倫理学はノイラートの船か?(その2-1) [宗教/哲学]
進化論
進化論
しんかろん
evolution theory
生物進化の事実,機構,原因などに関する理論,またはそれらを研究する学問分野。生物の進化の素朴な考えは紀元前からあったが,近代的な進化論の芽生えは『動物哲学』 (1809) を著わしたフランスの J.ラマルクに代表され,C.ダーウィンの『種の起原』 (59) によって不動の学説として確立され,進化論といえばダーウィン説をさすほどである。ダーウィンの進化論は自然淘汰 (選択) 説と呼ばれたが,その後,実験生物学や遺伝学の発達に裏づけられつつ,現在の主流であるネオダーウィニズムへと発展した。定向進化の見方に一定の価値を認めるネオラマルキズムは 20世紀初頭に一時,生物学者や哲学者,思想家の一部から支持を受けたが,主流とはならなかった。分子生物学の発達とともに,分子レベルで進化の問題が論じられるにいたり,蛋白質の進化を中心として分子進化学の分野も成立している。化石から知られる古生物の進化は大進化で,定向進化説はおもに古生物学上の事実に基づいていた。
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[ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 2008]
進化論
I プロローグ
進化論 しんかろん Evolutional Theory:Theory of Evolution 生物進化に関する理論。進化論には、進化の実在を主張する理論と、進化のメカニズムを説明する理論という2つの意味がある。前者は、キリスト教原理主義者が、生物は神によってつくられたとする聖書の記述を信じて、創造説をとなえるのに対比していわれるもので、歴史にあたえた進化論の影響もこの意味においてである。進化の事実は、化石および地質時代の記録、現在の生物の地理的分布と各地域の生物相、および分子進化学(→ 進化生物学)的な証拠によって、科学的には疑いの余地なく確立されているが、アメリカ合衆国などでは現在も創造説を信じる人が多く、教育の現場を中心に論争がつづいている。→ スコープス裁判
進化のメカニズムとしての進化論の歴史については、チャールズ・ダーウィン以前と、ダーウィン=ウォーレスの進化論、進化の総合説、および現在の進化論の順で、以下に概説する。なお、本来的な意味の進化論には、生命の起源もふくめられるべきだが、ここではあつかわない。
II ダーウィン以前の進化論
進化とは、生物が時間とともに変化して、ことなった種類の生物になることである。生物が変化するという漠然とした認識は、古代ギリシャの自然哲学や東洋の輪廻転生的な自然観にもうかがうことができるが、歴史的な過程として、進化の認識が成立するのは、18世紀以後のことである。地質学が地球の変化を明らかにし、古生物学がことなった地層からことなった化石をみつけだし、比較解剖学が生物の構造には種をこえた共通性があることをしめし、発生学が卵から複雑な器官が形成される過程を、生物地理学が世界各地の生物相の特異性を明らかにするにつれて、あらゆる事柄が進化の事実をさししめすようになった。
こうした状況の中で、進化論的な発想の先駆けとなるものが、いくつかあらわれた。たとえば、ジョフロア・サンティレールやリチャード・オーエンが提唱した動物の器官の相似や相同という概念は、共通のプランからの進化を前提としていたし、フォン・ベアは、ヘッケルに先だって高等動物の初期胚が下等動物の成体に似ていることを指摘していた。また、反進化論者として有名なキュビエも、神による創造という枠内で、天変地異による新種の出現をみとめていた。そのほか、モーペルテュイやビュフォンも進化論的な考え方を公然と表明していた。
ダーウィン以前の体系的な進化論者として特筆すべきは、エラズマス・ダーウィンとラマルクである。エラズマスは、チャールズの祖父で、著書「ズーノミア」(1794~96)において、フィラメント状の原始生物からすべての動物が進化したことを明確にのべたが、進化の要因を環境の変化に対する動物の反応にもとめていた。ラマルクの進化論は、著書「動物哲学」(1809)にのべられていて、それによれば、生命は常に自然発生しており、その内在的な能力によってしだいに成長・複雑化していくという。さらに、環境への適応としてつかわれる器官が、獲得形質の遺伝を通じて発達することによって、生物の多様性がますと考えた。後世、この後者の点のみが強調されることになり、ラマルク説=獲得形質の遺伝とみなされるようになった。
III ダーウィン=ウォーレスの進化論
進化を裏づける証拠が蓄積されていったにもかかわらず、進化論はなかなか受容されることがなかった。その背景のひとつとして、すべてを神の創造に帰すキリスト教的な世界観、多様な生物の世界を静的な存在の連鎖とみなす中世的な世界観があった。また逆に、進化論が社会的に受容されるようになった背景には、産業資本主義の発展、自由競争による社会の進歩という時代精神があったことは事実である。しかし、ダーウィンの進化論(厳密には、アルフレッド・ラッセル・ウォーレスが同時発見者である)がそれ以前の進化論と一線を画し、最終的に社会にみとめられ、現代生物学の基盤となった最大の理由は、科学的な進化のメカニズムをはじめて提出したところにある。
有名な「種の起原」(1859)で、ダーウィンがのべている自然選択(自然淘汰)説の原理を要約すると次のようになる。あらゆる生物は、生存できる以上の子供をうむので、それらの子供どうしで必然的に生存競争が生じる。一方、子供の間には個体ごとに変異があるため、生存競争においては、より適応した性質をもつ個体が生きのこる。この過程の集積によって変種が生じ、変種が新しい種の発端になるというのである。ダーウィンの時代には、遺伝の法則はまだ発見されておらず、変異の原因も不明ではあったが、自然選択説は、生存競争と変異の組み合わせによって、神が介在しなくとも、種が自動的に進化するメカニズムを提示したのである。
ダーウィンの進化論は、社会進化論(→ 社会ダーウィニズム)や優生学といった形で、生物学以外の世界にも多大の影響をあたえた。また、生物学の歴史においても、人間をふくめてすべての生物を神秘の座から科学の対象にひきおろし、すべての生物現象を進化的適応という観点からみることを要請した点において、決定的な重要性をもっていた。
IV 進化の総合説
進化論そのものは、「種の起原」が出版されてから10年ほどで学界に広くうけいれられたが、自然選択説に対してはさまざまな異論が出された。19世紀末には、獲得形質の遺伝を強調するネオ・ラマルキズムや定向進化説が、アメリカの古生物学者コープやオズボーンなどによって主張され、多くの支持をえた。定向進化説は、化石の記録にもとづいて進化に方向性があるとするもので、その原因を生物の内在的な力にもとめた。オオツノジカの巨大な角、剣歯虎の長くのびすぎた犬歯は、定向進化の好例とされ、このような過度の発達は、自然選択説では説明できないとした。
また逆に、1900年におけるメンデルの法則の再発見者のひとりであるド・フリースは、突然変異こそが新しい種が生まれる原因であると主張する理論を1901年に発表した。それによって、軽微な連続的変異の集積が進化の要因であるとするダーウィンの自然選択説に異をとなえ、多くの支持者をえた。こうして、1910年代には、進化の説明理論としての自然選択説は、存続の危機に直面していた。
この危機を打開したのが、生物測定学(生物統計学:→ 遺伝)派に起源を発する集団遺伝学(→ 進化)の発展であった。アメリカのS.ライト、イギリスのR.A.フィッシャー、J.B.S.ホールデーンらによって、体系をととのえられた集団遺伝学は、集団の遺伝子構成(遺伝子頻度:→ ハーディー=ワインベルクの法則)を統計的に処理することによって、生物の形質には多数の遺伝子が関与しており、メンデル遺伝学の突然変異と連続的な変異が矛盾なく両立できることをしめした。これに、種分化(→ 種)における隔離の重要性を指摘したT.ドブジャンスキーやE.マイヤ、そして定向進化説を実証的に否定した古生物学者G.G.シンプソンらがくわわって、1930~40年代に、進化の総合説(総合学説)が確立される。
総合説は、ネオ・ダーウィン主義とよばれることもあるように、ダーウィンの自然選択説を、現代的な科学知識の上に再構築したもので、現在における正統派進化論として大多数の生物学者によってみとめられている。総合説によれば、進化は、集団の遺伝子構成の変化として理解される。つまり、突然変異や交配の際の遺伝的組み換えによって生じた遺伝的変異の集団内における頻度が、遺伝的浮動(→進化の「種分化」)によって非適応的に変動したり、あるいは自然選択の作用によって適応的に変動したりする。そして、それが、地理的な隔離をうけることによって、ことなった遺伝子構成をもつ変種集団になり、やがて別の種となると考えるのである。
総合説とダーウィンの自然選択説のもっとも大きな相違点は、ダーウィンの場合には自然選択の単位が個体であり、生存競争を通じて適応的な個体が生きのこることによって進化がおこると考えるのに対して、総合説では、自然選択の単位は遺伝子であり、適応的な遺伝子が集団中にふえることによって進化がおこると考えるところにある。ドーキンスの利己的遺伝子説は、このことを比喩的に強調したものである。
V 現在の進化論:総合説へのさまざまな異論
正統派進化論(総合説)に対して、さまざまな異説や異論があるが、その主要なものについて、現代生物学の知識にもとづいて検討してみよう。
1 創造説
まず、第1に、進化の事実を否定する創造説がある。先にものべたように、進化の事実は科学的に確立されたものであり、科学一般を否定するのでないかぎり、なりたたない主張である。この変形として、進化はみとめるが、それは神あるいはその他の超越的な存在がさだめたものだという説がある。そうした議論は、信仰の問題ではあっても、科学が介在するところではない。
2 ネオ・ラマルキズム、定向進化説、今西進化論
第2に、自然選択ないしは生存競争を否定し、集団のすべての個体が一斉に変化するという主張がある。ネオ・ラマルキズム、定向進化説、今西進化論などがこの範疇(はんちゅう)に入る。その場合、変化にむかう要因として考えられているのは、生命力のような内在的な力か、獲得形質の遺伝である。内在的な力は、それが具体的に提示されないかぎり、科学的に検証することができない。
獲得形質の遺伝は、現代遺伝学の知識にてらして否定される。逆転写現象(→ レトロウイルス)の発見によって、DNA→RNA→タンパク質というセントラルドグマに例外のあることが明らかになったとはいえ、一般的に個体が生涯に獲得した形質が、子供に遺伝的につたえられるメカニズムはみつかっていないからである。ただし、個体のレベルではなく、集団のレベルでは、適応的な遺伝子が世代を重ねるごとに集団内に広がっていくので、集団として獲得した適応的形質が遺伝していくようにもみえるが、これは見かけだけのことにすぎない。
3 中立説、跳躍遺伝子、分子駆動
第3に、遺伝子変異の原因に対する異論がある。従来の総合説では、突然変異と交配の際の遺伝的組み換えのみを想定していたが、遺伝学の発展によって、それ以外の形による変異も知られるようになった。ひとつは木村資生が指摘した生体分子の中立的進化で、この説(中立説)は、分子が環境とは無関係に進化するという意味において、自然選択説に衝撃をあたえた。しかし、その分子進化の原因は、突然変異と遺伝的浮動によって説明され、また機能的に重要なタンパク質における分子進化は、自然選択によって抑制されることが明らかになり、現在では総合説の枠組みと矛盾しないと考えられている。
また、マクリントックらが発見した跳躍遺伝子や分子駆動の存在は、染色体間あるいは個体間の水平的な遺伝情報伝達があることをしめした。これらは、親から子への垂直的な遺伝情報の伝達のみを考慮にいれていた総合説に、深刻な見直しをせまるものである。しかし、それらは、進化の基本的なメカニズムとして、自然選択説にとってかわるものではない。
4 断続平衡説
第4に、進化の漸進性に対する異論がある。グールド=エルドリッジの断続平衡説がもっとも典型的なもので、種が段階的に変化する小進化には総合説が適用できても、新しい種やそれより上位の分類群が出現する大進化には、大量絶滅などの環境の激変と、新しい形質の爆発的な発現が必要であると説く。この説は古生物学的な事実とはよく一致するが、生物学的なメカニズムは明確ではない。ただし、近年の分子遺伝学では、ゲノム中に、機能をもたない膨大な遺伝子や、多くの生物に共通する遺伝子群、多数の遺伝子を制御するマスター遺伝子などの存在が明らかにされており、これらの遺伝子が激変期に重要な役割をはたしている可能性はある。
5 細胞共生説
第5に、非連続的な進化の実例として、リン・マーギュリスが提唱した細胞共生説がある。これは、真核生物(動物や植物など)のミトコンドリアや葉緑体、鞭毛が別の単細胞生物との共生によって生じたとするもので、現在ではこの説が正しいことがほぼ立証されている。これは、自然選択とはまったく次元をことにした進化の様式で、高等動物の進化においても、共生微生物やウイルスの遺伝子が同じような形で影響をあたえている可能性は否定できない。
いずれにせよ、古典的な遺伝子像がくつがえり、ダイナミックに相互作用する遺伝子像がうかびあがってきた現在、単に自己の複製を子孫につたえるという遺伝子像だけで自然選択を考えるのは、進化の全容をかたることにならない。新しい知見をとりいれた新総合説とでもいうべき体系的な進化論の再構築が期待されるところである。
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進化論
しんかろん evolution theory
生物進化論の歴史は C. ダーウィン以前,ダーウィン,ダーウィン以後に大きく3区分することができる。しかしダーウィン以前のうち,古代ギリシアの自然哲学における進化思想は時代的にもかけ離れており,近代の進化論とは区別して扱われねばならない。
【ギリシア自然哲学】
ミレトス学派のアナクシマンドロスは,大地の泥の中に原始生物が生じてしだいに発達し,さまざまの動植物ができ,最後に人間があらわれたと説いた。エンペドクレスは,動物の体のいろいろな部分が地中から生じて地上をさまよいながら結合し,適当な結合となったものが生存して子孫を残したとのべた。またアリストテレスとともにプラトンの弟子であったスペウシッポスも,生物が単純なものから複雑なものに進み,ついに人間を生じたとしている。これらの考えは,民間伝承と哲学が結びついたにすぎないともみられるが,また他方,造物主の観念に束縛されない自由性をもつ点で評価されることもある。アリストテレスは自然物に関し,無機物から下等植物,ついで順次に高等植物,植虫類,下等動物,高等動物,最上位に人間という配列がなされるということ,すなわち後世いう〈自然の階段 scala naturae〉の考えをのべた。もしこれを時空的発展として解釈すれば進化論ということになり,それでアリストテレスを進化論者の列に加える意見もあるが,一般には認められていない。ところで古代でも,アリストテレスと同時代のスペウシッポス以後には,進化論的観念があらわれていないということは,アリストテレスの目的論的生命観がそれだけ強固な支配力をもったことを示すものでもあろう。もっとも原子論者ルクレティウスの《事物の本性について》に進化の観念がほの見えているといわれることはある。のちにヨーロッパがキリスト教支配の時代にはいると,原子論と同様,もはや進化論はあらわれてこない。
【近代進化思想の誕生】
[フランス進化論] 近代になり生物進化の観念がまず最初に一つの流れとして認められるのは,18世紀なかば以降のフランスである。前世紀末における古代人と近代人の優劣論争で代表されるような,社会および人間に関する進歩の観念がその背景をなすとされる。18世紀的唯物論がこれに加わる。モーペルテュイ,ビュフォン,ディドロ,ドルバックらが主要な進化思想家としてあげられる。モーペルテュイとビュフォンが,ボルテールとならんでフランスへのニュートン力学の紹介者であることは,この力学がフランス思想に自然の合則性の観念を直接培って,進化観念の土台を準備したことを示している。ただしいうまでもなく,こうした進化観念の誕生と発展は,生物および地球に関する科学研究の発達を足場として可能になっている。フランス進化論の皮切りというべき著作は,モーペルテュイの《人間と動物の起原》(1745)で,モーペルテュイはまた遺伝学の先駆者としても評価されている。ビュフォンは大著《博物誌》(1749以降)の諸巻で進化をほのめかしているが,反対の意味にとれる記述もある。彼は地球の年齢を《創世記》にもとづくよりはるかに長大なものとし,それを測定するための実験も試みた。ビュフォンが進化論者として認められるなら,それはこのような地球に関する観念の変革と関係しているのであろう。ドルバックは《自然の体系》(1770)で,人間を含め生物が地表の変化にともない変化してきたことを説き,ディドロは現在の大動物も過去には小さいうじ虫のごときものであったとのべている。
ラマルクの進化論は《動物哲学》(1809)で体系的に説かれ,C. ダーウィン以前の進化論のうち科学の学説としてもっとも整ったものである。彼の進化論がパリ自然史博物館の講義で最初にのべられたのは,19世紀のごく初年であるが,しかし彼の前半生は大革命にいたるまでの時代にすごされており,理神論を含め,彼の世界観には18世紀フランス思想の影響が印されている。ラマルクの進化論の根本は,無機物から現在も自然発生している原始生命が,内在する力によって発達し複雑化した生物になっていくが,しかし生物はまた環境の直接作用や習性の影響,つまりは獲得形質の遺伝により多様化していくということである。ラマルクの進化論は少数の学者の注目をひいたにとどまり,彼は周囲からは無神論者,唯物論者として非難された。
[イギリス進化論] 18世紀にはドイツの哲学者カントの進化思想もあげられる。それはとくに《判断力批判》(1790)にあらわれているとされる。だがフランス進化論とともに流れとして注目されるのはイギリスのものである。すなわち E. ダーウィンから断続してはいるが,その孫で大進化論者の C. ダーウィンにいたる流れであり,これもまた社会における進歩の観念を背景にすると見られる。ただしこの場合には,産業革命の進展以来の産業資本主義の発展期における進歩の観念であって,その時代の社会の諸観念を反映した進化論がしだいにうちたてられていくようになる。E. ダーウィンは著作《ゾーノミア》(1794‐96)で,生命は海中に誕生し発達して人間を生じたと説いた。ラマルクの進化論より早く,しかも進化要因を含めラマルクと共通するところが多い。しかし両者の進化論は互いに独立に形成されたと見られている。19世紀になり,C. ダーウィンの自然淘汰説の先駆となる研究もいくつかあらわれたが,当時は注目されず,チェンバーズ R. Chambers の著作《創造の自然史の痕跡》(1844)が自然神学との混合のような進化論ではあったが,一般の関心をよび多くの議論を起こさせた。C. ダーウィンの進化学説公表の直前にでた H. スペンサーの進化論では,進歩の観念との関係がきわめて密接である。彼は等質の状態から異質の状態に進むことをもって進歩であるとし,生物の進化をその一環として規定した。この考えには分業などの進んでいく当時の社会情勢が反映している。スペンサーは生物と社会の並行的な見かた(社会有機体説)にもとづき,生物進化論と並んで社会進化論を唱えた。
【ダーウィンの進化論】
C. ダーウィンが種の起原,つまり進化についての系統的研究を始めたのは,ビーグル号航海から帰った翌年の1837年,28歳のときであり,学説の骨格も早く成り立っていたが,公表されたのは58年7月1日のリンネ学会においてである。マレー諸島滞在中の A. R. ウォーレスから送られてきた論文が,ダーウィン自身の自然淘汰説と同趣旨であり,結局,両者の論文を同じ表題のもとにおいたジョイント・ペーパーとして発表することになったのであった。この論文はほとんど理解されず,ダーウィンが急ぎ自説をまとめた著作《種の起原》が,翌59年11月に刊行されて初めて思想界に風雲を巻き起こすことになった。とはいえ,ダーウィン学説の普及には約10年を要した。
ダーウィン学説の中心的な柱は自然淘汰説であり,ダーウィンは自分の独創的な学説としてとくにそれを強調しているが,器官の用不用というラマルク的要因も認めている。ところで自然淘汰説は,産業資本主義の発展期における自由放任(レッセフェール)的競争社会の観念が反映したものであるということが,早くから批評家たちによって指摘されており,一般の人たちが自然淘汰説を歓迎して受容したこともそれと関係があるとされる。ダーウィンとウォーレスが,ともにマルサスの《人口論》から示唆を受けていることもその見かたの根拠になっている。だが,もし自然淘汰説が単に社会観念の反映にすぎないものであれば,その点ではダーウィン以前の諸説と変わらないことになる。しかしそうではなく,進化論の歴史におけるダーウィンの真の意義は,学説のきっかけとなった観念とはかかわりなく,その学説を近代科学の方法の原則に従って整頓し体系化し,そうすることによって進化という問題を科学研究の対象として確立したことにある。科学研究の方法論に関してダーウィンは,W. ヒューエル,J. F. W. ハーシェルという当時の代表的科学哲学者の著作や彼らとの個人的接触から学び,また実践面ではライエルの地質学から学びとった。イギリスの科学哲学における前世紀の D. ヒューム以来の伝統が,ダーウィンにおいて重要な役割をしたことになる。⇒ダーウィニズム
【進化論の思想的影響】
《種の起原》の刊行以後,ダーウィンの確立した道にそって進化の科学的研究が発展することになったが,進化論の受容は聖書の《創世記》の記述を否定するものとなるから,それは宗教とくにキリスト教の信仰にたいする大きな衝撃となった。だがそれだけでなく,進化論は人間の世界観あるいは社会思想にたいしきわめて多面的な影響を及ぼした。それらの影響には,進化論一般からのものとダーウィンの自然淘汰説からのものとを一応区別できる。進化の一般的観念は,世界の事象の歴史的な見かたをうながし,ものごとの科学的・実証的把握の重要さを印象づけ,それは教育理論に重大な変革を要請するものともなった。また人間の動物的本性,つまりサル的先祖からの進化に人々の関心を引きつけ,そのことは一方では改めて進化論の忌避を助長し,他方では人間行動の本能主義的理解にみちびいた。ダーウィン学説発表後に,通俗刊行物にもっとも多く掲載された記事は,人間のサルからの進化に関するものであった。
つぎに進化論一般でなく,ダーウィンの自然淘汰説の思想的影響としてあげねばならないのは,人間の社会において生存競争が不可避の原理であるとの観念がさらに強化され,優勝劣敗あるいは弱肉強食の合理化の議論が頻繁になされるようになったことである。エンゲルスやマルクスも,ダーウィンの進化論に史的唯物論の立場で関心を寄せたが,同じころアメリカでは進化論が保守的社会観の理由づけに使われた。社会は漸次的に進歩する本性をもつものであり,その進歩を速めるなどのために無理な介入はすべきでないというのである。このように進化論からのきまった思想的影響というより,それぞれの社会で進化論がつごうよく受けとられている場合が多く,そのことは明治期の日本でも見られる。
いま上でも触れたが,19世紀後半より20世紀前半にわたり,アメリカでは進化論の思想的影響がもっとも特徴的にあらわれている。ダーウィン学説とともにスペンサーの進化論が普及したことはその一つであり,また進化論がプラグマティズムの哲学の成立をうながしたことが注目される。進化論の哲学への影響は,フランスのベルグソンの《創造的進化》(1907)などいろいろあるが,プラグマティズムは最大のものといえる。
進化論への世界の知的興奮は,20世紀前半に進化の科学的研究がいわば科学の軌道で安定して進められるようになってから,少なくとも外面的には沈静し,それは進化が科学的常識となったことを意味するものでもあった。ところがアメリカでは,1920年代なかばに進化論が反宗教的であるとの理由で,その教育を禁止する法律がいくつかの州でつくられ,それらの法律をめぐって訴訟が起こされた。問題はその後ながくくすぶっていて,60年代に再燃し,さらに80年前後に天地創造説と進化論を平等に教えさせるべきだという法案が出されて裁判沙汰となった。
【進化の科学的研究の発展】
ダーウィンの進化論は,同国人 T. H. ハクスリー,ドイツの学者 E. H. ヘッケルらの活動で普及した。しかしヘッケルにしても,ゲーテ,ラマルク,ダーウィンを三大進化論者として並列するものであり,また進化は認めるが自然淘汰以外の要因を重視する意見も多くの学者によって出されるようになった。ラマルク説,定向進化説,隔離説などである。19世紀末年に近づくころより,A. ワイスマンによるネオ・ダーウィニズムが普及し,自然淘汰の万能が主張されたが,それは生殖による遺伝質の混合を淘汰の素材であるとし,遺伝質そのものは不変的であるとするものであった。そして前世紀末よりの遺伝学の発展も,生物の性質の不変性の面を強く印象づけ,そのため20世紀初年には進化の不可知論的時代とよばれる様相もあらわれた。この間にド・フリースの《突然変異説》(1901)が出され注目をひいたが,それは上記の情勢の中で出たためにいっそう関心を呼んだのでもある。やがて遺伝子説が確立され,突然変異が淘汰の素材であると考えられるようになり,1930年ごろからの自然淘汰説を柱とする集団遺伝学の発展で,新たな段階でのネオ・ダーウィニズムが基礎づけられ,それはまた生物学の諸分野の総合という面から総合学説 synthetic theory とも呼ばれた。
分子生物学の成立と発展は,分子進化の研究を進化学の重要な分野として確立した。その成果として生まれた木村資生(もとお)の中立説(1968)は,自然淘汰万能の観念に問題を投じ,衝撃を与えるものとなった。またその後,自然淘汰によって新種の起原となるほどの新たな形質が生じうるか,進化の経過は果たしてダーウィン説でいうような連続的,漸次的なものであるかなどに関して,現代科学の成果をふまえた問題提起がなされ,進化学説への根本的再検討の気運が強まっている。
【日本の進化論】
江戸時代末期近く石門心学者の鎌田柳泓(りゆうおう)(1754‐1821)が著した《心学奥の桟(かけはし)》(1816稿,1822刊)に進化の観念がのべられており,それは蘭学書よりの知識にちがいないが,詳細は不明とされる。明治時代に入り,松森胤保(たねやす)《求理私言》(1875)に進化のことが書かれたが,進化論の最初の体系的な紹介は1878年に東京大学動物学教授として来日したアメリカ人 E.S. モースによってなされた。その講義はのち石川千代松訳《動物進化論》(1883)として刊行された。石川は《進化新論》(1891)を,丘浅次郎は《進化論講話》(1904)にはじまる多数の著作を書き,進化論を普及させた。これらと並行しダーウィン,スペンサー,ハクスリー,ワイスマンなどの著作もあいついで翻訳された。明治期の日本には,アメリカを介してスペンサーの進化論,とくに社会進化論の大きな影響が認められるが,それを含め進化論の思想的影響は広範かつ多面的であった。もともとモースを招いたのは外山正一の発意であったが,彼は社会進化論に関心を寄せていた。モースと同じころ来日し,長く日本に住んだアメリカの哲学者で美術研究家のフェノロサも,スペンサーの社会進化論を普及させた。石川,丘の諸著でも進化論にもとづく社会観や人生観がのべられており,そのことは書物の普及のために重要な役割をした。哲学者加藤弘之は,自然淘汰説を知って天賦人権説を捨て,生存競争にもとづく優勝劣敗を社会の原理とする説に転じた。他方,明治後半より大正年代にかけて,当時のいわゆる社会主義者たちが進化論に関心を寄せた。幸徳秋水,大杉栄,堺利彦,山川均らであり,大杉は《種の起原》の翻訳もした(1914以降)。だが生存競争説は,社会主義への攻撃の論拠にも使われた。社会進化論と関連し法律進化論は,穂積陳重らの法理論に影響を与えた。
昭和年代になり,生物進化の研究は進化学の名で呼ばれることが多くなり,小泉丹および駒井卓がこの学の成果のおもな紹介者として活動した。世界観などとの関係を離れ,純粋に科学的研究の問題として扱われるようになったのは,前に触れた世界における進化研究の新たな動向の反映でもある。駒井はネオ・ダーウィニズムの線に添ってみずからの研究も進めた。徳田御稔は遺伝学を重要な基盤としつつも,ネオ・ダーウィニズムへの批判を併せ行った。これら進化学の紹介を日本の進化論の第2段階とすれば,第3段階は日本の学者による独自的学説の樹立ということになる。前記の木村資生の中立説はその一つであり,また今西錦司はダーウィン批判の議論を展開し,種形成に関する新理論を提唱した(《ダーウィン論》1977,その他)。 八杉 龍一
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G.E.ムーア
ムーア
ムーア
Moore,George Edward
[生] 1873.11.4. ロンドン
[没] 1958.10.24. ケンブリッジ
イギリスの哲学者。ケンブリッジ大学教授 (1925~39) として,また哲学雑誌『マインド』の編集主幹 (21~47) としてイギリス哲学界における主導的役割を果した。 1903年『倫理学原理』 Principia Ethicaおよび『観念論の論駁』 The Refutation of Idealismを発表,この2作は当時のイギリス哲学界に流行していたヘーゲル主義的,カント主義的観念論を批判したもので,新実在論と呼ばれるムーア自身の哲学の出発点であった。彼は体系的哲学を否定し,言語分析あるいは論理分析により哲学上の諸問題に光を当てて,さらに新しい問題を発見してゆくという分析的方法を主張した。主著『哲学研究』 Philosophical Studies (22) ,『常識の擁護』A Defense of Common Sense (25) ,『哲学の主要問題』 Some Main Problems of Philosophy (53) など。
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ムーア 1873‐1958
George Edward Moore
イギリスの哲学者。初め F. H. ブラッドリーの新ヘーゲル主義の影響を受けたが,やがて外的事物や時空をはじめとして常識で〈ある〉とされるものはみな存在すると考えるようになる。その考察は緻密・執拗で,認識,存在,倫理の諸原理を概念分析によってとらえようとするもので,その方法は日常言語分析の先駆とされる。ラッセルとともに感覚所与理論を提唱し,倫理学においては善を分析不能な単純なもので,自然的事物やその性質とは本質的に異なるものとしながらもその客観性を認め,それは一種の直観によってとらえられるとする。主著《倫理学原理》(1903)。 中村 秀吉
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ムーア,G.E.
I プロローグ
ムーア George Edward Moore 1873~1958 イギリスの哲学者。倫理学や実在論擁護で有名。ロンドン郊外で生まれ、ケンブリッジ大学にまなび、1911~39年まで同大学でおしえる。
II 言語哲学への影響
ムーアにとって哲学とは、まず第1に分析である。それは複雑な命題や概念を、それと論理的に同じ意味をもつもっと単純な命題や概念によって緻密にとらえようとすることである。たとえば、彼はそれまでの一部の哲学者がとなえた「時間は実在していない」といった主張に対して、「わたしは昨日その記事を読んだ」などといった日常的時間にかかわる事実によって批判した。このようなムーアの、明晰さをもとめる念入りな概念の分析は、20世紀の言語分析の哲学に大きな影響をあたえた。
III 倫理学
ムーアのもっとも有名な著作は、「倫理学原理」(1903)である。その中で彼は、善という概念は、それ以上分析できない単純で定義不可能な性質をしめしていると論じた。彼によると、善は感覚によってではなく、道徳的直観によってわかる性質であり、自然なものではない。
「観念論論駁(ろんばく)」(1903)などの著作は、現代の哲学的実在論の展開に大きく貢献した。ムーアは経験と感覚を同一視することなく、経験論からしばしばおこってくる懐疑主義におちいらないようにした。われわれの外にある世界は、われわれの心の中だけにあるのではなく、それ自体で存在しているのだという常識の立場をまもったのである。
→ 分析哲学と言語哲学
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自然主義的誤謬
自然主義的誤謬
自然主義的誤謬(しぜんしゅぎてきごびゅう)は、 naturalistic fallacy の訳語である。20世紀初頭に G. E. ムーア が著書『倫理学原理』の中でこの言葉を導入した。その後この概念は、本当に誤謬なのかどうかも含めて、多くのメタ倫理学者によって再解釈・検討され、メタ倫理学の中心課題となってきた。
ムーアの議論 [編集]
ムーアによれば、自然主義的誤謬とは、「善い」(good) を何か別のものと同一視することである。その何か別のものの内には、われわれが経験できるような対象も含まれるし、われわれが経験できないような形而上学的対象も含まれる。「善い」を経験できるような対象(たとえば「進化を促進する」)と同一視するのが自然主義的倫理、「善い」を形而上学的対象(たとえば「神が命じている」)と同一視するのが形而上学的倫理である。この二つの立場が共通しておかしているのが自然主義的誤謬である。(『倫理学原理』p.39) したがって、一般の解説書によくある、「善を自然的対象と同一視するという誤り」という自然主義的誤謬の定義はムーアの本来の用法からずれている。
ではなぜ「善い」は定義できないのか。ムーアは、定義とは複合概念を単純概念の組み合わせにおき直すことだとした上で、「善い」は単純概念だからこの意味での定義のしようがない、と論じる。これは「善い」に限らず、「黄色い」でも同じことであり、「黄色い」を定義しようとする人も自然主義的誤謬と同質の誤りを犯していることになる。自然主義的誤謬はしばしば「「である」から「べし」は導けない」というヒュームの法則と同一視されるが、これもまたムーアの意図と違っているということが「黄色い」との対比からも明らかである。
自然主義的誤謬の概念を武器に、ムーアはスペンサーの進化倫理学やジョン・スチュアート・ミルの功利主義(以上は自然主義的倫理の例)カントの倫理学(これは形而上学的倫理の例)などを批判する。
ムーア自身の立場は、「善い」は直観によってのみ捉えることができる性質である、という直観主義であった。自然主義が「善い」と経験的対象の関係を定義的な関係だととらえ、「Xは善い」という命題が(ある種のXに対して)分析的な命題となると考えるのに対し、直観主義においては、「Xは善い」という命題は常に総合的な命題である。
ムーアに対する批判 [編集]
「善い」が単純概念だから定義できない、というムーアの議論はさまざまな論者から批判されている。もし単純概念だから別の単純概念の組み合わせには分解できないというだけであれば、「善い」を単一の単純概念と同一視する(「善い」は「快い」であるなど)のはかまわないはずである。(外部リンクの永井俊哉氏の議論を参照)
自然主義的誤謬という言葉自体も批判され、たとえばフランケナは「定義主義的誤謬」(definist fallacy) という言葉を提案している。
また、直観主義は、直観という正体不明のものを持ち出したことで非常に評判が悪く、支持者も少なかった。
直観という語をムーアはヘンリー・シジウィックの哲学的直観にならって使っている。この場合直観とは、中世的意味での悟性(知性)によって直接に知られるというものではなく、またカント的な意味で感性的な知覚でもなく、理性(推論能力)による吟味を経て得られたものと考えられている。
自然主義的誤謬をめぐるその後の議論 [編集]
情緒主義 [編集]
A.J.エイヤーらの情緒主義 において自然主義的誤謬は新たな解釈をうける。価値判断を間投詞などと類比的な単なる情緒の表現だと考える。つまり、経験的なものであれ形而上学的なものであれ、何かの事実を記述するという事実命題とは、本質的に異なるタイプの判断なのである。この立場からは、自然主義的誤謬とは記述と情緒の表現というまったくことなる性質の行為を同一視しようとする誤りだということになる。
普遍的指令主義 [編集]
情緒主義と異なる非認知主義の立場としてR.M.ヘアーの普遍的指令主義がある。ヘアーは自然主義的誤謬にあたる言葉として、「記述主義的誤謬」(descriptivistic fallacy) という言葉を使う。ヘアーも情緒主義にならって、この誤謬の本質は記述と記述でないものを同一視することにあると考えていたが、その場合の「記述でないもの」とは、ヘアーにとっては具体的には指令 (prescription) あった。
新しい自然主義 [編集]
近年のメタ倫理学においてはコーネル実在論や還元主義といった自然主義の立場が復興している。これらの立場は「善い」と自然的性質が定義によって同一になるのではなく、形而上学的に同一である(水とH2Oが同一であるというのと同じ意味で同一である)と考える。つまり、彼らは確かにムーアのいう自然主義的誤謬は誤謬であると認めつつ、自然主義者は必ずしもそうした過ちを犯す必要はない、と考えるわけである。
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ムーアの自然主義的誤謬批判
ムーアが糾弾した「自然主義的誤謬」とは、事実から価値を導く誤謬ではない。事実から価値を導くことができないならば、あらゆる価値判断は不可能になるが、それはムーアが意図したことではない。
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英米系倫理学に対する従来の常識は、以下のようなものだ。
論理実証主義的な意味の検証理論は価値述語に真偽の基準を否定し、日常言語学派も規範倫理学を断念し、価値語の<意味=使用>の記述に甘んじるメタ倫理学を提唱した。メタ倫理学は道徳心理学や道徳社会学などの実証科学とは一線を画すけれども、事実と価値を峻別する価値中立的・実証主義的な道徳言語学であることには変わりがない。
こういう常識からすれば、メタ倫理学の開祖たるG.E.ムーアは当然規範倫理学を放棄する端緒を作ったはずだが、その結果はともかくとしても、彼の『倫理学原理』の意図はむしろ逆に規範倫理学の基礎付けにあった
。
このムーアのカント批判が不当であることについては、[Paton: The Categorical Imperative,p.43] を参照せよ。
以上から明らかなように、「絶対的孤立の方法」は以前の反証例提示の方法と目的と形式は同じである。但し、反証例提示の方法では、混同されている非倫理的属性Pが特定の対象であったので、反証例を一つ提示すればそれで足りたのだが、全ての善の判断に随伴する作用がPである場合は、概念上これを孤立化させて、その内在的価値を吟味する次善の方法が採られたわけである。この絶対的孤立の方法は、反証例提示の方法とは異なって、全ての自然主義的/直覚主義的誤謬を暴露する包括的な方法なので、内在的価値をこの方法によって検証された価値として定義することができる。
ではいかなる内在的価値が絶対的孤立においてもなお多くの価値を保持しうるのだろうか? ムーアは明言していないがおそらく皆無であろう。彼自身は「人間間の交際の楽しみ」と「美的対象の享受」を内在的善と考えている [Moore: Principia Ethica, p.188] が、例えば後者などもそれを (1)対象に備わる美的性質 (2)これに感動しうる情緒性(3)対象が実在することの正しい信念という各構成要素に分解し、それらを単独で考察した場合、ほとんど価値がないことになってしまう [Moore: Principia Ethica, p.199] 。最も価値がありそうな(1)の美的対象、例えば美しい絵画も、額・縁・画布・絵の具・油等々の部分に分解すれば、どれも価値がないことが判明する。(2)や(3)に至っては、もしその対象が醜いものならば、積極的に悪くさえある。
この事態に気が付いたムーアは、自分の立場を守るべく「有機的統一体の原理 principle of organic unities」なるものを提唱する。すなわち「全体の内在的価値は、その部分の価値の総計と同じでもなければ比例もしない」[Moore: Principia Ethica, p.184] 。論敵の快楽主義を攻撃するときには全体を部分へと分解してその価値を貶めておきながら、自分の立場を説明する段階になると、部分には還元されえない全体の価値を云々する彼のやり方は一見いかにも卑怯に見える。しかしここで彼が否定しているのは自然主義的誤謬であって直覚主義的誤謬ではないということを想起しなければならない。彼は、快が内在的価値の一構成要素であることを認めるに吝かではないのであって、ただそれが唯一の内在的価値を僭称することを批判しているだけなのである。
この[有機的統一体の原理を無視するという]誤謬は、もし全体の一部分が内在的価値を持たないならば、全体の価値は全て他の部分に存しなければならないと考えられるとき犯される。かくして、もし全ての価値ある全体が、たった一つの共通属性しか持っていないと見做されうるならば、この属性を所有しているからというだけで全体は価値があるに違いないと通常考えられてきた。そして当の共通属性は、それだけで考えられると、それだけで考えられたそのような全体の他の諸部分より大きい価値を持っていると思われるなら、その幻想は大いに強められる。しかし、我々が当の属性を孤立して考察して、その属性をそれを部分とする全体と比較すれば、当の属性が持っている価値は、それだけで存在しているときそれの属する全体が持っている価値には遠く及ばないということがたやすく明らかになるだろう。
[Moore: Principia Ethica, p.187f]
ここから以前の自然主義的誤謬の5の解釈を、
6.自然主義的誤謬とは、有機的全体としての内在的価値を、全体を構成する特定の非倫理的な部分の価値に還元する誤謬である
と表現することができる。
当初、事実/価値という実証主義的なコード によって提起されていた問題が、いまや、部分/全体というホーリステ ィックなコードのもとで考え直される。ここにカントからヘーゲルへという思想的転回を見ることができる。ムーアとヘーゲルは何の関係もないと読者は思うかもしれないが、ムーアが若かりし頃のイギリスの哲学界では、ブラッドリーなどを筆頭とするヘーゲル主義が主流となっていて、『倫理学原理』を書いていた時のムーアも、それなりにヘーゲルの影響を受けていたのである。ムーアの自然主義的誤謬批判は、後世には倫理学に対する実証主義的批判のように誤解されたが、じつは実証主義的倫理学に対するヘーゲル的批判であったわけである。
だがムーアは、全体と部分の関係をはっきりと捉えなかったために、実証主義者を満足させるような価値理論を作り得なかった。ムーアによれば、内在的価値の全体を構成する部分は、それ自体無価値であるどころか積極的に悪くさえあることもある [Moore: Principia Ethica, §§.129-133] 。部分の価値の合計が全体の価値ではないし、全体としての価値の根拠をどの部分にも求めることはできない。
だがこのように価値を全体が持つ創発的特性(emergent property)として特徴付けることによって、彼は不可知論に陥ってしまったのではないか。部分を事実、全体を価値に置き替えたとき、部分に対する全体の独立性のテーゼは、実は事実から価値が導けないことの婉曲な表現であることがわかるであろう。ムーアの規範倫理学が不可知論に終わった原因は、しばしばそう考えられているように、彼のメタ倫理学的な問題設定にあるのではなくて(この反省的=超越論的問題設定自体は我々も積極的に受け継がなければならないであろう)、彼の価値概念の実体主義的・絶対主義的性格にあるのではないのか。
ムーアによると「ある種の価値が“内在的”であるということは、あるものがそれを所有するかどうか、そしてどの程度それがそれを所有するかという問いが、当のものの内在的本性にのみ依存するということを意味することに他ならない」[Moore: The Conception of Intrinsic Value,p.260] 。内在的価値は、超時間空間的不変性と超個体的普遍性を持って内在的本性に依存する。この内在的価値の概念規定から、彼が実体的な内在的価値の絶対的妥当性を信じていたと考えることができるであろう。ムーアによれば、関係概念としての価値は“外在的”な手段としての価値に過ぎない。すなわち、内在的価値とは「性質(character)であって、関係的属性(relational property)ではない」[Moore: Is Goodness a Quality?,p.97] 。
しかしその反面ムーアは「善い」「美しい」などの述語が第一性質ではないことはもちろん「黄色い」のような第二性質とも存在性格を異にした述語であることをも了解していた。「黄色さと美しさは、両方ともそれを所有しているものの内在的本性にのみ依存する述語であるが、黄色さがそれ自身内在的述語であるのに対して、美しさの方はそうではない」[Moore: The Conception of Intrinsic Value,p.272] 。では価値のこの特殊な存在性格とは何か。
ムーアによれば、価値とは部分に還元されない全体であった。この全体とは部分と部分の関係であると言えないか。次のように考えてみよう。
[テーゼ1]価値とは事象に独立自存する実体はなく、主体(但し経験的な主体)と客体との関係である。
この実体概念と関係概念の対比は、カッシーラーのそれである。価値とは、主体と客体を包括する欲求という(疑似)志向性における、心的契機と物的契機の関数値である。世界-内-存在する主体が客体に対して関係を持つ(sich verhalten)ということは、主体が客体に対して態度を採る(sich verhalten)ということである。主体との関係を絶たれた《絶-対 ab-solute》的孤立における客体は、理論的客観的に観察される「対-象 Gegen-stand=主体に対して立つもの」として価値を失う。もちろんここで言っている《関係》は、レアールな《人と物との関係》であって、イデアールな《人と人との関係》ではない。経験的な主体と客体との関係は、超越論的反省において概念的に述定されなければならない。
そこで次に「よい(善い+良い)」の意味(基準ではない!)を次のように定義しよう。
[テーゼ2]「よい」とは、我々実践主体が持つ目的に対する手段/形態の有用性である。
我々は、ムーアの「目的として内在的に善い」と「手段として外在的に良い」の区別を撤廃し、「¬にとって/としてよい」で統一することができる。我々は以前、(1)「~にとってよい」と (2)「~としてよい」を区別したが、両者は(1)目標的目的-実現手段、(2)理念的目的-実現形態の関係を表す概念であって、ムーアの区別とは異なる。このテーゼ2から、直覚主義的誤謬を、ある価値が目的との関係を離れて無制約的に妥当すると考えられた時に犯される誤謬と定義することができる。この誤謬が犯されたとき、PがGと結合して、あたかもGはPという「内在的本性にのみ依存する」かの如く思念されてしまうのである。
この我々の目的論のテーゼに対して、はたして目的は手段を正当化しうるのかと疑問を持つ向きもあろう。しかしそれは、目的の概念を狭く採ることによって生じる
要するに《悪しき目的》の反価値性は、それを手段/形態とするより高次の目的に対する不適合性なのである。目的ー手段/形態の系列を上昇して行けば、究極目的に到達するであろうが、この究極目的(最高諸目的の体系的実現の形式=超越論的主観性)自体は善でも悪でもない。ちょうど物体の総体に重さがないように価値の総体には価値がないのである。
もう一度図24を見られたい。Gは空虚な統一性であって内容を持たない。内容を持った理念的目的のうちで<最も抽象的な=最高の>目的はFである。Fは究極目的Gの(1)一つの(2)実現形態である。(1)は自然主義的誤謬に陥らないための、(2)は直覚主義的誤謬に陥らないための要件である。すなわち究極目的の実現形態はF以外にも他にありうるし、他の諸目的との関係で、Fの実現に(per se にではないが per accidens に は)価値がない場合もありうるのである。
ではFの内容はどのようにして決めるのだろうか。この問いに対しては次のように答えたい。
[テーゼ3]目的から手段/形態を選ぶ前に、手段/形態から目的の内容を確定しなければならない。
ムーアは具体的な手段/形態の価値を捨象して、いきなり「目的として善いもの」を捜そうとしたために直覚主義、ひいては不可知論に陥った [Kaulbach: Ethik und Metaethik,SS.79f/82f] 。我々はこれに対して現存する全ての価値を出発点にしつつ、その根拠を一なるものへと収斂させ、そこから現存の行為規範・制度を正当化/修正する。そしてそれが以前私が提唱した目的論的還元・構成・破壊であったわけである。
[投稿者:永井俊哉|公開日:2005年2月14日|コメント:0個]
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