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倫理学はノイラートの船か?(その6) [宗教/哲学]


景気循環
景気循環論

けいきじゅんかんろん
theory of business cycle

  

景気循環現象の発生要因を明らかにし,それら要因の組合せによって循環現象を考察する経済学の一分野。経済学史上景気の問題が初めて激しい経済学議論の対象となったのは,ナポレオン戦争後の過渡的恐慌の性格をめぐって,セーの法則 (販路説) をとる D.リカード,J.B.セーらが一般的過剰生産の不可能性を説き,他方 T.マルサスらがこれを否定して可能性を主張したときである。 1825年から資本主義の周期的恐慌 (景気循環) が始るが,この頃までにセーの法則が正統説となっており,まだ周期性については論じられていなかった。 J.ミルの『経済学原理』 (1848) では景気循環 (当時は商業循環,信用循環,商業恐慌ないし信用恐慌の循環性という形でとらえられていた) 問題も取上げられたが,周期的恐慌ないし景気循環を資本主義経済の本質的属性とみなした最初の経済学者は K.マルクスである。しかし,景気循環分析の始祖と通常考えられているのは景気の中期波動 (主循環) の発見者 C.ジュグラー (『フランス,イギリスおよびアメリカにおける商業恐慌とその周期的回転』〈62〉) で,この景気波動は彼の名にちなんでジュグラー・サイクルと呼ばれる。 1910年代になると限界革命の影響を受けた若い経済学者の間で景気現象が注目されはじめ,J.シュンペーターの新機軸説 (『景気循環論』〈1939〉) ,R.ホートリーの貨幣的景気理論,A.ピグーらの心理説,J.ホブソン,マルクス経済学者らの過少消費説,L.ミーゼスや F.ハイエクらの過剰投資説など,景気循環の原因についてさまざまな説が唱えられた。 30年代以降は J.M.ケインズの『雇用・利子および貨幣の一般理論』が決定的影響を与え,さらに景気循環の動学的分析の手法を確立した R.フリッシュや J.ウィクセルに始る北欧学派の貢献などをも媒介にして,J.ヒックス,P.サミュエルソンらのケインズ学派は投資関数と消費関数を中心とする景気循環のモデルを展開。乗数効果 (投資の所得造出効果) と加速度原理 (所得の投資誘発効果) の相互作用から景気現象を説明するモデルなどが第2次世界大戦後多数つくられている。特に投資関数の非線形性を強調するモデルを用いるものは非線形景気循環論といわれる。





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[ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 2008]


景気循環
I プロローグ

景気循環 けいきじゅんかん Trade Cycle 生産や消費などのマクロの経済活動が活発になったり、停滞したりする状況が周期的にくりかえされること。景気変動ともよばれ、資本主義経済に特有のものと考えられている。ひとつの周期で経済活動がそのピークをしめす状態を景気の山、反対にもっとも停滞した状態を景気の谷とよんでいる。また、ふつう景気の谷から山にむかう期間を好況、反対に山から谷にむかう期間を不況という。

II 4つの波

景気循環には、その周期をもとにしていくつかの種類があると指摘されている。第1に、かつてのソ連の経済学者コンドラチェフが発表した長期循環がある。これは、通常コンドラチェフの波とよばれ、48~60年の周期をもつものとされている。その第1の波は1780年代から好況をむかえ、1817年ごろに景気の山を記録し、40年代にかけて不況をむかえた動きである。第2の波は、40年代からの上昇局面にはじまり、75年ごろに景気の山をむかえ、90年代にむかって下降した周期である。第3の波は、19世紀末から1920年代にむかっての上昇局面とその後の下降局面である。

コンドラチェフ自身の考えは1920年に発表されたものであり、その後の循環については自身が分析したわけではないが、73年の石油危機の直前を景気の山とする1周期があったとする見方もある。このコンドラチェフの波の発生する原因は、鉄道や蒸気機関の普及、自動車の普及といった新技術、新製品の開発にあると考えられる。また、1814年のナポレオン戦争、65年のアメリカ南北戦争などの影響も指摘されている。しかし、このような長期循環が世界的規模でおこっているという点には疑問をもつ学者が多い。

第2の景気循環の類型としては、およそ15~25年の周期をもつとされるクズネッツの波があげられよう。これは人口の変化を背景に、とくにアメリカなどで顕著に観察された。この循環の原因は移民などによる人口の社会的増加、それにともなう住宅建設投資であるとされる。すなわち、移民として流入した人々は新たに住宅を建設し、それを原因とした景気の拡大が生じるが、その子供たちの世代が独立するころにふたたび住宅建設が活発化する。このような状況がくりかえされることによって景気循環が生じるというのである。

第3の景気循環の類型としては、主循環ともよばれるジュグラーの波がある。これは、設備投資とその減耗にともなう更新投資によって生じるものと考えられ、ふつう、たんに景気循環というときはこれをさすことが多い。ジュグラーはフランスの経済学者で、19世紀後半にこの景気循環に関する考え方を発表した。さまざまな経済指標の動きを分析したもので、今日でもその分析手法については評価されている。ジュグラーの波の周期は、およそ7~10年とされている。

第4に、キチンの波という短期循環がある。これは、およそ40カ月の周期をもつ循環で、在庫の増減にともなって生じるものとされており、在庫循環ともよばれている。この循環は、景気が後退局面にはいると在庫が増加し、それを減少させるために生産の減少や在庫の安売りをおこない、不況に突入することになる。この在庫調整がおわってから生産が増加しはじめると、景気は上昇局面にはいることになる。

III 景気循環の理論

経済学者が景気循環の原因に関心をもちはじめたのは、19世紀末から20世紀初頭にかけてであった。イギリスの経済学者ジェボンズは、太陽黒点説をとなえ、一時ひろくうけいれられた。黒点がでている時期は天候が悪化し、穀物は量、質ともに影響をうけるので、それが経済の変動をもたらすとジェボンズは考えた。同じくイギリスの経済学者ピグーは、経済界のリーダーが楽観的になったり悲観的になったりする心理的要因が、経済の流れに影響をあたえるという説をたてた。

イギリスの経済学者ホブソンが確立した過少消費説によれば、所得の不平等が経済の衰退をひきおこす。まずしい者は消費に余裕がなく、豊かな者は所得の一部を消費にまわすだけなので、市場は供給過剰になる。その結果、商品需要が不足するため、豊かな者は貯蓄にはげんで生産に再投資しないからである。この貯蓄の増加が経済的均衡をくずし、生産縮小のサイクルがはじまる。

オーストリアからアメリカにわたり革新理論を提唱したシュンペーターは、景気の上昇を、資本財生産を刺激する新しい発明や革新的企業家の行動と関連づけた。革新は連続しておこるものではないので、景気は拡大したり収縮したりせざるをえなくなる。

オーストリア生まれの経済学者ハイエクとミーゼスは、貨幣的過剰投資説をとなえた。彼らは、資源利用がこれ以上ひきあげられない地点まで生産が拡大すれば、経済が不安定になるのは論理的な帰結だという。こうして生産コストはあがり、このコストを消費者に転化できない場合は生産者は生産を縮小し、労働者を解雇する。

マネタリスト(→ マネタリズム)の景気循環説は、マネーサプライの重要性を強調する。多くの企業は生産のために資金をかりなければならないから、貨幣をいかに簡単にやすく調達できるかが彼らの決定に影響する。ホートリーは、利子率の変動が経営者に投資の増減を決定させ、景気循環に影響をあたえるという。

IV 加速度原理と乗数理論

すべての景気循環理論の基礎には、投資と消費の関係がある。投資にはいわゆる乗数効果がある。乗数効果とは、たとえば公共投資や労働者への賃金のような投下された資本が消費にまわされることによって次の生産を刺激し、それがまたより大きな消費を生む、というものである。同様に、消費にあてられる所得水準の上昇は投資に加速度効果をもたらす。需要が大きくなればそれにみあうように生産も拡大し、それがより高い投資意欲をつくりだすのである。

しかし、乗数効果と加速度効果は否定的な方向へもはたらく。投資の縮小はよりはげしい総所得の減少をまねき、消費需要の縮小は投資をいっそう減速させる。

ケインズが着目した乗数理論に加速度原理をくみあわせて景気循環理論にとりくんだのは、イギリスの経済学者ハロッドやサミュエルソンである。

V 新しい理論

近年の景気循環理論の発展としては、リアル・ビジネスサイクル論をあげることができる。これは、合理的期待形成学派などをふくむ新しい古典派や、ニューケインジアン(新しいケインズ派)との間での議論から生まれた考え方である。すなわち、技術水準や労働者の労働意欲といったリアルな要因が景気循環を生ぜしめる重要な要因となっているというものである。


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景気循環
けいきじゅんかん business cycles

近代の歴史的経験によると,人々の経済活動が市場を中心として行われるようになるのにともなって,全体としての経済活動は一様な成長を示すのではなく,そこに上昇期と沈滞期とが交互に,しかもある程度安定した周期をもって現れることが明らかとなった。たとえば W. S. ジェボンズは,16世紀初頭から1866年ないし67年にかけて,約10年の周期で恐慌が発生したとしている。このような経済の時間を通じての変動が,景気循環とよばれる現象と関係している。
 一国の経済活動の大きさは,そこで取引されるいろいろの財・用役(サービス)の取引量,ないし取引金額,すなわち,取引量に取引価格を掛けた値の大きさでとらえることができる。そして,それぞれの財・用役の取引量と価格は,その財・用役の市場での需要量と供給量の間の調整過程で変動する。ある財,あるいは用役の需要と供給がその市場で出会い,ある価格である数量だけ取引される。この場合,需要量と供給量とは,つねに一致しているわけではない。そして,需要が供給を超過し,超過需要がある場合には,供給量そのものより,むしろ供給量の増加率(成長率)が大きくなり,したがって取引量の成長率が上昇し,また価格そのものより,その上昇率(インフレ率)が高くなる傾向がある。逆に,供給が需要を超過し,超過供給がある場合には,供給量の成長率が低下し,したがってまた取引量の成長率が低下し,価格のインフレ率が減少する傾向がある。これが市場での需給調整過程である。景気循環現象は,市場のこの需要調整過程に関係すると考えられる。
【景気循環の定義】
 ところで,いろいろの財・用役は,大別すると生産物,資金,労働の3者に区分することができる。そこで,景気循環を次のように定義することができよう。すなわち景気循環とは,生産物,資金,労働の3市場における物価,利子率,賃金率という価格変数のインフレ率,および産出量,資金量,雇用量という数量変数の成長率に,ほぼ同時的に現れる循環的変動状況であり,それにはある程度安定した1年以上の周期がある(藤野,1965)。これに対してバーンズ A. F. Burns と W. C. ミッチェルは,1947年に次のように定義している。景気循環は,主として私的企業により,その活動を組織する国々での全体としての経済活動にみられる変動の一つの型である。一つの循環は,多くの経済活動においてほぼ同時的に起こる拡張,後退,収縮,回復から成り,回復は次の循環の拡張局面につながっていく。この変化の継起は再起的ではあるが,周期的ではない。すなわち,景気循環の期間は,1年以上の長さから10年ないし12年の長さまで変化する。すなわち,第1に,バーンズとミッチェルは,経済量の成長率と価格のインフレ率にみられる同時的変化として景気循環をとらえるのではなく,経済量なり,価格水準などの絶対的な大きさの同時的変動として景気循環をとらえた。そして第2に,彼らは,景気循環にある程度安定した周期があるとは考えなかった。
 まず,第1の点については,次のような問題がある。財・用役の生産量などの数量的な大きさ,たとえば実質 GNP(国民総生産)は,長い目でみて成長趨勢(すうせい)を示す。そして,高成長の時期,あるいは高成長の経済では,実質 GNP の絶対水準は低下しない(成長率がマイナスとならない)という現象が起こる。たとえば,第2次大戦後の日本,アメリカ,西ヨーロッパの諸国でそのような現象がみられた。すなわち,これらの国々はある時期には高い成長率で,そして他の時期はプラスの,しかし低い成長率で成長してきた。この場合,これらの国々で景気循環は消滅してしまったのであろうか。これらの国々では戦前に引き続き戦後も市場で財・用役の需要と供給とが調整されてきた。しかし,戦後の高成長期には,その需要調整過程で生産物の産出量の成長率はただ若干低下するだけで,マイナスとはならなかったと考えるべきであろう。そうすると,バーンズやミッチェルのように,いろいろの経済量の絶対的水準の動きによって景気循環をとらえることには問題が起こる。また,経済の循環的変動の動きと成長の動きをそれぞれ別個の理論で説明するのではなく,統一的に説明しようとすれば,絶対水準ではなく,成長率ないしインフレ率を景気循環をとらえる尺度としなければならなくなる。
 バーンズとミッチェルが拠(よ)った〈全国経済調査会 National Bureau of Economic Research(NBER)〉に属するミンツ I. Mintz は,成長循環growth cycle なる概念を唱え,景気循環に関するバーンズとミッチェルの定義を経済活動の絶対水準ではなく,その成長率で再定義している(1970,72)。これは,NBER の研究者もバーンズとミッチェルの定義を放棄し,藤野の定義に近い定義をとるにいたったことを示している。
【景気循環の周期性】
 しかし,バーンズとミッチェルにしろ,またミンツにしろ,彼らの定義では景気循環の周期性が認められていない。これが第2の点についての問題である。だが,市場の需給調整過程には,後に明らかにするように,理論的に考えて,比較的速やかに進行する側面,より緩慢に中期的に進行する側面,そしてさらにより長期的に進行する側面がある。そしてまた,事実的にみて,景気循環には,3~4年の周期をもったもの,10年前後の周期のもの,そして20年前後の周期のものが観測されている。
 さきに述べた10年周期の恐慌の観察を拡充し,フランス,イギリス,アメリカについて物価,利子率の変動などの動きを検討し,7年から10年くらいの周期をもった経済活動の循環運動を1880年代に発見したのは,フランスの経済学者ジュグラーC. Juglar(1819‐1905)である。J. A. シュンペーターは,この循環を彼の名にちなんでジュグラー・サイクルとよんだ。
 ところが,1920年代にはいって,キチン J.Kitchin(生没年不詳)が,アメリカとイギリスにおける1890‐1922年間の手形交換高,物価,利子率の変動を検討して,ジュグラー・サイクルのほかに平均40ヵ月の周期をもつ循環があり,一つのジュグラー・サイクルはしばしば3個の小循環,ときとして2個の小循環からなっていることを発見した。同様な循環がほぼ同時にクラム W. L. Crum により1866‐1922年のニューヨークの商業手形割引率の分析によって明らかにされた。これがキチン・サイクルである。
 他方,1913年,物価の動きを調べていたオランダのヘルデレン J. van Gelderen は,物価に上昇と下降に数十年かかる長期波動のあることを発見した。その後,22年,ロシアの経済学者コンドラチエフ N. D. Kondrat’ev は,イギリス,フランス,アメリカなどの卸売物価指数,公債価格,賃金率,輸出入額,石炭生産量,銑鉄生産量などを分析して,50年前後の長期波動のあることを主張した。これは,コンドラチエフの波,あるいはコンドラチエフ・サイクルとよばれている。
 さらに,1920年代の終りから30年代の初めにかけて,いま一つのサイクルが検出された。27年,ワードウェル C. A. R. Wardwell は,アメリカの10個の時系列を分析し,銑鉄生産量の8.96年から破産企業の総負債額の19.33年にわたる平均15年よりやや短い周期をもつ循環運動を発見し,これを〈主〉循環 major cycle とよんだ。主循環とはジュグラー・サイクルのことを意味していたので,ワードウェルは,ジュグラー・サイクルより長く,コンドラチエフ・サイクルより短い周期の循環運動の現れているのに気づかなかった。
 1930年になると,S. S. クズネッツは,アメリカ,イギリス,ドイツ,フランスなどのいろいろの商品の生産量と価格の系列からトレンドを除いた後に,20年を少し上回る平均周期をもったサイクルを発見した。彼は,このサイクルをコンドラチエフ・サイクルと同じ種類のものと考えていた。しかし,リグルマン J. R. Riggleman がアメリカの建設活動を分析し,平均17年周期のサイクルを発見してから,20年前後の周期のサイクルは,建設ないし建築活動との関連からみられるようになった。このサイクルは,クズネッツの名にちなみ,クズネッツ・サイクルないしクズネッツ循環とよばれ,またときに長期波動 long swing ともよばれている。
【需要と供給の調整過程】
 物々交換の経済では,交換の相手方を発見するのが困難であり,そこに不確実性をともなう。貨幣経済は,物々交換における取引の不確実性を軽減するため,人々が,ある特定財(貨幣)を一般的交換手段として授受することに合意することによって成立する。このことの結果として,貨幣は他の財に比して隔絶した地位を占めることになり,貨幣を提供して財を獲得する行為,すなわち財への需要は,容易に実現されることになる。しかし,財を提供して貨幣を獲得する行為,すなわち財の供給は,貨幣より流動性の低い財を最も高い流動性をもつ貨幣に換えようとする行為であり,交換の相手方である需要者を見つけ出すのは必ずしも容易ではない。つまり,貨幣経済では,財の供給者の立場からみて財の需要には不確実性がともなう。そこで,財を供給する企業は,不確実な需要量の大きさに制約されて生産活動を行うことになる。
 さて,市場で財の需要量と供給量とが食い違った場合,その間の第1次的調整としては,三つのしかたがある。第1は,生鮮食料品など貯蔵の困難な財の場合に典型的に起こる調整のしかたであり,超過需要があれば価格が急速に上昇し,また超過供給があれば価格が敏感に下落するケースである。これにより,需要量の減少と供給量の増加が促進される。
 第2は,企業が需要の不確実性に備えて,生産物の在庫をもち,需要量が予定した供給量を超える場合,製品在庫を取りくずして需要量を満たそうとし,また予定した供給量が実際の需要量を超える場合には,その差を製品在庫に吸収し,市場での取引量をできるだけ需要量の大きさに即応させようとする調整のしかたである。
 第3は,需要される財に個々の需要者の細部に関する特別の希望があるため,顧客の注文を待って財の生産が開始される場合であり,この場合には,企業は需要を一度その受注残高に吸収して,その生産量と需要量の間の調整を行っている。この調整のしかたは,造船業や重電機製造業,あるいは住宅やその他建物・構築物の建設業などにみられる。
 今日の生産活動の圧倒的な部分は,もちろん第2の調整のしかたがとられる生産活動によって占められている。貨幣を提出してその他の財を獲得するという需要活動が容易に実現されるのが,貨幣経済の特性である。貨幣経済のこの特性は,生産活動が第2のしかたで行われることによって大きな支持を受けることになる。そこでは,企業は,不確実な需要量について予想を立て,それにもとづいて行動する。その結果,実際の需要量がその供給予定量と相違すれば,製品在庫量でその間を調整するが,それと同時に,次の生産計画では,この経験にもとづいて需要量の予想される大きさについての想定を改めて,生産計画をこの新しい想定に調整しようとするであろう。そこではまた,需要量の新しい想定に対応して,新しい製品在庫保有量が計画されるであろう。そこで,製品在庫水準の変動を媒介として市場での需要量と供給量,ないし生産量の調整が進行する。いずれにしても,その時々の需要量に,その時々の供給量,ないし生産量を調整しようとするこの種の第1次的調整は比較的速やかに現れる。
 生産物の需要量と供給量との間の調整には,以上の第1次的調整より,より時間のかかる第2次的調整がある。企業は,不確実な需要に対処するため,製品の在庫をもっている。そしてそれに加えて,予備の生産能力をもっているのである。たとえば,需要量が供給量を超過すれば,差し当たって,製品在庫を取りくずして,需給ギャップに対処する。そして次には,生産設備の稼働率を高めて,生産量を拡大し,それによって需給ギャップへの対応を進めようとするであろう。
 この場合,企業の予備の生産能力の大きさは減少することになる。しかし,だからといって,予備の生産能力の大きさを需要量の拡大に見合って,直ちに拡張しようとするわけではない。企業が,不確実な需要に備えてその製品在庫水準を調整しようとする場合に比べて,その生産設備の水準を調整するには,より慎重である。それは,製品在庫の大きさは,相対的に低いコストで変更できるのに対して,生産設備の大きさを変更するにはより多額の支出を必要とし,しかも,一度,設備の大きさを拡張すると,それを縮小するには製品在庫の場合より長い時間を必要とするからである。
 企業の生産能力は,機械関係の設備,すなわち生産者耐久施設と,それらを入れる器としての工場・建物などの構築物とからなっている。そして,既存の工場内で生産者耐久施設の大きさを変動させるより,新しい工場を建設する場合のほうが,一度により多額の支出を行わなければならないであろう。そこで,機械関係の設備投資より,建設関係の投資のほうが一つの財として分割可能性が小さく,需要量の変動に対して,それだけ長い調整時間を必要とするであろう。つまり,需要量が増加し,生産能力の不足がみえはじめたとき,機械設備の増加によって既存の工場内での生産能力を増加させることは,新工場の建設によって生産能力を増加させることに比べて,より速やかに行われるであろうということである。そこで需要と供給の間の第2次の調整としては,機械設備水準の変動をともなう調整が,第1次の製品在庫水準の変動をともなう調整より,より長い調整時間をもって現れる。
 需要量と供給量の間の調整は,以上の第2次的調整から,より外延的な生産能力の変動をもたらす第3次的調整へと広がっていく。上にみた工場・建物などの建設活動がこれに関連する。ここでは,工場数の変動だけでなく,新しい企業の設立,既存企業の消滅など,企業数の変動も起こり,企業の産業間の移動という調整現象が発生する。それとともに,民間企業を中心とした民間部門の活動の変化に応じて,それを入れる器としての公共財,たとえば道路の大きさに変化が要請され,政府の建設投資に変動が生ずる。したがって,需要と供給との間の,第2次的調整より,より長い調整時間のかかる第3次的調整は,一国の建設資本ストックの大きさの変動,つまり建設投資の動きを通じて進行する。
【循環的変動の周期性】
 以上の検討により,生産物の需要と供給の第1次的調整では,製品在庫水準の変動と在庫投資の動きが,第2次的調整では,生産者耐久施設ストックの変動とこの関係の設備投資の動きが,そして,第3次的調整では,建設資本ストックの変動と建設投資の動きが密接に関係していることがわかる。そして,実際の投資の動きをみると,在庫投資は3~4年の周期の,生産者耐久施設は10年前後の,そして建設投資は20年前後の周期をもって変動していることを発見するのである。
 戦後の日本での民間投資の動きによってこの点を明らかにしよう。このため,図1には戦後の日本における各種の民間投資の GNP に占める割合の動きが示してある(1964年までは旧国民経済計算による計数であり,65年以降は新国民経済計算による計数である)。このうち,民間在庫投資・GNP 比率は,4年前後の周期で変動を繰り返している。第2に,民間企業設備投資・GNP 比率は,1955年の谷から出発して,65年の谷を経て,さらに78年の谷にいたっており,10年前後の周期の循環的変動を示している。この民間企業設備投資には,機械関係の生産者耐久施設のほかに建設投資が含まれている。そこで民間企業のうちの法人企業について,その総固定資本形成の中で機械設備等の投資の占める割合がどのように動いているかを調べてみよう(旧国民経済計算の計数による)。これは,図1の最上部でみられるように,1965年と75年で谷を示し,そして民間企業設備投資・GNP 比率が1965年と78年の谷の中間で最高水準を示す1970年には,やはりピークに到達していたのである。したがって,民間企業設備投資の中で機械関係の設備投資をとり出せば,その対GNP 比率はより明確に10年前後のサイクルを示すであろう。また民間企業設備投資・GNP 比率の1965年の谷は,1955年および78年の谷に比べて落込みが小さい。この動きと法人企業の総固定資本形成中の機械設備等の投資割合の動きを併せ考えると,もし民間企業の建設投資だけをとり出せば,その対 GNP 比率での1965年での落込みは小さく,その比率は,1955年ころから78年ころにかけて20年程度のサイクルが明りょうに示すと推定される。
 民間住宅投資・GNP 比率は,民間企業設備投資・GNP 比率より遅れて動いているようである。そしてそれは,多分,戦後の復興期の後に,1958‐59年から81年ころにかけて一つのサイクルを描いたと考えられる。すなわち,それは企業の建設投資とほぼ同様の変動パターンを示しているのである。
 かくして,在庫投資が4年前後の周期でサイクルを描き,機械関係の設備投資が10年前後の,そして建設投資が20年前後の周期の動きを示していることが明らかになった。このことは,製品在庫水準,機械設備資本ストック水準,建設資本ストックのそれぞれの変動を媒介として行われる生産物市場の需給調整における調整速度に違いがあり,製品在庫をめぐる第1次的調整は,機械設備をめぐる第2次的調整よりより早く進行し,第2次的調整は建設資本ストックをめぐる第3次的調整よりより急速に進むことを明示している。
 以上の生産物の需給調整過程を,さきにみた3~4年の周期のキチン・サイクル,10年前後の周期のジュグラー・サイクル,そして20年前後のクズネッツ・サイクルと対応させて考えると次のようにいうことができよう。すなわち,製品在庫の変動が重要となる需給調整過程ではキチン・サイクルが,機械設備の変動が重要となる需給調整ではジュグラー・サイクルが,そして建設資本ストックの変動が重要となる需給調整ではクズネッツ・サイクルが現れるということである。キチン・サイクルはときに在庫循環 inventory cycle とよばれ,またクズネッツ・サイクルは建設循環construction cycle とよばれる。それになぞらえていえば,ジュグラー・サイクルは設備循環equipment cycle とよんでもよかろう。あるいは,在庫循環を短期循環,設備循環を中期循環,建設循環を長期循環ないし長期波動とよんでもよいであろう。
 ここで戦前の日本経済についての検討にもとづき,中期循環と長期波動とに関して観測された事実を要約して示しておく。(1)長期波動は,通常,二つの中期循環からなり,その第1の中期循環では第2のそれに比べて経済活動の実質成長率とインフレ率が相対的に高くなる。(2)また第1の中期循環では機械設備ストックの成長率が,そして第2の中期循環では建設ストックの成長率が,相対的に高くなる。(3)法人企業数の成長率は長期波動を明示する。(4)法人企業の払込資本金(出資金),社債,積立金の合計でとらえた長期資金の成長率でみると,全法人,製造工業,商業では第1の中期循環でのその成長率ピークが,第2の中期循環でのそれより高くなる。他方,電力業,運輸業,金融業では,その成長率に長期波動がきわめて明確に現れる。(5)貨幣量と銀行貸出しの成長率は,全法人企業の長期資金と類似の動きを示し,他方,殖産興業目的のために発行された国債残高,および全地方債残高の成長率は,長期波動を明示し,第2の中期循環でピークをもつ。
 以上で述べた一つの長期波動の中でのその前半での動きと後半での動きは,さらに市場における需要と供給の調整が,第2次的なそれから第3次的なそれへと波及していくとしたことに,対応する現象ということができよう。
【世界の景気循環】
 ここで,戦前・戦後を通じてのヨーロッパ,アメリカ,日本での景気循環の姿について明らかにしておこう。戦前のヨーロッパ諸国やアメリカについての景気循環の山と谷の日付については,バーンズとミッチェルの研究がある。しかし,さきに指摘したように,われわれは景気循環への接近法に別の方法をもつ。そこで,ここでは,われわれが確定した景気循環の日付を示しておく。この場合,在庫循環に関する日付を問題にすることは,あまりに数多くのケースを含んで繁雑にすぎる。そこで設備ストックの変動を通ずる調整が中心的役割を果たすと思われるジュグラー・サイクル,すなわち中期循環(設備循環)について,景気循環の日付を示そう。
 ここでとろうとする方法は,なるべく多くの国について,なるべく同種のデータにより,なるべく同様のしかたによって,諸国ないし諸地域の景気循環の日付を確定することである。このためには,戦後については,OECD の《National Accounts ofOECD Countries》《Main Economic Indicators》により,OECD 加盟諸国の国内総生産(GDP),総固定資本形成(GFCF),産業生産指数などを相当数の国について戦後の相当期間にわたって知ることができる。それと同時に,ミッチェル B. R.Mitchell の《European Historical Statistics,1750‐1975》(再版1981)により,戦前の相当数のヨーロッパ諸国について,上のデータに対応する国民総生産(GNP),あるいは国民純生産(NNP),あるいは国内総生産の計数や,総固定資本形成,あるいは純固定資本形成等の計数,および生産指数などの計数が利用できる。そこで,これらの資料に,別のソースから戦前のアメリカと日本の対応する資料を付加して,ヨーロッパ,アメリカ,日本の戦前・戦後の中期循環の状況を調べた。
[ヨーロッパ諸国の景気循環]  まず,戦後のヨーロッパ諸国の中期循環について述べよう。中期ないし長期のサイクルは,固定資本形成に関するデータの動きに比較的明りょうに現れることが多い。しかも全体としての経済活動の中での投資活動の相対的な高まりの程度をみるには,GNPや GDP の中で,どれほどが固定資本形成需要を満たすために充てられているかをみるのが適当であろう。そこで,まず,OECD 加盟のヨーロッパ諸国について総固定資本形成・国内総生産比率(以下 GFCF・GDP 比率とよぶ)を計算した。この場合,ユーゴスラビアは社会主義国であるという理由により,またギリシアは西ヨーロッパの中心部から遠く隔離されているという理由により,われわれの検討範囲から除外した。
 この検討を通じて明らかになったことは,ヨーロッパ諸国の1952‐79年の GFCF・GDP 比率の動きにはいくつかのタイプがあるということである。まず第1は,GFCF・GDP 比率が明りょうに中期サイクルを示す国々で,その典型が西ドイツである。このグループに属するのは,ほかに,オーストリア,イタリア,ルクセンブルク,スイスである。これを西ドイツ型とよべば,ほかにこの西ドイツ型に準ずる二つのタイプがあり,その一つはベルギーとオランダの示すタイプであり,他はフィンランドとノルウェーの示すタイプである。これらの諸国以外のデンマーク,フランス,アイスランド,アイルランド,ポルトガル,スペイン,スウェーデン,イギリスでは,それらの GFCF・GDP 比率はほとんど中期循環らしき動きを示さないか,あるいは西ドイツ型と違った動きを示している。このうち,アイスランドは,後にみるアメリカ型の動きをみせているので,アメリカとともに検討する。
 そこで,西ドイツ型の諸国の場合と,西ドイツ型に準西ドイツ型の諸国も含めた場合とについて,それらの諸国での GFCF・GDP 比率に現れた中期循環の一般的状況を検討し,それによって,まずヨーロッパ地域における景気循環の状況をみることにする。この場合,検討対象とした個々のヨーロッパ諸国の GFCF・GDP 比率の動きから,ヨーロッパ地域全体での景気循環の状況をとらえるため,GFCF・GDP 比率にもとづく景気動向指数(ディフュージョン・インデックス,DI)を作成した。
 景気動向指数(景気指標)というのは,景気の動きを判断するために選ばれた複数個の経済指標系列のそれぞれについて,その数値が前月(あるいは前年)に比べて増加している場合には1の値を,増減のない場合には0.5の値を,そして減少している場合には0の値を与え,対象系列全体についてこれらの得点総計を対象系列数で割って,その結果を百分率で示したものである。この指数は0以上で100以下の値をとる。そして,それが,50より小さい値から50以上の値に変化するとき,景気はその谷に至り,そして,それが,50より大きい値から50以下の値に変化するとき,景気はその山をマークしたと考えられる。
 これは次の理由による。まず,景気の動きを判断するために選ばれた系列の大部分が前期に比べて増加しているときには,景気は上昇過程を続けていると考えられる。このとき,動向指数は50より大きい値をとっている。ところが,次に,その系列の中でしだいに減少に転ずるものが現れはじめ,そして半数が上昇傾向を示し,残りの半数が下降傾向を示すようになったとき,景気はそのピークにあることになる。すなわち動向指数が50より大なる値より50の値をとるとき,景気の山が現れる。そしてこの時点を過ぎると,今度は,選ばれた系列の中で,減少傾向を示すものの数のほうが多くなり,動向指数の値は50より小さい値をとる。この状態が続くかぎり,景気は後退を続けていると考えられる。しかしやがて,対象系列の中で減少より増加に転ずるものが現れはじめると,動向指数の値は大きくなり,それが50より小さい値から,50以上の値に転ずるとき,景気下降の傾向と上昇の傾向がちょうどバランスして,景気の谷に至ったと判断される。
 以上のような景気動向指数を,西ドイツ型のGFCF・GDP 比率の動きを示すヨーロッパ諸国および西ドイツ型に準ずる GFCF・GDP 比率の動きを示すヨーロッパ諸国について作成して図示したのが,図2である。ここには,西ドイツの GFCF・GDP 比率も示しておいた。
 西ドイツ型 GFCF・GDP 比率と DI(景気動向指数)は,オーストリア1952‐79年,西ドイツ1952‐79年,イタリア1952‐79年,ルクセンブルク1953‐79年,スイス1952‐79年の計数にもとづく。また準西ドイツ型は,ベルギー1954‐79年,オランダ1952‐79年,フィンランド1952‐79年,ノルウェー1951‐59年の計数にもとづく。
 景気動向指数は,50より大きい値から50より小さい値に転ずるとき,あるいは50より小さい値から50より大きい値に転ずるとき,必ずしもちょうど50という値をとるわけではない。そこで,景気の山と谷の判定において,原則として,時間の流れのうえで50以上の値の最終年を山の年,50以下の値の最終年を谷の年とした。
 以上の GFCF・GDP 比率と DI のほかに,各国の実質 GDP 成長率および産業生産指数成長率により,それぞれ景気動向指数を作成して循環的変動の状況を検討した。ただし,この種の成長率では,在庫循環の短期的変動が現れ,それにより中期サイクルの様態が不明りょうになるという問題がある。このため,各国の GFCF・GDP 比率の動き,および上に得た GFCF・GDP 比率 DI の山と谷の日付を参照して,成長率サイクルでの中期の変動の山と谷の日付を定めた。そして,谷から山へは,成長率はつねに上昇し,山から谷へはそれがつねに低下するという想定をとり,その下で動向指数を作成した。以上にもとづく戦後ヨーロッパの中期循環の山と谷の日付,および3個の DIの結果を勘案して定めた標準日付は,図5のようになる。なお,第2次大戦後,戦災から復興などの調整がヨーロッパ全体として終了し,中期循環の出発点となるのは1952年である。
[アメリカの景気循環]  次に,アメリカのGFCF・GDP 比率は,以上のヨーロッパ諸国のそれとは違った動きを示しており,カナダとアイスランドもアメリカ型の動きをみせている。そこでこれらによってヨーロッパの場合と同様に,GFCF・GDP 比率 DI,また実質 GDP 成長率 DI および産業生産指数 DI を作成した。GFCF・GDP 比率の動きでは,カナダのそれがアメリカのものよりより明りょうに中期循環を示すので,それと GFCF・GDP 比率 DI を示すと図3のようになる。そして図5のように中期循環の日付が得られる。このうち,標準日付の1949年の谷は,他の側面からの検討により確定した。
 OECD 加盟諸国の中で,西ドイツを中心とするヨーロッパの中期循環とも,あるいはアメリカを中心とするアメリカ型の中期循環とも違った動きを示すのは日本のそれである。
[日本の景気循環]  日本の GFCF・GDP 比率と実質 GDP 成長率を示すと図4のようになる。日本では,生産指数成長率より実質 GDP 成長率のほうが,中期循環の動きをみるには適当なようである。なお,図1に示した民間企業設備投資・GNP 比率のほうが GFCF・GDP 比率よりより明りょうに中期循環を示している。日本の GFCF・GDP 比率と実質 GDP 比率の動きより,日本の中期循環の日付は図5のようである。われわれは,第2次大戦前についても,以上とほぼ同様なしかたで,ヨーロッパ,アメリカおよび日本における中期循環の状況を検討した。そこで得られた中期循環の山と谷の日付を戦後のそれらとともに図示すれば,図5のようになる。1870年ころから第2次大戦までの全期間を通してみると,中期循環はほぼ同時的にこれらの3地域で出現していた。ことに景気の谷の時点についてそうである。ところが,第2次大戦後においては,1950年代の半ばより,日本→ヨーロッパ→アメリカの順に2~3年のずれをもって中期循環が発生しているようである。これは,景気の谷についてとくにそうである。
【景気循環の理論】
 さて,以上で検討した景気循環は,どのようなメカニズムの中から生まれてくるのであろうか。それが,市場での需給調整過程から生まれてくることは明らかであるが,そのプロセスをどのように説明すべきであろうか。3種の循環的変動が,在庫投資,設備投資,建設投資の動きと密接な関係をもっていることからもうかがわれるように,投資の動きが循環的変動の中で重要な役割を果たす。そこで現代の景気循環理論は,投資の変動の全経済に与える波及効果を説明する投資乗数の考え方を前提にして,投資の動きをどのように説明するかにより,いろいろのタイプのものに分かれている。
 このような景気循環理論は,体系の時間を通じての変動を示す定差方程式や微分方程式で表されることが多い。そして,大別して線形モデルと非線形モデルに分かれる。投資乗数と,加速度原理,すなわち所得ないし産出量の増加が投資を誘発する関係の二つを結合して得られる乗数・加速度モデルは,線形モデルとして示される場合が多い。その代表が P. A. サミュエルソンのモデルである。また L. A. メツラーの在庫循環のモデルもこの型のものである。この場合,循環的変動が,時間とともに発散するか,同一運動(単弦振動)を繰り返すか,あるいは減衰してついには消滅するかのいずれかとなる。発散の運動は現実にはみられないし,同一運動の繰返しは,体系がきわめて偶然的な状況にある場合しか生まれない。減衰する場合には,体系のいろいろの不規則な衝撃が加わるとすると,景気循環の永続を説明することができる。E. スルーツキーや T. ホーベルモの研究がそれである。
 しかしながら,景気循環の説明が不規則衝撃に依存してなされるということは,それがなお自己完結的ではないことを意味している。この欠陥を取り除くためには,体系を非線形化する必要がある。乗数・加速度モデルで発散解の場合をとりながら,完全雇用の天井と成長する独立投資の底をおくことにより体系を非線形化して景気循環を説明したのは J. R. ヒックスである。
 他方,アメリカの経済学者グッドウィン R. M.Goodwin は,実際の資本量が最適資本量より小さいか,等しいか,あるいは大きいかによって,投資の大きさが変化するとし,加速度関係を非線形化して,循環的変動とともに成長の現れる理論を構築した。
 さらに,それより前に,N. カルドアは,投資と実質産出額との関係,および貯蓄と実質産出額との関係が,それぞれ直線で表されるのでなく,非線形であるとし,この前提に資本蓄積の投資に及ぼす効果を考慮して循環的変動を説明するモデルを考えた。                藤野 正三郎

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ワルラス
ワルラス

ワルラス
Walras,(Marie-Esprit-) Lon

[生] 1834.12.16. エブルー
[没] 1910.1.5. モントルー近郊クララン

  

フランスの経済学者。ローザンヌ学派の創始者。 A. A.ワルラスの子。パリの鉱山学校中退後,ジャーナリスト,鉄道事務局員,協同組合銀行理事などを経て 1870年ローザンヌ大学経済学講座初代教授に就任し,以降経済学に専心した。経済的与件に変化がなく,完全な自由競争が行われている場合には,経済諸量は需要と供給の一般的な均衡関係を表わす連立方程式体系によって一義的に決定されることを主張する一般均衡理論を樹立した。 C.メンガー,W.ジェボンズと並ぶ限界理論創始者の一人であり,また一般均衡理論の始祖。ワルラスは純粋経済学,応用経済学,社会経済学の3部門から成る経済学体系を構想しており,純粋経済学部分だけが体系化された形で『純粋経済学要論』 lments d'conomie politique pure,ou thorie de la richesse sociale (1874~77) として公刊されているが,他の部門については論文集として『社会経済学研究』 tudes d'conomie sociale (96) ,『応用経済学研究』 tudes d'conomie politique applique (98) が出版されている。





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ワルラスの法則

ワルラスのほうそく
Walras' Law

  

各経済主体は予算の制約のもとで各人の効用を最大化するように消費量を決定するが,欲望が飽和しないかぎりはすべての予算を余すことなく最適量を決定する。この予算の制約条件をすべての主体について総計すると,すべての財の需要量の価値額は供給量の価値額に等しくなる。この恒等関係をワルラスの法則という。





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ワルラス,M.E.L.
I プロローグ

ワルラス Marie Esprit Leon Walras 1834~1910 フランスの経済学者で、今日のミクロ経済学の基礎をきずいた。父オーギュスト・ワルラスも経済学者なので、このレオン・ワルラスとともに2世代にわたる経済学者の家系である。フランス北部のエブルーに生まれる。理工科大学校の入試に失敗し、1854年に鉱山学校に入学したが、専門よりも哲学、歴史、文学に熱中した。24歳のときに父の強い希望をうけいれて経済学にすすむ決意をし、以後ジャーナリスト、協同組合運動などをしながら、研究をすすめた。

II ローザンヌ学派

こうした背景もあって、ワルラスの学風は、当時のフランスの主流派経済学とは大いにことなり、当初アカデミズムからは冷淡にあつかわれた。辛苦をなめたすえ、ようやく1870年に、スイスのローザンヌ・アカデミー(1891年に大学となる)に教授としてむかえられ、翌年、終身雇用権を付与された。以後ワルラスの本拠地は常にローザンヌであり、ここから、彼に端を発する経済思想の流れをローザンヌ学派ということがある。

III 一般均衡理論

主著としては「純粋経済学要論」(1874~77)があげられる。彼の体系は、さまざまな市場で取り引きされる財の需要、供給は、その財の価格だけでなく、その他の財の価格にも依存するとの想定のうえにうちたてられており、A.マーシャルの部分均衡理論と対比して、一般均衡理論とよばれる。

また、模索過程というアイデアをだし、これがのちに安定理論といわれる分野の発展につながった。模索過程では、各人の需要、供給が集計され、もし需要が供給をうわまわれば、オークショニアーとよばれる仮想のせり人がその財の価格を上昇させる。逆の場合は、オークショニアーは当該財の価格を下落させると想定されている。

こうして、最終的にはすべての財について需要量と供給量がひとしくなり、そこにおいてはじめて取り引きがおこなわれるというのが、ワルラスの想定なのである。ここで、最終的に需要と供給がひとしくなるような価格が到達可能であるか否かという理論的な問題が生じるが、これが安定理論とよばれる理論経済学の分野にほかならない。

ワルラスの影響力は絶大であり、その後のミクロ経済学の発展は彼の名前をなくしてかたることはできない。J.R.ヒックス、P.A.サミュエルソン、G.ドブリューら、のちの経済学者は、その意味で、すべてワルラスの体系の継承者である。


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ワルラス 1834‐1910
Marie Esprit Lレon Walras

フランスの経済学者。ジェボンズ,メンガーとならぶ限界革命の主役であり,またローザンヌ学派の始祖。パリの鉱山学校に入ったが,哲学,歴史,文学,芸術批評,小説の創作に熱中した。しかし経済学者であった父オーギュスト AntoineAuguste W. の希望もあり,ジャーナリスト,鉄道書記,協同組合管理者などをしながら経済学を研究。1870年にスイスのローザンヌ大学教授となり,92年まで在職。その経済学体系は,交換価値と交換の理論,ないし抽象的に考えられた社会的富の理論である純粋経済学,社会的富の経済的生産の理論ないし分業を基礎とする産業組織の理論である応用経済学,そして所有権の理論であり社会的富の分配の科学である社会経済学からなり,それぞれその著作《純粋経済学要論》(1874‐77),《応用経済学研究》(1898),《社会経済学研究》(1896)に対応する。しかし,経済学史上最も重要なのはその純粋経済学であり,経済の諸部門間の相互依存関係を強調した一般均衡理論を展開し,現代のミクロ経済学の基礎をきずいた。ワルラスはまず生産を捨象した純粋の交換の一般均衡を限界効用理論にもとづき考察し,次に生産を導入して生産要素の市場と消費財の市場の均衡からなる生産の一般均衡に進み,限界生産力説を検討する。さらに新資本財の生産を考慮に入れた資本化および信用の理論を展開し,最後に貨幣を導入して流通および貨幣の理論にいたる。そのいずれにおいても,均衡を決定する連立方程式体系を提示し,素朴ながらその解の存在を論じ,さらに実際の市場において需給の差による価格変動により均衡が成立する過程を予備的模索の理論として考察した。      根岸 隆

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ワルラスの法則
ワルラスのほうそく Walras’ law

経済全体に n 個の財が存在するとして,第 i 財の価格が pi(i=1,2,……,n),各財の価格が p=(p1,……,pn)であるときの第 i 財の総需要量を Di(p),総供給量を Si(p)(i=1,2,……,n)と記そう。そのとき任意の価格について

が成立することをワルラスの法則という。L. ワルラスがその一般均衡理論の数式化においてしばしば活用したもので,命名は O. ランゲである。この内容を言葉で述べれば,〈経済全体の総需要価値額は総供給価値額に恒等的に等しい〉ということになる。この法則が成立する理由は以下のとおりである。いま経済を構成する主体として消費者と生産者を考えてみよう。まず各消費者について,消費者の総需要価値額=消費者の総供給価値額+配当所得,という関係が成立する。ここで総需要価値額とは消費財の購入額の総計を,総供給価値額とは供給する生産要素(代表的なものは労働)からの報酬の総計をいう。また各生産者については,生産者の総供給価値額-生産者の総需要価値額=利潤,という関係が成立する。この左辺は生産物の価値額から投入物の価値額を差し引いたものである。ここで利潤はすべて配当にまわされるとすれば,上の二つの関係をすべての経済主体について合計することによってワルラスの法則が導出されることになる。この法則によれば第 n 財を除く n-1個の市場がすべて均衡していれば,第 n 財の市場も,その価格がゼロでないかぎり,均衡していなければならないことが知られる。⇒一般均衡理論          川又 邦雄

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サミュエルソン
サミュエルソン

サミュエルソン
Samuelson,Paul Anthony

[生] 1915.5.15. インディアナ,ゲリー

  


サミュエルソン


アメリカの理論経済学者。 1935年シカゴ大学卒業。ハーバード大学大学院を経て,40年マサチューセッツ工科大学経済学部教授。 47年学問的業績により第1回クラーク賞を受賞。第2次世界大戦中から政府関係機関の顧問として財政経済政策に関与していたが,J.ケネディ大統領のもとでは特別経済顧問として政策立案に貢献した。彼の経済学的立場はマクロ的所得分析とミクロ的価格分析とを新古典学派的立場から拡大,統合しようとしたものであった。また経済理論の数学解析的分析に果した役割も大きい (→新古典派総合 ) 。現代最高の理論経済学者の一人であり,博士論文をもとにした主著『経済分析の基礎』 Foundations of Economic Analysis (1947) で第2次世界大戦後の近代経済学の一方向を決定づけるとともに,初めて J.M.ケインズの所得分析を本格的に導入し,ほぼ3年ごとに改訂版を出して,日本を含め各国で広く用いられている教科書『経済学』 Economics: An Introductory Analysis (初版,48,第 13版,89) によっても戦後の経済問題の考え方に大きな影響を与えている。経済学すべての分野でなんらかの貢献をしており,70年第2回ノーベル経済学賞受賞。 R.ドーフマン,R.ソローとの共著『線形計画と経済分析』 Linear Programming and Economic Analysis (53) のほか多くの編著,論文があり,諸論文は 92年現在5巻の論文集に収められている。





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サミュエルソン,P.A.
サミュエルソン Paul Anthony Samuelson 1915~ アメリカの経済学者。インディアナ州に生まれ、1935年にシカゴ大学を卒業、41年にハーバード大学で博士号を取得。40年、マサチューセッツ工科大学助教授となり、66年には最高の地位である研究所教授に任じられた。この間、経済諮問委員会やFRB(連邦準備制度理事会)をはじめ各種研究機関の顧問や評議員として、さらにケネディ大統領やジョンソン大統領の経済顧問として活躍した。また、エコノメトリック・ソサエティ(国際計量経済学会)やアメリカ経済学会、国際経済協会の会長を歴任。さらに、「ニューズウィーク」誌のコラムニストをつとめるなど新聞・雑誌に多数の評論を執筆しており、20世紀を代表する経済学者としてその活躍は多岐にわたる。

サミュエルソンはハーバード大学時代にジュニア・フェロー(助教授なみの待遇で3年間自由に研究できる特別奨学生)として物理学や数学にも手をそめており、このことが緻密な数学的手法の導入という彼の経済学における基本姿勢を生みだした。2大主著のうちのひとつ「経済分析の基礎」(1947)は、数学的方法論を展開した近代経済学の古典的名著である。また、世界で20カ国以上の言語に翻訳され、もっとも多く販売された経済学テキスト(400万部以上)としても知られる「経済学」(1948)は、近代経済学の標準的入門書であり、これらの著作が経済学における数学の使用を定着させたといっても過言ではない。

当時の米英のわかい経済学者の多くと同様、サミュエルソンもまた経済界を席巻し「革命」とまでよばれたケインズ経済学に強い影響をうけた。しかし、彼の業績はケインズ経済学にとどまらず新古典派的価格理論もふくめ、あらゆる経済学の分野におよんでいる。サミュエルソンの名を冠した経済学の定理も多い。研究業績のおもなものだけでも、乗数理論と加速度原理を統合した景気循環理論、バーグソン=サミュエルソン型社会的厚生関数による厚生経済学への貢献、公共財の理論、顕示選好理論、代替定理による産業連関分析の基礎づけ、ターンパイク定理と最適成長理論、スツルパー=サミュエルソン定理など数しれない。また、彼はケインズ経済学を新古典派体系の中にとりこむ新古典派総合という試みを提示したが、これはその後彼自身により撤回された。

前掲のほかの主著としては、経済分析への線型計画法の応用を提示したソローおよびドーフマンとの共著「線型計画と経済分析」(1958)などがある。1970年にノーベル経済学賞を受賞。


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サミュエルソン 1915‐
Paul Anthony Samuelson

20世紀を代表するアメリカの経済学者。インディアナ州に生まれ,1935年シカゴ大学卒業,36年ハーバード大学修士,41年博士。マサチューセッツ工科大学(MIT)助教授(1940),準教授(1947)を経て,66年以来同大学のインスティチュート・プロフェッサー。主著《経済分析の基礎 Foundationsof Economic Analysis》(1947)は経済主体の行動を数学的に解析した古典で,経済学における数学の使用を不動のものにした。《経済学Economics》(1948,14版1980)は300万冊14版を重ね,20ヵ国語以上に翻訳された,経済学の最も標準的な教科書である。彼の名とともに知られる経済学の定理は数多く,《サミュエルソン論文集》全4巻(1966‐77)には,消費者理論,生産者理論,厚生経済学,資本理論,国際経済学,財政学,金融論,人口論,経済学説史,数学,統計学など,経済学のあらゆる分野にわたる論文が収められている。〈経済学における最後のジェネラリスト〉と自他ともに認めるゆえんである。実物的経済理論をケインズ的財政政策で補完する〈新古典派的総合 neo‐classical synthesis〉の立場に立つ。1947年ジョン・ベイツ・クラーク・メダル受賞。70年ノーベル経済学賞受賞。アメリカ経済学会,エコノメトリック・ソサエティ,国際経済協会の会長を歴任。
                         久我 清

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ヴィルフレート・パレート
パレート,V.F.D.
パレート Vilfredo Federico Damaso Pareto 1848~1923 イタリアの社会学者・経済学者。パリに亡命中のイタリア人家庭に生まれ、トリノ大学で理工系の学問をまなび、鉄道の技師となった。その後、経済問題についての著述や、政治学と哲学の研究をはじめ、1893年にスイスのローザンヌ大学で政治経済学の教授の地位につき、それからの一生をスイスですごした。

パレートは社会学にも興味をもち、1916年に最主要著書とされる「一般社会学概念」をあらわした。その中で個人と社会の行為の本質について考察し、エリート階級の優越性についての理論をうちだしたが、この理論はイタリアにおけるファシズムに影響をあたえたといわれる。

また経済学の面では、資源配分に関する「パレート最適」の概念や、所得分布に関する「パレート法則」を考案した。著書に「経済学講義」(1896~97)、「経済学提要」(1906)がある。


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ヴィルフレド・パレート
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ヴィルフレド・パレート(Vilfredo Frederico Damaso Pareto,1848年7月15日 - 1923年8月19日)はイタリアの技師、経済学者、社会学者、哲学者。

目次 [非表示]
1 生涯
2 経済学上の功績
3 社会学上の功績
4 主な著作
5 参考文献



[編集] 生涯
パレートは、1848年にパリで生まれた。パレートがイタリア国外で生まれた理由は、彼の父が、自由主義革命家マッツィーニの指導する青年イタリア党の革命運動に参加して官憲の追及を受けたため、パリに亡命して、その地でフランス人女性と結婚したためである。

パレートは当初、理数系の道を進み、トリノ工科大学で数学、物理学、建築学を修めた。卒業後は鉄道会社に技師として就職するが、父親の影響からか政治の世界への関心を強め、自由主義の立場から政府批判を展開し、積極的な政治活動を行った。その結果、社会的地位が脅かされるようになり、会社を退職して一時的にスイスで隠遁生活を送るようになる。

その後、ある自由主義経済学者の紹介によって純粋経済学の大家レオン・ワルラスと知り合い、ワルラスの影響から経済学の研究に分け入っていくことになった。やがて、その研究実績が認められ、1893年にワルラスの後任としてローザンヌ大学で経済学講座の教授に任命された。彼はそこで、経済学における一般均衡理論(ローザンヌ学派)の発展に貢献し、さらに厚生経済学という新たな経済学の分野を開拓した。

20世紀に至って、パレートの学問的な関心は経済学から社会学へと移って行き、それと同時に自由主義的・民主主義的な思想・運動への批判を強めていった。これは、彼の政治活動の失敗や自由主義・民主主義への幻滅によるものだとも考えられる。

第一次世界大戦後には、ジョルジュ・ソレルに招かれたこともあるソレルの信奉者だったパレートはベニート・ムッソリーニを評価したため、彼の社会学理論はファシスト体制御用達の反動理論との批判を受けるようになった。ちなみにムッソリーニは社会主義者時代にパレートの講義を聴講したことがあった。

晩年において、病に冒されながらも精力的に社会学の体系化を試みるが、その途上、1923年に75歳でその生涯を閉じた。


[編集] 経済学上の功績
パレートは、ワルラスの均衡理論を発展させ、「パレート効率性(パレート最適)」という資源の生産および消費における最適かつ極限の状態を概念として提起したことで知られている。これは、一定量の資源を複数の人間が利用する場合において、個人の効用(満足度)が他者の効用を損なうことなく、極限まで高められた状態(配分について交渉を行う余地の無い状態)のことを意味している。つまり、「パレート効率性」とは、資源の有効活用の原理ということができる。

さらに彼は、数理経済学の実証的な手法(統計分析)を用いて、経済社会における富の偏在(所得分布の不均衡)を明らかにした。これはパレートの法則とよばれている。この法則は、2割の高額所得者のもとに社会全体の8割の富が集中し、残りの2割の富が8割の低所得者に配分されるというものである。

パレートは、このような概念によって、社会全体の福利の適正配分と効用の最大化を目指す経済政策を理論的に基礎づけ、厚生経済学におけるパイオニア的存在となった。


[編集] 社会学上の功績
パレートは、それまでの経済学における研究業績を応用し、実証主義的方法論に基づいて社会の分析を行っていった。もともと自然科学を出発点として経済学・社会学の分野へと進んだパレートは、実験と観察によって全体社会のしくみ、および変化の法則を解明しようとした。

特に、経済学における一般均衡の概念を社会学に応用し、全体社会は性質の異なるエリート集団が交互に支配者として入れ替わる循環構造を持っているとする「エリートの周流」という概念を提起したことで知られている。そしてパレートは、2種類のエリートが統治者・支配者として交代し続けるという循環史観(歴史は同じような事象を繰り返すという考え方)に基づいて、19世紀から20世紀初頭のヨーロッパで影響力を持っていた社会進化論やマルクス主義の史的唯物論(唯物史観)を批判した。

さらに、人間の行為を論理的行為(理性的行為)と非論理的行為(非理性的行為)に分類し、経済学における分析対象を人間の論理的行為に置いたのに対し、社会学の主要な分析対象は非論理的行為にあると考えた。つまり現実の人間は、感情・欲求などの心理的誘因にしたがって行動する非論理的傾向が強く、しかも人間の非論理性が社会の構造を規定しているとみなしたのである。このような行為論は、その後アメリカの社会学者タルコット・パーソンズの社会システム論に影響を与えることになった。

パレートは、初期の総合社会学にはない新しい視点に立ち、独自の社会学理論を構築したところから、マックス・ヴェーバーやエミール・デュルケームと並ぶ重要な社会学者の1人として位置づけられている。


[編集] 主な著作
経済学講義(Cour d'Economie Politique, Laussanne. 1896)
一般社会学大綱(Trattato di sociologia generale. 1917-19)

[編集] 参考文献
ヴィルフレド・パレート(北川隆吉、板倉達文、広田明訳)『社会学大綱』(現代社会学体系・青木書店)ISBN-10:4250870448
作田啓一、井上俊編『命題コレクション 社会学』(筑摩書房)ISBN-10:4480852921
田原音和・田野崎昭夫・阿閉吉男他著(新明正道監修)『現代社会学のエッセンス 社会学理論の歴史と展開(改訂版)』(ぺりかんエッセンスシリーズ・ぺりかん社)ISBN-10: 4831507210
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カテゴリ: イタリアの経済学者 | イタリアの社会学者 | 19世紀の社会科学者 | 1848年生 | 1923年没

一般均衡理論
一般均衡

いっぱんきんこう
general equilibrium

  

経済におけるすべての市場が同時的に均衡していること。つまりある時点でのすべての財・サービスの価格と数量が変化しない状態を指す。この理論は,L.ワルラスによって展開され,J.ヒックス,P.サミュエルソン,G.ドブリューらによって発展がなされた。各財の需要と供給は,その財の価格のみならず,他のすべての財の価格に依存すると考えられる。需要関数は,消費主体の効用最大化行動からすべての財の価格の関数として導かれる。供給関数は,生産主体の利潤最大化行動からすべての財の価格の関数として導出される。市場において,すべての財の需給が一致するよう財の価格が調節され,一致したところで一般均衡価格が決定される。これに対して部分均衡は,他の事情において等しいという条件のもとで,当該の財に限定して需給均衡を考える。





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一般均衡論
一般均衡論 いっぱんきんこうろん General Equilibrium Theory フランスの経済学者ワルラスを始祖とする経済学の体系で、経済を多数のミクロ的な個別的経済主体の相互依存の関係として把握し、市場価格の需給調節機能を前提にして、経済のすべての部門でどのようにして一般的な均衡状態が成立するかを明らかにしようとする理論体系のこと。その後、イギリスの経済学者ヒックスによって一般均衡体系の安定性などの研究の深化が行われ、サミュエルソンらによる資本蓄積を含む一般均衡論の動態化や蓄積過程の最適性に関する研究、K.アローやG.デュブリューらによる新しい数学的手法を用いた一般均衡論の展開など、一般均衡論は現代の数理経済学の最も中心的な研究課題となっている。

(現代用語の基礎知識 2002 より)


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一般均衡理論
いっぱんきんこうりろん general equilibrium theory

市場経済において,さまざまな資源はどのようにして各財の生産のために用いられ,それがどのように消費者間に配分されるかという経済学の基本問題に対して,経済体系の相互依存を考慮した一つの基本的解答を与えるものが一般均衡理論である。この問題を分析するための自然な方法は,価格機構が最も理想的に機能する完全競争市場の場合を想定してみることである。一般均衡理論の創設者 L. ワルラス以下多くの経済学者が設定したのも,まさにその場合である。一般均衡理論は二つの支柱から成り立っている。その一つ主体的均衡の理論では,個々の消費者と生産者が与えられた市場価格のもとでどのように行動するかを明らかにし,つづく市場均衡の理論では,いままで所与としていた市場価格の決定について論述する。
 いま一人の消費者(家計)を考察の対象としてみよう。完全競争市場においては,彼の直面する価格は所与であり,その所得もさしあたって一定であるとみなすことができる。彼はその所得と価格のもとで効用を最大にするように各生産物とサービス(彼の余暇を含む)の需要量を決定するものと仮定すれば,その最適解は諸価格と所得に依存して決定される。この対応関係は各財について一つずつ定まるが,それが彼の需要関数を与えることになる。市場の需要関数は,それを個人について合計することによって得られる。なお,すべての価格と所得が同一比率で変化しても,消費者の実質的世界は不変であるから,各財の需要量も不変であることに注意しておこう。つまり各需要関数は,ある財一つの価格を1となるように価格ベクトル(と所得)を基準化したときの値を与えるだけで定まってしまうのである。
 つぎに代表的な生産者(企業)について考えてみると,競争市場においては各価格に対してさまざまな生産計画(すなわち資源その他の生産要素の投入量と生産物の産出量)のもたらす利潤が定まる。いま生産者が技術的に可能な生産計画の中で利潤を最大にするものとすれば,最適な計画は諸価格に依存して決定される。このようにして,生産物に対する供給関数と生産要素に対する需要関数が求められる。すべての価格が同じ比率で変化しても,最適な生産計画は変わらないと考えられるから,これらの関数はある財の価格を1としたときの値を与えるだけで定まってしまうことに注意しておこう。なお,これまで消費者の所得を需要量を説明する一要因としたが,その源泉は彼の所有する労働能力と企業利潤からの配当等であるから賃金率を含めた諸価格によって表現される。したがって彼の需要関数は結局価格のみの関数とみなすことができる。
 さて市場においてある価格ベクトルが与えられたとき,ある財の需要量が供給量を上まわればその財の価格は上昇し,下まわれば下落し,需要と供給が一致する点において初めて取引が行われると考えられる。この需給一致をもたらす価格が均衡価格であり,そのときの需要関数,供給関数の値が均衡消費量と均衡生産量とを定める。外的条件に変化がないかぎり,その状態が維持され,そのように資源配分が決定されるというのが均衡理論の基本的思想である。ここで総需要と総供給とを等置すると,財の数だけの方程式が得られるが,〈ワルラスの法則〉によって一つの方程式は他から導かれてしまう。一方,価格の数は財の数に等しいが,需要関数,供給関数は価値尺度に選んだ財の価格を1としてよいから,財の数より1少ないことが知られる。このように独立な方程式の数と未知数(価値尺度財の価格を1としたときの他の財の価格の数)は等しいから,各市場についての需給の均等を保証する価格体系の存在が原理的に確認されたことになる。
 一般均衡理論は L. ワルラスによって創設されて以来,V. パレート,J. R. ヒックス,P. A. サミュエルソンらによって発展させられた。現代の均衡理論はたんに資源配分の決定の機構を明らかにし,その安定性を明らかにするだけでなく,経済の外的条件の変化が経済変数に与える影響の解明,資源配分のさまざまな機構がどの程度望ましい成果をもたらすかについての分析をもその主要な課題とするものである。⇒市場均衡 川又 邦雄

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部分均衡理論

抽象的に申しますと、「部分均衡」とは、個別の市場の需給均衡を満たすような価格を考えるもので、「一般均衡」とは、全ての市場の需給均衡を同時に満たすような価格を考えるものを指しています。

具体的に申しますと、「部分均衡」は、たとえばワルラス調整過程という理論を使って均衡を求め、「一般均衡」は、たとえばエッジワース・ボックスという理論を使って均衡を求めます。そして「部分均衡」は、たとえば余剰分析という概念で良いか悪いかを考え、「一般均衡」は、たとえばパレート最適性という概念で良いか悪いかを考えたりします。このように抽象的な意味が違うというよりも具体的な手法が違うと考える方が分かりやすいかもしれません。

また「部分均衡」は一つの財しか考えないということではなく、「部分均衡」でも複数の財を想定して分析を進めていくのですが、一つの市場だけの均衡を考えるのが「部分均衡」で、すべての市場の均衡を考えるのか「一般均衡」ということになります。ですから、均衡を導出する過程において「部分均衡」でも「均衡均衡」でも、一つの変数を使って話を進めていくような過程もあるし、二つの変数を使って話を進めていくような過程もあります。

 ネットから
フランシス・イシドロ・エッジワース
フランシス・イシドロ・エッジワース
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フランシス・イシドロ・エッジワース(Francis Ysidro Edgeworth, 1845年2月8日 - 1926年2月13日)はイギリスの経済学者。アイルランドの名家に生まれ、スペイン人の血統も引く。


[編集] 生涯
17歳の時にダブリンのトリニティー・カレッジへ進学し、オックスフォード大学ベリオル・カレッジを卒業。そのころからその記憶力と機知は顕著であった。1877年に弁護士の資格を授けられる。ロンドン大学で、最初は論理学を、ついで経済学を教え、オックスフォード大学の経済学教授となる(1891年 - 1922年)。1889年と1922年には大英学術協会の経済学部会の会長であった。王立統計学会の会長・王立経済学会の副会長・大英国学士院の会員を歴任する。イギリスの有力な経済学誌"Economic Journal"には、1891年の創刊から彼の死に到るまで、有能な編集者として関わり続けていた。フランス語・ドイツ語・イタリア語・スペイン語に通じ、あらゆる機会に応じてミルトン・ポープ・ウェルギリウス・ホメロスのような古典から自由に引用ができるという伝統に属した人であった。生涯独身で、国際的な幅広い人脈を保ちつつ、皮肉と諧謔と超然とした態度、そして多くの奇行・逸話で同時代人に強い印象を与えている。


[編集] 思想と著作
エッジワースの初期の経済思想に影響を与えていたのは、ウィリアム・スタンレー・ジェヴォンズとアルフレッド・マーシャルであり、特にマーシャルとはともに数学と倫理学を通じて経済学に達したという類似点がある。エッジワースは社会科学に数学の手法を適用した先駆者の一人である。彼自身はその手法を「数理心理学」と名づけていた。

1877年の『倫理学の新方法と旧方法』("New and Old Methods of Ethics")では、ヘンリー・シジウィックの著書の論評という形をとりながら、功利主義と計量の問題を論議している。1881年にあらわれた『数理心理学』("Mathematical Psychics : Essays on the Application of Mathematics to the Moral Sciences")では、エッジワースは「感覚の、つまり快楽・苦痛の計算法」についての論述をさらに進めている。「ある場合にはより大きな、しかし、ある場合にはより小さな快楽単位の集まり、幸福の量が観察できる」ことが、数学を経済に応用できる根拠となるように、彼には思われた。

エッジワースの、道徳学に対する数学の応用として、「確信、つまり確率計算」がある。確率論そのものへの述作は1884年の『マインド』誌に寄稿された『見込みの哲学』("The Philosophy of Chance")がある。しかし、後年になるとエッジワースは確率よりも統計学へと興味の中心が移行し、確信や見込みのような主観が大きく左右する対象を数学によって規定できるかということについて、疑いをもつようになってきたようだ。心理学では、全体は部分の総和に等しくなく、数量の比較は意味をなさず、小さな変化が大きな効果をもたらし、一様で等質な連続は仮定できない。ただ哲学上の普遍性は主張できないとしても、大量の統計資料は現実に応用して差し支えないほど確実性を備えている、とエッジワースはジョン・メイナード・ケインズに答えている。

エッジワースは限界理論が前提していた功利主義の倫理と心理学を最後までもちつづけたのであり、そうした確信のもとに、経済学への貢献を果たした。(1)契約曲線 (2)エッジワース・ボックスなどのように経済価値を測定するために指数を使用したことと、確率計算を統計学に応用し、ウィルヘルム・レキシスが創始したドイツ学派にイギリスの研究家を接触させたことが、後世にとって特に有益であった。

エッジワースの著作は、彼自身により"Papers relating to political economy", 3巻(1925年)として集録されたが、ほかの膨大な数の論文は雑誌などに散在している。文体は気まぐれで、古典の引用と数式が入りまじり、生彩に富み脈絡は曖昧という矛盾した性格を兼ね備え、翻訳に適さないせいか、いまだ日本語訳がない。


マーシャル
マーシャル

マーシャル
Marshall,Alfred

[生] 1842.7.26. ロンドン
[没] 1924.7.13. ケンブリッジ

  

イギリスの経済学者,ケンブリッジ学派の始祖。ケンブリッジのセント・ジョーンズ・カレッジで数学を専攻し,1865年第2位で卒業して同カレッジのフェローに選ばれた。 77~81年ブリストルのユニバーシティ・カレッジの学長兼経済学教授,83~85年オックスフォードのベリオル・カレッジのフェロー兼経済学講師を経て,85年ケンブリッジ大学教授。 90年王立経済学会の設立やその機関紙"Economic Journal"の発刊にも尽力し,91~94年王立労働委員会委員をつとめる。最初は分子物理学の研究を意図したが,グロート・クラブに加入した頃 (1867) から社会の貧困問題を契機に哲学,倫理学,心理学を研究し,70年代初めに経済学に定着。その後は理論面の研究を進める一方,新興国における保護主義の実情視察のため渡米,この頃からアメリカ,ドイツの台頭によってイギリスの産業上の主導権の急速な失墜に関心をもつようになった。主著『経済学原理』 Principles of Economic (90) の公刊で経済学者として不動の地位を確立したが,その基礎となった処女作であり,夫人 M.P.マーシャルとの共著"The Economic of Industry" (79) も注目されている。彼の経済学はしばしば部分均衡理論として特徴づけられているが,これはその供給面の分析,特に時間要素の取扱いと密接な関連をもつ。長期にわたる研究の成果である『産業貿易論』 Industry and Trade: A Study of Industrial Technique and Business Organization,and Their Influences on the Conditions of Various Classes and Nations (1919) と『貨幣・信用及び商業』 Money,Credit and Commerce (23) もマーシャル経済学の必読書。





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マーシャル,A.
マーシャル Alfred Marshall 1842~1924 イギリスの経済学者。ロンドン中部のワンズワースに生まれ、1863年ケンブリッジ大学セント・ジョンズ・カレッジを卒業。当初は哲学や倫理学に関心をもったが、68年を境に経済学の研究に転じた。なお、当時political economyとよばれていた経済学に、現在もちいられているeconomicsという名称を確立したのはマーシャルである。75年、新興国の保護貿易政策をしらべるためアメリカにわたり、帰国後77~81年にブリストルのユニバーシティ・カレッジの学長をつとめた。イタリアで1年をすごしたのち、82年に教授としてブリストルに復帰した。83~85年オックスフォード大学ベリオール・カレッジ経済学講師をへて、85年ケンブリッジ大学の初代経済学教授となり、1908年に高弟ピグーにその職をゆずるまで在職した。

マーシャルは主著「経済学原理」(1890)において、それまでの正統派(古典派)経済学の理論を再編成し、それに当時新しい試みとして提示された限界効用理論を融合し発展させることで、今日新古典派とよばれる経済学の基礎を確立した。この著書は当時の経済学の支配的な学説となり、マーシャルの地位を不動のものにした。

マーシャルは、経済学を現実の分析のための手引きと認識していたから、緻密な理論展開とともに現実問題や政策論についても数多くの提言をおこなっている。

マーシャルは、ピグーやケインズなど、以後の経済学の発展に重要な役割をはたした数多くの経済学者を門弟とし、彼を創始者とする、ケンブリッジ大学を中心としたイギリス経済学の正統的学派をケンブリッジ学派とよぶ。ケンブリッジ大学でマーシャルの直接の後継者となったピグーは厚生経済学においてすぐれた業績をのこし、また、マーシャルの貨幣理論に強い影響をうけたケインズは、その後、古典派を真っ向から批判し、のちにケインズ革命とよばれた衝撃を経済学にもたらした。

そのほかの主著として、「産業と商業」(1919)がある。


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マーシャル 1842‐1924
Alfred Marshall

イギリスの経済学者。ロンドンに生まれケンブリッジ大学を卒業。1885年から1908年までケンブリッジ大学の経済学教授を務め,A. C. ピグー,J. M.ケインズをはじめとする一群の経済学者を育てて,ケンブリッジ学派を形成した。主著《経済学原理》(1890)はその後30年間にわたって8版を重ね,当時の支配的学説として世界中に影響を及ぼした。スミス,リカードからイギリス経済学の正統を引く J. S. ミルの《経済学原理》(1848)は,1871年にミル自身による最後の改訂版として出版されたが,そのころマルクスの《資本論》(1868),ジェボンズの《経済学の理論》(1871),メンガーの《国民経済学原理》(1871)など新しい動向を象徴する著作が現れるようになっていた。それは時代の変化とともに権威を失いつつあった古典学派(古典派経済学)に対する反乱の時代であった。その影響は経済学のさまざまな分野に及んだが,価値の理論の分野では,リカードのあいまいさに対するジェボンズの反発から生じた論争が,商品の価値の決定において生産費と需要の演じる役割をめぐって闘わされた。マーシャルは,価値が供給と需要の均衡する点において決定されるという命題を基盤として,経済の世界のあらゆる要素を相互的に位置づけることによって,この論争に終止符を打った。すなわち生産物の価値の決定においては,古典学派の強調した生産費を供給側の要素として,またジェボンズの強調した効用を需要側の要素として位置づけた。マーシャルはこうして,古典学派が需要の諸力よりも供給の諸力を強調したのは彼らの正しい直観に従ったものであると主張した。経済学では,一つの時代を支配した学説は時代遅れとして簡単に片づけられない真理を含んでいるものである。このような古典学派の復活を意味するマーシャルの経済学は新古典派経済学(狭義)と呼ばれる。
 彼の研究分野は価値の一般理論のみならず,さまざまな特殊研究の分野にもわたっており,とりわけ貨幣理論は彼の得意とする領域であった。その領域での研究は,後にケインズが進む道を整えた。しかし,彼の研究のこの部分はケンブリッジ大学での講義を通じて口頭で伝えられたため,十分には伝わらなかった。それらが《産業と貿易》(1919),《貨幣,信用,商業》(1923)として公刊されたのは彼の晩年であったため,外の世界に対する影響力は損なわれていたのである。日本においては主著《経済学原理》は1928年に翻訳・出版されている。                 白井 孝昌

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ブキャナン
ブキャナン

ブキャナン
Buchanan,James Mcgill

[生] 1919.10.2. テネシー,マーフリーズバラ

  

アメリカの経済学者。テネシー大学卒業。シカゴ大学で博士号取得。ジョージ・メーソン大学の公共選択研究センターを設立,所長となる。「小さな政府」構想の支持者。ケインズ的マクロ財政政策に対する批判で有名。その分析手法として政治学と経済学の一体化を研究。利益団体や投票者の行動が政府予算の決定に強く反映することを指摘。政治的・経済的意思決定プロミスの分析に新しい手法を取入れ,その構造を解明し,公共選択理論の発展に先駆的役割を果す。 G.タロックとの共著『同意算定論』 Calculus of Consent (1962) は同理論の基礎文献である。理論経済学者としてはやや傍流に属する研究とも考えられていたが,その功績が認められ 1986年ノーベル経済学賞受賞。





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ジェームズ・M・ブキャナン
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ノーベル賞受賞者
受賞年: 1986年
受賞部門: ノーベル経済学賞
受賞理由: 公共選択の理論における契約・憲法面での基礎を築いたことを称えて

ジェームズ・マギル・ブキャナン・ジュニア(James McGill Buchanan Jr.、1919年10月3日 - )は、公共選択論の提唱で知られる米国の経済学者、財政学者。1986年にノーベル経済学賞を受賞した。ヴァージニア学派の中心的人物のひとり。ジョージ・メーソン大学の教授を長い間務めている。また、ログローリングの理論の徹底した解析もおこなった。

シカゴ大学で博士号を取得。1940年にミドルテネシー州立大学を卒業。





[編集] 主要著書
J・M・ブキャナン / G・タロック〔著〕(宇田川璋仁監訳)『公共選択の理論-合意の経済論理』、東洋経済新報社、1979年12月(James M. Buchanan and Gordon Tullock, The Calculus of Consent: Logical Foundation of Constitutional Democracy, Ann Arbor: University of Michigan Press, 1962.)
J・M・ブキャナン / R・E・ワグナー〔著〕(深沢実・菊池威訳)『赤字財政の政治経済学-ケインズの政治的遺産』、文真堂、1979年4月(James M. Buchanan and Richard E. Wagner, Democracy in Deficit: the Political Legacy of Lord Keynes, New York: Academic Press, 1977.)
ジェムズ・M・ブキャナン〔著〕(小畑二郎 訳)『倫理の経済学』、有斐閣、1997年2月(James M. Buchanan "Ethics and Economic Progress",1994)




カント
カント

カント
Kant,Immanuel

[生] 1724.4.22. ケーニヒスベルク
[没] 1804.2.12.

  

ドイツの哲学者。近世哲学を代表する最も重要な哲学者の一人であり,またフィヒテ,シェリング,ヘーゲルと展開した,いわゆるドイツ観念論の起点となった哲学者。批判的 (形式的) 観念論,先験的観念論の創始者。 1740~46年生地の大学で神学,哲学を学んだ。卒業後,家庭教師を長い間つとめ,55年ケーニヒスベルク大学私講師。その後,エルランゲン,イェナ各大学から招かれたが固辞し,70年ケーニヒスベルク大学の論理学,形而上学教授となった。 96年老齢のため引退。主著『純粋理性批判』 Kritik der reinen Vernunft (1781) ,『実践理性批判』 Kritik der praktischen Vernunft (88) ,『判断力批判』 Kritik der Urteilskraft (90) 。





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カント,I.
I プロローグ

カント Immanuel Kant 1724~1804 ドイツ啓蒙期の哲学者。ケーニヒスベルク(現ロシアのカリーニングラード)に生まれ、終生この地にとどまった。9年余りの家庭教師生活ののち、1755年にケーニヒスベルク大学の私講師、70年に同大学の論理学および形而上学正教授となる。81年、「純粋理性批判」によって、合理主義と経験主義を総合した超越論主義を主張。つづいて、88年「実践理性批判」、90年「判断力批判」を発表し、みずからの批判哲学を完成した。

II 純粋理性批判

カントの批判哲学の根幹をなすのは「純粋理性批判」であり、その目標は人間の認識能力をみきわめることにあった。その結果明らかにされたのは、人間の認識能力は、世界の事物をただ受動的にうつしとるだけではなく、むしろ世界に能動的にはたらきかけて、その認識の対象をみずからつくりあげるということである。

つくるとはいっても、神のように世界を無からつくりあげるわけではない。世界はなんらかのかたちですでにそこにあり、認識が成立するには、感覚をとおしてえられるこの世界からの情報が材料として必要である。しかし、この情報はそのままでは無秩序な混乱したものでしかない。人間の認識能力は、自分に本来そなわる一定の形式をとおして、この混乱した感覚の情報に整然とした秩序をあたえ、それによってはじめて統一した認識の対象をまとめあげるのでなければならない。

カントによれば、人間にそなわるその形式とは、直観の形式(空間と時間)と思考の形式(たとえば、単一か多数かといった分量の概念や、因果性のような関係の概念など)である。そうだとすれば、「すべての物は時間と空間のうちにある」とか「すべては因果関係にしたがう」という命題は経験的には証明できないにもかかわらず、すべての経験の対象に無条件にあてはまることになる。というのも、空間や時間や、因果関係といった形式によってはじめてその対象が構成されるからである。それはたとえば、すべての人間が緑のサングラスをかけて世界をみた場合、「世界は緑である」という発言がすべての人間にとって正しい発言とみなされるのに似ている。

この理論によって、カントは近代自然科学の世界観を基礎づけることに成功する。しかしその代わりに、人間が知りうるのはこうした形式をとおしてみられた世界、つまり現象の世界だけであり、世界そのもの、つまり物自体の世界は不可知だということになる。また、これらの形式は、経験される現象世界についての判断にもちいられるものであるから、その範囲をこえて「自由」や「存在」といった抽象概念に適用することはできない。無理に適用すると、たがいに対立する主張が同時に真だと証明されてしまうこまった事態が生じるとカントはいい、この事態をアンチノミー(二律背反)とよんだ。

III 倫理学と美学

カントは理論理性につづいて、「実践理性批判」で実践理性を分析し、「人倫の形而上学」(1797)においてみずからの倫理学体系を確立する。彼の倫理学は、理性こそが道徳の最終的な権威だという信念にもとづいている。どのような行為も、理性によって命じられた義務の意識をもっておこなわれなければならない。理性による命令には2種類がある。「幸福になりたければこのように行為すべし」というふうに、ある目的のための手段として行為を命じる仮言的命令と、無条件に「このように行為すべし」というふうに、人間一般につねにあてはまる定言的命令である。カントによれば、定言的命令こそが道徳の基礎である。カントは、さらに「判断力批判」において、美学と有機的自然(物理的、無機的自然とはちがう生物の世界)をあつかい、彼の批判哲学を完成することになる。

IV その他の著作

カントの著書には上にあげたほかに、批判哲学以前のものとして、「天界の一般自然史と理論」(1755)などがあり、批判哲学以後のものとして、「プロレゴメナ」(1783)、「自然科学の形而上学的原理」(1786)、「たんなる理性の限界内における宗教」(1793)、「永久平和のために」(1795)などがある。

V カント哲学の影響

カントはもっとも影響力の大きかった近代思想家である。彼の弟子であるフィヒテ、それにつづいたシェリングとヘーゲルは、カントの現象と物自体の対立を否定して、ドイツ観念論という独自の観念論哲学を展開していく。また、ヘーゲルとマルクスが駆使した弁証法は、カントがもちいたアンチノミーによる論証法を発展させたものである。ケーニヒスベルク大学におけるカントの後継者のひとりであるヘルバルトは、カントのいくつかの観念をみずからの教育学の体系にくみいれた。


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カント 1724‐1804
Immanuel Kant

ドイツの哲学者。西欧近世の代表的哲学者の一人。東プロイセンの首都ケーニヒスベルク(現,ロシア領カリーニングラード)に馬具商の長男として生まれ,幼児期に敬虔主義の信仰篤(あつ)い母から大きな影響を受ける。当地のフリードリヒ学舎を経てケーニヒスベルク大学に学び,当時ドイツの大学を支配していたライプニッツ=ウォルフの哲学に触れるとともに,師 M. クヌッツェンの導きのもとに,とりわけニュートン物理学に興味を寄せる。大学卒業後ほぼ10年間家庭教師をつとめながら研究を深め,1755年《天界の一般自然誌と理論――ニュートン物理学の原則に従って論じられた全宇宙の構造と力学的起源についての試論》を発表,ニュートン物理学を宇宙発生論にまで拡張適用し,のちに〈カント=ラプラスの星雲説〉として知られることになる考えを述べる。同年,ケーニヒスベルク大学私講師となり,論理学,形而上学はじめ広い範囲にわたる科目を講ずる。60年代に入り,ヒュームの形而上学批判に大きな衝撃を受け,またルソーにより人間性尊重の考えに目覚める。70年ケーニヒスベルク大学教授となる。就職資格論文《可感界と可想界の形式と原理》には,空間,時間を感性の形式と見る《純粋理性批判》に通じる考えが見られる。81年,10年の沈黙ののちに主著《純粋理性批判》刊行。さらに,88年の《実践理性批判》,90年の《判断力批判》と三つの批判書が出そろい,いわゆる〈批判哲学〉の体系が完結を見る。ほかに主要著作として,《プロレゴメナ》(1783),《人倫の形而上学の基礎》(1785),《自然科学の形而上学的原理》(1786),《たんなる理性の限界内における宗教》(1793),《人倫の形而上学》(1797)などがある。
[カント哲学の基本的性格]  〈世界市民的な意味における哲学の領域は,次のような問いに総括することができる。(1)私は何を知りうるか。(2)私は何をなすべきか。(3)私は何を希望してよいか。(4)人間とは何か。第1の問いには形而上学が,第2のものには道徳が,第3のものには宗教が,第4のものには人間学が,それぞれ答える。根底において,これらすべては,人間学に数えられることができるだろう。なぜなら,はじめの三つの問いは,最後の問いに関連をもつからである〉。カントは,《論理学》(1800)の序論でこのようにいう。彼の考える哲学は,本来〈世界市民的〉な見地からするもの,すなわちいいかえれば,従来の教会のための哲学や学校のための哲学,あるいは国家のための哲学といった枠から解放されて,独立の自由な人格をもった人間としての人間のための哲学でなければならなかった。カントは,そのような哲学を打ちたてるために三つの批判書を中心とした彼の著作で,人間理性の限界を精査し,またその全射程を見定めることに努めたのである。
 〈私は何を知りうるか〉という第1の問いに対して,カントは,《純粋理性批判》で,人間理性によるア・プリオリな認識の典型と彼の考える純粋数学(算術・幾何)と純粋自然科学(主としてニュートン物理学)の成立可能性の根拠を正確に見定めることによって答える。すなわち,これらの学は,ア・プリオリな直観形式としての空間・時間とア・プリオリな思考形式としてのカテゴリーすなわち純粋悟性概念の協働によって確実な学的認識たりえているのであり,霊魂の不滅,人格の自由,神などの感性的制約を超えた対象にかかわる形而上学は,これらの学と同等な資格をもつ確実な理論的学としては成立しえないというのが,ここでの答えであった。
 〈私は何をなすべきか〉という第2の問いに,カントは,《実践理性批判》で,感性的欲求にとらわれぬ純粋な義務の命令としての道徳法則の存在を指示することによって答える。道徳法則の事実は,理論理性がその可能性を指示する以上のことをなしえなかった〈自由〉な人格の存在を告げ知らせ,感性的制約を超えた自律的人格とその不可視の共同体へと人々の目をひらかせるとされるのである。こうして,道徳法則の事実によってひらかれた超感性的世界への視角は,さらに第3の問い〈私は何を希望してよいか〉に対しても答えることを可能にする。すなわち,ひとは,理論的な認識によって決定不可能な霊魂の不死,神の存在といったことどもを,自由な人格による行為が有意味であるために不可欠の〈実践理性の要請〉として立てることが可能になる,とカントは考えるのである。
 カントは,このようにして,ニュートン物理学に代表される近世の数学的自然科学の学としての存立の根拠を明らかならしめ,ヒュームによる形而上学的認識への懐疑からも多くを学びながらそれにしかるべきところを得せしめ,さらに,ルソーによる自由な人格をもつ自律的人間の形づくる共同体の理想をいわば内面的に掘り下げ,西欧形而上学のよき伝統と媒介せしめる。ここに,人間の知のすべての領野を,近世の自由で自律的な人間理性の上にあらためて基礎づけるという作業が,人間としての人間とその環境世界の具体的日常的あり方へのカントの生き生きとした関心に支えられて,ひとまずの完成をみる。カントの哲学が,その後フィヒテからヘーゲルにいたるいわゆるドイツ観念論からさらには現代哲学のさまざまな立場の展開にかけて,たえず大きな影響を及ぼしつづけて今日にいたり,日本においても,とりわけ明治後期から大正時代における新カント学派の移入このかた,大きな影響を及ぼしているのは,以上のような彼の哲学の性格のゆえと考えられる。                       坂部 恵

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ロールズ
ロールズ

ロールズ
Rawls,John Bordley

[生] 1921.2.21. ボルティモア,メリーランド
[没] 2002.11.24. マサチューセッツ,レキシントン

  

アメリカの社会哲学者。著書『正義論』A Theory of Justice (1971) において,従来英米で有力であった功利主義に代わって社会契約説の伝統を新たな装いを凝らしたうえで復権させ,自由と平等のかねあいとしての社会正義の基礎の問題に答えることを試みて大きな反響を呼ぶ。これは以後活発な議論を呼び起こすもととなった。プリンストン,コーネル各大学に学び,コーネル大学,マサチューセッツ工科大学を経て,1962年ハーバード大学哲学教授。 1974年アメリカ哲学協会会長。





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ロールズの公正

ロールズのこうせい
Rawls' Justice

  

ロールズの正義ともいう。アメリカの哲学者 J.ロールズにより 1971年に提示され,経済学者に多大な影響を与えた所得分配の公正にかかわる理論。この考え方は差別原理とも呼ばれる。社会的に公正な仕組みとは人々がいまだ社会における位置づけが定まらないうちに選択する社会制度であるとする。各個人は相互に両立する範囲内で最大限の自由を等しく享受でき,社会的不平等は,社会的弱者の厚生が確保され,すべての構成員が機会平等である場合にのみ許容できるとする。この結果,社会的公正の尺度は,最も恵まれない人の公正の度合いで測ること (マクシミン基準) になる。





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ロールズ,J.
I プロローグ

ロールズ John Rawls 1921~ アメリカの哲学者。メリーランド州ボルティモアに生まれる。10代で哲学の勉強をはじめ、とくに道徳の問題に興味をいだくが、ケント・スクール卒業後3年間の兵役中に政治の問題にも関心をよせるようになる。プリンストン大学大学院に復学し博士号取得後、1950年から母校の哲学教師をつとめる。そのかたわら経済学にも関心を広げ、当時最新の経済理論を研究する。その成果と博士論文で展開した倫理学の問題をあわせて、独特の「原初状態」の理論を提唱した。

II 公正としての正義

その後コーネル大学、マサチューセッツ工科大学をへて、1962年からハーバード大学の哲学教授に就任。その主著「正義論」(1971)で「公正としての正義」の理論を体系的に展開し、社会倫理学への関心を高めた。これは、最大多数の最大幸福を正義とした功利主義にかわる、新しい社会正義の原理を論じたものである。自由で平等な道徳的人格者たちがつくる「原初状態」という状況をかりに設定し、その中で全員が一致して合意できるものが正義だとする彼の正義論には、カントの道徳論の影響がみられる。


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ロールズ 1921‐
John Rawls

アメリカの哲学者。ハーバード大学教授。その著《正義論 A Theory of Justice》(1971)において,功利主義に取って代わるべき実質的な社会正義原理を〈公正としての正義 justice as fairness〉論として体系的に展開し,規範的正義論の復権をもたらした。平等な基本的自由を保障する原理の優先が強調され,最も不利な状況にある人々の利益の最大化のための社会経済的不平等が正当化されるとする〈格差原理〉が提唱されているところに,その正義原理の内容的特徴がみられる。〈原初状態〉という仮説的状況で自由・平等な道徳的人格者たちが全員一致で合意するものとしてこのような正義原理が導出・正当化されるという,社会契約説的構成がとられており,このような方法論は,自律性と定言命法に関するカントの考え方を手続的に解釈した〈カント的構成主義〉と名づけられている。                 田中 成明

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