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時計から始まる機械論(その09) [宗教/哲学]

F.エンゲルス
エンゲルス

エンゲルス
Engels,Friedrich

[生] 1820.11.28. プロシア,バルメン
[没] 1895.8.5. イギリス,ロンドン

  

ドイツの経済学者,哲学者,社会主義者。カルル・マルクスとともにマルクス主義を創設する。当初ヘーゲルの影響を強く受けたが,父親の関係した会社を手伝うためイギリスに渡り,産業資本主義下のイギリスの労働者階級の状態をつぶさに見聞して社会主義者へ脱皮した。経済学を研究して『国民経済学批判大綱』 Umrisse zu einer Kritik der Nationalkonomie (1844) を執筆。その後ドイツに帰り,マルクスとともに『共産党宣言』 (1848) などを著し,共産主義者同盟を指導するなど,近代労働運動の理論的支柱であるマルクス主義を樹立した。その後 1848~49年のドイツ革命に敗北後再びイギリスに渡り,マンチェスターで商業に従事するかたわら,マルクスの『資本論』完成に物質的にもまた精神的,理論的にも多大の援助を行なった。その後ロンドンに移り,マルクスとともに第1インターナショナルの指導などにあたったが,マルクスの死後はその遺稿を整理し,『資本論』第2巻,第3巻を世に送った。また第2インターナショナルなどの国際労働運動の理論的,精神的支柱として,社会主義運動,労働運動に多大の影響を与えた。著書は多数に上るが『聖家族』 (マルクスとの共著) Die heilige Familie oder Kritik der kritischen Kritik (1845) ,『イギリスにおける労働者階級の状態』 Die Lage der arbeitenden Klassen in England (1845) ,『反デューリング論』 Herrn Eugen Dhrings Umwlzung der Wissenschaft (1878) ,『空想から科学への社会主義の発展』 Die Entwicklung des Sozialismus von der Utopie zur Wissenschaft (1882) (→空想より科学へ ) など。





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エンゲルス 1820‐95
Friedrich Engels

K. マルクスとともにマルクス主義(いわゆる科学的社会主義)の創設者。マルクスの単なる協力者ではなく,独自の理論的傾向をもち,今日のマルクス主義(ことに正統派マルクス主義)に,むしろマルクス以上の影響を与えている。バルメン(現,ドイツ,ブッパータール)に実業家(主として繊維関係)の長男として生まれる。ギムナジウム中退。革命家および実業家として生き1895年喉頭癌で死亡。初期すなわち1848年革命までのエンゲルスについてとくに注目されるのは,唯物史観(史的唯物論)の確立に至るマルクス主義の骨格形成過程における彼の主導的役割である。思想的転回は1838年ブレーメンで貿易商の見習をはじめたころから顕著になる。はじめ自由主義的文芸運動で頭角をあらわし,やがて哲学・政治運動の青年ヘーゲル派に接近,さらに41年からのベルリン滞在(1年志願兵)の間に青年ヘーゲル派の潮流のなかで共産主義思想に傾く。この共産主義を具体的な構想として定着させたのが42年末からのイギリス体験である。父親の出資したマンチェスターの紡績工場に勤めつつ,先進国の資本主義的社会経済の様相,とりわけ労働者のありさまを観察し,またチャーチスト,オーエン派社会主義,さらには後に彼自身の手で共産主義者同盟へと改組される義人同盟とも接触する。こうして得た立脚点から古典派経済学の批判的総括を試みたのが《国民経済学批判大綱》(1844)であって,A. ルーゲとマルクスの編集する《独仏年誌》に発表され,マルクスに大きな衝撃と指針を与え,以後生涯におよぶ両人の協力関係の出発点となった。帰国後に執筆した《イギリスにおける労働者階級の状態》(1845)とともにイギリス滞在の貴重な成果である。帰国後パリとブリュッセルを根拠地とし,草稿《ドイツ・イデオロギー》(1845‐46)の主要部分を書いて唯物史観の確立を主導した後,共産主義者同盟の創立に中心的な役割を果たし,1848年革命を迎える。主としてライン地方で活動した後,ドイツ憲法戦役に従軍,この間のドイツ革命の総括を《革命と反革命》(1851‐52)等で与えた。亡命後,50年から70年までふたたびマンチェスターで紡績工場の経営に携わる。この20年間はマルクスの《資本論》執筆に対する物心両面の援助に力を注いだようで,文筆面では軍事問題の評論が目立つ程度であり,組織活動(たとえば第1インターナショナル)でも大きな働きはない。70年から工場経営をはなれてロンドンに住むようになり,組織活動でも理論活動でも積極的な晩年となった。各国社会主義者との通信は年とともに拡大,83年マルクスの死後は文字どおり世界社会主義の権威ある通信センターの役割を果たした。
 理論活動は多岐にわたるが,とくにマルクス主義の各種分野への一般化が重要である。《家族,私有財産および国家の起源》(1884),草稿《自然弁証法》(リャザーノフ編により1925年刊)などもその成果であるが,とりわけ《反デューリング論》(1878)はマルクス主義社会科学の平明な見取図として広く受け入れられ,時々の主流のマルクス主義理論(ドイツ・マルクス主義→ソ連マルクス主義)は主としてこれに依拠している。また,その一章に少し手を加えたパンフレット《空想から科学へ》(1880)は最も多く読まれた入門書である。またマルクスより十数年ながく生きて大不況や独占形成など資本主義経済の新展開を経験したから,折にふれてその分析を試み,これも後継者の現代資本主義の分析に大きな影響を与えた。こうした晩年の著作において,マルクスが逡巡ないし留保していたいくつかの問題――理論と歴史の結合,資本の私的性格と社会的性格の対比など――を彼は明快に割り切り,理論にも現実にも平明な説明を与えた。《資本論》第2部(1883),第3部(1894)の編集にも同じ傾向がみられる。〈政治的遺書〉とも呼ばれる〈《フランスの階級闘争》への序言〉(1895)では,革命の条件の変化を認めてベルンシュタインの修正主義の主張に手がかりを与えるなど,新しい段階での革命運動のあり方をめぐって大きな問題を提起した。著書としては,ほかに《ドイツ農民戦争》(1850),《住宅問題》(1872),《ルートウィヒ・フォイエルバハとドイツ古典哲学の終末(フォイエルバハ論)》(1886)が知られる。⇒マルクス主義                     星野 中

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エンゲルス,F.
I プロローグ

エンゲルス Friedrich Engels 1820~95 ドイツの革命家・経済学者。マルクスとともに、科学的社会主義(近代共産主義)の創始者。

紡績業などをいとなむ裕福な実業家の子としてライン地方のバルメン(現ブッパータール)に生まれる。はやくから「若きドイツ派」の文芸運動に参加し、兵役時代にベルリンでヘーゲル左派の哲学に接した。このころからさまざまな新聞・雑誌に、文芸評論・哲学論文・時事論説を発表した。

II マルクスとの出会い

1842年、父の出資する紡績会社ではたらくため、イギリスのマンチェスターに移住。途中、ケルンのライン新聞編集局で、はじめてマルクスと会った。マンチェスターには2年間滞在し、実業家としての経験をつんだ。そのかたわら、産業革命を達成したイギリス資本主義のもとでの労働者の悲惨な状況を観察し、歴史的名著「イギリスにおける労働者階級の状態」(1845)を発表した。

1844年には、マルクスがパリで刊行した雑誌「独仏年誌」に「国民経済学批判大綱」を寄稿した。この論文は、マルクスが経済学研究にとりくむ直接のきっかけとなった。この時期にはマルクスと共同で「聖家族」「ドイツ・イデオロギー」を執筆し、共産主義通信委員会、共産主義者同盟の活動にも共同してとりくんだ。ヨーロッパに48年革命が勃発(ぼっぱつ)すると、2人は新ライン新聞に多くの論説を発表し、同紙の廃刊後、マルクスはパリへ、エンゲルスは革命軍にくわわって戦闘に参加した。革命の敗北のあとスイスへ、そして49年秋に、先にマルクスが移住していたロンドンへうつった。

1850年にマンチェスターにもどったエンゲルスは、以後の20年間、紡績事業に従事しながらマルクスの家計を援助した。彼の経済的援助によって、マルクスは「資本論」第1巻を完成することができた。エンゲルスはまた、アメリカの新聞ニューヨーク・トリビューンに多くの論説を発表したが、とくにクリミア戦争など、軍事問題についての論説は高い評価をえた。

III 晩年のエンゲルス

1870年、事業から隠退したエンゲルスは、ロンドンに移住し、「反デューリング論」(1878)、「家族、私有財産および国家の起源」(1884)、「フォイエルバッハ論」(1886)、「自然の弁証法」などを執筆した。80年にだした「空想から科学へ」は、マルクス主義の普及に大きな役割をはたした。83年にマルクスが死ぬと、社会主義運動や労働運動の指導をつぐこととなった。89年、第2インターナショナルが結成され、第1次世界大戦勃発によって崩壊するまで、初めはエンゲルスが、その死後はカウツキーらが、各国の社会主義運動の発展に助言をあたえた。

エンゲルスは、マルクスが書きのこした膨大な「資本論」の草稿を編集し、「資本論」第2巻を1885年に、第3巻を94年に刊行した。

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空想より科学へ
空想より科学へ

くうそうよりかがくへ
Die Entwicklung des Sozialismus von der Utopie zur Wissenschaft

  

ドイツの社会主義者 F.エンゲルス著。 1882年刊 (1880フランス語版) 。『反デューリング論』の3つの章を整理して刊行された。資本主義社会に対する変革手段を見出せなかった空想的社会主義に対し,唯物史観,剰余価値理論によって資本主義的生産様式を分析し,そこからプロレタリアートによる社会変革の方法を明らかにしたものである。したがって,マルクス主義が科学的社会主義であることを宣明した書物であるともいえる。マルクス主義文献のうち,最も広く読まれてきた文献である。





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空想的社会主義
空想的社会主義

くうそうてきしゃかいしゅぎ
utopian socialism

  

19世紀の前半,主としてサン=シモン,C.フーリエ,R.オーウェンらによって唱えられた社会主義思想。 19世紀の産業革命の急速な進展とともに生産の無政府性や階級対立などの資本主義社会の矛盾が表面化してきたが,彼らは理想社会の基本構造を示すことによって,それらの矛盾を克服するための諸方策を提起した。彼らの構想した理想社会に共通しているのは,それが管理され調和のとれた生産力の発展に立脚した社会であることと,人間の不平等と従属関係が存在しない社会であることであり,この構想は以後の労働者自主管理思想,協同組合思想,女性解放思想などに大きな影響を与えた。 F.エンゲルスはその著作『空想より科学へ』において,彼らが現実的に理想社会を実現するための方法を十分示していない点を批判し,それらを空想的社会主義と名づけた。





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[ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 2008]


空想的社会主義
くうそうてきしゃかいしゅぎ

エンゲルスは《反デューリング論》(1878。うち三つの章を P. ラファルグが編んで《空想より科学への社会主義の発展》(1880)が成立)において,マルクスと彼自身が創始した科学的社会主義に対比して,それ以前の社会主義を空想的社会主義と規定した。その代表者として19世紀初頭のサン・シモン,フーリエ,オーエンがあげられ,以来この言葉は狭義にはこの3人を指して用いられる。エンゲルスはマルクス主義の特質を明らかにするために彼らを対置しているのであって,全面的に否定している訳ではない。彼らは〈理性の王国〉をめざしたフランス革命が幻滅に終わったことをマルクスに先立って確言し,政治体制ではなく〈産業〉の中にこそ人間の協同関係が実現されるべきことを主張し,そのための社会組織を考案した。その批判性,思想性,人類の協同性に対する信頼はマルクスに大きな影響を与えている。
 彼らの思想の空想性は具体的にはつぎの2点に見いだされている。第1に,社会主義が現実の経済的諸関係に基礎をもつ,プロレタリアの自己解放運動の理論的表現であることを理解していない点である。このため彼らは社会主義を実現する担い手を見いだすことができず,18世紀の啓蒙思想家と同様に社会主義を永遠の正義や真理の表現,理性の要請と考え,天才が偶然に発見するほかはないものとみた。プロレタリアも社会主義の担い手ではなく,救済されるべき対象とみなされている。第2点は彼らが資本主義の生み出す貧困と階級対立を非難し批判はするが,その必然性を理解し説明することができないことである。なぜ一方には巨大な資本蓄積が,他方にはプロレタリアの貧困と悲惨が再生産されるのか,その経済的メカニズムを合理的に解明することができず,したがって,なぜプロレタリアの自己解放運動として社会主義が発生するのかも理解することができない。エンゲルスは,この経済的メカニズムの秘密は〈剰余価値〉にあり,唯物史観の発見とならんでその発見こそ社会主義を〈一個の科学〉にした,と述べている。⇒社会主義         野地 洋行

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空想的社会主義
空想的社会主義 くうそうてきしゃかいしゅぎ 資本主義を批判して、理想社会の実現を目指すが、理想実現の手段が理想的・空想的な社会主義思想のこと。サン・シモン、フーリエ、オーエンらがその代表で、とくにオーエンはスコットランドのニューラナークに、理想実現のための工場を開いた。マルクスやエンゲルスは、これらの思想を批判、自分たちの思想をこれと区別して科学的社会主義とよんだ。

→ 社会主義:サン・シモン主義

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サン=シモン
C.フーリエ
フーリエ

フーリエ
Fourier,(Franois-Marie-) Charles

[生] 1772.4.7. ドゥー,ブザンソン
[没] 1837.10.10. パリ

 
フランスの空想的社会主義者。仲買人をしながら新聞,雑誌などによって独学。 1808年主著『四運動の理論』 Thorie des quatre mouvements et des destines gnralesを著わし理想社会を描いた。徹底した社会批評家として初期マルクス主義者に影響を与え,二月革命期のフランスなどでその理論の実現が企てられた。社会が個人を規制するのではなく,個人が満たされる社会を構想した独特の社会主義のなかに,社会保障,分業,女性解放,疎外など 20世紀社会の重要問題の先駆的洞察がみられる。





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フーリエ 1772‐1837
Charles Fourier

フランスの哲学者,社会・経済思想家。ブザンソン生れ。富裕な商家の出であったが,1793年に破産して以来,行商人,店員などをしながら著述活動に入る。1808年に最初の大著《四運動および一般運命の理論》を世に問い,尖鋭な社会・経済批判,壮大かつ奇抜な宇宙・社会進化論,斬新・精密な推察にもとづくユートピア的世界の構想等々を展開するが,黙殺される。しかし,〈ファランステール phalanst≡re〉と称する共同体住居の設置による新社会構築の計画をあきらめることなく,22年には最大の著作《家庭・農業組合概論》を,29年には《産業・組合新世界》を発表し,篤志ある資産家たちへの空しい呼びかけを繰り返す。晩年には P. V. コンシデランら弟子を自称する人々があらわれ,〈フーリエ主義 Fouriレrisme〉運動が創始されるが,フーリエ自身は彼らにも自説が十分に理解されていないことを自覚しつつ,不遇のままパリで没した。以後この運動は欧米各地で断続的に試みられ,ある程度の成果をあげる。ネルバルやボードレールら文学者たちへの影響も無視しがたい。
 社会主義,共産主義を予告する側面をもつフーリエの思想は,マルクスによって高く評価されたが,エンゲルスはこれをサン・シモンや R. オーエンと並ぶ〈空想的社会主義〉の一例とみなし,この位置づけが20世紀半ばまで通説となっていた。しかし,シュルレアリスムの指導者 A. ブルトンによる再評価を経て,いわゆる〈五月革命〉(1968)後の全集の復刊,とくに弟子たちによって危険視され隠匿されていた大著《愛の新世界》の初版刊行(1967)を機に,フーリエの思想はようやくその全貌を明らかにしはじめた。〈アナロジー〉および〈情念引力〉の理論にもとづくその精緻きわまる宇宙論・歴史観,また労働を快楽に変える革命的な構想,そしてなによりも,比較を絶するそのユートピア的な言語体系の全体は,いわゆる社会主義思想史や経済学説史の範囲を超えて,現代思想の各分野に新たな影響を及ぼしつつある。したがって多くの点でけたはずれであったこの予言的思想の持主の位置づけは,まだ緒についたばかりというべきであろう。日本でもすでに初期アナーキズム(大杉栄ら)への若干の影響が見られたが,萌芽の状態にとどまった。              巌谷 国士

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フーリエ,C.
I プロローグ

フーリエ Charles Fourier 1772~1837 フランスの哲学者、社会思想家。ブザンソンの裕福な商家に生まれ、家業をつぐが、1793年に破産。以後、行商人や店員をしながら著述活動をおこなう。最初の著書「四運動および一般運命の理論」(1808)を上梓(じょうし)したのち、「家庭的農業的協同社会概論」(1822)、「産業的協同社会的新世界」(1829)、「虚偽的産業」(全2巻。1835~36)などの大著を刊行しつづけた。

II 情念引力

フーリエ社会理論の目標は、経済競争のアナーキー、賃金労働者の奴隷化、農業の分散細分化などにくるしむ「文明社会」の矛盾を暴露して、普遍的な調和の支配する新しい協同社会(ファランジュ)を建設することにある。そのためには、物質的宇宙と有機的生命と動物的生命と人間社会をつらぬいている調和の法則が解明されなければならない。物質的宇宙については、すでにニュートンが「万有引力」の理論によってその解明をおこなった。したがって、フーリエの仕事は、人間の行動原理である情念の力(フーリエはこれをニュートンにならって「情念引力」とよぶ)にもとづいて、社会運動の法則を解明することである。

III 再評価

フーリエ自身は不遇のうちに没するが、その晩年には、コンシデランらの弟子たちがフーリエ派を結成し、フランスにおける思想集団としての勢力を拡大していく。フーリエの思想は、マルクス、プルードン、ルイ・ブランなどの社会主義者に大きな影響をあたえた。エンゲルスは、彼をサン・シモン、ロバート・オーエンとならぶ「ユートピア的社会主義者」のひとりとみなし、この評価が20世紀中葉まで通説となっていた。だが、シュルレアリスムの指導者アンドレ・ブルトン、ドイツの思想家ベンヤミンなどによって再評価されるようになった。また、フランスの五月革命前後に、未発表であった大著「愛の新世界」の刊行(1967)や、フーリエ全集の復刊(1968)などによって、たんに社会主義思想にとどまらず、その精緻で壮大な宇宙観や言語体系などがみなおされ、思想の全貌(ぜんぼう)が明らかになりつつある。

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R.オーエン
オーウェン

オーウェン
Owen,Robert

[生] 1771.5.14. モントゴメリーシャー(現ポーイス),ニュータウン
[没] 1858.11.17. モントゴメリーシャー(現ポーイス),ニュータウン


イギリスの社会改革運動家。協同組合運動の創始者。産業革命期にマンチェスターの紡績工場支配人として成功し,スコットランドのニューラナークに労働者の福祉を目指した大工場を経営した。ほかにも,空想的社会主義者として社会や教育の改革事業に先鞭をつけた。環境が人間を規定するという立場に立って産業革命のもとでの資本主義社会の反自然的状態を批判し,共産主義的な共同体を想定し,それを実現しようとした。主著『新社会観』A New View of Society (1813) ,『ラナーク州への報告』 The Report to the County of Lanark (20) 。





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オーエン 1771‐1858
Robert Owen

イギリスの社会改革思想家で協同組合運動の先駆者。一般にフランスのサン・シモン,フーリエと並んで三大空想的社会主義者の一人に数えられている(空想的社会主義)。産業革命の上昇期に,徒弟からイギリス最大の紡績工場支配人となり,1800年から約25年間スコットランドのニューラナークの紡績工場を経営して生産教育,協同組合などの人道主義的施策を導入し,19年には工場内の婦人・児童労働を保護する最初の工場法を制定させた。25年に全財産を投じて北アメリカ,インディアナのニューハーモニーにおいて自分の理想とする自給自足,完全平等の協同社会の建設を試みたが,この事業は4年で完全に失敗してしまった。協同組合運動を推進するかたわら,幼稚園を創始し労働紙幣の発行を考案,34年には全国労働組合連合の結成に尽力した。晩年は実践運動から離れ精神更生運動に没頭したが,彼の思想は人間の性格形成に社会環境の影響を重視し,社会改良の可能性を強調した点で,世界の社会改革運動にきわめて大きな影響を及ぼした。主著に《新社会観》(1812‐13),《ラナーク州報告》(1820),《新道徳世界の書》7巻(1836‐44)がある。
                           森 博

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ロバート・オーエン
ロバート・オーエン Robert Owen 1771~1858 イギリスのユートピア社会主義者(→ 社会主義)で、協同組合運動の先駆者。ユートピア社会主義者ではサン・シモン、フーリエと並称されることが多い。北ウェールズのニュータウンで生まれ、9歳で繊維工場の徒弟となり、18歳のころには貯蓄した金を繊維工業機械の製造に投資するようになっていた。さらに、20歳でマンチェスターの紡績工場の支配人となり、工場を急成長させた。

1799年にスコットランドのニューラナークで紡績工場の経営をはじめ、労働者の環境改善をすすめた結果、生産性も利益も向上し、世界にその名を知られるようになった。オーエンは、人間の性格形成におよぼす環境の影響を重視し、環境を改善することで人間を善にみちびくことができると信じて、環境改善につとめたのである。1825年、北アメリカに広大な土地を購入し、自給自足、完全平等の理想の共同社会「ニュー・ハーモニー」の建設をめざした。しかし、この試みは4年後には完全に失敗した。

後年は、現実の枠内での経済改革をめざす活動に重点をうつし、社会主義者の会議にもたびたび出席し、1834年には全国労働組合連合の結成に尽力したが、資金難と内紛のため1年たらずで崩壊してしまった。しかし、彼の考えは、44年にロッチデールで創始された国際協同組合運動として実をむすんだ。

著作も多く、「新社会観」(1812~13)で環境教育論を、「ラナーク州報告」(1820)、「新道徳世界の書」(全7巻。1836~44)で理想社会像を提示した。

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インターナショナル
第1インターナショナル

だいいちインターナショナル
The First International

  

国際労働者協会 International Workingmen's Associationの俗称。略称第1インター。 1864年9月 28日ロンドンで結成された最初の国際的な労働者組織。創立宣言と規約は K.マルクスによって起草され,労働者階級の解放は労働者自身の事業であること,労働者の経済的解放が目的であり,政治運動は手段であること,労働者の国際的団結が必要であることなどがうたわれている。組織構成はドイツを中心としたマルクス派,フランスのプルードン派,ブランキ派,イギリスの急進自由派,イタリアのマッツィーニ派,無政府主義のバクーニン派などさまざまで,常に内部闘争をかかえていた。第1インターは,66~69年毎年大会を開催し,国際的影響を波及させたが,71年のパリ・コミューン以後,マルクス派対バクーニン派の対立が激化,72年のハーグ大会でマルクス派がバクーニン派を除名,さらに協会本部もロンドンからニューヨークに移り,実質的活動は停止。その後 76年 11月フィラデルフィアで正式に解散した。しかし,国際的な労働者階級の団結を強め,マルクス主義を世界的に普及させた意義は大きい。なお,マルクス起草による「国際労働者協会第3宣言」 (『フランスの内乱』 1871) は,パリ・コミューンの総括として提起されたもので,コミューンの歴史的意義が明確にされ,以後の革命運動の実践的指針となった。





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インターナショナル
International

もともとは18世紀末年に使われ出した英語の形容詞で〈国際〉と訳されているが,名詞としてはふつう国際労働者協会 International Working Men’sAssociation およびその後継者ないし類似の国際組織をさす。
[国際労働者協会(第一インターナショナル)]  1864年9月28日,ロンドンのセント・マーティンズ・ホールで開かれた国際労働者集会で創立された。この集会は,2年前から交流を進めていたイギリスとフランスの労働組合活動家が,ストライキの際の相互連帯とポーランド革命支援を念頭に置きつつ招集したものだったが,ドイツ,ポーランドからの亡命者なども参加した。集会では,労働者の国際的な協会 association の設立とその規約を作成する〈臨時中央評議会〉の設置が決議された。
 評議会(1866年以降,総評議会)の一員に選ばれ,新生の国際組織の性格づけに決定的な影響を与えたのは,その集会に招かれて出席していたドイツからの亡命文筆家マルクスだった。64年11月,臨時中央評議会が満場一致で採択した二つの基本文書はいずれもマルクスの筆になる。第1は〈創立宣言〉で,1848年以降,商工業が未曾有の発展を示したにもかかわらず労働者大衆の貧困は減少しなかった事情を述べたあと,〈明るい面〉として工場法と協同組合運動の進展を挙げ,さらに政治権力の獲得が労働者階級の義務となったことを指摘し,《共産党宣言》と同じく〈万国のプロレタリア団結せよ〉と結んだ。第2は〈暫定規約〉(1866年の第1回大会で〈一般規約〉として承認された)である。その前文は〈労働者階級の解放は労働者階級自身の手でかちとられなければならない〉と明言し,それが〈あらゆる階級支配の廃絶をめざす闘争〉であり,〈近代社会が成立しているすべての国々におよぶ社会問題〉であると述べた。これは1860年代に入ってヨーロッパ各地で自立の傾向を強めつつあった労働運動に共通の課題を示して相互連帯を促す意図を示してはいたが,教条的な組織化を目ざすものではなかった。事実,支部組織はまだ国単位でなく,もっと小さな多様なグループから成っており,個人加盟も認められていた。
 加盟者は,創立当初は,イギリスを除くと少なかったが,1867年の経済恐慌に続くストライキを通じてフランス(パリ,リヨン,マルセイユなど),ベルギー,スイスで組織が広がり,イギリスでは69年には28の労働組合が加盟するに至った。さらにイタリア,スペイン,ポルトガル,オランダ,デンマーク,アメリカに支部があった。オーストリア・ハンガリー,とくにドイツではいち早く社会主義政党が形成されつつあったが,結社法のため,団体加盟には至らず,むしろベッカー J. P. Becker(1809‐86)を中心とするジュネーブの〈ドイツ語支部〉の活動が活発だった。こうした支部は,各地域の運動の伝統と状況によりさまざまな性格をもっており,そのことは1866年から69年まで毎年,ジュネーブ,ローザンヌ,ブリュッセル,バーゼルで開かれた大会の議論にも反映していた。とくにフランスのいわゆるプルードン主義者の発想は,労働者の社会的解放にとって政治的自由の実現が不可欠だとするマルクスの考え方とは異質だったが,組織が地理的に広がるにつれマルクスの支持者が多数を占めていった。第3回,第4回大会では,鉱山,鉄道,耕地,森林などは社会の共同所有たるべきだという決議がなされ,協会の資本主義的私有財産制に対する批判的立場が鮮明になった。70年の普仏戦争に際しては,総評議会はフランス,ドイツの労働者が平和と友好を呼びかけ合ったことを高く評価し,ナポレオン3世の没落を歓迎したが,フランスの労働者がさらに新政府の打倒を試みることには否定的だった。しかし,71年,パリ・コミューンの蜂起が起こると,マルクスは《フランスにおける内乱》(1871)を書いて断固たる支持を与えた。そして協会を,労働者階級の政治権力獲得をめざす強固な政党組織に変えようとした。他方,ジュラ地方(フランス東部),イタリア,スペインなどの支部は,国家を否定するバクーニンの強い影響もあって,〈反権威主義〉を唱え支部の自治を擁護した。両派は激しく対立し,3年ぶりで開かれ,初めてマルクスも出席した72年のハーグ大会でバクーニンらは除名された。だが,協会は,諸政府の弾圧にさらされただけでなく,労働運動が国ごとに編成されていく傾向に対応できなくなっていたのである。それを洞察したマルクスは,同大会で総評議会のニューヨーク移転を決議させ,事実上,協会の歴史に終止符を打った(正式解散は76年)。
 除名された〈反権威主義派〉は,73年ジュネーブで,ベルギー,オランダなどからの代表を加えて第1回大会を開き活動を続けたが,それも77年の第4回大会(ベルビエ)が最後になった。
[第二インターナショナル]  1880年代になると,すでに息を吹きかえし労働組合組織の時代を迎えたフランスの労働者と,〈新組合運動〉が展開しつつあったイギリスの労働者が中心となって,具体的な労働条件の改善,とくに8時間労働日の実現をめざす国際会議が開かれるに至った。その3回目が89年7月,パリで開催されたが,主としてフランス社会主義運動内部の対立から,それまで主導権を取ってきていた〈ポッシビリスト(可能派)〉(分権的な組織論に立ち,ブルジョア政党との連携も辞さず可能な改良をめざす)の大会と,エンゲルスが支援した〈マルクス主義者〉の大会が,同時並行して開かれることになった。19ヵ国,約180名の外国代表を迎えた後者のほうが,国際的には重みがあり,これが事実上,第二インターナショナルの創立大会となった。しかし新しい国際組織は,国際労働者協会の後継者をもって任じてはいたが,正式な名称も規約もなかった。1900年の第5回大会以降,国際社会主義大会と称するようになったが,第三インターナショナル(コミンテルン)の動きが胎動し始めてから,それと対比的に第二インターナショナルと呼ばれるようになり,それが一般化した。このパリ大会では,なかんずく,8時間労働日要求のために,翌1890年5月1日を期して国際的に示威運動を行うことが決められた(メーデーの起源)。第2回大会は91年,ブリュッセルで開かれ,国際労働者大会の一本化が実現し,チューリヒ(1893),ロンドン(1896)と大会を重ねていった。参加者は各国各地域の運動体験について報告を聞き,労働者保護立法,労働組合の組織,ストライキ,農業問題,教育問題,そして軍国主義,戦争に反対する社会主義者の態度などについて議論を行った。しかし,この時期,最大の焦点となったのは,社会主義の実現のために〈立法・議会行動を必須の一手段〉と考えるドイツ社会民主党をはじめとする人びとと,反議会主義的でゼネストを重視するオランダのドメラ・ニーウェンハイス Domela Nieuwenhuis(1846‐1919)のような,いわゆる〈アナーキスト〉との対立であり,この問題は,ロンドン大会で〈アナーキスト〉の排除決議が採択されてようやく決着がついた。それは,1890年の帝国議会選挙に際し得票率では早くも第一党になり,同年〈社会主義者鎮圧法〉が失効してから急速に党勢を伸ばしたドイツ社会民主党が,国際的な場で主導権を取っていく過程でもあった。それに伴いマルクス主義が第二インターナショナルの主流を形成した。さらに,1900年には,その年パリで開かれた第5回大会の決議に基づいて,各国代表2名から成る国際社会主義事務局Bureau Socialiste International(BSI)が設置され,その執行委員会の機能をバンデルベルデ⊇mile Vandelverde(1866‐1938)らベルギー代表団が果たすとともに常設書記局がベルギー労働党本部のあるブリュッセルの〈人民の家〉に置かれることになった。事務局は錚々たる人物から成り,14年7月までに16回の会議を開いて重要問題を議した。書記局も,とくに1905年にユイスマンスCamille Huysmans(1871‐1968)(ベルギー)が書記長になってから情報の収集伝達に大きな役割を果たした。こうして第二インターナショナルは常設の制度となったが,それでもなお,事情を異にする国ごとの組織のゆるい連合体であり,事務局の権能も加盟組織間の連絡調整にとどまっていたところにその特徴がある。主力は,ドイツ,フランス,イギリス,オーストリア・ハンガリー,ベルギー,オランダで,亡命者によって代表されたロシア,ポーランドも重要な存在だった。そうしたヨーロッパの約20ヵ国に対し,他の地域からはアメリカ,オーストラリア,アルゼンチンなどごく少数であり,アジアでは日本だけであった(日本は1901年加盟,片山潜が事務局員に選ばれ,第6回大会に出席。第7回大会には加藤時次郎が参加したが,10年の〈大逆事件〉以降,関係は名目的にすぎなくなった)。
 第二インターナショナルは,1900年以降も引き続き社会政策や労働組合に関する諸問題に取り組み,また,世界各地の圧政に対し抗議の声をあげたが,帝国主義列強間の対立が激化する時期にあって,反戦勢力として大きな存在になっていった。日露戦争中に開かれたアムステルダム大会(1904)では片山潜とプレハーノフが友好の握手をし,シュトゥットガルト大会(1907)では,レーニン,ローザ・ルクセンブルクらの,社会革命への展望を含む修正案を採り入れた反戦決議がなされ,コペンハーゲン大会(1910)では,軍縮問題が討議された。さらに,バルカン戦争の起こった12年には,22ヵ国545名が急遽(きゆうきよ)バーゼルで大会を開き,反戦の誓いを新たにした。しかし,反戦問題や植民地問題,移民問題の討議を通じて意見の相違も明確になっていった。一つは,ドイツ社会民主党の組織温存主義的な傾向に対する,とくにフランス人の反発(アムステルダム大会でのベーベル=ジョレス論争)に見られるような各国の伝統と状況に由来する違いである。いっそう深刻だったのは,革命を志向し帝国主義を批判する左派と,改良に重点を置き植民地領有・移民制限に原則的反対を唱えない右派との対立である。カウツキーに代表される〈中央派〉が組織統一の理論を提供したが,14年8月,第1次世界大戦の勃発に際して,第二インターナショナルは実際に国際的な反戦行動を取ることができなかった。その月ウィーンで開催されるはずだった第10回大会は実現せずに終わり,組織は弱体化した。
 大戦中,左派はツィンマーワルト運動に結集し,1917年のロシア革命以後,そこからコミンテルン創立の動きが始まる。ボリシェビキに批判的な人びとは,イギリス労働党の主導権のもと,大戦中の敵対関係を克服すべく,19年2月,ベルンに会議を開いた。両者の橋渡しを目ざした,アードラー Friedrich Adler(1879‐1960)(オーストリア)らのウィーン・インターナショナル(第二半インターナショナル)の試みは成功せず,第二と第二半インターナショナルは,23年ハンブルクで合同大会を開き,ここに〈社会主義労働者インターナショナル〉が成立し,コミンテルンと競合,対立することになった。⇒コミンテルン         西川 正雄

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インターナショナル
I プロローグ

インターナショナル International 労働者階級の国際的連帯をめざす社会主義者の各種組織をさす。

II 第1インターナショナル

1864年ロンドンでひらかれた、イギリス、フランスなどの産業労働者代表の国際集会で設立された国際労働者協会。社会主義者の秘密主義的な連携という従来の活動スタイルをあらため、資本主義体制廃絶のための公開的かつ永続的な連帯をめざした。ロンドンに亡命中のマルクスが臨時中央評議会(1866年以降、総評議会)の一員にえらばれ、協会の規約や創立宣言を起草するなど、大きな役割をはたした。

しかし当初から、プルードンやバクーニンの影響をうけたアナーキスト(→ アナーキズム)らは、労働者が支配する中央集権国家というマルクスのモデルに反対し、「反権威主義」のインターナショナルの創出をとなえ、両派ははげしく対立した。1872年のハーグ大会でバクーニンらは除名されたが、両派の分裂の中で大会は総評議会のニューヨーク移転を決議し、事実上その活動に終止符をうった(1876年に正式解散)。第1インターナショナルはヨーロッパの政治状況に一定のインパクトをおよぼしたが、そのメンバーは2万5000人ほどにすぎず、つねに財政難であった。

III 第2インターナショナル

フランス革命100周年に際して、1889年パリで2つの社会主義者の大会がひらかれたが、一方でマルクス主義者の大会がエンゲルスの支持をうけて開催され、事実上これが第2インターナショナルの創立大会となった。大衆政党のゆるい連合体であるこの組織の連絡調整のために、1900年ブリュッセルに国際社会主義事務局がおかれた。第1次世界大戦までに9回の大会をもったが、1896年のロンドン大会でアナーキストが排除され、ドイツを中核とするマルクス主義者が主導権をにぎった。ドイツの社会主義者たちはマルクスの革命理論をとなえながらも、ドイツの法的枠組内での改革に精力をかたむけていた。

フランスのマルクス主義者の多くも同様で、そのひとりA.ミルランは、非社会主義政権のR.ワルデック・ルソー内閣に1899年入閣した。同年ドイツ社会主義の指導者E.ベルンシュタインは「社会主義の諸前提と社会民主党の任務」をあらわしてマルクスの教義を修正し、革命の不可避性を排して、非マルクス主義政党との協力による社会主義への道を提起した。彼の見解はドイツの正統派マルクス主義のリーダーであるカウツキーに批判された。

ヨーロッパ戦争を防止しようとするインターナショナルの努力は、同時併行的に進行した内部のいざこざによって足元からほりくずされた。イデオロギー上は反戦平和と国際主義をかかげつつも、社会主義者は自国の軍事的敗北を容認することができず、結局、彼らもそれぞれの国家の枠にとらわれた発想から脱却できなかったのである。第1次世界大戦が1914年におこったとき、階級的連帯よりも国家への忠誠のほうが強いことが露呈し、多くの社会主義者は自国政府の戦争努力の支援にまわった。こうして第2インターナショナルは終末をむかえたが、再建の努力も20年までつづけられた。戦後の23年に発足した社会主義インターナショナルはその系譜をひいており、社会民主主義政党の連帯組織をなした。

IV 第3インターナショナル

ロシア革命後の1919年3月、レーニンはコミンテルン(共産主義インターナショナル)を新たに発足させ、ロシア共産主義をモデルとして世界革命へと展開させようとした。創立大会ではG.ジノビエフがコミンテルン議長に選任され、執行委員会が任命された。20年の第2回大会ではコミンテルンへの加入資格21項も採択されたが、これは第2インターナショナルの修正主義的な社会主義を否認するものであった。

レーニンが死ぬ1924年までにヨーロッパにおける革命的高揚は退潮し、世界革命の夢は後継者スターリンの現実政治的な発想にとってかわられた。スターリンにとっては、コミンテルンはソ連国内での自己の権力の確立とソ連の対外的影響力の強化のための手段の域をでなかった。非共産主義者との政治的連携をめぐる問題をはじめ、コミンテルンの政策のぶれは、彼の国内政策と外交戦略の都合によるものである。第2次世界大戦での連合国である米英への譲歩のひとつとして、43年5月に彼はコミンテルンを解散させた。

V コミンフォルム

第2次大戦後の1947年10月、ソ連は9カ国共産党会議をポーランドでひらき、ソ連、ブルガリア、チェコスロバキア、ハンガリー、ポーランド、ルーマニア、ユーゴスラビア、フランス、イタリアが参加、コミンフォルム(共産党・労働者党情報局)が設立された。目標には情報の交流をかかげていたが、実際にはスターリンの政策遂行の道具と化し、とくにチトーのひきいるユーゴスラビアの自主独立路線が問題になった。本部はユーゴのベオグラードに当初おかれたが、48年6月にはチトーのユーゴスラビア共産党を除名した。スターリンの死後、フルシチョフ政権のもとでソ連とユーゴの和解がはかられる中で、56年4月コミンフォルムは解散した。

インターナショナルが失敗におわった原因は、労働者階級の超国家的連帯という理論と、社会主義運動内部における国家間の競合という、現実の矛盾にねざすところが大きい。第2次世界大戦後、社会主義者や共産主義者は、それぞれ自国の伝統と目標に即応する方向を、理論と実践の両面でめざしてきた。

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機械論的唯物論
機械論的唯物論
きかいろんてきゆいぶつろん mechanical materialism

人間の意識をも含めたすべての事象を,力学的法則で説明しようとする唯物論の一形態。自称の理論的立場ではなく,生物学的(生理学的)唯物論や弁証法的唯物論と区別するための第三者による呼称。古代ギリシアのデモクリトスの立場などをもこの語で呼ぶ論者もあるが,典型的には18世紀のフランス唯物論,ディドロ,ドルバック,ラ・メトリーらの立場を指す。一般に,古典物理学的世界像は一種の機械論的唯物論といえる。  広松 渉

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『縮約(縮退)自然数』

 ≪…諸要素間の関数的相互依存関係を思考経済の原則…≫(思惟経済の原理)との事を
「ハイゼンベルク部分と全体」湯川秀樹序山崎和夫訳のアインシュタインとの会話に【数そのモノ】を観る。 
 『離散的有理数の組み合わせによる多変数創発関数論 命題Ⅱ』の帰結の『自然比矩形』の『(わけのわからん ちゃん) (かど ちゃん) (ぐるぐる ちゃん) (つながり ちゃん) (まとめ ちゃん) (わけのわかる ちゃん)』のパフォーマンスが人間の(思惟経済の原理)の[離散性]と[量子化]が双対しているようだ。 

by 『縮約(縮退)自然数』 (2019-06-02 06:27) 

絵本のまち有田川

自然数は、
[絵本][もろはのつるぎ]で・・・
by 絵本のまち有田川 (2020-01-27 04:57) 

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