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倫理学はノイラートの船か?(その1-1) [宗教/哲学]

倫理学はノイラートの船か?
功利主義の流れ
功利主義

こうりしゅぎ
utilitarianism

  

19世紀,イギリスで盛んになった倫理,政治,社会思想。広義には幸福主義,快楽主義と共通する点をもち,R.カンバーランド,F.ハチソン,T.ホッブズ,J.ロック,D.ヒュームなどにもその傾向がみられるが,狭義には J.ベンサムやミル父子などに代表される経験論的功利主義をさし,最大多数の最大幸福をスローガンとする。彼らは幸福と快楽とを同一視し,苦を悪としたが,ベンサムでは快楽は量的にとらえられ,快楽の計量可能性が主張され,J.ミルでは快楽に質的差異が認められ,精神的,倫理的快楽が注目された。この思想は,イギリスでは H.シジウィックの合理主義的功利主義,H.スペンサーの進化論的功利主義に引継がれ,ドイツではイェーリングらに影響を与えた。特にイギリス政治史上に果した役割は絶大で,根強い保守的風潮を破って改革の機運をつくり出すことに成功した。いうならば功利主義は産業革命の哲学であった。そしてこの旗のもとに多くの知識人や新興中産階級が結集し,古い秩序に対して一大改革運動を推し進めていった。 1822年から 29年にかけての法典整備や刑罰規定の改正,34年の救貧法改正,35年の地方自治法制定や教育制度改正などはその成果である。なかでも「1832年革命」といわれるリフォーム=アクトの成立こそは功利主義の最大の勝利であった。





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[ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 2008]

功利主義
I プロローグ

功利主義 こうりしゅぎ Utilitarianism 役にたつものが善であるという倫理学の考え方。この考えによれば、行為の倫理的価値は、その結果が役にたつかどうかできまり、道徳的行為の最終目的は「最大多数の最大幸福」であるといわれる。ここでいわれている最終目的は、あらゆる法律の目標でもあり、社会制度の究極の基準でもある。功利主義における倫理観は、良心や神の意志や本人だけ感じる快楽などを基準とする倫理観に対立している。

II ペーリーとベンサム

イギリスの法学者で哲学者のペーリーは、功利主義を個人的な快楽と神の意志にむすびつけ、神の意志にしたがって人類の永遠の幸福をめざさなければならないと考えた。ベンサムは「道徳および立法の原理序説」(1789)において、功利主義的な考えを倫理学の基礎にすえるだけではなく、法律や政治改革の基礎にもすえた。彼は、多数者の利益のためには少数者の犠牲はやむをえず、どんな事柄でも少数者よりも多数者を優先すべきだと考え、「最大多数の最大幸福」を社会の倫理的な最終目標にした。

III ベンサム以後

ベンサム以後の功利主義の代表的人物としては、イギリスの法学者オースティンやジェームズ・ミル、ジョン・スチュアート・ミルの親子などがいる。

オースティンは「法理学の領域決定」(1832)の中で、功利主義をもとに法実証主義を説いた。ジェームズ・ミルは、ベンサムが創刊した機関誌「ウェストミンスター評論」で功利主義の考えを展開し、一般にひろめていった。ジョン・スチュアート・ミルはベンサム以後の功利主義のもっとも有力な思想家で、快楽の強さだけではなく、質の違いにも言及した。ベンサムがあらゆる快楽を同じように計算することができると考えたのに対し、ミルは「満足した豚よりも満足しない人間であるほうがよい」といい、快楽の質の違いを強調した。

イギリスの哲学者シジウィックは、快楽から道徳をみちびきだすことを否定し、道徳の基礎を直覚におき、その考えを功利主義にむすびつけた。ダーウィンによって提唱された進化論(→ 進化)をあらゆる現象に適用したスペンサーは、功利主義と進化論の総合をめざした。アメリカのプラグマティスト(→ プラグマティズム)であるジェームズやデューイも、功利主義の影響を大いにうけている。


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功利主義
こうりしゅぎ utilitarianism

主として19世紀のイギリスで有力となった倫理学説,政治論であり,狭義には J. ベンサムの影響下にある一派の思想をさす。ベンサムは《政府論断片》(1776)のなかで,〈正邪の判断の基準は最大多数の最大幸福である〉という考えを示した。彼はこれを立法の原理とすることによって,従来の政治が曖昧な基礎にもとづく立法に依拠していたのをただそうとしたのである。〈功利 utility〉という語はすでにヒュームの《人間本性論》(1739‐40)で用いられており,幸福(快楽)をもたらす行為が善で不幸(苦痛)をもたらす行為が悪だとする考えは,常識のなかには存在していたといえるが,ベンサムはそれを学問的な原理に高めようとしたのである。そして〈最大多数の最大幸福〉という原理は,個人の利害と一般の利害とを合致させることをめざしている。彼の《道徳および立法の原理序説》(1789)は,この功利の原理を展開したものである。すべての人間の行為の動機がつねに快楽の追求と苦痛の回避であるとすればすべての行為が正しいことになってしまうこと,自分の幸福と他人の幸福とが衝突することがあること,ベンサムの説く快楽の計算は実際にはきわめて困難なことなど,ベンサムの功利主義には種々の欠点があった。しかし,立法の原理として〈最大多数の最大幸福〉を提示することは,当時の立法者の少数有力者のための立法とそれにもとづく政治を批判する理論的根拠として有効であった。中産階級の人々にとっては〈幸福〉の具体的内容についての大体共通する理解があったからである。
 ベンサムの強い影響を受けた J. ミルは,ベンサムの思想を整理し,その宣伝に努めた。そして《人間精神の現象の分析》(1829)を書いて,功利主義をハートリー David Hartley(1705‐57)の連合心理学によって基礎づけようとした。また彼は,功利主義の立場から代議制民主政治を主張し,《経済学要綱》(1821)においては功利主義にもとづく経済学思想を展開した。J. ミルの子 J. S. ミルはベンサムの強い影響を受け,《功利主義論》(1863)を書いて,功利主義に対する種々の批判に反論したが,同時にベンサムが幸福(快楽)に質の相違を認めなかったのに対し,質の差別を認めた。〈満足した豚よりも満足しない人間である方がよく,満足した愚者であるよりも満足しないソクラテスである方がよい〉という彼の有名な言葉は,質の差別を示している。また彼は〈観念連合〉の原理を導入し,快楽を追求する利己的個人のなかに利他的行動を起こす心理的要因があるとし,もともと人間には〈共感〉や〈仁慈への衝動〉が存在すると説いた。
 功利主義を提唱したベンサムとその影響下にある人々は,政治的な活動をおこない,1832年の〈選挙法改正案〉の議会通過に大きく貢献した。この〈改正案〉は中産階級の政治的発言権を拡大することになる。この政治的党派は〈ベンサム主義者 Benthamites〉または〈哲学的急進派philosophic radicals〉と呼ばれた。彼らは政治的には代議制民主政治の確立をめざし,経済的には自由放任主義を主張し,それを議会での立法を通じた改革によって実現しようとしたのである。
 J. S. ミル以後,H. スペンサーは新しい学説として注目を集めていた〈進化論〉にもとづいて功利主義を基礎づけようとした。またイギリスの哲学者シジウィック Henry Sidgwick(1838‐1900)は,心理的な事実としての快楽から道徳的原理を引き出すことはできないとし,実践理性の直覚する公正の原理こそが道徳の基礎であると説き,それに功利の立場を結びつけた。そして彼は J. S. ミルと同じく快楽の質の差別を認め,質の高い快楽をめざすべきだと説いた。このように,ベンサムに始まる功利主義は,倫理思想であるだけでなく,社会思想としても展開し,19世紀のイギリス,そしてヨーロッパ全体に大きな影響を与えた。 城塚 登

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快楽主義
快楽主義

かいらくしゅぎ
hedonism

  

行為の標識として快楽 hdonをとる理論。幸福主義の一形態。キュレネ学派,なかんずくアリスチッポスは瞬間的快楽のみを善とし,可能なかぎり多くの快楽を集めることに幸福が存するとした。これに反しエピクロスは,そうした感覚的,瞬間的快楽を否定し,至高善たる快は持続的な,したがって精神的なものでなくてはならないとしてアタラクシアを説き,快楽に質的区別を認めた。ほとんど禁欲的な生活をおくったエピクロスへの世人の誤解は,快楽主義への偏見の典型である。古代のこの2学派は快楽主義の2つの典型であるが,近代にいたってベンサムはそこに社会的観点を導入した。彼は功利主義に立って,快楽の量的差に基づく快楽計算を提唱,最大多数の最大幸福を主張した。なお,物質的快楽の追求は多くの困難に遭遇することになり,苦痛を増す。それゆえ快楽の放棄こそ快楽への道であるという考えが生れるが,これを快楽主義的逆説と呼ぶ。また美学の領域では,美的快楽を美の本質的要素とする説を美的快楽主義と呼ぶ。 (→エピクロス主義 )





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快楽主義
I プロローグ

快楽主義 かいらくしゅぎ Hedonism 人間には快楽をもとめ、苦痛をさけるという基本的な考えがある。それをもとに、人生の究極の目的は快楽にあるとする倫理学説。

II 古代ギリシャの快楽主義

古代ギリシャでは2種類の快楽主義がとなえられた。1つはキュレネ学派の利己的、 感覚的快楽主義で、もう1つはエピクロス学派の理性的快楽主義(エピクロス主義)である。

キュレネ学派によれば、われわれの知識はすべて瞬間ごとにきえていくはかない感覚に根ざしているから、現在感じられている快楽と未来におこるかもしれない苦痛を比較できるような知識体系をつくることはできない。したがって個々人は、現在の一瞬だけを実在とみなし、自分が現在感じている快楽に身をゆだねるべきであるとされた。これに対して、エピクロス学派は、刹那(せつな)的な快楽はかえって苦痛をひきおこすのであって、むしろ自制や思慮によって感覚的快楽をたつことが、真の快楽をえる方法だと考えた。

III 最大多数の最大幸福

近代においては、利己的、感覚的快楽主義が18世紀のフランスの唯物論哲学者エルベシウスによってとなえられた。しかし近代の快楽主義でもっとも影響力の大きかったのは、18~19世紀のイギリスでベンサムやジョン・スチュアート・ミルがとなえた功利主義である。これは、快楽主義を社会の考察にまで広げた一種の社会的快楽主義である。個人が快楽の追求に幸福をみいだすのと同様に、社会もまた「最大多数の最大幸福」が実現したときによい社会になるとし、そうした社会の倫理的最終目標を達成するために、彼らは選挙制度の改革など社会改良につとめた。


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快楽主義
かいらくしゅぎ hedonism

快楽(ギリシア語 h^don^)こそ善の最終的な判断の基準であると考える倫理的立場。一般には肉体的快楽,とくに性的快楽を追求する立場をいうが,哲学史的には,何を快楽とするかは,各体系によって異なる。ソクラテスの弟子アリスティッポスは,人生の目的を快楽の追求とした。ただしこの快楽とは肉体的放縦の所産ではなく,逆に魂による肉体的欲望の統御から生まれると考えた。この態度は次代のエピクロス学派に続く。エピクロスとその学派は魂の平静(アタラクシア ataraxia)を重んじ,健康で質素な共同生活を通して得られる精神的快楽を重んじた。彼の学園ではつねに快活な笑いとくつろいだ喜びが絶えなかったという。一方インドのチャールバーカ派あるいは順世派では極端な唯物論の立場をとり,感覚的実在以外に何も認めず,輪廻も業も否定した。とすれば人生の目的は感覚的快楽の追求もしくは苦痛の回避しかないと考えた。この立場はもっとも素朴な世俗的人間が無意識にいだいている信念だといえよう。
 近代のその代弁者はフランス唯物論者,とくにエルベシウスである。《精神について》(1758)の中で,彼は人間の本性を次の4項のもとでとらえた。(1)あらゆる人間の能力は結局は感覚に帰する。(2)人間は快楽を愛し苦痛を恐れる利己的存在である。(3)人間はすべて平等の知性をもつが,ものを学ぶ意欲にはばらつきがある。(4)適切な教育を受けた支配者は適当な立法化を行って環境を自分の優位に変更し,それによって自利を増進することができる。ここには浅薄ではあるが,大多数の人間を支配している快楽原則を見抜いた冷徹な世知がある。功利主義の提唱者ベンサムや J. S.ミルは〈最大多数の最大幸福 the greatesthappiness of the greatest number〉を標語として掲げ,幸福とは人間の求める善であり,それは快楽を求め,苦痛を避ける合理的行動によって達成しうると考える。個人の合理的利己的行動こそ政治の干渉さえ受けなければ,かえって社会の自然の調和を生み,最大善・最大幸福に寄与しうるという。                    大沼 忠弘

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懐疑主義
懐疑論

かいぎろん
skepticism

  

人間理性による確実な真理認識をおしなべて否定する哲学的立場。その変形されたものとしては,蓋然性を認める認識論的蓋然主義,経験的現象での真理認識は認めるがその背後なる超越者の認識を否定する不可知論,客観的真理を否定する相対主義などがあり,認識の局面をこえて実践面にそれを適用した宗教的,倫理的懐疑論がある。絶対的懐疑論は真理認識を否定するが,その主張自体は真理であるとしているのであるから,決定的な自己矛盾を含んでいるというのが,アウグスチヌスの批判である。古代の懐疑学派のほかに,近世のモンテーニュやバークリー,経験論を徹底したヒューム,物自体の認識を否定したカントらが懐疑論者と考えられる。





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懐疑主義
I プロローグ

懐疑主義 かいぎしゅぎ Skepticism 人間の主観的知覚からはなれた、あるがままの事物を知ることはできないとする哲学の考え方。語源はギリシャ語のskeptesthai(吟味する)。もっと一般的な用法では、ひろく真であると信じられていることをうたがう態度をさす。懐疑主義は人間の認識の範囲と程度を問題にするので、つまるところは認識論になる。→ 認識論

II 古代ギリシャの懐疑主義

紀元前5世紀にギリシャで活躍したソフィストは、ほとんど懐疑主義者である。彼らの考えを表現している言葉に、「何も存在しない、もし存在するとしても、それを知ることはできない」や「人間は万物の尺度である」といったものがある。たとえばゴルギアスは、事物についてかたられることはすべて偽りであり、かりに真だとしても、それが真であることは証明できないといった。あるいはプロタゴラスは、人間が知りうるのは事物について各自が知覚したことだけであって、事物そのものではないと説いた。

懐疑主義をはじめて明確に定式化したのは、ギリシャ哲学の学派ピュロン派の人たちである。創設者のピュロンは、人間は事物の本性をまったく知ることができないのだから、判断を保留すべきだといった。ピュロンの弟子ティモンは、いかなる哲学上の主張に関しても同じ説得力をもった賛否両論をあげることができると主張した。

プラトンが創設したアカデメイアは、前3世紀ごろから懐疑主義にかたむいた。アカデメイア派はピュロン派よりも体系的であるが、いくらか徹底性にかけるところがある。たとえばカルネアデスは、どの意見も絶対的に真ではありえないと主張した。しかし、もしそうなら、何がよくて何がわるいのかを判断できないのだから、人間は行為できなくなるのではないか。この反論に直面してカルネアデスは、ある意見が他の意見よりも信頼できる(蓋然的である)ことはありうるとみとめてしまった。この不徹底さに不満をおぼえたアイネシデモスはピュロン派を復興させ、懐疑主義の立場をかためる10カ条の方式を整備した。古代末期のセクストス・ホ・エンペイリコスは、古代の懐疑主義を集大成した「ピュロン哲学の概要」などの著作をのこした。

III 近代の懐疑主義

セクストスの書物は、ルネサンス期に再発見された。16世紀のモンテーニュは、セクストスにならって人間の理性は無力だと説き、理性よりもキリスト教の信仰にしたがうようすすめた。17世紀にデカルトが懐疑主義を克服しようとこころみたにもかかわらず、懐疑主義はいっこうにおとろえなかった。

18世紀になると、近代懐疑主義のもっとも重要な代表者ヒュームがあらわれた。彼は、外界、因果結合、未来の出来事について、われわれが信じていることは真ではないかもしれないし、魂や神は存在するのかといった形而上学的問題も解決できないと考えた。同じ18世紀にカントは、ヒュームの懐疑主義を克服しようとこころみた。しかし彼もやはり、あるがままの事物(物自体)を知ることはできないとみとめざるをえなかった。

19世紀にヘーゲルが合理主義の体系の中に懐疑主義をくみいれようとしたが、19世紀終わりから20世紀初めにかけて彼の合理主義が崩壊するとともに、ニーチェやサンタヤーナのように、懐疑主義にかたむく哲学者たちがあらわれた。懐疑主義的な考えは、プラグマティズム、分析哲学と言語哲学そして実存主義といった、他の現代哲学の中にもみうけられる。

→ 経験主義:形而上学:西洋哲学:合理主義


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懐疑論
かいぎろん

〈検討〉を意味するギリシア語 skepsis に由来する西洋哲学用語(英語では skepticism)の訳として用いられる語。人間的認識の主観性と相対性を強調して,人間にとって普遍的な真理を確実にとらえることは不可能だとする思想上の立場。独断論 dogmatism に対する。広義にはあらゆる普遍妥当的な真理の認識可能性を否定する立場を指すが,狭義には特定の領域,例えば宗教や道徳において確実な真理に到達する可能性を否定する立場を指すのにも用いられる。このような立場は,一方では人間の思考や認識に対する否定的な態度さらにはニヒリズムにつながるが,他方では断定的な判断を避け,経験と生とを導きの糸として探究を続行しようとする実証主義的態度にもつながる。また懐疑論はつきつめていけば論理的矛盾に陥る――〈真理の認識は不可能である〉という断定は真理に関する一つの絶対的判断である――ので純粋な形では主張することができないが,それほど徹底しない場合でもそれ自身のために主張されるよりは,従来の見解を打倒するための武器あるいは疑うことのできない真理を発見するための手段(デカルトの方法的懐疑はその典型)として用いられることが多い。
 西洋哲学史上,懐疑論がとくに問題になるのは古代と近世初期である。古代の懐疑派は通常三つの時期に区別される。初期にはピュロン(その名に由来するピュロニズムは懐疑論の別名となった)とその弟子ティモン Timヾn がおり,彼らは何事についても確実な判断を下すのは不可能であるから,心の平静(アタラクシア)を得るためには判断の留保(エポケー)を実践すべきことを説いた。中期はプラトンゆかりの学園アカデメイアの学頭であったアルケシラオス Arkesilaos とカルネアデス Karnead^s に代表される。彼らはストア主義を独断論として攻撃し,とくに後者は蓋然的知識で満足すべきことを説いた(アカデメイア派ないし新アカデメイア派の語も懐疑論者の代名詞として用いられることがある)。後期にはアイネシデモスやセクストス・ホ・エンペイリコス等が属するが,前者は感覚的認識の相対性と無力さを示す10の根拠を提示したことで知られ,後者は経験を重んずる医者として諸学の根拠の薄弱さを攻撃し,またその著書はギリシア懐疑論研究の主要な資料となっている。近世においては,ルネサンスの豊かな思想的混乱の中で懐疑思想も復活し,伝統的な思想や信仰を批判する立場からも,逆にそれを擁護する立場からもさまざまなニュアンスの懐疑論が主張されたが,その中でもモンテーニュのそれはたんに否定的なものにとどまらず生を享受する術となっている点で,またパスカルのそれはキリスト教擁護の武器として展開されているにもかかわらず作者の意図を越えて人間精神の否定性の深淵を垣間見させてくれる点でそれぞれ注目に値する。なお D. ヒュームはしばしば懐疑論者のうちに数えられ,彼に刺激を受けたカントについても懐疑論との関係で論じられることもある。⇒不可知論                     塩川 徹也

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ストア学派
ストア派

ストアは
Stoics

  

キティオンのゼノンがアテネのストア・ポイキレに創設した哲学の一学派。その学派は前期 (前 312~129) ,中期 (前 129~30) ,後期 (前 30~後2世紀末) に分れる。前期には厳格と節度の人ゼノン (ストアの) ,その忠実な後継者で『ゼウスの賛歌』を残したクレアンテス,ストア派最大の権威クリュシッポス,天体論を研究し,科学を神のロゴスについての研究と規定したアラトスらが,中期には『義務について』の著者パナイティオスやポセイドニオスらが,後期,ローマの帝政時代には貴族出身のセネカ,『省察録』を書いたマルクス・アウレリウス,奴隷出身のエピクテトス (弟子による『語録』が有名) がいた。彼らは哲学を論理学,自然学,倫理学に分け,哲学は実践上の知恵を教える学であるとの立場から倫理学を最も尊重した。





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ストア学派
I プロローグ

ストア学派 ストアがくは Stoicism ヘレニズム時代に創設された古代ギリシャ哲学の学派。エピクロス学派、懐疑学派とともにこの時代の3大学派をなした。ストア学派は、ソクラテスの弟子であるアンティステネスによって創設されたキュニコス学派に起源をもつ。

II 歴史

ストア学派は前300年ごろにキプロスのゼノンによってアテネで創設された。キュニコス学派のクラテスにまなんだゼノンが彩色柱廊で知られたストア(柱廊)に学校を開設したのが、その始まりである。学派の名称もこれに由来する。第2代学頭のクレアンテスが書いた「ゼウス賛歌」はその断片が現存しており、そこでは、最高神は全能の唯一神にして道徳的統治者であるとのべられている。クレアンテスの後継者になったのはクリュシッポスであり、これら3人が第1期ストア学派(前300~前200年)の代表者である。

第2期(前200~前50年)になると、ストア学派の哲学はかなり普及し、ついにはローマにも知られるようになる。ストア学派を本格的にローマにつたえたのはパナイティオスである。パナイティオスの弟子のポセイドニオスは、ローマの有名な演説家キケロの教師であった。

第3期はローマ時代になる。共和制末期の小カトーはすぐれたストア哲学者であったし、帝政期にもセネカ、エピクテトス、皇帝マルクス・アウレリウスのローマの3大ストア哲学者があらわれた。キリスト教がローマ帝国の国教になったのちも、ストア学派は大きな勢力をもちつづけ、その影響はルネサンス期にまでおよんだ。

III 思想

ヘレニズム期のほかの学派と同じく、ストア学派も倫理学に強い関心をしめした。幸福が人々の最大の関心事になったからである。しかし倫理学をかためるために、論理学と自然学の理論を開拓したところに、この学派の大きな特徴がある。概念、判断そして推論の理論としての論理学はストア学派によってその骨格が形成され、とくに仮言三段論法の発見はこの学派のもっとも重要な功績である。

ストア学派の自然学によると、世界は物質からなる。しかし物質そのものは受動的であって、これとは別に、世界をうごかし世界に秩序をあたえる能動的な原理がある。この原理はロゴスとよばれ、神の理性であるとともに、ある種の微細な物質とも考えられた。そこで、「息」あるいは「火」ともよばれたが、これはヘラクレイトスが宇宙の根源とみなしたものにあたる。

人間の魂は、このロゴスの現れである。それゆえ、このロゴスにしたがって生きることは、神がさだめた世界(自然)の秩序にしたがって生きることであり、この生き方がわれわれ人間の務めになる。「自然にしたがって生きる」というこの見解は、自然法思想の展開において決定的なものになり、ローマ法に甚大な影響をあたえることになった。

善とは外的なものではなく魂の内部にあるというキュニコス学派の考えが、ストア学派の倫理学の原理になっている。ストア学派はこの魂の内的状態を思慮あるいは自制心と考えた。つまり、日常生活においてわれわれの心をかきみだすものは情念や欲求であって、こうしたものから解放されて不動心(アパテイア)をえるために必要なものが、思慮や自制心だというのである。

この自制や克己ということが同時代のエピクロスの快楽主義(→ エピクロス主義)とするどく対立し、現在の英語のストイックstoicという言葉に「禁欲的」という意味がくわわるもとになった。

ストア学派のきわだった特徴のひとつに、コスモポリタニズムがある。この考えによると、どの人間も唯一の普遍的な神の現れであるからには、人間どうしの付き合いでは社会的地位とか貧富あるいは民族の違いといった外的なものはまったく意味をもたず、万人はひとしくコスモス(世界)の市民である。したがってストア学派は、キリスト教が誕生する以前にすでに、全人類は生まれつき平等であり、たがいに兄弟のように愛しあわねばならないと考えていたのである。


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ストア学派
ストアがくは

ギリシア・ローマ哲学史上,前3世紀から後2世紀にかけて強大な影響力をふるった一学派。その創始者はキプロスのゼノンである。彼はアカデメイアに学び,後にアゴラ(広場)に面した彩色柱廊(ストア・ポイキレ Stoa Poikil^)を本拠に学園を開いたのでこの名がある。
 ストア学派の思想によれば,あらゆる認識の基礎をなすのは感覚である。世界は感覚的認識の総体であり,それゆえ物質的存在である。しかしその中には物質に還元できない英知が宿っており,それが物質世界に一定の秩序を与えている。この事物を秩序立てる力を〈神的火〉,または〈運命〉と呼ぶ。人間は内在する英知を自覚することによって,世界という秩序(コスモス kosmos)を認識しなければならない。人生の目的は,この自然の秩序にのっとって生きることであり,それが最大の幸福をもたらす。それが道徳であり,義務であるとともに宇宙と一体化する修行法なのである。世界は巨大なポリスであり,人間は〈世界市民(コスモポリテス kosmopolit^s)〉として,この世俗においても一定の役割を果たさなければならない。宇宙秩序に対する透徹した観照から,情念や思惑にかき乱されない〈不動心(アパテイアapatheia)〉を養い,厳しい克己心と義務感を身につけてこの世を正しく理性的に生きること,これをストア学派的生活と呼ぶが,この事情は英語のストイック stoic,ストイシズム stoicism などの語に反映されている。
 ゼノンの高邁(こうまい)な生き方は,クレアンテス,クリュシッポスに受け継がれた。これを古ストア学派と呼び,論理学,自然学に多大の業績を挙げた。前2~前1世紀の中期ストア学派に属するパナイティオス,ポセイドニオスは道徳的,実践的局面を強調し,人事における神的英知の介入として〈摂理〉を説いた。新ストア学派にはセネカ,エピクテトス,マルクス・アウレリウスなどが属する。またパウロや初期キリスト教の教父,さらにはルネサンス期のリプシウス,F. ベーコン,T. モア,グロティウスなどに与えた影響も無視できない。
                        大沼 忠弘

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道徳
道徳

どうとく
moral

  

社会の成員によって承認され,かつ実現される倫理的諸価値ないし規範の総体。その原理は,主観的内面的規制原理として,主体のうちに現れる自然的本能,自己保全の欲求,名誉欲,権力欲,所有欲などの利己的,本能的欲求と正義,真理,愛,誠実,信頼,平等,国益などの普遍的ないし社会的諸価値の対立あるいは現実と理想の相克を調整し,社会的成員にふさわしい行為を選択するようにしむける。さらに道徳は内面に深く関わるものとして実存の重要な構成契機となり,個人の世界観に重大な影響を及ぼす。ヘーゲルは個人的主観的な道徳性と習慣や法律として客観化された道徳すなわち人倫とを区別している。





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道徳
どうとく

こんにちの用法では倫理という語と根本的な相違はない。倫とは仲間を意味し,人倫といえば,畜生や禽獣のあり方との対比において,人間特有の共同生活の種々のあり方を意味する。倫理とは,そういう人倫の原理を意味し,道徳もほぼ同様であるが,いずれかといえば原理そのものよりも,その体得に重点がある。すなわち,道とは人倫を成立させる道理として,倫理とほぼ同義であり,それを体得している状態が徳であるが,道徳といえば,倫理とほぼ同義的に用いられながらも,徳という意味合いを強く含意する。道徳と倫理の両語とも,現今では近代ヨーロッパ語(たとえば英語の morality,ethics,ドイツ語の Moralit∵t,Sittlichkeit,Ethik,フランス語の morale,レthique)の訳語としての意味が強いが,これらの語はたいていギリシア語のエトス ethos ないしはエートス ^thos,あるいはラテン語のモレスmores(mos の複数形)に由来する。^thos という語は,第1に,たいていは複数形の ^th^ で用いられて,住み慣れた場所,住い,故郷を意味し,第2に,同じくたいていは複数形で,集団の慣習や慣行を意味し,第3に,そういう慣習や慣行によって育成された個人の道徳意識,道徳的な心情や態度や性格,ないしは道徳性そのものを意味する。ethos という語はとくに第2の意味を,そしてmores という語は第2および第3の意味を有する。モラルという日本語をも含め,総じて近代語においては,第3の意味に重点がある。
 道徳に関する哲学は倫理学(英語では ethics,ドイツ語では Ethik),あるいは道徳学(ドイツ語では Moral),道徳哲学(英語では moral philosophy)と呼ばれる。moral philosophy は近代イギリスでは元来は精神哲学というほどの広い意味のものであり,たとえば A. スミスがグラスゴー大学で講義したそれは,神学,倫理学(《道徳感情論》),法学,および経済学という四つの部分から成り立っていた。道徳は,人間存在が個人的にして同時に共同的な存在であるかぎりにおいて,宗教や法や経済などと密接に関連しながらもその純粋形態においてはそれらから区別されるべき,一つの根源的現象である。個々の人間は,とりわけ良心の責めという現象において,おのれ自身の行為や人格の善悪の区別を体験する。あらゆる諸民族の文化生活において,道徳的命法,行為規範,道徳的価値規準などが存在し,それらにしたがって,ある種の行為は称賛すべきものとして是認され,あるいは義務として命じられ,他の種の行為は非難すべきものとして否認され禁止される,ないしは,人間自身とその態度や言動が端的に善あるいは悪として評価される。その種の事柄について,それを単に事実として記述し分析する種々の社会科学(たとえば,文化史,文化人類学,社会学など)とか,その種の価値評価の成立を心理的に説明する道徳心理学とかとは異なり,倫理学としての道徳哲学は,道徳現象の究極的な根拠を問い,道徳の形而上学に到達しようとする。それはさらに,規範学的な実践哲学として,個人的にして同時に共同的な人間の行為の,普遍的および特殊的な道徳的諸規範の意味とその客観的な妥当性を基礎づけようとする。したがってその方法は,道徳的経験によって与えられたものについての哲学的反省である。
 道徳は,原理的には,人間存在の根本理法であり,何よりもまず,単なる自然存在の理法から区別されるべきものであるが,原初的には,自然存在と一体化した人間存在の慣習的なあり方に内含されたかたちで現れる。そこでは道徳はいまだ宗教的生活に付随しており,人間の法的・経済的なあり方とも融合している。それらから区別されて,まさしく人間としての人間の内面的なあるべきあり方がその純粋形態において自覚されるにいたるとき,道徳としての道徳という問題が成立する。この問題の最も基本的な原理は自由の問題である。なぜなら,道徳は単なる自然存在の理法とは異なり,人間存在のあるべきあり方に関するものであるが,この当為(べき)は自由を前提にして初めて成り立ちうるからである。だが,無限的自由もまた当為を成立させえない。当為の前提としての自由は,人間としての人間に固有の有限的自由である。それは,個人が人倫に背反しようとする解放の自由と,個人が人倫に帰一しようとする自律の自由との相互否定的な関係において存立する。道徳という人間存在のこの根本理法は,社会的・歴史的に多様な具体的形態をとりながら,また時として種々の仮象的・偽善的な形態に堕しながら展開するが,道徳の本質的形態は,洋の古今東西を問わず,おのれ一個の例外を求めないという点に帰する。その点を踏まえながらも,各人が現実的状況のなかでいかにしておのれの本来的自己と成り行くかが,現代道徳の最も根本的な問題である。⇒倫理学      吉沢 伝三郎

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倫理学
倫理学

りんりがく
ethics

  

ギリシア語のエートス thos (習俗,性格) に由来し,個人的にはよきエートスの実現,社会的には人間関係を規定する規範,原理の確立を目的とする学問。時代,社会によっていくつかの立場に分れる。まずエピクロス学派にみられるように道徳の規範を利己,主観に求める傾向や,またこれに隣接して実存の主体的なあり方を問題とする実存哲学の倫理学がある (→実存主義 ) 。これに対して道徳の規範を先駆的なものに求める傾向はカントに代表される。さらにギリシアの懐疑主義 (→懐疑論 ) に始る懐疑主義的傾向があり,現代では論理実証主義の場合のように,倫理学の命題そのものの成立の可否を問い,それを情緒的な表白として把握する立場もある。東洋では仏教思想,老荘の無の思想,孔孟の仁の思想などを中心に,倫理思想の展開がみられる。





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[ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 2008]



倫理学
I プロローグ

倫理学 りんりがく Ethics 英語のエシックス(ethics)という語は、「性格」「慣習」を意味するギリシャ語のエートス(ethos)に由来する。この語は人間の行動の原理原則(倫理、道徳)とその研究(倫理学、道徳哲学)の両方を意味する。ここでは後者のみ、それも西洋の倫理学のみに限定してのべる。

哲学の一分野である倫理学は、化学や物理学のような経験科学とも、数学や論理学のような形式的科学ともちがって、人間の行動の規範(善悪)にかかわるので、規範科学とよばれる。その関心領域は、心理学をふくむ社会科学と一部重複する。社会科学も、ある社会の人々がどんな規範にしたがっているか、その規範を形成するどんな文化的条件があるかなどを、実証的に研究するからである。

II 倫理学の原理

哲学者は善い行動を2つにわける。ひとつはそれ自体で善い行動、もうひとつはほかの善の手段としての善い行動である。前者はほかのものの手段にならない究極目的、最高善である。倫理学史をふりかえってみると、最高善といわれてきたものには、第1に幸福ないし快楽が、第2に義務あるいは徳が、第3に自分の可能性の完全な開花がある。

ある行為がなぜ善なのかを説明する理由は3つある。第1は「神の命令だから」、第2は「自然本来の姿だから」、第3は「理性のルールだから」という理由である。

III 古代ギリシャの倫理学

前5世紀のギリシャに弁論術、論争術、政治学をおしえるソフィストといわれる一群の哲学者たちがいた。彼らは、どの国でもなりたつ客観的なモラルなどないと考えた。ソフィストのひとりプロタゴラスは、人間の判断は主観的であり、人が知るものはその人だけにしかあてはまらないとおしえた。ゴルギアスというソフィストはもっと極端で、なにも存在しないし、なにかが存在しても人はそれを知ることができないし、知りえたとしても他人にそれをつたえることはできないと主張した。トラシュマコスというソフィストは、権力こそ正義であると考えた。

これらのソフィストたちに反対したのがソクラテスだった。弟子プラトンの対話編をとおして知られるソクラテスの主張は、次のようなものである。徳は知である。徳のなんたるかを知った人だけが、有徳になる。悪は徳の無知から生じる。だからこそ教育は人々を道徳的にしうる、とソクラテスはいうのである。

IV ソクラテスの弟子たち

ソクラテスの教えをひきついだ弟子たちは、4つにわかれた。キュニコス学派、キュレネ学派、メガラ学派そしてプラトンである。

キュニコス学派は禁欲主義をとる。アンティステネスの主張によれば、徳とは自己を制御することであり、この徳はおしえることができる。キュニコス学派は快楽を悪とみなし、あらゆる虚栄心を否定する。ソクラテスはわざとぼろをまとったアンティステネスに、「君の上着の穴から君の虚栄心がみえるよ」とおしえたが、虚栄心のためにぼろをまとうことも、この派では否定されるのである。

キュレネ学派は快楽主義をとる。彼らによれば、快楽は基本的には善いものであり、いろいろな快楽の間に優劣の差はなく、ただ快楽の度合いと持続で優劣がきまる。

メガラ学派の祖エウクレイデスによれば、善は知とか神とか理性とか多くの名をもっているが、結局はひとつのものである。善は、ただ論理学的な研究によってのみあらわになる宇宙の究極的な秘密である。

1 プラトン

プラトンによれば、真に実在するもの、つまりイデアは完全なもので、個物はその不完全な写しである。完全であることが善いことであるから、善は真に実在するすべてのものの不可欠な性質である。

彼によれば悪は、本当は存在しない。悪とは、善つまり完全性が欠けていることである。善い人とは、その魂に完全性がそなわった人である。人間の魂は理性、意志、感情の3つの部分からなるが、おのおのの部分が完全になることが魂の善さのためには必要である。つまり理性が知恵(人生の目的についてのただしい知識)を獲得し、その指導のもとで意志がただしい勇気を、感情がただしい節制を実現したときに、魂は全体として調和のあるただしい魂となり、そのような魂をもつ人が善い人である、とプラトンは考えた。

2 アリストテレス

プラトンの弟子アリストテレスによれば、幸福が人生の目的である。彼の「ニコマコス倫理学」によれば、幸福とは人類に特有な本性(形相)と一致する活動のことである。そうした活動には快楽がともなうが、快楽はこの活動の主要な目的ではない。理性という人間に固有な属性が、人間のもつほかのさまざまな能力と調和してはたらくとき、幸福が生じる。

またアリストテレスによれば、有徳な人かどうかは1回きりの行為ではなく、習慣によって判断されるべきである。ところで、善い習慣といわれるものには、知的な活動の習慣と実践的な活動の習慣の2種類がある。前者は認識活動で、その完成形態は観照、すなわち主観をまじえず対象の本質をとらえることである。後者は勇気のような道徳的行動で、中庸の徳に一致しておこなわれる。中庸といわれるものは、人により所によって事情がちがうから、善い実践的習慣には柔軟性がなければならない。体の大きさや年齢や職業によって、人が食べるべき適量(中庸)はちがってくる。過食も少食も善ではない。一般にアリストテレスのいう中庸は、過剰と不足という両極端の中間と定義される。臆病と蛮勇の中間が勇気で、快楽と禁欲の中間が節制なのである。

しかし彼にとって、知的な徳も実践的な徳も幸福に達するための手段として善なのであり、その幸福とは、人間が人間としての可能性を完全に開花させることであった。

V ストア学派

ストア学派の哲学は前300年ごろにはじまり、ヘレニズム・ローマ時代に展開された。主要なストア主義者としては、ギリシャ人ではキプロスのゼノン、ローマ人では有名なキケロ、奴隷のエピクテトス、ローマ皇帝で哲学者のマルクス・アウレリウスがいる。ストア学派によれば、自然や宇宙は秩序(ロゴス)にみち合理的であるから、自然にしたがって生きる人生だけが善である。しかし人間は目前の状況に影響されてこの法則をみあやまるから、できるだけこうした状況に左右されない心を身につけなければならない。英語のストイック(stoic)という言葉が今日「困難に直面しても動じないこと」をも意味するのは、これに由来する。

VI エピクロス学派

前4~3世紀に、ギリシャの哲学者エピクロスは、のちにエピクロス主義とよばれる考えを提唱した。それによれば、最高の善は快楽、とくに知的な快楽である。ストア学派と同じように彼は、学問的な研究に専念する静かな生活、禁欲的でさえある生活を善しとした。ローマの代表的なエピクロス主義者は詩人で哲学者でもあるルクレティウスである。前1世紀中ごろに彼が書いた「デ・レルム・ナトゥラ(「自然について」「物の本質について」などの訳がある)」は、デモクリトスの原子論的宇宙観とエピクロスの倫理観をむすびつけた詩である。

この学派によると快楽は、心の動揺をとりのぞき平静な心をたもつことでえられる。宗教的な信仰や実践は、人々の心に死の不安や死後の世界への恐れをふきこむから有害である。政治的な活動も、権力闘争などで心をみだすからさけたほうがよい。またのちのちに永続的な快楽をえるために、現在の快楽を後回しにすることは善いことだという。

VII キリスト教

キリスト教の出現は、倫理学の歴史上、一種の革命であった。なぜなら西洋の哲学者たちは善をはじめて神学的に考えることになったからである。キリスト教の教えによれば、人間は神に完全に依存している。人は自分の意志や理性によって善をなしとげることはできず、ただ神の恵み深い手助けによってのみ善をなしうる。

キリスト教の主要な倫理は、「人にしてもらいたいと思うことはなんでも、あなたがたも人にしなさい」、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」、「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に」である。イエスは「心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、あなたの神である主を愛しなさい」という命令に、ユダヤの律法の本質的な意味があると考えた。原始キリスト教団では、禁欲、受難、信仰、慈悲、ゆるし、精神的な愛が強調されたが、このうちのいくつかはギリシャ哲学でも重視された。

VIII 教父とスコラ学者

キリスト教の倫理学は、ヘレニズムのころペルシャ伝来のマニ教とたたかいながらつくりあげられてきた。マニ教では善と悪(光と闇)は世界の主導権をあらそう2つの勢力だと考えられた。このマニ教は3~4世紀まで影響力をもっていた。

キリスト教神学の父アウグスティヌスは、はじめマニ教を信じたが、プラトンの考えにふれてマニ教をすてた。キリスト教に回心したのち、彼は、プラトンの考えとキリスト教的な善の考え方を統一した。それによると、善は神に固有な属性であり、罪は人祖アダムの堕落から生じた。人間はその罪から神の恩寵によってのみすくわれるのである。人間は本性上罪深いと考える点で、彼には、悪が永続するというマニ教の考え方がのこっている。この態度は、わかいときの彼自身の放蕩に対する罪の意識を反映している。彼が純潔と独身を強調するのは、そのためかもしれない。

中世後期にアラビアの学者たちがつたえたアリストテレスの著作とその注釈は、ヨーロッパの思想に強い影響をあたえた。アリストテレスの考えは、啓示と対立する経験的知識を強調するので、教会の知的権威をおびやかした。アリストテレスの考えと教会の権威を和解させたのは、キリスト教神学者トマス・アクィナスであった。大著「神学大全」において、彼は、経験的な真理を是認するが、この真理は信仰の真理をおぎなうことになると考えた。こうしてアリストテレスの知的な権威は教会の権威に奉仕することになり、アリストテレスの論理学は、原罪と神の恩寵による救いというアウグスティヌスの考えをささえるためにつかわれたのである(→ スコラ学)。

中世の教会の倫理観はダンテの「神曲」の中に文学的に表現されている。ダンテはプラトン、アリストテレス、トマス・アクィナスに影響をうけている。「神曲」の「地獄編」でダンテは罪を3つに分類してえがくが、そこにはプラトンの魂の3区分がはっきりみてとれる。

IX 宗教改革以後

ルネサンスの間に教会の信仰や倫理観が影響力をうしなう一方で、ふたたびキリスト教の基本原理にたちかえろうという運動がおこった。宗教改革である。ある考えは変更されたし、新しい考えもはいってきた。ルターによれば、キリスト教的な敬神の本質は精神の善さである。キリスト教徒には道徳的な行為が要求されるが、義とされるのは信仰によってのみである(→ 義認)。またルター自身が結婚していたし、独身生活はプロテスタントの牧師には要求されていない。フランスの宗教改革者カルバンは、義認は信仰のみによるという考えのほかに、アウグスティヌスの原罪の教えも採用した。ピューリタンもカルバン主義者であって、節制、勤勉、節約、虚栄の排除などのカルバンの主張を信奉した。

ルネサンスの間、個人の責任は権威や伝統への服従よりもずっと重要だと考えられた。重点の置き方のこの変化が、間接的に近代の世俗的倫理学の展開に道をひらいた。たとえばグロティウスは自然法は神の法であり、平和に他人とくらしたいという人間の欲求を表現したものだと考えた。

X 近代の倫理学

ホッブズは著作「リバイアサン」(1651)の中で、組織された社会と政治権力が道徳にとって最大の重要性をもつと主張した。彼によれば、国家成立以前の「自然状態」は「万人の万人に対する戦い」である。したがって人々は安全を確保するために、契約をむすんで、たがいに自分の権利と権力を放棄して、全体を統括する君主にそれをゆだねる。この社会契約によって国家が生じるというのである。ホッブズは、人間は本性上悪いものであり、人間を抑圧しておくためには強い国家が必要だ、と保守的に考えた。これに対してロックは、社会契約の目的は君主の絶対権力を制限し、個人の自由を増大することにあると主張した。

スピノザがえがいた哲学体系においては、ただしい行為の基準は人間の理性である。主著「エチカ」でスピノザは、倫理学を心理学から、心理学を形而上(けいじじょう)学から、幾何学の証明のようなやり方で演繹した。それによれば、すべてのものは永遠の相のもとでみれば道徳的に中立である。人間が欲求と利害関心でみるから、正邪善悪がわかれるのである。自然(=神)についての人間の知識をたすけるもの、人間の理性と一致するものが善である。あらゆる人が共有するものはあらゆる人に善であるから、人々が他人に善をおこなえば、それは自分自身のために善をおこなったのと同じである。そのうえ理性は、感情をおさえるから、苦痛をさけ快楽と幸福を生みだすために役だつ。

そして、人生最高の幸福は、ふつうの理性よりもさらに高い直観的知性の能力による「神の知的愛」にある。この能力をただしく使用することによって人は、精神的であると同時に物質的でもある無限な世界を観照し、この世界が唯一無限な実体(=神)であることを知る、とスピノザは考えた。

XI ダーウィン以前の倫理学

18世紀のイギリスでは、哲学者のヒュームと自由放任主義の経済学者アダム・スミスが同じように感情を重んじる倫理学を主張した。それによれば、善とは満足の感情を、悪とは苦痛の感情をひきおこすものである。人々は血縁などで直接的にむすびついていなくても、おたがいにシンパシーを感じあうのであって、その感情から、道徳と公益という観念が生じるとする。

フランスの哲学者で小説家のルソーは、ホッブズの社会契約論をうけいれた。しかし彼は小説「エミール」で、悪は社会生活における不適応から生じるのであって、人間は自然本性上は善であるとのべている。

倫理学に最大の貢献をしたのは、18世紀ドイツのカントである。彼によれば、たとえどんなにかしこくふるまったとしても、人間の行動の結果は偶然の状況に左右される。したがって行為の善し悪しは、その結果ではなく、その動機によってはかられるべきである。意図の善さだけが善に値する。なぜなら、善い意図をもつ人だけが、感情や気分にながされないで、一般的な原則にしたがう行動、義務による行動をおこなうことができるからである。

カントは道徳の根本原則を「君の行動の原則が、君の意志によって同時に、あたかも普遍的な自然法則になるかのように行為せよ」とのべている。これは有無をいわせない命令であり、定言的命令とよばれる。

XII 功利主義

いわゆる功利主義の倫理学や政治理論は、イギリスのベンサムによって18世紀末にとなえられ、のちにやはりイギリスのジェームズ・ミルとその息子ジョン・スチュアート・ミルによって深められた。ベンサムは、功利主義の原理を、共同体の幸福の総量を増大する手段と定義する。あらゆる人間の行動は、苦痛をさけ快楽をえようとする欲求によってうごかされていると彼は考えた。功利主義は、エピクロス学派のように個人の快楽ではなく、社会全体の快楽を善とする普遍的な快楽主義である。最高の善は、「最大多数の最大幸福」ということになる。

XIII ヘーゲルの倫理学

ヘーゲルはカントの定言的命令をうけいれたが、それを歴史的な発展の理論にくみこんだ。それによれば、歴史の各時代は、合理的な世界精神が真の自分を自覚するためにたどる諸段階である。道徳は、社会契約の結果ではなく、むしろ、家族からはじまり当時のプロイセン国家で最高段階に達する歴史の途上で生じたひとつの中間段階なのである。ヘーゲルは「世界史は、制御できない自然的な意志をきたえて、その意志を普遍的な原理にしたがわせ、主観的な自由を実現する場である」という。

デンマークの哲学者キルケゴールは、ヘーゲルの哲学に強く反発した。著作「あれか?これか」では、彼の倫理学の主要なテーマである選択の問題が論じられている。キルケゴールによれば、ヘーゲルの哲学は個人の選択の問題を、個々人が直面しなければならない主体的な問題というよりも、むしろ、普遍的に解決できる客観的な問題であるかのようにみせかけた。それによってこの問題の困難さをおおいかくしてしまったのである。

キルケゴール自身の選択は、キリスト教の倫理の中で生きることであった。個人がみずから選択しなければならないという彼の主張は、いわゆる実存主義運動に属するさまざまな哲学者と、キリスト教やユダヤ教の多くの哲学者に影響をあたえた。

XIV ダーウィン以後の倫理学

ニュートン以後の倫理学にもっとも大きな影響をあたえた科学的成果は、ダーウィンによってとなえられた進化論である。ダーウィンの発見は、イギリスのスペンサーが提唱した「進化論的倫理学」という体系に実証的な支柱をあたえた。それによれば道徳とは、進化の過程で人類が獲得したある習慣の結果にすぎない。最適者存続が自然の基本法則だというこのダーウィンのテーゼを、おどろくべき仕方で、しかし論理的にしあげたのが、ニーチェである。

ニーチェによれば、いわゆる道徳というものは、弱者のためにのみ必要である。ユダヤ教やキリスト教の中で推奨される道徳によって、弱者は、強者が自己を実現することをさまたげることができる。彼はこれを奴隷道徳とよぶが、このいわゆる道徳なるものは、弱者のいだく強者への怨念(おんねん)に由来するのである。彼は、すべての行為は卓越した個人、つまり「超人」の進化発展にむけられるべきであって、超人こそが人生のもっとも高貴な可能性を実現しうるという。この超人の理想をニーチェは、ソクラテス以前の哲学者たちやシーザーやナポレオンのような軍事的指導者にみていた。

XV 精神分析と倫理学

現代の倫理学は、フロイトとその弟子たちの精神分析から大きな影響をうけている。フロイトによれば、各人における善悪の問題は葛藤から生まれる。つまり自分の欲求をすべてみたしたいという本能的な衝動と、個人が社会で生きていくためにこれらの衝動のほとんどを抑圧しなければならないという必要性の間の葛藤から、道徳は生じたというのである。フロイトの影響は倫理学の分野に完全に浸透してはいないが、フロイトの深層心理学は、罪、とくに性的な罪の意識が、善悪についての多くの考えの根底にあることをおしえる。

XVI 現代の倫理学

イギリスの哲学者ラッセルは、伝統的な道徳観にするどい批判をおこなった。彼の考えによれば、道徳判断は、個人の欲求と社会的にみとめられた慣習を表現するものにすぎない。だから禁欲的な聖者も超俗的な賢者も、人間の貧弱なモデルでしかない。なぜなら、彼らは、人間のあり方を不完全にしかしめしていないからである。社会生活に参加し自分の本性のすべてをあらわすことが、人間の完全な生き方である。

むろん、社会の利益のためにおさえられなければならない衝動もあるし、個人の可能性の開発のためにおさえられなければならない衝動もある。しかし善い人生と調和のある社会に役だつのは、個人の抑圧されない自然な成長と自己実現なのである。

1 実存主義

20世紀には実存主義の理論を提唱する哲学者が多くあらわれた。彼らは、キルケゴールとニーチェが提起した個人の倫理的選択の問題に関心をよせた。これらの哲学者のうち、宗教的な傾向をもつのは、ロシアのベルジャーエフとオーストリア生まれのユダヤ人ブーバーである。ベルジャーエフは、個人の精神の自由を強調し、ブーバーは、個人の相互関係の道徳性に注目した。ドイツ生まれのアメリカ人神学者ティリヒは、自分自身であることへの勇気を力説した。フランスのカトリックの哲学者で劇作家のマルセルとドイツの哲学者で精神病医ヤスパースは、個人の存在のかけがえのなさと個人間のコミュニケーションの重要性を強調する。

現代倫理学の異色の傾向としては、フランスのマリタンとジルソンがあげられる。彼らはトマス・アクィナスの伝統にしたがった。マリタンによれば「真の実存主義」とは、この伝統の中にのみ存在するのである。

いっぽう、現代の別の実存主義の哲学者たちは、宗教的な思考をいっさいうけいれない。ドイツの哲学者ハイデッガーによれば、神は存在しない(将来存在するようになるかもしれないが)。したがって人間は単独で宇宙になげだされていて、たえず死を意識しながら自分の倫理的な決断をおこなわなければならない。フランスの哲学者で小説家のサルトルも無神論者である。彼も死の意識を強調する。サルトルはまた、各個人が自分の時代の社会的・政治的な状況にみずから関与する倫理的責任をもっていると説いた。

そのほかの現代の哲学者たち、たとえばアメリカのデューイのような人たちは、道具主義の立場から倫理学にアプローチする。デューイによれば、善を実現する手段とそこからおこりうる帰結の両方を熟慮したうえでえらばれたものが本当の善である。

また、現在のイギリスとアメリカの倫理学の議論のほとんどは、ムーアの言語分析的方法を出発点にしている。ムーアによれば、倫理的意味の言葉は「善」という語によって定義できるが、善それ自体は定義できない。善は単純な性質で、分析できないからである。この点でムーアに反対し、善は定義できると考える人々は、自然主義者とよばれる。これに対してムーア自身は直観主義者とよばれている。

自然主義も直観主義も、倫理的な命題が世界を記述できるのであって、したがって倫理的な命題は真か偽でありうると考えていた。これに対して第3の立場が生まれ、とくに論理実証主義(→ 実証主義)といわれる人々は、倫理学であつかうような文章は記述的ではなく、むしろたんなる話者の感情の表明でしかないと考えた。そこから、倫理学は認識の学問ではないとさえいうことになった。このするどい言語分析的批判をうけて、今日の倫理学では、活発な論争がおこなわれている。

→ 分析哲学と言語哲学


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蜜蝋に澎湃する延長(その10) [宗教/哲学]

スピノザ
スピノザ,B.de
I プロローグ

スピノザ Baruch de Spinoza 1632~77 オランダの合理主義的哲学者・宗教的思想家。きわめて徹底した近代の汎神論者。

II 生涯と著作

宗教的迫害をのがれてポルトガルから移住したユダヤ人の子孫として、アムステルダムで生まれた。ヘブライ語による正統なユダヤ的教育をうけたが、のちに物理学やスコラ学、ホッブズ、デカルトなど近世の著作を研究し、その影響により正統的ユダヤ主義からはなれた。そのためシナゴーグから脱退し、1656年には無神論者として破門された。スピノザはレンズ磨きで生計をたてていたとされているが、これは彼の簡素な生活ぶりを象徴的につたえる伝説である。

この時期に書かれた最初の著作「神、人間および人間の幸福に関する短論文」は、のちに展開される哲学的体系の輪郭をすでにしめしている。「神学政治論」は1670年まで出版されず、また学位論文「知性改善論」は77年まで出版されなかったが、両著作ともおそらくこの時期に書かれたものと思われる。

1660年にレイデン近郊のレインズビュルフに転居する。2、3年後には、ハーグからさほど遠くないフォールブルフに、さらに70年にはハーグにうつる。その後73年にハイデルベルク大学の哲学正教授としてまねかれるが、スピノザは知的活動の自由をまもるために、この誘いをことわった。また著書を献呈すれば年金を支給するというフランス国王ルイ14世の申し出も辞退している。

III 哲学
1 実体

スピノザの思想がもっとも完全に表現されているのは「エチカ」(1677)である。この著書によれば、神は先行する原因をもたないがゆえに、あらゆるものの「実体」であり、したがって世界はこの神と同一である(→ 一元論)。スコラ学に由来するスピノザの実体概念は、物質的実在ではなく、形而上学的存在であり、現実にとっての包括的・自己充足的な基盤をなしている。

2 思惟と延長

実体は無限の属性をもつが、人間に知られるのはそのうちの2つだけである。ひとつは、延長もしくは物質界、もうひとつは思惟である。延長と思惟は、究極的実在である神の内に存在すると考えられた。因果関係は、延長という属性をもつ個体的な物体(すなわち物理的物体)の間に、あるいは思惟という属性をもつ個別的な観念の間には成立しうるが、しかし物体と観念相互の因果関係は成立しない。そこで、物体と観念の間の、見掛け上の因果的な相互作用を説明するために、スピノザは有名な心身平行論をとなえた。この説によれば、どの思惟も対応する延長をもち、どの延長も対応する思惟をもつのである。

3 所産的自然と能産的自然

スピノザによれば、物体にせよ観念にせよ、個別性とは実体の特殊な様態である。あらゆる特殊な物体は延長という属性における神の一様態である。またあらゆる観念は、思惟という属性における神の一様態である。様態は、無限に多くの仕方で変化する個体であり、神の必然性から生じる一切のものである。これは「所産的自然」とよばれる。実体すなわち神は、それ自身の本性の必然性によって活動する自由原因である。これは「能産的自然」とよばれる。

様態は一時的で、その存在は時間的な形態をとる。神は永遠であらゆる様態の変化を超越している。したがって個物は、その延長も思惟も有限ではかない。それにもかかわらず、破壊することのできない世界はやはり存在している。世界は、実在する個体の内にではなく、本質の内にみいだされるからである。人間が神を直観的に知っていることは、神への知的愛の源である。これは神が自分自身を愛する無限の愛の一部なのである。

→ 直観

4 本質と個物

本質に関するスピノザの概念は、スコラ的「実在」概念およびプラトンのイデアの概念と密接に関連しているが、ある重要な点でこの両者とことなっている。というのもスピノザは、神を表現するものとして本質は個物にそなわっているというのである。

スピノザにとって実在と本質の根本的相違は、実在は時間的に存在するが、本質は時間の外にあるということであった。時間的に存在するものだけが死という宿命をせおっているのだから、無時間的である本質の領域は永遠でなければならない。それにもかかわらず、本質の領域は個物の領域をなしているのである。

5 因果連鎖と自由

すべての個物は因果連鎖に規定されているのだから、延長においても思惟においても個物の存在は限界づけられている。しかし、いっぽうあらゆる実在は、普遍的、本質的性格をもっている。このような本質を実現化するためには、個物特有の形態を超越しなければならない。つまり個物自らの構造の限界から自由でなければならない。本質は実在の時間的限界をわかちもたないとはいえ、実在に内在する原因というかたちで実在領域に存在する。スピノザの形而上学にしたがえば、内在的原因とは自己原因であり、自己原因は自由を意味している。このような訳で、スピノザは、本質の領域でのみ獲得されうる善として自由論を展開した。

個別的な物体と観念はすべてほかの物体や観念に服しており、その存在の仕方もほかのものによって決定される。したがって非時間的な自己原因的存在、つまり普遍的で内在的な存在にとってだけ、完全な自由は可能である。実体もしくは神との一致によってのみ、不死とともに平和も獲得されるのである。

IV 伝統的なものの否定

スピノザは摂理と意志の自由を否定した。その非人格的な神の概念は、多くの同時代人に敵意をもってうけとめられた。哲学史におけるスピノザの位置はさまざまな面で独特である。彼はいかなる学派にも属さず、またいかなる学派もつくらなかった。

その業績のいくらかは先達に、とりわけデカルトの思想にもとづいている。しかし、先人をたんに継承したとみなされるには、あまりにも独自な体系をきずいた。その深さと壮大さ、まれにみる総合の力強さという点で、スピノザはもっとも偉大な哲学者のうちにかぞえられる。

スピノザは1677年に没したが、1世紀後には再評価されている。後継者はいなかったが、カントをのぞけば、彼以上にひろく影響をおよぼした近代の哲学者はみあたらない。哲学者だけでなく、ゲーテ、ワーズワース、シェリーといった詩人たちも、スピノザからインスピレーションをえている。


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スピノザ 1632‐77
Baruch de Spinoza

オランダの哲学者。ヨーロッパ哲学史上最大の形而上学体系の創始者。迫害を逃れてポルトガルから移住したユダヤ人を両親として,アムステルダムに生まれた。Baruch(〈祝福された者〉というヘブライ語)に当たるラテン語で Benedictus とも呼ばれる。ユダヤ人学校でヘブライ語,聖典学を学び,さらにユダヤ神学を研究したが,正統的見解に批判的となり,ついに1656年,ユダヤ教団から破門された。ラテン語を学び,数学,自然科学,スコラ哲学およびルネサンス以後の新哲学に通暁し,とくにデカルト哲学から決定的な影響をうけた。60年からレインズビュルフに住み,《神,人間および人間の幸福に関する短論文》《知性改善論》を書き,友人たちの求めに応じて,63年《デカルトの哲学原理》を出版した。これは生前彼の名を付して公刊された唯一の書である。同年フォールブルフに移り,オランダ共和国の政治指導者J. de ウィトと親交を結び,その自由主義政策を支持し,神学の干渉に対して思想の自由を擁護するために,旧約聖書の文献学的批判を行い,《神学政治論》を書いた。この書は70年に匿名で出版されたが,スピノザの書とわかり,彼は極悪の無神論者とみなされることになった。70年,ハーグに移る。73年にハイデルベルク大学の招聘をうけたが,断る。主著《エチカ》は75年には完成していたが,彼に危険思想を見る人たちの妨害で出版を断念しなければならなかった。その後は《国家論》の執筆にとりかかったが,完成しなかった。76年暮れ,ライプニッツが訪問し,彼の哲学に深い関心を寄せたが,その数ヵ月後,肺患のため没。死後まもなく,友人たちの手で《エチカ》《知性改善論》《国家論》《ヘブライ語文法綱要》と書簡選が《遺稿集》として公刊されたが,著者の頭文字が付せられただけであった。彼はレンズを磨いて生計を立て,きわめて質素な生活をしたが,その人格のまれに見る高潔さは彼を無神論者として敵視した人びとも認めざるをえなかった。
 スピノザの哲学体系はもっとも根源的なものとしての実体の概念から出発する。彼は実体を自己原因としてとらえ,デカルトにはじまるアリストテレス的実体概念の革命を徹底し,無限に多くの属性から成る唯一の実体を神と呼んだ。いっさいの事物は様態すなわち神の変状であり,神はいっさいの事物の内在的原因であり,いっさいの事物は神の必然性によって決定されているとして,〈神即自然〉の汎神論的体系を展開し,思惟と延長を神の二つの属性,すなわち同一実体の本質の二つの表現と見て,心身平行論の立場をとり,デカルトの二元論をのりこえた。こうして彼は,自己の個体本質と神との必然的連関を十全に認識するとき,有限な人間は神の無限にあずかり,人間精神は完全な能動に達して自由を実現し,そこに最高善が成立すると説いた。彼の哲学はフィヒテからヘーゲルに至るドイツ観念論哲学の形成に決定的な役割をはたした。また国家と法についての彼の学説は普遍的理性の観念論と力の実在論,グロティウスとホッブズ,ルソーとマキアベリとを媒介する位置に立っている。            竹内 良知

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一元論
一元論
いちげんろん monism

世界と人生との多様な現象をその側面ないし全体に関して,ただ一つの(ギリシア語のモノスmonos)根源すなわち原理ないし実在から統一的に解明し説明しようとする立場。単元論singularism とも呼ばれ,二つおよびそれ以上の原理ないし実在を認める二元論・多元論に対立する。哲学用語としては近世の成立であり,C. ウォルフが初めてただ一つの種類の実体を想定する哲学者のことを一元論者と呼んだ。すなわち,いっさいを精神に還元する唯心論,物質に還元する唯物論,精神と物質とをともにその現象形態とする第三者に還元する広義の同一哲学などは,すべて一元論に属する。西洋での代表者は一者(ト・ヘン to hen)からの多様な現象の流出を説くプロティノス,〈産む自然〉としての一なる神を実体,多様な〈産まれた自然〉をその様態と説くスピノザなどである。西田幾多郎の《善の研究》(1911)は,純粋経験の程度・量的差異による世界と人生の一元論的説明の試みと言いうる。一元論は日本では《哲学字彙》(1881)以来,訳語として定着した。
                        茅野 良男
[インドの一元論]  何を万有の根源とするかについてインドでは古くから諸説があったが,ウパニシャッド,とくにウッダーラカ・アールニの有論によって,中性原理ブラフマンがそれであるとする説が主流となった。この説を展開したのがベーダーンタ学派であるが,ブラフマンと万有との関係については種々の異説があった。5世紀前半に完成したとされる《ブラフマ・スートラ》では,ブラフマンは世界の質料因であると同時に,動力因,つまり最高主宰神でもあり,まったく自律的に世界を開展 paril´ma すると説かれている。のちにシャンカラは,ブラフマンが世界を開展するのは無明avidy´ によるのだとし,《ブラフマ・スートラ》のいわば実在論的一元論を,幻影主義的一元論(不二一元論)に置き換えた。しかし,ブラフマン以外に無明を立てることはサーンキヤ学派的二元論に陥ることを意味し,シャンカラ以降,不二一元論派の学匠の間で,無明の位置づけが激しく議論された。⇒多元論∥二元論          宮元 啓一

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一元論
一元論 いちげんろん Monism 哲学において、究極的には世界はただ1つの実在によってできあがっているとする考え方。世界は2つの実在によってできあがっていると考える二元論や、多くのものによってできあがっていると考える多元論と対立する。

一元論には3種類ある。世界にあるものはすべて、精神的な現象もふくめて、物質によってできあがっていると考える唯物論。逆に、物質もなにもかも心がさまざまに形をかえたものだと考える唯心論。さらに物質も心も第3の究極的な存在のたんなる現れにすぎないとする考えの3つである。

このような考え方は、古代ギリシャまでさかのぼることができるが、「一元論」という言葉は、18世紀の哲学者ウォルフが、心身二元論の克服のためにはじめてつかった。

一元論者としては、1つのおおもとの存在からすべての現象がながれだすと考えるプロティノスや、神と自然が同一であり、ただそれだけが存在すると考えるスピノザなどが有名。

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直観
直観
I プロローグ

直観 ちょっかん Intuition 直観は哲学においては、経験からも理性からも独立した、認識の一形態である。直観能力や直観的知識は、一般に心の内的な性質とみなされる。さまざまな哲学者にさまざまな(ときには相反する)意味でつかわれてきたので、個々の著作にあたらなくては、この語を定義することはできない。

直観という概念には、明らかに2つの源泉がある。ひとつは数学で考えられる公理(証明を必要としない自明な命題)であり、もうひとつは神秘的な啓示(知性の力をこえた真理)という考え方である。

II ピタゴラス派

直観はギリシャ哲学、とくに、数学の研究と教育に力をいれたピタゴラスとその学派の哲学者たちの思想で重要な役割をはたした。また、多くのキリスト教哲学でも重視された。人間が神を知る基本的な方法のひとつと考えられたのである。直観に重きをおいた哲学者としては、スピノザ、カント、ベルグソンがあげられる。

III スピノザ

スピノザの哲学においては、直観は認識の最高形態であって、感覚から生じる「経験的」認識と、経験に根ざした推論から生じる「理性的」認識の両方をこえている。直観的知によって、個人は、宇宙を秩序ただしい統一的なものとして理解でき、そうすることで個人の精神は「無限なるもの」(神=自然)の一部になることができるというのである。

IV カント

カントは直観を知覚、つまり「現象」に限定するが、そこには心の働きも関与している。彼は直観を2つの部分にわける。ひとつは知覚される外的対象からくる感覚与件(うたがいようのない感覚)であり、もうひとつは心の内にある知覚の「形式」、つまり感覚与件の受け入れ方である。人間はかならず空間と時間という形式でものを感覚する。この形式だけを感覚与件なしに、あらかじめとらえる直観が、「純粋直観」といわれる。空間と時間という純粋直観に数学はもとづいているとカントは考えた。

V ベルグソン

ベルグソンは、本能と知性を対置し、直観を本能のもっとも純粋な形式とみなす。知性は物質的な事物を考察するのには適しているが、生命や意識の基本的な本性を知るのには適さない。直観とは、生命の本能が直接くもりなく自覚されたものである。直観によって人は、意識に直接あたえられる生命の流れにはいりこみ、概念や記号によっては表現しえないものと合一することができる。

これに対して知性は、分析することしかできないが、分析とは、絶対的な物や独自な物をとらえるよりも、むしろ対象のもつ相対的な側面に光をあてるものなのである。真に実在する絶対的な物は直観によってのみ理解されうるとベルグソンは考えたのである。

VI 直観主義者たち

倫理学者の中にも、直観主義者あるいは直覚主義者といわれる人たちがいる。彼らは、道徳的価値(善悪)は直観によって直接知られると考え、道徳的価値が経験から生じると考える経験主義者とも、理性によってきまると考える合理主義者とも対立する。


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カント
カント,I.
I プロローグ

カント Immanuel Kant 1724~1804 ドイツ啓蒙期の哲学者。ケーニヒスベルク(現ロシアのカリーニングラード)に生まれ、終生この地にとどまった。9年余りの家庭教師生活ののち、1755年にケーニヒスベルク大学の私講師、70年に同大学の論理学および形而上学正教授となる。81年、「純粋理性批判」によって、合理主義と経験主義を総合した超越論主義を主張。つづいて、88年「実践理性批判」、90年「判断力批判」を発表し、みずからの批判哲学を完成した。

II 純粋理性批判

カントの批判哲学の根幹をなすのは「純粋理性批判」であり、その目標は人間の認識能力をみきわめることにあった。その結果明らかにされたのは、人間の認識能力は、世界の事物をただ受動的にうつしとるだけではなく、むしろ世界に能動的にはたらきかけて、その認識の対象をみずからつくりあげるということである。

つくるとはいっても、神のように世界を無からつくりあげるわけではない。世界はなんらかのかたちですでにそこにあり、認識が成立するには、感覚をとおしてえられるこの世界からの情報が材料として必要である。しかし、この情報はそのままでは無秩序な混乱したものでしかない。人間の認識能力は、自分に本来そなわる一定の形式をとおして、この混乱した感覚の情報に整然とした秩序をあたえ、それによってはじめて統一した認識の対象をまとめあげるのでなければならない。

カントによれば、人間にそなわるその形式とは、直観の形式(空間と時間)と思考の形式(たとえば、単一か多数かといった分量の概念や、因果性のような関係の概念など)である。そうだとすれば、「すべての物は時間と空間のうちにある」とか「すべては因果関係にしたがう」という命題は経験的には証明できないにもかかわらず、すべての経験の対象に無条件にあてはまることになる。というのも、空間や時間や、因果関係といった形式によってはじめてその対象が構成されるからである。それはたとえば、すべての人間が緑のサングラスをかけて世界をみた場合、「世界は緑である」という発言がすべての人間にとって正しい発言とみなされるのに似ている。

この理論によって、カントは近代自然科学の世界観を基礎づけることに成功する。しかしその代わりに、人間が知りうるのはこうした形式をとおしてみられた世界、つまり現象の世界だけであり、世界そのもの、つまり物自体の世界は不可知だということになる。また、これらの形式は、経験される現象世界についての判断にもちいられるものであるから、その範囲をこえて「自由」や「存在」といった抽象概念に適用することはできない。無理に適用すると、たがいに対立する主張が同時に真だと証明されてしまうこまった事態が生じるとカントはいい、この事態をアンチノミー(二律背反)とよんだ。

III 倫理学と美学

カントは理論理性につづいて、「実践理性批判」で実践理性を分析し、「人倫の形而上学」(1797)においてみずからの倫理学体系を確立する。彼の倫理学は、理性こそが道徳の最終的な権威だという信念にもとづいている。どのような行為も、理性によって命じられた義務の意識をもっておこなわれなければならない。理性による命令には2種類がある。「幸福になりたければこのように行為すべし」というふうに、ある目的のための手段として行為を命じる仮言的命令と、無条件に「このように行為すべし」というふうに、人間一般につねにあてはまる定言的命令である。カントによれば、定言的命令こそが道徳の基礎である。カントは、さらに「判断力批判」において、美学と有機的自然(物理的、無機的自然とはちがう生物の世界)をあつかい、彼の批判哲学を完成することになる。

IV その他の著作

カントの著書には上にあげたほかに、批判哲学以前のものとして、「天界の一般自然史と理論」(1755)などがあり、批判哲学以後のものとして、「プロレゴメナ」(1783)、「自然科学の形而上学的原理」(1786)、「たんなる理性の限界内における宗教」(1793)、「永久平和のために」(1795)などがある。

V カント哲学の影響

カントはもっとも影響力の大きかった近代思想家である。彼の弟子であるフィヒテ、それにつづいたシェリングとヘーゲルは、カントの現象と物自体の対立を否定して、ドイツ観念論という独自の観念論哲学を展開していく。また、ヘーゲルとマルクスが駆使した弁証法は、カントがもちいたアンチノミーによる論証法を発展させたものである。ケーニヒスベルク大学におけるカントの後継者のひとりであるヘルバルトは、カントのいくつかの観念をみずからの教育学の体系にくみいれた。


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合理主義
合理主義
合理主義 ごうりしゅぎ Rationalism 知識の獲得において理性(ラテン語でratio)を重んじる哲学の思想体系。これと対照的な思想が、経験とくに感覚知覚に重点をおく経験主義である。

合理主義は、ほぼどの時代の西洋哲学にもあらわれるが、とくに17世紀のフランスの哲学者で数学者でもあったデカルト以来、ひとつの伝統的思想になった。幾何学をすべての科学と哲学のモデルとしたデカルトは、普遍的で明白な真理は理性によってのみ発見され、この真理から哲学と科学がみちびかれると主張する。そして、人はこのような明白な真理の認識を生まれつきもっていて、経験からえることはない、と考える。合理主義は、オランダの哲学者スピノザやドイツの哲学者で数学者のライプニッツなどによってさらに展開された。

近代合理主義の特徴は、一方で主観性の自覚を確立したこと、他方で、客観的自然から合目的性をとりのぞいて作用性だけに注目したことである。ロックやヒュームに代表されるイギリス経験論は、観念はすべて経験から生まれると考え、合理主義を批判した。

認識に関する合理主義は、関連する分野にも影響をあたえた。倫理学の分野では、人間は生まれつき根本的な道徳観念をもっているのだから、基本的な道徳原理は理性能力にとって自明であると考えられるようになった。宗教哲学の分野では、宗教の根本原理はだれにとっても自明なのであるから啓示は必要ないとみなされることになる。そして19世紀末以降、合理主義は反宗教的な役割をはたすようになった。

→ 理神論


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経験主義
経験主義
経験主義 けいけんしゅぎ Empiricism すべての知識の起源を経験において、生来の観念の存在を否定する説。おもに17~19世紀のイギリスで主流であった思想をさす。

はじめて経験主義を体系化したのはロックである。しかしロックの独創的な見解のいくつかは、すでにイギリスの哲学者ベーコンにあらわれていた。ロックの思想は、イギリスのバークリー、ヒュームによって展開され、イギリス経験論が形成される。さらに、ロックの著作はコンディヤックやディドロのようなフランスの啓蒙思想家にも影響をあたえた。

経験主義に対立する哲学思想は合理主義である。合理主義者たちは、理性、つまり経験とは別に本来人間にそなわっている能力によって、現実が知られると考える。合理主義は、フランスの哲学者デカルト、オランダの哲学者スピノザ、17~18世紀のドイツの哲学者ライプニッツとウォルフといった思想家によって主張された。ドイツの哲学者カントは、経験主義と合理主義を和解させようとした。彼は、知識を経験の領域に制限することで経験主義をみとめている。しかし、心には感覚印象をうけいれる能力が生まれつきそなわっていると主張した点で、合理主義に同意している。

近年になって経験主義という言葉はもっとひろい意味でつかわれるようになった。現在では経験をあつかうすべての哲学体系が経験主義とよばれている。アメリカではジェームズが自身の哲学を「根本的経験論」とよび、デューイは自分の経験に対する考え方を「直接経験主義」とよんでいる。

→ 西洋哲学


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ドイツ観念論
観念論
I プロローグ

観念論 かんねんろん Idealism 広義には、意識や精神的なものを原理とする哲学上の説をいうが、さまざまな立場がふくまれる。形而上学においては、精神を真の存在とする唯心論の立場を意味し、精神も物質的な要素や過程に還元できるとする唯物論に対立する。しかし、観念論は本来、外界の事物は精神の観念にすぎないとする認識論上の立場であり、この場合には実在論に対立する。実在論は精神から独立した実在を主張するため、実在の本当のあり方は認識できないという懐疑主義におちいりがちである。観念論はこうした懐疑主義に対しては、実在の本質は精神であり、したがって実在は精神によってのみ認識されると主張する。

また観念論は、理想の追求や理念の実現をめざす生活態度をもさし、この場合は理想主義の意味になる。

II プラトン

観念論idealismという用語は、プラトンの「イデアidea」に由来する。イデアとは、知性によってのみとらえられうる超感覚的で普遍的なものである。つねに変化する個々の感覚的なものは、自らの理想的原型であるこのイデアのおかげで存在しうるし、認識しうると、プラトンは主張した。

III バークリーとカント

近代になって、このプラトンのイデアが意識の表象とか観念と解されるようになると、主観的観念論が成立する。その代表者は、18世紀アイルランドの哲学者バークリーである。彼によれば、あるということは知覚されるということであり、心は知覚の束である。そして外界の対象の真の観念は、神によって直接人間の心のうちにひきおこされるのである。

これに対して、ドイツの哲学者カントは、認識の材料を外界にもとめる点では経験的実在論をとるが、この材料をまとめあげ、認識を可能にする条件を、人間の直観と悟性の形式にもとめる点では観念論を主張する。彼によれば、人間が知りうるのは、物が現象する仕方だけであり、物それ自体がどのようなものかは知りえない。彼の観念論は、超越論的観念論とよばれる。

IV ヘーゲル

19世紀ドイツの哲学者ヘーゲルは、物自体は認識できないとするカントの見解を批判して、絶対的観念論を展開する。絶対的観念論は、すべての物の実体は精神であり、すべては精神によって絶対的に認識されうると主張する。ヘーゲルはまた、人間精神の最高の成果といえる文化、科学、宗教、国家などが、自由で反省的な知性の弁証法的な活動を通じて生みだされてゆく過程を再構成してみせた。

カントにはじまり、フィヒテ、シェリングをへてヘーゲルにいたる観念論は総称してドイツ観念論とよばれる。また、こうした観念論思想の流れは、19世紀イギリスのブラッドリー、19世紀アメリカのパースやロイス、20世紀イタリアのクローチェなどにもみいだされる。

→ 西洋哲学


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ドイツ観念論
ドイツかんねんろん deutscher Idealismus[ドイツ]

〈理想が現実を支配する〉という考え方に焦点を合わせて,ドイツ理想主義とも訳される。カント以後,19世紀半ばまでのドイツ哲学の主流となった思想。フィヒテ,シェリング,ヘーゲルによって代表される。彼らはカントの思想における感性界と英知界,自然と自由,実在と観念の二元論を,自我を中心とする一元論に統一して,一種の形而上学的な体系を樹立しようとした。ドイツ観念論の中心的主張は自我中心主義にあり,フィヒテがこの傾向を一貫して保持したのに対して,シェリングは神と自然へと,ヘーゲルは国家と歴史へと自我の存立の場を拡張し,前者はショーペンハウアーの非合理主義に,後者はマルクスの社会主義に大きな影響を与えた。
 デカルト以後,西欧近代哲学は全体として自我中心主義の性格を持つが,ドイツ観念論は,自我に何らかの意味で実在の根拠という性格を見いだし,自我を中心として観念性と実在性との統一を企てる。フィヒテによれば〈すべてのものは,その観念性については自我に依存し,実在性にかんしては自我そのものが依存的である。しかし,自我にとって,観念的であることなしに実在的なものは何もない。観念根拠と実在根拠とは自我において同一である〉。実在性と観念性との相互関係の場を見込んでいる点では観念論も唯物論(実在論)も同様であるが,両者の統一を観念性の側に意識的に設定するのが観念論の立場である。フィヒテは,人間の自由が可能であるためには,観念論の立場をあえて選ぶべきだと考えた。また自我が何らかの意味で実在性の根拠になる以上,自我の能動面である悟性が,実在性の受動面である感性とひとつになる場面が自我自身の内にあると考え,それを〈知的直観〉(直観的悟性)と呼んでいる。カントは,本来,能動的である悟性が,実在に関与する感性とひとつになるならば,それは主観が実在を創造するのと同じことになると考えて,〈知的直観〉を神の知性に特有のものとみなした。知的直観の有無に神と人間との,絶対者と有限者との区別を置いたのである。この両者が〈あらゆる媒介なしに根源的にひとつである〉(シェリング)とみなす立場は,神と人との区別を否定するという危険をはらむ。フィヒテやシェリングは,観念論の立場を前提としながらも,神の人間化を避けようとして,神秘主義の傾向に走った。
 ヘーゲルは,〈絶対的なもの〉が人間知の到達できない〈彼岸〉にあるという考え方をきびしく退けた。哲学は人間知の〈絶対性〉にまで達成しなければならない。すなわち,感覚から始まる人間知の歩みは〈絶対知〉にまで到達しなければならないと考えた。宗教は,まだ絶対知ではない。宗教の最高段階であるキリスト教は,人間知の絶対性を内容としながらも,神人一体の理念をイエスという神格に彼岸化し,その内容を表象化している。この彼岸性,表象性,対象性を克服したところに〈絶対知〉がなりたつ。ヘーゲル自身は,宗教と哲学とは同一内容の異なった形式であると主張して,無神論者という自分に対する疑いを晴らそうとした。しかし,ヘーゲル左派は,ヘーゲル哲学の本質が神の彼岸性を否定する点にあると解して,〈神学の秘密が人間学にある〉(L. A. フォイエルバハ)と説いた。ドイツ観念論は,神秘主義と唯物論との対立という結果を招いたのである。
 カント的な二元性を〈ただひとつの原理〉から導くことによって,克服すべきだという主張を掲げたのは,ラインホルト Karl Leonhard Reinhold(1758‐1823)である。彼は〈意識そのものには,対象との区別の側面と,対象との関係の契機が含まれる〉という〈意識律〉を第一原理とし,意識そのものに,実在性(対象との関係)と観念性(対象との区別)という契機を含みこませた。フィヒテは,同じく自我そのものに両契機を設定するに際して,ラインホルトのように〈意識の事実〉(表象の事実)に拠ることは誤りだと考えた。〈事実は何ら第一の無制約的な出発点ではない。意識の中には事実よりも根源的なものがある。すなわち,事行 Tathandlung である〉。実践的・能動的な自我に事実以上の根源性を見いだすことからフィヒテは出発した。そして A=A と同じ真理性をもち,なおかつより根源的なものとして〈我=我〉を導き出す。ここから彼は自我の内に非我もまた定立されることを独特の論理で展開する。〈絶対我は,我と非我とを内に含み,しかもこれを超越するところのものである〉。A=A(同一律)は,たんに言葉の使用規則ではなく,あらゆる事物が感性の多様性に解体されることなく自己同一性(単一性)を保つ根拠として考えられていた。もし同一性の根拠が,我=我(見る我と見られる我の同一)にあるとしたら,物の存在そのものに,見る―見られる(主―客)の同一性という,〈対立するものの同一性〉という構造があることになる。ここからヘーゲルは弁証法論理を樹立するにいたる。
 ドイツ観念論の時代的背景には,英仏における近代化に〈おくれたドイツ〉という事情がある。それゆえかえって近代主義が内面化・観念化されて,哲学の内に体系化される。後進性の特徴として,宗教批判が無神論に達することなく汎神論となり(スピノザ主義の受容),個我の解放が個人主義とならずに能動的自我の絶対化となり,近代社会の現実的確立ではなく理念化された法哲学の確立(フィヒテ,ヘーゲル)となる。他方,観念化された先進性のあらわれとして,主客二元論の構図が打破され,唯物論,現象学を生み出し,自我中心主義はロマン主義と結びついて神秘主義,実存主義の下地となり,理念化された国家共同体論は社会主義に影響を及ぼした。なお,イギリス経験論のドイツ観念論への影響は,ラインホルトにみられるようにカント哲学の心理主義的解釈となって現れ,自我の能動性を絶対化する方向で〈カントの限界〉を克服することが,経験論の克服になると考えられた。経験論との根本的な対立点は,存在者一般の同一性の根拠として,ドイツ観念論が能動的自我の同一性を原理とした点にある。自我論における対立は現代哲学にも及び,観念論・実存主義・現代存在論と,経験論・唯物論・精神分析学との間に,顕在的にせよ潜在的にせよ,さまざまの論点の違いを生み出している。⇒イギリス経験論                      加藤 尚武

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イギリス経験論
イギリス経験論
イギリスけいけんろん British empiricism

多くの場合,大陸合理論と呼ばれる思想潮流との対照において用いられる哲学史上の用語。通常は,とくにロック,G. バークリー,D. ヒュームの3人によって展開されたイギリス哲学の主流的傾向をさすものと理解されている。通説としてのイギリス経験論のこうした系譜を初めて定式化したのは,いわゆる常識哲学の主導者 T. リードの《コモン・センスの諸原理に基づく人間精神の探究》(1764)とされているが,それを,近代哲学史の基本的な構図の中に定着させたのは,19世紀後半以降のドイツの哲学史家,とりわけ新カント学派に属する哲学史家たちであった。とくに認識論的な関心からカント以前の近代哲学の整理を試みた彼らの手によって,ロック,バークリー,ヒュームと続くイギリス経験論の系譜は,デカルト,スピノザ,ライプニッツ,C. ウォルフらに代表される大陸合理論の系譜と競合しつつ,やがてカントの批判哲学のうちに止揚された認識論上の遺産として,固有の思想史的位置を与えられたからである。その場合,例えば,ロックの認識論がカント自身によって批判哲学の先駆として高い評価を与えられた事実や,ヒュームの懐疑論がカントの〈独断のまどろみ〉を破ったと伝えられるエピソードは,そうした通説にかっこうの論拠を提供するものであった。
 確かに,イギリス経験論の代表者をロック,バークリー,ヒュームに限りつつ,それを,大陸合理論との対照において,あるいはカント哲学の前史としてとくに認識論的観点から評価しようとする通説は,次の2点でなお無視しえない意味をもっている。第1点は,ロックからバークリーを経てヒュームに至るイギリス哲学の系譜を,感覚的経験を素材として知識を築き上げる人間の認識能力の批判,端的に認識論の発展史と解することが決して不可能ではないことである。ロックの哲学上の主著が《人間知性論》であるのに対して,バークリーのそれが《人知原理論》と名付けられており,ヒュームの主著《人間本性論》の第1編が知性の考察にあてられている事実は,バークリーとヒュームとの思索が,ロックによって設定された認識論的な問題枠組の中で展開された経緯をうかがわせるであろう。そこにまた,先述のリードが,ロック,バークリー,ヒュームを懐疑論の発展史的系譜の中に位置づけた主要な理由もあったのである。
 従来の通説がもつ第2の意義は,それが,大陸合理論とイギリス経験論との対比,カント哲学によるそれら両者の統合という図式を提示することによって,錯綜した近代哲学史の動向を描き分けるのに有効な一つのパースペクティブを確立したことである。思想の歴史を記述する場合,個々の思想家を一定の歴史的構図の中に配置して時系列における相互の位置関係を確定する作業が,いわば方法的に不可欠であると言えるからである。
[経験的世界の解明]  けれども,ウィンデルバントの言う〈近代哲学の認識論的性格〉を極度に強調しつつ,イギリス経験論の系譜を認識論の発展史と解してきた従来の傾向は,イギリス経験論の成果をあまりにも一面的にとらえすぎていると言わなければならない。例えば,イギリス経験論の確立者と評されるロックの思想が,人間の経験にかかわるきわめて多様な領域を覆っている点に象徴されているように,イギリス経験論がその全行程を通して推し進めたのは,単に狭義の認識論の理論的精緻化ではなく,むしろ,人間が営む経験的世界総体の成り立ちやしくみを見通そうとする包括的な作業であったと考えられるからである。しかも,このように,イギリス経験論を,人間の経験とその自覚化とにかかわる多様な問題を解こうとした一連の思想の系譜ととらえる場合,そこには,その系譜の始点から終点へのサイクルを示す思想の一貫した動向を認めることができる。端的に,人間と自然との交渉のうちに成り立つ自然的経験世界の定立から,人間の間主観的相互性を通して再生産される社会的経験世界の発見に至る経験概念の不断の拡大傾向がそれである。こうした動向に注目するかぎり,イギリス経験論の歴史的サイクルは,通説よりもはるかに長く,むしろ F. ベーコンによって始められ,A. スミスによって閉じられたと解するほうがより適切であると言ってよい。その経緯はほぼ次のように点描することができる。
 周知のように,〈自然の奴隷〉としての人間が,観察と経験とに基づく〈自然の解明すなわちノウム・オルガヌム〉を通して〈自然の支配者〉へと反転する過程と方法とを描いたのは,〈諸学の大革新〉の唱導者ベーコンである。力としての知性をもって自然と対峙する人間精神の自立性を確認し,自然的経験世界における人間の主体的な自己意識を確立したベーコンのこの視点は,イギリス経験論に以後の展開の基本方向を与えるものであった。その後のイギリス経験論は,自然的経験世界に解消されえない経験領域の存在と,その世界を認識し構成する人間の能力との探究を促された点で,明らかにベーコンの問題枠組を引き継いでいるからである。その問題に対する最初の応答者は,ホッブズとロックとであった。彼らは,ともに,国家=政治社会を人間の作為とし,人間の秩序形成能力を感性と理性との共働作用のうちに跡づけることによって,自然的経験領域とは範疇的に異なる人間の社会的経験世界のメカニズム,その存立構造を徹底的に自覚化しようとしたからである。けれども,彼らが理論化してみせた社会的経験世界は,たとえ人間の行動の束=状態として把握されていたとしても,なお,現存の社会関係に対置された als ob,すなわち〈あたかもそうであるかのごとき〉世界として,現実の経験世界それ自体ではありえなかった。彼らが,人間の行為規範として期待した自然法は,あくまでも理性の戒律として,現実の人間を動かす経験的な行動格率には一致せず,また,彼らが人間の行動原理として見いだした自己保存への感性的欲求は,どこまでも単なる事実を超えた自然権として規範化されていたからである。
 〈道徳哲学としての自然法〉に支えられた規範的な経験世界を描くにとどまったホッブズとロックとに対して,人間の主観的な行動の無限の交錯=現実の社会的経験世界のメカニズムを見通す哲学的パラダイムを提示したのがバークリーであり,ヒュームであった。バークリーが,〈存在とは知覚されたものである〉とする徹底した主観的観念論によって,逆に他者の存在を知覚する主観相互の〈関係〉を示唆したのをうけて,ヒュームは,人間性の観察に基づく連合理論によって,個別的な主観的観念をもち,個別的な感性的欲求に従って生きる人間が,しかも,全体として,究極的な道徳原理=〈社会的な有用性〉〈共通の利益と効用〉に規制されて間主観的な関係を織り成している経験的,慣習的な現実への通路を見いだしたからである。もとよりこれは,道徳哲学を,超越的規範の学から人間を現実に動かす道徳感覚の理論へと大胆に転換させたヒュームにおいて,権力関係を含む国家とは区別される社会,すなわち,個別的な欲求主体の間に成り立つ間主観的な関係概念としての社会が発見され,その経験的認識への途が準備されたことを意味するであろう。
 ヒュームのそうした視点をうけて,〈道徳感情moral sentiment〉に支えられた人間の間主観的相互性を原理とし動因として成り立つ社会のメカニズム,その運動法則を徹底的に自覚化したのが言うまでもなくスミスであった。彼は,有名な〈想像上の立場の交換〉に基づく〈同感 sympathy〉の理論によって,主観的な欲求に支配され,個別的な利益を追求する経験主体の行動の無限の連鎖=社会が,しかも調和をもって自律的に運動し再生産されていく動態的なメカニズム,すなわち社会の自然史的過程を解剖することに成功したからである。もとよりこれは,ベーコン以来,人間が営む経験的世界総体の自覚化作業を推し進めてきたイギリス経験論が,現実の経験世界への社会科学的視点を確立したスミスによってその歴史的サイクルを閉じられたことを意味するものにほかならない。しかも,人間の経験的世界は,それが,どこまでも経験主体としての人間によって構成される世界であるかぎり,必ず歴史的個体性を帯びている。したがって,そうした経験的世界の構造を一貫して見通そうとしてきたイギリス経験論は,実は,イギリスの近代史がたどってきた歴史的現実それ自体の理論的自覚化として,明らかに,固有の歴史性とナショナリティとをもったイギリスの〈国民哲学〉にほかならなかった。その意味において,イギリス経験論の創始者ベーコンが,イギリス哲学史上初めて母国語で《学問の進歩》を書き,また,その掉尾を飾るスミスの主著が《国富論(諸国民の富)》と題されていたのは,けっして単なる偶然ではなかったのである。        加藤 節

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バークリー
バークリー,G.
バークリー George Berkeley 1685~1753 アイルランドの哲学者、牧師。近代観念論の創始者のひとり。物質は精神から独立に存在しえないと主張した。いっぽう、感覚現象は、人間の精神につねに知覚をよびおこす神の存在を前提とするとも考えた。

アイルランドのキルケニに生まれ、ダブリンのトリニティ・カレッジにまなび、1707年このカレッジの特別研究員となった。1710年、「人知原理論」を出版。その理論があまり理解されなかったために、その通俗版である「ハイラスとフィロナスの3つの対話」(1713)を出版したが、この両著作における彼の哲学的主張は、生前にはほとんど評価されなかった。しかし、24年デリー大聖堂首席牧師に任じられ、聖職者としてはますます有名になっていった。

1728年に渡米し、バミューダ島にアメリカのわかい植民者と先住民族の人々を教育するための大学を建設しようとした。この計画は32年に放棄されたが、バークリーはアメリカの高等教育の向上につとめ、エール、コロンビアその他の大学の発展に貢献した。34年、クロインの司教となり、引退するまでこの地位にとどまった。

バークリーの哲学は、懐疑主義と無神論に対する回答である。彼によれば、懐疑主義は経験ないし感覚が事物から切りはなされるときに生じる。そうなれば、観念を介して事物を知る方法はなくなるからである。この分離を克服するには、存在するとは知覚されることである、ということがみとめられねばならない。知覚されるものはすべて現実のものであり、知覚されるものだけが、その存在を知られうる。事物は観念として心の中に存在する。

しかし他方、バークリーは、事物は人間の心と知覚から独立に存在するとも主張する。というのも、われわれは自分がもつ観念を自由に変更することはできないからである。この矛盾を解決するために、彼は神のような無限に包括的な精神を要請し、この神の知覚があらゆる感覚的事実を構成すると考える。

バークリーの哲学体系は、物質的外界の認識の可能性をみとめない。彼の哲学体系そのものはほとんど後継者をもたなかったが、独立した外界と物質の概念を主張する根拠に対するその批判には説得力があり、その後の哲学者に影響をあたえた。上記以外の著書に、「視覚新論」(1709)、「サイリス」(1744)などがある。


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バークリー 1685‐1753
George Berkeley

イギリスの哲学者。ロック,D. ヒュームらとともにイギリス経験論の伝統に連なる。アイルランドの生れで,一生アイルランドとの縁が深かったが,彼の家系はイングランドの名門貴族につながり,信仰の面でもきわめて敬虔な国教徒であった。ダブリンのトリニティ・カレッジで助祭に任命されて以来,聖職を離れたことがなく,30歳代には新大陸での布教を志し,バミューダ島に伝道者養成の大学を建設するため奔走した。政府の援助が続かず計画は挫折したが,1734年にはアイルランドのクロインの司教に任ぜられ,教区の住民に対する布教,救貧,医療に力を尽くした。哲学の著作としては20歳代半ばに発表した《視覚新論》(1709)と《人知原理論》(1710)がとくにすぐれている。しかしこの2著で展開された非物質論の哲学にしても,近代科学の〈物質〉信仰を無神論と不信仰の源とみなし,これに徹底的な批判を加えたもので,背後には護教者の精神が一貫して流れている。
 そのころバークリーが熱心に研究したのはマールブランシュとロックの哲学であるが,いずれに対しても自主独立の態度を持し,むしろふたりの学説を批判的に克服することで独自の立場を築いている。《視覚新論》では当時学界の論題であった視覚に関する光学的・心理学的な諸問題に独創的な解釈を施しつつ,非物質論の一部を提示している。彼によれば視覚の対象は触覚の対象とはまったく別個で,色や形の二次元的な広がりにすぎず,外的な事物と知覚者の間の距離は視覚によっては直接に知覚できない。対象のリアルな大きさ,形,配置なども同様である。われわれが視覚でこれらを知るのは,過去の経験を通じて両種の観念の間に習慣的連合(観念連合)が成立しているからで,デカルトやマールブランシュが説くように幾何学的・理性的な判断の働きによるのではない。全体として,数学的・自然科学的な概念構成の世界から日常的な知覚の経験に立ち返り,その次元で存在の意味を問いなおそう,というのがこの書の基本精神である。一方,《人知原理論》では,視覚対象は〈心の中〉に存在するにすぎないという前著の主張が知覚対象の全体に広げられ,〈存在するとは知覚されること(エッセ・エスト・ペルキピ esse est percipi)〉という命題が非物質論の根本原理として確立される。何ものも〈心の外〉には,すなわち知覚を離れては存在しないとすれば,もはや〈物質的実体〉の存在を認める余地はない,というのである。《人知原理論》は現象主義的な認識論の古典とみなされているが,バークリー自身の哲学は〈観念すなわち実在〉の主張で終わるものではなかった。むしろ観念とはまったく別個な,あらゆる観念の存在を支える〈精神的実体〉こそ真実在である,というところにその眼目がある。バークリーにとって,世界は究極的には神の知覚にほかならない。          黒田 亘

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懐疑主義
懐疑主義
I プロローグ

懐疑主義 かいぎしゅぎ Skepticism 人間の主観的知覚からはなれた、あるがままの事物を知ることはできないとする哲学の考え方。語源はギリシャ語のskeptesthai(吟味する)。もっと一般的な用法では、ひろく真であると信じられていることをうたがう態度をさす。懐疑主義は人間の認識の範囲と程度を問題にするので、つまるところは認識論になる。→ 認識論

II 古代ギリシャの懐疑主義

紀元前5世紀にギリシャで活躍したソフィストは、ほとんど懐疑主義者である。彼らの考えを表現している言葉に、「何も存在しない、もし存在するとしても、それを知ることはできない」や「人間は万物の尺度である」といったものがある。たとえばゴルギアスは、事物についてかたられることはすべて偽りであり、かりに真だとしても、それが真であることは証明できないといった。あるいはプロタゴラスは、人間が知りうるのは事物について各自が知覚したことだけであって、事物そのものではないと説いた。

懐疑主義をはじめて明確に定式化したのは、ギリシャ哲学の学派ピュロン派の人たちである。創設者のピュロンは、人間は事物の本性をまったく知ることができないのだから、判断を保留すべきだといった。ピュロンの弟子ティモンは、いかなる哲学上の主張に関しても同じ説得力をもった賛否両論をあげることができると主張した。

プラトンが創設したアカデメイアは、前3世紀ごろから懐疑主義にかたむいた。アカデメイア派はピュロン派よりも体系的であるが、いくらか徹底性にかけるところがある。たとえばカルネアデスは、どの意見も絶対的に真ではありえないと主張した。しかし、もしそうなら、何がよくて何がわるいのかを判断できないのだから、人間は行為できなくなるのではないか。この反論に直面してカルネアデスは、ある意見が他の意見よりも信頼できる(蓋然的である)ことはありうるとみとめてしまった。この不徹底さに不満をおぼえたアイネシデモスはピュロン派を復興させ、懐疑主義の立場をかためる10カ条の方式を整備した。古代末期のセクストス・ホ・エンペイリコスは、古代の懐疑主義を集大成した「ピュロン哲学の概要」などの著作をのこした。

III 近代の懐疑主義

セクストスの書物は、ルネサンス期に再発見された。16世紀のモンテーニュは、セクストスにならって人間の理性は無力だと説き、理性よりもキリスト教の信仰にしたがうようすすめた。17世紀にデカルトが懐疑主義を克服しようとこころみたにもかかわらず、懐疑主義はいっこうにおとろえなかった。

18世紀になると、近代懐疑主義のもっとも重要な代表者ヒュームがあらわれた。彼は、外界、因果結合、未来の出来事について、われわれが信じていることは真ではないかもしれないし、魂や神は存在するのかといった形而上学的問題も解決できないと考えた。同じ18世紀にカントは、ヒュームの懐疑主義を克服しようとこころみた。しかし彼もやはり、あるがままの事物(物自体)を知ることはできないとみとめざるをえなかった。

19世紀にヘーゲルが合理主義の体系の中に懐疑主義をくみいれようとしたが、19世紀終わりから20世紀初めにかけて彼の合理主義が崩壊するとともに、ニーチェやサンタヤーナのように、懐疑主義にかたむく哲学者たちがあらわれた。懐疑主義的な考えは、プラグマティズム、分析哲学と言語哲学そして実存主義といった、他の現代哲学の中にもみうけられる。

→ 経験主義:形而上学:西洋哲学:合理主義


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懐疑論
かいぎろん

〈検討〉を意味するギリシア語 skepsis に由来する西洋哲学用語(英語では skepticism)の訳として用いられる語。人間的認識の主観性と相対性を強調して,人間にとって普遍的な真理を確実にとらえることは不可能だとする思想上の立場。独断論 dogmatism に対する。広義にはあらゆる普遍妥当的な真理の認識可能性を否定する立場を指すが,狭義には特定の領域,例えば宗教や道徳において確実な真理に到達する可能性を否定する立場を指すのにも用いられる。このような立場は,一方では人間の思考や認識に対する否定的な態度さらにはニヒリズムにつながるが,他方では断定的な判断を避け,経験と生とを導きの糸として探究を続行しようとする実証主義的態度にもつながる。また懐疑論はつきつめていけば論理的矛盾に陥る――〈真理の認識は不可能である〉という断定は真理に関する一つの絶対的判断である――ので純粋な形では主張することができないが,それほど徹底しない場合でもそれ自身のために主張されるよりは,従来の見解を打倒するための武器あるいは疑うことのできない真理を発見するための手段(デカルトの方法的懐疑はその典型)として用いられることが多い。
 西洋哲学史上,懐疑論がとくに問題になるのは古代と近世初期である。古代の懐疑派は通常三つの時期に区別される。初期にはピュロン(その名に由来するピュロニズムは懐疑論の別名となった)とその弟子ティモン Timヾn がおり,彼らは何事についても確実な判断を下すのは不可能であるから,心の平静(アタラクシア)を得るためには判断の留保(エポケー)を実践すべきことを説いた。中期はプラトンゆかりの学園アカデメイアの学頭であったアルケシラオス Arkesilaos とカルネアデス Karnead^s に代表される。彼らはストア主義を独断論として攻撃し,とくに後者は蓋然的知識で満足すべきことを説いた(アカデメイア派ないし新アカデメイア派の語も懐疑論者の代名詞として用いられることがある)。後期にはアイネシデモスやセクストス・ホ・エンペイリコス等が属するが,前者は感覚的認識の相対性と無力さを示す10の根拠を提示したことで知られ,後者は経験を重んずる医者として諸学の根拠の薄弱さを攻撃し,またその著書はギリシア懐疑論研究の主要な資料となっている。近世においては,ルネサンスの豊かな思想的混乱の中で懐疑思想も復活し,伝統的な思想や信仰を批判する立場からも,逆にそれを擁護する立場からもさまざまなニュアンスの懐疑論が主張されたが,その中でもモンテーニュのそれはたんに否定的なものにとどまらず生を享受する術となっている点で,またパスカルのそれはキリスト教擁護の武器として展開されているにもかかわらず作者の意図を越えて人間精神の否定性の深淵を垣間見させてくれる点でそれぞれ注目に値する。なお D. ヒュームはしばしば懐疑論者のうちに数えられ,彼に刺激を受けたカントについても懐疑論との関係で論じられることもある。⇒不可知論                     塩川 徹也

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認識論
認識論
I プロローグ

認識論 にんしきろん Epistemology 知識についての哲学的問題をあつかう哲学の一分野。知識の定義・起源・基準・種類・度合いや、知る人と知られる物との関係などを研究する。

II ギリシャと中世の問題

前5世紀のギリシャのソフィストたちは、確かで客観的な知識の可能性をうたがった。代表的なソフィストのひとりゴルギアスは、何物も存在しない、たとえ存在したとしても知りえない、知りえたとしてもつたえることはできないと論じた。プロタゴラスは、判断はそれぞれの人間によってきまるのであり、共通の基準などありえないといった。

ソクラテスとその弟子プラトンは、これらの考えに対して、イデアという、感覚をこえたかわることのない世界を想定した。その世界が、われわれに確かで客観的な知識をあたえるのであり、みたりさわったりできるものはその世界のコピーにすぎないと彼らはいう。したがって本当の知識をえるためには、イデアについての学問である数学と哲学をまなぶ必要があり、感覚にたよっていてはあいまいでいい加減な知識しかえられない。このイデアの世界について哲学的に探究することが、人間の使命だと彼らは考えた。

アリストテレスの考えは、イデアについての知識が最高の知識であるという点では、プラトンと同じだが、その知識にいたる方法はちがっている。アリストテレスによれば、ほとんどすべての知識は、経験によってえられる。その際必要なのは、注意深い観察と、アリストテレスによってはじめて体系化された論理学の規則の厳密な適用である。

ストア学派とエピクロス学派は、知識が感覚から生まれるという点ではアリストテレスと一致するが、哲学が人生の目的ではなく、実践的な導きであると考える点で、アリストテレスやプラトンと意見がことなる。

中世では、スコラ学のトマス・アクィナスなどの哲学者が、合理的な方法と信仰をむすびつけた。トマスは、感覚から出発し論理学によって確かな知識をえるという点で、アリストテレスの考えをうけついだ。

III 理性と感覚

17~19世紀の認識論の問題は、知識を獲得するのは理性によってなのか感覚によってなのかというものであった(→ 合理主義:経験主義)。理性によってであるというデカルトやスピノザやライプニッツは、知識は自明な原理や公理から演繹的に推論することによってえられると考えた。いっぽう、ベーコンやロックは、知識の源泉とその吟味は感覚、つまり経験によるものと考えた。

1 イギリス経験論

ベーコンは中世的な伝統を批判し、個別的な事実の観察、実験から一般法則をみちびく帰納法をはじめとする近代科学の方法を確立した。ロックは、知識は自明な諸原理から獲得されると考える合理主義者たちに対して、すべての知識は経験からえられるのであり、感覚によって外の世界の知識をえ、反省によって心の内部の知識をえると主張した。したがって、錯覚があるかぎり、外の世界についての人間の知識はけっして確実なものとはならない。

バークリーは、感覚によってのみ事物を知ることができると考え、「存在するとは知覚されることである」といった。ヒュームは、数学や論理学における、確実ではあるが世界についてはなにもいっていない知識と、感覚によって獲得される事実についての知識をわけた。事実についての知識は因果関係にもとづいているが、因果関係は論理的な関係ではないため、未来におこることについてはなにも確かなことはいえない。したがって、もっとも確実な自然法則でさえ、正しいものでありつづけるかどうかはわからない。この考えは哲学の歴史に重大な影響をあたえた。

2 カント以後

カントは、以上のような合理主義と経験主義をむすびつけようとした。たしかに合理主義者がいうように、数学や自然科学において確実な知識は存在するが、いっぽう、感覚経験からは確実な知識がえられないという点では、経験主義者のいうとおりである。では、なぜ数学や自然科学の知識は確実性をもつのか。

人間にはもともと、対象を認識するための一定の形式がそなわっているというのが、カントの答えである。人間は、そのような形式によってしか対象を認識できない。たとえば、因果性というのも認識の形式のひとつである。感覚経験自体からは因果関係の確実性は生じないが、物理学の因果的法則は、人間の側にそなわった因果性という認識形式にのっとっているために、すべての経験にかならずあてはまるはずなのである。

それはたとえば、すべての人間が緑のサングラスをかけて世界をみた場合、「世界は緑である」という発言がすべての人間にとって正しい発言とみなされるのに似ている。このように、知識の確実性の根拠を世界の側にではなく、認識する主観の側にもとめたカントの方法は、天動説に対して地動説をとなえたコペルニクスになぞらえて「コペルニクス的転回」とよばれている。

19世紀になるとヘーゲルは合理主義的な考えを復活させ、「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」といって、人間が歴史とともに発達することによって、絶対的で確実な知識に到達すると主張した。

プラグマティズムという考え方が、パース、ジェームズ、デューイなどによって19~20世紀にアメリカでおこった。経験主義的なこの考え方は、知識は行動のための道具であり、あらゆる信念は経験にとって役にたつかどうかで評価されると主張した。

IV 20世紀の認識論

20世紀になると認識論の問題はさまざまに議論され、多くのことなった考えを生んだ。フッサールは、知る行為と知られる物との関係を明らかにする現象学という方法を確立した。現象学では、知るためには知られる物にむかっている意識(志向性)があり、ある意味でその意識の中に知られる物はふくまれていると考える。

20世紀初め、ウィトゲンシュタインの影響下に2つの学派が生まれた。ひとつは論理実証主義(→ 実証主義)で、オーストリアのウィーンで生まれ、またたく間に英米にひろまった。論理実証主義者の主張によれば、科学的な知識だけが本当の知識であり、この知識は経験とてらしあわせることによって真であるか偽であるかがきまる。したがって、哲学がこれまで議論してきた多くの事柄は、真でも偽でもなく、たんに無意味なものとなる。

もうひとつの学派は日常言語学派で、言葉の分析を哲学のおもな仕事と考え、伝統的な認識論とはかなりちがった方向をとる(→ 分析哲学と言語哲学)。彼らは認識論でつかわれる知識や知覚といった用語が実際どのようにつかわれているかをしらべ、まちがったつかわれ方を正しいものにあらためて、言葉の混乱をなくそうとした。

→ 懐疑主義:形而上学


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実証主義
実証主義
I プロローグ

実証主義 じっしょうしゅぎ Positivism 経験一般と、自然現象についての経験をとおした知識にもとづく哲学の体系。経験をこえたものを対象にする形而上学や神学などを、じゅうぶんな知識の体系とはみとめない考え方。

II 成立と発展

19世紀フランスの社会学者・哲学者のコントによってはじめられた実証主義の考えのいくつかは、サン・シモン、あるいはヒュームやカントにまでさかのぼることもできる。

コントは人間の知識の発達を3段階にわけ、自然をこえた意志によって自然の現象を説明する神学的知識の段階から、自然をこえた説明はするが擬人的ではない形而上学的知識の段階をへて、経験的事実のみで説明をする実証的知識の段階へいたると説いた。最後の実証的知識の段階では、事実を事実で説明し、自然の現象の背後にそれをこえたものを想定したりはしない。

このような考えは、自然科学の発達にともない19世紀後半の思想に大きな影響をおよぼした。コントのこの考えは、ジョン・スチュアート・ミル、スペンサー、マッハなどによりさまざまにうけつがれ発展した。

III 論理実証主義

20世紀前半になると、伝統的な経験的事実にもとづく実証主義とはことなった、論理実証主義という考え方がおこった。マッハの考えをうけつぐこのグループは、ウィトゲンシュタインやラッセルの影響のもとに、論理分析により科学や哲学を考察した。ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」(1922)の影響をうけた論理実証主義者たちは、形而上学や宗教、倫理についてかたることは無意味であり、自然科学の命題だけが、事実とてらしあわせて検証することにより、正しいか正しくないか判断できると考えた。このような考え方は、その後さまざまな修正や発展をへて、多くの哲学者に影響をあたえた。


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ゲーテ
ゲーテ,J.W.von
I プロローグ

ゲーテ Johann Wolfgang von Goethe 1749~1832 ドイツの詩人・劇作家・小説家・科学者。ゲーテの詩には、自然や歴史や社会と人間精神との関わりへの革新的な観察眼があらわれており、その戯曲や小説には、人間のもつ個性へのゆるぎない信念がうつしだされている。そして、こうしたゲーテの作品は、評論や書簡もふくめて、同時代の作家たちや、彼が主導的な役割をつとめた文学運動にきわめて大きな影響をあたえた。19世紀のイギリスの文芸批評家マシュー・アーノルドによれば、ゲーテは、「ドイツ文学界の大御所」というだけでなく、「世界文学のもっとも多才な巨匠のひとり」であった。

ゲーテは、1749年8月28日、帝室顧問官の肩書きをもつ裕福な市民の息子として、フランクフルトアムマインに生まれた。65~68年にかけて、ライプツィヒ大学で法律学をまなんだが、そのころはじめて文学や絵画に関心をおぼえ、同時代のクロプシュトックやレッシングの戯曲にふれた。その2人の影響と、彼がよく食事にいったワイン商の居酒屋の娘への恋心とが、初期のころの詩や戯曲に投影されている。そのころの戯曲には、1幕物の韻文喜劇「恋人のむら気」(1767)や韻文悲劇「同罪者」(1768)がある。

やがて、ライプツィヒで病いをえてフランクフルトにかえり、回復するまでの間、神秘哲学(→ 神秘主義)や占星術や錬金術をまなんだ。とくに、母親の友人で、敬虔(けいけん)派とよばれるルーテル改革派のメンバーだったクレッテンベルクの感化によって、宗教的神秘主義への洞察を深めた。1770年と71年には、シュトラスブルク(現ストラスブール)で法律学の勉強をつづけ、さらに音楽や芸術学、解剖学、化学などもまなんだ。

II 初期の交友関係

シュトラスブルクでは、彼の文学的生涯にとって重要な、2人の人間の友情をえた。1人は、近郊のゼーゼンハイムの牧師の娘フリーデリケ・ブリオンで、彼女はのちに、詩劇「ファウスト」のグレートヒェンなど、いくつかの作品のモデルとなった。もう1人は、彼の青春時代にもっとも大きな知的な刺激をもたらしたとされる、哲学者で批評家のヘルダーであった。とくに文学革新の意気にもえる論客ヘルダーの影響で、ゲーテは、当時のドイツにひろく流行していたフランス古典主義の理論に対して懐疑的になった。たとえば、フランスの古典主義派は、古代ギリシャ劇から借用した時・場所・筋それぞれの統一をはかる三統一の法則をとなえたが、ヘルダーは、感情の直接的な表現のために三統一の法則を放棄したシェークスピアの演劇を評価することを、ゲーテにおしえた。また、ドイツ文学の発展のためのすぐれた源泉として、ドイツの伝承詩歌とゴシック建築(→ ゴシック美術)を再認識することをうながしたのも、ヘルダーであった。

シュトラスブルクで学位をとり、フランクフルトにかえって法律の実務につきながら、ゲーテは、ヘルダーの影響のもとに、悲劇「ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン」(1773)を書いた。この劇は、シェークスピア劇を手本に、16世紀ドイツに実在した略奪騎士の話を戯曲にしたものである。ゲーテは、16世紀初めにおける皇帝と教会の権威に対するドイツ国民の反抗精神の偉大さを、鉄の義手でたたかったゲッツの行為のうちにみたのである(→ ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン)。「ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン」は、ゲーテやヘルダーらがだした小冊子「ドイツの特性と芸術について」(1773)とともに、ドイツ・ロマン主義の前触れとなる文学運動シュトゥルム・ウント・ドラング(疾風怒涛:しっぷうどとう)の口火を切る役割をはたすことになった。

その翌年の1774年、友人の婚約者シャルロッテ・ブッフへのつらい恋の体験から、悲劇小説「若きウェルテルの悩み」(1774)を書いた。この作品は、ドイツ近代文学の最初の問題作であり、それ以後、各国で発表された熱情的主観性をテーマにする作品の手本となった。72~75年に発表した作品には、ほかに、「クラビーゴ」(1774)と「シュテラ」(1775)、文学や神学に関する短い評論などがある。

III ワイマールでのゲーテ

1775年は、ゲーテにとって、またドイツの文学史にとって、重要な年であった。ザックス・ワイマール公国のわかい領主カール・アウグスト公が、当時のドイツの学問と文芸の中心地でもあった公国の首都ワイマールに、ゲーテをまねいたのである。その年から没年まで、ゲーテはワイマールに居をさだめ、そこからドイツ全国へむけて、著作活動の影響力を発信することになる。

ワイマールの宮廷とかかわった最初の10年は、彼にとって、文学の創作活動よりもむしろ知性と教養の蓄積に専念した期間であった。とくに、ヘルダーや作家のウィーラント、公国の役人の妻で才色兼備のシャルロッテ・フォン・シュタインらとの交際で、ゲーテの知的生活は、ますます広がりをもつことになった。枢密顧問官など、ワイマール政府の数々の要職を体験したことで、ゲーテは実務に関する豊かな知識をも身につけた。それにくわえて、彼は、鉱物学、地質学、骨学などの科学研究もつづけた。

そのため、ワイマール滞在の最初の10年間は、抒情詩「旅びとの夜の歌」や物語詩「魔王」など、いくつかの詩をのぞいては、ほとんど創作をしなかった。散文劇「イフィゲーニエ」や戯曲「エグモント」と「ファウスト」など、のちに彼の代表作となる作品に着手してはいたが、それらはすべて、人生における次の重大な転機となったイタリア旅行(1786~88)のあと、手直しされた。

IV イタリアへの旅

ゲーテがイタリアにおもむいたのには、いろいろな理由があった。ワイマール宮廷での生活にも飽きがきていたことや、フォン・シュタイン夫人との仲が気まずくなっていたこともあったが、なによりも、シュトゥルム・ウント・ドラング思潮への熱がさめ、将来の創作活動の指標となる別の新鮮な視点が必要になったからであった。

1786年、イタリアで、彼は新しい活力をみいだすことになった。北イタリアのいくつかの都市をまわったのちローマに居をさだめ、あとはナポリとシチリアに短かい旅をしただけで、88年まで、ずっとそこに滞在した。彼はそこで、美術や建築、古代ギリシャ・ローマの文化に強く影響をうけたルネサンスの作品などの研究にうちこんだ。それによって彼は、感情的な内容よりも形態のバランスと完璧さを重んじる古典の精神への理解を深めた。それは、ゲーテの作品に、それまでかけていた静謐(せいひつ)さと威厳を付加することになった。

イタリア滞在とそのすぐあとの時代の作品には、短長格韻律をふんで改作された「イフィゲーニエ」(1787)、「エグモント」(1788)や「タッソー」(1790)などの戯曲があり、さらに「ファウスト」を書きついで、その一部を「ファウスト断片」(1790)として発表した。これらの作品は、ドイツ文学に理念と形式を錬磨する精神をもちこみ、いわゆる「古典主義時代」をもたらした。

V ふたたびワイマールへ

1788年にワイマールにもどったゲーテを、困難がまちうけていた。彼の新しい文学理念はうけいれられず、彼の愛情がさめたことを知ったフォン・シュタイン夫人は敵意をもやしていた。そんなことから、彼は、クリスティアーネ・ウルピウスというわかい娘と同棲(どうせい)することによって宮廷に反抗し、翌89年には息子をもうけた。

ゲーテはワイマールをはなれることも考えたが、2つのことが彼を思いとどまらせた。ひとつは、1791年からついている宮廷劇場の総監督の任務であり、この職は結局1813年までつづけた。いまひとつは、あらためて関心の強まった科学研究の道で、それにはワイマールの地が最適だったのである。すでに1784年にゲーテは、比較形態学を先取りする方法で、人類の下顎骨には他の哺乳動物の顎間骨(がくかんこつ)に類似した形態の痕跡がみとめられることを発見していた。90年には「植物変態論」を発表するが、これは、彼の比較形態学の理論をいっそう発展させると同時に、ある意味では、ダーウィンの進化論を予告するものであった。ゲーテは、色彩学の研究にもうちこんだ。造形美術への関心から色と光に対する探究心を深めていったゲーテは、当時うごかしがたい権威となっていたニュートンの光学説(→ 光学)と真っ向から対立する構えで実験を重ね、「光学への試論」2部作(1791、92)などをあらわしたのち、有名な「色彩論」3部作(1810)を発表した。とくに、その第2部(論争編)「ニュートン光学理論を暴く」は、純粋な自然現象としての光の理論を説明したニュートンの「光学」(1704)に対する徹底的な攻撃で知られる。

ゲーテは科学研究に熱中するあまり、一時は文学への興味をうしなったかにみえたが、シラーとの交友によって、ふたたび関心がよみがえる。シラーは、ドイツの偉大な劇作家であり、ゲーテとともにドイツ古典主義時代を代表する一方の雄であった。1794年からシラーが他界する1805年までつづいたシラーとの交友は、ゲーテにとって決定的に重要な意味をもった。シラーの批評と助言によって、ゲーテの創作意欲はふたたびかきたてられることになった。彼は、シラー編集の文芸雑誌「ホーレン」にたびたび寄稿したが、その中には「ローマの悲歌」(1795)や、のちのドイツ小説の手本ともされる「ウィルヘルム・マイスターの修業時代」(1795~96)、田園叙事詩「ヘルマンとドロテーア」(1797)などの作品があった。

VI 晩年期

1805年から死亡する32年3月22日までは、ゲーテの生涯における多作の時代であった。06年には、クリスティアーネ・ウルピウスと正式に結婚した。フランス革命の激動とそれにつづくナポレオン戦争も、彼の創作活動や科学研究に、それほどの妨げとはならなかった。

政治の面では、ゲーテは保守主義者であった。ナポレオン1世に反旗をかかげてドイツ諸公国が遂行した解放戦争(1813~14)に対して、ゲーテは、反対はしなかったものの、ドイツをひとつの国家に統一しようという愛国的な動きに対しては超然とした態度をたもった。むしろ彼は、それぞれの専制的な支配者によって統治された小さな公国の存在を擁護したのである。

1805年以降の晩年期の彼の著作の中で有名なのは、「親和力」(1809)、「ウィルヘルム・マイスターの遍歴時代」(1821~29)、イタリアへの旅の報告記「イタリア紀行」(1816)、自伝「詩と真実」(4巻。1811~33)、壮大な抒情詩集「西東(せいとう)詩集」(1819)、それに劇詩「ファウスト(第2部)」(死後出版1832)などである。

「ファウスト」は、ゲーテの長い生涯の最後をかざるにふさわしい大作である。また、ドイツ文学の傑作というばかりでなく、世界文学を代表する名作ともなった。中世の学者魔術師としてひろく知られるファウスト博士の伝説を解釈しなおして、人間生活のあらゆる支脈をみごとに統一した壮大なアレゴリーにしたてあげた作品である。それは、様式のうえでも立脚する視点のうえでも、血気盛んなシュトゥルム・ウント・ドラング時代にはじまり、しずかな古典主義の時代をへて、現実的な知性の円熟した晩年にいたる、ゲーテのめざましい成熟発展の道のりを、表徴したものでもあった。人間の営為と神の営為とを探究しつづけ、自己の尊厳を成就しようとする一個人の正義感とすぐれた能力を称揚してやまないこの作品は、近代個人主義の精神が生みだした最初の文芸大作として、世界的な名声を博するに値するといえよう。


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ワーズワース
ワーズワース,W.
I プロローグ

ワーズワース William Wordsworth 1770~1850 イギリス・ロマン派の代表的な詩人。彼の理論と文体は、詩に新しい伝統をつくりだした。

II 自然を愛する

カンバーランド州(現カンブリア州)コッカマスに生まれ、ケンブリッジ大学のセントジョンズ・カレッジでまなんだ。青年時代から自然を愛し、学校の休暇中には、景色のうつくしい地方にしばしば足をはこんだ。1790年の夏には、フランスからスイスまで徒歩で旅をしている。91年に学位を取得すると、あらためてフランスにわたり、フランス革命(1789~99)の理想を熱烈に擁護するようになった。しかし、英仏関係の悪化と経済的な問題から、フランス人の恋人アネット・バロンをのこしてイギリスに帰国する。その直前の92年12月に、アネットは彼の娘を生んだ。

詩は学生時代から書いていたが、1793年にはじめて「夕暮の散歩」と「風景小品集」が出版された。いずれも、内容は新鮮で独創的だが、18世紀イギリス詩の型にはまった形式から脱しておらず、ほとんど注目されなかった。

文筆業でえる収入はわずかしかなかったが、1795年に知人の遺産900ポンドがはいり、困窮はしばらく緩和された。そのすぐあと、彼は妹ドロシーとともにドーセット州レースダウンにうつりすむ。ドロシーはワーズワースにとって、腹心の友であり、詩作をはげましてくれる存在であった。後年の彼女の精神障害は、弟ジョンの死と同様、彼を深くかなしませた。

III 「抒情歌謡集」の誕生

1795年、ワーズワースは、詩人コールリジと知りあう。彼はワーズワースの詩を熱烈に称賛した。この2人の詩人の親密な友情は、97年にワーズワース兄妹がコールリジの家の近くのサマセット州オールフォクスデンにうつりすんだことから、永続的なものになった。そのすぐあと、彼らは、「抒情(じょじょう)歌謡集」(1798)を共同執筆した。

この作品は一般的に、イギリスの詩におけるロマン主義運動の始まりとされる。大半の詩はワーズワースによるもので、とくに「ティンターン・アベー廃墟数マイル上流で書かれた詩」は注目に値する。コールリジは、有名な「老水夫行」をよせている。「抒情歌謡集」は、わざとらしい古典主義に反旗をひるがえした画期的な作品だが、出版当初、主要な批評家からは冷淡にあつかわれた。

この「抒情歌謡集」は、増補して1801年に再版されたが、ここでワーズワースは、みずからの詩の理論を擁護するために、「序文」を執筆してくわえた。彼は、感覚が直接経験することが詩の真実を生みだすということを前提に、詩は「平穏の中で思いおこされる感情」から生まれるのだと主張し、力強い感情の詩的な描写を犠牲にしてまで形式を重視することを拒否した。そして、日常の風景や出来事、あるいは平凡な人々の会話こそが、詩の新鮮な題材であり、詩はこれらによってつくられるべきだと主張した。批評家の機嫌をとる意向などさらさらないこの「序文」は、彼らの反感をあおるだけの結果となった。それでもワーズワースはめげずに、自分の信条を生き生きとうつしだした詩を書きつづけた。

IV 湖畔詩人たち

これより前の1798年と99年、ワーズワースと妹ドロシー、コールリジはドイツへおもむいた。そこでワーズワースは、彼の代表的な抒情詩数編を書き、大作「序曲」の執筆を開始した。みずからの生い立ちをかえりみたこの作品は1805年にいちおうの完成をみたが、彼は死ぬまで改稿を重ねた。出版されたのは50年、死の3カ月後であった。この作品はワーズワースの最高傑作と位置づけられている。

イギリスにもどった兄妹は、1799年に、レークディストリクトでもっともうつくしい場所、ウェストモーランドのグラースミア村にあるダブ・コティッジにすみついた。まもなくコールリジとサウジーも近くにすむようになり、この3人は「湖畔詩人」とよばれるようになる。1802年、ワーズワースは幼なじみのメアリー・ハッチンソンと結婚した。彼女のことは、魅惑的な抒情詩「彼女は喜びの幻想だった」にえがかれている。07年には、「詩集」全2巻が出版された。同書には、傑作「幼年時代を追想して不死を知る頌」、自伝的な物語詩「決意と自立」をはじめ、多数の有名なソネットなど、ワーズワースのもっともすぐれた詩の大半が収録されている。

V 保守に転じた後半生

1813年、ワーズワースは年俸400ポンドの、ウェストモーランドの印紙販売官に就任し、家族と妹をともなってダブ・コティッジから数キロはなれたライダル・マウントに移転した。ときどき旅行にでかける以外は、残りの生涯をその地ですごした。

1800年以降、ワーズワースの政治的見解、知識人としての視点は方向性をかえ、10年には、彼の立場はゆるぎない保守主義になっていた。彼は、ナポレオン1世の権力の増大にともなってフランスでおこったさまざまな事件の成り行きや、作家スコットら友人たちの集まりに幻滅し、正統派をめざすようになった。

年齢を重ねるにつれ、ワーズワースの詩に対する洞察力はにぶっていった。往年の輝きの痕跡はとどめているものの、大げさで説教めいた詩は、かつての抒情詩とはくらべるすべもない。1814~22年の間に出版された作品には、「序曲」の続編である「逍遥」(1814)のほか、「ライルストーンの白鹿」(1815)、「ピーター・ベル」(1819)、「教会のソネット」(1822)などがある。1835年に「ヤロー再遊」が出版されたが、それ以降のワーズワースは寡作であった。

そのほかの詩の作品では、「辺境の人」(1796年執筆、1842年出版)、「マイケル」(1800)、「世捨て人」(1800年執筆、88年出版)、「ラオダメイア」(1815)、「大陸旅行の思い出」(1822)が有名である。詩のほか、散文作品「シントラの慣習」(1809)と、「北イングランドの湖の風景の説明」(1810年初版、22年増補改訂版)も執筆している。

VI ワーズワースの真価

ワーズワースの書いた、よどみなく、くだけた文体の無韻詩の多くには、真の抒情的な力強さと優雅さがある。また彼のすぐれた作品には、宗教的な広がりと厳しさをもつ自然界と人間とのかかわりに対する明敏な感覚があふれている。ワーズワースにとって神とは、自然界の調和の中ではどこででも明白な存在である。彼は人間の魂と自然の間に、深い一体感を感じていた。

1820年以降、彼に対する批評家の意見は好意的なものになり、ワーズワースは自分の作品が広く称賛されるのをみとどけた。42年に政府の助成金を授与され、その翌年にはサウジーのあとをついで桂冠詩人となった。ライダル・マウントで死去し、グラースミアの教会墓地に埋葬された。


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シェリー
シェリー,P.B.
I プロローグ

シェリー Percy Bysshe Shelley 1792~1822 イギリス・ロマン派の代表的な詩人のひとり(→ ロマン主義)。生涯を通じて、独自の道徳律を徹底的につらぬいた。愛、結婚、革命、政治についてのシェリーの信念は、反社会的で危険なものともみなされた。

II ロマン主義を体現した生涯

1792年8月4日、サセックスのホーシャム近郊のフィールド・プレースに生まれる。イートン校からオックスフォード大学にすすんだが、学友のホッグと共同で書いて配布した小冊子「無神論の必然性」(1811)が、大学当局の反感をかい、1年生の終わりで放校になった。この時期、バーレスク風の詩の小冊子「マーガレット・ニコルソンの死後の断片」(1810)も出版している。

放校になってまもなく、シェリーは19歳でハリエット・ウェストブルックと結婚し、イングランド北西部のレークディストリクトにうつりすむ。その2年後、初の本格的な長編作品「マブ女王」(1813)を発表した。この作品には、敬慕していた政治哲学者ゴドウィンの社会主義的な自由思想が反映されている。ゴドウィンとの交友のもうひとつの産物は、彼の娘メアリーとの出会いだった。1814年、妻と別居したシェリーは、メアリーとともに短期間ヨーロッパ大陸を旅行する。

イギリスにもどったシェリーは、のちの重要作品につながる寓意物語詩「アラスター」(1816)を執筆した。1816年、ふたたびメアリーとヨーロッパ大陸を短期間おとずれたシェリーは、イギリスの詩人バイロンにであい、2編の短詩「知的な美への賛歌」と「モンブラン」を書く。この年12月、妻ハリエットの自殺とみられる死体がハイドパークの池で発見されて、その3週間後にシェリーはメアリーと結婚した。

1817年に執筆した長編物語「レイオンとシスナ」で、シェリーは革命に関する象徴的な物語をかたった。この作品は18年以降、「イスラムの反乱」として再版された。この時期に彼は、「マーローの世捨て人」の名で、政治に関するざん新な小論文も書いている。18年初頭、シェリーは新しい妻メアリーとともにイタリアにたち、その後イギリスには二度ともどらなかった。

このあと、生涯最後の4年間となる時期に、シェリーは次々に代表作をあらわす。夫婦でイタリアの諸都市を転々としている間に、イギリスの詩人リー・ハント一家と知りあい、バイロン同様したしくつきあうようになった。あとひと月で30歳をむかえるという1822年7月8日、リボルノからラ・スペッチアにむかっていたシェリーのヨットが暴風雨にまきこまれた。彼の死体が岸にうちあげられたのは、その10日後である。

III あふれている抒情性

シェリーはイギリスの最も偉大な詩人のひとりとされている。とくに、ひろくしたしまれている「雲雀の歌」(1820)、「西風の歌」(1819)、「雲」(1820)などの抒情詩に対する評価は高い。また、ソネット「巨像オジマンディアス」(1818)、恋愛抒情詩「汝の夢から目覚めん」「コンスタンシアの歌によせて」や、正式なスペンサー連で書かれた、キーツへの哀歌「アドネイス」(1821)も、称賛をあびている。これらの作品にみられる、あふれでるような抒情性は、劇詩「チェンチ」(1819)と「プロミーシュース解縛」(1820)にも明白である。これらの劇は、上演されなかったが、奥深い意味をもつ思索的な作品である。プラトンの「シンポジウム」の翻訳(1818)や、評論「詩の弁護」(1821)なども、すぐれた出来ばえである。

いっぽう反ロマン派の批評家たちは、シェリーの多くの作品にみられる愛らしさや感傷性に反発して、彼は、イギリス・ロマン派の詩人のなかでもバイロンやキーツ、ワーズワースほどの影響力はない、と主張している。


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ドゥルーズ
ドゥルーズ,G.
I プロローグ

ドゥルーズ Gilles Deleuze 1925~95 ポスト構造主義を代表するフランスの哲学者。パリに生まれる。ソルボンヌにまなび、リヨン大学講師をへて、1970年にパリ第8大学教授となる。

1953~68年にかけて、ヒューム、ニーチェ、カント、ベルグソン、スピノザといった哲学者についての個別研究を発表。「差異と反復」(1968)と「意味の論理学」(1969)において、独自の哲学的方法論を展開しはじめる。さらに、ガタリとの共著で「アンチ・オイディプス」(1972)、「ミル・プラトー」(1980)を刊行。精神分析とマルクス主義の概念装置を駆使しながら、現代資本主義社会に対する根本的な批判をおこなった。

II 「差異」の復権

ドゥルーズは、「他なるもの」を「同一なるもの」へ還元することによって統一性を考えようとする伝統的哲学、とくに、ヘーゲルに代表されるドイツ観念論哲学(→ 観念論)のやり方に反対する。彼は、こうした同一性の原理への服従をしりぞけて、「差異」という概念の復権を要求する。

III 欲望と「遊牧的」思考

さらにドゥルーズは、「アンチ・オイディプス」において精神分析を批判する。精神分析は欲望の力を神経症のたんなる温床におとしめてしまうからである。彼によれば、欲望は差異化の力であり、規範の乗り越えであり、生の流動化である。こうした欲望の再評価によってドゥルーズは、現代都会人の「定住的」で国家体制的な思考に、「遊牧的」で流動的な思考を対置し、この思考に現代社会の強権的秩序からの逃走の可能性をみた。


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蜜蝋に澎湃する延長(その9) [宗教/哲学]

A.アルノー
アルノー

アルノー
Arnauld,Antoine

[生] 1612.2.6. パリ
[没] 1694.8.8. ブリュッセル

  

フランスの神学者,哲学者。 1632年サン=シランの神父のすすめで法学から神学に転じ,彼の指導下で司祭となり,41年神学博士となる。その頃着手され 43年出版された『頻繁な聖体拝受について』 De la frquente communionは大成功を収め,師を継いでジャンセニストの理論的主柱となってイエズス会と激しく対立。彼が刊行をすすめたパスカルの『プロバンシアル』の出版された 56年ソルボンヌを追放され,ポール=ロワイヤル・デ・シャンに隠遁。そこで 60年ランスロとともに『ポール=ロワイヤルの文法』 La grammaire gnrale de Port-Royal,62年ニコルとともに『ポール=ロワイヤルの論理学』 La logique de Port-Royal,67年『新幾何学入門』 Nouveaux lments de Gomtrieを出版。 79年ポール=ロワイヤル・デ・シャンの破壊とともにオランダに亡命。 85年マルブランシュ批判を含む『哲学的神学的省察』 Rflexions philosophiques et thologiquesを出版。哲学上はデカルト派に属し,文通によってライプニッツの思想形成に影響を及ぼした。





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[ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 2008]


アルノー 1612‐94
Antoine Arnauld

フランスの神学者,哲学者。ポール・ロアイヤル運動と深い関係をもつアルノー一家の一人,〈大アルノー〉とよばれる。ジャンセニスムの指導者として,数々の迫害をうけながら,アウグスティヌス的な神中心の恩寵観を擁護し,キリスト教とヒューマニズムとの妥協の道を探る近代主義的傾向,とりわけイエズス会とはしばしば論争を交えた。とくに《頻繁な聖体拝受》(1643)は有名。他方プロテスタントに対しては,聖体問題を中心にカトリック教会の立場を擁護した。哲学ではデカルトの《省察》に対する《第四反駁》(1641)を著して深い理解を示し,デカルト哲学とアウグスティヌス神学との一致を説いた。またマールブランシュとは恩寵と観念の問題をめぐって論争し,ライプニッツとも交渉があった。ポール・ロアイヤル付属の学校で教えていたランスロ,P. ニコルと協力して編んだ《文法》(1660)と《論理学》(1662)の教科書は,生成文法や構造主義に刺激を与え,近年注目を集めている。
                        塩川 徹也

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アルノー,A.
I プロローグ

アルノー Antoine Arnauld 1612~94 フランスの神学者。17~18世紀のカトリックの一派ジャンセニスムを代表する思想家である。同名の父と区別して、「大アルノー」の通称でよばれた。アウグスティヌスらの教父哲学やスコラ神学(→ スコラ学)に精通するとともに、同時代のフランス人哲学者デカルトの哲学にも理解をしめした。

パリに生まれ、ソルボンヌ(パリ大学)で法律学と神学をまなんだ。この時期にアルノーは、ジャンセニスムの基礎をきずいたサン・シラン神父から大きな思想的影響をうけた。ジャンセニスムは、サン・シランの友人でオランダの神学者ジャンセニウス(ヤンセン)がとなえた神学上の立場で、信仰と道徳の厳格さ(悔い改め、清貧、純潔など)を主張するとともに、救済にはたす神の恩恵を重視している。

II ジャンセニスムとの関わり

ソルボンヌで博士となったアルノーは、「頻繁な聖体拝受について」(1643)を書いて、ジャンセニスムの基本を明確化した。ジャンセニスムは、神の恩恵に関する主張で、イエズス会の見解とするどく対立したが、アルノーも生涯にわたってイエズス会と対決した。

当時ジャンセニスムの中心となったのは、パリ近郊のポール・ロワイヤル修道院であるが、アルノーはこのポール・ロワイヤルの精神的指導者としても活躍した。一時この修道院に身をよせたフランスの宗教哲学者・科学者パスカルに、ジャンセニスムを弁護する書「プロバンシアル」を依頼したのも、アルノーである。これはパスカルの主著のひとつとなった。またフランスの神学者P.ニコルとともに、ポール・ロワイヤル修道院付属学校のために書いた論理学の教科書は、「ポール・ロワイヤル論理学」(1662)として有名である。

イエズス会の勢力が増大するにつれて、対立するアルノーは迫害をうけ、1656年にソルボンヌを追放された。79年にはベルギーへのがれざるをえなくなった。そうした中にあっても、アルノーはたくさんの著作をあらわして、自由思想家やカルバン主義者など多方面の論敵と論戦をたたかわせた。

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ポール・ロアイアル運動
ポール・ロアイヤル運動
ポールロアイヤルうんどう

17世紀フランスに起こった信仰上の運動。ポール・ロアイヤル Port‐Royal は元来13世紀に創設され,パリ南郊のシュブルーズにあった女子修道院であるが,17世紀初頭,弱年の院長アルノーAngレlique Arnauld によって改革され,またフランソア・ド・サールの指導を受けて有名になった。1625年パリに分院(ポール・ロアイヤル・ド・パリ)が作られ,48年に再開された本院はポール・ロアイヤル・デ・シャンと呼ばれた。修道院は1635年からサン・シランの指導を受けるが,37年には彼の影響下に回心し現世での栄達を捨てて修道院の近辺に隠筒生活を送る男性信徒の小集団が成立し,以後ポール・ロアイヤルは両者の総称として用いられることになる。サン・シランを師と仰ぎ,その弟子 A. アルノーを理論的指導者とするポール・ロアイヤルはカトリック宗教改革運動の一翼を担うが,他方ジャンセニスムの本拠地とみなされ,教権,俗権の双方から数々の弾圧を受け,1709年修道院は閉鎖され,運動は終りをつげた。しかしその間,ポール・ロアイヤルはその運動の担い手と関係者の中から,アルノー,パスカル,P. ニコル,ラシーヌといった著名な思想家,文学者を輩出し,フランス古典期の文化に大きく貢献した。また付属学校は教育史上名高く,そこでの教育経験から生まれたいわゆるポール・ロアイヤルの《論理学》と《文法》は近年注目を集めている。⇒ジャンセニスム                 塩川 徹也

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偶因論
偶因論

ぐういんろん
occasionalism

  

機会原因論とも訳される。デカルト派の一部の唱えた説。万象の変化の真の原因は神であり,被造物の行為も原因であるようにみえるが,実は神がそれを契機として,そのたびごとに行為する機会となるにすぎないとする。偶因論はまず精神がどのように身体へ働きかけるかという問題への一つの解答として出発した。厳格な二元論を樹立したデカルトにとって心がどのように身体に働きかけるかは大きな難題であり,心身の相互作用を事実として認めるだけで,十分な説明をなしえなかった。精神と物体 (肉体) というまったく異質な2実体間の交渉に超越的な神を持出す説明は,ドイツの J.クラウベルク,フランスの L.ド・ラ・フォルジュに始った。偶因論の代表者はオランダの A.ゲーリンクスとフランスの N.マルブランシュである。この2人にあっては信仰と神中心の世界観が偶因論の支えとなっている。マルブランシュは偶因論をキリスト教哲学の体系として確立した。それによると神は万象を創造し,その変化の唯一の動因として一般法則を通して世界を主宰する。一般法則が個々の場合に適用される際に機会因が現れる。一般法則には自然法則と恩恵の法則があり,後者に関してはイエスを恩恵の分配の機会因とする思想などが展開されている。なお,デカルトの心身問題より出発した理論としてスピノザの平行論とライプニッツの予定調和説がある。





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機会原因論
きかいげんいんろん occasionalism

偶因論ともいう。デカルト以後の哲学の重要問題であった心身問題や神と世界の問題を,神の作用を強調する方向で解決しようとして,17世紀後半のデカルト学派の哲学者コルドモア Gレraud deCordemoy,ゲーリンクス,マールブランシュらが立てた説。世界の事象の唯一の真なる原因は神であって,これらの事象の自然的原因はすべてただ神の作用の機会原因,すなわち神がその事象を生起させる際の条件にすぎないとされる。たとえば心身問題において,デカルトは精神と物体(身体)を互いに独立する2実体として峻別する一方,人間においては両者の実体的結合をみとめたが,この説によれば,心身のあいだの直接的相互作用は否定される。身体からの刺激で精神に感覚が生まれたり,あるいは精神の意志によって身体を動かす場合にも,その刺激または意志は単なる機会原因であって,真の原因は神にあるとされた。                   赤木 昭三

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機会原因論
機会原因論 きかいげんいんろん Occasionalism 17世紀のフランスの哲学者デカルトの後継者であるゲーリンクス、マールブランシュなどがたてた哲学体系をさす言葉で、偶因論ともいう。心と身体の関係を説明するために、彼らは神をただひとつの原因とした。身体の働きや変化は、心の変化に先だち、ともない、あとにつづく、という前提がその出発点となっている。この前提は、存在するものはすべてたがいに直接はたらきかける、という心と身体のふつうの考え方に合致するようにみえる。しかし機会原因論者たちは、原因と結果は類似していなければならないが、心と身体のように類似しない実体がたがいに直接かかわりあうことはありえないと主張した。

機会原因論によれば、心の働きは身体の働きの原因ではないし、原因にはなりえない。心の働きが生じるときには、つねに神がこの働きにかかわっている。あるいはこれを理由にして、対応する身体の働きを直接生みだす。その逆、つまり身体の働きから心の働きが生じる場合も同じである。つまり、心身や世界が論じられるとき、神の働きだけがいつも中心となるのである。しかし、この理論では問題点がのこる。もし心(精神)が身体(物体)に直接はたらきかけることができないなら、精神的なものである神もまた、精神に類似しない物体にはたらきかけることはできない。反対に神が心とは別のものであるとしたら、神は心にはたらきかけられないはずである。


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J.クラウベルク
クラウベルク

クラウベルク
Clauberg,Johann

[生] 1622.2.24. ゾーリンゲン
[没] 1665.1.31. デュスブルク

ドイツの哲学者,神学者。ドイツにおけるデカルト学派の代表者。ブレーメンで学んだのち,オランダのフローニンゲン大学へ留学,そこでデカルトの哲学を知った。彼はさらにパリへ行き,C.クレルセリエや L.フォルジュと会った。 1649年オランダに戻ったが,のちドイツのドゥイスブルク大学で哲学と神学を講じた。主著"Ontosophia" (1647) ,"Logica vetus et nova" (54) ,"Ontologia sive metaphysica de ente" (60) 。





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存在論
存在論

そんざいろん
ontologia; ontology

  

存在者一般に関する学。 ontologiaの語は 1613年ゴクレニウスが最初に用い,クラウベルクを経てウォルフにいたり用語として定着したが,存在論自体は古代にさかのぼる。アリストテレスの第一哲学がそれであり,以後の歴史においても形而上学の中核は存在論であった。カント以後哲学の主流は認識論に傾いたが,20世紀に入って N.ハルトマンの批判的存在論や M.ハイデガーの基礎的存在論,また実存哲学の興隆によって再び存在論が哲学の中核となった。





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[ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 2008]


存在論
そんざいろん ontology

ギリシア語の〈在るもの on〉と〈学 logos〉から作られたラテン語〈オントロギア ontologia〉すなわち〈存在者についての哲学 philosophia de ente〉に統(さかのぼ)り,17世紀初頭ドイツのアリストテレス主義者ゴクレニウス Rudolf Goclenius に由来する用語。同世紀半ば,ドイツのデカルト主義者クラウベルク Johann Clauberg はこれを〈オントソフィア ontosophia〉とも呼び,〈存在者についての形而上学 metaphysica de ente〉と解した。存在論を初めて哲学体系に組み入れたのは18世紀の C.ウォルフであり,次いでカントであった。カント以後,存在論は哲学体系から消失したように見えるが,19世紀の終末以来,とりわけ第1次世界大戦後に復活し,今日では認識論と並んで哲学の主要分野を成している。以下,存在論の系譜を略述し,終りに訳語の歴史を回顧しよう。
 アリストテレスの《形而上学》は〈第一哲学prヾt^ philosophia〉であり,〈存在者を存在者として on h^i on〉考究し,およそ存在者であれば本質的に備わっている属性や性質(一と多,同と異,先と後,類と種,全と個,範疇,真と偽など),存在者の区別を一般的に扱い,また最高の存在者すなわち〈神的なもの theion〉を扱う〈神学theologik^〉を含むが,〈存在論〉とは呼ばれていない。中世のスコラ哲学もアリストテレスを手引きとし,〈存在者 ens〉と〈存在 esse〉との区別,〈本質存在 essentia〉と〈事実存在 existentia〉との区別にも目を向けるが,〈存在論〉といういい方はない。しかしアリストテレスの《形而上学》と中世の形而上学とが〈存在論〉という言葉の発生の源泉であることは明白である。これをスアレスの《形而上学論議》(1597)に即して追ってみよう。彼は〈実在的な存在者 ens reale である限りでの存在者〉を〈知性的存在者 ens rationis〉,すなわち知性・悟性の産物として心の中に想像された存在者から鋭く区別し,前者を次の2部門で扱う。まず〈存在者とその固有性の共通概念について〉であり,〈存在者の概念〉,一・真・善などの〈存在者の共通の状態〉,質料因・形相因・動力因・目的因などの〈諸原因〉に分かれ,存在者一般を論じる部門である。次は存在者の〈諸区別〉で,〈無限な存在者〉すなわち〈神〉と〈有限な存在者〉とに分かれ,後者ではさらに〈実体 substantia〉と〈付帯性accidentia〉等に細分化されるが,全体としては特定の存在者を論じる部門である。スアレスの形而上学はデカルトに影響を与え,またこの2部門はJ. B. デュアメルに影響し,さらにはウォルフの〈一般形而上学 metaphysica generalis〉と〈特殊形而上学 metaphysica specialis〉との区別に影響を及ぼした。スアレスは〈存在論〉という言葉は用いていないが,上述の最初の部門がのちのウォルフの〈存在論〉の直接の源泉となったといいうる。
 ウォルフは哲学を理論的哲学と実践的哲学に分け,前者を〈形而上学〉と呼び,これは〈存在論〉〈合理的心理学〉〈宇宙論〉〈合理的神学〉から成るとする。〈存在論すなわち第一哲学とは,存在者が存在するかぎりにおいての,存在者一般 ensin genere の学である〉。存在論は形而上学の第1部であり,魂,世界,神という優越した特殊な存在者を扱う〈特殊形而上学〉に先立ち,物体的・精神的であれ,自然的・人工的であれ,存在者一般を理論的に扱う〈一般形而上学〉である。存在論のもっとも一般的な原理は〈矛盾律〉と〈充足理由律〉であり,〈存在者の一般的諸性質〉を論じる部分と,〈存在者の主要な種類およびそれらの相互関係〉を論じる部分とに大別される。
 カントも〈存在論〉を哲学体系に取り入れた。《純粋理性批判》では,広義の形而上学は〈予備学〉としての〈批判〉と体系としての形而上学を含み,後者は〈自然の形而上学〉と〈道徳の形而上学〉に分かれ,〈自然の形而上学〉ではその第1部門を〈先験哲学 Transzendentalphilosophie〉すなわち〈存在論〉とし,〈合理的自然学〉〈合理的心理学〉〈合理的宇宙論〉〈合理的神学〉に先立てている。《形而上学講義》(K. H. L. ペーリッツ編,1821)では,〈形而上学〉とは〈ア・プリオリな諸原理〉に依存する〈純粋哲学の体系〉であり,〈ア・プリオリな認識がいかにして可能であるか〉に答えるのが〈純粋理性批判〉の任務とする。一方,〈先験哲学とはわれわれの純粋でア・プリオリな認識いっさいの体系である〉といい,これが通常〈存在論〉といわれているものであって,〈いっさいの純粋な悟性概念と悟性ないし理性のいっさいの原則を包括する〉と述べ,形而上学は〈存在論〉〈宇宙論〉〈心理学〉〈神学〉から成ると説く。カントもウォルフ同様に存在論を形而上学の第1部とし,〈諸存在者の学〉とするが,正しくは語義上から〈一般的存在者論die allgemeine Wesenlehre〉であるとし,《形而上学講義》では〈可能なものと不可能なものについて〉以下24項目で詳論する。ウォルフと異なるのは,〈存在論〉を〈先験哲学〉すなわち〈人間のア・プリオリな認識の諸原理・諸要素の哲学〉と説き,ウォルフのように存在者ないし対象の概念を悟性で分析する次元から,対象の認識の次元へ,対象のア・プリオリな認識の原理の次元へと転換したことである。すなわち,〈特殊形而上学〉の存立もそれに先行する〈一般形而上学〉としての〈存在論〉の存立も,従来は自明のこととされてきたが,そもそも存在論的・形而上学的認識が可能であるか否かを,〈批判〉によって確定することが先決条件であり,その成果としての〈先験哲学〉すなわち〈存在論〉こそ基礎的形而上学であるとするのが,カントの構想であった。
 カント以降,存在論は哲学体系から消失するように見える。ショーペンハウアーによれば,〈《純粋理性批判》は存在論を分析知論 Dianoiologieに変えてしまった〉のである。存在論の復興は19世紀末からであり,とりわけ第1次世界大戦後である。存在論と呼ばず広く〈対象論〉を説いたのはマイノングである。さらにフッサールは事実学に本質学を対立させ,事実的諸学は〈形相的諸存在論 eidetische Ontologien〉に理論的基礎をもつとし,〈実質的・存在論的諸学科〉は〈実質的領域〉に区分される〈実質的存在論〉ないし〈領域的存在論 regionale Ontologie〉に基づき,〈形式的・存在論的諸学科〉は〈形式的領域〉による〈形式的存在論 formale Ontologie〉に基づくと説いた。また N.ハルトマンは新カント学派から《認識の形而上学綱要》(1921)によって存在論の哲学者へと転換し,実在的世界の無機,有機,心,精神の4階層とそれらの範疇とを説いた。これらの新しい〈存在論〉の特質は,実在的な存在者だけでなく,観念的・理念的・意味的な存在者をも自覚的にその射程に収めた点である。同時に,従来は客体と対象との側面から,すなわち自然,神,動物,機械との差異においてのみ認識されてきた〈人間存在〉を,真に〈人間存在〉として根本に据え,人間存在に基づく存在論を建設しようとしたのは,実存哲学であり,哲学的人間学であった。
 ハイデッガーは人間を〈現存在 Dasein〉と呼び,現存在の存在・存在意味を〈関心〉〈時間性〉とし,現存在の分析論を〈基礎的存在論Fundamentalontologie〉と呼び,人間以外の存在者に関する諸存在論の基礎を与えるものとした。彼は基礎的存在論を〈現存在の形而上学〉の第1段階とし,人間の存在を通路とする基礎的形而上学を構想した。同時に従来の〈存在論〉〈形而上学〉は,〈存在者 das Seiende〉とその〈存在者性Seiendheit〉とを問題とするが,存在者と存在者を存在者たらしめる〈存在 Sein〉との区別,すなわち〈存在論的差異 ontologische Differenz〉を〈忘却〉していると説き,この〈存在忘却〉の広がった世界の中で〈存在の語りかけ〉を待ちうることこそ現代の人間の務めであると説く。ハイデッガーの思索は変転するが,存在論・形而上学が〈存在者〉と〈存在〉との区別に基づいており,真実の存在論・形而上学は〈存在の真相〉のそのつどの発現に由来するという洞察は,〈存在論〉の系譜の中で銘記されるべきことに属する。
 今日,存在者は諸科学の対象であるが,科学的な対象知としての存在知は,そのまま〈人間存在〉のための知となりうるであろうか。そもそも〈人間存在〉は何のために在るのか。客体知・対象知が自己知・主体知を凌駕するように見える現代こそ,〈知〉を〈人間存在〉のための〈存在〉となしうる人間の可能性が,根本から問い求められているのである。
[訳語の系譜]  日本では1870年(明治3)西周がウォルフの Ontologie を〈理体学〉と訳したのが最初であり,81年〈実体学〉,1900年〈本躰論〉,05年〈本躰論〉〈実躰論〉,11年には〈本体論〉〈実有論〉,12年(大正1)には〈実体学〉〈本体学〉,17年に至っても〈本体論〉と訳されている。29年(昭和4)には〈存在学〉〈存在論〉が使用され,30年の《岩波哲学小辞典》では ontologia が〈本体論〉,ontology,Ontologie は〈存在学〉〈存在論〉と訳されており,〈存在論〉が一般化するのは昭和10年代以降である。〈存在論〉は少なくとも1925年以来,ハイデッガーの Ontologie に対する訳語として用いられている。29年和嶋哲郎は,〈存在論〉の根本の問いは日本語では〈あるということはどういうことであるか〉であるとし,〈もの〉〈こと〉〈いう〉〈ある〉に関する見解を発表したが,これもハイデッガーの影響下のものである。31年和嶋哲郎はハイデッガーの Ontologie を〈有(う)論〉と訳し,今日でも若干の追随者がある。しかし存在論の本格的研究は,今後に残された課題なのである。⇒実存主義∥認識論               茅野 良男

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存在
存在

そんざい
being; tre; Sein

  

有ともいう。哲学における最も根本的な概念。それゆえ十全に定義することはできない。通常,(1) 何か「がある」,(2) 「何か」がある,(3) 何かは何か「である」 (内的規定) の3様の意に用いられ,それぞれ,(1) 実存または実在,(2) 存在者,(3) 本質とも呼ばれる。中世スコラ哲学では可能態である (3) が,現実態である (1) によって現実化され (2) となると説明される。 (3) の観点から主語となって述語とはならない実体と,その逆の偶有が区別されている。また (1) と (3) との間には現実的な区別が存するか否かが大論争された。近世以後,存在は客観的に存してこれを主観がとらえるとする立場と,主観が構成するものとする立場とに分れた。 M.ハイデガーは存在者とその規定根拠としての存在を峻別する。





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存在
I プロローグ

存在 そんざい 古代ギリシャの昔から現代にいたるまで多くの哲学者たちを探究にかりたてた哲学上の重大なテーマ。存在と生成、存在と仮象、存在と思考、存在と当為というように、他の用語と対になってつかわれることが多い。

II さまざまな「存在」の意味

対置される概念に応じて、「存在」の意味はことなってくる。「生成(変化)」と対置される場合は、「かわらない永遠不滅なあり方をしていること」を意味する。「仮象(または現象)」と対置される場合は、「そのようにみえるのではなく本当にそのような状態にあること」を意味する。「思考(観念)」と対置される場合には、「心の中でそう考えられているだけではなくそういう状態で心の外に実在すること」を意味する。「当為(~すべきである)」と対置される場合は、「どうすべきかはとにかく事実はこうこうであるということ」を意味する。

そのほかにも対になる概念に応じて「存在」はさまざまな意味をもつので、どのような文脈で「存在」がつかわれているかをじゅうぶん見きわめることが大切である。

III 「である」と「がある」

また日本語の「存在」という訳語は、西洋語のesse(ラテン語)、be(英語)、sein(ドイツ語)、etre(フランス語)などと意味がかならずしも重ならないから、誤解しないようにしなければならない。というのもbeは、日本語の「~がある」という意味だけでなく、「~である」というときの「ある」も含意するが、日本語で「存在」というともっぱら「~がある」の意味に解されかねないからである。この2つの「ある」の区別が、すでに重要な哲学的テーマとなる。

IV 本質存在と現実存在

「~である」というときの「ある」が「本質存在」、「~がある」というときの「ある」が「現実存在」または「事実存在」とよばれて、2つの「ある」は古くから区別されている。たとえば、理想の国家とは社会の隅々まで正義がいきわたっている国家「である」というのは、理想国家の本質や定義をのべたものである。しかしそうした国家「がある」かどうかは別問題である。この国家が現実にあるかどうか、つまり現実存在は、そのような国家の本質存在とは別のことなのである。

V 「存在」観による分類

「存在」という概念がもつこの2つの意味のどちらを重視するかによって、西洋哲学の主要な哲学者をわけることもできる。一般に合理主義的な傾向をもつ哲学者は「本質存在」を重視し、経験主義的な傾向をもつ哲学者は「現実存在」を重視する。

1 合理主義者

最古の合理主義者パルメニデスは、「思惟(しい)することと存在することは同じひとつのことだ」といい、「あるものはあり、ないものはない」ともいうが、こうした謎(なぞ)めいた言葉も、「存在」や「ある」を本質存在と解すると、理解しやすい。プラトンのイデアもそうした用語法の延長上にある。個々の家が家「である」といえるのは、家のイデアによるのだとプラトンはいう。イデアがまずあって、それにあわせて個々の物がつくられると彼は考えた。

2 経験主義者

これに対して、経験を重んじたアリストテレスは、まず現実に存在する個々の物から出発する。まず個物「がある」。個物には、何からできているか(質料)と何「である」か(形相)の2つの側面がかならずそなわっているが、この形相こそプラトンのいうイデアだとアリストテレスは考えた。

しかしこの形相がどのようにして生じてくるかの説明に関しては、アリストテレスはプラトンに近づく。つまり形相はあらかじめ個物の質料の中に可能性としてやどっていて、それが現実に存在するようになっただけだと考えた。いずれにしろ、形相を個物の成立より前にあるものと考えた点ではプラトンと同じである。

→ 形相と質料

VI 神の存在証明

本質存在と現実存在という対概念は、中世以降神の存在証明においても利用されている。神は全知「であり」、最善「であり」、全能「であり」、そして存在「である」。だから神は存在する。神の本質存在、神の定義にはその現実存在がふくまれているという証明である。中世のアンセルムスにはじまるこのいわゆる「存在論的証明」は、形をかえて近代のデカルトやスピノザの哲学にもながれこんでいる。

→ 神の「神の存在の論証」

VII カントの「存在」観

「~である」に「~がある」がふくまれる場合があるとするこの議論を決定的に論駁(ろんばく)したのは、カントである。カントは現実存在と本質存在を明確にわけて、いくら理性で本質存在をくわしく論じても、現実存在はえられないと主張した。カントによると、何か「がある」と認識するためには、感覚や経験が必要である。他の点では合理主義者のカントは、この点では間違いなく経験主義者ヒュームの弟子である。

VIII ハイデッガーの存在論

カント以後、「存在」は哲学の中心的な話題となることがあまりなかったが、20世紀になってふたたび脚光をあびた。これにはハイデッガーの哲学が大きな役割をはたした。

ハイデッガーは存在者と存在を区別する。あらゆる学問はそれぞれ特定の存在者を研究するが、それらの存在者を存在するものたらしめている根拠までは問わない。そこにせまるのは哲学だけである。科学も宗教も芸術も人間によるなんらかの存在了解から生じる。その大本の存在了解をまず解明するのが哲学であり、彼のいう「基礎的存在論」である。

人間は、物や動物のようにただ存在しているのではなく、自分の存在を了解しながら存在している。しかも、その了解の仕方がその存在の仕方を(自覚していなくとも)きめている。その無自覚的な存在了解を自覚化する作業が哲学である。

ふつう人間は自分の存在をさほどリアルに感じていないが、たとえば自分の存在の終わり(死)に直面したときには、自分がいま現に存在していることをありありと感じる。人間は自分が時間的に有限な存在者であることを自覚できる。神や動物にはそれができない。人間だけが無を媒介にして存在をテーマにできる。人間とは存在があらわれでる場だとハイデッガーは考えた。

→ 観念論:形而上学:現象学:死:死学:実在論:実存:実存主義:ノモスとピュシス:唯物論:唯名論:論理学

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A.ゲーリンクス
ゲーリンクス

ゲーリンクス
Geulincx,Arnold

[生] 1624.1.31. アントワープ
[没] 1669.11. ライデン

  

偶因論で知られるオランダのデカルト主義哲学者。ルーバン大学で哲学と神学を学び,のち教授となったが,1658年,ジャンセニズムの同調者という嫌疑をかけられて追われライデンに避難。忠実なデカルトの徒であったが,倫理学に深い関心をはらってアウグスチヌスの影響を受け,全能の超越的神への信仰が彼の偶因論哲学の源泉となった。それによると神は万象の唯一の原因であり,私の思惟や身体運動の作者は私ではなく神であり,肉体が思惟の機会因となるという。行為に関してはすべて神の意のままという決定論にいたるが,人間の自由を認めて罪と誤謬を神に帰することを避けるとともに,神への意志的従属を唯一の徳とした。主著"Tractatus ethicus primus" (1665) ,"Ethica" (65) ,"Physica vera" (88) ,"Metaphysica vera" (91) 。





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ゲーリンクス 1624‐69
Arnold Geulincx

デカルト学派の哲学者。ベルギーのアントワープに生まれ,ルーバン大学に学んで,のち同大学の教授,ついでオランダのライデン大学教授となり同地で没した。代表的な機会原因論者の一人。デカルトは精神と物体とを独立する実体として分離しながら,人間においては心身結合をみとめたが,ゲーリンクスは両者の直接的相互作用を否定し,身体の刺激によって精神に感覚が生じたり,精神が意志によって身体を動かす場合も,真の作用者は神のみであって,神が身体の刺激または精神の意志を〈道具〉ないしは〈機会〉として感覚または身体の運動を生ぜしめるとした。彼はまた倫理学を重視して主著《倫理学》(1675)を書いたが,そこでも神が唯一の能動者であるこの世界において,人間は単なる〈傍観者〉にすぎないことが強調され,そのような人間が自己の無力を自覚して神の摂理に従う〈謙虚〉の徳が称揚されるとともに,自愛にもとづく幸福欲が厳しく退けられている。ほかに《真の形而上学》(1691)などの著書がある。                    赤木 昭三

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機会原因論
機会原因論
きかいげんいんろん occasionalism

偶因論ともいう。デカルト以後の哲学の重要問題であった心身問題や神と世界の問題を,神の作用を強調する方向で解決しようとして,17世紀後半のデカルト学派の哲学者コルドモア Gレraud deCordemoy,ゲーリンクス,マールブランシュらが立てた説。世界の事象の唯一の真なる原因は神であって,これらの事象の自然的原因はすべてただ神の作用の機会原因,すなわち神がその事象を生起させる際の条件にすぎないとされる。たとえば心身問題において,デカルトは精神と物体(身体)を互いに独立する2実体として峻別する一方,人間においては両者の実体的結合をみとめたが,この説によれば,心身のあいだの直接的相互作用は否定される。身体からの刺激で精神に感覚が生まれたり,あるいは精神の意志によって身体を動かす場合にも,その刺激または意志は単なる機会原因であって,真の原因は神にあるとされた。                   赤木 昭三

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機会原因論
機会原因論 きかいげんいんろん Occasionalism 17世紀のフランスの哲学者デカルトの後継者であるゲーリンクス、マールブランシュなどがたてた哲学体系をさす言葉で、偶因論ともいう。心と身体の関係を説明するために、彼らは神をただひとつの原因とした。心と身体の関係については、身体の働きや変化は、心の変化に先だつか、それともともなうか、あるいはあとにつづくと考えるのがふつうである。そして、この考え方では、存在するものはすべてたがいに直接はたらきかけるということが前提になっている。しかし機会原因論者たちは、原因と結果は類似していなければならないが、心と身体のように類似しない実体がたがいに直接かかわりあうことはありえないと主張した。

機会原因論によれば、心の働きは身体の働きの原因ではないし、原因にはなりえない。心の働きが生じるときには、つねに神がこの働きにかかわっている。あるいはこれを理由にして、対応する身体の働きを直接生みだす。その逆、つまり身体の働きから心の働きが生じる場合も同じである。つまり、心身や世界が論じられるとき、神の働きだけがいつも中心となるのである。しかし、この理論では問題点がのこる。もし心(精神)が身体(物体)に直接はたらきかけることができないなら、精神的なものである神もまた、精神に類似しない物体にはたらきかけることはできない。反対に神が心とは別のものであるとしたら、神は心にはたらきかけられないはずである。

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心身問題
心身問題

しんしんもんだい
mind-body problem

  

心身二元論における精神と肉体 (心的現象と身体現象) の関係の問題 (徹底した唯物論や唯心論では偽問題である) 。知覚では外界からの刺激を受けて感官に生じた物理的,化学的変化がいかにして知覚像という心理現象を引起すのかという問題があり,意志作用ではたとえば腕を動かそうという意欲がいかにして身体運動を引起すのかという問題がある。アリストテレスの質料形相論では肉体は受動的原理である質料,霊魂は能動的原理である形相とされ,中世を通じてこの思想が支配的であった。デカルトにいたって精神と物質がそれぞれ自律的な実体とされると,両者の関係のかなめにある心身問題は彼の哲学における重大な課題となった。デカルト自身はこれを経験的事実として素朴な心身相互作用説をとったが,それと彼の二元論との調和の点でのちに課題を残した。デカルト哲学の批判から独創的な3つの説が生れた。第1は全現象の直接原因を神に求める N.マルブランシュらの偶因論,第2は精神と肉体を唯一の実体すなわち神の2つの様態とする B.スピノザの平行論であり,第3は一種の平行論であるが,G.ライプニッツの予定調和説である。また唯物論に近い立場では,精神現象随伴説や,精神の過程を消去する行動主義心理学説などがあり,さらには L.クラーゲスのように心身を一体的にとらえて両者の区別そのものを否定する立場がある。





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心身問題
しんしんもんだい mind‐body problem

心身問題は古来,霊と肉,魂と身体の問題として,宗教や日常の場で絶えず顔を出す問題であったが,また量子力学での観測問題や大脳生理学ではいまだに人を悩ましている。もちろん哲学ではそれぞれの哲学の性格をきめるほどの基本問題であったし,今でもそうである。この問題の大筋は,まず人間を心と体に分け,その上でこの心と体がどう絡みあっているのかを問うことである。ところがその絡みあいの仕方についての各種各様の考えのどれもが満足のゆくものではない。そこでそもそも心と体を分けるのがまちがっているのではないかということになる。しかし心身分離には生活に根ざした強い動因がある。
[心身分離の動因]  まず記憶や想像である。すでにない過去やいもしない怪獣はこの物質世界には存在しない。そこでそれらの記憶や想像は〈心の中〉にあるほかはない。ここで唯物論者といえどもそれらは脳の中にあるなどとはいえない。脳の中をいくら探してもゴジラなどはいないからである。また喜びや悲しみといった感情はまったく非物質的に思える。感情は心的なものとして心の中にある。さらに希望や意志,欲望や願望はまだないものに対する希求なのだからこれもまた心的である。一方,知覚の場でも幻とか各種の錯覚がある。そして同じ一つの物を見ても各人各様に見える。このことから物の〈見え姿〉もまた各人の心の中にあるといいたくなる。こうして人はごく自然に物に対する心的なもの,という考えに導かれ,心を悩ませたり心に秘めたりすることになる。
[心身の絡み]  こうしていったん心的なものが抽出されると今度はそれと物的なもの,なかんずく身体との関係が問題となる。こうした心的なことがらと身体とが強く連関していることはだれの目にも明らかだからである。精神的ストレスが胃潰瘍を起こしたり,野球選手が気力でホームランを打ったりすることなどはしばしば見られるところである。そこで〈心呷身〉の一方向きあるいは両向きの相互作用説 interactionism が提出される。しかしその作用がどんな仕掛けで起こるのかを納得のゆく形で答えた人はない。その代表者であるデカルトも,身体と心の絡みの中心を松果腺としただけで,松果腺と心の絡みを説明できなかった。そこで,そのような作用はない,心と身体とは二つの時計のようにうまく調子がそろって平行しているのだ,というのがフェヒナーが平行論 Parallelismus と名付けたものである(心身平行論)。その一変種として,主役である身体とくに脳の動きに心が随伴するという随伴説epiphenomenalism がある。いずれにせよここでも心身を平行させる機構については何も語ることができない。その平行を単に事実として受けとめよというのである。
[心身分離の否定]  そこで心身の絡みの前提である心身分離を否定する考えが生じるのは当然である。スピノザ,マッハ,アベナリウス,ベルグソン,ストローソン,そして最近ではスマート J.Smart の心脳同一論等がそれである。しかし上に述べたように,心身分離には自然で強い動因群がある。その一つ一つを説得しなければならないのに,これらの一元論者はそれを果たしていない。そこでそれをここで――大筋だけだが――試みる。まず記憶の場合には,記憶が過去の〈像〉であるという誤解を取り除く。ある記憶が何かの像だとするならば,それが〈何の〉像であるかが承知されていなければならない。するとその〈何か〉は,過去の何かそのものであって像ではない。すなわち過去そのものが登場していなければ,記憶は何の記憶像であるかがわからない。そして過去そのものが登場しているのならば,その〈像〉は無用無益である。結局,記憶とは過去そのものの登場であり,したがって心的な像ではない。また感情も心の中のものではない。例えば恐れの感情は心の中にあるのではなく,当の恐ろしい物の相貌なのである。怖い物から恐れの感情だけを引き影がして,心の中に分離することはできない。そして冷や汗や足のすくみが心の中のことではないことはだれもが知っている。結局恐ろしさは外部の物的状況の中にあるのであって,心の中にあるのではない。
[存在概念の拡張]  期待や想像の場合はどうか。想像された桃太郎はどこにいるかといえば,どこかの陸地の上にいるのであって,心の中にいるのではない。それは現実の人間ではない。しかしその居所は外部空間の中であって,心の中などではない。それは〈想像上の人間〉として外部空間に存在する。予定され期待されているビルもまた,外部空間の中に存在する。それは現実のビルではない。しかし数年の先という時点,何丁目何番地という地点に〈未来のビル〉として存在する。したがって心の中などにあるのではない。以上のような仕方で心身分離の動因を解毒するには,存在概念を拡張して,過去や未来,そしてさらに想像の事物まで存在に組み入れることが必要である。枯尾花が幽霊に見えたとすれば,その時点では幽霊は存在した,外部空間に存在したのである。そして通常の存在概念はこの拡大された存在概念の中での一分類項となる。こうして非情無情の物質世界の中に居所不明のエアポケットのような〈心〉があるという心身分離の図柄から,有情の時空世界の中を有情の身体が動くという図柄に移行する。そしてこの後者の図柄の中では,心身の絡みあいの問題は生じない。
[人間像の変革]  この新しい図柄の中で科学の描く人間像も,新しい解釈を必要とする。とりわけ外部刺激が脳に作用して世界風景が見え聞こえるという生理学公認の事実の再解釈が必要である。視覚を例にとる。まず視覚の風景が〈見透し〉構造をもつことに留意する。前景を透して中景が,そしてそれらを透して遠景が見えるという構造である。このとき前景に変化がおきる。例えば色ガラスを置くとか霧がまくとかすれば,それ以遠の風景が変化する。これは因果作用ではない。前景から遠景へ因果的作用は生じていないからである。それは因果作用ではなく,前景の変化〈即ち〉中・遠景の変化という,〈即ち〉の変化である。さて視覚風景を前景の方にたどると眼球,網膜,視神経,脳となる。それらに変化が生じるとそれ以遠の風景に変化が生じるというのが生理学的事実だからである。ただそれらは正常な場合には視覚的には空気と同様に〈透明〉なのである。こうして脳に変化が生じれば視覚風景に変化が生じるのは因果作用ではなくて〈即ち〉の変化であると解釈するのである。以上に見られるように,心身問題とは人間像の変革を要求し,またそれに導く問題なのである。⇒体∥心          大森 荘蔵

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予定調和
予定調和

よていちょうわ
harmonie prtablie; preestablished harmony

  

ドイツの哲学者ライプニッツの形而上学的根本原理の一つ。彼の実体概念であるモナドは相互に影響し合うことはなく,因果関係は見かけにすぎない。たとえばAが語った言葉をBが理解するのは,A,B,2つのモナドのそれぞれの内的変化があらかじめ神によってしかるべく定められているからであると説明される。全歴史を通じ,全世界のモナドの変化の過程を,あたかも直接的相互関係があるかのように支配しているこの原理が予定調和である。それが典型的に適用されるのは心身問題で (精神と肉体が別々のモナドになる) ,デカルトによって残されたこの課題について,ライプニッツはこの考えを偶因論よりも優位とした。





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予定調和
よていちょうわ harmonie prレレtablie[フランス]

ライプニッツの形而上学思想の核心をなす考え方。ライプニッツは〈モナドロジー〉の立場から,神により創造された諸実体の間の直接的相互作用を否定するが,それにもかかわらず世界を構成する諸実体のはたらきが,互いに厳密に対応しあい,全体としてよく調和しているとした。そのために,また問題をより限定すれば,デカルト以来の心身関係についての困難を解決するために,現実的世界の創造に先立つ神の可能的世界の構想のうちに,諸実体の間の調和があらかじめ定められており,それにもとづいて創造された世界の事物の間に予定された調和の関係が実現されることを説いた。ライプニッツは時計の比喩によって予定調和を説明した。二つの時計の指針が互いに厳密に合致するのは,(1)直接的影響によってか,(2)時計職人がそのつど手を加えることによってか,(3)二つの時計の機構を,つねに完全に合致しうるように,職人があらかじめ精密に組み立てたかのいずれかである。ライプニッツは(1)の〈通俗哲学〉の道,(2)の〈機会原因〉の体系を退け,(3)の〈予定調和〉の説をもっとも理性にかなうものとみなしたのである。⇒モナド      増永 洋三

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『真理の探究』
真理の探究

しんりのたんきゅう
De la recherche de la vrit

  

フランスの哲学者ニコラス・マルブランシュの処女作で代表作。正式の書名はさらに「そこで人間精神の本性と,学問において誤りを避けるためになすべきその用法が扱われる」と続いている。 1664年にデカルトの『人間論』 De l'hommeに触れて哲学に開眼した著者が続く5年間に数学,自然学から道徳,形而上学にわたる全領域の研究を集中的に行い,そのなかでおそらく 68年頃着手し,73年に第1巻を完成 (1674初版) した。第2巻は 75年に出版したが,この2巻に感覚,想像力,純粋悟性,傾向性,情念,方法を主題とする6編が収められ,マルブランシュの『方法叙説』と呼ばれる。そしてこれらの第3版 (77) には学者らの駁論や質問に答えた 16の『釈義』の第3巻が付せられ,著者の生前に6版を数え,デカルト哲学とキリスト教を結合し,第6編には偶因論 (機会原因論) を明確に打出した。その独創性ゆえにあらゆる方面から攻撃を受け,著者の残りの生涯は論争に彩られた。特に 79年からの A.アルノーとの論争は激しく,アルノーの力で 90年には禁書目録に載せられるにいたった。





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[ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 2008]


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蜜蝋に澎湃する延長(その8) [宗教/哲学]

マニ教
マニ教

マニきょう
Manichaeism

  

ゾロアスター教から派生し,キリスト教 (→グノーシス派 ) と仏教の要素を加えた古代ペルシアの宗教。教祖マニの名をとってマニ教と名づけられた。中央アジア一帯に急速に広まり,4世紀初頭にはローマ帝国へ,さらにはインド,中国にも伝わったが,のちイスラム教の迫害を受けて衰退し,13世紀にモンゴル帝国の侵入により消滅した。東西両世界を文化的宗教的に結びつけた功績は大きい。厳格な道徳律と簡明な教義および礼拝様式をもつ。教義は,光明すなわち善と暗黒すなわち悪との自然的二元論が根本をなしており,明暗の現実界を救う予言者としてマニが光明の神からつかわされたという。





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マニ教
マニきょう Manichaeism

イラン人マニ Mani(216‐276∥277。正確にはマーニー M´n ̄)によって3世紀に創始,唱導された二元論的宗教。当時のゾロアスター教を教義の母体として,これにキリスト教,メソポタミアのグノーシス主義と伝統的土着信仰,さらには仏教までを摂取,融合した世界宗教である。その徹底した二元論的教義では,光と闇,善と悪,精神と物質とが截然と分かたれていた始源のコスモスへの復帰を軸として,マニ教独自の救済教義が宇宙論的に展開される。教団組織は仏教のそれにならったと推測され,出家に相当する〈義者・選ばれた者ardav´n〉と俗人の〈聴聞者 niyヾshag´n〉の2種類の信者により構成されていた。前者には,肉食・動植物損傷の禁止,完全な禁欲,週に2日の断食,イスラムの断食月の先駆となったと考えられるベーマ B^ma 大祭(マニの殉教と昇天を祝う最大の祝祭)に先立つ1ヵ月の断食などが要求された。マニはササン朝のシャープール1世の厚遇を得て,インドに及ぶ精力的な伝道活動を行ったが,次々王ワラフラン1世の宗教政策転換により殉教した。死後も教義は後継者の手により,4世紀には西方では,エジプト,北アフリカ,さらにイベリア半島にまで伝えられ,イスラム時代以降も,ザンダカ主義のような形でイラン系知識人の間に影響を残した。
 マニ自身はアラム語の一方言で記述したが,シャープール1世に献呈した《シャーブーラガーン》という中世ペルシア語書の存在したことも伝えられている。他の聖典としては《大福音書》《生命の宝》《プラグマテエイア》《秘儀の書》《巨人の書》がある。これらすべて,断簡としてしか残されていない。                     上岡 弘二
[中国]  マニ教は7世紀末に中国に伝わり,〈摩尼教〉あるいは〈末尼教〉と音写され,教義に則して〈二宗教〉あるいは〈明教〉と呼ばれた。唐代にあっては,白衣白冠の徒と称された摩尼教は,景教(ネストリウス派キリスト教)および松(けん)教(ゾロアスター教)とともに,西方渡来の宗教の代表と目され,それらの寺院は〈三夷寺〉と称された。とくに漠北にいたトルコ族のウイグル(回世)に広まり,第3代牟羽可汗治下にその国教となりさえした。唐の玄宗は732年(開元20)に邪教として漢人の信仰を禁じたが,在留の西域人については不問に付した。768年(大暦3)にはウイグルの要請で長安に大雲光明寺と呼ばれる摩尼教寺院が建てられ,9世紀の初めにかけて長江(揚子江)方面の大都会や洛陽,太原にも建てられたが,843年(会昌3)に会昌の廃仏に先立って禁断された(三武一宗の法難)。2年後の廃仏の際に景教と松教も禁断され,宣教師たちは還俗させられるが,摩尼教の場合は,入唐僧の円仁が《入唐求法(につとうぐほう)巡礼行記》に,勅が下って天下の摩尼師を殺さしめたと明記したごとく,多数の殉教者を出した点が注目される。五代・宋代以後には,仏教や道教などと習合した秘密宗教として,江南や四川で行われ,しばしば官憲による邪教取締りの対象とされた。日本の《御堂関白記》をはじめとする日記の具注暦に日曜日を〈蜜〉と記すのは,摩尼教の信徒が日曜日を休日として断食日とした暦法が東漸して日本にまで伝わったことの明証である。なお,20世紀初頭以来の中央アジア探検によって,トゥルファン(吐魯番)などから多数の摩尼教関係の文献や壁画が発見された。    礪波 護

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マニ教
I プロローグ

マニ教 マニきょう Manichaeism 3世紀にイランでおこった宗教。マニ(216頃~276頃)によって創始され、何世紀にもわたってキリスト教に対抗していた。

II マニの生涯

マニは南バビロニア(現イラク)の貴族の家庭に生まれた。彼の父は敬虔(けいけん)な人で、マニをおそらくはマンダ教と思われる厳格な洗礼教団にあずけてそだてた。マニは12歳のときと24歳のとき、天使から新しい究極の啓示をかたる預言者として指名されるという霊的体験をし、インドまで布教にいって、そこで仏教の影響を受けた。

帰国後は、ササン朝ペルシャ2代目の王シャープール1世(在位240~272)の庇護(ひご)をえて帝国じゅうで説教をし、ローマ帝国に布教者たちを派遣した。マニ教の急速な伸展は、正統ゾロアスター教の指導者たちの敵意をよびおこし、バフラーム1世(在位274~277)の時代になると、彼らは、マニは異端者だと王に説いた。逮捕されたマニは、獄死あるいは処刑によって死んだ。

III 教義

マニは自らを、ゾロアスターや釈迦、イエス・キリストについであらわれた、世界をすくうための最後の預言者だと主張した。マニの教えによれば、ゾロアスターなどの預言者がのべた啓示は部分的で不完全なものであり、それらはマニの教えの中で包括され、ゆえにマニの教えこそが全体をそなえた完全なものだとされた。また彼の教えは、ゾロアスター教とキリスト教にくわえて、グノーシス主義の影響を色こくうけている。

マニ教の根本教義は、世界を2つにわけ、善の領域と悪の領域との二元論的争いとみることにある。光(霊)の領域は神がおさめ、闇(肉)の領域はサタンがおさめる。元来、2つの領域は完全にわかれていたのだが、原初の大破壊(カタストロフィー)のおりに、闇の領域が光の領域を侵犯し、2者は混交して永遠の闘争をつづけることになった。人類はこの闘争の結果生まれたものであり、それ自体が小宇宙をあらわしている。

人間の体は物質であり、したがって悪である。それに対して人間の魂は霊的なものであり、神の光の破片である。だから肉体や世界という牢獄からすくいだされねばならない。この救済は、釈迦やイエス、そしてマニでおわる神の使者たちによってさずけられる光の領域に関する知識によってえられる。この知識があれば、人間の魂は、自らを牢獄につなぎとめている肉的欲望を克服して、神の領域にのぼることができるのである。

マニ教では、霊魂の完成度によって、教徒たちを「えらばれた者」と「聴聞者」の2つにわけた。

「えらばれた者」は、独身と厳格な菜食主義をつらぬき、酒をたち、労働をせずに説教した。彼らは死後に光の領域にのぼれることを確信していた。これに対して大多数の「聴聞者」は低次の霊的レベルにしか到達しえないとされた。彼らは結婚してもよく(しかし生殖行為はさけるのがのぞましい)、週に1度の断食をおこない、「えらばれた者」につかえた。また彼らは「えらばれた者」に生まれかわることをのぞんでいた(→ 輪廻)。マニ教では、最終的に神の光の破片がすべてすくわれる時がやってきて、世界は瓦解(がかい)し、光と闇とは永久にわかたれると信じられた。

IV マニ教の普及と影響力

マニの死後100年ほどは、マニ教はローマ帝国、ことに北アフリカに信者をえてひろがった。4世紀の神学者アウグスティヌスは、キリスト教に改宗する前の9年間はマニ教徒だった。キリスト教改宗後、彼はマニ教に対する反論をあらわし、また多くの教皇やローマ皇帝もマニ教を非難した。独立した宗教としてのマニ教は、西方では中世初期には姿をけしたが、アルビ派など中世の二元論的異端にその影響はひきつがれた。グノーシス的かつマニ教的世界観は、神智学やオーストリアの哲学者シュタイナーの人智学などの現代のさまざまな宗教運動や団体のうちに生きのこっている。いっぽう、東方への布教は、7世紀末に中国に達し、「摩尼教」などと音写されて大いに勢いをのばしたが、9世紀半ばに禁教となった。

V 資料

ゾロアスターや釈迦やイエスは自分の教えを直接書きしるさなかったため、弟子たちによって教えがゆがめられてしまったと考えたマニは、経典として何冊もの本をあらわした。その断片は、賛歌、教義問答書などとともに、20世紀初期に中国やトルキスタン、エジプトでみつかった。マニ教の教義に関する他の資料は、アウグスティヌスらの著作にみられる。

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ゾロアスター教
ゾロアスター教

ゾロアスターきょう
Zoroastrianism

  

ゾロアスターを開祖とする宗教。主神アフラ・マズダの名から「マズダ教」ともいい,火を神聖視するため「拝火教」ともいう。ササン朝ペルシア時代に隆盛をみたが,イスラムの興隆とともに衰微。現在信徒はインドのムンバイ (ボンベイ) を中心に約 10万人,中部イランに約1万人など,総計で 15万人程度。経典『アベスタ』はヒンドゥー聖典『ベーダ』と言語上密接な関係にある。古代イランの土俗的信仰を基礎に,善神マズダと悪神アーリマンの二元論的構造をもつ宗教。世界を善神と悪神の戦場とみ,世界の歴史を1万 2000年とし,それを4期に分割。第1期はマズダ神の精神的創造期,第2期は物質的創造期,第3期にアーリマンが登場,第4期はゾロアスターが支配。来世には信者ののぼる天界と非信者の落ちる地獄とがあるが,善悪神の戦いの勝者となる善神により,すべての人々が最後には救われるとされる。その教理はのちにマニ教にも取入れられた。なお,F.ニーチェの作品の主人公ツァラトゥストラ Zarathustraは,この教えの創造者からとった名である。





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ゾロアスター教
ゾロアスターきょう Zoroastrianism

ゾロアスター Zoroaster がイラン北東部で創唱した宗教。その主神アフラ・マズダの名を採って〈マズダ教〉,またその聖火を護持する儀礼の特質によって〈拝火教〉ともよばれる。中国においては,松(けん)教の名で知られた。ゾロアスターの活躍時期については,前2千年紀中ごろから前7~前6世紀にわたる諸説があり,なお定説が得られない。アラブによるイラン征服(7世紀前半)までイランの国教の地位を占めていた。その聖典はアベスターと呼ばれる。聖典の言語,アベスター語では,ゾロアスターはザラスシュトラ Zarathushtraに近い音であったと推定される。その聖職者階級をマグ Magu(中世語形でモウベド Mowbed)と称した(マギ)。
 ゾロアスター教は歴史的に以下の3段階に分かれる。(1)アベスター中のガーサーに見られる創唱者自身の教説,(2)アベスターの残余の部分に出るインド・イラン共通時代の神々の復活した段階,(3)中世ペルシア語(パフラビー語)文献に記述されている教義。第1段階の教説は,ゾロアスターによれば,世界は相反する根元的な2霊,スパンタ・マンユ Spトnta Mainyu(聖霊)とアンラ・マンユAngra Mainyu(破壊霊)の闘争の中にあり,各人は自由意志でその両霊のいずれかを選択し,善と悪,光明と暗黒の戦いに身を投じるとされる。その教義は強い終末論的色彩をもち,ユダヤ教への影響が論じられてきた。この戦いにおいて最高神アフラ・マズダと信徒を助けるものに,創唱者の死後アムシャ・スパンタ Amトsha Spトnta(聖なる不死者)と呼ばれることになる6神格がある。この6神格は物質世界にそれぞれ,火,水,大地などの特定の庇護物を有している。信徒は特にこの3要素を汚すことを避け,拝火教の通称が示すように独特の祭祀形式や,鳥葬・風葬のためのダフメdakhme(沈黙の塔)を発達させた。ゾロアスターの教説は,当時の多神教をアフラ・マズダを最高神とする倫理的一神教に統合しようとするものであった。これに反して,ゾロアスターの死後の第2段階では,アベスターのヤシュト書に見られるように,インド・イラン共通時代の神々(ミスラ,アナーヒターなど)がゾロアスター教のパンテオン中に復活した。第3段階のササン朝期の二元論的教義では,アフラ・マズダ(中世語形でオフルマズドOhrmazd)はスパンタ・マンユと同一視され,直接アフリマン Ahriman(アンラ・マンユの中世語形)と対立することになった。この結果,両者をともに超越する根本原理として,ズルバーン Zurv´n(時)を定立する,いわゆるズルバーン教が勢力を得た。
 シーア派の第4代イマーム,アリーはササン朝最後の王ヤズダギルドの娘から生まれたとする口承が流布し,多くのゾロアスター教徒がシーア派イスラムを受容する因となり,イランのイスラム化がすすんだ。他方,10世紀以降ゾロアスター教徒のインドへの移住が行われた結果,現在ボンベイを中心にインドにパールシー教徒とよばれる約8万人のゾロアスター教徒がいる。また,イランにはヤズド,ケルマーンを中心に約2万5000人,さらにパキスタンに約5000人の教徒が数えられる。インドにおいては,ターター財閥が示すように,教徒は活発な経済活動を展開している。
 なお,ニーチェの《ツァラトゥストラ》の主人公ツァラトゥストラはゾロアスターのドイツ語読みである。
                        上岡 弘二

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ゾロアスター教
I プロローグ

ゾロアスター教 ゾロアスターきょう Zoroastrianism 預言者ゾロアスターを開祖とする古代ペルシャにおこった宗教。「アベスター」とよばれる聖典には、ゾロアスター自身の言葉を韻文でしるした「ガーサー」とよばれる部分がふくまれている。聖別した火を礼拝の対象としたため、「拝火教」ともよばれる(→ 火)。

II 教義

ガーサーで説かれているのは、唯一神アフラ・マズダ(知恵の主)への崇拝と、宇宙全体をみたしている善(アシャ)と悪の対立という倫理的二元論である。

善はすべてアフラ・マズダによって創造されたとされる。アフラ・マズダの双子の息子のうち、「聖なる魂」あるいは「創造の力」とされるスパンタ・マンユは善を選択し、のちに「善心」「正義」「アフラ・マズダの王国」「敬虔(けいけん)な信仰」「完全さ」「不死」の6神格にわかれてアフラ・マズダをたすけた。これに対し、双子のもう一方であるアンラ・マンユは悪を選択し、「悪の魂(アーリマン)」となってアフラ・マズダたちに敵対した。

同様に、人間も、善・悪のどちらを選択するかは個々人にまかされていた。死後、魂は「審判者の橋」で審判をうけ、善にしたがう者は天国へいき、悪にしたがうものは地獄におちた。そして、最終的には悪はすべて灼熱(しゃくねつ)の中で消滅していくとされた。

III アベスター
1 「ガーサー」と「7つの章」

聖典「アベスター」の構造は複雑である。これは、ゾロアスター教が2つの宗教体系を統合させたからだと説明されている。

「アベスター」は5書からなっているが、その1つ「ヤスナ書(祭儀書)」には、質のことなる2つの層がみられる。1つは「ガーサー」に書かれているようなゾロアスター独自の宗教思想で、知恵とその創造物への一神教的崇拝である。もう1つは善をつかさどる主(アフラ)への崇拝を目的として、ゾロアスターの死後に「ガーサー」と同じ方言で書かれた7つの章からなる祈りのための書である。

「7つの章」の中ではゾロアスターの教えが称賛されあがめられているが、その内容にはゾロアスター教以前のペルシャの信仰が部分的にまざっており、「ガーサー」の内容とは大きな違いがみられる。さらに、アフラ・マズダ以外の聖なる抽象的存在が登場し、「アフラ」は「善をもつ者」といった形容詞的な意味でもちいられるが、悪とアンラ・マンユは登場しない。また、自然物や神秘的な生き物や祖先の霊魂が崇拝され、アフラ・マズダの姿は、ゾロアスターが考えたものよりも、インド最古の聖典ベーダに登場するバルナ(ときにアスラとよばれる)に似ている。

ペルシャ人の祖先と北インドに侵入した人々は、同じインド・ヨーロッパ語族のアーリヤ人の系統であり、同じような神々を崇拝していたと考えられる。

バルナにはバルナニスという妻たちがいたように、「7つの章」の中に登場するアフラにはアフラニスとよばれる妻たちがおり、バルナニスもアフラニスも雨雲と水の女神たちだった。バルナがリタ(真実、宇宙の秩序)をつかさどる者だったように、アフラもまた善をもつ者で、両者ともその目は太陽だった。また、アフラという名前はしばしばミトラ神の名前につけくわえられたが、ベーダではミトラとバルナの名前はむすびつけられている。「7つの章」では、陶酔性のある液体をだす植物ハオマがあがめられた(ゾロアスター自身はハオマの使用を禁止した)が、この植物はベーダではソーマとよばれている。祖先や自然の精霊や火の神などの他の神々を崇拝することも、ベーダと「7つの章」に共通している。→ ヒンドゥー教

IV 多神教の影響

「ヤスナ書」の「ガーサー」と「7つの章」以外の部分は、それらとは別の方言で書かれており、アーリヤ人の多神教的信仰がまざっている。同様に、「ヤスナ書」と言葉が似ている「ヤシュト書」には、個々の神々への賛歌がうたわれている。神々の中には、豊穣と川の女神アナーヒターがいるが、アナーヒターは非アーリヤ人であるエラム人の神に由来している。

「アベスター」の最後の部分は「ビーデーブダート書(除魔書)」で、前4世紀にギリシャがペルシャを征服したのちに成立した。おもに儀礼や法律に関する規則が説かれており、ユダヤ教の律法書(→ モーセ五書)にいくぶん似ている。「ビーデーブダート書」は、メディア王国起源の僧侶(そうりょ)階級マギの慣習の影響をうけている。マジック(魔術)の語源ともなったマギの慣習では、葬送として死体をさらしたり、アリや蛇などはいまわる動物を害獣とみなして無差別に殺したりする。

「アベスター」は、つかわれている言語と登場する地名からみて、東ペルシャでつくられたと考えられる。

V 受容と歴史

ゾロアスター教を最初にうけいれたペルシャの王は、おそらくダレイオス1世だった。ダレイオス1世の碑文には、アフラ・マズダに対する称賛がたくさん書かれている。彼は理性を強調し、悪は世界じゅうにみちていると考えた。

ダレイオス1世の息子クセルクセス1世(在位、前486~前465)もまたアフラ・マズダを崇拝した。しかし、クセルクセス1世はおそらくゾロアスター教についてくわしくは知らなかったようである。彼の考え方の特徴的な点は真理は死んでからのちに獲得できるとした点で、この考え方は、真理は天界にあるというアーリヤ人の古い考え方の影響をうけている。

アルタクセルクセス1世(在位、前465~前424)もアフラ・マズダの崇拝者だったが、メディア王国起源のマギの慣習の影響をうけて、ゾロアスターの教えを昔の多神教と統合させたのは、おそらく、このアルタクセルクセス1世と思われる。「ヤシュト書」にはこの統合の傾向がみられる。

アルタクセルクセス2世(在位、前404~前359)は、アフラ・マズダのみならずミトラとアナーヒターをも崇拝した。おそらくこの時代に、ペルシャにはじめて寺院が創設された。

ギリシャのセレウコス朝(前312~前64)とパルティアのアルサケス朝(前250~226)では、ゾロアスター教とともに外国の神々も崇拝された。ササン朝ペルシャ(226~651)では、ゾロアスター教がペルシャの国教となった。

ササン朝時代の神学では、アーリマンはスパンタ・マンユではなくアフラ・マズダと直接敵対するものと考えられた。ギリシャの歴史家によれば、この神学はすでに前4世紀のマギの宗教体系にみられたという。また、ササン朝の神学者の中には、アフラ・マズダとアーリマンはズルバーン(無限の時間)の双子の息子であると主張する者もいたが、この教義は結局否定された。

7世紀になってアラブ人たちがペルシャを征服したのちには、多くのペルシャ人がイスラム教に改宗した。

ゾロアスター教は、ヤズドとケルマーンの山岳地帯にあるガブルという小さな共同体の中で維持され、今もイランには1万8000人くらいのゾロアスター教徒がいる。また、インドのムンバイ付近には、パールシーとよばれるゾロアスター教徒がたくさんおり、信仰が盛んにおこなわれている。パールシーたちは今もアベスターの祈祷(きとう)文をとなえ、聖火をともしているが、今日ではハオマは陶酔性のないものを使用している。しかし、中にはマギの教義にしたがって「静寂の塔」に死体をさらしてコンドルにささげる者もいる。

→ ペルシャ:ペルシャ語

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ゾロアスター
ゾロアスター

ゾロアスター
Zroastrs; Zoroaster

[生] 前630/前628/前618
[没] 前553/前551/前541

  

ペルシアの預言者。ゾロアスター教の開祖。古イラン語ではザラシュストラ Zarathushtra。メディアのスピタマ家に生まれたともいわれるが,その生涯については彼の自作といわれる『アベスタ』中の賛歌"Gathas"に若干の記述があるだけである。 20歳頃から隠遁生活を始め,30歳頃にアフラ・マズダ神の託宣を受け,よい思想,完全な正義,期待せる王国,救い,霊魂不滅,調和などについて教えを受け,宗教改革者として活動を始めた。 42歳のときヒシュタースパ王国宮廷で国王を改宗させたが,同王朝の滅亡とともに殉教したという。古代イランの伝統的多神教を道徳的基盤としてマズダ神を主神とする宗教に組織化。遊牧生活の無秩序を非難し,農耕生活の善を説いた。マズダ神と交わったなどの伝説は多いが,神格化されることはない。





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[ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 2008]


ゾロアスター
I プロローグ

ゾロアスター Zoroaster 生没年不詳。ペルシャの宗教予言者で、ゾロアスター教の創始者。古代ペルシャ語ではザラスシュトラという。東ペルシャにアケメネス朝創立前の前6世紀ごろに生まれたとされるが、さらに古い年代だとする説もある。

II アフラ・マズダから啓示

まだわかいころ、知恵の神アフラ・マズダから啓示をうけて新宗教を開いた。既成の諸宗派の僧たちとの論争ののち、コラスミア(現在の西トルキスタン)の王、ビシュタスパという擁護者を獲得。彼の保護のもと、ゾロアスターの教説は広まっていった。ゾロアスターとアフラ・マズダとの対話、およびゾロアスターの説法は、アベスターとして知られる聖典の一部「ガーサー」に記録されている。

ゾロアスターの故郷は山岳地帯で、住民は定住牧畜農業に従事しており、家畜は聖なる動物とみなされていた。ゾロアスターは教説を通じて、彼らが、遊牧民たちの襲撃や生贄(いけにえ)をささげる習慣のある宗派の者たちに対抗して、たがいに団結することをのぞんでいた。

III 西欧思想家たちへの影響

同時に、ゾロアスターの高度な知的内容をもつ教説は、西欧思想にも大きな影響をあたえたとされる。それは、プラトンやアリストテレスといったギリシャの思想家たちの興味をひき、また、ユダヤ、キリスト教的な悪魔論、天使論、終末論に強い影響をおよぼしたと考えられている。こうした影響は「死海写本」のうちの「宗規要覧」にみられる。

なおドイツの哲学者ニーチェの主著「ツァラトゥストラはこう語った」(1883~85)の主人公の名ツァラトゥストラは、ゾロアスターのドイツ語読みである。

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アフラ・マズダ
アフラ・マズダ

アフラ・マズダ
Ahura Mazdh




ゾロアスター教の最高神。アフラは神,マズダは知恵を意味する。すでに,前6世紀頃の碑文にその名がみえる。悪神アーリマンに対する善神。前者は暗黒を後者は光明を表わす。天上の光に満ちたところに住み,神聖な教義や知恵の源として崇拝された。ゾロアスターは,この神を全生命の創造者と呼ぶ。双子の精霊スペンタ・マインユとアングラ・マインユをつくり,像は王冠をかぶった有翼の人間の形をとる。前4世紀までイランでの崇拝の中心だったが,イスラム侵入後次第に後退した。





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アフラ・マズダ
Ahura Mazd´

ゾロアスター教の主神。〈英智(マズダー)の主(アフラ)〉の意。ゾロアスター自身の教えでは創造神,最高神であったが,ササン朝期の二元論的教義においては,悪と暗黒の邪神アフリマンAhriman と対立する善と光明の神と位置づけられるようになった(当時はオフルマズドと発音)。その神像は王冠をいただいた,飛翔する有翼の人物として表現され,ビストゥン,ペルセポリスなどにその例が見られる。             上岡 弘二

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アーリマン
アーリマン

アーリマン
Ahriman

  

ゾロアスター教の神。暗黒と破壊の神,古くはアングラ・マインユという。光明と善の神アフラ・マズダを破壊しようとするが,そのすぐれた勇気と絶対性におじけづき,暗闇で対抗物の悪魔をつくった。アフラ・マズダからの和平の呼びかけも拒否し長い間両者は戦うが,結局アーリマンが悪とともに敗北する。





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スペンタ・マインユ
スペンタ・マインユ

スペンタ・マインユ
Spenta Mainyu

  

ゾロアスター教の聖典『アベスタ』に登場する神的存在の一つ。名は「善霊」を意味する。最高神アフラ・マズダの陪神のなかでも,マズダ自身と最も近く,しばしばこれと同一視される。原初に双子の兄弟である「悪霊」アングラ・マインユとともに生じ,すべての被造物に先立って最初の選択をなし,スペンタ・マインユは善を,アングラ・マインユは悪を選び取った。その結果,前者はアフラ・マズダに陪従する首位の大天使となり,後者はこれと敵対する大悪魔となったという。





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『アベスタ』
アベスタ

アベスタ
Avesta

  

ゾロアスター教の聖典。3世紀頃にゾロアスター教に関する諸伝承が集大成されたもので,「ヤスナ」 (祭儀に関する書) ,「ビスプラト」 (ヤスナの補遺で創造や徳についての祈祷書) ,「ビデブダート」 (悪の除去を目的とする法や戒律を示すもの) ,ホルダ・アベスタ (小アベスタとも呼ばれ,ヤシュト,ニャーイシュン,アフリガーン,ガーフから成る) の4部から成っている。今日の『アベスタ』は,ササン朝期にパフラビ文字を基礎とするアベスタ文字により音写され 21巻本に編集された原典の4分の1で,『アベスタ』の多くはイスラムの侵入により破壊された。『ゼンド・アベスタ』は『アベスタ』の注釈書。





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アベスター
Avest´

ゾロアスター教の聖典。次の5部よりなる。(1)ヤスナ Yasna(《祭儀書》) 全72章のうち17章がガーサーと呼ばれる,ゾロアスター自身の手になる韻文詩篇で,言語学的に一番古層を示す。(2)ビスプラト Visprat 上のヤスナに手を加えた,その補遺的小祭儀書。(3)ビーデーブダート V ̄d^vd´t(《除魔書》) 旧約聖書の《レビ記》に相当する宗教法の書であるが,伝説上の王イマ Yima とその黄金時代に関する章などが含まれている。(4)ヤシュトYasht 21の神格に捧げられた《頌神書》。内容的にはガーサーより古い,前2千年紀にさかのぼるインド・イラン共通時代の神話が見られる。この中では,アナーヒター女神の第5章,ミトラ神の第10章,イラン最古の英雄伝説を扱う第19章などが重要である。(5)ホルダ・アベスター(《アベスター》) 日常的に使用する祈裳文を集めたもの。現存するアベスターは,ササン朝期のそれのわずか4分の1にすぎないと推定されている。   上岡 弘二

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アベスター
アベスター Avesta ゾロアスター教の聖典。開祖であるゾロアスターは、自身で教えを書きのこすことはなく、弟子が書きとめたとされる。しかし、そのテキストは前330年に、アレクサンドロス大王がペルセポリスの王宮を焼いてしまったときにうしなわれたとされる。その後、パルティア王国(前250~後224)の時代に新たに聖典のテキストが編纂(へんさん)され、マニ教の開祖マニ(216頃~276頃)の時代には、文字化されたテキストがあったことが確認されている。

ゾロアスター教が国教となったササン朝の時代に、21巻の聖典が編纂されたが、今日ではその4分の1しかのこされていない。その内容は、神事の書である「ヤスナ」、その補遺である「ビスプ・ラト」、除魔の法をしめした「ビーデーブダート」、神をたたえ招福をいのる書である「ヤシュト」、小讃歌(しょうさんか)である「クワルタク・アパスターク」などからなっている。

ヤスナの中の詩編「ガーサー」には、ゾロアスターがうけた天啓やその説法がふくまれ、それがアベスターの最古層をなしている。

アベスターの中の古い部分は、この聖典以外では使用されなくなったアベスター語(→ ペルシャ語)で書かれている。さらにアベスター語は、古体と新体とにわかれ、古体はもっとも古い「ガーサー」でのみつかわれている。

アベスターには、ゾロアスターによって否定された古い信仰が復活した形でしめされている。ガーサーにおける主神はアフラ・マズダで、この神によって創造された理法がアシャである。アシャの対極にあるのが、不義としてのドゥルジである。アシャにのっとった生活をおくる者は、死後、アフラ・マズダの王国であるクシャスラへいくことができるとされる。

人間が死ぬと、我と魂との分離がおこり、後者はチンワントの橋を通過し、生前の善行や悪行について判決をくだされる。こうした個別の裁判のほかに、世界の終末における裁判も用意されている。

アベスターのヨーロッパ語への翻訳は、最初、18世紀後半にフランスの東洋学者アンクティル・デュペロンがこころみた。全訳は、19世紀末に、同じくフランスのジャム・ダルメステテールによってなしとげられている。

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グノーシス派
マニ
マニ

マニ
Mani

[生] 215/216. 南バビロニア
[没] 274頃.グンデ・シャプール

  

ペルシアの宗教家,マニ教の創始者。ギリシア名 Mans,ラテン名 Manichaeus。宗教家であった父のもとで育ち,幻視に見た天使から新しい宗教を伝えよと命じられた。インドに伝道して成功し,帰国してシャプール1世に迎えられたが,バフラム1世の治下,ゾロアスター教徒の攻撃を受け,捕えられて死んだ。アダム,エノク,釈尊,ゾロアスター,イエスらは真の宗教を教えた預言者であったが,地方的存在にとどまったのに対し,みずからは普遍的伝道者であると自称し,その教えの伝播に力を注いだ。





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[ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 2008]
アウグスチヌス
アウグスチヌス

アウグスチヌス
Augustinus,Aurelius

[生] 354.11.13. ヌミディア,タガステ
[没] 430.8.28. ヒッポ

  

初期西方キリスト教会の教父,教会博士。北アフリカのヒッポの司教。新約聖書とプラトン的伝統との融合を試み,その神学と哲学的思索は中世のみならず後世のキリスト教思想の展開に多大の影響を与えた。その生涯は異教とキリスト教の対決に終始し,みずからも一時マニ教,懐疑論などに傾斜したがアンブロシウスの感化や新プラトン主義の影響,さらに篤信のキリスト教徒であった母モニカのすすめなどにより,ついに回心するにいたった。『告白』はキリスト者に形成されてゆく彼の自伝的著作。 391年司祭となり,396年ヒッポの司教になって以後は異端 (マニ教,ドナツス派,ペラギウス説 ) との論争に加わり,教理と教会の権威の確立に努め,そのうちでみずからの思想を発展させていった。大著『神の国』は神の国と地上の国の対比を通じて教会への信仰を確立させた西洋初の歴史哲学書。





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アウグスティヌス 354‐430
Aurelius Augustinus

西方教会の教父として最も重要な人物で,かつヨーロッパのキリスト教を代表する一人。
[生涯] 北アフリカのヌミディア州タガステに,異教徒の父パトリキウス Patricius とキリスト教徒の母モニカ Monica との子として生まれた。46歳のときに書いた自伝《告白》によれば,16歳のときカルタゴに出て修辞学を中心とする自由学科を学んだが,ある女性と同棲して1子アデオダトゥスを生んだ。さらにマニ教の世界理解に興味を覚えて入信した。そのころキケロの今では失われた作《ホルテンシウス》を読んで〈知恵への愛〉すなわち哲学的精神に燃え立ったという。20歳以後文法学と修辞学を教えるようになった。マニ教には9年間とりことなっていたが,やがてこれに疑問を感ずるようになったときローマに渡り,ミラノに行って高名なアンブロシウスの説教を聞き,カトリック教会の信仰に従って生きようと決意した。《告白》7,8巻はそのときの精神的格闘を詳細に記している。それによると,アウグスティヌスはまずプロティノスの《エンネアデス》を読んで霊的世界の存在に目覚め,次に聖書ことに〈パウロの手紙〉を読んで,謙虚の道こそキリストの道であり救いであることを知ったという。これは一方から他方へ移るものではなく,当時のキリスト教的プラトン主義にならって,前者によって得た自己認識を後者によって社会化していくものであったといえる。この二つの要素は回心のできごとの記述にも見られ,一つは禁欲の女神の呼びかけに従う精神の純化高揚であり,一つは教会的伝承に従う自己放棄の道である。後者については,子どもたちの〈取って読め〉の声を聞いて聖書を開いたところ,そこは《ローマ人への手紙》13章13~14節で,これによって最後のとどめがさされたと劇的に記されている。このしかたは修道士的伝承のもので,彼の回心はそうした伝承を自己の体験によって活性化し,広く教会化したものとみなされよう。これは386年,32歳のときであった。
 その後いっさいの教職から離れ,胸の病をえたこともあって,ミラノに近いカッシキアクムにある友人の別荘に退いた。ここでの半年間に《アカデミア派駁論》《幸福の生》《ソリロキア》など,いわゆる初期哲学的対話編が成る。387年春に洗礼を受け,帰国の準備中に母モニカが死んだが,その数日前に母とともに天に揚げられるという霊的体験があった。この年に《魂の不死》《音楽論》《カトリック教会の習俗とマニ教徒の習俗》が書かれた。391年ヒッポの司祭となり,5年後ウァレリウスのあとをついで司教となる。390年代の著作には《教師論》《真の宗教》《自由意志論》《83問題集》《シンプリキアヌスにあてた諸問題集》《キリスト教の教え》《告白》があり,また多くのマニ教反駁書がある。司教としての生活は,教会の指導と修道士の教育のほか,《三位一体論》《創世記逐語解》《詩篇講解》《ヨハネ福音書講解》など,神学と聖書研究にいとまがなかったが,さらにマニ教,ドナトゥス派,ペラギウス派との多年にわたる論争があり,その徹底した論議を通じてキリスト教の理解を深めていったことは特筆に値する。410年アラリックのローマ侵入を機に大著《神の国》の執筆を始め,ほぼ13年かかってこれを完成した。つづいて《再論》により,これまでの著作活動をまとめている。430年ヒッポの町はバンダル族によって包囲されたが,その直前までペラギウス派反駁の筆をおくことがなかった。
[思想] アウグスティヌスの思想の根幹はキリスト教的プラトン主義と呼んでよい。これはアンブロシウスを通じて知った精神的雰囲気であり,彼自身の独創によって形をとったのである。そこには反発・融合の二つの面があって一義的に固定はされないが,全体として見て古代の哲学をキリスト教的に変え,また信仰内容を知解をもってとらえ直したこと,その際オリゲネスと異なる西方教会的特質を打ち出したことが明らかである。出発点は,神的光の精神への〈照明 illuminatio〉が与える真理の確実性と自己認識という哲学的経験であるが,真理とは神にほかならないことからして,たんに事物のイデア(認識内容)ではなく,創造と摂理とをもって世界を支配するものとされる。真理は神の力・愛・正しさである。また精神の自己認識については,たんに知の形式と構造を示すにとどまらず,愛と意志とをもって存在し働くものであることが言われる。精神は世界を悪としてそこから離脱するのではなく,むしろこれを神の造ったものとして理解し,その中に神の働きを見,かつ他者との共同に生きることを求める。最初の著作《アカデミア派駁論》では,その懐疑論に抗して,どんなに疑っても疑うことのできない〈我〉の存在の確実さを主張し,この我において真理もまた確実であるという〈内在的超越〉の道を開いた。《自由意志論》では,悪は善の欠如であるとともに意志的反逆に由来すること,これに対して神の罰が来ざるをえないが,神は正しい法と摂理をもって世界を導くという〈神義論〉を示した。多くのマニ教反駁書の中では,〈無からの創造〉の意味が解明され,天使と人間の堕罪にもかかわらず神の創造は正しく恵みにみちたものであることが語られている。
 《告白》11巻は有名な時間論のテキストとなっているが,それは時間の分散の中での精神の統一を示して,〈時と永遠〉の問題に迫ったものである。ここに見られる世界の象徴認識は真に彼独自のものと言ってよく,それは《三位一体論》の中で神の存在・本質の解明とならんで,精神を〈神の似像〉としてとらえたことの中に十分展開されていった。ドナトゥス派に対しては教会と典礼の不可侵性を強調したが,その際教会を見えるものとしてだけでなく見えざるものとしても理解した。ペラギウス派に対しては自由意志は恩恵なしに働かず,かえって原罪の事実を露呈するとして深刻な人間観を呈示した。晩年の大著《神の国》はキリスト教最初の歴史哲学と言ってよく,人類史の中でのイスラエルと教会の位置,キリスト預言とその成就が与える歴史の意味を明らかにした。この書は教会と国家の本質的相違とならんで両者の暫定性をも論じていて,政治思想史の上でも重要である。
 アウグスティヌスの後世への影響は深大であるが,そのプラトン主義的性格のゆえに直接的には12世紀までであり,13世紀にアリストテレスがヨーロッパに入ってからはフランシスコ会修道院の中で受けつがれていった。そこではとくに霊魂観と神秘主義が受けつがれた。教義史の上ではペラギウス派反駁が重要で,中世のカトリック教会はこれをそのまま受け入れず,かえって恩恵と自由意志との協働に傾いたのであるが,のちにルターとジャンセニスムは厳格な〈恩恵のみ〉の思想を取り上げ再興した。ジャンセニスムは〈見えざる教会〉の思想をも受けついでいる。     泉 治典
[図像] アウグスティヌスは多くの場合,玉座に座り,書物を手にして教えを説く教師,または書斎で学問にふける学者として表現される。単独像の場合,司教服と司教冠をつけ,さまざまな持物をもつ。書物とペンは学者であることを,教会の模型は《神の国》の著者であることを示し,聖人が手の中または胸の上に掲げる心臓(矢がつきささるか燃えていることもある)は,神への愛を象徴する。後代の伝説によれば,聖人は海辺を散策中,子どもが貝殻で,砂に掘った穴に海の水を耀み出して空(から)にしようとしているのを見て,三位一体の神秘を解することの不可能性を悟ったという。15世紀以降,この場面の表現が見られるようになる。祝日は8月28日。        荒木 成子

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アウグスティヌス
I プロローグ

アウグスティヌス Augusutinus 354~430 西方教会最大の教父で、学徳の高い聖人にあたえられる教会博士の称号をもつ。ヌミディアのタガステ(現アルジェリアのスーク・アハラス)生まれ。父パトリキウスは異教徒だった(のちにキリスト教に改宗)が、母モニカは敬虔(けいけん)なキリスト教徒で、アウグスティヌスの改宗のために心をくだき、カトリック教会に列聖されている。アウグスティヌスは北アフリカのタガステ、マダウラ、カルタゴで修辞学の教育をうけた。15歳から30歳までカルタゴの女性と同棲(どうせい)し、372年に息子をもうけ、ラテン語で「神の贈り物」を意味するアデオダトゥスと名づけた。

II 知的苦悩

ローマの雄弁家で政治家のキケロの哲学的対話編「ホルテンシウス」に感銘をうけ、アウグスティヌスは真理の探究にいそしんだ。キリスト教徒になることを考えたが、それは長年にわたりさまざまな哲学体系をまなんだ末のことだった。373~382年の9年間は、ペルシャのマニが説いた二元論哲学のマニ教を信奉した。

当時西ローマ帝国でひろく信奉されていたマニ教は、アウグスティヌスにとって自らの葛藤(かっとう)にこたえる、すばらしい哲学的・倫理的体系に思えた。そのうえ、マニ教の道徳律の厳しさはそれほど不快感をあたえなかった。のちにアウグスティヌスは自著「告白」の中で、「われに性的禁欲と自制をあたえよ。だが、いましばらくのちに」と書いている。しかし、やがて教義の矛盾に行き詰まりを感じ、マニ教をすてて懐疑主義に転じた。

383年ごろ、カルタゴをでてローマにわたったが、1年ほどでミラノにうつり、大学で修辞学をおしえた。この地で新プラトン主義の影響をうけると同時に、当時のイタリアでもっとも高名な聖職者だったミラノの司教アンブロシウスにであった。

やがて彼は、ふたたびキリスト教にひかれるようになる。彼自身の回想によると、ある日、子供のような声が「とりあげて読め」とくりかえすのがきこえた。彼はこれを、神が聖書をひらいて、目にはいったページを読めと命じているのだと解釈した。聖書をひらくと、「ローマの信徒への手紙」の13章13~14節が目にはいった。そこには「……酒宴と酩酊(めいてい)、淫乱(いんらん)と好色、争いとねたみをすて、主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心をもちいてはなりません」としるされていた。

アウグスティヌスはただちに回心してキリスト教を奉じる決意をした。387年の復活祭の前夜、息子とともにアンブロシウスから洗礼をうけた。イタリアにきていた母は、祈りが通じ、願いがかなえられたことをよろこんだ。その後間もなく、母はオスティアで死亡した。

III 司教として、神学者として

アウグスティヌスは北アフリカにもどり、391年に司祭に叙任された。395年には、ヒッポ(現アルジェリアのアンナバ付近)の司教になり、死ぬまでこの職をつとめた。この時期は政治的にも宗教的にも不穏な時代だった。西ゴート人が西ローマ帝国に侵入、410年にはローマをうちまかし、いっぽう教会は分裂と異端におびやかされていたのである。

アウグスティヌスは神学論争に全身全霊をかたむけてとりくんだ。マニ教の異端とたたかうほかに、2つの大きな神学論争にかかわった。ひとつはドナトゥス派との論争で、彼らは秘跡をほどこす司祭が人格者でないかぎり、その秘跡は無効であるとした。もうひとつはペラギウス派との論争だった。ペラギウス派はイギリスの修道士ペラギウスの信奉者で、原罪を否定していた。長くはげしい論争をつづける中で、アウグスティヌスは原罪と神の恩寵、神の至上性、予定説などの教義を発展させていった。

宗教改革の指導者であるカルバンとルターも、アウグスティヌスの思想をまなびとっており、カトリックとプロテスタントの教理はどちらもアウグスティヌスの純粋に神学的な側面をもとにしている。カトリック教会はとくにアウグスティヌスの制度尊重と教会中心主義の教義を支持している。

アウグスティヌスの教義はペラギウス派とマニ教という両極の中間にあった。人間は自分の力ですくわれるとするペラギウス派の教義に対して、アウグスティヌスは、不服従の精神から人間は罪人(つみびと)となり、人間としての本性ではそれをかえることはできないとした。彼の理論によれば、神の恩寵をあたえられてこそ、人間はすくわれるのだという。いっぽうマニ教に対しては、神の恩寵と協同する人間の自由意志のはたらく場があることを強く主張した。アウグスティヌスは430年8月28日にヒッポで没した。彼の祝日は8月28日。

IV 作品

なみいる教父や教会博士の中でアウグスティヌスが占める位置は、使徒の中のパウロの位置に匹敵する。アウグスティヌスは多作で、説得力のある名文家だった。

もっとも有名な作品は、自伝的な「告白」(400頃)であり、自らの前半生と改宗について赤裸々にしるしている。キリスト教の弁証論「神の国」(413~426)では、神学的な歴史哲学を集成した。22巻からなるこの大著のうち、10巻は汎神(はんしん)論に対する議論にむけられ、残りの12巻は教会の起源、発展、将来をたどり、教会が偶像崇拝にとってかわるべきものだとしている。428年にあらわした「再論」では、初期の自著の中の誤りを、成熟した判断でただし、まとめなおした。

386~429年の間に書かれた270編の手紙は、ベネディクト修道会版の「書簡集」におさめられている。論文には、「自由意志論」(388~395)、「キリスト教教理」(397)、反ドナティスト論の「洗礼論」(400)、「三位一体論」(400~416)、「自然と恩寵」(415)および聖書のいくつかの書についての「説教集」などがある。

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蜜蝋に澎湃する延長(その7) [宗教/哲学]

パウロ
パウロ

パウロ
Paulo; Paul; Paulos(ギ); Paulus(ラ)

[生] 10?.キリキア,タルスス
[没] 67?.ローマ

  

キリスト教史上最大の使徒。聖人。ヘブライ名はサウロ。初めユダヤ教による厳格な教育を受け,パリサイ主義を至上のものと信じキリスト教会を迫害した。キリスト教徒弾圧のためエルサレムからダマスカスへ赴く途中,「サウロ,サウロなぜわたしを迫害するのか」 (使徒行伝9・4) という天からの (イエスの) 声を聞いて回心し,主イエスのわざについてのアナニアの説明によって悟りを開き洗礼を受けた。この回心を契機として伝道者としての生活に入り,特に異邦人への布教を使命として小アジア,マケドニアなどへ数回に及ぶ大伝道旅行を行なった。この伝道旅行はきわめて大きな成果をあげたが,ユダヤ人の反感を買い,エルサレムで捕えられ,カエサリア,ローマで入獄生活を送ったのち,ローマ皇帝ネロの迫害によって殺されたという。パウロは新約聖書正典に加えられた多くの書簡を書き,布教活動のみならず,キリスト教神学の形成にきわめて大きな役割を果たした。





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パウロ
Paul

初代のキリスト教の伝道者。生没年不詳。ギリシア語ではパウロス Paulos。
[資料]  新約聖書中に彼の書いたとされる手紙が13収められているが,そのうち確実に彼のものと思われるものは,《ローマ人への手紙》,《コリント人への手紙》(第1,第2),《ガラテヤ人への手紙》,《ピリピ人への手紙》,《テサロニケ人への手紙》(第1),および《ピレモンへの手紙》の合計7である。《使徒行伝》の後半はパウロを中心にして書かれているが,必ずしも客観性を志した叙述ではない。新約聖書以外には,言うに足る資料はない。
[生涯]  イエスとほぼ同じころ,小アジア,キリキアの首都タルソ(タルソス)で,ユダヤ人の家庭に生まれた。律法に熱心なパリサイ派の一員として成人し,ユダヤ人でありながら律法をおろそかにするキリスト教徒を迫害したが,あるとき突然回心を体験し,それ以後とくに異邦人に福音を伝えるキリスト教の伝道者として活動した。当初はシリアのアンテオケ(アンティオキア)教会で伝道に従事し,いわゆるエルサレム会議(おそらく48年)ではアンテオケ教会の代表として,異邦人信徒に律法を守る義務を課そうとする動きに反対した。その後,やはり律法問題をめぐって,アンテオケ教会内で他のユダヤ人と衝突したため,独立し,主としてエーゲ海沿岸一帯に福音を伝えて(この旅行を通常《使徒行伝》の記述に従い,第1,第2,第3伝道旅行と呼ぶ),各地に教会を建てた。新約聖書中の彼の手紙の大部分は,伝道旅行の途上,これらの教会にあてて書いたものである。第3伝道旅行の後,彼はローマ経由でスペインにまで赴いて伝道する計画をたてたが,その前に以前エルサレム会議でエルサレム教会と交わした約束を果たすべく,自分の建てた異邦人教会でエルサレム教会のために集めた献金をエルサレムに持参したところを,彼の律法批判を快く思わないユダヤ人に捕らえられ,ローマのユダヤ総督に引き渡された。彼はローマ市民権をもっていたので皇帝に上訴し,そのため未決囚としてローマに護送された。ローマに着いてからの動静は明らかでないが,到着後まもなく(59年ころ),皇帝ネロによって処刑されたと思われる。
[思想]  パウロは回心を経てキリスト教の伝道者となったが,それは彼がそれまで信じていたイスラエルの神を捨てたということではない。それまでとは違う仕方で神に仕えることになったということである。その点は〈人の義とされるのは律法の行いによるのではなく,信仰による〉との彼の言葉に端的に表れている。〈義とされる〉は元来法廷用語であって,神の法廷で無罪の判決を受けるとの考え方に由来する。律法はユダヤ教社会を支える規定の総体。ユダヤ人はその律法の中に神の意志が具体化されていると考えた。それゆえそれを忠実に守ることが,神から無罪の判決を受けるための前提条件であった。しかし,この生き方は,とくにそれが形骸化したとき弊害を生む。実際に律法の条項を守るのは個々の人間なので,人は結局自分に救いの保証を求める。そこからは自己過信または不安が生まれる。律法の条項を文字どおり守ることに全神経が集中するので,人を愛すると言っても,相手方は自分が律法を守るための手段にすぎなくなる。そこでは律法の本来の精神は見失われる。パウロは回心に際し,キリストにすべてをゆだねる生き方へと移ることにより,この生き方を去った。すなわち,神は人間を裁く強者として臨むのではなく,十字架刑で殺されることを甘受したキリストにおいてみずからを人々に現したと受けとったとき,パウロにとって自分の忠誠証明としての律法を守る生き方は過去のものとなった。
 彼はそれゆえ,律法にすべてを託すユダヤ教の行き方に批判的であるが,神がイスラエルの民を見捨てたとはしない。かつてイスラエルの民を〈選民〉とした神は,彼らの不信仰にもかかわらず,彼らを選んだという事実に誠実にとどまるのであって,彼はそこにこそ救いの唯一の根拠があると考える。換言すれば,信仰によって義とされるという場合の信仰は,神の側の救いの決定を受け入れるということであって,そこには人間の決断が伴いはするが,それが最終的決定権をもつのではない。
 キリストによって新しい生の可能性を与えられたという理解には,彼の歴史理解も対応している。彼は黙示思想(黙示文学)の影響下に,キリストのできごとを終末の開始と受けとった。キリスト信仰は人間にとり初めから存在していた可能性ではなく,終末時になって初めて開かれた可能性である。他方彼は終末の完全な実現を近い将来に期待し,しかしそれまでは人間はなお不完全であるとして,信仰をもつことによりすでに完全の域に達したとするある種のキリスト者の生き方を批判している。
 パウロにおいては,以上述べたように善行が救いを保証するのではないが,それによって倫理の問題がいっさい不問に付されるわけではない。キリストにより神との関係を修復された者は,他の人との関係を修復すること,つまり愛に生きることを期待されるし,その可能性は開かれたとされる。キリストにより与えられた自由は,彼によれば愛(他人に仕えること)への自由である。ただし,パウロの場合倫理の及ぶ範囲は,実際にはほぼ教会内に限定されている。教会は彼にとり,この世界の中でキリストの支配が現に実現している唯一の場である。したがって彼は信徒に対しそれに見合う日常生活を期待する。他方,教会外の世界に対しては,彼は伝道という形では大いに働きかけるが,それ以外の点でそれを直接関心の対象とすることは少ない。
[影響]  信仰のみによって義とされるとするパウロの信仰理解は,後のキリスト教の歴史に大きな影響を及ぼした(たとえばアウグスティヌス,宗教改革)。彼の手紙が新約聖書の中で最重要視されることも少なくない。辛苦の中に行われた彼の伝道活動も,キリスト教会でしばしば模範とされた。他方,彼によってイエスの運動は観念化され,変質したとする批判もある。⇒原始キリスト教
                         佐竹 明
[図像]  パウロの図像表現のタイプは,初期キリスト教時代でも最も早く成立したもののひとつで,面長で前頭部がはげあがり,先のとがったあごひげをたくわえる。持物は書物あるいは巻物,また剣。3~4世紀には,パウロとペテロを並べた肖像が,おもにローマ市で流行したらしい(メトロポリタン美術館蔵のガラス器断片,4世紀)。また同じころから,パウロとペテロがキリストから律法を受けとる〈律法の授与〉の図像が,ローマ,旧サン・ピエトロ大聖堂のモザイク(現存せず)やローマ,サンタ・コスタンツァ妓のモザイク(4世紀前半)などに多く表された。9世紀になると,《使徒行伝》や《パウロ行伝》にもとづき,多数の場面をもつパウロの生涯の物語図像が生まれる。《ビビアンの聖書》(846ころ)やシチリア島,モンレアーレ大聖堂のモザイク(1183以前)が知られる。近世以降では,デューラー《四人の使徒》(1526。右端がパウロ),ミケランジェロのバチカン宮殿パオリーナ礼拝堂壁画(1542‐45),カラバッジョ《パウロの回心》(1600‐01)などが有名。祝日は6日29日。
                        浅野 和生

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パウロ
I プロローグ

パウロ Paul 3?~62? キリスト教の最高の伝道者にして最初の神学者。「異邦人のための宣教者」とよばれた。

II 生涯

パウロは小アジアのタルソス(現トルコのタルスス)の厳格なユダヤ人の家庭に生まれた。イスラエルの王にちなんでサウロと名づけられ、ユダヤの律法にしたがって、生後8日目に割礼をうけた。すべての面でファリサイ派的な律法の解釈にしたがって養育された。ディアスポラ(ギリシャ・ローマ社会に離散したユダヤ人)の中で、わかいサウロは、ヘブライ語の名前サウロと発音の似ているラテン語名パウロを通称とした。

パウロの手紙から、彼がギリシャの修辞学に精通していたことがうかがえる。おそらく、若いころにタルソスでまなんだものと思われる。だがその考え方には、ラビ(律法学者)になるために、エルサレムの高名な師ガマリエル(20~50年に活躍)のもとでユダヤの律法を正式にまなんだ影響がみられる。律法に関してはきわめて優秀な学生だった、とパウロみずからしるしている(「ガラテヤの信徒への手紙」1章14節、「フィリピの信徒への手紙」3章6節)。

やがてその熱意が高じて、パウロは初期のキリスト教会を迫害するようになった。キリスト教をユダヤの律法にそむいたユダヤ教の分派ととらえ、これを粉砕しなければならないと考えたのである(「ガラテヤの信徒への手紙」1章13節)。「使徒言行録」には、パウロがキリスト教の最初の殉教者ステファノの石打ちの刑を支持し、処刑の現場にたちあったという記述がある。

1 召命

パウロはエルサレムからダマスコ(ダマスカス)への旅の途中で、キリストの姿に接し、キリスト教徒になった(「使徒言行録」9章1~19節、22章6~16節、26章12~18節)。パウロ自身はこの出来事についてかたるとき、ひとつの宗教から他の宗教への忠誠の移行を意味する「回心」という言葉を一度もつかっていない。キリストの啓示がすべての宗教の終わりを画し、それによってあらゆる宗教的な区別はなくなったと、とらえたのである(「ガラテヤの信徒への手紙」3章28節)。

パウロは、「回心」というかわりに、一貫して神に「召命された」という言い方をしている。キリスト教徒になるようにとの神の召命は、すなわち異邦人への宣教者になるようにとの召命であり、これをわけて考えることはできないととらえていた。パウロは、ペトロがしていたような、ユダヤ人に対する宣教が正しいことをみとめたが、キリスト教は全世界にむけての神の召命であること、そしてこの召命によって、ユダヤの律法にしたがう必要はなくなるのだと確信した。

2 伝道

「使徒言行録」の中のひろく知られている記述によれば、パウロは3回の伝道の旅をしている。手紙からは、次の3つの問題に関心をいだいて旅程をくんでいたことがわかる。

(1)伝道者としての使命感から、キリスト教がつたわっていない地域で伝道をすること。その計画は、西は遠くスペインにまでおよんだ。(2)聖職者としての関心から、問題がおこるたびに自らがつくった教会をおとずれること。数回にわたってコリントスをおとずれたのはその一例である。(3)ゆるぎない決意をもって、おもに異邦人の教会から募金をつのり、それを自身の手でエルサレムにあるユダヤ人のキリスト教会にとどけること。(3)については、パウロの真意がどこにあるのか、学者の間でもじゅうぶんには解明されていないが、彼が伝道した異邦人の教会と、パレスティナにあるユダヤ人のキリスト教会とをむすびつけたいという思いがあったのは確かである。

「使徒言行録」によれば、パウロはエルサレムで、彼に反対するユダヤ人がひきおこした暴動の後にとらえられ、最後にはローマへおくられたとされている。また同書では、パウロ自身が自らの死の可能性についてのべている(「使徒言行録」20章24節、20章38節)。彼は62年にローマで処刑されたものと思われる。キリスト教では4世紀以後、この日を2月22日とさだめている。

III 資料

新約聖書にはパウロが書いたとされる13の手紙がおさめられているが、うち7つは、ほぼ確実に彼自身の手になるものとされている。すなわち、「テサロニケの信徒への手紙・1」「ガラテヤの信徒への手紙」「コリントの信徒への手紙・1」「コリントの信徒への手紙・2」「ローマの信徒への手紙」「フィリピの信徒への手紙」「フィレモンへの手紙」である。パウロはこれらの手紙の中で、おりにふれて自らの個人的体験や働きについてかたっており、その生涯を知るうえで重要な資料となっている。大方の学者はこれらの手紙を重視し、「使徒言行録」は補助的な資料として利用している。

IV 神学

パウロの思想を要約しようとすると、かならず壁にぶちあたる。どの手紙もそれぞれ特定の教会にあてて書かれたものであり、パウロはそのつど自身の教えを軌道修正して各教会独自の問題にとりくみ、個々の過ちをただしていかなければならないと考えていたからである。彼の手紙の中でもっとも体系的だとされる「ローマの信徒への手紙」でさえ、パウロの神学的な思想を完全に説明しているわけではない。だが、ある特定のテーマや見方がしばしばくりかえされているので、それが彼の思想の中核をなすものと考えられる。

1 黙示思想

パウロは、ユダヤの黙示思想について、基本的に現世的な見方をとっていた。黙示思想とは、悪魔とその軍勢が支配する古い時代と、神が卓越した力により将来のある時点からはじめる新しい時代の、2つの時代があるとする考え方である(→ 黙示文学)。パウロは、神が子イエス・キリストを世につかわしたとき、すでに新しい時代がはじまったと信じる。だが、それによって、罪と死の力をもつ古い時代が完全に消滅したわけではなく、2つの時代は闘いにはまりこんでいると考えた。その証拠に、死の力はいまだうちやぶられていないというのである。

この終末論的な闘いの結末は、しかし、確実であるとパウロは考えた。神が自由のための決定的な打撃を十字架においてくだしたからである。この時点ではどうみても、古い時代の力が圧倒的な勝利をおさめたようにみえるので、逆説的に思えるかもしれない。彼はキリストの十字架上の死を、「この世の支配者」によるものととらえている。「この世の支配者」とは、刑を執行した為政者と、彼らの内部で、あるいは彼らをとおしてはたらいた悪の力の両者である(「コリントの信徒への手紙・1」2章8節)。しかし、この支配者が勝利をおさめたとはいえない。というのは、「栄光の主」を十字架にかけることで、彼らの破滅の運命が確実になったからである(同書2章6節)。

このように、パウロによれば、十字架はその意味がただしく理解されたとき、神の不思議な力の証(あかし)になるという。すなわち、弱さの中で完全となる力である。神はこの力を、イエスを死から復活させ、聖霊をつかわし、新たな時代の礎として教会をたてることによって、確かなものにした。教会はその結果、この世の闘いのただ中におかれたが、やがて神が復活したキリストをつかわし、闘いを勝利にみちびくことを確信していた。

2 キリストについての見方

パウロは、キリストが人々の罪のために死んだと考える初期キリスト教徒の言葉を引用している(「コリントの信徒への手紙・1」15章3節など)。しかし、彼のキリストについての見方の本質は、神がキリストを罪の力にまさる勝利者にしたのだという主張にある。罪の悔い改めと赦(ゆる)しを重視する、ユダヤのキリスト教徒にひろくみられた考え方を排し、パウロは聴衆に特定の罪の悔い改めをもとめず、キリストの十字架刑で神がすべての罪に勝利をおさめたのだといった。

3 律法

こうした教義をパウロの律法の解釈にてらすと、わかりにくい。パウロは律法を、神聖で公正な善きものだとみとめたが、キリスト教に回心したのちは、律法の力では罪や死をうちまかすことはできないと考えた(「ローマの信徒への手紙」8章3節)。したがって、人は律法にたよることはできない。事実、律法にたよろうとする者は、罪の支配下にあるとき、律法に監視され、とじこめられることに気づくだろう、という(「ガラテヤの信徒への手紙」3章23~25節)。

4 人間

パウロの思想の中で、「肉」と「霊」という言葉をふくんだ部分ほど、ひろく誤解されてきたものはない。ここでいう「肉」と「霊」は、たんなる人間の構成要素と考えるべきではない。パウロにとって、この2つは対立する領域であり、肉の領域(人間の領域)は罪の力に影響されやすい。したがって悪を解決する方法は、人を強制的にしたがわせる倫理規定にあるのではなく、むしろ聖霊という神の賜物(たまもの)にある。聖霊は、愛と喜びと平和を生みだすことによって、新しい共同体の中で勝利をおさめる、というのである。

5 神の選び

前述したように、パウロは、自分の意志でユダヤ教からキリスト教へ回心したのではなく、神に「召命された」のだとかたっている。彼にとってキリスト教は、人々の決意によってはじまるものではなく、神が子イエスを世につかわし、聖霊をつかわすことによって、すでになされたことにおいてはじまるものだった。神は、自らがおしみなくあたえた恩寵を礎としたキリスト教共同体に、人々を召命し、いまなお召命しつづけているのである。

キリストの死において、神は不信心な者を義とされたとするパウロの主張は、神の力の根源的な性質をしめしている(「ローマの信徒への手紙」4章5節)。人は、神によって義とされるために、善行をなそうとするのではない。逆に、最初に行動をおこすのは神である。パウロは、信仰でさえ人間が意識しておこなう行為というよりは、神の賜物(たまもの)だとしている。命と同じように、信仰は神がよびだして存在させたものである(「ローマの信徒への手紙」4章17節)。したがって、すべては個人の意志や努力によってではなく、神の恵みによる、とパウロはみている(同書9章16節)。

V 影響

一般的にみとめられている考え方として、パウロの思想はやがて他の神学的な教えの陰に、事実上姿をけし、5世紀にアウグスティヌスの手で、そして16世紀になってどうにかルターの手でふたたび脚光をあびるにいたったのだとされてきた。現在、この見方は多少修正されている。「ペトロの手紙・2」の著者がパウロを理解することの難しさをのべているが(同書3章16節)、1世紀末から2世紀初頭にかけて、数多くのキリスト教共同体がパウロの手紙にある彼の思想を、自分たちがおかれた新しい状況にあてはめようとした。パウロの影響をうけたこうした共同体については、「コロサイの信徒への手紙」「エフェソの信徒への手紙」「テモテへの手紙・1」および「2」、「テトスへの手紙」(→ テモテとテトスへの手紙)に記述がある。

パウロの神学にはじめて時間をかけてとりくんだのは、やはりアウグスティヌスとルターである。20世紀にはいって、カール・バルトとドイツの神学者エルンスト・ケーゼルマンの研究が、パウロの神学に対する新たな関心をよびおこした。

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キリスト教徒迫害
キリスト教徒迫害
キリストきょうとはくがい

キリスト教は広く世界に伝播してゆくに際して,その非妥協性のゆえに,異なる宗教と習俗をもつ諸社会・国家による迫害をうけた。ここではキリスト教史上もっともはげしいといわれるローマ帝国下初期キリスト教徒がうけた迫害についてのべる。
 原始キリスト教団が成立して以来,教徒はユダヤ教当局やギリシア都市の民衆などから迫害をうけた。ステパノの殉教や改宗前のパウロのキリスト教徒迫害などがすでに《使徒行伝》にしるされている。この時期ローマ帝国の地方総督はユダヤ教内の分派抗争的な,または熱狂的リンチによる迫害をむしろ好まず,改宗後のパウロなどを保護する者もいた。しかし特異な共同体をつくり,他の神々や偶像を排し,固有の生活を守ろうとするキリスト教徒は,伝統的な宗教と風習に根ざすギリシア・ローマ社会の人々から無神論者として軽侮の念をもって見られ,しかもキリスト教徒がユダヤ教徒と異なり,あまねくユダヤ民族以外にも伝道を行ったことは警戒の念をかきたてた。とくにキリスト教の礼典である聖餐,教徒の交わりが〈人肉食い〉〈近親相姦〉との中傷をうけることになり,彼らを反社会的ないかがわしい集団とする一般の風潮ができあがっていった。64年に生じたローマ市大火でキリスト教徒が放火犯として追及され,数千人(おそらく誇張であろう)が処刑されたという,タキトゥス《年代記》が伝えるところの〈ネロの迫害〉の背景には,このようなキリスト教徒への偏見があり,〈人類敵視〉の罪名がかぶせられたのである。しかしこの迫害はあくまで放火罪が処罰対象であり,一時的なものにとどまり,しかもローマだけのことで,キリスト教の存在そのものを対象とした迫害ではなかった。けれども伝承ではペテロ,パウロなどがこのとき殉教したとされている。
 以後1世紀末ドミティアヌスの治世になると,小アジアで大きな迫害が行われたらしい。この時期に書かれた《ヨハネの黙示録》が,怪物になぞらえられたローマ帝国にはげしい憎悪を示しているのはそのためだといわれるが,具体的な迫害の様相は不明である。その後もユダヤ教徒や都市大衆が宗教的熱狂にかられたり,天災による不満のはけ口をキリスト教徒にもとめたりして,地域的な迫害は生じたが,地方当局やローマ皇帝が法によって積極的に教徒を迫害することはなかった。2世紀はじめ小アジアの総督プリニウス(小)とトラヤヌス帝とのキリスト教徒に関する往復書簡では,匿名による教徒告発や当局による教徒探索が禁じられている。しかしキリスト教徒であること自体は処罰対象とされており,正式な告発をうけた教徒は神々と皇帝の像を礼拝するよう強制され,これに屈服すれば釈放され,拒めば処刑された。
 キリスト教徒迫害の法的根拠については長く論争されたが,特別の法が定められたのではなく,上述のごときキリスト教への偏見に立つ通念を背景として,一般人の側から告発がもち出され,地方当局が状況に応じて対処するというのが3世紀初めまでの迫害の実態であったのであろう。このためキリスト教徒の側は新約聖書正典を確立し,教会組織をも強化することができた。教父たちの多くはキリスト教が帝国と矛盾しないことを説いたが,タティアノスやテルトゥリアヌスのように迫害の不当性を論破する護教家も出た。ユスティノス,ポリュカルポスら,教父の中には殉教する者もいたが,殉教者の記録は教徒間にもてはやされるに至り,〈キリスト者の血は種子となり〉教徒数は着実に増していった。
 3世紀,帝国社会の不安が増すとともに,皇帝は権力絶対化,帝国宗教の統一をめざした。これを受け入れないキリスト教徒は,神々や皇帝への礼拝・祭儀に加わらない場合,デキウス,ウァレリアヌスなどの皇帝によって全帝国的規模で迫害をこうむることとなった。しかしそれも一時的で,迫害がすぎ去ると屈服した教徒も教会に復帰し,3世紀末には皇帝の宮廷や軍隊にまで教徒は進出した。3世紀末に帝国を再建したディオクレティアヌスの時代,まず軍隊で熱狂的なキリスト教徒が殉教する事例が相つぎ,303年全帝国にキリスト教徒迫害を命ずる勅令が発布された。この大迫害は小アジア,シリア,エジプト,アフリカでとくにはげしく,教会は破壊され聖書が没収され,祭儀強制も行われて多数の聖職者や熱狂的な教徒が殉教したり,鉱山などで労役に投ぜられたりした。しかし帝国西方ではさほどはげしい迫害はみられず,とくに西方にマクセンティウス,コンスタンティヌスが立って寛容策をうち出して,迫害は東西の政治抗争の具となった。迫害帝ガレリウスは311年に寛容令を発してキリスト教徒の存在をみとめ,その後の抗争に勝ち残ったコンスタンティヌスとリキニウスが312年のミラノ会談の合意に基づいて313年に東方に勅令(ミラノ勅令)を発して宗教自由の原則をみとめ,キリスト教会への没収財産返還を命じた結果,ローマ帝国の迫害政策は終りを告げた。以後リキニウスや〈背教者〉ユリアヌスによる短期間の迫害は行われたが,キリスト教徒は皇帝の庇護を受け,国家宗教への道を歩んでゆくのである。
 キリスト教史上には,このほかササン朝ペルシア,アフリカのバンダル王国,オスマン・トルコにおいても迫害は生じ,中国・朝鮮でも一時的にみられた。日本でも豊臣・徳川時代のキリシタン弾圧がローマ帝国に匹敵する激しさで行われ,明治以後第2次大戦までの間もキリスト教徒の天皇現人神礼拝の拒否,非戦論などを理由に圧迫が加えられることが少なくなかった。またソビエト連邦など社会主義諸国での教徒迫害も一時報じられたが,近年はきかれなくなっている。⇒キリシタン∥キリスト教                松本 宣郎

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原始キリスト教
原始キリスト教

げんしキリストきょう
Primitive Christianity

  

通常イエスの死から紀元1世紀末ないし2世紀初頭までの約 100年間のキリスト教をさす。この期間にイエスの生涯と教説に基づいてキリスト教の基本形態が定まり,福音のヘレニズム世界への伝播,教会組織の整備などが漸次進んでいった。その歴史的経過の詳細については議論が分れているが,大筋はまずエルサレム,ユダヤ,そしておそらくガリラヤなどを中心にパレスチナ教団が生れ,次いで当時の世界に散在していたユダヤ人を足掛りにヘレニズム世界の各地に教会が成立した。このなかではいわゆる異邦人の使徒パウロの活躍が目立ち,教会はヘレニズム文化出身の異邦人信徒の増加によって異邦人教会が主流となり,1世紀後半にはユダヤ教の会堂礼拝と律法からの完全な離脱もなされたとみられる。この期間には純粋・熱心な信仰心,旺盛な宣教活動,信徒間の愛による一致が特徴であるとともに,律法をめぐる対立,信徒道徳の低下や教会内の不和などの事例もあったことが知られている。また1世紀後半にはグノーシス派をはじめとする異端の脅威があって教会指導者は信仰の防衛に苦慮した。しかし全体として信仰の水準は高く,ネロ帝やドミチアヌス帝による迫害も教会の伸長をとどめることはできなかった。新約聖書の各書も原始キリスト教の宣教のなかから生れたもので,その信仰のあかしとなっている。2世紀の初めには各地の教会も1人の司教の指導下に漸次おかれるようになり,異端思想との対立も激化,使徒承伝の信仰を強調する正統教会としての初期カトリシズム形成期に移行した。





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[ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 2008]


原始キリスト教
げんしキリストきょう Urchristentum[ドイツ]

[定義と範囲]  原始キリスト教とは,最初期のキリスト教のことである。しかし,この時期にすでにキリスト教にはかなりの多様性があるので,その内容については,これに後続する時期のキリスト教,すなわち初期カトリシズムの特徴から否定的に定義せざるをえない。ところで,初期カトリシズムの特徴は,自己の属する〈教会の時〉から〈使徒たちの時〉を明確に区別し,教会を統べる単独の監督(司教)を〈使徒伝承〉の正当な継承者とみなし,この伝承を一つの〈信条〉(〈使徒信条〉の原型としての〈古ローマ信条〉)に定型化し,信条を基準にして聖書の〈正典〉を結集しはじめ,監督と信条と正典を認めないキリスト教諸派(とくにグノーシス主義)を〈異端〉として正統教会あるいは〈普遍的教会〉(ギリシア語で〈カトリケ・エクレシアkatholik^ ekkl^sia〉)から排斥することにある。これらの特徴の若干はすでに原始キリスト教後期にも認められるが,そのすべてが出そろうのは後2世紀の中ごろからである。したがって,原始キリスト教の下限は2世紀前半ということになる。その上限は,イエスをキリストと信ずる信徒たちを成員とする共同体が成立した時期であるが,これが〈教会〉という形をとるのはイエスの死後,後30年代に当たる。
[原始教会の成立]  最初の教会(いわゆる〈原始教会〉)は,《使徒行伝》の著者ルカによれば,聖霊の降臨にあずかった十二使徒を中心としてエルサレムに成立し,ペテロに代表される彼らの宣教内容はイエス・キリストの復活にあった。キリスト信仰の成立に,かつてのイエスの弟子たちの有した,復活のイエスの顕現体験に基づく復活信仰が大きな役割を果たしたことは事実である。また,このような信仰を共有する共同体の一つがエルサレムに誕生し,このエルサレム原始教会がエーゲ海周縁地域に成立していった他の原始諸教会に対し,ローマ軍によるエルサレム神殿の破壊(70)に至るまで,一定の影響を与えたことも事実である。しかし,〈十二使徒〉はルカまたはルカ時代(80年代~90年代)のキリスト教の理念であって,史的存在ではない。またルカによれば,原始教会がまずエルサレムに成立し,ここから,エルサレム教会に対するユダヤ教徒の迫害を契機に,その際律法と神殿に対する批判のゆえに殉教したステパノのグループ(いわゆる〈ヘレニスタイ〉)に担われて,福音がサマリア,シリアへと宣教されていき,それにまずペテロが,次いでパウロが加わって,福音はエーゲ海周縁諸都市から遂にはローマにまで達した(60ころ)といわれる。このような福音宣教の経過は,大筋において史実に合致するが,エルサレムからローマへというキリスト教の直線的展開の描写には,〈エルサレム中心主義〉に傾くルカの傾向が強く出ていて,必ずしも史実と一致しない。エルサレム以外の地,たとえばガリラヤの周辺にもキリスト教共同体が成立していたこと,またパウロとは独立にエルサレムからユダヤ主義に傾くキリスト者がガラテヤ,ピリピ(フィリッピ),コリント(コリントス)の諸教会に〈異なる福音〉をもたらし来たこと,またイエスの言葉伝承を担った人々がパレスティナからシリアに入り,その一部が共同体(いわゆる〈Q 教団〉)を形成したことなどが,パウロの手紙や福音書から想定できるし,ローマのみならずアレクサンドリアにもペテロやパウロとは独立に教会が設立されていることも,《使徒行伝》から推定できる。
 原始教会の信仰内容は,パウロの手紙や福音書に前提されている諸伝承から,次の二つに大別できる。(1)ケリュグマ伝承。これは,主としてパウロの手紙に前提され,〈神がイエスを死人の中からよみがえらせた〉〈イエスは主である〉という信仰告白(《ローマ人への手紙》10:9)に基づき,キリストの福音を宣教(ギリシア語で〈ケリュグマk^rygma〉)する目的で形成された伝承で,これには,(a)キリストの死を人間の罪のゆるしとみなし,その死と復活を旧約聖書における預言の成就として解釈するユダヤ型の伝承(《コリント人への第1の手紙》15:3~4)と,(b)キリストの死を,神とともにあった〈神の子〉の,神に対する従順のきわみとみなし,それゆえにキリストは神により〈主〉として天に挙げられたというヘレニズム型の伝承(《ピリピ人への手紙》2:6~11)に分けられる。(2)イエス伝承。これは(a)イエスの業(わざ)(主として奇跡行為)と,(b)言葉に関する伝承であり,(a)はしだいに(b)の中にとり入れられ,終末論的に解釈されていく。(b)の伝承者の一部は,(1)の(b)の要素をも採用し,一つの教団(〈Q 教団〉)を形成するが,他の一部はカリスマ的巡回宣教者として活動した。いずれにしても彼らにおいて,復活し天に挙げられた〈人の子〉または〈栄光の主〉とともに生きることが強調され,(1)の(a)の伝承者の贖罪信仰は後景に退く。
[パウロ]  ユダヤ教徒として律法に対する熱心のあまり,キリスト教を迫害さえしたパウロは,〈イエス・キリストの啓示によって〉(《ガラテヤ人への手紙》1:12)キリスト教に回心し(34ころ),3回の伝道旅行によりエーゲ海周縁諸都市に教会を設立し,遂にはローマにまで至った。第一伝道旅行の後(これをその前とみなす学者たちもある),彼はアンティオキアからエルサレムに上り,同地の教会の〈おもだった人たち〉(イエスの弟ヤコブ,ペテロ,ヨハネ)と会談し(いわゆる〈エルサレム使徒会議〉,48ころ),割礼を前提することなしに異邦人に福音を宣教する承認を得た(《ガラテヤ人への手紙》2:1~10,《使徒行伝》15:1~35)。にもかかわらず律法の順守を救済の条件とするユダヤ人キリスト者に対し,パウロは上記(1)の伝承に拠りつつ,信仰によってのみ義とされるといういわゆる〈信仰義認論〉を展開したが,この世にあって義とされ救われた存在を持続する手段として律法の有効性を認めた(《ローマ人への手紙》3:21~31)。他方彼は,〈栄光のキリスト〉にあって生きることにより,すでに終末が実現されたとみなして熱狂主義と放埒主義に陥った異邦人キリスト者の一部に対しては,キリストの十字架を身に引き受けることと終末の将来性とを強調した(《コリント人への第1の手紙》)。こうしてパウロは,教会内におけるあらゆる差別をキリスト信仰のゆえに排棄したが(《ガラテヤ人への手紙》3:28,《コリント人への第1の手紙》12:12~13),生前のイエスの生には信仰に対する有効性を認めず(《コリント人への第2の手紙》5:16),社会的・政治的には現状の是認に傾いている(《コリント人への第1の手紙》7:17~24,《ローマ人への手紙》13:1~7)。
[パウロ以後の原始キリスト教]  エルサレムのユダヤ人教会は,その指導者ヤコブの殉教(60あるいは62)以後,とりわけ第1次ユダヤ戦争(66‐73)を避けてヨルダン川東方のペラに移住して以来,キリスト教に対する影響力を失い,みずからセクト化して,2~3世紀にはユダヤ主義的〈異端〉(いわゆる〈エビオン派〉)になり下がった。これに対して,異邦人キリスト者がローマを中心としてしだいに〈正統〉教会を形成していくことになるが,その歴史的過程を復元することは,資料不足のために困難である。ただしその信仰内容は,この時期に成立した,福音書をはじめとする,真正なパウロ書簡以外の新約聖書諸文書や使徒教父文書によって立証されている。
 まずマルコは,受難・復活に至るイエスの生涯を上記(2)の伝承の編集によって復元し,(1)の伝承の宣教内容(福音)に史的状況をとり戻して,ガリラヤの民衆の位置に立ったイエスとの生を示唆することを目的として福音書を創出した。マタイの場合は,《マルコによる福音書》と(2)の伝承,とりわけQ 資料(マタイとルカが,《マルコによる福音書》以外に共通の資料としたと考えられている,主としてイエスの言葉から成る仮説的な資料のこと。Q とはドイツ語 Quelle(資料)の頭文字をとったもの)および特殊資料(各個福音書にのみ見いだされる特殊な資料)に拠り,彼独自の福音書を編集して,イエスの教えを旧約の律法の完成とみなす立場を打ち出した。これに対してルカは,マタイと同様《マルコによる福音書》と Q 資料および特殊資料に拠りながらも,神による救済の歴史の中心に〈時の中心〉としてキリストを据え,〈十二使徒〉によって担われたエルサレム原始教会の中に〈真のイスラエル〉の完成を見いだし,〈時の中心〉から〈原始教会の歴史〉を質的に区別して,福音書と《使徒行伝》を著した。こうして,ルカは初期カトリシズムの立場に一歩近づく。他方ヨハネの場合は,地上のイエスを,十字架を通して天に挙げられた〈人の子〉または〈栄光のキリスト〉の〈しるし〉として描き出しており,このキリストに従う人々(〈光の子〉)とこの世に属する人々(〈闇の子〉)を二元的に峻別する立場は,終末の現在性の強調とともに,新約聖書の中では,ルカとは逆に,グノーシス主義に近づいている。ただしヨハネは,みずからの聖霊体験に基づく復活信仰に拠り,福音書の中にイエスの生を同時代史的に描くことにより,この意味におけるキリスト論を人間理解の本質的前提としている限りにおいて,グノーシス主義そのものとは本質的に区別される。⇒福音書
 ところでパウロの立場は,《第2パウロ書簡》(《コロサイ人への手紙》と《エペソ人への手紙》)や《牧会書簡》(《テモテへの手紙》と《テトスへの手紙》)の著者たちによって継承されるが,とくに《牧会書簡》においてはパウロ的伝統が〈健全な教え〉として特徴づけられ,これを担う監督(司教)と執事(助祭)に期待される徳目が,偽りの教えを説く者の不品行と対置されている。使徒的伝承を委託された教会の伝統,これを排他的に担う教職位階性(監督=司教→長老=司祭→執事=助祭),これらを認めずにキリストを介して神との直接性を主張するグノーシス的〈異端〉の排除,――要するに初期カトリシズムの特徴は,《ヨハネの手紙》《クレメンスの手紙》《イグナティオスの手紙》などにしだいに散見されるようになってくる。他方,ローマ帝国によるキリスト教徒迫害が,この時期から地域的(とくに小アジア)に強化され,これに対して《ヨハネの黙示録》は皇帝を象徴的に悪魔化し,帝国の滅亡が近いことを予告して信徒を激励する。《ペテロの第1の手紙》や《クレメンスの第1の手紙》は,迫害に苦しむ信徒たちに対してキリストの苦難を提示し,みずからの苦難に耐えることを勧めるが,ローマの官憲には服従することを要求している。なお,迫害下にある教会は多くの棄教者を出すことにもなるが,《ヘブル人への手紙》は彼らに悔い改めの可能性を否定するのに対して,《ヘルマスの牧者》はこれを肯定し,終末以前の〈今〉の時を悔い改めの最後の機会とみなしている。いずれにしても,とりわけこの《ヘルマスの牧者》から看取されるように,このころになるとキリスト教徒が属する社会層は平均的に中産階級,あるいはそれ以上となっている。信仰よりも行為,具体的には貧者への配慮の業を説く《ヤコブの手紙》も,その例外ではない。⇒イエス・キリスト∥キリスト教
                         荒井 献

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パウロ派
パウロ派
パウロは Paulicians

ビザンティン帝国の二元論的異端。パウリキアノイ派とも呼ばれる。起源は不明だが,アルメニアでおこったことは確実で,最初はキリスト養子論を奉じていたが,7世紀に帝国の東部に拡大したころには,マニ教的二元論を採用していた。パウロ派の名称は使徒パウロまたはサモサタのパウロスに由来するとされるが,7世紀末の教団再建者パウロスの名をとったものであろう。7世紀後半のコンスタンティノス4世の時代に弾圧にさらされ,8世紀前半には主力がイスラム教徒支配下のマナナリ地方に移住した。この時代からパウロ派は分裂をくりかえし,一部はイスラム軍と結んでビザンティン帝国に軍事干渉を行った。小アジアのパウロ派は9世紀後半に衰退した。アルメニアでは10世紀末からトンドラケチ(ワン湖北方のトンドラク地方に由来する名称)と呼ばれる分派運動がおこった。トラキアとブルガリアのパウロ派はのちにボゴミル派異端を生んだ。パウロ派は既成の教会制度や典礼,特にイコンを否定したため,恐るべき異端として迫害にさらされた。なお,3世紀の異端的神学者サモサタのパウロスの信奉者のこともパウロ派と呼ぶが,ビザンティン帝国のパウロ派とは無関係であったと考えられる。    森安 達也

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ボゴミル派
ボゴミル派
ボゴミルは Bogomils

中世のバルカン半島で勢力をふるったキリスト教の異端。パウロ派の影響のもとに,10世紀前半のブルガリア西部マケドニア地方の司祭ボゴミルBogomil が興したとされる。世界を善と悪の対立でとらえる二元論的異端で,教会制度や典礼はもとより,世俗の権威や社会制度もサタン(悪魔)の創始したものとして徹底的に否認したため,反体制運動の様相を呈し,支配者および教会の弾圧を招いた。ボゴミル派自体ははっきりした教会制度を持たず,厳格な禁欲主義を実践する〈完全者〉とそれ以外の信徒の別があったにすぎない。ボゴミル派はブルガリアで勢力を拡大すると,12世紀前半にはビザンティン帝国に現れ,その指導者が捕らえられ,処刑された。さらに13世紀には第2次ブルガリア帝国で繁栄を見たが,1211年のタルノボ主教会議で公式に異端として弾劾された。同じころセルビアとボスニアにも拡大し,ボスニアでは一時国教の地位を得た。なお,ボゴミル派は西ヨーロッパのカタリ派とも密接な関係を有した。                     森安 達也

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義認
義認

ぎにん
justificatio

  

キリスト教神学で,人間を罪の状態から義の状態へ移行させる神の行為をいう。元来ギリシア語の dikaio (義たることを宣告する) という法廷用語から転用されたが,これがラテン語では justificare (義とする) と訳された。パウロによれば,人が神の前で義となるのはわざによるのでも,律法への従順によるのでもない。人間は神の前に義人として立つのではなく,神の恩恵に全面的に依存する罪人として立つ。神こそ罪ある人間を義なるものと呼ぶのである。人間の法廷では無罪のものだけが正しいとされるが,あらゆる人間が罪人であることを免れない神の審判の場では,義ならざる者が神の慈悲によって義者と宣告される。この宣告は恣意的なものではなく,「私たちの罪のために死に渡され,私たちが義と認められるために,よみがえられた」 (ローマ書4・25) イエス・キリストによるのである。こうして罪ある人間は,律法,罪,死から解放され,神と和解し,聖霊を通してキリストのうちに平安と生命をもつにいたる。罪ある人間は,こうして単に義と宣告されるだけでなく,真に義なる者となる。これにこたえて人間の側からは,神の慈悲の判決を受諾し,主なる神に全幅の信頼を寄せねばならない。すなわち,「愛によって働く信仰」 (ガラテア書5・6) をもたねばならない。以上の教説は,初期教会ではほとんど問題とならなかったが,わざによる自己聖化を唱えたペラギウス派との論争で,アウグスチヌスによって恩恵による義認が強調され,さらに中世後期のわざによる義認という表面的な考え方に戦いを挑んだ M.ルターによって一層徹底された。義認における神の行為の側面に重点をおいたルターは,その前提としての人間のわざを排し,「信仰のみ」 Sola fideの立場を取ったのに対して,義認の「結果」の側面に重点をおいたカトリック側は,トリエント公会議で,よきわざの必要をも強調してルター説を断罪した。しかし 20世紀の両陣営の多くの神学者は,両者の相違は概念理解の面だけで,信仰の本質においては根本的断絶はないとしている。以上の歴史的背景から,日本においては,プロテスタントが義認,宣義という訳語を好むのに対して,カトリックは成義,義化の訳語を採用し,罪の許しを意味する消極的成義と内的革新を意味する積極的成義を区別する。





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義認
ぎにん

キリスト教において,救いについて述べるときの重要な用語。パウロの《ローマ人への手紙》3~6章によれば,救いは神によって義と認められることに始まり,さらに聖(きよ)くされることへと導かれる。これを〈義認〉と〈聖化〉といい,ラテン語ではjustificatio と sanctificatio と呼ばれる。カトリックがこれを成義と成聖と訳しているのは,救いが形をとって実現することに重点をおいて考えているからである。その場合,人間の側での条件や段階を表すために功績や恩寵の種類をあげることになる。ルターはそうした考え方を排除して,救いの無条件性を強調し,キリストへの告白と悔改めによる義認や,〈義人にして同時に罪人〉ということを語った。もっともプロテスタントの中でも,義認よりも聖化に重点をおく考えもあり,カルビニズムの聖職者重視や,敬虔主義における回心と聖潔の強調の中にそれが見られる。       泉 治典

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義認
I プロローグ

義認 ぎにん Justification キリスト教の重要な教義。罪によってゆがめられ、あるいは断絶した神と信仰者との関係をただすこと。英語のジャスティフィケーションの文字どおりの意味は「正しくすること、公正にすること」である。カトリック教会では「義化」という訳語をもちいる。

II 聖書の解釈

義認という概念のもとになったのは、ユダヤ教の契約である。古代イスラエルでは、他人との契約は当事者双方にとって必然的に義務をともなうものであり、義務に忠実である者は契約を維持し、「義」であるといわれた。神とイスラエルの民との契約の場合、神の義務とは民をまもり、擁護することと考えられており、神は救いという行為によって義をしめす(「詩編」98章2節、「イザヤ書」51章5節)。一方、イスラエルの民の義務はユダヤの律法(トーラー)にしめされるように、神の意志にしたがうことである。したがって、彼らの義務は、より一般的な意味での義(正義)をしめすこと、つまり道徳的な義務である。

新約聖書では、イスラエルの民がやぶった神との契約を、原始キリスト教社会がイエス・キリストを通じて回復したとみている。実際に「新しい契約(新約)」が成立したのである。とくにパウロは、キリストの死と復活の結果を義認という言葉で説明した。キリストを信じる者は神とのただしい関係に入ることになる。しかし、この新しい状況のもとでは、信者がなにかの行為をしたために義認されたのではない。新しい関係が確立したのは、神の力と慈悲があったからこそだというのである。したがって、信者のなすべきことはただ神を信じることだとされた(「ガラテヤの信徒への手紙」2章16節、「ローマの信徒への手紙」3章24節)。

III アウグスティヌス

4世紀の神学者アウグスティヌスは、イギリスの神学者ペラギウスとの論争で、義認についてのパウロの教えをひきあいにだした。しかし、アウグスティヌスは義認よりも恩寵を重視し、義認については「ただす」という意味のラテン語ジュスティフィカーレを字義どおりにうけとり、よりただしい人間になる過程、つまり事実上の「聖化」であると考えた。

IV 中世の神学

中世のスコラ学の神学者はアウグスティヌスの立場を支持して、神の恩寵の力を主張し、恩寵なしには神との新しい関係はありえないとした。しかし、義認にいたる前に、個人の行いが神の恩寵をうける前提となることをみとめた。さらに、恩寵は救いにつながるものではあるが、人間の意志との協働がなくては救済をもたらすことはできないと考えた。また、恩寵は悔悛(かいしゅん)によってほどこされるため、人間は最小限の悔い改めの行為をしてからでなければ恩寵をうけられないとした。

V 宗教改革

16世紀、ルターは義認についてのパウロの言葉にたちかえろうとした。彼の教えはプロテスタントによる宗教改革の大きな原動力になった。ルターは中世の考え方による悔悛では、罪の意識からのがれることができず、自分の意志ではそれを克服できないと考えた。思いなやんだすえ、聖書の「ローマの信徒への手紙」をよんだ彼は、「正しい者は信仰によって生きる」(1章17節)というパウロの言葉に感動し、神は神の慈悲を信じることだけをもとめているのだと解釈した。

中世の特異性と難解さはこうしてしりぞけられた。ルターによれば、人間は信仰によってのみ義とみとめられる。確かに、神の恩寵は作用するのだが、人間はそこではなにもなしえない、というのである。義認はキリスト教の信仰全体の中心となった。よい働きができる能力も、あるいは秘跡への参加さえ、すべてが義認から発した。このような見方はやがて、カトリック教会とプロテスタント(→ プロテスタンティズム)をわかつすべての問題を体現するものとみなされるようになった。

18~19世紀には、プロテスタントとカトリックのいずれにも、義認の解釈をめぐる大きな展開はなかった。リベラルなプロテスタンティズムはこの問題を無視するようになり、一方、カトリックの思想はスコラ学の立場をとりつづけた。

VI 20世紀以降

20世紀以降のプロテスタント神学者は、罪と恩寵についてのパウロの教義をもう一度復活させようとしている。義認の教義もこうした復活の一環として主張され、「新改革主義神学」とよばれている。

恩寵に関する現代の神学は、伝統的な考え方と重要な面でことなっている。中世および宗教改革時代の多くの神学者にとって、義認という言葉は、罪をおかした悔悛者がためされる法廷のようなものとしてとらえられていた。これに対して、聖書では契約という意味でとらえられており、神と人間との個人的な関係を意味していた。20世紀以降は、神学に対してより個人的かつ実生活にもとづく取り組みがなされるようになったことから、神学者はルターらの主張した個人的経験としての恩寵という考え方に共感する傾向にある。

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アリウス派
アリウス派

アリウスは
Arianism

  

アレクサンドリアの司祭アリウスが唱えた異端説を奉じる一派。アリウスは三位一体説において,子は世界創造以前に父からみずからの存在を直接に受けている点で他の被造物と異なっているが,なお神とは異質であり,他の被造物と同じく無より造られたと説いた。アレクサンドリア地方会議 (321) ,ニカイア公会議 (325) でこの説は排斥され,アリウスは追放された。この間ニコメディアのエウセビオスが援助。コンスタンチウス2世 (在位 337~361) はアリウス派に加担して反アリウスの急先鋒アタナシウスを追放し,正統派を迫害した。同帝のもとでアリウス派の勢力は伸長したが,やがて次の3派に分れて抗争するにいたった。 (1) 過激派アノモイオス説 エウノミウスなど。 (2) 折衷派 アカキウスなど。ニカイア公会議の決定に近い。 (3) 反アリウス派 ホモウシオス説。バシリウスなど。しかしアリウス派は,テオドシウス1世 (在位 379~395) 以後勢力を失った。





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[ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 2008]


アリウス主義
I プロローグ

アリウス主義 Arianism アリウスによって創始された4世紀のキリスト教異端宗派で、イエス・キリストの完全な神性(神としての性格)を否定した。

リビア出身のアリウスは、アンティオキアのルキアノスの神学院でまなんだ。アレクサンドリアで司祭に叙階されたのち、319年、キリストの神性をめぐって上司の司教と論争。325年のニカエア公会議で、異端宣告をうけ、リビアに追放された。アリウスの教説をめぐる論争はやがて当時のキリスト教会全体をまきこむことになり、半世紀以上にわたって教会全体を震撼させた。

彼の教説は、379年にローマ皇帝テオドシウス1世によって最終的に非合法化されたが、それ以後もアリウス主義は、ゲルマン系の諸部族にうけいれられ、2世紀以上にわたって存続した。

II アリウスの教説

アリウスの教説によれば、神は生まれることはなく、また神にはいかなる始まりもない。それゆえ、三位一体の第二位格である「子」(キリスト)は、生まれた者であるがゆえに、けっして「父」なる神と同一の意味での神ではありえない。「子」は永遠の昔から存在していたのではなく、あくまで「父」の意志によって存在するのである。このように論ずることによって、アリウスは神の絶対的な超越性を擁護しようとしたのである。

III ニカエア公会議と異端宣告

アリウスの教説はアタナシオスなどの正統派神学者に攻撃され、325年の第1ニカエア公会議(世界宗教会議)で異端として断罪された。この公会議にあつまった318名の司教たちは、神の子は「作られた者ではなく生まれた者」であり、「父」と同一実体(ギリシャ語でホモウシオス)であるとする、いわゆるニカエア信条を起草した。これ以前、すべての教会によって普遍的に承認された信条(信仰の内容をのべた定形文)は存在しなかったが、アリウス派の破門によって、この新しい信条が教義(ドグマ)としての地位をかためた。

異端の烙印(らくいん)をおされたにもかかわらず、アリウスの教説はすぐにはほろびなかった。このことは部分的には、ローマ帝国側の政治的干渉とも関連していた。ニカエア公会議を主催した皇帝コンスタンティヌス1世は、やはり異端の疑いのあった教会史家カイサレアのエウセビオスの進言をうけ、334年アリウスの追放を解きよびもどした。

その直後に、さらに2人の有力な人物がアリウス主義を支持した。コンスタンティヌスの帝位をついだコンスタンティウス2世と、のちにコンスタンティノープル大主教となる主教で神学者のニコメディアのエウセビオスである。

IV 半アリウス派と新アリウス派

359年まで、アリウス主義は、とくに東方において広くうけいれられた。しかし、アリウス主義者たちはやがて内部対立をひきおこし、2つの派に分裂した。一方が主として保守的な東方の主教たちからなる半アリウス派で、基本的にはニカエア信条に同意するが、聖書にでてこない同一本質(ホモウシオス)という用語の使用には躊躇(ちゅうちょ)を感じた人々である。他方が新アリウス派で、「子」は「父」とは本質がことなる(ギリシャ語でヘテロウシオス)とか、「子」は「父」には似ていない(ギリシャ語でアノモイオス)と主張した。

361年にコンスタンティウス2世が死に、半アリウス派を迫害したウァレンス帝の治世になると、ニカエアの正統派が勝利した。ニカエア派は379年に皇帝テオドシウス1世によって承認され、381年に開かれた第2回公会議(第1コンスタンティノープル公会議)でニカエア信条が再確認された。

V ゴート人による信仰

それにもかかわらず、ゴート人の司教ウルフィラスは同胞民族にアリウス派を広めた。そしてゴート人たちは、この信仰を自分たちの民族的自己同一性(アイデンティティー)をしめす顕著な特質として保持しつづけた。東ゴート族の王でイタリアにおける東ゴート王国の開祖であったテオドリックは、自分の臣下である正統派のカトリック教徒をひじょうに寛容にあつかった。これに反し、アリウス主義を奉じたバンダルは、アフリカにあるローマ帝国の属州を征服したのちに、カトリック教徒に過酷な迫害をくわえた。すべてのゲルマン民族が最終的にカトリックに改宗するのは、ようやく6世紀の末のことであった。

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蜜蝋に澎湃する延長(その6) [宗教/哲学]

ユダヤ教
ユダヤ教

ユダヤきょう
Judaism

  

ヘブライ人のヤハウェ信仰を起源とするユダヤ人の宗教。ヤハウェを唯一絶対神とする一神教であり,しかもヤハウェはユダヤ人を選民としたとする神と人との契約から成立した宗教。聖典は記された律法「トーラー」と,口伝された律法「タルムード」から成る。教団の公式の発足は,バビロン捕囚から帰国したユダヤ人がネヘミア,エズラの指導のもとに民族的団結を唱えた前5世紀後半といえる。その後前2世紀頃からサドカイ派,エッセネ派,パリサイ派などに分派したが,次第にパリサイ派が主流となり,シナゴーグを中心として律法を重んじるようになった。 70年エルサレム神殿破壊後,国を失ったユダヤ人は,1948年のイスラエル共和国建国までディアスポラとして世界各地に散らばったが,その間もラビの指導により,シナゴーグを中心にその伝統を守った。





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[ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 2008]


ユダヤ教
ユダヤきょう Judaism

古代オリエントに発生し,現在も約1500万人の信徒を擁する世界最古級の宗教。その信仰によると,ユダヤ教とは,唯一の神の啓示を受けた民族がたどった歴史の軌跡にほかならない。事実,ユダヤ教の教義は,民族史の中で生起した事件と関連して形成されてきた。したがって,まず民族史を語らずにユダヤ教を説明することはできない。
【歴史】
[古代イスラエル時代]  前2千年紀初頭に,神に選ばれたヘブライ人アブラハムが,カナン(のちのパレスティナ)へ移住したできごとによって,ユダヤ民族の前史は始まる。遊牧民アブラハムは,彼の子孫にカナンの地を与えるという神の約束を受けた(〈アブラハム契約〉)。この契約に基づき,カナンは〈選民〉ユダヤ民族の〈約束の地〉になった。族長アブラハムの孫ヤコブは,別名をイスラエルと称し,のちに12部族の名祖となった12人の子らの父であったが,飢饉を逃れてエジプトへ移住した。その子孫がエジプト人の奴隷にされて苦役に服したときに,族長の神と名のる主の顕現を受けたモーセが,彼らを率いてエジプトを脱出した。彼らは紅海でエジプト軍の追跡から奇跡的に救われたのち,シナイ山において主と契約を結んだ(〈シナイ契約〉)。この契約に基づき,主はイスラエルの〈唯一の神〉,イスラエルは主の〈選民〉となった。〈シナイ契約〉を確認するために,モーセを仲保者として与えられた律法は,民族的・宗教的共同体として成立したイスラエルの生き方を決定する基本法となった。
 前13世紀末に,イスラエル人はカナンに侵入して〈約束の地〉に定着したが,前1000年ころ,ユダ族出身のダビデが王となり,シリア・パレスティナ全域にまたがる大帝国を建設し,エルサレムを首都に定めた。その子ソロモンが,エルサレムのシオンの丘に主の神殿を建立すると,主はダビデ家をイスラエルの支配者として選び,シオンを主の名を置く唯一の場所に定める約束をした,と理解された(〈ダビデ契約〉)。ここから,〈メシア〉(原義は〈即位に際して油を注がれた王〉)が,世の終りにダビデ家の子孫から現れるという期待と,エルサレム(シオン)を最も重要な聖地とする信仰が生じた。
[〈ラビのユダヤ教〉時代]  前586年にユダ王国が滅亡し,エルサレム神殿が破壊されて古代イスラエル時代は終わる。その後約半世紀続いたバビロン捕囚の苦難を通して,古代イスラエルの宗教的遺産を民族存続の基本原理とする共同体〈ユダヤ人〉が成立した。前538年にペルシアのキュロス2世が捕囚民の解放令を発布すると,一部のユダヤ人は故国に帰還して,エルサレム神殿を再建した。これを第2神殿と呼ぶ。以後,後70年にローマ人が第2神殿を破壊するまで,ユダヤ人は,エルサレム神殿を中心とする民族的・宗教的共同体として自己形成をした。しかし,この共同体の独自の生き方を決定したのは,前5世紀中葉に,バビロニアから〈モーセの律法〉の巻物を携えて来たエズラであった。彼は律法を公衆の面前で朗読すると同時に解説した。エズラは,この時代までに変更不可能な聖典として成立していた成文律法を,変化する現実に適用する方法を教えた最初の律法学者であった。エズラ以後,ユダヤ人は,成文律法の解釈のほかに,より広範囲な権威に基づいて決定された法規にも,成文律法と同等の神聖な権威を認め,これを口伝律法と呼んだ。
 以後1000年間に,口伝律法は発展し,膨大な集積となった。口伝律法の研究と発展に携わった律法学者が,ラビという尊称で呼ばれたことから,この時代に形成されたユダヤ教を,特に〈ラビのユダヤ教〉と呼ぶ。長い間,口伝律法は口頭で伝承されていたが,後200年ころ,総主教ユダ(イェフダ)によってミシュナに集成された。その後さらに300年間,ミシュナの本文に基づく口伝律法の研究が積み重ねられた結果,4世紀末に〈エルサレム(別名パレスティナ)・タルムード〉,5世紀末に〈バビロニア・タルムード〉の編纂が完結した。ミシュナとタルムードは,成文律法を中心として1世紀末に成立した旧約聖書とともに,ユダヤ教の聖典となった。
 〈ラビのユダヤ教〉時代は,ユダヤ民族が何度も絶滅の危機にさらされた激動の時代であった。まず,前4世紀末,アレクサンドロス大王の東征によって引き起こされたヘレニズム化の波が,政治的・文化的衝撃となってユダヤ人共同体の存立を根底から揺るがした。特にセレウコス朝シリアの王アンティオコス4世は,ユダヤを征服すると,ユダヤ教を禁止してヘレニズム化政策を強行した。信仰を守るため蜂起したユダヤ人は,マカベア党を中心とする反乱(マカベア戦争)を起こし,長い苦闘の末,マカベア(ハスモン)家によるユダヤの独立を回復した。しかし前63年には,ユダヤはローマの属領となり,ローマの属王ヘロデの支配を受けた。過酷なヘロデの支配に続いて,ローマ人総督が悪政の限りを尽くしたため,ついにユダヤ人は大反乱を起こした(ユダヤ戦争。66‐70年)。一時はローマ軍の排除に成功したが,結局反乱は鎮圧され,エルサレム神殿は完全に破壊されてしまった。
 このときまで,ユダヤ人は神殿祭儀を宗教活動の中心とみなしてきた。しかし,すでにバビロン捕囚時代から,神殿祭儀なしに民族的・宗教的共同体を維持する努力が払われてきた。その結果,第2神殿時代を通じて,礼拝と律法研究のために,安息日(シャバット)ごとに各居住地の成員が集まるシナゴーグ(集会所)が発達した。パリサイ派律法学者たちは,シナゴーグを活動の本拠としていたため,神殿の破壊から本質的な打撃を被らなかった。彼らは海岸地方のヤブネに集まり,それまで神殿にあったサンヘドリン(議会)を再興して,律法と律法解釈に基づくユダヤ人共同体の形成・維持を続行した。第2反乱(132‐135)によってヤブネが破壊されると,ユダヤ人共同体の中心はガリラヤに移り,5世紀初頭に,キリスト教を国教とするローマ帝国の弾圧によってユダヤ総主教職が廃止されるまで続いた。
 ペルシア時代以来,多数のユダヤ人が,パレスティナ本国以外の世界各地に居住していた。彼らをディアスポラ(離散民)と呼ぶ。ディアスポラは,ヘレニズム・ローマ時代に大発展を遂げ,1世紀に,その人口は本国のユダヤ人の数十倍に達していた。大部分はローマ帝国内にいたが,再度にわたる反乱の際に,ディアスポラも厳しい弾圧を受けたため,ローマ帝国の支配圏外にあったバビロニアのディアスポラが徐々にユダヤ人世界の中心になっていった。特に5世紀以降は,バビロニア各地にあった教学院(イェシバー yeshivah)に集まった律法学者たちが,〈ラビのユダヤ教〉を完成する任務を遂行した。その結果,ユダヤ民族・宗教共同体の歴史的軌跡であり,その生き方の基準である口伝律法の集大成として,〈バビロニア・タルムード〉が編纂された。⇒聖書∥タルムード
[中世から現代まで]  中世以後,現代に至るユダヤ教は,〈ラビのユダヤ教〉が確立した教義の展開である。この間に,ユダヤ人世界の中心は,周辺世界の情勢に応じて世界各地を転々と移った。10世紀まで,前時代の伝統を継承したバビロニアが中心であったが,それ以後ユダヤ人共同体は,イスラム教徒が支配する北アフリカとスペインで繁栄した。当時,カライ派 Karaites と呼ばれるセクトが発生し,口伝律法の権威を否定して各自が成文律法(旧約聖書)を直接解釈するべきであると説いた。一時,大勢力になったが,結局,余りにも厳格な律法主義に陥り,広く民衆の支持をえることができなかったため急速に衰退した。
 ユダヤ人世界には,11世紀までに,スペインを中心とするイスラム教圏のスファラド系(セファルディム)と,ヨーロッパ・キリスト教圏のアシュケナーズ系(アシュケナジム)の二つの大きな文化的伝統が確立した。10世紀以降,アシュケナーズ系ユダヤ学がライン川流域地方で盛んになり,西ヨーロッパ全域に大きな影響を及ぼした。中世最大のユダヤ学者マイモニデスは,スファラド系哲学とアシュケナーズ系ユダヤ学を総合した人物である。第1回十字軍(1096‐99)とともに,キリスト教ヨーロッパは,血腥(なまぐさ)いユダヤ人迫害の歴史を開始した。以後,西ヨーロッパ各地で迫害を受け,追放されたユダヤ人は大挙して東ヨーロッパに逃亡した。その結果,中世以後20世紀前半まで,東ヨーロッパがアシュケナーズ系文化の中心となった。
 他方,キリスト教化したスペインから15世紀末に追放されたスファラド系ユダヤ人は,中東各地に移住した。その一部が定着したパレスティナのツファットは,16世紀にカバラ神秘主義の中心となった。カバラの起源は,ヘレニズム・ローマ時代のユダヤ人が著作した黙示文学である。これらの著作は,現在を悪が支配する世界とみなし,やがて到来する世の終りに,神が悪の力を滅ぼして正義を確立するという世界観と,神秘的表象を用いる点に特徴がある。現世における厳しい迫害に絶望した中世のユダヤ人が,終末時に来臨するメシアが民族と宇宙を救うという黙示思想に共感して,カバラ神秘主義を発展させたのである。しかし,終末の救済の秘儀にあずかるためには,律法を順守しなければならないというカバラの結論は,正統的な〈ラビのユダヤ教〉への回帰にほかならなかった。
 カバラ神秘主義の影響下に,16~17世紀には,自称メシアが各地で出現した。その一人,サバタイ・ツビのメシア運動は,一時全ユダヤ人世界を巻き込むほどの大成功を収めた。しかし,この偽メシアはトルコのスルタンに逮捕されると,イスラム教に改宗した(1666)。サバタイ騒動が残した深刻な精神的危機を克服する試みの中から,東ヨーロッパでハシディズム運動が起こった。ウクライナの貧民出身のバアル・シェムトーブ Baal ShemTov(1698‐1760)は法悦状態に没入し,祈裳において神と交わる神秘的救いの重要性を説いて,無味乾燥な律法主義にあきていたユダヤ人大衆の心をつかんだ。しかし,正統派は,律法研究よりも法悦を重視するハシディズムを異端とみなし,〈ミトナグディーム Mitnaggedim〉(〈反対者〉の意)という運動を起こした。半世紀に及ぶ激しい争いののち,19世紀初頭になると,両者は急速に和解した。帝政ロシアの同化政策によるユダヤ人共同体の分解と,ハスカラー Haskalah(ユダヤ啓蒙主義)思想によるユダヤ教的伝統の破壊という,内外からの危機が迫ったからである。
 17世紀後半に,西ヨーロッパにおいて,宗教的熱狂主義が終わり,中央集権的絶対主義と重商主義に基づく世俗的近代国家の形成が始まると,中世の宗教的伝統から個人の解放を目ざす啓蒙主義が,時代を支配する思潮となった。その影響下に,ユダヤ人世界においては,ハスカラーと呼ばれる啓蒙主義運動が起こった。カントと並ぶ当代最大の哲学者として尊敬された M. メンデルスゾーンを精神的父と仰ぐユダヤ人啓蒙主義者は,ユダヤ人固有の文化を捨ててヨーロッパの世俗文化を学ぶことが,中世以来の社会的差別からユダヤ人を解放する前提であると考えた。19世紀に,民族主義に基づく近代国家が成立すると,彼らは,ユダヤ教の伝統的教義である民族と宗教の間の不可分な関係を否定する〈改革派ユダヤ教〉を創設した。
 しかし,ヨーロッパの民族主義はユダヤ人の同化を拒否し,ユダヤ人をスケープゴートにして激しいアンチ・セミティズム運動を起こした。19世紀後半,帝政ロシア末期の混乱の中で,ユダヤ人を無差別に殺戮(さつりく)するポグロムが広がったため,多数のユダヤ人がアメリカに逃げた。同時に,ユダヤ民族主義シオニズムが勃興し,それをT. ヘルツルが政治運動に組織した。第1次大戦後,ヒトラーのナチス・ドイツは,組織的アンチ・セミティズム政策により,ユダヤ人600万人を殺戮した。この暴挙に衝撃を受けた世界は第2次大戦後の1948年に,シオニズムに基づく新生ユダヤ国家として,イスラエルの独立を承認した。しかし,ユダヤ人に国土を奪われたと主張するパレスティナ人と,それを支援するアラブ諸国は承認を拒否し,イスラエルとアラブ諸国の不幸な戦争状態は今日まで続いている。
【現況】
 現在,ユダヤ人はいずれも概数で,イスラエルに360万,アメリカ合衆国に600万,旧ソ連に140万,ヨーロッパ諸国に130万,その他の地域を合わせて計1400万人いる。イスラエルのユダヤ人人口の4倍に達するディアスポラは,各自が居住する国家のユダヤ教徒市民である。しかし,イスラエルは,1950年に帰還法を制定して,これらのディアスポラがイスラエル移住を希望すれば,ただちにイスラエル市民権を与えると約束した。これは,イスラエルをユダヤ人の〈祖国〉として建設したシオニズムの理念に基づく決定であるが,民族と宗教の関係は不可分であるという伝統的教義の確認でもある。この教義は,政教分離をたてまえとする現代国家イスラエルにとって,複雑な問題を提供している。事実上,ユダヤ教の宗教法は,イスラエルの市民生活を規制している。そこで,市民生活に宗教法を強制的に適用することに対しては,つねに多数の市民が反発しているが,ナチスの犠牲者600万人を〈殉教者〉として弔うことに異議を唱える市民は少ない。
 他方,現在最大のユダヤ人共同体を形成するアメリカのユダヤ人は,共同体の内的崩壊により,アメリカ社会に同化吸収される危険を感じている。アメリカでは,〈ラビのユダヤ教〉の伝統的戒律を文字どおり順守する正統派のほかに,倫理的戒律と生活的戒律を区別して,後者は精神的解釈にとどめようとする改革派と,両派の中間的立場をとって,戒律の歴史的発展を主張する保守派の3派が均衡を保って並存している。しかし,シナゴーグの礼拝に参加するユダヤ人は,全人口の4分の1にとどまり,適齢期の男女の5人に1人は非ユダヤ人と結婚するため,アメリカのユダヤ人共同体の存続を問題視する説がある。これに対して,ソ連のユダヤ人共同体は,国家の強制的同化政策によって消滅の危機にさらされていた。しかし,そのためにかえってユダヤ人であることの意識を強くもち,反体制運動に参加する多数のユダヤ人がいた。アメリカのユダヤ人もソ連のユダヤ人も,アラブ諸国と戦争状態を続けるイスラエルの運命に深い関心を抱いており,そのことが,彼らのユダヤ人としての自意識を支えていることも事実である。ユダヤ教徒は民族なのか,信徒集団なのか,という問題は,簡単に割り切ることができない歴史的問題なのである。
【教義と戒律】
 〈ラビのユダヤ教〉は613の戒律を定める。これらの義務律248戒と禁止律365戒は,狭義の宗教的戒律のほかに,倫理的戒律と生活的戒律を含み,民族共同体の生き方そのものが宗教であるユダヤ教の特徴を表している。ユダヤ教において,神の存在は自明な真理であって,その証明を必要としない。神は唯一であり,その統一された意志の下に,宇宙が創造され,イスラエルが選ばれ,歴史が運営されている。神はどのようなかたちも取らず宇宙を超越した存在であるが,同時に宇宙に遍在しているから,神に向かって祈る個人にも神は来臨し,滞留(シェキーナー)する。神は全知全能であり,聖にして完全な存在,永遠の生者である。彼は,憐れみによって世界と人間を創造し,正義によってこれを支配する。
 人間は神のかたちに創造された存在であり,人生の目的は,現在なお進行中の神の創造の業に参加し,これを完成して創造主に栄光を帰すことである。したがって,人間は神のように恵み深く,憐れみに富み,正しく完全でなければならない。しかし,人間の本性の中には悪の衝動が含まれているから,これを押さえて神の創造の業に参加することは,各人が自由意志に基づいて決定しなければならない。神の意志に反抗することが罪である。具体的には,十誡を代表とする律法に定められた戒律違反が罪であるが,特に重罪として,偶像礼拝,姦黒,殺人,中傷の4罪がある。いずれも,神のかたちに造られた人間の尊厳と,選民による共同体の形成にかかわっている。人間は罪を犯しやすい弱い存在であるが,憐れみ深い神は,悔い改めた罪人を必ず許す。しかし,正義の確立によって宇宙創造の完成を目ざす全能の神は,死後も各人の責任を追及する。そこで,この世の終りに,神はメシアを派遣して神の王国の建設を準備させる。その後で来るべき世界が始まると,すべての死者はよみがえり,生前の行為に応じて最後の審判を受ける。その結果,罪人は永遠の滅びに落とされ,義人は永遠の生命を受ける。このような神の姿と人間の運命を示す律法が選民イスラエルに啓示されて以来,律法を順守して神の意志を全世界の諸民族に伝えることが,イスラエルの任務となった。
 〈シェマ・イスラエル Shema‘ Israel(聞けイスラエル)〉は,唯一の神に対する中心的信仰告白である。〈聞けイスラエル,我らの神,主は唯一の主なり。汝,全心,全霊,全力を尽くして汝の神,主を愛すべし〉(《申命記》6:4)。ユダヤ教徒は,この告白を書きつけた羊皮紙を収めた革の小箱(テフィリン tefillin)を,一つは左上腕に,もう一つは額に巻きつけて朝裳を捧げる。朝,昼,晩と1日に3度〈アミダー amidah(立裳)〉を起立して祈る。これは,父祖の神の全能と聖名の賛美に始まり,神のシオン帰還とイスラエルの祝福で終わる19項目の祈裳であるが,本来は18項目であったことから,〈シュモネー・エスレー shemoneh‐esreh〉(〈18の祝裳〉の意)と呼ばれる。立裳は個人で祈ってもよいが,正式には成人男子10人以上の集団(ミヌヤン minyan)で祈ることになっている。安息日ごとに行われる公の礼拝の中心は,律法(〈モーセ五書〉)の朗読である。律法は,毎週1区分ずつ朗読して,1年間で読了するよう54区分されている。安息日は,金曜日の日没に始まり土曜日の日没に終わるが,神の恵みの業(わざ)を思い起こすため,すべての労働を休む神聖な日である。
 ユダヤ暦は太陰暦で,太陽暦の9~10月に始まる秋年である。次のような祝祭日がある。新年祭(ティシュリ月1日)――神の世界創造を記念し最後の審判を思う。贖罪日(同10日)――断食をして罪の許しを乞う。仮庵の祭(同15~21日)――エジプト脱出後の荒野放浪の記念。律法の歓喜祭(同22日)――1年かかった律法の読了を祝う。ハヌカ祭(キスレウ月25日~テベト月2日)――前164年のエルサレム神殿奪回の記念。プリム祭(アダル月14~15日)――エステルがユダヤ人を救った伝承の記念。過越の祭(ニサン月15~21日)――エジプト脱出の記念。七週祭(シワン月6日)――モーセに十誡が授けられたことの記念。アブ月9日祭――エルサレム神殿の破壊を嘆く。なお,ユダヤ暦については,〈暦〉の項目の当該部分を参照されたい。
 安息日と祝祭日の食事は,家庭で守らなければならない。したがって,家庭を形成するために結婚することは,重要な戒律として定められている。男子は生後8日目に割礼を受け,同時に命名される。これは,新生児が〈アブラハム契約〉に参加してユダヤ人共同体の一員になったことを示す儀式である。少年は13歳で〈バル・ミツバー barmitzvah〉(〈戒律の子〉の意)という成人式を行い,戒律を守る義務を負う。祭儀的な潔,不潔の区別が重んじられ,しばしば汚れを清めるために洗手,水浴などを行う。また,〈カシュルート kashrut(適正食品規定)〉に従って,不潔と定められた豚肉などの食用,肉とミルクの混食などが禁じられている。これらの規定は,聖別された選民の身分を守るための戒律である。⇒イスラエル国∥ユダヤ人                     石田 友雄

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ユダヤ教
I プロローグ

ユダヤ教 ユダヤきょう Judaism ユダヤ人(「イスラエルの民」ともよばれる)の宗教的文化。今日までつづいている、世界最古の宗教のひとつ。

近代以前のヘブライ語には、「ユダヤ教」という語も「宗教」という語も存在しなかった。ユダヤ人自身は、それを「トーラー」とよんだ。トーラーは神がイスラエルに啓示した教えを意味し、人々にひとつの世界観と人生のひとつの道(ハラハー)をあたえるものだった。あゆむべきこの「道」とは、ユダヤ教の律法、習慣、生活様式のすべてをふくむものだった。したがって、近代以前のユダヤ教は、それが歴史上いかなる形態をとったにせよ、個人と共同体の存在全体を包括するひとつの総合的な文化システムだった。それは、あらゆる者が神の支配につつみこまれるような、すなわち神のしめした宇宙の秩序と法にしたがうような、ひとつの聖化のシステムである。

キリスト教は、1世紀のパレスティナで競合しあっていた多くのユダヤ教のイデオロギーのひとつとして誕生した。イスラム教も、最初からユダヤ教の思想と伝統を部分的にとりいれていた。7世紀以降、ほとんどのユダヤ人はキリスト教かイスラム教の周辺で生活した。それゆえこの2つの宗教は、ユダヤ教のその後の歴史に刺激をあたえることになる。

ユダヤ教は、中東地方のイスラエルの地(パレスティナともよばれる)に成立した。しかしその後、ユダヤ人の自発的な移住や強制的な追放の結果、多くの時代をへるうちに、世界じゅうのほとんどすべての地域にユダヤ人の共同体が存在するようになった。

1990年代前半の世界のユダヤ人総人口は、約1280万人と推定されている。そのうち約550万人はアメリカ合衆国にすみ、390万人以上がイスラエルに、約120万人が旧ソビエト連邦地域にすんでいる。以上がユダヤ人共同体の3大中心地である。そのほか、約120万人が旧ソ連をのぞくヨーロッパ、とくにフランスとイギリスに、約35万6700人が合衆国以外の北アメリカに、約3万2700人がイスラエル以外のアジアに、約43万3400人が中南米に、約14万8700人がアフリカにすんでいる。

II 基本的な教義と資料

内容豊富で複雑な宗教的伝統をもつユダヤ教は、けっして一枚岩だったことはない。にもかかわらず、その多種多様な歴史的形態はすべて、多くの特定の性格を共有している。なかでももっとも根本的な特色は、徹底的な一神教だという点である。すなわちユダヤ教徒は、唯一の超越的な神が宇宙を創造し、その後もつねに摂理を通じて宇宙を支配していると信じる。この一神教をささえているのは、世界が理解可能なものであり、同時に目的にかなったものだという神学的な確信である。なぜなら、世界の背後には、単一の神の知性が存在しているからである。人間が体験するもののうち、気まぐれにおこるものはひとつもない。すべてのものが、究極的には意味をもっているからである。

伝統的なユダヤ教徒にとって、神の精神は、被造物をとおして自然の秩序の中に、また啓示を通じて社会的・歴史的秩序の中に、ともに明確なかたちでしめされる。世界を創造したのと同じ神が、シナイ山で自己をイスラエルの民に啓示したのである。この啓示の内容をなすのが、トーラー(啓示された神の意志)である。それは諸々の戒律(ミツウォート)というかたちをとって人間に表明された神の意志であり、個々人はそれらの戒律にしたがって、対人関係と神との関係の双方を規制しなければならない。神の律法をまもって生活し、神の意志に服従することによって、人は宇宙と調和したその一部分になることができる。

1 契約

ユダヤ教における第2の重要な観念は、神がユダヤ人とむすんだ契約(ベリート)である。伝承によれば、創造者なる神は、シナイ山でユダヤ人と特別の関係にはいった。すなわちユダヤ人は、神を唯一にして至上なる統治者、立法者として承認し、神の律法に服従する。他方で神は、イスラエルを自身に属する特別の民とみとめ、彼らのために特段の配慮をおこなう、という契約である。

聖書の著者たちも、後代のユダヤ教の伝承も、この契約を普遍的な文脈の中でみている。すなわち神は、反逆的な人類との契約にくりかえし失敗したのち、はじめて人類の中の一部分を契約相手としてえらんだ、というのである。イスラエルは「祭司の王国」となるべきであり、イスラエルが神の律法にしたがって確立する理想的な社会的秩序は、全人類の模範となるべきなのである。したがって、イスラエルは神と人類の間で両者を媒介する位置を占め、一方に対して他方を代理する役割をはたすのである。

契約の観念は、ユダヤ教における自然観と歴史観の双方を規定している。イスラエルが幸福をえられるかどうかは、神の戒律に服従するか否かにかかっていると考えられている。また、イスラエルの体験する自然界の出来事も歴史上の出来事も、神に由来するものとして、しかもイスラエルの宗教的行動によって影響されるものとして解釈される。したがって、人間の振舞と人間の運命の間に、直接的な因果関係が設定されているのである。

このような見方は、ユダヤ教において、神義論 (神の正義)の問題を先鋭化する。なぜなら、個々のユダヤ人とユダヤ民族全体があじわうことになった歴史的体験は、しばしば苦難にみちたものだったからである。聖書の「ヨブ記」以降、ユダヤ人の宗教思想の多くは、見かけ上の不正を前にしながら、いかにして正義と意味とを確認するか、という問題に没頭してきた。ときには、死後におこなわれる神の審判において善と服従は最終的にむくわれ、罪は罰せられるという信念によって、この問題の深刻さが緩和されることもあった。それによって、この世における不公平が再調整されると信じられたからである。

ユダヤ人が体験した異民族による支配や、イスラエルの地からの強制移住による屈辱も、世の終わりにはとりのぞかれると信じられた。神がダビデ王朝の末裔(まつえい)であるメシア(マシーアハ、王として「油をそそがれた者」の意味)を派遣して、ユダヤ人をすくい、彼らの地につれもどして王国を再建してくれる、と信じられたのである。古くから、メシア主義はユダヤ教思想における重要な一潮流だった。メシアの到来に対する熱望は、災難の時代にとくに強まった。そしてついには、メシア思想とトーラーの観念が相互にむすびつけられた。すなわち、ひとりひとりのユダヤ人が神の戒律をただしくまなび、遵守することが、メシアの到来をはやめると考えられたのである。かくして、個々人の行為に宇宙的な重要性があたえられることになった。

2 ラビ的伝統

ユダヤ教ではヘブライ語聖書(キリスト教徒のいう「旧約聖書」)を、「トーラー」すなわちモーセ五書、「ネビーイーム」すなわち預言書、「ケトゥービーム」すなわちその他の諸書の3つの部分に区分する。ユダヤ人はこれを、3つの部分の頭文字TNKをとって「タナック」とよぶ。ユダヤ教のあらゆる形態が、このヘブライ語聖書(以下、たんに「聖書」と略記する)に根ざしていることはまちがいない。

しかし、ユダヤ教を単純に「旧約聖書の宗教」とみなすことは誤りである。現代のユダヤ教は、キリスト教時代にはいった後1世紀のパレスティナとバビロニアにおけるラビたちの運動から生まれた究極的所産なのである。「ラビ」とは、アラム語およびヘブライ語で「わが師」を意味する。聖書と自分たちの伝統の研究に精通したユダヤの賢者であるラビたちは、神がシナイ山でモーセに2種類の律法を啓示したと主張する。すなわち神は、書かれたトーラー(聖書)とならんで、口伝律法をも啓示したのであり、後者はその後、師から弟子へととぎれることなく一語一句忠実に口承され、それが最終的にラビたち自身によって保存されている、というのである。

ラビたちにとって、この口伝律法は「ミシュナ」(「くりかえしまなばれ、おぼえられるべきもの」の意味)の中にまとめられている。ミシュナは文字に書かれた最古のラビ文献であり、3世紀初頭にパレスティナで編集された。その後のラビたちによるミシュナ研究の結果、パレスティナとバビロニアで2種類の「タルムード」(「学習」「研究」の意味。同じ意味のアラム語で「ゲマラ」ともよばれる)が生まれた。これは、ミシュナに対する膨大な注釈である。5世紀末に編集された「パレスティナ(またはエルサレム)・タルムード」と、6世紀の「バビロニア・タルムード」である。そのうち後者は、ラビ的ユダヤ教の基本文書となった。

初期のラビ文献には、聖書に対する釈義的・訓育的な注解(ミドラッシュ)や、聖書のモーセ五書やその他の部分のアラム語敷衍訳(タルグム)もふくまれている。中世のラビ文献には、タルムードの諸法規の集大成がふくまれる。その中でももっとも権威あるものは、16世紀のヨセフ・ベン・エフライム・カロの「シュルハン・アルーフ」(ととのえられた食卓)である。

ユダヤ教で「トーラーの研究」といえば、たんにモーセ五書(狭義の「トーラー」)の研究ではなく、これらの文献すべての研究を意味する。

III 礼拝と宗教生活

宗教的なユダヤ人にとっては、人生全体が継続的な神礼拝にほかならない。多くのシナゴーグ(ユダヤ教会堂)の正面にかかげられている「詩編」の一句「わたしはたえず主にあい対しています」は、ユダヤ教的敬虔(けいけん)の特色を適切に表現している。

1 祈りと儀礼

ユダヤ教徒は伝統的に、毎日3回祈りをささげる。朝の祈り(シャハリート)、午後の祈り(ミンハー)、夕べの祈り(マアリブ)である。これらの祈りの時間は、かつてエルサレムの神殿で犠牲がささげられていた時間に対応している。この点でもほかの点でも、ラビ的ユダヤ教は、破壊された神殿の祭儀を比喩的に進展させたものといえる。10人の成人男性(13歳以上)があつまれば、公的な祈りのための会衆(ミヌヤン)が成立する。

ユダヤ教の礼拝に要求される第1の儀礼は、「テフィッラー」(祈り)とよばれる一連の祈祷をとなえることである。それは、起立してとなえられるので「アミダー」(立祷)ともよばれ、また本来は18の祈りから構成されていたので「シュモネー・エスレー」(18の祈り)ともよばれる。現在平日にとなえられるテフィッラーは、19の祈りからなり、そのうちの13は幸福の祈念とメシアによる民族復興の祈願をふくんでいる。安息日(シャバット)や祭りの日には、13の祈願のかわりに、それぞれの機会に応じた祈りがとなえられる。

第2の儀礼要素は、朝と夕べの祈りの際に「シェマ」とよばれる聖句をとなえることである。すべての儀礼の締めくくりには、2つのメシア的な祈りがささげられる。第1は「アレイヌー」とよばれるものであり、第2は「カディッシュ」とよばれるアラム語の頌栄(しょうえい)である。

敬虔な成人男性のユダヤ教徒は、神への信心のしるしとして、平日の朝の祈りの際には房飾り(ツィーツィート)の縁取りのついた祈祷用のショール(タリート)を肩にかけ、聖句のはいった祈祷用小箱(テフィリン)を額と腕につける。この2つの習慣は、シェマとしてとなえられる聖書の文言(「申命記」6章8節の「これをしるしとして自分の手にむすび、覚えとして額につけなさい」)に由来している。自宅の家の門柱に「メズザー」とよばれる聖句入りの小箱をとりつける習慣にも同じことがいえる(「あなたの家の戸口の柱にも門にも書きしるしなさい」同6章9節)。これもまた、あらゆる場所に神が遍在することをつねに思いおこすためのものである。

神への敬意をしめすために、祈りの最中にはつば付きの帽子をかぶるか、小さな丸帽子(キッパ、イディッシュ語ではヤルムルク)を後頭部にのせて頭をおおう。とくに敬虔なユダヤ教徒は、常時かぶりものをつけている。神がつねに自分たちとともにいると意識しているからである。

2 トーラー

啓示された神の意志であるトーラーを研究することも、ラビ的ユダヤ教では礼拝行為のひとつとみなされている。シナゴーグでの毎日の朝の儀式では、聖書、ミシュナ、タルムードからとられた章句が朗読される。月曜日と木曜日の朝には、シナゴーグの正面におかれた聖櫃(せいひつ)からトーラー(この場合はモーセ五書)の手書きの巻物がとりだされ、会衆の前で節をつけて詠唱される。ただし、重要なトーラーの朗読の機会は、安息日と祭りの日の朝である。

各安息日の朗読では、1年をかけてトーラー全体が通読される。1年間の周期は、秋の「仮庵(かりいお)の祭」(スッコート)の終わりにもよおされる「シムハト・トーラー」とよばれる記念行事とともに再開される。祭りの日のトーラー朗読では、それぞれの祭りの主題や行事にちなんだ箇所がよまれる。また、安息日と祭りの日のトーラー朗読では、その日のトーラーにふさわしい預言書の部分もあわせて朗読される(「ハフタラ」とよばれる。「締めくくり」の意味)。このように、聖書の公的な朗読は、シナゴーグの礼拝の重要な部分をなしている。それどころか、制度としてのシナゴーグというものの第1の機能は、もともとそのような朗読のための場所ということだったらしい。

3 祈祷

毎日のさだめられた祈りとは別に、ユダヤ教徒は1日を通じて、戒律にさだめられたことがらを実行する前や、自然の実りをあじわう前などに、無数の祈祷をとなえる。ユダヤ教徒にとって、大地は神に属するものであり、人間はたんに小作人ないし園丁にすぎないのである。したがって、小作人が収穫物にあずかる前には地主のことを思いかえさねばならない、というわけである。

4 食物律法

ユダヤ教の食物律法は、かつての神殿の祭儀と関連している。各人の家庭の食卓は、神の食卓にみあったものでなければならないのである。ある種の動物はけがれたものとみなされており、食べることが禁じられている(「申命記」14章3~21節)。そこには豚や、鰓(えら)と鱗(うろこ)のない魚類もふくまれる。食べてよい動物(ひづめがわかれている反芻動物)であっても、正しい仕方で殺されたもので、しかも完全に血抜きをした肉でなければ食べてはならない。また、肉と乳製品(バター、チーズ、クリームをふくむ)をいっしょに食べてもならない。

5 安息日

ユダヤ教の祭儀暦は、トーラーにさだめられ、かつて神殿祭儀でまもられていた区分にしたがっている。毎週の第7日は安息日(シャバット)である。この日には、いかなる仕事もしてはならない。この活動自粛をとおして、ユダヤ教徒は世界をいったんその真の所有者である神に返還し、自分たちがその産物を、所有主の認可のもとで利用させてもらっているのだとあらためて確認するのである。安息日は、祈り、聖書の研究、休息、家庭礼拝などにあてられる。安息日や祭りの日には、シナゴーグの礼拝で特別の祈り(ムーサーフ)がつけくわえられる。これは、安息日や祭りの日には神殿で、特別の犠牲がつけくわえられてささげられたことに対応するものである。

6 祭り

ユダヤ教の暦には、5つの大きな祭りと2つの小さな祭りがふくまれている。大祭日のうち3つはもともと農業的な性格のものであり、イスラエルの地の季節と関連している。「過越の祭」(ペサハ)は春祭りで、オオムギの収穫の始まりをしめすものである。「七週の祭」ないしペンテコステ(五旬節)は、過越の祭の50日後に、その収穫期の終わりをつげる。「仮庵の祭」(スッコート)は秋の収穫をいわうものであり、その直前には、共同体全体の清めのための10日間の禁欲期間がおかれている。

これらの3つの祭りは古くから、イスラエルの歴史における規範的な意味をもつ出来事とむすびつけられるようになった。すなわち、過越の祭は出エジプト(→ 出エジプト記)を記念するものとなった。七週の祭はシナイ山で律法がさずけられた日とみなされるようになった。そこでこの日には、シナゴーグで十戒が荘重に朗読される。仮庵の祭は今でもなお、主として収穫祭としておこなわれている。しかし、この祭りの7日間、ユダヤ教徒が食事をする仮小屋(スッカー)は、かつてイスラエルの民が約束の地にむかう荒野の旅ですんだ仮小屋と同一視されている。

仮庵の祭に先だつ悔い改めの10日間は、「ローシュ・ハシャナー」すなわち新年ではじまり、「ヨーム・キップール」すなわち「贖罪日」(→ 贖罪)でしめくくられる。伝承によれば、世界は毎年新年に裁きをうけ、贖罪日に神の記録が封印される。新年には「ショファル」とよばれる雄羊の角笛がふきならされ、人々に悔い改めのよびかけがなされる。贖罪日はユダヤ教でも最高の聖日で、断食、祈り、罪の告白についやされる。贖罪日の儀式は、「コル・ニドレイ」という定形句をくりかえす哀愁にみちた歌ではじまり、かつてこの日に神殿でおこなわれていた祭儀(アボダー)が想起される。

2つの小祭日「ハヌカ(奉献)祭」と「プリム(くじ)祭」は、モーセ五書にさだめられているこれらの5大祭日よりも後代に成立したものである。ハヌカ祭は、シリア王アンティオコス4世に対するマカベア家の勝利と、前165年の第2神殿の再奉献を記念したものである。プリム祭は、エステルとモルデカイによってペルシャにすむユダヤ人が危機からすくわれたことを記念するものである(→ エステル記)。後者の祭りは過越の祭の1カ月前にもよおされ、シナゴーグでは祝祭的な雰囲気の中で「エステル記」の巻物(メギラー)が朗読される。

そのほか、前586年と後70年の2度にわたるエルサレムの攻囲と神殿破壊に関連した出来事にちなむ4つの断食日があり、それらによってユダヤ教の祭儀暦が完成される。断食日の中でもっとも重要なのは、「ティシャ・ベ・アブ」すなわち「アブの月の9日」であり、これは2つの神殿が同じ日に破壊されたことをかなしむ日である。

7 特別の行事

ユダヤ人の人生における重要な出来事も、共同体の公的行事としておこなわれる。生後8日目に、男児は割礼をうけ、アブラハムの契約に公的に加入させられる(ベリート・ミラー)。13歳になった男子は、律法上成人したとみなされ、戒律をまもる責任をおわされる(バル・ミツバー)とともに、シナゴーグでトーラーをよむ役目にはじめて指名される。女子は12歳で成人したものとみなされ、現代の自由主義的なシナゴーグでは、やはりトーラーをよむ役割をあたえられる(バト・ミツバー)。19世紀の近代化改革運動の中で、中等学校の少年少女に堅信式がおこなわれるようになった。この儀式は七週の祭におこなわれ、シナイ山で啓示された信仰をうけいれることを意味する。

ユダヤ人の人生の次の節目は、結婚(キドゥシーンすなわち「聖化」)である。個人にとってどんなにめでたいときであれ、ユダヤ人であるかぎり、民族の苦難をわすれてはならない。結婚のための7つの祝祷には、エルサレムの再建とユダヤ人のシオン帰還をもとめる祈願がふくまれている。また、神殿の破壊を想起するために、結婚式の終わりに花婿がグラスをふみわる儀式がある。ユダヤ教の葬儀でも、故人の復活を希望する一句が、ユダヤ人全体の救いのための祈りの中にふくまれている。敬虔な男性ユダヤ教徒は、自分のタリートにくるまれて埋葬される。

IV 歴史

聖書の諸文書と、関連する考古学的諸資料が、ユダヤ教の歴史についての最古の情報を提供してくれる。最初期のイスラエル人は唯一神教徒ではなく、拝一神教徒だったと思われる。彼らは単一の神を崇拝するが、ほかの諸国民にほかの神々が存在することをかならずしも否定しなかった。

バビロン捕囚前のイスラエルは、最初は部族連合だったが、のちにイスラエル王国を建設し、自分たちにとって根本的な意味をもった体験として、エジプトの奴隷生活からの解放や、とくにカナンの地(のちのイスラエルの地)の征服と同地への定着を記念していた。彼らの神はヤハウェであり、それはかつてのアブラハム、イサク、ヤコブなどの族長たちの神だった。ヤハウェはイスラエル人をエジプトからすくいだし、彼らを約束の地までみちびいた。

イスラエルの宗教は、はじめはその土地、風土、1年の農耕生活の循環とむすびついていた。ヤハウェは、豊作を約束する雨をふらしてくれるが、民が不服従で背教的であることが判明した場合には、不作や飢饉(ききん)や疫病をもたらすと信じられていた。それゆえイスラエル人は自分たちの生活が全面的に神に依存していると感じ、また、感謝やなだめのために神に犠牲をささげてこたえねばならないと考えていた。犠牲祭儀はやがてエルサレムの王立神殿に集中されたが、王国分裂後は北のベテルとダンに対抗聖所がたてられた。

王国時代を通じて、北(イスラエル)と南(ユダ)双方の聖所で祭儀慣習が混交していくことや、王の支配のもとで社会的不正がはびこっていくことに対して、カリスマ的な「神の人」である預言者たちはくりかえし反対の叫びをあげた。預言者たちは犠牲祭儀そのものを拒絶したのではないが、人々がイスラエルの社会の道徳的秩序の大切さを等閑視し、もっぱら犠牲祭儀だけに自己満足的な信頼をよせていたのをみて、批判したのである。まず北王国が、ついで南王国が、あいついで異国人の征服者によってほろぼされたとき、預言者たちの警告は的中したとうけとめられた。

1 バビロン捕囚

前586年のユダヤ人のバビロンへの強制移住は、イスラエルの宗教にとって大きな転換点となった。それ以前のイスラエルの歴史が、前586年の出来事にてらして再解釈されるようになり、伝統的な聖書のモーセ五書や、正典預言書や、歴史書の基盤がすえられた。預言者エゼキエルと「第2イザヤ」(→ イザヤ書)は、ヤハウェはバビロニア帝国を道具としてもちいてイスラエルの罪を罰したのだから、イスラエルが悔い改めさえすれば、この神には捕囚民を解放する力がある、と信じた。こうして、真の意味での唯一神教的な宗教が発展した。イスラエルの神はいまや、世界の歴史とあらゆる民族の運命を支配する神にほかならないとみなされるようになったのである。

ダビデ王朝の末裔の指導によってユダヤ人の王国を再建するという、バビロン捕囚民のメシア的希望は、前539年にペルシャ王キュロスがバビロンを征服し、支配下にはいった諸民族の故郷帰還と各地の神殿の再建を許可したとき、成就するかのように思われた。しかし、復興されたユダヤ人の共同体は、この希望を完全なかたちで実現させることはできなかった。なぜならペルシャ当局は、ユダヤ人の独立王国の再建をみとめず、たんに大祭司を統治者とする神殿国家の樹立を許可したにすぎなかったからである。

2 マカベア時代、およびローマ時代

前331年のアレクサンドロス大王のペルシャ征服以降、中東地方にギリシャ(ヘレニズム)文化が導入され、この地方の土着の諸文化は守勢にたたされた(→ ヘレニズム時代)。前168年のシリアによるユダヤ教の非合法化にはじまるマカベア(ないしマカバイ)の乱は、ヘレニズムをうけいれようとするユダヤ人と、これに反発するマカベア家など民族主義者の間の内戦だった。戦いの結果、ユダヤ人はシリア王国からの独立に成功した。この政治的・文化的混乱は、宗教にも大きな衝撃をあたえた。

最初の黙示文学が成立したのもこの時期である。この謎めいた啓示のジャンルは、同時代の戦争を、善の力と悪の力の間の宇宙的な戦いの一局面と解釈し、最後には神の軍勢が勝利すると信じた。戦いの中で虐殺されていった敬虔なユダヤ人のために、神による最後の審判の際の復活がはじめて約束されるようになった。それ以前のユダヤ教にとって、不滅性とは、個々人の子孫や民族全体の存続ということ以外になく、死者は「シェオル」とよばれる冥界にいって、影のような存在になると信じられていた。

マカベアの乱の勝利は、ユダヤ人に80年間にわたる政治的独立をもたらした。しかし、宗教的混乱はなおもつづいた。反乱を指導した祭司一族のハスモン家の人々は、古くからの大祭司の家系に属さなかったにもかかわらず、世襲の王であるとともに大祭司であると自称した。さらに、彼らがヘレニズム風の王の装束や装飾品を身につけたことは、一部の集団のはげしい反発をひきおこした。死海文書から知られるようになったクムラン教団もそのひとつである。反体制的な祭司たちに指導されたこの教団は、エルサレムの神殿はハスモン家の人々によってけがされてしまったとみなし、荒野の中にのがれている自分たちの教団こそ、きよめられた神殿であると信じていた。

クムラン教団はおそらく、ユダヤ人歴史家フラビウス・ヨセフスなどがしるしているエッセネ派と同一視できるだろう。ヨセフスはまた、ほかの2つの集団、サドカイ派とファリサイ(パリサイ)派についても言及しているが、彼ら自身が書いた文書は現存していない。ファリサイ派(ペルシーム、「分離派」の意)は、クムラン教団同様、聖書の律法について独自の伝承を形成していた。いっぽう、貴族的な祭司集団であるサドカイ派はこれに反対した。ファリサイ派は、70年以降のラビ的ユダヤ教の直接的な先駆者となる。この時代の宗派、とくに神殿の管理者たちに敵対する集団はすべて、聖書の権威にうったえ、聖書をそれぞれ独自の仕方で解釈した。

前1世紀中葉にローマ軍の進出によってユダヤの政治的独立に終止符がうたれると、ユダヤ教ではメシア的・黙示的な傾向が高まり、失敗におわった66~70年の反ローマ暴動のころには、その傾向は頂点に達した。キリスト教は、これらのメシア的・黙示的な運動のひとつとして生じた。

3 ラビ的ユダヤ教の発展

70年にローマ軍によってエルサレムの第2神殿が破壊され、さらに132~35年のシモン・バル・コホバのひきいた第2のメシア主義的反乱がローマ軍に鎮圧されたことは、ユダヤ教にとって、前586年の第1神殿の破壊に匹敵する大きな打撃だった。祭司的指導者たちは、決定的に信用をうしなった。このような脈絡の中から、ラビたちの運動が生じたのである。ユダヤ民族はもはや、自分たちの政治的運命を自身の手で統御することができなくなったので、ラビたちはユダヤ人の共同的な宗教生活の意義を強調した。

ラビたちは、彼らの伝統が発展させたような仕方で、トーラーを日常生活において遵守すれば、神が全イスラエルにメシアを通じた救いをあたえてくれるのをまちうける間にも、個々のユダヤ人が救いをえることができる、とおしえた。一部のラビは、すべてのユダヤ人がトーラーを遵守すれば、メシアはいやおうなくやってこざるをえない、とさえ説いた。制度面では、70年以前から存在していたシナゴーグと、ラビの学院が、破壊された神殿にとってかわった。

4 中世のユダヤ教

地中海周辺地域やヨーロッパにひろがったディアスポラ(離散民)をふくむ全ユダヤ人のラビ化は、カライ派をはじめとするいくつかの反ラビ的運動の挑戦を克服しながら、ゆっくりとすすんだ。また、7世紀にイスラム教徒のアラブ人が中東世界を征服したことは、均一なラビ的ユダヤ教のひろがりを促進させた。

アッバース朝のカリフの都がおかれたバグダッド近郊には、いくつかのユダヤ教の教学院がたてられ、その学院長たち(ゲオニーム、「気高い者」を意味するガオンの複数形)は、ディアスポラ共同体からの問い合わせにこたえる回答状(レスポンサ)を通じて、ユダヤ教の律法、習慣、典礼を自分たちがおこなっているような仕方に統一・標準化する努力をかさねた。このようにして、ユダヤ教の実権はパレスティナからバビロニアにうつり、「バビロニア・タルムード」はもっとも権威あるラビ文献とみなされるようになった。

イスラムの文化領域の内部で、ラビ的ユダヤ教は、イスラム教徒の注解者たちによって復元され、解釈されたギリシャ哲学に直面することになった。ラビの知識人たちは、イスラムの神学者の議論に対抗してユダヤ教を擁護するために、またほかのユダヤ人に対してユダヤ教の信仰や律法の合理性を証明するために、自前の哲学を開発しはじめた。中世のユダヤ神学であつかわれた典型的な主題は、神の諸属性、奇跡、預言(啓示)、戒律の合理性などである。

ユダヤ教の哲学的解釈でもっとも注目に値するものとしては、9世紀のバビロニアの学院長サアディア・ベン・ヨセフのもの、12世紀のイェフダ(ユダ)・ハレビのもの、同じく12世紀のモーゼス・マイモニデス(モーシェ・ベン・マイモン)「不決断者の手引」などがある。体系的な論理学にふれたことも、イスラム圏のラビの律法研究に影響をあたえた。このことを明確にしめすのが、膨大なタルムード編纂(へんさん)後のユダヤ教律法の法典編纂である。その中でももっとも有名なものは、マイモニデスの精密にして典雅な「ミシュネ・トーラー」(律法の再説)である。

中世のユダヤ教では、2つの系統の文化が発展した。一方はセファルディム系の文化(中心地はムーア人支配下のスペイン)、他方はアシュケナジム系の文化(神聖ローマ帝国領内)である。哲学と論理的な法典編纂はセファルディムの固有の活動であり、アシュケナジムはこれに反対した。

アシュケナジムは、「バビロニア・タルムード」の徹底的研究のほうを重視したのである。11世紀には、トロワ生まれの学者ラビ・シェロモー・ベン・イツハク(ソロモン・ベン・イサク、略称ラシ)が、ラインラントの偉大なタルムード注解の一学派を創設した。ラシの仕事は、彼の孫たちや弟子たちによってひきつがれた。彼らは「トサフィスト」(追加者)とよばれたが、これは彼らがトソフォート文書(ラシのタルムード注解への「追加」)をあらわしたからである。

中世を通じてユダヤ教は、神秘主義運動や倫理的・敬虔主義的運動によってくりかえし再活性化された。それらの運動の中でももっとも重要なのは、12世紀のドイツにおけるハシディーム(敬虔者)運動と、13世紀のスペインのカバラ運動である。カバラでもっとも影響力をもった書物は、モーゼス・デ・レオンの「セーフェル・ハ・ゾハール」(光輝の書)である。

カバラとは、グノーシス主義と新プラトン主義の諸要素をとりいれた秘教的な神智学であり、神性のダイナミックな性格を強調し、トーラーと戒律に対する強度に象徴的な解釈をしめす。カバラ運動はエリート学者たちの小さなサークルの中ではじまったが、1492年にユダヤ人が再カトリック化されたスペインから悲惨な仕方で追放されたのちに、大きな民衆運動へと発展した。

この運動は、サフェドのイツハク・ルリアによる神話的・メシア的なカバラ解釈によってさらに拡大した。ルリアのカバラは、流浪するユダヤ人に、彼らの苦難の宇宙的意義をおしえ、救済の宇宙的ドラマにおける決定的な役割をあたえるものだった。ルリアの思想は、サバタイ・ツビという人物を中心とする熱狂的なメシア運動の高まりへの道をひらくことになった。この運動は、17世紀のユダヤ人のほとんどをまきこむほどのものだった。ルリアの思想はまた、18世紀のポーランドにおける「ハシディズム」とよばれる民衆的な信仰復興運動にも影響をあたえた。

イスラエル・バアル・シェム・トーブによってはじめられたハシディズムは、熱狂的・恍惚的な信心さえあれば、まずしく無学なユダヤ人であっても、タルムード学者以上に神につかえることができる、と宣言した。ラビたちはハシディズムに反対したが、この対立はやがて、両者がより深刻な脅威に直面することによって緩和されるようになった。すなわち、西ヨーロッパ世界における啓蒙思想の時代の到来と、それがユダヤ教内部に生みだしたさまざまな近代化運動という脅威である。

5 近・現代の諸問題

近代になると、ヨーロッパではしだいにユダヤ人が解放され、市民としてみとめられるようになったが、この経過はヨーロッパ人の中に反ユダヤ主義的感情がくすぶりつづけることによって複雑なものになった。彼らの解放は、東西ヨーロッパでさまざまにことなるユダヤ教の再編運動をよびおこした。

西ヨーロッパ、とくにドイツでは、ユダヤ教が近代キリスト教のプロテスタンティズムに似た信仰告白的宗教として再編成された。ドイツのユダヤ教改革運動にくわわった人々は、シオン(エルサレムの別名でユダヤ人の郷土の象徴)への帰還の希望を放棄し、礼拝儀式を短縮化・美化した。彼らはまた、それぞれの地方の言語による説教を重視し、ユダヤ教の律法や習慣の多くを時代遅れのものとして廃止した。改革派ユダヤ教のラビたちは、プロテスタントの牧師の役割の多くをはたすようになった。

アブラハム・ガイガーやサムエル・ホルトハイムら初期の改革派神学者たちは、カントやヘーゲルなどのドイツ哲学者の影響から、倫理性を強調し、人類の進歩への信頼を説いた。これに対しザカリアス・フランケルなどが指導した改革派右派は、ヘブライ語とより伝統的な習慣の保持をうったえた。サムソン・R.ヒルシュに代表される新正統派の人々は、改革派に反対し、伝統的なユダヤ教と近代の学問を融合・調和させようと模索した。

いっぽう、ユダヤ人が有力で特殊な社会集団を形成していた東ヨーロッパでは、ユダヤ教の近代化が文化的・人種的な民族主義というかたちをとった。東ヨーロッパにおけるほかの民族復興運動と同様、ユダヤ人の運動もまた、民族言語(ヘブライ語、のちにはイディッシュ語)の再活性化や、近代的な世俗文学と文化の振興を強調した。

古代の郷土に現代のユダヤ人共同体をつくろうとするシオニズムは、まずロシアのレオ・ピンスカーとオーストリアのテオドール・ヘルツルによって提唱されたのち、東ヨーロッパに堅固な地歩を獲得した。シオニズムは、非宗教的という意味では世俗的なイデオロギーだったが、伝統的なユダヤ教のメシア思想に深く根ざしたものでもあり、またそれによって大いに鼓舞された。シオニズムの究極的な帰結として実現したのが、1948年のイスラエルの建国である。

V アメリカにおけるユダヤ教

現代アメリカのユダヤ人共同体の大部分は、19世紀中葉に中部ヨーロッパから移民してきた人々や、とくに1881年から1924年の間に東ヨーロッパからやってきた人々の子孫である。さらに、ホロコーストで生きのこった最近の移民とその子孫もいる。アメリカにおけるユダヤ教の多様な形態(改革派、保守派、正統派)は、これらのユダヤ人移民集団がアメリカの生活に適応し、また相互の間で調停しあった結果として生じたものである。制度面からみれば、アメリカのユダヤ教は、アメリカのキリスト教のいちじるしく会衆派的な構造をとりいれている。すなわち、民族にかかわる運動には連帯するが、ほとんどのシナゴーグ共同体がある程度の自律性を保持している。

1 改革派ユダヤ教

最初に自己定義をおこなった改革派ユダヤ教は、主としてドイツでおこった運動である。アメリカでは、この運動がリベラルなプロテスタンティズム、とくに「社会的福音」の運動から大きな影響をうけた。

改革派ユダヤ教の全国的機関は、いずれも1870~80年代にかけてアイザック(イサク)・M.ワイズによって創設されたもので、アメリカ・ヘブライ会衆連合(UAHC)、アメリカ・ラビ中央会議(CCAR)、ヘブライ・ユニオン・カレッジなどがある。ヘブライ・ユニオン・カレッジは、現在も存続している世界最古のラビ神学校で、1950年には、よりシオニズム的傾向の強いユダヤ宗教協会(ジューイッシュ・インスティテュート・オブ・リリジョン)と合併した。改革派ユダヤ教は、かつては宗教的合理主義の牙城だったが、40年代以降、ユダヤの民族性と伝統的な宗教文化をより強調するようになってきている。

2 保守派ユダヤ教

保守派ユダヤ教は、近代化した東ヨーロッパのユダヤ人の共属意識と、民衆的な敬虔を体現したものである。この集団は、ユダヤ教の伝統的な律法や習慣を尊重しながら、他方で「ハラハー」への柔軟な対応を唱導する。保守派ユダヤ教の主要な機関は、19世紀末から20世紀初頭にかけて創設されたものが多く、アメリカ・ユダヤ神学校(JTSA)、アメリカ合同シナゴーグ(USA)、ラビ会議(RA)などがある。

保守派ユダヤ教の分派としては、モルデカイ・M.カプランが1930年代に創始した再建派運動がある。再建派は、一方で宗教的な自然主義を標榜しながら、他方ではユダヤ人の民族性と文化を強調する。

3 正統派ユダヤ教

アメリカにおける正統派ユダヤ教は、単一の運動というよりも、雑多な伝統主義的集団がおりなすひとつのスペクトル(多色体)である。一方には伝統的な宗教的義務を現代生活に順応させようとする新正統主義があり、他方には現代社会とまったく絶縁しようとするいくつかのハシディズム的宗派がある。ホロコーストを生きのびた多くの伝統主義的ユダヤ人やハシディズム的ユダヤ人がアメリカに移民したことは、アメリカの正統派ユダヤ教の勢力を強めた。ただし、正統派の諸集団全体を代表するような全国的機関はひとつもない。

主要なシナゴーグ組織としては、正統派ユダヤ教会衆連合、ヤング・イスラエル(「現代派」正統主義)、アグダス・イスラエルなどがあり、ラビ団体としてはアメリカ・ラビ協議会(「現代派」)、アメリカ・ラビ同盟がある。ラビ神学校としては、イェシバ大学のアイザック・エルハナン・セミナリー、イリノイ州スコーキーにあるヘブライ神学校(「現代派」)などのほか、数多い小規模のヨーロッパ形式の「イェシバ」(タルムード学校)がある。アメリカ・シナゴーグ協議会は、これらの諸運動の間の協議と共同行動のための連絡機関である。

4 イスラエル建国の意味

アメリカのユダヤ教は、ナチスによるヨーロッパのユダヤ人の大量虐殺と、現代のイスラエル国家の樹立によって底知れぬ影響をうけた。現代の多くのユダヤ人の意識の中では、ホロコーストとイスラエル建国が、集団的な死と再生という深遠な宗教的主題の象徴として、緊密に結合しあっている。イスラエル国家の存在には、宗教的な次元がふくまれている。それがユダヤ人の自尊心とメシアの約束の成就を体現するものだからである。

伝統的価値観から現代国家としてのイスラエルの存在を承認しない一部の超正統派をのぞき、アメリカのユダヤ人の運動はすべて、ここ数十年の間に親イスラエル的姿勢を強めてきた。また、改革派と保守派の運動は、イスラエル国内の正統派と同等の法的認知と、同格の地位をもとめて努力をかさねてきた。イスラエルでは、正統派のラビが結婚や離婚や改宗の問題を管理しており、保守派や改革派のラビがおこなった結婚や改宗をみとめない。またそれらの正統派のラビたちを、政府内で有力な全国的宗教政党が後援しているのである。

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ヤハウェ
ヤハウェ

ヤハウェ
Yahweh

  

預言者モーセに啓示されたとされるイスラエルの神の名。ヤーベ,エホバともいう。ヘブライ語の4子音で表記されるところから4文字 (通常ヘブライ語は3子音) といわれる。「ありてある者」「ともにある者」「あらしめる者」などの意といわれるが定説はない。またモーセが避難した妻の実家ケニ人の神との説もあるが疑わしい。イスラエル固有の神で,すでにモーセ以前に知られていたらしい。ユダヤ人は過度の尊敬からヤハウェを口にせず,代りにアドナイ (私の主) と呼び,七十人訳 (セプトゥアギンタ) もこれをとってキュリオス (主) と訳している。 70年のエルサレム陥落後,大祭司に相伝された4文字の正確な発音が彼らとともに失われたことも,4文字をアドナイとのみ読む原因となった。キリスト教ではしばしば「ヤハウェ」の発音を使用している。 (→テトラグラマトン )  





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ヤハウェ
Yahweh

旧約聖書の神の固有名詞の学問的呼称。ユダヤ教では神名を唱えるのを避け,聖四文字 YHWHにそれと無関係の母音符号を付し,多くの場合〈アドナイ(主)〉と呼び,〈永遠のケレー(読み)〉と称した。エホバ Jehovah という呼称は,この習慣を忘れた16世紀以来のキリスト教会の誤読に基づく。ヤハウェ(あるいはヤーウェ)とは,言語学的には,セム語の〈生成する,である〉を意味する動詞ハーヤーと関係するが,歴史的には,南パレスティナの遊牧民集団シャースー(またはショースー)の残した文書に現れる YHWト との関係が注目されている。ヤハウェの本来の意味は,《出エジプト記》3章14節に説かれており,〈有りて有るもの〉と訳されてきたが,それは永遠の不動の存在者を意味するものでも,創造者を意味するものでもなく,民と“ともにいます”在り方を説明すると解せられている。口語訳聖書では,これを〈主〉と訳している。                      左近 淑

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ヤハウェ
ヤハウェ Yahweh イスラエルの神の名。神名をあらわす4つのヘブライ文字YHWHは、いずれも子音で、母音記号がないため、本来どのように発音されていたかは不明である。「出エジプト記」20章7節や「レビ記」24章11節にあるように、神聖なる神の名はみだりにとなえてはならなかったからである。人々はかわりに神を「アドナイ(主)」とよんでいた。

ヤハウェという呼称は、「出エジプト記」3章14節にしるされた神の言葉「わたしはある。わたしはあるという者だ」から類推し、YHWHに母音をくわえたものである。「ある」を意味するヘブライ語の「ハーヤー」が基本となっている。いっぽう、エホバ(Jehovah)という呼び方は、現在では誤読とされている。

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テトラグラマトン
テトラグラマトン

テトラグラマトン
Tetragrammaton

  

ギリシア語で「4文字の (語) 」の意。アレクサンドリアのフィロン以来,特にヘブライ語で神を示す4子音 YHWHないし JHVHをさす。 70年にエルサレムが陥落したのち,大祭司の間に伝承されていた4文字の発音がわからなくなった。ユダヤ人はこれをアドナイ (主) と呼ぶ。エホウァ,ヤハウェと発音されることもあるが,根拠は薄い。





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バビロン捕囚
バビロン捕囚

バビロンほしゅう
Babylonian Captivity(Exile)

  

前 597~538年にわたってイスラエルのユダヤの人々がバビロニア王ネブカドネザルによってバビロニアに捕囚となった事件をさす。捕囚民は『エレミヤ書』 52章 30によれば,前 597,586,581年の前後3回にわたって 4600人と記されているが,これは男子のみをさしているので,全体では約1万 5000人ぐらいであろう。当時ユダヤの人口は約 25万人であったが,捕囚民は支配階級に属する者や技術者であったので,残された民は衰退した。バビロニアでは宗教的自由は許されたが,エルサレム神殿において行なっていた祭儀を失ったので,それにかわって安息日礼拝が中心になり,会堂 (→シナゴーグ ) における律法の朗読と祈祷を中心とする新しい礼拝様式が始められた。またこの時期にモーセ時代から彼らの時代までの歴史,すなわち『申命記』から『列王紀』が編纂された。したがって預言活動はやんで,かわって律法学者や書記が祭司と並んで重要な位置を占めるようになり,旧約の宗教は「書物の宗教」の性格を強めていった。そして前5世紀後半にネヘミア,エズラが帰国して新しい法典のもとに民族の再建をはかり,ここにユダヤ教が成立することになった。





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バビロン捕囚
バビロンほしゅう Babylonian Exile(Captivity)

バビロニア人が,ユダとエルサレムの住民の大多数を捕らえバビロニアに移した事件のこと。〈バビロニア捕囚〉ともいい,第1次捕囚(前597)または第2次捕囚(前586)から,キュロスの神殿再建許可の勅令(前538)または神殿完成(前515)までをイスラエル史における〈バビロン捕囚時代〉という。アッシリアによる北イスラエル10部族の捕囚(《列王紀》下15)と北イスラエル王国の滅亡(前722)に続く世紀,アッシリアの衰退後,南ユダ王国の国力回復の試みは,ヨシヤ王がメギドで死んで挫折し,代わって即位したその子エホアハズもエジプトに連行されて死に,エジプトは前605年ネブカドネザルによりカルケミシュで敗れた。ヨシヤの子エホヤキムの治世11年バビロニアがエルサレムを攻囲(《列王紀》下23),その子エホヤキンは即位3ヵ月でバビロニアに降服(同,24),王と母,従者のほか神殿と宮殿の宝物とともに1万人が捕囚された。残った者は貧しい者のみであった(第1次捕囚)。さらにゼデキヤ王の11年エルサレムは陥落(《列王紀》下25),王と住民の多くは捕らえられて移され(第2次捕囚),残った貧民はブドウ栽培者,農夫となった。なお〈教皇のバビロン捕囚〉と呼ばれる事件は〈アビニョン捕囚〉の項を参照。
                        西村 俊昭

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バビロン捕囚
バビロン捕囚 バビロンほしゅう Babylonian Captivity 古代イスラエルの民がバビロニア帝国の王ネブカドネザル2世によってとらえられ、パレスティナのユダ王国からバビロニア帝国の首都バビロンにつれさられた事件。前597年の最初の強制移住から、前538年のペルシャ王キュロスによる捕囚民の解放までをバビロン捕囚時代とよぶ。

前597年の第1次捕囚では、イスラエルの上層部、兵士、職人がつれさられた。前586年の第2次捕囚では、ネブカドネザルの兵士がユダ王国の首都エルサレムを破壊し、のこっていたイスラエル人の大半をバビロンにつれていった。だが、重要人物はエジプトへにげ、最下層の農民はパレスティナに残ることをゆるされた。前582年の第3次捕囚においても、多くのイスラエル人がつれさられ、ニップルやバビロンの近郊をながれるケバル川流域の村に植民した。

こうしてイスラエルは、バビロニア帝国の支配下におかれたが、前562年にネブカドネザル2世が死亡し、前539年にペルシャの王キュロスがバビロンを征服すると、帝国は崩壊した。捕囚民は解放され、故国へもどされた。

約半世紀におよぶくるしい捕囚の期間は、イスラエル人を精神的な団結と強い信仰をまもる民族にそだてた。バビロン捕囚時代は、ユダヤ民族が生まれた時期といわれる。「ユダヤ人」という語は、このときからイスラエル人の総称となった。

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エッセネ派
エッセネ派

エッセネは
Essenes

  

前2世紀~1世紀末,イエスとほぼ同時代のユダヤ教三大教派の一つで,パリサイ派,サドカイ派と並ぶ。パレスチナに初めて現れたのは,前2世紀のハスモン家 (ユダヤ人祭司) の反乱の終り頃といわれるが,前1世紀末までには,その中心集団が死海の北西沿岸に共同生活を形成していた。派としての規模は小さく,会員はおもに農耕を中心として,厳格,敬虔な宗教生活を営んでいた。当時には珍しく,奴隷制を否定し,みずからの労働によって生活の糧を得,それを共有するという共産社会を形成していた。その禁欲的な宗教生活は,修道院と同様である。宗教観はサドカイ派よりもパリサイ派に近いが,独自の信念と戒律をもっていた。生活の中心は詳細なトーラー研究に費やされ,会員は全生涯をそのために捧げた。日常生活のけがれを純化することを目指し,集団受洗といった儀式的純化が強調された。エッセネとは,「敬虔なもの」,あるいは「静かなるもの」といった意味と考えられるが,語源に関しては諸説がある。 1947年に死海の北西のクムランの洞穴で発見された「死海文書」 Dead Sea Scrollsは,この派のものとされる。





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[ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 2008]


エッセネ派
エッセネは Essenes

イエス時代のユダヤ教の一分派で,その名称は〈敬虔な者たち〉の意とされる。フィロン,ヨセフス,大プリニウスの報告によると修道院に似た共同生活を行い,加入希望者は3年間の試験期間の後,厳粛な誓約により初めて加入を許され,共同体のあらゆる規律の遵守を義務づけられた。結婚と財産私有に関し,これを厳格に禁止する祭司的共同体と,一部分これを認容する,より緩やかな共同体の別があったといわれる。固有な年間暦をもち,日々の生活は祈裳,律法研究,農工作業,祭儀的な沐浴と共同の食事などからなる日課に従って整然と営まれた。4000人ほどの会員がパレスティナ内外の多くの土地に居住していたと伝えられ,1945年死海沿岸で遺構が発見されたクムラン教団はエッセネ派の一部を構成したものと考えられる。バプテスマのヨハネとイエス自身をもエッセネ派=クムラン教団の出身とする仮説があるが,あまり賛同を得ていない。⇒クムラン∥死海写本
                         大貫 隆

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エッセネ派
エッセネ派 エッセネは Essenes ユダヤ教の一派で、共同体を形成し、きびしい禁欲主義を実践した一団。前2~後2世紀に、およそ4000人の会員がパレスティナとシリアに存在し、おもに死海沿岸に居住していた。聖書やユダヤ文学には登場せず、彼らについての情報は、おもにヘレニズム時代のユダヤ人学者でアレクサンドリアの哲学者フィロン、ローマの歴史家大プリニウス、ユダヤ人の歴史家ヨセフスの記述のみである。

エッセネ派の前身にはさまざまなグループがあった。おもなものにツェニウーム(「おだやかな、あるいは質素な人々」の意)、ハシュシャイーム(「しずかなる人々」の意)、ハシディーム・ハリショニーム(「古代の聖人、古老」の意)、ニギイェ・ハド・ダアト(「純粋な心」の意)、バディキーム(「厳格な人々」の意)があり、それぞれの名称はエッセネ派の特徴をあらわしている。基本教理は神を愛し、徳を愛し、隣人を愛することだった。

エッセネ派は財産を共有して必要に応じて分配し、安息日を厳守し、清浄を重んじて、冷水での沐浴(もくよく)と白衣の着用を励行するのが大きな特徴だった。反対に、軽率な宣誓(エッセネ派の信徒となるための宣誓をのぞく)や、動物のいけにえが禁じられ、武器の製造や商業に従事することも禁止されていた。

新会員は、養子にした子供や財産を放棄したあらゆる階級の人々の中からあつめられた。加入を希望する者は3年の試験期間をへてから、厳粛な宣誓によって正会員とみとめられた。新会員は共同体のあらゆる規律に完全にしたがい、秘密を厳守しなければならなかった。宣誓をやぶると、追放の処罰をうけた。儀式できよめられた食べ物以外は食べることを禁じられ、それを厳重にまもりつづけて餓死する例もしばしばあった。

またエッセネ派は、同じ人間どうしの交わりを冒涜(ぼうとく)するものとして、奴隷制に反対した初めてのグループで、ほかの社会の奴隷を買いとり、解放させたといわれている。小さな共同体をつくり、農業や手工芸に従事していた。

1947年、エッセネ派が1世紀に居住していたと思われる死海近くのクムランの洞窟で、古代ヘブライの古文書「死海写本」が発見されて以来、同派に新しい光がなげかけられるようになった。写本のひとつ、「共同体の規律」は、ギリシャとラテンの資料からわかっているエッセネ派の生活様式と関連づけられるものである。

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死海文書
死海文書

しかいぶんしょ
Dead Sea Scrolls

  

1947年以後,死海北西部沿岸の荒野の洞穴や古代の廃虚で発見された羊皮紙やパピルスの古写本の総称。そのうち (1) クムラン地域の 11の洞穴で発見された前3世紀なかばから紀元 68年までの写本で,『イザヤ書』や『詩篇』をはじめとする旧約正典,『トビト書』や『エノク書』などの典外書,『ハバクク書注解』などの注解書,エッセネ派に属すると思われるクムラン教団に関する貴重な資料を含むクムラン写本,(2) ユダヤ人のローマへの反乱 (132~135) を指導したバル・コフバに関する資料や正典の写本断片などのムラッバアト洞穴の写本,(3) 1世紀の小預言書のギリシア語訳の校訂や聖書断片その他を含むナハル・ヘベルの洞穴の写本,(4) 前 75年頃のへブライ語による『ベン・シラの知恵』『詩篇』や『レビ記』『創世記』などの断片を有するマサダの写本などが著名。いずれも古代ユダヤおよび初期キリスト教の研究にとって重要な資料である。なお写本の整理や分類は継続中である。





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死海写本
I プロローグ

死海写本 しかいしゃほん Dead Sea Scrolls 死海北西岸のクムラン洞穴群を中心に、ヨルダン各地で発見された文書。死海文書ともいう。1947年、ベドウィンの少年がクムランの洞穴で、素焼きの壺におさめられた巻物を発見した。これをきっかけに広大な発掘調査がはじまり、現在までに11の洞穴から500をこえる写本の巻物がみつかっている。写本は、羊皮紙、パピルスなどにヘブライ語、アラム語、ギリシャ語などで書かれている。そのほか、北はエリコ北方から南方はマサダまで、死海西岸一帯でも写本類が発見されており、これをいれると700文書をこえる。狭義には、クムランで発見された写本だけを死海写本という。

II クムラン宗団

死海をみおろし、ユダヤの荒野をみあげる広大なクムランの山上には、水道、浴場、図書館、住居などをもつユダヤ教の修道院跡がある。死海写本は、その周りに点在する11の洞穴で発見された。写本を所有していた共同体はクムラン宗団とよばれ、古代ユダヤ教の一派であるエッセネ派か、その分派と考えられている。エッセネ派は禁欲的な修道生活と聖書(旧約聖書)を重んじ、共同生活、独身、菜食をまもった。イエスの時代には、エッセネ派の総数は約4000人にのぼり、洗礼者ヨハネもその一員だったといわれる。クムラン宗団は、後68年までこの地に存在していた。

III 発見された写本

500をこえる巻物の圧巻は、第1洞穴から発見された「イザヤ書」の全巻である。これによって明らかになったのは、現行のヘブライ語原文との違いがほとんどみられなかったことである。ほかに「エステル記」以外の旧約聖書の正典が、断片ではあるが発見された。いずれも前200年ころから後68年までに書写されたもので、現存する最古の聖書より1000年近く古いものとされている。聖書以外の巻物は、多くの旧約聖書の注解と、クムラン宗団の共同体の典礼、教理、戒律などをしるしたものである。

これらの写本は第1次ユダヤ戦争のさなか、ローマ軍の襲撃からまもるため、後66年から68年にかけて洞穴にかくされたと思われる。現在、死海写本の大部分は、エルサレムのイスラエル博物館の聖書館におさめられ、公開されている。この建物は、写本がはいっていた壺の形にデザインされている。また、2001年11月、最初の発見から54年目にしてようやく編集出版作業が完了し、オックスフォード大学出版部から37巻の書籍として出版されることが公表された。

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シナゴーグ
シナゴーグ

シナゴーグ
synagogue

  

「集会」を意味するギリシア語 synaggに由来する名称でユダヤ教の会堂をさす。バビロン捕囚期に神殿を失ったユダヤ人が集って聖書を読み,祈祷する場所として建てた会堂に起源があるといわれる。一般に長方形のプランをもち,その一辺がエルサレムの方向を向き,内部にはトーラーを収める箱がある。現在までに発掘された最古のものはアレクサンドリア郊外にあった前3世紀のもの。1世紀頃にはローマ帝国各地に建てられた。以来現在にいたるまで,単に礼拝だけでなく教育や集会の場所として,世界中に散在するユダヤ人の社会的,宗教的生活の中心となっている。





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シナゴーグ
synagogue

ユダヤ教の公的な祈裳・礼拝の場所(会堂)をさす語。ギリシア語で〈集会〉を意味するシュナゴゲsynagヾg^ に由来し,ヘブライ語では,ベート・クネセット b『Y ken^seY という。その起源については種々の説があるが,一般には前586年のユダ王国滅亡後のバビロン捕囚時代に,焼失したエルサレムの神殿(第一神殿)に代わる彼らの公的祈りの場所として発達したとする説が有力である。捕囚後の前515年にエルサレムの神殿が再建され(第二神殿),彼らの宗教的生活規範である律法書(〈モーセ五書〉)が完成してからは,これを共に読み学ぶ機関となった。とくにパレスティナでは,律法の知識をユダヤ全国民の間に徹底させることによって民族の一体性を維持しようとするパリサイ派によって,律法教育の場として用いられた。そのようなシナゴーグがローマ軍による第二神殿破壊(後70)のころまでに全パレスティナに普及し,エルサレムだけでも400も存在したという。イエスもナザレのシナゴーグで教育を受け,後に当地とさらにカペナウムのシナゴーグでも説教をした(《ルカによる福音書》4:14~20,《マルコによる福音書》1:21)。シナゴーグはシリア,小アジア,北アフリカなどのディアスポラ(離散のユダヤ人)の間にもヘレニズム時代に広く発展し,エジプトではすでに前3世紀に存在したことが出土碑文によって証明されている。パレスティナでは第1次ユダヤ戦争のとき,ユダヤ反乱軍の最後の拠点となったマサダとヘロディウムに残存するシナゴーグが紀元前に属する最古のものである。
 神殿の礼拝が犠牲中心であったのに対して,シナゴーグの礼拝においては犠牲はささげず,聖書の朗読とその解説(説教)が中心だった。最初は3年サイクルで〈モーセ五書〉全巻を154の週課に分けて通読していたが,後に1年サイクルに変わった。この礼拝形式は後のキリスト教やイスラムのそれの基礎となった。またシナゴーグには,一種の義務教育としてユダヤの少年たちに旧約聖書本文を教える学校(ベート・ハッセーフェル)と,より高度の律法研究機関(ベート・ハッミドラーシ)が付設され,シナゴーグはしばしば学校と同一視された。神殿崩壊後は,シナゴーグは文字どおりユダヤ民族の精神的統合のシンボルとして,民族維持の原動力となった。
 今日パレスティナだけでも200近いローマ・ビザンティン時代の遺構が発掘されており,その大半がガリラヤ地区に集中している。ローマ時代(3世紀)のものは,正面入口を南方のエルサレムに向けた壮大なバシリカ形式の石造建築である。その代表的なものがカペナウム,コラジン,バラアムなどにある。ビザンティン時代になると外形よりも内部装飾に意を用い,壮麗なモザイク床で飾ったものが多い(ガリラヤ湖畔から発掘されたハマト・ティベリアス,ハマト・ガデル,ベート・アルファ,イェリコのシナゴーグなど)。ディアスポラの古代シナゴーグとしては,シリア東部のユーフラテス河畔から発掘されたドゥラ・ユーロポスのシナゴーグ(3世紀)が,旧約聖書の物語に取材した大規模なフレスコ画の装飾で有名である。また古代ローマには出土碑文によってその所在が確認されているものが11ある。ローマの外港オスティアからは壮大な遺構(1世紀)が発掘されており,小アジアでもサルディス,ミレトス,プリエネなどで発掘されている。これらのギリシア・ローマ世界に存在したディアスポラのシナゴーグは広く門戸を異邦人に開放し,ユダヤ教への改宗者を多く得た。初期キリスト教会はこれらシナゴーグによって耕された土壌の上に,新しい福音の種子をまくことによって,急速に地中海世界に発展したのである。  関谷 定夫
 シナゴーグの建設は,古代ローマ帝国下では制限されていたが,中世には西アジアや地中海地域,あるいはヨーロッパにおいても建設がすすんだ。西アジアではバグダード,ダマスクス,フスタート(カイロ)のものが知られ,ヨーロッパではトレド,ウォルムス,レーゲンスブルク,プラハ,クラクフなどのものが著名であった。
 中・近世においても18~19世紀にいたるまで,ユダヤ教徒の個人およびコミュニティの生活は宗教と一体化しており,完全に世俗的な生活というものは存在しなかった。ユダヤ教徒は聖日,安息日にシナゴーグに集まって礼拝を行い,律法を読み,戒律を教えられてきた。そして祈りの家,学びの家としてのほかに,中世以後はコミュニティ・センターとしての機能が強くなり,シナゴーグに隣接する中庭では,判例が読みあげられ,婚礼が祝われた。さらに,中世では旅人の宿泊所にもなって,外部世界の情報の集積所としての性格も加わった。
 このように,ユダヤ教徒の生活におけるシナゴーグの重要性が高まるにつれて,いわゆる破門・追放にあたるシナゴーグへの参会禁止処分は,ユダヤ教徒社会の最も過酷な社会的制裁として作用した。同時に,シナゴーグはユダヤ教徒・ユダヤ人社会のシンボルでもあったから,とくにヨーロッパにおいては反ユダヤ主義の攻撃対象ともなったのである。ナチスのいわゆる〈水晶の夜〉(1938年11月9日夜)には,ドイツで約280のシナゴーグが破壊されたり焼かれたりした。オーストリアでは1938年11月10日だけで56のシナゴーグが破壊された。
 シナゴーグの数(1973推定)は全世界で約1万3162,アメリカ合衆国には5500,旧ソ連には62(ソビエト資料では97),イスラエルには6000,日本には,東京と神戸,および横須賀と座間のアメリカ軍基地にある。                児玉 昇
[シナゴーグ音楽]  シナゴーグではユダヤ教の礼拝儀式に伴うヘブライ語宗教歌が歌われた。それらは旧約聖書の朗唱,祈裳歌,賛歌などで,いずれも無伴奏である。ことに賛歌は中世以降,合唱長(ハザン)の出現によりさかんに創作され,シナゴーグ音楽の豊かな創造領域を形成した。これらの宗教歌は口伝により,ユダヤ教徒の離散の各コミュニティでその音楽的伝統の支柱を形成しながら今日にいたっている。初期シナゴーグ音楽のグレゴリオ聖歌への影響はとくに重要である。⇒ユダヤ音楽             水野 信男
[寓意表現]  12世紀中ごろ以降,キリスト教会堂の装飾にシナゴーグ(ユダヤ教会)とエクレシアekkl^sia,ecclesia(キリスト教会)を対比させた,寓意的女性像の表現があらわれる。通常シナゴーグはベールで目隠しをし,手には折れた槍を持つ。エクレシアは栄光の冠をかぶり,手に持つ槍には希望の旗がついている。その姿は,ユダヤ教会(旧約聖書)はキリスト教会(新約聖書)によって凌駕されるべきである,との考えを表したものである。こうした考えは,パリ郊外サン・ドニ修道院内陣のステンド・グラス(1144)の中で最初に明らかにされた。ここでは,中央にキリストが立ち,キリストは右側にいるエクレシアに冠をさずけ,左側にいるシナゴーグのベールをとっている。そこには,当時の修道院長シュジェール Suger による〈モーセがベールで覆ったものは,キリストの教義によって暴かれる〉という文句が記されている。この主題は,13世紀のゴシック大聖堂扉口彫刻にとり入れられ,ストラスブール大聖堂(シナゴーグ像は,現在同大聖堂美術館蔵)やランス大聖堂にその例がある。⇒ユダヤ教             馬杉 宗夫

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シナゴーグ
シナゴーグ Synagogue ユダヤ教の祈りや研究、集会のための会堂。集会あるいは集会所を意味するギリシャ語シュナゴゲに由来する。伝統的なシナゴーグでは、エルサレムの方角に面した奥の壁にモーセ五書の巻物をいれる聖櫃(せいひつ)がおかれ、その手前に不滅の光をあらわすネルタミドというランプがさげられている。中央の高座には、集会の前にモーセ五書が朗読される大きな台があり、ほかにラビが説教したり、礼拝をとりしきる小さな台もある。7つの枝にわかれた燭台も、シナゴーグの典型的な聖具である。正統派は伝統的に会堂での男女の席を別にするが、改革派と保守派はこの習慣をまもらない。

シナゴーグの起源は不明で、多くの説がある。エジプトでは前3世紀にすでにシナゴーグがあったことが発掘された碑文からわかっている。パレスティナ最古のシナゴーグの遺跡は、要塞都市マサダとヘロディウムにあり、いずれもローマ軍による70年の神殿崩壊以前のものである。

新約聖書の時代には、パレスティナの各都市に多くのシナゴーグがたてられていた。シナゴーグは、ユダヤ人が安息日ごとにあつまって礼拝をおこなう場所であり、子供たちに律法をおしえる学校でもあった。ユダヤ人社会の結束のために大きな役割をはたすとともに、キリスト教の布教にとってもひとつの足掛かりとなった。イエスもシナゴーグをおとずれ、人々に福音を説いている(「マタイによる福音書」4章23節)。

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ラビ
ラビ

ラビ
rabbi

  

ラバイともいう。元来はヘブライ語のラブ (偉大な) という言葉から出ているが,聖書では「僕」に対する「主」ないし「師」の意味で用いられる。タルムードの時代までは,聖書と口伝律法の解説者で平信徒であった。中世になってラビは,教師,説教者という性格をもつようになる。現代では一般に,ユダヤ教神学校で教育を受けた教師で,典礼上の事柄を判定し,祭式を司り,説教を行う者をさす。





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ラビ
rabbi

ユダヤ教の聖職者。原義は〈大きい〉を意味するヘブライ語から派生した〈私の主人〉という呼びかけ。〈ラビのユダヤ教時代〉(前5世紀~後7世紀)に律法学者の称号となる。〈ミシュナ・タルムード時代〉(後1世紀~7世紀)を通じて,ラビはいっさい報酬を受け取らない聖書と口伝律法の注解者で,必ず別の職業によって生計を立てていた。ラビが,ユダヤ教徒コミュニティの精神的指導者,あるいはシナゴーグの説教者として任職するようになるのは,中世以降である。         石田 友雄

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ラビ
ラビ Rabbi ユダヤ教の律法の専門職。ヘブライ語で「私の先生」を意味し、イエス・キリストも弟子などにラビとよばれていた。この呼称は現在、ユダヤ教の聖職者の公称として、よりひろい意味でつかわれている。

ラビはモーセ五書(トーラー)の研究者であるとともに、解釈者、教師であり、古代のパレスティナとバビロニアには、彼らを養成する学院イェシバがあった。のちには世界に離散したユダヤ人のすむ国々に、かならずこのような学校がつくられた。

アメリカ合衆国では、ラビの多くは律法の権威というより、説教者や牧者として活動している。伝統的な神学校が存続するいっぽう、新しいスタイルの神学校もつくられている。もっとも大きな神学校は、ニューヨークのイェシバ大学である。伝統的には男性のみがラビになれたが、改革派、保守派、再建派には近年、女性のラビもいる。

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タルムード
タルムード

タルムード
Talmud

  


『バビロニア・タルムード』(1880~86刊行版)の1ページ



 By courtesy of the Library of the Jewish Theological Seminary of America, New York: Frank J. Darmstaedter




ヘブライ語で教訓,教義の意。前2世紀から5世紀までのユダヤ教ラビたちがおもにモーセの律法を中心に行なった口伝,解説を集成したもので,ユダヤ教においては旧約聖書に続く聖典とされる。多くの編集が行われたが,現在では4世紀末の『パレスチナ・タルムード』と5世紀末の『バビロニア・タルムード』が残っている。ラビの口伝を収録する「ミシュナ」 (「反復」の意) およびそれへの注解,解説を集めた「ゲマラ」 (「補遺」の意) の2部より構成され,前者はへブライ語,後者は当時の口語であるアラム語で書かれている。「ミシュナ」の部分は両タルムードとも同一で,「ゲマラ」の部分だけ異なっている。ユダヤ教における法律,社会的慣習,医学,天文学から詩,説話にいたるまで社会百般に及ぶ口伝,解説を収め,歴史的にもユダヤ精神,ユダヤ文化の精華であり,その生活の規範となり創造力の根源となっている。





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タルムード
Talmud

旧約聖書,ミシュナ(後述)に次ぐユダヤ教の聖典。ヘブライ語の原意は〈学習〉。後4世紀末に〈エルサレム・タルムード Jerusalem Talmud〉(別名〈パレスティナ・タルムード Palestinian Talmud〉),その100年後に〈バビロニア・タルムードBabylonian Talmud〉が成立した。これら両タルムードは,200年ころ総主教ユダ(イェフダ)Judahha‐Nasi が編纂したミシュナをめぐってユダヤ人律法学者が数百年間積み重ねた議論の集大成で,ヘブライ語で書かれている。事実,タルムードの本文には,ミシュナの各節と,それに関する学者たちの議論と解釈を記録したゲマラ Gemara(アラム語で原意は〈完結〉)が交互に配置されている。
 一方,ミシュナ Mishnah(原意は〈繰返し〉,転じて〈学習〉)は,前2世紀ごろから約400年間,律法学者によって学習,展開されてきた口伝律法の集成である。その起源は,前5世紀中葉に,バビロニアからエルサレムに〈モーセの律法〉をたずさえて来て,公衆の面前で朗読,解説したエズラにさかのぼる(《ネヘミヤ記》8章参照)。この〈モーセの律法〉は,のちに単に律法(トーラー)と呼ばれる旧約聖書巻頭の5冊の書物(《創世記》《出エジプト記》《レビ記》《民数記》《申命記》)の一部であったと思われる。ともかく,エズラによる律法の朗読と解説は,ユダヤ人が,その宗教的・民族的共同体の全生活を律する成文律法を持つと同時に,律法解釈という作業を始めたことを示している。すべての成文法は,不断に変化する現実にそれを適用するためには,必ず解釈がほどこされ,やがて改正される宿命を負っている。しかし,ユダヤ人は,絶対に変更不可能な神聖な文書として成文律法を受け入れたため,現実の状況に適合する規定を作り出すためには,成文律法の解釈のほかに,成文律法と直接関係のない広範囲な権威に基づく決定にも,成文律法と同じ神聖な権威を認めなければならなかった。これが口伝律法である。
 ユダヤ人は3種類の方法によって口伝律法を導き出した。第1はミドラシュ midrash(注解)という方法で,旧約聖書,特に律法(トーラー)の本文の解釈である。第2のハラハー Halakhah(原意は〈歩き方〉)は,法規を意味するが,その権威の基盤は,成文律法だけではなく,古代から受け入れられてきた慣習,権威ある律法学者の判定,学者たちの多数決など,要するにユダヤ人共同体成員の正しい〈歩き方〉を律すると考えられたすべての権威を含んでいた。第3はハガダー Haggadah(説話)で,聖書の中の非法規的物語や,民話,伝説などに基づく教えである。
 これらの口伝律法は,師(ラビ)から弟子に教授され,世代から世代に伝達されながら発展していった。そのため,エズラ以前のイスラエルの宗教に対して,口伝律法を中心とする宗教を〈ラビのユダヤ教〉と呼び,その時代区分は,口伝律法の発展段階を示す各時代の律法学者(ラビ)の総称によって示すことになっている。すなわち,口伝律法の基礎を据えたエズラ以後のペルシア時代は〈ソフェリーム sopherim(書記)の時代〉と呼ばれ,それに続くヘレニズム・ローマ時代初期は〈ズゴートzuggoth(一対の学者)の時代〉であった。律法研究の二大学派の創設者として有名なヒレルとシャンマイは,最後のズゴートである。後1世紀初頭からミシュナの完成までが〈タンナイーム tannaim(学習者)の時代〉,タルムードの集成に向かってミシュナ研究が続けられた300年間は〈アモライームamoraim(解釈者)の時代〉である。アモライームは,タルムードのほかに,ミシュナに脱落した口伝律法(バライタ Baraita)を収集して,ミシュナの4倍に及ぶトセフタ Tosefta(補遺)も編纂した。
 ミシュナには6編(スダリーム),63項(マセホート)に分類された口伝律法が収録されている。第1編種子(ズライーム)――農業と農産物の暦,犠牲,祈裳などに関する11項。第2編季節(モエード)――安息日,祝日,断食日などに関する12項。第3編婦人(ナシーム)――結婚,離婚,夫婦関係などに関する7項。第4編損害(ネズイキーン)――民法,刑法の手続と,口伝律法の歴史的権威などに関する10項。第5編聖物(コダシーム)――犠牲の供物,神殿,祭司の職務などに関する11項。第6編清潔(トホロート)――祭儀的な潔,不潔に関する12項。以上,全63項のうち〈エルサレム(パレスティナ)・タルムード〉は39項,〈バビロニア・タルムード〉は37項に関する注釈と議論を扱う。しかし,〈バビロニア・タルムード〉の分量は〈エルサレム・タルムード〉の約10倍に及び,その議論ははるかに詳細を極めている。
 5世紀初めに,ガリラヤ地方に残存していたユダヤ人共同体は,キリスト教信仰に基づくビザンティン・ローマ帝国の迫害に耐えかねて絶滅した。これ以後,ビザンティン帝国の支配圏外にあったバビロニアの教学院(イェシバ yeshivah)が,ユダヤ教律法研究の中心になった。このため,〈エルサレム・タルムード〉は未完成に終わったばかりか,ユダヤ人世界に対する影響力も失った。これに対して,〈バビロニア・タルムード〉は,〈ラビのユダヤ教〉の聖典としての権威を確立し,今日に及んでいる。⇒聖書∥ユダヤ教         石田 友雄

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タルムード
I プロローグ

タルムード Talmud ユダヤ教の世俗的および宗教的法規の集成で、トーラー(モーセ五書)への注釈をふくむ。タルムードは、法典部分であるミシュナと、ミシュナへの注釈であるゲマラからなる。タルムードにふくまれる素材のうち、法的問題に関する律法学者たちの決定について述べてあるものをハラハーという。これに対し、伝説や逸話や格言などは、ハガダーとよばれる。

II 2つのタルムード

タルムードには、パレスティナ・タルムード(エルサレム・タルムードともいう)とバビロニア・タルムードの2種があり、両者はミシュナの部分は同一であるが、それぞれ時代を異にし、別々に編集されたため、固有のゲマラをもつ。

パレスティナ・タルムードの内容は、3~5世紀の初頭にかけてパレスティナの学者たちによって書かれたものである。バビロニア・タルムードは、3~6世紀の初頭にかけてバビロニア在住の学者たちによって書かれたものである。

バビロニアのラビ教学院は、パレスティナのそれよりも何百年ものちまでつづいたので、やがてバビロニア・タルムードのほうが権威のあるものとされるようになった。

III タルムード研究

タルムード自体とタルムード学者たちの著作、注釈は、ユダヤ教の歴史におけるラビの文学へ大きく貢献している。これらの中でももっとも重要な学問的業績は、スペインのラビ、学者、医者であったマイモニデスによる「ミシュネー・トーラー(律法再説)」(1180年頃)である。これは、当時存在していた法的なラビ文学すべての体系的な要約である。

注釈のうちでもっとも広く知られているのは、11世紀フランスのラビのラシと、12~14世紀にかけてフランスとドイツで活動したラシの孫をふくむトサフィスト(追加を書いた者)とよばれる学者たちによる、バビロニア・タルムードへの注釈である。

IV タルムードの翻訳

バビロニア・タルムードとパレスティナ・タルムードが最初に印刷本になったのは、それぞれ1520~22年と1523年のことで、いずれもベネツィアの印刷業者ダニエル・ボンベルグによって出版された。

バビロニア・タルムード全巻は、イギリスのラビ兼学者、イシドール・エプスタインの英訳(1935~52)で読めるようになった。パレスティナ・タルムードの多くの部分は19世紀のフランス語訳で読めるが、翻訳は欠点が多く不正確である。なおパレスティナ・タルムード中の12の編は、18世紀のイタリアの歴史家、古典学者ブラシオ・ウゴリーノの「聖遺文集」の中にラテン語訳がある。

なお、最近バビロニア・タルムードの日本語訳の刊行がすすめられている。非売品であるが、主要な公立図書館やキリスト教系の大学の図書館などで参照できる。

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蜜蝋に澎湃する延長(その5) [宗教/哲学]

N.マルブランシュ
マルブランシュ

マルブランシュ
Malebranche,Nicolas de

[生] 1638.8.6. パリ
[没] 1715.10.13. パリ

  

フランスの哲学者,カトリック司祭。 1654~56年ラ・マルシュ学院で哲学を,56~59年パリ大学で神学を学び,60年オラトリオ会に入会,64年司祭。その頃デカルトの著作に衝撃を受け,哲学を志した。後年恩恵論争に巻込まれ,A.アルノーと激しい論争を展開した。 99年科学アカデミー会員。デカルト哲学の研究から出発し,アウグスチヌス,新プラトン主義の伝統を取入れ,信仰と哲学を統合したキリスト教哲学を樹立。一切の現象の真の原因を神にだけ認める偶因論の確立者であり,その原理は認識論的には「万物を神においてみる」という命題に要約される。主著『真理の探究』 De la recherche de la vrit (3巻,1674~78) ,『自然と恩恵について』 Trait de la nature et de la grce (89) ,『形而上学と宗教についての対話』 Entretiens sur la mtaphysique et la religion (88) 。





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マールブランシュ,N.
I プロローグ

マールブランシュ Nicolas Malebranche 1638~1715 機会原因論とよばれる形而上学理論を提唱したフランスの哲学者、神学者。パリに生まれ、ラ・マルシュ学院やソルボンヌ(→ パリ大学)で哲学と神学をまなんだのち、1660年にオラトリオ会にはいり、64年に神父になった。

II 機会原因論

マールブランシュの思想の源は、キリスト教神学とデカルトの哲学である。1674~75年に出版された「真理の探究」は、これらを独自に体系化した彼の主著である。

デカルトにおいては、観念は人間の精神にやどるものであった。しかしマールブランシュによれば、観念は神のうちにあり、「われわれは万物を神においてみる」と主張する。観念とは万物の永遠不変な原型ないし本質であって、人間の理性もまたそれらを神においてみる。

他方マールブランシュは、デカルトが不明なままにのこした心身問題を機会原因論によって解決しようとした。彼によれば、真の原因は神だけである。したがって、世界のすべての出来事の原因も神であり、われわれがふつう原因とみなしているものは、神が作用するための機会にすぎない。

彼の思想は、デカルトの哲学を基盤にして新しいキリスト教神学をめざしていたといっていいだろう。

マールブランシュは、哲学や神学のほかに、光や色、視覚、計算など、自然科学に関する著作ものこしており、1699年にはすぐれた数学者としてフランス科学アカデミー(→ フランス学士院)の名誉会員にえらばれた。

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恩恵論争
恩恵論争

おんけいろんそう
Controversia de gratia

  

魂の救済に関して恩恵 (寵) と人間の自由意志との役割をめぐるカトリック教義上の論争。恩恵と自由のいずれを強調するかによってさまざまな理論が生れ,そこに論争の可能性をはらんでいる。論争の原形は,人間にそなわった自由意志の力のみで救霊が可能としたペラギウスと神の働きを強調したアウグスチヌスの論争にある。対抗宗教改革の中核をになうイエズス会は人間の自由に力点をおくが,1588年モリナが『自由意志と神の恩恵の賜物の強調』を出すに及んで激しい論争が起った。人間の働きを強調するモリナに対して,予定の無償性を強調する伝統説に立つドミニコ会の激しい攻撃が起り,教皇庁が介入しモリナは断罪の一歩手前まで追いつめられたが,イエズス会の活動を考慮して異端宣告はなされず,むしろ両説の並存が認められた (1609) 。





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ペラギウス
ペラギウス

ペラギウス
Pelagius

[生] 354頃
[没] 418以後

  

イギリス生れの神学者。ペラギウス説の始祖。長らくローマに住み,おそらく法学を研究した。 380年頃洗礼を受け,世俗的学問を捨てて神学に志し,『三位一体論』や『パウロ 13書簡注解』 Expositiones 13 epistolarum Pauliなどを書き,アリウス派やマニ教を攻撃した。 409年カルタゴに渡り,弟子ケレスチウスを残してさらにエルサレムにおもむいた。そこには多くの支持者と,強力な論敵ヒエロニムスがおり,412年以後アウグスチヌスとの有名な論争が始った。 417年カルタゴとパレスチナからの報告によって教皇インノケンチウス1世に破門された。 418年ペラギウス派の暴動がローマで起り,皇帝ホノリウスによりイタリアから追放され,カルタゴの教会会議は反ペラギウス説の9ヵ条を採択。教皇ゾシムスも彼とケレスチウスを破門した。ペラギウスは弁明したが認められず,おそらくエジプトに逃れた。





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ペラギウス説
ペラギウス説

ペラギウスせつ
Pelagianism

  

ペラギウスとその弟子たちが唱えた5世紀の神学説。マニ教の決定論に反対し,人間の本性は基本的に善であり,人間の意志は自由であり,したがって責任のあることを強調。その教説のうち異端とされた論点は,(1) 人間は独力で,助力の恩恵なしによい行為をなし,救済をかちうるとし,贖罪は恩恵ではなくキリストの道徳的教えによるとしたこと,(2) 原罪を否定し,アダムの罪が子孫に伝わることを認めず,幼児洗礼の必要を否認したことなどである。ペラギウス説は,人間は独力では救われず,神の恩恵にまったく依存するとしたアウグスチヌスによって反駁され,416年と 418年のカルタゴ司教会議で断罪,ペラギウスらは破門された。これを修正した半ペラギウス説は 529年オランジュ会議で断罪されるまで南ガリアで栄えた。近世の恩恵論争でも同様の立場が生れ,ペラギウス説はカルバン説の対極に位置づけられる。





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半ペラギウス説
半ペラギウス説

はんペラギウスせつ
Semi-Pelagianism

  

16~17世紀の主としてカトリック神学界に登場した用語。マッシリア派ともいう。 429年頃から 529年頃にかけて,J.カッシアヌス,レランのビンケンチウス,リエの司教ファウスツスらに支持されて,南ガリアに栄えた恩恵に関する教説をさす。ペラギウス派 (→ペラギウス説 ) が救霊のためには人間の努力だけで十分であるとしたのに対して,アウグスチヌスは恩恵の絶対必要性を唱えたが,半ペラギウス派は中間をとって救いには恩恵が絶対必要だが,それを受入れるかどうかという第1歩は人間の力だけで十分であるとした。この説は 529年のいわゆるオランジュ第2教会会議で異端とされ,のちにトリエント公会議 (1545~63) でも再確認された。





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恩恵・恩寵
恩恵

おんけい
charis; gratia; grace

  

恩寵,聖寵,恵みとも訳される。人間に救済をもたらす神の恵みのたまものをいうキリスト教神学の基礎概念。その解釈については各教会,各学派で異なる。中世神学によれば,人間は有限の目的のため創造され,これに必要な能力がそなえられた (これを自然という) が,さらに神の無償の好意によって,無限な神自身を知と愛の目的とするよう高められ,その達成に必要な性質や能力を新たに与えられた。この性質,能力を恩恵,新しい次元全体を超自然または義の状態という。人類は全体として神にそむき (→原罪 ) ,この超自然の状態を失ったが,イエス・キリストの受肉と死と復活によってこの状態を回復した。それゆえ,恩恵はさらに罪のゆるしをもたらし,「キリストの恩恵」とも呼ばれる。恩恵が衣服のように人間本性に異質であれば,それによる救済は単に外面的なもの,強いられたものにすぎなくなる。逆に本性に内在的であれば,当然のものとなり,神からの絶対的無償性がそこなわれる。後者の線を強調したのがペラギウス派で,それによれば創造がそのまま恩恵であり,救いは結局人間の自力によるものとなり,律法主義,パリサイ主義 (→パリサイ派 ) につながる。前者を推し進めればマニケイスム (→マニ教 ) で,人間本性は根源的に堕落,悪化,破壊されたままにとどまり,救いは「人間の」救いではなく神の一方的意志行為にすぎなくなる。この緊張関係は,すでに新約の時代から,信仰による義を強調したパウロ,善業の必要を説いたヤコブ書に象徴されるように,教会の全歴史を通じて存在し,恩恵は自然を破壊せず,むしろそれを前提とし,完成するとの公理にもかかわらず,問題は完全に解決されることなく,恩恵と自由意志の問題として今日まで論争されている (→恩恵論争 ) 。宗教改革においてはカトリック側はペラギウス的傾向にひかれ,プロテスタント側はマニケイスム的傾向に傾いて信仰のみによる義を強調し,恩恵は堕落し破壊された人性を内在的に回復高揚することなく,単にそれによって神が人間を義とみなすという義認説をとった。





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恩寵
おんちょう grace

恩恵ともいう。ギリシア語では charis,ラテン語では gratia。キリスト教神学の用語としては,イエス・キリストにおいて啓示されたすべての人間に対する神の愛と慈悲を意味する。旧約時代の全体が〈律法〉という言葉に集約されるのに対して,新約時代の全体を要約する言葉は〈恩寵〉である。創造にはじまり,終末におけるキリストの再臨をもって成就される救いの歴史は,神の恩寵の受肉的展開にほかならない。キリスト教は,罪人であり,生命の源である神から断ち切られて死の状態にある人間がその罪をゆるされ,義とされて再び神との交わりに入ることができるのは,人間の側のどのような善行によるのでもなく,絶対に無償で無条件的な神の恩寵による,と教える。恩寵は人間の罪をゆるし,彼を神意にかなう者たらしめる〈賜物〉であるが,そこで人間に贈与されるのは〈恵み〉〈賜物〉という言葉でふつうに連想される特定の望ましいものではなく,まさしく神自身なのであって,恩寵によって人間は神的生命そのもの,神的本性に参与する者たらしめられるのであり,そこに人間の究極的な幸福が見いだされる。罪のゆるしと救いが恩寵によることはキリスト教の基本的な信条であるが,恩寵における神と人間との関係は神学の歴史において多くの論争を呼びおこした。キリスト教の最初の数世紀間に,人間は恩寵なしにも善を意志し,実行しうるのか,またみずからの自由意志によって恩寵への準備をととのえることができるかが問題となった。ペラギウスは原罪を否定し,人間は自力で神法を遵守しうるほどの完全な自律的自由を有すると主張して恩寵の必要性を軽視した。また半ペラギウス主義は,人間は自由意志によってみずからを恩寵を受けるにふさわしい状態に置きうると説く。このような立場はアウグスティヌスを先導とするキリスト教神学の展開のなかで退けられたが,16世紀以降,恩寵と人間的自由の関係をめぐって激しい論争が起こり,バニェス D. B⊂4ez 派が救いへと導く人間の自由な行為は恩寵によって有効に発動させられると説いたのに対して,モリナ派は人間的自由をより積極的に弁護する必要があるとして,神の摂理・預定と人間的自由の両立可能性を説明するための〈中間知〉の理論を提示した。神の絶対的な恩寵や摂理が人間の自由を破壊せず,かえって後者を真の自由たらしめるという真理は人間理性によっては測りがたい神秘であり,これを説明しつくそうとする試みは神に対する真実の信仰とは相いれないといえる。⇒救い     稲垣 良典

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恩寵
I プロローグ

恩寵 おんちょう Grace キリスト教神学の用語。神から人に無償であたえられる一方的な愛のことで、人はこの愛によってすくわれ、聖化される。旧約聖書のヘブライ語原典でも、おなじ意味で恩寵という言葉(ヘブライ語でヘーン)がつかわれている。新約聖書では、恩寵(ギリシャ語でカリス)はほとんど例外なくキリストの姿とむすびつけられており、キリストの贖(あがな)いの死によって、神の無限の愛がしめされたとされる。

II ペラギウスとアウグスティヌス

4世紀末にアウグスティヌスとイギリスの神学者ペラギウス(→ ペラギウス主義)の間で、罪と恩寵の性質について最初の神学論争がおこった。ペラギウスは、神への服従・非服従は各人の自由であり、人間は意志によって善をおこなうことも悪をおこなうこともできると考えた。彼にとって恩寵とは、神の教えであり、イエスをとおしてしめされた啓示である。それゆえ人は、恩寵によってただしいことを知ることができ、善をおこなうための力添えとして恩寵をもとめることもできる。しかし、恩寵は「あらがえる」ものであり、それを拒否するのもまた自由なのである。ペラギウスは救いを、自由意志で神にしたがうことをえらんだ人生に対し、神があたえた報酬と考えた。

アウグスティヌスも、神への服従・非服従を自由にえらべるように、神が人間をつくったという点では一致しているが、原罪による汚れは生殖行為により次の世代にうけつがれると主張した。そのため、人間が罪をおかさないということはありえない。あらがうことのできない神の恩寵だけが、人間を罪の力からときはなつことができるのであり、その恩寵はキリストという形であたえられた。そして教会の聖職者をとおして、とくに洗礼その他の秘跡をとおして、人は恩寵をえられるとした。信者はそれでも罪をおかすかもしれないが、神にえらばれた人々は堅忍ののち、功徳やよい行いによってではなく神の勝利の恩寵によって、救いをえると説いた。

III 中世

スコラ派(→ スコラ学)の神学者、とくにトマス・アクィナスは、恩寵に関するアウグスティヌスの教義を支持するためにそれをやや修正した。トマスは、自然の領域と超自然の領域を区別し、自然の領域は人間の理性によって理解できるが、超自然の領域は神の恩寵と恵みぶかい真実の啓示によってのみ理解できるとした。自然の領域でのアリストテレスの理性と、超自然の領域における伝統的なアウグスティヌスの神学の両方に活動の余地をつくったのである。彼にとって、理性は罪によってけがされず、その固有の範囲でじゅうぶんな知識を生みだすものであり、恩寵は自然を否定したり自然にかわるものではなく、自然を完成させるものである。

スコラ派はまた、恩寵そのものの領域を分類した。恩寵は超自然の領域に属するが、人を恩寵の領域にひきあげるには恩寵の作用を必要とする。これが義認の恩寵、あるいは人を高める恩寵である。それは、さらなる恩寵のはたらきをもたらす。聖化の恩寵とよばれるもので、人をきよめ聖化することにより、人が神の国にはいることを可能にする。さらに、無償の恩寵もある。つまり、予定した経路に拘束されない神の恩寵である。恩寵をうけている人々の信念にみちた高潔な生活にみられるように、永続的な恩寵もある(常住の恩寵)。神にしたがって異常な事態をうけいれるという非常にまれな場合には、また特別の恩寵があたえられるのだとする(助力の恩寵)。

スコラ派の神学では、恩寵をほとんど秘跡の体系にだけむすびつけている。この説によれば、恩寵は7つの秘跡のひとつひとつによってそそがれ、必要なときにふさわしい恩寵があたえられる。

IV 宗教改革

16世紀のプロテスタントの宗教改革者たちは、恩寵をある程度まで秘跡からきりはなした。ルターとカルバンは恩寵の個人的な質を強調した。ルターにとって、恩寵は人と神の関係によってきまるものであり、人の意志とかけはなれたり人の意志に反してあたえられるものではない。カルバンは、恩寵は人のうちにあるあらがえない力であり、意志を本来の束縛からときはなち、神によってすくわれるとさだめられた人々にのみあたえられる、と主張した。

宗教改革者たちはまた、自然の領域の理解において、スコラ派が信じている人間の理性の効力を否定した。ルターとカルバンは、人間の意志や感情だけでなく自然や理性などもふくめて、すべての創造物は罪によって堕落すると主張した。そのため、罪と恩寵についての彼らの解釈は、スコラ的解釈よりはアウグスティヌス的解釈に近い。

V 現代の展開

19~20世紀初めにかけて、リベラル派のプロテスタントは、人間の本質に関して楽観的でペラギウスの説とほとんどかわらない考え方を展開した。しかし第1次世界大戦とその後の事態に対する幻滅から、バス、ニーブール、ティリヒなどのプロテスタント神学者たちは、罪と恩寵についてよりアウグスティヌス的な説にもどろうとした。だがこの新正統主義の動きは、生殖によって罪がうけつがれるというアウグスティヌスの考え方までは復活させなかった。そして、秘跡の中心性を否定せずに恩寵の個人的な質を強調する伝統的なプロテスタントの立場を維持した。ラーナーやキュングのような20世紀のカトリック神学者たちの研究も、実存主義の影響のもとで、同様の方向にすすんだ。

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救済
救済

きゅうさい
stria; salvation

  

宗教における基本的な概念の一つ。広義には超合理的な方法で肉体的,心理的に否定的な状況から脱して,安定に到達することをいう。その具体的な内容は,それぞれの宗教により,さまざまな様相を示しており,個人だけではなく家族,民族といった集合体までもが,救済の対象として考えられることがある。実現の方法は,基本的に神仏や,なんらかの霊的な存在などに祈願し,その加護を期待するものと,もっぱら自己の努力による達成を期するものとに分けられる。前者は他力的な救済,後者は自力的な救済ともいいうるが,狭義には前者を,特に限定して救済ということもある。キリスト教をはじめ,多くの有神論的な宗教においては,救済は超人間的な存在によって,初めてもたらされると考えられており,各宗教の民衆的な性格とも無関係ではない。これに対し,とりわけ初期のインドの仏教のように,少数の達人的な修行者によってになわれた宗教では,自己修練の積重ねによって,解脱にいたることが目標とされた。この意味で仏教は基本的に解脱型,キリスト教は救済型といってもよい。現実には,キリスト教の内部でも解脱に近い体験はみられるし,逆に仏教にも浄土教のように明らかに救済型というべきものもある。そのかぎりでは,解脱と狭義の救済とは,さまざまな宗教を通じてみられる体験の類型といえる。





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[ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 2008]


救済
I プロローグ

救済 きゅうさい Salvation 救済は、宗教の主たる目的である。宗教がもとめられるのも、救済への期待があるからにほかならない。人間は、自然や社会といった環境の中で生きているが、すべてが思いどおりにいくわけではない。病にかかることもあれば、災難にみまわれることもある。あるいは、人生の意味について深くなやむこともある。また、個人だけではなく、その個人が属する集団や社会、あるいは国家や民族が危機をむかえることもある。救済は、そういった病や災難、危機からの解放や脱却を意味している。

II 現世利益の実現

もっとも素朴で、大衆的な救済が、現世利益の実現である。人々が神社や仏閣にもうでて祈願するのは、病からの回復や家内安全、商売繁盛といった世俗的な欲望の充足である。新宗教とよばれる大衆的な宗教運動は、現世利益の実現を約束することによって、その勢力をのばしていく。

III 霊的な救済

しかし、真摯(しんし)な信仰を主張する宗教的なインテリ層からは、大衆のもとめる救済は、それが世俗的な現世利益の実現であるために、かならずしも高い評価をあたえられず、むしろ否定的に考えられ、そこから脱却すべきものとしてとらえられる。インテリ層が評価するのは、精神的、あるいは霊的な救済であり、それは禁欲など、世俗的な欲望を放棄することによって実現されると考えられている。

IV キリスト教―神の国の到来

救済の主体やそのあり方は、宗教や宗派によってことなっている。キリスト教のような唯一絶対の神を信奉する宗教においては、救済の主体は神自身である。キリスト教においては、神によって、最後の審判のあとに神の国が到来することが約束されていると考えられている。

V 仏教―悟りを開く

神を信仰の対象としない仏教においては、救済である解脱は悟りを開くことによってえられるとされる。悟りを開くためには、一定の修行が必要であり、坐禅や経典(→ 教典)の学習などが実践される。大乗仏教においては、回向の考え方があり、みずからがたくわえた徳を他の人間にふりむけることによって、その人間をすくうことができるとされている。ただし、絶対他力の信仰を説く浄土信仰(→ 浄土教)においては、阿弥陀仏による救済だけが真実の救済であるとされ、救済の主体が超越的な絶対者にもとめられている点で、キリスト教との類似性が指摘されている。

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解脱
解脱

げだつ
moka; mukti; vimukti

  

仏教,インド哲学の用語。人間生活に伴うあらゆる苦悩や迷妄の束縛から開放されて,完全に自由になることをいう。もともとはウパニシャッドで説かれ,インド哲学一般に継承されている観念であるが,仏教では涅槃 (ねはん) とともに究極の目標と考えられている。『中阿含経 (ちゅうあごんきょう) 』で釈尊は「あらゆる事象に執着せず,すべてを捨て,解脱したと思い込み,みずから生存している身でありながら,世間における痛苦や生存に伴う老・病・死,そこから起る憂い・悲しみ・喜・怒・哀・楽などから離れるとともに,さらに安らぎのある世界 (安穏涅槃) を求めてそれを体得すれば,そこにおいて自分は確かに解脱したのである」と語っている。龍樹も「苦しみを滅することが解脱である」 (『歓発諸王要偈』) と書いている。苦悩や迷妄は各人によって異なるから,素質・性格・地域・階級など各人のおかれた諸条件にしたがって,これらを除去する解脱の現れ方もさまざまになる。チベットやモンゴル仏教の活仏は,この世において解脱を完成した,仏陀と異ならない人間であると信じられている。





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解脱
げだつ

モークシャ mokoa,ムクティ mukti などの漢訳語。古来,インドで宗教の最高目標とされてきたもので,輪廻(りんね)(サンサーラ saks´ra)からの脱却,〈苦〉からの脱却,永遠の生,不死など種々の定義があるが,全体として必ずなんらかの意味で輪廻からの脱却ということにかかわっている。歴史的にも,解脱の考えは輪廻思想の誕生と同時に発生している。
 輪廻思想は,文献の上で見るかぎり,古ウパニシャッド(前7世紀前後)に初めて現れる。その記述によれば,輪廻の教えはベーダの伝統を直接担っている司祭階級(バラモン)ではなく,武人階級(クシャトリヤ)が伝え保ってきたとされており,アーリヤ人以外の先住民族の宗教に端を発するものであることが推察される。古ウパニシャッドの説く輪廻説は〈五火二道説〉と総称されるが,とくに二道説について見れば以下のごとくである。すなわち,人は死んで火葬に付されたのち,いったん全員月世界に赴く。そのうち,前生で善をなし,正しい知識をもって正しく祭祀を遂行した人びとは,月世界を離れ,ブラフマー(梵天)の世界に達し,二度と再びこの世に戻ってこない。この経路を〈神道(しんどう)(デーバ・ヤーナ deva‐y´na)〉という。その他の人びとは,一定期間月世界にとどまったのち,雨(雨は月から降ると考えられていた)とともにこの世に舞い戻る。やがて植物の種子に入りこみ,それを食べた人や犬などの精子となり,ついには人や犬などとして再生する。何ものとして再生するかは,前生での善悪の寡多による。この経路を〈祖道(そどう)(ピトゥリ・ヤーナ pitn‐y´na)〉という。祖道によってこの世に再生したものはやがてまた老死の苦しみを受けるが,神道によってブラフマーの世界に達したものには再生がなく,したがってまた死ぬこともない。つまり,〈不死〉を得たことになる。仏教でも古い文献には,〈解脱〉の代りに〈不死〉という言葉がしばしば用いられている。
 仏教では,われわれの輪廻的生存を〈苦〉そのものであるとし,さかのぼってその最終的原因を〈渇愛(かつあい)(トゥリシュナー tnol´)〉ないし〈無明(むみよう)(アビドゥヤー avidy´)〉と見る。したがって,それを滅ぼせば輪廻的生存はやみ,〈苦〉もなくなることになる。そのためには,この世の〈苦〉の真相とその克服法についての真実(サティヤsatya,〈諦(たい)〉)の知(ビドゥヤー vidy´,〈明(みよう)〉)を得なければならないとする。その真実の知を仏教では悟り(ボーディ bodhi,菩提(ぼだい),覚(かく))といい,それを得た人をブッダ buddha(仏陀,覚者)といい,悟りの境地をニルバーナnirv´la(涅槃(ねはん))という。
 仏教以降に出た諸派の解脱観については,たとえばサーンキヤ学派,ヨーガ学派は,自己の本体であるプルシャ puruoa(純粋精神)を,身体(ふつうの意味での意識も含む)や外界など物質的なものから完全に区別して知ること(区別知,ビベーカviveka)によって,純粋精神が物質的なものから完全に孤立すること(独存(どくそん),カイバルヤkaivalya)が解脱であるとし,ベーダーンタ学派は,自己の本体であるアートマン ´tman(我(が))が実は宇宙の本体であるブラフマン brahman(梵)と同一であると明らかに知ること(〈明〉)によって解脱が得られるとするが,いずれにしても,真実の知によって解脱が得られるとする点では,基本的に上述の仏教の考え方と軌を一にする。⇒苦∥悟り
                        宮元 啓一

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解脱
解脱 げだつ インド思想(→ インド哲学)や仏教でつかわれる用語。古代以来、インドでは人生最高の目標とされ、煩悩や輪廻の束縛による苦しみから解放されて、自由で理想的な心の境地にいたること。仏教のあらゆる宗派では解脱を最終目的としているため、心の安らぎの境地に到達したことも解脱という場合があり、この場合は涅槃と同一の意味になる。

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原罪
原罪

げんざい
original sin

  

罪には法律上の罪と精神的あるいは宗教的な罪とがあるが,原罪は後者に属するキリスト教的な概念で,自罪と対置される。キリスト教はユダヤ教の影響下に,人類の始祖アダムの堕落物語 (創世記3章) を聖書的典拠として,すべての人間は人祖の罪を負い,生れながらにして罪のなかにあり,それから脱出する自由を自分ではもたないと説く。これが原罪である。原罪の観念はパウロやアウグスチヌスらによって強調され,そこからの救いは神の恩恵にのみよるとされた。原罪からの解放は,カトリックでは信仰のしるしである洗礼の秘跡に,プロテスタントではキリストの贖罪とキリストへの信仰のみ (ソラ・フィデ) によるとされる。





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原罪
げんざい original sin

キリスト教神学の用語。旧約聖書《創世記》3章には,まずイブが蛇にそそのかされ,次にアダムがイブにそそのかされて禁じられた木の実を食べ,その結果神に罰せられて,あらゆる生の苦しみをもつに至ったと記されている。またこれによって,神の造った世界の中に罪と死とのろいが入り込んだとされる。ドイツ語の Urs‰nde と Erbs‰nde はいずれも原罪を意味するが,前者は最初の罪,根源的な罪を言い,後者は遺伝によって相続される罪を言う。後者のような考え方がはっきり表明されたのは,旧約偽典《第四エズラ書》においてである。パウロは《ローマ人への手紙》5章で,ひとりの人の罪がすべての人に及ぶことを集合人格corporate personality の意味で述べ,かつ罪が罪として現れたのは律法によるのであり,モーセの律法が生ずる前は死のみがあったと述べている。アウグスティヌスは原罪を遺伝罪として語ることが多かったが,これは性交を原罪的なものとみなす考えと一致し,さらにまたマリアの無垢を強調するカトリック一般の考えにも連なっている。しかし個々の罪に関しては意志の働きがあることを否定せず,そこで原罪とは〈意志の腐敗〉にほかならないとも言われた。ルターは原罪を神に対する人間の〈むさぼり〉に見た。これは性欲を原罪とみなす考え方よりもいっそう強く罪と死,罪と苦難の結合を語るもので,《創世記》3章の見方に近いと言える。⇒罪                   泉 治典

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原罪
原罪 げんざい Original Sin キリスト教の用語で、アダムがおかした罪、あるいはアダムから全人類におよんだ罪をいう。罪とは、神の意志に反する状態、神から遠ざかっている状態である。

「原罪」という言葉は、聖書にはない。しかし原罪の教義を支持する神学者たちは、パウロ(「ローマの信徒への手紙」7章7~25節)やヨハネ(「ヨハネの手紙一」5章19節)、さらにイエス自身によっても(「ルカによる福音書」11章13節)、原罪という考え方が強く暗示されていると主張する。

この新約聖書の教えには、ユダヤ教の黙示文学の世界観が影をおとしている。黙示文学の中には、有史以前に天使の堕落(悪魔の誕生)があったこと、つづいてアダムとイブが罪に誘惑されたこと、それらによって人間の歴史に混乱と反抗と苦悩がはいりこんだことを、世界の堕落の原因とするものがある(「エズラ記」(ラテン語)7章など)。この黙示的な枠組みの中で、パウロやほかの新約聖書の著者は、キリストの業(わざ)を罪や悪のおそろしい力に対する勝利ととらえ、人と神を和解させ平和をもたらすものと解釈した。

原罪を教理として明確にしたのはアウグスティヌスといわれている。彼は、罪を人間の意志の問題に帰するペラギウスに反論し、原罪がアダムの子孫全体にいきわたっていることを主張。さらに、原罪が性行為によって世代から世代へと遺伝すると説いた。

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dikaiosyn theou; justitia Dei

  

ユダヤ教,キリスト教においては「神の義」の意味で用いられる。この際,義は普通の倫理的な意味における「正義」とは異なり,唯一神の属性であり,それにのっとることこそ人間の義なる (正しき) 生活の規範とされた。旧約聖書では神の義は神ヤハウェの動的啓示的行為として現れ,しいたげられたユダヤ民族はそこに示された神の意志に服従し,律法を遵守するとき民が救われると考えられた (イザヤ書 45・8,51・5~7など) 。新約聖書における義の観念もユダヤ教の義の延長上にあるが,パウロにより徹底的に深化され,律法によらずキリストを信じることにより,恩恵的に与えられるものとされた (ローマ書4・11,13など) 。この信仰による義においては,人間の生は「義の武器として神にささげ」 (同6・13) られたものとみなされる。このように信仰によって義とされることを義認あるいは義化 dikaiosis,justificatioという。





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中国思想の概念。〈義は宜(ぎ)(よろし)なり〉(《中庸》など)というのが伝統的な定義。ことがらの妥当性をいう。儒教では五常(仁義礼智信)のひとつとして重視され,しばしば〈仁義〉〈礼義〉と熟して使われるが,対他的,社会的行為がある一定の準則にかなっていることをいう。《礼記(らいき)》礼運篇では人の義として,父の慈,子の孝,兄の良,弟の弟(てい)(目上の者に対する従順さ),夫の義,婦の聴(聴き従う),長の恵,幼の順,君の仁,臣の忠の十義を列挙する。朱子学では,仁を温和慈愛の道理とし,義を宜としたうえで断制裁割(利刀で物を断ち切るようにけじめをつける)の道理とする。つまり,区別された個々のことがらに宿る妥当性だというのである。〈名義〉〈字義〉〈義疏(ぎそ)〉などという場合の義(言葉のもつ意味)も上の義とつながっていよう。義はほかに公共性や慈善性を意味する場合がある。〈義倉〉(飢饉用の公共の米倉),〈義舎〉(旅人のための公共宿舎),〈義冢(ぎちよう)〉(無縁仏のための共同墓地),〈義荘〉(一族の貧者のための田地)などの語がそれをあらわす。また,〈義父(養父)〉,〈義児(養子)〉,〈義兄弟〉のような言葉もある。           三浦 国雄

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律法
律法主義

りっぽうしゅぎ
legalismus

  

キリスト教神学用語。旧約聖書の律法の真の精神を忘れ,条文にとらわれて1字1句に拘泥するような態度をさす。この立場は「パリサイ人」に象徴され,キリストは福音書の多くの個所で,愛の精神にもとるものとして痛烈に批判している。より狭義には,救いはキリストの恩恵と信仰よりも律法の厳正な遵守,もしくは結局は各人の行う善業によって得られるとするような立場をさし,これはパウロの神学によって明確に批判された。ルターの宗教改革は,中世カトリック教会におけるこの律法主義に対する一つのプロテスト (抗議) であるとされている。





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律法
りっぽう Law

キリスト教倫理学および聖書学ではこの語は多義的に用いられる。前者で最も広義に用いられる場合は,〈福音に対立する〉否定的な意味で用いられ,ヨーロッパ,アメリカではルター派の系統にその傾向が強くみられる。カルバン派では律法の第三用法と称して積極的に位置づけ,意味づける。また,福音=新約聖書と対立させ,律法=旧約聖書の意味に用いる場合もある。より狭義に用いる場合は,旧約聖書内の〈律法〉,つまり旧約聖書の最初の五書(モーセ五書)の別名として,とくにユダヤ教で用いられ,〈トーラー Torah〉ともいわれる。その場合は,〈律法(トーラー)〉〈預言者(ネビーイーム)〉〈諸書(ケスービーム)〉という三区分の一つとして用いられる。最も狭い意味で用いる場合には,五書に保存されているさまざまの法律集,祭儀規定,倫理規定を指す場合と,これらと並ぶ一つの広義での〈法〉の類型をトーラーと呼ぶ場合とがある。その場合,トーラーとは,ヘブライ語ヤーラー(示す,教示する)という動詞に由来する名詞であり,古代イスラエル社会の指導者であった祭司,預言者,知者,長老などが必要に応じて教示した個々の指示を意味した。複数の教示は〈トーロース〉と呼んだ。祭司が民衆の問いに答えて与えるトーラーが最も有名であるが,決して,祭司の独占物ではなかった。これと並んで民衆の生活を指導した法に,誡命(デバーリーム,ホーク),法律・判例(ミシュパーティーム),命令(ミツバー)などがあった。
 これら各種の法は,神との契約関係の中に生きた古代イスラエルの民がこの契約の構成内容ないし条項として受け取り,神の恩恵に対する応答として喜んで服すべきものと考えられ,契約締結のための先行条件ではなかった。これら各種の複雑な法が統括され〈ハットーラー〉(the Law)と定冠詞付きで呼ばれるようになったのは,王国の滅亡直前ないし直後,《申命記》の後代の文書においてであり,この時期に各種の法,教えの集成がなされ,包括的にハットーラー(律法)と呼称され,その性格にも大きな変化が生じた。国の滅亡が,諸種の法の前提秩序であった契約の神による廃棄と解されると,民は〈律法〉を厳守することによって,かつての前提秩序であった契約の再建を図った。これが〈律法〉による教団の成立であり,〈律法主義〉の誕生といわれ,エズラに始まる。キリスト教は,この律法主義の束縛を神の子の死による贖(あがな)いによって解放し,律法を福音の下に置いて生かすと主張するが,ユダヤ教は,律法は束縛するものではなく,物語,詩,系図などによる広い〈教え〉であり,神の〈啓示〉と解する。
                         左近 淑

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パリサイ派
パリサイ派

パリサイは
Pharisaioi; Pharisees

  

パリサイ人,ファリサイ派,ファリサイ人ともいう。前2世紀のマカベア戦争直後から紀元1世紀頃にかけて存在したユダヤ教の一派。語義は「分離した者」。ハシディーム派の敬虔な一派が祖という。律法厳守に徹して民衆や他宗派に接せず,ユダヤ教の創始者エズラに従い,口伝律法も成文律法と同様に権威を有するとしてその拘束性を主張。サドカイ派と異なり,非ユダヤ的なものに反対し,熱心党が目指したような政治闘争には加わらず,死後の応報,肉身のよみがえりを信じ,自由意志と予定の結合を唱えた。キリストの教説に反対し,福音書では偽善者と非難されるが,宗派としては純正な立場をとりシメオン,ザカリアス,パウロなどすぐれた人材を擁していた。前2世紀から紀元 70年のエルサレム陥落まで勢力を保ち,ヘロデ大王の頃 6000人に達したという。しかし 70年以後も残存し,ラビの思想に影響を残した。





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パリサイ派
パリサイは Pharisees

ユダヤ教内の一教派で,エルサレム神殿奉仕期間中の祭司に課される諸規定を日常生活においても貫くため,一種の誓約共同体を構成した。パリサイとは元来〈分離派〉の意。その起源は前2世紀にさかのぼる。本来,平信徒の運動で,この派に属する律法学者が指導的な位置を占めた。口頭での父祖伝承をも含めて律法を日常生活の諸局面へ適合させるため〈合理化〉(M. ウェーバー)する一方,ダビデの家系のメシアの待望,復活信仰,最後の審判など旧約聖書の枠を超える教義も有した。後70年のローマ軍によるエルサレム破壊以後は,ユダヤ教の排他的指導層となった。福音書の中ではイエスの主要な論敵として登場し,自己義認を欲する偽善者として厳しく批判されることが多い。これにはイエスより後代の伝承によって誇張された面があり,実際にはイエス時代のユダヤ教の中でもっとも宗教的に真摯なグループで,それゆえにこそイエスと論争する機会も多かったと考えられる。⇒サドカイ派      大貫 隆

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エズラ
エズラ

エズラ
Ezra

生没年未詳

  

前5~4世紀のユダヤ教律法学者。ペルシア王アルタクセルクセス1世 (または2世) のとき,捕囚地バビロニアからエルサレムに帰って神殿 (いわゆる第2神殿) を再建するとともに,律法を民衆に説きその教化にあたり,律法的ユダヤ教の基礎を確立。その活動は『ネヘミヤ記』『エズラ記』に記されている。





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[ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 2008]


エズラ

エズラ
Ezra

生没年未詳

  

前5~4世紀のユダヤ教律法学者。ペルシア王アルタクセルクセス1世 (または2世) のとき,捕囚地バビロニアからエルサレムに帰って神殿 (いわゆる第2神殿) を再建するとともに,律法を民衆に説きその教化にあたり,律法的ユダヤ教の基礎を確立。その活動は『ネヘミヤ記』『エズラ記』に記されている。





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エズラ
Ezra

旧約聖書の《エズラ記》《ネヘミヤ記》の中の〈回想録〉(《エズラ記》7~10章)の著者。エズラは書記であり,祭司であると呼ばれており,また神の律法を手にしてバビロニアから来たと言われている。エズラの系図は《エズラ記》7章1~5節に出ている。クセルクセス1世の第7年,前458年にバビロニアの捕囚民をエルサレムに導いた(もしクセルクセス2世のときならば前398年になる)。アラム語による王の命令では(7:11~26)エズラに大きな権力が与えられている。エズラとともに帰還した捕囚民と,彼らが持ち帰った神殿の器具のリストが8章に出ている。エルサレムではユダの人たちに異教の婦人との結婚が容認されていることに衝撃を受ける(9章)。会衆は悔い改め,結婚の解消を命ぜられ,雑婚の調査がなされた(10章)。さらに律法の書が朗読され(《ネヘミヤ記》7:73~8:12),人々は仮庵の祭を祝い,悔い改めの日を守り,エズラは罪の告白を行う(同8:13~9:37)。指導者たちはエズラの朗読した律法を批准し,契約に印を押す(同9:38~10:39)。それに従って,彼らは雑婚に反対し,安息日と7年目の休みを遵守し,神殿税を払い,たきぎ・犠牲・捧げ物を神殿に捧げることを誓った。                   西村 俊昭

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エズラ記
エズラ記

エズラき
Ezra; Book of Ezra

  

旧約聖書中第 15の書で本来は第 16の『ネヘミア記』と1巻をなす。『歴代志』の続編。バビロン捕囚後の歴史的史料としての価値は大きい。その内容は衰退していたイスラエルの宗教を復興し国を失って流浪する民に理想を示そうとするものである。





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[ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 2008]

エズラ記
エズラき Book of Ezra

旧約聖書の中の歴史書。《ネヘミヤ記》とともに元来一書を形成し,《歴代志》に続く。バビロン捕囚からユダヤ人たちが帰還した時期とそれに続く1世紀間の時期を扱い,捕囚後のユダヤ教の成立を知る重要な資料。1~6章には,ペルシア王キュロスの勅令による捕囚民の帰還,祭壇の建立,神殿建設とそれに対する妨害,過越の祭,7~10章には,エズラのエルサレム到着と,懺悔の祈り,彼の行った改革,異民族との雑婚の解消を記している。                    西村 俊昭

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エズラ記
I プロローグ

エズラ記 エズラき Book of Ezra 旧約聖書の一書。バビロン捕囚直後からのイスラエルの民の歴史をしるしたもので、祭司・律法学者であり、バビロン捕囚後のパレスティナに宗教を復活させたエズラの言葉が書かれている。当時のイスラエルは、エルサレム陥落(前586年)から、前538年以降のパレスティナにおける新国家建設の時代で、「エズラ記」は「ネヘミヤ記」ともにイスラエルの歴史をつたえる重要な資料となっている。

II 作者

「エズラ記」「ネヘミヤ記」は、もとは1巻の文書で、現代の聖書学者は、「歴代誌」「エズラ記」「ネヘミヤ記」を同一の作者あるいは編者によるものと考えている。「歴代誌家」ともよばれるその作者は、数種類の資料をもちい、おそらくエズラ自身の手による回顧録や神殿の記録も参照して全編の編集をおこなったと考えられる。「歴代誌」では、旧約聖書のほかの部分でくわしく述べられているイスラエルの長い歴史の要約で、バビロン捕囚の終わりまでがしるされ、「エズラ記」と「ネヘミヤ記」では、それからの数百年の記録がつづられている。現在、「エズラ記」が書かれた時期は、前300年前後と推定されている。

III 内容

「エズラ記」の前半は、前538年以降にペルシャのキュロス大王の命令で解放された捕囚民のエルサレム帰還(1章)、エルサレムにもどった人々の名前(2章)、神殿の再建についての記述である。神殿の再建については、ほかに「ハガイ書」と「ゼカリヤ書」でくわしく報告されている。後半は、エズラが捕囚民の一団をひきいてバビロンから帰還したこと(7章)、彼とともにもどった人々の名前(8章)、エルサレムにおけるエズラの活動について(9、10章)である。モーセにつぐイスラエル建国の第2の祖ともいわれるエズラは、法典の編纂(へんさん)を大規模におこない、神殿の祭儀の制度をさだめ、律法を明文化した。また、のちに祭司にかわってラビが登場したことにも大きく貢献している。

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サドカイ派
サドカイ派

サドカイは
Saddoukaioi; Sadducees

  

ダビデ王擁立にくみし,エルサレム神殿の祭司となったザドクに由来するとされるユダヤ教の一党派で,前2世紀中頃 (ハスモン時代) から1世紀のエルサレム滅亡まで存続。神殿を中心に祭司,商人,貴族などの裕福な階級の人々で構成されていて,きわめて強い保守的傾向をもち,時の権力と妥協し,あるいは対立しつつ,その特権の維持をはかった。特にモーセ五書の解釈やさまざまな祭儀上の慣習をめぐって,パリサイ派と鋭く対立し,思想上は肉体の復活,霊魂の不滅,天使あるいは聖霊の存在などの教理をことごとく否定した (マタイ福音書 22・23,マルコ福音書 12・18ほか) 。





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サドカイ派
サドカイは Sudducees

古代ユダヤ教内の一教派で,その起源は前2世紀にまでさかのぼる。エルサレムの貴族祭司層とユダヤの地方貴族・地主が主要な構成員であった。後70年のローマ軍によるエルサレム陥落・占領までユダヤ教最高議会(サンヘドリン)の中で多数派を占め,政治的・宗教的・社会的支配権を掌握していた。ヘレニズムの文化的影響に対しては開放的であった反面,宗教的には保守的であった。〈モーセ五書〉と呼ばれる旧約聖書の最初の五つの文書だけを正典とし,パリサイ派が承認した口頭伝承の権威を否定した。教義的にも死者の復活の信仰を拒絶し,歴史と個々人の生活の中へ神が天使や霊によって介入するという考え方も否定した点でパリサイ派とは対照的であった(《マタイによる福音書》22:23,《使徒行伝》23:6~8参照)。福音書の中でパリサイ派と並んでイエスの論敵として言及されることがあるが,パリサイ派ほどの比重はない。⇒パリサイ派        大貫 隆

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モーセ五書
モーセ五書

モーセごしょ
Pentateukos (biblos); Five Books of Moses

  

トーラーともいう。「五巻の書」の意で,単に五書,あるいはペンタテューク,律法などさまざまに呼ばれ,旧約聖書中の『創世記』『出エジプト記』『レビ記』『民数記』『申命記』をさす。この呼称は2世紀以後のもので,今日では,五書と同じ資料から編集された『ヨシュア記』を加えて,「モーセ六書」 (→ヘクサテューク ) と呼ぶこともある。





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モーセ五書
モーセごしょ Pentateuch

ギリシア語ペンタテウコス pentateuchos(〈五つの巻物〉の意)の訳であって,旧約聖書の最初の五つの書物,つまり《創世記》《出エジプト記》《レビ記》《民数記》《申命記》の総称。この呼称は後1世紀ごろから登場するが,ユダヤ教では〈律法(トーラー)〉と呼んだ。古代イスラエル民族の揺籃の時代を,天地創造の場面設定から説き起こし,世界と人類の諸問題を堕落物語,カインの兄弟殺し,ノアの洪水物語,バベルの塔建設による人類の傲慢などの神話,口碑を用いて明らかにし(《創世記》1~11),次いで,アブラハム,イサク,ヤコブというイスラエルの族長物語を置いて,この人類の悲劇性に対する答としての神による選びの使命を明らかにする(《創世記》12~50)。ヤコブのエジプト下りを介し,《出エジプト記》―《レビ記》―《民数記》は,迫害と苦難の中で指導者とされたモーセによるエジプト脱出,荒野のさまよいとつぶやき,試練を通しての民族の約束の地への旅が描かれる(《出エジプト記》1~18,《民数記》10:11以下)。荒野彷徨物語の中心には,シナイ山における神ヤハウェと民イスラエルの契約(《出エジプト記》19~24,32~34),礼拝に関する詳細な規定(《出エジプト記》25~31,35~40,《レビ記》,《民数記》1~10:10)を置く。《申命記》は,約束の地カナンを目前にしたモーセの遺言の形をとる。資料的には前2千年紀より前5世紀に及ぶ一大国民文学であって,旧約聖書全体の基本を成し,イスラエルの民の生の範型を示すとされる。⇒律法  左近 淑

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モーセ五書
モーセ五書 モーセごしょ Pentateuch 旧約聖書の最初の5つの書、すなわち「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」の総称。ユダヤ教では「律法(トーラー)」とよばれた。「五書」という名称の使用は、2~3世紀の神学者オリゲネスまでさかのぼることができる。モーセが書いたという証拠はないが、キリスト教徒は慣例でそうよんできた。モーセ五書には、神をヤハウェとよぶ部分とエロヒムとよぶ部分など、さまざまな種類の記述がまじっている。ヘブライ人の祭司エズラは、ここに書かれた律法を遵守するよう、熱心に説いた。→ トーラー

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創世記
創世記

そうせいき
Bereshith; Genesis

  

ヘブライ語ではベレーシス Bereshith (「初めに」の意味) と呼ばれる,旧約聖書の第1書。創世記という名称は,セプトゥアギンタ (ギリシア語訳旧約聖書) における「これが天地創造の由来である」 (創世記2・4) による。『創世記』をはじめとするモーセ五書 (ペンタテューク) は,ユダヤ教の伝統ではトーラー (律法) と呼ばれ,神がモーセに与えた聖なる意志の啓示として尊ばれた。しかし学問上はモーセ五書に『ヨシュア記』を加えたモーセ六書 (ヘクサテューク ) が一つのまとまった文書として扱われる。六書の内容は,天地創造に始り,イスラエル民族の選び,その先祖アブラハム,イサク,ヤコブらのカナンを中心とする生活,彼らのエジプト移住 (創世記) ,モーセによる出エジプトと彷徨,その間のシナイ山における律法の啓示 (出エジプト記,民数記。レビ記は祭儀的な律法の集成) ,モアブでの契約 (申命記 ) ,モーセの後継者ヨシュアに率いられたイスラエルの民のカナン侵入,占拠,シケムでの宗教連合 (アンフィクティオニー) ,神の約束の成就 (ヨシュア記) が記されている。
すなわち『創世記』でアブラハム,イサク,ヤコブら族長に対して,カナンの地を与えるといわれていた神の約束は,『ヨシュア記』で成就され救済史として完結している。この六書は,さまざまな資料の集成として一つの全体を形成しているが,『創世記』はそのうちの3資料,「祭司資料 (P) 」「ヤハウェ資料 (J) 」「エロヒム資料 (E) 」により構成されている。『創世記』の主題は,イスラエル民族の起源とその選びであり,その内容はアブラハム以前の人類史と彼以後の族長史に大別され,前者には天地と人類の創造,エデンの園,カインとアベル,ノアの洪水,バベルの塔と言語混乱,民族の分布が,後者にはテラの伝記,アブラハムの伝記,神とアブラハムの契約 (12・2) ,ソドムの滅亡,イサクの献供,イサク,ヤコブ,ヨセフの伝記,エジプト行などが記されている。





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創世記
そうせいき Genesis

旧約聖書巻頭の書,〈モーセ五書〉の第1書。世界の起源と全人類の太古を扱う原初史(1~11)とイスラエルの先祖の族長たちの物語(12~50)の2部に大別できる。第1部は天地創造と神の似姿としての人間の創造(1),エデンの園でのアダムとイブ,蛇の誘惑による堕罪と園からの追放(2~3),長子カインの弟アベル殺しと追放(4),人類の罪の増大とノアの時代の大洪水による神の処罰,新しい世界の秩序の約束(5~9),ノアの子孫による諸民族の誕生,人類の文明の高慢に対する神の処罰としての言語の混乱(10~11)を記す。
 第2部はこのような人類を救済する神の歴史の根幹としての意味をもつイスラエル民族の選びの歴史を,アブラハムとイサクの物語(12~27),ヤコブ物語(28~36),ヨセフと兄弟たちの物語(37~50)の形で叙述し,ヤコブ一族のエジプト下りまでを描いて,次の《出エジプト記》に民族史の叙述を引き継いでいる。その叙述はいわゆる歴史記述ではなく,民族に伝承された伝説を素材として,これを変容,編集したり(アブラハム,イサク,ヤコブの各物語),あるいは文学作品として創作された(ヨセフ物語)ものであり,イスラエルの王国時代からバビロン捕囚後の時代までの複雑な形成史が推定される。五書資料(ヤハウェ資料,エロヒム資料,祭司資料)によって叙述の強調点が異なり,またそれぞれ独自の思想提示があるが,資料認識や形成史について,いまだに学者の判断が分かれている。                 並木 浩一

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創世記
I プロローグ

創世記 そうせいき Book of Genesis 旧約聖書の冒頭をかざる書で、モーセ五書のひとつ。「創世記」という名称は、ギリシャ語の七十人訳聖書からとられたもので、2章4節の「これが天地創造の由来(ゲネシス)である」に由来する。ヘブライ語原典は、巻頭の言葉「ベレーシース(はじめに)」を表題とする。

「創世記」は、神が天地を創造するところから、イスラエルの祖ヤコブの11番目の息子であるヨセフの死までをえがく。2部からなり、前半では人類太古の歴史がかたられる(1~11章)。神は最初の男と最初の女(アダムとイブ)をつくるが、彼らは神にそむき、やがて殺人などの悪がはびこるようになる。神はそれらを一掃するために大洪水(ノアの洪水)をおこし、神とともにあゆむ一家族(6章9節)と一部の動物のみをすくった。さらに生きのびた人々の言葉を混乱させ、彼らを全地にちらした。前半部には、神がはじめて人間ノアとかわした契約が書かれている(9章9~17節)。後半には、イスラエルの祖であるアブラハム、イサク、そしてヤコブの生涯や、イスラエル民族の起源がかたられている。→ ユダヤ人

II 目的

「創世記」の目的は、天地創造と歴史をすべて神にむすびつけることであり、とりわけ世界におけるイスラエル民族の役割を明らかにすることである。アダムからアブラハムまでの系図が明らかにされるとともに(5章、10章、11章10~32節)、神がノアやアブラハムと契約をむすぶ場面がえがかれている(17章2~21節)。この契約は神と人、そして神とイスラエルの間の新しい永遠の結びつきを意味する。

III 成立

「創世記」にはいくつかの原典があると考えられ、それらは前10~前5世紀ごろのものといわれる。

IV 解釈

いまだに多くの人が「創世記」を天地創造の文字どおりの記述だと信じている。19世紀後半までは、キリスト教徒やユダヤ教徒のほとんどがそのように考えていた。いっぽう、たんに民族的な信仰や迷信をあらわした神話・伝説であると考える人もいる。しかし広範な研究と考古学的な調査により、「創世記」に書かれている出来事や場所、登場人物や名前の多くが、なんらかの歴史的事実にもとづくものらしいということが明らかにされている。

→ 聖書学:聖書

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出エジプト記
出エジプト記

しゅつエジプトき
Shemoth; Exodus

  

旧約聖書中の一書。マソラ本文では律法書の,またセプトゥアギンタではモーセ五書の第2書。ヘブライ名はシェモース Shemoth (名前の意味) であり,『出エジプト記』の名はギリシア語のエクソドス Exodus (出発の意味) からきている。本書はほかの律法の書および『ヨシュア記』とともにイスラエル民族の起源とその選びという統一的主題のもとにイスラエルの民の救済史を形成する。『出エジプト記』もほかの5書同様,いくつかの時代の資料から成るが,祭司資料,ヤハウェ資料,エロヒム資料がおもなものである。
本書の主題は神によって選ばれたイスラエルの民の救出と信仰共同体としての民族の確立であり,内容は (1) エジプトからの脱出と荒野の放浪 (1~18章) ,(2) シナイでの契約とそれに基づく祭儀 (19~40章) に大別される。 (1) には,エジプトにおけるイスラエルの民への圧制,モーセの誕生と召命,脱出と海が裂けた奇跡,放浪における苦難,モーセの義父エテロの来訪が,(2) には後世キリスト教神学で,存在そのものとしての神を弁護する聖書的典拠となった神の顕現,十戒,主の幕屋造営のための指示,祭儀上の指示,背教と契約の更新などが記されている。
キリスト教ではこの出エジプトを神による人類の救済の予型とみている。





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出エジプト記
しゅつエジプトき Book of Exodus

旧約聖書の一書。名称は《七十人訳聖書》に由来する。モーセ五書,あるいは〈律法(トーラー)〉の第2書をなす。第1書《創世記》がイスラエル民族の背景を成す家族史であるとすれば,この書は,直接,民族の誕生にかかわるできごとを記し,ユダヤ教,新約聖書キリスト教会で救済の範型として重んじられてきた。内容は3部に分かれる。第1部(1~15:21)はエジプトにおけるイスラエルの民の苦難とモーセの指導によるエジプト脱出,紅海(葦の海)渡渉を神の歴史への介入の奇跡として記す。第2部(15:22~18)は紅海の渡渉後,シナイ山に至る荒野彷徨中の食物・水不足に対するつぶやきと神の導きの物語(この部分は《民数記》10:11以下に続く)。第3部(19~40章)はシナイ山における神の諸種の誡命・律法の付与とそれに基づく神と民との契約の締結の記事(この部分は《レビ記》全体,さらに《民数記》10:10まで続く)である。第3部のシナイ契約伝承の中で古い伝承層に属するとされるのは,19~24,32~34章であり,十誡(20:2~17),《契約の書》(20:22~23章),契約締結(24章),第2の石の板(32:14~28)が含まれる。第1部では,モーセの誕生(2章),召命と神との出会い(3章),過越の祭の規定(12~13章),海の奇跡(12,14章),海の歌(15:1以下)などが有名である。全体として,苦難“から”の解放の自由と,神の戒め“へ”の服従の自由の結合という聖書宗教思想の特質としての〈自由〉を教えている。
                         左近 淑

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出エジプト記
出エジプト記 しゅつエジプトき Book of Exodus 旧約聖書の一書で、「創世記」につづく2番目の書物。エジプトをのがれたイスラエル人が砂漠をさまよい、シナイ山にいたるまでのようすがえがかれている。モーセ五書のひとつでもある。

「出エジプト記」は、イスラエル民族の祖ヤコブの息子であるヨセフがエジプトで死をむかえてから、イスラエルの民がシナイ山で幕屋(まくや:テントの礼拝所)を建設するまでの物語である。最初の15章には、エジプトで迫害をうけていたイスラエルの民が、モーセにみちびかれてエジプトを脱出し、紅海をわたる過程がしるされている。

つづく16章以降は、シナイ山での出来事が中心となる(16~40章)。イスラエルの民は荒野を数カ月さまよったすえ、シナイ山のふもとに天幕をはって宿営した(16~18章)。やがて神と契約をむすぶが(19章3節~24章18節)、モーセにあたえられた十戒(20章1~17節)をやぶったため、ふたたび契約をむすぶことになる(32~34章)。その後、神の命にしたがい幕屋を建設した(35~40章)。

エジプトからの脱出は、ユダヤ教およびユダヤ人にとって大きな意味をもち、この出来事を毎年記念する伝統は現在までつづいている。しかしそれ以上に重要なのは、イスラエルの民が神と契約を結んだことである。シナイ山で神がモーセに託した「あなたたちは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」(19章6節)という言葉は、ユダヤ人の宗教から社会生活にいたるあらゆる分野の根幹にすえられている。

「出エジプト記」は長い間、モーセによってしるされたものと考えられてきた。しかし最近では、前550年ごろ、祭司らによって現在の形にととのえられたという見方が強い。また、神がモーセにつたえた幕屋建設の指示や、祭司の祭服・儀式などに関する部分(たとえば25~31章)は、それよりも前の時代のものと考えられ、「契約の書」とよばれる部分(20章23節~23章33節)はさらに古く、モーセ以前のものともいわれている。

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レビ記
レビ記

レビき
Wayiqra; Leviticus


旧約聖書中モーセ五書の一つ。ヘブル語ではワッイクラー Wayiqra (「そして彼は呼んだ」の意味) と呼ばれ,ウルガタ訳聖書における第3の書。基本的にレビ記は律法の書だが,いくつかの物語も含まれている (8~9章,10・1~7,24・10~14) 。しかし,この書はイスラエルの民がヤハウェの意にかなうためになすべき祭式の諸規定を述べたもの。燔祭,素祭,酬恩祭,罪祭,愆祭 (けんさい) における犠牲ないし供物の選択と形式,祭司の聖別方法,けがれた者 (妊婦,ハンセン病患者など) の清め,10分の1税,偶像禁止,婚姻などについての規定,姦淫や殺人の罪などについて詳細に記されている。全律法 613のうち 247の規定を含み,タルムードのほぼ同じ割合の部分がこの書に基づいている。





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レビ記
レビき Leviticus

旧約聖書の〈モーセ五書〉の一つ。全27章。表題はギリシア語訳《Leuitikos》からきている。1~7章では《出エジプト記》の会見の幕屋の建設に続き,そこで捧げられるべき種々の犠牲を規定。8~10章では祭司アロンとその子らの叙任の際の儀式,ナダブ,アビフの死が記される。11~16章は潔(きよ)い動物と不浄な動物のリスト。産婦,癩(らい)病,性に関する儀式的不浄,贖(あがな)いの日の規定。17~26章は〈主なる神は聖であるからあなたがたも聖でなければならない〉と述べられるところから〈神聖法典〉と呼ばれ,血,性,祭司,犠牲,祭りの規定がされる。27章は誓願,十分の一の供物の規定。これらのきわめて細かい規定は祭儀的な面に限られているが,それはこれらの規定を行うことによって生きるためだからである(18:5)。また生ける神との交わりが究極的真理なるがゆえに,この生命的交わりの中に,儀式的誤ち(1~10),不浄(11~16),道徳的不倫(17~26)が入ってきてはならないからである。これらの規定は種々の起源のものからなり,バビロン捕囚後に編集された。                    西村 俊昭

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レビ記
レビ記 レビき Leviticus 旧約聖書のモーセ五書の第3の書。

幕屋(仮神殿)の建設をしるした「出エジプト記」のあとをひきつぎ、レビ人の祭司とその役割について記述する。「主はモーセに仰せになった」という句がくりかえされるなか、祭儀に関する規則、道徳規範、社会規範がさだめられていく。

1~7章は、神へのささげものに関する2つの規則をあつかっている。前半(1~5章)はイスラエル人に、後半(6~7章)はアロンとその子ら、すなわち祭司にあてて書かれたものである。8~10章では祭司の叙任の儀式、11~15章では食物と衛生について規定している。食用に適する潔(きよ)い動物と不浄な動物のリストをあげ(11章)、産婦の清めの期間をさだめ(12章)、体から漏出するもの(15章)にふれている。16章は、贖罪の日についての記述である。

つづく17~26章は、儀式の神聖さを強調し、神が頻繁に1人称で登場するため、「神聖法典」とよばれている。

聖書学者によると、祭司たちは前5世紀にエルサレムの神殿で、「レビ記」の規律をまもっていた。「神聖法典」の言葉や精神が「申命記」と似ていることから、この部分は前7世紀に書かれたとする説がある。

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民数記
民数記

みんすうき
Bemidbar; Numbers

  

ヘブル語ではベミゥバル (「荒野にて」という意味) といい,旧約聖書中モーセ五書の第4の書とも呼ばれる。英語名は,1~4章にあるイスラエル民族の数を数えたことを表わす七十人訳旧約聖書 (→セプトゥアギンタ ) の書名の訳からきている。内容的には『出エジプト記』と『申命記』を結ぶもので,イスラエルの民がシナイから約束の地を目指して続けた苦難に満ちた旅の記録であり,(1) 出エジプトの翌年シナイにおいてモーセを介して行われた神とイスラエルの民の契約,モーセへの協力体制を強固にするための氏族と父祖の家に基づく人口調査,宿営や行軍の配置と役割 (たとえば祭司族としてのレビ人) ,さまざまな清め,ナジル人の聖別,供物,過越祭 (すぎこしのまつり) などについての掟 (1~10章 10) ,(2) シナイを出てのち 40年に及ぶ外敵の圧迫と飢餓に苦しめられた行軍の記録,ホル山における祭司族の長アロンの死 (10章 11~20章) ,(3) アモリ人の王シホン,バシャンの王オグとの戦いでの勝利,モアブ到着,ピネハス (アロンの子エレアザルの子) と神の契約,モーセとエレアザルによる人口調査,モーセの後継者ヨシュアの選出,もろもろの掟,ミデアン人征討,カナンの地についての預言など,主としてモアブ時代の記録 (21~36章) の3部から成る。





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民数記
みんすうき Numbers

旧約聖書の〈モーセ五書〉の第4番目の書。表題は,内容に人員調査が含まれているところから,〈数〉を表すギリシア語訳《Arithmoi》からきている。第1部はシナイでのできごとで,人員調査(1~4),聖所の奉献(7),レビ人の聖別(8)。第2部は荒野でのできごとで,イスラエルがシナイを出立し(10),荒野を横切り,40年の間放浪したこと(11~14,16~17,20)。第3部はエドム,モアブでのできごとで,トランスヨルダン,モアブの国境に達したこと(21),バラムの祝福(22~24)とペオルの背信(25),人員調査(26),モーセによる土地分割の規定(27,32,34~36)。ミデアン部族に対する復讐(31),エドムからヨルダンの端までの行進のまとめ(33)を記す。イスラエルが砂漠に滞在したこの時期は重要な宗教経験の時期であり,多くの問題をかかえつつ,常に前進する独特な民族としての歴史を述べる。                西村 俊昭

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民数記
民数記 みんすうき Numbers 旧約聖書の4番目の書。1章で、イスラエル民族の人口調査をとりあげているため、この表題がついた。ヘブライ語原典では、最初の語ワイダッベール(そして仰せになった)、あるいは第5語ベミドバール(荒れ野にて)を表題としていた。

内容からみれば、表題は「民数記」より「荒れ野にて」としたほうが適切である。イスラエル民族がモーセにひきいられ、荒野を旅するさまがテーマとなっているからである。「民数記」は、シナイ山での最後の日々から、40年後に約束の地カナンのそばのモアブに到着するまでの記録であり、次の3部にわけることができる。(1)シナイ山での最後の日々(1章1節~10章10節)、(2)約束の地の南にある砂漠での約38年間におよぶ放浪生活(10章11節~20章13節。21章13節までとする説もある)、(3)東からのカナンの地への接近である。

第1部では、人口統計と律法に関することがらが集中的にとりあげられている。

第2部は、イスラエル民族がシナイ山をはなれるところからはじまる。とくに、モーセの兄アロンと姉ミリアムがおこした騒動をくわしくとりあげている(12章)。その後、イスラエル民族は神の怒りをかい、40年にわたって荒野を放浪することになる(13~14章)。17章では、アロンの名をしるしたレビの杖(つえ)が芽をふくという奇跡について書かれている。

第3部にはいると、イスラエル民族はエドムをとおってカナンの地へむかおうとするが失敗し、ホル山上でアロンが死ぬ(20章14~29節)。その後、死を予告されたモーセの後継者として、ヘブライ人の指導者ヨシュアがえらばれる(27章12~23節)。32章では、ヨルダン以東の土地がガド族とルベン族に分配される。そして最後に、土地の割り当て、殺人者がのがれるための町とレビ人の町の建設、イスラエルの土地をまもるための結婚のおきてがしるされている(34~36章)。

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申命記
申命記

しんめいき
Devarim; Deuteronomy

  

旧約聖書中の一書。マソラ本文では律法書の第5書でヘブル語でデバーリーム (言葉という意味) から「言葉」と呼ばれる。七十人訳旧約聖書 (→セプトゥアギンタ ) ではモーセ五書の第5書で,書名の申命記はギリシア語からつけたもので,語源が示すところによると「第2の律法」というよりは律法の「写し」,あるいは「繰返し」という意味がある。
『申命記』の起源についてはユダの王ヨシヤによる宗教改革 (前 621) に関する『列王紀下』 (22~23章) の物語との関係が早くから論じられていたが,デ・ウュッテらの研究によって,改革の基準とされた『律法の書』は『申命記』であると確認された。したがって,その起源は異論もあるが,ほぼ前8世紀末ないし前7世紀に求められる。『申命記』はモーセの説教という形式をとるが,内容的には大きく3部に分れる。まず1~11章で十戒と唯一の神ヤハウェへの絶対的服従が説かれ,12~26章でモアブでの契約律法が,27~32章では律法を果すべき動機とその遵守に対する応報が,そして最後に 32章ではモーセの歌が記されている。『申命記』の神学は,唯一神ヤハウェのまったき恵みによって選ばれた「神の民」の神学であり,それはシェマ・イスラエルすなわち「イスラエルよ聞け。我らの神,主は唯一人の主なり。汝心を尽し精神を尽し力を尽して汝の神,主を愛すべし」 (6・4~5) という言葉に代表される。『申命記』は王国の制度が部族の自由を脅かし,アッシリアの圧迫が増大するという新しい状況のもとで,一つの神,一つの民族,唯一の祭儀という古いアンフィクティオニー (宗教を中心とする種族連合) の理念を再び力強く掲げたものであった。





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ヨシュア記
ヨシュアき Book of Joshua

旧約聖書の6番目の書物で,〈前の預言者〉の最初の書物。〈モーセ五書〉で父祖たちに約束されていた土地の取得を扱うので,五書と合わせて六書と呼ぶこともある。ヨシュア指導下の迅速な土地占領(1~12)と各部族への土地分配(13~21),シケムでの契約締結などの付属記事(22~24)から成るが,イスラエル12部族全体の一体的行動,および神の主導下での聖戦の観点から記述されており,そのまま歴史資料としては使えない。
                        並木 浩一

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申命記
しんめいき Deuteronomy

旧約聖書の〈モーセ五書〉の一つ。約束の地カナンに入る直前,モアブの地でなされたモーセの最後の説教。表題のもととなったギリシア語訳《Deuteronomion》(〈第2の律法〉の意)は,〈律法の写し〉(17:18)の幸運な誤訳による。第1部導入部(1~11)は,シナイの歴史の回顧と律法と戒めへの従順のすすめで,物語(1~4)と勧告(5~11)の文体の二つからなる。第2部は律法の部分(12~26)と儀式の断片(27~28),第3部は最後のすすめ(29~30),さらに全体の結論としてモーセの死の伝承(31~34)が付け加わる。二人称の部分と三人称の部分が重なっているが,その背後には全イスラエルが一人の人間のごとく集まって神の律法を聞き,実行を誓ったシケムにおける年ごとの契約締結の儀式があったらしい(《ヨシュア記》24参照)。王国の成立とともに契約の祭儀はエルサレムのそれにとって代わられ,元来の儀式的枠から出て,イスラエル個人に呼びかける律法の教えとなった。
 ヨシヤ王の18年(前622),神殿で発見されてその宗教改革の源となった文書は(《列王記》上22~23),改革による地方聖所の廃止とエルサレムへの祭儀集中化が《申命記》の要請と一致するので,《申命記》の原形であったとされる。おそらくモーセの遺産を永久に保存しようとした北王国のレビ人たちの間に生まれた《原申命記》は,北王国滅亡前,彼らによって南ユダにもたらされ,マナセの異教と迫害の時期に神殿に隠されたらしい。王国の制度とアッシリアの全体主義的勢力が部族の自由を脅かしたとき,彼らはイスラエルの選びに重要な意味を与えた。本書ではヤハウェは唯一であり,イスラエルはまったき恵みによって選ばれたこと,歴史はヤハウェ一人によって導かれること,それゆえ偶像礼拝を排し,心を尽くし力を尽くして彼を愛し彼に従わなければならないことが主張される。これが〈シェマ・イスラエル(聞け,イスラエル)〉(6:4)である。この神の民の形成のため一部契約法典(《出エジプト記》20~23)をとりあげ,新しいものを付加し,律法の順守の動機と報いとを強調し,新しい状況においてこの理想を掲げる。                    西村 俊昭

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申命記
申命記 しんめいき Book of Deuteronomy 旧約聖書の5番目の書。モーセ五書のひとつで、かつてはモーセの著作と考えられていた。表題のもとになったギリシャ語デウトロノミウムは「第2の律法」を意味するが、これは17章18節の「律法の写し」の誤訳である。邦題の「申命記」も、申は「ふたたび」、命は「律法」をあらわし、誤訳を踏襲している。

内容は、モーセの説教と教訓が中心である。冒頭には、イスラエルの民がシナイ山からモアブにたどりつくまでにおこった出来事が要約されている(1~4章)。つづく2つの章ではモーセの十戒がくりかえされ、神法の遵守が説かれている。ここにはまた、シェマとよばれる訓戒「きけ、イスラエルよ。われらの神、主は唯一の主である」(6章4節)がふくまれている。これは、いまでも朝晩となえられるユダヤ教の信仰告白であり信条である。7~26章には信仰および社会生活に関する律法、さらに27~28章には、律法にしたがう者の祝福としたがわない者の呪いがしるされている。終幕は、モーセの最後の演説、後継者ヨシュアの任命、モーセの別れの歌、イスラエルにあたえるモーセ最期の祝福、そしてモーセの死でしめくくられる(29~34章)。

「申命記」の成立史、とりわけ律法の原資料については、さまざまな説がだされている。ある説は本書の大半を、「列王記・下」22~23章や「歴代誌・下」34~35章にしるされた「律法の書」と同一視している。これは前8世紀から口承され、前7世紀に記録されたが、一度消失し、のちに再発見されたものである。「列王記」などによれば、「律法の書」はユダ王国の王ヨシヤの時代、神殿修築のおりに発見されている。

また一説によれば、「申命記」の大半が前7世紀後半に書かれ、前622~前621年のヨシヤの宗教改革に重みをあたえるため、モーセの「著作」にされたという。王はエルサレムの神殿での礼拝を最重要視しており、この考えは本書の著者のものでもあった。

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ヨシュア記
ヨシュア記

ヨシュアき
Yehoshua; Book of Joshua

  

旧約聖書のモーセ五書の次に位置する書であり,申命記,士師記I,II,サムエル記 I,II,列王紀とともに,ユダヤ人の歴史と律法の伝統に属する。申命記的歴史家の著作であり,主として申命記資料に基づいて編集されたもので,歴史的著作であるが考古学的諸事実と一致しない部分も少くない。モーセ五書と合せてモーセ六書 (→ヘクサテューク ) とも呼ぶ。バビロン捕囚時代の紀元前 550年頃に執筆にとりかかったとされる。主要な登場人物の名前からそう名づけられたヨシュア記は,ユダヤ教正典の最初の預言者であるヨシュアの時代の記録で,約束の地カナンをイスラエル人が征服する物語が書かれてある。この書には古代の伝統が多く記されているが,それらは聖書史家たちの個人的見解の影響を受けている。
ヨシュア記は,以下の3つの部分に分割される。カナンの征服 (1~12章) ,イスラエル民族間での土地の分配 (13~22章) ,ヨシュアの告別の辞と死 (23~24章) 。カナンを所有することは,幾度となく繰り返されたイスラエル民族の父アブラハムに対する約束の成就であったので,ヨシュア記は通常,聖書の最初にある六つの書からなる一つの文学的編成の完結と見られてきた。この見解をもつ神学者たちは,ヨシュア記の中に先の書の中で発見されるものと同じ資料の記録を見出そうと試みている。しかし,現在ではヨシュア記を続く書で継続される歴史の始まりと見る傾向が強まっている。
ヨシュア記の著者は,イスラエル人がかつては手にした土地を失い,バビロニアに捕囚として連れて行かれた時代に生きていた。彼が語る歴史は,祖国を再び取り戻そうという望みに彩られているのはそのためである。約束の地の最初の征服は,大変熱を込めて語られ,征服にはヤハウェの助けがあったことを聖書史家は繰り返し強調している。さまざまな部族への土地の分配は,イスラエルにまったく所属しなかった領土やあるいはかなりあとになってイスラエルが手にした所までを含んでいる。このことがまた,イスラエル国家のかつての栄光がいつかは回復されるという聖書史家たちの希望を反映しているのである。ヨシュアの告別の辞 (24章) は,カナンの地においてヤハウェがイスラエルを守るための条件を説いている。肝心な個所は以下の点である。「もしあなたがたが主を捨てて,外国の神々に仕えるなら,あなたがたをしあわせにしてのちも,主はもう一度あなたがたにわざわいを下し,あなたがたを滅ぼし尽くす」 (24・20) 。





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ヨシュア記
ヨシュアき Book of Joshua

旧約聖書の6番目の書物で,〈前の預言者〉の最初の書物。〈モーセ五書〉で父祖たちに約束されていた土地の取得を扱うので,五書と合わせて六書と呼ぶこともある。ヨシュア指導下の迅速な土地占領(1~12)と各部族への土地分配(13~21),シケムでの契約締結などの付属記事(22~24)から成るが,イスラエル12部族全体の一体的行動,および神の主導下での聖戦の観点から記述されており,そのまま歴史資料としては使えない。
                        並木 浩一

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ヨシュア記
ヨシュア記 ヨシュアき Book of Joshua 旧約聖書の一書。従来、この書の作者はモーセの後継者としてイスラエルの民をエジプトから約束の地カナンへとみちびいた指導者ヨシュア自身であるとされていた。だが現在、聖書学者のほとんどはこの見解に否定的である。「ヨシュア記」には、複数の資料から多くの記述がとりいれられていることがわかっている。そのため、それぞれの成立時期を確定することは、ほとんど不可能であるが、現時点で「ヨシュア記」のもっとも古い部分についてはほとんどの学者の見解が一致している。すなわち、前7世紀に1人または複数のいわゆる「申命記」派歴史家によって完全に書きなおされたという説である。その後、おそらく前500年以降に、おもに祭司の職務にくわしい人々の手で後半部分のほとんどが加筆、訂正されたと考えられる。

「ヨシュア記」は、「創世記」「出エジプト記」「申命記」につづいて、ユダヤ人の起源と初期の歴史を記録した書の締めくくりに位置づけられる。最初の部分(1~6章)では、ユダヤ人が約束の地カナンに入り、パレスティナにある城壁都市エリコを奪回したいきさつが書かれている。つづいて(7~12章)、彼らがアイとよばれる古い町をも占領し、カナン全体に定住していったようすがかたられる。その過程で、彼らは恐れをなしたギブオン人と誓いをかわし、南カナンの5人の王たちがひきいる軍勢を血なまぐさい戦いの末にうちやぶり、北カナンの王たちがメロムの水場(11章5節)に結集させた軍勢を敗退させた。後半(13~22章)の大部分は、年老いたヨシュアが征服地をイスラエル12部族にどう分配したかについて書かれている。また終盤ではヨシュアがイスラエルの人々にむけて、シナイ山での神との契約をうやまうよう、最後の忠告をしたこと(23章)、ヨシュアのもとに12部族があつまり(24章)、彼らが神につかえ、したがうとちかい、神と新しい契約をむすんだことについて書かれている。

「ヨシュア記」の中心的テーマは、神は律法にしたがう人々をみちびくということである。つまり、神を否定する人々に対しては、神は背をむけ、手をさしのべないということである。

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ヘクサテューク
ヘクサテューク

ヘクサテューク
Hexateuch

  

旧約聖書の最初の6書。いわゆるモーセ五書に『ヨシュア記』を加えたもの。資料的にも内容的にも関連が深いところから五書に対して六書とされる。内容的には,17世紀の研究により五書でなされた約束が『ヨシュア記』において成就していることが明らかにされ,また 19世紀中葉には,五書を形成している4資料 (J-ヤハウィスト,E-エロヒスト,D-申命記,P-祭司) が同時に『ヨシュア記』をも形成しているという説が出された。しかし4資料とこの6書の関係は単純ではなく,最近では別の分類も試みられている。





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蜜蝋に澎湃する延長(その4) [宗教/哲学]

『方法序説』
方法序説

ほうほうじょせつ
Discours de la mthode

  

フランスの哲学者ルネ・デカルトの著作。 1637年刊。著者の最初の公刊書であり,19年以来の研究の本質的部分の結晶であるとともに,ヨーロッパ近世の思考法の根本を打出した点でも重要。ラテン語でなくフランス語で書かれたことも画期的なことであった。





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1637年
デカルト「方法序説」
デカルトの「方法序説」(「理性を正しくみちびき、諸学における真理を探究するための方法についての序説」)は、3つの試論「屈折光学」「気象学」「幾何学」とあわせて、オランダのライデンで出版された。本書がラテン語ではなく、日常会話にもちいられるフランス語で執筆されたことは、哲学書として画期的だったが、それ以上に、序説と試論に提示された内容は、近代哲学、近代数学、近代自然科学の生誕をつげる記念碑となった。

真理の探究には「代数学や幾何学の証明がもつ確実性と同じ確実性」が必要であると考えたデカルトは、まずうたがわしいものをすべてなげすてるという方法的懐疑を遂行した。しかし、どうしてもうたがうことのできないものが最後にのこる。それは「疑っている私の存在」なのだ。こうして「われ思う、ゆえにわれあり」の確実性が、懐疑主義に対置されることになった。だが「私」の確実性は、主観と客観の一致をなんら保証するものではなく、デカルトも両者の関係を神の創造のなかにもとめざるをえなかった。神が、心と物というまったくことなる実体をつくったというのである。ならば、緊密に関係しあう人間の心と身体はどのように説明しうるのか。この二元論の難問は、後世の哲学的展開に大きな波紋をおよぼすことになる。

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『省察録』
省察録,デカルトの

せいさつろく・デカルトの
Meditationes de prima philosophia

  

デカルトの形而上学における主著。正式には『第一哲学に関する諸省察』という。ラテン語本文は 1640年4月完成し,41年8月パリで初版を出した。これには6編の駁論と答弁が添えられている。 42年アムステルダムで再版が出され,これには新たに第7の駁論と答弁が添えられた。仏訳は少くとも第5の駁論と答弁を除いては著者自身が目を通したうえで 47年パリで出版された (第7の駁論と答弁は 1661年) 。本文は6つの省察より成り,1つずつが1日の省察という黙想録ないし日記のような形式で書かれ,著者は読者に十分な時間をかけてともに省察して思索の歩みをみずからたどることを求めている。第1省察で方法的懐疑のだいたいが示され,以下考えるわれの存在とその諸性質,神の存在,真と偽に関する判断論,物体の本性と神の存在証明,物体の存在と心身の区別が主題とされる。この精神から神へ,神から物体への上がって下がる構成のなかに,近世哲学の礎石となった幾多の理論が盛りこまれている。





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『哲学原理』
哲学原理

てつがくげんり
Principia philosophiae

  

フランスの哲学者ルネ・デカルトの著作。『省察録』の脱稿とほぼ同時期の 1640年末に計画され,44年アムステルダムで初版を出した。人間認識の諸原理 (形而上学) ,物質的事物の諸原理 (自然学) ,可視的世界 (天体論) ,地球 (地上の諸現象) を扱う全4部から成り,さらに動植物の本性,人間の本性の2部をも構想していたが,第4部 188節以下に感覚作用の生理学が簡略に触れられるにとどまった。体系的に述べられているので,形而上学の部分も『省察録』と微妙な差異がある。 47年友人 C.ピコによるフランス語訳が著者の校閲のうえパリで出版。これにはピコへの手紙が序文として添えられており,その終りに形而上学を根,自然学を幹,医学,機械技術,道徳を枝とする哲学の木が描かれている。





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基礎づけ主義
基礎づけ主義
基礎づけ主義 きそづけしゅぎ Foundationalism 知識の究極的ないし絶対的な基礎をもとめるべきであり、それを発見できると考える立場。西欧哲学の歴史ではじつに頻繁にみうけられ、こうした基礎からきずきあげられる完結した体系を志向することが多い。

古代では、善のイデアを万物の根拠としたプラトンをあげることができる。しかし、プラトンの宿敵であったソフィストたちは、その相対主義によって基礎づけ主義への基本的な批判をすでに開始していた。また、この批判を体系的に展開したのは、ヘレニズム時代の懐疑主義(ピュロニズム)だった。ピュロニズムによれば、どの基礎づけの試みも、無限後退か仮説設定か循環の袋小路におちいるのである。

近代において究極の基礎づけをこころみたもっとも偉大な哲学者は、R.デカルトである。彼は絶対的に確実な知識を夢みて、あらゆる知識をささえる「不動の基礎」をもとめた。この基礎は、デカルト自身がアルキメデスのてこ(梃子)の支点になぞらえたことから、「アルキメデスの点」とよばれる。

デカルトの「アルキメデスの点」の対抗軸として、航行しながら損傷箇所を修理する船をイメージしたのは、20世紀の哲学者O.ノイラートであった。この反基礎づけ主義の有名な比喩(ひゆ)が「ノイラートの船」である。

基礎づけ主義を西欧哲学にとりついた「強迫観念」としてもっともきびしく批判している現代の哲学者は、アメリカのネオプラグマティストで「哲学と自然の鏡」(1979)の著者R.ローティである。

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ミュンヒハウゼンのトリレンマ
ミュンヒハウゼンのトリレンマ
ミュンヒハウゼンのトリレンマ Munchhausen-Trilemma 現代ドイツの哲学者アルバートが「批判的理性論考」(1968)の中で、基礎づけ主義を批判するためにつかった表現。ミュンヒハウゼンは、ドイツの民話で有名なほらふき男爵の名前。トリレンマはジレンマと同様にギリシャ語に由来する言葉で、3つ(treis)の想定・選択肢(レンマ:lemma)のうちのどれをとっても窮地におちいるということを意味する。

アルバートによれば、伝統的なヨーロッパ哲学は不動の基礎としての「アルキメデスの点」をさがしもとめ、これによって知識の究極的基礎づけをこころみてきた。しかしこうした試みは、「みずからの髪をひっぱって、沼におちた自分をひきあげた」というミュンヒハウゼンの「ほら」と同じである。なぜなら、知識の基礎づけはいずれも、(1)ある知識を基礎づけるものをまた基礎づけねばならず、さらにこの基礎づけをもまた基礎づけねばならないという無限後退におちいるか、(2)基礎づけられるものが自分を基礎づけるものを基礎づけるという循環におちいるか、それとも(3)本来は無限に後退する基礎づけの1段階を「基礎づけを必要としないもの」として恣意的(しいてき)に設定し、基礎づけ作業を中断せざるをえなくなるからである。

このトリレンマの議論はすでに、古代ギリシャの懐疑主義で開発されたアグリッパの5カ条の方式のうち、3つの方式(「無限なものへおいこむ」第2方式、「仮定の方式」の第4方式、「循環の方式」の第5方式)で展開されていた。さらに19世紀にドイツの哲学者J.F.フリース(1773~1843)が新たにこれをとりあげ、ついでイギリスの科学哲学者ポッパーも1930年代に同様の議論を展開した。この議論が広く知られるようになったのは、ポッパーの批判的合理主義の有力なメンバーであったアルバートがほらふき男爵にちなんで、巧みに命名したからである。

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オットー・ノイラート
ノイラート

ノイラート
Neurath,Otto

[生] 1882.12.10. ウィーン
[没] 1945.12.22. オックスフォード

  

オーストリアの哲学者,社会学者。ウィーン学団の代表者の一人。ドイツで学び,ウィーンで M.シュリック,R.カルナップらとウィーン学団を創立したのち,1934~41年オランダに滞在,41年以降オックスフォードで活動した。論理実証主義の方法論を社会学に適用し,物理主義の立場から社会学を基礎づけた。主著『古代経済史』 Antike Wirtschaftsgeschichte (1909) ,『経験論的社会学』 Empirische Soziologie (31) ,『統一科学と心理学』 Einheitswissenschaft und Psychologie (33) ,『社会学の基礎』 Foundations of Social Sciences (44) 。





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[ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 2008]


ノイラート 1882‐1945
Otto Neurath

オーストリアの経済学者。また,論理実証主義の哲学者として,ウィーン学団の創設にあずかった。はじめ,マルクス主義的経済学を唱えたが,やがて,社会科学全体を物理学と同一方法による時空的経験科学とする物理主義へとおもむき,〈統一科学〉という運動を推進した。科学哲学国際会議を創始し,統一科学協会をハーグ(現在はボストンにある)に設立し,科学哲学の普及に尽くした。                     坂本 百大

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ノイラート,O.
I プロローグ

ノイラート Otto Neurath 1882~1945 オーストリアの社会学者、経済学者、哲学者。ウィーンに生まれ、ウィーン大学、ベルリン大学で数学、経済学、哲学をまなぶ。1907~14年ウィーン新経済専門学校で教鞭をとったのち、ウィーンを本拠に東欧、オランダ、ドイツなどヨーロッパ各地で政治、経済、都市計画、視覚教育などじつに幅広い分野で活躍した。40年にイギリスのオックスフォードに移住し、同地で没した。

II ノイラートの船

ノイラートははじめマルクス主義経済学から出発したが、しだいに論理実証主義(→ 実証主義)にかたむいた。カルナップやシュリックらとともに1929年のウィーン学団創立に参加し、この学派の指導者になった。物理学的言語を唯一の科学的言語とみなして、自然科学のすべての命題をこの言語によって表現し、統一する「統一科学」を提唱、36年、ハーグに統一科学協会(現在はボストンにある)を設立した。

彼の立場はきわめてラディカルな真理の整合説といってよい。われわれの知識には絶対的な基盤などないのであって、真理とは規約によってえらばれた一群の基本的原理との整合性のことだと彼はいう。こうした考え方をみごとに表現しているのが、「ノイラートの船」とよばれる比喩(ひゆ)である。知識の絶対的基盤づくりをめざす伝統的な哲学が、不動の「アルキメデスの点」をさがす試みであったとすれば、ノイラートが考えていた哲学者は「修理のために船をいれるドック(知識の絶対的基盤)をもたず、大海の上で船を改造しなければならない船乗り」である。この発想はクワインなど現代の分析哲学に大きな影響をあたえている。

→ 分析哲学と言語哲学:基礎づけ主義

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ノイラートの舟
ノイラートの船
(のいらーとのふね Neurath's boat)




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ウィーン学派の中心人物の一人、オットー・ノイラート(1882-1945)が『アンチ・シュペングラー』(1921) で用いた比喩。彼によれば、知識の総体というのは港の見えない海上に浮かぶ船のようなもので、そのような状態でなんとか故障を修理しつつやっていかなければならない。「われわれは船乗りのようなもの--海原で船を修理しなけばならないが、けっして一から作り直すことはできない船乗りのようなもの--である」。

この比喩は、知識に関する基礎づけ主義を批判して用いられている。すなわち、基礎づけ主義によれば、ある批判不可能な土台(となる命題)があり、その上に建てられた体系(諸命題)も、土台から論理的に導かれているかぎり批判を受けつけないものである。これに対し、ノイラートの船の比喩が含意しているのは、知識には土台は存在しないこと、また、全体が沈んでしまわないかぎり、部分的にはどの部分であっても修理をすることが可能であることである。

30/Apr/2003


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参考文献
?Simon Blackburn, Oxford Dictionary of Philosophy

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KODAMA Satoshi R.ローティ ローティ,R. I プロローグ ローティ Richard Rorty 1931~ アメリカの哲学者。ニューヨークで生まれ、シカゴ大学、エール大学でまなぶ。1958年にウェルズリー大学でおしえはじめ、プリンストン大学で長く教鞭をとったのち、82年からバージニア大学教授をつとめる。81年の「マッカーサー賞」受賞をはじめとして多くの受賞歴をもち、アメリカ哲学会でも要職を歴任している。 II 「哲学の終焉」を宣告 はやくから分析哲学と言語哲学の代表的哲学者として知られ、1967年にはこれらの古典的論文の編者として「言語論的転回」を出版した。しかし、彼の名をアメリカのみならず世界的に有名にしたのは、79年に出版され、またたくまにセンセーションをひきおこした「哲学と自然の鏡」である。この書物は哲学の存在理由を否定して、「哲学の終焉(しゅうえん)」をつげるものと受けとられた。 彼はプラトン以来のヨーロッパの哲学、とくにデカルト以後の近代哲学を徹底的に批判する。ヨーロッパの伝統的な哲学は絶対的真理をめざし、その真理への接近の方法と度合いをめぐって、さまざまな主義主張がしのぎをけずってきた。しかしローティによれば、こうした哲学の根底には「人間の精神は世界の本当のあり方をうつす鏡である」という真理の対応説があり、ヨーロッパの哲学はこの鏡のメタファーにとらわれていたのであって、この固定観念から解放されれば、哲学のあり方もまったくことなったものになる。 こうしたローティの主張は、絶対的真理の体系をめざす哲学者からみれば「哲学の終焉」であろう。しかし彼自身は、異質なものとの会話をどこまでもつづけようとするまったく新しい哲学を構想し、それに「解釈学」という名称をあたえている。デリダとともに、現代哲学においてもっとも刺激的な哲学者のひとりである。 → 基礎づけ主義 Microsoft(R) Encarta(R) 2009. (C) 1993-2008 Microsoft Corporation. All rights reserved. J.ロック ロック ロック Locke,John [生] 1632.8.29. ブリストル近郊リントン [没] 1704.10.28. オーツ   イギリスの哲学者。啓蒙哲学およびイギリス経験論哲学の祖とされる。オックスフォード大学で哲学と医学を学び,シャフツベリー伯の知遇を得て同家の秘書となったが,同伯の失脚とともに 1683年オランダに亡命。彼は認識の経験心理学的研究に基づいて悟性の限界を検討し,知識は先天的に与えられるものではなく経験から得られるもので,人間は生れつき「白紙」 (→タブラ・ラサ ) のようなものであると主張して本有観念を否定した。さらにこの考えを道徳や宗教の領域にも応用し,道徳においては快楽説,宗教においては理神論の先駆となった。政治論においてはホッブズの自然法思想を継承発展させ,当時の王権神授説を批判し,社会契約による人民主権を主張した。主著『人間悟性論』 An Essay Concerning Human Understanding (1690) ,『統治二論』 Two Treatises of Government (90) 。 Copyright 2001-2007 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved. ロック 1632‐1704 John Locke ホッブズとともに17世紀のイギリスを代表する哲学者。その決定的な影響力のゆえに,〈17世紀に身を置きながら18世紀を支配した思想家〉(丸山真男)とも評される。サマセット州リントンに生まれ,ピューリタニズムに基づく家庭教育を受けた後,ウェストミンスター校からオックスフォードのクライスト・チャーチに進む。その間,医学や自然科学に深い関心をもち,またガッサンディやデカルトの哲学に強い影響を受ける。1659年から64年にかけて《世俗権力二論》《自然法論》を,67年に《寛容論》を執筆。同年,後のシャフツベリー伯宅に寄寓,以後彼の腹心として行動をともにする。71年,《人間知性論》に着手。チャールズ2世とシャフツベリーとの対立が先鋭化した〈王位排斥法案をめぐる危機〉の最中,80年前後に《統治二論》を執筆。83年身の危険を感じてオランダに逃亡し,名誉革命直後の89年に帰国するまで亡命生活を送る。後年,89年と93年にそれぞれ刊行された《寛容書簡》や《教育に関する若干の考察》は,この亡命生活の所産にほかならない。帰国後は,新体制に参画する一方,89年に《統治二論》《人間知性論》を,95年に《キリスト教の合理性》を公刊し,時代を代表する思想家として圧倒的な名声を確立した。それとともに,寛容や神学をめぐる論争に巻き込まれたが,晩年はマシャム夫人の保護の下に比較的平穏な日々を送り,エセックス州オーツで死去。未完に終わった《パウロ書簡蔦釈》が〈学者〉としてのその最後の仕事であった。  こうした経歴の中で形成されたロックの思想は,その一貫性を疑わせるような複雑な構造をもっている。第1に,認識論,道徳哲学,政治学,宗教論等彼が理論化した各ジャンル相互の関係が必ずしも明確ではないからであり,しかも第2に,各ジャンルの内部で視点に重要な変化がみられるからである。二大主著《人間知性論》と《統治二論》との架橋が困難な事実は第1の例であり,認識論の内部で独断論から不可知論への,政治学の内部で権威主義から自由主義への視座の転換がみられるのは第2の例にほかならない。しかし,こうした複雑さをもつにもかかわらず,ロックの思想は,全体として,一つのきわめて単純な宗教的枠組みの中で展開されたということができる。激動する時代状況の中で解体した人間の善き生の条件=規範を,神の意志に照らして再確認しようとする一貫した関心がそれである。事実,この関心は,ロックの多様な思想ジャンルの結節環であった。その認識論は〈啓示宗教と道徳原理〉の認識論的基礎づけを,その道徳論は〈神と同胞への義務〉の論証を,その政治学は政治の世界における人間の義務の探究を,その宗教論は聖書によるそれらの義務の確証をそれぞれ意図したものであったと考えられるからである。もとよりその場合,ロックが前提とした人間像は〈合理的で勤勉な〉主体,自己判断に従ってみずからを規律する自律的な個人であった。ロックの思想にみられる一連の特徴,すなわち,認識論における生具観念の否定と経験の重視,政治学における労働・自然権・政治社会を作為する人間のイニシアティブ・抵抗権の強調,寛容論における宗教的個人主義への傾斜は,すべて主体的な人間のあり方を前提にしたものにほかならない。その点で,例えば,ロックの認識論が自律的な人間の能力を内観し批判した近代認識論の出発点とされ,またその政治学が,〈人間の哲学〉を政治認識に貫いた近代政治原理の典型とされるのは決して不当ではない。しかし,同時に注意すべき点は,ロックにおいて,人間の自律性,人間の自由が,つねに神に対する人間の義務と結びついていたことである。ロックにとって,人間は,〈神の栄光〉を実現すべき目的を帯びて創造された〈神の作品〉であり,したがってその人間は,何が神の目的であるかを自律的に判断し,自己の責任においてそれを遂行する義務を免れることはできないからである。その意味で,世界を支配する神の意志と人間の自律性とが矛盾せず,むしろ両者の協働の中で,思考し,政治生活を営み,信仰をもつ人間の生の意味を規範的に問い続けた点に,ロックの思想の基本的な特質があったといえるであろう。⇒イギリス経験論                          加藤 節 (c) 1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved. ロック,J. I プロローグ ロック John Locke 1632~1704 経験主義を創始したイギリスの哲学者。 サマセット州リントンに生まれる。オックスフォード大学にまなび、1661~64年に同大学でギリシャ語、修辞学、道徳哲学をおしえる。67年イギリスの政治家アンソニー・アシュリ・クーパー、のちの初代シャフツベリー伯との交際がはじまり、その友人、助言者、家庭医として、シャフツベリー伯から一連の官職をあたえられる。69年に公務のひとつとして、北アメリカのイギリス植民地カロライナの地主たちのための法律を起草したが、実施されなかった。 1675年リベラル派のシャフツベリー伯の失脚にともない、持病のぜんそくの治療のためフランスにわたった。79年イギリスに帰国するが、チャールズ2世のローマ・カトリック優遇政策に反対し、83年オランダに逃亡。名誉革命直後の89年までこの地にとどまる。96年に新国王ウィリアム3世により通商弁務官に任命され、1700年に健康上の理由で辞職するまでこの地位にあった。04年10月28日、エセックス州オーツにて死去した。 II 経験主義 ロックの経験主義は、知識の探究において、直観的思弁や演繹よりも感覚経験の重要性を強調する。経験主義的学説を最初に擁護したのは、17世紀初頭のフランシス・ベーコンだが、ロックは「人間知性論」(1689)において、この学説に体系的な表現をあたえた。彼は、生まれたばかりの人間の心はタブラ・ラサ(なにも書かれていない板)であり、そのうえに経験によって知識がきざみつけられていくのだと考え、直観も生得観念の理論も信じない。ロックはまた、人間はすべて生まれつき善であり、自立的であり、平等であると主張する。→ 認識論:西洋哲学 III 政治理論 ロックは「統治二論」(1689)において、ホッブズが考えるような王権神授説や自然状態を攻撃した。ロックによれば、主権は国家にではなく市民にあり、国家が至高のものであるのは、それが市民といわゆる自然法によって拘束されている場合だけである。自然権、財産権、政府がこれらの権利を保護する義務、多数決原理などについてのロックの思想の多くは、のちにアメリカ独立宣言や合衆国憲法に具体化される。 またロックは、革命は権利であるばかりか義務でさえあるとし、さらに統治における三権分立を主張した。彼は権力の乱用をふせぐために国家の統治権を立法権・行政権・連合権の3つに区別し、そのなかでも立法権を上位においた。彼はまた、信仰の自由や、教会と国家の分離も主張した。 近代哲学におけるロックの影響はきわめて大きい。ロックは、経験的分析を倫理学、政治学、宗教に適用したことによって、もっとも重要で議論の的となる哲学者でありつづけている。上記のほかに、「教育論」(1693)、「聖書に述べられたキリスト教の合理性」(1695)などの著書がある。 Microsoft(R) Encarta(R) 2009. (C) 1993-2008 Microsoft Corporation. All rights reserved. G.バークリー バークリー バークリー Berkeley,George [生] 1685.3.12. キルケニー [没] 1753.1.14. オックスフォード    イギリスの哲学者,聖職者。 1700年ダブリンのトリニティ・カレッジに入り,07年以後同カレッジ研究員。『視覚新論』 Essays towards a New Theory of Vision (1709) や主著となった『人知原理論』A Treatise concerning the Principles of Human Knowledge (10) を著わした。 13年ロンドンに出て,J.スウィフト,A.ポープらと交わり,2度にわたってフランス,イタリアなどに遊学し,21年ダブリンに帰った。 29年植民者と北アメリカ先住民の教化のための大学をバミューダに設立すべく新大陸に渡ったが失敗して 31年帰国。 34年クロインの監督となり,著述と司牧に専念した。彼の思想は同時代には多くの賛同を得なかったが,死後にスコットランド学派 (→常識哲学 ) や D.ヒューム,J.S.ミルを経て 20世紀の経験論にまで大きな系譜を残している。 Copyright 2001-2007 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved. [ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 2008] バークリー 1685‐1753 George Berkeley イギリスの哲学者。ロック,D. ヒュームらとともにイギリス経験論の伝統に連なる。アイルランドの生れで,一生アイルランドとの縁が深かったが,彼の家系はイングランドの名門貴族につながり,信仰の面でもきわめて敬虔な国教徒であった。ダブリンのトリニティ・カレッジで助祭に任命されて以来,聖職を離れたことがなく,30歳代には新大陸での布教を志し,バミューダ島に伝道者養成の大学を建設するため奔走した。政府の援助が続かず計画は挫折したが,1734年にはアイルランドのクロインの司教に任ぜられ,教区の住民に対する布教,救貧,医療に力を尽くした。哲学の著作としては20歳代半ばに発表した《視覚新論》(1709)と《人知原理論》(1710)がとくにすぐれている。しかしこの2著で展開された非物質論の哲学にしても,近代科学の〈物質〉信仰を無神論と不信仰の源とみなし,これに徹底的な批判を加えたもので,背後には護教者の精神が一貫して流れている。  そのころバークリーが熱心に研究したのはマールブランシュとロックの哲学であるが,いずれに対しても自主独立の態度を持し,むしろふたりの学説を批判的に克服することで独自の立場を築いている。《視覚新論》では当時学界の論題であった視覚に関する光学的・心理学的な諸問題に独創的な解釈を施しつつ,非物質論の一部を提示している。彼によれば視覚の対象は触覚の対象とはまったく別個で,色や形の二次元的な広がりにすぎず,外的な事物と知覚者の間の距離は視覚によっては直接に知覚できない。対象のリアルな大きさ,形,配置なども同様である。われわれが視覚でこれらを知るのは,過去の経験を通じて両種の観念の間に習慣的連合(観念連合)が成立しているからで,デカルトやマールブランシュが説くように幾何学的・理性的な判断の働きによるのではない。全体として,数学的・自然科学的な概念構成の世界から日常的な知覚の経験に立ち返り,その次元で存在の意味を問いなおそう,というのがこの書の基本精神である。一方,《人知原理論》では,視覚対象は〈心の中〉に存在するにすぎないという前著の主張が知覚対象の全体に広げられ,〈存在するとは知覚されること(エッセ・エスト・ペルキピ esse est percipi)〉という命題が非物質論の根本原理として確立される。何ものも〈心の外〉には,すなわち知覚を離れては存在しないとすれば,もはや〈物質的実体〉の存在を認める余地はない,というのである。《人知原理論》は現象主義的な認識論の古典とみなされているが,バークリー自身の哲学は〈観念すなわち実在〉の主張で終わるものではなかった。むしろ観念とはまったく別個な,あらゆる観念の存在を支える〈精神的実体〉こそ真実在である,というところにその眼目がある。バークリーにとって,世界は究極的には神の知覚にほかならない。          黒田 亘 (c) 1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved. バークリー,G. バークリー George Berkeley 1685~1753 アイルランドの哲学者、牧師。近代観念論の創始者のひとり。物質は精神から独立に存在しえないと主張した。いっぽう、感覚現象は、人間の精神につねに知覚をよびおこす神の存在を前提とするとも考えた。 アイルランドのキルケニに生まれ、ダブリンのトリニティ・カレッジにまなび、1707年このカレッジの特別研究員となった。1710年、「人知原理論」を出版。その理論があまり理解されなかったために、その通俗版である「ハイラスとフィロナスの3つの対話」(1713)を出版したが、この両著作における彼の哲学的主張は、生前にはほとんど評価されなかった。しかし、24年デリー大聖堂首席牧師に任じられ、聖職者としてはますます有名になっていった。 1728年に渡米し、バミューダ島にアメリカのわかい植民者と先住民族の人々を教育するための大学を建設しようとした。この計画は32年に放棄されたが、バークリーはアメリカの高等教育の向上につとめ、エール、コロンビアその他の大学の発展に貢献した。34年、クロインの司教となり、引退するまでこの地位にとどまった。 バークリーの哲学は、懐疑主義と無神論に対する回答である。彼によれば、懐疑主義は経験ないし感覚が事物から切りはなされるときに生じる。そうなれば、観念を介して事物を知る方法はなくなるからである。この分離を克服するには、存在するとは知覚されることである、ということがみとめられねばならない。知覚されるものはすべて現実のものであり、知覚されるものだけが、その存在を知られうる。事物は観念として心の中に存在する。 しかし他方、バークリーは、事物は人間の心と知覚から独立に存在するとも主張する。というのも、われわれは自分がもつ観念を自由に変更することはできないからである。この矛盾を解決するために、彼は神のような無限に包括的な精神を要請し、この神の知覚があらゆる感覚的事実を構成すると考える。 バークリーの哲学体系は、物質的外界の認識の可能性をみとめない。彼の哲学体系そのものはほとんど後継者をもたなかったが、独立した外界と物質の概念を主張する根拠に対するその批判には説得力があり、その後の哲学者に影響をあたえた。上記以外の著書に、「視覚新論」(1709)、「サイリス」(1744)などがある。 Microsoft(R) Encarta(R) Reference Library 2003. (C) 1993-2002 Microsoft Corporation. All rights reserved. D.ヒューム ヒューム ヒューム Hume,David [生] 1711.5.7. エディンバラ [没] 1776.8.25. エディンバラ    スコットランドの外交官,歴史家,哲学者,政治および経済思想家。エディンバラ大学に学んだ。 1734~37年フランスに滞在し,『人性論』A Treatise of Human Nature (1739~40) をまとめた。 44年エディンバラ大学,51年グラスゴー大学に職を求めたが,いずれも無神論の疑いでいれられなかった。 52年エディンバラ弁護士会図書館司書,63年駐フランス大使の秘書,67~69年国務次官をつとめたのち,エディンバラに引退した。哲学的には,ロック,バークリーと展開したイギリス経験論を徹底化し,因果法則をも習慣の所産であるとし,あらゆる形而上学的偏見の排除を試みた。主著『道徳の原理論』 An Enquiry Concerning the Principles of Morals (51) ,『人間悟性論』 An Enquiry Concerning Human Understanding (58) 。 Copyright 2001-2007 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved. [ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 2008] ヒューム 1711‐76 David Hume 18世紀のイギリスを代表するスコットランド出身の哲学者。その多面的な思考活動のうち,従来は,懐疑論に基づく独断的形而上学批判,宗教現象の実証的分析,社会契約説批判,歴史主義的思考態度などの側面がとくに注目されてきたが,最近では,むしろ A. スミスやスコットランド啓蒙思想(スコットランド学派)との関連を重視する立場から,近代〈市民社会〉の存立メカニズムを経験科学的に解明した思想家として評価しようとする傾向が有力になっている。  ヒュームはスコットランド南東部ベリクシャーのナインウェルズに生まれた。父親はジェントリー階層に属する弁護士であり,母方の祖父もスコットランド高等法院長の重責をになう法曹であった。1723年からほぼ2年間,エジンバラ大学で古典とともにロックやニュートンの〈新しい学問〉を学ぶ。18歳ころ,おそらく神の存在を因果律によって論証する伝統的立場への深刻な疑問を媒介として〈思想の新情景〉を経験し,以後ヒュームは,ニュートンの自然学とロックの認識論とを主たる導きの糸としながら〈真理への一つの新しい手段〉の探究に着手することになる。その最初の成果が,34年から37年まで滞在したフランスで執筆され,39年と40年とにロンドンで出版された《人間本性論》であった。その後精力的な執筆活動を続け,41年から62年までに,《人間本性論摘要》《道徳・政治論集》《人間知性研究》《政治論叢》《イギリス史》や,〈宗教の自然史〉を含む《小論文四篇》などを次々と刊行,思想家としての地位を不動のものとする。しかしその間,伝統神学に否定的な宗教思想のゆえに,エジンバラ,グラスゴーの両大学から教授就任を拒否され,職業的学者になる機会を失う。46年から48年にかけてセント・クレア(シンクレア)将軍の大陸遠征に随行。52年エジンバラ法曹会図書館司書,63年駐仏大使ハートフォード縁秘書,65年には代理大使を務める。66年ルソーを伴って帰国し保護に努めるが,ルソーから誹謗の張本人と誤解され確執に悩む。67年国務次官の職に就いた後,69年以降はエジンバラに定住,指導的文筆家として満ち足りた晩年を送る。宗教思想上の主著《自然宗教をめぐる対話》が刊行され,ヒュームの思想の全貌が明らかになったのは,死後3年を経た79年のことであった。  こうした経歴の中で形成されたヒュームの思想は多様な主題を扱っており,統一的な理解は必ずしも容易ではない。しかしヒュームが全体として何を意図したかに注目する限り,彼の思想に一貫する関心は比較的明瞭である。人間が営む日常的な経験世界の〈観察〉を通して確実な〈人間性の原理〉を解明し,その〈人間の学〉の上に〈諸学問の完全な体系〉を確立しようとの意図がそれであって,処女作《人間本性論》で宣言されたこの立場こそ,ヒュームの全思考活動を貫く方法であり目的であった。標語〈人間的事象 moral subjects に実験的推論方法 experimental method ofreasoning を導入する試み〉とともに有名なこうした意図との関連において,ヒュームの思想は包括性,実証性,歴史性の三つの大きな特質をもつことになる。  上にみたように,ヒュームの思想の対象は,所与としての人間が営む経験的世界であった。したがってその思想は,この経験世界を構成する多様な人間的事実,端的に,知性,情念,道徳感情をもち,政治,宗教,学芸を営む全人間的事象を覆う包括性を帯びざるをえない。その意味で,ヒュームの思想の包括性は人間的事象の多様性に対応するものであった。しかも,ヒュームの場合,そうした全人間的事象からの帰納によって導かれる〈人間性の原理〉や〈諸学問の体系〉は,いっさいの抽象的独断や先験的実体化を拒否する実証性をもつことになる。〈経験と観察〉を重視するヒュームにとって,それらの知識は,原理上経験の範囲を超えることはできず,したがってまた経験的事実による検証に耐えうるものでなければならなかったからである。  ヒュームの思想を貫くそうした実証性は,例えば,彼の懐疑論が経験的事実としての人間の可呈性の認識論的反省として成り立ち,それによって,常識的な経験知への信頼の上に習慣的な観念の連合に高い蓋然性を与える視点が導かれ,人間本性に付随する道徳感情に即して道徳の事実学が展開された点からうかがうことができるであろう。しかも,こうした実証性の系として,ヒュームの思想は豊かな歴史性をもつことになる。彼の思想の対象が時間的に限定された所与としての経験世界であった限り,それはまた,人類の多様な経験がいわば重層的に蓄積された歴史世界以外の何物でもなかったからである。ヒュームにおいて,国家の歴史的起源が共通利害の一般的な感情の事実性に求められ,多神教から一神教へと発展した宗教の〈自然史〉が解明され,歴史の動態の中で国家から自立した〈社会 civilsociety〉の運動法則が私的利害を公共善へと媒介する〈共感〉の作用に見いだされている事実は,ヒュームの思想がいかに強く歴史性に貫かれているかを示すものにほかならない。しかも,こうした実証的な歴史的性格のゆえに,ヒュームの思想は,イギリス経験論をロック的な内観の哲学から経験科学の基礎学へと大きく転回させることになった。ヒュームの関心は人間が営む多様な経験的現実の存立構造に向けられていたからであって,〈在るところのもの〉の了解の哲学として一見保守的なヒュームの思想の積極的意義はまさにそこに求められるであろう。ヒュームと A. スミスとの関係が問われるゆえんにほかならない。                          加藤 節 (c) 1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved. ヒューム,D. I プロローグ ヒューム David Hume 1711~76 懐疑主義と経験主義の発展に貢献した哲学者。スコットランドに生まれ、12歳でエディンバラ大学に入学した。病弱で、しばらく商業に従事したのち、フランスにわたった。 II 生涯と著作 ヒュームはフランスで、1734~37年にかけて思弁哲学の問題に没頭し、その原稿をイギリスにもちかえり、もっとも重要な著作である「人性論」(1739~40)を出版した。しかし、この著作は不評で、彼の言い方によれば、「死産」であった。 ヒュームは「人性論」出版のあと、倫理学と政治経済学の問題に注意をむけ、「道徳・政治論集」(全2巻。1741~42)を刊行し、好評をえた。信仰に懐疑的との理由で、エディンバラ大学の教授就任を拒否されたのち、アナンデイル侯爵の家庭教師となった。1746年、イギリス軍のブルターニュ遠征に法務官として従軍。48年、「人間知性の探求」を発表した。 1 ルソーとの交友と絶交 1751年、エディンバラに居をさだめる。52年、「道徳原理研究」を発表。大学教授の就任にふたたび失敗し、エディンバラ法曹会図書館の司書となる。54~62年にかけて「イギリス史」を刊行。62~65年パリのイギリス大使館秘書をつとめ、同地の文学サークルで歓迎され、ルソーと知りあう。 迫害の脅威にさらされていたルソーをイギリスにつれかえるが、ルソーから迫害計画の張本人と誤解され、絶交する。1767~68年ロンドンで国務次官をつとめたのち、エディンバラに隠棲(いんせい)し、この地で没した。79年、「自然宗教をめぐる対話」が死後出版される。 III 思想的特徴 ヒュームの哲学思想は、イギリスの哲学者ロックとバークリーの影響をうけている。ヒュームもバークリーも、理性と感覚を区別する。しかし、ヒュームは、理性と理性的判断はさまざまな感覚や経験のたんなる習慣的な連合にすぎないという大胆な見解を提出する。 1 形而上学と認識論 ヒュームは因果律という基本的な観念を否定して、こう主張する。「理性は対象相互間の連関をしめすことができない。したがって、ある対象の観念ないし印象から別の対象のそれに心がうつる場合、この移行は理性によってではなく、これらの対象の観念を連合し、想像力において統一するある原理によって規定されている」。ヒュームによる因果律の否定は、科学的法則の否定をふくんでいる。科学的法則は、ある事象は別の事象を必然的にひきおこすという一般的な前提にもとづいているからである。こうしてヒュームは、事実の認識は不可能であることを説く。 とはいえ、実際問題としては人は原因と結果によってものを考えざるをえず、自分の知覚の妥当性を前提とせざるをえないことは、ヒュームもみとめる。そうでなければ、人は気がくるってしまうだろう。 ヒュームの懐疑主義は、バークリーが要請するような精神的実体も、ロックの「物質的実体」も否定する。それどころか、彼は個人の自己の存在までも否定する。人は独自な存在としての自分についての知覚をつねにもつわけではなく、自我とは「知覚の束」にすぎない。 2 倫理学と経済史的思想 ヒュームは、善と悪の概念は合理的なものではなく、自分の幸福への関心から生まれると主張する。彼の見解によれば、最高の道徳的善は博愛、つまり利他的な社会福祉の尊重である。 歴史家としてのヒュームは、戦争と国事の年代記的報告という伝統的な歴史記述をやめて、イギリス史においてはたらく経済的知的要因を記述しようとした。「イギリス史」は長く古典とされた。 ヒュームは、富は貨幣ではなく商品にもとづくという思想を展開して、経済に対する社会情勢の影響をみとめ、その経済理論によってアダム・スミスとその後の経済学者に影響をあたえた。 Microsoft(R) Encarta(R) 2009. (C) 1993-2008 Microsoft Corporation. All rights reserved. 自然権 マグナ・カルタ マグナ・カルタ マグナ・カルタ Magna Carta    イギリスの憲法の典拠として法令書の最初にあげられている大憲章。 1215年にイングランドのジョン王がバロン (諸侯) たちの圧力に屈して調印した勅許状を基礎に,16,17年の改訂を経て,25年の国王ヘンリー3世の時代にさらに整備,完成されたもの。 97年に国王エドワード1世がこれを詳細に検討し,新法令の最初に加えた。 15年の勅許状の内容は貢納金の徴収や司教の選任,司法,地方行政に関する王の専制を制限し,監視貴族による委員会の設置などであるが,その後の改訂で財政,軍事の両面での王の徴募権の濫用防止などに関して,当初の条項の約3分の1が削減または改修された。大憲章はその後も王と国民の関係を法的に制定するものとして尊重され,圧制に対する自由を守るものとして,17世紀のイギリスの「権利請願」や「人身保護律」の作成,18世紀アメリカの連邦憲法の制定の背景をなした。 Copyright 2001-2007 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved. マグナ・カルタ Magna Carta[ラテン]∥Great Charter イギリスで1215年6月15日付で発布された63ヵ条の法で,その後たびたび再発行および確認されている。イギリス憲法の一部とされ,しばしば〈大憲章〉と訳される。マグナ・カルタを論ずる際には,それが1215年の発布当時に有していた意義と,それ以後今日まで立憲政治の上で果たしてきた意義とを明確に区別する要がある。  マグナ・カルタは直接的には当時のイギリス国王ジョンの失政をきっかけにして発布された。すなわち,ジョンは父王,兄王から継承したフランス内の領土をフランス王に奪われ,一方では戦費調達のため財政改革をし,苛斂誅求(かれんちゆうきゆう)を行った。かくして敗戦と圧政への人々の不満が高まり,王の殺害計画まで発覚している。このような背景の下でも,王は領土回復の戦いを再び試み,1214年ブービーヌの戦で最後的な敗北を喫した。これをきっかけに,とくに貴族の不満は最高潮に達し,王はあらゆる方法で不満分子の抱き込み策を図った。15年5月5日貴族の一部が〈ジョンを主君と認めずみずからをジョンの臣下と認めず〉と宣言して公然と反抗し,後にロンドン市がこれに同調したときには,ほとんどの臣民が反ジョン側についてしまった。しかし,反王側の臣民に統一がとれ,初めから後のマグナ・カルタのようなものが意図されていたと考えてはならない。5月5日の段階ではなんらの文書もなかった。彼らの主たる目的は,人によってはジョンの廃位であり,人によってはジョンが彼らの不信感をなくするにたる行為をとることであった。6月10日までに両者の協約の主たる点が決まり,それに多くの雑多な項目が盛り込まれ,6月15日付で発布されたのが,マグナ・カルタである。  したがって,マグナ・カルタの63ヵ条にはなんらの統一もなく,また首尾一貫した統治原理を見いだすこともできない。それは国王と貴族を中心にした臣民との関係を規制する雑多な,しかも単なる当座しのぎの妥協にすぎない。その内容は,それぞれ王の具体的な専横を制限しようとするものであり,したがってきわめて広範囲である。教会の自由,封建的負担の制限,国王役人の職権濫用の防止,ユダヤ人からの貸借金,民事・刑事の裁判,度量衡の統一,テムズ川の魚梁の破壊や猟林に関する規定等々が含まれている。このような性格を重視し,また19世紀の自由主義的史観への反発もあり,近年はマグナ・カルタは単なる過去の慣習への復帰を目ざしたもの,すなわち封建法の確認とみる説が多い。確かに1215年段階ではこれでもって立憲政治の礎を置くという意図があったとは考えられず,その意味ではマグナ・カルタは第一に封建文書であったことは否定できない。しかし同時に,個々の規定を離れ全体として考えたとき,国政をつかさどることが国王個人の大権であり,また主君に値しない国王に対する対抗手段としてはその王への忠誠の誓いを破棄し,新たな主君すなわち国王を即位させることしか考えられなかった当時(1215年5月5日の貴族の行動を参照),主君に値しない国王を文書によって縛り,その大権を被治者側から制限しようとしたこの試みの新しさは,たとえ意図的ではなかったにせよ,立憲政治の礎としてのマグナ・カルタの輝かしい歴史を生む原因の一つであったことも重視されねばならない。  ジョンは,マグナ・カルタ発布直後にローマ教皇に頼み,その無効宣言をしてもらった。当然内乱となったが,16年10月に王は病死し,ジョン個人に反抗しての内乱は意味を失った。そして11月,未成年王ヘンリー3世を後見することになった貴族たちは,かなりの部分を削除・修正してマグナ・カルタを再発行した。以後マグナ・カルタは17年,25年に若干内容を変えて再発行され,その後は25年のものが現行法としてたびたび確認されている。しかし17世紀まではその役割を過大視してはならない。むしろ中世末から16世紀いっぱいまではマグナ・カルタは現実政治でほとんど何の役割も演じていない。イギリス立憲政治の発展にとって決定的な時期は,ピューリタン革命と名誉革命とで特徴づけられる17世紀である。マグナ・カルタが今日のように立憲政治の礎としての意義をもたされるのは,この時期にスチュアート朝の専制政治と戦った人々がみずからの主張のよりどころをここに求めたことから始まる。彼らの主張は17世紀の2度の革命を通じて勝利を収め,イギリス立憲政治が生まれたが,これを支える一大典拠としてのマグナ・カルタは,1215年当時有していた意義とはほとんどまったく別の新たな意義を与えられるに至り,権利請願と権利章典とともに,イギリス近代立憲政治を支える柱とされ,現在も憲法の一部であると考えられている。しかし当然のことながら,その多くの条項はすでに廃止されているか,現在では適用しえなくなっている。                         小山 貞夫 (c) 1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved. マグナ・カルタ マグナ・カルタ Magna Carta 1215年6月15日に、イングランド王ジョン(欠地王)が貴族たちの要求によってみとめた憲章で、以来、イギリスの立憲政治の基礎とされている。「大憲章」と訳される。 ジョンのフランスにおける軍事的失敗、きびしい課税、国王大権の乱用などによってしだいに不満をつのらせた貴族たちは、1214年に反乱をおこした。貴族たちの不満には、個人的なものから、国王による権利の侵害から自分たちをまもりたいというものまであった。ジョンとの交渉が不調におわると、彼らはジョンに対する忠誠の誓いを破棄すると宣言してロンドンを占拠した。事態の重大さをさとった国王は6月15日、ラニーミードで貴族たちと会見し、マグナ・カルタを承認した。 マグナ・カルタは国王と貴族の関係をさだめた初の細かい規定で、貴族たちの封建的諸権利を保障する条項とともに、国王への上納金や援助金、城砦守備の義務など、彼らの封建的負担を制限する条項がもりこまれていた。また、ロンドンその他の都市の活動の自由や外国商人の通商の自由を保障し、度量衡を統一することによって、商業の保護がはかられるとした。 さらに、常設の民事裁判所の設置、重罪人に対する没収方法の統一、告訴や裁判をおこなうにはうわさ話やたんなる疑惑ではたりず証人が必要なことなど、司法の公正化を意図した条項もふくまれていた。自由人はだれであれ、同輩の適法な裁判か国法のさだめる手続きによる以外は、その生命、自由、財産をうばわれてはならないとする主張は、イギリスの市民的自由の歴史的根拠となっている。→ 法の適正な手続 マグナ・カルタは、ジョンの息子ヘンリー3世が即位したのち、1216年、17年、25年に再発行されてほぼ現在の形に修正され、エドワード1世時代の97年にも再確認されている。17世紀初めに議会と国王が対立した際、国王大権に反対する議員たちがその主張の根拠としたのが、中世末には忘れられた存在になっていたマグナ・カルタであった。そして1628年の権利請願、89年の権利章典とともに、王権に対する議会の優位の法的根拠となり、さらにイギリスにおける法の支配の理念に権威をあたえるものとなっている。 マグナ・カルタは議会によっていつでも否定できるものであり、その意味で法的に不可侵とはいえないが、マグナ・カルタによって確立された権利は以後700年余りにわたって法的効力をあたえられ、慣習的に有効性をみとめられてきた。 Microsoft(R) Encarta(R) 2009. (C) 1993-2008 Microsoft Corporation. All rights reserved. 名誉革命 名誉革命 めいよかくめい Glorious Revolution    1688~89年イギリスで行われた革命。国王ジェームズ2世が追放され,オランニェ公ウィレム (ウィリアム3世 ) と妃メアリー (メアリー2世 ) が王位についたが,流血をみずに達成されたためこの名で呼ばれた。 85年即位したジェームズ2世は,審査法の適用免除により旧教徒を官職に登用し,信仰自由宣言を発して日曜日にそれを説教壇で朗読することを強制するなど,カトリック政策を推し進めたため,国民の不満は高まった。 88年6月七主教裁判事件と皇太子で,のち大王位僭称者と呼ばれた J.F.E.スチュアートの誕生を契機にトーリー,ホイッグ両党間の提携が成立,国王の長女でプロテスタントのメアリーとその夫オランダ総督ウィレムに救援の招請状が発せられた。 11月兵を率いたウィレムはトーベイに上陸。国民すべてが離反したのを知ったジェームズは王妃,皇太子に続いてみずからもフランスに亡命した。翌年1月仮議会はウィレムとメアリーを共同統治者に推し,即位の条件として「権利宣言」を提出した。2人はそれに署名して即位し,議会はあらためてそれを権利章典として制定。こうして 17世紀における議会と国王の対立に終止符が打たれ,議会主権体制建設の出発点が固まった。 Copyright 2001-2007 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved. 名誉革命 めいよかくめい Glorious Revolution 1688‐89年にイギリスで起こった革命。国王ジェームズ2世を追放して,王の長女メアリーとその夫オランダ総督ウィレムを共同統治者として迎え,立憲君主制の基礎を固めた。  王政復古体制下の1670年代末期,チャールズ2世の弟でカトリック教徒のジェームズを王位継承から排除する法案の議会提出をめぐって政治危機は深刻となった。結局この法案は成立せず,85年ジェームズ2世が即位した。その直後,これに反対して前王の庶子モンマス公が反乱を起こしたが,支配階層は動かず,あえなく鎮圧された。国王はこの反乱に対して〈血の巡回裁判〉と呼ばれる極刑をもって臨み,議会を休会し,審査法を無視してカトリック教徒を文武の官吏に登用,ロンドン周辺には国民の嫌う常備軍を配置し,宗教裁判所を復活させた。さらに前王に引き続き87年と88年の再度にわたって〈信仰自由宣言〉を発した。この宣言は,信仰の自由の口実のもとにカトリックの復活を図ろうとするもので,しかも88年の宣言は教会における朗読が命じられた。カンタベリー大主教ら7人の国教会高位聖職者が反対の請願を行うと,国王は7人を逮捕して裁判にかけた。このような専制に対する反感が高まった88年6月,旧教徒の王妃が皇太子を産んだ。王位は新教徒の長女メアリーに継承されるという国民の期待は裏切られ,カトリック復帰への危惧が強まった。この高位聖職者逮捕と皇太子誕生という二つの事件を契機に,これまで対立し合っていたトーリー,ホイッグ両党間に和解の気運が生まれ,7人の主教が無罪の判決をうけて釈放された同月末,両党指導者は協議のうえ,オランダ総督オラニエ公ウィレムに向けて,武装援助を請う招請状を発した。彼は当時,ルイ14世のカトリック的侵略政策に対抗する新教側の事実上のリーダーであった。3ヵ月後,ウィレムは〈プロテスタントの宗教とイギリス王国の法と自由〉を守るために遠征する決意を発表し,11月約1万5000の兵を率いてイングランド南西部のトーベイに上陸した。ロンドンに向けてただちに進撃せずに国王軍の自壊を待つ作戦をとると,貴族は相ついでウィレムのもとに集まり,迎撃するはずの将軍マールバラ公も寝返り,王の次女アンも義兄の側に走った。戦意を喪失したジェームズ2世は,王妃と皇太子をフランスに逃がしたのち,一時捕らえられるが,12月ウィレムがロンドンに入った直後にフランスに逃亡した。  89年1月に開会された仮議会では,この事態をいかに説明するかをめぐってトーリー,ホイッグ両党間で意見の対立がみられ,妥協案としてイギリス人の〈古来の権利と自由〉を宣言することになった。これが〈権利宣言 Declaration of Rights〉であって,89年2月,オラニエ公とメアリーはこれを承認し,共同統治者(ウィリアム3世ならびにメアリー2世)として王位につき,ここに名誉革命がなった。仮議会は正式の議会となり,先の〈権利宣言〉を〈臣民の権利および自由を宣言し,王位継承を定める法〉,通称〈権利章典〉として制定。ついで寛容法も制定され,国教会を体制教会としながらもプロテスタント非国教徒にも信仰の自由が認められた。  なお,スコットランドにおいてはジェームズ2世を支持するジャコバイトの勢力が強く,名誉革命を承認する議会とジャコバイトの間で武力抗争が行われた。一方,アイルランドではジェームズ2世の逃亡後,プロテスタント地域の解放を求める蜂起があり,それに呼応してジェームズ2世はフランスの援助のもとに89年3月ダブリンに入った。ウィリアム3世はこの事態を放置せず,みずから兵を率いて遠征し,7月ボイン川の戦闘でジェームズ2世の軍隊を破った。これ以後,アイルランドにおける土地の収奪とカトリック弾圧がピューリタン革命期のクロムウェルの征服にもまして徹底的に推進され,これが今日の〈アイルランド問題〉の原点となった。  名誉革命は17世紀初頭以来の国王と議会の対立に終止符を打ち,〈議会における国王〉に主権が存在するという中世以来の伝統的な国制を守りながらも,議会制定法の優越する議会主権体制の基礎を固めた点にその意義が認められる。この成果がほぼ無血のうちに達成された点を評価して,〈名誉〉革命とする評価がイギリスにおいては定着しているが,逆にこれを単なる君主の交代にすぎないとする評価もある。しかしこの革命の真の意義は,前のピューリタン革命と関連づけて把握されねばならないであろう。すなわち,王政復古体制がけっしてピューリタン革命前の旧制度の全面的な復活を意味しはしなかったのに,後期スチュアート朝の2人の国王が革命の教訓を忘れて絶対主義の復活を図ったことから名誉革命が起こったのである。したがってピューリタン革命の成果が,王政復古体制を経て名誉革命によって守りぬかれ,かつ補強されている点を逸してはなるまい。とりわけ,ピューリタン革命中に後見裁判所の廃止によって実現した,土地に対する私有財産権の法的確立が,資本主義的な生産様式の発展に適合的な社会をつくりだすことに大きく寄与した点を高く評価しなければならない。17世紀のイギリスにおける二つの革命(ピューリタン革命と名誉革命)を世界で最も早い時期にたたかわれたブルジョア革命とみるのは,この意味においてである。  二つの革命はいずれも議会を中心にして貴族・ジェントリーのレベルでたたかわれ,歴史的な権利の回復の要求を基調とした。ことに名誉革命に至る過程においては,〈40年代の恐怖〉すなわち民衆蜂起による革命の急進化を恐れた支配階層が,民衆の政治関与を徹底的に排除したのが注目される。これが,スコットランドとアイルランドを除いて,革命を〈無血〉のうちに遂行するのを可能にし,〈名誉〉革命たらしめた最大の理由である。したがって,名誉革命が樹立した体制下にあって,議会とくに下院の占める地位は著しく向上したものの,国王とその大権は否定されず,また選挙権の拡大などの議会改革は行われず,それが古い貴族寡頭支配の体質を温存させることになった。しかし,名誉革命後も大土地所有者の手に政治権力は掌握されつづけたものの,彼らは外国貿易に従事する大商人と手を結び,植民地帝国の建設を推進し,工業化の前提条件を整えていった。                       今井 宏 (c) 1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved. 名誉革命 名誉革命 めいよかくめい Glorious Revolution 1688~89年にイギリスでおこった革命。ピューリタン革命以前からつづいていた国王と議会との主権争いに終止符をうち、立憲君主制の基礎をかためた。具体的には、専制をおこなうイングランド王ジェームズ2世を退位させ、長女のメアリーとその夫のオランダ総督オラニエ公ウィレムが共同統治者として王位についたが、この交代劇はほぼ無血でおこなわれたため、名誉革命とよばれる。 王政復古体制下、国王によるカトリック復活政策を危惧した勢力は、1678年、国王チャールズ2世の弟でカトリック教徒であるジェームズの王位継承者排除法案を議会に提出したがかなわず、85年にジェームズ2世は即位した。これに反対する前王の庶子のモンマス公は反乱をおこしたがあえなく鎮圧され、「血の巡回裁判」とよばれる極刑に処せられた。この後、ジェームズ2世は議会を休会し、審査法を無視してカトリックを官吏につけ、常備軍を配置し、2度にわたって「信仰自由宣言」を発するなど、カトリック復活を意図し、議会を無視した専制政治をおこなった。 このような専制に対する反発の中、ジェームズ2世に男子が生まれたことで次期国王もカトリックとなる恐れが強まると、それまで対立していたトーリー党、ホイッグ党両党は和解し、オラニエ公に武装援助をもとめた。これにこたえて、オラニエ公が1688年11月にイングランドに上陸すると、ジェームズ2世はフランスへ逃亡し、89年1月に開かれた仮議会は「王位は空位である」と宣言した。議会は「イギリス人の古来の権利と自由」をうたった権利章典を発し、オラニエ公と妻メアリーはこれを承認して、共同統治者ウィリアム3世、メアリー2世として即位、ここに名誉革命がなったのである。 名誉革命は王権を制限することに成功したが、それはあくまで支配者層内部の権力争いであり、むしろ大土地所有層による寡頭支配体制を温存させる結果となった。また、イングランドにおける無血革命は、ジェームズ2世の支持勢力が多かったスコットランド、アイルランドにおいては徹底的な武力弾圧による支配の確立という流血の側面をもっていた。 Microsoft(R) Encarta(R) 2009. (C) 1993-2008 Microsoft Corporation. All rights reserved. 権利宣言 権利宣言 けんりせんげん Declaration of Rights    (1) 1689年2月,名誉革命直後にイギリス国民協議会が起草し,オレンジ公ウィリアム (ウィリアム3世 ) とその妻メアリー (メアリー2世 ) に即位の条件として提出した文書。のちに議会はこれを権利章典として制定した。 (2) 人権宣言一般をいう場合もある。 Copyright 2001-2007 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved. 権利宣言 I プロローグ 権利宣言 けんりせんげん 憲法ないしはそれに準ずる国家の成文の基本法の中で、国民の享受すべき基本的権利をさだめた部分をいう。国民の権利は、その社会の構造とともに変遷してきたので、権利宣言の性格も、それにともなって変化してきた。 II イギリス 近代以前の身分制社会においても、広義において権利宣言とよびうるものが存在した。その代表的な例は13世紀のイギリスでつくられたマグナ・カルタである。これは王権を強化して貴族の権利を制限することをめざすジョン王に対して、有力貴族たちが都市の助力をえて1215年にみとめさせたものである。マグナ・カルタにおいてみとめられた国民の権利とは、近代的な意味での人権でなく、有力貴族の国王権力からの独立性を中心としたものであった。このように近代以前の権利宣言は、普遍的な原理にもとづいて人間ないし国民一般の権利を規定するのではなく、特定の身分に対して歴史的にあたえられた権利を確認するものであった。 近代的な権利宣言が生まれるのは、17世紀から18世紀の市民革命の過程においてである。17世紀のイギリスにおける国王と議会の対立は、ピューリタン革命および名誉革命をひきおこしたが、この過程の中で、2つの重要な宣言が生みだされた。 第1は1628年の権利請願である。チャールズ1世はたび重なる戦争に起因する財政の困窮から、議会の同意をへないで徴税をこころみた。また、こうした政策に反対する人々を、正規の手続きをへずに投獄した。権利請願はこれらの措置に抗議し、議会の課税同意権、および法律の定めによらない逮捕・処罰の禁止などの原則を宣言したものである。この宣言が立法ではなく請願のかたちをとったのは、こうした立法に対する国王の反対を予想したためであるが、この採択は議会側の勝利とうけとめられた。 第2は、1689年の権利章典である。ジェームズ2世は議会を無視し、また反対者を弾圧する強圧的な統治をおこない名誉革命をひきおこしたが、権利章典は、ジェームズの逃亡後、オレンジ公ウィリアム(ウィリアム3世)と妃のメアリー2世を新たに王位にむかえるに際して議会のおこなった宣言が、のちに法律の形式をあたえられたものである。権利章典は国王の継承の順位を規定し、カトリック教徒をそれから排除するとともに、議会の課税同意権、議会の選挙の公正、議会における自由な討論の保障、適正な裁判による人権保障、宗教裁判所の禁止などの原則を確認している。 権利請願および権利章典は、イギリス国民の古来の権利の確認という形式をとり、したがって普遍的原理にもとづく、人間一般の権利としての近代的な権利宣言とは体裁がことなるが、その実質的な内容は近代市民社会と議会制民主政治の基礎をきずくものであった。 III アメリカ 厳密な意味で近代的な権利宣言は、アメリカ独立革命において生まれることになる。1776年に大陸会議において決議されたアメリカ独立宣言は、自然法にもとづく自明の真理として、国民の諸権利を規定する。すべての人は平等につくられ、うばわれることのない権利を神によってあたえられている。その中には生命・自由・幸福追求の権利がふくまれる。政府はこれらの権利の保障のためにつくられたものであり、政府の権力は国民の同意に由来する。政府がこの目的に反して国民の権利を侵害するときには、国民はこれに抵抗して、新たな政府を樹立することができるとされる。これと同じ時期に各州で採択された権利宣言にも、同様な原理が表明されている。 1787年に採択されたアメリカ合衆国憲法には、当初は人権を保障する規定はふくまれていなかった。これは、連邦政府がそもそもかぎられた事柄のみを管轄するという理由によっていた。しかし、91年に憲法の修正条項として権利宣言がつけくわえられた。修正条項の第1から第10までがこれにあたる。これらが規定するのは、信教・言論・出版・集会の自由、武装の権利の保障、不当な捜査や逮捕の禁止、適正手続き(デュー・プロセス・オブ・ロー:→ 法の適正な手続)の保障、陪審の保障、財産権の保障などである。 IV フランス 権利宣言の歴史のうえで、アメリカとならんできわめて重要なのは、1789年のフランスの人権宣言である。「人および市民の権利の宣言」という正式名称をもつこの宣言は、フランス革命の中で議会において採択されたもので、のちに91年の新憲法の一部となった。この人権宣言には、アメリカ独立宣言やアメリカ諸州の権利宣言の影響のほか、ルソーおよび当時の啓蒙思想家たちの思想の影響が指摘されている。この人権宣言には、アメリカの権利宣言におけるのと同様に、普遍的な原理として、うばわれることのない人間の諸権利が規定された。人間の平等が宣言され自由、所有権、安全、圧制への抵抗権が自然権として規定された。また主権在民、法によらない逮捕や処罰の禁止、言論・出版の自由、租税負担の平等などがさだめられた。 これらの権利宣言はきわめて大きな影響力をもち、その後制定される人権宣言のモデルとなった。またその理念は19世紀以降、ヨーロッパ諸国の政治制度の中で実現されていった。 → 世界人権宣言 Microsoft(R) Encarta(R) 2009. (C) 1993-2008 Microsoft Corporation. All rights reserved. 権利章典 権利章典 けんりしょうてん Bill of Rights    1689年 12月,議会が制定した「臣民の権利および自由を宣言し,王位継承を定める法律」。新王ウィリアム3世とその妻メアリー2世が即位の条件として承認した権利宣言を議会が立法化したもので,内容的には権利宣言を継承している。前王ジェームズ2世の悪政に対する聖俗貴族,庶民の古来の自由と権利を詳細に確認し,国王に対する議会の優位を確定し,プロテスタントの権利と正統性を定めた。全 13ヵ条。イギリスの最も重要な憲法文書の一つ。一般には,憲法典の基本的人権保障条項をさす場合もある。 Copyright 2001-2007 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved. 権利章典 けんりしょうてん [イギリスの権利章典]  Bill of Rights。 成文憲法をもたないイギリスにおいて,〈マグナ・カルタ〉(1215),〈権利請願〉(1628)とならんでイギリスの国制を規定した最も重要な議会制定法。1689年に制定。正式には〈臣民の権利および自由を宣言し,王位継承を定める法律〉という。1688年12月,国王ジェームズ2世が国外に逃亡したあとをうけて,翌年1月召集された仮議会は,王国の状況を説明するための決議を行い,さらにオラニエ公ウィレム(ウィリアム3世)に改革要求を提出することにし,〈古来の自由と権利を擁護し,主張するため〉の宣言を行った。これが〈権利宣言Declaration of Rights〉であり,オラニエ公ウィレムと妃のメアリーはこれに署名して共同統治者として即位し,ここに名誉革命が成就した。この〈権利宣言〉にもとづき,同年12月に制定されたのが〈権利章典〉である。  その内容は,先王ジェームズ2世の不法行為を列挙し,法律の執行停止と適用免除,宗教裁判所の設置,議会の同意なき課税,平時における常備軍の維持などを違法として退け,国民の請願権,自衛のための武器携行権,議会選挙の自由,議会内における言論の自由,裁判における人権の保障,議会をしばしば召集すること,などを規定している。また王位継承に関しては,その順位を定め,とくにカトリック教徒ならびにそれを配偶者とするものを排除することをうたっている。このイギリスの〈権利章典〉の特徴は,その第6条において〈前の(権利)宣言のなかで主張され,要求されている権利および自由は,そのおのおのが全部,この王国の人民の真の,古来から伝えられた,疑う余地のない権利および自由である〉と明言されて,その要求の根拠をイギリス人の〈古来の権利〉,すなわち歴史的な権利に求めていることにある。  この〈権利章典〉がのちのアメリカ合衆国の独立やフランス革命に大きな影響を及ぼしたことは事実であるが,人間の生得権(自然権)に要求の根拠をおいたアメリカ植民地の独立宣言ならびにその各邦の〈権利章典〉,またフランス革命期における各種の〈権利章典〉とは,この点で著しい対照をみせている。しかしこの〈権利章典〉は,17世紀初め以来ほぼ1世紀にわたってくりひろげられた,主権をめぐっての国王と議会の対立に終止符をうち,名誉革命の善後処置に法的な効力を与え,議会制定法の支配する立憲君主制の基礎を固めた点で,高い評価が与えられる。なお,〈権利章典〉の内容をいっそう強化するために,〈軍罰法〉(1689),〈三年議会法〉(1694)が制定され,また〈権利章典〉に規定された王位継承が守られえない事態に対処して,1701年新たに〈王位継承法〉が制定され,ドイツのハノーファー家への王位継承を定めるとともに,〈権利章典〉の規定の補充が行われ,とくに裁判官の身分保障が規定された。                          今井 宏 [アメリカの権利章典]  アメリカの憲法典には,基本的人権を保障する規定が必ず置かれている。州によっては,憲法典を,統治機構に関する Frame of Government または Form ofGovernment と,人権に関する Bill of Rights または Declaration of Rights の,二つのそれぞれ独立の文書とし,条文番号もそれぞれ別に付している例もある。  合衆国憲法では,その制定の歴史的事情から,〈権利章典〉にあたる部分は,1791年に成立した第1修正から第10修正までに置かれている。そのうち,具体的権利の保障は,第8修正までにみられる。すなわち,第1修正は,信教,言論,出版および集会の自由を保障する。第2修正は,人民の武装権,第3修正は,軍隊の強制的舎営の制限について規定する。第4修正は,不合理な捜索と逮捕を禁止し,第5修正は,大陪審の保障,二重の危険 double jeopardy の禁止,法の適正な過程due process of law の保障および財産権の保障,第6修正は,刑事事件における陪審審理の保障をはじめ被疑者・被告人の権利の保障,第7修正は,民事事件における陪審審理の保障を定め,第8修正は,残酷で異常な刑罰の禁止等について規定している。  合衆国憲法第1~第10修正の定めは,連邦議会の法律にのみ適用があるという趣旨で作られたものであり,州の憲法および法律を制約するものではなかった。しかし,今日では,これらの規定の内容の大部分は,1868年に成立した合衆国憲法第14修正中の〈州は,何人からも,デュー・プロセス・オブ・ロー(法の適正な過程)によらずに,その生命,自由または財産を奪ってはならない〉との規定を通して,州の憲法および法律にも適用されるものと解釈されている。したがって,例えば刑事被告人の人権の保障について,州憲法の方が連邦憲法よりも手厚い保障をしていればその州では州憲法の定めによるが,合衆国憲法の規定(および合衆国最高裁判所の判例によって示されたその解釈)に示されたところに達していないときには,連邦の基準が適用されることになる。  なお,法の前の平等の保障は,合衆国憲法では第14修正にのみ〈州は,その権限内にある者から法の平等の保護を奪ってはならない〉との明文があるが,連邦の立法との関係では,第5修正のデュー・プロセス・オブ・ローの保障には,解釈上,法の前の平等の保障も含まれるとされている。デュー・プロセス条項が,人権保障の一般的規定として弾力的解釈がなされていることを示す一例である。⇒基本的人権           田中 英夫 (c) 1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved. 権利章典 I プロローグ 権利章典 けんりしょうてん Bill of Rights 権利章典は歴史上2つあり、ひとつはイギリスの名誉革命のあとをうけて、1689年にその法的根拠を明確にするために制定された法律、もうひとつは1791年アメリカ合衆国の憲法で人民の権利を規定したものである。 II イギリスの権利章典 名誉革命直後のイギリスで1689年にだされた議会制定法。オランダのオレンジ公ウィリアムをイングランド国王に即位させる際に議会が提示した権利宣言を立法化したもので、正式名称は「臣民の権利および自由を宣言し、王位継承をさだめる法律」という。イギリス臣民が古来から有する権利、自由をうたったものとされ、成文法をもたないイギリスで、1215年のマグナ・カルタ、1628年の権利請願とならんで国政を規定する重要な法律。 内容は名誉革命に法的根拠をあたえたもので、議会の同意なしに法律の適用免除、執行停止権を行使すること、議会の同意なき課税、平時の常備軍維持などを違法とし、議会選挙の自由、議会内の発言の自由、国民の請願権などが保障されている。さらに、議会をしばしば召集することが規定され、王位継承者からカトリック教徒が排除された。最後の2つについては、前者が1694年に三年議会法で、後者が1701年の王位継承法で強化された。この制定法により、長きにわたった国王と議会の主権をめぐる対立は決着をみた。 III アメリカの権利章典 アメリカ合衆国憲法の中で、人民の権利について規定するもの。独立当初各州で制定された州憲法では、人民の基本的権利や人民が統治者であることが明記されていたが、1787年のフィラデルフィア会議で発表された合衆国憲法には権利章典に相当する条項がなかった。このため数州で憲法批准が難航したため、憲法支持者は発効後修正手続きにより権利章典をつけくわえることを約し、91年権利章典は修正第1~10条として憲法にくわえられた。 → 権利宣言 Microsoft(R) Encarta(R) 2009. (C) 1993-2008 Microsoft Corporation. All rights reserved. ***

蜜蝋に澎湃する延長(その3) [宗教/哲学]

可能態・西洋哲学
可能態

かのうたい
dynamics; potentiality

  

アリストテレスの使用した概念で,現実態 energeia; actualityと対をなす。彼は事物の生成をこの対概念によって説明し,事物は可能的存在から現実的存在へと発展すると考えた。たとえば木の種子は木の可能的存在にすぎないが,やがて木の種子は現実化して木となる。彼のこの概念は,同じく彼の質料と形相という対概念と対応するものである。





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[ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 2008]


西洋哲学
せいようてつがく

〈哲学〉の原語である〈フィロソフィア philosophia〉という言葉は,古代ギリシアの古典時代につくられたものであり,それがラテン語を経て近代ヨーロッパ諸語にほぼそのままの形で受けつがれてきているのであって,他の文化圏にはそれに当たる言葉は見あたらない。したがって,厳密に言うなら〈哲学〉とは〈西洋〉と呼ばれる文化圏の,しかも特定の歴史的時代に固有の特殊な〈知〉の在り方である。〈インド哲学〉〈中国哲学〉といった呼び名は,おのれの文化のカテゴリーでもって他の文化をも裁断しうると考えるヨーロッパ人の中華思想の表れであるか,あるいはきわめて粗雑な類比にもとづく命名でしかない。してみれば〈哲学〉は,どの文化圏にも見られる一般的な世界観・人生観・道徳思想・宗教思想などとはやはり区別されねばならないものであろう。むろん西洋にもそうした世界観・人生観はあり,それが哲学のうちに混入したり,哲学知の実質的内容をなすことはあったにしても,それと哲学とのあいだには一線が画されるべきなのである。そして,近代ヨーロッパの科学知や科学技術がこの哲学から派生したものだとすれば,〈哲学〉と呼ばれるこの特殊な知は西洋の文化形成,少なくとも近代ヨーロッパの文化形成と本質的に結びつくもの,あるいはむしろその形成原理を提供するものであったと考えてよいことになろう。現代の巨大化した技術文明を生み出した近代ヨーロッパの文化形成を総体として批判しようとする現代ヨーロッパの哲学者たちが,しばしばおのれの思想的営為を逆説的に〈反哲学(アンチ・フィロゾフィ)〉〈非哲学(ノン・フィロゾフィ)〉などと呼ぶのも,彼らが〈哲学〉を近代文化形成の原理と考えているからにちがいない。ここでは,西洋のこの哲学知の基本的概念装置を検討し,この知の本質的性格と,それを原理に形成された西洋文化の特質を洗い出してみたい。
【自然(フュシス)と形而上学(メタフュシカ)】
 ギリシアの古典時代にソクラテスやプラトン,アリストテレスらの思想のなかで生まれ形をととのえたこの〈哲学〉と呼ばれる知は,当時のギリシア人の一般的なものの考え方に対していかなる関係にあったのか。それを昇華し純化するものであったのか,それともそれとはまったく異質のものであったのか。まずこれを確かめるために,両者の自然観を見てみよう。
 ソクラテス以前,つまりニーチェのいわゆる〈ギリシア悲劇時代〉の思想家のほとんどが《自然(フュシス)について》という同じ表題で本を書いたという伝承があるが,そこからも推測されるように,古い時代のギリシア人にとってもっとも基本的な思索の主題は〈自然(フュシス physis)〉であった。タレスにはじまりアナクサゴラスやデモクリトスにいたる,主としてイオニア文化圏で活躍した〈ソクラテス以前の思想家たち〉を,アリストテレスが〈フュシオロゴイ physiologoi〉ないし〈フュシコイphysikoi〉,つまり〈フュシスを論ずる人たち〉と呼んだのも,そのゆえである。しかし,彼らの思索の主題となっていた〈フュシス〉はいわゆる外的自然ではない。ギリシアも古典時代になると,フュシスは〈フュシス‐ノモス(人為的な定めごと)〉〈フュシス‐テクネ(技術)〉といった対概念の一方の項として,人為的な制度や技術による制作物と対置される存在者の特定領域,いわゆる物質的自然を意味するようになる。
 しかしもっと古い時代には〈フュシス〉は〈タ・パンタ ta panta(万物)〉という言葉とほとんど同義に使われ,神々や人間やポリス(都市国家)や人為的なもののいっさいを包摂する〈存在者の全体〉を意味すると同時に,そうしたすべての存在者の〈真の在り方〉をも意味していた(物ごとの真の在り方というフュシスのこの古義は,たとえば英語のnature にも,物ごとの〈本性〉という意味で残響している)。ソクラテス以前の思想家たちは,“フュシスについて”思索しつつ,ありとしあらゆるものをあらしめているその〈真の在り方〉,すべての存在者を存在者たらしめている〈存在〉とは何かを問おうとしていたのである。しかも,古典時代になってからもこの〈フュシス〉という言葉が,〈生える〉〈生長する〉〈なる〉という意味の動詞〈フュエスタイphyesthai〉に由来すると信じられていたということからもうかがえるように,一般に古代のギリシア人は,フュシスつまりすべての存在者はそれぞれがおのれのうちに生成消滅の原理(生命のようなもの)をそなえ,それにしたがって生成してき消滅してゆくものだと考えていた。してみれば,“フュシスについて”問うとき,彼らはこの生成消滅の在り方を問いもとめていたということになろう。その思索の根底にあるのはいわば洗練されたアニミズムであるが,こうした考え方は,すべてのものが〈葦牙(あしかび)のように萌(も)え騰(あが)る〉と考えていた古代日本人の自然観などを思い合わせれば,けっして特異なものではない。
 だが,やがて古典時代になるとこうした〈フュシス〉の概念が変質し,フュシスは先ほど挙げたような対概念の一方の項としてとらえられることになる。つまり,フュシスはもはや存在者の全体をではなく,その特定領域を意味するようになるのである。もっとも,〈フュシス‐ノモス〉の関係を最初に問題にしたソフィストたちのもとでは,この両者はけっして対等の資格で対置されていたわけではない。なんといっても真に存在しているのはフュシスなのであり,ノモス的なものも本来はそこに位置すべきものなのである。だが,彼らのもとでは人間や,したがってノモス的なものにはそうした真の存在から逸脱し仮象に堕してしまう可能性が認められ,ついにはそれは原理的に仮象の領域とみなされるようになる。しかし,たとえそうなっても〈フュシスとノモス〉の対立は真実在と仮象の対立であり,対等の対立関係にあるわけではない。ソフィストたちは,フュシスこそが真実在だという古い前提はそのまま受けいれながらも,いわばその真実在の方は棚あげにして,もっぱら仮象の領域であるノモスのうちに立てこもり,そこで真偽善悪いっさいの価値を相対化してみせようとしたのである。すべてが仮象にすぎないとすれば,そこで物ごとの真偽善悪を論じてみても,すべて相対的なものでしかあるまい。プロタゴラスの言うように,せいぜいのところ人間にとっての有効性が〈万物の尺度〉,物ごとの真偽善悪の尺度にされることになる。彼らの有名な詭弁術もこうした存在論からの必然的な帰結だったのである。その意味では,ソフィストたちは〈ソクラテス以前の思想家たち〉の頽落した末裔であったと言えよう。
 一方,同じ時期に,一見ソフィストたちと同じような問題設定をしながらも,〈フュシス‐ノモス〉というこの対立項のノモスに積極的な存在性格を認め,そうすることによってギリシア的思惟の根本前提を破棄しようと企てたのがプラトンである。その意味では,ニーチェが〈プラトンとともに,なにかまったく新しいことが始まる〉と言うのは正しい。そのためにプラトンは〈イデア〉という超自然的原理をその思考空間に導き入れる。このイデアは生成消滅するフュシスを超越して,永遠に同一でありつづける超自然的超時間的存在者である。そして,プラトンの考えでは,すべての存在者は〈形相(エイドス eidos)〉と〈質料=素材(ヒュレ hyl^)〉の結合体なのであるが,その存在者の〈何であるか〉を規定するのは,イデアを分有し,いわばその模像である形相である。したがって,存在者の〈何であるか(本質)〉はそれ自体では変化をまぬがれており,生成消滅するのはその質料的部分だということになる。つまりここでは,フュシスは超自然的原理によって形態や内的構造を与えられる,それ自体ではまったく無構造的(アリュトモス arhythmos)な素材,それ自身のうちにはいかなる形成力ももたない無機的素材とみなされ,その生成消滅も単なる偶然的な変化としか考えられていない。こうした素材はそれだけでは非存在(メ・オン m^ on)であり,一定の形相と結びついてはじめて存在者(オン on)たりうるのである。
 しかし,考えてみれば,このように相互に内的連関をもたない形相と質料との結合ということでその存在構造の解き明かされうる存在者は限られていよう。たしかに机とかベッドのような制作物に関してなら,制作者の心のうちにあるこれから作ろうとするものの姿,つまりまだいかなる素材によっても具象化されていない形相と,まだいかなる形も内的構造ももたずに仕事場に投げ出されてある材木や石塊つまり質料との結合によってその存在構造をとらえることができる。しかし,山にそびえている樫の木や牧場に遊ぶ羊のようないわゆる自然的存在者の場合には,想像のなかでさえそうした形相と質料を区別することはできない。してみれば,プラトンのイデア論は,まず制作物の存在構造をモデルにして基本的カテゴリーを確立し,それを多少無理にでも自然的存在者に押しつけようとする存在論だと考えてよさそうである。事実,プラトンはイデア論を説く際,まず机とかベッドとかいった制作物を例にして話をはじめている。こうしてみると,古代ギリシア人の基本的な存在理解が,植物のような自然的存在者の存在構造をモデルにしたものであったのに対して,プラトンは制作物をモデルにしたまったく異質の存在論を提唱したことになる。この存在論は同時代のギリシア人から見ても,〈異国的(エクトポテロスektopヾtelos)〉な感じのするものであったらしい。そしてこの存在論のもとで,かつては生成力を内蔵した存在者の全体を意味していたフュシスが,無機的な素材という存在者の特定領域におとしめられてしまったのである。
 〈メタフュシカ metaphysica〉(ギリシア語ではタ・メタ・タ・フュシカ ta meta ta physika)という言葉は,もともとは前1世紀ごろに,遺稿として残されていたアリストテレスの講義ノートが整理編集された際,〈第一哲学〉に関するノート群に,その配列の位置から,すなわち《自然学(フュシカ)》の〈あと(メタ)〉に配置されたことから付された名称である。それが古代末期にキリスト教の教義体系が組織されるときに下敷に使われた際,〈自然(フュシス)を超えた(メタ)ことがら,超自然的=形而上的なことがらを扱う学問〉という意味に読み替えられるようになったのである。もしニーチェのようにこの〈メタフュシカ=形而上学〉を〈超自然的=形而上的原理を設定し,それを拠りどころに現実の世界(自然)を理解しようとする特定の思考様式〉と解するなら,そうした形而上学的思考様式はプラトンにはじまると考えてよいであろう。後世《形而上学》と呼ばれるようになったアリストテレスの〈第一哲学〉に関する講義録は,プラトンのイデア論の批判的継承をはかったものであるから,この名称をプラトンの思考様式にまでさかのぼらせても,それほど時代錯誤を犯すことにはなるまい。
 ところで,この形而上学的思考様式のもとでは自然はそれ自体においては非存在であり,超自然的原理によって形を与えられてはじめて存在者となると考えられるのであるから,これは明らかに超自然的なものを目ざして自然から離脱せんとする考え方であり,その意味では,反自然的で不自然な思考様式だといってよい。こうした反自然的な思考様式である形而上学が,プラトン以降西洋哲学の基本的伝統となったのである。なるほど超自然的原理の呼び名はそのつど〈イデア〉〈純粋形相〉〈神〉〈理性〉〈精神〉とさまざまに呼び替えられるが,そうした超自然的原理を拠りどころに自然を理解しようとする思考様式そのものは,近代にいたるまで一貫して受けつがれるのである。そしてそこでは,自然も一貫していかなる形成力ももたない惰性的な質料(ヒュレ→マテリア)つまり物質としてとらえられる。〈西洋哲学は本質的に形而上学である〉と言われるが,それは西洋哲学がこうした自然観をともなった反自然的思考様式だという意味なのである。
 むろんプラトン主義的な形而上学的思考様式が一般に普及し,いわば西洋文化の形成原理となるには,千年二千年という単位の時間を必要とした。それはまず,プラトンの約1000年後の古代末期にローマ・カトリックの教義体系が整備されるとき,その下敷に使われ,キリスト教の信仰と結びつき,プラトン=アウグスティヌス主義として普及した。次いでさらに1000年後のルネサンスと宗教改革の時代に,一方ではギリシアの古典文化復興の流れのなかで,他方ではキリスト教界内部でのプラトン=アウグスティヌス主義復興の動きのなかで再び更新され,西洋の基本的思考様式を規定し近代ヨーロッパ文化形成の青写真となる。たとえば近代哲学の創建者と見られるデカルトにしても,まさしくプラトン=アウグスティヌス主義復興の運動(オラトリオ会)との結びつきのなかでその思想を形成し,超自然的な〈理性〉を原理とする形而上学的思考様式を確立したのである。⇒形而上学∥自然
【形相(エイドス)と質料(ヒュレ)】
 ギリシア語のエイドス eidos は〈見る〉という意味の動詞エイデナイ eidenai に由来し,イデアidea と同根,〈見られるもの〉〈形〉を意味し,ラテン語では forma と訳された。ヒュレ hyl^ はもともとは〈森〉を意味し,そこから〈材木〉〈材料〉〈素材〉〈質料〉という意味が生じた。ラテン語ではmateria と訳された(materia に由来する英語のmatter,material が〈物質〉〈物質的〉と訳されるのは,〈単なる質料でしかない無機的な物〉という意味においてである)。このエイドス=形相とヒュレ=質料という対概念がプラトン哲学のもっとも基本的なカテゴリーであったということについてはアリストテレスの証言がある(《形而上学》第1巻第6章)。そして,これらの概念が制作物の存在構造をモデルにしてはじめて生じえたものであり,自然的事物には適用しにくいものであることは,すでに述べたとおりである。この対概念がその後〈形式 forma と質料 materia〉〈形式 Form と内容Inhalt〉と呼び替えられて,形而上学的思考様式の基本的カテゴリーとして働いたことは,カントが《純粋理性批判》の〈反省概念の多義性〉の章で指摘しているとおりである。中世の普遍論争において特に論議の対象となった〈普遍‐個物〉ないし〈一般‐特殊〉という対概念も以上のような経緯と深くからみ合いながら形成されたものと考えてよい。
【本質存在(エッセンティア)と事実存在(エクシステンティア)】
 このように形而上学的思考様式のもとで個々の事物が形相と質料の結合体としてとらえられることによって,もともと単純であるはずの〈存在〉概念,〈ある〉という概念が二義的に分裂することになる。つまり,〈ある〉ということが,形相によって規定される〈何であるか〉という意味での〈である(ト・ティ・エスティン to ti estin)〉と,質料によって規定される〈現実にあるかどうか〉という意味での〈がある(ト・ホティ・エスティン to hoti estin)〉との二義に分裂し,このト・ティ・エスティンがラテン語ではクイディタス quidditas あるいはエッセンティア essentia(本質存在,〈……である〉)と訳され,ト・ホティ・エスティンがエクシステンティアexistentia(事実存在,〈……がある〉)と訳された(われわれの語感からすると〈本質存在〉という訳語は不自然に聞こえようが,エッセンティアが〈ある・存在する〉という意味の動詞 esse に由来する以上,やはり〈本質存在〉と訳さねばならないのである)。ところで,こうして二義的に分裂した存在概念にあって,超自然的原理に直接結びつく形相によって規定される〈本質存在〉がつねに優位を占めるということも,形而上学的思考様式の大きな特質である。〈ある〉〈存在する〉ということについてのこうした特異な考え方は,たとえば英語のbe 動詞にあって,〈……がある〉という意味の完全自動詞としての用法よりも〈……である〉という意味の不完全自動詞としての用法の方が優越しているという事実にも現れている(ドイツ語やフランス語では,〈……がある〉と言うとき,英語の beに当たる sein や 『tre は原則的には使われないくらいである)。おそらくわれわれ日本人にとっては,〈ある〉〈存在する〉ということは,もっと単純な事態であり,われわれは〈存在〉という言葉を聞くとき,〈である〉をも含意した〈がある〉を思い浮かべるのが普通であろう(たとえば現代ドイツの哲学者ハイデッガーなどが,wesen という動詞で言い当てようとしているのもこうした意味での〈ある〉である)。すべての存在者を〈フュシス〉と見ていた古い時代のギリシア人にとっても事情は同様であり,そこでは〈ある〉〈存在する〉ということはもっと単純な事態であったにちがいない。自然的事物に関しては,形相と質料の区別と同様にその〈である=本質存在〉と〈がある=事実存在〉とを区別して考えることは困難だからである。
 現代の哲学者,たとえばサルトルが〈事実存在〉に対して〈本質存在〉を優先させてきた西洋哲学の伝統に逆らい――話を人間の存在に限ってのことではあるが――〈本質存在〉に〈事実存在〉つまり〈実存〉を優先させ,そうすることによって人間の根源的自由を主張する実存主義を提唱したことはすでに知られていよう(《実存主義とは何か》)。
 同じような企てはすでに19世紀初頭のシェリングの後期思想にも見られる。シェリングもまたおのれのこの企てを〈実存哲学Existenzialphilosophie〉と呼んでいたが,こうした企ての背後には,西洋哲学の根幹をなす形而上学的思考様式を克服せんとする意図がひそんでいたのである。だが一方,サルトルのそうした企てに対して,ハイデッガーは,そのように〈本質存在〉と〈事実存在〉の関係を逆転させても仕方がないのであり,必要なのはむしろ存在に原初の単純性を回復してやることだという批判をくわえている(《ヒューマニズム書簡》)。この方が事態の本質をいっそう深く洞察していると言えよう。
【現実態(エネルゲイア)と可能態(デュナミス)】
 もっとも,プラトンによって導入された形而上学的思考様式は,まったく無抵抗に受けいれられたわけではない。こうした伝統に逆らって,〈自然〉を生きたものとして見ようとする思想は西洋哲学の底層部につねに伏在しており,折あるごとに顔をのぞかせる。自然主義 naturalism とか唯物論materialism という形をとる哲学思想のうちには,その提唱者も意識しないままに,単なる素材(マテリア)におとしめられた自然を復権しようとする思想動機のひそんでいることが少なくない。形而上学的思考様式に対するそうした抵抗は,まずプラトンの弟子のアリストテレスのもとで現れる。アテナイのプラトンのもとで学んだとはいうものの,もともとイオニア文化圏に属するスタゲイロスで育ったアリストテレスにとっては,自然的存在者を軽視し,制作物の存在構造だけをモデルにして組織されたプラトンの存在論は,とうていそのまま受けいれうるものではなかった。彼の思想的営為は,イオニア風のいわば〈フュシス的存在理解〉と,プラトンのいわば〈ポイエシス(制作)的存在論〉とをいかに調停するかに向けられた。そのためには,一方は超自然的原理に由来し,他方は自然に由来し,相互にまったく内的連関をもたない形相と質料との結合によって存在者の存在構造を解き明かそうとする説明方式が修正されねばならない。そこでアリストテレスは,質料をまったく無機的,無構造的なものとしてではなく,ある形相を実現する可能性をもつものと考える。たとえば同じ材木にも,柱となるのに向いたもの,机板となるのに向いたものと,それぞれに違った素質があるように,すべての質料は一定の形相を実現する可能性をもち,いわば可能態(デュナミス dynamis)にあると見るのである。そして,その可能性の実現された状態が現実態(エネルゲイア energeia)である。こう考えれば,たとえば樫の木の種子は樫の巨木の可能態であり,成長した巨木はその現実態と考えられるであろうし,同様に仕事場にある材木は机の可能態であり,完成した机はその現実態と考えられ,自然的存在者も制作物も共通のカテゴリーによって統一的にその存在構造をとらえることができる。両者の違いは,自然的存在者にあっては可能態から現実態へ向かうその運動の原理が〈自然(フュシス)〉としてその運動体(樫の木)そのものに内蔵されているのに対して,制作物にあってはそれが職人の〈技術(テクネ)〉として運動体(机)の外にあるという点だけである。しかも,この〈可能態‐現実態〉の関係は相対的・可動的であり,たとえば〈森の中の樹→仕事場の材木→机→読書〉といった系列のなかで,それぞれ前者が後者の可能態,後者が前者の現実態であり,可能態から現実態への移行は〈運動(キネシスkin^sis)〉と考えられるのである。したがってプラトンのイデア論にあっては無意味な変化しか認められなかったこの現実の世界が,アリストテレスのもとでは不断の合目的的な運動のうちにあると見られることになる。
 このように,プラトンが〈形相‐質料〉という静態的カテゴリーでとらえていた世界を〈可能態‐現実態〉という動的カテゴリーでとらえなおすことによって,アリストテレスはプラトンのイデア論を修正し,それをギリシアの伝統的なフュシス的存在理解と調停しようとしたのである。しかし彼もすべての存在者の合目的的運動の終局(テロス telos)にあってその運動を導く最高目的として,もはやおのれのうちにいかなる可能性をも残さず,すべての可能性が現実化された〈完全現実態(エンテレケイア entelecheia=テロスに達した状態)〉である〈純粋形相〉つまり超自然的な〈神〉を想定し,それによって世界の存在を基礎づけようとする以上,最終的にはやはりプラトンの形而上学的思考様式を継承していると見られよう。ところで現実態を意味する〈エネルゲイア=エルゴン ergon(作品・成果・能力の発現)に達した状態〉は中世のスコラ哲学のもとで actualitas とラテン訳され,さらにこれが近代のドイツ哲学では Wirklichkeit と訳されることになる。いずれの場合にも,現実的存在者は何ものか(たとえば神)の actus,Wirken(働き・活動)によってその状態にもたらされたものと考えられ,なんらかの超自然的原理の介入が想定されることになるわけである。これももともとアリストテレスの〈エネルゲイア〉の概念の根底に形而上学的思考様式が存していたことからの必然的帰結と見られる。
【実体と属性】
 西洋哲学の基本的概念群の一つに〈実体‐属性〉という対概念があるが,これもまたアリストテレス哲学に源を発する。もっとも,通常〈実体〉と訳されているアリストテレスの用語〈ウシアousia〉は,それが〈ある〉〈存在する〉という意味の動詞〈エイナイ einai〉の女性分詞形〈ウサousa〉に由来し,日常語としては〈現に眼前にある不動産・資産〉を意味するということからも知られるように,広く〈存在〉を意味する言葉であり(《形而上学》第7巻第3章),これが substantia(下に立つもの=実体)というラテン語に訳されたのは,事物の第一の存在(ウシア)が〈ヒュポケイメノン hypokeimenヾn(下に横たわるもの=基体)〉としての存在にあると考えられたからである(《形而上学》同上)。したがって,〈実体‐属性〉の関係は,アリストテレスにあっては〈ヒュポケイメノン‐シュンベベコス symbeb^kos(共に居合わせているもの=付帯的属性)〉の関係として考えられている。
 その際注意さるべきことは,この〈ヒュポケイメノン〉がすべての〈シュンベベコス〉の担い手である〈基体〉を意味すると同時に,すべてがそれについて述定されるがそれ自身は他の何ものの述語にもならない命題の〈主語〉をも意味していることである。ということは,ここでは事物の存在構造が〈……は……である〉という述定的命題の構造をモデルにしてとらえられているということである。もっとも,アリストテレスは,この〈ヒュポケイメノン(基体=主語)〉たりうるものは〈このこれ(トデ・ティtode ti)〉と指さしうる眼前にある個物と考えている。しかしここでも,そうした無規定的な個物の〈がある(ト・ホティ・エスティン)〉という存在が,〈である(ト・ティ・エスティン)〉という存在によって補われてはじめてまったき存在者になると考えられているわけであり,そこには二つの〈ある〉の不安定な損藤がうかがわれる。この〈ヒュポケイメノン〉がラテン語では subjectum(下に投げ出されてあるもの)と訳され,〈シュンベベコス〉が accidens(偶有性)と訳されて,〈基体‐属性〉というこのとらえ方は中世のスコラ哲学や,さらには近代哲学にもそのまま受けつがれてゆくのである。
【主観‐客観と主体‐客体】
 〈ヒュポケイメノン〉のラテン訳である subjectumという言葉は,スコラ哲学や近代初期の哲学においては,それ自体で存在し,もろもろの作用・性質・状態を担う〈基体〉という意味で使われていた。ホッブズやライプニッツは魂を subjectum と呼んでいるが,それも感覚を担う基体という意味においてであり,そこには〈主観〉という意味合いはない。一方 objectum という言葉も,字義どおりには〈向こうに投げられてあるもの〉という意味であり,中世や近代初期には,外部にある事物が心なり意識なりに投影され,いわば表象されてある状態を意味していた。たとえばデカルトがrealitas objectiva と呼ぶのは,観念として表象されてある事象内容のことであり,当時はむしろobjectum の方に〈主観的なもの〉という意味合いがあったのである。
 ところが,カントのもとでこの subjectum とobjectum の意味が逆転する。そこには次のような事情があった。周知のように,すでにデカルトのもとで〈われ思う〉,もっと正確に言えば肉体から切り離された純粋な精神としての〈思いつつあるわれ〉が〈絶対不動の基礎〉として据えられ,それによっていっさいの存在者の存在が基礎づけられることになった。つまり,この純粋な精神としての〈われ〉によって〈明晰判明〉に認識されうるものだけが,そしてその認識されえた範囲内でのみ,真に存在するとみなされたのである。こうして,事実上この〈われ〉がいっさいの存在者の存在を支える卓越した subjectum(基体)となり,この〈われ〉がいわば形而上学的原理の役割を果たすことになった。しかも,この〈基体〉は基体としてのその役割を〈認識〉の働きによって果たす。そこからsubjectum という言葉に認識の〈主観〉という意味が生じ,それに対応して,objectum の方に,この〈主観〉によって認識され,その認識された範囲内で存在を保証されるもの,つまり認識の〈客観〉という意味が生じる態勢がととのった。デカルトのもとで事実上成立していたこの〈主観‐客観〉関係を明確に概念化してみせたのがカントなのである。この認識主観はカントによって〈超越論的主観性〉と呼ばれることになるが,それはこの主観がいっさいの存在者の存在,つまり〈世界〉の存在を基礎づける形而上学的(超自然的)原理であり,それゆえそれ自身は世界(自然)を超越しているからである。
 ところで,カントにあっては主観の定立作用は〈直観〉にもとづく認識に限られていたから〈主観‐客観〉という訳語も適切であったが,カント以後のドイツ観念論の展開のなかで,その定立作用は行為的実践や労働にまで広げられることになり,もはや静観的な〈主観〉という訳語ではその働きをおおいきれなくなって,〈主体‐客体〉という訳語がつくられねばならなかった。しかし,〈主観‐客観〉〈主体‐客体〉いずれにしても,その対項は対等の資格で対峙し合っているわけではない。客観・客体は主観・主体によって定立されてはじめてその存在を得るのであり,主観・主体は客観的世界に対して,その存在を支える形而上学的原理の役割を果たしているのである。伝統的な西洋哲学の克服をはかる現代の哲学者がまずこの〈主観‐客観〉関係を批判の対象にしたのは,それが形而上学的思考様式の近代的更新であったからにほかならない。
【哲学と反哲学】
 このように伝統的な西洋哲学を支えてきた基本的概念群は例外なく,プラトンにはじまる形而上学的思考様式の枠組みのなかで形成されてきたものである。この形而上学のもとで自然を単なる無機的物質と見る自然観が可能となり,その上に立ってはじめて機械論的自然観(機械論)も成立したのである。言うまでもなく,この機械論的自然観なくしては近代の科学知や科学技術も成立しえなかったであろう。形而上学が近代ヨーロッパ文化や,さらには世界的規模にまで拡大した現代技術文明の形成原理を提供したと言ったのは,このような意味においてなのである。しかし,その技術文明が自然を徹底的に破壊し,そのために皮肉にも文明そのものの存立まで危うくなりかけていること,これまた言うまでもあるまい。
 すでに19世紀に,西洋文明のそうした先行きを見通し,その形成原理となった近代理性主義や,さらにはそれを支える形而上学的思考様式そのものの克服をはかった少数の具眼の哲学者たちがいた。後期シェリングやマルクスやニーチェがそうである。彼らは,それぞれに異なった視角からではあるが,一様に反自然的な形而上学の乗り超えをはかり,自然との自然な関係の回復を,つまりは〈生ける自然〉の復権を企てた。彼らのこの企ては,ハイデッガーやメルロー・ポンティといった20世紀の哲学者に引き継がれている。彼らの考えからすると,形而上学つまり西洋の伝統的な〈哲学知〉とは,自然との多様な関係のうち〈知的関係〉だけを優越させ,その優越性を〈知〉によって根拠づけんとする企て,つまりは〈知による知の根拠づけ〉という,それ自体無根拠な自己還帰的企てにほかならない。彼らはこうした〈哲学知〉の無根拠性をあばき,知の根本的転換を図るのであるが,この思想的営為が,前にふれたように彼ら自身によって〈反哲学〉ないし〈非哲学〉と呼ばれているのである。しかし,この反哲学は当分のあいだ相手の武器で,つまり伝統的な哲学的概念を武器にして戦わねばならないという不利な条件をかかえている。だが,この戦いの帰趨にわれわれの文明の命運がかかっているといっても過言ではない。⇒哲学                 木田 元

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蜜蝋に澎湃する延長(その2) [宗教/哲学]

運動
運動

うんどう
motion

  

物体の位置が時間とともに変化すること。物体の運動を表わすには,物体の各点の位置を時間の関数として与えればよい。物体の任意の運動は,その各点が代表点と平行に動く並進運動と,その代表点のまわりの回転運動との合成運動とみなせる。運動はもともと基準体に対する相対運動だけに意味があり,特定の基準体に対する絶対運動は考えられない。古典力学によれば,ある時刻における物体の各点の位置と速度がわかれば,ニュートンの運動方程式によって,その後の物体の運動の様子が完全に定まる。

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運動
うんどう motion

運動という概念を最も広くとるとき,それは,この世界におけるいっさいの〈変化〉を指すと考えられる。そしてこのような世界の〈変化〉一般を論ずるという意味でなら,中国,インドその他の古代文化圏にも,運動論はあった。むしろ,形而上学のみならず,魔術や呪術的世界観さえ,運動を論ずるものであったと見ることができる。
【運動観の歩み】
 古代中国の形而上学体系として知られる《易経》は,もともと〈易〉の文字がトカゲ,あるいはヤモリをかたどった文字であるともされることからも明らかなように,(体色の)〈変化〉の象徴であり,結局は〈変化の学問〉を意味したし,それはのちに陰陽,五行,太極などの概念と結びついて,万物の起源たる唯一者〈太極〉からさまざまな物質や現象が生み出されて,世界となるための〈変化〉の原理を説明する,独特の運動論を構成したといってよい。ヘブライ思想とギリシア思想の混血から生まれたカバラもまた,同様に根元をなす一なる基本原理から,多くの形而上学的しかけを用いて,自然界のあらゆる事物が生み出される過程,すなわち〈変化〉について統一的な説明を与えようとする知識体系といえる。ヘルメス思想,インドのアートマン理論など,こうした〈変化〉=〈運動〉の学は数多い。
 しかし,今日われわれが運動という概念でとらえる概念形成に,最も直接的にかかわっているのは,古代ギリシアの形而上学体系であろう。もちろん,ギリシアにあっても,運動は,必ずしも,物理的な意味,つまり物体の位置運動としてのみとらえられたわけではない。アリストテレスは,一般に運動を,可能的なものから現実的なものへの〈変化〉として措定している。そこには,量的変化(増減,膨縮など),質的変化(物質の色の変化など),生成消滅(実体上の変化)が,位置運動のほかに,運動として数えあげられていた。位置運動に関しては,自然運動と強制運動が区別される。前者は,その運動体の本性に従って起こるものであり,完全さをその本性とする天体の世界にあっては,位置運動としてただ一つ許された等速円運動がそれであった。また,不完全さを宿命とする月下界にあっては,その世界を構成する土,水,空気,火がもつ本性(前3者は〈中心に向かう〉傾向,後1者は〈中心から離れる〉傾向)に従った垂直落下(もしくは垂直上昇)が自然運動である。強制運動は,他から直接運動力を与えられ,むりやりに動かされて生ずる運動であって,月下界の運動のほとんどすべてがこれに属する(天上界には強制運動はない)。こうして天体の位置運動は,多くの等速円運動を組み合わせて記述する,落下運動は宇宙の中心たる地球(の中心)に向かって起こる,などというギリシア的な宇宙論の基本了解が生まれる。
 もとより,強制運動と自然運動の区別も,ギリシアの自然観のなかで,とくに生命体を照準したときには微妙にゆれ動く。生物がみずからの身体を動かす〈力〉は,そのもののもつ〈アニマ〉に由来するが,そうしたアニマを自然物のどこまで広げるかによっては,自然運動における〈本性〉の概念が影響されるからである。例えばアニミズムの傾向の強いプラトン主義あるいは新プラトン主義では,天体の〈本性〉は,むしろそのアニマによる〈意志〉に接近し,ほとんど同義になる。こうして古代ギリシア・ローマ世界の運動観は,さまざまな考え方の可能性を重ね合わせた状態にあったということができよう。
 近代科学の成立とともに,運動の問題は,もっぱら物理学とりわけ力学的側面に集約されていくが,それは,このようなギリシア的な運動観のなかから,強制運動,つまり運動力と運動の関係のみに視点を据えた論点に,するどく照明を当て,他の運動観をそれぞれ別個の場所へと分類した上で捨て去った結果であった。その意味で,運動に関する統一的視点は,近代の深まりとともに失われていく。さてギリシア的な強制運動の理論と,近代力学のそれとの根本的な差は,運動力が運動体に何を与えるか,という問題である。前者はそれを運動そのもの(つまり〈速さ〉)と考え,後者はそれを運動の変化(つまり〈加速度〉)と考えているからである。近代力学の成立はニュートンの運動法則の成立に重なるといってよいが,アリストテレスからニュートンまでの2000年の時間のなかで,古代世界,ビザンティン,イスラム,中世ヨーロッパを経て熟成した運動概念についてのさまざまな研究の歴史の延長上に,ニュートンの運動法則が存在する。しかし,運動の問題についてニュートン力学があまりにもみごとに一つの解決を与えたがために,もはや今日,運動を広く変化一般として論ずることは不可能になった。したがって,ここでは,いくつかの側面から,運動を別個に扱うほかはないことになる。     村上 陽一郎


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物質
物質

ぶっしつ
matter

  

「素材」を意味するギリシア語の hyl,ラテン語の materiaに由来する概念。イオニア哲学では地,水,火,風などの万象の根源的元素を意味し,アリストテレスでは形相と相関するところの「規定を受ける原理」とされ,質料と訳されるが,そこから魂,精神に相対するものという概念が生じた。デカルトは物質を延長を属性とする実体とし,思惟を属性とする精神と対立するものとみなす物心二元論を唱えた。唯物論の系譜では,客観的実在性と自律的運動性が物質に付与され,物質は存在一般の統一的本性とみなされた。現代物理学では,原子,エネルギーなどの間の相互転換が証明された結果,原子に根源的素材性,恒存的実体性を付与できないため,物質はエネルギーと区別された静止質量をもつ物理的対象をさすとされている。





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物質
ぶっしつ

英語の matter の訳語として成立した言葉で,いわゆる〈もの〉のこと。matter はラテン語のmateria が語源であり,この語は本来は〈木の幹〉,つまり文字どおり〈素材〉(家を造る材木)を意味していたが,転じて,さまざまなものの材料一般を指すようになった。ギリシアでの〈質料 hyl^〉に相当し,mother も派生語の一つ。したがってもともと哲学的な議論を背景にして成立した概念といえる。現在では,一般に,空間のなかにある広がりを占め,人間の感覚によってその存在を確認することができるような何ものかは,すべて物質として理解される。この一応の定義は,デカルトによるところが大きいが,これに従えば,物質は第1に精神と対立する。なぜなら,精神は空間のなかに広がりをもたず,したがってまた,人間の感覚によってその存在を確認されることはなく,しかもデカルト的なコギト(われ思う)によって,その存在が明証的となるからである。第2には物質は空間と対立する。なぜなら,空間は,物質を容れる器のごとく,物質の存在を可能にするのに必須なものではあり,しかもそれ自体としては,人間の感覚によって覚知されるものとはならないからである。
 こうした近代主義的立場に立って眺めてみると,古代においてこうした物質観に最も近いのはデモクリトスの原子論である。デモクリトスの原子論では,原子は感覚的性質をもたずに,容器としての空間のなかにあって,ひたすら運動をしていると考えられている。アリストテレスでは,真空が否定されたところから容器としての空間概念が存在せず,物質は,基体に熱/冷,湿/乾という四つの性質のうちから対立2項を除く二つの性質を加えることによって,土,水,空気,火の四つの原質が生まれ,その四つの原質の配合が万物を構成する,という物質観のなかで理解されていた。そして一面では質料 hyl^ と形相 eidos とによって物質を説明する形をとった。
 スコラ学的文脈では,物質は,第1次的性質である色,味,においなど(近代哲学における第1性質,第2性質の区別と逆になることに留意されたい)によって感覚を通じて知られる,という意味でアリストテレス以来の経験主義的解釈の伝統にあったが,ルネサンス期の新プラトン主義の流入とともに,物質の概念は活性化された。パラケルススやブルーノ,カルダーノらは,物質のもつ基本的な特性の一つに運動を挙げ,物質自体のなかに,それをいきいきと動かす原動力があることを示唆した。これは,アリストテレスにおける運動の二分法(自然運動と強制運動)に基づく自然運動(物質自体の本性上の運動として,土,水,空気は宇宙の中心へ向かい,火は宇宙の中心から離れる運動を規定した)とは違って,アニミズム的,物活論的であった。物活論とアニミズムとの区別は微妙だが,アニミズムが物質とアニマの二元論的発想をとりやすいのに対して,物活論は物質一元論に傾きやすい発想といえよう。
 こうしたルネサンスの新傾向は,コペルニクス,ケプラーはもちろん,ガリレイやニュートンにまで痕跡をとどめているが,一方デカルトを中心とする機械論哲学は,このような物活論的傾向に対する批判を出発点としていた。デカルトは,物質からはぎ取りうるすべてのものをはぎ取った。そして最後に,物質としての唯一決定的な成立要件として,〈延長〉に到達した。空間に広がりをもつ,という先のわれわれの定義の精密な形がここにある。こうしてデカルトは,物質自体に運動の原因を認めなかったから,彼にあっては物質の運動は,別に与えられなければならなかった。デカルトにとって,それゆえ,延長としての物質と,それに与えられた運動(およびその秩序)こそが,神による創造において神に直接由来すべきものとなった。その意味で,デカルトにとっては,物質と運動とは,神の手で最初に与えられて以来永遠に,神による終りが来るまで保存されるものとなる。
 デカルトは,人間以外に関しては,いわば物質一元論をとった。これは,物質のふるまい(運動)によって自然界のすべての現象が説明できるという考え方を生んだ。デカルト自身は,真空を認めなかったために,ちょうどその生涯の途中でガッサンディによって積極的に紹介,導入された古代原子論と,その新しい展開にはくみしなかったが,人間を除く世界でのデカルト的物質一元論は,原子論と絡み合いながら,機械論哲学を形成することになる。18世紀啓蒙主義者のすべてが,こうした機械論的唯物論であったわけではなく,むしろ,ラ・メトリーの場合にも,物活論的傾向が隠されている。しかしこの時期にニュートン力学が数学的に洗練された結果,物質と運動のうちの運動に関しては,間然題するところのない(と思われた)因果法則を得,また物質そのものについては,原子論が整備された結果,〈ラプラスの魔〉に象徴されるような,根元的な機械論的唯物論の誕生をみた。ここではほとんど純粋にデカルトのプログラム,つまり世界を物質と運動によって記述するということが(原理的には)実現されているといえよう。
 もちろん,物質を支配しているのは,力学的法則だけではない。少なくとも現象面でとらえれば,化学的なさまざまな法則がありうる。さらに生物の身体は確かに物質ではあるが,そこでも独自の法則が物質を支配していると考えられる。こうして19世紀には,個別諸科学が成立して,物質に関するさまざまな原理や法則をそれぞれのレベルで追究することになる。この意味で科学は物質に関する学問であるという言い方もできよう。一方機械論的かつ力学的な物質の支配に関しても,19世紀に入ると問題が生じた。運動にかかわる力は機械論的力学的力だけでないことが電磁現象への関心から明らかになり,そこから物質に対するもう一つの対立概念としての〈場〉の概念が生まれる。それまで,物質に力や影響を与えうるのは物質のみであると考えられてきたが,場の概念は,空間でありながら,しかも単なる容器として中立不干渉なのではなく,物質にある種の力や影響を与える,という発想に由来するものであった。とりわけ,物質の究極的安定性と保存性の事実上の根拠とされてきた分子,原子の構造がさらに微小化され,素粒子へと還元され,しかも今日素粒子は,古典的な物質粒子ではなく,むしろ場のある特定の状態と考えられるにいたって,物理学においては,物質のもつとされる明確な広がりや堅固な不可透入性は,ある意味で理論上すでに保持できなくなっているといえよう。
 さらに19世紀以降,科学が取り扱うべき対象としての物質は,エネルギー,および情報という新しい概念によっても支配されていることが徐々に明らかになっており,その面から考えても,物質一元論がそのままでは通りがたくなっていることを付け加えねばならない。哲学的にみて,19世紀後半マルクス主義的唯物論が成立して,物質一元論が形而上学的に新段階を迎えたことは認められるものの必ずしも万人に説得的とは言いがたいのは以上のような動向と無縁ではない。⇒物∥唯物論
                      村上 陽一郎

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物質
I プロローグ

物質 ぶっしつ Matter 形や大きさ、重さ(重量)など感覚によって知覚されるものを物体というが、その物体をつくっている実質のことを物質という。空間を占有し、重力と慣性をもっているあらゆるものをさしてつかわれる。

II 自然科学における物質

自然科学において、物質のしめす物理的性質(物性)は化学や物理学で研究されてきた。とくに、原子論(→ 原子)を提唱したイギリスの化学者で物理学者でもあったジョン・ドルトンや、分子の存在をみいだしたイタリアのアメデオ・アボガドロらの功績により、物質は分子や原子から構成されていることがみとめられている。さらに、現代では、素粒子が結合して原子になることもわかっている。そして、分子の性質および分布と配列が、あらゆる形態の物質の質量、硬さ(硬度)、粘性、流動性(→ 流体)、色、味、電気抵抗、熱伝導度などの性質をきめるものとなっている。→ 反物質

古典物理学において、物質とエネルギーは、物理現象における別の概念であると考えられていた。しかし現代物理学では、物質をエネルギーに、エネルギーを物質に転換することが可能であることが解明され、2つの概念に区別する必要がなくなった(→ 相対性理論)。それでも運動や液体・気体のふるまい、熱などの現象をあつかうときは、従来どおり物質とエネルギーを別の実在と考えるほうが簡単で便利なので、使い分けされている。

III 哲学における物質

哲学では、物質とは現実世界の素材、材料とみなされ、人間の意識とは独立して存在し、認識できるものとされている。しかし、18世紀のアイルランドの哲学者ジョージ・バークリーのような観念論の哲学者は、物質が精神と独立して存在することをみとめなかった。だが、最近の哲学では、物質の科学的な見方をうけいれている。→西洋哲学の「プラトン」:カント, I.

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形相と質料
形相

けいそう
eidos

  

一般に「質料」との対概念として用いられる。プラトンでは,ある一つの種を他から決定的に区別する述語形態,すなわち一般者を意味する。この一般者が結局定義を拒否し「ものそれ自体」に帰一するところから,個々の感覚的存在をこえた自己同一的な真実在としてのイデアと同一視されることもある。アリストテレスでは,質料と相関的に用いられ,可能態としての質料を限定する本質 (ウシア) ,種差,模範を意味する。たとえば材木が家の質料であるとすると,家についての観念は家の形相である。中世哲学においては形相は本質的なものと偶有的なものに分れたが,近世以降は概して素材,内容の対概念として用いられている。





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質料

しつりょう
hyl; materia

  

一般に物質であるが,質料と訳されるときには形相の対概念として特別な意味をもつ。質料形相論の確立者はアリストテレスであるが,手仕事を土台に考えており,質料と形相はそれぞれ素材と形に対応する。すでにプラトンは相対的非存在で形がない物体の母としての質料を考えていたが,アリストテレスはこれを可能的な存在で無規定的なもの,形相による規定を受入れる原理とした。質料も形相も相対的概念であり,木は材木の質料だが材木も家の質料となる。すべてのものはより高次なものの質料である。これらをすべて第2質料と呼び,その根底にいかなる形成も受けていない純粋な質料を想定して第1質料と呼ぶ。質料は偶然的,非論理的なものの原理でもあり,アビセンナはこれを個体化の原理とした。これを受けて,論理的に検討を加えたトマスは,指定質料 materia signataをこの原理とした。





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形相と質料
I プロローグ

形相と質料 けいそうとしつりょう Eidos and Hyle 古代ギリシャの哲学者アリストテレスの用語。形相eidos(エイドス)とは、もとの言葉の意味では目でみることのできる形のことであり、質料hyle(ヒュレ)の原義は材料のことである。

II 「椅子」と木材

一般に、物が「何からできているか」にこたえるのが質料、その物が「なんであるか」にこたえるのが形相と考えてよい。たとえば木の椅子(いす)については、その質料は木材で、形相が「椅子」である。石の椅子の場合は、質料は石だが、形相は同じく「椅子」である。材料はことなるが形が同じだからである。また、質料が同じでも形相がことなる場合もある。たとえば同じく石でできていても、椅子と石像と墓では形相がことなる。

このように形相と質料の結びつきは多種多様で偶然的であるが、アリストテレスによると、存在するすべての物にはかならず形相と質料がそなわっていなければならない。この考えには、プラトンのイデア説に対する批判がふくまれている。

III プラトンのイデア説

プラトンは、われわれが感覚する個々の事物には永遠不滅の原型(イデア)が存在すると考えた。たとえば50個の馬のクッキーの形がみな同じなのは同じ1つの型でぬいてつくられているからであるが、ちょうどそれと同じように、すべての自然の馬も「馬」という1つのイデアにあわせてつくられている。したがって、個物の種類があるだけイデアの種類もあり、それらのイデアが感覚世界のかなたにあつまってイデア界を形成しているとプラトンは考えた。

こうしてプラトンは、われわれがみたり聞いたりする自然の世界のかなたに、超自然的なイデアの世界、形而上学的な世界を想定した。

IV イデア界の否定

けれどもアリストテレスによれば、このイデア説は、本来切りはなすことができない形相と質料を切りはなして考えた結果でてきたものである。つまり形相が質料とむすびつかなくても存在できるとするところに、プラトンの間違いがある。

アリストテレスによれば、椅子の形相とはあくまでも個々の椅子の中にあって、その椅子を椅子たらしめているものである。つまり個物としてのこの椅子は、椅子であるという本性を(イデア界にではなく)自分自身の中にもっているのである。

こうしてアリストテレスは、プラトンのイデア説の趣旨を生かしながら、同時に、現実の世界の外にあるイデア界のようなものを否定しようとした。

けれどもここにやっかいな問題がでてくる。たとえばこの椅子ができあがるまでの間、「椅子」という形相はどこにあったのか。さしあたりは大工の頭の中にあったのだが、彼がはじめてそんなアイデアを考えついたわけではない。すると大工が考える前は「椅子」はどこにあったのか。純粋な姿でイデア界にあったといったのでは、またプラトンに逆戻りする。

V 可能態と現実態

そこでアリストテレスは、形相が質料の中にあらかじめ可能性というかたちで存在していたと考えた。つまりアリストテレスは運動変化を説明するために、形相と質料という対概念にくわえて、可能態(デュナミス)と現実態(エネルゲイア)または完成態(エンテレケイア)という対概念を導入した。

こうした発想方法のモデルは、生命体の成長だった。たとえばカシ(樫)の種子は、まだカシの木ではないがやがてカシの木になるのだから、カシの木の可能態だとみなすことができる。つまり生命体は自分がこれからなるであろう形相の可能性を自分(質料)の中にすでに宿していると考えられる。芽がでてそだってカシの大木になったとき、この種子は現実にカシの木になった、つまりカシの木の現実態になったといえるのである。

これと同じ発想でアリストテレスは、いわゆる物理的運動や人為的制作をも説明しようとした。椅子をつくる場合でも、材木という質料はやがて外からなんらかの力をうけとって、現実の椅子を実現する可能性をすでにもっていると彼は考える。椅子という形相は、もともと(完成態にいたる以前は)質料としての材木の中に可能性としてあった。材木は自分自身のうちに素質としてあるこの形相を目的にして(むろん大工の手をかりて)成長変化するのだとアリストテレスは考えた。

この場合、材木は椅子の可能態である(もちろん材木は船や机にも変身できるので、船や机の可能態でもある)。そして大工によってつくられた現実の椅子が、この材木の現実態だということになる。このように考えれば、個物の世界のほかに純粋な形相からなるイデア界を想定しなくてもよくなるのである。

VI 目的論的世界観

こうしてアリストテレスの形相と質料という対概念は、イデア説の不自然さを克服することに成功したのだが、そのかわりに、あらゆるものを目的論的に考える世界観を準備することになった。アリストテレスの目的論的な世界観は中世を通じて支配的であったが、やがて近代科学の機械論的な世界観と対立することになる。

→ 西洋哲学

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質料形相論
質料形相論

しつりょうけいそうろん
hylmorphismus

  

アリストテレスの自然学の中心的学説で,自然的物体は2つの本質的原理,すなわち可能的・受動的・無規定的原理としての質料 hylと,現実的・能動的・規定的原理としての形相 morphによって構成されていると説く (『自然学』『形而上学』) 。彼は,それが自身他者から生じることなく,ほかのすべての物質の構成要素となるものとしてエンペドクレスの4元素をあげる一方,物質が要素的なものであれ構成的なものであれ,物質が生成し,あるいは実体的変化をとげるために必要な原理として,質料と形相の2原理を要請したのである。アリストテレスの質料形相論は,ギリシアやアラビアのアリストテレスの注釈家やスコラ哲学者によって継承され,特にトマス・アクィナスは彼の『自然学』『形而上学』の注釈や『存在と本質について』 De ente et essentiaで質料形相論への最良の理解を示している。質料,形相という形而上学的原理を主張するこの学説に対立するものとしては,原子論,機械論,力本説などがあり,これらはいずれも形而上学的原理による物体の構成という考えを否定する。





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エンペドクレス
エンペドクレス

エンペドクレス
Empedokls

[生] 前490頃.アクラガス
[没] 前430. ペロポネソス

  

ギリシアの哲学者,自然学者,医者,詩人,予言者。奇跡を行う人として名声を得ていた。彼はパルメニデスに対し多元論の立場をとり,万物の「根 (リゾマタ) 」として不変の存在,地水火風の4根をあげ,これらに相反する力,愛と憎が作用して結合,分離が生じるとした。まず最初に愛が全体としての完全な球を支配するが,次いで憎が入ってきて分離活動が始って四根が完全に分離し,次に再び愛が復帰して憎が退去するという過程が世界の変転であるとする。ともに詩の形式をとった大著『自然について』 Peri physes,『浄め』 Katharmoiがあるが,現在は断片を残すのみである。





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エンペドクレス 前493ころ‐前433ころ
Empedokl^s

古代ギリシアの哲学者。シチリア島のアクラガス生れ。ディオゲネス・ラエルティオスの記載した彼の伝記は華やかであり,死者をよみがえらせたとか,神としてあがめられるため火山エトナの火口に身を投げて死んだとかいう話までが伝えられている。ニーチェはこの伝記をもとにしてエンペドクレスを〈医師と魔術師,詩人と雄弁家,神と人,学者と芸術家,政治家と僧侶〉のいずれともきめかねる中間的,活動的人間としている。彼には二つの著作《自然について》と《浄め》があった。ともに詩の形式で書かれ,両者をあわせると5000行になると伝えられているが,ほとんど散逸して現在は断片を残すのみである。彼の哲学を解釈するにあたって,もっとも大きな問題はこの二つの著作の関係である。《自然について》は地水火風の四元素(四大)と,愛と憎という二つの力とを中心にして展開する宇宙論である。愛は四元素を結合する力,憎は分離する力であるが,この二つの力の勢力の消長交代によって宇宙は四つの時期に区分されながら永遠に回帰する。第1期は愛のみが支配し四元素は完全に融合して一つの巨大な球を形成する。第2期は憎が作用しはじめ球が解体するが,同時に愛の力も働いているので,四元素のさまざまな合成が実現し,各種の生物も発生し,宇宙が具体的な形を示す時期。第3期は憎のみが支配して四元素は完全に分裂し,四元素からなる四つの集団に分かれる。第4期は愛がふたたび力を振るい,四元素がさまざまに結合して第2期と同じ様相を示す。そして宇宙はもとの球の姿にもどる。これに対して《浄め》はダイモンと呼ばれる不死なる魂が愛のみの支配する天上の国から地上に転落し,輪廻転生の苦をなめながら,ふたたび天上に帰り行く救済を歌う宗教的詩である。学者たちは二つの詩を科学と宗教との対立と見てきたが,その見方には問題が残る。
                        斎藤 忍随

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現実態・西洋哲学
現実態

げんじつたい
energeia; actus

  

「現実態」とはアリストテレスにおいて,類比関係の共観によってのみ悟られうる「可能態」の対概念である。始源的意味をとどめて用いられる場合もあって多義的であるが,この原語は,限りのある行為としての運動から区別される完全な行為としての実現活動を意味する場合と,可能的存在に対応する実体ないしは形相の意味での現実態とに大別されうる。この対概念はアリストテレス後期の哲学を特徴づける中心的概念である。





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エネルゲイア
energeia[ギリシア]

〈現実性〉〈現実態〉〈現勢態〉〈現実活動〉などと訳される。〈デュナミス dynamis〉(〈可能態〉〈潜勢態〉。ただし一般的な意味としては〈力〉〈能力〉)と対比して,可能性が実現していることを表す用語としてアリストテレスがはじめて用いた。その語義は〈エルゴン ergon〉(仕事,活動,またはその成果,作品)から派生したもので,現に活動しているという動的な現実も,完成されてあるという静的な現実も示す。〈エンテレケイア entelecheia〉(完成態,完全現実態)とも事実上同義で多く互換的に用いられる。彼は技術による製作も自然界の生育も,ともに可能態=質料(素材)から目的としての現実態=形相への移行としてとらえる。またその移行である〈動〉(運動,変化)そのものは,〈動かされうるものの動かされうるという資格での現実態〉と定義され,最終的な完成にいたっていないという意味で〈不完全な現実態〉とも呼ばれる。魂は身体の〈第1の現実態〉として規定され,魂の能力の行使が第2の現実態にあたる。また人間の幸福も,単なる状態(ヘクシス)と区別された現実活動(優れた能力の行使)とされる。一般に可能から現実への移行には,すでに現実態にある別の存在が必要とされ,天体の運動をも含めたすべての動の究極的根拠となる〈不動の動者〉としての神のあり方も純粋な現実活動として述べられる。このように〈エネルゲイア〉概念はアリストテレス哲学の多くの重要な場面で大きな役割をになわされていた。また現代語〈エネルギー〉の語源でもある。
                        藤沢 令夫

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西洋哲学
I プロローグ

西洋哲学 せいようてつがく 英語のPhilosophyの語源は、ギリシャ語のphilosophia「知への愛」。人間はある程度の年齢になると、自分の生きている世界がどのような原理からなりたっているのか、また、世界の中で自分がどのような位置を占めているのかを知りたくなる。世界の始まりとはなにかとか、人間のはたすべき務めとはなにかといった原理的な問いにこたえてくれたのは、未開社会では神話や宗教であった。

しかし、起源も不明なこうした宗教や神話の教えにかわって、合理的で批判的な考え方が古代ギリシャでめばえはじめた。したがって、西洋での「知への愛」というのは、論理的で合理的な原理にしたがってものごとを考え、究極的な原理に関する「知」をおいもとめる姿勢をさす。

II 「哲学」とはなにか

合理的に考えるという態度は、哲学にかぎらずほとんどあらゆる知識の領域に共通することだろう。したがって古代ギリシャでは、「哲学」は「学問」とほぼ同じことを意味したし、この用法は18世紀までつづく。

しかし現代では、「哲学」という言葉は、その原理的に問うという姿勢のために、各学問領域のもっとも基本的な問いを考察するという意味でつかわれることが多く、たとえば「法哲学」とか「社会哲学」あるいは「科学哲学」といった言い方が生まれることになった。

また、同じ理由で、われわれが人生をおくるうえでの根本的な姿勢や価値観をしめすときにもこの言葉がつかわれ、「人生観」とか「世界観」といった意味をもつこともある。

しかし、こうした原理的な問いや考察を不可能とみなす哲学もあるし、そもそも合理的あるいは論理的に考えるということの意味を問題にする哲学もあるので、「哲学」という言葉を一義的に定義するのは不可能に近い。

以下の叙述では西洋の哲学の発端から現代までをあつかうことにし、それ以外の地域の哲学については以下の項目を参照されたい。→ イスラム教:ヒンドゥー教:仏教:中国哲学:道教:儒教

III ギリシャ哲学

西洋哲学の発端は古代ギリシャである。オリンポスの神話と宗教の説明では満足できなくなった人たちが、前6世紀ごろから世界の根源的原理(アルケー)とはなにかと問いはじめた。

彼らは「自然について」という表題で著作をのこしたとつたえられているが、彼らが問題にした「自然(ピュシス)」というのは、今日のわれわれが考えるような「人為」や「社会」と対立する自然とはちがって、「存在するものすべての本性」を意味していたから、彼らこそまさしく「根本的に考える」ということをはじめて実践したといえよう。→ ノモスとピュシス

1 イオニア学派
1A タレス

歴史的な記録がのこっている最初の哲学者はタレスである。彼は小アジアのイオニア地方のミレトスで前580年ごろに活躍した。後代の人たちからギリシャの七賢人のひとりとしてあがめられ、天文や気象をはじめとするほとんどすべての自然現象に興味をしめした。そしてすべての自然現象は唯一の基本的な物質の変化だと考え、この基本的物質は水だと主張した。水の蒸発と凝縮によってすべてを説明できると思ったわけである。

1B アナクシマンドロス

しかし、タレスの弟子のアナクシマンドロスは、万物を生みだす根源的な原理があるとすれば、それは一切の限定をもたないはずだと考えた。そこで彼は、万物の根源的原理を「無限定なもの」とよんだ。この原理がたえず運動することによって温かさ、冷たさ、土、空気、火といった物質的なものが生じ、これらが目にみえる世界のさまざまな事物を生みだすわけである。

1C アナクシメネス

イオニア学派の最後の哲学者はアナクシメネスである。彼はアナクシマンドロスからはなれて、タレスの立場にもどったといってよい。ただし、万物の根源的原理を水ではなくて空気だと考えた。空気の希薄化と凝縮によって万物の生成を説明しようとしたのである。たとえば、空気が希薄化すると火になり、凝縮すると水や土になる。

このようにイオニア学派の人たちは、水にしろ、「無限定なもの」にしろ、空気にしろ、なにか基本的な単一なもの、あるいは物質的なものを想定し、それによって世界のすべてを説明しようとした。これは神々の行為や意志によって個々の自然現象を説明しようとしたオリンポス神話の考え、たとえば、雷はゼウスの怒りだといった考えとは明らかにちがっており、ここに哲学の合理的思考の始まりがある。

2 ピタゴラス学派

前530年ごろにピタゴラスは、南イタリアのクロトンに哲学の学校をつくった。このピタゴラス学派にも、イオニア学派にみられた自然学への関心がないわけではないが、しかし、宗教的あるいは神秘的な性格のほうがはるかに強い。

この学派によれば、われわれが生きている間、魂は肉体にとじこめられており、この肉体から魂を解放することがわれわれの務めである。この解放は肉体が死んだときに可能になるが、しかし、死後の魂はふたたび肉体にとじこめられ、生まれかわることもある。おまけに、生前にどれほど徳をつんだかによって、より高い生命体に生まれかわるか、より低い生命体に生まれかわるかがきまる。したがって、われわれ人間の務めは、知的修練、禁欲あるいはその他の儀式によって魂をきよめ、究極的には輪廻転生の輪から脱出することである。

ピタゴラス学派は、音楽の和音が数的比例をもつことを発見し、宇宙もまた数の原理によって「天界の音楽」をかなでていると考えた。そして、宇宙の秩序と調和するときに魂はきよめられることになっていたから、「音楽による癒し」が推奨された。万物の原理は数であるという考え方は、ここに由来する。

3 ヘラクレイトス

エフェソスのヘラクレイトスは、イオニア学派の伝統をうけついで万物の根源的原理をおいもとめ、それは火だと考えた。しかし、彼が火ということで考えていたのは、タレスの水やアナクシメネスの空気のような物質的なものではない。むしろ、「万物はながれる」という彼の基本的な考え方を象徴するものとして、火があげられたものと思われる。

すべてはたえず変化し、とどまるものなどひとつもない。「同じ川に2度はいることはできない」。なにかが静止しとどまると考えるのは幻想にすぎず、たえまのない変化あるいは変化の法則だけがほんとうに存在する。この法則を彼はロゴスとよんだ。このロゴスは自然のおきてとも考えられ、さらには神の定めとも同一視されたので、のちのストア学派の汎神論に影響をあたえることになった。

4 エレア学派

前5世紀にパルメニデスは、南イタリアのギリシャ植民都市エレアに哲学の学校をつくった。彼はヘラクレイトスの「万物流転」の教えに反対して、「あるものはあり、あらぬものはあらぬ」といった。存在するものが存在しなくなり、存在しないものが存在するようになるのが変化ということだから、彼は一切の変化を否定したことになる。変化があると思いこむのは、われわれが感覚にとらわれて事物のほんとうのあり方を知ろうとしないからである。

パルメニデスの弟子のエレアのゼノンは師の考えのただしさを証明するために、かりに変化だとか運動ということがあるとすれば、どのようなパラドックスが生じるかを指摘した。さきに出発した亀(かめ)にアキレスはおいつけないという彼の有名なパラドックスは、そもそも運動がありえないことを論理的に主張したものである。

5 多元論者

同じく前5世紀にエンペドクレスとアナクサゴラスの多元論があらわれた。彼らは、いかなる変化もないというエレア学派の主張を論理的にくつがえすこともできず、また、ヘラクレイトスがいうように、実際に変化があることも否定できなかった。そこで彼らは、変化しない複数の要素と、これらの要素を運動させる原理を想定することによって、変化を説明しようとした。

エンペドクレスが基本的な要素として想定したのは、空気・水・土・火である。これら4大要素は、2つの運動原理によって運動する。すなわち愛によって結合し、憎しみによって分離する。この結合と分離によって万物は混沌から秩序へ、秩序から混沌へと永遠の循環をくりかえす。

しかしアナクサゴラスは、現実の世界にみられるこれほど多様な事物が、どうしてたった4つの基本的要素から生じるのかが理解できなかった。そこで彼は、無限に多様な万物に対応する無限に多様な「万物の種子」というものがまず存在すると考えた。これらの種子の結合と分離によって万物が生じる。そして、その種子の中でもっとも優勢なものが、ひとつひとつの事物のあり方をきめる。たとえば、机の中にはそうした種子が無数にはいっているが、机の種子がもっとも優勢であるために、それは机になっているのである。こうした種子を結合させたり分離させたりする運動原理として彼が考えたのは、「理性(ヌース)」であった。

6 原子論者

こうした多元論の方向から原子論が生まれた。アナクサゴラスの「万物の種子」が質的に多様であったのに対して、原子論では、量的な差異しかもたない要素によってすべてが説明されることになった。

代表者は前5~前4世紀のレウキッポスとデモクリトスである。彼らはこれらの要素を、原子(アトモンatomon=分割できないもの)とよんだ。原子は大きさと形と重さという量的な点でのみ区別できる。太古に存在したこれらの原子は重さがちがうから、重い原子は軽い原子よりもはやく落下する。そこで原子どうしが衝突し、ここに巨大な運動がおこる。万物はこの運動から生じた。物質とは対立するものと思われていた生命とか魂あるいは思考といったものも、やはり原子の運動のひとつのあり方だと考えられた。

7 ソフィスト

前5世紀末ごろから、ソフィストとよばれる遍歴教師たちがギリシャ各地にあらわれた。この名称はもともと「知恵のある人」という意味しかもたないが、これら遍歴教師たちの活動のゆえに「詭弁(きべん)家」をも意味することになった。

7A 技術としての哲学

ギリシャの各ポリスが農業国家から商業国家に発展するにつれて、それまで国家の政治を支配してきた王族や貴族にかわって、貿易などの商業にたずさわる新興市民層が台頭した。彼らが政治的な勢力をえるためには、選挙や裁判がおこなわれる公的な集会で支持をあつめなければならなかった。そして、このために必要だったのは、演説の技術、法的な論証あるいは一般教養であった。ソフィストたちが開拓したのは、こうした知識を有料で提供する教育産業である。

この教育にあたって最優先されたのは、議論で勝利をおさめることである。したがって、勝つためには手段をえらばないという風潮が優勢になる。人間をはじめとする万物の本性(ピュシス)を論拠にする議論よりも、すべては人為や慣習(ノモス)によってきまると主張する相対主義の考えのほうが、おのずとこのまれることになった。本性にもとづいた絶対的な基準などないことになれば、いかなる議論もそれなりの説得力をもつことになり、したがって問題は、説得のしかたあるいはものの言い方といった修辞学になるからである。典型的なソフィストのプロタゴラスがいった「人間は万物の尺度である」は、こうした相対主義の考え方を代表する言葉である。

8 ソクラテス

西洋哲学史上もっとも有名な人は、おそらくソクラテスである。合理的で批判的な思考を対話というかたちで徹底的におこなったがゆえに、彼は前399年に死刑判決をうけ、毒杯をあおいで自らの命をたった。彼の生涯はソフィストとの闘いであった。すべては人為による相対的なものだというソフィストの主張に対して、彼は絶対的ななにかがあると反論した。

8A 無知の知

ソクラテスの哲学は無知の自覚からはじまったといわれる。彼は、世に「知者」といわれていたソフィストを相手に議論しはじめる。彼らとの論戦でソクラテスは、彼らがじつは無知であることを発見する。そこで彼は、無知であることを自覚していないソフィストたちよりも、無知であることを自覚している自分のほうにこそ知恵があると悟る。そののち彼は、ほんとうの知恵をもとめる探求にたずさわることになる。しかし、多くの嫉妬(しっと)と反感を買うことになった。「知者」と自負していた人たちが、彼にその無知をあばかれたからである(→ 無知の知)。

ソクラテスは1冊の書物ものこさなかった。今日われわれが彼の哲学を知ることができるのは、弟子のプラトンがソクラテスを主人公にした対話編を書きのこしてくれているからである。

9 プラトン

ソクラテスが死んだのちに、プラトンは師の生前の議論をモデルにした書物を書いた。そして、その対話編の中で師の思想を体系的に整理するとともに、彼独自の思想をきずきあげていった。西洋哲学の歴史はプラトンへの一連の脚注である、といった人がいるほどに、プラトン哲学は西洋的なものの考え方に大きな影響をあたえている。

9A イデア論

彼の哲学の基礎は、イデアideaあるいは形相の理論である。この考えを理解するためには、われわれがものを制作するというケースを手がかりにするといいだろう。→ 形相と質料

たとえば、机をつくる場合、われわれはどのようなことをするだろうか。まず、木材などの「材料」を用意する。そして、いろいろな道具をつかってその材料をくみたてようとする。しかし、その作業にあたって、材料をどのように切ったりつなげたりすればいいのかが、あらかじめわからなければ、材料を前にして途方にくれるだけだろう。われわれが机をつくるためには、机というのがどのような「形」をしているのかが、もっと一般的にいえば、そもそも机というものがいかなるものであるのかが知られていなければならない。机の形をはじめからまったく知らない人、つまり、机というものが「なんであるのか」をまったく知らない人が机をつくることなど不可能である。

したがって、もののあり方が「制作されていること」と考えられるかぎり、形のほうが材料よりも優位にたつことになる。

9B イデアと感覚の二元論

このような「形」のことをギリシャ語で「イデア」(形相、ラテン語でforma)といい、「材料」のことを「ヒュレ」(質料、ラテン語でmateria)といった。ここからイデアという言葉は、ものの「なんであるか」ということ、つまり、ものの「ほんとうのあり方」「本質」をさす言葉としてつかわれるようになる。プラトンの考えでは、まず「机のイデア」があって、それをモデルにして木材などの材料から現実の個々の机がつくられるわけである。したがって、机の「本質」(ラテン語でessentia)が「現実に存在する」(ラテン語でexistentia)机に先行することになる。

この机の例でわかるように、机をつくるにあたって、机のイデアはあらかじめ知られていなければならない。しかし、われわれはそれをどのようにして知るのだろうか。プラトンは「メノン」という著作で、こんな対話を書いている。主人公のソクラテスは、数学教育をまったくうけたことのない奴隷少年を相手に対話する。ソクラテスはなにもおしえないで、少年に質問するだけである。ところが、この少年はソクラテスの問いにみちびかれて、「ピタゴラスの定理」を証明してしまう。

プラトンによれば、魂はもともと天上の「イデアの世界」で幸福にくらしていたが、この「感覚の世界」に転落して肉体とむすびつくことになった。そして、その転落の途中で「忘却の川」をわたったために、魂は以前に知っていたイデアをわすれてしまう。しかし魂は、この現実の感覚的世界の事物を手がかりにしてあのイデアを思いおこすことができる。「メノン」でソクラテスがやってみせたのは、この「想起」ということである。

こうして、永遠不滅にして完全な超感覚的「イデアの世界」と、時間的に生成消滅し、不完全な「感覚の世界」という二元論が生まれた。

9C 国家論

プラトンの倫理学や国家論も、このイデア論を基礎にしている。人間の魂は欲望と意志と知性からなる。イデアを知ることのできる知性がほかの2つの部分を統御することによって、これら3つの部分に調和が生まれると、それが個人としての人間にとって理想的な状態になる。これと同様に国家においても、イデアを知っている哲学者が、意志を体現する軍人と欲望を体現する生産者階級を統御するときに、ただしい国家が実現する。つまりプラトンは、理想国家は哲学者にして国王である人物によって統治されるべきだと主張したわけだが、こうした考え方は、イデアという超越的な原理によって政治を考えようとした帰結なのである。→ 国家

10 アリストテレス
10A 現実態と可能態

アリストテレスの哲学は、師のプラトンへの批判から出発した。プラトンは制作物をモデルにして「もののあり方」を考え、イデア(形相)とヒュレ(質料)を分離してしまった。しかし、アリストテレスがモデルにしたのは生物である。たしかに、机のような制作物の場合なら、形相が質料に先だち、この形相を原型にして質料がくみたてられると考えても不思議ではない。しかし、生まれそだっていく動物や植物は、どうみても制作されるのではなく、おのずと生成するとしか思えない。

アリストテレスはこの生成を説明するために、プラトンの「形相と質料」の対概念を「現実態と可能態」の対概念にくみかえた。つまり、ものの「形相」は、まだ現実のものになってはいないにしても、そうなる可能性をひめたものとしてあらかじめ「質料」の中に存在する。この「可能態」としての「形相」は、おのれの本来のあり方を発揮しようとして生成する。この生成の結果が、ものの「現実態」である。

たとえば、ドングリの実が成長してカシの木になる場合で考えてみよう。ドングリには幹も葉もないから、明らかにカシではない。しかし、ドングリはカシの「質料」であって、ドングリの中にはカシという「形相」が「可能態」としてやどっている。だから、ドングリはその形相を実現しようとして生長する。そして、幹をのばし葉をひろげてカシの木になったときに、「形相」は「現実態」になる。

こうしてアリストテレスは、「もののあり方」を運動あるいは生成としてとらえ、それを「可能態」から「現実態」への移行と考えた。この基本的発想は、彼の哲学のいたるところでみられる。たとえば、「可能態」から「現実態」への移行というのは、ある目的(カシの木になる)へむかっての移行だから、ここから目的論が生まれる。

あるいは、ドングリにとってカシは現実態だが、机にとってカシは、机の材料になるという意味で可能態であるというように、可能態と現実態は相対的な概念であるから、より高い現実態へむかう自然の階層的構造という考えもでてくる。つまり、無機物からはじまって、栄養を摂取するだけの植物、運動することもできる動物、そして知性をもった人間へ、さらにはもっと高級な天界の存在者や神的なものへ、といった段階的秩序である。これが、のちのキリスト教に受け入れられることになったのはいうまでもない。

あるいはまた、こうした階層的発想は、アリストテレスの類と種の分類といった論理学にもはっきりと反映されている。

10B 現実主義

アリストテレスが形相を質料に内在させ、すべてを「可能態」から「現実態」への移行としてとらえたことは、プラトンの超越的な「イデアの世界」から現実のこの世界へ視線をうつしかえたことを意味する。彼の倫理学と政治学は、こうした現実主義をもっともよく反映している。個人の倫理においては、プラトンのように現実離れした理想にしたがうことを要求せずに、両極端の中間(たとえば、蛮勇と臆病の中間である勇気)を推奨したし、政治においても、当時知られていた現実の国家体制のいろいろなあり方を比較したうえで君主制を推奨しているが、しかし、伝統や環境といった各民族の特殊な条件にあった政治体制を否定したわけではない。

また、認識論においても、プラトンのように感覚の世界を超越したイデアの世界に知識の根拠をもとめず、知識は現実的経験からの一般化によってえられると考えた。さらに、アリストテレスによれば、芸術は道徳教育の道具ではなくて、感情浄化と知的啓発の手段である。彼のギリシャ悲劇の分析は、のちの文芸批評のモデルになった。

IV ヘレニズム・ローマ時代の哲学

前4世紀から後4世紀のキリスト教台頭の時代まで、西洋世界で哲学の主流学派になったのは、エピクロス主義、ストア学派、懐疑主義そして新プラトン主義であった。これらの学派の関心は自然学からはなれ、倫理や宗教にむけられた。

1 エピクロス主義

エピクロスは、自然学ではデモクリトスの原子論を採用したが、しかしいくつかの点で重要な変更をくわえている。もっとも重要な変更は、原子の運動には予測不可能な方向への逸脱があると考えたことである。この逸脱は自由意志の存在を自然学的に基礎づけることになった。そもそも自然学の意味は、実践的決断をくだしたり、神々の怒りや死の恐怖をやわらげるのに役だつということでしかない。彼は最大の快楽をえることを人生の目的と考えたが、しかし、この快楽とは心の平穏とか苦痛からの解放ということであって、倫理的色彩がひじょうに強かった。エピクロスの哲学を書きのこしてくれたルクレティウスの「万物の本性について」によって、エピクロス主義はローマ世界にひろく知られるようになった。

2 ストア学派

前300年ごろにキプロスのゼノンによって創設されたストア学派は、社会制度や物質的価値を否定したキュニコス学派から発展した。ストア学派はギリシャ・ローマ世界でもっとも影響力のある学派になり、エピクテトスや皇帝マルクス・アウレリウスのようなすぐれた人物を生みだした。

この学派によれば、心の平安をえるために、われわれは物質的満足や外的運命に無関心になり、理性にしたがった有徳の生活をおくらねばならない。そして人間の理性は、世界を支配する神的ロゴスの現れである。こうした考え方は、どの人間も神の一部であるという思想につながったので、人種、民族あるいは社会の壁をやぶることになり、ひいては、普遍的宗教を自任したキリスト教の普及に貢献することにもなった。また、人間の本性(自然)を法律や社会制度の基準にしたストア学派の自然法の教えは、ローマ法や西洋の法制度に大きな影響をあたえた。

3 懐疑主義

ピュロンを始祖とする懐疑主義もまた、心の平安を哲学の目的にした。ほんとうに存在するものを知ろうとする人々の意見はたがいにくいちがっているから、それらの意見のうちどれに賛成したらよいのかがわからなくなって、われわれの心は平安をうしなう。したがって、いかなる判断もくださないことが心の平安に到達するための唯一の手段になる。ピュロンは断崖にむかって歩いていっても方向をかえなかったので、弟子たちが彼をひきとめたという逸話は、こうした態度をよくつたえている。懐疑主義は独断的な判断をくだすあらゆる学派を攻撃した。この攻撃にあたって駆使されたのは、エレアのゼノン流の論理的反論の手法であった。

4 新プラトン主義

新プラトン主義は、3世紀にアンモニオス・サッカスとその弟子プロティノスによってつくられた。

プロティノスによれば、哲学の任務は、人々を堕落した自我から脱出させ、神との一体感を経験させることである。神はわれわれ人間の合理的な理解をこえた一者であり、存在するものすべての源である。一者から、知性(ロゴス)、世界霊魂、人間の魂など世界のすべてが流出する。一者から流出するものは、一者から遠ざかるほど不完全で悪いものになり、純粋な物質に近づく。われわれ人間の最高の目的は、哲学的・神秘的瞑想や禁欲によって、物質や肉体にとらわれた自我から脱出して、一者とふたたび合一することである。このような救済の考え方は、中世哲学に大きな影響をあたえることになった。

V 中世哲学
1 ギリシャ哲学とキリスト教

ギリシャ・ローマ文明が崩壊するにつれて、人々の関心は自然の探究や世俗的幸福の追求から、あの世での魂の救済にうつっていく。一般にヘレニズム時代とよばれる古代末期にローマ帝国内におこったキリスト教はこうした期待にこたえたので、ユダヤ一民族の宗教から普遍的な世界宗教へ発展することになった。しかし、ローマの知識階級はすでに古代ギリシャ哲学を自分たちの世界観としてうけいれていた。そこで、両者の関係をどのように考えるべきかが問題になった。こうした問題にとりくんだ初期キリスト教会の指導者たちは教父とよばれる。

この問題に対して、パウロがすでに明快な答えをだしていた。「十字架の言葉は、ほろんでいく者にはとって愚かなものですが、わたしたちすくわれる者には神の力です。…知恵のある人はどこにいる。…神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。…ギリシャ人は知恵をさがしますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストをのべつたえています。…神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです」(「コリントの信徒への手紙一」1章18~25節)。

この発言は、きわめて明確に哲学(ギリシャ人の知恵)を拒否している。ギリシャ的思考からすれば「愚かなもの」つまり「不合理」とうつるものこそが、ほんとうの知恵であり真の救いなのだというのである。このパウロの態度をうけついだテルトゥリアヌスは、「不合理なるがゆえに我信ず」という有名な言葉をのこしている。

ところがテルトゥリアヌスとほぼ同じ時代に、彼とはまったく逆の立場をとる人々があらわれた。護教家とよばれる彼らの態度を一言でいえば、「神学の婢(はしため)としての哲学」ということになる。つまり彼らは、キリスト教の教義体系確立のためにギリシャ哲学を利用しようとしたのである。アウグスティヌスはこうした立場の完成者である。

2 アウグスティヌスの方法

哲学と神学を和解させる試みにあたって、アウグスティヌスはプラトン哲学を利用した。これは彼の試みにきわめて有利にはたらいたといってよい。

たとえばアウグスティヌスは、「神のものは神に、カエサルのものはカエサルに」という聖書の教えにしたがって「神の国」と「地の国」を区別しているが、この区別はイデアの世界と感覚の世界を分離したプラトンの考え方のバリエーションとみることができる。また聖書は神が世界を創造したとおしえているが、プラトンもまた、デミウルゴスという神がイデアをモデルにして世界をつくったと考えた。

このようにプラトン?アウグスティヌス主義は、哲学と神学の融合ないし和解をかなり容易にはたすことができた。ところが、こうした事情を一変させたのが12世紀のアリストテレス再発見である。

3 スコラ学
3A アリストテレス発見

1085年、それまでイスラムに征服されていたスペインの町トレドがキリスト教勢力によってうばいかえされた。このトレド陥落は、中世哲学の展開において、きわめて重要な意味をもつ。トレドの図書館にはアリストテレスの著作が保存されていた。しかし、これらの著作のうちには、解釈によっては明らかにキリスト教の教義と衝突すると思われるものがふくまれていた。こうした著作の発見によって、神学と哲学の関係がいっきょに緊張することになった。

たとえば、アリストテレスの天体論によれば、月よりも下の世界は土・水・空気・火の4要素からなり、これらの要素がたがいに結合・分離をくりかえす。したがってこの世界は、生成・消滅する不完全な世界である。しかし、月より上の世界は完全な物質エーテルからなる完全な世界であり、そこにはもはや生成も消滅もない。その世界は、永遠に同じ運動をつづけていく永遠の世界なのである。

この世界の永遠性は明らかに、キリスト教の教義に矛盾する。キリスト教では、永遠なのはひとり神だけであって、世界はこの神によって無から創造されたかぎりで始まりをもち、始まりがあるからには終わりもあることになっているからである。

3B トマス・アクィナス

アリストテレスの哲学にはキリスト教の教義と矛盾しかねない部分が、ほかにもたくさんふくまれていた。そこで、中世初期に問題になった哲学と神学の関係をめぐって、13世紀に大論争がおこった。アリストテレスを異端ときめつけて、従来のプラトン=アウグスティヌス主義の伝統をまもろうとする人々もいれば、他方には反対に、アリストテレスを熱狂的に支持する人々もいた。

ところが第3に、一方的にどちらかに加担することなくアリストテレスとキリスト教を和解させようとこころみる人々があらわれた。その代表者がトマス・アクィナスである。彼はたくみなアリストテレス解釈によってキリスト教との矛盾を解消し、アリストテレス=トマス主義とよばれる立場を完成した。そしてスコラ学とよばれるこの立場は、従来のプラトン=アウグスティヌス主義にとってかわる正統教義になった。

この転換にはローマ教皇庁の政治的意図もはたらいていた。アリストテレスは、形相が個物に内在していて、個物の生成を内側からみちびくと考えていた。プラトンでは切りはなされていたイデアの世界と感覚の世界が連続的になったわけである。

このアリストテレスの哲学を下敷きにすると、神の国と地の国、ひいては教会と国家の関係は、前者が後者を指導するということになる。こうして、ローマ・カトリックという聖なる組織が、国家という世俗的な組織を支配するための理論的基盤があたえられることになった。ローマ教皇庁がアリストテレス=トマス主義を正統教義として公認したのは、こうした背景があったからである。

4 唯名論

教会権力と世俗権力のどちらが優位にたつのかという問いは、中世を通じてさまざまな形であらわれてきた大問題である。しかし13世紀以後、教会権力は正統教義となったアリストテレス=トマス主義を理論的な後ろ盾として肥大化し、教会の腐敗堕落をまねくことになった。

ところが14世紀になると、こうした世俗化への対抗運動がおこってくる。そしてその結果、プラトン=アウグスティヌス主義がまたも復興し、さらにはあのパウロの立場が復活することになる。こうした一連の動向において大きな役割をはたしたのが、唯名論であった。

4A オッカム

唯名論は、11世紀後半からはじまっていた普遍論争からでてきた。普遍が先か個物が先かというこの論争において、普遍(概念)がほんとうに存在する(実在する)のであって、個物はその影にすぎないと考える立場は実念論(→ 実在論)とよばれ、これに対して、個物こそがほんとうに存在し、普遍はたんなる名前にすぎないと考える立場が唯名論とよばれる。14世紀にこの唯名論の代表者になったのが、オッカムである。彼の唯名論の起源をたずねてみると、理性と信仰、哲学と神学の関係がふたたび問題になってくる。

トマスはキリスト教とアリストテレスを調停しようとしたが、しかしこの結合は、見方によっては、神学が哲学へ介入することを、あるいは逆に、哲学が神学を冒涜(ぼうとく)することを意味する。

たとえばボナベントゥラは、「アリストテレス(一般に哲学のこと)は自然学においては真理に到達した。しかし、イエスを知らなかったがゆえに、それ以上の真理には到達できなかった」という趣旨のことをのべている。ここには明らかに、理性的なものをこえる信仰という考えがある。啓示とか信仰といった超自然的なものを、理性という自然的なものの枠内でとらえようとするのがそもそも間違いだというわけである。

実は、オッカムもまたそう考えていた。彼はトマス的調停への反発から唯名論の立場にたったのである。

オッカムによれば、ギリシャ哲学、とくにプラトンのイデア論はキリスト教をよごす源である。たとえばプラトンにおいては、デミウルゴスという神がイデアをモデルにして世界を制作したことになっている。ところが、オッカムにいわせれば、この考えには根本的な難点がひそんでいる。

キリスト教の神は全能でありまったく自由であるから、世界創造にあたって神の行いを妨害するもの、あるいは少なくとも規制するものはないはずである。ところが、プラトンのように、神はイデアをモデルにして世界を制作すると考えるなら、その場合の神は、イデアをモデルにしてしか創造できないという意味で、イデアによって創造行為を規制されていることになる。したがって、神の全能もしくは自由をまもろうとすれば、イデアすなわち普遍が実在することを否定しなくてはならない。では、普遍とはなにか。それは、われわれの知性のうちなる普遍、すなわち、われわれの知性の産物にすぎない。

5 自然研究進展の時代へ

このようにオッカムの唯名論は、神の自由をまもろうとする神学的な動機からでてきたものであり、その姿勢は、神学ないし信仰を理性(哲学)や世俗政治との結合から解放し、それによって信仰を純化しようとする運動を生むことにもなった。この運動が、のちの16世紀のルターの宗教改革につながる。

しかし、唯名論にはもうひとつの側面があった。神学と哲学の分離は信仰の純化をもたらしたが、他方では哲学の自立をうながしもしたからである。すなわち、神学から分離されてしまえば、哲学は信仰といった超自然的なものに遠慮せずに、自然的認識能力によってのみ知識の体系をきずけるようになったのである。これに応じて知識の対象は、超自然的なあの世から、この感覚的な自然的世界へかわり、知識を獲得する手段として感覚的経験が重視されるようになった。この変化が近代自然科学の成立につながる。

こうした感覚的経験の重要性は、自然研究の中でもとくに天文学の分野ではやくから認識され、膨大な観察データが蓄積されることになった。のちのコペルニクスやケプラーの業績は、このような地道な天体観測の成果である。さらに16世紀になると、たんに経験にもとづいて自然を研究するだけでなく、こうした経験的研究を哲学的に反省し基礎づけようとする動きもでてきた。イギリスのフランシス・ベーコンの帰納法はこうした試みの先がけであり、のちのイギリス経験主義を準備することにもなったのである。

5A 数学的自然科学

このような自然研究の進展において、決定的な出来事がおこった。それは数学的自然科学の登場である。アリストテレスがもともと生物をモデルにしてもののあり方を考えていたことはすでにのべた。したがって、彼の哲学を下敷きにした中世のスコラ学も、自然の中に「実体形相」といった一種の生命的原理をみとめて、自然をもっぱら質的にみる傾向があった。

ところが、いわゆるルネサンス期の自然研究者の中には、自然をひたすら数量的に把握しようとする人々があらわれてくる。上に名前をあげたコペルニクスやケプラーもそうだが、決定的な役割を演じたのはガリレイである。彼によれば、「自然という書物は数学的記号で書かれている」。自然研究の目的はこの書物を解読することであり、そのためには、そこに書かれている記号、すなわち数学が不可欠だというのである。

しかし、こうした数学的思考の重要性は、たんに自然研究における方法のひとつとして数学が有効だというだけではない。むしろ、自然のあり方そのものが数学的だというのがガリレイの主張なのであって、この主張を哲学的に基礎づける作業は、同時代のフランス人デカルトがおこなうことになった。

VI 近代哲学
1 デカルト

近代哲学の芽ばえはルネサンス期のさまざまな哲学にみてとれるが、19世紀までの哲学の方向を決定したのはデカルトである。

彼はすべての知識の基礎となる絶対に確実な原理を発見しようとした。そのために彼はすべてのものをうたがった。あらゆる懐疑にたえるものこそ、絶対に確実なはずだからである。こうした懐疑のすえに彼がたどりついたのは、「われ思う、ゆえにわれあり(コギト・エルゴ・スム)」という原理であった。なぜなら、どれほどうたがおうとも、そのようにうたがっている(思っている、考えている=思惟する)わたしは存在しなければならないからである。

デカルトによれば、この原理は絶対的に真であるから、その中にはあらゆる真理の基準がふくまれている。この基準を彼は、「わたしが明晰・判明に認知したものはすべて真である」と表現した。ひとことで明証性とよばれるこの真理基準をてこにして、デカルトは精神の本質を思惟ととらえ、次に神の存在を証明し、最後に物体の本質を空間的広がり(延長)と考えた。

このように考えることによってデカルトは、ガリレイの数学的自然科学を基礎づけることになった。物体の本質が延長だということは、物体が、ひいては自然全体が数学的(とくに幾何学的)なあり方をしているということの証明になるからである。さらに、物体がひたすら延長でしかないとすると、物体からは一切の生命的な原理が排除されるから、自然全体は巨大な機械になる。自然現象のすべてを物体の機械的運動と考えるホッブズらの近代的機械論が、ここから生まれた。こうした機械論的な方向は近代自然科学にうけつがれ、19世紀までの科学一般を支配することになった。

1A 思惟する能力

他方、デカルト哲学の第一原理は人間の「思惟」である。人間は思惟する(考える)かぎりで存在するのだし、事物の本質をとらえもする。物体の本質を延長としてとらえたのは、まさにこの思惟の能力、つまり理性である。では、この理性は具体的にはどのようにして事物の本質をとらえるのか。デカルトによれば、われわれの理性には神によって植えつけられた観念があり、この「生得観念」によってわれわれは事物の本質をとらえる。このような理性を重視する考え方は、のちに大陸合理主義とよばれる流れをつくることになった。スピノザやライプニッツが、その代表者である。

しかし、知識の起源として感覚的経験を重視する立場もあらわれた。この立場からすると、すべての観念は経験に由来し、「生得観念」などありえない。この考え方はイギリスに多くの支持者をもっていたために、イギリス経験主義とよばれた。

2 イギリス経験主義

イギリス経験主義の源流のひとつは唯名論である。ほんとうに存在するのは個物だけであるとすれば、それを知るためには経験しか手だてはないからである。唯名論の勢力が強かったイギリスでは、このような経験主義の雰囲気がもともとあったが、そうした傾向をもっと強めることになったのは、ロックにはじまる観念の分析である。

2A ロック

ロックの探求の手がかりになったのは、デカルトが主張した「生得観念」の吟味である。生得観念は人間が生まれつきもっている観念ということになっていたが、しかしロックによれば、人間の心は生まれたときには白紙状態である。たとえば、同一律や矛盾律といった論理学の規則を生得的なものとみなす人がいるかもしれない。しかし、幼児や未開人はこれらをまったく知らない。それでは、われわれがもっている観念はなにに由来するのか。これに対するロックの答えは「経験」であった。

2B バークリー

しかし、われわれは経験によって、とくに感覚的経験によってあるがままの事物を知ることができるのだろうか。たとえば、われわれが机の表面をみて「白」の感覚的印象をもったとしても、その「白さ」があるがままの机の色だという保証はどこにもない。ひょっとしたら、ほんとうは黒い机をわれわれが「白い」机としてみているだけなのかもしれないからである。つまり、われわれの観念がすべて経験に由来すると考えると、観念はすべて主観的なものになる可能性がある。

この可能性を極端なかたちで考えぬいたのが、バークリーである。彼は、「ものが存在するとは知覚されていることである」という。これがバークリーの主観的観念論、あるいは現象主義とよばれる立場である。

しかし、われわれに知覚されているもの(あらわれているもの)しか存在しないとすれば、あるがままの事物を知ることなど不可能になりかねない。バークリー自身は、観念の起源を神にもとめることによって、観念の客観性を保証しようとしたが、しかし、このように考えてしまえば、観念はやはりある種の「生得観念」になってしまい、合理主義にまいもどってしまう。これに対して、経験主義の本来の立場を徹底し、そこから懐疑主義をひきだしたのが、ヒュームであった。

2C ヒューム

ヒュームによれば、われわれの心の内容はすべて印象と観念でしかない。観念は印象の写しにほかならないから、知識の源はすべて感覚的印象になる。観念がたがいにむすびついて知識が成立する。ところがヒュームによると、この結合は神がさだめたものでも、事物の本性にもとづくものでもない。むしろ、われわれが経験をくりかえすことによって身につけた習慣のせいで、観念どうしがむすびつく。たとえば、火をみたときにいつも熱さを感じてきたので、火と熱さを原因と結果の関係でむすびつける習慣ができあがる。したがって、われわれが客観的だと思いこんできた因果律は、主観的習慣にすぎない。こうしてヒュームは、知識の客観性を否定した。

3 カント

合理主義と経験主義の立場を総合し、それによってヒュームの懐疑主義を克服しようとしたのが、カントである。彼の思想は、「人間の知識はすべて経験とともにはじまるが、しかしすべてが経験に由来するのではない」という言葉に要約できる。カントは知識を材料と形式に区別し、材料は経験に由来すると考える点では経験主義に譲歩し、形式は経験に依存しない(ア・プリオリである)と主張する点では合理主義にたつ(→ ア・プリオリとア・ポステリオリ)。

彼によれば、空間・時間、因果律などの「知識の形式」は、感覚的経験にあたえられる材料を整理する秩序であり、経験に先だってひろい意味での理性にそなわっている。この形式のおかげで、われわれの知識は感覚的経験の個別性をまぬがれ、普遍性を獲得する。

しかしカントは、このようにわれわれの知識の客観性や確実性を基礎づけると同時に、知識の範囲を感覚にあたえられる現象に限定した。したがって、われわれはあるがままの事物(物自体)を知ることはできないということになる。

4 ヘーゲル

カントにつづくドイツ観念論は、カントが不可知として放置した「物自体」を人間理性の圏内にひきいれようとする試みであった。フィヒテ、シェリングの思想をひきついだヘーゲルは、人間理性の発展という発想によってこの試みを完成させた。

カントにおいて理性は、人間にそなわる形式によって材料に秩序をあたえることになっていた。ヘーゲルによると、こうしてできあがってくる世界は、今度は環境として人間理性にはたらきかけ、これによって人間理性はそれまでもっていなかった形式を身につけるようになる。そしてこの新しい形式がまた新しい世界をつくり、この新しい世界がさらに新しい形式を生みだす。理性はいわば成長するわけで、この成長過程で物自体はしだいに理性のもとに組み入れられることになる。

ヘーゲルはこのように発展していく理性を精神としてとらえ、その発展のはてに自分と異質なものをまったく持たなくなったような精神を絶対精神とよんだ。この段階では「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」。

VII 20世紀の哲学

ヘーゲルにおいて完成した近代哲学は、人間理性が世界をくまなく知り、支配し、処理できると考える点で、ひろい意味での理性主義だといってよいだろう。20世紀の哲学は、さまざまな意味で、このような理性主義への反発からはじまったといえる。

1 実存主義

ヘーゲルと同時代人のショーペンハウアーは、ヘーゲルに典型的にみられる楽天的理性主義に反対して、非合理的な意志こそがほんとうに存在すると主張した。ヘーゲルの死後、いわゆる後期シェリングも、理性によってとらえられる本質(essentia)ではなくて、非合理的なものの現実存在(existentia)を哲学の主題にした。「実存」という日本語はこの「現実存在」の略語である。このシェリングの講義をきいたキルケゴールは、自分がひきうけるしかない自己の存在をさす言葉として、「実存」という概念をつかいはじめる。

20世紀になって、ハイデッガー、ヤスパースといったドイツ人たちがキルケゴールから深い影響をうけるが、実存主義をもっとも明確にうちたてたのは、フッサールの現象学を実存主義とむすびつけたサルトルである。彼によれば、神が存在しない以上、人間がなんであるかをきめる人間の本質など存在しない。人間においては実存が本質に先だつのであって、人間の本質は人間がみずから自由につくりあげていくものなのである。

2 マルクス主義

ヘーゲルの発展する理性という考え方には、理性が歴史的に発展するという含みがある。マルクスとエンゲルスは、ヘーゲルの理性的観念論を唯物論におきかえ、歴史を物質的生産過程の展開と考えた。歴史の原動力は、生産力(生産のための物質的・人間的手段)と生産関係(生産における人間関係、たとえば資本家と労働者)との矛盾である。資本主義もやはりそうした矛盾をかかえており、この矛盾は革命によってのみ克服される。

このような考え方は、共産主義運動の思想的基盤になった。20世紀初めにロシアで最初の共産主義革命がおきて以来、マルクス主義は20世紀の有力な思想になったが、1991年のソビエト連邦解体によって、その意味があらためて問われている。

3 プラグマティズム

19世紀の終わりごろにおこったプラグマティズムはアメリカの支配的な思想になったが、これもまたヘーゲルに代表される理性主義への反動である。ヘーゲルにおいて事物を知るということは、その事物の本質をとらえることであった。しかし、われわれは日常生活ではそうした知り方などしていないし、必要ともしていない。たとえば「パソコンのことを知っている」という場合、われわれが意味しているのは、パソコンの本質を知っているということではなくて、それの使い方を知っているということでしかない。こうした日常生活での知識のあり方を基盤にして哲学を考えなおそうとしたのがプラグマティズムである。

この言葉の創始者のパースは、ある概念が真であるかどうかの基準は、その概念をつかってなされた予測が未来の経験によって検証されるかどうかにかかっていると考えた。実際にでてくる結果が真偽をきめるというわけである。ジェームズも、真理の意味を実際の結果からみちびきだす。すなわち、真理とは行為を成功にみちびく信念であり、すべての信念は問題解決に有用かどうかで評価される。

デューイは、これら2人の考え方をさらにすすめて、真なる観念とは一定の社会的・生物学的状況の中での行動にとって有用な道具である、と考えた。これはデューイの道具主義とよばれる。

4 分析哲学

1920年代末にウィーンのわかい知識人たちが「ウィーン学団」を結成した。ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」に基本的な発想をえたこの学派は、論理実証主義(→ 実証主義)とよばれる思想を展開した。彼らは科学で使用される言語を分析して、有意味な命題と無意味な命題を区別した。

有意味な命題とは、形式的に真偽が確認できる数学や論理学の命題、あるいは観察や実験によって実証的に真偽が確認(検証)できる経験的命題であり、無意味な命題とはそうした検証が不可能な命題である。この区別によると、「神は存在する」とか「魂は不滅である」といった形而上(けいじじょう)学的命題や、「この絵は美しい」といった美的判断も、「この行為は悪い」といった倫理的判断も、すべて無意味だということになる。ウィーン学団が検証可能な命題にのみ有意味性をみとめたのは、だれもが参加できる統一的な理想言語の構築をめざしたからであった。

→ 分析哲学と言語哲学

5 精神分析

19世紀の終わりに、ウィーンの精神医学者フロイトは神経症の治療をしていくうちに、人間の心の中には自分で意識できない領域がかくされているのではないかと考えた。これが精神分析における無意識の発見である。この無意識の中には、性欲とか破壊衝動といった、理性では統御できない暗い欲求がうごめいている。フロイトはこの無意識の理論を、芸術、思想、政治、宗教などほとんどあらゆる人間の文化的営みにあてはめてみせた。

その結果わかったのは、人間の文明というのは、こうした無意識的欲求の変形された表現(昇華)だということである。人間が誇りにしてきた文明は、ヘーゲル的な理性の産物であるどころか、理性では理解できない人間の暗部から生まれてくるのである。

6 構造主義

1940年代以降、実存主義がマルクス主義と対抗しながら西欧世界を席巻したのち、60年代になって構造主義があらわれた。これは、人間の自由や主体性を強調する実存主義の人間中心主義に対抗する思想運動であった。構造主義はスイスの言語学者ソシュールの研究に由来する。われわれが言語によって意志疎通しようとすれば、発音や文法といったさまざまなレベルの規則にしたがわねばならない。これらの規則はたがいにからみあって、ひとつの自律的で有機的な全体をなしている。

こうした全体を「構造」という概念でとらえて、人類学に適用したのがレビ・ストロースである。彼の影響のもとで、1960年代にはラカンが精神分析において、アルチュセールがマルクス主義において、あるいはフーコーが近代的思考の分析において、構造の概念を駆使した研究をあらわした。彼らに共通しているのは、人間はすでに言語や無意識あるいは社会の自律的構造の中にくみこまれているという主張である。

7 現代の課題

現代の哲学は、これらの動向がいくつも複雑にからみあった様相を呈している。さらに、人文科学、自然科学そして社会科学の諸活動がこの錯綜した状況にからんでくる。単一の思想や学派あるいは科学からでてきた哲学などは、現代ではほとんどみあたらない。しかし、西洋近代がうちたてた理性主義が破綻(はたん)していることは明らかである。次々と開発されていく新技術の中で右往左往し、自分の存在さえおびやかされているわれわれは、近代理性主義とはちがう道を、これからも模索しなければならないだろう。

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