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言語学・ゲームの結末を求めて(その8) [宗教/哲学]

基層言語
基層言語

きそうげんご
substratum

  

底層言語ともいう。Aという言語を話していた民族が,異民族による征服などの原因で,Aを捨てBという言語を話すようになったとする。このBが,滅びたAの影響を受けて多少変化することがあるが,そのとき,Aを基層言語と呼ぶ。たとえば,インド=ヨーロッパ語族でインド諸語だけが通常の歯音とそり舌の歯音との対立をもつが,これは古くインドの地に広がっていたムンダ語の影響を受けたためといわれている。すなわちムンダ語がこの場合,基層言語になったと考えられる。またフランス語では,ラテン語 lna (月) が lune[lyn]となるような[]>[y]の変化は,基層言語であるケルト系ガリア語の影響による。





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インド諸語
インド諸語

インドしょご
Indian languages

  

インド亜大陸に行われる言語の総称。インド=ヨーロッパ語族のインド=イラン語派に属するものと,ドラビダ語族に属するものとで大部分を占めるが,ほかに,ムンダ語族に属する言語や,チベット=ビルマ語族に属する言語があり,ブルシャスキー語のように系統不明のものもある。インド共和国では特に,諸言語間の抗争が社会問題になり,インド憲法は,ヒンディー語を公用語として認めるほかに,ウルドゥー語,パンジャブ語,ベンガル語,マラーティー語,オリヤ語,グジャラート語,アッサム語,カシミール語,テルグ語,タミル語,カンナダ語,マラヤーラム語,およびサンスクリット語を主要言語としてあげている。さらに,英語も現在なお公用語として認められている。





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インドの言語
I プロローグ

インドの言語 インドのげんご Indian Language 150以上の土着の言語がインド亜大陸で話されている。その多くはインド・ヨーロッパ語族のインド・イラン語派か非インド・ヨーロッパ語族系のドラビダ諸語の系列に属しており、その他の少数言語がオーストロアジア語族の系統かシナ・チベット語族に属している。

II 公用語

インド亜大陸内では、1つの共通の言語というものは存在しない。ヒンディー語と英語がインドの国の公用語であり、共通語として使用されている。インドの憲法では、15の州の言語がみとめられ、学校や公的業務で使用されている。アッサミー語、ベンガル語、グジャラーティー語、カシミーリー語、マラーティー語、オリヤー語、パンジャービー語、シンディー語、ヒンディー語、タミル語、テルグ語、カンナダ語、マラヤーラム語などである。パキスタンの公用語はウルドゥー語で、バングラデシュの公用語はベンガル語である。

III インド・イラン語派

前2000年のはじめごろに、アーリヤ人が西方へと移住し、他のインド・ヨーロッパ語族の人々からはなれ、イランに定住した。前1000年ごろまでに、インド語派(インド・アーリヤ語派)とイラン語派の2つの言語系列にわかれ、イラン語派はイランやアフガニスタンで、インド語派はインド北西部で発展した(→ インド・イラン語派)。インド・アーリヤ語の話者はインド北部にいたドラビダ語の話者を南方へおいやったため、今日、ドラビダ人はインド南部およびスリランカに居住している。

1 サンスクリットとパーリ語

インド語派の諸言語すなわちインド・アーリヤ語の歴史は、3つにわけられる。(1)古期:ベーダ語とサンスクリット。(2)中期(前約3世紀以降):インドの言語に代表されるプラークリットとよばれるサンスクリットの日常語的な諸方言。(3)近代(約10世紀以降):インド亜大陸の北部と中央部の近代語。

ヒンドゥー教の聖典「ベーダ」のなかで使用されているサンスクリットは、ベーダ語ともよばれるサンスクリットのもっとも初期の形式で、前1500~前200年ごろのものである。前500年ごろに古典サンスクリットが成立して文学や専門的な著作にもちいられるようになり、今日でもインドでひろくまなばれ、神聖な学識言語として機能している。

中期インド・アーリヤ語のプラークリットは地域的変種として存在していたが、その後、独自の文学を発展させた。その代表例がパーリ語である。小乗仏教の経典にもちいられており、もっとも古い文語プラークリットとして知られる。その起源は前3世紀ごろまでさかのぼると思われ、現在でもスリランカやミャンマー、タイで典礼に使用されている。

プラークリットは12世紀ごろまで日常語としてつかわれていたが、10世紀には、近代の民衆語が発展しはじめた。それは今日も4億以上の人々によって話されており、重要であるとされるものだけでも35の言語がある。とくにヒンディー語、ウルドゥー語、ベンガル語、グジャラーティー語、パンジャービー語、マラーティー語、ビハーリー語、オリヤー語、ラージャスターニー語などが重要で、それぞれ1000万人以上の話し手がいる。

2 ヒンディー語とウルドゥー語

ヒンディー語とウルドゥー語は、事実上は、同一言語のわずかにことなる方言である。おもな違いは、語彙(ごい)の起源や文字、その話し手の宗教的伝統である。ヒンディー語の語彙は、おもにサンスクリットに由来しており、ウルドゥー語は、ペルシャ語とアラビア語起源の単語を多くふくむ。ヒンディー語は、デーバナーガリー文字で、ウルドゥー語は、ペルシャ式のアラビア文字で書かれる。パキスタンでもインドでも、ヒンディー語はおもにヒンドゥー教徒、ウルドゥー語はおもにイスラム教徒によって話される。

ヒンディー語には2つのおもな変種があり、両言語あわせて1億8000万人の話し手がいる。西部ヒンディー語は、デリー周辺に端を発しており、文語ヒンディー語やウルドゥー語をふくむ。東部ヒンディー語は、おもに中央ウッタルプラデシュと西マッディヤプラデシュで話されている。その文学作品の多くは、アワディー方言で書かれている。16~18世紀にインド全体に波及して共通語としてもちいられ、ヒンディー語やウルドゥー語のもととなったヒンドゥスターニー語は、1947年のインド独立以来徐々につかわれなくなった。

3 ベンガル語

ベンガル語は、インドの西ベンガル地方や、バングラデシュのほぼ全住民によって話され、話し手人口は1億2000万人で世界第6位である。ヒンディー語同様、ベンガル語はサンスクリットに由来する。インドの近代言語の中でもっとも多くのすぐれた文学作品をもち、1913年にノーベル文学賞を受賞した詩人タゴールの作品もベンガル語によるものである。

4 パンジャービー語

パンジャービー語は、パンジャブ地方と西パキスタンで話されている。シク教の創始者が使用し、その教えはシク教の導師によって考案されたグルムキー文字をもちいたパンジャービー語で記録されている。インドのパンジャービー語はヒンディー語と似ているが、パキスタンのパンジャービー語は際だった違いをしめしている。

5 ビハーリー語

ビハーリー語は、事実上3つの近親関係にある言語であるボジュプリー方言、マイティリー方言、マガヒー方言の総称で、4000万人近くの話し手によって、おもにインド北東部のビハールで話されている。ビハーリー語は国家語ではなく、ビハールでもヒンディー語が教育や公事に使用される。

6 シンハラ語とロマニー語

その他の重要なインド・アーリヤ語にはスリランカの公用語であるシンハラ語やロム(ジプシー)の言語であるロマニー語がある。ロマニー語は、インドに端を発し、世界中にひろがっている。ロマニー語がサンスクリットを起源としていることは、音韻と文法から明らかである。

7 文字

多くのインド・アーリヤ語の文字は、北セム語から派生しているブラーフミー文字を起源としている。ブラーフミー文字の発展形であるデーバナーガリー文字は、ヒンディー語やサンスクリット、プラークリット、さらにネパール語、マラーティー語、カシミーリー語でもちいられている。グジャラーティー語とベンガル語、アッサミー語、オリヤー語は、デーバナーガリー文字から派生した独自の表記体系をもつ。ウルドゥー語、シンディー語(デーバナーガリー文字でも記述される)、パンジャービー語では、ペルシャ式のアラビア文字が使用されている。

IV ドラビダ諸語

約23のドラビダ諸語には、1億5000万人の話し手がおり、おもに南インドで話されている。インドでは4つのドラビダ語が、州の公用語にみとめられている。タミルナードゥ州のタミル語とアンドラプラデシュ州のテルグ語、カルナータカ州のカンナダ語、ケララ州のマラヤーラム語である。このうちテルグ語がもっとも多く使用される。これらの言語には長い文学の歴史があり、独自の文字で表記されている。タミル語による多くの文学は、1~5世紀のものであるとされている。

タミル語はスリランカの北西部をふくむ地域でも話されている。その他のドラビダ語は、あまり多くの話し手をもたず、またたいていは文字をもたない。ドラビダ諸語は、インド・アーリヤ語(とくにサンスクリット)から多くの単語を借用し、インド・アーリヤ語はドラビダ諸語から音韻や文法の体系を借用している。

V その他の言語グループ

12ほどのムンダ諸語には、600万人ほどの話し手がおり、インドの北東部と中央部にちらばってすんでいる。これらの言語の中では、サンターリー語がもっとも多くの話し手をもち、唯一文字をもっている。ドラビダ諸語と同様、ムンダ諸語は、インド・ヨーロッパ語族の侵入以前からインドに存在していた。ムンダ諸語は、オーストロアジア語族に分類される東南アジアのモン・クメール諸語と関係があるとされている。モン・クメール語の1つであるカーシ語は、インドのアッサム地方で話されている。シナ・チベット語族の言語もいくつか、チベットからミャンマーの国境沿いで話されている。

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インド=イラン語派
インド=イラン語派

インド=イランごは
Indo-Iranian languages

  

インド=ヨーロッパ語族の一語派。さらに,インド=アーリア語派とイラン語派とに大別される。この2つは現代では差異が大きいが,最も古い層,すなわちインド=アーリア語系のベーダ語とイラン語系のアベスタ語とは非常によく似ており,かつて両系の民族が同一の言語を話していた時代があったとの想定のもとに,両者を統一したインド=イラン語派を立てる。





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インド・イラン語派
インド・イラン語派 インドイランごは Indo-Iranian Languages インド・ヨーロッパ語族の下位語派。トルコ東部からバングラデシュ、さらにインドの大部分の地域までひろがる、たがいに親族関係にある諸言語のグループで、約4億5000万以上の人によって話されている。

ふつう、イラン語派とインド語派(別名インド・アーリヤ語派)にわけられる。主要なイラン諸語には、古代アベスター語、古代ペルシャ語、種々の中期ペルシャ諸語、現代ペルシャ語(→ ペルシャ語)、パシュト語、クルド語(→ クルド)などがあり、カフカス地方で話されるオセット語もこれにふくまれる。インド語派には、古典サンスクリット、プラークリット語とよばれる中期諸語があり、現代語としては、ヒンディー語、ウルドゥー語、ベンガル語、グジャラーティー語などのインド諸語(→ インドの言語)、ネパール語(ネパールとシッキムの公用語)、シンハラ語(スリランカの公用語)がある。

初期サンスクリット文学は、ヒッタイト語をのぞいてインド・ヨーロッパ語族の最古の文献である。サンスクリットとアベスター語は非常によく似ており、これらはインド・ヨーロッパ祖語の子音組織と複雑な屈折体系をきわめて忠実に反映していると考えられている。現代のインド・イラン諸語は、この古い屈折体系を単純化し、そのかわりに語結合をもちいる傾向にある。また、インド・アーリヤ諸語は、その音声と文法において非インド・ヨーロッパ系のドラビダ諸語から影響をうけている。

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イラン語派
イラン語派

イランごは
Iranian languages

  

インド=ヨーロッパ語族の一語派。インド=アーリア語派とともにインド=イラン語派をなす。古期イラン語と呼ばれるものは,アベスタ語と,アケメネス朝諸王の碑文の古期ペルシア語とであり,アベスタ語はサンスクリット語とよく似ている。前3~後 10世紀の言語は中期イラン語といわれ,古期ペルシア語に近い中期ペルシア語,アベスタ語に近いパルチア語,バクトリア語,ソグド語,サカ語などがある。 10世紀以降の近代イラン語のなかで最も重要なのは近代ペルシア語で,イラン,アフガニスタンなどで用いられる。ほかに,クルド語,オセト語,パシュト語など多くの言語に分れ,西アジアの広い地域に分布して,約 5000万人の話し手をもつ。





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イラン語派
イランごは Iranian

インド・ヨーロッパ語族の一語派で,その最古層ではインド語派にきわめて近く,インド・イラン語派Indo‐Iranian として未分化の一時期をもったことを想定させる。独立の語派としての歴史は,古代イラン語,中期イラン語,近代イラン語の3期に分けられる。
(1)古代イラン語として知られているのは,ゾロアスター教の聖典アベスターの言語,およびアケメネス朝ペルシアの楔形文字碑文を記した古代ペルシア語である。アベスター語 Avestan は,古代インドのベーダ語と同様,動詞,名詞の活用に古形をよく保っている。方言的には東部の特徴を示すが,特定の地方をその故郷と断定することはできない。その最古の部分は預言者ゾロアスター自身の作の詩頌(ガーサー)だが,彼の生存年代も学者により前十数世紀から前7世紀まで意見が分かれる。古代ペルシア語 Old Persian は,イラン南西部ファールス地方の方言で,前6世紀から前4世紀にかけて古代ペルシア帝国の歴代の王(ダレイオス,クセルクセス,アルタクセルクセス)の詔勅に用いられた。また最近ペルセポリスの遺跡から,前6世紀末から前5世紀前半に属する古代ペルシア語の人名を数多く含むエラム語の粘土板文書が大量に発見されている。
(2)中期イラン語として知られているものには,西部方言としては中期ペルシア語とパルティア語,東部方言では,ソグド語,サカ語,ホラズム語,バクトリア語がある。中期ペルシア語は古代ペルシア語と同じく南西イランの方言で,ササン朝ペルシア(3~7世紀)の公用語として,碑文,ゾロアスター教の宗教文学(パフラビー文献),およびマニ教の文献に用いられた。このうち量的に最も多いのは,主として9世紀になってから書かれたパフラビー文献(パフラビー語)だが,20世紀になって中央アジアから発見されたマニ教文献(3~10世紀)は,その正確な表記法のゆえに言語学的に重要である。イラン北部,カスピ海南東地域の方言であるパルティア語 Parthian は,アルサケス朝(前3~後3世紀)の公用語であり,この時代の陶片,皮革文書などのほか,ササン朝初期の碑文,および中央アジア出土のマニ教文献に用いられている。残余の4種の東部方言はすべて20世紀になって発見された。ソグド語は,サマルカンドとブハラ(ウズベキスタン共和国)の2都市を本拠地とするが,中央アジアの通商用語として広く行われ,4~10世紀に属する碑文や手紙類がモンゴリアを含む中央アジア各地から出土しているほか,仏教,マニ教,ネストリウス派キリスト教の写本が敦煌とトゥルファンの遺跡から発見されている。サカ語Saka は,タリム盆地南西辺のホータンと北西辺のトゥムシュクの二つの方言によって知られており,7~10世紀に属する写本は大部分が仏教系で,ホータン周辺と敦煌から大量に出土した。ホラズム語 Khwarizimian は,アラル海南岸のホラズムの地の言語で,2~7世紀の少数の貨幣銘と短い碑文のほか,主として13世紀のアラビア語の書物に引用された文句から知られている。バクトリア語 Bactrian は,アフガニスタン北部で発見された25行のギリシア文字で書かれた碑文がおもな資料である。
(3)近代イラン語も,音韻的特徴から東部グループと西部グループに分けられる。文学的伝統をもつ重要な言語としては,アフガニスタンのパシュト語と,地理的には西のカフカスに位置するオセット語が東部グループに属し,ペルシア語,タジク語,クルド語,およびバルーチ語が西部グループに数えられる。これらのうちの最初の4言語は,それぞれが話されている国家の公用語として認められている。さらにこれに加えて,イラン,アフガニスタン,およびこれと境を接するソ連の地域に数多くのイラン系の言語,方言が行われており,特にパミール高原を中心とする地域の諸言語は,言語学的に古い形をとどめているものが多く,貴重である。               熊本 裕

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インド・ヨーロッパ語族
インド=ヨーロッパ語族

インド=ヨーロッパごぞく
Indo-European languages

  

印欧語族。歴史時代の初めから東はインドから西はヨーロッパ大陸にわたって広く分布した,多くの言語を含む一大語族。現代語では,英語,フランス語,スペイン語,ドイツ語,ロシア語などの有力な言語がこれに属する。インド=イラン,アルメニア,ギリシア,アルバニア,イタリック,ケルト,ゲルマン,バルト,スラブの各語派に下位区分され,これらはいずれも現代まで生残った言語を含んでいる。ほかに,20世紀に入って文献が発見されたヒッタイト語とトカラ語があり,それぞれ独立の語派をなすが,いずれも死語である。 19世紀以降,厳密な比較文法による研究が続けられ,複雑な屈折や派生の体系をもつ祖語の形がかなりよく再構されている。前 3000年頃に,この祖語が行われていたものと推定されている。なお,ドイツの学者は好んでインド=ゲルマン語族の名を用い,一部の学者によってインド=ヒッタイト語族の名も用いられることがある。古くは,アーリア語族の名も用いられた。





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[ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 2008]

インド・ヨーロッパ語族
インドヨーロッパごぞく Indo‐European

印欧語族ともいう(以下便宜上この名称を用いる)。古くはアーリヤ語族 Aryan という名称も用いられたが,これはインド・イラン語派の総称で,印欧語族については不適当である。インド・ゲルマン語族の名は,ドイツ語で今日もなお慣用となっている Indo‐Germanisch に由来する。この名称は,東のインド語派と西のゲルマン語派をこの大語族の代表とみる考え方に基づいてつくられたものであるが,ドイツ語以外では使用されない。
 この語族に属するおもな語派はインド,イラン,トカラ,ヒッタイト,ギリシア,イタリック,ケルト,ゲルマン,バルト,スラブ,アルメニア,アルバニアであるが,このほか古代の小アジアとその他の地域に少数の言語が印欧語として認められている。これらの語派の分布は,東は中央アジアのトカラ語からインド,イラン,小アジアを経て,ヨーロッパのほぼ全域に及んでいる。現在のヨーロッパではイベリア半島のバスク語,これとの関係が問題にされているカフカス(コーカサス)の諸言語,それにフィンランド,ハンガリーなどフィン・ウゴル系の言語がこの語族から除外されるにすぎない。この広大な分布に加えて,その歴史をみると,前18世紀ごろから興隆した小アジアのヒッタイト帝国の残した楔形(くさびがた)文字による粘土板文書,驚くほど正確な伝承を誇るインド語派の《リグ・ベーダ》,そして戦後解読された前1400‐前1200年ごろのものと推定される線文字で綴られたギリシア語派(〈ギリシア語〉参照)のミュケナイ文書など,前1000年をはるかに上回る資料から始まって,現在の英独仏露語などに至る,およそ3500年ほどの長い伝統をこの語族はもっている。これほど地理的・歴史的に豊かな,しかも変化に富む資料をもつ語族はない。この恵まれた条件のもとに初めて19世紀に言語の系統を決める方法論が確立され,語族という概念が成立した。印欧語族は,いわばその雛形である。
[分化の過程]  印欧諸語は理論的に再建される一つの印欧共通基語(印欧祖語ともいう)から分化したものであるから,現在では互いに別個の言語であるが,歴史的にみれば互いに親族の関係にあり,それらは一族をなすと考えられる。これは言語学的な仮定であり,その証明には一定の手続きが必要である。ではどのようにして一つの言語が先史時代にいくつもの語派に分化していったのか。その実際の過程を文献的に実証することはできない。資料的にみる限り,印欧語の各語派は歴史の始まりから,すでに歴史上にみられる位置についてしまっていて,それ以前の歴史への記憶はほとんど失われている。したがって共通基語から歴史の始まりに至る過程は,純粋に言語史的に推定する以外に再建の方法はない。
 しかし印欧語族のなかには,歴史時代に分化をとげた言語がある。それはラテン語である。ラテン語はイタリック語派に属する一言語であったが,ローマ帝国の繁栄とともにまず周辺に話されていたエトルリア語やオスク・ウンブリア語などを吸収した。そして政治勢力の拡大に伴って,ラテン語の話し手はヨーロッパ各地に侵入し,小アジアにも進出した。その結果,西はイベリア半島からガリア,東はダキアの地において彼らは土着の言語を征服し,住民たちは為政者の言葉であるラテン語を不完全ながらも徐々に習得しなければならなかった。こうして各地のそれぞれに異なる言語を話していた人々がラテン語を受け入れ,それを育てていった結果,今日ロマンス語と総称される諸言語,フランス,スペイン,ポルトガル,イタリア,ルーマニアの諸語が生成したのである。今日ではこれらの言語は互いにかなり違っている。それはおのおのの歴史的な過程の差の表れである。しかし一方では,ラテン語という一つの親をもつ姉妹であるから,類似も著しい。このように,一つの言語が広い地域にわたって他の言語を征服し,分化していくという事実をみると,印欧語の場合にも先史時代に小規模ながらラテン語に似た過程が各地で繰り返されて,歴史上に示されるような分布が実現したと考えられる。
[英語とドイツ語]  この語族に属する言語をみると,現在の英語とドイツ語でもかなりの違いがある。この二つの言語はともにゲルマン語に属し,なかでもとりわけ近い関係にある。にもかかわらず差が目だつのは,一つは語彙の面であり,他は文法の面である。語彙の面の差の大きな原因は,英語が大量にフランス語を通じてラテン系の語彙を借り入れたためで,一見すると英独よりも英仏の関係のほうが密接に思われるほどである。この借用は,ノルマン・コンクエスト以降中世に長い間イギリスでも,フランス語が公に使われていたという歴史的事情によるものであるから,いわば言語外的な要因による違いといえよう。これに対して主として音韻,文法の面の違いは,それぞれの言語内の自然の変化の結果である。最も著しい違いは,英語には名詞,形容詞の性別も,格変化もほとんどみられないし,動詞も三人称単数現在形の‐s 以外は,とくに人称語尾というものがない。またその法にしても,ドイツ語の接続法という独立の範疇は英語にはみられない。英語のhorse という形は,文法的には単数を表すだけで,ドイツ語の Pferd のように中性とか主格,与格,対格の単数という文法的機能を担っていない。I bring の bring は,ドイツ語の ich bringe のbringe のもつ,一人称・単数・現在・直説法という規定のいくつかを欠いている。しかしそのことは,英語の表現のうえでなんら支障をきたさない。英語からみればむしろドイツ語のほうが,一つの形に余分な要素をつけている。たとえば,ichbringe で ich=I といえば,すでに一人称の表現であるから,bringe の‐e は無用だともいえよう。しかし言語には常にこうした不合理な要素が存在していて,話し手がそれを人為的に切り捨てることはできない。英語もずっと歴史をさかのぼると,同じ表現にドイツ語と同じような多くの文法的な機能をもった形を使っていた。このように,名詞や動詞の一つの形のなかに,さまざまな文法的な働きがその意味とともに組み込まれていて,それらを切り離すことのできない型をもった言語,それが印欧語の古い姿であった。したがって現在の英語のような形は,他の言語と比較すれば明らかなように,印欧語のなかではむしろ特異な例であり,それだけ強い変化を受けてきたのである。またこうした文法面での形の一致がえられるところに,印欧語族の系統を確認する重要な鍵があったということができる。ラテン語の eヾ Romam,Romam eヾ〈わたしはローマに行く〉を英語の I goto Rome と比較すれば,英語が表現のうえでより分析的になっていることがわかる。そのかわり,英語のほうが語順が固定的である。ラテン語のように六つの格と動詞の人称変化とをもつ言語では,個々の形が文法的機能をはっきりと指示することができるから,語順にはより自由が許されている。
[変化のなかでの伝承]  印欧諸語の分布は歴史とともにかなり変動している。先史時代から現在までえんえんと受け継がれてきた言語も多いが,すでに死滅してしまったものもある。前2000年代の小アジアでは,今日のトルコの地にヒッタイト帝国が栄え,多量の粘土板文書を残したが,その言語は南のルビア語とともに死滅した。その後も小アジアには,リュキア,リュディア,フリュギアとよばれる地からギリシア系の文字を使った前1000年代の中ごろの碑文が出土し,互いに異なる言語だが印欧語として認められている。フリュギア語だけは,別に紀元後の碑文をももっている。またギリシア北部からブルガリアに属する古代のトラキアの地にも壱少の資料があるが,固有名詞以外にはその言語の内容は明らかでない。またイタリア半島にも,かつてはラテン語に代表されるイタリック語派の言語以外に,アドリア海岸沿いには別個の言語が話されていた。なかでも南部のメッサピア語碑文は,地名などの固有名詞とともにイタリック語派とは認められず,かつてはここにイリュリア語派 Illyrian の名でよばれる一語派が想定されていた。しかし現在ではこの語派の独立性は積極的には認められない。このほか死滅した言語としては,シルクロードのトゥルファンからクチャの地域で出土した資料をもつトカラ語,バルト語派に属する古代プロイセン語,ゲルマン語のなかで最も古い資料であるゴート語などがある。ケルト語派は現在ではアイルランド,ウェールズ,それにフランスのブルターニュ地方に散在するにすぎず,その話し手も多くは英語,フランス語との二重言語使用者であるから,ゲルマン,ラテン系の言語に比べると,その分布は非常に限られている。しかし前1000年代には中部ヨーロッパに広く分布する有力な言語であったことは,古代史家の伝えるところである。
 これらの変動に伴ってどの言語も多くの変化を受け,その語彙も借用などによって入替えが行われた。ヒッタイト語のように古い資料でも,その言語の語彙の2割ほどしか他の印欧語に対応が求められず,大幅な交替を示している。にもかかわらず現在の英語でも,基本的な数詞(表)以外に変化を受けつつも共通基語からの形の伝承と思われる語彙も少なくない。father,mother,brother,sister,son,daughter,nephew,niece という親族名称,cow,wolf,swine,mouse などの動物名,arm,heart,tooth,knee,foot という身体の部分名のほか horn,night,snow,milk,動詞では is,was,know などはその典型である。⇒比較言語学                     風間 喜代三

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インド・ヨーロッパ語族
I プロローグ

インド・ヨーロッパ語族 インドヨーロッパごぞく Indo-European Languages 世界でもっとも広い地域で話されている語族で、以下の下位語派をふくむ。アルバニア語、アルメニア語、バルト語派、ケルト語派、ゲルマン語派、ギリシャ語、インド・イラン語派、イラン語派、イタリック語派(ロマンス諸語をふくむ)、スラブ語派、および2つの死語アナトリア語派(ヒッタイト語をふくむ)とトカラ語派。今日、約10億6000万人がインド・ヨーロッパ諸語を話している。

II 語族の確立

これらの多様な諸言語が単一の語族に属するという証拠は、主として18世紀後半から19世紀前半にかけての50年間にあつめられた。当時未解読のヒッタイト語をのぞいて、インド・ヨーロッパ語族の中でもっとも古いサンスクリットと古代ギリシャ語の膨大な文献が、基本的なインド・ヨーロッパ語の特徴をのこしており、共通の祖語があると考えられた。

1800年までには、インドやヨーロッパにおける研究によってサンスクリットと古代ギリシャ語とラテン語の密接な関係が証明された。その後、インド・ヨーロッパ祖語が推定され、その音と文法、この仮定的言語の再構、そしてこの祖語の個々の言語への分岐時期などについての具体的な結論がみちびきだされてきた。たとえば、前2000年ごろにはギリシャ語、ヒッタイト語、サンスクリットはすでに別個の言語だったが、それより1000年前には同一に近いものであったろうと思われるくらいの違いしかなかった。

ヒッタイト語は文献解読によって1915年にインド・ヨーロッパ語と確定し、中世期中国のトルキスタンで話されたトカラ語は1890年代に発見されて、1908年にインド・ヨーロッパ語と確定した。これによって、語族の発展とインド・ヨーロッパ祖語の大まかな性格がしだいにわかってきた。

初期のインド・ヨーロッパ語研究によって、比較言語学の基本となる多くの原則が確立された。もっとも重要な原則は、グリムの法則やベルネルの法則が証明するように、親縁関係をもつ諸言語の音は、一定の条件下ではある程度きまった対応をしめすということである。たとえば、インド・ヨーロッパ語族のアルバニア、アルメニア、インド、イラン、スラブ、そして部分的にバルトなどの下位語派では、インド・ヨーロッパ祖語の再構音qがsや?(shの音)のような歯擦音になっている。同様に「100」をあらわす単語が、ラテン語ではcentum(kentumと発音)となり、アベスター語(古代イラン語)ではsatemとなる。以前には、これをもってインド・ヨーロッパ諸語をcentumを使用する西派とsatemを使用する東派にわける考えがあったが、最近ではこのように機械的に2派にわけることには批判的な学者が多い。

III 発展

インド・ヨーロッパ諸語の発展につれて、数や格によって語形をかえる屈折はしだいに衰退していった。インド・ヨーロッパ祖語は、サンスクリット、古代ギリシャ語、アベスター語などの古代語のように屈折を多用していたと思われるが、英語、フランス語、ペルシャ語などの現代語は、前置詞句や助動詞をもちいた分析的な表現へとうつっている。屈折形の衰退は、おもに語末音節がなくなったためで、そのため、現代のインド・ヨーロッパ諸語の単語は、インド・ヨーロッパ祖語の単語より短い(→ 屈折語)。また、多くの言語は、新しい形式や文法上の区別を生みだしており、個々の単語の意味も大きく変化してきている。

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インド=アーリア語派
インド=アーリア語派

インド=アーリアごは
Indo-Aryan languages

  

単にインド語派ともいい,インド=ヨーロッパ語族に属する。これと,現代ペルシア語などを含むイラン語派とを合せてインド=イラン語派という。現存する最古の文献はバラモン教の聖典『リグ・ベーダ』であり,これはパンジャブ地方に住みついたインド=アーリア人の言語を表わしているとみられる。それから,サンスクリット語に代表される古期語,プラークリット語と総称される諸言語に代表される中期語を経て,現代のインド=アーリア系の諸言語はインド,パキスタン,スリランカで広く用いられ,5億 5000万人の話し手をもつ。ヒンディー語,ウルドゥー語,ベンガル語,パンジャブ語,グジャラート語などが代表的なものである。





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ドラビダ語族
ドラビダ語族

ドラビダごぞく
Dravidian languages

  

主としてインド南部に約1億 3500万人の話し手をもつ,20以上の言語から成る語族。タミル語,マラヤーラム語,カンナダ語を含む南ドラビダ語派,テルグ語を含む中央ドラビダ語派,クルク語やパキスタンのバルチスターン地方に話されるブラーフーイー語などを含む北ドラビダ語派に分類される。共通の特徴として,音韻面では歯音とそり舌音との対立があること,文法面では接尾辞による屈折・派生の組織が発達していることがあげられる。アーリア人の侵入以前には,現在インド=ヨーロッパ語族の諸言語が行われているインド北・中部にまで,広く分布していたと考えられる。



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ドラビダ語族
ドラビダごぞく Dravidian

ドラビダ語族に属する言語としては,固有の文字と文献とをもち,インドの公用語ともなっている,タミル語,マラヤーラム語,カンナダ語,テルグ語と,文字をもたない18(あるいはそれ以上)の言語とがある。これら諸語は,地域と言語の特徴とに基づいて,北部ドラビダ語,中部ドラビダ語,南部ドラビダ語の三つに大別される。まず南ドラビダ語には,南インドのタミル・ナードゥ州およびスリランカ北部のタミル語(4500万人),ケーララ州のマラヤーラム語 Malayalam(2500万人),カルナータカ州のカンナダ語 Kannada(3400万人)のほか,ニルギリ山中のトダ語(800人),コータ語(900人),クールグ地方のコダグ語(4万人),マンガロール周辺で話されるトゥル語 Tulu(94万人)などがある。また中部ドラビダ語には,中央インドのクイ語 Kui(50万人),クビ語(20万人),コラーミ語(5万人),ゴーンディ語 Gondi(150万人)などが含まれるほか,ドラビダ語族中,最大の話者人口をもつテルグ語(アーンドラ・プラデーシュ州,4900万人)も含まれると考えられている。さらに北ドラビダ語として,クルク語 Kurukh(114万人),マールト語(9万人),そしてはるかバルーチスターンに孤立しているブラーフーイー語 Brahui(30万人)がある。これらドラビダ諸語の話者人口は,インド総人口の約25%に相当する。
ドラビダ諸語の母音には,a,i,u,e,o おのおのの長・短母音がある。子音では,喉音,口蓋音,反舌音,歯茎音,唇音が存在するが,なかでも反舌音の発達が顕著である。名詞・動詞の変化は接尾辞の付加によって行われるため,類型的に膠着語の一種として分類される。名詞の数では,単数と複数の区別がある。性に関しては,普通,男性とそれ以外とを区別するか,または通性と中性とを区別するが,南部ドラビダ語の単数では,男性・女性・中性の三つを区別する。動詞の人称語尾は,代名詞的要素の発達したものと考えられ,したがって三人称では,名詞の変化と同様に性と数が区別される。動詞組織の大きな特徴として,全体が肯定表現と否定表現とに大別されることがあげられる。また複合動詞表現が発達しており,それによりさまざまな法や相が表現される。関係詞がない反面,分詞が発達しているのも特徴の一つである。語順は全般的に日本語に似ている。ドラビダ語族の系統に関しては,これまでいろいろの説が提出されてきたが,ウラル語族またはアルタイ諸語との親縁関係の可能性があるということを除いて,まだ確実なことはわかっていない。
                        高橋 孝信

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歯音
歯音

しおん
dental

  

舌先と上の前歯との間で調音される音。この狭義の歯音は,さらに歯間音 interdentalと歯裏音 post-dentalに分けられる。それぞれ,アイスランド語の[θ][],フランス語の[t][d][n]がその例。英語の[θ][]には両方の発音がある。広義の歯音には歯茎音を含めるが,これと区別するときは,歯音には[],歯茎音には をつけて表わす。[ ]と[ ]。





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そり舌音
そり舌音

そりじたおん
retroflex

  

舌をうしろにそらせ,舌先 (とそれに続く裏面) が硬口蓋に対して調音する音。ほかに cacuminal,cerebral,coronal,invertedなどの名称がある。国際音声字母では,[][][][]など,右向きのカギ印の加わった記号を用いる。[][]など下に[.]をつける方式もある。ヒンディー語やマラーティー語など,インドの諸言語に多くみられる。中国語の捲舌音もこの一種。舌をそらせて発する母音は「そり舌母音」という。アメリカ英語の[f:st](first)など。





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フリュギア語
フリュギア語

フリュギアご
Phrygian language

  

古代のフリュギアの地に行われていた言語。アナトリア諸語の一つ。時代の異なる2種の碑文から知られ,前8~5世紀の碑文の言語を古フリュギア語,紀元後数世紀に属する碑文の言語を新フリュギア語と呼ぶ。インド=ヨーロッパ語族に属する。アルメニア語の祖先であるという伝承が古代からあるが,言語学的には証明されていない。





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フリュギア語
フリュギアご Phrygian

インド・ヨーロッパ語族に属する言語。プリュギア語,フリギア語ともいう。古代のフリュギアの地から出土している資料は2層に分かれる。その古層は前8~前6世紀ころのもので25の短い碑文,新層はローマ時代(紀元後の数世紀)のもので約100の碑文からなり,ともにギリシア文字を使用している。ヘロドトスは,エジプト人がフリュギア人を世界で最古の民族と認めたという逸話の中に bekos〈パン〉というフリュギア語をあげているが,この形は碑文によって実証されている。  風間 喜代三

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アルメニア語
アルメニア語

アルメニアご
Armenian language

  

アルメニア,グルジア,アゼルバイジャン,シリア,エジプト,トルコのイスタンブール,アメリカなどで,合計約 570万人の人々に話される言語。インド=ヨーロッパ語族のなかで独立した一つの語派をなす。5世紀に発明された 38文字から成るアルメニア文字をもつ。この時期のアルメニア語は古期アルメニア語と呼ばれ,キリスト教関係の文献に残っているが,現在でも教会の儀式用言語として伝わっている。現代のアルメニア語にいたる発達は,ロシアの支配を受けた地方と,トルコの支配下にあったイスタンブールとで違い,発音や文法に差が現れた。他言語の影響にさらされることが多かったため,ペルシア語,ギリシア語,フランス語などからの借用語がみられる。





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アルメニア語
アルメニアご Armenian

インド・ヨーロッパ語族に属し,独立の一語派をなす。現在この言語の話し手は300万人以上と推定されているが,その言語領域は明確ではない。なぜなら,その本来の話し手がアルメニア共和国よりも多くは周辺のグルジア,アゼルバイジャン,イラン,トルコなどのほか,遠くはインド,レバノンにまで分散してしまっているからである。東西2方言に分かれるが,本国の人口の大半は東方言に属し,西方言は各地に分散しているため,その話し手の多くは二重言語使用者となっている。
 ギリシアの古代史家ヘロドトスによれば,アルメニア人は小アジアのフリュギアからこの地に移住してきたといわれる。しかし言語学的にその真偽は明らかでない。歴史的にこの地はアッシリア,ウラルトゥ,ペルシア,ビザンティン帝国,そしてアラブと,古代からたえず異民族の支配下にあった。言語的にはとくにパルティア,ササン朝下の600年ほどの間に多量のイラン系の語彙が借用され,ために長い間イラン語の一方言と見誤られたほどである。その歴史は5世紀に,独自のアルファベットで綴られた聖書文献に始まる。メスロプ・マシトツが作ったといわれるこの36文字の正確な起源は明らかでないが,ギリシア文字,パフレビー文字などが参考にされたものであろう。そのもっとも古い文献としてはすぐれた聖書の翻訳のほか,メスロプの伝記,原典は失われたがビザンティンのギリシア人の書いたアルメニア史の翻訳などがある。この古アルメニア語には方言差は認められないが,11世紀の末から14世紀にかけてキリキアに移住したアルメニア人の建てた王朝時代の文献には,ゲルマン語のそれに似た子音推移がみられ,方言差があらわれている。現在のアルメニア語は,全体的にみて古いインド・ヨーロッパ語の特徴である格変化,動詞の時制,法,人称変化などの範疇を保持しながらも,名詞の性別の消失,定冠詞の後置などのほか,語形成の上では分析的,膠着語的手続を多用している。ヨーロッパ人の人名で,ミコヤン,カラヤンなど語尾にヤンのつくものは本来アルメニア系である。 風間 喜代三

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リュディア語
リュディア語

リュディアご
Lydian language

  

古代に小アジア西部で話されていた言語で,いわゆるアナトリア諸語の一つ。おもに前4世紀の,ギリシア文字に由来するアルファベットで記された 50ほどの碑文から知られる。インド=ヨーロッパ語族に属すると考えられている。





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ヒッタイト象形文字
ヒッタイト象形文字

ヒッタイトしょうけいもじ
Hittite hieroglyphic



古代ヒッタイト王国で楔形文字と並んで用いられていた象形文字。楔形文字の文献の言語をヒッタイト語と呼んでいるが,象形文字で書かれている言語はそれと違った特徴も示しており,ルウィ語ともみられている。前 1500~700年頃使用されていた。





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楔形文字
楔形文字

くさびがたもじ
cuneiform writing



せっけいもじ,けっけいもじとも読む。シュメール人によって発明され,前 3500年頃からおよそ 3000年間,メソポタミアを中心とした古代オリエントで広く用いられた文字。もともと泥板に角のある棒のようなもので刻みつけたため線が楔形になるのでこの名がある。最古の楔形文字はウルクのエアンナ神域の第4層 (ウルク後期) から発見された絵文字で,今日その文字数は約 1000文字が知られている。その後,初期王朝時代にかけて楔形文字が一般化し,表音化された。バビロニア南部を統一したセム系アッカド人は楔形文字を採用してアッカド語を書き残した。そのためアッカド王朝滅亡後もアッカド語はオリエント世界で広く用いられた。





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[ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 2008]


楔形文字
くさびがたもじ cuneiform script

古代オリエントで使用され,字画のそれぞれが楔の形をした文字の総称。楔形(せつけい)文字とも読む。
[種類と分布]  三つの系列が知られている。一つはシュメール人の発明した楔形文字で,一般に楔形文字といわれるときは,この文字体系が意味される。他の一つはアケメネス朝ペルシアで使用されたもので,文字数は41個に減少し,アルファベット的に使用されることもあったが,基本的には日本のかな文字に似た音節文字であった。3番目のものはシリアのラス・シャムラで発見された古代ウガリト王国の楔形文字である。この文字体系は28~32個の文字からなり,完全なアルファベット文字として考案されている。古代ペルシアとウガリトの楔形文字はいずれもシュメール系楔形文字の強い影響のもとで,楔の意匠を用いて二次的に考案されたものであり,ともに自国内でのみ使用された。上記3系列の中で,シュメール系楔形文字は高度のシュメール文明を背景にして3000年近く古代オリエント全域で使用され,歴史的に最も重要な役割を果たした。シュメール語の表記に使用された文字数は約600程度である。この文字体系をシュメール人から借用して表記された言語には,セム系のアッカド語(またはバビロニア語),アッシリア語,エブラ語,系統不明なエラム語,カッシート語,系統的に親縁性が立証されつつあるフルリ語と古代アルメニアのウラルトゥ語,インド・ヨーロッパ語族系の言語である小アジアのヒッタイト語,パラ語,ルウィ語およびヒッタイト王国の原住民の言語であったハッティ語などがあり,エジプトのアマルナ,シリアのウガリト,イスラエルその他からも多数のシュメール系楔形文書が発見され,国際的に広く通用していたことがわかる。
[起源と歴史]  シュメール系楔形文字の最古資料はメソポタミア南部の遺跡ウルクの第 IV 層で発見された絵文字に近い古拙文字で,前3100年ころに比定されている。同種の文字は他の遺跡から発見されていないので,文字の発明はおそらくこの時期にウルクにおいて行われたと思われる。前2700年ころに比定されるジャムダット・ナスルの遺跡からは線状に変化した文字が出土しているが,それ以後は特徴的な楔の形をとるようになり,前50年ころまで存続した。しかし前6,前5世紀にはアラム文字が優勢になり,併用時代のあと衰退に向かう。ウルク古拙文字の起源について最近シュマント・ベッセラト Denise Schmandt‐Besserat が興味深い指摘を行っている。同女史によれば,古代オリエントでは新石器時代より〈トークン token〉と呼ばれる直径が1cm前後の粘土で作られたさまざまな形状の物体が,記憶の補助手段として使用されていて,その形状を粘土板の上へ移したのがウルク古拙文字,すなわち文字の起源であるという。実際〈トークン〉と古拙文字との間には顕著な類似性が認められ,シュメールの地において〈トークン〉から文字への飛躍が起こった可能性は高いと思われる(図1参照)。ウルク古拙文字およびジャムダット・ナスルの線状文字では表語文字 logogram(表意文字 ideogram)のみの使用が見られるため,文字数も1000に近いが,初期王朝末期(前2350ころ)からウル第3王朝(前2060‐前1950ころ)には表音化が完成し,文字数も600程度に整理され,シュメール語が完全に表記されるようになっている。文字は粘土に葦の筆で書かれた。葦の筆は図2のごとく中空の葦の茎の外側を神状に切り取って,その角を粘土に押しつけて書かれたため特徴的な楔形になった。そのため古拙文字,線状文字の曲線は鉤形または直線などに変化し,原形は失われた。シュメール語では書くことを〈植える〉といった。楔形文字がセム系のアッカド語とアッシリア語の表記に採用されると,バビロニア(シュメール・アッカド)地方とアッシリア地方で別個の発達を遂げ,やがてアッシリア地方では字画が統一されて簡明・優美なアッシリア文字が完成し,王宮の壁面などを飾ることになる。
[構成と用法]  楔形文字は原則として左から右へ書き,あらかじめ引いておいた罫線の中に文を収めるのが普通である。楔形文字の原形である古拙文字を構成の面で分析すると,その方法は漢字の六書(りくしよ),すなわち象形,会意,指事,形声,仮借,転注と類似の構成法が認められるが,シュメール独自の造字法として,既存の文字に複数の線を加える〈グヌー gun】〉,既存の文字を傾斜させる〈テヌー ten】〉,既存の同文字を二つ交差させる〈ギリムー gilim】〉と呼ばれる方法などが知られている(図3)。象形においては,対象の特徴的部分を抽象的に表現する傾向が強い。文字数が漢字に比べて少ないのは仮借と転注の方法が多用されているためである。音の類似による転用といえる仮借により表語文字の表音化が始まり,字義の類似による転用といえる転注により文字の多音化,多義化が発生した。例えば,太陽をかたどった文字は本来〈太陽 utu〉を表したと考えられるが,転注により〈日 ud〉〈白く輝く babbar〉〈白い dad〉〈清い zalag〉〈乾燥している e〉などを同時に表した。このような文字の多音化,多義化による使用上のあいまいさを避けるために,シュメール人は限定詞 determinative と音声補記という方法を案出した。限定詞はいわば漢字の偏に相当し,エジプトの象形文字にも同趣の方法が認められる。例えば犂をかたどった文字は〈犂 apin〉と同時に〈農夫 engar〉を表したが,犂には木を示す限定詞が,農夫には人を示す限定詞が使用された。限定詞として最初に使用されたのは神を示すもので,次々と多数の限定詞が作られた。神,人,木を表す限定詞は限定する文字の前に置かれるので〈前置限定詞〉,土地・国,魚,鳥などの限定詞は後に置かれるので〈後置限定詞〉と呼ばれる。この方法は他言語の表記においても継承された。限定詞は実際には発音されなかったと思われる。音声補記はいわば日本語の送りがなに相当し,エジプトの象形文字にも同じくふうが知られている。この方法は問題の文字が子音で終わり,次に母音で始まる文法要素が接続する場合にのみ使用することができた。例えば文法要素 a が接続する場合,この a は ud の場合には da となり,babbar,dad,zalag の場合にはそれぞれ ra,da,ga と書いて,前の文字がどの子音で終わるかを示したのである。この方法も他言語の表記に活用された。アッカド人,アッシリア人は楔形文字をセム語の表記に適応させるためさらに表音化と多音化の傾向を進展させている。例えば,山をかたどった文字は,シュメール語では〈山,国〉の意味でkur の音価をもつにすぎなかったが,〈国〉を意味するアッカド語の m「tu から新しい音価 mat を作り,〈山〉を意味するアッカド語 $「du から新しい音価 $ad を作った。そしてさらにこの二つの音価を基礎にして次々に mat,map,nad,nat,nap,lad,lat,lap,$at,$ap,sad,sat,sap などの音価を作り出している。したがって,アッカド語,アッシリア語の場合にはその判読がいっそう困難になる。
[解読史]  解読はまず古代ペルシアの楔形文字から着手された。古代ペルシアの遺跡で発見される3種類の楔形文字のうち字数が最も少ない碑文で,アケメネス朝時代のものと推定された刻文の中に,グローテフェントはある語がひんぱんに繰り返されることに気づき,これを〈王〉の称号と推定した。この語に規則正しく続く2群の語は父と息子という関係で結ばれた国王名と考え,その語が同じ文字で始まっていない点を考慮して,キュロスとカンビュセスを除外し,ダレイオスとクセルクセスの名を作業仮設として採用することによって解読の端緒を開いた。このあと多くの学者,特にヒンクス Edward Hincks,オッペール JulesOppert,ローリンソンらの努力により1846年にはペルセポリス碑文の全文字が解読された。対訳が得られたことにより,アッシリアの楔形文字もグローテフェント,ローリンソン,ヒンクス,オッペールらの努力で57年にその解読が公認されるにいたる。また1929年北シリアのラス・シャムラで発見されたウガリト王国の楔形文字は,ドルムEdouard Dhorme とバウアー Hans Bauer がフェニキア語の知識を援用して,その翌年,解読に成功した。⇒アッシリア学∥粘土板文書  吉川 守

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楔形文字(くさびがたもじ)
I プロローグ

楔形文字 くさびがたもじ 楔(くさび)の形をした字画をもちいた文字で、「せっけいもじ」ともよむ。主として粘土板(→ 粘土板文書)の上にほられているが、石、金属、ろうなどの材料でできた板にほられていることもある。西アジアの古代民族によってもちいられた。楔形文字で書かれたもっとも古い文献は、およそ5000年前のもので、現代のアルファベットの起源であるフェニキア文字よりも1500年近く前である。発見されたもっとも新しい楔形文字の碑文は、1世紀のものである。

楔形文字の発祥の地はメソポタミア南部で、おそらくシュメール人によって考案されたものと考えられる。彼らは、自分たちの言語であるシュメール語をしるすために楔形文字をもちいた。この文字は、のちになって、アッカド語やその方言であるバビロニア語やアッシリア語をしるすのにもちいられるようになった。アッカド語は、シュメール文明下で国際的に使用される言語となり、古代中東全域の学校でまなばれることになったため、楔形文字は小アジア、シリア、ペルシャにひろがった。また、外交文書を通じてエジプトにもつたえられた。

さらに楔形文字は、アッカド語以外の各地域の言語をしるすためにももちいられるようになり、メソポタミア北部、シリアおよび小アジアのフルリ語、シリアのエブラ語、小アジアのヒッタイト語、ルウィ語、パラ語、ハッティ語、アルメニアのウラルトゥ語、ペルシャのエラム語などでつかわれた。

楔をつかって文字をほることは同じだが、バビロニアの文字とは形や用法のことなった新しい文字も考案された。そのような文字としては、セム系の言語であるウガリト語(→ ウガリト)をしるすためのウガリト文字や、アケメネス朝時代のペルシャ(前550頃~前330頃)ではなされていた古代ペルシャ語をしるすための古代ペルシャ文字がある(→ ペルシャ語)。

II 初期の楔形文字

もっとも初期の楔形文字は象形文字であった。しかし、楔形文字用の特別の道具で、やわらかい粘土の上に字画をきざむのは、象形文字の不規則な線よりも、まっすぐな線のほうがはるかに楽だった。このため、先のとがった字画をきざむのに便利な、葦(あし)でできた筆が発明され、象形文字の形は、しだいに楔の形の字画から構成されるものにかわっていった。そして、この楔の形の字画からなる文字が様式化されて、もとの象形文字とはかなりちがった形になったのである。

もとは、楔形文字のひとつひとつが意味をもつ単語だった。具体的な形でその意味をあらわすことのできない単語は、関連した意味をもつ象形文字であらわされていた。たとえば、「よい」という意味は星をあらわす文字で、「立つ」や「歩く」という意味は足をあらわす文字であらわされていた。したがって、いくつもの意味をもつ文字も一部にはあった。

シュメール語の単語は大部分が1音節からなっていたため、しだいに単語をしるした文字は意味に無関係に音節だけをあらわすようになっていった。ただ、1つの文字が1つの音節をあらわすというわけではなく、1つの文字にいくつかの意味があって、それぞれ読み方がちがう場合には、その文字は複数の音節をあらわした。このように、1つの文字で複数の音をあらわすものを「多音字」という。いっぽう、シュメール語には、意味がちがっていても同じ音節に対応するものもたくさんあった。したがって、1つの音節が複数の文字であらわされることもあった。

楔形文字は、最終的には600以上もの文字をもつようになった。このうちの約半分は表意文字と音節文字の両方としてつかわれたが、残りは表意文字としてだけつかわれた。表意文字の中には、単語の属している種別(人間、木、石など)をあらわす限定詞としてもちいられるものもあった。このような限定詞は、漢字でいえば偏にあたるものである。表意文字と音節文字がまじりあった文字体系は、楔形文字の歴史を通じて存続した。

楔形文字がシュメール語以外の言語をしるすためにももちいられるようになると、表意文字は、日本語で漢字を訓読みしたように、その言語で同じ意味をあらわす単語のもつ音でよまれたときには、表意文字や多音字の数をへらして、文字の体系を単純にする試みがなされたこともあったが、アルファベットのように1つの文字が1つの音をあらわすしくみは、標準的な楔形文字では、ついに実現しなかった。ただ、ウガリト文字と古代ペルシャ文字では、1字1音のしくみにまで単純化している。

III 解読の歴史

イランにあるペルセポリスの遺跡などで、古代の旅行者が楔形文字の書かれた粘土板をみつけても、それがどんな意味をあらわしているかわかる者はいなかった。1621年にイタリアの旅行家デラ・バレは、イラン西部のビストゥンにある山壁にきざまれた413行の碑文をみつけ、そのうちの一部を記録した。74年にフランスの商人シャルダンが、すべての楔形文字のリストを出版し、碑文はつねに3種類のたがいに平行した関係にある形の文字であらわされていることを指摘した。

しかし、ビストゥン碑文を解読するための本当の意味での第一歩をしるしたのは、ドイツの旅行家ニーブールであった。彼は、1761~67年におこなわれたデンマークの中東への学術探検隊に参加し、3種類の文字が同じ内容の文章をしるしていることを解読し、77年にビストゥン碑文の最初の正確で完全なテキストを公刊した。ビストゥン碑文は、ペルシャ王ダレイオス1世のもので、ペルシャ語とエラム語とバビロニア語で、それぞれの楔形文字をもちいてしるされていた。この3種類の文字は、アケメネス朝の王たちによって、3つの属国に対して布告をつたえるためにもちいられたものであった。

1 ペルシャ語の楔形文字

3つの文字のうち、最初に解読されたのはペルシャ語の楔形文字であった。まず、ドイツの学者テュクセンとグローテフェントおよびデンマークの文献学者ラスクが、それぞれ部分的に解読した。つづいて、フランスの東洋学者ビュルヌフが大部分の解読に成功し、イギリスのアッシリア学者ローリンソンも、自分で直接ビストゥンの山壁からうつしたテキストを独自に解釈し、その成果を1846年に公刊した。

ペルシャ語の楔形文字の解読は、古代ペルシャ語から変化した中期ペルシャ語「ハフラビー語」が知られていたため、ほかの文字よりも容易であった。ペルシャの楔形文字は、楔形文字のうちでももっとも単純で新しいものである。文字は36あって、そのほとんどが1つの音をあらわしているが、簡単な音節をあらわす文字もいくつかある。また、単語の切れ目をしめす記号もふくまれている。ペルシャ語の楔形文字がつかわれたのは、前550~前330年ころとされている。この文字で書かれたもっとも古い文献はパサルガダエのキュロス大王の碑文であり、もっとも新しい文献はペルセポリスのアルタクセルクセス3世(在位、前358?~前338)の碑文であると考えられている。

2 エラム語の楔形文字

エラム語の楔形文字は、3カ国語で書かれたビストゥン碑文の2番目の位置にあらわれている。最初にこの文字の解読をこころみたのは、デンマークの東洋学者ウェステルゴールで、1844年のことであった。エラム語の場合、この言語に関係のある現代語やこれまでに関係が知られている言語がないため、同じ内容のほかの言語で書かれたテキストとの対照が解読に重要な役割をはたす。エラム語の文字は、96の音節文字、16の表意文字、5つの限定詞からなるが、まだ解読されていない文字もいくつかある。

3 バビロニア語の楔形文字

バビロニア語の楔形文字は、フランスの東洋学者オッペール、アイルランドの東洋学者ヒンクス、フランスの考古学者ド・ソールシーとローリンソンの協力によって解読された。バビロニア語が、よく知られたセム系の言語の方言に類似していることが、解読の助けになった。

バビロニア語の楔形文字でしるされた古代の碑文は、バビロン、ニネベなどのユーフラテス川とチグリス川の沿岸地域でも数多く発見されているが、ビストゥン碑文によって解読の手がかりがあたえられた。バビロニアの楔形文字は、印章、円柱、オベリスク、石像、宮殿の壁などにきざまれている。また、この文字をきざんだ粘土板も大量に発見されている。文字はひじょうに小さいものが多く、2.5センチの幅に6行も書かれている場合もある。

IV 最近の研究

象形文字がしるされた初期の碑文が発見されるまでは、楔形文字がもとは象形文字だったという確実な証拠はなかった。1897年にドイツの学者デリッチは、楔形文字がもとは象形文字だったという説に異論をとなえ、楔形文字は比較的少ない数の簡単な文字から発達してきたのだと主張した。彼の説は、そのような簡単な文字をくみあわせることによって、数百もの楔形文字がつくられるようになったというものである。この説は、ある程度の賛同をえたが、ほとんどの学者は象形文字起源説のほうを支持していた。象形文字起源説は、最終的には、アメリカの東洋学者バートンの「バビロニア文字の起源と発達」によって、1913年にみとめられることになる。この本には、初期の楔形文字の碑文にしるされた288の象形文字がのせられ、その象形文字の発達についてしるされていた。

また、1928~31年にドイツの考古学者たちがイラクにある古代都市ウルクの遺跡を発掘した結果、粘土板にきざまれた、現在知られている最古の象形文字がみつかっている。

楔形文字の解読により、古代アッシリアやバビロニア、中東地域一般についての事柄が、相当程度わかるようになった。楔形文字でしるされたハンムラピ法典は、紀元前の時代のもっとも重要な文書のひとつである。古代エジプトの歴史を解明する手がかりをあたえる楔形文字の碑文もある。1929年シリア北部のラス・シャムラでフランスがおこなった発掘によって発見された楔形文字は、子音をあらわしており、前1400~前1200年ころにつかわれたものと推定されている。このいわゆるラス・シャムラ楔形文字で書かれた神話は、古代シリアの宗教儀式を解明する手がかりとなり、聖書の内容の再解釈にもかかわってくるものである。

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象形文字
象形文字

しょうけいもじ
hieroglyphs

  

ヒエログリフともいい,絵を基本とする文字体系をいう。 hieroglyphとは「神の御言葉」という意味のエジプト語をギリシア語訳にしたもので,「神聖なる刻字」を意味する。エジプトの象形文字の萌芽はセマイネー期においてみられるが,それが急速に発展したのはティニト期に入ってからである。今日「象形文字」の語は古代エジプトの文字だけでなく,ヒッタイトの古代文字,メソポタミアの楔形文字の原形,クレタの文字,漢字の原形,マヤの文字などを呼ぶ際にも用いられる。





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象形文字
しょうけいもじ

漢字の〈日〉という字はもと冥と書かれ,〈月〉という字は匏と書かれ(ともに金文),元来太陽や月の形にかたどったものである。このほかにも〈鳥〉とか〈馬〉のような漢字も同様に鳥の形,馬の形を模したものである。このように物の形にかたどって作られた文字を中国では先秦時代から〈象形〉と呼び,象形文字は漢字の最も原始的な姿であった。象形文字は,漢字に限らない。古代エジプト文字すなわちヒエログリフ(聖刻文字)は典型的な象形文字であって,その装飾的字体は人,獣,鳥,ヘビ,器などの姿を如実に示している。メソポタミアの楔形(くさびがた)文字の原形も象形による文字であり,おそらくこのシュメール文字と関係のある原始エラム文字,またインダス文化の出土品にみられる原始インド文字(インド系文字),あるいは目下解読されつつあるクレタ文字,その影響と思われるヒッタイト文字など古代の原始的文字はみな象形文字である。これら古代文字の原始形態が象形にあることは,これらがいずれもいわゆる絵文字 pictograph から発生したことを物語る。絵文字は図形あるいはその結合によってある観念を示すもので,北アメリカのインディアンの間などにみられる絵による伝達などがそれである。また諸所に残されている岩石彫刻にも絵文字が認められる。絵文字はその絵とそれが示す観念との関係がその場限りのものであって,一定の絵と一定の観念が慣習的に結びついていない。文字は一種の言語記号として社会慣習的なものでなければならない。したがって絵文字は文字の前段階を示すが,文字ではない。それは言語と連合してはじめて文字となる。かくてエジプト,メソポタミア,中国そのほかにおいて絵文字はそれぞれの言語,すなわち(古代)エジプト語,シュメール語,あるいは中国語などと結びついて古代の象形文字の誕生をみたのである。
 図形と言語の連合はまず一つの図形と一つの単語の結びつきから始まった。中国の冥は中国語の単語 na♂t(太陽の意)と,エジプトの匕はエジプト語の rc(口)と,シュメールの匚(匣)はシュメール語の a(水)と連合した。このように単語を示す文字を表語文字 logograph という。しかし中国語はいわゆる孤立語であり,かつその単語が原則として単音節であったため一つの文字は一つの語に結びついたまま固定化したが,ほかの言語は多少とも多音節語から成っていたので,1字1語の原則は守られず,一つの文字の示す語の音構成の全部または一部を利用して表音的にその文字を使用するにいたった。シュメール文字(楔形文字)の匣は a(水)を示すとともに a という音節を示すのに用いられ,またエジプト文字の匯は rc(口)を表すとともに,その頭音の r を表すのに使われた。こうして音節文字ないしアルファベット文字の発生をみることになったのである。図形と言語との連合はしだいにその図形を記号化させ,漸次その原始的な象形形態を崩壊させていった。漢字の匱は楷書では〈水〉と書き,もはや水の流動的姿態を失っているし,エジプト文字もその装飾的字体では依然絵の状態を保っていたが,その行書体(神官文字 hieratic)ではすでにその原形に遠く,その草書体(デモティック文字 demotic(民衆文字))にいたっては漢字の草書と同様まったく象形性を喪失している。シュメール文字ではその変形はいっそうはなはだしく,いわゆる楔形文字となって絵画的様相は全然みられなくなった。これらはいずれも図形の記号化にもとづき,その書写具の性質と変遷によって変容をとげたのである。
 古代象形文字のうち最も古いのはシュメール象形文字で,前3100年ころにメソポタミア南方に発生した。その数世紀後に原始エラム文字(未解読)が現れるが,おそらくシュメール文字の影響のもとにできたといわれ,また原始インド文字も同様にシュメールの影響といわれる(前3千年紀後半)。ヒエログリフが作られたのはだいたい前3000年で,この時期のエジプト文化にはメソポタミア文化の強い感化があって,その文字もおそらくシュメール文字の刺激によるという説がある。いわゆるエーゲ群の文字のうちクレタ文字は前2000年ころから知られ,ヒッタイト象形文字は前1500‐前700年の間用いられた。クレタはその歴史を通じてエジプト文化の影響下にあり,ヒッタイトはクレタ文化との関連がある。中国では前1300年ころからいわゆる甲骨文字(甲骨文)が知られている。これもインダス文明を媒介として結局はシュメール文字につながるとすれば,象形文字の起原も案外単一で,人類が文字を創造したのはメソポタミアにおいてであったという説もある。⇒文字      河野 六郎

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象形文字
象形文字 しょうけいもじ 具体的な物の形をかたどってつくった文字。表意文字のひとつで、絵文字から発達した。古代エジプト文字(→ ヒエログリフ)や中国の古代文字などが有名で、現在も祭礼などにつかわれているものには東巴文字(トンパ文字)がある。

象形文字は、漢字の成り立ちや使い方を説明した六書のひとつである。漢字の中で、物の形をかたどっており、例をあげると「山、日、月、川、魚、鳥、人」などである。

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リュキア語
リュキア語

リュキアご
Lycian language

  

小アジア南西部で話されていた言語で,いわゆるアナトリア諸語の一つ。前5~2世紀の,ギリシア文字に由来するアルファベットで書かれた 200あまりの碑文や貨幣の銘から知られる。インド=ヨーロッパ語族に属し,ルウィ語と関係が深いと考えられている。





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トカラ語
トカラ語

トカラご
Tocharian language

  

トルキスタン地方 (現在は中国のシンチヤン〈新疆〉ウイグル自治区) のタリム盆地で話されていた言語。 19世紀末から発見された,ブラーフミー文字で書かれた 500~700年頃の文献で知られるが,現在は死語。インド=ヨーロッパ語族に属し,ケントゥム語群に入るが,独自の特徴をそなえていて一つの独立した語派をなすとみられている。A,Bと呼ばれる2つの方言が知られている。



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トカラ語
トカラご Tocharian

東トルキスタンのトゥルファン,カラシャール,クチャなどで発見されたインド系のブラーフミー文字文献中の言語。トハラ語ともいう。系統的にはインド・ヨーロッパ語族に属し,独立した一語派をなす。地理的に見れば,インド・ヨーロッパ語族中でインド・アーリヤ諸語と並びその最も東に位置している。トカラ語文献はおよそ6世紀から8世紀の間に書かれたものと推定されるが,この言語は10世紀ごろにはウイグル族に征服され死語になったものと思われる。トカラ語は A 語,B 語の2種に分類できる。しかし A・B 間にみられる言語特徴の違いが何によるものかはまだ決定されていない。A 語は仏典にのみ用いられ,B 語より整理された構造をもつことから,これを仏典用文語であったとし,一方,B 語はいくつかの小方言を内在し,仏典のほかに手紙や医学書などの世俗文献を書き残しているので,口語とする説が有力である。トカラ語という名称は,この言語(A 語)がウイグル族によってトクリ(トフリ)Toxiri 語と呼ばれていたとするドイツの学者 F. W. K. ミュラーの見解にもとづくものだが,これは必ずしも適当ではなく,トカラ A語をその文献の出土地域の中心であるカラシャールの旧名をとってアグニ語とし,B 語をクチャ語あるいはクチ語と呼ぶことが行われる。トカラ語はインド・ヨーロッパ語のいくつかの古い特徴を保存しているが,他のどの語派と近親関係にあるかはまだ不明である。             庄垣内 正弘

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ブラーフミー文字
ブラーフミー文字

ブラーフミーもじ
Brhm alphabet

  

古代インドで用いられた文字。セム系のアルファベットを母体にしてできたものと考えられる。知られている最古のものは前4世紀。古代インドには,これと並んでカローシュティー文字があったが,ブラーフミー文字がこれを圧倒した。4世紀頃のインドで用いられたグプタ文字,中国,日本に伝わった悉曇 (しったん) 文字,現在インドの諸地方で用いられているデーバナーガリー文字はブラーフミー文字を母体としている。





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ブラーフミー文字
ブラーフミーもじ Br´hm ̄

古代インドの文字。アショーカ王碑文はこの文字で刻まれている。グプタ朝期には地域差が現れ,6世紀にかけてそれが明確となり,南北両系に分かれた。10世紀ころから12世紀にかけて,近代インド諸言語(タミル語を除く)が徐々に発達し,それぞれ独自の文学をもって登場するようになると,これに促され,12世紀から16世紀にかけ,南北各ブラーフミー文字から派生して現行インド系文字(ウルドゥー,シンディー,カシミーリーを除く)が成立した。                    田中 敏雄

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カローシュティー文字
カローシュティー文字

カローシュティーもじ
Kharoh

  

古代インドで用いられた文字の一つ。音節文字で,252字から成る。アケメネス朝ペルシアで用いられた北セム系のアラム文字が,ペルシアの支配下におかれた北西インドで発達してできたもの。前3世紀のアショーカ王の碑文が現存最古のものである。3世紀までには,東トルキスタン各地に広まった。その後ブラーフミー文字に取って代られ,5世紀以後の文献は発見されていない。





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カローシュティー文字
カローシュティーもじ Kharooph ̄

古代,西北インド,北インドから中央アジアで用いられていた文字。前518年,ダレイオス1世はインダス川流域に侵入し,インダス川以西をアケメネス朝の属州とした。この文字は前5世紀ころ,ブラーフミー文字を知っているものが,アラム文字を借用して,この地の言語を便宜的に表記するために考案したものとされている。ハザーラーのマーンセヘラーとペシャーワルのシャーバーズ・ガリーより,アショーカ王による磨崖碑文が発見されているが,この文字で刻まれており,前3世紀ころにはこの文字が普及していたことがわかる。アショーカ王以後も,シャカ,クシャーナ朝の諸王によって採用されたが,5世紀以降,ブラーフミー系文字と交代し,その後,忘れ去られてしまった。19世紀には解読され,仏教,ジャイナ教の文献および《法苑珠林(ほうおんじゆりん)》から,カローッティー,カローシュティーの名称が確認されたが,起源については諸説がある。       田中 敏雄

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グプタ文字
グプタ文字

グプタもじ
Gupta scripts

  

インドで4世紀頃生れたアルファベット。古代インドのブラーフミー文字が変遷して,北方系と南方系の2系統に分れた,その北方系に属する。インド文字の大多数はこれに由来する。





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グプタ文字
グプタもじ

古代のインドの文字であるブラーフミー文字のうち北方系のもの。グプタ朝期に,バラモン教学の体系化,法典類の整備が進められ,サンスクリット文学は最盛期に入り,美術工芸,天文学,数学,医学の各分野で進歩が見られた。これは各分野にわたって膨大な文書,文献が書かれたことを意味し,書字材料,技法の進歩を示唆する。これまでのブラーフミー文字と比べると,より速く書け,装飾を施し,しかも均斉美を重視する傾向が見られるようになった。アラーハーバードにあるグプタ朝の王サムドラグプタの碑文(350年ころ)は代表例としてよく知られている。この文字は,5,6世紀に西北インドを経由して中央アジアに入り,カローシュティー文字に取って代わった。⇒インド系文字                     田中 敏雄

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デーバナーガリー文字
デーバナーガリー文字

デーバナーガリーもじ
Devangar

  

インドでサンスクリット語を書くのに用いられる文字。ブラーフミー文字に由来するナーガリー文字を母体とする。7世紀頃にインドで発達。 10世紀以後は形態も整い,現今一般に普及した文字の総称となった。サンスクリット文献の出版に使用されるほか,ヒンディー語,ネパール語などをはじめとする近代インド=アーリア語に用いられている。母音字には語頭で用いられる独立文字と,子音+母音の音節を表わす文字で子音字に付属させる半体符号とがあるが,独立に用いられた子音字は常にa音を含んでいる。したがって,アルファベット的要素から成る音節文字ということができる。





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デーバナーガリー文字
デーバナーガリーもじ Devan´gar ̄

インドの文字(図)。古代インドの文字であるブラーフミー文字の系統に属する。8世紀ころ,ラージャスターン,マールワー,マトゥラー,ガンガー(ガンジス)川中流域を中心に形成され,9世紀ころから広く普及し始め,10世紀以降,シッダマートリカーSiddham´tnk´ 文字に取って代わるようになった。汎インド的性格をもつようになると,その名に〈デーバ(神)〉が付けられ神聖化されるようになった。現行デーバナーガリー文字によって,ヒンディー語,マラーティー語といった言語人口のかなり多い近代インド諸言語が表記されるほか,長く古典語サンスクリットの文字ともなっており,その点でインドの文字言語における重要な媒体であるといえる。                   田中 敏雄

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ナーガリー文字
ナーガリー文字

ナーガリーもじ
Ngar script

  

グプタ文字の系統をひく,インドの文字。残っている最古の文献は7世紀のもの。各文字の上部の横線を特徴とする。ナーガリー文字から発展した代表的な文字がデーバナーガリー文字である。南インドにみられる変種はナンディーナーガリーと呼ばれる。





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