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時計から始まる機械論その01 [宗教/哲学]

時間
時間

じかん
time

  

現象の経過と順序を記述するために用いる一次元の連続変数。この変数の一つの値に対応する点を時刻といい,二つの時刻の間の間隔を表す時間と区別する。時刻は現象の順序を表し,時間はその経過の長さを表す。時間間隔の単位はすべての単位系で秒であり,補助単位として,分,時間,日が用いられる。時間間隔の単位を決めるには,一様な周期的変化をする現象を基準にとればよい。日常的には振り子の周期を基準とした振り子時計の時間,地球の自転周期を基準とした1日などがあるが,これらは地球上の地点によって変動するし,安定性も十分ではない。地点に関係なく十分な精度で繰り返し実現可能な基準として,現在では時間の単位はセシウム原子のエネルギー準位間の遷移の周期に基づく原子時 ATが用いられている。時間は長さ,質量とともに国際単位系 SI,MKS単位系,CGS単位系の基本量として重要である。自然科学上の目的,便宜に応じて数種の時系が用いられている。すなわち,天文航法や測地学では地球の公転を基準とした太陽時を修正した世界時 UT,天体運動の研究では暦表時 ET,また物理学では原子時が用いられ,それら相互の関係は高い精度で決められている。日本では情報通信研究機構から報時電波 JJYが昼夜連続的に発射 (→報時 ) されており,無線機や電話で聞くことができる。これは日本におけるあらゆる時刻の基準となっている。ある出来事の発生と経過は,場所を三次元の空間座標で,時刻を一次元の時間座標で表すのが普通である。3個の空間座標と1個の時間座標とは,古典物理学では独立な変数とみなされている。しかし,相対性理論では,両変数は独立でなく,両変数を合わせた四次元の時空座標 (時間・空間座標) が時空世界 (四次元空間) を形成し,各基準系の時間は系の運動状態によって異なることになる。すなわち,ある基準系の時間に比べて,この系に対し運動している基準系の時間の歩度は遅れる。これを考慮して構成された相対論的な場の量子論が多時間理論および超多時間理論である。多くの物理法則は時間反転 (時間変数の符号を逆に変える変換) しても成り立つ。これは時間の経過を逆行させることを意味していて可逆性原理と呼ばれる。



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[ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 2008]

時間
じかん time∥Zeit[ドイツ]∥temps[フランス]

世界におけるすべての変化および無変化において保持されている何ものかを時間と呼ぶ。一面から言えば,時間はまた人間と外の世界との接点に現れるものでもある。例えば,私は〈今〉,外の世界を見,聴き,感じている。それは〈過去〉につながり,また〈未来〉につながる。そうした人間と世界の接点に示される〈今〉〈過去〉〈未来〉の三つの様態を貫くものが時間である,と定義することもできよう。もっとも,過去,現在,未来という時間の三態のどこに主眼点を置くか,という問題は時間をめぐる重要な論点の一つである。例えばインドの仏教経典では,この三態の順序はほとんどつねに過去,未来,現在として取り上げられるが,それは,現在のみが時間としてリアルにとらえられていることを示しているとみられる。そこでは未来も過去も,ともに現在のために付随的に考えられた時間態であると考えられる。こうした発想は,洗練された形では西欧にもニーチェの〈永遠の今ewiges Jetzt〉というような概念として登場するが,ニーチェのそれもインド仏教の影響という点から考えられるとすれば,やはりインドに特徴的である。
【時間論の系譜】
 過去,現在,未来の順序に固執するところからは,時間の流れ,もしくは〈流れる時間〉が出現する。しかも流れる時間では二通りの〈流れ方〉を想定できる。その第一は,直線的な時間の流れ方であって(より正確には〈線分的〉と言うべきであろうか),ユダヤ・キリスト教的な世界観のなかに特徴的なものとして知られている。始点(神の手による世界創造)と終点(最後の審判)の間に張られた一直線の時間の流れの上に,この世界の変化が一つのドラマとして展開される,と考えられているからである(終末論)。これに対して,インドやギリシアでは,時間は流れても回帰的であり,構造としては螺旋(らせん)的なモデルで把握できる。それは自然界のなかに起こる事象の繰返し(天体の運行,動植物の生活史,季節の循環など)を土台にして時間感覚が築かれたことを示している。ギリシア神話の神でのち〈時〉と結びつけられたのはクロノスであるが,それは,天空の神ウラノスと大地の女神ガイアの子どもとして生まれている。自然(天と地)の周期変化が結果として時間と結び付いた好例だろう。それは〈計時〉方法にもなる。正確に繰り返される周期変化を標準にして,他の変化や無変化をその標準との比較によって測るのが計時であるが,多くの場合天体の運行がその始まりを構成する。
 仏教的な時間のもう一つの特徴は〈無常〉である。この世界のいっさいは〈諸行無常〉,変化し定まらぬ。その意味では,これは恒常的な世界の否定ではなく,むしろ,変化する世界の根元を積極的に表現した言葉と解すべきなのかもしれない。ギリシア的な構造のなかでは,いっさいの表面的な変化の背後に根源的に不変なるものを想定したパルメニデスに対して,火をいわばエネルギーとする変化こそ世界の本質としたヘラクレイトスの思想が,インド的な無常に相当するかもしれない。
 時間論を(空間論とともに)詳細かつ体系的に仕上げたのは,ギリシア思想の影響を受けているにせよ,中世ヨーロッパのスコラ学においてであった。それはアウグスティヌスの時間論を下敷きにしているが,そこでは,日常的な時間の三態から時間を解きほぐしていく間に数多くのアポリア(難問)が生じてくることが示される。例えば,〈今〉はどうしてリアルと言えるのか。過去は〈もはやない〉ものであり,未来は〈いまだない〉ものである。〈もはやない〉ものと〈いまだない〉ものとの接点に,〈今〉は一種の通過点として存在するのか。時間はいかに分割できるのか。そもそも,時間はどこにあるのか。アウグスティヌスはそうした問題を解く鍵を人間の魂(精神)に求めた。精神こそ,みずからのうちに過去,現在,未来を統一的に把握し,永遠のなかに分割された(数え上げられた)時間間隔を把握し,時間の持続を把持するものとして考えたという点で,彼は〈心理主義〉的時間解釈の出発点をなすと考えられる。
 スコラ学では永遠を神に帰するが,永遠はその意味では,時間性の延長ではない。むしろ,時間(存在,持続,変化を示すための)を超えて認められなければならない。それは〈流れる fluens〉ものではなく,〈とどまる stans〉ものである。さらに,こうした超時間的な存在様態をもつ神と,時間的な存在様態しかもたぬ世界ないし人間の中間に,橋渡しとして〈永代 aevum〉なる概念が取り入れられている。またこの点は,時間が被造かどうかの問題にも連なる。トマス・アクイナスは,世界の創造は〈時間とともに cum tempore〉行われたと考えており,〈時間において in tempore〉創造が行われたものでないことを強調して,神の超時間性を強く主張した。
 自然科学的な時間概念はニュートンの〈絶対時間〉と〈相対時間〉の区別(これは空間にも並行的に適用される)から始まったと言われる。確かにニュートンはこうした概念を立てて区別したが,それは,必ずしも,現在われわれが〈科学的〉文脈で論ずるような概念と同じではなかった。ただ,後世この概念が,時間の問題を論ずるためにはしばしば援用されるようになったことは事実である。例えばニュートンの代弁者 S. クラークとライプニッツとの著名な論争のなかでもニュートン的時間とライプニッツ的時間の対立は鮮明である。この論争では,ニュートン的時間は,事物の存在や変化とは独立に措定されるべきものとして主張されており,ライプニッツ的時間は,事物の生起する順序関係の結果として構成されるものと主張されている。
 近代西欧哲学の中心的存在とされるカントは,この二人の先哲の立場のどちらをも採らず,第3の道を用意した。彼は,人間の認識の〈形式Form〉(カテゴリー)としての時間概念や空間概念を提案した。人間は,いわば時間と空間という枠組みのなかでしか,外界の認識を行うことができないとされるのである。
 このように,近代西欧哲学のなかでは,時間は,世界の存在の形式か,世界の存在を支える枠組みか,人間の認識の形式か,いずれにしても人間のいきいきとした〈生〉そのものとは無関係な広域的概念になりつつあったが,それを人間の生の様式へ引き戻そうとしたのが,19世紀末以降のベルグソンによる〈持続〉やフッサール,ハイデッガー,サルトルらの現象学的な〈時間性〉の提案だった。さらに20世紀初頭における相対性理論と量子力学の誕生は,時間概念に決定的な新しい展開を与えた。相対性理論では,絶対時間や絶対的同時性が成立しないことが明らかになった(そこから〈双子のパラドックス〉が生まれる)ばかりではなく,それまで空間と別個の座標軸を与えられていた時間が,空間と独立に扱われるべきでないという新しい事態を迎えたし,量子力学では,エネルギーとペアとなって非可換な2量を構成する時間(物理的観測量としての)が,ハイゼンベルクの不確定性原理を満足すべきものであることが明らかにされ,そこから,一種の〈多時間〉的な発想も生じた。
【時間をめぐる諸問題】
 時間をめぐる現代的諸問題は数限りなくあると言えるが,そのおもだったものをいくつか挙げておこう。
(1)時間の方向性の問題。とくに,エントロピーの増大,もしくは不可逆的な現象との絡みでしばしば問題になるが,一般に〈時間の可逆・不可逆〉を論ずることは無意味であるように思われる。不可逆的時間が前提にされているからこそ,現象の可逆・不可逆が言えることは論理的に証明できるはずだからである。
(2)歴史的時間の問題。とくに,進歩史観的な時間概念は,依然として広く受け入れられているが,生命史における進化の側面も含めて,世界が時間とともに啓(ひら)かれて行くというような〈進歩〉の観点が,どれだけ維持できるのかが問われている。
(3)社会的側面にかかわる問題。ここでは近代社会における〈時間感覚〉の喪失が指摘されよう。人間の生はかつては日常性と非日常性の交代によって,時間的な意味と構造が与えられていたが,日常のなかに非日常を構成するための最も重要な死や祝祭が日常生活から遠ざけられ,一方では,性を含むあらゆる非日常的なことがらが,メディアと制度の〈発達〉のために日常化されるに及んで,近代社会における生は,アトム化,均質化し,時間的分節構造を失いつつある。こうした状況が,人間の〈時間性〉をどのように変えていくか,という問題は,今後ますます重大になるだろう。さらにこの問題は個人の生の構造のみならず,人類全体のそれにもかかわってくるはずである。
(4)心理的時間の問題。客観的で共通な時間を前提に動いている近代社会のなかで,人間の心理的時間のもつ個別性や特殊性をどのように評価するか。こうした点は,従来まったく別の観点から論じられた問題にもつながってくる。例えば,工業社会にあっては,仕事が必要とする〈時間〉は基本的に悪である。その時間は短ければ短いほど善である(それが能率ということの一つの面である)。しかし,農業社会では明らかにそうではない。生物が種子から実りをもたらすまでの時間は,絶対に必須のものである。それを認めるという評価系は,工業社会のそれと相反する。生命と時間の問題はこうしたところにも登場する。また,(達成)/(時間)という分数表現ではなく,(時間)/(達成)という分数表現で表されるような評価系が考えられるのではないか,という提案もありうるだろう。
(5)共時性と継時性の問題。継時的秩序は,共時的秩序と同型であるか,という問題意識は,結局は歴史と文化とは同一の構造をもつか,という問いに帰着するが,人間活動と時間性とのかかわりのなかでも,興味深い問題である。
 こうした点を振り返ると,時間の問題は,およそ人間と世界にかかわるあらゆる問題の起点であり,一方で不易の問い(時間とは何か,過去,未来,現在の区別とは何か,時間は実体的存在であるか,など)が繰り返し登場する主題であると同時に,他方で,優れて現代的,社会的な問題を生む宝庫でもあると言えよう。⇒空間∥暦(こよみ)∥時刻                  村上 陽一郎
【時間認識の文化的差異】
 われわれは暦や時計によって経験の流れを〈勤務時間〉と〈休み〉,あるいは〈播種期〉〈除草期〉〈収穫期〉といった意味をもつ単位に分割している。時間は,分割された意味単位とそれらのつながりとして社会的に形象化される。形象化の仕方は社会によって異なるが,社会的に共有され,個人の外にあって個人を拘束する。社会組織は,一つの劇の中の〈幕〉や〈場〉のように分割された意味単位の中で諸個人に割り当てられる諸役割の連関として形成され,分割・構造化された時間においてのみ具体化される。構造化された時間にとらえきれぬ自己の経験の多方向の流れである〈生きられた時間〉も,移ろいながら連続する諸意味単位・諸役割の束として〈現在〉と〈自己〉を意味づけてはじめて成立する。
 民俗社会の時間の意味単位は,具体的活動や労働の一区切りを意味内容としており,近代社会において支配的な数量的意味しかもたぬ単位(秒,分,時間など)は顕著でない。東アフリカの牧畜民ヌエル族では,一日の時間の経過を示しできごとの時刻を参照する時計は,数量化された時計や太陽の位置ではなく,牛舎から牛を出す―搾乳―牛の放牧―ヤギや羊の搾乳―牛舎の掃除―牛を牛舎に戻す,などの一連の牧畜作業の区切りからなる〈牛時計〉であった。また民俗社会の暦の多くも,農事暦のように作業単位からなり,数量的な日付をもたぬ暦もある。例えば,〈畑の伐採の月〉は作業に応じて伸縮し,〈雨の降り始める月〉は雨季になって始まる。これらの時計や暦の意味単位は,作業単位間の重複の禁止や労働の禁じられる祭りによって分割される。
[時間の2類型]  時間の形象化は,〈振動する時間〉と〈不可逆的時間〉に大別できる。〈振動する時間〉(E. リーチ)は,二つの意味単位の交替反復による時間形式であり,〈昼〉と〈夜〉の交替が典型である。この〈昼〉〈夜〉は,自然的時間というより,二分した意味単位間の質的差異化による社会的形象であり,労働する〈昼〉の〈俗なる時間〉に対し,労働の禁じられる〈夜〉は,恐怖と快楽の支配する〈聖なる時間〉となる。〈振動する時間〉においては,意味単位は分割によって部分化されず,それぞれ一つの全体として他方と対立している。それに対し〈不可逆的時間〉は,分割によって部分化された意味単位が有機的に結ばれた時間形式である。その典型は人の一生だが,それも自然的時間というより,〈乳幼児〉〈子ども〉〈成人〉〈老人〉〈死者(祖先)〉など,社会によって異なる意味単位からなる社会的形象である。意味単位間は,農作業単位などと同様に,隔離や禁止の伴う儀礼(〈聖なる時間〉)によって区切られる。その間の移行は,流れ作業のように不可逆であり,それぞれの単位は不可欠だが一部分としての意味しかもたない。
[共同体の時間と数量化された時間]  ヌエル族の〈牛時計〉が通用するのは,共同体の中で共有されている限りであり,作業の区切りの異なる他の共同体や農耕民とは〈牛時計〉を共有できない。共同体内での時間に比べ,共同体間での時間は,具体的活動の意味単位がうすれ天体の運行や数量的な,共通化しやすい単位によって形象化される。
 共同体内の時間の様態は社会形態の違いによって異なる。離散集合を繰り返す小集団からなる採集狩猟民社会では,〈昼〉と〈夜〉,〈雨季〉と〈乾季〉などの〈振動する時間〉が支配的であり,意味単位のそれぞれはその場での生の全体を表す。そこには人の一生を超えて存続する親族集団もなく,〈取返しのつかない〉時間の流れもない。農耕社会において,分割され部分化された農作業単位による形象化,数世代にわたり存続する生産関係である親族集団の組織化,および〈貯蔵〉の出現によって,〈不可逆的時間〉が優勢となる。また交易の発展に伴い,共同体間の時間も,例えば共同体の外で定期的に開かれる市などによって形象化され,礼拝や巡礼によって形象化される信仰的時間も現れる。そこでは,農作業単位による時間,市による時間,礼拝による時間といった〈複数の時間〉が存在しうるが,それらは次元の違う時間として明確に区別され,共同体内時間と共同体間時間が峻別されている。
 近代市民社会では,〈数量化された不可逆的時間〉が支配的となる。数量化された時間は,近代以前においても共同体の外にいる商人たちによって貨幣市場経済での〈利潤〉の計算に用いられていたが,貨幣とともに共同体内から排除されていた。共同体の解体と市民社会の成立に伴い,貨幣が共同体内に浸透して交換の単一的基準となったと同じように,〈商人の時間〉である数量的時間も,共同体の内と外の境界を破り〈複数の時間〉の質的差異を無にし,社会全域の単一的な時間の基準となったのである。         小田 亮
【西欧における時間意識の転換】
 現代人は公的な生活においては均質的で直線的な時間のなかで生きている。われわれが時間の飛躍や境界を意識するのはせいぜい時差を経験する海外旅行のときぐらいである。しかしながら私的な生活においてはわれわれは必ずしも均質的な時間のなかでだけ生きているわけではなく,密度の濃い時間と薄い時間があり,また時間はしばしば回帰する。1年の終りには忘年会を開いてその年のすべてを清算して,われわれは新しい気持ちで新年を迎える。このようにわれわれは直線的な時間意識と回帰的・円環的な時間意識との二重の時間意識のもとで生きている。ところで世界史の全体を眺めてみるとき,どの地域のどの民族においても円環的な時間意識が生活の大きな枠となっていた。にもかかわらず現在,世界のほとんどの国において公的には西暦紀元を軸とする直線的時間意識に基づいて生活が営まれている。それは何よりもまず,11,12世紀に西欧において時間観念の大きな社会的転換が起こったことに起因するものなのである。
[円環的時間から直線的時間へ]  11,12世紀以後の西欧でユダヤ教に発するキリスト教的な直線的時間意識が公的生活を規定する以前のゲルマン世界においては,円環的な時間意識が支配的であった。ゲルマン人が時 tiめ,timi(time)というとき,そこには時間の正確な計測はみられず,季節やかなり長い時の経過が示されていた。tiめ はのちに英語の tide(潮の干満)につながってゆき,年 ⊂r(year)も年ごとに繰り返される収穫の意味であった。古ゲルマン人の時間意識は具体的つまり人間的であって,抽象的なものではなかった。こうした時間意識の背後には農耕社会における人間と自然との関係があった。自然の規則正しい繰返しが人間の意識と行動をも規定していたのである。そこでは変化ではなく,繰返しが時間の通常の姿であった。
 ところが11,12世紀に終末論をかかげる異端の登場によって鮮明となるキリスト教の時間意識はまったく異質なものであり,神を目ざすひとつの方向に進む直線的な構造をもっていた。そこでは繰り返す時間の観念は否定され,終末に向かって進んでゆく時間の変化が問題となった。このような時間意識の変化は基本的なところで死生観の変化を前提にしている。ゲルマン人の円環的時間意識のもとでは人間は死後冥界に入るが,冥界は現世と交流可能な世界であり,死者は消えてしまうのではなく,現世とのつながりを保ちつつ,別な世界で生きつづけるのである。しかしながらキリスト教の直線的な時間意識のもとでは,人間はひとたび死ねば鮭獄へ,そして天国か地獄に行き,最後の審判をまつしかない。聖人のような例外的存在を除けば,一般の人間は死によって現世とのきずなを絶たれてしまう。人は1回生き,1回死ぬだけなのである。このような教会の教えた死生観は11,12世紀以後の西欧社会に特異な刻印を押すことになった。死後の救いとは人間に永遠の生を約束するものであった。現世における人間の行動はすべて死後の救いを確保するために営まれねばならず,そのためには世俗の富に対する執着を捨てることが求められたのである。現世においてどれほど大きな富をつんでも教会を通して神や貧者に寄進しない限り,天国での救いにあずかることはできない。したがって富める者は競って教会に土地や富を寄進し,中世社会における教会の突出した財政的基盤がつくられてゆく。そして王権も国家もこの教会と結ぶことによって彼岸を見通すことのできる位置にたち,みずからの公的権威を確立したのである。
[世俗的時間と聖なる時間の拮抗]  ところが11,12世紀はまた商業の復活に伴って貨幣経済が展開していった時期でもあった。十字軍遠征によって東方へと視野を広げ,都市の成立によって西欧社会に力強く根づいた新興都市の商人たちは,活発な経済活動によって巨大な富を築いていった。これらの商人たちはその仕事の性質上,仕事に要する日数と費用との計算をしなければならず,いわば計測可能な時間観念が当然必要となってくる。即座に清算できる者よりも多くの金(利子を含む)を即座に清算しえない者から取りたてる権利があるという考えが生まれ,時間が富を生むことが知られていったのである。このような商人の合理的・客観的な時間の計測の要求にこたえたのが,本来修道院で発達していた歯車時計であったことは皮肉なめぐり合せであった。13,14世紀には西欧各地でこれまでの日時計や水時計,砂時計といった自然のリズムに合わせた時計に代わって,自然のリズムとは何の関係もない客観的な人工のリズムを刻む歯車時計が登場し,市庁舎の塔にすえられることになった。〈市民共有の大時計は,自由都市を牛耳る商人たちの,経済的・社会的・政治的支配の道具〉(J. ル・ゴフ)となったのである。市民の生活は時間の厳密な計測による労賃の支払や,支払期限の確定などによって合理化されていった。
 このように世俗化され,合理化された時間意識のなかで生きていた商人たちも,中世においては凪(なぎ)と嵐,洪水などの自然の影響を免れることはできなかった。しかも,このような合理的な時間意識を生み出した商人たち自身もキリスト教徒だったのである。商人は仕事に従事しているときには世俗的・合理的な時間を生き,みずからの力の及ばない自然の影響下におかれたときや,彼岸を遠望するとき,つまり死を予感するときには,キリスト教の聖なる時間の意識に目覚め,現世における悪業(富の蓄積)を償うために教会に多くの寄進をし,遺産のなかからも遺贈したのである。13世紀には告解の慣行が生まれ,キリスト教徒の商業活動を正当化するために教会も協力していた。こうして中世末にいたるまで西欧においては,世俗的な時間と聖なる時間とが拮抗しつつ日常生活をさまざまな面で規制していた。個々人の彼岸における救いは現世における行動によって定まるという死生観の成立がこの二つの時間の拮抗の根底にあったから,両者の拮抗は西欧における人間の日常生活のみならず思想の次元にも決定的な影響を与え,西欧文明の根幹を形づくることになった。特に歯車時計(機械時計)の成立による厳密で合理的な時間の計測は,労働の組織化のはしりでもあり,その意味で近代社会の原理を先取りするものでもあった。また歯車時計に体現される自動装置は産業革命におけるあらゆる自動機械の先駆けであり,その点でも11,12世紀における時間意識の転換は,西欧のみならず近代における全世界の時間意識を規定してゆく大きな動きであった。                    阿部 謹也
【江戸時代農民の作業時間】
 河内国南河内郡の山付の村の庄屋筋の人が1700年ころに書き残した《河内屋可正旧記》に次のような言葉を発見する。〈夏秋の間は早く行水をすまし,七つ時(4時ころ)には身じまいをすると気持のよいものだという人がある。しかし農家の者は早朝から起き出し,夕は暗くなるまで働くものだから,4時ころに行水するなどということは農家の仇だ〉というのである。同じころの紀伊国伊都郡の人の著書《地方の聞書》(《才蔵記》)にも,暗きより暗きまで働けとしたあと,他人を多く使う農家の主人は,翌日の作業のために,人数分だけの道具を前夜より用意しておけと書いている。さらに一つの仕事を皆がやっている間に次の仕事の準備をし,家から畑,畑から家への移動のときにも,必ず物を持って動かすように指図をする。それだけではなく,これだけの仕事を終えたらタバコ休みをしよう,あれだけ終えたら昼飯だと,働く人に励みを与えなければいけないと書いている。
 このような勤勉力行の教えは早く幕府の《慶安御触書》にも出てくる。朝は早く起き朝草を刈り,昼は終日耕作にかかり,夜は夜で夜なべ仕事に縄や俵を作れというのである。こういった教えを実行すれば百姓は主人から下人にいたるまで働きつづけることになる。藩によっては初期から繰り返し朝寝をするなというお触れを出している。そのことは朝起きの行われにくかったことを示しているといってもよい。後にいろいろなやり方の博奕(ばくち)を禁じる触書が繰り返されるが,農村に博奕の深く浸透していたことを示すものであろう。
 朝は暗いうちから朝草刈に出かけ,朝食・小休みと作業を休止し,田畑の仕事を日の暮れまで続ける。夕闇のなかを家に帰って農具の片付け,夕食,夜なべ仕事,就寝と,毎日繰り返し行っていると,働く百姓にとっての時間は夜あけ,日の暮れの間を作業と休息で区切ったものになる。それに晴れた日の太陽の位置などが加わって,場所ごとの時刻の基準もできる。季節によって異なる夜明け,日の暮れの間を仕事で区切った時間の意識があったであろう。
 雇人に仕事を与える主人の働きがきびしくて,一定の休止以外は昼も夜も働きづめであったとすると,史実の上からみて,あるいは明治以後の作男・作女の労働慣行からみて重要な疑問が残る。それは中世末における傍系血族や下人層が,家を持ち結婚をして子を育て,やがて独立していく姿のしばしばみられることによるのである。傍系血族の多くは下男・下女に近い形で主家の耕作を手伝う慣行が少なくない。そのなかで自家労働による不安定地の開墾を行い,主家の耕作の余暇にその地を耕し,家族持ちの生活を営む。傍系血族や下人が独立していく過程はこのようなものと考えることができる。このような開墾を行い,家族生活のために働く時間はどこから出てくるかということが問題となる。
 中世の傍系血族が開墾地をもつこと,下人層が同時に小作人であることを示す一,二の資料を例示しよう。1398年(応永5)香取佐原井土庭住人案主吉房から弥二郎にあてた譲状のなかには,〈大橋の年神の松よりいとほまちまで川中のほまち1枚〉のほか16枚のほまちが譲与されている。〈ほまち〉というのは〈新開(しんがい)〉などと同じように余暇労働で開墾された土地である。弥二郎は吉房の庶子の一人であり,正式の譲与をうける前も,吉房の家の労務に服しながら,その余暇に乱流する川のほとりを開墾したのであろう。それが譲状によって,正式にその持分となったのである。下人が同時に小作人である例としては,1311年(応長1)の是枝半名の売券に〈下人たりといえどもあつけおく〉と記されているのをあげることができる。是枝半名を預けられた下人は,その地を耕作し,下作料を支払いながら下人の務めをも行ったのである。このような例は1204年(元久1)の中野能成への関東下知状にも見ることができる。信濃中野郷に給与された名田10町は所従に耕作させてもよいとされている。直営のばあい所従の労働を使うことは当然なので,このように記されるのは所従に一部を分け与えて耕作させ,地子を取ることを意味するものであろう。下人がその開墾地の名義を検地帳の上で認められている例もみることができる。傍系血族や下人・所従が自分のために開墾をし,主家の小作人となって自分のための耕作をしているとき,主家のための労働はいかなる形のものだったのであろうか。この点について直接明らかにする史料はない。
 それについて想起すべきことは古代の朝廷に働く人について《延喜式》の各所に記される長功・短功制の一日工程の記述や,近世の村明細帳に記される1人当何段とか何畝とかする地方によって異なる耕作能率,あるいは個別農家の〈家内吉例帳〉などにあらわれる1日1人の義務作業量の記述である。冒頭に記されたような朝暗きうちから夜暗くなるまで働く永年の労働慣行はおのずから1人労働の完遂作業量を決めうるようになる。とくに他人労働を多く使用する中世の地頭・名主の直営地経営や,近世以後の地主手作では他人労働に対してだけでなく自家労働に対しても標準成果量の達成を求める形に変わってくる。暗きより暗きまでの労働量は,時間の経過によってではなく,その間に達成される労働成果の量で計られるようになる。朝草刈の男の作業量は馬の背一杯(重量で30貫前後)と人の背に一背負(籠を使っても背板でも20貫前後)といった量になる。馬耕の荒起しは何段,代仰は何段,鍬による田打は何畝,夜なべの縄ないは何尋(何丸),草鞋は何足という基準が家によって,または村によって定まってくる。朝から晩までという時の経過はこういう一日標準作業達成量によって測られるものに変わってきているのが他人労働使役の実際である。一日仕事が個別的に達成されうる諸作業の連続であるばあい,個々の雇人の確保労働量は異なった時間経過によって達成される。大部分の人が暮六つまでかかる仕事を七つに仕上げれば一時(2時間)が余暇労働となる。これに夜なべ仕事で生み出す半時を加えれば,一日3時間を下人の自家用に使うことができる。傍系血族や下人が主家の労務を果たしながら自己の持分に帰する開墾をやり,主家の耕地の下作をやることはできる。このような下人層の独立は近世に入っても続く。畿内の柄在家(からざいけ)はそのようなものとして説明されるし,各地の宗門帳には家族持ちの下人があらわれるし,作男が小作地を耕し,やがて独立して小作人となりながら,主家の祝儀愁嘆に特別の役割を果たす出入り百姓となる例は少なくない。
 このような一日仕事の例二つを示そう。信濃伊那郡上穂村(現,駒ヶ根市)の小町谷家の文政から天保の間(1818‐44)の主人の手控の《家風録》には年中の行事を示すが,その〈男女仕事〉の項には日役・一人役と呼ばれる作業量を記している。農作業の一,二を記せば,あぜの皮むき(古畦の外側を崩すこと)1人4反くらい,畦塗ならし1人1反,小切1反2人,あらくれかき(荒代仰)2反等である。藁仕事などの基準も記されるが,これは安芸山県郡中野村(現,芸北町)深井家の1834年(天保5)の《万覚記》によれば,その仕事覚のなかに〈なわ一日一束二房,夜は三房づつ〉などの記述がある。草履草鞋は1日12足,夕なべには2足,莚は1日1枚,夜は1枚分の縄をなうなどの記述がある。夕なべ仕事をするのは秋彼岸から春彼岸までの夜長の時期だけである。労働時間は〈朝は早朝におき仕事に出,夕は早く相休〉と一般原則を言っているが,多くの仕事に1日量が決まっているのである。越中新川郡の1800年(寛政12)の改作奉行あてに出された《奉公人仕方帳》では〈奉公人召仕様,朝六ツより暮六ツ東〉農業をさせると言っているが,農家の実際では作業別の一日仕事の進行が時間の基準となるのである。   古島 敏雄

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時間(哲学)
I プロローグ

時間 じかん Time 過去、現在、未来の出来事は前後の関係によって一列にならぶので、物をならべることを可能にする空間にならって、1次元の連続体として時間をとらえるのは自然な発想である。しかし、意識は常に現在の意識であり、知覚によってとらえることができる出来事も現在の出来事にかぎられるが、その出来事は絶え間なく変化する。あたかも、意識の前を出来事の連なりが通過するかのようにみえることに関連して、空間の場合とはことなる問題が古くから議論されてきた。

II 時間の流れ

時間(時)がながれるという比喩はだれもが理解する。「今」が出来事に対して移動しなければ、出来事の流れもあらわれないからである。しかし時間の中でしか、たとえば水は、ながれない。したがって、時間がながれるためには、時間がその中でながれるもうひとつの時間が必要になる。この種の難問はさまざまに表現されるが、古くからみられるひとつの解決は時間は実は存在しないとするものである。エレア派のゼノンの逆説は、変化は実在しない、したがって、時間も実在しないことをしめそうとしたものであった。

もうひとつの解決は出来事の前後関係の系列はみとめるが、過去、現在、未来の区別はたんに主観的なものとして無視することである。自然科学では通常この姿勢をとり、空間に似た仕方で時間をあつかう。ただし、空間移動は比較的自由であるが、タイムトラベルはまだたんに理論の中だけの問題である。その意味では、行為との関連でみると、時間と空間は大きくことなる。こうした見方とは対照的に、ベルグソンは出来事の流れの直観を重視し、知性による時間の分析を誤りとした。

III 心理学的時間解釈

古くから、時間を時間的幅のない無数の瞬間がならんだものとみてよいか否かが問題にされた。数学の問題としては連続体の構成に関連し、現在では各瞬間を実数と対応させて、集合論であつかうことができる。心理学的(内的)時間としては、「今」を幅のない瞬間とみなすと変化の知覚もできないという問題が生じる。意識とむすびついている「今」の中にどれほどの時間の広がりがふくまれるかという問いに対して、すべてという答えがあたえられる場合がある。霊魂(→ 魂)の中に時間をおいたアウグスティヌスはその一例である。時間を人間主体の側にひきよせ、時間とは主観がそなえる形式のひとつとしたカントの考えもこれに近い。

IV 時間の関係説と実体説

時間は生起する出来事の系列にほかならないとする説(関係説)をとると、世界の出来事に限りがあれば、時間も有限である。ユダヤ教やキリスト教の世界観はこの直線的時間構造の見方をとった。関係説では、時間の長さは出来事の繰り返しでさだまり、これがとだえれば、意味をうしなう。一方、反復する天体現象で時をはかった慣行を背景にして、古代からギリシャやインドでは世界の回帰説があった。その場合には、時間は元にもどり円環の構造をつくる。ただし、関係説では、出来事ごとの同一性は時の同一性を意味するので、厳密な回帰説は矛盾をふくむ。そこで時間を、たとえ物の影響はうけても、物がつくる出来事の関係とはことなるなんらかの存在である、とする説(実体説)をとるなら、世界が有限でも無限の時間を考えることができるし、厳密な世界の回帰説も矛盾しない。

ニュートンは力学の法則の基礎に物の影響をうけない絶対時間と絶対空間をおき、これを感覚をとおして知られる相対時間や相対空間と対比させる実体説をとった。認識論からみると、感覚の対象にならない時間や空間はこのましくないので、関係説をとるライプニッツらに批判された。しかし、回転運動にともなう遠心力は関係説では説明できなかった。

V 時空の中での時間

アインシュタインの相対性理論では時間と空間は一体化し4次元の時空となる。一般相対性理論は時空の関係説で遠心力を説明することをねらいのひとつとし、時空と、物質・エネルギーとの相互作用を理論化して重力を説明した。しかし、物質・エネルギーの関係だけで遠心力を説明するという点では完全な成功はおさめていない。ほかにも争点はあり、明確で疑いのない議論が両説のどちらかの正しさを明らかにするにはいたっていない。

相対性理論では4次元の時空はさだまるが、座標系のとり方によってさまざまな時間があらわれる。へだたった出来事間の同時性、またときに前後関係も、座標系と相対的にしかさだまらない。物体に固定した座標系による時間をその物体の固有時とよぶが、2つの物体の出会いから次の出会いまでの時間間隔は両者の固有時においてことなることがある(双子の逆説)。また、重力が強くなればなるほど、時間はひきのばされる。

一般相対性理論では時空が力学的にとらえられるので、これを利用して宇宙の歴史のシナリオをえがくことができる。その中には、宇宙の時間の始まりは存在しないが、宇宙は有限の年齢をもつとするものもある(ホーキングの説)。またタイムトラベルの可能性も問題にできる。

VI 時間の矢

過去と未来の2つの時間方向は、人間の思いの中だけではなく本当に異質なのか、またそうだとすればなぜかという問題はさまざまな角度から問題にされる。過去はさだまっているが、未来はそうではないのではないかという、決定論をめぐる難問がある。しかし、この問題は量子論の法則が確率的なものであるということと、直接には関連しない。また、4次元時空では前後関係も絶対的でない場合がある。心理学的時間においては、過去と未来の非対称性が強く感じられるのは確かである。しかし、物の世界にその根拠があるとすれば、時間に関して非対称な法則が鍵(かぎ)をにぎるかもしれない。

時間の可逆・不可逆性についてもしばしば論じられるが、熱力学の第2法則は、孤立系におけるエントロピーの不可逆的な非減少をいうもので、時間に関して非対称である。しかし、マクロな現象に関する法則であって、ミクロからの説明は完全に明らかになっているとはいえない。量子論の観測問題や、宇宙論が関連するという推測がある。

→ 時間(単位)

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時計
時計

とけい
clock; watch; timepiece

  

時刻を知るための装置。一般に天体観測具,日時計,月時計,星時計,アストロラーブなど直接に天体の地球に対する相対位置の観測に基づくものから,人工的機構による水時計,砂時計,火時計,機械時計,電気時計などがある。近代では主として機械時計と電気時計をさす。いずれも一定周期の振動をその動作の基本に用いている。機械時計では振り子またはひげぜんまいと天府を振動体とし,動力にはぜんまいばねやおもりを用いている。電気時計には永久磁石とコイルを組合せた乾電池式,トルクモータを用いた電磁式,電磁石に親時計からパルスを与えて駆動する親子時計,商用交流の周波数を利用したワーレン型,水晶発振器を用いた水晶時計がある。原子または分子の共鳴吸収の周波数に基づいた原子時計が最も精度のよいものである。


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[ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 2008]


時計
とけい

時は過去から未来へと流れていく。時の流れそのものは目に見えないが,朝になって太陽が現れ,夕には日が暮れてやがて暗い夜がやってくる。寒い冬が過ぎると花の咲き乱れる春がきて,昆虫も地中からはい出してくる。人間は生まれて成長し,やがて老いて死に至る。このような現象の中に人間は時が次々に流れ去って,再びもとには戻らないことを感ずる。時計の秒針やディジタルの秒数の変化を見ていると,時間の経過していくことがよく感じとれる。このような時の流れをくぎるのは地球の自転と公転の運動で,人間や地球上の生物は,生活のリズムを昼と夜の規則的な繰返しに合わせて今に至っている。この昼夜1日の時間を細分化して知らせてくれるものが時計である。時計とは時をはかる計器だということもできる。この場合,時とは時刻と時間の両方の意味をもっている。ふつうの置時計や腕時計の示す時分秒は時刻であり,ストップウォッチではかる時分秒は時間である。ストップウォッチではかれないような長い時間というものもあって,日数,月数,年数などの単位ではかる時間や,逆に原子や素粒子の研究者の対象になるようなナノ秒,ピコ秒などの微小時間の単位もある。これらの時間をはかるものも広い意味では時計に含まれるのかも知れないが,一般的には,時分秒を表示する時刻計と,1/5,1/10,1/100,1/1000秒程度の計測ができるストップウォッチを指すものと考えてよいであろう。もちろん時計には時間と分の表示のみで秒を表示しないものもあるし,時刻のほかに,年,月,日,曜日などの暦を表示する付加機能をもつものも多くある。時刻を示す時計とストップウォッチを一つの時計に組み込んだものは,クロノグラフchronograph という特別な名称をもっている。
 近年,時計は単独で使われるだけでなく,カメラ,ライター,ボールペンなどに組み込まれているほか,TV,VTR などの電気製品のタイムスイッチにも広く普及している。またオートメーション化に付随して,制御機器各部分のシーケンス制御に時計が使用されているが,この用途では表示装置がない。タイマーまたはクロックと呼ばれるもので,時計としての外観はもっていなくても時計の基本的な機能は備えている。
 日本語の時計に当たる英語は timepiece であるが,ふつうはウォッチ watch かクロック clockのほうがよく使われる。ウォッチは腕時計や提げ時計(懐中時計)のように身につける時計をいい,日本ではこれを携帯時計と訳しており,一方,クロックは置時計,掛時計などと呼んでいる。
 日本に初めて機械時計が渡来したのは,1551年(天文20),スペインの宣教師ザビエルによって大内義隆に献上されたのが最初とされている。時打ち装置をもつこの時代の時計は自鳴鐘と呼ばれた。時辰儀,土圭なども時計の古い呼名である。
【時計の歴史】
[時を測るくふう] 時計の発達は人間社会,科学技術の発達と深い関係をもっており,とくに各時代とも時刻制度との関連がきわめて強い。社会の要請に応じて時計が発達し,時計の精度が高くなるにつれて社会が変化するというように,互いに影響を及ぼし合いながら今に至っている。
 時計の歴史は日時計に始まる。太陽の動きにつれて木や岩などの影が長さと方向を変えていくことに気づき,これを時計として利用したものである。このような日時計の利用は前5000年ころのエジプトで始まったらしいが,やがて日影棒(ノーモン gnomon)と呼ばれる棒を地面に垂直に立てて日時計とするようになった。オベリスクの高い尖塔も日影棒として用いられたという説もある。夜の時間をはかるのには水時計が用いられた。前1400年ころエジプトで作られた水時計が現存している。底に穴をあけた容器の内側に目盛を刻み,中に入れた水の水面の高さから時刻を知るものであるが,水時計は中国でも古くから用いられていた(漏刻)。
 現在まで続いている1日を24時間とする時間単位のもとを作ったのは古代エジプト人である。もちろんこの時代は不定時法,つまり夜と昼とをそれぞれ12に分割しただけのもので,季節により昼と夜との1時間の長さが異なる方式であったから,現在の1時間とは違う。機械時計ができ,それがある程度普及するのは14世紀のヨーロッパにおいてである。それまでの数千年間は,日時計,水時計がさまざまに改良くふうされてずっと用いられたほか,砂時計,ろうそく時計,ランプ時計などが簡便な道具として広く使用された。精度は問題にならぬくらい低いが,当時の社会生活には,これで不便はなかったものと思われる。また不定時法と真太陽時の社会であったから,季節による時間単位の伸縮や緯度による差があるために,時間感覚がきわめて粗雑であったろうと思われる。
[機械時計の登場] 機械時計については,だれが発明したのかはもちろん,いつ,どこででき上がったものかも不明である。歯車装置や重錘を使った駆動機構は,機械時計の出現以前から他の機械装置の一部として使用されていたが,時計機構が成り立つうえでもっとも重要なポイントである脱進機構についてはその起源が明らかでない。一説には8世紀ころ中国で作られ,それがヨーロッパに伝わったといわれるが,水時計に歯車などの機械装置を組み合わせたものを経て,おそらく13世紀の半ば以降に,バージ脱進機(脱進機)という時計固有の機構と歯車装置との組合せによって純機械時計と呼べるものがヨーロッパに出現したと推測されている。時計を駆動する動力は重錘である。歯車の軸に取り付けられたドラムにロープを巻きつけ,ロープの先端に重錘をつり下げたもので,重錘に働く重力の作用によって時計を動かす力を得ている。今も機械式の鳩時計に同様の原理を見ることができる。脱進機は重錘の作用による回転力で歯車装置が急速に回ってしまわないように抑制する役目を果たしており,これによって重錘は毎日1回の巻上げで時計を24時間駆動することができ,歯車装置は指針をゆっくり回転させたり,定時に鐘を鳴らしたりできるわけである。初期の時計は建造するという語が適切なくらい大型で建物の高い場所に設置された,いわゆる塔時計が多い。いかにも鍛冶屋の作った機械というできばえのものである。中世ヨーロッパにおいては,報時のための打鐘が時計のたいせつな役目であり,打鐘装置だけがあって,文字板や針をもたないものも多かった。
 バージ脱進機は17世紀半ばの時計技術革新時代が到来するまで,約400年にわたる長い年月にわたって時計の唯一の抑制機構として生き続ける。この脱進機の構造は簡単で,のこぎりのような歯をもつ冠車(かんむりぐるま)と,その歯に交互にかみ合う2枚の角板のついた軸および軸の上端に取り付けられて往復回転運動をする棒てんぷとである。のちに,棒てんぷに代わって円形のはずみ車であるてん輪やひげぜんまいが,重錘の代りにぜんまいが使われるようになって,提げ時計の時代にもまだ生き残るのである。バージ脱進機時計は400年の間ほとんど進歩が見られないが,しだいに小型になるとともに,カレンダー装置や太陽,月,惑星の運動を示す天文時計のような複雑な機構をもち,外装部も貴金属,宝石をちりばめた精巧で高度に装飾的な,工芸品としてもすばらしい価値をもつ時計が作られた。これらは王侯貴族の権威や富の象徴として珍重された。
[精度の向上] 17世紀は G. ガリレイ,C. ホイヘンス,R. フック,J. ケプラー,I. ニュートンなどの天才が天文学,物理学,機械学などに顕著な業績をあげた時代であるが,時計の精度を向上させることにもおおいに情熱が注がれ,さまざまなくふう改良が試みられた。その中のいくつかの考案,発明は現代の時計にまで引き継がれている。その代表的なものは,振子,てんぷとひげぜんまい,アンクル脱進機である。ガリレイが振子の等時性を発見したのは1583年ころであるが,実際に精度のよい振子時計を完成したのはホイヘンスであり,1659年のことであった。腕時計の心臓といわれるてんぷ,ひげぜんまいの考案もホイヘンス(1675)の名誉に帰せられているが,弾性の法則で有名なフックも同じころにこの発明に成功していたといわれる。振子はクロックにのみ用いられ,てんぷ,ひげぜんまいはクロックにもウォッチにも用いられる。どちらもそれ自身で振動運動を繰り返す性質をもっており,振動の周期がほぼ一定,つまり等時性をもっていることが時計に組み込まれてその精度を飛躍的によくした理由である。
 機械時計は図の部分で構成される。重錘やぜんまいは動力源である。この力は数個の歯車と脱進機を経て最終的に小さな力となって振動機(振子やてんぷ)に伝えられる。これは空気抵抗や摩擦などで振動が減衰するのを防ぎ,時計が動き続けるようにするためである。振動機への力の加え方は非常にたいせつで,できるだけ振動機の等時性を乱さないようなタイミングで力を加えられる脱進機が望ましい。振子やてんぷの発明に加えて脱進機の考案,改良が次々に行われ,バージ脱進機では冠形のがんぎ車と振子やてんぷが直接かみ合っていたものを,その中間に別の新しい部品を加えたアンクル式,デテント式など最近まで実際に使われたものを含めて多種の脱進機が試みられた。
 この17世紀に始まった技術革新以前ドイツ,フランス,オランダ,イギリスなどにおいて時計製造がすでに工業化されており,時計工組合もできていたので,すぐれた発明,考案がいかされた時計が次々に製品化されて,高精度の時計が普及する時代を迎えることとなる。ことにこの時代イギリスは新しい実用的な時計の製造に成功し,それまで装飾性の高い時計で優位に立っていたフランスを押さえ,高品質で最大生産量を誇る時計生産国となった。またイギリスは産業革命をリードし,急速に経済力が伸びて世界の貿易,金融の中心の地位を獲得するに至ったが,資本主義の発達の中で,〈タイム・イズ・マネー〉の思想が社会に浸透して,時間に対する価値観が大きく変化し,労働を管理するために厳密な時間制度が導入されるようになった。このような社会の高度化に伴って,不定時法・真太陽時では不便になってくる。また時計の精度が向上すれば1年を通じて1時間の長さを同じにすることもできる。現在の世界的に統一された時刻制度が成立するまでには国ごとに変遷があるが,定時法の最初は14世紀イタリアにおけるものである。その後振子時計の発明によって各国に普及し,18世紀中ごろに現在の時刻制度に近い形でロンドンで採用が開始された。なお日本では16世紀に定時法に基づく時計が入ったが,これを当時の日本の不定時法に合わせるくふうが施されて,他国に例のない和時計の誕生につながった。
 高精度の時計の出現を促した背景に,航海における船の位置の決定という問題もあった。船の現在位置の経度を正確に決定するためには高精度の時計が必要であり,実際に経度が測れる船舶時計ができるまでの模索時代の歴史は長く,ヨーロッパ各国の時計師たちがこれに取り組み,100年以上の歳月が費やされた。これ以前は大洋の航海は,緯度(南北位置)は天体の観測で決定できても,経度(東西位置)はほとんど勘に頼る状態であった。重大な難破で貴重な船,積荷,人命が失われることはしばしばであり,各国で多額の賞金をかけた経度測定法発見の奨励が行われ,イギリスの J. ハリソンが完成した時計が1762年および64年に経度委員会の定めた基準を上回る成績を実際航海で実証した。この後も優れた時計師たちが経度測定時計(クロノメーター)に挑戦し,温度補正や等時性の改良に役だつ装置を考案,これが一般の時計の精度を著しく向上させる結果となった。
[小型化と大量生産] 17世紀半ばの技術革新に引き続き,18世紀,19世紀にかけて脱進機とてんぷに重要な考案,改良が行われ,また新しい合金やルビー製軸受の発明も精度向上,小型化,製造の容易化などに非常に貢献している。なかでも1755年ころにイギリスのマッジ Thomas Mudge(1715‐94)によって発明されたといわれるレバー脱進機は,てんぷを振動機としてもつ時計にはすべて使われるようになり,精度のよい小型,薄型の提げ時計の製造を可能にした。
 提げ時計はイギリス,フランス,スイスなどで作られていたが,スイスが早くから薄型で精度のよい時計を作り始めたのに対して,イギリスは重厚堅牢な時計を作り続け,フランスは優美ではあったが新技術をとり入れるのが遅かったために,スイスの時計産業が急速に伸びた。その一因としてスイスの特異な分業システムがあげられる。小規模企業,家内工業クラスの多数の製造業者が専門分野を分担する形態である。19世紀初めにはアメリカに時計産業が発生する。そしてアメリカ式の合理的な大量生産システムを適用して,品質のよい時計を作り,スイスに脅威を与えるまでに成長した。この事実に気づいたスイス時計産業は大幅にアメリカ方式を採用し,部品加工を自動化して互換性をもたせて合理化を実行した。スイスの時計王国としての基礎がこれによって築かれたといえる。アメリカの時計は逆にスイス製に押され,第2次世界大戦後にはルビー入りの高級時計はほとんど壊滅の状態となった。しかし使い捨て時計といわれるピンレバーウォッチは大規模な生産システムの採用で低コストを実現し,スイスに対抗する生産力を維持することができた。
 腕時計が便利なものとして一般の人に受け入れられ本格的な製造が開始されたのは第1次大戦の始まる前で,それ以来急速に流行の波に乗ってしだいに提げ時計に取って替わるようになる。さらに第1次大戦中および戦後に開発された,切れないぜんまい,耐衝撃装置,われないガラス,防水側などの採用でずっとがんじょうになり,機能的には自動巻き,カレンダーなどの装備されたものが多量生産,多量消費されるようになった。また電子工学の発達に伴い,24時間における進みや遅れの秒数を数分間のうちに知ることのできる測定機をはじめとし,時計のいろいろな特性を精密に診断できる装置が1950年代から実用化され,その結果,時計の基礎的な研究が著しく進み,高精度の時計を低コストで製造する生産技術が生まれた。
 日本の近代的時計製造は明治10年前後に端を発し,長い間アメリカ製・スイス製時計の模倣時代が続くが,第2次大戦後急速に進展して独自の製品を開発し,品質,数量とも時計王国といわれたスイスを上回るまでに成長した。ことに水晶時計では69年にアナログ式腕時計が発売されて以来世界の時計産業をリードし続けている。
 なお,機械時計の歴史上もっとも有名な時計師はパリに工房をもったブレゲー Abraham LouisBrレguet(1747‐1823)である。自動巻き,永久カレンダー,目ざまし,耐衝撃,報時など考えられる限りの付属機能を備え,誤差を消去するためのあらゆる考案を成し遂げたメカニズムの天才であり,また優雅で上品な芸術作品というべきデザインの妙を尽くした時計は,人間の成し遂げた最高傑作といえる。
[電気・電子時計] 人力でぜんまいを巻く代りに電気の力を利用しようとの発想が,18世紀半ばから19世紀の初めにかけて電池時計,電気時計を生んだ。例えば,ぜんまいを一定の時間間隔で電動機によって巻き上げる方式,振子やてんぷを電磁石の力で駆動する方式などのほか,アメリカのウォレン Henry Ellis Warren による電灯線の周波数に同調して回転する同期電動機を利用した方式(1918)など多種類の時計が作られた。また1台の正確な親時計から出る電気信号で多数の子時計を同時に動かす親子時計は鉄道の駅やビルの各室に設置されることが多い。機械時計から水晶時計への過渡的な段階で,音叉時計,電子式てんぷ時計などが作られたが,水晶時計の出現とともに姿を消した。水晶時計は1927年にアメリカで生まれた。水晶発振器は最初電気通信に使われていたのだが,周波数安定性が著しくよいことから,リーフラー,ショートなどの自由振子時計に代わって天文時計に使われるようになった。リーフラーの最高精度は1日に1/1000秒だが,地震があるとこの精度は出せない。水晶時計は地震の影響を受けず,精度はリーフラーを上回る。この精度は地球の自転,公転の不規則性を発見できるほど高いものであり,それまで絶対的な時の基準と考えられていた地球の運動が,実はいろいろな変動の要素を含むものであることがわかった。これは時計の歴史上最大のできごとだったといえる。その後49年にはアメリカで,水晶時計の100倍にも達する精度をもつ原子時計が生まれ,67年からは,それまで平均太陽時によって定めていた時間の標準に代わって,セシウム原子の共振周波数によって秒を定義することが国際度量衡会議で採択された。水晶時計も IC の進歩に伴って急速に構造の簡素化,小型化が進み,69年にはアナログ式腕時計が発売されるまでになった。それ以来,LED ディジタル式,液晶ディジタル式が相次いで商品化され,大量生産による価格の低下とともにウォッチ,クロックの全種類にわたって水晶時計の時代へ突入する。この段階で日本は水晶時計の生産で世界の時計生産のトップの座を占めるに至った。液晶ディジタル時計は,全電子時計とも呼ばれ,機械的な部品が不要で組立ても簡単なので,コストが安く,故障や電池の消耗の場合,修理せずに新しいものと買い替える,いわゆる使い捨て時計として,機械時計におけるピンレバーウォッチに代わるものとしておおいに普及した。しかも安価ではあっても高精度で,最高級機械時計よりはるかによく時間が合い故障も少ない。日本からの水晶時計の輸出も急伸したが,その中には部品輸出も含まれており,工賃の安い東南アジアで組立て完成品とする新しい生産形態が生まれた。とくに香港でのディジタルウォッチの生産は目ざましく,たいへん安価な時計が大量に世界市場に流れ,日本やスイスの時計産業が大きな脅威にさらされるほどに成長した。⇒時刻   小野 茂
【時計工業】
時計すなわち時間をはかり時刻を示す精密機器またはエレクトロニクス機器を製造する産業である。時計を用途別に分けるとウォッチ(腕時計,懐中時計など)とクロック(置時計,目ざまし時計,掛時計など)に,動力別に分けると機械時計と電気時計に,表示方法別に分けるとアナログ式とディジタル式となる。世界のおもな生産国はウォッチでは日本,香港,スイス,クロックでは香港,台湾,ドイツ,日本である(ムーブメント換算ベース。ムーブメントとは各種内装部品から構成される機械体)。
[動向] 1970年代後半からの時計のクォーツ化は,時計工業を精密機器工業からエレクトロニクス機器工業へと急速に転換させている。高精度,多機能化,メインテナンスフリーなど数々のメリットをもつクォーツ化は,IC の電子部品の開発技術と量産技術の発達によりもたらされたものである。ウォッチのクォーツ化による影響は,(1)日本,香港の台頭,スイスの停滞などによる生産・供給シェアの変化,(2)時計メーカーのコンピューター周辺機器など,他のエレクトロニクス業種への進出,(3)エレクトロニクスメーカーの時計業界への新規参入,(4)部品数の減少による下請部品メーカーの受注減,小売店の修理収入減などをもたらした。とくに,クォーツ化は世界の時計工業における日本の位置を一段と高めた。80年には,世界の時計大国であるスイスの時計産業を抜き,日本が世界一の時計大国に躍り出た。この背景には IC等電子部品の急速な値下りによる大幅なコストダウンを生み出したことがある。このことは一方ではウォッチの低価格品を中心に生産拡大競争をもたらし,このため,(1)製品ライフサイクルの短縮化,新製品開発競争の激化とともに,企業間格差を拡大させ,(2)流通面では大型のディスカウント・ストアの出現を促し,(3)低価格品と高価格品の二極分化を生み出している。1970年代後半から80年代初めにかけて日本のウォッチ市場では,〈アナログ,ディジタル〉論議が湧き起こったが,ディジタルウォッチは,低価格にとどまらず,ストップウォッチ,デュアルタイム,センサー機能などの付加機能を数多く備え,それまでアナログ式ウォッチが独占していたウォッチ市場に大きなインパクトを与えた。
 1980年代後半からの日本のバブル景気は,ブランド志向と消費者ニーズの多様化を促した。ブランド志向の急速な高まりによって日本の時計メーカーは,それまでの統一ブランド戦略から,価格帯別,ファッション・テースト別などによる多ブランド化戦略に移行した。このころ数多くのライセンス・ブランドが登場したことも特徴的である。またこうしたブランド全盛期を好機として,スイス・ブランドのウォッチが日本市場で巻き返しを見せたことも注目に値する。一方,消費者ニーズの多様化によって,ウォッチの複数所有が進んだのもこの時期である。この背景には消費者のライフスタイルの多様化があり,例えば,女性の社会進出によって女性にとってはビジネスシーンの重用性が増し,また余暇時間の増加がスポーツやリゾートの場の重用性を促し,商品のセグメンテーション化も進んでいる。
 世界のウォッチ生産個数(ムーブメント換算ベース,1997年推計値)は12億6000万個,うち日本が5億1000万個,香港3億2000万個,スイス1億個の順となっている。日本のウォッチ業界は典型的な寡占状況にあり,セイコー・グループ,シチズン時計,カシオ計算機の3社で,全生産額の80%以上のシェアを占めている。90年以降の国内ウォッチ市場(完成品とムーブメントの生産個数の合計)は増加基調で推移している。これは,完成品がほぼ横ばいで推移している一方で,外販用ムーブメントの需要が牽引しているからである。つまりウォッチに関しては,日本がムーブメントの世界における供給基地,またアジアを中心にした海外諸国が組立基地という棲み分けの構図が読み取れる。
 一方,クロックもクォーツ化の進展によって,日本の時計工業を発展させた。特にバブル期にはクロックも高級品志向と低価格品志向の二極分化,ブランド志向という動きが見られた。またクロックはギフト商品としての性格も有している。音声LSI を内蔵し,さまざまな音声を発する目ざまし時計などが登場しているが,バブル景気の崩壊以降は需要は伸び悩んでいる。
 世界のクロック生産個数(ムーブメント換算ベース,1997年推計値)は4億4000万個,うち香港が2億3000万個,台湾5000万個,ドイツ4000万個,日本3000万個の順となっている。また1990年以降の日本のクロック市場(完成品とムーブメントの生産個数の合計)は,一貫して前年割れの状況が続いている。これは,クロックはウォッチと異なり,かつては日本が供給していたムーブメントを,今や東南アジアが自前で生産する能力を有するに至っているからである。なおクロック業界は,セイコークロック,リズム時計工業が市場の50%以上を占めている。
 
[日本の時計工業の歴史] 日本の時計工業は江戸時代の和時計にまでさかのぼる。しかし近代的工業としての時計工業は明治に入ってからスタートした。1875年に掛時計(ボンボン時計)が作られ,80年には懐中時計が製作された。81年には服部時計店(現,服部セイコー)が個人創業され,92年には服部時計店の工場精工舎が開設されている。その後93年に愛知時計製造合資会社(現,愛知時計電機),99年高野時計金属品製作所(現,リコー時計),1930年にシチズン時計が尚工舎時計研究所(1918創業)を買収して設立された。その間,1895年に懐中時計の国産化が精工舎で,1913年に腕時計の国産化が精工舎で行われた。その後,時計工業は順調に発展し37年には511万個(ウォッチ153万個,クロック358万個)を生産し,戦前のピークとなった。
 第2次大戦後は,朝鮮戦争を契機に復興し,1950年代後半からの高度成長期に急速に加工技術の精度と生産性が高まり,性能,品質が向上した。ウォッチにおいては耐震装置,防水,カレンダー付きなど多機能化し,クロックにおいても電気時計が普及した。国際競争も強まり,ウォッチでは80年にスイスを抜き,クロックでは1977年に西ドイツと肩を並べ,ウォッチ同様クォーツ化により80年には量,質とも世界第1位の生産国となった。
[各国の時計工業] スイスの時計工業は16世紀のジュネーブにまでさかのぼる。しかし,主力のウォッチについてはクオーツ化に遅れをとり,中級品では日本に,低級品では香港に押され,生産が伸び悩んでいる。とくにアメリカを大きな顧客としていた低価格のピンレバーウォッチが,香港を中心とする東南アジアの低価格のディジタルウォッチにとってかわられたのがひびいている。スイスの時計工業は,家内工業的な組立工場から,比較的近代的な一貫メーカーまで,1600社を超える企業が1970年には存在したが,スイス時計業界の古い保守的な構造体質の改善と企業の近代化,合理化が要望されるようになり,ドラスティックな再編劇が銀行主導で進行した。
 その最大なものは,スイスにおける二大時計グループである ASUAG(スイス時計総合株式会社)と SSIH(スイス時計工業株式会社)の合併である。両グループは,ともにかねて業績不振に陥っており,合併前の累積赤字は,両社で3億5700万フラン(日本円換算約430億円)であったという。総額10億フランの強力な銀行支援を得て,83年末合併が成立したが,これによりスイス時計業界内に新しい結束態勢が生み出されることになった。
 香港の時計工業は時計バンド,時計のケースなど時計周辺の製造から始まり,60年代にはスイスなど海外から部品輸入をして機械式時計の組立てが始まった。また労働者賃金が低廉であったこと,国際貿易の面で地理的条件に恵まれていたことなどから,70年ころから飛躍的に生産が増加していった。          徳田 賢二+岩井 善弘

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時計
I プロローグ

時計 とけい Clocks and Watches 時間をはかったり、時刻をしめす装置。置時計や掛時計(clock)は、ふつう一定の場所に固定してつかう。一方、腕時計や懐中時計(watch)は、小さく、もちはこびやすく、あるいは身につけやすくつくられている。両方とも、時間の経過をしめす針や目盛板などの指示部だけでなく、正確な時間間隔で規則ただしい運動をする装置(動力源)と、その運動をつたえたり制御する仕掛けを必要とする。

II 歴史的発展

全歴史をとおして、時間は恒星や太陽に対する地球の動きによって測定されてきた。イギリスのストーンヘンジなど、巨石記念物には、天体の運行を測定する装置もあったと考えられている。もっとも古い時計は、前2000年ごろの日時計で、鉛直にたてられた棒や石碑の影を利用していた。エジプトでは前800年ごろにすでに存在していた。

ヘロドトスは、前575年ごろにカルデア人がギリシャ人に日時計をつたえたという記録をのこしている。最初の半球状の日時計は、前300年ごろカルデア人のバビロニアの神ベルの祭司ベロッソスによってのべられている。日時計は、太陽の動きから時刻を知るもののため、現代の時計のように、1時間の長さが一定ではなく、季節によってことなっていた。

古代では、太陽光がないときの時間の測定には、刻みをつけたろうそくをつかったり、中国では、結び目をつけた縄をもやして、ひとつの結び目から次の結び目までのもえる時間ではかっていた。

日時計と同じくらい古い時計に、砂のながれる時間をつかう砂時計や、水のながれる時間をつかう水時計がある。前1500年ごろと推定されるエジプトの碑文に、すでに水時計のことがしるされている。前40年ごろに活躍したローマ人の建築家ウィトルウィウスが記録したものには、精巧な伝動装置をとりつけたものさえある。その後は、重力によっておちる重りが水時計の水の流れにとってかわり、機械時計の出現となる。

1 機械時計

機械時計の起源は、はっきりしないが、記録にのこる最初の例は、唐の時代に中国でつくられたものがある。記録によると、仏僧の一行が725年に製作したもので、動力に水をつかい、今日の機械時計と同じく脱進機構(一定の時間間隔で歯車の歯をおくる仕組み)をもっていたという。

ヨーロッパで機械時計が発明されたのは、13世紀後半といわれている。14世紀半ばにはかなり精密な天文時計がつくられるようになり、イタリアのジョバンニ・ディ・ドンディの製作図などがのこされている。

その時代まで、時間をはかる装置は、測時器とか時間計算機とよばれていた。クロック(時計)が元はベル(鐘)を意味したというのは、クローク(そでなし外とう)を着たときの形が、ベルの形に似ていたところからきたもので、中世後期の鐘楼につけられた巨大な機械的計時装置ではじめてつかわれた。

これらの機械時計の初期のものは重くて、かさばる装置であった。14世紀にパリの王宮に設置された機械時計は、重さが227kg、高さが9.8mもあった。時計の速度を調整する装置は精巧さにかけ、時間は不正確だった。当時の時計は文字盤と針が1つだけついていて、ほぼ15分ずつの時間経過をしめすようになっていた。

2 振り子時計

17~18世紀にかけて、多くの発明によって、時計は正確さがまし、重量も大きさも小さくなった。16世紀の終わりには、ガリレイが振り子の性質をしらべ、振り子のひと振りの周期が一定であるという等時性を明らかにした。1659年にオランダの物理学者ホイヘンスは、振り子が時計を規則的にうごかすのにつかえることをしめした。10年後にはイギリスの物理学者フックが脱進機を発明した。これによって、小さな振動の振り子が時計につかえるようになった。イギリスの時計技師グレアムは脱進機を改良した。さらにハリソン(クロノメーターの章を参照)は、温度変化によって振り子の長さが変化するのを補正する方法を考案した。

3 懐中時計

時計の動力源に、重りの代わりに、ぜんまいをつかうことは、時計の製作に進歩をもたらした。この種のばねは、1450年ごろにイタリアでもちいられた。1500年ごろにドイツのニュルンベルクにすむ錠前師のヘンラインが、ぜんまいをつかって、もちはこびできる小さな卵形の懐中時計をつくりだし、ニュルンベルクの卵とよばれて富豪の間でもてはやされた。時計の正確さを改良していったこのほかの発明には、1660年のフックによる、テンプ(調速機)をうごかすひげぜんまいと、1765年のイギリスの発明家マッジによる梃子(てこ)式の脱進機がある。

17世紀には、時計に分針と秒針がつきだした。また、文字盤と針を保護するために水晶がつかわれだした。18世紀になると、宝石の軸受けがつかわれだし、時計の摩耗をへらし、寿命を長くした。

時計の生産に機械による部品製作が導入されるようになるまで、永続性のある時計をつくるため高等技術が要求される手づくりの時代が何世紀もつづいた。このため、時計づくりの芸術性が高まり、スイスをはじめとしてヨーロッパ各国に多くの工芸家が登場し、その仕事は美観と精巧な機械的完璧さによって有名になっている。

4 航海と時計

大航海時代以降、ヨーロッパの船舶が世界各地を航海するようになると、正確な位置を把握する必要が大きくなっていった。緯度は、星の位置を測定することで、かなり高精度で決定できるが、経度の測定には高精度で、航海中の温度変化や振動によっても誤差が少ない時計が必要だった。そのため、イギリスでは、賞金をつけて、クロノメーターの開発競争をおこなった。→ 航法の「経度の測定」

5 装飾時計

クロックとよばれる時計は、実用的な器具であると同時に、しばしば装飾品でもある。古い時代の時計は、かなり装飾的であった。中世後期のヨーロッパの塔には彫刻やからくりがほどこされ、聖者や寓話(ぐうわ)に登場する人物や動物の巨大な彫像がうごくように細工をした。はと時計は、木彫の鳥がないて時をつげるが、これは1730年にドイツでつくられ、現在でもよくつかわれている。イギリスで初期につくられた時計には、鳥かごの形のものもある。おじいさんの時計とよくいわれる箱時計は、振り子と重りが背の高い箱の上部にはいっている歯車の下にみえている。これは機械で加工される歯車が出現する前にデザインされたものであり、よく知られた装飾時計である。

ウォッチとよばれる時計は、小さいドラム状の形でベルトにつけたり、ポケットにいれたりする。腕時計は、時計が小さくなってくるにつれて普及した。18世紀の初期には、スイスが時計製作工場の中心となった。最初は、家庭で家族が時計部品をつくる家内工業で、それを中心となる時計製造会社が、製品にくみたてて販売した。こうしてスイスの時計産業は、1850年代まで多くの小さな工場が発達し、中心となる製造会社がつくられて発展した。現在、スイスの時計には鉛筆の端やイヤリングにつけられるくらいの小さいものもある。

6 電気式の登場

アメリカのウォーレンが開発した電気時計は、1900年代初頭のアメリカにおける革新的な技術であった。これは交流電流の周波数と同調して回転する同期電動機をつかった時計を実現した。21年にイギリスの発明家ショートによる電気時計は、エディンバラ天文台に設置されたが、27年にアメリカで水晶時計がつくられるまで、もっとも正確な時計であった。水晶時計をうわまわる精度をもつのは、セシウム原子時計で、55年にイギリスでつくられた。

III 和時計

日本で最古と考えられる時計は、天智天皇(在位661~671)のころの漏刻(→ 水落遺跡)、すなわち水時計とされている。機械式の時計については、1550年代にザビエルがもちこんだものがはじめてで、それ以後、ヨーロッパからの使節や宣教師たちが将軍などに献上品としてもってきたことが記録にのこされている。

和時計は、これらヨーロッパからの伝来時計をモデルにつくったものである。ただし、当時、ヨーロッパでもちいられていた時制と日本の時制はちがっていたので、1日を12刻(とき)にわけた日本の時制にあわせた時計に改造した。これが和時計であり、針を固定して文字盤のほうを回転させるものや、季節にあわせて文字盤をかえるものもつくられた。また、日本の工芸技術の粋(すい)をあつめた金細工や蒔絵、彫刻をほどこすなど美術品として価値のあるものもつくられた。和時計がすたれたのは、明治時代になってヨーロッパの時制が採用されてからであった。

IV 機構

置時計や掛時計では、動力源は、重り、ぜんまい、電流などである。電気時計と電子時計をのぞけば、重りをあげたり、ぜんまいをしめたりするなどの調整を周期的におこなう必要がある。機械的な時計での動力源で発生する動力は一連の歯車と脱進機によって伝達され、振り子やテンプが規則ただしい運動をつづける。こうした時計では、時刻は鐘やチャイムをならして音で知らせたり、目盛板上の針の位置、あるいは数字をつけた輪が回転して時刻をしめすなどの方法で、みてわかるようになっている。電気時計や電子時計では、時刻は数字でしめすことが多い。

腕時計では動力源として、細いひげぜんまいや小型の電池をつかっている。ぜんまい式置時計と同様に、腕時計は動力を調整して規則ただしい振動をつづけるテンプと、一連の歯車によってエネルギーをたもちつづける。自動まきの腕時計では、ぜんまいは時計をつけた人の腕の動きによって回転子の重りが左右にゆれたり回転して、それが歯車につたえられ、ぜんまいが自動的にまかれる。一般にクォーツとよばれる腕時計は、電池で超小型モーターを駆動する。

V 電気時計

かつて家庭や駅のホームなどでつかわれていた電気時計は、商用の交流電源(周波数60あるいは50Hz)に同期して小さいモーターが一定速度でうごくようになっていた。

精密な時間測定用として1927年につくられた水晶時計は、水晶(石英が六角柱状に結晶したもの)の輪をつかっていた。それが電気回路につながれて、数十万ヘルツの振動がえられる。この高周波振動を交流電流に変換して、時間測定に都合のよい周波数にし、同期時計やデジタル表示時計のモーターをうごかす。現在もっとも正確な水晶時計の誤差は300年間以上でプラスマイナス1秒である。

電気あるいは電子腕時計は、動力源に約1年はもつ小さな電池をつかっている。この電池はテンプをうごかしたり、小型音叉(おんさ)や水晶の振動をたもって時計をうごかす。リチウム電池をつかった腕時計では、ほぼ10年間、電池を交換しなくてもうごくものがある。

VI クロノメーター

クロノメーターとよばれる機械時計は、航海中に経緯度をきめる際に航海士が、また測定器を校正するために天文学者や宝石鑑定家などがつかう精巧な装置である。

クロノメーターは、1728年にイギリスの時計師ハリソンがはじめてつくった。ハリソンは、59年までに4種類のクロノメーターを製作し、賞金を獲得している。このポータブルの器具は、微妙な動きを維持するのに水平をたもつジンバルという装置の上におかれる。また40年にシェフィールドの時計師ベンジャミン・ハンツマンが良質なぜんまいをつくるためにるつぼ鋼をつくって、最初の特殊鋼を完成させている。

現代の腕用クロノメーターは、ちがった場所でもいろいろな温度でも規則ただしくうごく腕時計で、スイスの検査機関で検定をうけている。また、時計の正確度をあらわす等級としてもつかわれている。水晶振動子をつかった時計が普及したことで、機械時計の精度への関心は低下していった。→ 航法

もうひとつの精密な時計にクロノグラフがある。これは一般には一定の時間を記録する装置である。次のような、いろいろな種類のクロノグラフがある。テレメーターは観測者から物体までの距離をはかるし、タコメーターは回転速度をはかる(→ 速度計)。脈拍計は脈の速度をはかり、生産カウンターは一定時間内の生産品数を表示する。陸上競技でつかわれるタイマーやストップウォッチもクロノグラフである。クロノグラフの精度はふつう0.1~0.01秒ほどであるが、なかには0.001秒の精度のものもある。

VII 原子時計

もっとも精密な計時装置は、原子時計である。それらは地球の回転が1日に1000分の4~5秒変化することもはかることができるし、距離を計算する際にGPS(全地球測位システム)のような航行法を精密化するのに不可欠となっている。原子時計は、原子または分子の、特定のエネルギー準位間の遷移にともなう電磁波の周波数を時間間隔の基準とする。つまり、原子の電子の状態に変化がおこり、2つの状態の間を振動する。その振動が規則ただしいことを利用している。このような電磁波は、原子または分子に固有の周波数をもち、ひじょうに精度がよい。

原子時計にはふつうセシウム原子がつかわれ、国際単位系の時間の基本単位である秒を定義するのにつかわれている。この時計では、いちばん低いエネルギー状態(基底状態)のうち、ある超微細エネルギー状態にあるセシウム133の原子に、別の超微細エネルギー状態へ遷移するときの共鳴周波数に近い周波数をもつマイクロ波をあてる。このマイクロ波の周波数を調整して、ちょうど共鳴周波数になると、セシウム原子が別のエネルギー状態へ遷移する。このときのマイクロ波の振動が91億9263万1770回くりかえされると1秒になると定義されている。セシウム原子時計はきわめて正確で、長期間にわたり安定している。もっとも高精度なセシウム原子時計は、100万年にプラスマイナス1秒程度の誤差といわれている。

ルビジウム時計は、ルビジウム87原子の2つの超微細エネルギー状態間の遷移をつかっている。原理はセシウム原子時計と同じである。ただ、ルビジウムでは原子を最初に超微細状態にかえておいて、次にマイクロ波をあてて、元の状態にもどす方法をとる。多くの原子が元の状態にもどると、ただしい遷移周波数が実現したことになり、そのときの波の周期をつかって時間をはかる。ルビジウム時計は、セシウム時計ほど正確でないが、セシウム時計より小型で値段がやすい。

水素メーザー時計はメーザーの原理にもとづいている。水素メーザー時計では、集束した磁界が2つの特定の超微細エネルギー状態のうち、高いほうの状態にある水素原子をえらびだす。これらの原子の多くが、低いほうのエネルギー状態に遷移したとき、原子は2つの状態間のエネルギーの差を電磁波のかたちで放射する。この放射された波の周期が時間の測定につかわれる。水素時計は、数時間の間はとても安定している。

VIII 最近の発展

1957年には小型電池をいれた電気式の腕時計が発売され、59年には脱進機の代わりに小型音叉(おんさ)がもちいられ、この音叉の高振動をトランジスターをつかって歯車につたえる方式のものがつくられた。

その後の発展では、LED(発光ダイオード)時計とLCD(液晶表示)時計があらわれた。LED時計は1960年代に開発され、デジタルで時間を表示するのに半導体の一種を利用している。また、クォーツとよばれる水晶時計は、水晶の結晶が正確な振動をすることを利用している(→ 水晶振動子)。LCD時計は70年代に開発され、液晶という材料が電圧によって透明になったり、不透明になったりすることを利用している。このほか、とても小さく、もちはこびしやすいポケット用・腕用のアラームつき時計や、日付と曜日が表示されるカレンダー時計がある。新しい電源として、太陽光、身体の熱、原子エネルギーなどの利用が研究されている。

時計工業は、これまでのべてきたように、「時間」をはかり「時刻」をしめすための精密な機器を製造する産業である。ウォッチにもクロックにも、それぞれアナログ式表示とデジタル式表示とがある。1970年代以降は、ぜんまい式の機械時計にかわり水晶発振器をつかったクォーツ時計が隆盛となり、時計工業は精密機器工業というより、エレクトロニクス産業の一部門といえるほどになった。この時計のクォーツ化は、日本の時計工業の発展をうながし、時計王国であったスイスの時計工業を地盤沈下させた。ウォッチの生産では日本、スイス、フランス、クロックの生産では日本、ドイツ、ロシアなどが世界の上位を占めるが、ウォッチでは香港のデジタルウォッチの生産の追い上げが急である。

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双子のパラドックス
双子のパラドックス

ふたごのパラドックス
twins' paradox

  

時計のパラドックスともいう。双子の一方Aが地球におり,他方Bが高速ロケットで宇宙旅行をして帰還すると,BよりもAのほうが年を取っている,という特殊相対性理論のパラドックス。特殊相対性理論によれば,動いている時計は進度が遅れるので動いている人は年を取らないが,Aから見ればBが動いているのでBは若く,逆にBから見ればAが動いているのでAは若いはずであるから,この事実はパラドックスである。しかし,特殊相対性理論での時計の遅れは等速度で相対的に動いているままで一方が他方と時計の進度を比較するときのことであって,動いて旅行し,帰ってきて止ってから比較するのには適用できない。このパラドックスは一般相対性理論によって以下のように解決される。宇宙旅行では出発,折返し,帰着の際に必ず加速度を受けるが,一般相対性理論によれば,これは重力を受けることと同等である。ところが一般相対性理論では,重力によって時計の進度が遅くなるので,実際に移動したBの時計だけが遅れて,AよりもBのほうが年を取らない。したがって,双子の年齢差はパラドックスではなくて真実である。



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§コラム【双子のパラドックス】
相対性理論に関するなぞめいた話題は多いが,とくに SF 的な興味をそそるのが,双子のパラドックスと呼ばれる思考実験である。これは,〈双子の兄弟の一人,例えば弟が,光速に近いロケットに乗って宇宙旅行をし,再び地上に戻ってみると,地球上にいた兄は彼よりも年をとっていた〉というものである。一見すると,〈動いている相手の時計は遅れているようにみえる〉という〈時計の遅れ〉に似ているように思われるが,実は本質的な違いがある。〈時計の遅れ〉の場合,どちらからみても,いつも互いに相手の時計が遅れてみえるという意味で,両者(兄と弟)は対等であった。ところが,いまの場合,兄のほうが年をとってしまったという結論は,兄弟,どちらからみても同じなのである。これは,運動の相対性という観点からみておかしいのではないか。つまり,弟からみると,自分は静止したままで,地球にとどまっている兄のほうが運動をして戻ってきたのであり,再会したときに,若いのは兄のほうであるとなるべきではないか。いずれにしても,2人の結論は食い違うことになり,したがってパラドックスと呼ばれるのである。この問題には,慣性系とは何かというさらに深い問題がかかわっているのであるが,まず,結論に至る推論を説明しよう。
 簡単のため,地上に固定した座標系 S(x,w)は真の慣性系であるとする。ここから,ロケットは速度 v で x 軸方向に進み,シリウスの近くで向きを180度変え,同じ速度で一直線に帰ってくる。図の O は,ロケットの出発の世界点を表し,P は折返し点,Q は地上への帰還に対応する。OP は往路のロケットの世界線,PQ は復路のそれを表す。往路については,ロケットに固定した座標系Sア(xア,wア)へのローレンツ変換を考える(図)。それは,

で与えられる。ここで光速度を c として

である。折返し点で,ロケットから地上に向かって合図の光の信号を発する。光の世界線は,左上向き,45度の直線で表され,発射地点に到着した世界点を M とする。ロケット上の時計で,出発から折返し点まで t1ア かかったとするとき,折返し点からの信号を地上で受信したのは,地上の時計ではかって出発後,

となる(この結果を得るには,(1)に xア=0,wア=ct1ア を代入して P の x,w 座標を求め,そこを通る45度の直線と,w 軸との交点を求めればよい)。
 復路に要する時間は,ロケットに積んだ時計ではかる限り,往路と同じ t1ア である。したがって往復に要する時間は Tア=2t1ア である。一方,地上で折返し点到着の信号を受けてからロケットを地上に迎えるまでの時間 t2は,(2)において β の符号を変えたものとなる。

これは,往路と復路の違いは,速度の方向だけにあることから明らかである。結局,地上では,ロケットは((2)と(3)を足して),

だけの時間の後に帰ってきたことになる。
 以上の事柄をもう少し具体的な例によって説明してみよう。双子の心拍数はともに1秒1回で,これは一生変わらないものとしよう。ロケットからは,弟の一鼓動ごとに電波の信号が地上へ送られるようになっている。折返し点に達するまでに弟は N 回の脈拍をうったとする。つまり,ロケット内の時計ではかって t1ダッシュ=N 秒かかったとするのである。したがって,ロケットからは,N 回の信号が地上に送られ,これは,地上の時計ではかって

の間に地上に達した。つまりこの間,兄の心臓は鼓動したのであり,彼は,弟の脈拍は遅くなったと判断する。しかし弟の脈拍は自分とまったく同じであるはずであるから,これは一種のドップラー効果で振動数が小さくなったものと考える(赤方偏移)。次に復路にも同数の信号が受信されるが,その間,兄の脈拍は

で,これは発信源が近づくときのドップラー効果(青方偏移)によるものと考える。結局,地上での再会までに弟の心臓は2N 回うち,兄のそれはその γ 倍で,したがって,兄は弟より γ 倍年老いたことになるのである。
 以上の説明に使われたのは特殊相対論の法則,とくにローレンツ変換だけである。したがって特殊相対性原理によって,兄と弟は完全に対等であるようにもみえる。しかし地上のロケットが一定速度 v に達するまでには,ロケットは加速されなければならない。この間,ロケットは非慣性系であり,弟は慣性力のために体重が重くなったように感ずる。このような慣性力,すなわち仮想的な力は,折返し点で向きを変えるときおよび地上への軟着陸の際にも生ずる。しかしそのときでも,地上は慣性系であり続け,ロケットの加速や減速を見守る兄は,慣性力のようなものを何も感じない。この点を考えると,兄と弟はもはや同等ではない。つまり慣性系にとどまっている座標系と,それに対して一時的にせよ加速度運動をする座標系とを比べているのであり,前者に対して後者の時計の進み方が遅いという結論は,直ちにパラドックスということはできない。
 いずれにしても,これはどの座標系が慣性系かというニュートンやマッハの議論にかかわってくることになる。アインシュタインの一般相対性理論では,等価原理によって慣性系と非慣性系との区別がとり払われた。しかしこれは時空のごく小さい範囲で成り立つ〈局所的〉な法則に関するものであり,時空全域にわたる〈大域的〉な問題となるとまた別である。宇宙全体における物質の分布を,一般相対性理論によって決定し,例えば地球上での回転運動にはなぜ遠心力が生ずるかについて完全な説明を与えるまでにはまだ至っていない。双子のパラドックスの最終的な解答も,この問題の解決の中に見いだされるべきものであろう。
                        藤井 保憲

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機械論
きかいろん
mechanicalism

  

目的意志の介入を許す目的論に対して,自然界の諸現象を機械的な因果関係によって説明する立場。たとえば生物学は無機物を支配する法則によって全面的に律せられると考える。このような考えの歴史は古く,古代ギリシアのデモクリトス,エピクロス,近世では B.スピノザ,J.O.ラ・メトリらに代表される。この立場は素朴な唯物論の立場に癒着しやすく,自由な人格主体を認める近世哲学や弁証法的唯物論者から排撃されてきた。





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[ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 2008]


機械論
きかいろん mechanism

自然や社会や生物を扱うとき,内的目的や霊魂を排除してどこまでも物質的な諸要素の集合とその運動として決定論的に取り扱う態度。すなわち有機体をモデルにするのではなく機械をモデルとして対象を考察する態度のことである。したがってどのような機械をモデルにするかによって内容が異なり,時代によって機械論も変遷をとげてきた。哲学で伝統的に〈機械論〉ないし〈機械観〉と呼ばれてきたのは,時計をモデルとする17~18世紀に有力だった機械論を指したので,現在もこの意味で用いられることが多いが,19世紀の機械論は原動機(蒸気機関)をモデルにしていたし,最近の機械論や新しい人間機械論はコンピューターや自動制御機械をモデルにしている。
 古代ギリシアにおいてすでに,自然を物質的要素から構成されているものとして見る態度があった。ソクラテス以前の自然哲学がそれであるが,とくにデモクリトスを代表とする原子(アトム)論は要素の形態と配列と位置の相違によって事物の質的変化や生成消滅を説明し,魂をも一種の火であって球形のアトムであるとした。それは自然自体の中に目的を認めず自然を有機体と見ない点で機械論であったといってよい。しかし中世においては支配的な思想にはならなかった。機械論の再出発は17世紀初頭のヨーロッパで行われた。その背景には中世における建築技術の発達や機械時計の完成,さらに大砲の開発による投射体の運動の研究や航海術の進歩に伴う位置決定の課題などがあったのであるが,17世紀はじめに,それまで支配的な自然観・社会観であった目的論的・有機体論的なアリストテレス主義と,隠れた性質を認めるヘルメス主義を批判して F. ベーコンが新しい要素論を唱え,デカルトが魂と物体を明確に区別して物体から内的目的や隠れた性質を排除し,自然を〈延長〉としてとらえ,運動を位置の変化として幾何学的に研究する方法を打ち立てて,近代の機械論が成立した。すなわちデカルトは,当時完成した機械であった時計をモデルとして,自然を外から与えられる運動によって〈法則〉に従って動く部分の集合であると見たのである。これは当時のガリレイやホイヘンスにも見られる新しい自然観の定式化にほかならず,力学(正しくは機械学 mechanics)を模範とするそれ以後の近代科学は現代まで機械論の立場をとっていると言ってよい。デカルトが自然から排除した内的なものは,その後ニュートンとライプニッツによって〈力〉として再導入されたが,神による〈最初の衝撃〉に依存する外力であった限り時計モデルの機械論を出るものではなかった。医学においては化学的な扱いも有力な思想としてあった(医化学派Iatrochemiker)が,17世紀末には,心臓をポンプ,肺をフイゴ,胃を摩砕機,腕を起重機と見る機械論的身体観がほぼ成立した。このような立場は〈医物理派 Iatrophysiker〉と呼ばれたが,本来は〈自然学〉一般を意味していた physica の語がそれ以後は〈機械論的自然学〉つまり〈物理学〉に限定されるようになったのである。機械論は社会をもこの立場で扱う社会物理学をもたらし,自動機械としての人間をモデルとするホッブズのような国家観も生み出した。
 18世紀後半以後,蒸気機関の開発などもあって自然に内在する原動力を重視する進歩と進化の思想が有力になり,一方では目的論や有機体論を復活させたが,他方で原動機をモデルとする新しい機械論を生み出し,自然の運動の外的原因としての神を不必要にした。しかし18世紀末から19世紀初頭にかけて思想的には古い機械論への批判が目的論の復活という形で展開した。この問題を鋭く受けとめたのはカントで,彼は《判断力批判》の第2部で〈物質的事物の生成はすべて単なる機械的法則によってのみ可能である〉という機械論的命題と〈物質的事物の生成のいくつかは単なる機械的法則によっては不可能である〉という目的論的命題との二律背反を解決しようと努力した。カント以後,シェリングやヘーゲルも機械論と目的論の統一をめざし,こうして19世紀には物理学においてさえ要素論はかえりみられなくなった。カントからヘーゲルに至るこの古い機械論批判の過程において哲学用語としての〈機械論〉の概念が定着したのであるが,19世紀には事実上この意味での機械論はすでに乗り越えられていたのである。すなわち,古い機械論の産物であった燃素(フロギストン)説は乗り越えられて近代化学の成立となり,熱素(カロリック)説も克服されてエネルギー論 Energetik が成立した。これは原動機モデルの機械論であった。
 しかし20世紀に入って機械論は第3の段階に入った。すでに19世紀の間に元素が次々に発見されたうえ,ウェーラーによる尿素の合成をはじめとして有機物の機械的生成が可能になるなど化学の発達があって原子論が準備されつつあったし,確率論や統計学が発達して熱現象を分子の運動によって説明しようとする努力がなされていた。さらに19世紀の間に機械技術が高度に進んで互換性部品による大量生産方式も登場しつつあった。こうして20世紀には,非決定論を組み込んだ原子論(量子力学)が登場し,オートメーションも進展して蒸気機関よりも機械体系全体の要素化とそのシステム化が機械の新しい姿となった。すなわち20世紀の新しい機械論は,情報処理機械(コンピューター)や自動制御機械(ロボット)をモデルとする機械論なのであって,分子生物学はまさにその生物への適用である。サイバネティックスはこの新しい機械論の呼称と言ってよいが,それは有機体をモデルとする機械論なのである。この新しい機械論は社会や人間にも適用されつつあるが,その特徴は構造化とそれに伴う〈意味〉の捨象であって,生きることの意味や人間の主体性(意志)と機械との関係が新しい課題として登場してきている。⇒機械∥生気論∥目的論∥有機体論
                        坂本 賢三

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機械論的唯物論
きかいろんてきゆいぶつろん mechanical materialism

人間の意識をも含めたすべての事象を,力学的法則で説明しようとする唯物論の一形態。自称の理論的立場ではなく,生物学的(生理学的)唯物論や弁証法的唯物論と区別するための第三者による呼称。古代ギリシアのデモクリトスの立場などをもこの語で呼ぶ論者もあるが,典型的には18世紀のフランス唯物論,ディドロ,ドルバック,ラ・メトリーらの立場を指す。一般に,古典物理学的世界像は一種の機械論的唯物論といえる。  広松 渉

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機械論
機械論 きかいろん Mechanism 機械をモデルにして宇宙を完全に説明しようとする哲学上の考え方。機械的なプロセスは運動というかたちでとらえるともっとも理解しやすいので、機械論はしばしば宇宙が巨大な運動の体系であることを証明しようとした。

機械論の原型は、古代ギリシャのデモクリトスが提唱した原子論である。17世紀の初め、諸科学の発達にともなってふたたび機械論が登場し、支配的な思想になった。その代表者がデカルトとその後継者たちである。近世の機械論はおもに時計をモデルとしており、自然を法則にしたがってうごく集合体とみなした。

一般に機械論は唯物論と同じ意味になるが、自然主義と同義でつかわれることもある。自然主義とは、神や超自然的な知能をもちいないで、化学や物理学の機械的な法則によって自然現象を説明する思想である。この意味からすると、機械論に対立するのは目的論である。目的論は、万物は神の計画によってさだめられ、神のきめた終末にいたると考える。


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目的論
目的論

もくてきろん
teleology

  

ギリシア語の telos+logosに由来し,人間の行為ばかりではなく,歴史的現象,自然現象も含めて,万象が目的によって規定され,支配されているとみる哲学説。機械論と対立する。アリストテレスは,事物の原因として質料因,形相因,動力因,目的因をあげ,神が究極的な目的因であるとした。アリストテレス哲学の発展である中世のスコラ哲学は,万象は神によって秩序づけられているとした。近世哲学では,デカルト,スピノザ,ベーコンらはいずれも目的論を否定した。カントは,物質界については機械論,道徳界,超自然界については目的論の立場を取った。 19~20世紀では機械論が優勢であるが,反面,生命論の立場から,H.ドリーシュらが生気論を,またテイヤール・ド・シャルダンが独特の目的論を主張した。





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目的論
もくてきろん teleology

事象を目的と手段の連関において説明しようとする考え方。機械的原因とその結果の連関によって事象を説明する機械論に対立する。宇宙を一つの目的論的システムとみなす考え方は,神話的思考のうちにすでに広くみとめられるが,哲学の歴史においては,とりわけアリストテレスがそれを定式化するにあたって重要な役割を果たした。すなわち,彼は,質料と形相の結合からなる個物にあって,その事物の本質規定をなし実現されるべき形相がその目的因をなすと考え,さらに,この考えを宇宙全体の構成にも及ぼして,万物は最高の純粋な形相である神を究極目的として生成展開すると考えたのである。この考えは,中世のスコラ哲学においては,キリスト教の創造神の考えと結合されて,時代に対して大きな影響力をもった。一方,それと対立する機械論的な考え方についていえば,デモクリトス,エピクロスらの古代唯物論以来,特定の目的に規整されることのない広い意味での機械的原因によって万象の生成を説き明かそうとする行き方が見られはしたものの,なんといっても,機械論が時代の思考の動向を左右するほどの有力なパラダイムとして登場するのは近代科学の成立以降のことである。〈目的論〉の語が,18世紀ドイツ啓蒙時代の哲学者であるC. ウォルフによって創始されたことは,目的論的思考法への反省が,近代科学の成立以降の機械論的思考法との対決においてはじめて本格的になされたことを示すものといえよう。
[機械論と目的論]  近代科学の成立にともなう機械論的思考のパラダイムの全面的適用の典型的な,またもっとも強い影響力をもった例はデカルトにみられる。彼は,中世スコラ哲学以来の目的論的有機的原理にもとづく自然現象の説明を徹底的に排して,人間を別とするすべての動物は,一つの機械とみなしうることを説いた。一方,前述のウォルフの師にあたるライプニッツは,それを批判して,いわば機械論的パラダイムのホームグラウンドともいえる力学においてすら,一種の目的論的原理を復権することなしに事象の十分な解明はありえぬことを主張して,大きな反響を呼んだ。ここには,原子論的発想にたいする全体論的発想,幾何学主義と代数主義,決定論と自由論,因果論と表現論といった,時代を超えて現代にまでおよぶ基本的な発想の対立の幾組かが複雑にからんでおり,機械論的思考と目的論的思考の対立が,ある文脈においては今日なお開かれた問いであることを早くも予示している。カントが,機械論にのみ本来の自然現象の説明の機能をみとめ,他方自然研究における目的論を研究の向かうべき方向を指示する〈規制的原理〉としての有効性に制限するという形で,二つの思考法の調停を試みたことも,18世紀の思考の状況の枠内での暫定的解決の提示という性格を完全にはまぬかれえぬものといえよう。
[今日の問題状況]  C. ダーウィンの進化論による自然淘汰の考えの出現によって,古典的な目的論的世界観は跡を絶ったという見方がときになされる。これは一面において真実であるが,しかし,そのことは,ダーウィンの自然観が古典的な機械論にもとづくことをすこしも意味しない。むしろ,機械論そのものが自動調整の機能という概念をそのうちに大幅にとりこむことによって,従来目的論の領域に属していた説明機能のすくなからぬものをみずからのうちに含みこむかたちで展開してきたと見るほうがあたっていよう。このような動向は,20世紀に入って,サイバネティックスの出現による〈機能〉の概念の大幅な拡張が,また分子生物学の発展による生命現象の解明の飛躍的な進歩によって,いっそう促進されたといえる。分子生物学者の J. モノは,従来目的論的なものとみなされていた生命の複製や自動調整の機能をすべて機械的に解き明かし,生命の発生を偶然に帰せしめる思考の方向を示唆して,偶然の概念と目的論のかかわりについての新たな解決を試みている。とはいえ,以上のような生物学を主とする自然科学の動向で,旧来の目的論をめぐる問題にすべて片がついたわけではない。なぜなら,目的論の問題は,他方で,一貫して人間の行動や歴史の領域と深いかかわりをもってきたからである。自然研究の領域で目的論的原理を〈規制的原理〉に制限したカントは,歴史哲学の領域では目的論的説明をはるかに多く許容しているようにみえる。ことは,この領域では,人間の自由,生きることの目標と価値といったことにただちにかかわらざるをえないからである。今日,人文科学の領域においても,価値の多様化という時代状況に即応しながら,この分野での研究方法の特性に応じて,目的論の問題への新たな接近が試みられている。⇒機械論                坂部 恵

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目的論
目的論 もくてきろん Teleology 目的によって宇宙を説明しようとする哲学上の説。宇宙は計画と目的をもつという主張にもとづいている。アリストテレス哲学は、現象や過程をその原因によってだけでなく、「目的因」(現象の存在理由、あるいは現象が創造された理由)によっても説明する。キリスト教神学では、目的論は、自然界のしめす秩序と効率のよさが偶然とは思われないことを根拠にして、神の存在証明を提供する。世界の設計が理性的であるとすれば、究極の設計者は理性的な存在でなければならないからである。

目的論者は、宇宙を機械的な原因・結果の関係によってのみ説明しようとする機械論に反対する。しかし、種は自然選択によって進化すると主張するダーウィン進化論の衝撃的な出現によって、伝統的目的論の影響力は大幅に後退した。にもかかわらず、1980年代に、種は天地創造以来、変化していないという創造説が再燃した際にみられたように、今日でも目的論を擁護する人は多い。


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生気論
生気論

せいきろん
vitalism

  

活力論ともいう。有機体の生について,これを無機物と同じ扱いをする機械論を退け,生命力 vis vitalisを原理としてその特殊性を守ろうとする立場 (物活論のように無機物をも生命あるものとするわけではない) 。初めフランスのルイ・デュマ (1765~1813) が明確に打出したが,20世紀初頭新生気論として再興された。新生気論は初めから生命力を措定することをやめ,一応因果律や自然科学的法則を取入れるが,目的論的概念としてのエンテレケイアを立てて,最終的に生命力の存在に到達しようとした。代表者としては G.v.ブンゲ,J.ラインケ,H.ドリーシュらがある。





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生気論
せいきろん vitalism

広義には,あらゆるものの中に機械論的に説明しえない生気(ラテン語で vita)を認める立場をいう。その原始的形態はアニミズムで,あらゆる自然物の中にアニマ(霊魂)の存在を認める考え方である。それは活動力ないし対話の対象とみなされたので,エネルギー概念および情報概念の先駆とも見られる。この思想的伝統はヘルメス思想の中に生き続け,ライプニッツの活力説(彼は力=エンテレキア entelechia を実体とした)を経て,19世紀ドイツの〈自然哲学〉にまで及んだ。すなわちシェリングは〈自然は目に見える精神,精神は目に見えない自然である〉と主張し,ロマン派の思想家はさらに民族精神や世界精神についても語った。
 狭義の生気論は,自発的活動力を持つ生物にのみ生気を認める立場で,アリストテレスは植物,動物,人間にそれぞれ特有の魂(プシュケー)があるとして生物の諸機能を説明し,これが長い間生物研究の主流であったが,17世紀になってデカルトは人間にのみ魂(アニマ)を認め,植物も動物も人体も機械と同様の物体にほかならないとした。こうして生物も機械論的に説明されるようになると,これに反対して生物体についても生気論が主張された。たとえば J. B. van ヘルモントはパラケルススの主張した〈アルケウス archeus(原初力)〉の概念を受け継ぎ,アルケウスは身体と魂を結合する霊的な気体で病因と闘うものであると考えた。またビシャーは厳密に有機体論的な生気論を唱えて〈生気的唯物論〉を主張し,ハンターは異質な物の間を飛ぶ〈生気物質 materia vitae〉を考え,ブルーメンバハは重力と同様それ自体は見えないが結果によって観測できる〈形成力 nisusformativus〉の概念を導入した。
 19世紀に入ると,ウェーラーが尿素を無機物から合成し(1828),有機体の働きも生気の概念なしに物理的化学的に説明できることが判明して生気論は打撃を受けた。しかし,実験を重んじた C. ベルナールは機械論を排し,パスツールもつねに生きた細胞に独自の機能を認め,進化についてベルグソンが〈エラン・ビタル レlan vital〉を主張するなど,生気論者も少なくなかった。
 19世紀末,ウニの卵の発生実験をしていたドリーシュは,分離した割球が完全な幼生に発育することを発見(1891),機械論で説明しえない生命力を認めて〈エンテレヒー Entelechie〉と名付け〈新生気論 neo‐vitalism〉を唱えた。このように物理的化学的説明を認めたうえでなお生物独自の原理を主張する立場を〈新生気論〉といい,この立場をとるラインケ Johannes Reinke(1849‐1931)らの生物学者は〈ケプラー連盟〉を結成して E. H. ヘッケルの〈一元論者連盟〉に対抗した。ドリーシュのエンテレヒー概念はアリストテレスのエンテレケイア entelecheia から借りたものであるが,それは秩序を制御するものであって,今日の情報概念に近く,過去の生気論も情報という観点から再評価されつつある。             坂本 賢三

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生気論
I プロローグ

生気論 せいきろん Vitalism 生命現象を説明する哲学的理論。機械論と対立する。生命の発生、構造、機能は科学では説明できないとする立場。物理学や化学ではとらえられない「生気」(ラテン語でvita)というものがあって、この生気をもつものだけが、生命であるとされる。

II 生物学の領域にかかわる

古くはアリストテレスの「魂」(プシュケー)の説に生気論的な見解を指摘できるが、ふつうは近代科学成立以降に展開された生命観をいう。デカルト哲学を引き合いにだすまでもなく、近代科学は機械論的な自然観から出発した。デカルトやホッブズは、生命体を精巧な機械のように考えていたのである。こうした自然観に反対した哲学者の系譜は、ライプニッツ、19世紀ロマン主義者、ベルグソンなど、現代まで脈々とつづいている。しかしこれは、世界観にかかわる哲学的対立であって、生物学の領域にかかわるいわゆる「生気論」とは無関係である。

III 全体論との違い

生物学理論としては、生気論はホーリズム(全体論)と対立する。細胞や生体の生化学的研究の価値を否定しはしないが、そうした研究からは、生命固有の現象の理解に到達できないとする点で、生気論と全体論は共通する。しかし違いもある。全体論は生物の身体の全体にだけ固有の生命原理をみとめるが、個々の部分には生命力をみとめていない。これに対して生気論は、生物の身体の構成単位の次元にも生命固有の原理(生気)をみとめようとする。

IV 現代の生気論者

現代の生気論者として有名なのが、20世紀初めにでた生物学者ドリーシュである。彼はウニの発生に関する一連の実験(→ 発生学)で、分離した割球が完全な幼生に発育することを発見して、機械論では説明できない生命力が部分にもあることをみとめて、それを「エンテレヒー」と名づけた。これは、アリストテレスのエンテレケイアからとられた言葉だが、最古の生物学者アリストテレスの伝統はこんなかたちで現代にまで影響をおよぼしている。今日では生気論を信奉する生物学者はいないが、全体論に賛同する生物学者は少なくない。


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エンテレケイア
エンテレケイア

エンテレケイア
entelecheia

  

アリストテレスの用語で,終極状態にあることを意味する。彼によれば,生成は可能態にある質料が目的 telosである形相を実現することにあり,その実現された状態もしくは形相そのものがエンテレケイアである。すなわちそれは完全現実態であり,実現態とも訳される。現実態を表わすエネルゲイアと同義であるが,後者のほうは活動的な面を強調する。スコラ哲学に継承されたこの概念は,近世ではライプニッツがモナドの同義語として用い,実現力の意味を強調した。その延長上にドリーシュの生気論があり,そこではエンテレケイアは因果性をこえた生物の生命原理として主張されている。





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