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倫理学はノイラートの船か?(その1-2) [宗教/哲学]

倫理学
りんりがく ethics

倫理学は倫理に関する学である(〈倫理〉〈倫理学〉の語義については〈道徳〉の項を参照されたい)。それは古代ギリシア以来歴史の古い学であり,最初の倫理学書といえるアリストテレスの《ニコマコス倫理学》と,近代におけるカントの倫理学とによって,ある意味では倫理学の大筋は尽くされているといえなくもないし,また倫理学の長い歴史を踏まえて,その主題とされている事柄,たとえば善,義務,徳などについて,一般に認められている考え方を述べることは可能である。だが他面,倫理学についてその学としての可能性を否認する立場もありうるし,そうでなくても,それぞれの倫理学者の立場によって,その倫理学の概念が異なっているのは,ある程度まで必然的なことである。
[倫理学の意義]  他の学,たとえば自然科学や数学の場合とは違って,たとえ倫理学について何も知らなくても,健全な常識さえあれば,倫理については基本的な理解をもちうるのであり,倫理学のなすところは,常識的理解に内含されている倫理の純粋な要素だけを取り出してくることに尽きる。しかし倫理については種々の呈見や邪説もありうるのだから,それらと正しい説とを見分けるに足る批判力を身に付けるという意味では,倫理学についての素養もある程度の有効性をもちうると,カントなどは考えている。さらに,これはアリストテレスなどがすでに明確にとっている立場なのであるが,倫理の問題となると,それについて知識を有することも重要ではあるが,結局はそれが実践として正しく現実化されることが肝要である。当の知識が単なる空理空論であって,実践的にはまったく無効であるとすれば,それは倫理的には無意義なことであり,むしろ逆に,倫理学などまったく知らなくても,当人が一個の信頼すべき人間として行動し生活できるというほうがよほど有意義であるという事情が,倫理の問題にはある。
 ところで他方,倫理学において,人間生活と倫理との関係はどうとらえられてきたかという点については,二つの対照的な立場が認められる。その一方の,現代における代表的なものとしては,倫理を人間存在の理法としてとらえ,倫理に人間生活の全面をおおうような意味を与える和嶋哲郎の倫理学の立場があり,他方たとえばマルクス主義の立場においては,倫理はもっぱらイデオロギー的な上部構造として,しかもその一部として把握される。倫理が人間生活の全面をおおう意味合いをもつとする包括的認識もたいせつではあるが,同時に,倫理は,芸術や美の問題,政治や法や経済の問題,科学や技術の問題,医療や宗教の問題,等々という人間生活の各領域に固有の諸問題とある意味では並列的な,その妥当領域が限局された問題でもある。したがってあまり倫理一辺倒の考え方に傾くことは,人間の心情や態度や生活が固陋(ころう)に陥り,創造性に欠ける結果になりがちであるという意味で,必ずしも妥当な行き方とはいえないであろう。
[倫理学史]  英語 ethical,ドイツ語 ethisch,フランス語 レthique などの言葉は,〈倫理学的〉という意味でもあれば,〈倫理的〉という意味でもある。この区別と類比的に倫理学史と倫理思想史とを区別することができる。倫理思想史とは,それぞれの時代や社会の倫理に関する――学とまではいかなくても――おのずからなる自覚や反省の結果生じてきた思想についての歴史的叙述であるが,ここでは西洋に特有の倫理学史についてのみ概説しておこう。
 総じて古代から中世にかけての倫理学説においては,ひとはいかにして幸福を達成しうるかという問題がその中心問題を成していた。当時は,すべての人間はその本性によって幸福という究極目的の達成に向かうように生まれながら定められていると考えられていた。人間がそういう究極目的を達成するための最も善い生き方,ないしは行為の仕方は何かというのが,中世までの倫理学の中心問題であった。他方,近代以降の倫理学説の中心問題は実践的判断の問題である。つまり,いかに行動すべきかと問われる場合,この〈べき〉,すなわち義務とは何か,それはいかにして説明され根拠づけられ正当化されるのか,という問題である。中世までの観点と近代以降の観点とにみられるこういう対照にもかかわらず,倫理学の意味が両者でまったく変わってしまったわけではなく,古代ギリシア以来倫理学はある不変の意味を保持している。すなわち,ひとがなんらかの個人的な責任を負うたぐいの行為において,何が善であるか,またその根拠と原理は何かという点についての反省的研究という意味である。
 そこで,総じて倫理学の第1の主題は,善とは何かという問題であり,そしてこの問題が,中世までの倫理学においては,ひとはいかにして幸福を達成しうるかという問題との関連において探究されたのである。幸福主義の倫理学は,その近代的様相においては,とりわけイギリスの社会的幸福主義ないしは功利主義の立場の倫理学として現れた。善悪の問題を純化していくと倫理的価値の問題になるが,現代の価値倫理学は倫理学の中心問題が価値,とりわけ倫理的価値の問題にあるとみるものであり,その代表者として特に M. シェーラーの名を挙げることができる。次いで倫理学の第2の主題は,近代以降に特に顕在化した義務の問題である。この問題を特に重視した人々の中で最も代表的なのは,人格主義の立場から定言命法の倫理学を樹立したカントである。最後に倫理学の第3の主題は徳の問題である。これは古代から近代にいたるまでの倫理学の長い歴史を通じてその一つの中心問題たるの地位を確保してきたが,現代のニヒリズム的状況の中では事情がかなり変わってきている。倫理学は慣習としてのエートスの意義の反省に始まり,徳としてのエートスの把握に終わるという理念的構造をもつが,現代においては徳としてのエートスを一義的に把握しがたいという事情があり,したがって現代倫理学は倫理学本来の理念的構造を完結させがたいというさだめを負うものなのである。
[倫理学の概念]  総じて学とは理論的かつ概念的な認識である。そして学の分類としては,最古のものでありながら現代にいたるまで一貫して有効性を保持してきたものに,いわゆる三分法がある。これは古アカデメイア学派のクセノクラテスに始まるといわれているが,それが明確に実現されたのはヘレニズム時代のストア学派においてのことである。そこでは学は自然学 ta physika,倫理学 ta ^thika,論理学 ta logika という三つに分類された。カントもこの分類の正しさを承認したうえで,自然学と倫理学との関係について,自然学は自然の必然的法則を取り扱うのに対して,倫理学は自由の法則(すなわち当為)を取り扱うというように両者を対照させている。この意味では倫理学は人間存在についてのある包括的・原理的な学である。だが自然と人間とは必ずしも相互排除的な概念とはかぎらない。自然の内なる人間,しかも人間本性というかたちで内に自然を蔵する人間,それが倫理学の対象である。この意味での人間は,外なる自然の側からいえば,自然の内面化においてあり,逆に内なる自然の側からいえば,自然の外面化においてある。そして,自然のそういう内面化と外面化は,実は一つの同じはたらき,すなわち人間の社会的・歴史的実践の両面にほかならない。エートスとは,人間のそういう社会的・歴史的な実践的存在性の最も基本的な形態にほかならず,そのかぎりで倫理学は基本的に〈エートスの学〉としての性格をもつのである。
 次に倫理学と論理学との関係についていえば,すぐれて近代的な論理学は,数学的自然科学の論理学,すなわち数学的自然科学の認識論的基礎づけというかたちで,カントによって一応成就された。それに対し,論理学を明確に精神的・社会的な諸科学の論理学というかたちで形成した最初の者は《論理学体系》における J. S. ミルである。だが,その種の観点をさらに徹底させて,論理学と倫理学との関連を確定し,倫理学を明確に精神科学の論理学として把握したのは H. コーエンである。彼の哲学体系において論理学(《純粋認識の論理学》)は数学的自然科学の論理学であり,倫理学(《純粋意志の倫理学》)は精神科学の論理学である。コーエンによれば,倫理学においても,それが学であるかぎり,論理学のカテゴリーが貫徹されるべきであるが,論理学と倫理学とではその思考の方向が異なる,すなわち,論理学においては自然という対象概念を構成することが問題であるのに対し,倫理学においては人倫的自己としての人間という概念を構成することが問題であるとされる。
[倫理学の根本理念]  自由と自己が倫理学の根本理念である。行為は人間の自己実現という意味を有するが,これは自然とのかかわり,他人とのかかわり,自己自身とのかかわりという,三つのかかわりのうちで行われる。そういうかかわりを可能にする根本条件が〈可能性としての自由〉であり,そしてこの意味での自由こそが真実の自己存在としての実存にほかならない。だが,その意味での自己とは何か。これがソクラテスを創始者とする倫理学の最も根源的な問いである。すなわち,〈汝自身を知れ〉という言葉は,一つの貞として,ソクラテス以来,それをめぐって倫理学的思索が展開されてきた最も重要な中核語である。全体としての存在の宿運と一体化した自己存在こそが創造の根源たりうるのであり,それでこそ真に創造的な自由の境地といえる。自己存在は結局一つの貞であり,無限に開かれている。それは限りなく尊いものであると同時に,恐るべき深淵でもある。自己存在をこういう一個の貞たらしめている存在の不思議さに対する謙虚な敬虔さを持することこそが肝要である。          吉沢 伝三郎

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義認
義認

ぎにん
justificatio

  

キリスト教神学で,人間を罪の状態から義の状態へ移行させる神の行為をいう。元来ギリシア語の dikaio (義たることを宣告する) という法廷用語から転用されたが,これがラテン語では justificare (義とする) と訳された。パウロによれば,人が神の前で義となるのはわざによるのでも,律法への従順によるのでもない。人間は神の前に義人として立つのではなく,神の恩恵に全面的に依存する罪人として立つ。神こそ罪ある人間を義なるものと呼ぶのである。人間の法廷では無罪のものだけが正しいとされるが,あらゆる人間が罪人であることを免れない神の審判の場では,義ならざる者が神の慈悲によって義者と宣告される。この宣告は恣意的なものではなく,「私たちの罪のために死に渡され,私たちが義と認められるために,よみがえられた」 (ローマ書4・25) イエス・キリストによるのである。こうして罪ある人間は,律法,罪,死から解放され,神と和解し,聖霊を通してキリストのうちに平安と生命をもつにいたる。罪ある人間は,こうして単に義と宣告されるだけでなく,真に義なる者となる。これにこたえて人間の側からは,神の慈悲の判決を受諾し,主なる神に全幅の信頼を寄せねばならない。すなわち,「愛によって働く信仰」 (ガラテア書5・6) をもたねばならない。以上の教説は,初期教会ではほとんど問題とならなかったが,わざによる自己聖化を唱えたペラギウス派との論争で,アウグスチヌスによって恩恵による義認が強調され,さらに中世後期のわざによる義認という表面的な考え方に戦いを挑んだ M.ルターによって一層徹底された。義認における神の行為の側面に重点をおいたルターは,その前提としての人間のわざを排し,「信仰のみ」 Sola fideの立場を取ったのに対して,義認の「結果」の側面に重点をおいたカトリック側は,トリエント公会議で,よきわざの必要をも強調してルター説を断罪した。しかし 20世紀の両陣営の多くの神学者は,両者の相違は概念理解の面だけで,信仰の本質においては根本的断絶はないとしている。以上の歴史的背景から,日本においては,プロテスタントが義認,宣義という訳語を好むのに対して,カトリックは成義,義化の訳語を採用し,罪の許しを意味する消極的成義と内的革新を意味する積極的成義を区別する。





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[ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 2008]



義認
I プロローグ

義認 ぎにん Justification キリスト教の重要な教義。罪によってゆがめられ、あるいは断絶した神と信仰者との関係をただすこと。英語のジャスティフィケーションの文字どおりの意味は「正しくすること、公正にすること」である。カトリック教会では「義化」という訳語をもちいる。

II 聖書の解釈

義認という概念のもとになったのは、ユダヤ教の契約である。古代イスラエルでは、他人との契約は当事者双方にとって必然的に義務をともなうものであり、義務に忠実である者は契約を維持し、「義」であるといわれた。神とイスラエルの民との契約の場合、神の義務とは民をまもり、擁護することと考えられており、神は救いという行為によって義をしめす(「詩編」98章2節、「イザヤ書」51章5節)。一方、イスラエルの民の義務はユダヤの律法(トーラー)にしめされるように、神の意志にしたがうことである。したがって、彼らの義務は、より一般的な意味での義(正義)をしめすこと、つまり道徳的な義務である。

新約聖書では、イスラエルの民がやぶった神との契約を、原始キリスト教社会がイエス・キリストを通じて回復したとみている。実際に「新しい契約(新約)」が成立したのである。とくにパウロは、キリストの死と復活の結果を義認という言葉で説明した。キリストを信じる者は神とのただしい関係に入ることになる。しかし、この新しい状況のもとでは、信者がなにかの行為をしたために義認されたのではない。新しい関係が確立したのは、神の力と慈悲があったからこそだというのである。したがって、信者のなすべきことはただ神を信じることだとされた(「ガラテヤの信徒への手紙」2章16節、「ローマの信徒への手紙」3章24節)。

III アウグスティヌス

4世紀の神学者アウグスティヌスは、イギリスの神学者ペラギウスとの論争で、義認についてのパウロの教えをひきあいにだした。しかし、アウグスティヌスは義認よりも恩寵を重視し、義認については「ただす」という意味のラテン語ジュスティフィカーレを字義どおりにうけとり、よりただしい人間になる過程、つまり事実上の「聖化」であると考えた。

IV 中世の神学

中世のスコラ学の神学者はアウグスティヌスの立場を支持して、神の恩寵の力を主張し、恩寵なしには神との新しい関係はありえないとした。しかし、義認にいたる前に、個人の行いが神の恩寵をうける前提となることをみとめた。さらに、恩寵は救いにつながるものではあるが、人間の意志との協働がなくては救済をもたらすことはできないと考えた。また、恩寵は悔悛(かいしゅん)によってほどこされるため、人間は最小限の悔い改めの行為をしてからでなければ恩寵をうけられないとした。

V 宗教改革

16世紀、ルターは義認についてのパウロの言葉にたちかえろうとした。彼の教えはプロテスタントによる宗教改革の大きな原動力になった。ルターは中世の考え方による悔悛では、罪の意識からのがれることができず、自分の意志ではそれを克服できないと考えた。思いなやんだすえ、聖書の「ローマの信徒への手紙」をよんだ彼は、「正しい者は信仰によって生きる」(1章17節)というパウロの言葉に感動し、神は神の慈悲を信じることだけをもとめているのだと解釈した。

中世の特異性と難解さはこうしてしりぞけられた。ルターによれば、人間は信仰によってのみ義とみとめられる。確かに、神の恩寵は作用するのだが、人間はそこではなにもなしえない、というのである。義認はキリスト教の信仰全体の中心となった。よい働きができる能力も、あるいは秘跡への参加さえ、すべてが義認から発した。このような見方はやがて、カトリック教会とプロテスタント(→ プロテスタンティズム)をわかつすべての問題を体現するものとみなされるようになった。

18~19世紀には、プロテスタントとカトリックのいずれにも、義認の解釈をめぐる大きな展開はなかった。リベラルなプロテスタンティズムはこの問題を無視するようになり、一方、カトリックの思想はスコラ学の立場をとりつづけた。

VI 20世紀以降

20世紀以降のプロテスタント神学者は、罪と恩寵についてのパウロの教義をもう一度復活させようとしている。義認の教義もこうした復活の一環として主張され、「新改革主義神学」とよばれている。

恩寵に関する現代の神学は、伝統的な考え方と重要な面でことなっている。中世および宗教改革時代の多くの神学者にとって、義認という言葉は、罪をおかした悔悛者がためされる法廷のようなものとしてとらえられていた。これに対して、聖書では契約という意味でとらえられており、神と人間との個人的な関係を意味していた。20世紀以降は、神学に対してより個人的かつ実生活にもとづく取り組みがなされるようになったことから、神学者はルターらの主張した個人的経験としての恩寵という考え方に共感する傾向にある。


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義認
ぎにん

キリスト教において,救いについて述べるときの重要な用語。パウロの《ローマ人への手紙》3~6章によれば,救いは神によって義と認められることに始まり,さらに聖(きよ)くされることへと導かれる。これを〈義認〉と〈聖化〉といい,ラテン語ではjustificatio と sanctificatio と呼ばれる。カトリックがこれを成義と成聖と訳しているのは,救いが形をとって実現することに重点をおいて考えているからである。その場合,人間の側での条件や段階を表すために功績や恩寵の種類をあげることになる。ルターはそうした考え方を排除して,救いの無条件性を強調し,キリストへの告白と悔改めによる義認や,〈義人にして同時に罪人〉ということを語った。もっともプロテスタントの中でも,義認よりも聖化に重点をおく考えもあり,カルビニズムの聖職者重視や,敬虔主義における回心と聖潔の強調の中にそれが見られる。       泉 治典

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ニコマコス倫理学
ニコマコス倫理学

ニコマコスりんりがく
Ethica Nikomachea

  

アリストテレスの実践学すなわち人間のなす事柄に関する哲学のうち,エートスを対象とした倫理学に属する著作の一つ。『大道徳学』や『エウデモス倫理学』に比べて最も完全な形で伝承された彼の主要著作 (全 10巻) 。彼は「人間にとっての善」「最高善」,最高善としての「幸福」とは何かを問い,結局「究極的な幸福」が観照的活動,哲学的生活にあることを明らかにした。さらに実践哲学の究極目的は最高善について知ることではなくて,最高善を目指す生活の実践にあること,しかもその実践が困難であるところから,ポリスの成員にふさわしい倫理的卓越性に対するよき習慣づけの重要性,法律に基づく国家的誘導,配慮の必要性が説かれている。





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[ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 2008]
アリストテレス
アリストテレス

アリストテレス
Aristotels

[生] 前384. スタゲイラ
[没] 前322. カルキス

  



ギリシアの哲学者。 17歳のときアテネに出てプラトンの門下生となった。一度マケドニアに帰り,アレクサンドロス大王を教育した。前 335年再びアテネに出てリュケイオンを開いた。政治,文学,倫理学,論理学,博物学,物理学などほとんどあらゆる学問領域を対象とし分類と総括を行なった。動物の分類,発生学的研究にすぐれたものがある。しかし物体の落下現象は物体の本来の位置に戻る性質によるとして重力を否認。地上の物質の構成は水,土,火,空気の4基本元素から成り,天体は第5の元素エーテルでできているとして,デモクリトスの原子説に反対するなど,物理的学説などについては実験を伴わなかった欠陥が現れている。





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実存主義
実存主義

じつぞんしゅぎ
Existentialism

  

世界における人間の実存 (現実存在) を説明しようとする哲学の一派。主として 20世紀に意識的な運動となって現れ,ハイデガー,ヤスパース,サルトル,マルセル,メルロー=ポンティらが実存主義哲学者とされるが,その特徴は 19世紀の思想家であるニーチェやキルケゴールにもすでに認められる。直接の先駆者であるキルケゴールは人間の自由選択の意義を強調し,未来の一部分はこの選択にかかっており,閉鎖的な合理的体系によって予知しうるものではないとし,このような人間存在を実存と呼んだ。他のものと代置しえないこの個別的実存のもつ哲学的重要性を強調する立場が広く実存主義と称される。
非合理主義者による伝統哲学への反抗とみられることもあるが,実存主義はおもにその内部で発展した理論であった。次の3つの理由から認識論を否定し,人間に関する知識を深めようとする立場である。第1に,人間は単に認識主体ではなく,心配し,望み,あやつり,そしてなかんずく選択し,行動する。ハイデガーは物体を認識のための「物」ではなく,使うための道具とみなす。メルロー=ポンティは生の経験はみずからの肉体の経験から始るとする。第2に,認識論の教義にときとして必要な自己 (自我) は,内省以前の経験の基本的特徴ではなく,他人の経験から生じる。認識主体たる自我は,外の物の存在を推論したり構成するというよりは,むしろ前提としている。第3に,人間は世界の独立した観察者ではなく,「世界のなか」に存在する。人間は木石のような存在とは違う特殊な意味で「存在」する。しかし,デカルトの見解に反して,人間は知識や知覚の介在なしに世界を受入れる。人間が外の物を推論したり,映したり,疑う独立した意識の領域は存在しない。実存主義者がデカルト主義者の二元論を拒絶する理由の一つは,認識より存在に関心があり,現象学は存在論でもあると考えるからである。
特殊な意味で人間が存在するということは,みずからの選択と行動で決めた未来が開かれていることを意味する。木石やトラなどの他の存在は,自分が何であり,何をなすかを決める本質ないし本能をもつ。反対に,人間は自分の行動を支配するような本質を,種としても個としてももたない。人間は,みずからの選択,生き方の選択 (キルケゴール) ,特殊な行動 (サルトル) によって,みずからが何たるかを決める。単に「与えられた」役割を演じたり,「与えられた」価値 (たとえば神や社会から与えられた) に従っているときでさえ,実際にはそうすることを選んでいるのである。なぜなら,合理的にせよ偶然にせよ,人間の選択を単独で決定する与えられた価値は存在しないからである。どんな選択でも可能というわけではない。人間の「存在が世界のなかにある」ということは,特殊な状況に「放擲」 (ハイデガー) されていることを意味する。自由に利用できると思えるものも,実際にそうとは限らない。それを前もって知ることもできない。人間の選択は,どのような形にせよ説明できるものではないと実存論者は主張して,科学的唯物論を否定する。未来の開放性,個人とそのおかれた状況の特異性は合理的哲学体系を寄せつけない,とも主張する。それが,彼らが「存在」にこだわるもう一つの理由である。存在は,認識と異なるだけでなく,個人的なものや特殊なものをきちんととらえられない抽象概念とも異なる。
実存主義者は人間の選択には合理的な理由はないとしているので,規則や価値観という意味での倫理を提唱しない。むしろ倫理を行動や選択を考える枠組みとみる。この枠組みは選択すべきものを示唆するのではなく,正しい選択と誤った選択があることを示す。人は信頼できるものにも信頼できないものにもなれる (ハイデガー) し,誠実にも不誠実にも行動できる (サルトル) 。不誠実な行動とは,多数派に盲目的に従ったり,既存の価値や制度を支持することなどをいう。特に,人間は死,苦悩,争い,罪などの「限界状況」 (ヤスパース) に直面すると,自分が行動すべき世界の究極的な不可解さとともに,みずからの行為者としての責任を認識するようになる。
実存主義は,心理学 (ヤスパース,ビンスワンガー,レーン ) やキリスト教 (キルケゴール,マルセル) だけでなく,無神論 (ハイデガー,サルトル) や神学 (バルト,ティリヒ,ブルトマン ) など,哲学以外の分野にも大きな影響を与えた。実存主義は特定の政治的信条を内包しないが,政治的直接行動主義につながる人間の自由をそこなうものや体制順応主義への反感と責任の強調 (サルトル) を伴う。キルケゴールが唯一すすめる「間接的伝達」は実存主義者の多くに無視されたが,特定の状況と自律的選択の重視は,哲学論文だけでなくドラマや小説によっても,実存的真理を伝えうることを意味する。実存主義への関心は数々の想像力にあふれた文学作品 (サルトル,カミュ,ボーボアール ) を生んだ。そのうえ,実存主義哲学はあらゆる時代の文学作品,たとえばソクラテス,シェークスピア,ドストエフスキー,フォークナーに共通する主題を表現したり解釈する手段をもたらした。





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実存主義
I プロローグ

実存主義 じつぞんしゅぎ Existentialism 個人の実存を強調する哲学的立場。19、20世紀の多くの著作家に影響をあたえた。

II おもなテーマ

実存主義にはさまざまな立場があるため、この用語を厳密に定義するのは不可能だが、いくつかの共通したテーマがある。

1 道徳的個人主義

プラトン以来たいていの哲学者は、最高の倫理的な善は万人に共通であると主張した。とすれば、道徳的完成に達した人間は、だれもみな似ていることになる。19世紀のデンマークの哲学者キルケゴールはこの伝統に反対し、個人にとっての最高の善は、かけがえのない自分だけの使命をみいだすことだと主張した。彼は、個人のかけがえのない存在をあらわすのに「実存」という言葉をもちいた最初の哲学者でもある。キルケゴールと同様、ほかの実存主義者たちも、道徳的選択は、善悪の客観的判断にたよることはできないとする。19世紀ドイツの哲学者ニーチェは、個人はどのような状況が道徳的状況とみなされるべきかを決断しなければならないとさえ主張する。

2 主観性

道徳と真理の問題を決定する際の個人の情熱的行為の重要性を強調する点では、実存主義者はすべてキルケゴールにしたがっている。彼らは、真理に到達するには、個人の経験と確信にもとづく行為が重要だと主張する。そのために、彼らは体系的推論に懐疑的である。キルケゴールも、ニーチェも、その他の実存主義者も、みずからの哲学を展開するしかたは故意に非体系的であり、アフォリズム、対話、比喩(ひゆ)その他の文学的形式によって表現することをこのむ。

反合理主義の立場をとるにもかかわらず、彼らは非合理主義者とはいえない。というのも、合理的思考のすべての妥当性を否定するわけではないからである。しかし彼らは、理性や科学は人生のもっとも重要な問題には近づきえないし、科学は一般にそう思われているほど合理的ではないと考える。たとえばニーチェは、規則的な宇宙という科学の想定は大部分有用な虚構にすぎないという。

3 選択と責任

実存主義のもっとも顕著なテーマは、おそらく選択という問題である。人間の第一の特徴は、選択の自由をもつことである。人間は、ほかの動物や植物のように、固定した本質をもつのではない。20世紀フランスの哲学者サルトルの表現をつかえば、「実存は本質に先だつ」のである。したがって、選択は人間の実存にとって中心的である。選択はさけられず、選択を拒否することもひとつの選択である。選択の自由は責任をともなう。個人は、自分がえらびとったことの責任をひきうけねばならない。

4 恐れと不安

キルケゴールによれば、人間は特殊な事物についての恐怖を経験するだけでなく、彼が恐れとよぶ漠然とした憂慮をも感じている。キルケゴールはこの恐れという感情を神の個人へのよびかけと解釈する。神はこれを通じて、個人がそれぞれ自分にふさわしい生活をするようによびかける。20世紀ドイツの哲学者ハイデッガーの著作においては、不安という言葉がこれと似た重要な役割をはたしている。不安は個人を無に直面させ、自身の選択の究極的な正当化が不可能であることを思い知らせる。

III 実存主義の歴史

実存主義そのものは19、20世紀に属するが、その要素はソクラテスの思想にも、聖書にも、近代以前の哲学者や作家の著作にもみいだされる。

1 パスカル

近代実存主義の最初の先駆者は、17世紀フランスの哲学者パスカルである。彼は「パンセ」(1670)において、同時代のデカルトの厳格な合理主義を否定する。彼によれば、神と人間を説明してみせるという体系的哲学は高慢でしかない。彼は人間の生を逆説のうちにみる。心と肉体の結合である人間の自己そのものが、逆説であり、矛盾だというのである。

2 キルケゴール

近代実存主義の創始者キルケゴールは、ヘーゲルの絶対的観念論に反対する。ヘーゲルは、人間と歴史を完全に合理的に理解したと主張する。これに対して、キルケゴールは人間の境遇のあいまいさと不条理を強調する。彼は最終的には、キリスト教的生活は、不可解で危険にみちているが、個人を絶望からすくいうるただひとつの立場であるとして、「信仰の跳躍」を説く。

3 ニーチェ

ニーチェは、キルケゴールの著作には接しなかったが、伝統的な形而上学や倫理学への批判と、悲劇的ペシミズム、生を肯定する個人の意志の擁護によって、その後の実存主義思想に影響をあたえた。因習道徳を攻撃しながら徹底的に個人主義的なキリスト教を擁護したキルケゴールとはちがい、ニーチェは「神の死」を宣言し、ユダヤ・キリスト教の道徳的伝統全体を否定して、異教徒的な英雄の姿で理想のあり方をしめした。

4 ハイデッガー

ハイデッガーは、フッサールの現象学のように哲学を決定的・合理的に基礎づけようとする試みに反対する。ハイデッガーによれば、人間は世界のうちになげだされている。人間は、自分がなぜここにいるかをけっして理解することはできない。死が確実で人生が最終的には無意味であることを知りながらも、それぞれに目標をえらびとり、情熱的な確信をもってその目標を追究しなければならない。ハイデッガーは、存在と存在論、そして言語を重視した点で、実存主義思想家の中で特異な地位を占める。

5 サルトル

サルトルは、第2次世界大戦後、国際的な影響力をもつようになったフランス実存主義運動の指導者で、実存主義という言葉を普及させた功績者である。サルトルの哲学は明らかに無神論的で悲観主義的である。人間はおのれの生の合理的基礎を要求するが、それに到達することはできず、したがって、人間の生活は「不毛な情念」でしかない。にもかかわらず、サルトルは自分の実存主義をヒューマニズムとよび、人間の自由と選択と責任を強調する。さらに彼は、これらの実存主義的概念を、マルクス主義による社会と歴史の分析にむすびつけようとした。

IV 実存主義と神学

20世紀ドイツの哲学者ヤスパースは、宗教的な学説は拒否したが、人間的経験の超越性と限界を論じて現代神学に影響をあたえた。ドイツの神学者ティリヒやブルトマン、フランスのマルセル、ロシアの哲学者ベルジャーエフ、ドイツ系ユダヤ人の哲学者ブーバーらは、キルケゴールの関心の多くをひきついでいる。

V 実存主義と文学

実存主義は、活力にみちた広範な文学運動ともなっている。文学におけるもっとも偉大な実存主義者は、19世紀ロシアの小説家ドストエフスキーである。「地下室の手記」(1864)では、疎外されたアンチヒーローが合理主義的ヒューマニズムの楽観的な考え方をののしる。そして人間の本性は予測しがたく、自己破壊的であり、こうした人間をすくうことができるのはキリスト教的な愛だけであるとのべられている。

20世紀には、チェコ生まれのユダヤ人作家カフカが、「審判」、「城」などの小説において、巨大な官僚機構に直面する孤独な人間をえがきだした。不安、罪、孤独といったカフカのテーマには、キルケゴール、ドストエフスキー、ニーチェの影響がみられる。ニーチェの影響はアンドレ・マルローやサルトルの小説にもみられる。フランスではカミュの作品も実存主義にむすびつけられる。実存主義のテーマは不条理劇、とくにベケットとイヨネスコの演劇にも反映している。

→ 西洋哲学:フランス文学


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実存主義
じつぞんしゅぎ existentialism

人間の本来的なあり方を主体的な実存に求める立場。実存 existence(existentia)とは現実存在の意であり,元来は中世のスコラ哲学で本質essence(essentia)の対概念として用いられた表現である。例えば,ペーパーナイフの実存といえば,材質や形状がまちまちである個々の具体的な現実のペーパーナイフの存在を意味するが,その本質といえば,この木片もその金属棒もあの象牙細工もいずれもがペーパーナイフであると言える場合の基準の存在を指すことになる。そして,ここに実存するものがただの木片でなくまさにペーパーナイフであると言えるためには,あらかじめペーパーナイフの本質が理解されていなければならず,したがって事物の真相を知るとは,実存にとらわれずに本質をわきまえることとされたのである。ところが,人間の存在に関しては,そのような普遍的な本質を規定してかかることが困難である。人間の生き方には,前もって共通の基準が決まっているわけではなく,むしろ民族や地域や時代や文化などの異なる特殊歴史的な状況のもとでそのつどみずからの生き方を創り出していくことに,人間らしい誠実さが求められる。人間は各人が自由と責任の主体であり,個々の実存においてみずからの本領を発揮すべき存在なのである。実存は existere(外へ ex+立ち出でるsistere)というラテン語に由来し,したがって日常性に埋没した自己を脱自的に超え出て主体性の回復を図るという意味を含む。とりわけ,合理主義のもたらした高度の技術化と組織化の中で人間疎外を経験している現代人にとって,実存への覚醒による自己回復の道を示す実存主義は,一つの魅力になったと言えよう。また,実存主義はしばしば合理的に割り切れない人間存在の偶然性の不条理に注目する。人間が自由であり脱自的であるとしても,そのような仕方で存在している事実そのものは,人間の自由裁量によるわけではなく,いわばゆえなくして自由であるにすぎない。自己に関心をもたざるをえない人間が,自己のうちに存在の根拠をもたないこのことに気づくとき,不安や無意味感や挫折に襲われるが,そうした実存の根源的無の状況を介在させてはじめて脱自的な主体性確立の道が意味をもってくる。この極限状況からの超克を,超越者や神とのかかわりに求めるか,無意味さそのものの肯定に求めるか,自由のもつ創造力に求めるかによって,実存主義にもさまざまな立場が生じてくることになる。
 このような実存思想は,人間の本質を理性に据えて合理性のみを追求してきた近代精神への批判として,19世紀にキルケゴールによって説かれたものを嚆矢(こうし)とする。彼はとくに《哲学的断片への後書》(1846)において,客観的真理が人間を生かすのではなく〈主体性内面性が真理である〉と語り,単独者として神の前で主体的に生きる人間を宗教的〈実存〉と呼んだ。ニーチェもまた不断に脱自的であらざるをえない人間を〈力への意志〉に基づく〈超人〉と名づけ,無意味な自己超克を繰り返しているかに思われる運命を肯定することに意味を発見した。〈実存哲学〉の語が定着するのは,第1次大戦後の動向のうちとくに《存在と時間》(1927)に表明されたハイデッガーの哲学を念頭に置いて,これを〈人間疎外の克服を目指す実存哲学〉と呼んだ F. ハイネマンの著《哲学の新しい道》(1929)以降であり,ヤスパースがこれを受けて一時期みずから〈実存哲学〉を名のった。ほかに,ベルジャーエフ,G. マルセル,サルトルらの哲学を実存哲学に含めるが,彼らは必ずしもみずからの哲学を実存哲学と呼んではいない。〈実存主義〉の語はサルトルの《実存主義はヒューマニズムである》(1946)によって一般化したが,文学界では人間の不条理を抉出するサルトルやカミュ,さらにはカフカ,マルローらを実存主義文学者と呼ぶことができる。精神医学や心理学には,ビンスワンガー,フランクル,ボス,R. メイ,マズローらによって実存思想が導入された。神学界ではブルトマンが実存神学を標榜,ティリヒにも受容されており,K. バルトや E. ブルンナーらの弁証法神学運動も当初は実存主義的動機によるものであった。法学に実存主義を生かそうと試みた人に,W. マイホーファーや E. フェヒナーらがいる。
 日本にキルケゴールが紹介されたのは1906年以降であり,内村鑑三,上田敏,金子筑水(馬治),葉山万次郎らによる。ニーチェは1899年以来,吉田静致,長谷川天渓,登張竹風,桑木厳翼らによって紹介され,高山樗牛が晩年にニーチェ主義の立場をとった。和嶋哲郎の《ニイチェ研究》(1913)と《ゼエレン・キェルケゴオル》(1915)とが日本での本格的研究の始まりであり,やがて直接ハイデッガーに師事した三木清や九鬼周造によって実存思想が輸入され,三土興三,吉満義彦らの実存思想家を生んだ。第2次世界大戦後は〈実存主義協会〉も組織されている。実存主義文学者には椎名麟三がいる。             柏原 啓一

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ベンサム
ベンサム

ベンサム
Bentham,Jeremy

[生] 1748.2.15. ロンドン
[没] 1832.6.6. ロンドン


イギリスの法学者,倫理学者,経済学者。富裕な中産階級の子として生れ,ウェストミンスター,オックスフォードのクイーンズ・カレッジ,リンカーン法学院を経て,同学院で法律制度や思想を研究,18歳でマスター・オブ・アーツ。 1776年に無署名で最初の著書『政府論断片』A Fragment on Governmentを公刊,最大多数の最大幸福こそ正邪の判断の基準であるとし,功利主義の基礎を築いた。その後『高利擁護論』 Defence of usury (1787) において,スミスの法定利子論を批判するなど,スミスよりも徹底した経済的自由主義者としての側面をもつ。また,政治的には『道徳および立法の諸原理序説』 An Introduction to the Principles of Morals and Legislation (89) などを著わし,哲学的急進主義者として議会の改革などに関する政治運動にもたずさわり,ミル父子やリカードに影響を与えた。





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I プロローグ

世界歴史年表
ベンサム、功利主義を説く



功利主義 こうりしゅぎ Utilitarianism 役にたつものが善であるという倫理学の考え方。この考えによれば、行為の倫理的価値は、その結果が役にたつかどうかできまり、道徳的行為の最終目的は「最大多数の最大幸福」であるといわれる。ここでいわれている最終目的は、あらゆる法律の目標でもあり、社会制度の究極の基準でもある。功利主義における倫理観は、良心や神の意志や本人だけ感じる快楽などを基準とする倫理観に対立している。

II ペーリーとベンサム

ジェレミー・ベンサム ベンサム(1748~1832)はイギリスの哲学者、経済学者、法学者で、功利主義をとなえたことで名高い。彼は功利主義を共同体の幸福の総量を増大させる手段と定義する。また功利主義は、個人ではなく社会全体の快楽を追求する普遍的快楽主義で、「最大多数の最大幸福」を最高の善とするとした。THE BETTMANN ARCHIVE

イギリスの法学者で哲学者のペーリーは、功利主義を個人的な快楽と神の意志にむすびつけ、神の意志にしたがって人類の永遠の幸福をめざさなければならないと考えた。ベンサムは「道徳および立法の原理序説」(1789)において、功利主義的な考えを倫理学の基礎にすえるだけではなく、法律や政治改革の基礎にもすえた。彼は、多数者の利益のためには少数者の犠牲はやむをえず、どんな事柄でも少数者よりも多数者を優先すべきだと考え、「最大多数の最大幸福」を社会の倫理的な最終目標にした。

III ベンサム以後

Web センター
U インターネットの情報を検索: 功利主義
インターネット検索
オンライン書籍検索
 

ベンサム以後の功利主義の代表的人物としては、イギリスの法学者オースティンやジェームズ・ミル、ジョン・スチュアート・ミルの親子などがいる。

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J.ミル
ミル

ミル
Mill,James

[生] 1773.4.6. ノースウォーターブリッジ
[没] 1836.6.23. ロンドン

  


ミル


イギリスの歴史家,経済学者,哲学者。 J.S.ミルの父。エディンバラ大学卒業後,ロンドンで評論家として活動中,ベンサム,リカードと知合い,功利主義とリカードの学説の普及に努めた。『英領インド史』 History of British India (3巻,1817) が機縁となって東インド会社に入社。ほかに,友人ベンサムの思想を連想心理学の立場から擁護した『人間精神の現象分析』 Analysis of the Phenomena of the Human Mind (29) がある。





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ミル,J.
ミル James Mill 1773~1836 イギリスの哲学者・経済学者。ジョン・スチュアート・ミルの父。ベンサムのイギリス人の最初の弟子で、ベンサムの功利主義の考えをくわしく説明し展開した。

スコットランドに生まれ、エディンバラ大学でまなぶ。雑誌の編集をし、1806~18年に「イギリス領インド史」を執筆、有名になった。その後、東インド会社に就職。さらに、経済学者リカードの考えをもとにして哲学的急進主義をとなえ、この考えを「経済学綱要」(1821)にあらわしている。


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ミル 1773‐1836
James Mill

イギリス功利主義の代表者の一人で,J. ベンサムの協力者として学派の形成に貢献した。経済学者としても知られる。長男 J. S. ミルに,功利主義の継承者たらしめるべく厳しい早教育をほどこしたのも,その一端である。スコットランドの農村の貧しい靴屋の家に生まれたが,ある裁判官がその才能を惜しんでエジンバラ大学で神学を学ばせた(1790‐97)。説教の免許を得て巡回説教をやってみたものの,人気がなく,職を求めてロンドンにでたミルは,ジャーナリストとして成功し,1808年にはベンサムを知って,その最初のイギリス人の弟子となった。9人の子どもをかかえながら,精力を傾けて書いた大著《イギリス領インド史》(1817‐18)によって名声を確立するとともに,東インド会社に職を得て生活を安定させることができた。彼の著作は,スコットランド啓蒙思想の成果のうえに立っているので,功利主義への改宗後でさえ,ベンサムとのあいだに微妙なずれがある。とくにミルが東インド会社に就職してからは,人間関係も以前のように緊密ではなくなった。なお著書としては,ほかにリカードの経済学を平易にした教科書《経済学綱要》(1821)や《自伝》(1873)がある。
                         水田 洋

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オースティン
オースティン

オースティン
Austin,John

[生] 1790.3.3. サフォーク,クレーティンミル
[没] 1859.12. サリー,ウェイブリッジ

  

イギリスの法学者。 16歳のときから5年間軍隊生活をおくったが,1818年に弁護士の資格を取り,法律実務に従事した。次いで 26年に新設されたロンドン大学の法哲学講座担当教授となり,2年間ドイツに留学してドイツ普通法学の方法を学んだ。帰国後,その影響のもとでさまざまな法概念を厳密に分析し,分析法学を樹立,自然法論を批判して,法と道徳との区別を明確にし,法を制裁を伴った主権者の命令であると定義した。彼の分析的方法は当時のイギリスの法学界では評価されず,後世に残した影響力は妻サラーによる彼の死後の著書出版によるところが大きい。著書『法理学講義』 Lectures on Jurisprudence (1869) など。





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オースティン,J.(法律)
I プロローグ

オースティン John Austin 1790~1859 イギリスの理論法学(法理学、法哲学)の開祖で、分析法学の創始者。ベンサムの門下であり、ミル父子(J.ミル、J.S.ミル)の盟友でもあった。

II 死後に注目される

軍務についたのち弁護士となるが成功せず、1826年に新設されたロンドン大学の初代理論法学教授となった。講義準備のため同年ドイツに留学、サビニーらと知りあい、ローマ法や歴史法学の体系的方法をまなんだ。

ロンドン大学での講義はあまりに理論的であったため、聴講者がしだいに減少し、1832年に失望の末、辞職。不遇のうちに一生をおえた。死後の61年に、妻であったサラーが彼の主著「法理学の領域決定」(1832)を再刊。さらにJ.S.ミルらかつての聴講者の協力をえて遺稿「法理法学講義」を刊行(1863)。ようやく注目されるにいたった。

III 理論的功績

オースティンは、法と道徳、理論法学と立法の科学を峻別、理論法学の考察領域から自然法や歴史的要素を排除し、もっぱら論理的な側面から、権利、義務、自由など実定法体系の基本概念や理念を抽出分析した。分析の論理的前提として、法を主権者の命令と定義したのは有名である。彼の研究は、イギリスではじめて実定法を対象にした本格的な理論法学の体系を提示したものといってよく、成熟した実定法体系に共通する論理的体系的構造を明らかにした功績も大きい。

このような彼の理論法学は、T.E.ホランド、J.W.サーモンドらにより継承修正され、19世紀後半以後、メーンの歴史法学とならび、イギリス法学の2大学派のひとつに発展した。その学派、研究は、精緻(せいち)な分析的特徴から分析法学とよばれる。明治期、東京大学で英米法を講じたアメリカのH.T.テリーは分析法学派のひとりであった。


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オースティン 1790‐1859
John Austin

イギリスの法学者。軍人,弁護士を経て1826‐32年ロンドン大学の法理学教授。その間ドイツに渡り,ローマ法およびドイツ概念法学の方法を学ぶ。同大学を辞任した32年に《法理学の領域決定》を著した。ベンサムおよび J. ミルの影響を受け,功利主義を基調にもちつつ,法実証主義理論を説き,典型的な法命令説(法は命令の一種であるとする考え方)を展開した。彼の理論は,死後,未亡人サラーによる同書の再刊(1861)および J.S. ミルのノートの助けをかりて著された《法理学講義》の刊行(1863)以後有名になった。その理論は,分析法学とよばれ,その後変貌し修正を受けつつ,T. E. ホランドや J. W. サーモンドらに継承され,現代イギリス法理学の礎石として,今日も重要な意義をもっている。         八木 鉄男

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J.S.ミル
ミル

ミル
Mill,John Stuart

[生] 1806.5.20. ロンドン
[没] 1873.5.8. アビニョン

  

イギリスの思想家,経済学者。 J.ミルの長男。父の厳格な教育を受けて育ち,10代から哲学的急進派の論客として活躍。 1823年ロンドンの東インド会社に入社,56年まで在職。 26年の精神的危機を転機として,それまでの狭義のベンサム主義から脱してドイツの人文主義や大陸の社会主義,コント思想などにも関心を寄せるようになる。 65~68年下院議員となり,社会改革運動にも参加。社会科学も含めた科学方法論書でもある『論理学大系』A System of Logic (2巻,1843) 公刊後,19世紀中葉の経済学の再編成期にあたり『経済学原理』 Principles of Political Economy (48) で古典派経済学の体系を独自の方法で整理し,生産法則と分配法則とを分離して,前者を歴史を貫く不変の原則とし,後者は社会進歩とともに変革しうると説き,静学と動学の区別を導入し,労働階級の将来を論じ,定常状態に独自の解釈を加えるなど,かなりの期間大きな影響力をもった。『功利説』 Utilitarianism (63) で快楽に質の差を導入したことでも著名。政治論では代議制と行政上の分権制の意義を強調した。ほかに『自由論』 On Liberty (59) ,遺稿『ミル自伝』 Autobiography (73) ,遺稿『社会主義論』 Chapters on Socialism (79) など著書,論文多数。トロント大学によりミルの『全集』 Collected Works of John Stuart Millが刊行されている。





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ミル,J.S.
ミル John Stuart Mill 1806~73 イギリスの哲学者・経済学者。19世紀イギリスの哲学、経済学だけではなく、政治学、論理学、倫理学などに多大な思想的影響をあたえた。

父のジェームズ・ミルにより、3歳からギリシャ語、8歳からラテン語といった並はずれた早期教育をうける。17歳で、ギリシャ文学と哲学、化学、植物学、心理学、法学を完全に習得する。ロンドンの東インド会社にはいり、勤務のかたわら思想活動にとりくんだ。会社解散後、フランスのアビニョンの近くにうつりすむ。1865年にイギリスの下院議員となるが、68年に落選。アビニョンにもどりそこで死去した。

ミルは、18世紀の自由、理性、科学への関心の高まりと、19世紀の経験主義、集産主義的傾向の橋渡しの役割を演じた。哲学においては、父ジェームズ・ミルやベンサムの功利主義の考えを体系化し、知識を人間の経験に基礎づけ、人間理性を強調した。経済学の分野では、個人の自由を尊重し、社会や政治の専制が自由に対して脅威となる可能性について論じた。彼自身は社会主義者にはならなかったが、マルクス以前の社会主義を研究し、労働者の条件の改善のために活動した。国会では、男女平等や産児制限などを支持したことから、急進派とみなされていた。

著作には「経済学原理」(1848)、「自由論」(1859)、「女性の隷従」(1869)などがある。


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ミル 1806‐73
John Stuart Mill

イギリス19世紀中葉の代表的な哲学者,経済学者。とくに,その晩年に書かれた《ミル自伝》によって,幼少時からの一生を通じる思想展開を詳細に後づけることが可能な数少ない例として知られている。父ジェームズ・ミルの異常ともいえる教育熱心によって,3歳からギリシア語を,8歳からラテン語を学び,12歳までに多くの古典を読んだ。この間に初等幾何学や代数学ならびに微分学の初歩を学び,13歳のときには経済学の課程まで終えていたという。父ジェームズは D. リカードの親友であり,その経済学の礼賛者かつ解説者であったから,ミルは少年期に徹底的にリカード経済学を仕込まれたわけである。また父からは論理学も学んでいる。また父を通じて J. ベンサムの功利主義から強い影響を受けた。14歳以後は一人立ちで勉強したが,幼年期からの教育によって一種の純粋培養的な学者となったといえる。一生の間に《論理学体系》(1843),《経済学原理》(1848),《自由論》(1854年に書かれ59年出版),《功利主義論》(1861年に雑誌に発表,63年単行本),《女性の隷従》(1869),遺稿の《社会主義論》(1879)その他多くを著したが,それらはすべて自分の見聞に照らして,より正確に真理を究め世に問おうとする誠実な努力の結果であった。彼ほど世俗の利害や党派的な感情に惑わされない人物はまれであったといえよう。
 経済学者としてのミルは古典派経済学の完成者と呼ばれ,同時にイギリス社会主義の父とも呼ばれたが,正確にいえば,古典派を頂点まで理解することによって,その限界をも知るに至り,体系を拡張したということである。そのことは彼の《経済学原理》の初版と第3版(1852)との差異に見ることができる。ミル自身は労働階級への関心の高まりを,彼が愛し後に結婚(1851)したテーラーHarriet Taylor の影響に帰しているが,要はミルが生活経験の乏しさから〈イギリス交際社会の低級な道徳の調子をまったく知らなかった〉ために,古典派の〈私益追求〉の概念をあまりに性善説的に解釈していたことへの反省にほかならない。ミルのリカード派からの脱皮は,イデオロギー的なものではなく,〈富の分配〉を〈富の生産〉と同様な自然法則であるかのようにみなすことが事実認識上の誤りであることに気づいたためであった。《経済学原理》における労働時間規制論は,市場均衡論にもとづく最初の分析的記述となっている。《論理学体系》においては,それ以前の演繹(えんえき)法偏重をいましめ,帰納的な実証主義の重要性を指摘した。
 また功利主義についても,ベンサム流の数量評価が質的側面を見落としていることを指摘した。ミルは徹底して個人の自由を尊重することから,男女平等の政治的民主主義を主張し,同時に多数決において少数者の意思表示の自由を留保することを忘れなかった。ミルが矛盾撞着(どうちやく)を含む過渡期の思想家と評されたのは,既得の真理に新たな知識を加えるという進歩発展への彼の苦闘の過程を表面的に見たものにすぎない。
                      嶋村 江太郎

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H.シジウィック
シジウィック

シジウィック
Sidgwick,Henry

[生] 1838.5.31. スキプトン
[没] 1900.8.29. ケンブリッジ


イギリスの倫理学者,経済学者。ダーウィンの『種の起原』の出現によるキリスト教信仰の動揺,T.H.グリーンに始るオックスフォード・プラトニストの台頭,古典派経済学の衰退など,イギリス思想界の激動期にあって事態に誠実に対処した当時の典型的大学人の一人。ケンブリッジ大学に学び,1883年同大学道徳哲学教授。功利主義の立場に立つが,直覚主義を導入することによって,従来の功利主義の限界を越えようとした。また大学問題,ことに女子の大学教育の問題に貢献した。経済学面では古典派と近代経済学の中間期の最もすぐれた体系書である『経済学原理』 Principles of Political Economy (1883) を著わし,サイエンスとアートとの峻別などによって,のちの新厚生経済学にも大きな影響を与えた。主著『倫理学の方法論』 The Methods of Ethics (2巻,1874) 。





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