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倫理学はノイラートの船か?(その3) [宗教/哲学]


直観
直観

ちょっかん
intuition

  

直覚とも訳される。元来みることを意味する。推論的思考によらない直接的な知識獲得。日常使われる直観は勘と同様の意味の予感であり,憶測か無意識的な推論であって本来的な直観とはいえない。哲学では一般に直観とされるものに公理および推論の規則の認識がある (ともに性格上推論によっては得られない) 。倫理学では道徳的価値の認識は直観によるという説がある (J.バトラーら) 。直観は人間の認識能力に直接与えられた論理的検証の不可能な1次的かつ自立的認識である。カントは感覚的場面で直観をとらえて論理的認識と対立させ,ベルグソンは直観を対象と一体化する具体的認識と考えて,抽象的知性と対立させた。





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[ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 2008]

直観主義
ちょっかんしゅぎ intuitionism

L. E. J. ブローエルによって提唱された数学基礎論における立場をいう。数学を単に形式的な論理的演繹の体系と考える形式主義や論理主義に対して,直観に基づく精神活動によって直接にとらえられるものとして数学を再構築しようというもの。たとえば,〈性質 p(x)を満たすような x の存在〉を示すのに,〈いかなる x に対しても,p(x)ではない〉ことを仮定して矛盾を導くという論法が数学でしばしば用いられるが,x が無限の対象を動く場合には必ずしも明白なものとは認められない。p(x)を満たす x が具体的に与えられるか,あるいはそのような x が原理的に見いだせることが確認されてはじめて〈p(x)を満たす x が存在する〉ことが確かめられるのである。このように,直観主義においては数学で通常用いられる論理(古典論理)の無制限の使用,とくに排中律(p∨¬p)の無批判な使用を拒否する。みずから規定した立場に基づいてブローエルが進めた解析学は通常のものとかなり異なった様相をもっており,形式主義の立場に立つ D. ヒルベルトと激しく対立した。その後,ハイティング Arend Heyting らによる直観主義者の用いる論理の公理化(直観主義論理),K. ゲーデルによる解釈,クリーネ Stephen ColeKleene による帰納的関数を用いての解釈などにより直観主義の立場はかなり明白なものとなり,今日,直観主義数学ないし構成的数学として発展している。また,証明論においてヒルベルトのいう有限的・構成的手法とは実は直観主義者的手法といっても過言ではないことがわかってきた。
                        柘植 利之

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直観
I プロローグ

直観 ちょっかん Intuition 直観は哲学においては、経験からも理性からも独立した、認識の一形態である。直観能力や直観的知識は、一般に心の内的な性質とみなされる。さまざまな哲学者にさまざまな(ときには相反する)意味でつかわれてきたので、個々の著作にあたらなくては、この語を定義することはできない。

直観という概念には、明らかに2つの源泉がある。ひとつは数学で考えられる公理(証明を必要としない自明な命題)であり、もうひとつは神秘的な啓示(知性の力をこえた真理)という考え方である。

II ピタゴラス派

直観はギリシャ哲学、とくに、数学の研究と教育に力をいれたピタゴラスとその学派の哲学者たちの思想で重要な役割をはたした。また、多くのキリスト教哲学でも重視された。人間が神を知る基本的な方法のひとつと考えられたのである。直観に重きをおいた哲学者としては、スピノザ、カント、ベルグソンがあげられる。

III スピノザ

スピノザの哲学においては、直観は認識の最高形態であって、感覚から生じる「経験的」認識と、経験に根ざした推論から生じる「理性的」認識の両方をこえている。直観的知によって、個人は、宇宙を秩序ただしい統一的なものとして理解でき、そうすることで個人の精神は「無限なるもの」(神=自然)の一部になることができるというのである。

IV カント

カントは直観を知覚、つまり「現象」に限定するが、そこには心の働きも関与している。彼は直観を2つの部分にわける。ひとつは知覚される外的対象からくる感覚与件(うたがいようのない感覚)であり、もうひとつは心の内にある知覚の「形式」、つまり感覚与件の受け入れ方である。人間はかならず空間と時間という形式でものを感覚する。この形式だけを感覚与件なしに、あらかじめとらえる直観が、「純粋直観」といわれる。空間と時間という純粋直観に数学はもとづいているとカントは考えた。

V ベルグソン

ベルグソンは、本能と知性を対置し、直観を本能のもっとも純粋な形式とみなす。知性は物質的な事物を考察するのには適しているが、生命や意識の基本的な本性を知るのには適さない。直観とは、生命の本能が直接くもりなく自覚されたものである。直観によって人は、意識に直接あたえられる生命の流れにはいりこみ、概念や記号によっては表現しえないものと合一することができる。

これに対して知性は、分析することしかできないが、分析とは、絶対的な物や独自な物をとらえるよりも、むしろ対象のもつ相対的な側面に光をあてるものなのである。真に実在する絶対的な物は直観によってのみ理解されうるとベルグソンは考えたのである。

VI 直観主義者たち

倫理学者の中にも、直観主義者あるいは直覚主義者といわれる人たちがいる。彼らは、道徳的価値(善悪)は直観によって直接知られると考え、道徳的価値が経験から生じると考える経験主義者とも、理性によってきまると考える合理主義者とも対立する。


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直観主義
直観主義(intuitionism)とは、直観という能力によって何が善かを把握できるという立場。善についての判断は善についての事実判断であり、認知主義の一種である。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

直観主義

ちょっかんしゅぎ
intuitionism

  

哲学および数学上の用語。哲学においては,直観を認識の基本とする理論をいうが,直観の定義によってさまざまに異なる。現在直観主義は大きく2方面から考えられる。すなわち,直観を真理把握,価値判断の根本的機能としながら,それを知的直観と感性的直観に分つ立場 (フィヒテ,シェリングなど) と,反省や概念などの一切の主知的要素を排し,存在の把握は直観,体験によってのみ可能とする立場 (ベルグソンが代表的) である。この2つの立場は美学や倫理学においてもさまざまに主張されている。数学上の直観主義とは,オランダの数学者 L.ブローウェルによって主張された数学基礎論の一立場をいう。彼は数学は論理の法則に従って推理するものではなく,数学的直観によって進められるべきであり,論理法則こそが直観から逆に帰納されるべきであると主張した。これは H.ワイルによって発展させられ,論理学のうえに数学を基礎づけようとするフレーゲ,ラッセル,ラムゼーなどの論理主義と鋭く対立している。





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フィヒテ
フィヒテ

フィヒテ
Fichte,Johann Gottlieb

[生] 1762.5.19. ラメナウ
[没] 1814.1.27. ベルリン


ドイツの哲学者。ドイツ観念論の代表者の一人。イマヌエル・カントの影響を強く受けた。 1792年匿名で出版した『あらゆる啓示の批判試論』 Versuch einer Kritik aller Offenbarungは出版前にカントに見せ,称賛を得た。 1793年イェナ大学教授となり,1794年知識学を提唱した。自我を絶対的原理とする彼の知識学では,意識は事物 Tatsacheではなく,事行 Tathandlungであり,自由に自己自身を定立する自我は純粋活動であるとされた。 1798年無神論争を起こし,1799年イェナを追われ,1807年新設のベルリン大学教授となった。 1807~08年ナポレオン1世によるフランス軍支配下のベルリンで『ドイツ国民に告ぐ』 Reden an die deutsche Nationを講演し,ドイツ国民の愛国心を鼓舞。フランスとの戦争に看護師として志願していた夫人がチフスにかかり,夫人から感染して死亡した。主著『全知識学の基礎』 Grundlage der gesamten Wissenschaftslehre (1794) ,『人間の使命』 Die Bestimmung des Menschen (1800) ,『現代の特質』 Grundzge des gegenwrtigen Zeitalters (1806) 。



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ドイツ観念論
観念論
I プロローグ

観念論 かんねんろん Idealism 広義には、意識や精神的なものを原理とする哲学上の説をいうが、さまざまな立場がふくまれる。形而上学においては、精神を真の存在とする唯心論の立場を意味し、精神も物質的な要素や過程に還元できるとする唯物論に対立する。しかし、観念論は本来、外界の事物は精神の観念にすぎないとする認識論上の立場であり、この場合には実在論に対立する。実在論は精神から独立した実在を主張するため、実在の本当のあり方は認識できないという懐疑主義におちいりがちである。観念論はこうした懐疑主義に対しては、実在の本質は精神であり、したがって実在は精神によってのみ認識されると主張する。

また観念論は、理想の追求や理念の実現をめざす生活態度をもさし、この場合は理想主義の意味になる。

II プラトン

観念論idealismという用語は、プラトンの「イデアidea」に由来する。イデアとは、知性によってのみとらえられうる超感覚的で普遍的なものである。つねに変化する個々の感覚的なものは、自らの理想的原型であるこのイデアのおかげで存在しうるし、認識しうると、プラトンは主張した。

III バークリーとカント

近代になって、このプラトンのイデアが意識の表象とか観念と解されるようになると、主観的観念論が成立する。その代表者は、18世紀アイルランドの哲学者バークリーである。彼によれば、あるということは知覚されるということであり、心は知覚の束である。そして外界の対象の真の観念は、神によって直接人間の心のうちにひきおこされるのである。

これに対して、ドイツの哲学者カントは、認識の材料を外界にもとめる点では経験的実在論をとるが、この材料をまとめあげ、認識を可能にする条件を、人間の直観と悟性の形式にもとめる点では観念論を主張する。彼によれば、人間が知りうるのは、物が現象する仕方だけであり、物それ自体がどのようなものかは知りえない。彼の観念論は、超越論的観念論とよばれる。

IV ヘーゲル

19世紀ドイツの哲学者ヘーゲルは、物自体は認識できないとするカントの見解を批判して、絶対的観念論を展開する。絶対的観念論は、すべての物の実体は精神であり、すべては精神によって絶対的に認識されうると主張する。ヘーゲルはまた、人間精神の最高の成果といえる文化、科学、宗教、国家などが、自由で反省的な知性の弁証法的な活動を通じて生みだされてゆく過程を再構成してみせた。

カントにはじまり、フィヒテ、シェリングをへてヘーゲルにいたる観念論は総称してドイツ観念論とよばれる。また、こうした観念論思想の流れは、19世紀イギリスのブラッドリー、19世紀アメリカのパースやロイス、20世紀イタリアのクローチェなどにもみいだされる。

→ 西洋哲学


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ドイツ観念論
ドイツかんねんろん deutscher Idealismus[ドイツ]

〈理想が現実を支配する〉という考え方に焦点を合わせて,ドイツ理想主義とも訳される。カント以後,19世紀半ばまでのドイツ哲学の主流となった思想。フィヒテ,シェリング,ヘーゲルによって代表される。彼らはカントの思想における感性界と英知界,自然と自由,実在と観念の二元論を,自我を中心とする一元論に統一して,一種の形而上学的な体系を樹立しようとした。ドイツ観念論の中心的主張は自我中心主義にあり,フィヒテがこの傾向を一貫して保持したのに対して,シェリングは神と自然へと,ヘーゲルは国家と歴史へと自我の存立の場を拡張し,前者はショーペンハウアーの非合理主義に,後者はマルクスの社会主義に大きな影響を与えた。
 デカルト以後,西欧近代哲学は全体として自我中心主義の性格を持つが,ドイツ観念論は,自我に何らかの意味で実在の根拠という性格を見いだし,自我を中心として観念性と実在性との統一を企てる。フィヒテによれば〈すべてのものは,その観念性については自我に依存し,実在性にかんしては自我そのものが依存的である。しかし,自我にとって,観念的であることなしに実在的なものは何もない。観念根拠と実在根拠とは自我において同一である〉。実在性と観念性との相互関係の場を見込んでいる点では観念論も唯物論(実在論)も同様であるが,両者の統一を観念性の側に意識的に設定するのが観念論の立場である。フィヒテは,人間の自由が可能であるためには,観念論の立場をあえて選ぶべきだと考えた。また自我が何らかの意味で実在性の根拠になる以上,自我の能動面である悟性が,実在性の受動面である感性とひとつになる場面が自我自身の内にあると考え,それを〈知的直観〉(直観的悟性)と呼んでいる。カントは,本来,能動的である悟性が,実在に関与する感性とひとつになるならば,それは主観が実在を創造するのと同じことになると考えて,〈知的直観〉を神の知性に特有のものとみなした。知的直観の有無に神と人間との,絶対者と有限者との区別を置いたのである。この両者が〈あらゆる媒介なしに根源的にひとつである〉(シェリング)とみなす立場は,神と人との区別を否定するという危険をはらむ。フィヒテやシェリングは,観念論の立場を前提としながらも,神の人間化を避けようとして,神秘主義の傾向に走った。
 ヘーゲルは,〈絶対的なもの〉が人間知の到達できない〈彼岸〉にあるという考え方をきびしく退けた。哲学は人間知の〈絶対性〉にまで達成しなければならない。すなわち,感覚から始まる人間知の歩みは〈絶対知〉にまで到達しなければならないと考えた。宗教は,まだ絶対知ではない。宗教の最高段階であるキリスト教は,人間知の絶対性を内容としながらも,神人一体の理念をイエスという神格に彼岸化し,その内容を表象化している。この彼岸性,表象性,対象性を克服したところに〈絶対知〉がなりたつ。ヘーゲル自身は,宗教と哲学とは同一内容の異なった形式であると主張して,無神論者という自分に対する疑いを晴らそうとした。しかし,ヘーゲル左派は,ヘーゲル哲学の本質が神の彼岸性を否定する点にあると解して,〈神学の秘密が人間学にある〉(L. A. フォイエルバハ)と説いた。ドイツ観念論は,神秘主義と唯物論との対立という結果を招いたのである。
 カント的な二元性を〈ただひとつの原理〉から導くことによって,克服すべきだという主張を掲げたのは,ラインホルト Karl Leonhard Reinhold(1758‐1823)である。彼は〈意識そのものには,対象との区別の側面と,対象との関係の契機が含まれる〉という〈意識律〉を第一原理とし,意識そのものに,実在性(対象との関係)と観念性(対象との区別)という契機を含みこませた。フィヒテは,同じく自我そのものに両契機を設定するに際して,ラインホルトのように〈意識の事実〉(表象の事実)に拠ることは誤りだと考えた。〈事実は何ら第一の無制約的な出発点ではない。意識の中には事実よりも根源的なものがある。すなわち,事行 Tathandlung である〉。実践的・能動的な自我に事実以上の根源性を見いだすことからフィヒテは出発した。そして A=A と同じ真理性をもち,なおかつより根源的なものとして〈我=我〉を導き出す。ここから彼は自我の内に非我もまた定立されることを独特の論理で展開する。〈絶対我は,我と非我とを内に含み,しかもこれを超越するところのものである〉。A=A(同一律)は,たんに言葉の使用規則ではなく,あらゆる事物が感性の多様性に解体されることなく自己同一性(単一性)を保つ根拠として考えられていた。もし同一性の根拠が,我=我(見る我と見られる我の同一)にあるとしたら,物の存在そのものに,見る―見られる(主―客)の同一性という,〈対立するものの同一性〉という構造があることになる。ここからヘーゲルは弁証法論理を樹立するにいたる。
 ドイツ観念論の時代的背景には,英仏における近代化に〈おくれたドイツ〉という事情がある。それゆえかえって近代主義が内面化・観念化されて,哲学の内に体系化される。後進性の特徴として,宗教批判が無神論に達することなく汎神論となり(スピノザ主義の受容),個我の解放が個人主義とならずに能動的自我の絶対化となり,近代社会の現実的確立ではなく理念化された法哲学の確立(フィヒテ,ヘーゲル)となる。他方,観念化された先進性のあらわれとして,主客二元論の構図が打破され,唯物論,現象学を生み出し,自我中心主義はロマン主義と結びついて神秘主義,実存主義の下地となり,理念化された国家共同体論は社会主義に影響を及ぼした。なお,イギリス経験論のドイツ観念論への影響は,ラインホルトにみられるようにカント哲学の心理主義的解釈となって現れ,自我の能動性を絶対化する方向で〈カントの限界〉を克服することが,経験論の克服になると考えられた。経験論との根本的な対立点は,存在者一般の同一性の根拠として,ドイツ観念論が能動的自我の同一性を原理とした点にある。自我論における対立は現代哲学にも及び,観念論・実存主義・現代存在論と,経験論・唯物論・精神分析学との間に,顕在的にせよ潜在的にせよ,さまざまの論点の違いを生み出している。⇒イギリス経験論                      加藤 尚武

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イギリス経験論
イギリス経験論
イギリスけいけんろん British empiricism

多くの場合,大陸合理論と呼ばれる思想潮流との対照において用いられる哲学史上の用語。通常は,とくにロック,G. バークリー,D. ヒュームの3人によって展開されたイギリス哲学の主流的傾向をさすものと理解されている。通説としてのイギリス経験論のこうした系譜を初めて定式化したのは,いわゆる常識哲学の主導者 T. リードの《コモン・センスの諸原理に基づく人間精神の探究》(1764)とされているが,それを,近代哲学史の基本的な構図の中に定着させたのは,19世紀後半以降のドイツの哲学史家,とりわけ新カント学派に属する哲学史家たちであった。とくに認識論的な関心からカント以前の近代哲学の整理を試みた彼らの手によって,ロック,バークリー,ヒュームと続くイギリス経験論の系譜は,デカルト,スピノザ,ライプニッツ,C. ウォルフらに代表される大陸合理論の系譜と競合しつつ,やがてカントの批判哲学のうちに止揚された認識論上の遺産として,固有の思想史的位置を与えられたからである。その場合,例えば,ロックの認識論がカント自身によって批判哲学の先駆として高い評価を与えられた事実や,ヒュームの懐疑論がカントの〈独断のまどろみ〉を破ったと伝えられるエピソードは,そうした通説にかっこうの論拠を提供するものであった。
 確かに,イギリス経験論の代表者をロック,バークリー,ヒュームに限りつつ,それを,大陸合理論との対照において,あるいはカント哲学の前史としてとくに認識論的観点から評価しようとする通説は,次の2点でなお無視しえない意味をもっている。第1点は,ロックからバークリーを経てヒュームに至るイギリス哲学の系譜を,感覚的経験を素材として知識を築き上げる人間の認識能力の批判,端的に認識論の発展史と解することが決して不可能ではないことである。ロックの哲学上の主著が《人間知性論》であるのに対して,バークリーのそれが《人知原理論》と名付けられており,ヒュームの主著《人間本性論》の第1編が知性の考察にあてられている事実は,バークリーとヒュームとの思索が,ロックによって設定された認識論的な問題枠組の中で展開された経緯をうかがわせるであろう。そこにまた,先述のリードが,ロック,バークリー,ヒュームを懐疑論の発展史的系譜の中に位置づけた主要な理由もあったのである。
 従来の通説がもつ第2の意義は,それが,大陸合理論とイギリス経験論との対比,カント哲学によるそれら両者の統合という図式を提示することによって,錯綜した近代哲学史の動向を描き分けるのに有効な一つのパースペクティブを確立したことである。思想の歴史を記述する場合,個々の思想家を一定の歴史的構図の中に配置して時系列における相互の位置関係を確定する作業が,いわば方法的に不可欠であると言えるからである。
[経験的世界の解明]  けれども,ウィンデルバントの言う〈近代哲学の認識論的性格〉を極度に強調しつつ,イギリス経験論の系譜を認識論の発展史と解してきた従来の傾向は,イギリス経験論の成果をあまりにも一面的にとらえすぎていると言わなければならない。例えば,イギリス経験論の確立者と評されるロックの思想が,人間の経験にかかわるきわめて多様な領域を覆っている点に象徴されているように,イギリス経験論がその全行程を通して推し進めたのは,単に狭義の認識論の理論的精緻化ではなく,むしろ,人間が営む経験的世界総体の成り立ちやしくみを見通そうとする包括的な作業であったと考えられるからである。しかも,このように,イギリス経験論を,人間の経験とその自覚化とにかかわる多様な問題を解こうとした一連の思想の系譜ととらえる場合,そこには,その系譜の始点から終点へのサイクルを示す思想の一貫した動向を認めることができる。端的に,人間と自然との交渉のうちに成り立つ自然的経験世界の定立から,人間の間主観的相互性を通して再生産される社会的経験世界の発見に至る経験概念の不断の拡大傾向がそれである。こうした動向に注目するかぎり,イギリス経験論の歴史的サイクルは,通説よりもはるかに長く,むしろ F. ベーコンによって始められ,A. スミスによって閉じられたと解するほうがより適切であると言ってよい。その経緯はほぼ次のように点描することができる。
 周知のように,〈自然の奴隷〉としての人間が,観察と経験とに基づく〈自然の解明すなわちノウム・オルガヌム〉を通して〈自然の支配者〉へと反転する過程と方法とを描いたのは,〈諸学の大革新〉の唱導者ベーコンである。力としての知性をもって自然と対峙する人間精神の自立性を確認し,自然的経験世界における人間の主体的な自己意識を確立したベーコンのこの視点は,イギリス経験論に以後の展開の基本方向を与えるものであった。その後のイギリス経験論は,自然的経験世界に解消されえない経験領域の存在と,その世界を認識し構成する人間の能力との探究を促された点で,明らかにベーコンの問題枠組を引き継いでいるからである。その問題に対する最初の応答者は,ホッブズとロックとであった。彼らは,ともに,国家=政治社会を人間の作為とし,人間の秩序形成能力を感性と理性との共働作用のうちに跡づけることによって,自然的経験領域とは範疇的に異なる人間の社会的経験世界のメカニズム,その存立構造を徹底的に自覚化しようとしたからである。けれども,彼らが理論化してみせた社会的経験世界は,たとえ人間の行動の束=状態として把握されていたとしても,なお,現存の社会関係に対置された als ob,すなわち〈あたかもそうであるかのごとき〉世界として,現実の経験世界それ自体ではありえなかった。彼らが,人間の行為規範として期待した自然法は,あくまでも理性の戒律として,現実の人間を動かす経験的な行動格率には一致せず,また,彼らが人間の行動原理として見いだした自己保存への感性的欲求は,どこまでも単なる事実を超えた自然権として規範化されていたからである。
 〈道徳哲学としての自然法〉に支えられた規範的な経験世界を描くにとどまったホッブズとロックとに対して,人間の主観的な行動の無限の交錯=現実の社会的経験世界のメカニズムを見通す哲学的パラダイムを提示したのがバークリーであり,ヒュームであった。バークリーが,〈存在とは知覚されたものである〉とする徹底した主観的観念論によって,逆に他者の存在を知覚する主観相互の〈関係〉を示唆したのをうけて,ヒュームは,人間性の観察に基づく連合理論によって,個別的な主観的観念をもち,個別的な感性的欲求に従って生きる人間が,しかも,全体として,究極的な道徳原理=〈社会的な有用性〉〈共通の利益と効用〉に規制されて間主観的な関係を織り成している経験的,慣習的な現実への通路を見いだしたからである。もとよりこれは,道徳哲学を,超越的規範の学から人間を現実に動かす道徳感覚の理論へと大胆に転換させたヒュームにおいて,権力関係を含む国家とは区別される社会,すなわち,個別的な欲求主体の間に成り立つ間主観的な関係概念としての社会が発見され,その経験的認識への途が準備されたことを意味するであろう。
 ヒュームのそうした視点をうけて,〈道徳感情moral sentiment〉に支えられた人間の間主観的相互性を原理とし動因として成り立つ社会のメカニズム,その運動法則を徹底的に自覚化したのが言うまでもなくスミスであった。彼は,有名な〈想像上の立場の交換〉に基づく〈同感 sympathy〉の理論によって,主観的な欲求に支配され,個別的な利益を追求する経験主体の行動の無限の連鎖=社会が,しかも調和をもって自律的に運動し再生産されていく動態的なメカニズム,すなわち社会の自然史的過程を解剖することに成功したからである。もとよりこれは,ベーコン以来,人間が営む経験的世界総体の自覚化作業を推し進めてきたイギリス経験論が,現実の経験世界への社会科学的視点を確立したスミスによってその歴史的サイクルを閉じられたことを意味するものにほかならない。しかも,人間の経験的世界は,それが,どこまでも経験主体としての人間によって構成される世界であるかぎり,必ず歴史的個体性を帯びている。したがって,そうした経験的世界の構造を一貫して見通そうとしてきたイギリス経験論は,実は,イギリスの近代史がたどってきた歴史的現実それ自体の理論的自覚化として,明らかに,固有の歴史性とナショナリティとをもったイギリスの〈国民哲学〉にほかならなかった。その意味において,イギリス経験論の創始者ベーコンが,イギリス哲学史上初めて母国語で《学問の進歩》を書き,また,その掉尾を飾るスミスの主著が《国富論(諸国民の富)》と題されていたのは,けっして単なる偶然ではなかったのである。        加藤 節

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バークリー
バークリー,G.
バークリー George Berkeley 1685~1753 アイルランドの哲学者、牧師。近代観念論の創始者のひとり。物質は精神から独立に存在しえないと主張した。いっぽう、感覚現象は、人間の精神につねに知覚をよびおこす神の存在を前提とするとも考えた。

アイルランドのキルケニに生まれ、ダブリンのトリニティ・カレッジにまなび、1707年このカレッジの特別研究員となった。1710年、「人知原理論」を出版。その理論があまり理解されなかったために、その通俗版である「ハイラスとフィロナスの3つの対話」(1713)を出版したが、この両著作における彼の哲学的主張は、生前にはほとんど評価されなかった。しかし、24年デリー大聖堂首席牧師に任じられ、聖職者としてはますます有名になっていった。

1728年に渡米し、バミューダ島にアメリカのわかい植民者と先住民族の人々を教育するための大学を建設しようとした。この計画は32年に放棄されたが、バークリーはアメリカの高等教育の向上につとめ、エール、コロンビアその他の大学の発展に貢献した。34年、クロインの司教となり、引退するまでこの地位にとどまった。

バークリーの哲学は、懐疑主義と無神論に対する回答である。彼によれば、懐疑主義は経験ないし感覚が事物から切りはなされるときに生じる。そうなれば、観念を介して事物を知る方法はなくなるからである。この分離を克服するには、存在するとは知覚されることである、ということがみとめられねばならない。知覚されるものはすべて現実のものであり、知覚されるものだけが、その存在を知られうる。事物は観念として心の中に存在する。

しかし他方、バークリーは、事物は人間の心と知覚から独立に存在するとも主張する。というのも、われわれは自分がもつ観念を自由に変更することはできないからである。この矛盾を解決するために、彼は神のような無限に包括的な精神を要請し、この神の知覚があらゆる感覚的事実を構成すると考える。

バークリーの哲学体系は、物質的外界の認識の可能性をみとめない。彼の哲学体系そのものはほとんど後継者をもたなかったが、独立した外界と物質の概念を主張する根拠に対するその批判には説得力があり、その後の哲学者に影響をあたえた。上記以外の著書に、「視覚新論」(1709)、「サイリス」(1744)などがある。


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バークリー 1685‐1753
George Berkeley

イギリスの哲学者。ロック,D. ヒュームらとともにイギリス経験論の伝統に連なる。アイルランドの生れで,一生アイルランドとの縁が深かったが,彼の家系はイングランドの名門貴族につながり,信仰の面でもきわめて敬虔な国教徒であった。ダブリンのトリニティ・カレッジで助祭に任命されて以来,聖職を離れたことがなく,30歳代には新大陸での布教を志し,バミューダ島に伝道者養成の大学を建設するため奔走した。政府の援助が続かず計画は挫折したが,1734年にはアイルランドのクロインの司教に任ぜられ,教区の住民に対する布教,救貧,医療に力を尽くした。哲学の著作としては20歳代半ばに発表した《視覚新論》(1709)と《人知原理論》(1710)がとくにすぐれている。しかしこの2著で展開された非物質論の哲学にしても,近代科学の〈物質〉信仰を無神論と不信仰の源とみなし,これに徹底的な批判を加えたもので,背後には護教者の精神が一貫して流れている。
 そのころバークリーが熱心に研究したのはマールブランシュとロックの哲学であるが,いずれに対しても自主独立の態度を持し,むしろふたりの学説を批判的に克服することで独自の立場を築いている。《視覚新論》では当時学界の論題であった視覚に関する光学的・心理学的な諸問題に独創的な解釈を施しつつ,非物質論の一部を提示している。彼によれば視覚の対象は触覚の対象とはまったく別個で,色や形の二次元的な広がりにすぎず,外的な事物と知覚者の間の距離は視覚によっては直接に知覚できない。対象のリアルな大きさ,形,配置なども同様である。われわれが視覚でこれらを知るのは,過去の経験を通じて両種の観念の間に習慣的連合(観念連合)が成立しているからで,デカルトやマールブランシュが説くように幾何学的・理性的な判断の働きによるのではない。全体として,数学的・自然科学的な概念構成の世界から日常的な知覚の経験に立ち返り,その次元で存在の意味を問いなおそう,というのがこの書の基本精神である。一方,《人知原理論》では,視覚対象は〈心の中〉に存在するにすぎないという前著の主張が知覚対象の全体に広げられ,〈存在するとは知覚されること(エッセ・エスト・ペルキピ esse est percipi)〉という命題が非物質論の根本原理として確立される。何ものも〈心の外〉には,すなわち知覚を離れては存在しないとすれば,もはや〈物質的実体〉の存在を認める余地はない,というのである。《人知原理論》は現象主義的な認識論の古典とみなされているが,バークリー自身の哲学は〈観念すなわち実在〉の主張で終わるものではなかった。むしろ観念とはまったく別個な,あらゆる観念の存在を支える〈精神的実体〉こそ真実在である,というところにその眼目がある。バークリーにとって,世界は究極的には神の知覚にほかならない。          黒田 亘

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懐疑主義
懐疑主義
I プロローグ

懐疑主義 かいぎしゅぎ Skepticism 人間の主観的知覚からはなれた、あるがままの事物を知ることはできないとする哲学の考え方。語源はギリシャ語のskeptesthai(吟味する)。もっと一般的な用法では、ひろく真であると信じられていることをうたがう態度をさす。懐疑主義は人間の認識の範囲と程度を問題にするので、つまるところは認識論になる。→ 認識論

II 古代ギリシャの懐疑主義

紀元前5世紀にギリシャで活躍したソフィストは、ほとんど懐疑主義者である。彼らの考えを表現している言葉に、「何も存在しない、もし存在するとしても、それを知ることはできない」や「人間は万物の尺度である」といったものがある。たとえばゴルギアスは、事物についてかたられることはすべて偽りであり、かりに真だとしても、それが真であることは証明できないといった。あるいはプロタゴラスは、人間が知りうるのは事物について各自が知覚したことだけであって、事物そのものではないと説いた。

懐疑主義をはじめて明確に定式化したのは、ギリシャ哲学の学派ピュロン派の人たちである。創設者のピュロンは、人間は事物の本性をまったく知ることができないのだから、判断を保留すべきだといった。ピュロンの弟子ティモンは、いかなる哲学上の主張に関しても同じ説得力をもった賛否両論をあげることができると主張した。

プラトンが創設したアカデメイアは、前3世紀ごろから懐疑主義にかたむいた。アカデメイア派はピュロン派よりも体系的であるが、いくらか徹底性にかけるところがある。たとえばカルネアデスは、どの意見も絶対的に真ではありえないと主張した。しかし、もしそうなら、何がよくて何がわるいのかを判断できないのだから、人間は行為できなくなるのではないか。この反論に直面してカルネアデスは、ある意見が他の意見よりも信頼できる(蓋然的である)ことはありうるとみとめてしまった。この不徹底さに不満をおぼえたアイネシデモスはピュロン派を復興させ、懐疑主義の立場をかためる10カ条の方式を整備した。古代末期のセクストス・ホ・エンペイリコスは、古代の懐疑主義を集大成した「ピュロン哲学の概要」などの著作をのこした。

III 近代の懐疑主義

セクストスの書物は、ルネサンス期に再発見された。16世紀のモンテーニュは、セクストスにならって人間の理性は無力だと説き、理性よりもキリスト教の信仰にしたがうようすすめた。17世紀にデカルトが懐疑主義を克服しようとこころみたにもかかわらず、懐疑主義はいっこうにおとろえなかった。

18世紀になると、近代懐疑主義のもっとも重要な代表者ヒュームがあらわれた。彼は、外界、因果結合、未来の出来事について、われわれが信じていることは真ではないかもしれないし、魂や神は存在するのかといった形而上学的問題も解決できないと考えた。同じ18世紀にカントは、ヒュームの懐疑主義を克服しようとこころみた。しかし彼もやはり、あるがままの事物(物自体)を知ることはできないとみとめざるをえなかった。

19世紀にヘーゲルが合理主義の体系の中に懐疑主義をくみいれようとしたが、19世紀終わりから20世紀初めにかけて彼の合理主義が崩壊するとともに、ニーチェやサンタヤーナのように、懐疑主義にかたむく哲学者たちがあらわれた。懐疑主義的な考えは、プラグマティズム、分析哲学と言語哲学そして実存主義といった、他の現代哲学の中にもみうけられる。

→ 経験主義:形而上学:西洋哲学:合理主義


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懐疑論
かいぎろん

〈検討〉を意味するギリシア語 skepsis に由来する西洋哲学用語(英語では skepticism)の訳として用いられる語。人間的認識の主観性と相対性を強調して,人間にとって普遍的な真理を確実にとらえることは不可能だとする思想上の立場。独断論 dogmatism に対する。広義にはあらゆる普遍妥当的な真理の認識可能性を否定する立場を指すが,狭義には特定の領域,例えば宗教や道徳において確実な真理に到達する可能性を否定する立場を指すのにも用いられる。このような立場は,一方では人間の思考や認識に対する否定的な態度さらにはニヒリズムにつながるが,他方では断定的な判断を避け,経験と生とを導きの糸として探究を続行しようとする実証主義的態度にもつながる。また懐疑論はつきつめていけば論理的矛盾に陥る――〈真理の認識は不可能である〉という断定は真理に関する一つの絶対的判断である――ので純粋な形では主張することができないが,それほど徹底しない場合でもそれ自身のために主張されるよりは,従来の見解を打倒するための武器あるいは疑うことのできない真理を発見するための手段(デカルトの方法的懐疑はその典型)として用いられることが多い。
 西洋哲学史上,懐疑論がとくに問題になるのは古代と近世初期である。古代の懐疑派は通常三つの時期に区別される。初期にはピュロン(その名に由来するピュロニズムは懐疑論の別名となった)とその弟子ティモン Timヾn がおり,彼らは何事についても確実な判断を下すのは不可能であるから,心の平静(アタラクシア)を得るためには判断の留保(エポケー)を実践すべきことを説いた。中期はプラトンゆかりの学園アカデメイアの学頭であったアルケシラオス Arkesilaos とカルネアデス Karnead^s に代表される。彼らはストア主義を独断論として攻撃し,とくに後者は蓋然的知識で満足すべきことを説いた(アカデメイア派ないし新アカデメイア派の語も懐疑論者の代名詞として用いられることがある)。後期にはアイネシデモスやセクストス・ホ・エンペイリコス等が属するが,前者は感覚的認識の相対性と無力さを示す10の根拠を提示したことで知られ,後者は経験を重んずる医者として諸学の根拠の薄弱さを攻撃し,またその著書はギリシア懐疑論研究の主要な資料となっている。近世においては,ルネサンスの豊かな思想的混乱の中で懐疑思想も復活し,伝統的な思想や信仰を批判する立場からも,逆にそれを擁護する立場からもさまざまなニュアンスの懐疑論が主張されたが,その中でもモンテーニュのそれはたんに否定的なものにとどまらず生を享受する術となっている点で,またパスカルのそれはキリスト教擁護の武器として展開されているにもかかわらず作者の意図を越えて人間精神の否定性の深淵を垣間見させてくれる点でそれぞれ注目に値する。なお D. ヒュームはしばしば懐疑論者のうちに数えられ,彼に刺激を受けたカントについても懐疑論との関係で論じられることもある。⇒不可知論                     塩川 徹也

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懐疑学派
懐疑学派

かいぎがくは
skeptikoi; skeptics

  

西洋古代における哲学の一派で3期に分けられる。 (1) 古懐疑派 プロタゴラスやゴルギアスの思想をふまえ,ピュロンが懐疑論を体系化。それゆえ懐疑論はピュロン主義とも呼ばれる。彼とその弟子ティモンは魂の平静を最高善とし,物の本性は不可知であり判断を差し控える (→エポケー ) べきであるとした。 (2) 中期アカデメイア派 アルケシラオスはピュロンをこえて絶対的懐疑論を樹立,ストア派を独断論として論争を始めた。カルネアデスは蓋然性を主張して前者を修正した。 (3) 新懐疑派 アイネシデモスは折衷主義に堕した懐疑論をピュロン説に引戻し,エポケの 10論拠を示した。アグリッパがその思想を継ぎ,アレクサンドリアに実証主義哲学の種子をまき,そこからセクストス・ホ・エンペイリコスが出て懐疑論の理論を集大成した。





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懐疑論
懐疑論

かいぎろん
skepticism

  

人間理性による確実な真理認識をおしなべて否定する哲学的立場。その変形されたものとしては,蓋然性を認める認識論的蓋然主義,経験的現象での真理認識は認めるがその背後なる超越者の認識を否定する不可知論,客観的真理を否定する相対主義などがあり,認識の局面をこえて実践面にそれを適用した宗教的,倫理的懐疑論がある。絶対的懐疑論は真理認識を否定するが,その主張自体は真理であるとしているのであるから,決定的な自己矛盾を含んでいるというのが,アウグスチヌスの批判である。古代の懐疑学派のほかに,近世のモンテーニュやバークリー,経験論を徹底したヒューム,物自体の認識を否定したカントらが懐疑論者と考えられる。





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懐疑論
かいぎろん

〈検討〉を意味するギリシア語 skepsis に由来する西洋哲学用語(英語では skepticism)の訳として用いられる語。人間的認識の主観性と相対性を強調して,人間にとって普遍的な真理を確実にとらえることは不可能だとする思想上の立場。独断論 dogmatism に対する。広義にはあらゆる普遍妥当的な真理の認識可能性を否定する立場を指すが,狭義には特定の領域,例えば宗教や道徳において確実な真理に到達する可能性を否定する立場を指すのにも用いられる。このような立場は,一方では人間の思考や認識に対する否定的な態度さらにはニヒリズムにつながるが,他方では断定的な判断を避け,経験と生とを導きの糸として探究を続行しようとする実証主義的態度にもつながる。また懐疑論はつきつめていけば論理的矛盾に陥る――〈真理の認識は不可能である〉という断定は真理に関する一つの絶対的判断である――ので純粋な形では主張することができないが,それほど徹底しない場合でもそれ自身のために主張されるよりは,従来の見解を打倒するための武器あるいは疑うことのできない真理を発見するための手段(デカルトの方法的懐疑はその典型)として用いられることが多い。
 西洋哲学史上,懐疑論がとくに問題になるのは古代と近世初期である。古代の懐疑派は通常三つの時期に区別される。初期にはピュロン(その名に由来するピュロニズムは懐疑論の別名となった)とその弟子ティモン Timヾn がおり,彼らは何事についても確実な判断を下すのは不可能であるから,心の平静(アタラクシア)を得るためには判断の留保(エポケー)を実践すべきことを説いた。中期はプラトンゆかりの学園アカデメイアの学頭であったアルケシラオス Arkesilaos とカルネアデス Karnead^s に代表される。彼らはストア主義を独断論として攻撃し,とくに後者は蓋然的知識で満足すべきことを説いた(アカデメイア派ないし新アカデメイア派の語も懐疑論者の代名詞として用いられることがある)。後期にはアイネシデモスやセクストス・ホ・エンペイリコス等が属するが,前者は感覚的認識の相対性と無力さを示す10の根拠を提示したことで知られ,後者は経験を重んずる医者として諸学の根拠の薄弱さを攻撃し,またその著書はギリシア懐疑論研究の主要な資料となっている。近世においては,ルネサンスの豊かな思想的混乱の中で懐疑思想も復活し,伝統的な思想や信仰を批判する立場からも,逆にそれを擁護する立場からもさまざまなニュアンスの懐疑論が主張されたが,その中でもモンテーニュのそれはたんに否定的なものにとどまらず生を享受する術となっている点で,またパスカルのそれはキリスト教擁護の武器として展開されているにもかかわらず作者の意図を越えて人間精神の否定性の深淵を垣間見させてくれる点でそれぞれ注目に値する。なお D. ヒュームはしばしば懐疑論者のうちに数えられ,彼に刺激を受けたカントについても懐疑論との関係で論じられることもある。⇒不可知論                     塩川 徹也

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エポケー
エポケー

エポケー
epoch

  

原語はギリシア語で,「判断中止」の意。古代ギリシアの懐疑論者たちの用語。何一つ確実にして決定的な判断を下すことはできないという懐疑論の立場から,判断を下すことを控える態度をいう。この態度は近世になりデカルトの「方法的懐疑」において,哲学の方法論として積極的な意義が見出された。 E.フッサールはデカルトの精神をくみながら,現象学的方法として,自然的態度によって生じる判断をかっこに入れて排去することを説き,これを現象学的判断中止 phnomenologische Epocheといった。





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方法的懐疑
方法的懐疑

ほうほうてきかいぎ
doute mthodique; methodical doubt

  

デカルト哲学の根底をなす方法。少しでも疑いうるものはすべて偽りとみなしたうえで,まったく疑いえない絶対に確実なものが残らないかどうかを探る態度。それは懐疑論と異なり,すべてを偽りとする判断ではなく,真理を得る方法としての意志的懐疑であり,徹底してなされる点で「誇張された懐疑」である。デカルトはこの懐疑を通してまずコギト・エルゴ・スムの真理を得た。





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認識論
認識論
I プロローグ

認識論 にんしきろん Epistemology 知識についての哲学的問題をあつかう哲学の一分野。知識の定義・起源・基準・種類・度合いや、知る人と知られる物との関係などを研究する。

II ギリシャと中世の問題

前5世紀のギリシャのソフィストたちは、確かで客観的な知識の可能性をうたがった。代表的なソフィストのひとりゴルギアスは、何物も存在しない、たとえ存在したとしても知りえない、知りえたとしてもつたえることはできないと論じた。プロタゴラスは、判断はそれぞれの人間によってきまるのであり、共通の基準などありえないといった。

ソクラテスとその弟子プラトンは、これらの考えに対して、イデアという、感覚をこえたかわることのない世界を想定した。その世界が、われわれに確かで客観的な知識をあたえるのであり、みたりさわったりできるものはその世界のコピーにすぎないと彼らはいう。したがって本当の知識をえるためには、イデアについての学問である数学と哲学をまなぶ必要があり、感覚にたよっていてはあいまいでいい加減な知識しかえられない。このイデアの世界について哲学的に探究することが、人間の使命だと彼らは考えた。

アリストテレスの考えは、イデアについての知識が最高の知識であるという点では、プラトンと同じだが、その知識にいたる方法はちがっている。アリストテレスによれば、ほとんどすべての知識は、経験によってえられる。その際必要なのは、注意深い観察と、アリストテレスによってはじめて体系化された論理学の規則の厳密な適用である。

ストア学派とエピクロス学派は、知識が感覚から生まれるという点ではアリストテレスと一致するが、哲学が人生の目的ではなく、実践的な導きであると考える点で、アリストテレスやプラトンと意見がことなる。

中世では、スコラ学のトマス・アクィナスなどの哲学者が、合理的な方法と信仰をむすびつけた。トマスは、感覚から出発し論理学によって確かな知識をえるという点で、アリストテレスの考えをうけついだ。

III 理性と感覚

17~19世紀の認識論の問題は、知識を獲得するのは理性によってなのか感覚によってなのかというものであった(→ 合理主義:経験主義)。理性によってであるというデカルトやスピノザやライプニッツは、知識は自明な原理や公理から演繹的に推論することによってえられると考えた。いっぽう、ベーコンやロックは、知識の源泉とその吟味は感覚、つまり経験によるものと考えた。

1 イギリス経験論

ベーコンは中世的な伝統を批判し、個別的な事実の観察、実験から一般法則をみちびく帰納法をはじめとする近代科学の方法を確立した。ロックは、知識は自明な諸原理から獲得されると考える合理主義者たちに対して、すべての知識は経験からえられるのであり、感覚によって外の世界の知識をえ、反省によって心の内部の知識をえると主張した。したがって、錯覚があるかぎり、外の世界についての人間の知識はけっして確実なものとはならない。

バークリーは、感覚によってのみ事物を知ることができると考え、「存在するとは知覚されることである」といった。ヒュームは、数学や論理学における、確実ではあるが世界についてはなにもいっていない知識と、感覚によって獲得される事実についての知識をわけた。事実についての知識は因果関係にもとづいているが、因果関係は論理的な関係ではないため、未来におこることについてはなにも確かなことはいえない。したがって、もっとも確実な自然法則でさえ、正しいものでありつづけるかどうかはわからない。この考えは哲学の歴史に重大な影響をあたえた。

2 カント以後

カントは、以上のような合理主義と経験主義をむすびつけようとした。たしかに合理主義者がいうように、数学や自然科学において確実な知識は存在するが、いっぽう、感覚経験からは確実な知識がえられないという点では、経験主義者のいうとおりである。では、なぜ数学や自然科学の知識は確実性をもつのか。

人間にはもともと、対象を認識するための一定の形式がそなわっているというのが、カントの答えである。人間は、そのような形式によってしか対象を認識できない。たとえば、因果性というのも認識の形式のひとつである。感覚経験自体からは因果関係の確実性は生じないが、物理学の因果的法則は、人間の側にそなわった因果性という認識形式にのっとっているために、すべての経験にかならずあてはまるはずなのである。

それはたとえば、すべての人間が緑のサングラスをかけて世界をみた場合、「世界は緑である」という発言がすべての人間にとって正しい発言とみなされるのに似ている。このように、知識の確実性の根拠を世界の側にではなく、認識する主観の側にもとめたカントの方法は、天動説に対して地動説をとなえたコペルニクスになぞらえて「コペルニクス的転回」とよばれている。

19世紀になるとヘーゲルは合理主義的な考えを復活させ、「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」といって、人間が歴史とともに発達することによって、絶対的で確実な知識に到達すると主張した。

プラグマティズムという考え方が、パース、ジェームズ、デューイなどによって19~20世紀にアメリカでおこった。経験主義的なこの考え方は、知識は行動のための道具であり、あらゆる信念は経験にとって役にたつかどうかで評価されると主張した。

IV 20世紀の認識論

20世紀になると認識論の問題はさまざまに議論され、多くのことなった考えを生んだ。フッサールは、知る行為と知られる物との関係を明らかにする現象学という方法を確立した。現象学では、知るためには知られる物にむかっている意識(志向性)があり、ある意味でその意識の中に知られる物はふくまれていると考える。

20世紀初め、ウィトゲンシュタインの影響下に2つの学派が生まれた。ひとつは論理実証主義(→ 実証主義)で、オーストリアのウィーンで生まれ、またたく間に英米にひろまった。論理実証主義者の主張によれば、科学的な知識だけが本当の知識であり、この知識は経験とてらしあわせることによって真であるか偽であるかがきまる。したがって、哲学がこれまで議論してきた多くの事柄は、真でも偽でもなく、たんに無意味なものとなる。

もうひとつの学派は日常言語学派で、言葉の分析を哲学のおもな仕事と考え、伝統的な認識論とはかなりちがった方向をとる(→ 分析哲学と言語哲学)。彼らは認識論でつかわれる知識や知覚といった用語が実際どのようにつかわれているかをしらべ、まちがったつかわれ方を正しいものにあらためて、言葉の混乱をなくそうとした。

→ 懐疑主義:形而上学


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実証主義
実証主義
I プロローグ

実証主義 じっしょうしゅぎ Positivism 経験一般と、自然現象についての経験をとおした知識にもとづく哲学の体系。経験をこえたものを対象にする形而上学や神学などを、じゅうぶんな知識の体系とはみとめない考え方。

II 成立と発展

19世紀フランスの社会学者・哲学者のコントによってはじめられた実証主義の考えのいくつかは、サン・シモン、あるいはヒュームやカントにまでさかのぼることもできる。

コントは人間の知識の発達を3段階にわけ、自然をこえた意志によって自然の現象を説明する神学的知識の段階から、自然をこえた説明はするが擬人的ではない形而上学的知識の段階をへて、経験的事実のみで説明をする実証的知識の段階へいたると説いた。最後の実証的知識の段階では、事実を事実で説明し、自然の現象の背後にそれをこえたものを想定したりはしない。

このような考えは、自然科学の発達にともない19世紀後半の思想に大きな影響をおよぼした。コントのこの考えは、ジョン・スチュアート・ミル、スペンサー、マッハなどによりさまざまにうけつがれ発展した。

III 論理実証主義

20世紀前半になると、伝統的な経験的事実にもとづく実証主義とはことなった、論理実証主義という考え方がおこった。マッハの考えをうけつぐこのグループは、ウィトゲンシュタインやラッセルの影響のもとに、論理分析により科学や哲学を考察した。ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」(1922)の影響をうけた論理実証主義者たちは、形而上学や宗教、倫理についてかたることは無意味であり、自然科学の命題だけが、事実とてらしあわせて検証することにより、正しいか正しくないか判断できると考えた。このような考え方は、その後さまざまな修正や発展をへて、多くの哲学者に影響をあたえた。


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カント
イェナ大学
イェナ大学

イェナだいがく
Friedrich-Schiller Universitt Jena

  

ドイツのイェナにある国立総合大学。正式名称はフリードリヒ=シラー大学。ザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒが 1548年に設立したアカデミーに起源をもち,58年大学としてドイツ皇帝の認可を得た。 18世紀末から 19世紀にかけて,シラー,W.フンボルト,フィヒテ,シェリング,ヘーゲル,ゲーテらが教授陣として活躍。教育学研究では,P.ペーターゼンのイェナ・プランで有名。神学,法学,医学,哲学,経済学,数学,化学,生物学,物理学・天文学・応用科学などの学部から成る。学生数約1万 500名,教員数約 300名 (1997) 。





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知識学
知識学

ちしきがく
Wissenschaftslehre

  

ドイツの哲学者フィヒテの主張した学問。知識を基礎づける知の形而上学であり,真の哲学とされた。一般には知識およびその体系としての個別的学問の前提,基礎,方法を対象とする学問であり,方法論と等しいものと考えられている。





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『独逸国民に次ぐ』
ドイツ国民に告ぐ

ドイツこくみんにつぐ
Reden an die deutsche Nation

  

ドイツの哲学者 J.フィヒテの演説。彼は 1807年から翌年にかけて,ナポレオン占領下のベルリンにおいてこの連続講演を行い,国民の覚醒を促した。これがドイツのナショナリズムに与えた影響は大きかった。





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シェリング
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Schelling,Friedrich Wilhelm Joseph von

[生] 1775.1.27. ウュルテンベルク,レオンベルク
[没] 1854.8.20. ラーガツ

  

ドイツの哲学者。ドイツ観念論の系譜のなかで,フィヒテの知識学から出発し,そこでは排除されるべきものとして考えられていた自然をも,精神と同一の原理において把握するために独自の自然哲学を立て,のちに同一哲学として体系化した。特に芸術を哲学のオルガノンないし証書としてこれに高い位置を与えたことなどから,当時のロマン主義者たちから大きな共感を得,その哲学的代弁者と考えられた。その後ヘーゲル哲学が主流を占めるようになってからは,みずからの同一哲学をもヘーゲルの絶対的な弁証法と同じく,絶対者として神そのものにいたりえない消極哲学にすぎないとして,積極哲学を説いたが,世に受入れられず不遇のうちにこの世を去った。主著『先験的観念論の体系』 System des transzendentalen Idealismus (1800) ,『人間的自由の本質についての哲学的考察』 Philosophische Untersuchungen ber das Wesen der menschlichen Freiheit (09) 。





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H.ベルグソン
ベルグソン

ベルグソン
Bergson,Henri Louis

[生] 1859.10.18. パリ
[没] 1941.1.4. パリ



フランスの哲学者。各地のリセで教えたのち,1900年コレージュ・ド・フランス教授。第1次世界大戦中外交使節としてスペインとアメリカを訪問。 14年アカデミー・フランセーズに入会。国際連盟の知的協力委員会の議長もつとめ,27年のノーベル文学賞を得た。本来の時間は空間化されたものではなく持続であるという直観から出発し,独特の進化論的な生の哲学を打立てた。プルーストにも影響を与え,20世紀前半のフランスの知的世界の中心人物となった。主著『意識の直接所与についての試論』『物質と記憶』『創造的進化』『道徳と宗教の二源泉』。





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ベルグソン 1859‐1941
Henri Bergson

フランスの哲学者。正しくはベルクソン。幼少より秀才の誉れ高く,エコール・ノルマル・シュペリウールでは後の政治家ジョレスと首席を争う。卒業後,地方校教授を経て,1889年学位取得。1900年よりコレージュ・ド・フランス教授。タルドの後任として現代哲学を担当し,その名講義により一世を風靡(ふうび)する。第1次大戦ころより公的活動多く,道徳・政治科学アカデミー議長,アカデミー・フランセーズ会員,スペイン特派使節などを歴任。とくに17‐18年,特派使節としてのアメリカ派遣に際しては,孤高の大統領ウィルソンの胸襟を開かせうる数少ない一人として,合衆国参戦に尽力。戦後,コレージュ・ド・フランス名誉教授,国際連盟国際知的協力委員会会長。29年ノーベル文学賞受賞。30年レジヨン・ドヌール最高勲章受章。生涯,知識人としての最高の名誉に恵まれながら,つねに寡欲で献身的な聖人の面影を失わず,第2次大戦下のパリ,ナチスの提供する特権を拒みながら,清貧のうちに没した。
 その哲学は師であるラベソン・モリアン,ラシュリエらと同じく,フランス伝来の唯心論的実在論に属し,晩年カトリック神秘主義をも取り入れたが,同時代最新の科学的成果を渉猟したその思索は,実証主義的・経験主義的形而上学とも呼ばれる。真の実在とは何か。彼は,概念や言葉の空転を退けて内省に専念するとき,そこに意識の直接与件として現前する内的持続は,その疑いの余地なき明証性ゆえに,真実在,少なくともその一部とみなさるべきであるとする。そして,この内的持続への永い時間をかけた注意深い参入は意識にとって可能なのであるから,当時流行のカント・新カント哲学に抗して,実在認識は可能としなければならないと考えた。ただしカントのいう感性的直観や悟性によってではなく,超知性的直観によってである。かくて持続と直観をおのおの存在論的・認識論的原理として,西洋哲学史の伝統を批判的に克服しつつ,人間・世界・神をめぐる諸問題に新たな照明を当てていく。
 まず,内的持続は過去を包摂し未来を蚕食しつつ現在を進展する生動であるから,その存在様態は時間性にあるとしなければならない。そしてその進展は意識の生動として刻一刻新しい質の現出とその転変の連続を内容とするものであるから,等質的な物理学的時間とは次元を異にし,決定論の解釈図式が通用するものでもない。自由とはそれゆえこの内的持続への帰一であり,その発出としての純粋自我の行為である。他方,物質界は一瞬前の過去を惰性的に反復するだけであるから,このような持続の弛緩の極といえ,その他の宇宙の万象は,緊張のもろもろの度合による多彩・多様な創造的進化の展開であり,緊張の極はエラン・ビタル レlan vital,さらには一般人ならぬ天才・聖人らの特権的個人によって直観される持続としての神的実在である。そして倫理的・宗教的行為とは,カントのいう理性の律法による選択ではなく,かかる特権的個人の行為を通じて発出する神的エラン・ダムール レlan d’amour による地上的持続の方向づけとそれへの参与にある。永遠界に在るとされたプラトン的真実在は,かくて時間論的・キリスト教的視角から刷新され,物理学,数学をモデルに構築されたデカルト的宇宙観も,心理学,生理学さらには生物学という新しい時代の科学を踏まえて生動化される。そして近代哲学の至宝と難題をなしていた知性と心身関係は,前者は生命という持続からの派生物として相対化され,後者は持続のリズムによるその相関性を指摘され,おのおの新たな意味づけを得た。時間問題を重視する現代諸哲学への影響は大きく,認識論的問題意識の希薄さゆえに現象学からの批判もうけたが,その質的変幻の思想は最新の差異の哲学によってふたたび高く評価されつつある。主著《意識の直接与件に関する覚書》(別名《時間と自由》)(1889),《物質と記憶》(1896),《形而上学入門》(1903),《創造的進化》(1907),《哲学的直観》(1911),《道徳と宗教の二源泉》(1932)等。
                        中田 光雄

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ベルグソン,H.
I プロローグ

ベルグソン Henri Bergson 1859~1941 フランスの哲学者。ノーベル賞受賞者。純粋持続や生の創造的進化を説いて、さまざまな分野に広範な影響をあたえた。

1859年10月18日パリに生まれ、エコール・ノルマル・シュペリウール(高等師範学校)とパリ大学にまなぶ。81年より各地の高等中学校で教え、エコール・ノルマル・シュペリウール講師をへて、1900年コレージュ・ド・フランスの哲学教授となった。

II 著作活動

高等中学校教員を歴任中、博士論文「意識の直接与件に関する試論」(別名「時間と自由」。1889)を出版し、哲学者たちの高い関心をあつめた。この著書は精神の自由と持続についての彼の理論を表現する。彼によれば、持続とは流動的で量的測定をゆるさない意識状態の継起である。この著書につづく「物質と記憶」(1896)では、人間の脳の選択力が強調される。「笑い」(1900)は、喜劇をささえる心的機制をあつかっており、おそらくもっともよく引用される論文である。「創造的進化」(1907)では、人間の実存の問題が全体的に検討され、精神が純粋なエネルギー、エラン・ビタル(生の飛躍)として定義され、すべての有機的進化の原因とされる。1914年、アカデミー・フランセーズ会員となった。→ 純粋経験

III カトリックに改宗

ベルグソンは、1921年にコレージュ・ド・フランスを退職したのち、国際問題や政治、道徳、宗教の問題に関心をむける。また、ローマ・カトリックに改宗する(両親はユダヤ人であった)。21年以降は「道徳と宗教の二源泉」(1932)しか著作を出版しなかった。この著書で彼は、自分の哲学をキリスト教にむすびつけた。27年、ノーベル文学賞受賞。41年1月4日、死去した。

IV 思想的影響

ベルグソンの著作および数多くの論文と講演は、20世紀の哲学者や芸術家や作家に広範な影響をおよぼしている。彼はすぐれた文筆家であり、講演者であった。その神秘的だが生き生きとした語り口は、この時代の哲学者たちの形式主義的なスタイルの中で際だっていた。

ベルグソンの思想はしばしば直観主義の立場にたつ哲学派にむすびつけられるが、このように分類されるにはあまりにも独創的であり、折衷主義的でもある。とはいえ、彼が知性よりもむしろ直観の重要性を強調したのはたしかである。彼は、不活性の物質に生命の創造的活動を対置し、この活動は知性をこえて直観されねばならないと主張する。

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『意識の直接所与についての試論』
意識の直接所与についての試論

いしきのちょくせつしょよについてのしろん
Essai sur les donnes immdiates de la conscience

  

フランスの哲学者 H.ベルグソンの処女作。博士論文としてパリ大学に提出,1889年出版された。経験科学と H.スペンサーに影響されていた時期に,科学でいう時間は生の時間とは異なり持続しないということを洞察して着想。知性は言語を用いることによって必然的に質を量化し時間を空間化してしまうが,ありのままの心的現象すなわち意識の直接所与は純粋持続する質的存在であって直観によってのみとらえられるとし,さらにそこに存する具体的自我の全的表現である自由行為に論及。この2つの主題をとり,この著は『時間と自由』として翻訳されている。自然科学批判として構想され,根本的な二元論的判別を行なったこの論文は,生の観念を中心とする成熟期のベルグソン哲学の壮大な宇宙論の礎石となった。





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H.スペンサー
『物質と記憶』
物質と記憶

ぶっしつときおく
Matire et mmoire

  

フランスの哲学者 H.ベルグソンの著作。 1896年初版。副題に「身体の精神に対する関係についての試論」 Essai sur la relation du corps l'espritとあるように,古典的な心身問題を,物質的現象の意識のなかにおける繰返しである記憶の観点から論じたもので,四つの章と,概要および結論から成る。





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『創造的進化』
創造的進化

そうぞうてきしんか
L'volution cratrice

  

フランスの哲学者アンリ・ベルグソンの著作 (初版 1907) 。在来の進化論を批判し,新しい進化論を打出した。初めに生のみがある。この生は展開していくが,それには2つの方向があり,下向するものは生の力を失って物質となり,上向するものはエラン・ビタールの本性を保持して創造力として自己を実現していく。そこから植物,動物,人間の3者が生れるが,人間は種をこえて創造する。この過程の極に神が純粋な生命力として示される。創造する者という画期的な人間観を打出した書物である。





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『道徳と宗教の二源泉』
道徳と宗教の二源泉

どうとくとしゅうきょうのにげんせん
Les deux sources de la morale et de la religion

  

フランスの哲学者アンリ・ベルグソンの主著。 1932年刊。前著『創造的進化』に展開された独自の進化論を人間の創造活動の場面に発展させたもの。最初に成立する社会は道徳的責務によって成員を縛り,攻撃と防御の体制をもった排他的社会,すなわち閉じた社会であり,そこにあるのが閉じた,静的な道徳,宗教である。人はこの段階をこえ,飛躍して開いた道徳を実現しなければならない。それは創造的生命の源泉である神と合一する神秘家によって達成される。この創造的愛の飛躍の頂点をなすのがキリスト教的神秘主義である。以上の内容が「道徳的責務」「静的宗教」「動的宗教」の3章と「機械的と神秘的」を扱う終章を通じて展開されている。





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H.ワイル
ワイル

ワイル
Weyl,Hermann

[生] 1885.11.9. ハンブルク近郊エルムスホルン
[没] 1955.12.8. チューリヒ

  

ドイツの数学者。純粋数学と理論物理学の接続に大きな仕事をした。ゲッティンゲン大学で数学を学び,D.ヒルベルトの指導を受けた。同大学卒業後私講師,その後チューリヒのスイス連邦工科大学教授となり (1913) ,そこでアインシュタインと知合った。ワイルの仕事のきわだった特徴は,互いに無関係と思える領域を関係づけ,統一することであり,それは青年期の傑作『リーマン面の理念』 (13) に現れている。この本は関数論と幾何学とを統一する新しい学問領域をつくりだした。相対性理論について講義をまとめた『空間・時間・物質』 (18) は,相対性理論に対して彼がいかに深い理解をもっていたかを示している。電磁場と重力場を空間-時間の幾何学的性質としてとらえ,両者を統一する概念として統一場の理論をつくった。また,行列表現を用いて連続群論を展開した (23~38) 。これらの研究は『群論と量子力学』 (28) および『古典的群』 (39) にまとめられている。前者は理論物理学者たちの関心をひき,量子力学の研究において群論を使うことを流行させ,後者は典型的な教科書として,現在でも多くの読者をもっている。また,『数学と自然科学の哲学』 (27) において数学の基礎の問題を扱った。ゲッティンゲン大学教授となる (30) が,同僚の多くがナチスによって追放されるのをみてドイツを離れる決心をし,1934年からプリンストン高級研究所教授となり,51年に退職するまで,プリンストンにとどまる。退職後スイスに帰った。





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ワイル 1885‐1955
Claus Hugo Hermann Weyl

ドイツの数学者,物理学者。ホルシュタイン地方のエルムスホルンに生まれ,近くの町アルトナのギムナジウムを経て1904年にゲッティンゲン大学へ進み,08年に卒業,引き続き無給講師となる。1911年から12年にまたがる冬季学期の講義では,ワイヤーシュトラス流の関数論とリーマン流の関数論とを融合して,新しい分野を開拓した。これは《リーマン面の概念》という名で13年に公刊された。この年にチューリヒ工科大学の教授になった。このころには A. アインシュタインの相対性理論に関心をもち,重力場と電磁場とを統合した統一場の理論を発表,それを示したのが18年の著書《空間,時間,物質》である。26年にゲッティンゲン大学の教授になった。このときには群の表現論に関心を寄せていた。連続群を行列で表現することについての一般論を樹立し,量子論の研究に貢献した。このことをまとめたものが《群論と量子力学》(1928)である。しかし,ヒトラーの政策に耐えられなくなり,アメリカのプリンストン高等研究所からの招聘(しようへい)を機に1933年にアメリカへ渡った。息子のヨアヒム Joachim と有理型曲線を研究し,その成果をまとめたものが《有理型関数と解析曲線》(1943)で,これは数学界に新風を吹き込んだ。                 小堀 憲

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ワイル,H.
ワイル Hermann Weyl 1885~1955 ドイツの数学者。量子論と相対性理論に重要な業績をのこした。北部のエルムスホルンに生まれ、ゲッティンゲン大学で数学者ヒルベルトにまなび、1908年に卒業した。その後ゲッティンゲン大学でしばらく講師としてはたらき、13年にチューリヒ工科大学の教授となった。当時、チューリヒ工科大学にはアインシュタインもいた。30年にゲッティンゲン大学の教授となるが、33年にはナチからのがれて、アメリカ合衆国のニュージャージー州にあるプリンストン高等研究所の教授となった。

ワイルの数学の研究は、さまざまな分野にわたる。幾何学と関数論の統一は、トポロジーなどの分野で最新の概念をみちびき、ゲージ理論では電磁場と重力場を時空の幾何学的特性をもちいてあらわし、統一場理論の先駆けとなった。ワイルは、また、群の理論や整数論にも貢献した。

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D.ヒルベルト
ヒルベルト

ヒルベルト
Hilbert,David

[生] 1862.1.23. ケーニヒスベルク
[没] 1943.2.14. ゲッティンゲン

  

ドイツの数学者,論理学者。ケーニヒスベルク大学に学び,1885年学位取得。同大学の私講師 (1886~92) ,助教授 (92~93) ,教授 (93~95) 。 95年に F.クラインの推薦によって,ゲッティンゲン大学教授となり,生涯ゲッティンゲンにとどまる。当時のゲッティンゲンは C.ガウス,P.ディリクレ,G.リーマン,クラインによって,盛んな数学の伝統がつくられており,さらにヒルベルトが加わって,20世紀初めの 30年間は世界の数学のメッカとなった。ヒルベルトの業績をみると5~10年ごとに,かなりはっきりと専門が分れており,しかもそれらのすべての分野において画期的なものであった。彼の業績は 19世紀までの近代数学と異なる性格の現代数学の始りを告げるものである。パリの第2回国際数学者会議 (1900) の席上,「数学の諸問題」のテーマで講演し,数学における問題の重要性を指摘し,23の未解決の問題をあげて,将来の創造的研究の輪郭を示した。晩年は,ナチスの台頭により,孤独で寂しいものであったといわれている。



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ヒルベルト 1862‐1943
David Hilbert

ドイツの数学者。19世紀の終りから20世紀前半にかけ,全世界の数学の進歩を指導したもっとも重要な学者の1人であった。ケーニヒスベルクに生まれ同地の大学に学ぶ。1885年不変式論についての論文によって同大学の学位を得,翌年同大学私講師となりパリに留学。92年同大学教授。95年ゲッティンゲン大学教授となり,1930年退職までその職にあった。業績は数学全般にわたるが,不変式論に関する研究の後,幾何学基礎論,次いで代数的整数論,積分方程式論,解析学,理論物理学,数学基礎論へと研究の主目標を移した。その間一貫して進められたのは,数学全般に特有の純粋な論理の追究と,方法の単一化である。また興味ある問題を指摘して,数学の進んでいく方向を指示する驚嘆すべき直感力をもっていた。幾何学基礎論では,ユークリッド幾何学の完全な公理系を与えて,公理の間の関係を調べ,代数的整数論では,C. F. ガウス以来の深い結果を整理したうえに類体論の成立を予見した。積分方程式論に関しては,(後の命名であるが)ヒルベルト空間論をつくり,解析の問題としてはディリクレ問題,変分法の問題などを扱った。晩年には,数学の無矛盾性を問題とする数学基礎論に没頭した。1900年,パリに国際数学者会議のあったとき,主催者の依頼に応じて〈数学の問題〉と題する講演を行い,今世紀の数学研究の目標となるべき23の問題(ヒルベルトの問題)をあげた。それには,基礎論に関する〈連続体問題〉〈算術の無矛盾性の問題〉のほか〈リー群の定義に関する第5問題〉〈類体の構成に関する第12問題〉などが含まれる。そのうちにはすでに解かれたものもあるが,未解決のものもあり,いずれも学界の興味の中心とされ,それらの解決はつねに話題となった。30年代にドイツではナチスが政権をとり,晩年の生活は不幸であったが,数学への影響は今日に及んでいる。                    弥永 昌吉

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ヒルベルト,D.
ヒルベルト David Hilbert 1862~1943 19世紀末から20世紀にかけて世界の数学の進歩を指導したドイツの数学者。ケーニヒスベルク(現ロシアのカリーニングラード)に生まれ、ケーニヒスベルク大学にまなぶ。1892年ケーニヒスベルク大学特命教授となり、翌年正教授、95年ゲッティンゲン大学にまねかれ、この大学を世界の数学研究の中心にした。

業績は数学のひろい分野にわたり、整数論、変分法、積分方程式論で大きな成果をあげた。とくに幾何学の分野での貢献はいちじるしく、1899年の著書「幾何学の基礎」では、ユークリッド幾何学を点、線分、平面を、「上にある」「間にある」「平行である」「合同である」というように、ある関係としてとらえなおし、その関係の満足すべき公理を列挙した。これにより、幾何学は直観や現実の事象に左右されない、厳密な論理に支配される純粋数学となったのである。

1900年にパリで開催された国際数学者会議で20世紀の数学研究の目標となるべき23の問題をあげた。その後ほとんどが解決されたが、まだ未解決のものもある。彼は、一貫して数学の無矛盾性を確立しようとしたが、31年アメリカの論理学者ゲーデルによってそれが不可能であることが証明された。

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G.フレーゲ
フレーゲ

フレーゲ
Frege,Friedrich Ludwig Gottlob

[生] 1848.11.8. ウィスマル
[没] 1925.7.26. バートクライネン


ドイツの数学者,論理学者,哲学者。イェナ,ゲッティンゲンの各大学に学び,1874年イェナ大学講師,79年同大助教授,96年同大教授。数学基礎論における論理主義の開拓者の一人。ライプニッツ,ボルツァーノの影響を受け,数学は論理学によって構成されるべきであるとし,命題論理の公理の体系化を試みた。また記号論理学における意味論の領域でも先駆的役割を果した。主著『数学の基礎』 Die Grundlagen der Arithmetik (1884) ,『数学の原則』 Die Grundgesetze der Arithmetik (2巻,93~1903) 。





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フレーゲ 1848‐1925
Friedrich Ludwig Gottlob Frege

ドイツの数学者,論理学者,哲学者。ドイツ東部のウィスマルに生まれ,イェーナ大学,ゲッティンゲン大学で自然科学,数学,哲学を学び,1873年数学で学位をとる。そののち,1918年までイェーナ大学で数学を講じた。その関心は早くから数学の基礎に向けられ,当時の数学者,哲学者と盛んに交流したが,その見解は広く受け入れられなかった。しかし,算術を論理から導くといういわゆる論理主義の立場をとり,それを正当化しようという思索の成果は,20世紀の哲学に大きく貢献している。論理主義実現のために論理学自体の再検討が必要となり,その結果,現代の命題計算,一階述語計算のほぼ完全な体系を独立で構成し,アリストテレス以来の伝統論理をはじめて実質的に超える論理学を《概念記法》(1879)として提出した。次に,数の概念の哲学的考察に向かい,その考察をまとめた《算術の基礎》(1884)では,カントを批判して算術の真理を分析的なものとし,悟性に直接与えられる客観的な対象として数を定義する方法を探った。しかし,この定義を実現したかに思われた《算術の根本法則》第1巻(1893)の体系は,1902年ラッセルの指摘を契機とする再検討の結果,いわゆる〈ラッセルのパラドックス〉を含むとされた。フレーゲは論理主義の放棄を強いられ,晩年には算術の真理を総合的なものとする立場から再度基礎づけを試みた。このように,現代の数学基礎論,論理学の基礎を築いただけでなく,厳密で形式的に隙のない体系を求めて営まれた記号,言語に関する考察は,現代の言語理論の出発点となっている。ウィトゲンシュタインの思索はその圧倒的な影響下にあり,また,同時代の主流であった心理学主義的,形式主義的,物理主義的な数学論,意味論を批判して,言語使用を人間的行為としてとらえその中で記号の意味とそれが指し示すものを区別する意味論を提出した。
                         土屋 俊

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フレーゲ 1848‐1925
Friedrich Ludwig Gottlob Frege

ドイツの数学者,論理学者,哲学者。ドイツ東部のウィスマルに生まれ,イェーナ大学,ゲッティンゲン大学で自然科学,数学,哲学を学び,1873年数学で学位をとる。そののち,1918年までイェーナ大学で数学を講じた。その関心は早くから数学の基礎に向けられ,当時の数学者,哲学者と盛んに交流したが,その見解は広く受け入れられなかった。しかし,算術を論理から導くといういわゆる論理主義の立場をとり,それを正当化しようという思索の成果は,20世紀の哲学に大きく貢献している。論理主義実現のために論理学自体の再検討が必要となり,その結果,現代の命題計算,一階述語計算のほぼ完全な体系を独立で構成し,アリストテレス以来の伝統論理をはじめて実質的に超える論理学を《概念記法》(1879)として提出した。次に,数の概念の哲学的考察に向かい,その考察をまとめた《算術の基礎》(1884)では,カントを批判して算術の真理を分析的なものとし,悟性に直接与えられる客観的な対象として数を定義する方法を探った。しかし,この定義を実現したかに思われた《算術の根本法則》第1巻(1893)の体系は,1902年ラッセルの指摘を契機とする再検討の結果,いわゆる〈ラッセルのパラドックス〉を含むとされた。フレーゲは論理主義の放棄を強いられ,晩年には算術の真理を総合的なものとする立場から再度基礎づけを試みた。このように,現代の数学基礎論,論理学の基礎を築いただけでなく,厳密で形式的に隙のない体系を求めて営まれた記号,言語に関する考察は,現代の言語理論の出発点となっている。ウィトゲンシュタインの思索はその圧倒的な影響下にあり,また,同時代の主流であった心理学主義的,形式主義的,物理主義的な数学論,意味論を批判して,言語使用を人間的行為としてとらえその中で記号の意味とそれが指し示すものを区別する意味論を提出した。
                         土屋 俊

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