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時計から始まる機械論(その11) [宗教/哲学]

E.マッハ
マッハ

マッハ
Mach,Ernst

[生] 1838.2.18. モラビア,ツラス
[没] 1916.2.19. ミュンヘン近郊ハール

  

オーストリアの物理学者,哲学者。ウィーン大学卒業。グラーツ大学 (1864) ,プラハ大学 (67~95) の教授を経て,ウィーン大学科学哲学教授 (95) 。上院議員 (1901) 。空気中を動く物体の速さが音速をこえたときに空気の性質に急激な変化が起ることを指摘し,マッハ数の概念を導入した。また実験心理学的知見をふまえた新たな科学の認識論を展開。世界の究極的構成要素は,感性的諸要素 (色,音,熱から空間,時間をも含む) であるとする要素一元論を説き,諸要素間の連関を思惟経済の原則に従って記述することが科学の本分であるとした。むろん科学においては経験的に検証されない言明は無意味なものとして退けられる。こうした立場から,当時絶頂にあった力学的自然観の特権性を否定し,古典力学の理論体系の絶対時空間,因果律などの形而上学的性格を暴露してみせた。彼の思想はアインシュタインの相対性理論誕生に重大な影響を与えるとともに,ウィーン学団を中心とする論理実証主義的科学哲学に受継がれた。『感覚の分析』 (1886) ,『力学の発達-その批判的,歴史的考察』 (83) ほか著作多数がある。





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マッハ 1838‐1916
Ernst Mach

オーストリアの物理学者,哲学者。モラビアに生まれ,ウィーン大学に学んだ。グラーツ大学で数学,プラハ大学で物理学を講じた後,1895年〈帰納的科学の歴史と理論〉担当の教授としてウィーン大学に招聘された。1902年オーストリア貴族院議員に選出されたのを機に教職を退いたが,その旺盛な研究活動は病を得た晩年まで衰えを知らなかった。彼の研究関心は一種のルネサンス人と形容しうるほど多岐にわたっており,物理学,哲学,科学史,心理学,生理学,音楽論の各分野で第一級の業績を残している。物理学では超音速の先駆的研究によって速度単位マッハ数にその名をとどめ,また〈マッハの原理〉は一般相対性理論への道を開くものであった。心理学における〈マッハの帯〉や〈マッハ効果〉の発見,生理学における〈マッハ=ブロイアー説〉など彼の名を冠する業績は数多い。主著の《力学の発達》(1883)は《熱学の諸原理》(1896),《物理光学の諸原理》(1921)とともに科学史三部作と称され,科学史叙述の古典として高い評価を得ている。とくに《力学の発達》はニュートン力学の基本概念(時間,空間,質量)に潜む形而上学的性格を剔抉(てつけつ)して若年のアインシュタインに影響を与え,特殊相対性理論を準備したことで知られる。哲学上の主著は《感覚の分析》(1886)および《認識と誤呈》(1905)であり,その基本思想はアベナリウスらとともに経験批判論の名で呼ばれる。彼は旧来の形而上学的カテゴリー(実体,因果など)および物心二元論の仮定を排し,世界を究極的に形づくるのは物理的でも心理的でもない中性的な感性的諸要素(色,音,熱,圧等々)であるとし,これら諸要素間の関数的相互依属関係を思考経済の原則に従ってできるだけ簡潔かつ完全に記述することが科学の任務であるとした。こうした要素一元論の世界観を背景にマッハは現象主義的物理学を唱えて原子論を否定し,実在論の立場から原子論を擁護したプランクおよびボルツマンとの間に激しい論争を展開したことは有名である。また,感性的諸要素の全体的連関やメロディの移調性に注目したことによって,マッハはゲシュタルト心理学の先駆者とも目される。原子論や相対性理論を承認できなかったところにマッハの限界を見ることもできるが,彼の思想の意義は何よりも力学的自然観と古典物理学的世界像の批判を通じて,現代自然科学の方法論的基礎を形づくった点に見るべきであろう。
 彼の死後1928年にはシュリックを議長に〈マッハ協会〉が結成され,これが後の〈ウィーン学団〉の母胎となった。そのためマッハはウィーン学団の盟祖と目されるが,事実彼の哲学はウィトゲンシュタインと並んで,論理実証主義および統一科学運動に多大な影響を及ぼした。また当時,ロシア社会民主労働党内部にボグダーノフ A. A.Bogdanov を中心とするマッハ哲学の信奉者が増え,正統派マルクス主義に対抗する勢力となったため,レーニンは《唯物論と経験批判論》(1905)を著してこれらの観念論的傾向を〈マッハ主義〉の名の下に厳しく論難した。          野家 啓一

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マッハ,E.
I プロローグ

マッハ Ernst Mach 1838~1916 オーストリアの物理学者、哲学者。トゥーラス(現チェコのモラビア地方)に生まれ、ウィーン大学にまなんだ。1864年から退職する1901年まで、グラーツ、プラハ、ウィーンの各大学で教職にあった。マッハの業績は、物理学のみならず、哲学、科学史、心理学、生理学、音楽理論、音響工学などきわめて多岐にわたり、多数の著作をのこして当時の思想や哲学に大きな影響をあたえた。とくに、後の論理実証主義運動への影響は決定的である。彼の死後、彼の業績をたたえて結成された「マッハ協会」はほどなく「ウィーン学団」と名称を変更し、論理実証主義の牙城(がじょう)となった。

II 科学の認識論を展開

彼は、実験的知見をふまえた科学の新たな認識論を展開し、世界の究極的構成要素は感性によって知覚される諸現象(音、熱、色など)であって、科学の任務はこれらの諸要素の相互関係をできるだけ簡潔に記述することにあると考えた。とくに自然科学は実証主義でなければならず、経験的に検証のできないエーテルや絶対的な時間、空間など、ニュートンの古典力学にひそむ形而上(けいじじょう)学的な諸概念を批判し、現代自然科学の考えを確立するのに貢献した。ニュートン力学への批判はアインシュタインを刺激して、相対性理論の誕生をたすけることになった。

III 心理学から航空理論まで

心理学の分野では感覚と知覚について研究し(→ 心理学の「科学的心理学の誕生」)、さらに物理学の面では、空気中を運動する物体の速度が音速をこえたとき、空気に急激な変化が生じることをしめし、のちの航空理論に影響をあたえた。超音速機などの速度を音速の倍数で表現する単位マッハ数は彼の名にちなんでいる(→ 空気力学:流体力学)。

多数の著書の中には、科学史の古典とされる「力学の発達」(1883)、「熱学の諸原理」(1896)、「物理光学の諸原理」(1921)の3部作のほか、「感覚の分析」(1886)、「認識と誤謬(ごびゅう)」(1905)などがある。

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マッハ数
マッハ数

マッハすう
Mach number

  

流体の速度 u と流体中の音速 c との比 u/c を表わす次元のない数。普通 M で表わす。圧縮性流体に対しては,この比によって流れの性質がほとんど定まる。静止流体中を物体が動くときには,物体の速度と流体中の音速の比をマッハ数という。





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マッハ数
マッハすう Mach number

気体中を運動する物体の速度,あるいは流れている気体の速度をその気体中の音速で割った値をいう。飛行機やロケット,弾丸などの飛行に関してよく用いられるが,音速は空気の温度によって異なるので,マッハ数が等しくとも飛行速度が等しいとは限らない。マッハ数は必ずしも音速を単位とする速度表示ではない。むしろ気体の流れに及ぼす圧縮性の影響を表す尺度であり,流れの状態はマッハ数によって非常に異なってくる。なお,マッハ数という概念は,超音速気流の研究の先覚者で哲学者でもある E. マッハによって導入されたものである。⇒高速気流         牧野 光雄

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マッハ数
マッハ数 マッハすう Mach Number 空気力学や流体力学において、流体(気体や液体)の中を運動する物体の速さの、流体中の音速(音)に対する比をマッハ数という。ふつう飛行機やロケットの速さをあらわすのにつかわれる。マッハ数は無次元の数であり、オーストリアの物理学者・哲学者マッハにちなんで名づけられた。

マッハ1は音速に等しい。たとえば、マッハ2の飛行機は、音速の2倍の速さで飛行する。マッハ1より小さい速さの飛行機は亜音速飛行といい、ほぼマッハ1の速さで飛行する飛行機は、遷音速飛行とよばれる、音速に近い飛行をしており、マッハ1より大きい速さの飛行機は、超音速で飛行しているという。

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圧縮性流体
圧縮性流体

あっしゅくせいりゅうたい
compressible fluid

  

流体の運動において,一般に圧力変化に伴って密度変化が現れるが,この密度変化を考慮した取扱いをする流体を圧縮性流体または縮む流体という。常温の空気では流速が音速の 0.3倍 (マッハ 0.3) 程度をこえると圧縮性流体と考える場合が多い。 (→非圧縮性流体 )





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非圧縮性流体
非圧縮性流体

ひあっしゅくせいりゅうたい
incompressible fluid

  

流体の密度は一般に圧力によって変化するが,その変化が無視できる場合には,流体を非圧縮性流体または縮まない流体という。流体中の音速は,圧力による密度変化の平方根に反比例するから,非圧縮性流体では音速は無限大である。したがって,音速に比べてきわめて小さい速度の運動を考える場合には,音速は無限大とみなし,流体は非圧縮性と考えてよい。標準状態の液体はすべて非圧縮として取扱われる。また,空気でもマッハ数が 0.3程度までは密度変化も5%以内なので,非圧縮性流体とみなされる場合が多い。





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ウィーン学団
ウィーン学団

ウィーンがくだん
Vienna Circle; Wiener Kreis

  

ウィーン大学哲学教授 M.シュリックを中心として形成された哲学者,科学者の一団をいう。「学団」 Kreisといって「学派」 Schuleといわないのは,いわゆる学派主義を避けたからであるといわれる。各人の考えが必ずしも一致していたわけではないが,形而上学を排し,哲学を科学と同じような客観的な学問,科学哲学として考える点で共通していた。 1928年には「マッハ協会」がこれらの人々を中心にして設立され,公的な活動が始った。彼らは E.マッハ,B.ラッセル,L.ウィトゲンシュタインの影響を受け,言語分析,記号論理の研究を展開し,論理実証主義の形成に大きな影響を与えた。 38年ナチスの弾圧により解散,メンバーの多くはイギリス,アメリカへ亡命し,シカゴ大学ではカルナップ,C.G.ヘンペルが加わることによってシカゴ学派が形成された。ウィーン学団のおもな学者としてはシュリックのほかに,カルナップ,ファイグル,Ph.フランク,K.ゲーデル,O.ノイラート,ヘンペルらがあげられる。





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ウィーン学団
I プロローグ

ウィーン学団 ウィーンがくだん Wiener Kreis 1920~30年代、オーストリアのウィーン大学のメンバーによって結成され、活発に活動した、論理実証主義(→ 実証主義)の学派。

II 実証主義の系譜

1895年ウィーン大学に、マッハを初代教授として「帰納科学の哲学」講座が開設された。1922年にシュリックが後任として赴任すると、彼を中心とする私的な会合が定期的にもうけられた。彼らは数学と科学に共通の関心をしめし、基本的にマッハの実証主義をうけいれ、数学的論理学の発展をめざしていた。また、ウィトゲンシュタインの影響も大きく、彼らの会合では頻繁にウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」が話題になったといわれている。

III 主要メンバー

彼らは1928年に「マッハ協会」を設立し、翌年「科学的世界把握?ウィーン学団」というパンフレットを発行して、公的な活動を開始した。おもなメンバーとしては、ワイスマン、カルナップ、ノイラート、ファイグル、ハーン、ゲーデルなどがいた。ライヘンバッハを中心としてベルリンで設立されていた「経験哲学協会」と共同で30年に雑誌「エルケントニス(認識)」を刊行し、ヨーロッパ各地やアメリカに思想的影響をおよぼした。

IV 20世紀哲学の流れつくる

しかし、ナチズムの台頭とともに、シュリックが1936年に暗殺されたのをはじめとして、30年代半ばに主要メンバーがあいついで死亡もしくは亡命。38年のナチスのオーストリア併合、39年の第2次世界大戦の勃発(ぼっぱつ)によって、学団そのものは間もなく消滅した。しかし、ドイツ語圏以外の国にちらばったこの学団のメンバーは、その後めざましい活躍をみせ、彼らやその弟子たちは20世紀の哲学の有力なオピニオンリーダーになった。→ 分析哲学と言語哲学


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経験批判論
経験批判論

けいけんひはんろん
Empiriokritizismus

  

19世紀末,主としてドイツの哲学者 R.アベナリウスによって唱えられた学説。古来からの哲学上の基本問題,すなわち主観と客観,意識と存在 (したがって観念論と唯物論) ,内的なるものと外的なるものなどの区分を認めない立場に立つ。アベナリウスは,経験内容から個的な主観的なるものを除去していけば,万人にとって普遍的ないわゆる純粋経験が得られ,これによって哲学上の二元論が克服されるとした。論理実証主義に大きな影響を与えた。


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経験批判論
けいけんひはんろん Empiriokritizismus[ドイツ]

純粋経験に基礎を置く実証主義的認識論の一形態。アベナリウスおよびマッハによって創始され,ペツォルト J. Petzoldt,ゴンペルツ H. Gomperzらによって受け継がれた。影響はおもにドイツ語圏内にとどまったが,イギリスの K. ピアソンにも同様の思想が見られる。物理的事象と心理的事象,主観と客観,意識と存在などの二元論的仮定や,実体,因果などの形而上学的付加物を排除し,その結果得られる純粋に経験的な世界概念を思考経済に従って記述することを認識の目標と考えた。〈物心二元論の克服〉および〈直接与件への還帰〉というテーゼは,W. ジェームズの根本的経験論,ベルグソンの生の哲学,西田幾多郎の純粋経験論などと軌を一にする19世紀末の基本思潮であった。その科学論的側面は,マッハおよびピアソンを通じて後の論理実証主義に影響を与えた。またレーニンは《唯物論と経験批判論》(1909)を著し,マルクス主義の立場から経験批判論の観念論的傾向を厳しく批判した。     野家 啓一

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R.アベナリウス
アベナリウス

アベナリウス
Avenarius,Richard

[生] 1843.11.19. パリ
[没] 1896.8.18.

  

ドイツの哲学者。ライプチヒ大学に学んだ。 1876年に同大学の講師,翌年チューリヒ大学哲学教授になった。いわゆる経験批判論 empiriocriticismの創始者として知られている。 E.マッハとともに,論理実証主義に大きな影響を与えた。主著『純粋経験の批判』 Kritik der reinen Erfahrung (1888~90) 。


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アベナリウス 1843‐96
Richard Avenarius

ドイツの哲学者。パリに生まれ,ライプチヒ大学に学ぶ。1877年ウィンデルバントの後任としてチューリヒ大学教授に招聘され,没年までそこで教鞭をとった。経験批判論の創始者として〈純粋経験〉に基礎を置く徹底した実証主義を唱え,マッハとともに後の論理実証主義の展開に大きな影響を与えた。主著は《純粋経験批判》全2巻(1888‐90)および《人間的世界概念》(1891)であるが,独特の用語と難解な記号法をもって書かれているため,マッハの思想に比べて人口に膾炙(かいしや)しなかった。哲学の任務は主観・客観の分離に先立つ〈純粋経験〉に基づいた〈自然的世界概念〉を再興することにある,とした。知識の唯一の妥当な源泉である〈純粋経験〉は,主観の〈投入作用〉によって経験の中に持ち込まれた形而上学的カテゴリーや実在の物心二元論的解釈を排除することによって獲得される。自然的世界概念は,それを〈最小力量の原理〉に従って記述することにより,はじめて十全に理解される。〈最小力量の原理〉はマッハの思考経済と相呼応する概念であるが,アベナリウスはこれが科学理論においてのみならず自然そのものや人間生活においても働いていると考えた。また彼の言う〈自然的世界〉は,フッサールの〈生活世界〉概念の一つの先駆と目される。彼の思想は唯物論の立場に通ずると解されたため,マルクス主義者の中にも多くの共鳴者を見いだし,ためにレーニンは《唯物論と経験批判論》(1909)の中で,この傾向を厳しく批判した。
                        野家 啓一

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アベナリウス,R.
I プロローグ

アベナリウス Richard Avenarius 1843~96 ドイツ人哲学者。パリで生まれ、ライプツィヒ、ベルリンでまなんだのち、1877年、スイスのチューリヒ大学教授に就任。教授資格論文「哲学は最小力量の原理にしたがって世界を思考することである」(1876)は、生物はもっとも迅速かつ単純なやり方で環境に適応するという「最小力量の原理」を人間の思考にも適用して、論理学や認識論を生物学的に基礎づけようとする試みであった。これはオーストリアの哲学者・物理学者マッハが提唱した、「最小の思考の出費で事実を可能なかぎり完全に記述する」という思考経済とほぼ同じ内容をもっている。

II マッハとの類似と影響

マッハとの類似は、アベナリウスが主著「純粋経験批判」(全2巻。1888~90)や「人間的世界概念」(1891)で主唱した経験批判論においても顕著である。デカルト以来の近代哲学では、「主観」と「客観」あるいは「物」と「心」といった形而上学的(けいじじょうがくてき)・二元論的な区別は自明なものとみられていたが、経験批判論はこうした区別を人為的で派生的なものと考える。むしろ、この区別に先だって直接あたえられる「純粋経験」こそ、自然的で根源的である。この純粋経験においてあらわれてくる自然的世界を記述することが、哲学と科学の任務なのである。

マッハの「要素一元論」を思わせるこうした考え方は、「マッハ協会」から出発したウィーン学団、とくにシュリックに強い影響をあたえた。さらに、いっさいの先入見を排して「事象そのものへ、じかにせまる」(「純粋経験批判」序文)という意図は、のちのフッサールによる現象学の先駆けとみることもできる。アベナリウスの中に観念論の傾向をみいだし批判したのは、レーニンの「唯物論と経験批判論」(1909)であったが、こうした否定的な評価は今日ほとんどみられない。

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思考経済
思考経済
しこうけいざい DenkÅkonomie[ドイツ]

科学的思考ないしは理論を規制する準則の一つ。〈節減の法則〉とも呼ばれる。科学の目標は〈最小の思考の出費で事実をできるだけ完全に記述する〉(マッハ)ことにある,と定式化される。その源流は中世の〈オッカムの剃刀(かみそり)〉にさかのぼる。19世紀末にマッハおよびアベナリウスが,これを経験批判論の基本原則としたところから一般に広まり,論理実証主義に引き継がれた。現代の科学哲学では,理論の〈単純性の原理〉として言及されることが多い。       野家 啓一

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実証主義
実証主義

じっしょうしゅぎ
positivism

  

経験的事実にのみ立脚し,先験的ないし形而上学的な推論を一切排除する哲学の立場。狭義には A.コントの哲学をさす。実証主義の名は,自然科学の方法を哲学に適用しようとしたサン=シモンに始り,コントが実証哲学として確立した。その淵源は J.ロック,D.ヒューム,G.バークリーらのイギリス経験論と,ボルテール,D.ディドロらのフランス啓蒙主義の唯物論にあるが,背景には自然科学の急速な発達と工業社会の成立がある。ロック,ヒュームは形而上学を認め,ロックとバークリーは霊と神に関する知識を認めたので,実際には留保つきではあるが,一般的な意味では経験論の哲学者も含まれ,J.S.ミルの経験論もその意味で実証主義である。
神学的および形而上学的な疑問が起っても,実際には人間の用いることのできるいかなる方法であろうとそれに答えることができない,と経験主義者は考えていた。しかし,他の実証主義者たちは,そうした疑問は意味がないとして退けた。この第2の見方が,プラグマティズムと論理実証主義,さらにバークリーとヒュームにみられるような経験に基づく意味の検証につながった。実証主義は科学の成果を強調するが,経験に基づく方法では答えられないような疑問は科学のなかからも起る。 E.マッハはそうした論理的な疑問に経験的意味をあてはめ,理論をそれに対する証拠に関係づけようとした。コントは,人間の思考は必然的に神学的段階を経て形而上学的段階に達してから,実証的ないし科学的段階に達するとし,宗教的衝動は啓示宗教が衰退しても生残り,目的をもつはずであるとして,人間の崇拝の対象は教会と暦とヒエラルキアであると考えた。コントの弟子の F.ハリソン,R.コングリーブらはそうした教会をイギリスで見出したが,宗教を容認する傾向のあるミルはコントの体系を否定した。
実証哲学はフランス革命期の代表的哲学となったが,1870年代には科学の根底としての経験自体がマッハ,R.アベナリウスによって問題とされるにいたった。さらに 20世紀初頭には,B.ラッセルらの記号論理学をふまえて,ウィーン学団が論理実証主義を打出し,それは今日のイギリス,アメリカの哲学思想の主流に受継がれている。





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[ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 2008]


実証主義
じっしょうしゅぎ positivism

一般に,経験に与えられる事実の背後に超経験的な実体を想定したり,経験に由来しない概念を用いて思考したりすることを避け,事実のみに基づいて論証を推し進めようとする主張をいう。positive という形容詞には,negative(〈否定的,消極的,陰性の〉)と対をなす〈肯定的,積極的,陽性の〉という意味もあるが,それとは意味論的に区別され,negative とは対をなさない〈実証的,事実的〉という意味もあり,それは次のような事情で生じたものである。この形容詞はラテン語の動詞ponere(設定する)の過去分詞がそのまま名詞化された positum(設定されたもの)に由来するが,このばあいこれは〈神によって設定されたもの〉を意味する。つまり,この世界にはとうてい神によって設定されたとは思えない悪や悲惨なできごとが数多く存在するが,しかし人間の卑小な理性にはどれほど理解しがたいものであろうと,それもやはり神によって定められた事実,神のおぼしめしとして人間が受けいれるしかない事実である。そこから positum に〈不合理だが厳然と存在する事実〉という意味が,そして positive に〈事実的〉という意味が生じた。18世紀の弁神論的発想から生じた語義であり,〈既成性〉と訳される初期ヘーゲルの用語 Positivit∵t も同じ文脈に属する。
 〈実証主義〉は積極的主張としても軽蔑的な意味合いでも使われる。19世紀初頭に C. de サン・シモンやコントによってこれがはじめて提唱されたときは,むろん積極的主張であったが,19世紀末に〈実証主義への反逆〉がはじまると,それは〈唯物論〉〈機械論〉〈自然主義〉などと等価な蔑称として使われた。自然科学的認識方法を無批判に人間的事象に適用する当時の支配的な思想傾向が漠然とこの名で呼ばれ,批判されたのである。だが,同じ世紀末でも,マッハやアベナリウスの経験批判論が実証主義と呼ばれるのは,肯定的な意味においてである。彼らは科学的認識からいっさいの形而上学的要素を排除しようと意図する。実体間の力の授受の関係を予想する原因・結果の概念はもとより,精神や物質という概念,したがって心的・物的の区別さえもが排除され,ただ一つ経験に与えられる基本的事実である〈感覚要素〉相互間の法則的連関の記述だけが科学的認識の目的として指定されることになる。1920年代には,このマッハの伝統の上に,B. A. W. ラッセルやウィトゲンシュタインによって完成された論理分析の方法を採り入れたウィーン学団によって論理実証主義が提唱され,30年代以降これがイギリス,アメリカに移され,現代哲学の主流の一つとなった。実証主義がこのように肯定・否定両様に解されるのも,そこで考えられている〈事実〉が何を指しているかによる。19世紀の実証主義が批判の的にされたのは,その事実概念が古典的自然科学の狭い認識論的前提に制約されたものだったからである。                木田 元
[社会科学における実証主義]  社会科学の領域での実証主義は,C. de サン・シモンが自然科学の方法を用いて人間的・社会的諸現象を全体的かつ統一的に説明するために最初に提唱したのに始まり,コントに継承されて体系づけられて以来,19世紀後半から20世紀にかけて西ヨーロッパをはじめ全世界に及ぶ科学的認識論の支配的な立場となった。
 サン・シモンは《19世紀の科学的研究の序説》(1808)や《人間科学に関する覚書》(1813)において,従来の社会理論は単なる推測に基づいた独断的で形而上学的なものにすぎないと批判し,これに代えて,経験的現象の背後に神とか究極原因といった超経験的実在を認めず,〈観察された事実〉だけによって理論をつくり,経験的事実の裏づけによって実際に確証された理論こそ〈実証的positif〉で科学的なものとみなされなければならないとした。そして,この見地から,天文学,物理学,化学,生理学という順序で実証的になってきた科学的方法を用いて社会現象を研究し,政治,経済,道徳,宗教などを含むいっさいの人間的・文化的・社会的事象の相互関連性を総合的・統一的に説明すべきであると主張し,それを〈社会生理学〉と命名した。コントはサン・シモンの基本構想を引き継ぎ,さらにいっそう体系化し,《実証哲学講義》全6巻(1830‐42)において〈実証的〉という語を定義し,〈架空〉に対する〈現実〉,〈無用〉に対する〈有用〉,〈不確定〉に対する〈確定〉,〈あいまい〉に対する〈正確〉,〈消極的,否定的〉に対する〈積極的,建設的〉などの特徴をあげた。そして実証的とは〈破壊する〉ことでなくて〈組織する〉ことであると説き,人間の知識と行動は〈神学的〉―〈形而上学〉―〈実証的〉になるという〈3段階の法則〉を提示し,社会現象についての実証的理論を〈社会学 sociologie〉,実証的知識に基づいて自然界,精神界,社会界を全体的に一貫して説明する理論を〈実証哲学 philosophie positive〉と呼んだ。
 コントの説はイギリスの J. S. ミルに高く評価され,ミルは《コントと実証主義》(1865)を書き,〈コントこそは実証主義の完全な体系化を企て,それを人間の知識のあらゆる対象に科学的に拡大した最初の人であった〉と述べた。これ以降,実証的すなわち科学的という通念が世界的に普及した。フランスの社会学者デュルケームはこの立場をさらに徹底させて比較法や統計的方法を用いてすぐれた社会研究の業績をあげ,これによって社会科学における実証主義が確立された。天与の自然法という考えを排して現実の実定法だけを研究対象にする法実証主義はこの流れをくむものであり,調査によって得られた事実的資料に基づいて理論をつくるという今日の社会科学における方法論もこれに立脚している。このように実証主義は個々の事実の収集から一般理論の形成に進む帰納主義的立場をとるが,ポッパーは事実の観察や収集がそれ自身すでに一定の観点と仮説に基づいたものであって,個々の事実の集積から一般理論は生まれず,また理論は個々の事実によって確証されないことを論理的に明らかにして実証主義に鋭い批判を加えた。            森 博

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実証主義
I プロローグ

実証主義 じっしょうしゅぎ Positivism 経験一般と、自然現象についての経験をとおした知識にもとづく哲学の体系。経験をこえたものを対象にする形而上学や神学などを、じゅうぶんな知識の体系とはみとめない考え方。

II 成立と発展

19世紀フランスの社会学者・哲学者のコントによってはじめられた実証主義の考えのいくつかは、サン・シモン、あるいはヒュームやカントにまでさかのぼることもできる。

コントは人間の知識の発達を3段階にわけ、自然をこえた意志によって自然の現象を説明する神学的知識の段階から、自然をこえた説明はするが擬人的ではない形而上学的知識の段階をへて、経験的事実のみで説明をする実証的知識の段階へいたると説いた。最後の実証的知識の段階では、事実を事実で説明し、自然の現象の背後にそれをこえたものを想定したりはしない。

このような考えは、自然科学の発達にともない19世紀後半の思想に大きな影響をおよぼした。コントのこの考えは、ジョン・スチュアート・ミル、スペンサー、マッハなどによりさまざまにうけつがれ発展した。

III 論理実証主義

20世紀前半になると、伝統的な経験的事実にもとづく実証主義とはことなった、論理実証主義という考え方がおこった。マッハの考えをうけつぐこのグループは、ウィトゲンシュタインやラッセルの影響のもとに、論理分析により科学や哲学を考察した。ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」(1922)の影響をうけた論理実証主義者たちは、形而上学や宗教、倫理についてかたることは無意味であり、自然科学の命題だけが、事実とてらしあわせて検証することにより、正しいか正しくないか判断できると考えた。このような考え方は、その後さまざまな修正や発展をへて、多くの哲学者に影響をあたえた。

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A.コント
コント

コント
Comte,(Isidore-) Auguste (-Marie-Franois-Xavier)

[生] 1798.1.19. モンペリエ
[没] 1857.9.5. パリ



フランス実証派哲学者で社会学の創始者。数学者でもある。 1814年からパリのエコール・ポリテクニクで学び,16年からパリで数学教師。 32年にエコール・ポリテクニクの演習指導員となったが,42年に学校当局と衝突してやめ,その後は J.S.ミルやフランスの後援者に助けられながら研究生活をおくった。コントは社会史を人間の知識の発展史とし,神学的,形而上学的および実証的な「三段階の法則」 la loi des trois tatsを主張した。そして,当時最も遅れていた社会学をその最後の段階とした実証的段階に引上げることを自己の課題とした。彼の社会学は社会静学と社会動学に区分され,前者で社会構造を後者で社会変動を取扱っている (→社会静学・社会動学 ) 。主著『実証哲学講義』 Cours de philosophie positive (6巻,1830~42) ,『実証政治学体系』 Systme de politique positive (4巻,51~54) 。





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[ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 2008]


コント 1798‐1857
Isidore Auguste Marie Franぅois Xavier Comte

フランスの哲学者,社会学者であり,教育家,宗教家でもあった。南フランスのモンペリエの小官吏の家に生まれ,1814年パリの高等理工科学校に入学,しかし同校がその後閉鎖されたため退学を余儀なくされた。17年サン・シモンと出会い,青年時代を彼の秘書として過ごす。サン・シモンから大きな感化をうける。22年論文《社会再組織に必要な科学的作業のプラン》を発表し,その後サン・シモンから離れ,独立した歩みを始める。26年少数の聴講者を相手に自宅で哲学の講義を始め,これがのちに全6巻から成る《実証哲学講義》(1830‐42)として刊行され,主著となる。44年クロティルド・ド・ボー Clotilde de Vaux と出会い,彼女に恋をし,その死に遭遇する。コントはこの体験を通じて〈主観的統一〉の結論に到達し,晩年の大著《実証政治体系――人類教を創設するための社会学概論》全4巻(1851‐54)を著す。57年9月,〈人類教 religion de l’humanitレ〉の大司教として弟子たちに見守られながら,パリで死去。
 コントの終生変わらぬ根本的な問題意識は,当時のフランスさらにはヨーロッパの全体にひろがっていた無政府状態 anarchie に終止符を打ち,統一 unitレ を再建することにあった。彼は当時の世俗的無政府状態が根源的には知的・精神的な無政府状態に由来しているとみ,知的・精神的な統一を樹立することこそが,時代の最も重要な課題であると考えた。しかし他面では,その人類の精神的発展に関する〈三段階の法則 loi destrois レtats〉にもとづいて,人類精神の改革を主張した。すなわち,彼は神学的精神による統一の再建は不可能であり,形而上学的精神を経て,究極的にはただ実証的精神にもとづいてのみ可能であると考えていた。〈諸科学の序列〉の原理にもとづいて,数学から社会学にいたる一つの実証知の体系をつくりあげ,さらにこれを普及させることによって,知的そしてさらには世俗的な無政府状態に終止符を打つことに向けられたのである。しかし晩年において,たんなる知的統一だけでは決定的に不十分であることを悟ったコントは,それを含みつつも,より広い心情の統一としての実証宗教,神への礼拝ではなく,人間という偉大な存在を礼拝する〈人類教〉を創始し,これを普及させることによって,無政府状態の危機から救い出さねばならぬ,と考えるにいたった。
 コントの死後,〈人類教〉はほどなく勢いを失ったが,その実証主義は哲学のみならず歴史や文芸にも甚大な影響を与え,さらにその社会学は海をこえて J. S. ミルやスペンサーに影響を与えるとともに,大陸それ自身においてもデュルケーム学派の社会学等を生み出す原動力となった。
                        村井 久二

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コント,A.
コント Auguste Comte 1798~1857 フランスの実証主義哲学者で、社会学の創始者。

コントは1798年1月19日、モンペリエに生まれた。はやくから生家のカトリック信仰をすてて、自由主義的な革命思想をもつようになった。1814年、パリの理工科学校に入学するが、2年後に学生ストライキの首謀者として退学させられる。その後、パリで有名な社会主義者サン・シモンの秘書を数年間つとめた。コントの著作にはその影響がかなり反映されている。コントは精神の病におかされながら、自宅で講義をつづけ、大著をのこした。57年9月5日、パリで死去した。

当時の科学、社会、産業の革命に対応して、コントは社会秩序を知的、道徳的、政治的に再組織化しようとこころみた。そして、そのためには科学的態度が重要になると考えた。

彼は、歴史的過程とくに相関する諸科学を観察と経験にもとづいて研究することによって、人類の進歩を支配する「三段階の法則」が明らかになると論じている。この3段階は彼の主著「実証哲学講義」(6巻。1830~42)で綿密に検討される。人間の本性にしたがって、どの科学も、つまり知識のどの部門も「ことなった3つの段階、すなわち神学的あるいは空想的段階、形而上学的あるいは抽象的段階、そして最後に科学的あるいは実証的段階」を経由する。

神学的段階では、出来事は幼稚な神学的方法で説明される。形而上学的段階では、哲学の抽象概念によって現象が説き明かされる。科学的段階になると、原因の完全な究明は放棄される。各現象のかかわり方にだけ注目すれば、観察は法則化されるからである(→ 科学的方法)。

この3段階を経由する科学を、コントは6つの基礎科学に分類している。それは、下から順に、数学・天文学・物理学・化学・生物学・社会学という配列で、対象が抽象的である学ほど下位におかれる。抽象的な対象をあつかえば精密に論じやすいが、対象が具体的であるほどそれは困難になる。したがって、もっとも最後に確実性に達する社会学が上位におかれる。コントの思想は、経験科学を唯一のよりどころとした古典的な実証主義であった。

この3段階は政治の発展にも対応している。神学的段階には王権神授説が対応する。形而上学的段階には、社会契約、人類の平等、主権在民などの思想が対応する。実証主義的段階は、政治体制への科学的、「社会学的」(コントによる造語)アプローチを必要とする。民主主義にはかなり批判的だったコントがいだいていた構想は、科学エリートが科学的方法をもちいて人間的問題を解決し、社会を改善して安定した社会をつくる、というものだった。

コントは信仰をすてたにもかかわらず、社会安定に役だつという意味で宗教の価値をみとめていた。「実証政治体系」(4巻。1851~54)の中で、社会にとって有益な行いをひろめるために「人類教」を提案している。しかし、ここにコントの本領はみられない。実証主義の歴史的発展において彼がはたした役割こそ、重要だったのである。

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サン・シモン
サン=シモン

サン=シモン
Saint-Simon,Claude-Henri de Rouvroy, Comte de

[生] 1760.10.17. パリ
[没] 1825.5.19. パリ



フランスのユートピア社会主義者。『回想録』の著者サン=シモン公の甥の子。アメリカ独立戦争に参加し,恐怖政治期はリュクサンブール宮殿に監禁されたが,1793年釈放。 1803年『一ジュネーブ住民の書簡』 Lettres d'un habitant de Genve ses contemporainsをスタール夫人に献じ求婚したが失敗,日夜を分たぬ浪費で,やがて貧困の境涯に転落した。 23年自殺を企て,『新キリスト教論』 Nouveau Christianisme (1825) の執筆を最後に失意のうちに没した。サン=シモンの歴史観は社会進化の要因を,観念または思想の変化に求める精神史観と,経済に求める経済史観の二元論から成り,フランスの歴史を非産業階級に対する生産的,産業的階級の対立の歴史とみなし,産業階級を社会第1階級とする理想社会 (産業制社会) の成立を強調し,当時の産業革命の進行と工業化社会の将来を予測した。その思想は弟子の B.アンファンタン,M.シュバリエらによってサン=シモン主義として伝えられ,特に第二帝政の資本家や銀行家の理論的支柱となった。主著『産業体制論』 Systme industriel (20~22) 。





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サン・シモン 1760‐1825
Claude Henri de Rouvroy,comte de Saint‐Simon

フランスの社会改革思想家。C. フーリエ,R. オーエンと並んで三大空想的社会主義者に数えられるが,むしろ実証主義と産業主義の提唱者とみるのが適切である。フランスの自由主義的名門貴族の長男に生まれ,軍職についてアメリカ独立戦争に参加して功を立て,フランス革命中には国有地売買で巨万の富を築いたが投獄され,危うくギロチンを免れる。テルミドール反動後の総裁政期に文筆の道に入り,《ジュネーブ住人の手紙Lettres d’un habitant de Gen≡ve ロ sescontemporains》(1802)から《人間科学覚書Mレmoire sur la science de l’homme》(1813)にかけて実証主義を唱え,社会の科学的研究としての〈社会生理学〉の樹立を企てた。王政復古になると現実的・実践的問題に没頭し,《ヨーロッパ社会再組織論 Rレorganisation de la sociレtレeuropレenne》(1814)で今日的な国際連合の設立を説いた。彼の監修による共著《産業L’industrie,ou discussions politiques,moraleset philosophiques》(1816‐18)では〈すべては産業によって,すべては産業のために〉という標語を掲げて,働く人びとの連合としての搾取なき産業体制社会の実現を力説した。さらに《組織者》(1819),《産業体制論 Du syst≡me industriel》(1821‐22)で現代を〈逆立ちした世界〉と規定し,その大転換として産業社会の青写真を描いた。挫折して自殺を試みたが一命をとりとめ,A. コントとの共著《産業者の教理問答 Catレchisme desindustriels》(1823‐24)でプロレタリアの解放を目的とした産業体制の組織を論じ,その精神的・道徳的再武装を遺著《新キリスト教 Nouveauchristianisme》(1925)で説いた。彼の思想は統一に欠けているが天才的洞察に満ち,後世に広範な影響を与え,とくにコントの実証哲学と B. P. アンファンタン,A. バザール,ロドリーグ BenjaminOlinde Rodrigues によって展開されたサン・シモン主義による産業主義の変形としての社会主義,今日の管理社会論,テクノクラシー論などの源泉として注目に値する。⇒空想的社会主義∥実証主義                         森 博

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サン・シモン,C.H.de R.
サン・シモン Claude Henri de Rouvroy, comte de Saint-Simon 1760~1825 フランスの思想家で、初期社会主義の理論家のひとりとされる。フランス有数の名門貴族の家系に生まれる。軍務につき、アメリカ独立革命に参加して自由主義の立場にたった。フランス革命中、土地の投機で巨額の富をなしたが、のちに失敗し文筆の道にはいった。土地の取り引きをとおして資本主義経済や資本主義社会の仕組みを知り、これらを対象とする多数の著作をあらわした。

サン・シモンは、社会を分析するための社会生理学を提唱して、のちの社会学の先駆者となったほか、産業の推進による社会的諸問題の解決、産業人の連帯による貧富の格差の是正などをとなえた。また彼は、資本主義経済の進展にともなう人間関係の混乱を認識して、宗教による連帯の再興をも主張した。

著作は膨大で多様な論点をふくみ、また、かならずしも体系的ではないので、多面的な理解が可能である。弟子たちの中には、インフラ・ストラクチャーの整備による資本主義経済の合理化を強調するグループや、資本主義経済の進展にともなう弊害を告発するグループなどがある。主要な著作に「ジュネーブ住民の手紙」(1802)、「産業者の教理問答」(1823~24)、「新キリスト教」(1825)などがある。→ サン・シモン主義

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スタール夫人
スタール夫人

スタールふじん
Stal,Madame de

[生] 1766.4.22. パリ
[没] 1817.7.14. パリ

  
フランスの女流文学者。本名 Anne Louise Germaine Necker,baronne de Stal-Holstein。ルイ 16世の財務長官ネッケルの一人娘で,早くからその才気によってサロンで注目を浴びた。革命とその後のナポレオンの迫害によって国外に逃れ,スイス,ドイツなどで亡命生活を続け,ナポレオン失脚後に帰国 (1815) 。その間ヨーロッパの一流の知識人と交わり,高い声価を得た。彼女は,文学の第一条件は自由であるとし,特に評論『ドイツ論』 De l'Allemagne (10) においてはロマン主義的なゲルマン文化を紹介して,フランス・ロマン主義の発展に大きく寄与した。ほかに,評論『社会制度との関係において考察した文学について』 De la littrature considre dans ses rapports avec les institutions sociales (1800) ,小説『デルフィーヌ』 Delphine (02) ,『コリンヌ』 Corinne (07) 。





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スタール夫人 1766‐1817
スタールふじん Madame de Sta∫l

フランスの女流文学者。本名 Germaine Necker,baronne de Sta∫l‐Holstein。スイスの出身でルイ16世の財務総監を務めたネッケルの娘としてパリで生まれた。幼少の頃から母のサロンに出席して進歩的なアンシクロペディストの影響を大きく受けた。20歳のときパリ駐在スウェーデン大使スタール・ホルスタイン男爵と結婚し,フランス革命当時は革命の穏和な進行を支持する態度を示した。1800年には,文学を社会的な観点から考察し,またヨーロッパの南方文学と北方文学を対比させた《文学論》を,02年には小説《デルフィーヌ》を出版した。彼女はナポレオンを〈フランス革命の収拾者〉と見て期待をよせた。だが,独裁者ナポレオンは彼女のサロンの反政府的な態度や上記2作の自由主義的な主張に反感をもち,03年には彼女をパリから追放した。これ以後約10年にわたる亡命の生活が始まり,彼女は父の領地コペにサロンを開いたり,ドイツ,イタリア,イギリス等の諸国を訪れたりした。なお夫との仲は結婚後まもなく破綻し,彼女は数多くの男性を愛した。コンスタンとの恋愛からは女性解放主義文学の先駆となった小説《コリンヌ》(1807)が生まれている。また《ドイツ論》(1810。同年発禁)を発表し新しい文学論を展開して,フランス・ロマン主義に大きな影響を与えた。14年ナポレオンの没落とともに帰仏し,パリで死んだ。上記の作品のほかに数多くの論説を発表している。                   嶋 昶

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スタール,G.de
スタール Germaine de Stael 1766~1817 フランスの作家・批評家。一般にはスタール夫人の名で知られる。フルネームはアンヌ・ルイーズ・ジェルメーヌ・バロン・ド・スタール・ホルスタイン。スイスの大銀行家でルイ16世の財務総監をつとめたネッケルの娘としてパリに生まれ、母親のサロンにあつまるアンシクロペディストらの進歩的な自由主義思想にしたしんで成長した。

1786年にパリ駐在のスウェーデン大使スタール・ホルスタイン男爵と結婚。フランス革命では当初、革命支持の姿勢をしめしたが、恐怖政治下にその穏健な立憲君主主義をうとまれてスイスのレマン湖畔コペにしりぞく。その後、一時パリにもどったものの、独裁を批判する姿勢をナポレオンに敵視され、1803年にパリ追放となった。以後10年間の亡命生活では、コペで主宰するサロンにヨーロッパ各地の文人をあつめ、ドイツ、イタリア、イギリスなどを旅して、ゲーテやフィヒテなど、名だたる知識人と親交をむすぶ。

亡命と旅、社交と恋愛にあわただしい生活の中でも、文筆活動はたゆみなくつづけられた。ヨーロッパの南方文学と北方文学を対比して論じた「文学論」(1800)、小説「デルフィーヌ」(1802)、作家コンスタンとの恋愛経験を反映した小説「コリンヌ」(1807)を刊行。「ドイツ論」は1810年の発表時にナポレオンの弾圧で発禁となったが13年にイギリスで出版された。

スタールの文学史上の功績は、まず第一に、ドイツのロマン主義文学理論を吸収し、フランス・ロマン主義の理論的土台をつくったことである。「文学論」と「ドイツ論」では、美の普遍性をとなえる古典主義に対して、時代と国によってさまざまな美がありうることを説き、内面的で情熱的な北方文学の優秀性を主張した。とくに「ドイツ論」は、シュトゥルム・ウント・ドラングからロマン主義の台頭にいたるドイツ文学をはじめてフランスに紹介した書であり、ドイツにならって国民的文学を育成すべきであると提唱して、フランス・ロマン派における中世文学復権のきっかけとなった。さらにこの2著は、社会的・歴史的視点を導入した点で、近代文芸批評の出発点ともいえる。

また、「デルフィーヌ」と「コリンヌ」は、ともにロマン主義的な自我の解放を女性の側から主張し、フェミニズム文学の先駆として同時代の女性たちに多大な影響をあたえた。

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『ドイツ論』
ドイツ論

ドイツろん
De l'Allemagne

  

フランスの女流文学者スタール夫人の評論。 1810年の初版はナポレオンによって破棄され,13年ロンドンで刊行。夫人の2度のドイツ亡命の結果として生れ,ドイツ国民の習俗,文学と芸術,哲学と道徳,宗教と熱情の4部から成る。ロマン的な北方文学の移入を意図し,ロマン主義を土着の文学,古典主義を移植の文学と規定,「シュトゥルム・ウント・ドラング (疾風怒濤時代) 」のゲーテ,シラーなどに代表される理想主義的なドイツ精神の紹介によって,フランス・ロマン主義の形成に決定的な影響を与えた。





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ドイツ論
ドイツろん De l’Allemagne

フランスの女流文学者スタール夫人の評論。1810年に完成・印刷されたが,ナポレオンの政府から発売禁止の処分を受け,13年亡命地のロンドンで出版。ドイツ旅行の見聞の所産で,4部から成り,ドイツ人の習俗,文学,芸術,哲学,道徳,宗教が論じられる。作者はドイツ文化を理想主義的で熱情的なものと見て,社交的で理性的なフランス文化よりも高く評価し,ゲーテ,シラー,カント等の文学者,哲学者を紹介している。その一方《文学論》(1800)ですでに行った南方文学,北方文学の対比を発展させ,北方の〈ロマン的な〉文学であるドイツ文学は,民族精神それ自体から生まれたものであるという点で,ギリシア・ローマの文学を移植・模倣した南方の〈古典主義的な〉フランス文学には見られない多くの長所を持っているという意見を述べている。まもなく出現したフランス・ロマン派の作家たちは,この作品の影響を受けて理想主義や熱情を賞賛し,外国文学の摂取に力を入れるようになった。⇒ロマン主義        嶋 昶

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J.ネッケル
ネッケル

ネッケル
Necker,Jacques

[生] 1732.9.30. ジュネーブ
[没] 1804.4.9. コペー

フランス,ルイ 16世時代の財務総監。 16歳のとき I.ベルネの銀行に雇われ,1762年ベルネの隠退にあたってベルネの甥 P.テリュソンに銀行の共同経営者として抜擢された。公共融資,穀物への投機などによって大財産家となり,68年にジュネーブ市のパリ駐在官となる。 75年 A.テュルゴーの穀物自由貿易政策を批判する論文を書き,77年6月新教徒で外国人であるにもかかわらずルイ 16世に登用され財務総監となった。在職中,国庫財政を建直すため税制の改革を行なったほか,ベリーやオートギュイエンヌに地方三部会を招集した。 81年『財政報告書』 Compte renduを提出し,フランスの財政状態を初めて公表したため,宮廷の攻撃を激しく受けて同年5月辞職。 84年自己の政策を正当化するため『フランス財政論』 Administration des financesを出版。 88年8月 C.カロンヌのあとをうけて財務総監に返り咲き,全国三部会の招集に賛成した。 89年7月第三身分の反抗が高まり宮廷が弾圧策をとるにいたって辞職。バスティーユ攻略後復職したが,革命に順応できず 90年退職。その後は娘のスタール夫人とともにスイスのコペーに引きこもり著述生活に入った。





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ネッケル 1732‐1804
Jacques Necker

スイス生れでパリで活躍した銀行家,政治家。ジュネーブのプロテスタントの家に生まれ,1747年にパリに出て銀行家として成功し,やがて経済理論家としても知られるようになった。その経済思想は,重農学派の自由主義を批判して国家による統制を重視するものであった。77年に財務長官に任じられた彼は,財政の赤字を埋めるために公債政策をとり,租税負担を公平にするために課税方法の改革を試みた。しかし,アメリカ独立戦争への援助などにより財政はさらに窮迫し,公債政策はかえって国家の利子負担の増加を招いたので,行き詰まった彼は81年,《国王への財政報告書》を公表して実状を明らかにするとともに辞任した。84年に刊行した《フランスの財務行政について》は,当時のフランスの経済状態を知るうえで重要である。革命前夜の財政窮迫と政治的対立とが深まるなかで,彼は再び国王によって登用され,88年8月,国務長官になった。その翌年に全国三部会を開くことが決定されていたので,彼は全国三部会の定員や議決方式を第三身分に有利にするよう努力したが,貴族や宮廷の反対に会い,89年7月に罷免された。彼の罷免は民衆を憤激させ,バスティーユ占領のきっかけになった。そこで同月中に国王は彼を復職させたが,彼の努力によっても財政を改善することはできず,翌90年に彼は公職から隠退し,ジュネーブ近郊で死去した。なお,ロマン派の作家として著名なスタール夫人は彼の娘である。            遅塚 忠躬

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ネッケル,J.
ネッケル Jacques Necker 1732~1804 フランスの銀行家、経済学者、政治家。初期ロマン派の作家スタール夫人の父。

ジュネーブの近郊に生まれたスイス人。1747年からパリで銀行業務にたずさわり、62年には自分の銀行を設立して経営にあたった。72年、コルベールの経済政策を評価する論文を書いてパリ・アカデミーの懸賞論文に応募し受賞している。チュルゴーなどの重農主義経済学者が経済の自由化を主張したのに対して、国家による統制の必要性を強調した。

プロテスタント系外国人ではあったが、国王ルイ16世によって1777年に財務長官に任命され、租税制度の改革と公債の発行によって膨大な赤字になやむ国家財政の立て直しをはかった。だが財政の合理化は、国家から年金や俸給をうけて生活する貴族たちの利益に反するものであったため、保守派貴族はネッケルにはげしく反発し、81年に罷免(ひめん)された。

フランス王国の財政が危機的な状況をむかえる中、ネッケルは1788年にふたたび財務長官に任命された。彼は、富裕な者ほど課税をまぬがれる非合理的な税制の改革を主張したため、パリの民衆の間では人気が高かったが、保守派の貴族にはきらわれていた。89年7月11日、国王は王妃マリー・アントワネットや王弟アルトワ伯の主張をいれてネッケルを解職した。このニュースはパリの民衆を憤慨させ、7月14日のパリ民衆によるバスティーユ要塞(ようさい)襲撃をひきおこした。この事件がフランス革命の直接のきっかけとなった。

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B.アンファンタン
アンファンタン

アンファンタン
Enfantin,Barthlemy-Prosper

[生] 1796.2.8. パリ
[没] 1864.9.1. パリ


フランスの社会主義者。空想的社会主義者サン=シモンの後継者として同派を主導。強力な国家権力による能力主義と権威主義に基づく社会的宗教的改革を主張し,キリスト教とイスラム教混合の社会宗教を唱えた。サン=シモン主義者らとメニルモンタンにおいて禁欲的共同生活を営み,教父と呼ばれた。アルジェリアとエジプトに実践の場を求めたが多くは失敗し分裂した。主著『サン=シモンの学説』 Doctrine de Saint-Simon (1829) 。





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アンファンタン 1796‐1864
Barthレlemy‐Prosper Enfantin

フランスの実業家。銀行家の子。1829年,バザールとともにサン・シモン派最高指導者(P≡re,教父の意)となったが,〈自由恋愛〉の聖化などでバザールと対立,その脱退を招いた。その活動は神秘的・宗教的色彩を強めたが,婚姻制度の批判等の女性解放思想が当時の女性解放運動の発展に与えた影響は見逃せない。32年,非合法集会を理由に懲役刑。翌年,新たな活動の地を求めエジプトに向かう。40‐41年,アルジェリア調査に参加。帰国後は鉄道建設事業に従事し,45年リヨン鉄道社長となる。1840年代以後の社会主義運動とは無縁で,ナポレオン3世,第二帝政を支持した。                     赤司 道和

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M.シュバリエ
シュバリエ

シュバリエ
Chevalier,Michel

[生] 1806
[没] 1879

  

フランスの経済学者,政治家。サン=シモン主義者。 1840年コレージュ・ド・フランスの教授。自由貿易論者として 60年の英仏通商条約を推進。同年上院議員となった。





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シュバリエ 1806‐79
Michel Chevalier

フランスの経済学者,サン・シモン主義者。リモージュ生れ。理工科大学出身。ノール県の鉱山技師であったが,1829年ごろからサン・シモン派に接近,同派の機関紙《組織者》(1829‐31)に寄稿をはじめた。七月革命後は,最高指導者アンファンタンに協力し,積極的な活動を展開したが,32年ともに起訴され,1年の懲役判決を受けた。この間,リヨンの絹織物工の蜂起(1831)に際し,労働問題の政治問題化を指摘し,注目を集めた。33年交通網調査のため渡米,帰国後は自由貿易論者として論陣を張り,これが経済発展と労働条件の改善には不可欠であるとした。第二帝政下には,ナポレオン3世の経済政策のブレーンとなり,貿易自由化を推進し,60年イギリス代表コブデンとの間に,英仏通商条約の調印を実現した。国家参事会員,コレージュ・ド・フランスの経済学教授も務めた。                     赤司 道和

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サン=シモン主義
サン=シモン主義

サン=シモンしゅぎ
Saint-Simonisme

  

フランスのユートピア社会主義者サン=シモンの影響を受けた思想家の倫理と論理体系。おもに第二帝政の政策立案者,実践者の思想にみられる。その特徴は第1に,技術者優位の産業主義の理念と具体案を相即させる実践性にあり,ペレール兄弟,G.オースマン,M.シュバリエらにみられ,第2に政治的,倫理的にも根本変革と理想郷を求める方向であり,B.アンファンタンがその代表である。その権威主義と能力主義の思想傾向は第二帝政の政治秩序に適合し,ナポレオン3世自身も「馬上のサン=シモン」といわれた。





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サン・シモン主義
I プロローグ

サン・シモン主義 サンシモンしゅぎ Saint-Simonisme フランスの社会思想家であるサン・シモンの死後、アンファンタンやバザール、ロドリーグらによって、彼の思想を継承、発展させるために結成された一派の思想的立場のこと。かならずしも、サン・シモンの思想を忠実にうけついでいるわけではない。

II サン・シモンの思想

ナポレオンの帝政期に実証主義をとなえ、社会を科学的に研究する社会生理学の必要性を主張したり、王政復古期に、ヨーロッパ社会の再組織化をもくろんで、国際連合の設立を説いたりしたサン・シモンの思想は、常に一貫性を保持していたわけではなかったが、労働者階級に対する搾取への批判や、産業社会の改革論などによって、後年、空想的社会主義の主導者のひとりとみなされるにいたる側面をふくんでいた。

III アンファンタンらの活動

サン・シモンのそうした思想的側面の発展をめざしたアンファンタンらは、「生産者」「組織者」「地球」などの機関誌を発行したり、公開講演会を主催したりして、その思想の普及につとめ、七月王政下のフランスのみならずヨーロッパ各国に、大きな思想的な衝撃をもたらした。

IV 思想の限界と影響

サン・シモン主義の内容は多岐におよんでおり、たとえば、私的所有についての見直しや、資本と労働との関係についての考察、労働者および女性の解放の主張などをおこない、それにより今日の社会主義運動やフェミニズムの先駆的な位置付けをあたえられている一方では、フランスにおける産業化の高度な推進に対しても積極的に寄与する側面をもっていた。

ところで、エンゲルスが、こうしたサン・シモン主義の活動を「空想的」社会主義とよんだのは、資本主義社会の矛盾を指摘しておりながら、矛盾の科学的な解明がなされなかったことと、社会主義の担い手となるべきプロレタリアートの存在に対する認識が欠如していたからであった。しかしながら、それは、当時の資本主義がいまだじゅうぶんに成熟していなかったせいであり、ある意味ではやむをえないことだった。

V 分裂と衰退

なお、サン・シモン主義者たちは、意見の対立や当局からの弾圧のもとで分裂するにいたり、その思想的な影響力は急激におとろえた。中心的な指導者であったアンファンタンは、その後、運動からしりぞき、鉄道の敷設や土木工事に従事してスエズ運河の建設工事にくわわるとともに、アルジェリアの探検にも参加した。

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絵本のまち有田川

 自然数は、[絵本]「もろはのつるぎ」で・・・
by 絵本のまち有田川 (2020-01-12 13:05) 

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