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言語学・ゲームの結末を求めて(その1) [宗教/哲学]

言語学
言語学

げんごがく
linguistics

  

言語を科学的に研究する学問。複雑な言語現象のなかに共通にみられる社会習慣的特徴を分析的に研究し,究極的には言語現象そのものを解明することを目指している。言語学は言語の複雑な仕組みにいろいろな角度から接近する。言語の様式の違いにより,音声言語の研究と文字言語の研究とに分けられる。時間との関連では共時言語学と通時言語学に分けるのがソシュール以来の考え方である。言語そのものが共時的部分と通時的部分に分れているのではないが,総合的研究への方法論として,まず共時的な構造の記述から始め,それを時代的に積重ねていって,構造そのものの歴史の解明を目指しているのである。時間における言語の変遷は,空間においては方言差となって現れる。その方言の地理的分布から,言語の歴史や言語変化の要因を探る分野を言語 (方言) 地理学という。各方言 (言語) を比較研究し,それらの親族関係の証明,祖語の再構,および祖語から各方言 (言語) への分岐の歴史を明らかにする分野を比較言語学という。系統とは無関係に諸言語を対照させる研究は対照言語学という。言語構造内部の研究には音声学,音韻論,文法論 (形態論と統辞論) ,意味論 (意義論) などがある。言語と社会との関係は言語社会学で扱う。その他,言語心理学,言語工学,言語哲学などがある。言語研究の最初の業績は古代インドのパーニニの文典であり,ギリシア,ローマ,中国,日本でもかなり進んだ研究が行われたが,近代的な意味での言語学の成立は 19世紀の印欧語比較言語学によるところが大きい。青年文法学派の努力により,言語の歴史研究の科学的方法が確立した。 20世紀になり,ソシュールの提唱で共時論的研究が進み,構造言語学が興った。 20世紀中頃から変形生成文法など新しい接近法も提唱され,言語研究は活況を呈している。





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[ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 2008]

言語学
げんごがく linguistics

人間の言語を研究する学問分野。最初日本では〈博言学〉と呼ばれた。言語学は,人間の言語であるならばどの言語でも研究対象とし,したがって,研究者自身の母語が対象となることもある。人間の言語の第一義的存在が音声言語であることから,言語学はおもに音声言語を対象とするし,また,すべきであるが,文字言語の研究も重要であり,特に過去の言語の研究については文字言語に依拠せざるをえないことが多い。また,一般に言語学と呼ばれている分野には,主として言語そのものを研究する分野(狭義の言語学)と,言語とその他の事象との関係を研究する分野がある。
【共時言語学】
 言語そのものをおもに研究する分野は,そのアプローチのしかたからいって二つに大別しうる。まず第1に,ある一定の時期(多くの場合は現代)のある一つの言語に関してその構造などを研究するものがある。〈共時言語学〉〈構造言語学〉あるいは〈記述言語学〉などと呼ばれる。あらゆる人間社会は,人間自らが発する音声を用いて意思伝達,意思交換を行っている。そうした一回一回の行為には,その場限りの個別的なことがらも含まれてはいるが,そのような意思伝達・意思交換が可能なためには,その人間社会において音声による意思伝達のためのかなり固定的な社会習慣の総体としての言語が存在していなければならないはずであり,また,それにほぼ対応するものがその社会の各個人の脳裏に反映・蓄積されていてそれがいつでも用いられるようになっているはずである。そのような言語がどのような構造を有しているかを,各言語について解明し,それを通じて,人間の言語一般の姿を解明してゆくことは,言語学の最大の任務である。
 言語は,それを保有する人間集団の幾世紀にもわたる社会生活・精神生活の所産であるといえるので,どの言語も言語としての独自の価値を有し,ある言語が別の言語よりすぐれているといったことはいえず,全世界的に話し手を有する英語のような言語と数千(あるいはそれ以下)の話し手人口しか有しない言語の間に言語として優劣の差があるわけでもない。したがって,いかなる言語であっても,その研究はその言語の解明に役立つのみならず,人間の言語がいかなるものであるかを解明する上で〈平等の資格で〉貢献する。また,いかなる言語(ただし,母語として話す人間集団のいる言語)もそれ自体として独立した体系であるので,その研究は他の言語に関する研究結果からの機械的類推によるのではなく,その言語自体の真の姿,構造をつかみ出すことを基本にしなければならない。しかし,どの言語も人間の言語である限り一定の共通性を有しているはずであり,したがって,個々の言語の研究が人間言語一般の本質解明に寄与するわけであり,また,他の言語の研究成果,とりわけ他の言語の研究で有効であることがわかった方法論が別の言語の研究においてもプラスになるわけである。
 個別言語の構造の研究は,言語そのものの有する三つの側面に応じて,〈音韻論〉〈文法論〉〈意味論〉に分けてよい。
[音韻論]  音韻論的研究は,その言語がどのような音をどのように用いてその音的側面を構成しているかを研究する。どの言語も,ある数(通常,十数個から数十個)の〈音素〉と呼ばれる音的最小単位を順番に並べて単語などの音形をつくっていることがわかっているので,音韻論的研究の第一歩は,その言語にどのような音素が存在するのかということである。この研究は,一見容易に思われるかも知れないが,実際はかなり困難な仕事である。すなわち,それぞれの言語は独自に音的側面を構成しているので,それぞれの言語が用いている音素の音的実質が異なり,母国語の音韻に慣れきっている我々にとっては,母国語でない言語がどういう音を音素として用いているかを適確に把握するのはたいへんである。そもそも,どのような音を発しているのかわからなかったり,ある音とある音が同じといってよいのかどうかわからなかったり,ある点で異なる二つの音が音素として別の音素であるといってよいかどうかわからないことがある。したがって,この面での研究が可能になるためには,研究者が,人間の発しうるあらゆる音の調音のしかたと音響的・聴覚的性質についての十分な知識(すなわち,〈音声学〉の知識)を身につけている必要があるし,また,どういう音を同一音素としてよいかという点での方法論を確立している必要がある。また,音素が単語などの音形をつくりあげる際には,通常〈音節〉と呼ばれる中間的なまとまりをつくり,その音節が一つないしはいくつか結びついて単語などの音形をつくりあげるということがわかっているので,そのような音節がその言語においてどのような性格と構造を有するかを研究しなければならない。また,ある意味で,単語(場合によっては,それより少し小さいか大きいもの)の上に〈かぶさって〉存在しているといってよいような〈アクセント〉や,文全体にかぶさって存在しているといえる〈イントネーション〉の研究も重要である。なお,後述のごとく,同一単語(あるいは,同一形態素)の一部が,そのあらわれる位置によって形をかえる(音韻交替,音形交替)ことがある。それがどういうものであるかを研究する分野を〈形態音韻論〉と呼ぶ。⇒音韻論
[文法論]  発話の際の基準的単位としての〈文〉は,最終的には単語の列から成り立っているといえる。どのようにして単語から文ができあがるのか(逆にいえば,文がどういうふうに単語に分析されてゆくか)という全過程の中にある法則・規則の総体がその言語の〈文法〉であり,それを解明する分野が文法論である。
 まず,単語から見ると,その言語において単語とそれより小さいもの(〈接辞〉など。なお,なんらかの意味を有する音形の最小のものを〈形態素〉と呼ぶ。形態素一つで単語ができている場合もあれば,二つ以上でできている場合もある)がどのように区別されるかという問題がある。基本的には,ある程度以上に独立的であるかどうかで区別されているはずである。なお,形態素から単語ができる過程をも文法に含めることが多いが,少なくとも,その構成部分(つまり,形態素)の間の結びつきが個別的に形成される単語以下の場合のことがらと,結びつきが可能かどうかが規則的に決定されている単語以上の場合のことがらとは区別する必要があろう。次に,単語はその機能(どのような個所にあらわれうるか)のちがいに基づいて,いくつかの範疇(単語の範疇を〈品詞〉と呼ぶ)に分属しているが,どのような範疇が存在するかの研究がなされねばならない。また,一つの範疇の中にいくつかの下位範疇が認められる場合もよくある。ある範疇に属する単語は,その範疇特有の屈折(つまり,音形の一部がそのあらわれる位置によって交替する現象)を示すことがあるので,各範疇ごとの屈折の状態と性格を解明する必要がある。このように,単語に関係する研究分野は,従来,〈形態論〉と呼ばれてきた。
 次に,単語それ自体に関することを除き,単語から文にいたる過程を研究する分野を従来から〈構文論〉〈統語論〉などと呼んでいる(本事典では〈シンタクス〉の項を参照されたい)。単語がいきなり文をつくりあげるというより,なんらかの中間的なもの(〈句〉とか〈節(せつ)〉とか呼ばれるものや,〈文節〉などと呼ばれるもの)を形成し,それが最終的に文を構成するといった状態にあるので,どのような中間的なものがあり,それがどのような範疇(〈名詞句〉とか〈述語〉とかは,このような範疇の存在を主張する術語である)に分属しているかといったことが,この分野の中心的研究対象になる。また,文自体にどのような範疇が存在するのか,あるいはそもそも文に複数の範疇が存在するのかといった問題の解明も,この分野に含まれる。一般的にいって,文法論の分野は,学説によって多様なとらえ方がなされており,それだけ複雑な対象をかかえていることの結果であろう。⇒文法
[意味論]  言語の意味の面を研究するのが意味論である。その中心的課題は,単語の意味をどうとらえるかということにある。個々の単語は,固有名詞と若干の例外を除き,ただ一つの事象ではなく多くの事象をあらわすことができる。したがって,当然,同一の単語によってあらわされる事象に,ある面では互いに異なる性格を有するものが認められる。そのような事象を同一単語であらわすのであるから,その単語はそうした事象のすべてに含まれるある共通性に対応しているはずである。したがって,ある単語の意味を研究することは,その単語によってあらわされうる全事象にどのような共通性が含まれているかを解明することである。なお,ある単語がどのような共通性に対応するかは,基本的にはその単語独自のことがらであるから,よく似たことをあらわす二つの単語(同義語,類義語)があっても,どこか異なるはずだと考えるのが正当である。異なる言語の二つの単語についても同様である。一方,同じ音形であってもちがった単語であることがある(〈同音異義〉)(〈同音語〉の項を参照)。場合によっては,同音異義であるか同一単語であるかの判別が困難なことがある。しかし,同音異義であるものを同一単語とまちがえて意味を考えると,その音形では実際はあらわせないものまであらわせるかの如く主張する結果になるのが普通なので,このことを利用して同音異義か同一単語かを見分けることが多くの場合可能である。なお,単語の意味の研究の中でも,日本語の助詞とか助動詞とかといったもののように,独立度の低い単語(〈付属語〉)の意味の研究は,特に困難な場合が多い。また,個々の単語の意味だけでなく,ある屈折形(全体)の意味(たとえば,ドイツ語名詞の〈三格〉の意味とか,フランス語動詞の〈現在形〉の意味とか)の研究もきわめて重要であり,かつ,困難である場合が多い。また,それぞれの単語の意味を基礎として文全体の意味がどのように構成されているかといったことには,理論的問題がかなり残されており,ちがったアプローチの存するところである。
 意味論は,ある単語を固定し,それによってどういうことがらがあらわされるかを見るわけであるが,逆に,あらわされる事象の側に一定の分野を設定し,その分野の事象をどのようにあらわしわけているかを研究することもできる。〈語彙論〉と呼ばれる研究方法は,こうしたやり方を基本にしたものといえる。なお,本質的にはこれまで述べたことと変わらないが,方言を対象とする分野を〈方言学〉と呼ぶことがある。
 以上は,個々の言語の構造の研究について述べたものであるが,いくつかの言語を全体として,あるいは,それぞれの該当個所を比較研究する方法を〈対照研究〉と呼ぶ。特に外国語と母語との対照研究は,特に対照研究と銘打たなくても,外国語の事象を深く理解し,また母語自体の言語学的理解を深める上で有効である。また,人間の言語をある基準に沿って分類する方法を〈類型論〉(言語類型論)と呼ぶ。従来より,〈孤立語〉〈膠着語〉〈屈折語〉といった分類が有名であるが,これは一つの分類にすぎず,基準を別のものにかえれば別の分類が可能になる。⇒意味論
【通時言語学】
 言語は時とともに変化する。したがって,言語そのものを研究するもう一つの分野として,言語の変化を扱うものが存在可能であり,これを〈通時言語学〉〈史的言語学〉〈歴史言語学〉などと呼ぶ。言語は,音韻,文法,語彙および意味の全面にわたって変化してゆくので,それぞれの面の変化が研究の対象となる。ただし,ある言語についてその変化の研究が可能になるためには,その言語の二つの異なる時期の姿がわかっている必要がある。しかも,個々の変化も他の面との関連のもとに,かつ,他の面に影響を与えつつ起こると考えられるので,そうした二つの時期の姿ができるだけ厳密に分析・記述されている必要があり,したがって,上述の〈共時言語学〉は通時言語学の基礎であるといえる。さて,多くの言語の場合,過去の記録を有しないので,通時的研究はきわめて困難ということになるが,後述の比較方法を用いての他の言語(方言)との比較とか,現存の言語そのものの分析によって過去の姿が一定程度推定できる場合もある。なお,通時言語学の主要な関心は,これこれの変化が起こったという事実の確認だけではなく,言語がどのように変化してゆくものかという一般的法則・傾向の追求にも向けられている。通時言語学の一つの分野で,個々の単語などの語源を追及する分野を〈語源学〉(〈語源〉の項を参照)と呼ぶ。
 同一の言語から分岐して成立した複数の言語(方言)の比較によって,もとの言語(〈祖語〉)の姿を推定(〈再建〉)したり,分岐の過程を推定したり,あるいは,同一の言語から分岐した可能性のある複数の言語を比較して,それらが同一の言語から生じたこと(系統的親近関係の存在)を証明しようとする分野を〈比較言語学〉と呼び,そこで用いられる方法を〈比較方法〉と呼ぶ。音韻変化がおおむね規則的であることが最もよく利用される。インド・ヨーロッパ語族などの場合は,資料が古くまでさかのぼれる一方,今後新たな資料の発見の可能性が少なく,現存資料の解釈に重点を置かざるをえない分野といえようが,アフリカやニューギニアなどの場合は,現存言語の新たな調査・分析が直ちに比較研究の向上に貢献するといえる状況にある。
 言語(方言)が変化してゆく際,隣接する言語(方言)からの影響を受けて変化を起こす場合が多い。特に,語彙変化などにそういうことが多い。単語などの地域的伝播の姿を解明しようとする分野が〈言語地理学〉と呼ばれる。手法としては,たとえばあることがらをあらわす単語をある地域の多くの地点において調査し,地図(〈言語地図〉)にその分布状況をあらわし,その姿からその地域にどのような変化がどう起こったかを推定するものである。言語(方言)が互いの影響関係の下で変化してゆく姿を解明する上で大きく貢献した分野である。
【境界領域】
 以上述べたものは,主として言語そのものを研究する分野であるが,言語が人間および人間社会のその他の事象と無関係に存在するものではないことから,言語とその他の事象との関係を研究する分野が必要になる。言語と心理との関係,発話行動における心理などを考える〈言語心理学〉,幼児の言語習得過程を研究し,母語教育に役立てようとする〈幼児言語学〉(〈幼児語〉の項を参照)または〈発達言語学〉,言語障害を研究する〈言語障害学〉,母語や外国語の教育方法を研究する〈言語教育学〉(〈言語教育〉の項を参照),などがあり,また,〈言語社会学〉または〈社会言語学〉と呼ばれる分野は,言語の側の差異と人間集団の差異(階層のちがいとか出身地のちがいとか)の関係を多方面にわたって研究し,〈言語人類学〉は,言語の諸事象と文化人類学的諸事象の間の関係を調査・研究する。〈言語社会学〉には,言語政策などを扱う分野(〈言語工学〉とも呼ばれる)もはいり,また,複数の言語が話される国などの問題を扱う言語教育学的研究も含まれる。また,言語を数理的に扱う分野を〈数理言語学〉と呼ぶ。これらの諸分野は,それぞれが独自の分野であるとともに,互いに補い合うものでもある。
 個人の(あるいは,ある集団の,またはある特定の条件下における)言語使用上の特徴を研究する分野を〈文体論〉(〈文体〉の項を参照)と呼ぶ。主として,特定の作家の文体を研究することが多いが,庶民の言語生活上の文体的なちがいも研究の対象となる。
 日本語でも英語でも言語として研究するならば言語学に含まれるが,外国語を実用的目的のために習得すること自体は言語学とはいえない。ただし,ある言語を言語学的に研究した結果を利用することはその言語の習得にとってたいへん有利である。また,外国語の言語学的研究にとってその言語を習得することは必要ではないが,習得している方が研究にとってかなり有利である。
【言語学の歴史】
 人類は古代から自らの有する言語に関心を抱いてきた。古代インドにおいてはサンスクリットの精密な記述ができていたし,ギリシアにおいては言語の哲学的議論が盛んであった。近代言語学の歴史は,サンスクリットが西欧に知られ,遠く離れた地に話される言語のヨーロッパ諸語に対する顕著な類似が注目され,比較言語学が発達した(19世紀)ことに始まる。この中で,言語の系統的親近関係の証明方法や祖語の再建方法などが進歩した。20世紀初めより,特に F. ソシュールの提唱した共時言語学と通時言語学の峻別という考え方の影響で,言語の共時的側面の研究が強まり,どの言語においても整然とした体系的構造が認められることが明らかになってきた。当初は音韻面の研究が顕著な進歩を示したが(たとえば,プラハ言語学派のそれ),次に文法の面が進歩し,また,意味の研究もさまざまな理論的ちがいを含みつつ進歩してきた。文法の面では,N. チョムスキーの提起した〈変形文法理論〉(〈生成文法〉の項を参照)が一時期全世界的に支持者を獲得したかに見えたが,理論上の分裂傾向が強まり,またチョムスキー自身の考え方もかなり変化し,かつての勢いは見られない。
 日本においては,江戸時代より古語の研究の伝統があったが,明治以降の西洋言語学の輸入とその消化を経て,西洋諸語やアジア諸語の記述的研究,さらには新たな理論・方法論の開発・模索が続けられている。ただ,一方で外国の学説の無批判な受入れが見られる場合があり,また,発展途上国の言語や少数言語に対する研究がまだ社会的に重視されていないことと,そうした研究を遂行しにくい地理的条件が重なり,自らある言語をはじめから分析・記述し,そこから一般言語学的に通用する諸法則を引き出そうとする言語学者は残念ながら多数養成されているとはいえず,今後の課題となっている。⇒記号∥言語∥文字
                        湯川 恭敏

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言語学
I プロローグ

言語学 げんごがく 言語の科学的な研究をさし、分野としては、特定の言語の音・単語・文法の研究、ことなる言語間の関係の研究、すべての言語に共通な特徴の研究、などがある。また、コミュニケーションを社会学的・心理学的な側面から分析する分野もある。

言語を記述・分析するための、いくつかのことなった視点が存在する。まず、1980年代のパリのフランス語といったように、ある特定の時代の状態を研究することができる。このような研究を共時言語学とよぶ。これに対し、ある言語の、長い期間にわたる変化を対象とするのが通時言語学である。ラテン語が現代のロマンス諸語へと変化していく過程の研究は、通時的研究の一例である。20世紀の言語学は通時的視点と共時的視点の双方から研究がおこなわれているが、19世紀の言語研究は、通常、通時的視点からおこなわれた。

また言語学の研究は、理論言語学と応用言語学にもわけられる。理論言語学は、言語を記述したり、言語の構造を説明したりするモデルや理論の構築をめざす。応用言語学は、科学的な言語の研究の成果を言語教育、辞書の編纂、言語療法などにもちいる。機械翻訳と機械による音声認識は、20世紀後半において応用言語学が成果をおさめた分野である。

II 言語学の様相

個々の言語やその変化をしらべ、記述する方法はいくつもあるが、たいてい次のような研究によっておこなわれる。音声学と音韻論による言語の音の研究、形態論による音の連続、つまり単語の構成の研究、そして構文論による文の中の単語どうしの関係の研究である。そのほか、語彙(ごい)の研究や意味論による研究によってもおこなわれる。

1 音韻論

音韻論とは、特定の言語における意味をもつ音の研究と同定である。これに対して、音声学とは、すべての言語の言語音と、それらがどのように発音されるかについての研究である。

2 形態論

形態論は、特定の言語の中で意味をになう形態素とよばれる要素を対象とする。形態素には、英語のcranberryにおけるcran-のような語根、英語のbirdや日本語の「鳥」のような単語、英語のpreadmissionにおけるpre-や日本語の「お味噌汁」の「お?」のような接頭辞とopennessにおける-nessや「大きさ」の「?さ」のような接尾辞、さらには、英語のsing「歌う」とsang「歌った」、mouse「1匹のネズミ」とmice「複数のネズミ」のような、語の内部において時制・数・格といった文法的範疇(はんちゅう)をあらわす音の交替がふくまれる。

3 構文論

構文論(シンタクス)とは、文中での単語間の関係の研究である。例をあげると、英語でもっとも普通の語順はMary baked pies.「メアリーがパイを焼いた」にみられるように「主語?動詞?目的語」であり、Pies baked Mary.は英語の文として意味をなさない。これに対して、日本語の語順は「メアリーがパイを焼いた」にみられるように基本的には主語?目的語―動詞だが、日本語では文中の名詞の役割を「が」「を」のような助詞によって明確にあらわしているため、「パイをメアリーが焼いた」のように、語順の入れ替えが可能である。

III 20世紀以前の言語学

古代より19世紀にいたるまで、言語学とはおもに書記言語の文献学的研究であった。

前5世紀というはやい時期に、インドの文法学者パーニニはサンスクリットの音と単語を記述し分析した。さらにのちに、古代ギリシャとローマで文法的範疇という概念が確立された。

何世紀もののち、印刷技術が発達し、聖書が何カ国語にも翻訳されて、さまざまな言語の文献があらわれたため、ことなる言語どうしを比較することが可能になった。

18世紀初頭にはドイツの哲学者ライプニッツが、ヨーロッパ・アジア・エジプトの諸言語が共通の源から発しているのではないかという仮説を提起し、比較文献学・比較言語学の誕生をうながした。ライプニッツの推論は、一部ただしく一部あやまっていることがのちに証明された。

18世紀の終わりに、イギリスの学者ウィリアム・ジョーンズ卿(きょう)が、サンスクリットがギリシャ語やラテン語に似ていることを指摘し、共通の源から発生したのだろうとのべた。19世紀初めの言語学者たちはこの仮説をさらに追求した。

ドイツの文献学者ヤーコプ・グリム(→ グリム兄弟)とデンマークの文献学者ラスクは、ある言語の単語の音が、別の言語の関連のある単語の中の似た音と対応している時には、その対応は規則的であることに気がついた。たとえば、ラテン語のpater「父」とped-「足」という単語の最初の子音pは、英語のfatherやfootにおける子音fに対応している。

19世紀後半までには、音の対応に関して多くの分析がなされた。ヨーロッパの青年文法学派は、同族の言語間の音の対応が規則的であることだけでなく、そうした音の法則には例外はなく、例外とみえるものは他の言語からの借用などによるものだという仮説を提起した。たとえば、「歯」をあらわす単語がラテン語ではdentalis、英語ではtoothとなるように、ラテン語のdは英語のtに対応するはずである。しかし、英語のdental「歯の」という語はdという音をもっている。

青年文法学派は、これは、音の対応の規則から期待されるtをもつtoothがもとからの英語の語であるのに対し、dentalはラテン語からの借用だからであると説明した。

ことなる言語の関連のある単語どうしを比較して規則的な音変化を発見するこの方法は、比較言語学的方法とよばれ、これにより、語族、つまりおたがい関係がある言語どうしのグループの設定がおこなわれるようになった。この方法により、語族の中のより小さいグループである多くの語派をふくむインド・ヨーロッパ語族が想定された。英語は、この語族の中のゲルマン語派に属する言語である。

IV 20世紀以降の動向

20世紀において、言語学はいくつかの方向にわかれた。

1 記述言語学

記述言語学においては言語学者は、もとから存在する文献ではなく、母語話者からデータをあつめ、そのデータを音韻論、形態論、構文論といったいくつかのレベルにわけて、言語の要素を分析する。

こういった分析法は、それ以前にまったく記述されたことのないアメリカ先住民の諸言語を記述する必要にせまられたアメリカの人類学者ボアズとサピアが確立したものである。

2 構造主義

アメリカの言語学者ブルームフィールドは、ボアズやサピアなどの仕事にのっとって、意味をなるべく考慮しないで行動主義的に外的要素のみによって言語を分析することを提唱し、記録のない言語の音と文法構造を発見する技術の重要性を強調した。このような言語の分析方法を構造主義といい、言語学のみならず人類学や哲学思想にも大きな影響をおよぼした。

アメリカの構造主義が実際の発話を重視したのに対し、ヨーロッパの構造主義は実際の発話と区別して、その基底にある抽象的な言語の体系を重視した。この傾向は、スイスの言語学者ソシュールの講義録が彼の没後1916年に発行された時点にはじまる。ソシュールはラング(フランス語で「言語」)とパロール(「話」)という概念を区別した。ラングとは、ある言語の話者がその言語で何が文法的かということについてもっている知識であり、パロールとは、その言語での実際の発話である。

3 プラハ学派

1930年代にチェコスロバキアのプラハで盛んだったある学派は、言語の構造以上のものを問題にし、発話された言葉とその文脈との間の関係を説明することを目標とした。このプラハ学派の言語学者たちは言語内の要素の機能を重視し、言語の記述は、ある内容がどうやって伝達されるかということをふくむべきだと主張した。音韻論の分野では、音を調音上の、また聴覚上の要素へと分解する弁別素性の考え方が高く評価され、他の学派にもとりいれられている。

4 生成文法

20世紀半ばに、アメリカの言語学者チョムスキーは、言語学は言語の構造を記述する以上のことを、つまり言語において文がいかに理解されるかについての説明をすべきだと主張した(→ 生成言語理論)。彼によると、この過程は普遍文法という言語の知識、すなわち言語能力の理論によって説明できる。

言語能力とは、話者が、今まで聞いたことのない文もふくめた文をつくりだし、また理解することを可能にする、生まれながらの、ほとんど意識下の知識のことである。そして、ある言語において文法的に認容可能なすべての文を生成し、非文法的な文をすべて排除するようなシステムを生成文法とよぶ。

チョムスキーによると普遍文法の規則と個々の言語の規則は別であり、個々の言語においては普遍文法の規則とその言語に固有の規則の両方が適用される。これらの規則により、文の構成要素はさまざまな構成の中にあらわれる。たとえば「メアリーはポールにキスした」という能動文と「ポールはメアリーにキスされた」という受動文の両方が生成可能である。

5 現代比較言語学

20世紀における比較言語学は、南北アメリカ、ニューギニア、アフリカといった地域において語族をうちたてることをめざし、また、言語における普遍的な原則を追求する。世界の言語を類型論的に特徴づけること(→ 言語類型論)が新たに関心をあつめており、性別をもつ言語ともたない言語、主語を重要視する言語と主題を重要視する言語など、言語を文法構造と文法範疇にもとづいて比較することがおこなわれている。

例をあげると、スタンフォード大学の言語普遍性プロジェクトにおいて、アメリカの言語学者グリーンバーグと同僚たちは、「主語?動詞?目的語」といった基本的な語順が同じ言語は、ほかの特徴についても共通部分をもつということをしめした。こうした比較研究は、世界の言語の音・構造・意味の体系がどのような形をとる可能性をもっているかをさぐる試みである。

6 社会学・心理学的分析

心理言語学は、心理学と言語学の両方の分野の重なる部分の研究であり、子供による言語の習得、音声認識、失語症、言語と脳の関係を研究する神経言語学などを対象とする。社会言語学は、言語が社会の中でどのように機能するかを研究し、ことなった状況で人間が適切な言語行動をとるためにもちいる規則を記述することが目的である。どのような状況で人を「ミズ」「ミセス」「メアリー」「先生」、またはたんに「あなた」とよぶか、などが1例である。

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言語
言語

げんご
logos; language

  

人間に固有な意思伝達手段で,社会集団内で形成習得され,意思の相互伝達と抽象的思考を可能にし,社会・文化活動を支えるもの。また,社会の全体像を反映すると同時に文化全般を特徴づけるもので,共同体の成員は言語習得を通じて社会的学習と人格形成を行う。ソシュール以来,共同体の用いる言語体系をラング,個人の言語活動をパロールという。外的形式としての言語は,音声言語とこれを前提とする文字言語とに分れ,思考の発展は後者に負うところが大である。音声言語は発話と了解から成り,言語単位 (音素,形態素,単語) をもとに音韻体系,文法体系 (形態体系,統辞法) を構成する。音韻と意味,文字と音韻・形態素・単語の連合は社会習慣による。言語の数は 2500~3500とされ,分岐的 (祖語-語族,方言) 発達と統一的 (共通語志向) 発達の2傾向を示す。これら自然言語に対し,国際語 (エスペラントなど) や,ことに理論的普遍言語 (諸科学に共通) を人工語という。近代以降の世界と人間の記号化の進行とともに自然科学の諸分野では記号言語への接近が目立つが,記号に還元されない言語の本質についての省察は言語哲学の興隆をもたらしている。





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[ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 2008]


言語
げんご

人間同士の意思伝達の手段で,その実質は音を用いた記号体系である。〈ことば〉ということもあるが,〈ことば〉が単語や発話を意味する場合がある(例,〈このことば〉〈彼のことば〉)ので,上記のものをさす場合は,〈言語〉を用いた方が正確である。また,人間以外のある種の動物の〈言語〉をうんぬんすることも可能ではあるが,その表現能力と,内部構造の複雑さおよびそれとうらはらの高度な体系性などの点で,人間の言語は動物のそれに対して質的なちがいを有している。
【人間社会における言語の存在のしかた】
 言語がどのような形で人間社会の中に存在するのか,すなわち,その社会における発話行動の総体の中に存在するのか,あるいはその社会の成員の脳裏に存在するのか,について種々の議論があったが,正確には,まさにその二つの形をとって存在しているというべきであろう。個々の,意思伝達のための発話行動をとってみると,そこには偶発的なものや個人的なものが当然含まれてはいるが,その発話行動が複数の人間の間の意思伝達の一局面である限り,その中に意思伝達を可能にする,その社会一般に認められたもの(社会習慣)が含まれているはずである。その社会におけるそうしたものの総体が,言語の一つの姿である。その社会に生まれた(あるいは,加入した)個人は,そのような姿をとって存在する言語を習得しない限り,その言語の話し手とはなりえない。しかし,そうした言語も,それを習得した個人の集合である言語社会が存在しない限り,存在しえないし,その(一部の)具体的あらわれである発話行動自体が生起しえない。したがって,個々の成員の脳裏に蓄積された言語(あるいは,言語意識)も,言語のもう一つの姿である。この二つの姿は,互いを自己にとって不可欠な相手として,互いに支えあっている。
【言語の機能】
 言語は,上述のごとく,人間の意思伝達の手段であるが,機能としてはそれに尽きるものではない。思考を支える手段,自己の感情の表現手段,あそびの一手段といった機能をあげることができる。しかし,そのことによって,言語の本来の機能が意思伝達の手段であることを否定することはもちろん,軽視することもできない。まさにそういうものとして言語は発生し発達し,また,そういうものとして人間社会を成立させてきたのである。
 また言語が,思考を支える手段という機能を有することは次のように説明される。人間は,その集団的な認識活動の結果を言語のあり方・構造に反映させてきた。したがって,言語は人間の認識やその発展である思考を支え,補助できる力を本来的に有しているのである。
【音声言語と文字言語】
 以上は,いわゆる〈音声言語〉について述べたものだが,このほかに〈文字言語〉を有する社会がある。文字言語は,本質的には,音声言語の補助手段として成立し,音声言語に依拠して存在してきたものであるが,音声言語の方はそのあらわれ(発話)がすぐ消え去ってしまうのに対し,文字言語のあらわれは長く(あるいは永久的に)残るという特色を有するため,人間社会にとって音声言語にはない重要な意味をもっている。すなわち,書いた時点にその場に居合わせなかった人々にもその内容を知らしめることを可能にし,知識の譲渡,さらには,印刷術の発達によって知識の普及に大きな役割を果たす。したがって,近年,かつては無文字社会であった社会が文字を用いるようになる例が増えている。ただし,すべての言語社会が文字言語をもつようになったという状況にはほど遠いものがあり,また,文字言語を有する社会においても,それを使用できる人口が限られているなどの問題がある。また,文字言語そのものの性格から生ずる問題点も指摘される。その一つは,音声言語との乖離(かいり)傾向である。その最大の理由は,文字言語の方はいったん定まるとなかなか変化しにくいのに対し,音声言語の方は時とともに変化してゆくことにある。その乖離が進みすぎると,文字言語の方を改革する動きが生ずる。もう一つの理由は,文字言語が多くの場合,その国(地域)の支配的な方言に立脚して定まるという点にある。すなわち,それ以外の方言の話し手にとっては自らの音声言語とその文字言語が初めから乖離したものなのである。
【言語の構造】
 言語は,おおむね次のような構造を有している。
[文法]  発話の基準となる単位として〈文〉という単位が存在する。文は,理論的には長さの制限をもたず,また,その数も無数であるが,一定の構造(あるいは,いくつかの構造のうちのいずれか)を有する。文は,最終的には〈単語〉の列から成り立っている(こういう状態を〈分節〉と呼ぶことが多い)。たとえば,日本語の〈電車が来ましたよ〉は,〈電車〉〈が〉〈来る〉〈ます〉〈た〉〈よ〉という六つの単語の列から成り立っている,といえる。単語は,個々の言語において何を単語と認めるかで難しい問題があるけれども,どの言語にも存在する単位であり,どの言語社会においてもその数はおそらく数千を下らないであろう。ただし,数は多いけれども一応有限であり,有限個のものを組み合わせることによって無数の文が成立可能になるわけである。単語はその機能(つまり,文の中のどこにあらわれうるか)のちがいに基づいて,いくつかの範疇(単語の範疇を〈品詞〉と呼ぶ)のいずれかに所属し,そうした範疇のどれに所属しているかがわかればどのように用いうるかがかなりわかる状況を呈している。ある品詞に属する単語が,意味のちがいを伴って(あるいは,伴わずに)そのあらわれる位置によってその語形の一部を,その品詞に特有の形で交替させることがある。これを〈屈折〉(〈活用〉〈曲用〉などという術語も用いられる)と呼ぶ。屈折には,語形のある部分を1個所,かつ,それを全体として交替させるというものと,ある部分に交替しうる複数の要素が並んでいるもの,2個所以上で交替を示すものなどがある。このような交替する要素は〈接辞〉と呼ばれるが,正確を期するためには〈屈折接辞〉とでも呼ぶべきである。屈折接辞は,音形のちがいを無視して意味の同じものを同一物と考えると,ある品詞に属する単語(の本体,すなわち〈語幹〉)には原則としてそのすべてに直接もしくは間接的に接続しうる。その際かなり強く結びつくことを特色とする。一方,単語と呼びうるものにも,独立度の弱い(たとえば,それだけでは発話しにくい)ものがあり,別の言語の屈折接辞のような役割を果たすものがある。ただし,単語というべきか屈折接辞というべきか区別するのが困難な場合がある。さて,単語が単語同士で結びついて直ちに文を構成するのでなく,多くの場合,単語でもなく文でもない中間的な結びつきを形成する(先ほどの文では〈電車が〉とか〈来ましたよ〉)。このような結びつきにも範疇が認められる(文法研究で〈名詞句〉とか〈述語〉とかの術語を用いる場合,このような結びつきが,中間的なものであれ一つの単位として機能していることと,それらが範疇に分属していることを前提としている)し,また,文自体にも範疇区分をうんぬんすることができる。単語にどのようなものがあり,どのように結びついて最終的に文を形成するか,逆にいえば,文がどのようなものから成り立っていて,最終的にはどのような性格をもった単語の列に分析されるか,といったことの総体を〈文法〉と呼ぶ。文法というのは,言語の中で意味が関与する分野における規則性・法則性の総体であるともいえる。
 なんらかの意味に対応する音形のうち,それ以上分析できないものを〈形態素〉と呼ぶ。単語が意味を有するものにそれ以上分析できなければ,それは同時に形態素でもあるが,上述の語幹(それが分析不能の場合),屈折接辞も形態素である。さらに,〈お金〉の〈お‐〉のようなもの,〈金持〉の〈金‐〉のようなものも形態素にはいる。しかし,これらはそれが結びつきうる相手が個別的にしか規定できない(〈‐金〉が名詞(〈家〉)のように見えるからといって,〈お家〉とは普通いわない)し,その全体の意味も部分の意味から完全に予測できるものではない(〈金持〉は,お金をたくさん所有している人のことだが,〈太刀持〉は,太刀をたくさん所有している人ではない)。こうした種類の形態素の結びつき方をも文法に含めて考える説もあるが,このような本質的には個別的なことがらは,規則性の総体としての文法とは趣を異にしている。しかし,それぞれの言語には〈複合語〉〈派生語〉の構成のしかたに一定の傾向(〈造語法〉)があり,それが既知の要素を用いて単語の数を増加させる上での有効な手段となっている。
 文の構造がいかなるものであるかは,もちろん言語によって異なっている。しかし,人間の認識と言語との関係から,次のようなことは一般的にいえそうである。我々が外界を認識するとき,一挙にすべてを認識するのでなく,その一〈局面〉(たとえば,向こうから電車が近づいてくるといった局面)を他から切り離した形で認識する。その際その局面を認識の上で切り離すことを可能にするその局面の特徴とは,主としてその局面におけるなんらかの運動である。したがって,そのような運動にあたるものが,そうした局面に対応する言語的単位すなわち文の中に原則として必ず含まれていなければならず,かつ,原則として一つであるはずである。すなわち,〈述語〉(〈主語・述語〉の項を参照)と呼ばれうるものが,どのような言語でも文の必須成分としてあることが推測される。また,基本的には,述語があらわす運動となんらかの直接的関係にあるもの(つまり,その運動と同一局面に含まれるもの)をあらわす成分が同じ文に含まれうるものである,ということもできよう。このように考えると,文の構造と人間の論理形式とはともに〈局面の構造〉に規定された表裏一体のものということができる。ただし,論理形式の方は一義的であることを要求されないし,むしろある範囲の中で多様なものと考えられるのに対し,文の構造の方は一つとはいわないまでも,言語ごとに少数の種類に固定されていなければならない(そうでないと使いこなせない)ので,文の構造は多様な論理形式の一つもしくは少数を言語的に固定したものだといえよう。したがって,一つの言語の文の構造に対応する論理形式も,別の外国語の文の構造に対応する論理形式も,人間のそれとして存在するものであり,たとえば日本語の文の構造がある外国語のそれに異なるからといって,日本語を非論理的な言語とするような議論はまったくの妄言にすぎないし,他の言語についても同様である。
[音韻]  次に,言語の音の面に注目すると,単語(あるいは,形態素)は,意味を無視するならば,さらに小さい単位から成り立っている。音の面での最小単位を〈音素〉と呼ぶ。各言語はそれぞれある数(通常,十数個から数十個)の音素を保有し,それらを順に並べて単語などの音形を構成している(こういう状態も,〈分節〉と呼ばれる)。たとえば,〈船〉は h,u,n,e の四つの音素が一つずつこの順に並んでいる。同一音素はできうる限り同じ音であらわれる。すなわち,そのあらわれる位置によって前後とのつながりをスムーズにするような変異はあるが,それ以外の点では同一音であろうとする。音素は,平面的に並んで一挙に単語の音形を構成するのでなく,ある中間的まとまりを構成し,それが単語などの音形を構成するという状況を呈する。そのような中間的まとまりを〈音節〉と呼ぶ。音節の性格,構造は各言語によって異なるが,遠くまでよく聞こえるが発音にエネルギーを要する音(〈母音〉)を中心に,あまり遠くまで聞こえないが発音にエネルギーを要しない音(〈子音〉)をその前(または前後)に配置するという形が最も一般的である。ただし,あらゆる言語において母音と子音の区別が明確だというわけではない。各言語における母音の数は,多くて10をあまり超えない範囲にある。また,どの言語でも,音素の並び方にその言語固有の制限を有する。どのような音を音素とするかは言語によって異なるが,たとえば〈唇を用いる閉鎖音〉(破裂音)に有声音と無声音(b と p)の区別があれば,他の閉鎖音にも同種の区別があるといった,調音器官の運動形態の種類を比較的少なくしつつ多くの音を保有しようとする傾向が認められる。また,言語によって,同一単語内で,ある母音のあとにはある種の母音だけが立ちうるといった現象が認められることがある(〈母音調和〉)。
 単語(あるいはそれより少し小さいか大きいもの)の音形に,音素の区別に関係するものとは異なる音的特徴(強弱差とか高低差)が〈かぶさって〉いるような状況が認められる。これを〈アクセント〉と呼び,強弱が有意味的なものを〈強弱アクセント〉とか〈ストレス・アクセント〉,高低差が有意味的なものを〈高低アクセント〉あるいは〈ピッチ・アクセント〉と呼ぶ。さらに,別の音的特徴が用いられることもありうる。長さの等しい単語の間にアクセントの対立があれば,それだけで単語と単語を区別できることになる。アクセントがどの程度に複雑であるかは言語によって非常に異なり,単語の長さが決まればアクセントは一定という単純なもの(例,フランス語や日本の〈一型アクセント〉の方言)から,きわめて複雑な(ただし,高度に規則的でもある)ものもある。
 また,文全体あるいはその一部(ただし,かなり大きい部分)に〈かぶさる〉音的特徴を〈イントネーション〉と呼ぶ。多くの場合,音の高低の変化を実質とし,また,多くの場合その末尾の特徴で判別できる。なんらかの意味に対応する(たとえば,疑問文のイントネーションなど)ことが多い。
[意味]  単語は,固有名詞および若干の例外を除き,ある一つの事象をあらわすのでなく,多くの(理論的には無数の)事象を一つの単語であらわすようになっている。また,単語の音形と意味の間には,若干の例外(〈擬声語〉〈擬態語〉など)を除き,特別のア・プリオリな関係は存在しない(これを,〈記号の恣意性〉と呼ぶことがある)。しかし,一つの単語をとってみると,その単語によってあらわされうるすべての事象には,その単語によってはあらわされえない事象には総体としては含まれない共通性が認められる。いわば,単語は,決して個々の事象に対応しているのでなく,このようなある種の共通性(の総体)に対応しているのである。ある単語によってあらわされうるすべての事象に含まれる共通性,もしくは,その共通性の人間の脳裏における反映としての〈観念〉が,単語の〈意味〉と呼ばれてきたものである。単語のあらわす事象には,名詞の場合のように事物といえるようなものや,動詞のように動作・運動といえるものや,その他ある種の関係等々がありうるが,いま見た点では共通である。ただし,単語の音形と意味との対応が人間の意識を通じて成立するために,現実には存在しない事象をあらわす単語(〈幽霊〉など)やきわめて主観的な感情に対応する単語(〈嫌い〉とか〈オヤオヤ〉とか)もあり,また,現実に存在する事象をあらわしても,なんらかの感情のからむ単語(たとえば,〈野郎〉など)もかなりある。
 ある音形であらわされうるすべての事象に含まれる共通性(その音形が同一の単語なら,この共通性はその単語の意味にあたる)をすべて含む事象が,その音形によってはあらわされえないものの中に存在することがある。その場合,その音形は音形としては同一であるが,意味は一つではありえない。すなわち,単語としても一つではありえないことになる。そのような場合,〈同音異義〉と呼ぶ。同音異義には,偶然生じたものと,ある単語の音形が,もとの意味となんらかの形で似た意味をあらわすものとしても用いられるようになって(〈転用〉)生じたもの(これを特に〈多義〉と呼ぶことがある)があるが,ある特定時期の言語という観点(つまり,その言語の過去の事情を考慮しない観点。話し手大衆の観点である)から見ると,この両者に本質的差異は存在せず,明確な境界を引くこともできない。しかし,転用(を起源とする同音異義の存在)ということが許されていることは,比較的少ない語形で多くのことをあらわす上で大きな意味をもっている(〈同音語〉の項を参照)。
 単語と単語の,あるいは,一方もしくは両方が単語の列であるものの結びつきによってできあがる全体の意味は,その構成部分の意味にその結びつき方(あるいは,それら構成部分の属する範疇)の意味が付け加わったものである。文全体の意味も同様に(ただし,イントネーションの意味も付け加わって)できあがる。このような文も,それがあらわしうるのはただ一つの特定の事象(ある局面)でなく,ある共通性をもった無数の局面をあらわすことができるのである。
【言語と方言】
 言語を一つの記号体系と考える場合,完全に等質的な体系を仮定することが多いが,実際にはそのような等質的な言語の存在は期待できない。すなわち,方言差が大なり小なりどの言語にも存在する。方言差は時とともに拡大され,ついには二つの方言の間で相互理解が不可能になり,もはや二つの方言ではなく二つの独立した言語になる。ただし,言語と方言の区別は科学的にはほとんど不可能である。というのは,A 方言と B 方言,B 方言と C 方言の間は相互理解が可能でありながら,A 方言と C 方言ではそれが不可能だといった状況がいくらでもあるからである。また,独立の正書法を有するかどうか,一つの国の国語となっているかどうか,独自の名称を与えられているかどうか,などを言語と方言の区別とすることもあるが,相互理解が可能かどうか(全体的ちがいがどの程度であるかをはかる尺度として適当なものの一つである)という尺度にひどく違反する結果が出ることが多い。このように,言語と方言の厳密な区別は不可能であるが,一方,いかなる規準から見ても別個の言語であるものと,いかなる規準からも同一言語の方言であるものとは確かに存在し,この区別は有効でないわけではない。
 方言の主たるものは,地域のちがいによる方言であるが,〈社会的方言〉も存在する。ある階層,ある職業,ある人間集団に固有の〈方言〉のことである。それらの中には,その地域で通常話される言語(あるいは,地域的方言)を基礎として,一部に特殊な語彙や特殊な発音のしかたなどを取り入れたにすぎないものも多い。
 言語と方言の区別が不可能なので,世界にいったいいくつの言語があるかをいうことはできない。2000台から3000台の数値が示されることが多いようであるが,一つの言語と認める基準をかえることによって数は大きく変動する。同一地域内に複数の言語が存在する場合,相互の意思疎通のために〈共通語〉が発達することがある。もとからある言語の一つが共通語となることもあるし,一種の混合語(ピジン・イングリッシュなど)が生ずることもあり,また,性格的にその中間のものが生ずることも多い。ある地域の共通語を母語として話す集団が存在しない場合,その共通語はいろいろな意味で不安定で等質性を欠く。一方,本来は一種の混合語として生じたものでも,母語として話す集団が生ずれば,一般の言語と同じ安定性を急速に獲得する。共通語のうち公的に使用することを認められたものを〈公用語〉といい,国として公的に使用する言語を〈国語〉と呼ぶ。
【言語の変化】
 言語は時とともに変化するが,その際その根幹部分は比較的ゆっくりと,枝葉部分は比較的速く変化する。前者には,音韻,文法,それに身近な語彙などが含まれ,後者には語彙のうちのより文化的なものなどが含まれる。
 音韻面の変化のうち,音素の変化は,音素が一つの単位として機能していることを反映して,通常やはり各音素単位で起こる。すなわち,たとえばp が b に変化するとすれば,その変化はその言語のすべての p のあらわれに関して起こる。ただし,常に画一的に起こるとは限らず,条件(何の前とか何の後とか)によってちがった変化が生ずることも多いが,いずれにしても規則的である。これを〈音韻変化の規則性〉と呼ぶ。音韻変化の規則性は,いくつかの別の性格の変化によって乱されることがある。たとえば,他の単語などの音形との〈類推〉による変化もしくは変化抑制,特定の単語に個別的に起こる変化などがそれである。また,文法的に非常に異なる位置にある同一音素のあらわれは,ちがった方向の変化を被ることがある。
 単語の意味の変化は,そのあらわす事象の範囲が広まったり狭まったり,似てはいるが別のものに変わったりするが,また既述のような〈転用〉も,本質的には既存の音形を用いての新たな単語の創造であるが,それが起こり,その後にもとの単語が消滅すれば,ある一つの単語に意味変化が起こったかのように思わせるものである。また語彙変化は,ある事象をあらわす単語が類似の事象をあらわす別の単語に取って代わられる現象である。上述のごとく,身近な語彙ほど変化が起こりにくい。
 言語変化は,その言語の内的要因によって起こるだけでなく,他の言語(方言)からの影響によって起こることも多い。やはり枝葉部分によく起こる。他の言語(方言)から単語を受け入れて用いるようになることを〈借用〉と呼ぶ。一般には,政治的・文化的に高い集団の言語(方言)からそうでない方に単語が借用されてゆく傾向があるが,集団同士の接触の形態によって種々の例外的事態が生ずる。他の言語(方言)からの影響は,ある人間集団の〈言語の取替え〉にいたる場合がある。その際,多数者の中に少数者が取り込まれて多数者の言語を取り入れる場合は,その言語自体にあまり大きな変化が起こらないことが多いが,少数者の言語をその地域の多数者が取り入れる場合には,もとの言語の根幹部分がかなり残ることが多く,もとの言語の音韻をそのまま残して新しい言語をそれに適用させて話すようになることもある。
 言語の変化は,その言語の発展の一局面であるといえる。しかし,どうなることが発展であるかというと,語彙の増加による言語の表現能力の向上といった,誰にでも発展とわかるものを除くと,たいへん難しい問題である。母音の数をとっても,ある時期に増加するものもあればある時期に減少を示すものもある。したがって,何を発展とするかを言語の根幹部分について明言できるには,どのような構造が言語として最良なのかという困難な問題を解かねばならず,現時点での言語に関する知識では,それは多分不可能であろう。
 同一言語の方言差の発展として生じた複数の言語は互いに〈系統関係〉を有するといい,もとの言語を〈祖語〉と呼ぶ。互いに系統関係を有する言語の集合を〈語族〉と呼ぶ。一つの語族の中で,その祖語より分岐してできたいくつかの言語の一つを祖語とする言語の集合を〈語派〉と呼ぶ。同一祖語より分岐してあまり時間が経過しない場合(おそらくは数千年を超えない場合),上述の音韻変化の規則性によって,その二つの言語の音形と意味の似た単語同士の間に〈音韻対応(の通則)〉が認められる。すなわち,それらの単語(の音形)同士に関して,原則として初めから終りまで,該当個所の音同士が他の単語同士でも確認できる対応を示す現象である。ただし,あまり時間がたちすぎたり,一方もしくは両方の言語が他の第三の言語の影響を受けすぎたりすると,こうした音韻対応は見いだしがたくなる。世界各地域の言語の系統関係の研究は,進歩してはいるが,問題も数多く残され,意見のちがいもよく目だつ(〈比較言語学〉の項を参照)。
【言語の発生】
 言語は,猿から人間への進化の中で,共同して生活手段を獲得し,また集団で自らを守るために必要な,相互の意思伝達の手段として成立してきたものと考えられるが,それが成立するための条件としては,第1に知能の発達(認識能力,概念化能力ならびに音をある観念に対応させることを可能にする能力の発達),第2に発音・調音器官の発達(口の,堅いものをかみ砕く役割からの基本的解放を伴う,音をかなりの種類発音し分ける能力の発達),およびそれに対応する聴覚(微細な差異を聞き分ける能力)の発達が考えられる。しかし,言語が具体的にいつどのように成立したかを知ることは,現時点での知識からは不可能である。
 原始状態の言語がどのようなものであったかを,現存する言語の対照研究・比較研究から推定するのは,現存の言語があまりに高度に発達しすぎているために,たいへん困難であり,既述の二つの〈分節〉のどちらが相対的に先行して成立してきたのかについても確答を与えることができない。また,言語が1個所で発生した(単発生説)のか複数個所で発生した(多発生説)のかを証拠をもって判定することも不可能であるが,上述の議論から推察できるごとく,言語を必要とする状況が存在し,言語の成立を可能にする条件がそろっていれば,長時間を要するとしても言語を合法則的に生み出すことは可能だと考えられるので,単発生でなければならないとする理由は見いだしがたい。⇒記号∥言語学           湯川 恭敏
塢認知科学における言語塋
20世紀後半の言語学には,天動説から地動説への変化にも匹敵する,コペルニクス的革命があったと言われている。これは,広くは,心理学など,人間の知的な活動に関する学問全般に関わるために,認知革命という言葉で呼ばれる大きな学問的展開の一環でもある。すなわち,言語学という学問を,単なる言語の学問から,もっと広く,人間の知的能力に関する学問と位置づけることを意味する。そのため,心理学,生物学などとの境が薄まり,後の認知科学という学問の設立にまで至るのだが,これは,言語学が,狭い意味での人文科学から自然科学的な性格を帯びるようになったということでもある。
 言語学が自然科学的な性格を帯びれば,自然科学と同様に,必然的に普遍性を研究の中心に据えることになる。その意味で,各個別言語の研究に重点を置く伝統的な言語学と比較して,認知科学の中での言語学ということを考える場合には,この地球という規模で,人類全体に共通するような言語の性質を問題にすることが多い。
 しかし,われわれの一人一人は,なんらかの個別言語に縛られており,言語の普遍性を実感としてつかみにくい。われわれの母語と比較して,地球上で話されている言語の多様性の方が圧倒的に目につくからである。そこで,地球上で話されている言語を,宇宙人の言語学者になったつもりで観察してみよう。すると,地球上の人間の言語は多種多様な選択の可能性の中からごくわずかのものしか使っておらず,その意味では互いによく似ていることがわかるだろう。
【言語の誕生】
言語の研究は,通常,書かれた文字によってなされる。特に古い言語ではそうである。ところが,さらに古い言語には,文字による記録がない。たとえば日本語は中国から漢字が入ってくるまで,それを書き表す文字がなかった。したがって,6世紀より前の日本語の姿は正確にはわからない。しかし,日本語が6世紀より前から存在したことは確かである。世界の他の言語を見ても,文字で一番古いのがエジプトの象形文字〈ヒエログリフ〉やメソポタミアの楔形文字だが,せいぜい紀元前数千年よりさかのぼることはない。しかし,人間が言語を話し始めたのは数十万年前からだと考えられている。
 したがって,地球人の言語は音声言語が基本である。これは,地球には大気という,音を伝えるのに適した媒体があったことと,音が光のような指向性をもたず,同時に大勢の人に伝えるのにも適していたことが大きな理由だろう。さらに,地球上で,われわれ人類が類人猿と分かれて,今のような形に進化してきた際の解剖学的な要因も大きい。現在の人類は,ホモ・サピエンスという種であるが,ホモ・サピエンスの中にも,現在のわれわれに直接つながるものと,そうでないものがある。ユーラシア大陸の西の端にいたネアンデルタール人は,われわれの直接の先祖ではないが,人類は,このネアンデルタール人のころから音声言語を使っていたと考えられている。
 しかし,ネアンデルタール人と,現在のわれわれの直接の祖先のクロマニョン人との間では,言語の能力についてずいぶん違っていたのではないかとも考えられている。特に,化石として発見される頭蓋骨の顎の部分の骨格から,1分間に話すことのできる単語の数の推測値に大きな違いがあり,ネアンデルタール人はせいぜい1秒間に1語しか発することができなかったと考えられている。これでは,われわれ現代人の数分の1程度で,音声言語としてはとても実用にならず,情報を伝えるのに身振り手振りを多用していたと考えられる。音声言語だけで情報を十分に伝えることができるようになったのは,クロマニョン人になってからであろう。
 ネアンデルタール人とクロマニョン人との間で一体何が変わったのだろうか。ネアンデルタール人よりもさらに人間から遠い現在の類人猿を見ると,チンパンジーなどでは喉の構造が違う。言語の音声は,声帯という喉の奥の筋肉の対の間を,肺からの空気が通り抜けることによって生じる。チンパンジーにもこのような声帯はあるので,〈声〉を出すことはできる。しかし,それがあまり明瞭な音にならない。声帯が震えただけでは,音が小さく,他人の耳にまで届かないし,あまり明瞭な音にならない。人間の場合は,声帯の上の部分に広い空間があって,そこで共鳴を起こして他人の耳に明瞭に聞こえる音になっている。ギターやバイオリンの共鳴箱のようなものが声帯の上にあると考えればよい。ところが,類人猿の場合には,声帯の上の共鳴させる空間がほとんどなく,そのまま口や鼻に抜けてしまう。また,チンパンジーの場合には,喉を通る空気がほとんど鼻へ抜けてしまい,口から出る空気はごくわずかだという。つまり,彼らはいつも鼻声で話しているようなものであり,遠くの人と話をするのには向いていない。
 面白いことに,人間の赤ん坊も1歳くらいまでは声帯の上の空間が狭く,類人猿と同じような構造になっているらしい。それが,1歳をすぎて,直立して歩くようになると,声帯の位置が下がり,その上に大きな空間ができて大人と同じように明瞭な声が出せるようになる。人間の赤ん坊は1年の間に何百万年かの人類の進化の過程を体験するわけだ。
 地球のように大気が豊富な他の惑星の住人に,人間のような声帯とその上の喉の構造がないとしたら,他にどのような手段が言語を伝えるために考えられるだろうか。手,足,羽のような自由に動かせる器官を使って,それらを,叩くなり,擦り合わせるなりして音を出すことは地球上でも昆虫が行っている。しかし,手や足や羽を言語のために使用することはさまざまな点で不便である。人類は,言語に加えて,道具を発明し,それを使いこなしている。この二つの機能を,口と手という,二つの別々の器官に分担させることによって,柔軟性を獲得しているのである。道具を使いながら喋ることができなかったら,道具の使い方を仲間に教えることもできない。それでは,文明もさほど発達しなかっただろうと考えられる。
【音声の普遍性】
声帯から出た音は,喉から,舌と口蓋によってできる空洞を経て,唇と鼻の穴から外に出るという,かなり長い道のりを経るので,その間に多種多様な加工ができる。このような加工を調音という。調音によってさまざまな異なった言語音が作られる。調音法にどのような種類があるかを研究するのは音声学の仕事であり,一つの言語内でどのような調音法がどのように組み合わされて使われるかを研究するのは音韻論と呼ばれる分野の課題である。このように,言語にはさまざまな側面があるが,おのおのはある程度独立に,自律性をもって機能すると考えられている。ただし,まったくばらばらに動くのでなく,言語という全体を構成する部品として,連昔をもって動いている。言語のこのような性質をモデュラリティといい,言語学の下位分野も,それぞれのモデュラーに対応して設定されているのが普通である。以下では,各モデュラーにおける普遍性を見ながら,言語学の主な下位分野に簡単に触れていくことにする。
 日本語をはじめとして,世界の多くの言語では,いくつかの母音を使い分ける。母音は,喉から出た音を声帯の上の空間で共鳴させて,大きな音にしてそのまま口から出したものだが,その際に,空気の通り道の途中にある舌をさまざまな位置で上げたり下げたりすることによって音色を変えることができる。自分では気づかないことが多いが,〈イ〉という場合には,舌の先の方を上げる。〈ウ〉という場合にはその逆に舌の後ろの方を上げる。舌をすべて下げると〈ア〉で,〈イ〉と〈ア〉の中間の音が〈エ〉,〈ウ〉と〈ア〉の中間の音が〈オ〉になる。(図)
 世界の言語の中には,日本語より少ない,四つとか三つとかの数の母音しか使い分けない言語もあるし,英語のように,日本語よりはるかに多くの数の母音を使い分ける言語もあるが,大体,母音の数は3から9くらいの間に収まる。注目すべきは,母音の数からいうと,5母音の言語がもっとも多く,しかも日本語と大体同じ5母音の言語が多いということである。さらに興味深いのは,母音の種類は数と無関係でなく,もし母音が三つしかなかったら,例外なしに〈イ〉〈ウ〉〈ア〉の三つになることである。この三つは,三角形の頂点の位置に等間隔に並んでいて,互いに異なった音として聞きやすいので,当然といえるだろう。また,5母音ならば,ほとんど日本語と同じ五つの母音になる。これも,三角形の二つの辺の中点にさらに二つの母音を配置したものであるから納得がいく。
 類人猿の場合を考えると,まず,五つもの母音を明瞭に聞き分けたり発音し分けたりすることはできないということがわかっている。チンパンジーだと,三つぐらいまでは聞き分けができるようだが,その場合も,人間の言語の三つの母音とは異なり,〈イ〉と〈ウ〉,〈エ〉と〈オ〉は区別して聞き分けることができない。つまり,舌の高さの違いはわかるけれど,前後の区別ができないのである。また,自分で発話できるのは,〈ア〉〈ウ〉〈オ〉の三つに限られるということが観察されている。これは人間の言語の3母音体系とはかなり異なり,類人猿は,声帯の上の共振させる空間が小さいことに加えて,そもそも数多くの言語音を認識し分ける能力をもっていないということになる。もっとも,チンパンジーよりも人間に近いといわれるボノボ(ピグミーチンパンジー)の場合,アメリカで育てられているものには,英語を聞き分けることができるという報告もあるので,いちがいには断定はできないかもしれない。
 類人猿の喉の構造や母音の聞き分けの限界がわかる前は,彼らに人間と同じ音声言語を教えるという無駄な試みがなされた。今では,それは無理だとわかっているから,別の手段が試みられている。手話やさまざまな図形のパネル文字を用いた言語をあやつることができないかと考えて,チンパンジーに手話を使わせたり,図形のパネルを並べさせて〈言語〉を話させるという研究や,最近では,コンピューターにつながった大きめのキーボードを押させるという研究がいくつかある。日本でも京都大学の霊長類研究所のアイが有名だが,アイはものの名前だけでなく,色や代名詞の記号を覚え,最近では算用数字や漢字もいくつかは直接読めるようになったという。しかし,いかに賢いチンパンジーといえども,言語をあやつる能力になると,どうしても人間の3,4歳の子どもにはかなわない,というのが今までの研究の結果である。これはいったいなぜなのだろうか。これは実は,人間の言語がなぜ普遍性をもつのかという問題と深くかかわるので,他の面の普遍性をひと通り見てから,あらためて考えることにしたい。
【語順の普遍性】
一つの言語の中で用いられる音の数は限られているので,日本語と同じような音を組み合わせて使っている言語も多いが,日本語と外国語とが通常まったく異なった言語のように感じられるのは,音を組み合わせて作る単語がまったく異なるからである。また,さらに大きな違いは語順の違いである。語順の問題は音韻論の研究対象と考えることも可能だが,一般的には,統語論という,文を構成する要素の並べ方を研究する分野の対象とされる。
 語順の問題についても,地球人の言語の間にそれほど大きな違いがあるわけではないことがわかっている。たとえば,文の最も基本的な要素として,主語,目的語,動詞という三つを考えてみると,人間の言語のほとんどは,可能な6通りの並べ方のうち,主語―目的語―動詞,主語―動詞―目的語,動詞―主語―目的語という三つの型におさまってしまうのである。さらに,日本語と同じ主語―目的語―動詞という型は,4割から5割を占め,多数派である。英語のような主語―動詞―目的語の型が3割から4割で2位にはいり,この二つの型で大体8割程度になる。
 この8割を占める語順の共通性は,主語が他の要素よりも先にくるということである。また,第3位の型までで世界の言語のほぼすべてを尽くすことになるが,この3者に共通しているのは,主語が目的語よりも先にくるということである。つまり,地球上の言語は主語が目的語よりも先に現れ,さらに,その中でも多くは,主語が動詞よりも先に現れるということがわかる。
 その他にもさまざまな言語の統語現象を比較検討した結果,人間の言語の中に存在する統語的な規則性は各言語でばらばらなものではなく,まったく同じか,ほとんど同じ規則性に従っていることがわかってきている。たとえば,ほとんどの言語が,受身とか使役とかいう構文をもっていること,代名詞などの代用表現の振舞いがよく似ていること,などが指摘されている。このような観察から,後述の普遍文法という考え方がありうる仮説として出てくるのである。
【意味の普遍性】
意味論は言語の意味を研究する分野であるが,意味というのは,形式的には,言語と,言語が表現しているもの(言語の外の世界にあるもの)との間の関係である。それと比較すると,統語論では言語内部の構造のみを考察の対象としているが,本来,音のみで意味のないものは言語の要素ではないし,意味のみで音のないものも言語とは呼ばないのが普通である。
 言語の意味に普遍性があるということは,統語論の対象とするものより直観的にわかりやすいだろう。人間のように発達した知性をもった生物が,言語をコミュニケーションの手段として使って科学やビジネスを発達させ,文明を維持していけたのも,言語の意味に関する普遍性があったからこそである。
 しかし,言語の意味というものを直観以上のものにして,形式的に捉えるのは想像以上に難しい作業である。大雑把にいって,統語論的の形式的なやり方に準じて,意味を形式的に記述することを試みる形式意味論の立場と,後述の運用論(語用論)と近い立場から,人間の一般的な認知的メカニズムに照らして意味を記述していこうという認知意味論(認知言語学ともいう)の立場があり,今日,両者ともに盛んに研究が行われている。
【言語使用の普遍性】
いうまでもなく,言語は,それを使う人間なしでは存在し得ない。しかし,音韻論,統語論,(形式)意味論の研究対象としては,言語というものが,ある種の抽象的な存在として人間とは独立にあるとしても研究は成り立つ。それに対して,言語を使う場合の人間的な側面を研究する運用論(語用論ともいう)という分野では,話し手と聞き手という人間の関わりを無視することはできない。運用論は,統語論や形式意味論と比較すると,形式的な理論が成り立ちにくい分野である。しかし,多少非形式的であっても,統語論や意味論以上に人間の間の普遍的な性質が浮かびあがりやすい分野であるともいえる。たとえば,協調の原則というものが地球人同士の会話の場合には通常働いているという考え方がある。つまり,普通,人間は,相手にわからせようとして言語を発しており,聞く方も,相手の言うことをわかろうとして,その意図を察するというのである。
 協調の原則には,〈本当のことを言え〉という質に関する原理,〈余計なことは言うな,必要なことはみな言え〉という量に関する原理,〈関連のあることを言え〉という内容に関する原理,〈わかりやすい言い方をしろ〉という話し方に関する原理がある。これはいずれも,きわめて常識的なことであるが,興味深いのは,人間は,わざとこの協調の原則に反するような言語の使い方をすることがあるということである。しかし,その場合に,聞き手が,たとえば,相手が悪意をもっていると感じるとしたら,それは協調の原則が守られることを前提にしているからであり,また,逆に,悪意を感じるのでなく,話し手が直接言葉にできない裏の意味を感じることがあるのも,協調の原則を破るからにはそれなりの理由があるからと解釈するからである。協調の原則の中でも関連性原理は応用範囲が広く,一つの確立した理論となっている。
【普遍文法】
このように,宇宙人の目から見ると,地球人の言語には,言語のどのような側面においても,普遍的な性質があることがわかってきた。そのような普遍性は人間の間で共有され,類人猿など,人間以外の生物には観察されない。このような普遍性が存在することは単なる偶然なのだろうか,それとも何か根源的な理由があるからなのだろうか。1950年代にアメリカの言語学者チョムスキーが提唱し,今日盛んに研究されている言語理論である生成文法の考え方によると,それは,成長するにつれて言語を使うことができるようになる能力が,人間のみにあって類人猿にはないからである。
 人間の子どもも,生まれたばかりでは言語を使うことはできないが,1歳ぐらいになると,言語として用いる音を,大きく,明瞭に発音することができるようになる。そして,2歳から3歳になるにしたがって,1語文といわれる,一つの単語だけの文(たとえば〈マンマ〉〈オモチャ〉)から,2語文といわれる,物の名前やそれに対する行為を組み合わせた文(たとえば〈ワン イヤ〉(犬 嫌)〈パパ ゴホン〉(パバのご本)〈ママ アッチ〉など)に発達していく。
 2語文や3語文程度は,チンパンジーでも図形言語で表現することができるようになる。しかし,3歳をこえた子どもは急速に複雑な文を話すようになり,たとえば,4歳近くの子どもによって,〈カヨ オタンジョウビクルト ヨッツニ ナルノ〉というような,条件を表す文が,より大きな文の一部分として埋め込まれているという複雑な構造をしている文が発せられているのが観察されている。類人猿にはとてもこのような複雑な文を図形言語で表現することはできない。それに対して,母語の習得がうまくいかなかったという子どもは,人間の子どもならば(言語障害をもって生まれない限り)少ない。大人になってからは,どれだけ時間をかけて外国語を勉強しても,外国語の習得には一定の限界があることとは大きな違いである。
 今のところ,これを一番合理的に説明できるのは,言語に遺伝的なものを認めるという考え方である。類人猿は遺伝的に体の構造が人間と違う。こういう形態的な差が遺伝によるとすることには誰も異存はないだろう。チョムスキーは,言語についても,人間にのみ遺伝的に備わっているある種の認知能力をつかさどる部分が脳内にあると考え,言語機能と名づけた。
 言語の獲得に遺伝的なものが一切働かないと考えると,すべてを生まれてから学習することになるが,チョムスキーはこのような伝統的な考え方に対して,〈プラトンの問題〉という重大な問題があると指摘した。つまり,親は,学校の先生のようには子どもに言語を教えない。そればかりか,自分自身はたえず間違った言い方をしており,その意味では,子どもにとっては親の言語は非常に貧しい刺激でしかない,というのである。そのために,プラトンの記録したソクラテスの故事にちなんで,親が実際にしていることは,子どもがあらかじめ脳の中にもっているものを適切な刺激で外に引き出すことにすぎないと考える。
 しかし,言語が遺伝するとすると,いくつか問題がないわけではない。一つは,子どもは必ずしも親と同じ言語を話すようになるとは限らない,ということである。もちろん,たいていの場合,子どもは親と一緒に暮らすので,親と同じ言語を話すようになることが多いが,そうでない場合もある。たとえば,両親の話す言語と家の外で人が話す言語とが違う場合,子どもは二つの言語を同じような流暢さで話すようになり,いわゆるバイリンガルになる。これが極端な場合になると,生まれてすぐに両親と離れて,両親と違う言語を話す環境で育てられた子どもは,両親の言語は話すようにならず,周りの環境の言語だけを話すようになる。つまり日本人を両親にもつ子どもでも,遺伝的に日本語しか話せないのでなく,周りの環境によって話せるようになる言葉が変わるのである。
 これは,言語機能が遺伝的であっても,それがそのまま最終的に獲得される個別言語を遺伝的に決定するからではないからである。つまり,子どもに遺伝的に備わっているのは,どんな言語でも学ぶことができる潜在的な能力のみであり,子どもはそれを使って,周りの環境に合わせてどんな言語でも話せるようになるのである。このことをチョスムキーは,子どもには,普遍的な文法が生まれながらに備わっており,パラメーターの値の設定しだいで,どのような個別言語の文法にもなり得るのだと説明している。
 普遍文法なるものが存在し,わずかの刺激から子どもが一般的な法則を導き出し,親たちのデータを矛盾なく説明できるような最も合理的な文法を自分の頭の中に作ろうとしていることの間接的な証拠としては,子どもが,親が教えもしない,独自の言い方を作り出すことがある。たとえば,日本語を話す子どもは,たいてい,可能形として〈書けれる〉などの言い方を一時的にするが,これは〈れる〉に可能の意味があるということに気づいて,それを過剰に一般化して使うからである。つまり,子どもは決して親の口まねで言語を覚えるのではなく,親の間違いを訂正しつつ言語を獲得するのである。さらに,親は子どものお手本などではなく,パラメーターの値の設定のヒントを与える貧しい刺激を提供するにすぎない。子どもは,一時期,親たちの文法の不合理な点を勝手に修正してしまったりもするのである。
 以上の考察より,普遍文法の形はかなり制約されていることは明らかである。個別言語に依存した情報が盛り込まれていてはならず,できるだけ一般的な原理という形をしていなくてはならない。しかし,普遍文法の実際の形がどのようなものであるのか,ということに関しては,残念ながら,今の段階ではあまりはっきりしたことはいえない。ただ,非常に速い進度で研究が進んでおり,特に,近年,脳の周りの磁気を測定するなどの方法で,言語を使っているときの人間の脳の活動はどのようなものなのか,ということがだんだんとわかってきている。21世紀には,言語とそれをあやつる脳について,今よりずっと詳しいことがわかっているだろうと期待できる。
⇒生成文法
【言語と心/脳】
以上概観してきた生成文法の考え方が,それまでの言語学のやり方と一番大きく異なる点は,ひと口でまとめると,言語学の研究対象を言語(外在的言語,E-言語)から文法(内在的・内包的言語,I-言語)へと転換したことである。ここで,外在的言語というのは,それ以前のアメリカ構造主義などがもっぱらの研究対象としていた,人間の外に存在するものとしての言語のことであり,たとえば,録音した音声とか,紙に書いた文字である。これに対して,内在的・内包的言語というのは,人間の頭の中にあるもので,言語の音と意味とを関連づける規則の体系を指す。
 チョムスキーは,言語を研究するときに問題となるべきこととして,次のような段階的な目標を挙げた。
(1)言語を話し理解することができるときに私たち人間の心/脳には何があるのか。どのような知識のシステムがあるのか。
(2)この知識のシステムはどのようにして心/脳の中に獲得されるのか。
(3)この知識はどのようにして発話において使用されるのか。
(4)この知識のシステムの表現,獲得,使用の物質的基礎となる脳内のメカニズムは何か。
(1)で〈心/脳〉というのは,機能としての心と,それを支える構造としての脳という二つの側面を統一的に捉えた言い方である。現在までの研究は,(1)と(2)に対してある程度の仮説(すでにみた,普遍文法とパラメーターという仮説)を提案するまでにいたっているが,それは,物質的な脳というよりはそれを抽象化した心というレベルでのモデルであり,(4)の段階にいたって初めて,脳という物質的なレベルでの解明が行われることになる。
 言語の使用に関しては,チョムスキーが〈デカルトの問題〉と呼ぶ問題がある。これはデカルトやその弟子たちの考え方として紹介されているが,言語使用には創造的な側面があり,常に新しい表現が発せられ,それが理解されているという事実である。したがって,言語現象は本質的に無限であり,可能な言語表現には限りがない。一方,その無限の現象を処理する人間の脳の容量は有限である。このことから,普遍文法を基にして人間の脳の中に形成される文法は,言語現象をすべて記憶しているリストのようなものではなく,何かそのつど言語表現を生成できるようなシステムに支えられたものでなければならないことになる(生成文法という文法理論の名前も,文法のこのような捉え方に由来している)。このような,言語の無限性を捉えることができるような有限の計算機構には,自らを繰り返し使用していくような再帰的なメカニズムが含まれていると考えられており,統語論を中心にその具体的な姿がある程度明らかになっている。
 以上から,チョムスキーが,上に提示した四つの問題に対して与えた解答は,次のようにまとめることができる。
(1)言語知識は,心/脳の中にある内在的言語(文法)である。
(2)言語知識の獲得は,生得的な普遍文法に対する,個別的な変異のパラメーターの学習によって行われる。
(3)言語の使用は,このような有限の知識の再帰的な使用によって実現される。
(4)言語の脳内の物質的基礎の研究は依然として,ほとんどわかっておらず,将来の問題である。
チョムスキーは,上のような仮説のもとに,1950年代の第1次認知革命により,まず,人間の文法を有限の規則の体系として書くことを提案した。後に,それでは子どもの言語獲得をうまく説明できないとして,1980年代に第2次認知革命を起こし,文法を原理の体系として再編成した。現在は,さらなる大原理の体系として文法をいっそう抽象度の高い体系に構成しつつある。⇒言語学∥言語獲得∥失語症               郡司 隆男

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