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時計から始まる機械論(その12) [宗教/哲学]

J.ロック
ロック

ロック
Locke,John

[生] 1632.8.29. ブリストル近郊リントン
[没] 1704.10.28. オーツ

イギリスの哲学者。啓蒙哲学およびイギリス経験論哲学の祖とされる。オックスフォード大学で哲学と医学を学び,シャフツベリー伯の知遇を得て同家の秘書となったが,同伯の失脚とともに 1683年オランダに亡命。彼は認識の経験心理学的研究に基づいて悟性の限界を検討し,知識は先天的に与えられるものではなく経験から得られるもので,人間は生れつき「白紙」 (→タブラ・ラサ ) のようなものであると主張して本有観念を否定した。さらにこの考えを道徳や宗教の領域にも応用し,道徳においては快楽説,宗教においては理神論の先駆となった。政治論においてはホッブズの自然法思想を継承発展させ,当時の王権神授説を批判し,社会契約による人民主権を主張した。主著『人間悟性論』 An Essay Concerning Human Understanding (1690) ,『統治二論』 Two Treatises of Government (90) 。

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[ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 2008]

ロック 1632‐1704
John Locke

ホッブズとともに17世紀のイギリスを代表する哲学者。その決定的な影響力のゆえに,〈17世紀に身を置きながら18世紀を支配した思想家〉(丸山真男)とも評される。サマセット州リントンに生まれ,ピューリタニズムに基づく家庭教育を受けた後,ウェストミンスター校からオックスフォードのクライスト・チャーチに進む。その間,医学や自然科学に深い関心をもち,またガッサンディやデカルトの哲学に強い影響を受ける。1659年から64年にかけて《世俗権力二論》《自然法論》を,67年に《寛容論》を執筆。同年,後のシャフツベリー伯宅に寄寓,以後彼の腹心として行動をともにする。71年,《人間知性論》に着手。チャールズ2世とシャフツベリーとの対立が先鋭化した〈王位排斥法案をめぐる危機〉の最中,80年前後に《統治二論》を執筆。83年身の危険を感じてオランダに逃亡し,名誉革命直後の89年に帰国するまで亡命生活を送る。後年,89年と93年にそれぞれ刊行された《寛容書簡》や《教育に関する若干の考察》は,この亡命生活の所産にほかならない。帰国後は,新体制に参画する一方,89年に《統治二論》《人間知性論》を,95年に《キリスト教の合理性》を公刊し,時代を代表する思想家として圧倒的な名声を確立した。それとともに,寛容や神学をめぐる論争に巻き込まれたが,晩年はマシャム夫人の保護の下に比較的平穏な日々を送り,エセックス州オーツで死去。未完に終わった《パウロ書簡蔦釈》が〈学者〉としてのその最後の仕事であった。
 こうした経歴の中で形成されたロックの思想は,その一貫性を疑わせるような複雑な構造をもっている。第1に,認識論,道徳哲学,政治学,宗教論等彼が理論化した各ジャンル相互の関係が必ずしも明確ではないからであり,しかも第2に,各ジャンルの内部で視点に重要な変化がみられるからである。二大主著《人間知性論》と《統治二論》との架橋が困難な事実は第1の例であり,認識論の内部で独断論から不可知論への,政治学の内部で権威主義から自由主義への視座の転換がみられるのは第2の例にほかならない。しかし,こうした複雑さをもつにもかかわらず,ロックの思想は,全体として,一つのきわめて単純な宗教的枠組みの中で展開されたということができる。激動する時代状況の中で解体した人間の善き生の条件=規範を,神の意志に照らして再確認しようとする一貫した関心がそれである。事実,この関心は,ロックの多様な思想ジャンルの結節環であった。その認識論は〈啓示宗教と道徳原理〉の認識論的基礎づけを,その道徳論は〈神と同胞への義務〉の論証を,その政治学は政治の世界における人間の義務の探究を,その宗教論は聖書によるそれらの義務の確証をそれぞれ意図したものであったと考えられるからである。もとよりその場合,ロックが前提とした人間像は〈合理的で勤勉な〉主体,自己判断に従ってみずからを規律する自律的な個人であった。ロックの思想にみられる一連の特徴,すなわち,認識論における生具観念の否定と経験の重視,政治学における労働・自然権・政治社会を作為する人間のイニシアティブ・抵抗権の強調,寛容論における宗教的個人主義への傾斜は,すべて主体的な人間のあり方を前提にしたものにほかならない。その点で,例えば,ロックの認識論が自律的な人間の能力を内観し批判した近代認識論の出発点とされ,またその政治学が,〈人間の哲学〉を政治認識に貫いた近代政治原理の典型とされるのは決して不当ではない。しかし,同時に注意すべき点は,ロックにおいて,人間の自律性,人間の自由が,つねに神に対する人間の義務と結びついていたことである。ロックにとって,人間は,〈神の栄光〉を実現すべき目的を帯びて創造された〈神の作品〉であり,したがってその人間は,何が神の目的であるかを自律的に判断し,自己の責任においてそれを遂行する義務を免れることはできないからである。その意味で,世界を支配する神の意志と人間の自律性とが矛盾せず,むしろ両者の協働の中で,思考し,政治生活を営み,信仰をもつ人間の生の意味を規範的に問い続けた点に,ロックの思想の基本的な特質があったといえるであろう。⇒イギリス経験論
                         加藤 節

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ロック,J.
I プロローグ

ロック John Locke 1632~1704 経験主義を創始したイギリスの哲学者。

サマセット州リントンに生まれる。オックスフォード大学にまなび、1661~64年に同大学でギリシャ語、修辞学、道徳哲学をおしえる。67年イギリスの政治家アンソニー・アシュリ・クーパー、のちの初代シャフツベリー伯との交際がはじまり、その友人、助言者、家庭医として、シャフツベリー伯から一連の官職をあたえられる。69年に公務のひとつとして、北アメリカのイギリス植民地カロライナの地主たちのための法律を起草したが、実施されなかった。

1675年リベラル派のシャフツベリー伯の失脚にともない、持病のぜんそくの治療のためフランスにわたった。79年イギリスに帰国するが、チャールズ2世のローマ・カトリック優遇政策に反対し、83年オランダに逃亡。名誉革命直後の89年までこの地にとどまる。96年に新国王ウィリアム3世により通商弁務官に任命され、1700年に健康上の理由で辞職するまでこの地位にあった。04年10月28日、エセックス州オーツにて死去した。

II 経験主義

ロックの経験主義は、知識の探究において、直観的思弁や演繹よりも感覚経験の重要性を強調する。経験主義的学説を最初に擁護したのは、17世紀初頭のフランシス・ベーコンだが、ロックは「人間知性論」(1689)において、この学説に体系的な表現をあたえた。彼は、生まれたばかりの人間の心はタブラ・ラサ(なにも書かれていない板)であり、そのうえに経験によって知識がきざみつけられていくのだと考え、直観も生得観念の理論も信じない。ロックはまた、人間はすべて生まれつき善であり、自立的であり、平等であると主張する。→ 認識論:西洋哲学

III 政治理論

ロックは「統治二論」(1689)において、ホッブズが考えるような王権神授説や自然状態を攻撃した。ロックによれば、主権は国家にではなく市民にあり、国家が至高のものであるのは、それが市民といわゆる自然法によって拘束されている場合だけである。自然権、財産権、政府がこれらの権利を保護する義務、多数決原理などについてのロックの思想の多くは、のちにアメリカ独立宣言や合衆国憲法に具体化される。

またロックは、革命は権利であるばかりか義務でさえあるとし、さらに統治における三権分立を主張した。彼は権力の乱用をふせぐために国家の統治権を立法権・行政権・連合権の3つに区別し、そのなかでも立法権を上位においた。彼はまた、信仰の自由や、教会と国家の分離も主張した。

近代哲学におけるロックの影響はきわめて大きい。ロックは、経験的分析を倫理学、政治学、宗教に適用したことによって、もっとも重要で議論の的となる哲学者でありつづけている。上記のほかに、「教育論」(1693)、「聖書に述べられたキリスト教の合理性」(1695)などの著書がある。

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D.ヒューム
ヒューム

ヒューム
Hume,David

[生] 1711.5.7. エディンバラ
[没] 1776.8.25. エディンバラ

  

スコットランドの外交官,歴史家,哲学者,政治および経済思想家。エディンバラ大学に学んだ。 1734~37年フランスに滞在し,『人性論』A Treatise of Human Nature (1739~40) をまとめた。 44年エディンバラ大学,51年グラスゴー大学に職を求めたが,いずれも無神論の疑いでいれられなかった。 52年エディンバラ弁護士会図書館司書,63年駐フランス大使の秘書,67~69年国務次官をつとめたのち,エディンバラに引退した。哲学的には,ロック,バークリーと展開したイギリス経験論を徹底化し,因果法則をも習慣の所産であるとし,あらゆる形而上学的偏見の排除を試みた。主著『道徳の原理論』 An Enquiry Concerning the Principles of Morals (51) ,『人間悟性論』 An Enquiry Concerning Human Understanding (58) 。


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ヒューム 1711‐76
David Hume

18世紀のイギリスを代表するスコットランド出身の哲学者。その多面的な思考活動のうち,従来は,懐疑論に基づく独断的形而上学批判,宗教現象の実証的分析,社会契約説批判,歴史主義的思考態度などの側面がとくに注目されてきたが,最近では,むしろ A. スミスやスコットランド啓蒙思想(スコットランド学派)との関連を重視する立場から,近代〈市民社会〉の存立メカニズムを経験科学的に解明した思想家として評価しようとする傾向が有力になっている。
 ヒュームはスコットランド南東部ベリクシャーのナインウェルズに生まれた。父親はジェントリー階層に属する弁護士であり,母方の祖父もスコットランド高等法院長の重責をになう法曹であった。1723年からほぼ2年間,エジンバラ大学で古典とともにロックやニュートンの〈新しい学問〉を学ぶ。18歳ころ,おそらく神の存在を因果律によって論証する伝統的立場への深刻な疑問を媒介として〈思想の新情景〉を経験し,以後ヒュームは,ニュートンの自然学とロックの認識論とを主たる導きの糸としながら〈真理への一つの新しい手段〉の探究に着手することになる。その最初の成果が,34年から37年まで滞在したフランスで執筆され,39年と40年とにロンドンで出版された《人間本性論》であった。その後精力的な執筆活動を続け,41年から62年までに,《人間本性論摘要》《道徳・政治論集》《人間知性研究》《政治論叢》《イギリス史》や,〈宗教の自然史〉を含む《小論文四篇》などを次々と刊行,思想家としての地位を不動のものとする。しかしその間,伝統神学に否定的な宗教思想のゆえに,エジンバラ,グラスゴーの両大学から教授就任を拒否され,職業的学者になる機会を失う。46年から48年にかけてセント・クレア(シンクレア)将軍の大陸遠征に随行。52年エジンバラ法曹会図書館司書,63年駐仏大使ハートフォード縁秘書,65年には代理大使を務める。66年ルソーを伴って帰国し保護に努めるが,ルソーから誹謗の張本人と誤解され確執に悩む。67年国務次官の職に就いた後,69年以降はエジンバラに定住,指導的文筆家として満ち足りた晩年を送る。宗教思想上の主著《自然宗教をめぐる対話》が刊行され,ヒュームの思想の全貌が明らかになったのは,死後3年を経た79年のことであった。
 こうした経歴の中で形成されたヒュームの思想は多様な主題を扱っており,統一的な理解は必ずしも容易ではない。しかしヒュームが全体として何を意図したかに注目する限り,彼の思想に一貫する関心は比較的明瞭である。人間が営む日常的な経験世界の〈観察〉を通して確実な〈人間性の原理〉を解明し,その〈人間の学〉の上に〈諸学問の完全な体系〉を確立しようとの意図がそれであって,処女作《人間本性論》で宣言されたこの立場こそ,ヒュームの全思考活動を貫く方法であり目的であった。標語〈人間的事象 moral subjects に実験的推論方法 experimental method ofreasoning を導入する試み〉とともに有名なこうした意図との関連において,ヒュームの思想は包括性,実証性,歴史性の三つの大きな特質をもつことになる。
 上にみたように,ヒュームの思想の対象は,所与としての人間が営む経験的世界であった。したがってその思想は,この経験世界を構成する多様な人間的事実,端的に,知性,情念,道徳感情をもち,政治,宗教,学芸を営む全人間的事象を覆う包括性を帯びざるをえない。その意味で,ヒュームの思想の包括性は人間的事象の多様性に対応するものであった。しかも,ヒュームの場合,そうした全人間的事象からの帰納によって導かれる〈人間性の原理〉や〈諸学問の体系〉は,いっさいの抽象的独断や先験的実体化を拒否する実証性をもつことになる。〈経験と観察〉を重視するヒュームにとって,それらの知識は,原理上経験の範囲を超えることはできず,したがってまた経験的事実による検証に耐えうるものでなければならなかったからである。
 ヒュームの思想を貫くそうした実証性は,例えば,彼の懐疑論が経験的事実としての人間の可呈性の認識論的反省として成り立ち,それによって,常識的な経験知への信頼の上に習慣的な観念の連合に高い蓋然性を与える視点が導かれ,人間本性に付随する道徳感情に即して道徳の事実学が展開された点からうかがうことができるであろう。しかも,こうした実証性の系として,ヒュームの思想は豊かな歴史性をもつことになる。彼の思想の対象が時間的に限定された所与としての経験世界であった限り,それはまた,人類の多様な経験がいわば重層的に蓄積された歴史世界以外の何物でもなかったからである。ヒュームにおいて,国家の歴史的起源が共通利害の一般的な感情の事実性に求められ,多神教から一神教へと発展した宗教の〈自然史〉が解明され,歴史の動態の中で国家から自立した〈社会 civilsociety〉の運動法則が私的利害を公共善へと媒介する〈共感〉の作用に見いだされている事実は,ヒュームの思想がいかに強く歴史性に貫かれているかを示すものにほかならない。しかも,こうした実証的な歴史的性格のゆえに,ヒュームの思想は,イギリス経験論をロック的な内観の哲学から経験科学の基礎学へと大きく転回させることになった。ヒュームの関心は人間が営む多様な経験的現実の存立構造に向けられていたからであって,〈在るところのもの〉の了解の哲学として一見保守的なヒュームの思想の積極的意義はまさにそこに求められるであろう。ヒュームと A. スミスとの関係が問われるゆえんにほかならない。
                         加藤 節

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ヒューム,D.
I プロローグ

ヒューム David Hume 1711~76 懐疑主義と経験主義の発展に貢献した哲学者。スコットランドに生まれ、12歳でエディンバラ大学に入学した。病弱で、しばらく商業に従事したのち、フランスにわたった。

II 生涯と著作

ヒュームはフランスで、1734~37年にかけて思弁哲学の問題に没頭し、その原稿をイギリスにもちかえり、もっとも重要な著作である「人性論」(1739~40)を出版した。しかし、この著作は不評で、彼の言い方によれば、「死産」であった。

ヒュームは「人性論」出版のあと、倫理学と政治経済学の問題に注意をむけ、「道徳・政治論集」(全2巻。1741~42)を刊行し、好評をえた。信仰に懐疑的との理由で、エディンバラ大学の教授就任を拒否されたのち、アナンデイル侯爵の家庭教師となった。1746年、イギリス軍のブルターニュ遠征に法務官として従軍。48年、「人間知性の探求」を発表した。

1 ルソーとの交友と絶交

1751年、エディンバラに居をさだめる。52年、「道徳原理研究」を発表。大学教授の就任にふたたび失敗し、エディンバラ法曹会図書館の司書となる。54~62年にかけて「イギリス史」を刊行。62~65年パリのイギリス大使館秘書をつとめ、同地の文学サークルで歓迎され、ルソーと知りあう。

迫害の脅威にさらされていたルソーをイギリスにつれかえるが、ルソーから迫害計画の張本人と誤解され、絶交する。1767~68年ロンドンで国務次官をつとめたのち、エディンバラに隠棲(いんせい)し、この地で没した。79年、「自然宗教をめぐる対話」が死後出版される。

III 思想的特徴

ヒュームの哲学思想は、イギリスの哲学者ロックとバークリーの影響をうけている。ヒュームもバークリーも、理性と感覚を区別する。しかし、ヒュームは、理性と理性的判断はさまざまな感覚や経験のたんなる習慣的な連合にすぎないという大胆な見解を提出する。

1 形而上学と認識論

ヒュームは因果律という基本的な観念を否定して、こう主張する。「理性は対象相互間の連関をしめすことができない。したがって、ある対象の観念ないし印象から別の対象のそれに心がうつる場合、この移行は理性によってではなく、これらの対象の観念を連合し、想像力において統一するある原理によって規定されている」。ヒュームによる因果律の否定は、科学的法則の否定をふくんでいる。科学的法則は、ある事象は別の事象を必然的にひきおこすという一般的な前提にもとづいているからである。こうしてヒュームは、事実の認識は不可能であることを説く。

とはいえ、実際問題としては人は原因と結果によってものを考えざるをえず、自分の知覚の妥当性を前提とせざるをえないことは、ヒュームもみとめる。そうでなければ、人は気がくるってしまうだろう。

ヒュームの懐疑主義は、バークリーが要請するような精神的実体も、ロックの「物質的実体」も否定する。それどころか、彼は個人の自己の存在までも否定する。人は独自な存在としての自分についての知覚をつねにもつわけではなく、自我とは「知覚の束」にすぎない。

2 倫理学と経済史的思想

ヒュームは、善と悪の概念は合理的なものではなく、自分の幸福への関心から生まれると主張する。彼の見解によれば、最高の道徳的善は博愛、つまり利他的な社会福祉の尊重である。

歴史家としてのヒュームは、戦争と国事の年代記的報告という伝統的な歴史記述をやめて、イギリス史においてはたらく経済的知的要因を記述しようとした。「イギリス史」は長く古典とされた。

ヒュームは、富は貨幣ではなく商品にもとづくという思想を展開して、経済に対する社会情勢の影響をみとめ、その経済理論によってアダム・スミスとその後の経済学者に影響をあたえた。

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G.バークリー
バークリー

バークリー
Berkeley,George

[生] 1685.3.12. キルケニー
[没] 1753.1.14. オックスフォード

  

イギリスの哲学者,聖職者。 1700年ダブリンのトリニティ・カレッジに入り,07年以後同カレッジ研究員。『視覚新論』 Essays towards a New Theory of Vision (1709) や主著となった『人知原理論』A Treatise concerning the Principles of Human Knowledge (10) を著わした。 13年ロンドンに出て,J.スウィフト,A.ポープらと交わり,2度にわたってフランス,イタリアなどに遊学し,21年ダブリンに帰った。 29年植民者と北アメリカ先住民の教化のための大学をバミューダに設立すべく新大陸に渡ったが失敗して 31年帰国。 34年クロインの監督となり,著述と司牧に専念した。彼の思想は同時代には多くの賛同を得なかったが,死後にスコットランド学派 (→常識哲学 ) や D.ヒューム,J.S.ミルを経て 20世紀の経験論にまで大きな系譜を残している。





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バークリー 1685‐1753
George Berkeley

イギリスの哲学者。ロック,D. ヒュームらとともにイギリス経験論の伝統に連なる。アイルランドの生れで,一生アイルランドとの縁が深かったが,彼の家系はイングランドの名門貴族につながり,信仰の面でもきわめて敬虔な国教徒であった。ダブリンのトリニティ・カレッジで助祭に任命されて以来,聖職を離れたことがなく,30歳代には新大陸での布教を志し,バミューダ島に伝道者養成の大学を建設するため奔走した。政府の援助が続かず計画は挫折したが,1734年にはアイルランドのクロインの司教に任ぜられ,教区の住民に対する布教,救貧,医療に力を尽くした。哲学の著作としては20歳代半ばに発表した《視覚新論》(1709)と《人知原理論》(1710)がとくにすぐれている。しかしこの2著で展開された非物質論の哲学にしても,近代科学の〈物質〉信仰を無神論と不信仰の源とみなし,これに徹底的な批判を加えたもので,背後には護教者の精神が一貫して流れている。
 そのころバークリーが熱心に研究したのはマールブランシュとロックの哲学であるが,いずれに対しても自主独立の態度を持し,むしろふたりの学説を批判的に克服することで独自の立場を築いている。《視覚新論》では当時学界の論題であった視覚に関する光学的・心理学的な諸問題に独創的な解釈を施しつつ,非物質論の一部を提示している。彼によれば視覚の対象は触覚の対象とはまったく別個で,色や形の二次元的な広がりにすぎず,外的な事物と知覚者の間の距離は視覚によっては直接に知覚できない。対象のリアルな大きさ,形,配置なども同様である。われわれが視覚でこれらを知るのは,過去の経験を通じて両種の観念の間に習慣的連合(観念連合)が成立しているからで,デカルトやマールブランシュが説くように幾何学的・理性的な判断の働きによるのではない。全体として,数学的・自然科学的な概念構成の世界から日常的な知覚の経験に立ち返り,その次元で存在の意味を問いなおそう,というのがこの書の基本精神である。一方,《人知原理論》では,視覚対象は〈心の中〉に存在するにすぎないという前著の主張が知覚対象の全体に広げられ,〈存在するとは知覚されること(エッセ・エスト・ペルキピ esse est percipi)〉という命題が非物質論の根本原理として確立される。何ものも〈心の外〉には,すなわち知覚を離れては存在しないとすれば,もはや〈物質的実体〉の存在を認める余地はない,というのである。《人知原理論》は現象主義的な認識論の古典とみなされているが,バークリー自身の哲学は〈観念すなわち実在〉の主張で終わるものではなかった。むしろ観念とはまったく別個な,あらゆる観念の存在を支える〈精神的実体〉こそ真実在である,というところにその眼目がある。バークリーにとって,世界は究極的には神の知覚にほかならない。          黒田 亘

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バークリー,G.
バークリー George Berkeley 1685~1753 アイルランドの哲学者、牧師。近代観念論の創始者のひとり。物質は精神から独立に存在しえないと主張した。いっぽう、感覚現象は、人間の精神につねに知覚をよびおこす神の存在を前提とするとも考えた。

アイルランドのキルケニに生まれ、ダブリンのトリニティ・カレッジにまなび、1707年このカレッジの特別研究員となった。1710年、「人知原理論」を出版。その理論があまり理解されなかったために、その通俗版である「ハイラスとフィロナスの3つの対話」(1713)を出版したが、この両著作における彼の哲学的主張は、生前にはほとんど評価されなかった。しかし、24年デリー大聖堂首席牧師に任じられ、聖職者としてはますます有名になっていった。

1728年に渡米し、バミューダ島にアメリカのわかい植民者と先住民族の人々を教育するための大学を建設しようとした。この計画は32年に放棄されたが、バークリーはアメリカの高等教育の向上につとめ、エール、コロンビアその他の大学の発展に貢献した。34年、クロインの司教となり、引退するまでこの地位にとどまった。

バークリーの哲学は、懐疑主義と無神論に対する回答である。彼によれば、懐疑主義は経験ないし感覚が事物から切りはなされるときに生じる。そうなれば、観念を介して事物を知る方法はなくなるからである。この分離を克服するには、存在するとは知覚されることである、ということがみとめられねばならない。知覚されるものはすべて現実のものであり、知覚されるものだけが、その存在を知られうる。事物は観念として心の中に存在する。

しかし他方、バークリーは、事物は人間の心と知覚から独立に存在するとも主張する。というのも、われわれは自分がもつ観念を自由に変更することはできないからである。この矛盾を解決するために、彼は神のような無限に包括的な精神を要請し、この神の知覚があらゆる感覚的事実を構成すると考える。

バークリーの哲学体系は、物質的外界の認識の可能性をみとめない。彼の哲学体系そのものはほとんど後継者をもたなかったが、独立した外界と物質の概念を主張する根拠に対するその批判には説得力があり、その後の哲学者に影響をあたえた。上記以外の著書に、「視覚新論」(1709)、「サイリス」(1744)などがある。


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イギリス経験論
イギリス経験論

イギリスけいけんろん
British empiricism

  

合理論と拮抗する形で 17~18世紀のイギリスに現れた哲学思潮。哲学史的分類としては,大陸合理論,ドイツ観念論などに対して用いられる。すべての哲学概念の有効性を人間経験の裏づけから判断するもので,一般にロックを確立者とするが,淵源はすでにフランシス・ベーコンやアイザック・ニュートンにある。この説はロック以後バークリー,ヒュームおよびその後継者により展開された。その関心事は,(1) 観念の起源,(2) 真実の可能性の探究にあった。ロックは当時の本有観念説に反対し,心は元来白紙 (→タブラ・ラサ ) で,その内容は感覚と反省から得られると説いた。この傾向は,「在るとは知覚されること (エッセ・エスト・ペルキピ ) 」であるとするバークリーの主観的観念論に展開され,さらには認識の形而上学的客観性を否定するヒュームの不可知論にいたった。このような人間の合理性の権利を主張する考えは,当時の市民社会形成の基盤ともなり,フランス革命を思想的に準備し,ドイツではカント哲学を生み出した。





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イギリス経験論
イギリスけいけんろん British empiricism

多くの場合,大陸合理論と呼ばれる思想潮流との対照において用いられる哲学史上の用語。通常は,とくにロック,G. バークリー,D. ヒュームの3人によって展開されたイギリス哲学の主流的傾向をさすものと理解されている。通説としてのイギリス経験論のこうした系譜を初めて定式化したのは,いわゆる常識哲学の主導者 T. リードの《コモン・センスの諸原理に基づく人間精神の探究》(1764)とされているが,それを,近代哲学史の基本的な構図の中に定着させたのは,19世紀後半以降のドイツの哲学史家,とりわけ新カント学派に属する哲学史家たちであった。とくに認識論的な関心からカント以前の近代哲学の整理を試みた彼らの手によって,ロック,バークリー,ヒュームと続くイギリス経験論の系譜は,デカルト,スピノザ,ライプニッツ,C. ウォルフらに代表される大陸合理論の系譜と競合しつつ,やがてカントの批判哲学のうちに止揚された認識論上の遺産として,固有の思想史的位置を与えられたからである。その場合,例えば,ロックの認識論がカント自身によって批判哲学の先駆として高い評価を与えられた事実や,ヒュームの懐疑論がカントの〈独断のまどろみ〉を破ったと伝えられるエピソードは,そうした通説にかっこうの論拠を提供するものであった。
 確かに,イギリス経験論の代表者をロック,バークリー,ヒュームに限りつつ,それを,大陸合理論との対照において,あるいはカント哲学の前史としてとくに認識論的観点から評価しようとする通説は,次の2点でなお無視しえない意味をもっている。第1点は,ロックからバークリーを経てヒュームに至るイギリス哲学の系譜を,感覚的経験を素材として知識を築き上げる人間の認識能力の批判,端的に認識論の発展史と解することが決して不可能ではないことである。ロックの哲学上の主著が《人間知性論》であるのに対して,バークリーのそれが《人知原理論》と名付けられており,ヒュームの主著《人間本性論》の第1編が知性の考察にあてられている事実は,バークリーとヒュームとの思索が,ロックによって設定された認識論的な問題枠組の中で展開された経緯をうかがわせるであろう。そこにまた,先述のリードが,ロック,バークリー,ヒュームを懐疑論の発展史的系譜の中に位置づけた主要な理由もあったのである。
 従来の通説がもつ第2の意義は,それが,大陸合理論とイギリス経験論との対比,カント哲学によるそれら両者の統合という図式を提示することによって,錯綜した近代哲学史の動向を描き分けるのに有効な一つのパースペクティブを確立したことである。思想の歴史を記述する場合,個々の思想家を一定の歴史的構図の中に配置して時系列における相互の位置関係を確定する作業が,いわば方法的に不可欠であると言えるからである。
[経験的世界の解明]  けれども,ウィンデルバントの言う〈近代哲学の認識論的性格〉を極度に強調しつつ,イギリス経験論の系譜を認識論の発展史と解してきた従来の傾向は,イギリス経験論の成果をあまりにも一面的にとらえすぎていると言わなければならない。例えば,イギリス経験論の確立者と評されるロックの思想が,人間の経験にかかわるきわめて多様な領域を覆っている点に象徴されているように,イギリス経験論がその全行程を通して推し進めたのは,単に狭義の認識論の理論的精緻化ではなく,むしろ,人間が営む経験的世界総体の成り立ちやしくみを見通そうとする包括的な作業であったと考えられるからである。しかも,このように,イギリス経験論を,人間の経験とその自覚化とにかかわる多様な問題を解こうとした一連の思想の系譜ととらえる場合,そこには,その系譜の始点から終点へのサイクルを示す思想の一貫した動向を認めることができる。端的に,人間と自然との交渉のうちに成り立つ自然的経験世界の定立から,人間の間主観的相互性を通して再生産される社会的経験世界の発見に至る経験概念の不断の拡大傾向がそれである。こうした動向に注目するかぎり,イギリス経験論の歴史的サイクルは,通説よりもはるかに長く,むしろ F. ベーコンによって始められ,A. スミスによって閉じられたと解するほうがより適切であると言ってよい。その経緯はほぼ次のように点描することができる。
 周知のように,〈自然の奴隷〉としての人間が,観察と経験とに基づく〈自然の解明すなわちノウム・オルガヌム〉を通して〈自然の支配者〉へと反転する過程と方法とを描いたのは,〈諸学の大革新〉の唱導者ベーコンである。力としての知性をもって自然と対峙する人間精神の自立性を確認し,自然的経験世界における人間の主体的な自己意識を確立したベーコンのこの視点は,イギリス経験論に以後の展開の基本方向を与えるものであった。その後のイギリス経験論は,自然的経験世界に解消されえない経験領域の存在と,その世界を認識し構成する人間の能力との探究を促された点で,明らかにベーコンの問題枠組を引き継いでいるからである。その問題に対する最初の応答者は,ホッブズとロックとであった。彼らは,ともに,国家=政治社会を人間の作為とし,人間の秩序形成能力を感性と理性との共働作用のうちに跡づけることによって,自然的経験領域とは範疇的に異なる人間の社会的経験世界のメカニズム,その存立構造を徹底的に自覚化しようとしたからである。けれども,彼らが理論化してみせた社会的経験世界は,たとえ人間の行動の束=状態として把握されていたとしても,なお,現存の社会関係に対置された als ob,すなわち〈あたかもそうであるかのごとき〉世界として,現実の経験世界それ自体ではありえなかった。彼らが,人間の行為規範として期待した自然法は,あくまでも理性の戒律として,現実の人間を動かす経験的な行動格率には一致せず,また,彼らが人間の行動原理として見いだした自己保存への感性的欲求は,どこまでも単なる事実を超えた自然権として規範化されていたからである。
 〈道徳哲学としての自然法〉に支えられた規範的な経験世界を描くにとどまったホッブズとロックとに対して,人間の主観的な行動の無限の交錯=現実の社会的経験世界のメカニズムを見通す哲学的パラダイムを提示したのがバークリーであり,ヒュームであった。バークリーが,〈存在とは知覚されたものである〉とする徹底した主観的観念論によって,逆に他者の存在を知覚する主観相互の〈関係〉を示唆したのをうけて,ヒュームは,人間性の観察に基づく連合理論によって,個別的な主観的観念をもち,個別的な感性的欲求に従って生きる人間が,しかも,全体として,究極的な道徳原理=〈社会的な有用性〉〈共通の利益と効用〉に規制されて間主観的な関係を織り成している経験的,慣習的な現実への通路を見いだしたからである。もとよりこれは,道徳哲学を,超越的規範の学から人間を現実に動かす道徳感覚の理論へと大胆に転換させたヒュームにおいて,権力関係を含む国家とは区別される社会,すなわち,個別的な欲求主体の間に成り立つ間主観的な関係概念としての社会が発見され,その経験的認識への途が準備されたことを意味するであろう。
 ヒュームのそうした視点をうけて,〈道徳感情moral sentiment〉に支えられた人間の間主観的相互性を原理とし動因として成り立つ社会のメカニズム,その運動法則を徹底的に自覚化したのが言うまでもなくスミスであった。彼は,有名な〈想像上の立場の交換〉に基づく〈同感 sympathy〉の理論によって,主観的な欲求に支配され,個別的な利益を追求する経験主体の行動の無限の連鎖=社会が,しかも調和をもって自律的に運動し再生産されていく動態的なメカニズム,すなわち社会の自然史的過程を解剖することに成功したからである。もとよりこれは,ベーコン以来,人間が営む経験的世界総体の自覚化作業を推し進めてきたイギリス経験論が,現実の経験世界への社会科学的視点を確立したスミスによってその歴史的サイクルを閉じられたことを意味するものにほかならない。しかも,人間の経験的世界は,それが,どこまでも経験主体としての人間によって構成される世界であるかぎり,必ず歴史的個体性を帯びている。したがって,そうした経験的世界の構造を一貫して見通そうとしてきたイギリス経験論は,実は,イギリスの近代史がたどってきた歴史的現実それ自体の理論的自覚化として,明らかに,固有の歴史性とナショナリティとをもったイギリスの〈国民哲学〉にほかならなかった。その意味において,イギリス経験論の創始者ベーコンが,イギリス哲学史上初めて母国語で《学問の進歩》を書き,また,その掉尾を飾るスミスの主著が《国富論(諸国民の富)》と題されていたのは,けっして単なる偶然ではなかったのである。        加藤 節

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ボルテール
ボルテール
I プロローグ

ボルテール Voltaire 1694~1778 フランスの文学者・思想家。本名はフランソワ・マリ・アルーエ。詩と悲劇、歴史書、批評、小説から書簡にいたる多彩なジャンルに実績をのこした。啓蒙の世紀18世紀が「ボルテールの世紀」ともいわれるように、現代のわれわれにとって、ボルテールはまず第一に代表的啓蒙思想家である。しかし、同時代人にとってのボルテールは、なにより当代一の詩人であり古典主義悲劇(→ 悲劇)の巨匠であった。

ボルテールは裕福な公証人の子としてパリに生まれ、イエズス会経営のルイ・ル・グラン学院で古典の教養をおさめた。一時父の意向にそって法律をまなんだが、やがて文学をこころざす。

II 早咲きの天才

文学の道をえらんだボルテールは、当時、社交の場であり新しい思想の形成と伝達の場でもあった貴族のサロンに盛んに出入りし、辛辣(しんらつ)で才気煥発な発言で、たちまち注目をあびる存在となった。しかし自由思想を表明した作品で当局ににらまれ、摂政オルレアン公の不行状を風刺した詩がとがめられて、1717年にバスティーユに投獄される。

11カ月の獄中生活では、古代ギリシャの悲劇作家ソフォクレスの「オイディプス王」(→ オイディプス)を古典主義の演劇美学にのっとって書きなおした5幕韻文悲劇「オイディプス」を脱稿、さらにアンリ4世の業績をたたえた叙事詩の執筆に着手する。「オイディプス」は、翌1718年に初演され熱狂的な支持をうけた。ボルテールの筆名はこのときからもちいられた。叙事詩のほうは、きびしい検閲をさけて、「旧教同盟」の題で23年、ジュネーブで匿名出版された。

1726年、市民階級出身のボルテールをこころよく思っていなかった名門貴族ロアンとのけんかが原因で、ふたたびバスティーユに投獄される。国外退去を条件に2週間たらずで釈放され、イギリスへ亡命。その後2年半余りをロンドンですごしたボルテールは、この国の立憲王制や思想・信仰の自由に感銘をうけ、風刺作家スウィフトや詩人ポープと交流し、シェークスピア劇に刺激された。また短期間で英語をマスターし、叙事詩およびフランスの内戦史を論じた2つの重要な論考を、英語で執筆している。28年、「旧教同盟」増補版を「アンリアッド(アンリ4世頌)」と改題してロンドンで上梓(じょうし)。宗教的寛容を雄弁にうったえる「アンリアッド」は、ヨーロッパ全土にわたって、前例をみないほどの成功をおさめた。

III 宮廷における栄光と失意

「アンリアッド」が出版された1728年に帰国したボルテールは、つづく4年間はパリにおちついてほとんどの時間を著述にそそぎ、歴史書としての処女作「シャルル12世伝」(1730)、悲劇「ザイール」(1732)などを発表した。この時期の代表作「哲学書簡」(英語版1733、フランス語版1734)では、イギリス見聞記という体裁をとりつつ、これと対比してフランスの絶対王政や宗教界を徹底的に批判している。さらに、ニュートン力学とロックの感覚論とを紹介し、世界や人間精神の仕組みは、超自然的非物質的な原理の介在なしで合理的に理解しうるという考え方を普及させた点で、啓蒙思想の形成に大きな役割をはたした著作である。しかし、「哲学書簡」は刊行と同時に反政府的、反宗教的著作として焚書(ふんしょ)処分をうけ、またしても逮捕の危険のせまったボルテールは、愛人シャトレ侯爵夫人が所有する、ロレーヌ公国国境に近いシレー城にのがれた。

シャトレ侯爵夫人は科学と形而上学に熱中する知的な女性であった。ボルテールは夫人とともに科学・数学の研究と著述にはげみ、「ニュートン哲学入門」(1738)と2つの悲劇「マホメット」(1742)、「メロープ」(1743)を発表した。やがて、ルイ15世の愛妾(あいしょう)ポンパドゥール夫人のとりなしもあって1744年ごろからベルサイユに宮廷詩人として出入りし、45年には修史官、翌年にはアカデミー・フランセーズ会員となって宮廷での地位をえた。オーストリア継承戦争(1740~48)でのフランスの戦勝をうたった「フォントノワの詩」(1745)は、宮廷との蜜月時代の所産である。だが、ほどなく国王ルイ15世の不興を買い、さらにシャトレ侯爵夫人の急死がかさなって打撃をうけ、50年、プロイセン王フリードリヒ2世の招きに応じて、ポツダム宮におもむく。

ベルリン時代は、フリードリヒの文芸の師をつとめるかたわら、史書の代表作「ルイ14世の世紀」(1751)などを発表。当時の進歩的知識人の例にもれず、ボルテールもまた、啓蒙専制君主を指導するフィロゾフ(哲学者)の役割をみずからに期待していたが、フリードリヒは政治と哲学とに一線をひく現実主義的な専制君主であった。両者の関係は日々悪化し、結局、夢やぶれたボルテールは1753年にベルリンをさった。

IV フェルネーの長老

フランス政府が帰国をゆるさなかったため、ボルテールはしばらく各地を転々とした末、1755年にはジュネーブ郊外に「レ・デリス(快楽荘)」を購入した。この年11月リスボンでおこった大地震をめぐる「リスボンの災禍についての詩」(1756)と、ローマ帝国没落以降の世界文明史を明確な歴史哲学をもって叙述した「習俗論」(1756)は、ここで執筆された。さらに60年には、スイス国境に近いフランスの寒村フェルネーに買いとった地所に移住。死までの約20年を、「フェルネーの長老」としたわれつつこの地ですごし、フィロゾフの旗頭としてヨーロッパ全土に知的影響力をふるった。

ボルテールの思想の中核をなす著作の多くは、ベルリンをさって以降の晩年に書かれた。啓蒙思想の総決算ともいえる「百科全書」への協力や寄稿もこの時期のことである(→ アンシクロペディスト)。この時期の特徴は、第1に、「卑劣漢をひねりつぶせ」のスローガンをかかげて、不合理や迷妄を強要し非信徒を弾圧する狂信的宗教権威に対する闘争に精力的にとりくんだこと、第2に、書斎の中の文筆活動にとどまることなく、農村改革や貧民の救済、また社会一般の不正をただすために、実践的な活動を展開したことである。

反教権的な姿勢を明確にうちだした作品に「寛容論」(1763)、「哲学辞典」(1764)がある。そのほか、400を上まわる批判的文書や弾劾文も執筆している。ボルテールは、制度としての教会は糾弾したが神の存在自体は否定せず、奇跡や復活といった超自然的な教義をしりぞけつつ、社会の規範のひとつとして有用性をもつ限りにおいて宗教の必要をみとめる理神論の立場をとった。この点で、ドルバック、ラ・メトリーら、より急進的な唯物論・無神論をとなえるグループとは、明確に立場を異にしている。

ボルテールは50歳をすぎてから、このような思想的問題を寓意や軽妙な虚構をもちいてわかりやすく表現した、数々の哲学的コント(短篇小説)を書いた。「ザディーグ」(1747)、「ミクロメガス」(1752)、「カンディド」(1759)、「自然児」(1767)などがそれである。なかでも「カンディド」は、今日もなお、もっともひろくよまれているボルテールの作品のひとつである。

社会活動としては、地域産業の振興を目的として自分の土地に工場を設立したりしたほか、カラス事件(1762)、ラ・バール事件(1766)など、狂信や偏見からおこった冤罪(えんざい)事件を独自に調査し、不当に死刑判決をうけた人々の名誉回復に奔走したことが特筆される。20世紀の実存主義哲学者サルトルにはるかにさきがけて、文学者の社会参加の伝統をつくった功績は大きい。

不仲だったルイ15世はすでに世をさり、1778年2月、ボルテールは28年ぶりにパリにかえった。自作の悲劇「イレーヌ」上演にたちあい、各方面で熱狂的な歓迎をうけて、5月末、栄光のうちに同地で永眠。83歳であった。

V 18世紀人としてのボルテール

平明簡潔なコントから辛辣な風刺、戦闘的な弾劾文まで、ボルテールは、目的に応じて多彩な形式と文体とをつかいわけたが、彼の人となりもその文体と同じく、多面的で複雑である。

反教権主義の闘士ではあったが無神論には賛同せず、自由な言論を圧迫する専制政治を攻撃しながらも、ときに積極的に権力に接近して専制君主に改革の希望を託す。事実、同時代においてさえ、ボルテールをうたぐり深く利にさとい、意地悪な皮肉屋とみる人々と、心ひろく情熱的で涙もろい人間とみる人々とがあった。また、社会思想や科学思想では進歩的観念の普及に力をつくした反面、文学者としてのボルテールは、全盛期をすぎたとはいえなお優勢な古典主義美学の信奉者である。しかし生前彼の名を高めた悲劇は、時代設定や題材に新味があるものの、主義主張が強すぎて古典主義形式の硬直性を強調する結果におわっている。いっぽう、ボルテールの哲学小説は現代でこそ評価が高いが、当の作者自身は、正統な古典主義美学にてらして、小説を叙事詩や悲劇にくらべておとった文学ジャンルとみなしていた。

このように現代人の目からみれば相矛盾する傾向をかかえたボルテールを、「アポロン的(理知的)であろうと欲するディオニュソス的(激情的)人間」と評する向きもある。とはいえ、これは、かならずしもボルテールひとりの特異性とはいえない。啓蒙の時代のキーワードは、世紀全体をとおして「理性」であると同時に「感受性」でもあった。唯物論者ディドロでさえ、みずからを「感じやすい人間」とみとめていた。そしてこの2つの概念は、一見してそう思われるほど、当時の人々にとって相反するものではない。ボルテールの時代には、「感じやすさ」に対して、自己の内面への沈潜や孤独な魂の繊細さといったロマン主義的な特質があたえられることはなかった。あるいは、この2つがはらむ分裂は、少なくともまだ深刻に意識されてはいなかったのである。

18世紀的な「感受性」とは、たんに自分が感動するだけではなく、他人の感情や感動に共感することのできる能力を意味し、他者への配慮を意味する点で道徳的概念でもある。したがって感受性をそなえた人間とは、この時代流の「フィロゾフ(哲学者)」像にほぼ重なりあう。すなわち、あくまで具体的事実や経験に立脚して合理的に判断するという意味での理性を信奉し、世間と積極的にかかわり、現世の幸福をめざし社会的に有用であるために理性をもちいる人間にほかならない。ボルテール自身が手紙の中でつかっている言葉によれば、フィロゾフとは「友人になる術をこころえている」人物である。このような意味で、ボルテールは、まさに18世紀のフィロゾフであり、合理主義者であると同時に情熱的、理性の人であると同時に行動の人でもありえたのである。

なにより、ボルテールは人間の未来に進歩の希望を託した。18世紀にしきりに主張された「オプティミズム」は、無限の善である神によって創造された以上、あらゆる悪と悲惨にみちているにせよ、現在あるがままのこの世界が可能的世界のうちで最善のものでしかありえないとする、希望のかけらもない楽天主義であった。これに対してボルテールは「カンディド」その他で徹底的に反論する。なるほど、人間は狂信や偏見によって無数の愚行をくりかえしている。しかし、それでも理性と感受性をそなえた人間には現実の世界を改善する能力があるのだ、と彼は断固として主張した。決定論的で静態的な歴史観を、時間とともに進歩する可能性をひめたダイナミックな歴史観に転換した点で、まさしくボルテールとフィロゾフは、進歩信仰と進化思想の19世紀を準備したといえる。

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ボルテール
Voltaire

[生] 1694.11.21. パリ
[没] 1778.5.30. パリ

  

フランスの作家,啓蒙思想家。本名 Franois-Marie Arouet。著作は哲学,詩,戯曲,批評,歴史,小説,書簡などにわたり膨大。 1726~28年のイギリス滞在後,『哲学書簡』 Lettres philosophiques ou lettres anglaises (1734) でイギリス経験論をフランスに導入,専制批判,教権批判を開始。理神論をとり,無神論には反対したが,狂信や偏見を激しく攻撃し,カラス (→カラス事件 ) ,シルバン,ラ・バール迫害事件に際しては寛容を訴えた。またディドロらの百科全書派の運動を支持し,フランス革命の精神的基盤を準備した。合理精神に培われた最もフランス的な明快で機知にあふれる 18世紀散文の創始者,すぐれた風刺作家として独自の地位を占めている。悲劇『ザイール』 Zare (32) ,小説『ザディグ』 Zadig (47) ,『カンディド』 Candide (59) ,歴史書『ルイ 14世の世紀』 Le Sicle de Louis XIV (51) ,『習俗論』L'Essai sur les murs (56) ,『哲学辞典』 Dictionnaire philosophique portatif (64) など。





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ボルテール 1694‐1778
Voltaire

フランスの文学者,思想家。本名アルーFranぅois‐Marie Arouet。啓蒙思想の代表的存在で,生前の影響力は全ヨーロッパに及び,18世紀を〈ボルテールの世紀〉と呼ぶほどである。ことに文学者の社会参加の伝統を確立した,晩年の実践活動は特記されよう。パリの裕福なブルジョアの生れで,ルイ・ル・グラン学院で古典的教養を修得の後,一時は父親の希望で法律を学ぶが,まもなく文学を志す。早くから自由思想家の影響下にあった彼は,1717年摂政オルレアン公を風刺した詩を書いたかどで,バスティーユに約1年投獄される。翌18年処女作の悲劇《オイディプス》の大成功で社交界の注目を集め,この頃よりボルテールの筆名を名のる。アンリ4世をたたえた叙事詩《アンリアッド》(1723)によって,その文名を確固たるものにする。名門貴族ロアンとの口論がもとで,無法な侮辱を受けたばかりか,不当にも再度バスティーユに投獄される(1726)。海外亡命を条件に釈放され,イギリスに渡り,この国の政治,思想,言論の自由に深い感銘を受ける。また,シェークスピア劇のエネルギーに感嘆する反面,古典派作家として反発を覚える。帰国(1729)後その影響のうかがえる悲劇数編を著したが,そのなかには代表作《ザイール》(1732)がある。滞英中に構想された《シャルル12世伝 Histoire de Charles XII》(1730)は歴史分野の最初の著作であるが,偉人とは戦場での勝利者ではなく,人類の進歩と幸福に貢献した人物であるという彼の史観の基本的立場が表明されている。続く《哲学書簡 Lettresphilosophiques》(英語版1733,フランス語版1734)は滞英見聞報告にことよせて,フランスの政治・宗教・哲学などをきびしく批判した,〈フランス旧政体に投ぜられた最初の爆弾〉である。本書は発禁処分となり,著者は投獄を免れるため,愛人シャトレ侯爵夫人の所領で,国境に近いシレーに逃れ,以後約10年間は悲劇《マホメット》《メロープ》などの著述,研究,科学実験などに費やされる。1744年ころからルイ15世の愛妾ポンパドゥール夫人や友人のとりなしで,ベルサイユに宮廷詩人として迎えられ,修史官(1745),アカデミー会員(1746)となる。哲学小説《ザディーグ》(1747)にその一端がみられるように,国王にうとんじられ,そのうえ愛人の急死による精神的打撃もあり,プロイセン王の招きに応じ,ベルリンに向かう(1750)。フリードリヒ2世に文芸の師として仕えるかたわら,史書の代表作《ルイ14世の世紀》(1751)を書き終えたほか,哲学小説《ミクロメガス》(1752)などを公にする。国王との友情に破綻が生じ,啓蒙君主フリードリヒに失望し,53年ベルリンを退去。1年半各地を転々の末,54年暮ジュネーブに到着,翌55年郊外に求めた邸を〈レ・デリス(快楽荘)〉と命名する。ここで世界文明史《習俗論》(1756)や哲学小説の代表作《カンディド》(1759)を著す。宗教問題などの発言から,ジュネーブ市当局と気まずくなったのを機に,スイス国境のフランス領の寒村フェルネーに土地を買い求め,60年に移住する。両国に足場をもち,身の安全と自由を確保した〈フェルネーの長老〉は,ヨーロッパの知識人の指導者として,〈恥知らずをひねりつぶせ〉のスローガンをかかげ,旧政体・教会批判のさまざまな形式の戦闘的匿名文書をやつぎばやに発表する。また地域の産業振興や免税運動に尽力するほか,カラス事件(1762),ラ・バール事件(1766)などの狂信や偏見のために死刑判決を受けた人びとの名誉回復の再審活動に乗り出す。これらの実践活動の所産である《寛容論》(1763),しんらつな文明批評エッセー集《哲学辞典》(1764)はこの時期の代表作である。78年,自作の悲劇《イレーヌ》の上演に立ち会うため,28年ぶりにパリに戻った彼は市民の熱狂的歓迎を受けたが,疲労から死去した。
 生前の悲劇詩人としての名声は今日色あせてしまったが,風刺に富んだ,明快な文体の哲学小説,合理的立場に立脚した歴史著作,啓蒙・批判を目的とする軽妙な文明批評などの散文の著書は,1万数千通にのぼる膨大な書簡(彼の最高傑作という評価もある)とともに,彼をフランス知性を代表する存在としている。そして彼の偉大さは,その思想的独創性よりは,人間の自由と幸福を阻むものへの激しい戦闘的精神活動にあるといえる。また,ディドロ,ルソーらとともに百科全書派(アンシクロペディスト)の一人として重要な役割を果たした。                   中川 信

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カラス事件
カラス事件

カラスじけん
Affaire Calas

  

南フランス,ツールーズの新教徒商人ジャン・カラスをめぐる誤審裁判事件。旧教に改宗した息子が自殺体で発見されたとき (1761) ,父親が殺したものと疑われツールーズ高等法院の判決により車裂きの刑を受けた。家族は,疑念をもったボルテールの援助を受けて再審を国王政府に訴えた。コンセーユ・デュ・ロア (国王諮問会議) は判決無効を宣告し,1765年になってカラスは名誉を回復した。新教徒に対する旧教勢力の不寛容を示す事件で,国際的世論を巻起した。





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カラス事件
カラスじけん L’affaire Calas

フランスでおきた異端迫害の嘘罪事件。1762年3月9日,トゥールーズ高等法院は,同市フィラチエ街の衣料店主カラス Jean Calas(1698‐1762)に死刑を宣告した。プロテスタントの彼が,カトリックに改宗しようとした長男マルクを絞殺した(1761年10月13日夜)というのである。62年2月19日にはプロテスタント牧師ロシェット,グルニエ3兄弟が処刑されている。カトリック側の不寛容の狂信による迫害である。モントーバンのプロテスタント活動家リボットは,ルソーとボルテールに援助を求める。ルソーは拒否,ボルテールも当初は気のりうすだったが,しだいに判決を疑い,4月前後から無罪を確信してフェルネーにカラス擁護秘密委員会を組織,ダランベールらパリの知識人を動かして,激烈な運動を展開する。無実を訴えるパンフレット《カラス未亡人の手紙抜粋》(6月15日),《大法官殿へ,ドナ・カラスより》(7月7日)など,いずれもボルテールの書いたものである。努力は報いられ,参事院は64年6月4日,判決の無効を決定する。彼の名著《寛容論》は,この闘争渦中の1763年に出版されている。             香内 三郎

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『カンディド』
カンディド

カンディド
Candide ou l'Optimisme

  

フランスの思想家,作家ボルテールの哲学小説。 1759年刊。副題「楽天主義」。 18世紀風刺文学の代表作。ライプニッツの予定調和説に対する批判と,リスボンの大地震 (1755) の際にルソーとの論争の種となった神の摂理の問題に対する回答を兼ねた小説。主人公カンディドはさまざまな困難に出会い,何度も破局に陥りながらも屈せず,働く喜びを次第に体得し,ついに「私たちは自分の畑を耕さなくてはなりません」という境地に達する。当時の政治,社会,思想に対する作者の痛烈な批判が,主人公の運命の叙述のうちに示されている。





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カンディド
Candide

ボルテールの風刺小説。1759年刊。副題〈楽天主義〉が暗示するようにライプニッツなどの楽天的世界観を河笑するとともに,当時の社会的不正・不合理を告発している,啓蒙思想家ボルテールの〈哲学的コント〉の代表作。主人公カンディドはウェストファリアの叔父男爵の館で,師パングロス博士の〈すべては最善の状態にあり〉,したがって現状は正しいとする教えを受け,それを信じて疑わない純真な(フランス語で〈カンディド〉)青年である。いとこキュネゴンド姫を恋して館を追われた彼が各地で遭遇するのは,戦争,病苦,遭難,大地震,宗教裁判,拷問,暴行である。途中出会ったパングロスから叔父の館も兵火で灰に帰したのを知る。ポルトガルでキュネゴンドに再会し,2人は南米に向かうが,ここでも待ち受けているのは災難であり,2人は別れ別れになる。カンディドは桃源郷〈エル・ドラド〉にたどりつくが,恋人を忘れられず,キュネゴンドを求め旧大陸に戻り,苦難の末に今は醜く気難しくなったキュネゴンドや,相変わらず楽天主義を固執し続けるパングロスに再会し,ささやかな農園を経営し生計を立てることになる。その悲惨な体験や,さまざまの社会的不合理にもかかわらず,主人公が無為や厭世思想にくみせず,人間社会の改善への意欲を失っていないのは,〈だが,わが庭をたがやさなければならぬ〉という有名な結びの句が示している。笑いを通して知性に訴える,明快でしんらつなテンポの速い文体を魅力とするボルテール流風刺の典型ともいうべき作品である。              中川 信

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1759年
ボルテール「カンディド」
フランスの代表的啓蒙思想家ボルテールが、風刺小説「カンディド」をジュネーブで刊行した。副題に「オプティミスム(楽天主義)」とあるように、ライプニッツやポープらの楽天的世界観をわらいとばし、社会に蔓延(まんえん)する不正を告発した一流の「哲学的コント」である。執筆の背景には、1755年におきたリスボン大地震の衝撃があった。地震が2万人以上の人命をうばったことを知った彼は、神の摂理をうたがい、「すべては善だ」という楽天主義を批判する詩編を書いたが、これをルソーが批判した。ルソーは神と人間の本来的善性を擁護し、人間の不幸は人間自身の責任によってもたらされると主張したのである。ボルテールは彼に「あとでくわしく返答しよう」という書簡をおくり、「カンディド」の執筆にとりかかった。

主人公は、ライプニッツの弟子から「すべては善だ」という教えをうけるが、どこへいっても悲惨な目にあう。いつかすべてが善になることをもとめても、「今すべてが善だ」というのは幻想にすぎないのだ。しかし彼は、けっして絶望することなく、最後に善なるものへの意志を表明する。「われわれの庭をたがやさなければならない」と。

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D.ディドロ


ディドロ
Diderot,Denis

[生] 1713.10.5. ラングル
[没] 1784.7.30. パリ



フランスの哲学者,文学者。刃物師の家に生れ,1729年パリに出て,パリ大学で学んだのち,同地で放浪生活をおくり,J.-J.ルソー,F.M.グリム,ドルバック,コンディヤックらと知合う。 45年よりダランベールとともに編纂,出版した『百科全書』 Encyclopdie (1751~72) は啓蒙思想の歴史上画期的業績となった。思想的にはシャフツベリー伯の影響下に啓示を認める理神論から出発,唯物論に向った。また,小説,戯曲を書き,古典劇に対して「市民劇」 drame bourgeoisを主張。芸術論にもすぐれた業績を残した。著書に『哲学断想』 Penses philosophiques (46) ,『盲人書簡』 Lettre sur les aveugles (49) ,『自然の解釈に関する考察』 Penses sur l'interprtation de la nature (54) ,『ダランベールの夢』 Le Rve de d'Alembert (69作,1830刊) ,小説『ラモーの甥』 Le Neveu de Rameau (1761~74作,完本 1891刊) など。





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[ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 2008]

ディドロ 1713‐84
Denis Diderot

フランスの思想家,文学者。シャンパーニュ地方ラングルの富裕な刃物師の家に生まれる。パリの高等学校で学んだあと,遊民的生活に身を投じ,住み込み家庭教師,数学の出張教授,説教文の代作などのアルバイトで最低限度の生活を維持しながら,将来の知的発展の素地を形成する。数学・自然科学・英語の勉強,哲学書・文学書の乱読,演劇への熱狂,社会の観察,無名時代のルソー,コンディヤックたちとの交際と,新しい思想を求めての知的会話。まもなく貧しい娘アントアネット・シャンピオンと結婚,新世帯を維持する必要から英語の著作の翻訳家としての仕事に専心する。
 このころ,フランスのカトリック教会は,より近代的な主流派と,これに反対するジャンセニスト派の2派に分裂して相互に抗争を続けており,この教会の危機を通して,古いキリスト教の教義は世間の人々に対するかつての一元的支配力をしだいに失っていった。若いディドロの努力は,古いカトリックの世界観に代わるべき,ひとつの新しい原理の探求に向けられていく。彼はまずこの原理をイギリスの有神論者シャフツベリーのうちに求め,《人間の真価と徳に関する試論》の自由訳(1745)を刊行する。ついで彼は,このシャフツベリー的有神論の立場を匿名の哲学的著作群のなかでしだいに深化発展させていく。すなわち《哲学断想》(1746)の理神論,《懐疑論者の散歩道》(1747)のスピノザ主義を経て,最後に《盲人書簡》(1749)の無神論にいたる。この作品では,手術によって視覚を回復した盲人の外界認識の問題が検討され,経験が認識の成立に不可欠の契機であることが論証されている。また,実在の盲人の学者ソンダソンを登場させ,彼の口を借りて神の存在の目的論的・自然神学的証明――宇宙における整然たる秩序の存在から,最高の叡智をもった秩序の創造者,すなわち神の存在を論証する方法――の無効が宣告される。ディドロの主張によれば,宇宙の生成の発端には,無数の無秩序(内部に障害をもった生物)が存在しており,そこにはとうてい神の叡智なるものを認めることができず,かりに現在の世界に,ある程度の秩序が存在しているとしても,それはたんに自然の適者生存の法則の発現の結果にすぎないからである。このような危険思想を,次々と著書のなかで発表したディドロは,ついに1749年夏から約3ヵ月バンセンヌ城の牢獄に投じられる。彼はそこでプラトンの《ソクラテスの弁明》を仏訳し(生前未刊),この翻訳を通して自己の信念を裏切ることなく平然と処刑されたソクラテスへの崇敬を暗黙裏に表明している。釈放されたディドロは,《百科全書》の編集責任者として,編集方針の確定,執筆者への依頼,原稿の検討,校正,政府との交渉などの仕事に没頭,諸分野にわたる学者,技術者の開かれた協働により,政府内部の分裂・対立を巧みに利用しながら反動派の攻撃と粘り強く戦い,ついに大事業に成功した。
 《百科全書》編集のかたわら彼のペンは文学に向かう。幸福だった幼年期の思い出,一家の父としての経験,いくつかの恋愛体験,特にソフィー・ボランとのそれ,娘アンジェリックの教育・結婚問題――これらさまざまな人生体験とその反省からえられた知恵が多様なジャンルの創作のなかに開花する。演劇の領域では,《私生児》とその付録《私生児に関する対話》(1756‐57),《一家の父》とその付録《劇作論》(1758)を発表し,従来のフランス古典悲劇の理想――時間と場所と筋の統一,十二音綴りの韻文,高貴な人物の登場など――を打破し,演劇というジャンルを新しい市民社会の現実に適合させることを試みた。ついで,18世紀フランス演劇の最高傑作に数えられる《この男,善人なのやら悪人なのやら》(1770‐84執筆,生前未刊)を書き,また俳優の演技は感動に頼るべきではなく,知性によって統御されるべきであるとする革新的理論を《俳優に関する逆説》(1769‐78)のなかで主張した。小説の分野では,《修道女》(1760‐82執筆,生前未刊),《ラモーの甥》(1761‐73執筆,生前未刊),《運命論者ジャックとその主人》(1772‐73執筆,74改訂,生前未刊)が生みだされる。そこでは,社会の周縁に位置する人物(修道院制度に反抗して脱走する女性,社会の脱落者ラモーの甥,召使ジャック)によって,既成の秩序は疑問のうちに投げ込まれ,転倒され,その混乱のなかからまったく新しい文学的宇宙が誕生する。他方,芸術の原理的諸問題に関する考察は,《百科全書》の項目〈美〉(1751),《聾何者書簡》(1751)の抽象理論の枠組みを打ち破り,作品の理に即した展覧会評《サロン》(1759‐81)となって結実する。また,〈思弁哲学〉の時代の終焉と〈実験哲学〉――自然科学,特に生物学――の時代の到来を予告した《自然の解釈について》(1753‐54)に続き,対話体形式の三部作《ダランベールの夢》(1769)が書かれる。この作品では,〈感性〉をそなえた物質によって構成される全自然界――鉱物,植物,動物(人間も含む)――の統一が主張され,生物の発生,人間の意識,種の交配等の問題が,大胆な仮説の形で,しかもいきいきした対話のうちに論議されている。次の《ブーガンビル航海記補遺》(1772‐80執筆,生前未刊)では,A,B 二人の人物の対話を通して,ヨーロッパ諸国の植民地拡張政策の悪と,キリスト教文明における男女の性的関係に対する抑圧の欺瞞(ぎまん)が徹底的にあばかれる。
 晩年のディドロは,ロシアのエカチェリナ2世の厚遇を受け,これに感謝するため,1773‐74年にかけて彼女のもとに旅行し,政治・文化的な献策を行い,《エカチェリナ2世のための覚書》(1773)を残した。最晩年のディドロは,残ったすべての生命力をふりしぼって《セネカの生涯に関する試論》(初版1778,再版1782)を執筆する。ディドロは,この最後の文学的遺書のなかで,セネカの生涯――専制的権力を正しい道に導くための努力,そのために受けた迫害,および〈後世〉における自己の名誉の回復とその永続性への確信――とみずからの生涯とを重ね合わせて,一生の最終的意味づけを行った。            中川 久定

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ディドロ,D.
I プロローグ

ディドロ Denis Diderot 1713~84 フランスの哲学者。アンシクロペディストであり、小説、エッセー、戯曲、美術・文芸批評も執筆した。

1713年10月5日、シャンパーニュ地方ラングルで生まれた。イエズス会の学校で教育をうけ、34年パリにでて、住み込み家庭教師、文士の代筆などで10年間、最低限の生活をおくった。最初の本格的な作品は、匿名で発表した理神論の著作「哲学断想」(1746)である。

II 百科全書

1747年、イギリスのE.チェンバーズの「百科事典」をフランス語訳する仕事を委嘱される。この企画は数学者ダランベールの協力をえて、本文17巻、図版11巻のあたらしい膨大な、論争の的になる書、一般には「百科全書」の名で知られる「百科全書、あるいは科学・技芸・手工業の解説辞典」へと発展した。

ボルテールやモンテスキューといった、当代のもっともすぐれた学者の参加をえて、無神論者(→ 無神論)で合理主義者(→ 合理主義)のディドロは、「百科全書」を、聖職者の権威や固定観念、保守主義、半封建的な社会形態に対する強力な宣伝の武器として利用した。その結果、アンシクロペディストたちは教会と国の両方から敵とみなされた。

1759年、国務諮問会議は、51年から出版されはじめた「百科全書」の最初の10巻を正式に発禁処分にし、以後の出版も禁止する。しかし彼は残りの巻の仕事をつづけ、ひそかに印刷した。本文17巻は66年に、図版11巻は72年に完成した。

その他の著作には、修道院の生活を攻撃した「修道女」(1760~82年執筆、96年刊)、社会風刺の書「ラモーの甥(おい)」(1761~73年執筆、91年刊)、自由意志と決定論の心理を探究した「宿命論者ジャックとその主人」(1772~73年執筆、96年刊)などがある。また、聾唖(ろうあ)者の学問のしかたを説いた「聾唖者書簡」(1751)と、哲学的な対話劇「ダランベールの夢」(1769)は彼の唯物理論をしめし、美術批評の先駆的雑誌「サロン」(1759~81)では、パリの美術展覧会の批評を書いている。書簡は、高名な書簡作家がでた同時代でも群をぬいている。ロシアの啓蒙専制君主エカチェリナ2世の庇護を得たり、ヨーロッパの啓蒙思想家に大きな影響をあたえた(→ 啓蒙思想)。1784年7月30日、パリで死去した。

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唯物論
形而上学
形而上学

けいじじょうがく
metaphysics

  

基本的な哲学の仮説を批判的に考察し,存在するものはそれが存在するかぎり何であるかを明らかにしようとする哲学の一分野。「自然学書の次の書」を意味するギリシア語 ta meta ta physikaに由来し,形而上学という訳語は,『易経』繋辞伝からとられた。ヘレニズム期にアリストテレスの表題なしの著作を,ロドスのアンドロニコスがそのように呼んだのに始る。形而上学は論理学,認識論,美学,倫理学などの他の哲学的研究とも影響し合い,伝統的に幅広い哲学的な問題に関連してきた。最も基本的な問題は古代ギリシアの哲学者たちが最初に取組んだもので,形相の存在と本質,すなわち心の対象である抽象的な現実という問題である。ギリシア哲学者たちが現実の世界のもの (知覚できるもの) と心の対象 (観念) を区別して以来,形而上学者たちは抽象と物質の関係にたずさわり,両方が存在するのか,あるいはどちらか一方がもう一方より確かに存在するのかを確かめようとした。形而上学者は,自然界,時間と空間の重要性,神の存在と本質を解明しようとしたが,すべて形相と観念の関係を理解しようとする試みだった。
形而上学の主張はおおむね先験的な立場である。先験主義は,基本的で相互に矛盾のない仮説から出発し,それらを論理的な結論まで発展させる。この演繹的なプロセスの間に不合理が起れば,元の仮説を捨てるか,見直さなければならない。形而上学の結論は,その性質上あまりにも一般的でありとあらゆるものを含む主張なので,経験的事実を述べたものというよりは考え方の模範を示したものであり,それを反証を使って論駁するのは効果的な批判とはいえない。そのうえ,新しい知識が古い信念に取って代る経験科学とは異なり,矛盾する無数の形而上学的な理論はすべて時間の試練に耐えており,唯一の形而上学的な真理は存在しないという概念に立脚している。最初の形而上学者であるパルメニデスとプラトンは,外観と実体の基本的な違いを認めた。プラトンは,変ることがないゆえに真実である観念の世界を支持して,知覚できる世界における移ろいやすくあてにならない現実を否定した。アリストテレスはプラトンの形相と質料の区別から始めて,生物学モデルを用いてこの2つを統合し,質料は常に潜在的な理想形相に向って動いている,と考えた。このようにして,物質世界は有機的な変化の連続体とみなされる。キリスト教の発展に伴って,哲学者たちは神の実在の先験的論拠を発見することに関心をいだきはじめた。トマス・アクィナスの形而上学に基づくトミズムは,アリストテレスの思想とキリスト教思想を結びつけた。トマスによると,日々の黙想 (アリストテレスによる形相と質料の関係の考察の基礎) は必然的に神の実在の理解につながり,物質世界を支える最も重要な要因である。有限で変転きわまりない物質世界を考察することによって,人はその変化の原因,つまり神に必ず導かれる。
形而上学の思想にもう一つの大きな転換をもたらしたのは,R.デカルトである。デカルトの二元論の哲学は,物質世界と精神世界を別個の独立した領域と定義した。キリスト教哲学者が提唱した神の概念を否定して,物質世界は主因によってつくられるが,その後は巨大な機械のように神の影響とはかかわりなく動く,とデカルトは仮定した。 I.カントは二元論は認めたがデカルトの理論は受入れず,知覚の重要性を示して形而上学に革命を起した。カントによると,物質的現実は時間と空間という人間のつくった構成概念を通じて知覚しなければならない。したがって,物質世界に対する見方は常に知覚のメカニズムによって影響を受ける。カントは初期の形而上学者が物質的現実と考えたものをそのように否定し,すべての観察を観察のメカニズムに従属させた。唯物論と観念論は,精神と物質の概念を一つの理論のなかで統合しようと試みた。観念論者は,物質を精神に従属させることによって2つの領域を合流させた。唯物論者は正反対の立場をとり,精神を物質に従属させて,存在するのはすべて物質で精神は物質的な状況に依存すると主張した。
哲学者の一部は,形而上学の方法論と結論の有効性を問題にした。 D.ヒュームはあらゆる知識は知覚を通じて入ってくると主張し,すべての基本概念は知覚の経験から生れるのであって,純粋な思惟など存在しない,と結論づけた。 20世紀の論理実証主義は,すべての主張の意味はそれがどのように証明されるかに依存していると主張し,形而上学的主張には意味がないとの結論を下した。 L.ウィトゲンシュタインの批判によると,形而上学的経験は言語の範囲をこえたもので,物事には語ることのできることと,見せることしかできないことがあり,形而上学的な理論化は言語が明らかにできる範囲外の領域について語ろうとしているためにうまくいかないとしている。





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形而上学
けいじじょうがく metaphysics

哲学の諸分野,諸原理の最高の統一に関する理論的自覚体系。語源的には,アリストテレスの講義草稿をローマで編集したアンドロニコスが,《自然に関する諸講義案(タ・フュシカ)》すなわち自然学の後に(メタ),全体の標題のない草案を置き,《自然学の後に置かれた諸講義案(タ・メタ・タ・フュシカ)》と呼び,これがメタフュシカ metaphysica と称されたことに基づく。内容的には,第二哲学としての自然学に原理上先立つ存在者の一般的規定を扱う第一哲学,自然的存在者の運動の起動者としての神を扱う神学を含む。ここから,自然的存在者の諸分野,諸原理を超えた(トランス)最高の原理,実在を扱う超自然学と解され,のち一般に経験的現象を超越した実在,原理あるいは仮説,想定に関する理論的考察という意味に使用される。邦訳語の形而上学は《哲学字彙》(1881)以来で,有形の器すなわち自然の形象を超えた無形の道すなわち原理の学の意味であり,形而上の出典は《易経》である。
 西洋で哲学の分野に一般形而上学と特殊形而上学との区分を導入したのは,スアレスの影響下の17世紀のデュアメル Jean‐Baptiste Duhamel以来とされ,この区分は C. ウォルフに引き継がれる。一般形而上学は第一哲学の系統をひき,存在者一般に共通な普遍的規定を扱い,ウォルフはこれを存在論と呼ぶ。特殊形而上学は神学,宇宙論,霊魂論に分かれ,神,世界,人間を対象とする。カントはウォルフを含めて在来の形而上学は存在者の認識の可能性を無視した独断的形而上学とし,認識の起源,範囲,権能を人間理性の自己吟味に求め,理性能力の批判的画定を予備学として,自然と道徳の両面にわたり形而上学を学として建設しようとした。客観を観想する形而上学はここに主観に基づく形而上学へと転換するが,ドイツ観念論の形而上学的諸体系はカントの拒否する知的直観を絶対者に適用し,ヘーゲルの絶対的観念論へと転化する。このヘーゲルの体系を消極哲学すなわち合理主義的本質主義と断じ,意志に対してのみ出現する個別的現実存在を原理とするシェリング晩年の積極哲学は,ショーペンハウアーとニーチェとの意志の形而上学の先駆となるとともに,19世紀後半以降の現実存在ないし実存の哲学への端緒でもある。19世紀後半は実証主義の隆盛による形而上学の衰退と特徴づけられるが,二つの世界大戦は認識論的な反形而上学の立場から,有限な人間の人間本性の展開に基づく人間の形而上学を復活させた。ベルグソン,シェーラー,ハイデッガー,ヤスパースなどの試みがそれである。他方,後期ハイデッガーは西洋の歴史を形而上学の歴史とし,その極を技術すなわち原子力時代の形而上学と見,形而上学の克服は在来の形而上学の始原とは別の始原の到来によるほかはないとする。日本では明治以来,現象即実在論が説かれ,また西田幾多郎,田辺元,和嶋哲郎,高橋里美のように,何らかの形で無を原理とし弁証法に訴える型の形而上学が企てられてきたが,われわれの風土の精神的自覚体系への試みはまだ途上である。
                        茅野 良男

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形而上学
I プロローグ

形而上学 けいじじょうがく Metaphysics 直接には経験することができない究極的実在をあつかう哲学の一部門。中世以来の伝統的な区分にしたがえば、形而上学は、物が「存在する」とはどういうことかというきわめて抽象的な問題を論じる一般形而上学、つまり存在論と、人間にとって重要だが、経験的には知りえない特殊な存在者(神、人間の魂、宇宙)を問題にする特殊形而上学とにわかれる。

II アリストテレス

形而上学という名称の由来は、ローマのペリパトス学派の哲学者アンドロニコスにさかのぼる。彼はアリストテレスの著作を編集する際に、自然学をあつかった諸論文のあとに、もともとは第一哲学とか神学とよばれていた諸論文を配列した。そのために、第一哲学の論文は、ta meta ta physika「自然学のあとにつづくもの」として知られるようになり、それがのちにちぢめられて、metaphysikaとなった。

アリストテレス自身は、みずからの第一哲学(形而上学)の課題を「存在者であるかぎりでの存在者」をあつかうことにあるとしていた。彼の形而上学は具体的には、実体と偶有性、形相と質料、現実態と可能態といった概念を論じている。

III カント以前

トマス・アクィナスを中心とする13世紀のスコラ哲学者(→ スコラ学)たちは、有限な感覚的事物の因果的研究を通じて神を認識することが形而上学の目標だとしていた。一般にカント以前には、形而上学は、ア・プリオリ(→ ア・プリオリとア・ポステリオリ)な認識(経験や観察に依存せず、純粋に理性だけによってえられる認識)にもとづく原理から出発する学問とされ、しかも、この原理がそのまま宇宙を構成する実体とされていた。この実体が、1つと考えられるか、2つ、ないしそれ以上と考えられるかに応じて、一元論、二元論、多元論が成立する。

一元論の場合、そのただひとつの実体が物質的なものと考えられるか、精神的なものと考えられるかによって、唯物論的一元論と観念論的一元論にわかれる。前者の代表がホッブズだとすれば、後者の代表はバークリーである。スピノザのいう実体は、物質的なものでも精神的なものでもない。彼は、宇宙と神を同一であるとする汎神論をとなえる。→ 観念論:唯物論:汎神論

二元論の典型は、思惟と延長とを独立した2つの実体とみなすデカルトの立場であり、宇宙は無数のモナドからなると主張するライプニッツは、多元論の典型である。

IV カント

しかし、近代自然科学の興隆とともに、厳密な学としての形而上学の可能性が疑問視されるようになった。ロックやヒュームが展開したイギリス経験論は、すべての認識は経験的であるとして、究極的実在の認識の可能性を否定した。

カントは、すべての認識は経験からはじまるという点では経験論を支持する。しかし彼によれば、認識は、経験論が主張するように、外界をただ受動的にうつしとるだけではない。むしろ、人間は自分に本来そなわっている形式(空間、時間、因果関係など)にしたがって混乱した感覚情報を秩序づけることによってはじめて、認識の対象をつくりあげる。

そうだとすると、「経験されるすべての物は空間と時間のうちにあり、因果関係にしたがう」という陳述は、例外なくただしいことになる。というのも、人間はそもそも空間・時間や因果関係という形式をとおしてしか世界をながめることができないからである。すべての人が生まれたときから緑のサングラスをかけているとすれば、「世界は緑である」という発言はだれにとってもただしいはずである。

空間・時間などの形式は、それによって経験的なものがはじめて可能になるのであるから、経験に先立ち、経験をこえている。カントは、ここにあらわれる新しい形而上学的な次元を、超越論的という名前でよぶ。このため、彼の形而上学は超越論的哲学とよばれる。

V カント以後

カントによれば、物は人間にそなわる形式をとおしてのみ認識の対象となるのであるから、物自体がどのようなものであるかは原理的に知ることができない。しかし、カントの弟子であるフィヒテ、それにつづくシェリング、ヘーゲルは、物自体の認識不可能性というカントの主張をしりぞけ、精神がすべての物の実体であるから、精神によってすべては絶対的に認識可能であるという形而上学的な立場をとった。彼らの立場は一般にドイツ観念論とよばれる。

しかし、産業革命による産業社会と科学技術が急速に発展した19世紀においては、伝統的な形而上学に反対する態度が支配的になる。フランスの哲学者コントの実証主義、ドイツのマルクスとエンゲルスが提唱する弁証法的唯物論、アメリカの哲学者パース、ジェームズらのプラグマティズムなどがその代表的な例としてあげられよう。

VI 20世紀

20世紀において形而上学思想の有効性に異論をとなえ、その科学的価値を徹底的に否定したのは、論理実証主義である(→ 分析哲学と言語哲学)。論理実証主義は、科学から形而上学を排除するための判断基準として検証理論をもちだす。この理論によれば、ある命題が意味をもつのは、それが観察により検証される場合だけである。たとえば、「物質的粒子以外の何物も存在しない」とか「すべての物はある遍在する精神の一部である」といった形而上学的命題は、経験的に検証することができない。したがって、検証理論によれば、これらの命題は人間の希望や感情に対してはある意味をもちえても、事実の認識という意味はもたない。

しかし他方、2度の大戦の体験などを通じて近代科学思想に対する信頼がゆらいでくるにつれて、ふたたび形而上学がみなおされるようになった。分析哲学においてさえ、日常言語学派の登場以降は、イギリスのストローソンの記述的形而上学の構想にみられるように、形而上学に対する全面否定の態度が大きく修正されつつある。

形而上学の復権をもっとも壮大なスケールでおこなったのは、ドイツの哲学者ハイデッガーである。彼の主著「存在と時間」(1927)は、プラトン、アリストテレス以来の存在一般の意味の究明を現代において反復しようとする企てである。それによれば、存在の意味の究明は、人間存在を手掛かりにするほかはない。というのも、人間だけが自分の存在をつねに気にかけている存在者であり、したがって、なんらかの意味で「存在」ということを了解している唯一の存在者だからである。ハイデッガーは、この人間の存在了解をなりたたせているのが時間性であることを発見し、この時間性の視点から新たな存在論を構築しようとした。

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経験論
経験論

けいけんろん
empiricism

  

知識の源泉を経験,ことに感覚的経験に求める哲学的立場で,知識の源泉を理性に求める理性論,合理論と対立する。古代ではソフィストたち,ストア学派,エピクロス学派などがこの傾向に属し,プラトン,アリストテレスの理性的立場と対立し,中世ではオッカム,R.ベーコンなどにこの傾向が部分的にみられたが,いわゆるヨーロッパ大陸の理性論と対立して経験論の立場が明確に主張されたのは,17世紀末から 18世紀にかけての J.ロック,G.バークリー,D.ヒュームなどのイギリス経験論においてである。ロックはデカルトの生得観念を否定していわゆるタブラ・ラサ (白紙) 説を主張し,バークリーは抽象観念を否定して「存在は知覚すること」であると主張し,ヒュームは抽象観念を批判して観念の起源を感覚印象に求めた。また J.S.ミルにもこの傾向が認められる。このイギリス経験論はヨーロッパ大陸の唯物論,実証主義と結びつくにいたり,フランスではボルテール,D.ディドロ,J.ダランベールなどの啓蒙主義,ドイツでは R.アベナリウス,E.マッハなどの実証主義に影響を与え,さらに現代では 19世紀のいわゆる思弁的哲学に対する批判との関連において再評価され,論理実証主義,プラグマティズム,分析哲学に影響を与えている。





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経験論
けいけんろん empiricism

人間の知識,認識の起源を経験とみなす哲学上の立場。合理論ないし理性主義に対立するが,この対立の代表は17~18世紀の西洋の大陸合理論対イギリス経験論である。W. ジェームズはこの対立を,諸原理によって進む硬い心の人と諸事実によって進む軟らかい心の人との気質の対立として説明した。経験論という邦訳語は《哲学字彙》(1881)以来定着している。人間は生存のために行為するが,生存に役立つ事物は効果がなければならず,この効果はまず感覚に訴えて験(ため)される。一般に験し・試みを経ること,積むことが経験(experience(英語),Empirie(ドイツ語),Erfahrung(ドイツ語))である。西洋古代以来,験し・試み(ペイラ peira(ギリシア語))の中にあること(エンペイリア empeiria(ギリシア語)),験し・試みに基づいていること(エクスペリエンティア experientia(ラテン語))が,技術知(テクネー techn^(ギリシア語))や理論知(エピステーメー epist^m^(ギリシア語))の地盤とされている。この場合,経験は経験知としてすでに知識の一端に組みこまれている。それは試行錯誤を介して人間の獲得した知の一種である。この試行錯誤でも感覚に訴えることが基であり,ここから経験を感覚ないし感性の対象界に限定する感覚論,感性的現象界に制限する現象論,感覚ないし感性によって事物の措定(そてい)や定立を確証する実証主義が経験論の主流として成立する。19世紀末以来のプラグマティズム,20世紀前半以来の論理実証主義は現代の経験論に数えてよい。前者の代表者の一人 W. ジェームズは直接に経験されるものおよびその関係を純粋経験とし,純粋経験はその外部の別の経験との関連であるいは物的存在あるいは心的存在と呼ばれると見,感性的経験論を根本的経験論へと徹底させ,初期の西田幾多郎に影響を与えた。論理実証主義は従来の知覚ないし感性による実証では位置があいまいとなる形式科学を分析的な知として認め,経験の範囲を広めはしたが,哲学や倫理学を位置づけうる経験の範囲には至りえず,物理学を模範とする科学的経験の分析にとどまった。経験論は科学的経験をも含む人間的な経験の理論,歴史的・社会的経験の理論への展開が必要である。⇒イギリス経験論
                        茅野 良男

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経験主義
経験主義 けいけんしゅぎ Empiricism すべての知識の起源を経験において、生来の観念の存在を否定する説。おもに17~19世紀のイギリスで主流であった思想をさす。

はじめて経験主義を体系化したのはロックである。しかしロックの独創的な見解のいくつかは、すでにイギリスの哲学者ベーコンにあらわれていた。ロックの思想は、イギリスのバークリー、ヒュームによって展開され、イギリス経験論が形成される。さらに、ロックの著作はコンディヤックやディドロのようなフランスの啓蒙思想家にも影響をあたえた。

経験主義に対立する哲学思想は合理主義である。合理主義者たちは、理性、つまり経験とは別に本来人間にそなわっている能力によって、現実が知られると考える。合理主義は、フランスの哲学者デカルト、オランダの哲学者スピノザ、17~18世紀のドイツの哲学者ライプニッツとウォルフといった思想家によって主張された。ドイツの哲学者カントは、経験主義と合理主義を和解させようとした。彼は、知識を経験の領域に制限することで経験主義をみとめている。しかし、心には感覚印象をうけいれる能力が生まれつきそなわっていると主張した点で、合理主義に同意している。

近年になって経験主義という言葉はもっとひろい意味でつかわれるようになった。現在では経験をあつかうすべての哲学体系が経験主義とよばれている。アメリカではジェームズが自身の哲学を「根本的経験論」とよび、デューイは自分の経験に対する考え方を「直接経験主義」とよんでいる。

→ 西洋哲学


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