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時計から始まる機械論(その03) [宗教/哲学]

分析哲学
分析哲学

ぶんせきてつがく
analytic philosophy

  

広義には,哲学の基本態度を分析に求める反形而上学的哲学諸流派をいう。特に 19世紀末から欧米で盛んとなった。その代表的なものは,(1) イギリス経験論の伝統を生かそうとするケンブリッジ実在論,(2) ウィーン学団の論理実証主義,(3) ウィーン学団とアメリカのプラグマティズムの結びついた分析的プラグマティズム,(4) ケンブリッジ分析派の精神を継承し,日常言語の分析を通して真理,価値の意味を明らかにしようとするオックスフォード学派の諸流派である。これらは論理的分析や記号論理学を利用したりして問題の明確化をはかり,場合によっては問題の無意味化 (消去) を行う。狭義の分析哲学はウィトゲンシュタインの晩年から今日の日常言語学派やおもにアメリカにおける意味論的分析をさす。





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分析哲学
ぶんせきてつがく analytic philosophy

哲学的問題に対し,その表現に用いられる言語の分析から接近しようとする哲学。論理分析logical analysis,哲学的分析 philosophicalanalysis ともいう。言語の分析にかぎらず広く言語の考察から哲学的問題に迫ろうとする哲学をすべて〈分析哲学〉と呼ぶこともあるが,これは不正確である。
 言語分析は20世紀の初頭,B. A. W. ラッセルとG. E. ムーアによって始められたといってよい。彼らは当時イギリスにおいて盛んであった,世界は分析しがたい一つの総体だとするヘーゲル的思考に反対して,世界は複合的なものであり,要素に分解しうるとし,この考えを実体間の外在的関係の理論によって論理学的,形而上学的に基礎付けた。ムーアは物や時間,場所など常識が存在するとするものをすべて実在すると考えたが,それらの概念を綿密に分析することによって言語分析への通路を開いた。これに対してラッセルは,〈黄金の山を論ずるときにはある意味で黄金の山は存在しなければならない〉とするマイノングの考えに反対して記述理論に到達したが,それは,たとえば〈現在のフランス王ははげである〉という言明の主語が見かけ上のものであって本当は主語ではないとするというような言語分析であった。ラッセルは存在論に言語分析から迫ったのである。彼はこの記述理論の他方で経験世界に関する多くの言明に登場する名前を消去して,真に存在するものの名前とそのような存在者を指す変項だけしか登場しない言明に置き換えていった。このとき,ラッセルにとって真に存在するものは,1910年代から20年代にかけては,個別的な〈感覚与件〉ないし〈事件〉であって,物や心,時空的位置のような他の存在者は前者から構成されるものであった。このような構成の手引となったものは,彼自身その構成に寄与した数理論理学の言語であった。日常言語による表現はかならずしも存在構造をそのまま反映するものではない。むしろ論理学の人工言語こそわれわれに存在の構造を教えてくれる。彼が若きウィトゲンシュタインの影響のもとに書いた《論理的原子論の哲学》(1918)はこの思想をよく表している。
 ラッセルに影響を与えたウィトゲンシュタインは《論理哲学論考》(1922)において,ラッセルよりもさらに徹底して世界を単純・独立な〈事態〉の複合として,〈事態〉をまた〈対象(実体)〉の連鎖としたが,それは世界を完全に明瞭に表現したときの言語表現に〈示される〉ものと考えた。20年代の後半から30年代にかけて盛んとなった論理実証主義は《論考》時代のウィトゲンシュタインから大きな影響を受けたが,一方先鋭な実証主義,反形而上学,科学主義とくに物理学主義をもって知られる。しかし論理実証主義者,とくにその代表者カルナップは《論考》の思想を規約主義的に変形して理解し,哲学的活動を一種の言語分析として規定した。それは形而上学に対してはその言明の無意味性を主張し,特殊諸科学に対してはその言語の統語法を論ずる論理的統語論を構成することであった。形而上学的言明が無意味であるとはその真理性が検証できないことである。その原理は有意味性の規準を検証可能性におくことである。ラッセルとウィトゲンシュタインの思想を受け継いで論理学と数学はトートロジーとし,言語を数理論理学の言語になぞらえて一種の計算体系として,人工言語として再構成されるとする。それは学問の各分野に即した別々の言語として行われるが,その構成は一意的なものではありえず,構成の成果に照らして修正される規約的なものである。しかしこの考えは実証主義と言語論の両面から間もなく行き詰まる。検証可能性による意味論はせまきにすぎて,自己を含めたすべての哲学を無意味にするばかりでなく,科学の多くの表現が無意味になってしまうことがわかってきた。その上,ある言語の考察は,たとえ人工言語に対するものであっても,統語論の角度だけでは不十分で,意味論的考察が必要であることが,タルスキーの真理論などを機縁に明らかになってきた。そこでカルナップは,タルスキーの真理論の示唆によって分析的真理や様相概念を意味論的に定義しようとした。
 以上のような分析哲学の動向に対しては,二つの角度からの痛烈な批判が50年代になされることとなる。一つはクワインを代表とするものである。それは伝統的な哲学においてもカルナップにおいても当然のものとして前提されていた分析的言明と統合的言明との原理的区別を否定するものであった。それは〈意味とは何か〉という問題を改めて提起した。クワインは一般に意味,内包,属性,命題を実体的なものとしてとらえることに異議を唱えたのである。もう一つは日常言語に着目する角度である。それまでの言語分析は論理学や数学の言語を範型にとった人工言語を主要な対象としたが,がんらい言語とは日常言語であり,日常言語のあり方を子細に点検すると従来の言語分析の方法は根本的に誤っていることがわかるとするものである。その代表的な論者は後期のウィトゲンシュタインであった。彼は〈真の言語形式は実在形式を写し出している〉という《論考》の根本思想を一擲した。言語の現実の機能を具体的に吟味してみると,名前が対象を指し,単純文が原子的事態を表すというような素朴なことはいえず,同じ文も場面が違えば違った役割をする。言語とは世界の写し絵ではなく,人間の相互交流の一形式,生活形式であるにすぎない。〈言表の意味とはその使用である〉。こうして50年代にはとくに日常言語学派がイギリスにおいて隆盛を極めることとなったが,それは語や文の意味や指示をその使用の状況・脈絡において考察するものであった。日常言語が重要なことは,心の働きや行為を表す語が基本的に日常言語であることによってわかる。言語分析は日常言語の考察に至って初めて伝統的な哲学的問題の解明に寄与することができたといってよい。しかしその方法はすでに言語分析の枠を超えているともいえる。またあまりにも事例主義的な日常言語学派の方向も行き詰まり,最近では論理学におけるモデル理論を援用したり,新しい言語学の成果を取り入れたりして日常言語の解明が進んでいる。⇒論理実証主義
                        中村 秀吉

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プラグマティズム
プラグマティズム

プラグマティズム
pragmatism

  

1870年代の初めアメリカの C.パースらを中心とする研究者グループによって展開された哲学的思想とその運動。ギリシア語のプラグマから発し,プラグマティズムとは,行動を人生の中心にすえ,思考,観念,信念は行動を指導すると同時に,逆に行動を通じて改造されるものであるとする。そして行動の最も洗練された典型的な形態を科学の実験に求め,その論理を哲学的諸問題の解決に応用しようとするもの。代表的哲学者は,パースをはじめ W.ジェームズ,J.デューイ。彼らの理論は,明治の頃日本に紹介されたが,特に第2次世界大戦後デューイの教育理論は,教育思想に大きな影響を与えた。





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[ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 2008]



プラグマティズム
pragmatism

アメリカの最も代表的な哲学。日本では〈実用主義〉と訳されることがあるが,この訳語はこれまでプラグマティズムに関して多分に誤解を招いてきており,最近ではこの訳語を使う人は少ない。プラグマティズムは哲学へのアメリカの最も大きな貢献であり,実存主義,マルクス主義,分析哲学などと並んで現代哲学の主流の一つである。プラグマティズムを代表する思想家には C. S. パース,W. ジェームズ,J. デューイ,G. H. ミード,F. C.S. シラー,C. I. ルイス,C. W. モリスらがいる。プラグマティズム運動は〈アメリカ哲学の黄金時代〉(1870年代~1930年代)の主導的哲学運動で,特に20世紀の最初の4分の1世紀間は全盛をきわめ,アメリカの思想界全体を風靡(ふうび)するとともに,広く世界の哲学思想に大きな影響を与えた。1930年代の半ばごろから外来の論理実証主義,分析哲学がアメリカの哲学を支配するようになってプラグマティズム運動は退潮したが,パース,ジェームズ,デューイらの古典的プラグマティズムはアメリカの思想界に深く根を下ろし,依然大きな影響力をもっている。実際,一時期プラグマティズムを圧倒して絶大な影響力をもっていた論理実証主義,分析哲学自体が,時が経つにつれて逆にプラグマティズムの影響と反批判を受けて転向ないしは退潮し,かわって再び〈プラグマティズムへの転向〉〈より徹底したプラグマティズム〉(W. V. O. クワイン),〈ネオ・プラグマティズム〉(M.ホワイト)などと呼ばれる新しい傾向が見られるのは,アメリカにおけるプラグマティズムの根強い影響を示すものと言えるであろう。
[プラグマティズムの多様性]  しかし一口にプラグマティズムと言っても,パース,ジェームズ,デューイらの古典的プラグマティズムはもとより,あらゆるプラグマティストたちの思想はすべて多様に違う。しかもプラグマティズムは教育思想,社会および政治思想,法理論,歴史哲学,宗教論,芸術論,数理論理学,言語および意味の理論,記号学,現象学などの多領域に及び,これらの多領域にわたってプラグマティストたちの関心もきわめて多岐に分かれている。こうしてプラグマティズムははなはだ広範多領域に及んで現代思想の発展に寄与しているが,しかし一方それを体系的に解釈しようとすると,プラグマティズムほど多義的で,矛盾,対立に満ちたとらえがたい思想はないであろう。P. ウィナーが言うように,あらゆるプラグマティストたちの多様に異なる関心や見解,〈種々のプラグマティズムの歴史的文化的多側面〉は,一つの一般的定義にはとても収まらない。A. ローティ編《プラグマティズムの哲学》(1966)もパース,ジェームズ,デューイらのプラグマティズムの多義性に加えて,さらに論理実証主義,分析哲学との交渉史においてますます多様化したプラグマティズムの姿を示している。その序文でローティは言う,プラグマティズムとは〈一般的家族的類似性を帯びた諸見解から成るある思想圏を指す符ちょうと考えるのが最も至当である〉と。プラグマティストたちの間にはつまり L. ウィトゲンシュタインの言う〈家族的類似性〉以上のものはない。したがって,プラグマティズムの一般的定義を求めるよりも,ここではおもにプラグマティズムの三大思想家パース,ジェームズ,デューイの思想を概説し,さらに日本におけるプラグマティズムの受容について若干触れておきたい。
[パース]  プラグマティズムの創始者はパースであり,〈プラグマティズム〉という言葉も彼の造語である。しかしこの言葉は後にジェームズ,シラーらによって世に広められ,プラグマティズムと言えば主として彼らの思想を意味するようになった。そこでパースはあらたに〈プラグマティシズムpragmaticism〉という言葉を造語し,特に彼独自の立場を意識的に強調する際にはしばしばこの言葉を使っている。プラグマティシズムの〈icism〉は通常の〈ism〉とは違って,ある学説をより厳密に定義し,より限定的に用いることを意味しているとパースは言う。こうしてジェームズ,シラー,さらにはデューイらによって大きく拡大発展させられたプラグマティズムに対し,パースは彼のプラグマティシズムを次のように限定している。第1に,プラグマティシズムは〈それ自体は形而上学説ではなく,決して事物についての真理を決定しようと企てるものではない〉。それは難しい言葉や抽象的概念の意味を確かめる一つの方法にすぎない。第2に,難しい言葉とか抽象的概念というのは〈知的概念(科学的概念)〉のことで,プラグマティシズムはわれわれのすべての言葉や概念にではなく,もっぱら科学的知的概念にのみ適用される。
 こうしてプラグマティシズムは科学的知的概念の意味を確定する一つの方法であるが,その方法とは,ある科学的知的概念の意味を確定するには,その概念の対象がわれわれの行動の上に実際にどんな結果を引き起こすかを,あらゆる可能な経験的手続によって確かめよ,というものである。この方法を論理学の一つの守則として定式化したものがパースの有名な〈プラグマティズムの格率 pragmatic maxim〉で,その格率におけるいわゆる〈実際的結果〉という概念が後にジェームズらによる多くの誤解を招いた問題の概念である。パースの言う〈実際的結果〉とは,たとえばジェームズが言うような〈だれかの上に,なんらかの仕方で,どこかで,あるとき生ずる〉具体的特殊的心理的効果のことではなく,それとはむしろ逆に,未来のあらゆる状況において,もしある一定の一般的条件を満たすならば,いつでもだれでも実験的に確かめることのできる結果――言いかえれば,合理的に思考し,実験的に探究するすべての探究者たちが最終的に意見の一致にいたらざるをえないような客観的一般的結果――を意味している。このようにパースはすべての合理的実験的探究者たちが最終的に意見の一致にいたらざるをえないような〈実際的結果〉に科学的知的概念の意味を求める。それだけではなく,パースはさらに〈すべての合理的実験的探究者たちの最終的な意見の一致〉において見いだされるものが真理であり実在であると言う。こうしてパースのプラグマティシズムは科学の諸概念の意味を確定する一つの方法であるにとどまらず,さらに真理と実在に関する理論でもある。
 また,パースは形而上学的にはスコラ的実在論の立場に立っていて,彼にとっては普遍者,一般者,法則性が真の実在である。普遍的一般的法則的なものの在り方はパースの現象学の用語では〈第三次性〉と呼ばれ,そのほかに〈第一次性〉は情態の性質,質的可能性の存在様式を意味し,〈第二次性〉は現実的単一的個体的事実の存在様式のことである。そしてこれらの三つの現象学的カテゴリーにおいて,プラグマティシズムは〈第三次性〉の概念にのみかかわるが,ちなみに〈知的概念〉〈実際的結果〉〈真理〉〈実在〉などはすべて〈第三次性〉のカテゴリーに属する。このように〈第三次性〉にのみかかわるという点でもパースのプラグマティシズムはより限定された学説であるが,それはパースの現象学,形而上学に支えられており,決して形而上学を否定するものではない。
[ジェームズ]  R. B. ペリーは〈プラグマティズムとして知られる現代の運動は主としてジェームズがパースを誤解したことから結果したものであるというのが正しく,かつ公平であろう〉と言う。このペリーの見方にはもちろん異論もあるが,しかしこの見方はいくつかの最も基本的な点でプラグマティズムの歴史をより正確に伝えていると言えるであろう。すなわちパースとジェームズとは哲学的気質,関心,立場においてひじょうに違う,際立って対照的な思想家で,ふたりの思想およびプラグマティズムの概念にははじめから本質的に重要な違いがあるということ,したがってジェームズが広めたプラグマティズムは決して一般に考えられているような,つまりパースのプラグマティズムの概念の単なる延長発展ではないということである。このようにふたりは相いれがたい思想家であるので,確かにジェームズは多くの点でパースを誤解している。しかしその誤解はジェームズ自身がパースに劣らぬ独創的な思想家で,パースとは独立にすでに独自の思想を確立しているがゆえに生じたものである。よって誤解というかわりに,ジェームズのプラグマティズムは,パースの概念から示唆を得ながら,しかしパースとはひじょうに違う関心と立場から,ジェームズ自身が創設したもう一つの新しいプラグマティズムであると言える。
 そこでプラグマティズムを正確に理解するにはまずパースとジェームズの立場を対比し,ふたりの相違を知ることが肝要であるが,その相違はおおむねつぎのように要約できるであろう。(1)パースがプラグマティズムをおもに論理学の主題として,より限定的に考えていたのに対し,ジェームズは宗教論,人生論,世界観的哲学へとプラグマティズムを拡大した。(2)パースは哲学の科学化を主張し,厳密な科学的哲学の確立を企図したが,一方ジェームズは哲学の生活化を主張した。そしてジェームズによる哲学の生活化はプラグマティズムの普及には貢献したものの,多分にプラグマティズムを俗流化した。(3)パースはスコラ的実在論の立場に立って,普遍的一般的法則的なものを真の実在と考えるのに対し,ジェームズの思想は唯名論的傾向が強く,彼にとって実在は多元的,流動的で,われわれが直接経験する顕著に具体的,特殊的,個体的事象を意味している。したがって,(4)プラグマティズムの主要概念の一つである〈実際的結果〉についても,パースは一定の一般的条件の下でいつでもだれでも確かめることのできる客観的一般的法則的結果を考えているのに対して,ジェームズは〈抽象的で,一般的で,無気力なものに対する顕著に具体的で,単一的で,特殊的かつ効果的なもの〉を考えている。(5)パースが真理と実在の探究において主観,個人的意志を排し,真理と実在をわれわれの意志に関係なく,外からの強制として,つまり合理的に思考し実験的に探究する者ならだれもが認めざるをえないものとして考えるのに対し,ジェームズは〈信ずる意志〉の哲学,主意主義の立場に立って,人間ひとりひとりの具体的主体的意志の行使を重視する。このようにパースと対比してみると,ジェームズのプラグマティズムを顕著に特色づけているのは,唯名論的傾向,個人主義,心理主義,直接経験主義,主意主義,実践主義,反主知主義であると言えよう。
[デューイ]  パース,ジェームズとともに,プラグマティズムを代表するもう一人の偉大な思想家はデューイである。デューイはプラグマティズムの大成者で,20世紀初頭から30年代にかけて全盛をきわめたプラグマティズム運動の中心的な指導者である。プラグマティズムはデューイにいたって最も大きな発展を遂げたが,そのデューイのプラグマティズムは教育学,心理学,社会学,政治学,倫理学,論理学(探究の理論),文化の哲学,芸術論,宗教論などの多領域に及ぶ実に広大かつ多面的な思想である。そしてこのようなデューイの広大で多面的プラグマティズムは,全体として実践的人間学または〈生活の哲学〉としての性格を有し,デューイの哲学的関心は理論的探究にとどまらず,つねに人間および社会の現実的具体的諸問題の解決という実践的課題に向けられている。本来〈プラグマティズム pragmatism〉という言葉はギリシア語の〈プラグマ pragma〉(〈行動,実践〉の意)に由来し,それは語義どおりに訳せば行動主義,実践主義,または行動の哲学ということになるが,デューイにとって〈行動〉とは人間生活のあらゆる営みを意味し,行動の哲学はすなわち生活の哲学である。そしてこのデューイの行動即生活の哲学の根底にあって,その核心を成しているのは彼の自然主義と道具主義であろう。
 デューイはパース,ジェームズのプラグマティズムを継承しながら,さらに C. ダーウィンの進化論から決定的な影響を受けることによって,独自の自然主義的プラグマティズムを確立した。その自然主義とは,いっさいの先験主義を否定し,自然と経験,物質と精神,存在と本質,自然的生物学的なものと文化的知的なものの隔絶を説いてきた伝統的二元論をすべて排して,人間のあらゆる社会的文化的精神的営為は自然的生物学的なものから発し,それとの連続性によって成り立っていると主張する立場である。デューイの自然主義においても,人間の本性はもちろん人間の文化的精神的営為にある。しかし人間ははじめから文化的精神的存在であるのではない。人間はまず自然的生物学的な〈生活体〉であり,そこで生物学的生活体としての人間はまずその自然的環境との不断の相互作用において自然的生命を維持し,自然的生活を営まなければならない。こうして人間はその自然的生命,生活に不可欠な自然的諸条件の下で生活をはじめるが,しかし人間の生活はもちろん単なる自然的生物学的次元にとどまるものではなく,他の動物とは違って,人間本来の生活は,思考とか認識とか言語の働きなどの知的活動を媒介にして営まれる文化的精神的生活である。その場合,しかしこのような人間の知的活動は先験的なものではなく,人間生活体とその環境との不断の相互作用を通して,そこに起こる生活上の諸困難,諸問題を解決する必要から,すなわち道具的に機能的に生じ発展するものである。こうしてデューイの自然主義は必然的に彼の道具主義にいたる。その道具主義とは,人間は道具の使用によって,他の動物に比べてはるかに大きな環境に対する適応能力をもっているが,同様に人間の知性は人間がよりよくその環境に適応し,よりよい生活を営むための手段であり道具であるという主張である。そしてデューイは科学の方法を最もすぐれた知的探究の方法と考え,人間のいっさいの社会的文化的精神的営為において科学的実験的探究の態度と方法を強調した。
[日本におけるプラグマティズム]  以上パース,ジェームズ,デューイの思想を通してプラグマティズムを概観してきたが,そのプラグマティズムが最初に日本にはいったのは1888年で,元良(もとら)勇次郎によるデューイの心理学の紹介にはじまっているようである。その後,93年には元良がこんどはジェームズの心理学を紹介し,1900年にはイェール大学の心理学教授 G. H. ラッドが来日して,ジェームズの心理学について講演し,その翌年桑木厳翼がジェームズの《信ずる意志》の思想を紹介した。なお,ジェームズの〈直接経験〉〈純粋経験〉の思想は西田幾多郎,田辺元,出隆らに影響を与えている。一方,デューイの心理学,倫理学,教育思想も中島徳蔵,田中王堂らによって紹介された。このようにジェームズとデューイの思想はかなり早くから日本に受容されているが,ジェームズの思想が日本のアカデミズム哲学者たちの注目を引いたのに対し,デューイの思想は在野の思想家たち(田中王堂,杉森孝次郎,帆足(ほあし)理一郎ら)に受け入れられ,アカデミズム哲学との対決に重要な役割を果たしていることは注目される。そして日本におけるプラグマティズムの主流は在野派であり,その最も代表的な思想家は田中王堂であろう。彼はデューイから直接最も大きな影響を受け,〈書斎より街頭に〉を標榜して哲学の生活化を主張し,道具主義を唱え,〈徹底的個人主義〉〈民主主義〉を説いた。プラグマティズムは第2次大戦前の日本では特に大正デモクラシー期に最も盛んに摂取された。そして敗戦後,再びデューイを中心にプラグマティズムの研究がいっそう盛んになり,日本の民主主義運動,教育改革に大きな影響を与えた。⇒分析哲学∥論理実証主義              米盛 裕二

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プラグマティズム
プラグマティズム Pragmatism 19世紀アメリカの哲学者パース、ジェームズなどによってとなえられた、はじめてのアメリカ独自の哲学。ある命題がただしいかどうかは、その命題が実際に役にたつかどうかにかかっていて、思考の目的は行為をみちびくことにあり、観念の重要さはその結果によるという考え方。プラグマティズムは実際に役にたたないような考えを否定し、真理はそれをもとめる時や場所や目的によってきまると主張した。この考え方は、20世紀初頭のアメリカの哲学界を大きくまきこんだ。

アメリカの哲学者・教育者デューイは、プラグマティズムを道具主義という新しい哲学に発展させた。イギリスでも、シラーがプラグマティズムのその後の発展に貢献した。

19世紀前半の功利主義と同じく、プラグマティズムは自然科学が実際に利用できる哲学であった。


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C.パース
パース

パース
Peirce,Charles Sanders

[生] 1839.9.10. マサチューセッツ,ケンブリッジ
[没] 1914.4.19. ミルフォード


アメリカの哲学者。プラグマティズムの祖とされ,また形式論理学,数学の論理分析にも貢献。ハーバード大学卒業後,主として合衆国沿岸測量技師として活躍。晩年は隠栖して哲学研究に没頭。 1878年の論文『われわれの観念を明晰ならしめる方法』 How to Make Our Ideas Clearにおいて,概念の意味はその概念によって引出される実際の結果によって確定されると主張し,この説は友人の W.ジェームズにより「プラグマティズム」と命名された。しかしパースは自己の説を「プラグマティシズム」と呼んで,前者から区別した。死後8巻から成る論文集が編纂された。





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パース,C.S.
パース Charles Sanders Peirce 1839~1914 アメリカの哲学者・論理学者・自然科学者。マサチューセッツ州ケンブリッジに生まれ、ハーバード大学にまなぶ。1864~84年にハーバード大学などで論理学と哲学をときおりおしえたが、教授として定職にはつかなかった。67年、イギリスの数学者ブールによってつくられた論理学の体系に注目し、ブール代数を修正拡大した。

パースはプラグマティズムの創始者として有名である。彼の考えによれば、どんな対象や考えでも、それだけでは正しくも重要でもなく、それをつかったり適用したりすることで実際手にする結果だけが重要となる。したがって、ある考えや対象の「正しさ」とは、それがどれほど役にたつのかを経験的に吟味することによってきまる。この考え方は、ジェームズやデューイによってさらに発展させられたが、それはパースの考えとはかならずしも一致していない。

記号論理学や記号論などをふくむ広範囲にわたるパースの先駆的な業績は、現代の哲学や社会学に大きな影響をあたえ、今なお多くの可能性をひめている。死後、全8巻の「パース論文集」(1958)が刊行された。


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パース 1839‐1914
Charles Sanders Peirce

アメリカの自然科学者,論理学者,哲学者。プラグマティズムの始祖で,現代記号学(記号に関する一般理論)の創設者のひとり。また記号論理学,数学基礎論,および科学方法論の現代的発展における先駆者のひとりでもあり,〈合衆国が生んだ最も多才で,最も深遠な,そして最も独創的な哲学者〉と言われる。
 マサチューセッツ州のケンブリッジに生まれ,父親ベンジャミン・パース Benjamin P.(1809‐80,ハーバード大学の数学と自然哲学の教授で,当時のアメリカにおける最大の数学者)の下で特別の家庭教育を受け,ハーバード大学に学んだ。期待どおりに数学,物理学,論理学,科学哲学などの多領域で頭角を現し,大いに将来を嘱望されていたが,その偏屈な性格と離婚問題などに加えて,当時のアメリカの学界はまだ論理学の研究に関心がなかったために,大学に定職を得ることができなかった。1887年にはペンシルベニア州の山村ミルフォードに隠筒,91年には61年以来勤めてきた合衆国沿岸測量部の技師もやめ,晩年は貧困と孤独と病苦のなかで過ごした。隠筒生活のゆえに学界からも遠ざかってまったく無名の人となり,死後も長い間世に埋もれてきた不遇の人である。しかし1931‐35年に遺稿が大半を占める《チャールズ・サンダーズ・パース論文集》全6巻(1958年にさらに2巻が加えられて,現在は全8巻)が出版され,そのうえ30年代の半ばころからアメリカの哲学界を風靡(ふうび)した外来の論理実証主義,分析哲学の影響の下で特に形式論理学の研究,数学および経験科学の基礎論的研究などが盛んになるにつれて,それらの分野の最もすぐれた先駆者のひとりであったパースの存在がとりわけ注目されるようになった。爾来パース哲学への関心がひじょうに高まって,その影響はいまや論理学,科学哲学,科学史研究,記号学,現象学,言語学,文学理論などの多領域に及んでいる。
 パースはきわめて多面的な哲学者で,その思想はとても一つのイズムには収まらない。一般にはプラグマティストとして知られているが,しかしプラグマティズム(彼は1905年にプラグマティズムをより厳密に再定式化し,W. ジェームズらのそれと区別して,〈プラグマティシズム pragmaticism〉と改名)はパース哲学の重要ではあるがその一部分を占めるにすぎず,全体系を意味するものではない。パースは彼の〈諸科学の分類〉において哲学の構想と体系を示しているが,それによると,彼は厳密な科学的哲学を体系立てようと企図していることがわかる。そしてその科学的哲学は現象学,規範科学(美学,倫理学,論理学を含む),形而上学(存在論,宗教的形而上学,物理的形而上学を含む)の3部門から成る。パースはこの体系を完成することはできなかったが,その厳密な基礎学となるべき〈現象学〉を創設し,さらに,その現象学の原理――パースは〈第一性〉〈第二性〉〈第三性〉と呼ばれる三つの普遍的現象学的カテゴリーを導き出している――に基づいて緻密な記号の分類を行いつつ,きわめて独創的・包括的な記号理論(記号学)を創設した。論理学においても三つのカテゴリーにしたがって論証を〈演繹(えんえき)〉〈帰納〉〈アブダクション abduction〉の三つのタイプに分け,それぞれの論理について多くの著述を残している。形而上学では普遍的一般的法則的なもの(現象学的には〈第三性〉と呼ばれる存在の様式)の実在を主張する独自のスコラ的実在論の立場に立って,それをプラグマティズムの形而上学的前提とし,さらにその立場から形而上学の諸問題を論じている。現在の《論文集》はほぼこの体系にしたがって編集されているが,完全なものではなく,未編集の遺稿はまだかなり残っている。しかし《論文集》で見るかぎりでも,パース哲学は多面的かつ広大な独創的思想の宝庫である。⇒プラグマティズム            米盛 裕二

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プラグマ
プラグマ

プラグマ
pragma

  

ギリシア語で行為,事実,事物,重要事,問題の意。行為や事実としてのプラグマには理論 logosが,事物としてのプラグマには名辞 onomaや言語 logosが対応する。ことに後者の対応関係はギリシア哲学において実在の解釈をめぐる基本的な問題であった。





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W.ジェームズ
ジェームズ

ジェームズ
James,William

[生] 1842.1.11. ニューヨーク
[没] 1910.8.26. ニューハンプシャー,チョコルア

  


ジェームズ


アメリカの哲学者,心理学者,いわゆるプラグマティズムの指導者。小説家 H.ジェームズの兄。 1861年ハーバード大学理学部へ入学,のち同大学の医学部へ移籍。 67~68年ドイツに留学し,フランスの哲学者 C.ルヌービエなどの影響を受け,心理学,哲学に心をひかれた。 69年卒業,学位を得たが開業せず,療養と読書に過した。 72年ハーバード大学生理学講師。のち心理学に転じ,伝統的な思考の学としてではなく生理心理学を講じ,実験心理学に大きな貢献をした。また,ドイツの心理学者 C.シュトゥンプを高く評価。さらに宗教,倫理現象の研究に進み,その後哲学の研究に入った。その立場は根本的経験論に基づく。そのほか,82年頃から心霊学に興味をもち,アメリカ心霊研究協会の初代会長をつとめた。主著『心理学原理』 The Principles of Psychology (1890) ,『信ずる意志』 The Will to Believe and Other Essays in Popular Philosophy (97) ,『宗教的経験の諸相』 The Varieties of Religious Experience (1901~2) ,『プラグマティズム』 Pragmatism (07) ,『根本経験論』 Essays in Radical Empiricism (12) 。





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ジェームズ,W.
I プロローグ

ジェームズ William James 1842~1910 アメリカの哲学者、心理学者。プラグマティズムを思想的に大きく発展させた。

父のヘンリー・ジェームズはスウェーデンボリ派の神学者、弟のヘンリー・ジェームズは高名な小説家。おさないころはヨーロッパ各地ですごし、ハーバード大学で化学を専攻、のちに医学をまなび、学位をとる。博物学者アガシーを隊長とするブラジル生物探検隊に参加したこともある。病気療養後、1873年からハーバード大学で生理学、80年以降は心理学と哲学をおしえる。ニューハンプシャー州で死去。

II 心理学

ジェームズは最初の著作「心理学原理」(1890)によって、思想家としての名をあげた。この著作は、心理学における機能主義の原理をおしすすめたもので、哲学の1分野でしかなかった心理学を、現代の実験心理学の位置にまで高めた。

さらにジェームズは、この経験的方法を哲学と宗教にも適用し、神の存在、魂の不死、自由意志などの問題を、ひとりひとりの具体的な宗教的、道徳的経験にもとづき探究した。これらの主題に関する彼の考えは、「信ずる意志」(1897)や「宗教的経験の諸相」(1902)で展開されている。

III プラグマティズム

1907年に出版された「プラグマティズム」は、パースによってとなえられたプラグマティズムについてのジェームズ独自の考えがまとめられている。ジェームズはプラグマティズムを、科学の論理的基礎についての批判から、すべての経験の価値をきめる方法に拡大した。彼は、観念の価値はその結果によってきまり、もしなんの結果ももたらさないのであれば、その観念は無意味であると考えた。これは、仮説によって予想された事態が実際おこれば、その仮説はただしいとする科学者の方法と同じであると主張した。

「根本的経験論」(1912)で、多元的宇宙を論じ、絶対的なものによって世界を説明する考えを否定し、絶対的な形而上学的体系や、現実は統一された全体だという一元論的考えに異論をとなえた。ジェームズは、純粋経験である意識の流れを重視し、絶対主義よりも相対主義、一元論よりも多元論の立場をとった。彼の哲学は、デューイなどの哲学者によってさらに展開された。


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ジェームズ 1842‐1910
William James

アメリカの心理学者,哲学者。アメリカにおける実験心理学の創始者のひとり,哲学においてはプラグマティズムを広い思想運動に発展させ,現代哲学の主流の一つにした指導的学者として知られる。父親のヘンリー・ジェームズ Henry J.(1811‐82)は宗教・社会問題の著述家,父親と同名の弟は著名な小説家。ニューヨーク市に生まれ,幼時期(1843‐45),少年時代(1855‐60)をヨーロッパ各地で過ごし,1860年に画家を志望してアメリカの宗教画家 W. M. ハントに師事したが,まもなく才能がないことを知って断念,翌年には,ハーバード大学のロレンス科学学校に入学し,はじめは化学を専攻,後に解剖学と生理学を学び,さらに医学に進んだ。医学部在学中にハーバードの著名な博物学者 J. L. アガシーを隊長とするブラジル生物探検隊に参加(1865‐66),アガシーによって科学的関心を強くそそられ,実証的精神を培われた。その後療養と実験生理学の研究のため再び渡欧,68年にハーバードに帰ってその翌年医学部を卒業,病気のためしばらく隠居した。73年からハーバード大学で解剖学と生理学を教え,75年からさらに心理学の講義を担当,そして79年から哲学を教えはじめ,しばらく心理学と哲学の教授を兼任したが,97年からは専任の哲学教授となって1907年まで教えた。
 ジェームズは,幼少,青年期における長い滞欧生活に加え,ハーバード大学在任中も療養,研究,学会出席などのためにたびたび渡欧して,深くヨーロッパの風土,文化,思想に親しみ,その影響を強く受けた。したがってもちろんジェームズの思想はヨーロッパ的色彩に濃く彩られているが,一方,彼はまた,だれよりも如実にアメリカの伝統を受け継ぎ,その伝統に根ざした最もアメリカ的な思想を確立した思想家であるとも言われる。しかしジェームズの哲学を一般的哲学史のなかに正しく位置づけて評価することを怠って,もっぱらそのアメリカ的性格を強調し過ぎれば,彼の真の思想と哲学的業績を歪曲することになるという警告があることも忘れてはならない。ともあれ,ジェームズの哲学の核心はなんといっても〈信ずる意志will to believe〉の思想であろう。そして〈信ずる意志〉の哲学として見れば,ジェームズの哲学の諸特性も容易に理解できるであろう。〈信ずる意志〉の哲学であるがゆえに,ジェームズの哲学は顕著に行動の哲学であり,具体的生の哲学である。というのは,〈信ずる意志〉とは〈行動する意志〉のことであり,人間として生きるための積極的かつ具体的な意志,信条にほかならないからである。ジェームズが絶対主義を排して相対主義を,決定論を否定して非決定論を,一元論に対して多元論をとるのも,世界および人生の根底につねに人間の自由意志すなわち〈信ずる意志〉を据えて考えているからである。この立場に立つがゆえに,また,ジェームズの哲学は著しく個人主義的,唯名論的にならざるをえない。プラグマティズムにおいてジェームズがたとえば C. S. パースの場合とひじょうに違うのも,パースが,(一定の条件さえ満たせば)いつでもだれでも確かめられる客観的実験的結果を重視し,それに基づく科学的信念の固め方としてプラグマティズムの方法を考えたのに対して,ジェームズは人間ひとりひとりの具体的意志の行使を重視し,そしてプラグマティズムの意味基準を〈だれかの上に,なんらかの仕方で,どこかで,あるとき生ずる〉結果に見いだそうとするからである。そのほかジェームズの哲学を顕著に特色づけている実践主義,具体的経験主義,反主知主義,反形式主義なども,あるいは彼の哲学的関心が特に宗教の問題に向けられていることも,すべて〈信ずる意志〉の思想に拠っていると言える。主著には〈意識の流れ〉やジェームズ=ランゲ説の主張を盛り込んだ《心理学原理》2巻(1890),《信ずる意志》(1897),《宗教的経験の諸相》(1902),《プラグマティズム》(1907)などのほか,西田幾多郎にも影響を与えた《根本的経験論》(1912)がある。⇒プラグマティズム   米盛 裕二

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J.デューイ
デューイ

デューイ
Dewey,John

[生] 1859.10.20. バーモント,バーリントン
[没] 1952.6.1. ニューヨーク

  


デューイ

プラグマティズムに立つアメリカの哲学者,教育学者,心理学者。哲学のプラグマティズム学派創始者の一人,機能心理学の開拓者,アメリカの進歩主義教育運動の代表者。バーモント州立大学卒業後ジョンズ・ホプキンズ大学で心理学者 G.ホール,哲学者 C.パースなどに学んだ。 1888~1930年ミネソタ,ミシガン,シカゴ,コロンビアの各大学教授を歴任。その間日本,中国,トルコ,メキシコ,ソ連などを旅行し社会改革の実情を視察した。またトロツキー査問委員会委員長,アメリカ平和委員会の一員として政治的,社会的にも活躍。その哲学の特色は,伝統的哲学の絶対性や抽象的思弁を排し,哲学的思考は経験によって人間の欲求を実現するための道具であり,哲学的真理は善や美と並ぶ目的価値ではなく,それらを実現するための手段とみなすところにある。このインストルメンタリズムと呼ばれる立場を教育学に応用して進歩主義教育の理論を確立,その他政治学,社会学,美学などの分野にも貢献した。主著『心理学』 Psychology (1887) ,『民主主義と教育』 Democracy and Education (1916) ,『経験と自然』 Experience and Nature (25) ,『確実性の探求』 The Quest for Certainty (29) ,『人間の問題』 Problems of Men (46) など。





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[ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 2008]


デューイ,J.
デューイ John Dewey 1859~1952 アメリカの哲学者、教育学者、心理学者。バーモント州バーリントンに生まれ、1879年バーモント大学を卒業、ペンシルベニアとバーモントで2年間教師をつとめた。84年にジョンズ・ホプキンズ大学で博士号を取得したのち、シカゴ大学の主任教授やコロンビア大学の哲学教授などを歴任。プラグマティズム運動の中心的指導者として活躍し、その考え方を世界にひろめた。

プラグマティズムは、哲学者パースが伝統的なものの考え方に対して自分の考え方を強調しようとして最初にもちいたものであり、ギリシャ語のプラグマ(行為、事実)を重んじるという意味であったといわれる。デューイは、この考え方をもとに経験という概念を核心にすえ、実際的な経験の中にはたらく考えを重視する。ゆえに、経験はわれわれの日常の生活そのものであり、生活すなわち経験、経験すなわち生活である。

デューイは、このプラグマティズムの考え方にもとづいた教育改革に大きな関心をしめし、シカゴ時代には、経験から出発する実験学校をシカゴ大学に設置した。その目標は経験のたえざる拡大による成長と成熟の達成であった。デューイの教育改革に関する思想と提案は、おもに彼の著書の「学校と社会」や「民主主義と教育」などにのべられているが、アメリカの教育の発展に大きな影響をあたえた。その見解は、教科中心よりも児童中心、形式学習よりも活動をとおした教育、伝統的教科の習熟よりもむしろ職業教育を強調した進歩主義教育運動の原点となった。


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デューイ 1859‐1952
John Dewey

アメリカの哲学者,教育学者,社会心理学者,社会・教育改良家。哲学ではプラグマティズムを大成して,プラグマティズム運動(20世紀前半のアメリカの哲学および思想一般を風靡した哲学運動)の中心的指導者となり,その影響を世界に広めた。教育においてはプラグマティズムに基づいた新しい教育哲学を確立し,アメリカにおける新教育運動,いわゆる〈進歩主義教育〉運動を指導しつつ,広く世界の教育改革に寄与した。心理学では機能主義心理学の創設者のひとりで,社会心理学,教育心理学の発展にも多大の貢献をしている。
 バーモント州のバーリントンに生まれ,1879年にバーモント大学を卒業,3年間高校の教職に就いたのち,82年にジョンズ・ホプキンズ大学大学院に進み,2年後に博士課程を終えて学位を取得した。84‐94年ミシガン大学で教え(ただし,88‐89年はミネソタ大学の招聘教授),94年にシカゴ大学に招かれて哲学,心理学,教育学科の主任教授,1904年にコロンビア大学に転任,30年に退職するまでそこにとどまった。デューイはシカゴ大学在任中に二つの画期的な仕事をした。その一つは,アメリカにおける進歩主義教育運動の原点となった〈実験学校 Laboratory school〉をシカゴ大学に設置したこと(1896。その教育原理を《学校と社会》(1899)として刊行),もう一つは,1903年にデューイと彼の同僚たちによる共同研究《論理学的理論の研究》が出版され,そこにプラグマティズムの新しい一派,いわゆる〈シカゴ学派〉が形成されたことである。デューイのこれらの仕事はコロンビア大学に移って大きく開花し,全国的な教育改革運動,プラグマティズム運動に発展した。
 デューイの哲学および教育思想の核心を成しているのは彼の〈経験〉の概念である。経験をもっぱら知識論の問題として,つまり認識論的概念として取り扱ってきた伝統的哲学の主知主義的偏向を排して,デューイはそれをわれわれの日常的生活そのものとして,人間の生活全体の事柄として――生活すなわち経験,経験すなわち生活として――とらえる。彼はまた,自然と経験,生物学的なものと文化的・知的なもの,物質と精神,存在と本質などの隔絶を説くいっさいの二元論を否定し,それらの連続性を主張し強調する。人間は〈生活体〉であり,そして生活体としての人間はまず自然的・生物学的基盤の上に存在している。人間の本性は,もとより人間の社会的・文化的・精神的営為にあるが,しかしその人間の本性は決して自然的・生物学的なものとの断絶によってではなく,それとの連続性の上に成り立っているのである。このデューイの連続主義は人間の経験すなわち生活が自然的・生物学的なものから発し,さらに世代から世代への伝達によって連続的に発展することを説くもので,人間性を自然的・生物学的なものに単純に還元解消するいわれのない還元主義ではない。生活のもう一つの基本原理は,生活は空虚のなかで営まれるものではなく,生活体とその環境(生活体の生活を支えかつ条件づけるいっさいの外的要因)との不断の相互作用の過程であるということである。そしてこの原理によれば,思考とか認識とか,その他人間のあらゆる意識活動は,その相互作用の過程の中で,そこに起こる生活上の諸困難,諸問題を解決するために,道具的・機能的に発生し発展する。
 デューイは人間経験の本質をいま述べた生活の二つの基本原理――連続性と相互作用の原理――に求める。そしてこの二つの原理から,デューイのあらゆる思想――知識道具主義,精神機能論,探究の理論としての論理学説,自然と人間経験の世界を連昔する〈自然の橋〉としての〈言語〉の概念,自由な社会的相互交渉と連続的発展を基本的特色とする生活様式としての〈民主主義〉の概念,生活経験主義的教育原理など――が導かれる。デューイは多作家で,M. H. トマスが作成した著作目録は150ページに及ぶ膨大なものである。その中から主著として,《民主主義と教育》(1916),《哲学の改造》(1920),《人間性と行為》(1922),《経験と自然》(1925),《論理学――探究の理論》(1938)などを挙げることができよう。なお彼は,著作活動だけにとどまらない行動する思想家であり,中国,トルコ,ソ連などへの教育視察・指導旅行,サッコ=バンゼッティ事件での被告弁護活動などは特によく知られている。⇒プラグマティズム                 米盛 裕二

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ウィトゲンシュタイン
ウィトゲンシュタイン

ウィトゲンシュタイン
Wittgenstein,Ludwig

[生] 1889.4.26. ウィーン
[没] 1951.4.29. ケンブリッジ

  

オーストリア生れの哲学者。最初ベルリンとマンチェスターで工学を学んだが,1912年以降ケンブリッジで論理学,哲学を学んだ。第1次世界大戦中はオーストリア軍に志願,18~19年イタリアで捕虜生活をおくったのち,20~28年小学校教師,庭師,建築家などを経て,29年ケンブリッジに復帰,30~36年同大学フェロー,講師,38年イギリスに帰化,39~47年哲学教授。彼は初め,哲学を言語批判の学として規定し,B.ラッセルの影響を受けながら論理的原子論 logical atomismを主張し,言語と事実との対応関係を明らかにしようとした。しかしそののち,彼はこの立場を反省し,日常言語の分析に意義を見出すにいたった。主著『論理哲学論考』 Logisch-philosophische Abhandlung (1921) ,『哲学探究』 Philosophische Untersuchungen (第1部,36~45。第2部,47~49) 。





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ウィトゲンシュタイン 1889‐1951
Ludwig Wittgenstein

20世紀におけるもっとも重要な哲学者のひとりで,いわゆる分析哲学の形成と展開に大きな影響を与えた。ウィーンのユダヤ系の家庭に生まれ,1908年以後は主としてイギリスで活動し,オックスフォードで没した。彼の哲学の発展はふつう前・後期の2期に分けられるが,前期の思想は生前公刊された唯一の著書である《論理哲学論考》(1922)に集約されており,フレーゲおよび B. A. W. ラッセルとの関係が深い。他の著作はすべて弟子たちの手で遺稿から編纂され,とくに《哲学探究》(1953)が後期の代表作とされる。なお,《論考》の発表後しばらく哲学から離れていた彼が再渡英し,ケンブリッジ大学に戻った29年から,この《探究》の執筆を始める36年ころまでを〈中期〉と呼んで区別することもある。すべての時期を通じて彼の哲学は,言語の有意味性の源泉を問い,言語的な表現と理解の根底にあってこれを可能ならしめている諸条件を探究するものであった。しかし前期の思想と(中)後期の思想のあいだにはかなり顕著な性格の違いがあり,その影響も異なる方向に働いた。同じく言語の明晰化を主目的とする分析哲学者でも,記号論理学による科学言語の構成を目ざすひとは《論考》を尊重し,日常言語の記述によって伝統的な哲学問題の考察をすすめるひとは《探究》から学んだ。なお中期の著作としては《青色本・茶色本》《哲学的考察》《哲学的文法》があり,後期には《探究》のほかに《断片》《確実性の問題》などがある。第2次大戦後の日本でも彼の哲学に対する関心は活発で,研究書や論文の数も多い。
 前期《論考》の哲学では言語の基本的な構成単位を〈要素命題〉と呼ぶが,これは例えば画像や立体模型と同様に,一定の事実を写す〈像〉であると考えられ,それら要素命題から論理的に構成されたものとして分析できる命題だけが有意味と認められる。彼はこの原子論的な言語観に基づき,世界の諸事実を記述する経験科学の命題と,もっぱら言語の形式にかかわる数学・論理学の命題を峻別した。また形而上学的な〈自我〉や価値・倫理などの伝統的な哲学問題は元来〈語りえぬ〉もの,言語ないし世界の限界の外にあるものとする。一見すると《論考》の哲学は,論理実証主義者の反形而上学的な科学哲学を先取りしたもののようであるが,じつは彼の真意は,人間の根本の生きかたにかかわる問題をあくまで尊重し,これらを〈内側から限界づけ〉て事実問題との混同を防ぐところにあった。その後彼は《論考》の言語観にみずからきびしい批判を加え,しだいにあらたな考察の地平を切り開いていったが,その際とくに重要な意味をもったのは〈自我〉の問題である。《論考》の中核である〈像の理論〉は,要素命題の記号を言語外の対象に対応づけ,命題を事実の写像たらしめる主観の作用を暗黙のうちに前提していた。これは言語主体たる〈私〉を有意味性の根源とすることであり,そのかぎり,〈私の言語の限界〉をもって世界そのものの限界とする独我論の立場を脱することはむずかしい。後期のウィトゲンシュタインは,こういう〈私的言語〉の想定が《論考》のみならず広く哲学的な言語解釈の根源になっていることを見抜き,この想定の背理と不毛を徹底的に追及した。この批判作業を通じて,後期における〈言語ゲーム〉の哲学の基礎が固められる。言語は物理的な記号配列や,これに意味付与する精神作用としてではなく,一定の〈生活形式〉に基づき,一定の規則にしたがって営まれる〈行為〉として考察されることになった。さまざまな言語ゲームの観察と記述によって彼は哲学の諸問題を解明したが,最晩年には古典的な〈知と信〉の問題に深く踏みこみ,言語ゲームそのものを支える〈根拠なき信念〉をめぐって思索した。後期の哲学は社会・文化・歴史など,人間生活の諸相につき示唆するところが多い。⇒分析哲学∥論理実証主義                      黒田 亘

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ウィトゲンシュタイン,L.
I プロローグ

ウィトゲンシュタイン Ludwig Wittgenstein 1889~1951 オーストリアで生まれ、イギリスで活躍した哲学者。分析哲学や言語哲学といわれる哲学運動に大きな影響をあたえた20世紀の主要な哲学者のひとり。→ 分析哲学と言語哲学

II 生涯

ウィーンの富裕な家庭に生まれ、最初はエンジニアをこころざすが、数学の基礎へ関心がうつり、ケンブリッジ大学でラッセルの弟子となって記号論理学や哲学をまなぶ。1918年に「論理哲学論考」(1922年出版)を完成して、これで哲学の問題はすべて解決したと信じ、その後は小学校の教師や庭師などをしてすごす。

1929年、ふたたびケンブリッジ大学にもどり、哲学を再開。「論理哲学論考」の考えを否定し、「哲学探究」(1953、死後出版)に結実する後期思想を展開する。天才の名にふさわしい特異な性格と簡素な生活ぶりが、多くの弟子たちによってつたえられている。

III 哲学

ウィトゲンシュタインの哲学は、「論理哲学論考」の中で展開された前期思想と、「哲学探究」に代表される後期思想にわけられる。しかし前・後期ともに、哲学を、言語を分析する活動であると考える点では一貫していた。

1 「論理哲学論考」

「論理哲学論考」においては、言語は要素命題といわれるそれ以上分割することのできない最小単位によってできあがっているとされる。しかし、日常つかわれる言葉は、複雑で混乱している。そのような言語と対応して世界のほうも表面は複雑で錯綜(さくそう)しているが、分析によってそれ以上分割できない原子的な事実へとたどりつくことができる。ウィトゲンシュタインによれば、要素命題は、この原子的な事実をそのままうつしているのである。

このように事実と正確に対応している命題、つまり科学における命題だけが意味のある命題だとウィトゲンシュタインはいう。それゆえ、これまで形而上学によって語られた文や、倫理的な文は無意味なものになってしまう。「論理哲学論考」は、「語りえないものについては沈黙しなければならない」という有名な言葉でむすばれている。このような考え方にウィーン学団の論理実証主義者たちは強く影響され、形而上学的命題などは無意味なものだとしてすてさった。→ 実証主義

ただし、ウィトゲンシュタイン自身は「語りえないもの」の領域をみとめ、それについて無意味に語ることのないよう、いわば逆方向から言語の限界づけをおこなったのだとも考えられている。

2 「哲学探究」

「哲学探究」では、「論理哲学論考」の言語観は否定され、より実際の言葉の使用の場面に目がむけられる。言葉はさまざまな状況でいろいろなやり方でつかわれており、「論理哲学論考」で想定したような統一的な言語など存在しないと考えられるようになった。

このような、さまざまにことなった言語の活動を、ウィトゲンシュタインは「言語ゲーム」とよんだ。科学者には科学者の、神学者には神学者の「言語ゲーム」があり、言葉の意味はその言葉がつかわれている実際の文脈によってきまる。ウィトゲンシュタインは、哲学の仕事は実際おこなわれているこのような「言語ゲーム」を記述することにあると論じた。

ほかの著作には「青色本・茶色本」(1958)、「確実性の問題」(1969)などがある。


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分析哲学と言語哲学
分析哲学と言語哲学
I プロローグ

分析哲学と言語哲学 ぶんせきてつがくとげんごてつがく Analytic and Linguistic Philosophy 英米を中心に展開された20世紀の哲学運動。論理実証主義や日常言語学派の総称。哲学の本来の活動は、言葉やそれによって表現される概念をはっきりしたものにすることだという考え方を共有している。このような言葉の分析によって、言葉の混乱によって生じた哲学的な諸問題を解消することを目的にしている。

II 言葉の分析

分析哲学者や言語哲学者の言葉の分析の仕方は、さまざまである。それぞれの語句の意味をはっきりしたものにして哲学でなされる言明のあいまいさをなくすことをめざす哲学者もいれば、意味のある文と無意味な文をわける基準をつくるために、発言が意味のあるものとなるための一般条件をきめようとする哲学者もいる。あるいは、数学的な記号であらわされる形式的な記号言語をつくりだそうとしている学者もいる。

彼らは、厳密で論理的な言葉ができれば、哲学で問題にされていることがらは、よりあつかいやすくなると考える。

しかし、この運動に参加した多くの哲学者は、日常つかっている自然言語に目をむけた。いろいろな哲学上の問題がおこるのは、時間や自由などといった言葉をふつうの使い方からはなれて考えるときである。したがって日常の言葉の使い方に注目することが、多くの哲学の難問をとく鍵(かぎ)となると彼らは考えた。

III ムーアとラッセル

言葉の分析自体は、プラトンの対話編にもみられるが、20世紀になるとまったく新たなものとして登場した。ロック、バークリー、ヒューム、ジョン・スチュアート・ミルなどのイギリス経験論(→ 経験主義)の伝統とドイツの論理学者フレーゲの著作の影響をうけ、20世紀の言語分析の哲学をはじめたのはムーアとラッセルであった。

2人はともに、ケンブリッジの学生のころに、本当に存在するのは絶対的なものだけだというブラッドリーに代表されるヘーゲル的観念論に反発し、哲学の研究において言葉を重視する姿勢をとった。これにより、彼らは20世紀の英米圏の哲学のあり方を決定づけた。

ムーアにとって哲学は、なによりもまず分析である。哲学の仕事は、複雑な命題や概念をもっと単純でわかりやすいものにすることである。この仕事が成功すると、哲学上の主張がただしいか、ただしくないかをはっきりきめることができる。

ラッセルは、世界と対応している理想的な言葉を考えた。ラッセルによれば、複雑な文は、原子命題とよばれるもっとも単純な文にわけられる。その文は世界の最小単位である原子事実に対応している。このような言葉の論理的分析によって世界との対応をたしかめる考え方を、ラッセルは論理的原子論とよんだ。

IV 論理実証主義者たち

ケンブリッジ大学のラッセルのもとに、分析哲学の歴史において中心的な役割をはたすウィトゲンシュタインがやってくる。彼は最初の主著「論理哲学論考」(1922)において哲学は言語批判だと主張し、言葉は世界の像であるという、ラッセルの論理的原子論と同様の考えを展開した。

この時期のウィトゲンシュタインにとって、意味のある文とは、世界の像である自然科学の命題だけであり、自然をこえた、神や倫理についての文は無意味な命題であった。

ラッセル、ウィトゲンシュタイン、マッハなどの影響をうけ、哲学者と数学者のグループが、1920年代のウィーンで論理実証主義(→ 実証主義:ウィーン学団)といわれる運動をはじめた。シュリックとカルナップが中心となり、ウィーン学団は分析哲学の歴史の中でもっとも重要な役割を演じた。彼らによれば哲学の仕事は意味の分析であり、新しい事実の発見や世界全体について説明することではない。

論理実証主義者は、意味のある文は分析的命題と経験的に確認できる命題の2つであるとした。分析的命題は、論理学や数学の命題であり、つかわれている言葉によってそのただしさはきまる。経験的に確認できる命題というのは、少なくとも原理的には感覚経験によって検証されるこの世界についての命題である。このような命題にのみ意味があるとする意味の検証理論によれば、科学的な文だけが事実についてのただしい主張であり、形而上(けいじじょう)学や宗教や倫理に関する文は、事実についてはなにもいっていないことになる。

V ポッパーによる批判

しかしこの検証理論は、ポッパーをはじめとする哲学者たちによって徹底的に批判された。ウィトゲンシュタインも自らの「論理哲学論考」の考えを否定し、「哲学探究」(1953)に結実する新しい思想を展開する。この本で彼は、日常の場面での言葉の使い方に目をむけ、言葉の多様な姿を明らかにした。

VI 言語ゲーム

その過程で「言語ゲーム」という重要な考えが生まれる。科学者、詩人、神学者などはそれぞれことなった言語ゲームをおこなっている。したがって、ひとつの文の意味は、その文があらわれる文脈、そしてその文がつかわれている言語ゲームのルールから理解されなければならない。ウィトゲンシュタインによれば、哲学とは言葉の混乱によって生まれた問題を解決する作業であり、そのような問題の解決の鍵は日常の言葉の分析であり、言葉の適切な使用なのである。

VII 日常言語学派

そのほかに、日常言語学派とよばれるイギリスのライル、オースティン、ストローソン、独自の意味論、存在論をうちたてたアメリカのクワインなどが活躍した。

ライルによれば哲学の仕事は、あやまった表現を論理的により正確な表現にすることである。人はしばしば文法的に同じ表現をつかうことによって、ありもしないものを、あるかのように誤解する。たとえば心と身体について同じ表現がつかわれているからといって、心と身体が同じあり方で存在するわけではない。

オースティンは、哲学の研究を日常の言葉の細かい違いに注目することからはじめた。発言することが行為そのものである場合が存在することを指摘し、言語行為の一般理論、つまり、発言するとき人がなすさまざまな行動の記述による理論を生みだした。

ストローソンは形式論理と日常の言葉の関係を分析し、日常の言葉は複雑なので形式論理ではうまく表現できないと主張した。したがって日常の言葉を分析するためには、論理学以外のさまざまな道具が必要だと考えた。

クワインは言葉と存在論(→ 形而上学)の関係を考察した。哲学者がつかっている言葉の体系によって、その哲学者の存在論がわかるといった。したがって、どのような言葉をつかうかは、まったく便宜的なものになる。

以上のように言葉を分析することが哲学の使命だとする考え方は、記号論理学的な厳密性を追求する立場と日常の言葉の分析をする立場にわかれてはいるものの、現代哲学の主要な流れをかたちづくっている。

→ 認識論:意味論:論理学

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