁]、 W.K.Frankena の発案のようである。そのフランケナもまた、倫理的タームの意味をメタ倫理学的に分析する目的は規範倫理学の justification であると位置付けている [Frankena: Ethics, Chapter 6.p.95; Albert: Ethik und Meta-Ethik: SS.173-175] 。ただしアルバートはメタ倫理学の根本動機は規範倫理学に対する中立性のテーゼであると考えている。 彼自身「私は“学問として現れうるであろう全ての将来の倫理学へのプロレゴーメナ”を書こうとした」[Moore: Principia Ethica, p.Ⅸ] と序文で明記している。 倫理学においては他のあらゆる哲学の部門と同じく、その歴史の中にはふんだんに見出される異論や見解の相違は、大抵非常に単純な原因に因るように思われる。その原因とは即ち、答えたいと望む問いがまさにどんな問いであるかをまず知ることをしないで、問いというものに答えようと試みることである。 [Moore: Principia Ethica, p.Ⅶ] ムーアによると「何がよいのか? 」という問いで使用されている「よい」という概念には、「目的として善い」と「手段として良い」の二つの異なった意味があって、両者を区別することがまずもって重要である。しばしば(典型的にはカントにおいては)倫理学の本来の問いは「何をすべきか?」であると考えられているが、するべき行為とは目的として善いものを結果として産出する行為であるから、この問いは、さらに基礎的な問いを前提する以上、最も基礎的な問いとは言えない。道徳的行為は「結果を度外視して」なさねばならないとも考えられようが、このような《目的として善い行為》は、《目的として善いもの》という類の一種と考えておく。 かくして倫理学における基礎的な問いは「何が目的として善いのか?」であることになるが、「善いもの the good thing」は複合観念であり、「善い good」という単純観念の理解を前提にしている。それゆえ倫理学における最も基礎的な問いは「“善い”とは何か?」「“善い”はいかに定義されるか?」である。この問いが「十分に理解されず、その正しい答えが明瞭に認識されないかぎり、倫理学の残りの部分[メタ倫理学ではない規範倫理学]は、体系的知識という観点からは無用も同然である」[Moore: Principia Ethica, p.5] 。 “良識”ある読者なら、このようなムーアの論理的分析は馬鹿げていると思うかもしれない。現に例えばウィトゲンシュタインは次のように言っている。 私が常にムーアと議論したことは、日常言語の命題で我々が意味することは、論理的分析を待って初めて明らかになりうるものなのか、という問題である。ムーアはそう考えがちであった。そうすると人々は、“今日は昨日より天気がよい”という時、自分が何を意味しているか、知らないのだろうか。我々はその場合、まず論理的分析を待たねばならないのか。何とひどい考えだ! [Wittgenstein: Tagebucher, 1930.12.28] だが“今日は昨日より天気がよい”の“よい”は“快晴”を意味しているかもしれないし、日照り続きに農場での農民間の会話におけるように、“雨が降りそうだ”を意味しているかもしれない。コミュニケーションにおいて「よい」でもって何が考えられているかは決して自明ではない。したがって改めて「善い」の定義をする必要性が生じてくるのである。 ところが「善いとは何か」に対するムーアの解答は、以下のような一見「極めて失望させるもの」であった。 もし“善いとは何か”と問われるならば、私の答えは“善いとは善いである”であって、それで終わりである。またもしも“善いはいかに定義されるべきか”と問われるならば、私の答えは、“それは定義されえない”であって、私がそれについて言わなければならないことはそれが全てである。 [Moore: Principia Ethica, p.6] ではなぜ「善い」は定義できないのだろうか。「善い」が定義できないならば、彼が目指す「体系的学問(science)としての倫理学」[ibid] など不可能なはずである。ムーアは「善い」を定義することは自然主義的誤謬であるというが、なぜ・いかなる点でそれは《誤謬》であるのか。 これに対する 彼の説明は必ずしも明解ではなく、複数の解釈が可能である。そこで以下それらを類型化しつつ順次検討してみよう。まず、 1.「善い」は「善い」であって、他とは意味が異なり、この異なるものを混同することが自然主義的誤謬である という「定義」を「他の言葉で置換しうる」の意に採った解釈が考えられる。ムーアはあたかもこの解釈を仄めかすかの如く『倫理学原理』の冒頭に「全てはそれがあるところのものであって、それ以外のものではない」というバトラーの標語を掲げている。 しかしこの解釈によると、「善い」が例えば「快い」で定義できないのは「善い」が「快い」と違う言葉だからである、ということになろうが、「この意味で“善い”が定義できないというわけではない」[Moore: Principia Ethica, p.8] 。事実ムーアは、「善い」が「内在的価値」「存在すべき」と同じ意味であると言って、前者を後者によって“定義”しているのである [Moore: Principia Ethica, p.7] 。 ムーアによると、定義には A.私が「馬」と言う時、それは「馬属の有蹄四足獣」を意味するものとする、というような恣意的な(規約主義的な?)言語的定義、 B.人々が「馬」と言う時、それは「馬属の有蹄四足獣」を意味している、というような本来の(クワイン的な?)言語的定義、つまり経験社会学的・辞 書的定義、以上のような言語的定義とは別に、 C.「馬」とは四足・頭・心臓・肝臓 等々 が一定の関係で並んでいるものであるというように複合 物を部分に分解して、その配列を記述する(ラッセル流の?)実在的定義 があるが、彼が問題にしているのはCの意味での定義なのである。 だから、 2.自然主義的誤謬とは「善い」は単純で分析不可能であり、これを複合物として定義しようとすることである と解釈される [Ewing: Ethics,p.79] 。 “善い”は、単純で部分を持たないがゆえに定義ができない。 [Moore: Principia Ethica, p.9] ちょうど“黄色い”が単純観念であるように“善い”は単純観念である。つまりちょうど諸君が、それをあらかじめ知らない人[例えば色盲者]に黄色が何であるかをいかなる方法によっても説明することができないように、諸君は善いが何であるかを説明することはできないのである。 [Moore: Principia Ethica, p.7] ところがムーアが挙げている自然主義的誤謬の例には、「善い」を「欲せんと欲すること that which wedesire to desire」のような複合物で定義している場合のみならず、「善い」を「快い」のような単純概念で定義している場合もある [Moore: Principia Ethica, §.13] 。それゆえ少なくとも自然主義的誤謬の説明としては、この解釈は成り立たない。ムーア自身『倫理学原理』第二版序言の草稿(1920-1年頃・未完)の中で、「善い」が分析不可能であるから定義できないという議論が誤っていたことを認めている [Lewy: G.E.Moore on the Naturalistic Fallacy] 。 むしろ重要なのは「善い」が「独特の対象 a unique object」[Moore: Principia Ethica, p.16] であり、複合的か単純であるかを問わず、「善い」とは違った種類の観念と同一視されてはならない、ということであろう。ムーアが「善いについての命題は全て総合的であって、決して分析的ではない」[Moore: Principia Ethica, p.7] と言うのはこの意味においてである。本来総合判断である、つまり主語と述語が異質である「xは善い」が「善いとはxであり、かつその時のみである」という分析判断に転化されるとき、自然主義的誤謬が犯される。 そこで問題は、「善い」がいかなる点で「独特」で、他の観念とは「違った種類」であるのか、ということになるのだが、ここでまず思い付きそうなのは、 3.「善い」は非自然的属性であって、自然的属性によっては定義されえず、自然的属性によってこれを定義することが自然主義的誤謬である という解釈である [Broad: Certain Features in Moores Ethical Doctrines,p.57-67] 。このように定義すれば、確かになぜ「善い」を定義する誤謬が“自然主義的”誤謬であるかのかが明確に成る。「もし[快いなどと]同じ意味で、自然的対象ではない“善い”を、およそ何らかの自然的対象と混乱するならば、それを自然主義的誤謬と呼ぶ理由がある」[Moore: Principia Ethica, p.13] 。 ところが他方ムーアは、「善い」を「完全性」「永遠性」 「超感性的」などの非自然的属性と同一視する形而上学的倫理学 をも “自然主義的”誤謬を犯したとして、自然主義的倫理学の時と全 く同じ論証形式で論駁している。それゆえ「自然主義的誤謬」は必ずしも適切な名称とは言えないのだが、「我々がその誤謬に出合った時それを認識するならば、それをどう呼ぶかはどうでもよい問題なのである」[Moore: Principia Ethica, p.14] 。いずれにせよ「善い」の特異性はその非自然的性格にあるのではない。 そこで次に、 4.「善い」は倫理的属性であって非倫理的属性によっては定義されえず、これを定義することが自然主義的誤謬である という解釈が考えられる [Frankena: The Naturalistic Fallacy, p.56] 。このように解釈すれば、なぜ「善い」が「正しい」や「望ましい desirable」などで定義されうるが、「快い」や「欲求されている desired」では定義できないかが明確と成るが、同時にこの二分法はヒューム以来の《Is》と《Ought》、つまり理性と道徳感情の区別を彷彿させる 周知の《ヒュームの法則》をヒューム自身が本当に主張していた かどうかは疑問である。彼は「[is から ought への変化は]極めて重要である。というのもこの“べし”ないし“べきでない”はある新しい関係または断定を表現しているので、それを注視し、説明し、同時に、この新しい関係がどのようにして全く異なったものから導出されうるのかという極めて不可解に思われることに理由が与えられることが必要だからである」と言っており、《is》から《ought》を導出することができないとは明言していない [Hume: A Treatise of Human Nature,p.469] 。 実際ムーアが「“実在はこのような性格である”と主張する何らかの命題から、“これはそれ自身において善い”と主張する何らかの命題を我々が推論できる、または確証することができると考えることは、自然主義的誤謬を犯すことである」[Moore: Principia Ethica, p.114] と言う時、あたかも自然主義的誤謬とは事実から価値を導出することであるかのようだが、蓋しこれが最も一般に流布している解釈なのである 日本のものでは[岩崎武雄、現代英米の倫理学,62頁]などがそうである。 アルバートは、自然主義的誤謬推論を I.道徳的命題の記述的誤解(Sollen の Sein への還元) II.記述命題から規範命題を導出する誤謬推理(Sein の Sollen への還元) という相互に正当化し合う二つの謬見を合わせたものとして説明している [Albert: Ethik und Meta-Ethik, SS.482f.] 。自然主義的誤謬推論: 大前提進化は善い小前提自然淘汰は進化である結 論ゆえに自然淘汰は善いにおいて、事実判断(小前提)から価値判断(結論)が導出できるかどうかは、結局大前提判断が妥当か、つまり事実を表す主語に価値の述語を付けられるかどうかに係っている。ムーアが問題とする自然主義的誤謬とは、総合判断である倫理的判断が分析判断化されることであるが、その分析判断には次の二つが考えられる。 A.「事実=事実」:この場合「進化は善い」は「進化は進化である」と同じ意味になる。つまりは“進化⇔善い”という定義がなされているのだが、この「善い」にはなんら“指令的意味”がない。これが自然主義的誤謬だというのが、ヘアーの「自然主義的(記述主義的)誤謬」の解釈である。 B.「価値=価値」:この分析判断化の場合、「進化は善い」の主語「進化」(あるいはより適切には「進歩」)の中にあらかじめ価値が潜んでいて、この判断はそれをただ取り出しただけになる。この命題を主張している人には「進化」のもたらす悪しき側面を反証例として提示しても「それは進化ではない、退化だ」と答えるので無駄である。 実証主義者は「事実から価値は出て来ない」と言い張り、解釈学者(と仮にこう名付けておくが)はこれに対して「裸の事実などありえない。事実は常に価値と共にあるのだから、価値判断は可能である」と応酬する。実証主義者曰く「事実は事実だ!」-解釈学者、答えて曰く「価値は価値だ!」- 規範倫理を目指す者はこの不毛な対立地平を克服しなければならない。 非倫理的な命題と倫理的な命題を混同して、後者を前者に、あるいは前者を後者に還元するという誤謬は言語的誤謬であっても、倫理的誤謬ではない。ムーアの関心はたんにメタ倫理学にあったのではなく、規範倫理を基礎付けるかぎりでのメタ倫理学にあったことを想起しなければならない。 例えば、自然淘汰により生物は進化して来たという事実命題から、ゆえに弱肉強食の生存競争はあるべきだという規範命題を導出するソーシャル・ダーウィニズムを我々が批判するとき、果たして我々は当為が存在に還元されていること、結論における「べし」が“情動的意味”を欠いていることを批判しているのだろうか。断じて否。情動的意味が欠けているなら、むしろ誰もソーシャル・ ダーウィニズムを批判しないぐらいである。 我々が批判するのは、推論内容が誤っているから、即ち自然淘汰が常に善いとはかぎらないからである。逆に云えば「善くない(もちろんなぜ善くないかが争点と成るのだが)自然淘汰」という“反証例”(例えば植民地での圧政、弱者の大量殺戮 等々)を提示しないかぎり、そしてなぜそれが悪いかを正当化しないかぎり、我々はソーシャル・ダーウィニズムを批判できないのである。 このことを倫理学以外の例で見てみよう。「白鳥は白い」という命題は、もし白鳥が白さそのものであるならば、それは「白鳥であるとき、かつそのときのみ白い」という同語反復になる。あるいはそこまで言わなくても、「白鳥」が“swan”ではなくて“white bird”であるならば、当の命題は分析的に真となる。そしてこのような誤謬がおかされると、「白鳥が白色か否か」という動物学的探求が無意味になる。 しかしここで注意しなければならないのは、「白鳥」と「白色」が異質であり、前者から後者が分析的に導出されないからといって「白鳥は白い」という判断が直ちに不可能になるのではなくて、むしろ「白鳥が白色か否か」という動物学的探求を有意味にするということである。「白鳥は白い」という総合判断を論駁するためには、白色でない白鳥(例えばオーストリアに棲息するクロハクチョウ)を反証例として提示しなければならない。より高度な自然科学の命題ではさらに反証例の解釈が問題となるであろうが、それは倫理学でも事情は同じである。 以上から明らかなように、事実と価値は存在性格が異なることは、両者を主語と述語として結合した判断が偽であるための必要条件であっても十分条件ではなく、したがって倫理学が有意味であるための不可欠条件なのである。倫理学は、事実から価値を正しく導くことができるかもしれないのであって、ムーアはそれが《直覚》によって(積極的にではなくあくまでも消極的にではあるが)できると考えていた。 こで結局4の解釈は、 5.自然主義的誤謬とは、「善いもの」という複合観念における単純観念「善い」以外の非倫理的属性Pを「善い」と混同して同一視し、 Pが唯一の善であると考えてしまう誤謬である という解釈 [Moore: Principia Ethica, p.10] に移行する。すなわち、自然主義的誤謬が犯される時、Pが極めて頻繁に「善い」と同時に生起するとき、Pと「善い」との間に結合が生じ、Pが「善い」の代わりに用いられるようになる。 この虚偽を暴露するためには、Pであっても善くはない反証例を挙げればよい。例えば「自然は善い」という自然主義的倫理学の命題においては、自然という善いものが持つ「正常な」という属性と「善い」という属性との間に結合が生じて、しばしば「正常な」⇒「善い」の結合は、「正常な」⇔「善い」にまで進展する。しかし後者はもちろん、前者も成り立たないことは、¬「正常な」∧「善い」(例えば、ソクラテスやシェークスピアなどの“異常な”天才)を反証例として提示することによって暴露される [Moore: Principia Ethica, §.27] 。 形而上学的倫理学を批判するときも形式は同じである。例えば「最高善は永遠の実在である」と言う時、「超感性的」と「善い」が混同されている。「超感性的」という点では「悪のイデア」も考えられるはずであり、これが反証例となるのだが、この種のイデアの存在を認めようとしなかったプラトンは、広い意味での「自然主義的」誤謬を犯していたわけである。 ここでムーアが批判していることはPを唯一の善と見做すことであって、Pがある一つの善いものであると判断することまでが誤謬であるとは言っていないことに注意しなければならない。定義できないのは「善い」であって「善いもの」は《定義》できるのである。 もし私が“善い”だけでなく“善いもの”までが定義できないと考えているならば、私は倫理学の本を書かなかっただろう。というのも私の主たる目的は、善いものの定義を発見することを助けることなのだから。いま私が善いを定義できないということを強調しているのは、そうした方が“善いもの”の定義を求めるときに誤る危険が少なくなるであろうと考えるからに他ならない。 [Moore: Principia Ethica, p.8f] ムーアは、この「善いもの」の定義は《直覚》に拠るしかないと考えて、直覚主義的倫理学を打ち立てようとする。このムーアの議論は意外である。というのも、彼の自然主義的誤謬批判は、自然主義のみならず直覚主義をも批判するだけの潜在能力を持っているからである。つまり (∃x)(PX∧¬GX) 「善くないPが存在する」 という反証例は、 (∀x)(PX ⇔ GX)「Pのみが善い」 という自然主義者の分析的命題のみならず、 (∀x)(PX ⇒ GX)「Pはすべて善い」 という直覚主義者の総合的命題をも否定するからである。反証例があるにもかかわらず、そのような P∧¬Gは“真の”Pではないとうそぶきつつ、「Pが唯一の善なり」と主張することが自然主義的誤謬であるとするならば、「Pはいつでもどこでも誰にとっても善きものなり」と主張する誤りは直覚主義的誤謬とでも名付けられよう。 一般に(∃X)(PX∧¬GX)⇔ ¬(∀X)(PX⇒GX)である。この式を私の方法で説明する方法で証明しよう。 (1) (∃X)(PX∧¬GX)より、 PX(1-GX)≠0 ∴ PX≠0∧GX≠1 (2) ¬(∀X)(PX⇒GX)より、 (1-PX+PX×GX)≠1 PX(GX-1)≠0 ∴ PX≠0∧GX≠1 ムーアはその実体主義的絶対主義的発想のゆえにこの誤謬を犯した。だが我々は、彼の批判の射程を拡大することによって、当の彼の規範倫理学をも破-壊することができると考える。しかしムーア批判を云々する前に、彼の《目的として善いもの》即ち「内在的価値 intrinsic value」についての議論を一瞥しておく必要がある。 我々は「実体主義」と「偶有主義(?)」の対立地平に対して「関係主義」の立場を、「絶対主義」と「相対主義」の対立地平に対して「相関主義」の立場を採る。ムーアはラッセルと共に、ブラッドリーを始めとする当時のイギリスのヘーゲリアンに対抗して new realism の旗手となっていた哲学者で、ラッセルと同様その哲学は(そして当然その倫理学も)素朴実在論的原子論的性格が強い。 ムーアは、一方で内在的価値は直覚によってしか知りえないという無媒介性のテーゼを掲げながらも、他方ではその内容確定に際しては彼なりに方法を工夫していた。「絶対的孤立の方法 method of absolute solution」[Moore: Principia Ethica, p.188] がそれである。「[何が内在的価値を持つかという]この問いに関して正しい解決に到達するためには、何が絶対的孤立においてそれ自身で存在していても、我々がその存在を善いと判断するであろうようなものであるかを考察する必要がある」[Moore: Principia Ethica, p.187] 。 この方法は快楽主義批判に際して駆使されるのだが、実は以前の直覚主義的誤謬批判の時と同様に、 ¬(∀x)(PX ⇒ GX) と論理的に等値な (∃x)(PX∧¬GX) が示されるだけなのである。ムーアは『ピレボス』(21A)を引用しつつ次のように主張する。もしも快が唯一の 善であるならば、快以外の何物も、例えば記憶も意識も知性もなくても善いはずなのだが、そうだとするならば、自分がかつて快を感じていたことも、今快を感じていることも・将来快を感じるであろうこともわか らなくなり、かくして牡蠣のごとき生活を送らなければならないだろうというわけである [Moore: Principia Ethica, p.88f] 。 快と快の意識が同じではないことは確かだとしても、色の無い青色がないように、意識の無い快はありえないのではないのかとムーアの読者は反論したくなるであろう [Duncan-Jones: Intrinsic Value: Some Comments on the work of G.E.Moore: p.315-8] 。しかし一歩譲って、快楽主義者が唯一の善と見做すものが快の意識であると認めたとしても、具体的意識内容を欠いた抽象的な快の意識を絶対的に孤立化した場合、それが唯一善いものであるかどうかは極めて疑わしい [Moore: Principia Ethica, p.91] 。我々が「善い」と判断するとき、そこに常に快の意識が随伴しているからといって、快の意識が「善いもの」であるとか、況んや「善い」そのものであるなどとは言えないのである。 全ての事象を意識作用に還元する認識論的主観主義は、新実在論者ムーアが常に否定する立場であった。対象と作用の区別は『観念論論駁』に詳しい。ムーアによると、あらゆる観念論の根底には 「実在するとは知覚されることである」 (∀x)(EsseX⇒PercipiX) というバークリー以来の命題が横たわっているが、これを否定するのに 「知覚されていない実在物」 ¬(∃x)(EsseX∧¬PercipiX) という反証例を“考える”ことはできない。なぜなら「考える」ことも広義の「知覚する percipere」こと(つまり認識作用)である以上、その実在物は依然として percipi であるからである。しかし両者は実在的に区別されえないにしても概念的には区別されうる。 例えば「青の知覚」は「青に対する知覚」であって、知覚自体は青くない。たとえ「青の知覚」と「青い知覚」が同じであっても、我々はなお「認識の対象」と「対象の認識」を区別することができるのである [Moore: The Refutation of Idealism, 26] 。同様に青色が好きな人の場合であるが、「青の快」は「青に対する快」であって、快自体は青くない。たとえ「青の快」と「青い快」が同じであっても、我々はなお「快の対象」と「対象の快」を区別することができるのである。快楽主義者は快の対象から快の意識を孤立化させることができなかったので、「善い」と「快の意識」を同一視したのである。 ムーアはこの経験的意識に当てはまることを超越論的意識についてまで当てはめようとする。ムーアによると、カントの理論哲学においては「正しい」を「一定の方法で認識されている」と同一視し、実践哲学においては「善い」を「一定の方法で意志されている」と同一視したが、この《コペルニクス的転回》も対象と作用の(ノエマとノエシスの)混同なのである。「Ich denke は、全ての私の表象に伴いえなければならない」をもじって言えば、「Ich will は、全ての私の格率に伴いえな ければならない」という前提に立って、カントはあの形式的倫理学を打ち立てたのである。かくしてカントは、「善い」を「善き意志」=「定言命法」、すなわち「ある実在的で超感性的な権威によって命令されている」で定義する自然主義的誤謬う犯したというわけである



このムーアのカント批判が不当であることについては、[Paton: The Categorical Imperative,p.43] を参照せよ。

以上から明らかなように、「絶対的孤立の方法」は以前の反証例提示の方法と目的と形式は同じである。但し、反証例提示の方法では、混同されている非倫理的属性Pが特定の対象であったので、反証例を一つ提示すればそれで足りたのだが、全ての善の判断に随伴する作用がPである場合は、概念上これを孤立化させて、その内在的価値を吟味する次善の方法が採られたわけである。この絶対的孤立の方法は、反証例提示の方法とは異なって、全ての自然主義的/直覚主義的誤謬を暴露する包括的な方法なので、内在的価値をこの方法によって検証された価値として定義することができる。

ではいかなる内在的価値が絶対的孤立においてもなお多くの価値を保持しうるのだろうか? ムーアは明言していないがおそらく皆無であろう。彼自身は「人間間の交際の楽しみ」と「美的対象の享受」を内在的善と考えている [Moore: Principia Ethica, p.188] が、例えば後者などもそれを (1)対象に備わる美的性質 (2)これに感動しうる情緒性(3)対象が実在することの正しい信念という各構成要素に分解し、それらを単独で考察した場合、ほとんど価値がないことになってしまう [Moore: Principia Ethica, p.199] 。最も価値がありそうな(1)の美的対象、例えば美しい絵画も、額・縁・画布・絵の具・油等々の部分に分解すれば、どれも価値がないことが判明する。(2)や(3)に至っては、もしその対象が醜いものならば、積極的に悪くさえある。

この事態に気が付いたムーアは、自分の立場を守るべく「有機的統一体の原理 principle of organic unities」なるものを提唱する。すなわち「全体の内在的価値は、その部分の価値の総計と同じでもなければ比例もしない」[Moore: Principia Ethica, p.184] 。論敵の快楽主義を攻撃するときには全体を部分へと分解してその価値を貶めておきながら、自分の立場を説明する段階になると、部分には還元されえない全体の価値を云々する彼のやり方は一見いかにも卑怯に見える。しかしここで彼が否定しているのは自然主義的誤謬であって直覚主義的誤謬ではないということを想起しなければならない。彼は、快が内在的価値の一構成要素であることを認めるに吝かではないのであって、ただそれが唯一の内在的価値を僭称することを批判しているだけなのである。

この[有機的統一体の原理を無視するという]誤謬は、もし全体の一部分が内在的価値を持たないならば、全体の価値は全て他の部分に存しなければならないと考えられるとき犯される。かくして、もし全ての価値ある全体が、たった一つの共通属性しか持っていないと見做されうるならば、この属性を所有しているからというだけで全体は価値があるに違いないと通常考えられてきた。そして当の共通属性は、それだけで考えられると、それだけで考えられたそのような全体の他の諸部分より大きい価値を持っていると思われるなら、その幻想は大いに強められる。しかし、我々が当の属性を孤立して考察して、その属性をそれを部分とする全体と比較すれば、当の属性が持っている価値は、それだけで存在しているときそれの属する全体が持っている価値には遠く及ばないということがたやすく明らかになるだろう。

[Moore: Principia Ethica, p.187f]
因みに、英語の“good”は、語源的には「結合する・統一する」を意味する“ghedh”に由来する。

ここから以前の自然主義的誤謬の5の解釈を、

6.自然主義的誤謬とは、有機的全体としての内在的価値を、全体を構成する特定の非倫理的な部分の価値に還元する誤謬である

と表現することができる。

当初、事実/価値という実証主義的なコード によって提起されていた問題が、いまや、部分/全体というホーリステ ィックなコードのもとで考え直される。ここにカントからヘーゲルへという思想的転回を見ることができる。ムーアとヘーゲルは何の関係もないと読者は思うかもしれないが、ムーアが若かりし頃のイギリスの哲学界では、ブラッドリーなどを筆頭とするヘーゲル主義が主流となっていて、『倫理学原理』を書いていた時のムーアも、それなりにヘーゲルの影響を受けていたのである。ムーアの自然主義的誤謬批判は、後世には倫理学に対する実証主義的批判のように誤解されたが、じつは実証主義的倫理学に対するヘーゲル的批判であったわけである。

だがムーアは、全体と部分の関係をはっきりと捉えなかったために、実証主義者を満足させるような価値理論を作り得なかった。ムーアによれば、内在的価値の全体を構成する部分は、それ自体無価値であるどころか積極的に悪くさえあることもある [Moore: Principia Ethica, §§.129-133] 。部分の価値の合計が全体の価値ではないし、全体としての価値の根拠をどの部分にも求めることはできない。

だがこのように価値を全体が持つ創発的特性(emergent property)として特徴付けることによって、彼は不可知論に陥ってしまったのではないか。部分を事実、全体を価値に置き替えたとき、部分に対する全体の独立性のテーゼは、実は事実から価値が導けないことの婉曲な表現であることがわかるであろう。ムーアの規範倫理学が不可知論に終わった原因は、しばしばそう考えられているように、彼のメタ倫理学的な問題設定にあるのではなくて(この反省的=超越論的問題設定自体は我々も積極的に受け継がなければならないであろう)、彼の価値概念の実体主義的・絶対主義的性格にあるのではないのか。

ムーアによると「ある種の価値が“内在的”であるということは、あるものがそれを所有するかどうか、そしてどの程度それがそれを所有するかという問いが、当のものの内在的本性にのみ依存するということを意味することに他ならない」[Moore: The Conception of Intrinsic Value,p.260] 。内在的価値は、超時間空間的不変性と超個体的普遍性を持って内在的本性に依存する。この内在的価値の概念規定から、彼が実体的な内在的価値の絶対的妥当性を信じていたと考えることができるであろう。ムーアによれば、関係概念としての価値は“外在的”な手段としての価値に過ぎない。すなわち、内在的価値とは「性質(character)であって、関係的属性(relational property)ではない」[Moore: Is Goodness a Quality?,p.97] 。

しかしその反面ムーアは「善い」「美しい」などの述語が第一性質ではないことはもちろん「黄色い」のような第二性質とも存在性格を異にした述語であることをも了解していた。「黄色さと美しさは、両方ともそれを所有しているものの内在的本性にのみ依存する述語であるが、黄色さがそれ自身内在的述語であるのに対して、美しさの方はそうではない」[Moore: The Conception of Intrinsic Value,p.272] 。では価値のこの特殊な存在性格とは何か。

ムーアによれば、価値とは部分に還元されない全体であった。この全体とは部分と部分の関係であると言えないか。次のように考えてみよう。

[テーゼ1]価値とは事象に独立自存する実体はなく、主体(但し経験的な主体)と客体との関係である。

この実体概念と関係概念の対比は、カッシーラーのそれである。価値とは、主体と客体を包括する欲求という(疑似)志向性における、心的契機と物的契機の関数値である。世界-内-存在する主体が客体に対して関係を持つ(sich verhalten)ということは、主体が客体に対して態度を採る(sich verhalten)ということである。主体との関係を絶たれた《絶-対 ab-solute》的孤立における客体は、理論的客観的に観察される「対-象 Gegen-stand=主体に対して立つもの」として価値を失う。もちろんここで言っている《関係》は、レアールな《人と物との関係》であって、イデアールな《人と人との関係》ではない。経験的な主体と客体との関係は、超越論的反省において概念的に述定されなければならない。

そこで次に「よい(善い+良い)」の意味(基準ではない!)を次のように定義しよう。

[テーゼ2]「よい」とは、我々実践主体が持つ目的に対する手段/形態の有用性である。

我々は、ムーアの「目的として内在的に善い」と「手段として外在的に良い」の区別を撤廃し、「¬にとって/としてよい」で統一することができる。我々は以前、(1)「~にとってよい」と (2)「~としてよい」を区別したが、両者は(1)目標的目的-実現手段、(2)理念的目的-実現形態の関係を表す概念であって、ムーアの区別とは異なる。このテーゼ2から、直覚主義的誤謬を、ある価値が目的との関係を離れて無制約的に妥当すると考えられた時に犯される誤謬と定義することができる。この誤謬が犯されたとき、PがGと結合して、あたかもGはPという「内在的本性にのみ依存する」かの如く思念されてしまうのである。

この我々の目的論のテーゼに対して、はたして目的は手段を正当化しうるのかと疑問を持つ向きもあろう。しかしそれは、目的の概念を狭く採ることによって生じる。例えばある革命家が、革命の目的のためには手段を選ばないと豪語したとする。ところが彼は、革命の目的は人民の福祉であり、これを犠牲にしてまでも革命を起こすことは目的と手段の転倒であることに気が付いて、もっと穏健な手段を選ぼうとするようになるかもしれない。その場合確かに革命という目的が全ての手段を正当化するわけではないが、正当化しないことを正当化しているのはより高次の目的であることに注意しなければならない。

ムーア自身 「“正しい”[手段として良い]は“善い結果の原因”以外の何物をも意味しないし、意味しえず、したがって“有用な”と 同一である」[Moore: Principia Ethica, p.147] と言って、「目的は決して手段を正当化しないものだ the end will never justify the means」という常識を否定している。

要するに《悪しき目的》の反価値性は、それを手段/形態とするより高次の目的に対する不適合性なのである。目的ー手段/形態の系列を上昇して行けば、究極目的に到達するであろうが、この究極目的(最高諸目的の体系的実現の形式=超越論的主観性)自体は善でも悪でもない。ちょうど物体の総体に重さがないように価値の総体には価値がないのである。

もう一度図24を見られたい。Gは空虚な統一性であって内容を持たない。内容を持った理念的目的のうちで<最も抽象的な=最高の>目的はFである。Fは究極目的Gの(1)一つの(2)実現形態である。(1)は自然主義的誤謬に陥らないための、(2)は直覚主義的誤謬に陥らないための要件である。すなわち究極目的の実現形態はF以外にも他にありうるし、他の諸目的との関係で、Fの実現に(per se にではないが per accidens に は)価値がない場合もありうるのである。

ではFの内容はどのようにして決めるのだろうか。この問いに対しては次のように答えたい。 

[テーゼ3]目的から手段/形態を選ぶ前に、手段/形態から目的の内容を確定しなければならない。

ムーアは具体的な手段/形態の価値を捨象して、いきなり「目的として善いもの」を捜そうとしたために直覚主義、ひいては不可知論に陥った [Kaulbach: Ethik und Metaethik,SS.79f/82f] 。我々はこれに対して現存する全ての価値を出発点にしつつ、その根拠を一なるものへと収斂させ、そこから現存の行為規範・制度を正当化/修正する。そしてそれが以前私が提唱した目的論的還元・構成・破壊であったわけである。

[投稿者:永井俊哉|公開日:2005年2月14日|コメント:0個]




倫理学はノイラートの船か?(その1-2) [宗教/哲学]

倫理学
りんりがく ethics

倫理学は倫理に関する学である(〈倫理〉〈倫理学〉の語義については〈道徳〉の項を参照されたい)。それは古代ギリシア以来歴史の古い学であり,最初の倫理学書といえるアリストテレスの《ニコマコス倫理学》と,近代におけるカントの倫理学とによって,ある意味では倫理学の大筋は尽くされているといえなくもないし,また倫理学の長い歴史を踏まえて,その主題とされている事柄,たとえば善,義務,徳などについて,一般に認められている考え方を述べることは可能である。だが他面,倫理学についてその学としての可能性を否認する立場もありうるし,そうでなくても,それぞれの倫理学者の立場によって,その倫理学の概念が異なっているのは,ある程度まで必然的なことである。
[倫理学の意義]  他の学,たとえば自然科学や数学の場合とは違って,たとえ倫理学について何も知らなくても,健全な常識さえあれば,倫理については基本的な理解をもちうるのであり,倫理学のなすところは,常識的理解に内含されている倫理の純粋な要素だけを取り出してくることに尽きる。しかし倫理については種々の呈見や邪説もありうるのだから,それらと正しい説とを見分けるに足る批判力を身に付けるという意味では,倫理学についての素養もある程度の有効性をもちうると,カントなどは考えている。さらに,これはアリストテレスなどがすでに明確にとっている立場なのであるが,倫理の問題となると,それについて知識を有することも重要ではあるが,結局はそれが実践として正しく現実化されることが肝要である。当の知識が単なる空理空論であって,実践的にはまったく無効であるとすれば,それは倫理的には無意義なことであり,むしろ逆に,倫理学などまったく知らなくても,当人が一個の信頼すべき人間として行動し生活できるというほうがよほど有意義であるという事情が,倫理の問題にはある。
 ところで他方,倫理学において,人間生活と倫理との関係はどうとらえられてきたかという点については,二つの対照的な立場が認められる。その一方の,現代における代表的なものとしては,倫理を人間存在の理法としてとらえ,倫理に人間生活の全面をおおうような意味を与える和嶋哲郎の倫理学の立場があり,他方たとえばマルクス主義の立場においては,倫理はもっぱらイデオロギー的な上部構造として,しかもその一部として把握される。倫理が人間生活の全面をおおう意味合いをもつとする包括的認識もたいせつではあるが,同時に,倫理は,芸術や美の問題,政治や法や経済の問題,科学や技術の問題,医療や宗教の問題,等々という人間生活の各領域に固有の諸問題とある意味では並列的な,その妥当領域が限局された問題でもある。したがってあまり倫理一辺倒の考え方に傾くことは,人間の心情や態度や生活が固陋(ころう)に陥り,創造性に欠ける結果になりがちであるという意味で,必ずしも妥当な行き方とはいえないであろう。
[倫理学史]  英語 ethical,ドイツ語 ethisch,フランス語 レthique などの言葉は,〈倫理学的〉という意味でもあれば,〈倫理的〉という意味でもある。この区別と類比的に倫理学史と倫理思想史とを区別することができる。倫理思想史とは,それぞれの時代や社会の倫理に関する――学とまではいかなくても――おのずからなる自覚や反省の結果生じてきた思想についての歴史的叙述であるが,ここでは西洋に特有の倫理学史についてのみ概説しておこう。
 総じて古代から中世にかけての倫理学説においては,ひとはいかにして幸福を達成しうるかという問題がその中心問題を成していた。当時は,すべての人間はその本性によって幸福という究極目的の達成に向かうように生まれながら定められていると考えられていた。人間がそういう究極目的を達成するための最も善い生き方,ないしは行為の仕方は何かというのが,中世までの倫理学の中心問題であった。他方,近代以降の倫理学説の中心問題は実践的判断の問題である。つまり,いかに行動すべきかと問われる場合,この〈べき〉,すなわち義務とは何か,それはいかにして説明され根拠づけられ正当化されるのか,という問題である。中世までの観点と近代以降の観点とにみられるこういう対照にもかかわらず,倫理学の意味が両者でまったく変わってしまったわけではなく,古代ギリシア以来倫理学はある不変の意味を保持している。すなわち,ひとがなんらかの個人的な責任を負うたぐいの行為において,何が善であるか,またその根拠と原理は何かという点についての反省的研究という意味である。
 そこで,総じて倫理学の第1の主題は,善とは何かという問題であり,そしてこの問題が,中世までの倫理学においては,ひとはいかにして幸福を達成しうるかという問題との関連において探究されたのである。幸福主義の倫理学は,その近代的様相においては,とりわけイギリスの社会的幸福主義ないしは功利主義の立場の倫理学として現れた。善悪の問題を純化していくと倫理的価値の問題になるが,現代の価値倫理学は倫理学の中心問題が価値,とりわけ倫理的価値の問題にあるとみるものであり,その代表者として特に M. シェーラーの名を挙げることができる。次いで倫理学の第2の主題は,近代以降に特に顕在化した義務の問題である。この問題を特に重視した人々の中で最も代表的なのは,人格主義の立場から定言命法の倫理学を樹立したカントである。最後に倫理学の第3の主題は徳の問題である。これは古代から近代にいたるまでの倫理学の長い歴史を通じてその一つの中心問題たるの地位を確保してきたが,現代のニヒリズム的状況の中では事情がかなり変わってきている。倫理学は慣習としてのエートスの意義の反省に始まり,徳としてのエートスの把握に終わるという理念的構造をもつが,現代においては徳としてのエートスを一義的に把握しがたいという事情があり,したがって現代倫理学は倫理学本来の理念的構造を完結させがたいというさだめを負うものなのである。
[倫理学の概念]  総じて学とは理論的かつ概念的な認識である。そして学の分類としては,最古のものでありながら現代にいたるまで一貫して有効性を保持してきたものに,いわゆる三分法がある。これは古アカデメイア学派のクセノクラテスに始まるといわれているが,それが明確に実現されたのはヘレニズム時代のストア学派においてのことである。そこでは学は自然学 ta physika,倫理学 ta ^thika,論理学 ta logika という三つに分類された。カントもこの分類の正しさを承認したうえで,自然学と倫理学との関係について,自然学は自然の必然的法則を取り扱うのに対して,倫理学は自由の法則(すなわち当為)を取り扱うというように両者を対照させている。この意味では倫理学は人間存在についてのある包括的・原理的な学である。だが自然と人間とは必ずしも相互排除的な概念とはかぎらない。自然の内なる人間,しかも人間本性というかたちで内に自然を蔵する人間,それが倫理学の対象である。この意味での人間は,外なる自然の側からいえば,自然の内面化においてあり,逆に内なる自然の側からいえば,自然の外面化においてある。そして,自然のそういう内面化と外面化は,実は一つの同じはたらき,すなわち人間の社会的・歴史的実践の両面にほかならない。エートスとは,人間のそういう社会的・歴史的な実践的存在性の最も基本的な形態にほかならず,そのかぎりで倫理学は基本的に〈エートスの学〉としての性格をもつのである。
 次に倫理学と論理学との関係についていえば,すぐれて近代的な論理学は,数学的自然科学の論理学,すなわち数学的自然科学の認識論的基礎づけというかたちで,カントによって一応成就された。それに対し,論理学を明確に精神的・社会的な諸科学の論理学というかたちで形成した最初の者は《論理学体系》における J. S. ミルである。だが,その種の観点をさらに徹底させて,論理学と倫理学との関連を確定し,倫理学を明確に精神科学の論理学として把握したのは H. コーエンである。彼の哲学体系において論理学(《純粋認識の論理学》)は数学的自然科学の論理学であり,倫理学(《純粋意志の倫理学》)は精神科学の論理学である。コーエンによれば,倫理学においても,それが学であるかぎり,論理学のカテゴリーが貫徹されるべきであるが,論理学と倫理学とではその思考の方向が異なる,すなわち,論理学においては自然という対象概念を構成することが問題であるのに対し,倫理学においては人倫的自己としての人間という概念を構成することが問題であるとされる。
[倫理学の根本理念]  自由と自己が倫理学の根本理念である。行為は人間の自己実現という意味を有するが,これは自然とのかかわり,他人とのかかわり,自己自身とのかかわりという,三つのかかわりのうちで行われる。そういうかかわりを可能にする根本条件が〈可能性としての自由〉であり,そしてこの意味での自由こそが真実の自己存在としての実存にほかならない。だが,その意味での自己とは何か。これがソクラテスを創始者とする倫理学の最も根源的な問いである。すなわち,〈汝自身を知れ〉という言葉は,一つの貞として,ソクラテス以来,それをめぐって倫理学的思索が展開されてきた最も重要な中核語である。全体としての存在の宿運と一体化した自己存在こそが創造の根源たりうるのであり,それでこそ真に創造的な自由の境地といえる。自己存在は結局一つの貞であり,無限に開かれている。それは限りなく尊いものであると同時に,恐るべき深淵でもある。自己存在をこういう一個の貞たらしめている存在の不思議さに対する謙虚な敬虔さを持することこそが肝要である。          吉沢 伝三郎

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義認
義認

ぎにん
justificatio

  

キリスト教神学で,人間を罪の状態から義の状態へ移行させる神の行為をいう。元来ギリシア語の dikaio (義たることを宣告する) という法廷用語から転用されたが,これがラテン語では justificare (義とする) と訳された。パウロによれば,人が神の前で義となるのはわざによるのでも,律法への従順によるのでもない。人間は神の前に義人として立つのではなく,神の恩恵に全面的に依存する罪人として立つ。神こそ罪ある人間を義なるものと呼ぶのである。人間の法廷では無罪のものだけが正しいとされるが,あらゆる人間が罪人であることを免れない神の審判の場では,義ならざる者が神の慈悲によって義者と宣告される。この宣告は恣意的なものではなく,「私たちの罪のために死に渡され,私たちが義と認められるために,よみがえられた」 (ローマ書4・25) イエス・キリストによるのである。こうして罪ある人間は,律法,罪,死から解放され,神と和解し,聖霊を通してキリストのうちに平安と生命をもつにいたる。罪ある人間は,こうして単に義と宣告されるだけでなく,真に義なる者となる。これにこたえて人間の側からは,神の慈悲の判決を受諾し,主なる神に全幅の信頼を寄せねばならない。すなわち,「愛によって働く信仰」 (ガラテア書5・6) をもたねばならない。以上の教説は,初期教会ではほとんど問題とならなかったが,わざによる自己聖化を唱えたペラギウス派との論争で,アウグスチヌスによって恩恵による義認が強調され,さらに中世後期のわざによる義認という表面的な考え方に戦いを挑んだ M.ルターによって一層徹底された。義認における神の行為の側面に重点をおいたルターは,その前提としての人間のわざを排し,「信仰のみ」 Sola fideの立場を取ったのに対して,義認の「結果」の側面に重点をおいたカトリック側は,トリエント公会議で,よきわざの必要をも強調してルター説を断罪した。しかし 20世紀の両陣営の多くの神学者は,両者の相違は概念理解の面だけで,信仰の本質においては根本的断絶はないとしている。以上の歴史的背景から,日本においては,プロテスタントが義認,宣義という訳語を好むのに対して,カトリックは成義,義化の訳語を採用し,罪の許しを意味する消極的成義と内的革新を意味する積極的成義を区別する。





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義認
I プロローグ

義認 ぎにん Justification キリスト教の重要な教義。罪によってゆがめられ、あるいは断絶した神と信仰者との関係をただすこと。英語のジャスティフィケーションの文字どおりの意味は「正しくすること、公正にすること」である。カトリック教会では「義化」という訳語をもちいる。

II 聖書の解釈

義認という概念のもとになったのは、ユダヤ教の契約である。古代イスラエルでは、他人との契約は当事者双方にとって必然的に義務をともなうものであり、義務に忠実である者は契約を維持し、「義」であるといわれた。神とイスラエルの民との契約の場合、神の義務とは民をまもり、擁護することと考えられており、神は救いという行為によって義をしめす(「詩編」98章2節、「イザヤ書」51章5節)。一方、イスラエルの民の義務はユダヤの律法(トーラー)にしめされるように、神の意志にしたがうことである。したがって、彼らの義務は、より一般的な意味での義(正義)をしめすこと、つまり道徳的な義務である。

新約聖書では、イスラエルの民がやぶった神との契約を、原始キリスト教社会がイエス・キリストを通じて回復したとみている。実際に「新しい契約(新約)」が成立したのである。とくにパウロは、キリストの死と復活の結果を義認という言葉で説明した。キリストを信じる者は神とのただしい関係に入ることになる。しかし、この新しい状況のもとでは、信者がなにかの行為をしたために義認されたのではない。新しい関係が確立したのは、神の力と慈悲があったからこそだというのである。したがって、信者のなすべきことはただ神を信じることだとされた(「ガラテヤの信徒への手紙」2章16節、「ローマの信徒への手紙」3章24節)。

III アウグスティヌス

4世紀の神学者アウグスティヌスは、イギリスの神学者ペラギウスとの論争で、義認についてのパウロの教えをひきあいにだした。しかし、アウグスティヌスは義認よりも恩寵を重視し、義認については「ただす」という意味のラテン語ジュスティフィカーレを字義どおりにうけとり、よりただしい人間になる過程、つまり事実上の「聖化」であると考えた。

IV 中世の神学

中世のスコラ学の神学者はアウグスティヌスの立場を支持して、神の恩寵の力を主張し、恩寵なしには神との新しい関係はありえないとした。しかし、義認にいたる前に、個人の行いが神の恩寵をうける前提となることをみとめた。さらに、恩寵は救いにつながるものではあるが、人間の意志との協働がなくては救済をもたらすことはできないと考えた。また、恩寵は悔悛(かいしゅん)によってほどこされるため、人間は最小限の悔い改めの行為をしてからでなければ恩寵をうけられないとした。

V 宗教改革

16世紀、ルターは義認についてのパウロの言葉にたちかえろうとした。彼の教えはプロテスタントによる宗教改革の大きな原動力になった。ルターは中世の考え方による悔悛では、罪の意識からのがれることができず、自分の意志ではそれを克服できないと考えた。思いなやんだすえ、聖書の「ローマの信徒への手紙」をよんだ彼は、「正しい者は信仰によって生きる」(1章17節)というパウロの言葉に感動し、神は神の慈悲を信じることだけをもとめているのだと解釈した。

中世の特異性と難解さはこうしてしりぞけられた。ルターによれば、人間は信仰によってのみ義とみとめられる。確かに、神の恩寵は作用するのだが、人間はそこではなにもなしえない、というのである。義認はキリスト教の信仰全体の中心となった。よい働きができる能力も、あるいは秘跡への参加さえ、すべてが義認から発した。このような見方はやがて、カトリック教会とプロテスタント(→ プロテスタンティズム)をわかつすべての問題を体現するものとみなされるようになった。

18~19世紀には、プロテスタントとカトリックのいずれにも、義認の解釈をめぐる大きな展開はなかった。リベラルなプロテスタンティズムはこの問題を無視するようになり、一方、カトリックの思想はスコラ学の立場をとりつづけた。

VI 20世紀以降

20世紀以降のプロテスタント神学者は、罪と恩寵についてのパウロの教義をもう一度復活させようとしている。義認の教義もこうした復活の一環として主張され、「新改革主義神学」とよばれている。

恩寵に関する現代の神学は、伝統的な考え方と重要な面でことなっている。中世および宗教改革時代の多くの神学者にとって、義認という言葉は、罪をおかした悔悛者がためされる法廷のようなものとしてとらえられていた。これに対して、聖書では契約という意味でとらえられており、神と人間との個人的な関係を意味していた。20世紀以降は、神学に対してより個人的かつ実生活にもとづく取り組みがなされるようになったことから、神学者はルターらの主張した個人的経験としての恩寵という考え方に共感する傾向にある。


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義認
ぎにん

キリスト教において,救いについて述べるときの重要な用語。パウロの《ローマ人への手紙》3~6章によれば,救いは神によって義と認められることに始まり,さらに聖(きよ)くされることへと導かれる。これを〈義認〉と〈聖化〉といい,ラテン語ではjustificatio と sanctificatio と呼ばれる。カトリックがこれを成義と成聖と訳しているのは,救いが形をとって実現することに重点をおいて考えているからである。その場合,人間の側での条件や段階を表すために功績や恩寵の種類をあげることになる。ルターはそうした考え方を排除して,救いの無条件性を強調し,キリストへの告白と悔改めによる義認や,〈義人にして同時に罪人〉ということを語った。もっともプロテスタントの中でも,義認よりも聖化に重点をおく考えもあり,カルビニズムの聖職者重視や,敬虔主義における回心と聖潔の強調の中にそれが見られる。       泉 治典

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ニコマコス倫理学
ニコマコス倫理学

ニコマコスりんりがく
Ethica Nikomachea

  

アリストテレスの実践学すなわち人間のなす事柄に関する哲学のうち,エートスを対象とした倫理学に属する著作の一つ。『大道徳学』や『エウデモス倫理学』に比べて最も完全な形で伝承された彼の主要著作 (全 10巻) 。彼は「人間にとっての善」「最高善」,最高善としての「幸福」とは何かを問い,結局「究極的な幸福」が観照的活動,哲学的生活にあることを明らかにした。さらに実践哲学の究極目的は最高善について知ることではなくて,最高善を目指す生活の実践にあること,しかもその実践が困難であるところから,ポリスの成員にふさわしい倫理的卓越性に対するよき習慣づけの重要性,法律に基づく国家的誘導,配慮の必要性が説かれている。





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アリストテレス
アリストテレス

アリストテレス
Aristotels

[生] 前384. スタゲイラ
[没] 前322. カルキス

  



ギリシアの哲学者。 17歳のときアテネに出てプラトンの門下生となった。一度マケドニアに帰り,アレクサンドロス大王を教育した。前 335年再びアテネに出てリュケイオンを開いた。政治,文学,倫理学,論理学,博物学,物理学などほとんどあらゆる学問領域を対象とし分類と総括を行なった。動物の分類,発生学的研究にすぐれたものがある。しかし物体の落下現象は物体の本来の位置に戻る性質によるとして重力を否認。地上の物質の構成は水,土,火,空気の4基本元素から成り,天体は第5の元素エーテルでできているとして,デモクリトスの原子説に反対するなど,物理的学説などについては実験を伴わなかった欠陥が現れている。





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実存主義
実存主義

じつぞんしゅぎ
Existentialism

  

世界における人間の実存 (現実存在) を説明しようとする哲学の一派。主として 20世紀に意識的な運動となって現れ,ハイデガー,ヤスパース,サルトル,マルセル,メルロー=ポンティらが実存主義哲学者とされるが,その特徴は 19世紀の思想家であるニーチェやキルケゴールにもすでに認められる。直接の先駆者であるキルケゴールは人間の自由選択の意義を強調し,未来の一部分はこの選択にかかっており,閉鎖的な合理的体系によって予知しうるものではないとし,このような人間存在を実存と呼んだ。他のものと代置しえないこの個別的実存のもつ哲学的重要性を強調する立場が広く実存主義と称される。
非合理主義者による伝統哲学への反抗とみられることもあるが,実存主義はおもにその内部で発展した理論であった。次の3つの理由から認識論を否定し,人間に関する知識を深めようとする立場である。第1に,人間は単に認識主体ではなく,心配し,望み,あやつり,そしてなかんずく選択し,行動する。ハイデガーは物体を認識のための「物」ではなく,使うための道具とみなす。メルロー=ポンティは生の経験はみずからの肉体の経験から始るとする。第2に,認識論の教義にときとして必要な自己 (自我) は,内省以前の経験の基本的特徴ではなく,他人の経験から生じる。認識主体たる自我は,外の物の存在を推論したり構成するというよりは,むしろ前提としている。第3に,人間は世界の独立した観察者ではなく,「世界のなか」に存在する。人間は木石のような存在とは違う特殊な意味で「存在」する。しかし,デカルトの見解に反して,人間は知識や知覚の介在なしに世界を受入れる。人間が外の物を推論したり,映したり,疑う独立した意識の領域は存在しない。実存主義者がデカルト主義者の二元論を拒絶する理由の一つは,認識より存在に関心があり,現象学は存在論でもあると考えるからである。
特殊な意味で人間が存在するということは,みずからの選択と行動で決めた未来が開かれていることを意味する。木石やトラなどの他の存在は,自分が何であり,何をなすかを決める本質ないし本能をもつ。反対に,人間は自分の行動を支配するような本質を,種としても個としてももたない。人間は,みずからの選択,生き方の選択 (キルケゴール) ,特殊な行動 (サルトル) によって,みずからが何たるかを決める。単に「与えられた」役割を演じたり,「与えられた」価値 (たとえば神や社会から与えられた) に従っているときでさえ,実際にはそうすることを選んでいるのである。なぜなら,合理的にせよ偶然にせよ,人間の選択を単独で決定する与えられた価値は存在しないからである。どんな選択でも可能というわけではない。人間の「存在が世界のなかにある」ということは,特殊な状況に「放擲」 (ハイデガー) されていることを意味する。自由に利用できると思えるものも,実際にそうとは限らない。それを前もって知ることもできない。人間の選択は,どのような形にせよ説明できるものではないと実存論者は主張して,科学的唯物論を否定する。未来の開放性,個人とそのおかれた状況の特異性は合理的哲学体系を寄せつけない,とも主張する。それが,彼らが「存在」にこだわるもう一つの理由である。存在は,認識と異なるだけでなく,個人的なものや特殊なものをきちんととらえられない抽象概念とも異なる。
実存主義者は人間の選択には合理的な理由はないとしているので,規則や価値観という意味での倫理を提唱しない。むしろ倫理を行動や選択を考える枠組みとみる。この枠組みは選択すべきものを示唆するのではなく,正しい選択と誤った選択があることを示す。人は信頼できるものにも信頼できないものにもなれる (ハイデガー) し,誠実にも不誠実にも行動できる (サルトル) 。不誠実な行動とは,多数派に盲目的に従ったり,既存の価値や制度を支持することなどをいう。特に,人間は死,苦悩,争い,罪などの「限界状況」 (ヤスパース) に直面すると,自分が行動すべき世界の究極的な不可解さとともに,みずからの行為者としての責任を認識するようになる。
実存主義は,心理学 (ヤスパース,ビンスワンガー,レーン ) やキリスト教 (キルケゴール,マルセル) だけでなく,無神論 (ハイデガー,サルトル) や神学 (バルト,ティリヒ,ブルトマン ) など,哲学以外の分野にも大きな影響を与えた。実存主義は特定の政治的信条を内包しないが,政治的直接行動主義につながる人間の自由をそこなうものや体制順応主義への反感と責任の強調 (サルトル) を伴う。キルケゴールが唯一すすめる「間接的伝達」は実存主義者の多くに無視されたが,特定の状況と自律的選択の重視は,哲学論文だけでなくドラマや小説によっても,実存的真理を伝えうることを意味する。実存主義への関心は数々の想像力にあふれた文学作品 (サルトル,カミュ,ボーボアール ) を生んだ。そのうえ,実存主義哲学はあらゆる時代の文学作品,たとえばソクラテス,シェークスピア,ドストエフスキー,フォークナーに共通する主題を表現したり解釈する手段をもたらした。





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実存主義
I プロローグ

実存主義 じつぞんしゅぎ Existentialism 個人の実存を強調する哲学的立場。19、20世紀の多くの著作家に影響をあたえた。

II おもなテーマ

実存主義にはさまざまな立場があるため、この用語を厳密に定義するのは不可能だが、いくつかの共通したテーマがある。

1 道徳的個人主義

プラトン以来たいていの哲学者は、最高の倫理的な善は万人に共通であると主張した。とすれば、道徳的完成に達した人間は、だれもみな似ていることになる。19世紀のデンマークの哲学者キルケゴールはこの伝統に反対し、個人にとっての最高の善は、かけがえのない自分だけの使命をみいだすことだと主張した。彼は、個人のかけがえのない存在をあらわすのに「実存」という言葉をもちいた最初の哲学者でもある。キルケゴールと同様、ほかの実存主義者たちも、道徳的選択は、善悪の客観的判断にたよることはできないとする。19世紀ドイツの哲学者ニーチェは、個人はどのような状況が道徳的状況とみなされるべきかを決断しなければならないとさえ主張する。

2 主観性

道徳と真理の問題を決定する際の個人の情熱的行為の重要性を強調する点では、実存主義者はすべてキルケゴールにしたがっている。彼らは、真理に到達するには、個人の経験と確信にもとづく行為が重要だと主張する。そのために、彼らは体系的推論に懐疑的である。キルケゴールも、ニーチェも、その他の実存主義者も、みずからの哲学を展開するしかたは故意に非体系的であり、アフォリズム、対話、比喩(ひゆ)その他の文学的形式によって表現することをこのむ。

反合理主義の立場をとるにもかかわらず、彼らは非合理主義者とはいえない。というのも、合理的思考のすべての妥当性を否定するわけではないからである。しかし彼らは、理性や科学は人生のもっとも重要な問題には近づきえないし、科学は一般にそう思われているほど合理的ではないと考える。たとえばニーチェは、規則的な宇宙という科学の想定は大部分有用な虚構にすぎないという。

3 選択と責任

実存主義のもっとも顕著なテーマは、おそらく選択という問題である。人間の第一の特徴は、選択の自由をもつことである。人間は、ほかの動物や植物のように、固定した本質をもつのではない。20世紀フランスの哲学者サルトルの表現をつかえば、「実存は本質に先だつ」のである。したがって、選択は人間の実存にとって中心的である。選択はさけられず、選択を拒否することもひとつの選択である。選択の自由は責任をともなう。個人は、自分がえらびとったことの責任をひきうけねばならない。

4 恐れと不安

キルケゴールによれば、人間は特殊な事物についての恐怖を経験するだけでなく、彼が恐れとよぶ漠然とした憂慮をも感じている。キルケゴールはこの恐れという感情を神の個人へのよびかけと解釈する。神はこれを通じて、個人がそれぞれ自分にふさわしい生活をするようによびかける。20世紀ドイツの哲学者ハイデッガーの著作においては、不安という言葉がこれと似た重要な役割をはたしている。不安は個人を無に直面させ、自身の選択の究極的な正当化が不可能であることを思い知らせる。

III 実存主義の歴史

実存主義そのものは19、20世紀に属するが、その要素はソクラテスの思想にも、聖書にも、近代以前の哲学者や作家の著作にもみいだされる。

1 パスカル

近代実存主義の最初の先駆者は、17世紀フランスの哲学者パスカルである。彼は「パンセ」(1670)において、同時代のデカルトの厳格な合理主義を否定する。彼によれば、神と人間を説明してみせるという体系的哲学は高慢でしかない。彼は人間の生を逆説のうちにみる。心と肉体の結合である人間の自己そのものが、逆説であり、矛盾だというのである。

2 キルケゴール

近代実存主義の創始者キルケゴールは、ヘーゲルの絶対的観念論に反対する。ヘーゲルは、人間と歴史を完全に合理的に理解したと主張する。これに対して、キルケゴールは人間の境遇のあいまいさと不条理を強調する。彼は最終的には、キリスト教的生活は、不可解で危険にみちているが、個人を絶望からすくいうるただひとつの立場であるとして、「信仰の跳躍」を説く。

3 ニーチェ

ニーチェは、キルケゴールの著作には接しなかったが、伝統的な形而上学や倫理学への批判と、悲劇的ペシミズム、生を肯定する個人の意志の擁護によって、その後の実存主義思想に影響をあたえた。因習道徳を攻撃しながら徹底的に個人主義的なキリスト教を擁護したキルケゴールとはちがい、ニーチェは「神の死」を宣言し、ユダヤ・キリスト教の道徳的伝統全体を否定して、異教徒的な英雄の姿で理想のあり方をしめした。

4 ハイデッガー

ハイデッガーは、フッサールの現象学のように哲学を決定的・合理的に基礎づけようとする試みに反対する。ハイデッガーによれば、人間は世界のうちになげだされている。人間は、自分がなぜここにいるかをけっして理解することはできない。死が確実で人生が最終的には無意味であることを知りながらも、それぞれに目標をえらびとり、情熱的な確信をもってその目標を追究しなければならない。ハイデッガーは、存在と存在論、そして言語を重視した点で、実存主義思想家の中で特異な地位を占める。

5 サルトル

サルトルは、第2次世界大戦後、国際的な影響力をもつようになったフランス実存主義運動の指導者で、実存主義という言葉を普及させた功績者である。サルトルの哲学は明らかに無神論的で悲観主義的である。人間はおのれの生の合理的基礎を要求するが、それに到達することはできず、したがって、人間の生活は「不毛な情念」でしかない。にもかかわらず、サルトルは自分の実存主義をヒューマニズムとよび、人間の自由と選択と責任を強調する。さらに彼は、これらの実存主義的概念を、マルクス主義による社会と歴史の分析にむすびつけようとした。

IV 実存主義と神学

20世紀ドイツの哲学者ヤスパースは、宗教的な学説は拒否したが、人間的経験の超越性と限界を論じて現代神学に影響をあたえた。ドイツの神学者ティリヒやブルトマン、フランスのマルセル、ロシアの哲学者ベルジャーエフ、ドイツ系ユダヤ人の哲学者ブーバーらは、キルケゴールの関心の多くをひきついでいる。

V 実存主義と文学

実存主義は、活力にみちた広範な文学運動ともなっている。文学におけるもっとも偉大な実存主義者は、19世紀ロシアの小説家ドストエフスキーである。「地下室の手記」(1864)では、疎外されたアンチヒーローが合理主義的ヒューマニズムの楽観的な考え方をののしる。そして人間の本性は予測しがたく、自己破壊的であり、こうした人間をすくうことができるのはキリスト教的な愛だけであるとのべられている。

20世紀には、チェコ生まれのユダヤ人作家カフカが、「審判」、「城」などの小説において、巨大な官僚機構に直面する孤独な人間をえがきだした。不安、罪、孤独といったカフカのテーマには、キルケゴール、ドストエフスキー、ニーチェの影響がみられる。ニーチェの影響はアンドレ・マルローやサルトルの小説にもみられる。フランスではカミュの作品も実存主義にむすびつけられる。実存主義のテーマは不条理劇、とくにベケットとイヨネスコの演劇にも反映している。

→ 西洋哲学:フランス文学


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実存主義
じつぞんしゅぎ existentialism

人間の本来的なあり方を主体的な実存に求める立場。実存 existence(existentia)とは現実存在の意であり,元来は中世のスコラ哲学で本質essence(essentia)の対概念として用いられた表現である。例えば,ペーパーナイフの実存といえば,材質や形状がまちまちである個々の具体的な現実のペーパーナイフの存在を意味するが,その本質といえば,この木片もその金属棒もあの象牙細工もいずれもがペーパーナイフであると言える場合の基準の存在を指すことになる。そして,ここに実存するものがただの木片でなくまさにペーパーナイフであると言えるためには,あらかじめペーパーナイフの本質が理解されていなければならず,したがって事物の真相を知るとは,実存にとらわれずに本質をわきまえることとされたのである。ところが,人間の存在に関しては,そのような普遍的な本質を規定してかかることが困難である。人間の生き方には,前もって共通の基準が決まっているわけではなく,むしろ民族や地域や時代や文化などの異なる特殊歴史的な状況のもとでそのつどみずからの生き方を創り出していくことに,人間らしい誠実さが求められる。人間は各人が自由と責任の主体であり,個々の実存においてみずからの本領を発揮すべき存在なのである。実存は existere(外へ ex+立ち出でるsistere)というラテン語に由来し,したがって日常性に埋没した自己を脱自的に超え出て主体性の回復を図るという意味を含む。とりわけ,合理主義のもたらした高度の技術化と組織化の中で人間疎外を経験している現代人にとって,実存への覚醒による自己回復の道を示す実存主義は,一つの魅力になったと言えよう。また,実存主義はしばしば合理的に割り切れない人間存在の偶然性の不条理に注目する。人間が自由であり脱自的であるとしても,そのような仕方で存在している事実そのものは,人間の自由裁量によるわけではなく,いわばゆえなくして自由であるにすぎない。自己に関心をもたざるをえない人間が,自己のうちに存在の根拠をもたないこのことに気づくとき,不安や無意味感や挫折に襲われるが,そうした実存の根源的無の状況を介在させてはじめて脱自的な主体性確立の道が意味をもってくる。この極限状況からの超克を,超越者や神とのかかわりに求めるか,無意味さそのものの肯定に求めるか,自由のもつ創造力に求めるかによって,実存主義にもさまざまな立場が生じてくることになる。
 このような実存思想は,人間の本質を理性に据えて合理性のみを追求してきた近代精神への批判として,19世紀にキルケゴールによって説かれたものを嚆矢(こうし)とする。彼はとくに《哲学的断片への後書》(1846)において,客観的真理が人間を生かすのではなく〈主体性内面性が真理である〉と語り,単独者として神の前で主体的に生きる人間を宗教的〈実存〉と呼んだ。ニーチェもまた不断に脱自的であらざるをえない人間を〈力への意志〉に基づく〈超人〉と名づけ,無意味な自己超克を繰り返しているかに思われる運命を肯定することに意味を発見した。〈実存哲学〉の語が定着するのは,第1次大戦後の動向のうちとくに《存在と時間》(1927)に表明されたハイデッガーの哲学を念頭に置いて,これを〈人間疎外の克服を目指す実存哲学〉と呼んだ F. ハイネマンの著《哲学の新しい道》(1929)以降であり,ヤスパースがこれを受けて一時期みずから〈実存哲学〉を名のった。ほかに,ベルジャーエフ,G. マルセル,サルトルらの哲学を実存哲学に含めるが,彼らは必ずしもみずからの哲学を実存哲学と呼んではいない。〈実存主義〉の語はサルトルの《実存主義はヒューマニズムである》(1946)によって一般化したが,文学界では人間の不条理を抉出するサルトルやカミュ,さらにはカフカ,マルローらを実存主義文学者と呼ぶことができる。精神医学や心理学には,ビンスワンガー,フランクル,ボス,R. メイ,マズローらによって実存思想が導入された。神学界ではブルトマンが実存神学を標榜,ティリヒにも受容されており,K. バルトや E. ブルンナーらの弁証法神学運動も当初は実存主義的動機によるものであった。法学に実存主義を生かそうと試みた人に,W. マイホーファーや E. フェヒナーらがいる。
 日本にキルケゴールが紹介されたのは1906年以降であり,内村鑑三,上田敏,金子筑水(馬治),葉山万次郎らによる。ニーチェは1899年以来,吉田静致,長谷川天渓,登張竹風,桑木厳翼らによって紹介され,高山樗牛が晩年にニーチェ主義の立場をとった。和嶋哲郎の《ニイチェ研究》(1913)と《ゼエレン・キェルケゴオル》(1915)とが日本での本格的研究の始まりであり,やがて直接ハイデッガーに師事した三木清や九鬼周造によって実存思想が輸入され,三土興三,吉満義彦らの実存思想家を生んだ。第2次世界大戦後は〈実存主義協会〉も組織されている。実存主義文学者には椎名麟三がいる。             柏原 啓一

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ベンサム
ベンサム

ベンサム
Bentham,Jeremy

[生] 1748.2.15. ロンドン
[没] 1832.6.6. ロンドン


イギリスの法学者,倫理学者,経済学者。富裕な中産階級の子として生れ,ウェストミンスター,オックスフォードのクイーンズ・カレッジ,リンカーン法学院を経て,同学院で法律制度や思想を研究,18歳でマスター・オブ・アーツ。 1776年に無署名で最初の著書『政府論断片』A Fragment on Governmentを公刊,最大多数の最大幸福こそ正邪の判断の基準であるとし,功利主義の基礎を築いた。その後『高利擁護論』 Defence of usury (1787) において,スミスの法定利子論を批判するなど,スミスよりも徹底した経済的自由主義者としての側面をもつ。また,政治的には『道徳および立法の諸原理序説』 An Introduction to the Principles of Morals and Legislation (89) などを著わし,哲学的急進主義者として議会の改革などに関する政治運動にもたずさわり,ミル父子やリカードに影響を与えた。





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I プロローグ

世界歴史年表
ベンサム、功利主義を説く



功利主義 こうりしゅぎ Utilitarianism 役にたつものが善であるという倫理学の考え方。この考えによれば、行為の倫理的価値は、その結果が役にたつかどうかできまり、道徳的行為の最終目的は「最大多数の最大幸福」であるといわれる。ここでいわれている最終目的は、あらゆる法律の目標でもあり、社会制度の究極の基準でもある。功利主義における倫理観は、良心や神の意志や本人だけ感じる快楽などを基準とする倫理観に対立している。

II ペーリーとベンサム

ジェレミー・ベンサム ベンサム(1748~1832)はイギリスの哲学者、経済学者、法学者で、功利主義をとなえたことで名高い。彼は功利主義を共同体の幸福の総量を増大させる手段と定義する。また功利主義は、個人ではなく社会全体の快楽を追求する普遍的快楽主義で、「最大多数の最大幸福」を最高の善とするとした。THE BETTMANN ARCHIVE

イギリスの法学者で哲学者のペーリーは、功利主義を個人的な快楽と神の意志にむすびつけ、神の意志にしたがって人類の永遠の幸福をめざさなければならないと考えた。ベンサムは「道徳および立法の原理序説」(1789)において、功利主義的な考えを倫理学の基礎にすえるだけではなく、法律や政治改革の基礎にもすえた。彼は、多数者の利益のためには少数者の犠牲はやむをえず、どんな事柄でも少数者よりも多数者を優先すべきだと考え、「最大多数の最大幸福」を社会の倫理的な最終目標にした。

III ベンサム以後

Web センター
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ベンサム以後の功利主義の代表的人物としては、イギリスの法学者オースティンやジェームズ・ミル、ジョン・スチュアート・ミルの親子などがいる。

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J.ミル
ミル

ミル
Mill,James

[生] 1773.4.6. ノースウォーターブリッジ
[没] 1836.6.23. ロンドン

  


ミル


イギリスの歴史家,経済学者,哲学者。 J.S.ミルの父。エディンバラ大学卒業後,ロンドンで評論家として活動中,ベンサム,リカードと知合い,功利主義とリカードの学説の普及に努めた。『英領インド史』 History of British India (3巻,1817) が機縁となって東インド会社に入社。ほかに,友人ベンサムの思想を連想心理学の立場から擁護した『人間精神の現象分析』 Analysis of the Phenomena of the Human Mind (29) がある。





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ミル,J.
ミル James Mill 1773~1836 イギリスの哲学者・経済学者。ジョン・スチュアート・ミルの父。ベンサムのイギリス人の最初の弟子で、ベンサムの功利主義の考えをくわしく説明し展開した。

スコットランドに生まれ、エディンバラ大学でまなぶ。雑誌の編集をし、1806~18年に「イギリス領インド史」を執筆、有名になった。その後、東インド会社に就職。さらに、経済学者リカードの考えをもとにして哲学的急進主義をとなえ、この考えを「経済学綱要」(1821)にあらわしている。


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ミル 1773‐1836
James Mill

イギリス功利主義の代表者の一人で,J. ベンサムの協力者として学派の形成に貢献した。経済学者としても知られる。長男 J. S. ミルに,功利主義の継承者たらしめるべく厳しい早教育をほどこしたのも,その一端である。スコットランドの農村の貧しい靴屋の家に生まれたが,ある裁判官がその才能を惜しんでエジンバラ大学で神学を学ばせた(1790‐97)。説教の免許を得て巡回説教をやってみたものの,人気がなく,職を求めてロンドンにでたミルは,ジャーナリストとして成功し,1808年にはベンサムを知って,その最初のイギリス人の弟子となった。9人の子どもをかかえながら,精力を傾けて書いた大著《イギリス領インド史》(1817‐18)によって名声を確立するとともに,東インド会社に職を得て生活を安定させることができた。彼の著作は,スコットランド啓蒙思想の成果のうえに立っているので,功利主義への改宗後でさえ,ベンサムとのあいだに微妙なずれがある。とくにミルが東インド会社に就職してからは,人間関係も以前のように緊密ではなくなった。なお著書としては,ほかにリカードの経済学を平易にした教科書《経済学綱要》(1821)や《自伝》(1873)がある。
                         水田 洋

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オースティン
オースティン

オースティン
Austin,John

[生] 1790.3.3. サフォーク,クレーティンミル
[没] 1859.12. サリー,ウェイブリッジ

  

イギリスの法学者。 16歳のときから5年間軍隊生活をおくったが,1818年に弁護士の資格を取り,法律実務に従事した。次いで 26年に新設されたロンドン大学の法哲学講座担当教授となり,2年間ドイツに留学してドイツ普通法学の方法を学んだ。帰国後,その影響のもとでさまざまな法概念を厳密に分析し,分析法学を樹立,自然法論を批判して,法と道徳との区別を明確にし,法を制裁を伴った主権者の命令であると定義した。彼の分析的方法は当時のイギリスの法学界では評価されず,後世に残した影響力は妻サラーによる彼の死後の著書出版によるところが大きい。著書『法理学講義』 Lectures on Jurisprudence (1869) など。





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オースティン,J.(法律)
I プロローグ

オースティン John Austin 1790~1859 イギリスの理論法学(法理学、法哲学)の開祖で、分析法学の創始者。ベンサムの門下であり、ミル父子(J.ミル、J.S.ミル)の盟友でもあった。

II 死後に注目される

軍務についたのち弁護士となるが成功せず、1826年に新設されたロンドン大学の初代理論法学教授となった。講義準備のため同年ドイツに留学、サビニーらと知りあい、ローマ法や歴史法学の体系的方法をまなんだ。

ロンドン大学での講義はあまりに理論的であったため、聴講者がしだいに減少し、1832年に失望の末、辞職。不遇のうちに一生をおえた。死後の61年に、妻であったサラーが彼の主著「法理学の領域決定」(1832)を再刊。さらにJ.S.ミルらかつての聴講者の協力をえて遺稿「法理法学講義」を刊行(1863)。ようやく注目されるにいたった。

III 理論的功績

オースティンは、法と道徳、理論法学と立法の科学を峻別、理論法学の考察領域から自然法や歴史的要素を排除し、もっぱら論理的な側面から、権利、義務、自由など実定法体系の基本概念や理念を抽出分析した。分析の論理的前提として、法を主権者の命令と定義したのは有名である。彼の研究は、イギリスではじめて実定法を対象にした本格的な理論法学の体系を提示したものといってよく、成熟した実定法体系に共通する論理的体系的構造を明らかにした功績も大きい。

このような彼の理論法学は、T.E.ホランド、J.W.サーモンドらにより継承修正され、19世紀後半以後、メーンの歴史法学とならび、イギリス法学の2大学派のひとつに発展した。その学派、研究は、精緻(せいち)な分析的特徴から分析法学とよばれる。明治期、東京大学で英米法を講じたアメリカのH.T.テリーは分析法学派のひとりであった。


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オースティン 1790‐1859
John Austin

イギリスの法学者。軍人,弁護士を経て1826‐32年ロンドン大学の法理学教授。その間ドイツに渡り,ローマ法およびドイツ概念法学の方法を学ぶ。同大学を辞任した32年に《法理学の領域決定》を著した。ベンサムおよび J. ミルの影響を受け,功利主義を基調にもちつつ,法実証主義理論を説き,典型的な法命令説(法は命令の一種であるとする考え方)を展開した。彼の理論は,死後,未亡人サラーによる同書の再刊(1861)および J.S. ミルのノートの助けをかりて著された《法理学講義》の刊行(1863)以後有名になった。その理論は,分析法学とよばれ,その後変貌し修正を受けつつ,T. E. ホランドや J. W. サーモンドらに継承され,現代イギリス法理学の礎石として,今日も重要な意義をもっている。         八木 鉄男

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J.S.ミル
ミル

ミル
Mill,John Stuart

[生] 1806.5.20. ロンドン
[没] 1873.5.8. アビニョン

  

イギリスの思想家,経済学者。 J.ミルの長男。父の厳格な教育を受けて育ち,10代から哲学的急進派の論客として活躍。 1823年ロンドンの東インド会社に入社,56年まで在職。 26年の精神的危機を転機として,それまでの狭義のベンサム主義から脱してドイツの人文主義や大陸の社会主義,コント思想などにも関心を寄せるようになる。 65~68年下院議員となり,社会改革運動にも参加。社会科学も含めた科学方法論書でもある『論理学大系』A System of Logic (2巻,1843) 公刊後,19世紀中葉の経済学の再編成期にあたり『経済学原理』 Principles of Political Economy (48) で古典派経済学の体系を独自の方法で整理し,生産法則と分配法則とを分離して,前者を歴史を貫く不変の原則とし,後者は社会進歩とともに変革しうると説き,静学と動学の区別を導入し,労働階級の将来を論じ,定常状態に独自の解釈を加えるなど,かなりの期間大きな影響力をもった。『功利説』 Utilitarianism (63) で快楽に質の差を導入したことでも著名。政治論では代議制と行政上の分権制の意義を強調した。ほかに『自由論』 On Liberty (59) ,遺稿『ミル自伝』 Autobiography (73) ,遺稿『社会主義論』 Chapters on Socialism (79) など著書,論文多数。トロント大学によりミルの『全集』 Collected Works of John Stuart Millが刊行されている。





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ミル,J.S.
ミル John Stuart Mill 1806~73 イギリスの哲学者・経済学者。19世紀イギリスの哲学、経済学だけではなく、政治学、論理学、倫理学などに多大な思想的影響をあたえた。

父のジェームズ・ミルにより、3歳からギリシャ語、8歳からラテン語といった並はずれた早期教育をうける。17歳で、ギリシャ文学と哲学、化学、植物学、心理学、法学を完全に習得する。ロンドンの東インド会社にはいり、勤務のかたわら思想活動にとりくんだ。会社解散後、フランスのアビニョンの近くにうつりすむ。1865年にイギリスの下院議員となるが、68年に落選。アビニョンにもどりそこで死去した。

ミルは、18世紀の自由、理性、科学への関心の高まりと、19世紀の経験主義、集産主義的傾向の橋渡しの役割を演じた。哲学においては、父ジェームズ・ミルやベンサムの功利主義の考えを体系化し、知識を人間の経験に基礎づけ、人間理性を強調した。経済学の分野では、個人の自由を尊重し、社会や政治の専制が自由に対して脅威となる可能性について論じた。彼自身は社会主義者にはならなかったが、マルクス以前の社会主義を研究し、労働者の条件の改善のために活動した。国会では、男女平等や産児制限などを支持したことから、急進派とみなされていた。

著作には「経済学原理」(1848)、「自由論」(1859)、「女性の隷従」(1869)などがある。


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ミル 1806‐73
John Stuart Mill

イギリス19世紀中葉の代表的な哲学者,経済学者。とくに,その晩年に書かれた《ミル自伝》によって,幼少時からの一生を通じる思想展開を詳細に後づけることが可能な数少ない例として知られている。父ジェームズ・ミルの異常ともいえる教育熱心によって,3歳からギリシア語を,8歳からラテン語を学び,12歳までに多くの古典を読んだ。この間に初等幾何学や代数学ならびに微分学の初歩を学び,13歳のときには経済学の課程まで終えていたという。父ジェームズは D. リカードの親友であり,その経済学の礼賛者かつ解説者であったから,ミルは少年期に徹底的にリカード経済学を仕込まれたわけである。また父からは論理学も学んでいる。また父を通じて J. ベンサムの功利主義から強い影響を受けた。14歳以後は一人立ちで勉強したが,幼年期からの教育によって一種の純粋培養的な学者となったといえる。一生の間に《論理学体系》(1843),《経済学原理》(1848),《自由論》(1854年に書かれ59年出版),《功利主義論》(1861年に雑誌に発表,63年単行本),《女性の隷従》(1869),遺稿の《社会主義論》(1879)その他多くを著したが,それらはすべて自分の見聞に照らして,より正確に真理を究め世に問おうとする誠実な努力の結果であった。彼ほど世俗の利害や党派的な感情に惑わされない人物はまれであったといえよう。
 経済学者としてのミルは古典派経済学の完成者と呼ばれ,同時にイギリス社会主義の父とも呼ばれたが,正確にいえば,古典派を頂点まで理解することによって,その限界をも知るに至り,体系を拡張したということである。そのことは彼の《経済学原理》の初版と第3版(1852)との差異に見ることができる。ミル自身は労働階級への関心の高まりを,彼が愛し後に結婚(1851)したテーラーHarriet Taylor の影響に帰しているが,要はミルが生活経験の乏しさから〈イギリス交際社会の低級な道徳の調子をまったく知らなかった〉ために,古典派の〈私益追求〉の概念をあまりに性善説的に解釈していたことへの反省にほかならない。ミルのリカード派からの脱皮は,イデオロギー的なものではなく,〈富の分配〉を〈富の生産〉と同様な自然法則であるかのようにみなすことが事実認識上の誤りであることに気づいたためであった。《経済学原理》における労働時間規制論は,市場均衡論にもとづく最初の分析的記述となっている。《論理学体系》においては,それ以前の演繹(えんえき)法偏重をいましめ,帰納的な実証主義の重要性を指摘した。
 また功利主義についても,ベンサム流の数量評価が質的側面を見落としていることを指摘した。ミルは徹底して個人の自由を尊重することから,男女平等の政治的民主主義を主張し,同時に多数決において少数者の意思表示の自由を留保することを忘れなかった。ミルが矛盾撞着(どうちやく)を含む過渡期の思想家と評されたのは,既得の真理に新たな知識を加えるという進歩発展への彼の苦闘の過程を表面的に見たものにすぎない。
                      嶋村 江太郎

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H.シジウィック
シジウィック

シジウィック
Sidgwick,Henry

[生] 1838.5.31. スキプトン
[没] 1900.8.29. ケンブリッジ


イギリスの倫理学者,経済学者。ダーウィンの『種の起原』の出現によるキリスト教信仰の動揺,T.H.グリーンに始るオックスフォード・プラトニストの台頭,古典派経済学の衰退など,イギリス思想界の激動期にあって事態に誠実に対処した当時の典型的大学人の一人。ケンブリッジ大学に学び,1883年同大学道徳哲学教授。功利主義の立場に立つが,直覚主義を導入することによって,従来の功利主義の限界を越えようとした。また大学問題,ことに女子の大学教育の問題に貢献した。経済学面では古典派と近代経済学の中間期の最もすぐれた体系書である『経済学原理』 Principles of Political Economy (1883) を著わし,サイエンスとアートとの峻別などによって,のちの新厚生経済学にも大きな影響を与えた。主著『倫理学の方法論』 The Methods of Ethics (2巻,1874) 。





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