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時計から始まる機械論(その02) [宗教/哲学]

形相と質料
形相と質料
I プロローグ

形相と質料 けいそうとしつりょう Eidos and Hyle 古代ギリシャの哲学者アリストテレスの用語。形相eidos(エイドス)とは、もとの言葉の意味では目でみることのできる形のことであり、質料hyle(ヒュレ)の原義は材料のことである。

II 「椅子」と木材

一般に、物が「何からできているか」にこたえるのが質料、その物が「なんであるか」にこたえるのが形相と考えてよい。たとえば木の椅子(いす)については、その質料は木材で、形相が「椅子」である。石の椅子の場合は、質料は石だが、形相は同じく「椅子」である。材料はことなるが形が同じだからである。また、質料が同じでも形相がことなる場合もある。たとえば同じく石でできていても、椅子と石像と墓では形相がことなる。

このように形相と質料の結びつきは多種多様で偶然的であるが、アリストテレスによると、存在するすべての物にはかならず形相と質料がそなわっていなければならない。この考えには、プラトンのイデア説に対する批判がふくまれている。

III プラトンのイデア説

プラトンは、われわれが感覚する個々の事物には永遠不滅の原型(イデア)が存在すると考えた。たとえば50個の馬のクッキーの形がみな同じなのは同じ1つの型でぬいてつくられているからであるが、ちょうどそれと同じように、すべての自然の馬も「馬」という1つのイデアにあわせてつくられている。したがって、個物の種類があるだけイデアの種類もあり、それらのイデアが感覚世界のかなたにあつまってイデア界を形成しているとプラトンは考えた。

こうしてプラトンは、われわれがみたり聞いたりする自然の世界のかなたに、超自然的なイデアの世界、形而上学的な世界を想定した。

IV イデア界の否定

けれどもアリストテレスによれば、このイデア説は、本来切りはなすことができない形相と質料を切りはなして考えた結果でてきたものである。つまり形相が質料とむすびつかなくても存在できるとするところに、プラトンの間違いがある。

アリストテレスによれば、椅子の形相とはあくまでも個々の椅子の中にあって、その椅子を椅子たらしめているものである。つまり個物としてのこの椅子は、椅子であるという本性を(イデア界にではなく)自分自身の中にもっているのである。

こうしてアリストテレスは、プラトンのイデア説の趣旨を生かしながら、同時に、現実の世界の外にあるイデア界のようなものを否定しようとした。

けれどもここにやっかいな問題がでてくる。たとえばこの椅子ができあがるまでの間、「椅子」という形相はどこにあったのか。さしあたりは大工の頭の中にあったのだが、彼がはじめてそんなアイデアを考えついたわけではない。すると大工が考える前は「椅子」はどこにあったのか。純粋な姿でイデア界にあったといったのでは、またプラトンに逆戻りする。

V 可能態と現実態

そこでアリストテレスは、形相が質料の中にあらかじめ可能性というかたちで存在していたと考えた。つまりアリストテレスは運動変化を説明するために、形相と質料という対概念にくわえて、可能態(デュナミス)と現実態(エネルゲイア)または完成態(エンテレケイア)という対概念を導入した。

こうした発想方法のモデルは、生命体の成長だった。たとえばカシ(樫)の種子は、まだカシの木ではないがやがてカシの木になるのだから、カシの木の可能態だとみなすことができる。つまり生命体は自分がこれからなるであろう形相の可能性を自分(質料)の中にすでに宿していると考えられる。芽がでてそだってカシの大木になったとき、この種子は現実にカシの木になった、つまりカシの木の現実態になったといえるのである。

これと同じ発想でアリストテレスは、いわゆる物理的運動や人為的制作をも説明しようとした。椅子をつくる場合でも、材木という質料はやがて外からなんらかの力をうけとって、現実の椅子を実現する可能性をすでにもっていると彼は考える。椅子という形相は、もともと(完成態にいたる以前は)質料としての材木の中に可能性としてあった。材木は自分自身のうちに素質としてあるこの形相を目的にして(むろん大工の手をかりて)成長変化するのだとアリストテレスは考えた。

この場合、材木は椅子の可能態である(もちろん材木は船や机にも変身できるので、船や机の可能態でもある)。そして大工によってつくられた現実の椅子が、この材木の現実態だということになる。このように考えれば、個物の世界のほかに純粋な形相からなるイデア界を想定しなくてもよくなるのである。

VI 目的論的世界観

こうしてアリストテレスの形相と質料という対概念は、イデア説の不自然さを克服することに成功したのだが、そのかわりに、あらゆるものを目的論的に考える世界観を準備することになった。アリストテレスの目的論的な世界観は中世を通じて支配的であったが、やがて近代科学の機械論的な世界観と対立することになる。

→ 西洋哲学


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可能態
可能態

かのうたい
dynamics; potentiality

  

アリストテレスの使用した概念で,現実態 energeia; actualityと対をなす。彼は事物の生成をこの対概念によって説明し,事物は可能的存在から現実的存在へと発展すると考えた。たとえば木の種子は木の可能的存在にすぎないが,やがて木の種子は現実化して木となる。彼のこの概念は,同じく彼の質料と形相という対概念と対応するものである。





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質料
質料

しつりょう
hyl; materia

  

一般に物質であるが,質料と訳されるときには形相の対概念として特別な意味をもつ。質料形相論の確立者はアリストテレスであるが,手仕事を土台に考えており,質料と形相はそれぞれ素材と形に対応する。すでにプラトンは相対的非存在で形がない物体の母としての質料を考えていたが,アリストテレスはこれを可能的な存在で無規定的なもの,形相による規定を受入れる原理とした。質料も形相も相対的概念であり,木は材木の質料だが材木も家の質料となる。すべてのものはより高次なものの質料である。これらをすべて第2質料と呼び,その根底にいかなる形成も受けていない純粋な質料を想定して第1質料と呼ぶ。質料は偶然的,非論理的なものの原理でもあり,アビセンナはこれを個体化の原理とした。これを受けて,論理的に検討を加えたトマスは,指定質料 materia signataをこの原理とした。





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質料形相論
質料形相論

しつりょうけいそうろん
hylmorphismus

  

アリストテレスの自然学の中心的学説で,自然的物体は2つの本質的原理,すなわち可能的・受動的・無規定的原理としての質料 hylと,現実的・能動的・規定的原理としての形相 morphによって構成されていると説く (『自然学』『形而上学』) 。彼は,それが自身他者から生じることなく,ほかのすべての物質の構成要素となるものとしてエンペドクレスの4元素をあげる一方,物質が要素的なものであれ構成的なものであれ,物質が生成し,あるいは実体的変化をとげるために必要な原理として,質料と形相の2原理を要請したのである。アリストテレスの質料形相論は,ギリシアやアラビアのアリストテレスの注釈家やスコラ哲学者によって継承され,特にトマス・アクィナスは彼の『自然学』『形而上学』の注釈や『存在と本質について』 De ente et essentiaで質料形相論への最良の理解を示している。質料,形相という形而上学的原理を主張するこの学説に対立するものとしては,原子論,機械論,力本説などがあり,これらはいずれも形而上学的原理による物体の構成という考えを否定する。





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形相
形相

けいそう
eidos

  

一般に「質料」との対概念として用いられる。プラトンでは,ある一つの種を他から決定的に区別する述語形態,すなわち一般者を意味する。この一般者が結局定義を拒否し「ものそれ自体」に帰一するところから,個々の感覚的存在をこえた自己同一的な真実在としてのイデアと同一視されることもある。アリストテレスでは,質料と相関的に用いられ,可能態としての質料を限定する本質 (ウシア) ,種差,模範を意味する。たとえば材木が家の質料であるとすると,家についての観念は家の形相である。中世哲学においては形相は本質的なものと偶有的なものに分れたが,近世以降は概して素材,内容の対概念として用いられている。





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現実態
現実態

げんじつたい
energeia; actus

  

「現実態」とはアリストテレスにおいて,類比関係の共観によってのみ悟られうる「可能態」の対概念である。始源的意味をとどめて用いられる場合もあって多義的であるが,この原語は,限りのある行為としての運動から区別される完全な行為としての実現活動を意味する場合と,可能的存在に対応する実体ないしは形相の意味での現実態とに大別されうる。この対概念はアリストテレス後期の哲学を特徴づける中心的概念である。





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エネルゲイア
エネルゲイア
energeia[ギリシア]

〈現実性〉〈現実態〉〈現勢態〉〈現実活動〉などと訳される。〈デュナミス dynamis〉(〈可能態〉〈潜勢態〉。ただし一般的な意味としては〈力〉〈能力〉)と対比して,可能性が実現していることを表す用語としてアリストテレスがはじめて用いた。その語義は〈エルゴン ergon〉(仕事,活動,またはその成果,作品)から派生したもので,現に活動しているという動的な現実も,完成されてあるという静的な現実も示す。〈エンテレケイア entelecheia〉(完成態,完全現実態)とも事実上同義で多く互換的に用いられる。彼は技術による製作も自然界の生育も,ともに可能態=質料(素材)から目的としての現実態=形相への移行としてとらえる。またその移行である〈動〉(運動,変化)そのものは,〈動かされうるものの動かされうるという資格での現実態〉と定義され,最終的な完成にいたっていないという意味で〈不完全な現実態〉とも呼ばれる。魂は身体の〈第1の現実態〉として規定され,魂の能力の行使が第2の現実態にあたる。また人間の幸福も,単なる状態(ヘクシス)と区別された現実活動(優れた能力の行使)とされる。一般に可能から現実への移行には,すでに現実態にある別の存在が必要とされ,天体の運動をも含めたすべての動の究極的根拠となる〈不動の動者〉としての神のあり方も純粋な現実活動として述べられる。このように〈エネルゲイア〉概念はアリストテレス哲学の多くの重要な場面で大きな役割をになわされていた。また現代語〈エネルギー〉の語源でもある。
                        藤沢 令夫

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モナド
モナド

モナド
Monade; monad

  

ドイツの哲学者ライプニッツの実体概念。ギリシア語で1を意味する語 monosに由来し,単子と訳される (言葉自体はブルーノやヘルモントらに先行する用例がある) 。『形而上学叙説』などの著作で実体的形相,エンテレケイア,形而上学点などといわれるものに等しく,『単子論』で体系的に展開されている。モナドは部分をもたない単純な実体で,物質的ではなく霊的である。生成消滅することはなく,そこに起る一切の変化は内的原理に由来し (「モナドには窓がない」) ,表象 (意識されないものを含む) によって全世界と全歴史を表現する。表象を変化させる通時的原理は欲求である。モナドは外からの影響を受けないから,モナド間に因果関係はなく,相互間の関係は予定調和の原理で説明される。世界は低級な物体から神にいたるモナドによって構成されており,この位階はそれぞれのモナドの含む表象の明瞭度による。





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[ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 2008]


モナド
monad

ギリシア語のモナス monas(単位,一なるもの)に由来する概念。単子と訳される。古代ではピタゴラス学派やプラトンによって用いられ,近世ではニコラウス・クサヌスやブルーノが,モナドを世界を構成する個体的な単純者,世界の多様を映す一者としてとらえた。これらの先駆思想を継承して,ライプニッツは彼の主著《モナドロジー》において独自の単子論的形而上学思想を説いた。ライプニッツは物理的原子論を批判して,宇宙を構成する最も単純な要素すなわち自然の真のアトムは,不可分で空間的拡がりをもたぬ単純者であり,いわば〈形而上学的点〉とも言うべきものであると主張した。モナドは意識的もしくは無意識的知覚を有する魂に類似したものであり,それぞれに固有の観点から宇宙のいっさいの事象を表出する個体的な実体である。しかしおのおののモナドは相互に他から独立であり,モナドはそこから物が入ったり出たりする〈窓〉をもたない(無窓説)。モナドの作用は自己の内的原理のみにもとづいて展開され,モナド相互の間には予定調和の原理に従う観念的関係しか存しない。ライプニッツによれば宇宙においていっさいは生命的はたらきによってみたされており,物質のどのような微細な部分にも生命がある。モナドはかかる宇宙の生命的活動の原理であり,神の超自然的はたらきによってのほかは不生不滅である。誕生は生命の展開(現勢化)であり,死は生命の収縮(潜勢化)にすぎない。《モナドロジー》のこのような形而上学思想に含まれる最大の困難は,真の実在である不可分の単純者(モナド)からいかにしてわれわれが経験する物体的合成体が形成されるか,合成体は見かけの存在にすぎぬか,またはそこには真の統一があるか,等の問題であった。ライプニッツは〈実体的紐帯〉の説によってこれに答えようとしたが,それは十分説得的なものではなく,今日まで種々の論議を呼び起こしている。モナドの概念はその後多くの思想家によって用いられ,例えばルヌービエの《新モナドロジー》(1899),M. ネドンセルの〈モナド的相互人格性〉の思想,フッサールの〈モナド的相互主観性〉の説等に見ることができる。
                        増永 洋三

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G.W.ライプニッツ
ライプニッツ

ライプニッツ
Leibniz,Gottfried Wilhelm von

[生] 1646.7.1. ライプチヒ
[没] 1716.11.14. ハノーバー

  

ドイツの哲学者,数学者。 12歳のときほとんど独学でラテン語に習熟。 1661年ライプチヒ大学に入学,法学と哲学を学ぶ。 66年アルトドルフ大学で法学博士。 67年からマインツ選帝侯に仕えて政策立案などを行い,72年にはパリに派遣された。 76年帰国して死ぬまでハノーバー侯に仕えたが,晩年は不遇であった。広範な問題を取扱ったが,数学では 75年独自に確立した微積分法がある。また彼の哲学は C.ウォルフによって変形されつつ体系化され,普及してドイツ啓蒙主義の主潮であるライプニッツ=ウォルフ学派を形成した。主著『形而上学叙説』『人間悟性新論』『弁神論』『単子論』。





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ライプニッツ 1646‐1716
Gottfried Wilhelm Leibniz

ドイツの哲学者,数学者。歴史学,法学,神学などについても重要な業績を残し,政治家,外交官など実務家としても活躍した。ライプチヒに生まれ,ライプチヒ大学で哲学を,イェーナ大学で数学を,アルトドルフ大学で法律を学んだ後,マインツ侯国の前宰相ボイネブルク Johann Christianvon Boyneburg(1622‐72)と相識り,1670年侯国の法律顧問官となる。侯国の外交使節として72年以降パリに滞在したが,このパリ派遣は,彼自身の起草になる〈エジプト計画〉(フランスの対外拡張政策,特にオランダ侵攻を阻止し,エジプト征服を勧めることによって,ひいてはドイツの安全を図ろうとするもの)を,ルイ14世に奏上することが直接の目的であった。この試みは実現しなかったが,彼はフランスの学者グループに仲間入りし,またイギリスにも渡り,R. ボイルを知るなどして刺激を受けた。オランダでのスピノザとの会見を経て,76年末ドイツに帰国,以後生涯変わることなくハノーファー家に司書官,顧問官として仕える。その間,ハノーファー家の系譜の歴史学的探求,そのためのイタリア旅行,ヨーロッパ各地でのアカデミー設立(自身1700年設立のベルリンのアカデミーの初代総裁となった),さらにカトリックとプロテスタント両教会の間の融和統一等の仕事に尽力する。その膨大な著作の大半は,現在においても未刊の断片的草稿のままに,ハノーファーの〈ライプニッツ文庫〉に日の目を見ずに保存されている。刊行されたもののうちまとまりのある主要な著作は,《形而上学叙説》(1686),《新人間悟性論》(1704),《弁神論》(1710),《単子論》(1714)等である。
[哲学]  ライプニッツ哲学の根本的特質は普遍的調和(予定調和)の思想と個体主義にある。論理・認識思想に関しては,思考のアルファベットと結合法の思想にもとづく普遍学の理念,および認識の経験論的理説と合理論的理説を独自に統一した表出説が重要である。自然学思想ではライプニッツに特有の力動的な活力の概念の発見(力動説)のうちに,デカルトの静力学的自然学に取って代わるべき新たな力学説の成立を見ることができよう。これらを基礎として単子論的形而上学思想(モナド)が確立されるに至った。ライプニッツが物体の形相的要素とみなす根源的力は,物質における運動の力動的原理であり,自然現象の連続性と多様性の条件である。すなわち宇宙が秩序も統一も欠く混沌ではなく,また多様な変化の認められる余地のない同質的集塊でないために,物質のうちに根源的力がなければならず,実体の活動が多様な変化の現象を可能にするのでなければならない。ライプニッツは原子論(アトミズム)の批判によっても同一の結論に達した。真に実在するものは不可分であり不滅である。真に〈一なる〉存在でないものは,真に〈存在する〉ものではない。同質的で無限に可分的な物質的アトムは理性に反する。実体の不可分性は形相の不可分性である。それゆえ形相的アトムは魂に類似したものとして把握されうる。すなわち生命,エンテレケイア,魂が物質の最小の部分のうちにも存在するのである。この意味でライプニッツの形而上学説は汎心論もしくは汎生命論とも呼ばれうる。なお,彼の哲学はライプニッツ=ウォルフ学派により,一面的にではあるが継承された。      増永 洋三
[数学,自然学]  ライプニッツは,大学時代にはほんの初等的な幾何学・算術を学んだにすぎなかったが,学位論文《結合法論考》(執筆1666)における普遍記号法の理念は後年,数学・論理学の革新を計る際開花することになる。数学における能力はパリ滞在期に大きく飛躍する。当時アカデミー・デ・シアンスの中心的科学者であったホイヘンスやローヤル・ソサエティの知識人たちによってヨーロッパの第一線の知的世界に導かれたためである。最初の数学の天分は計算機作製において示された。この計算機は加減乗除の四則演算が可能となるように計画されたものであった。また73年以降,求積法・接線法の研究を急速に発展させ,手初めにパスカルの無限小幾何学についての著作から示唆を受けて円の算術的求積に成功し,円周率の無限級数展開に関する〈ライプニッツ公式〉(π/4=1-囂+囈-圄+……)を得た。さまざまな求積問題・逆接線問題にとり組む中から,76年秋までには今日の微分記号 d や積分記号∫を用いる微分積分法の概念に到達したものと思われる。この成果は84年から徐々に公表された。ライプニッツ的微分積分法の特質はすぐれた記号法によった点にある。今日の位相幾何学の考え方にも通ずる《位置解析について》の書簡をホイヘンスあてにつづっている(1679)が,ホイヘンスはこれに好意的でなかった。このように同時代人は必ずしも代数的普遍記号法の理念を歓迎したわけではない。ニュートンなどイギリスの数学者たちがライプニッツ的数学を受け入れたがらなかった理由の一つも,このような記号法的特質のためであった。だが,96年のロピタルの微分法の教科書《曲線の理解のための無限小解析》がライプニッツ思想にもとづいて書かれたのをかわきりに,ベルヌーイ兄弟,バリニョン Pierre Varignon(1654‐1722)など大陸の数学者たちはライプニッツ的記号数学を普及させた。ライプニッツ的形式主義は論理学の変革にも力を及ぼし,論理学は論理計算に改変させられた。この試みは19世紀末以降,数学的論理学者たちによって再評価された。彼はまた二進法,行列式の考えにも到達していたことが今日ではわかっている。
 自然学においては,デカルト学派が運動量(質量と速度の積 mv)保存の法則を動力学の世界にもち込もうとしたのに反対し,保存されるのは〈活力〉(mv2)であると主張,活力論争をひき起こした。デカルトと同じく機械論的哲学を基本的には支持しながらも,独断的な機械論には反対であったものと思われる。ニュートン学派の S. クラークとも論争し,ニュートン的神,絶対時空概念を批判した。彼の相対的時空論は現代の相対性理論的観点から高く評価されている。ライプニッツ哲学はカント以降ほとんど見捨てられたものの,以上のような個々の科学的言明は後代に大きな影響を及ぼしたわけである。            佐々木 力

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ライプニッツ,G.W.
I プロローグ

ライプニッツ Gottfried Wilhelm Leibniz 1646~1716 ドイツの合理主義的哲学者・数学者・政治家。17世紀のもっともすぐれた知識人のひとり。

II 生涯

ライプツィヒに生まれ、ライプツィヒ、イエナ、アルトドルフの各大学にまなんだ。1666年に法学博士号をえたのちに、法律、政治、外交などのさまざまな権限をもつマインツ選帝侯につかえる。73年、選帝侯の治世がおわると同時にパリにおもむく。3年間パリにとどまり、アムステルダムやロンドンをおとずれるかたわら、数学、科学、哲学の研究に時間をついやす。76年にハノーファー王室の司書および顧問官に任命され、以後40歳から死ぬまで3代にわたるハノーファー家につかえた。

ライプニッツは同時代の人たちに万学の天才とみなされた。彼の業績には、数学や哲学だけでなく、神学、法学、外交、政治学、歴史学、文献学、物理学などもふくまれている。

III 数学

数学におけるライプニッツの貢献は、1675年に微積分の基本原理を発見したことである。この発見は、66年に計算法を案出していたイギリスの科学者ニュートンとは別に独自におこなわれた。ライプニッツの計算法が発表されたのは84年、ニュートンの計算法が87年であり、ライプニッツによって考案された表記法のほうが一般に使用された。72年には、掛け算や割り算のほかに平方根ももとめることのできる計算機を発明している。また、ライプニッツは記号論理学の開拓者のひとりともみなされている。

IV 哲学

ライプニッツが主張する哲学によれば、宇宙は無数のモナドからなる。モナドとは表象と欲求という心的働きをもつ単純体である。

1 モナドと予定調和

モナドはそれぞれにミクロコスモスを構成し、さまざまな判明度において宇宙をうつしだし、ほかのすべてのモナドとは独立に発展する(→ ミクロコスモスとマクロコスモス)。宇宙は、独立したモナドからなるにもかかわらず、普遍的調和をなすように神によってあらかじめ設計されている。これは「予定調和」とよばれる。しかし、人間は視野がかぎられているために、病気や死といった悪をそうした普遍的調和の一部と考えることができない。

「ありうるすべての世界の中で最良の世界」というこのライプニッツの宇宙は、現世安住的な楽天主義を否定したフランスの作家ボルテールの小説「カンディド」(1759)により、ユートピアとして攻撃されることになる。

V 著作

ライプニッツの重要な哲学的著作には、「新人間悟性論」(1704)、「弁神論」(2巻。1710)、「モナドロジー」(1714)などがある。「新人間悟性論」と「モナドロジー」は、ウォルフやカントら、18世紀のドイツの哲学者に大きな影響をあたえた。


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『形而上学叙説』
形而上学叙説

けいじじょうがくじょせつ
Discours de mtaphysique

  

ドイツの哲学者 G.ライプニッツの代表作の一つ。 1686年2月上旬に書かれ,1846年 G.グローテフェントが初めて公刊した。原稿には標題はないが,E.ヘッセン=ラインフェルス伯宛の書簡 (1686.2.11.) にある「形而上学についての小叙説」という言葉からこの標題が付せられた。全 37節より成る小論ながら,神,実体,力学,人間の悟性と意志,信仰をテーマとして神から世界へ,世界から神への展開のなかに彼の哲学の全体系を包括している。ライプニッツは概略を A.アルノーに送って両者の間に実体概念を中心とする論争が行われ,そこからモナドと予定調和を核とする後期の思想が発展していった。だが実体-主語に属性-述語を包摂させる論理学的解釈はこの著作独特のものであり,20世紀初めに B.ラッセルや L.クーチュラが注目してライプニッツの本領を『単子論』よりもむしろここに認めた。それ以来この著作は重視されるようになった。





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『単子論』
単子論

たんしろん
Monadologie

  

ドイツの哲学者ゴットフリート・ライプニッツ晩年 (1714) の代表作。信奉者 N.レモンのためにフランス語で書かれた表題なしの小論で,『単子論』の名は 1720年にドイツ語訳を出した H.ケーラーが与えたもの。全 90節のなかに,いわばライプニッツの哲学の全体が単子 (→モナド ) の概念を中心に圧縮された形で展開されている。モナドとは,合成体 (物体) のなかにある単純体であり,その本性は表象と欲求である。そして表象の判明度により次の4つに段階的に区別されるという。 (1) 裸のモナド,(2) 動物精神,(3) 理性的精神,(4) 神。





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C.ウォルフ
ウォルフ

ウォルフ
Wolff,Christian

[生] 1679.1.24. ブレスラウ(現ポーランド,ウロツワフ)
[没] 1754.4.9. ハレ

  

ドイツの哲学者,法学者。イェナ大学で数学と哲学のほかグロチウスとプーフェンドルフの著作を学び,教授資格論文が機縁となってライプニッツに注目され,その推薦でハレ大学の数学教授となった。その後,マールブルク大学に移ったが,やがてハレ大学に戻って学長にもなった。ライプニッツの哲学を発展させて,包括的な体系を樹立した。その哲学はライプニッツ=ウォルフの哲学と称せられ,その存在論はカトリックから歓迎された。法思想家としても 18世紀のグロチウス学派を代表する。主著『合理論哲学』 Philosophia rationalis (1728) ,『第1哲学すなわち存在論』 Philosophia prima sive ontologia (29) ,『科学的方法による自然法』 Jus naturae methodo scientifica pertractatum (40~48) ,『科学的方法による国際法』 Jus gentium methodo scientifica pertractatum (49) 。





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ウォルフ 1679‐1754
Christian Wolff(Wolf)

ドイツの哲学者。北ドイツのブレスラウ Breslau(現,ポーランドのブロツワフ)の生れ。イェーナ大学で数学と哲学を学ぶ。ライプニッツとの文通(1704‐16)によってライプニッツ哲学から重要な影響を受ける。1704年以降ハレ大学の数学教授。13年ころから哲学の研究に専念し,数学的方法の理念に従って哲学の〈体系〉を演繹的に構成することを試みた。第1の原理は矛盾の原理およびそれから派生する十分な理由の原理であり,いっさいの真理はそれらから必然的に導出されるべきものとされた。体系の基礎をなすのは,真理の根本原理および必然的連関の学としての《論理学》(1728)である。それは三段論法的論証術である。次いで可能的存在者一般の学としての《存在論》(1729),可能的物質世界のア・プリオリな学としての《一般的宇宙論》(1731),魂の形而上学的考察の学としての《合理的心理学》(1734),最後に自然的理性にもとづく純粋に合理的な《道徳論》(1738‐39)が相次いで刊行された。ライプニッツ哲学との関係では,ウォルフはモナドの表出作用を否定し,予定調和説も退けた。これが前批判期のカントによって,ライプニッツの〈物理的単子論〉と誤って解されたものである。この点でウォルフはライプニッツ哲学を歪曲したとして非難された。ウォルフの哲学的活動の意義は,彼の著作に示された体系的精神によって,また〈人間理性にもとづく学〉の理念を普及させた啓蒙家としての役割によって,同時代およびその後のドイツ哲学の発展に寄与した点にある。ドイツ語の哲学用語の創案者としても知られる。⇒ライプニッツ=ウォルフ学派
                        増永 洋三

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ウォルフ,C.von
ウォルフ Christian von Wolff 1679~1754 ドイツ啓蒙期の哲学者。ブレスラウ(ブロツワフ)に生まれ、イエナ大学にまなぶ。1706年、師であるライプニッツの推薦によりハレ大学教授となるが、孔子の道徳説を人間が自力で道徳的真理に到達しうることの証明と主張したため、23年に無神論と運命論のかどで追放される。彼はマールブルク大学にのがれたが、40年プロイセンのフリードリヒ大王の即位後復職し、43年ハレ大学総長となる。

独創的な思想家ではないが、ライプニッツ哲学を組織化し体系化した功績がある。もっとも、そのモナド論と予定調和説の解釈は、ライプニッツ思想を平板化し歪曲(わいきょく)するものと批判されてもいる。彼によってドイツ最初の学派(ライプニッツ・ウォルフ学派)が形成されることになる。著作は「神、世界、人間霊魂についての理性的思考」(1719)など、多数ある。


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ライプニッツ=ウォルフ学派
ライプニッツ=ウォルフ学派

ライプニッツ=ウォルフがくは
Leibniz-Wolffische Schule

  

ライプニッツの弟子 C.ウォルフが解釈し体系化した,ライプニッツの哲学を唱道した一群の哲学者。 1740年代からドイツに広まり,若き日のカントにも大きな影響を与えた。 G.ビルフィンガー,G.マイヤー,A.バウムガルテンなどがその代表者。ライプニッツの思想普及に功があったが,その内容をゆがめ,神髄を十分に伝えてはいないとする批判もある。





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ライプニッツ=ウォルフ学派
ライプニッツウォルフがくは

ライプニッツ哲学をいわば独断的に体系化したC. ウォルフの哲学は時代の流行哲学となり,多くの傾倒者を生んだ。それらの弟子たちを総称してライプニッツ=ウォルフ学派と呼ぶ。このグループには,ウォルフ哲学を比較的忠実に継承した弟子たちと,それからある程度独立した考えを提唱するにいたる人々とが区別される。前者に属するのは,ドイツの広範な読者層にウォルフ哲学を広げることに貢献したチューミヒ Ludwig PhilippTh‰mmig(1697‐1728),ビルフィンガー GeorgBernhard Bilfinger(1693‐1750)やドイツ美学の創始者と目されるバウムガルテンおよびその弟子マイヤー Georg Friedrich Meier(1718‐77)などであるが,とりわけバウムガルテンはウォルフによってほとんど扱われなかった美学の領域に関してウォルフの体系を補完した。後者に属する人々としてはライマールス Hermann Samuel Reimarus(1694‐1768),M. メンデルスゾーン,J. H. ランバートなどが挙げられる。ランバートはウォルフ的合理論とロック的経験論の融和統一をはかった。また認識の真理性の基準に関して,デカルト的明晰判明性も,数学を外面的に模倣したウォルフ的論証法も不十分であることを指摘し,カント的認識批判への方向を示唆した。       増永 洋三

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A.アルノー
アルノー

アルノー
Arnauld,Antoine

[生] 1612.2.6. パリ
[没] 1694.8.8. ブリュッセル

  

フランスの神学者,哲学者。 1632年サン=シランの神父のすすめで法学から神学に転じ,彼の指導下で司祭となり,41年神学博士となる。その頃着手され 43年出版された『頻繁な聖体拝受について』 De la frquente communionは大成功を収め,師を継いでジャンセニストの理論的主柱となってイエズス会と激しく対立。彼が刊行をすすめたパスカルの『プロバンシアル』の出版された 56年ソルボンヌを追放され,ポール=ロワイヤル・デ・シャンに隠遁。そこで 60年ランスロとともに『ポール=ロワイヤルの文法』 La grammaire gnrale de Port-Royal,62年ニコルとともに『ポール=ロワイヤルの論理学』 La logique de Port-Royal,67年『新幾何学入門』 Nouveaux lments de Gomtrieを出版。 79年ポール=ロワイヤル・デ・シャンの破壊とともにオランダに亡命。 85年マルブランシュ批判を含む『哲学的神学的省察』 Rflexions philosophiques et thologiquesを出版。哲学上はデカルト派に属し,文通によってライプニッツの思想形成に影響を及ぼした。





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アルノー 1612‐94
Antoine Arnauld

フランスの神学者,哲学者。ポール・ロアイヤル運動と深い関係をもつアルノー一家の一人,〈大アルノー〉とよばれる。ジャンセニスムの指導者として,数々の迫害をうけながら,アウグスティヌス的な神中心の恩寵観を擁護し,キリスト教とヒューマニズムとの妥協の道を探る近代主義的傾向,とりわけイエズス会とはしばしば論争を交えた。とくに《頻繁な聖体拝受》(1643)は有名。他方プロテスタントに対しては,聖体問題を中心にカトリック教会の立場を擁護した。哲学ではデカルトの《省察》に対する《第四反駁》(1641)を著して深い理解を示し,デカルト哲学とアウグスティヌス神学との一致を説いた。またマールブランシュとは恩寵と観念の問題をめぐって論争し,ライプニッツとも交渉があった。ポール・ロアイヤル付属の学校で教えていたランスロ,P. ニコルと協力して編んだ《文法》(1660)と《論理学》(1662)の教科書は,生成文法や構造主義に刺激を与え,近年注目を集めている。
                        塩川 徹也

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アルノー,A.
I プロローグ

アルノー Antoine Arnauld 1612~94 フランスの神学者。17~18世紀のカトリックの一派ジャンセニスムを代表する思想家である。同名の父と区別して、「大アルノー」の通称でよばれた。アウグスティヌスらの教父哲学やスコラ神学(→ スコラ学)に精通するとともに、同時代のフランス人哲学者デカルトの哲学にも理解をしめした。

パリに生まれ、ソルボンヌ(パリ大学)で法律学と神学をまなんだ。この時期にアルノーは、ジャンセニスムの基礎をきずいたサン・シラン神父から大きな思想的影響をうけた。ジャンセニスムは、サン・シランの友人でオランダの神学者ジャンセニウス(ヤンセン)がとなえた神学上の立場で、信仰と道徳の厳格さ(悔い改め、清貧、純潔など)を主張するとともに、救済にはたす神の恩恵を重視している。

II ジャンセニスムとの関わり

ソルボンヌで博士となったアルノーは、「頻繁な聖体拝受について」(1643)を書いて、ジャンセニスムの基本を明確化した。ジャンセニスムは、神の恩恵に関する主張で、イエズス会の見解とするどく対立したが、アルノーも生涯にわたってイエズス会と対決した。

当時ジャンセニスムの中心となったのは、パリ近郊のポール・ロワイヤル修道院であるが、アルノーはこのポール・ロワイヤルの精神的指導者としても活躍した。一時この修道院に身をよせたフランスの宗教哲学者・科学者パスカルに、ジャンセニスムを弁護する書「プロバンシアル」を依頼したのも、アルノーである。これはパスカルの主著のひとつとなった。またフランスの神学者P.ニコルとともに、ポール・ロワイヤル修道院付属学校のために書いた論理学の教科書は、「ポール・ロワイヤル論理学」(1662)として有名である。

イエズス会の勢力が増大するにつれて、対立するアルノーは迫害をうけ、1656年にソルボンヌを追放された。79年にはベルギーへのがれざるをえなくなった。そうした中にあっても、アルノーはたくさんの著作をあらわして、自由思想家やカルバン主義者など多方面の論敵と論戦をたたかわせた。

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ポール・ロアイヤル運動
ポール・ロアイヤル運動
ポールロアイヤルうんどう

17世紀フランスに起こった信仰上の運動。ポール・ロアイヤル Port‐Royal は元来13世紀に創設され,パリ南郊のシュブルーズにあった女子修道院であるが,17世紀初頭,弱年の院長アルノーAngレlique Arnauld によって改革され,またフランソア・ド・サールの指導を受けて有名になった。1625年パリに分院(ポール・ロアイヤル・ド・パリ)が作られ,48年に再開された本院はポール・ロアイヤル・デ・シャンと呼ばれた。修道院は1635年からサン・シランの指導を受けるが,37年には彼の影響下に回心し現世での栄達を捨てて修道院の近辺に隠筒生活を送る男性信徒の小集団が成立し,以後ポール・ロアイヤルは両者の総称として用いられることになる。サン・シランを師と仰ぎ,その弟子 A. アルノーを理論的指導者とするポール・ロアイヤルはカトリック宗教改革運動の一翼を担うが,他方ジャンセニスムの本拠地とみなされ,教権,俗権の双方から数々の弾圧を受け,1709年修道院は閉鎖され,運動は終りをつげた。しかしその間,ポール・ロアイヤルはその運動の担い手と関係者の中から,アルノー,パスカル,P. ニコル,ラシーヌといった著名な思想家,文学者を輩出し,フランス古典期の文化に大きく貢献した。また付属学校は教育史上名高く,そこでの教育経験から生まれたいわゆるポール・ロアイヤルの《論理学》と《文法》は近年注目を集めている。⇒ジャンセニスム                 塩川 徹也

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予定調和
予定調和

よていちょうわ
harmonie prtablie; preestablished harmony

  

ドイツの哲学者ライプニッツの形而上学的根本原理の一つ。彼の実体概念であるモナドは相互に影響し合うことはなく,因果関係は見かけにすぎない。たとえばAが語った言葉をBが理解するのは,A,B,2つのモナドのそれぞれの内的変化があらかじめ神によってしかるべく定められているからであると説明される。全歴史を通じ,全世界のモナドの変化の過程を,あたかも直接的相互関係があるかのように支配しているこの原理が予定調和である。それが典型的に適用されるのは心身問題で (精神と肉体が別々のモナドになる) ,デカルトによって残されたこの課題について,ライプニッツはこの考えを偶因論よりも優位とした。





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予定調和
よていちょうわ harmonie prレレtablie[フランス]

ライプニッツの形而上学思想の核心をなす考え方。ライプニッツは〈モナドロジー〉の立場から,神により創造された諸実体の間の直接的相互作用を否定するが,それにもかかわらず世界を構成する諸実体のはたらきが,互いに厳密に対応しあい,全体としてよく調和しているとした。そのために,また問題をより限定すれば,デカルト以来の心身関係についての困難を解決するために,現実的世界の創造に先立つ神の可能的世界の構想のうちに,諸実体の間の調和があらかじめ定められており,それにもとづいて創造された世界の事物の間に予定された調和の関係が実現されることを説いた。ライプニッツは時計の比喩によって予定調和を説明した。二つの時計の指針が互いに厳密に合致するのは,(1)直接的影響によってか,(2)時計職人がそのつど手を加えることによってか,(3)二つの時計の機構を,つねに完全に合致しうるように,職人があらかじめ精密に組み立てたかのいずれかである。ライプニッツは(1)の〈通俗哲学〉の道,(2)の〈機会原因〉の体系を退け,(3)の〈予定調和〉の説をもっとも理性にかなうものとみなしたのである。⇒モナド      増永 洋三

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心身問題
心身問題

しんしんもんだい
mind-body problem

  

心身二元論における精神と肉体 (心的現象と身体現象) の関係の問題 (徹底した唯物論や唯心論では偽問題である) 。知覚では外界からの刺激を受けて感官に生じた物理的,化学的変化がいかにして知覚像という心理現象を引起すのかという問題があり,意志作用ではたとえば腕を動かそうという意欲がいかにして身体運動を引起すのかという問題がある。アリストテレスの質料形相論では肉体は受動的原理である質料,霊魂は能動的原理である形相とされ,中世を通じてこの思想が支配的であった。デカルトにいたって精神と物質がそれぞれ自律的な実体とされると,両者の関係のかなめにある心身問題は彼の哲学における重大な課題となった。デカルト自身はこれを経験的事実として素朴な心身相互作用説をとったが,それと彼の二元論との調和の点でのちに課題を残した。デカルト哲学の批判から独創的な3つの説が生れた。第1は全現象の直接原因を神に求める N.マルブランシュらの偶因論,第2は精神と肉体を唯一の実体すなわち神の2つの様態とする B.スピノザの平行論であり,第3は一種の平行論であるが,G.ライプニッツの予定調和説である。また唯物論に近い立場では,精神現象随伴説や,精神の過程を消去する行動主義心理学説などがあり,さらには L.クラーゲスのように心身を一体的にとらえて両者の区別そのものを否定する立場がある。





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心身問題
しんしんもんだい mind‐body problem

心身問題は古来,霊と肉,魂と身体の問題として,宗教や日常の場で絶えず顔を出す問題であったが,また量子力学での観測問題や大脳生理学ではいまだに人を悩ましている。もちろん哲学ではそれぞれの哲学の性格をきめるほどの基本問題であったし,今でもそうである。この問題の大筋は,まず人間を心と体に分け,その上でこの心と体がどう絡みあっているのかを問うことである。ところがその絡みあいの仕方についての各種各様の考えのどれもが満足のゆくものではない。そこでそもそも心と体を分けるのがまちがっているのではないかということになる。しかし心身分離には生活に根ざした強い動因がある。
[心身分離の動因]  まず記憶や想像である。すでにない過去やいもしない怪獣はこの物質世界には存在しない。そこでそれらの記憶や想像は〈心の中〉にあるほかはない。ここで唯物論者といえどもそれらは脳の中にあるなどとはいえない。脳の中をいくら探してもゴジラなどはいないからである。また喜びや悲しみといった感情はまったく非物質的に思える。感情は心的なものとして心の中にある。さらに希望や意志,欲望や願望はまだないものに対する希求なのだからこれもまた心的である。一方,知覚の場でも幻とか各種の錯覚がある。そして同じ一つの物を見ても各人各様に見える。このことから物の〈見え姿〉もまた各人の心の中にあるといいたくなる。こうして人はごく自然に物に対する心的なもの,という考えに導かれ,心を悩ませたり心に秘めたりすることになる。
[心身の絡み]  こうしていったん心的なものが抽出されると今度はそれと物的なもの,なかんずく身体との関係が問題となる。こうした心的なことがらと身体とが強く連関していることはだれの目にも明らかだからである。精神的ストレスが胃潰瘍を起こしたり,野球選手が気力でホームランを打ったりすることなどはしばしば見られるところである。そこで〈心呷身〉の一方向きあるいは両向きの相互作用説 interactionism が提出される。しかしその作用がどんな仕掛けで起こるのかを納得のゆく形で答えた人はない。その代表者であるデカルトも,身体と心の絡みの中心を松果腺としただけで,松果腺と心の絡みを説明できなかった。そこで,そのような作用はない,心と身体とは二つの時計のようにうまく調子がそろって平行しているのだ,というのがフェヒナーが平行論 Parallelismus と名付けたものである(心身平行論)。その一変種として,主役である身体とくに脳の動きに心が随伴するという随伴説epiphenomenalism がある。いずれにせよここでも心身を平行させる機構については何も語ることができない。その平行を単に事実として受けとめよというのである。
[心身分離の否定]  そこで心身の絡みの前提である心身分離を否定する考えが生じるのは当然である。スピノザ,マッハ,アベナリウス,ベルグソン,ストローソン,そして最近ではスマート J.Smart の心脳同一論等がそれである。しかし上に述べたように,心身分離には自然で強い動因群がある。その一つ一つを説得しなければならないのに,これらの一元論者はそれを果たしていない。そこでそれをここで――大筋だけだが――試みる。まず記憶の場合には,記憶が過去の〈像〉であるという誤解を取り除く。ある記憶が何かの像だとするならば,それが〈何の〉像であるかが承知されていなければならない。するとその〈何か〉は,過去の何かそのものであって像ではない。すなわち過去そのものが登場していなければ,記憶は何の記憶像であるかがわからない。そして過去そのものが登場しているのならば,その〈像〉は無用無益である。結局,記憶とは過去そのものの登場であり,したがって心的な像ではない。また感情も心の中のものではない。例えば恐れの感情は心の中にあるのではなく,当の恐ろしい物の相貌なのである。怖い物から恐れの感情だけを引き影がして,心の中に分離することはできない。そして冷や汗や足のすくみが心の中のことではないことはだれもが知っている。結局恐ろしさは外部の物的状況の中にあるのであって,心の中にあるのではない。
[存在概念の拡張]  期待や想像の場合はどうか。想像された桃太郎はどこにいるかといえば,どこかの陸地の上にいるのであって,心の中にいるのではない。それは現実の人間ではない。しかしその居所は外部空間の中であって,心の中などではない。それは〈想像上の人間〉として外部空間に存在する。予定され期待されているビルもまた,外部空間の中に存在する。それは現実のビルではない。しかし数年の先という時点,何丁目何番地という地点に〈未来のビル〉として存在する。したがって心の中などにあるのではない。以上のような仕方で心身分離の動因を解毒するには,存在概念を拡張して,過去や未来,そしてさらに想像の事物まで存在に組み入れることが必要である。枯尾花が幽霊に見えたとすれば,その時点では幽霊は存在した,外部空間に存在したのである。そして通常の存在概念はこの拡大された存在概念の中での一分類項となる。こうして非情無情の物質世界の中に居所不明のエアポケットのような〈心〉があるという心身分離の図柄から,有情の時空世界の中を有情の身体が動くという図柄に移行する。そしてこの後者の図柄の中では,心身の絡みあいの問題は生じない。
[人間像の変革]  この新しい図柄の中で科学の描く人間像も,新しい解釈を必要とする。とりわけ外部刺激が脳に作用して世界風景が見え聞こえるという生理学公認の事実の再解釈が必要である。視覚を例にとる。まず視覚の風景が〈見透し〉構造をもつことに留意する。前景を透して中景が,そしてそれらを透して遠景が見えるという構造である。このとき前景に変化がおきる。例えば色ガラスを置くとか霧がまくとかすれば,それ以遠の風景が変化する。これは因果作用ではない。前景から遠景へ因果的作用は生じていないからである。それは因果作用ではなく,前景の変化〈即ち〉中・遠景の変化という,〈即ち〉の変化である。さて視覚風景を前景の方にたどると眼球,網膜,視神経,脳となる。それらに変化が生じるとそれ以遠の風景に変化が生じるというのが生理学的事実だからである。ただそれらは正常な場合には視覚的には空気と同様に〈透明〉なのである。こうして脳に変化が生じれば視覚風景に変化が生じるのは因果作用ではなくて〈即ち〉の変化であると解釈するのである。以上に見られるように,心身問題とは人間像の変革を要求し,またそれに導く問題なのである。⇒体∥心          大森 荘蔵

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科学哲学
科学哲学

かがくてつがく
philosophy of science

  

広義には科学についての哲学的考察の意であるが,狭義には現代欧米の分析哲学における科学論をいう。前者は,近世以降,F.ベーコン,R.デカルトに端を発し,18世紀にはイギリスの伝統的な経験論,カントによる科学の批判的方法論 (→批判哲学 ) ,フランスの唯物論などがあげられるが,19世紀になると,マルクス主義の立場からの社会科学方法論,マッハらによる不可知論的な経験批判論,新カント派の W.ウィンデルバント,H.リッケルト,E.カッシーラーによる自然科学的認識の方法論が輩出した。後者は 1923年頃哲学者 M.シュリックを中心としたウィーン学団,28年設立のマッハ協会などの統一科学運動を先駆として,科学論理学,論理実証主義の立場からの科学哲学の運動が展開されている。





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科学哲学
かがくてつがく philosophy of science

科学に対する哲学的考察,あるいはその哲学的基礎づけの作業の総称。また,内容的に,あるいは方法論的に科学に接近した哲学傾向一般を指す場合もある。
[歴史的背景]  科学哲学の歴史は,哲学の歴史とともに古い。そもそも,古代ギリシアにおいて哲学が始まったとき,それは〈アルケー=万物の根源〉を問うものとして現れたものであり,それは直ちに,科学そのものの課題の起点でもあったと考えられる。その意味で,哲学は元来,広義の科学哲学として開始されたとも言いうる。現代に直接連続する科学哲学の原型としては,近世初頭のデカルトの哲学を挙げることが至当であろう。彼は当時の数学や自然科学を範型として,いわゆる〈方法的懐疑〉を遂行し,コギト(われ思う)の明証性に至り,心身二元論の哲学を構築し,やがて現在に至る科学哲学への道の先鞭をつけることになる。また,カントの哲学でさえ,その最大の動機の一つがニュートン物理学の基礎づけであるという意味において,科学哲学の一つの範例であったと見ることができる。さらに,イギリス経験論とドイツ観念論の対立論争そのものが科学的認識の基礎づけに関して争われたものであると言える。F. ベーコンの科学方法論への洞察,ロックの実験的精神,D. ヒュームの因果性の分析,G.バークリーの知覚論,さらに,新カント学派諸家の科学批判などはすべてこのような背景の中から生まれたものである。また,科学方法論を直接テーマとしたのは J. S. ミルであった。科学的帰納推理に関する彼の研究は現代科学哲学の一つの源流と考えられる。この帰納的方法論の尊重はやがて,マッハやデュエムの実証主義の基礎を築き,そして,遂に,現代の科学哲学を生み出すことになるのである。
 現代科学哲学の成立と興隆をもたらした直接の契機は,科学と哲学の両面の中に求めることができる。まず,科学の面において,19世紀初頭以来の科学の急展開の結果,科学の細分化が行き尽くし,そこに,科学全般を通ずる方法,課題,概念に対する全的,統一的視野が要求されるに至った。また,他方,物理学を頂点とする科学的世界像は非日常化の一途をたどり,われわれの生活世界との乖離は著しく,ここで改めて,われわれの生活体験と科学的概念,科学的体系,科学的説明などとの関係が新たに,また厳しく問われることになったのである。他方,哲学の領域においては,とくに,20世紀初頭以来,過去の思弁的形而上学に対する反感と批判がさまざまな形の言語分析の哲学を生み,すでに,一種の科学批判の学として成立していた現象学とも間接的に相たずさえて,科学内部における問題意識にこたえて科学哲学を生み出すのである。かくして現れた最初の科学哲学が,マッハ,ポアンカレ,デュエムらの科学者による科学論であり,そして,1930年前後のウィーン学団の新しい活躍の中で,〈科学哲学〉という名称が現代的な意味において徐々に定着していくことになるのである。
[科学哲学の課題]  (1)科学的世界観の確立 現代の科学哲学は1930年代の論理実証主義の勃興を機に始まったと考えられるが,そこでまず急務とされたのは,過去の形而上学的世界観を排して,科学に基づく新しい世界観を確立することであった。そのために,実証的,経験的命題を認識の唯一の根拠として許容するという厳しい態度がとられ,そこで,経験的命題をほかから識別する規準,いわゆる経験的意味の検証規準が規定される必要があった。しかし,経験的ということを感覚的報告という意味にとるとそこに個人的感覚の私性の問題が生じて,科学としての客観的公共性に至ることができないという難問が起こり,単なる感覚の寄せ集めではない〈物〉を含む言語が科学的世界記述のために必要であるという見解に至らざるをえなかった。この私的な感覚的経験と物世界との関係をめぐる問題はその後も一貫して科学的認識の根拠に関する基本問題として生き続けている。ウィトゲンシュタインによって深められたと言われる〈私的言語〉の問題もその一例である。
(2)科学理論の構造 また,現実の科学理論がいかにして構築され,いかなる構造をもち,また,それがいかに対象に妥当するかということも科学哲学の基本的課題である。ミル以来,科学の方法は本質的には経験からの帰納であると言われてきた。しかし,現在〈帰納の正当化〉はひじょうに困難であると見られている。さらに,現代諸科学は単に帰納法によって構築されると見ることは不可能であり,たとえば,物理諸科学に見られるように数学を含む演繹的方法の役割が大きく介入し,〈仮説演繹法〉が科学方法論の基本的形態であると一般に評価されるようになった。これに関連して,ポッパーの〈反証可能性理論〉による帰納の否定の議論は注目に値する。また,これら議論に伴って,科学法則や科学的説明の本性をめぐって多くの新説が現れた。とくに,それらにおける演繹性の強調が大きな特質である。この話題に関してはとくにヘンペルの業績が大きい。また最近,科学史からの教訓として,〈観察と解釈〉の問題が話題を呼んでいる。一般に科学理論は現象の観察から得られるとみなされているが,しかし,実は,この関係は逆転しているおそれがある。すなわち,われわれにとって純粋で中立的な観察というものは元来ありえず,すべてはすでに現に存在している理論や解釈によって汚染されているのであり,したがって,科学革命というものも,新しい観察の出現によってなされるというよりは,むしろその時代の理論的パラダイムの転換によってなされると考えるべきであるということになる。この話題では T. クーン,ハンソン R. Hanson,ファイヤアーベントなどの業績が大きい。
(3)決定論と自由の問題も一つの重要テーマである。ニュートン物理学が決定論的自然観を明瞭に示しているのに対し,現代量子力学は非決定論の立場に立つように見える。この対立をいかに解釈するかということは,科学の本質に直接かかわる課題である。
(4)心身問題がいわゆる心身科学の急展開に伴って科学哲学の中心的テーマの一つになりつつある。これはまた精神と物質の二元論をいかにして超克するかという哲学それ自体の根本問題に直結する。
(5)論理や数学の本性を問う問題も一つの中心問題である。これらのいわゆる〈必然的真理〉の根拠は,たとえばカントにより,その先天的総合性に求められたりしたが,現代数学や論理学の実態からはこの解釈は困難となり,公理主義や規約主義の考え方が大きく進出する。また,とくに先天性の問題に関しては,たとえば,ローレンツらによる生物学からの挑戦もあり,今後の議論の高まりが予想される。
(6)その他,倫理学や社会科学に関しても類似の科学哲学的考察がそれぞれの領域に浸透している。倫理言語の構造,社会的規範性の根拠,それらにおける経験の役割などが大きなテーマとなる。⇒分析哲学∥論理実証主義    坂本 百大

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科学哲学
I プロローグ

科学哲学 かがくてつがく Philosophy of Science 科学とくに自然科学を対象とした哲学的な考察。科学の認識論的基礎づけから批判的相対化までふくみ、科学論あるいは科学基礎論ともよばれる。私たちがつかっている「科学」という言葉の語源はラテン語のscientiaであり、もともとは「知識一般」という幅広い意味をもっていた。しかし、西欧近代のいわゆる「科学革命」以降になると、西欧的自然科学というかぎられた意味の言葉になっていった。

II 科学哲学の先駆けと本格化

科学革命とは、N.コペルニクスの「天球の回転について」(1543)からはじまり、G.ガリレイやR.デカルトをへて、I.ニュートンの「自然哲学の数学的原理(プリンキピア)」(1687)で終結する、16世紀から17世紀にかけての思想運動である。→技術と文明の「近代科学の成立」

このときに生まれた科学は、経験的な観察から出発し、もっとも有効な武器として数学をつかう機械論的な自然観という特徴をもっていた。F.ベーコンの帰納法や、デカルトの物体の属性を「延長」とみる考え方、I.カントのア・プリオリな総合判断の論証(→ ア・プリオリとア・ポステリオリ)には、どれも、こうした自然観の哲学的基礎付けという側面があり、彼らの仕事は科学哲学の先駆けといえる。

19世紀半ばには「第二の科学革命」がおこり、1834年に、イギリスの自然哲学者・科学史家であるW.ヒューエル(1794~1866)がscientistという言葉をつくっている。このことからも、科学者が時を同じくして、科学的な研究をおこなうことで収入をえられる専門的な職業人となったことがわかる。また、科学そのものも大学などの高等教育機関で組織的に研究・教育されるようになった。

この「科学の制度化」こそが、長い間哲学の中の一分野にすぎなかった自然哲学を「科学」として独立させることになり、ヒューエルが「科学哲学」という言葉をはじめて書名につかうなど、科学哲学という研究分野も本格化する。

この時期の科学哲学にとって、もっとも大事なことは、科学の認識論的正当性を確立させることだった。この点で代表的な仕事としては、帰納法の精緻な研究をこころみたJ.S.ミルの「論理学体系」(1843)や、仮説演繹法(えんえきほう)の先駆的研究をおこなった天文学者としても名高いイギリスのJ.ハーシェル(1792~1871)の「自然哲学研究序説」(1830)がある。

III 科学の変化とウィーン学団

19世紀末から20世紀はじめになると、科学そのものの内部に変化がおこりはじめた。数学では、従来の発想をくつがえす非ユークリッド幾何学が成立し、集合論でもB.A.W.ラッセルらによってパラドクスが発見された。物理学においては、相対性理論と量子力学が登場した。これらは、ユークリッド幾何学とニュートン力学という、近代科学がゆるぎようのない基礎としてきたふたつの理論をおびやかすものとなる。

こうした科学の新しい動きに対処すべく、さまざまな議論がなされた。なかにはE.フッサールの「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」(1936)のように、科学批判へむかう考察もあったが、大半は科学をまもろうとするものだった。古くからある理論を新しい理論の限界事例として解釈し、その中の一部として位置づける。つまり、科学理論の連続的進歩という考え方をまもろうとしたのである。

このとき大きな役割をはたしたのが、オーストリアの研究者たちによって結成されたウィーン学団である。1920年代末から活動をはじめ、科学哲学の活性化にきわめて大きく貢献した。中心的な活動メンバーは、R.カルナップ、H.ライヘンバッハ(1891~1953)、O.ノイラートらである。

彼らは、反形而上学(はんけいじじょうがく)を軸に、記号論理学を駆使して新たな実証主義(論理実証主義)をとなえ、そうした枠組みの中で、理論をどのように検証するか、科学的な説明はどうあるべきか、帰納法をいかに正当化するかなど、いくつもの問題を精密に論じている。ウィーン学団がめざしているところは、その宣言文のタイトル「科学的世界把握―ウィーン学団」(1929)にみごとに集約されている。すなわち、哲学さえも科学化し、実証主義の祖といえるA.コントが夢にみた「統一科学」をうちたてようとした。そのために重要な役割をになうのが、検証可能性の原理である。つまり、科学と非科学の区別は、その命題の意味を経験的に検証できるかどうかにあると考えたのである。

IV 新科学哲学へ

ウィーン学団は優秀な研究者を数多く生み出し、一時期は「科学哲学」の代名詞のようにもいわれていた。そして、その影響力も当然のように大きかった。しかし、第2次世界大戦後の科学哲学はこの論理実証主義との対決から出発することになる。

たとえば、K.R.ポッパーは「探求の論理」(1934)において、検証可能性にかえて反証可能性を主張しはじめた。この批判的合理主義は、ハンガリー生まれのイギリスの科学哲学者I.ラカトシュ(1922~74)らにうけつがれている。また、アメリカの論理学者・哲学者であるW.van O.クワインは、「経験主義の2つのドグマ」(1951)において、検証ないし反証は科学全体の中でおこなわれるとする全体論をとなえた。これはアメリカの哲学者R.ローティらのネオ・プラグマティズムとして展開されている。

しかし、今日もっとも大きな影響力をもっているのは、1960年代に登場した「新科学哲学」である。ウィーン学団がとなえる論理実証主義の鍵(かぎ)となるのは検証原理だが、検証が成立するためには、「理論(仮説)の言語(理論言語)」と「それを検証する言語(観察言語)」が区別されなければならない。新科学哲学は、この2種類の言語の区別を攻撃の的にした。L.ウィトゲンシュタインの後期の考えに着想をえたアメリカの科学哲学者N.R.ハンソン(1924~67)は「観察の理論負荷性」という考え方を提唱し、どんな観察や知覚も理論と無関係ではありえず、一定の背景的理論によって制約されていると主張した。この主張をより広くとらえなおして、科学哲学の状況を劇的にかえたのが、T.S.クーンの「科学革命の構造」(1962)である。

彼によれば、2種類の科学がある。それは、科学者たちが是認する一定の研究規範(パラダイム)の枠内でおこなわれる「通常科学」と、そうした既成のパラダイムとぶつかる新しいパラダイムをもつ「異常科学」である。「科学革命」とは、ことなるパラダイムの断続的転換のことであり、この転換に合理的な根拠はない。さらに、これらのパラダイムの間には、共通の尺度もないのである(→ 共約不可能性)。このパラダイム論によって、進歩史観はくずされ、西欧科学の優位もおびやかされる。

クーンの登場後、P.K.ファイヤアーベントは、この動きをもっともラディカルにおしすすめ、ある種の非合理主義にまで到達している。もしクーンのいうパラダイム転換の主張を徹底させれば、科学と非科学の間の線引きが不可能になる恐れが出てくるが、ファイヤアーベントはこの線引き問題さえ無効だという。西欧科学は人類がくみたててきた思考形式のひとつにすぎず、しかも最良というわけでもない。西欧医学と中国医学にもし何がしかの優劣の差があったとしても、それはその医学をささえ、生み出した政治や経済、教育など社会制度の違いにすぎないというのだ。

今日の科学哲学は、西欧近代科学ないしそれをモデルにした知を正当化し基礎づけるというよりはむしろ、それを批判的に相対化し、ひいてはほかの知の領域との境界を撤廃する方向にすすんでいるといっていいだろう。

→ 科学史:科学

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自然哲学
自然哲学

しぜんてつがく
physica; philosophia naturalis

  

philosophia naturalisの語を初めて用いたのはセネカであるが,古代から近世にいたるまではほとんど自然学と呼ばれ自然的考察と一体となった自然の形而上学であった。近世以後 physicsが物理学となるにつれて,諸自然科学の原理学として自然を統一的に扱う自然哲学が構想されるようになった。一般的には自然科学に対してその成果を利用しつつそれを基礎づけるという関係にたつ。自然科学的思索は哲学とともに古い。すなわちイオニア学派において哲学は世界原理を問うという形の存在論であったし,ピタゴラス学派は数の象徴的解釈によって宇宙の構造を解明しようとした。デモクリトスやエピクロス学派の原子論はローマ期のルクレチウスにも反映されている。ストア学派も独自の汎神論的自然学を展開した。体系的自然学の確立者はアリストテレスである。彼にあって形而上学,数学とともに理論的学問の一つをなす自然学は,生成の場にある存在者を対象とするものであった。また彼は多くの動物学的研究を残し,後継者テオフラテスは植物学の業績を残した。中世の自然学はプラトンの影響を受けつつもアリストテレスのそれを根幹として展開し,この間アラビアで発達した自然科学が 13世紀に西欧世界に伝わり,大アルベルトゥスを先駆的存在とし,小アルベルトゥス,R.ベーコン,オレーム,バースのアデラルドゥス,ウィテロ,オッカム派の自然科学的探究を呼んだ。反面神秘主義的傾向のもとでは自然を通して神にいたることが求められた。ルネサンスではパラケルスス,ブルーノらの物活論的自然学が盛んであったが,近世にかけてレオナルド,ケプラー,コペルニクス,ガリレイ,デカルト,F.ベーコン,ニュートンらの機械論が圧倒的となり,現代自然科学への道が開けた。 18世紀に思弁的自然学と経験的自然学の区別がいわれたのは自然哲学と自然科学の分裂状況を反映している。自然哲学はヘルダー,シェリング,ヘーゲルを頂点に思弁性を強めていくが,自然科学の発達とともにその差が大きくなり,その有機的自然観自体もダーウィンらの進化論の前に権威を失っていった。しかし現代では自然科学の基礎づけが科学哲学の性格をとる反面,新生気論や生の哲学の延長上に自然の有機的な特性への再評価が各方面で興りつつある。代表者としてドリーシュ,ベルクソン,バシュラール,テイヤール・ド・シャルダンらがいる。





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[ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 2008]


自然哲学
しぜんてつがく philosophy of nature

自然的世界の原理的反省を課題とする哲学の一分野。〈自然哲学 philosophia natu‐ralis〉という言葉はセネカに始まるが,起源はソクラテス以前の自然学者たちによる自然(フュシス)の原理探究にさかのぼる。アリストテレスは運動する存在者に関する自然学を第二哲学と呼び,運動の起因者としての神の探究はこれを第一哲学(形而上学)にゆだねた。ストア学派以来,自然学は論理学,倫理学とともに哲学の主流であり,中世ではキリスト教の教義とともに創造神による被造物の全体が自然と解される。近世に至るまで神学,宇宙論cosmologia,霊魂論が神,自然,人間を主題とする特殊形而上学を形づくる。一般にこの自然学と宇宙論とが近世以前の自然哲学の形態であった。近世では経験的自然科学が分化し,数学の適用による自然現象の量的・実験的解明により,自然法則の発見されうる諸現象,法則の発見により人間が利用し征服しうる諸対象が自然と解される。自然は主観の対象として,経験科学の領域,方法,目的,関心に応じた諸対象に分節され,これとともに自然的世界の認識は科学の成果として,人間の歴史的世界の内部に編入される。カントはニュートン物理学の成立の事実に基づき,自然のア・プリオリな原理の体系を〈自然の形而上学〉とし,これを〈道徳の形而上学〉に対置した。シェリングもヘーゲルも自然科学の成果を利用して自然哲学を構想したが,絶対的理念の把握の前段階としてであった。19世紀以来,人間の自然本性における理性以外の非合理的なもの,とくに欲求,意欲,意志への自覚に伴い,自然はもはや単に知性による解明の対象としてだけではなく,主体の意欲,意志の実現のための環境,資源,素材と解されて今日に至る。現代の自然哲学は,一方では自然科学の哲学であり,自然諸科学の提示する自然的諸世界像の統合の可能性,自然科学的認識の諸前提と意味とをめぐる考察として,科学哲学の一項をなす。他方,人間の歴史,文化,社会の基盤,母体,原所与としての自然的世界は,人間の無際限な好奇心,欲求,意欲,意志と知性とに対して,どこまでも従順であるか否か,自然の自然本性と自然の一部分である人間の自然本性との間の真の調和とは何であるべきか,このような根本問題に答える必要が生じている。自然哲学の歴史は,原所与としての自然への人間の態度の表明の歴史なのである。    茅野 良男
[インドの自然哲学]  われわれの心身も含めて,自然を構成する原理を探求する試みは,インドでは古くはウパニシャッドの哲人ウッダーラカ・アールニによって行われた。彼によれば,太初,唯一無二の有から熱(火)と水と食物(地)が生まれ,その三要素の混交によってこの雑多な世界が展開されたという。この三要素混交説を直接に継承したのがサーンキヤ学派の三要素(純質,激質,暗質)説である。インドでは,これ以外にも,さまざまな要素説が考案されたが,それらは,微細希薄な要素が粗大な物体になるという説と,不可分の最小単位である原子の結合を主張する説とに大別できる。前者はサーンキヤ学派,ヨーガ学派,ベーダーンタ学派,後者はニヤーヤ学派,バイシェーシカ学派,ジャイナ教,仏教(とくに説一切有部,経量部)が主張した。       宮元 啓一

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自然主義(哲学)
自然主義 しぜんしゅぎ Naturalism 哲学上の自然主義は、自然が存在するもののすべてであり、これは科学的探究によってのみ理解できるとする。超自然的なものや形而上学的なものを否定もしくは軽視し、事物の究極の本質の探究も放棄して、自然的な原因と結果の関係だけであらゆる現象を説明しようとする。そして、その典型を物理学と化学にもとめるので、たいていは機械論になる。したがって、自然の中に意図とか超自然的必然性をよみとろうとする目的論にも対立する。

倫理学に適用されると、自然主義は相対主義にかたむきやすい。人間がめざすべき超越的あるいは超自然的目的などないとすれば、行動規範となる価値は社会生活の中にもとめざるをえなくなる。究極的なものは発見できないと考えられているから、あらゆる状況で通用する絶対的善も存在しない。こうして倫理学的自然主義では、価値は習慣や自然的傾向にもとづく相対的なものだということになる。有用なものが善であるとする功利主義も、こうした考え方のひとつである。

自然主義の起源は、知識の源をすべて経験にもとめるイギリス経験主義と、形而上学的思弁にいかなる有効性もみとめない実証主義である。

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自然数のマスキングテープ

自然数のエンテレケイアは、『ながしかく』にヒミツがありそうだ。
『ながしかく』の模様のパターンは、DNA的で素数を拾い出す、
マスキングテープには、色々な組み合わせができそうだ・・・

自然数は、[絵本][もろはのつるぎ]で・・・ 

by 自然数のマスキングテープ (2020-03-02 20:00) 

式神自然数

『HHNI眺望』で観る自然数の絵本
有田川町電子書籍 [もろはのつるぎ」

御講評をお願い致します。

時間軸の数直線は、『幻のマスキングテープ』に・・・
『かおすのくにのかたなかーど』から・・・


by 式神自然数 (2020-06-28 04:54) 

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