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弥縫策としての心理学(その10) [哲学・心理学]

無意識
無意識

むいしき
unconscious

  

記述的,局所的,力動的の3つの使い方がある。記述的には,ある時点で意識されない事象ないし行動をさす。局所的には,意志によって意識化できる局所を前意識と呼び,これに対して,抑圧を解く操作 (催眠など) によって初めて意識化可能になる局所を無意識という。また力動的には,無意識の内容を取上げる。 17世紀から「意識されない自己心」が論議されていたが,19世紀末に哲学的には F.W.ニーチェが,心理学的には S.フロイトがこの概念を明確にした。心理学では,意識されることなく精神内界で進行する心理過程を無意識という。フロイトは,自分では認識できなくてもこのような無意識過程は個人の行動を大いに左右すると主張して,現代心理学に強い影響を与えた。





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[ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 2008]


無意識
むいしき unconscious

一般的には現在の意識野に現れてこないすべての心的内容をいうが,特に S. フロイトの精神分析理論において重要な地位を占める概念。K. ヤスパースによれば,無意識には,根本的に意識化することの不可能な意識外の機構(すなわち精神的なものの下部構造)と目下は無意識だが〈気づかれるようになりうるもの〉との二つがある。これに従えばフロイトの唱える無意識は,あくまで後者の,さしあたり現在の心の中には認められぬものに属する。
 フロイトの無意識の概念は,主として神経症の臨床経験に基づいており,すぐれて力動的な概念である。神経症者がみずから意識できる損藤に治療者がいかにとり組んでも神経症は治癒せず,患者が意識できぬ損藤を精神分析療法によって推察しうるものとし,適切な解釈を通して患者に意識化させることによってはじめて治癒への道が開かれることをフロイトは経験した。この場合の無意識損藤は,ヤスパースのいう〈気づかれるようになりうるもの〉であって,フロイトによって前意識と呼ばれる。精神分析療法に対する抵抗が取り除かれると患者の脳裡に浮かび上がってくるのがこの前意識的な表象である。
 しかし前意識の深部にはさらに本来の無意識がある。このもっぱら欲動によって構成されている無意識それ自体は,心的領域と身体領域の境界概念――これはヤスパースのいう意識外の機構に近い――であって,決して意識化されることはないが,この活動の代理表象は願望とか幻想という形をとって意識化されうる。この無意識はエネルギーと浮上力とをもち,たえず前意識のなかに侵入しようとし,一方無意識の側からも同時に抑止的な影響を受ける。健康人の覚醒時の精神生活に無意識がその片鱗をのぞかせることははなはだまれだが,いいちがい,やりそこないといった失錯行為と夢とにそれは現れる。ことに夢はフロイトが〈無意識にいたる王道〉であるといったように,無意識の形成と内容とを推測させる好材料である。無意識の内容は混沌とした〈一次過程〉であり,欲動のエネルギーによって強力に備給されており,無時間的であり,快楽原則に支配されている。神経症の示すさまざまな症状は,いわば形成された夢と等価であり,無意識の欲動表象とこれを抑圧せんとする自我との損藤の妥協的形成物とみなされる。精神分裂病においては,自我の崩壊によって,むしろ無意識が露出してくるとみられる。このようにフロイトは初期の理論形成においては,〈第一の局所論〉と呼ばれる意識,前意識,無意識の系列を考え,無意識の占める領域が最も広いと考えた。後期の〈第二の局所論〉においては,エス(イド),自我,超自我の人格構造論が提示され,エスと第一の局所論における本来の無意識とはほぼ照応する。しかし同時に自我ならびに超自我の機能も無意識にとどまることが多いことが強調された。すなわち無意識の浮上を制御する自我の防衛機制も自我にとっては無意識的に自動的に発動されるものであり,超自我に迎合する自我の罪悪感や処罰されたい要求は,それが超自我の脅威に基づくものとは,当の個人にとって意識化されていないからである。
 なお,フロイトは個人的無意識を考えたわけだが,ユングはさらに普遍的無意識の存在を考えた。これは経験によって生じたものではなく超個人的な心的内容で,われわれの祖先の経験が遺伝したものと考えられている。⇒意識∥精神分析
                        下坂 幸三

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F.W.ニーチェ
ニーチェ

ニーチェ
Nietzsche,Friedrich (Wilhelm)

[生] 1844.10.15. ザクセン,レッケン
[没] 1900.8.25. ワイマール

  

ドイツの哲学者。 1869年バーゼル大学古典文献学教授となり,1870年普仏戦争に志願従軍,1879年健康すぐれず同大学の教授を辞任し,以後著述に専念したが,1889年精神病が昂じ,1900年に没した。アルツール・ショーペンハウアー,リヒアルト・ワーグナーの影響を受け,芸術の哲学的考察から出発し,ディオニュソス的精神からの文化の創造を主張したが,しだいに時代批判,ヨーロッパ文明批判に向かい,特に最高価値を保証する権威とされてきたキリスト教や近代の所産としての民主主義を,弱者の道徳として批判し,強者の道徳として生の立場からの新しい価値創造の哲学を,超人,永遠回帰,権力への意志,運命の愛 (→アモール・ファティ ) などの独特の概念を用いて主張した。ニーチェの哲学はナチスに利用されたこともあったが,今日ではセーレン・A.キルケゴールと並んで,実存哲学の先駆者,新しい価値論の提示者として新たに照明があてられている。日本では高山樗牛以来多くの人々により紹介,翻訳されている。主著『ツァラトゥストラはかく語りき』 Also sprach Zarathustra (1883~85) ,『権力への意志』 Der Wille zur Macht (1901) ,『善悪の彼岸』 Jenseits von Gut und Bse (1886) ,『道徳の系譜』 Zur Genealogie der Moral (87) など。





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ニーチェ 1844‐1900
Friedrich Wilhelm Nietzsche

ドイツの思想家。ザクセン州リュッツェン近郊のレッケンで,プロテスタントの牧師の家に長男として生まれた。父母ともに代々牧師の家庭である。こうした伝統のもついわゆるドイツ的内面性,内面性に必ずつきまとうある種のラディカリズム,さらに小市民性,そして小市民性に必ずつきまとうこの小市民性自身への批判は,ニーチェの思想的体質とでもいうものの重要な要素である。早く父を失ったが奨学金を得て名門ギムナジウムのシュールプフォルタ(プフォルタ学院)に入る。クロプシュトックやフィヒテも学んだこの寄宿制のギムナジウムは,ドイツ人文主義の精神に依拠してギリシア語,ラテン語の厳しい教育を行っていた。ここでの古代との出会いは彼の生涯を決定するものとなる。
 こうした古典古代を範としたゲーテ時代以来の新人文主義,しだいに危機に采しつつあるプロテスタント神学,そしておりから個別科学のうちにまで台頭しつつあった19世紀の代表的思想傾向としての歴史主義――これがニーチェの出発点となった時代の知的状況である。その背景には,ヘーゲルに代表される壮大な政治・社会思想としてのドイツ観念論の体系が,台頭しつつある新しい産業社会を前にして崩壊し,さらには1848年の革命に挫折し啓蒙の思想を実現しえなかった市民層が,新たな世界観的拠りどころを求めていたという事態がある。政治的幻滅の中で,政治的にはきわめて保守的なショーペンハウアーのペシミズムが流行のきざしを見せ,やはり革命失敗の苦い経験から政治と芸術の架橋を放棄し,〈総合芸術〉に19世紀の克服を求めた W. R. ワーグナーが知識人層および支配層の注目を引きはじめていたころである。ニーチェの思想形成は,こうした19世紀ドイツ市民社会の知的状況に深く根ざしている。
[ショーペンハウアー,ワーグナー,ブルクハルトとの出会い]  1864年ニーチェはボン大学に入り当初は母の希望もあって神学を学ぶが,すぐに古典文献学専攻に変わり,やがて師のリッチュル Friedrich Ritschl(1806‐76)の転任にともないライプチヒ大学に移る。ライプチヒで彼はショーペンハウアーの哲学を知り,ワーグナーの謦咳(けいがい)に接する。ショーペンハウアーの《意志と表象としての世界》をニーチェは偶然に古本屋で見かけ,表題への直感的な関心から購入し,魅入られるように一晩で読んだという。彼をひきつけたのは,われわれの生が〈生きんとする意志〉のエゴイズムであるというペシミスティックな世界観と,救済としての芸術というショーペンハウアーの思想である。またあるサロンでたまたまライプチヒ訪問中のワーグナーと知り合い,同じくショーペンハウアーに共鳴する彼の芸術思想やバイロイト祝祭劇場の計画に心酔する。こうしてショーペンハウアーのペシミズム,ワーグナーの音楽,そしてしだいに形成されつつある非人文主義的な独自のギリシア観,この3者の統合が若きニーチェの目ざすところとなる。
 69年ニーチェはその俊秀ぶりを認められて,学位取得以前であるにもかかわらずスイスのバーゼル大学の古典文献学教授に招聘される。弱冠24歳,異例の抜禽(ばつてき)である。バーゼルでは,ルネサンスを描いて有名な,またギリシア文化に単なる理性の明るさではなく,情念の深淵を見る老碩学ブルクハルトと知り合う。ブルクハルトに対する畏敬の念は波乱含みの彼の人間関係にあって最後まで変わらなかった。70年普仏戦争が勃発するとニーチェも志願して看護兵として従軍するが病を得て除隊する。
[《悲劇の誕生》]  この時期に書かれたのが処女作《悲劇の誕生》(1872)である。有名な〈アポロン的〉と〈ディオニュソス的〉の二つの概念を軸にして古代ギリシアにおける悲劇の成立,隆盛,そして没落が描かれている。アポロンは夢の神であると同時に,夢で見る光り輝く形象の神であり,その形象の規矩正しさという点で知性の鋭敏さに通じる神である。それに対してディオニュソスは,別名バッコスが示すように,陶酔と狂宴の神,生の底知れぬ情念とわき上がる歓喜の神である。また生存の苦悩がそのまま歓喜へと昇華する美の象徴ともなる。ニーチェはギリシア悲劇におけるコロスがディオニュソスの陶酔の歌であるとし,歴史的にもそこに悲劇の起源を見る。それに対して舞台上の俳優の所作はそのディオニュソスが見る美しい仮象としての夢の形象であるとされる。ディオニュソスはともすると単なる獣性に陥りやすく,アポロンはひからびた知性の不毛に退化しやすいが,その両者のせめぎ合いからアッティカ悲劇におけるたぐいまれな調和が達成され,ギリシア人の本来的ペシミズムが美によって救済されたとニーチェは論じる。そしてその世界を極端なアポロン性としてのソクラテスが不毛な知性主義によって解体したのだとされる。それ以後は現在に至るまでヨーロッパでは,アレクサンドリア的科学主義による人間の卑小化が続いているというのである。
 したがって《悲劇の誕生》は普通に言われているようにアポロンとディオニュソスの対立を描いたものではなく,両者のあるべき関係とあるべきでない関係との対立を描いたものである。本書の最後でニーチェは,ソクラテスによって崩壊せしめられたギリシア悲劇の世界がワーグナーの楽劇において再来することを願っている。過去の再解釈によって現代文化の創造を目ざしたきわめて実践的な書物であるといえる。だがこのようなもくろみは当然のことながら既成の学界の厳しい反発を招き,ニーチェは事実上アカデミズムから追放されてしまった。
[《反時代的考察》とワーグナーとの訣別]  この世間の無理解という経験を受けて,ニーチェは1873年から76年にかけて四つの《反時代的考察》と題した論文を出版する。第1論文《ダーフィト・シュトラウス,告白者にして著述家》(1873)では,普仏戦争の勝利がそのままドイツ文化の勝利であると思い込んだ市民層の代弁者 D. シュトラウスのうちに〈教養俗物〉の典型を見た鋭い批判がなされており,《生に対する歴史の利害》と題した第2論文(1874)では,事実を椿索するだけで思想を欠いた歴史主義が病気として診断されている。第3論文《教育者としてのショーペンハウアー》(1874)および第4論文《バイロイトにおけるリヒャルト・ワーグナー》(1876)では師と仰ぐショーペンハウアーとワーグナーがこうした時代においてもつ意義が説かれている。当時ワーグナーはスイスの〈四つの州の湖〉のほとりに家族と居を構え,《ニーベルングの指環》の完成に没頭しており,足繁く来訪するニーチェとのいわゆる〈星の友情〉が深まっていった。
 76年ついにバイロイトの祝祭劇場が完成し,そのこけら落しとして《ニーベルングの指環》の上演が皇帝の臨席のもとに行われた。ニーチェも当然招待されたが,そこで彼が見たのは,〈文化国民〉と称する思い上がりにとっぷり浸った醜悪なドイツ市民層と仲直りし,さらには彼らに追従するワーグナーの姿であり,ニーチェの嫌うキリスト教的中世的なものをドイツ的とみなし,それに帰ろうとする――やがてそれは《パルジファル》となって結実するが――ワーグナーの姿であった。ニーチェはいたたまれなくなり,田舎の保養地に逃げ出してしまう。ワーグナーとの友情の決裂であり,ここまでが通常ニーチェの思想的発展の初期とされている。
[アフォリズム群]  この1876年の冬ニーチェは病気のゆえに大学を休み,友人や,以前から知り合いの女性解放論者マイゼンブークとともにイタリアに行き,後に彼の思索に重要な役を占める地中海世界とラテン的な文化風土を知る。やがて彼の哲学のスタイルとなるアフォリズム(断想)を書きため出したのもこのころである。このアフォリズムをまとめて《人間的な,あまりに人間的な》(1878‐80)と題して世に出したが,これによっていわゆる中期の批判的思想が始まる。そこでは今まで偉大とされていた芸術家や宗教家の人間的な側面を剔抉(てつけつ)して,既成の偶像の暴露心理学的解体が試みられている。こうしたアフォリズムはドイツ語としても“からし”のきいたすぐれた文章で書かれており,後に彼がルター以来のドイツ語の最大の書き手と自慢するのも無理からぬほどのものである。
 だがワーグナーとの決裂の痛手もあって,年来の偏頭痛その他の病気はしだいに悪化し,79年には大学の職を辞し,その後の10年間は夏は主としてアルプスのエンガディーン地方,冬は地中海のほとりの保養地というように一所不住の漂泊の哲学者の生活を送りながら,哲学的散文を書き続ける。81年には《曙光》,82年には《華やぐ知慧》が次々と出る。いずれもアフォリズム集である。《曙光》では特に権力感情の分析が展開され,ヨーロッパ的価値観の底に潜むニヒリズムと〈力への意志〉という後期の問題関連の萌芽が認められる。《華やぐ知慧》には批判的解体に伴うペシミズムから新たな晴朗さへの回復がはっきりと認められる。この時期の81年,ニーチェはスイス・アルプスのシルバプラナ湖畔で永劫回帰の覚知に達し,いっさいが〈力への意志〉である以上,宇宙と歴史の変動は永遠に自己回帰を続ける瞬間からなっているとの思想を得ている。
[《ツァラトゥストラ》とそれ以後]  翌1882年にはザロメとの不幸な恋愛があったが,翌年初頭,ジェノバ郊外のポルトフィノで《ツァラトゥストラ》の着想を抱き,彼の言によれば,“嵐のような”筆の運びでまたたくまに第1部が完成した。この作品は第4部(1885)まで書かれるが,第4部になると出版者がつかず私家版で出さざるをえないほどに世間からは無視されていた。古代ペルシアのゾロアスター教の創始者ゾロアスター(ドイツ語でツァラトゥストラ)を主人公にしたこの哲学的物語は,山を出た主人公がさまざまな経験をしながら,永劫回帰の思想に到達し,その恐ろしさに耐えつつもこの思想を告知できるようになる〈大いなる正午〉が到来するまでの過程を描いたものである。ニーチェの書いたものの中で必ずしも最重要とは言えないが,その詩的表現,豊かな比喩のゆえに,《悲劇の誕生》と並んで最も有名になった作品である。そしてこの《ツァラトゥストラ》で後期の思想が始まったと普通に言われている。
 後期には〈力への意志〉,ニヒリズム,超人,永劫回帰,〈価値の転換〉といった中心的思想の多少なりとも連関した叙述をめざして,さまざまな変奏を加えたアフォリズムが書きつがれていく。《善悪の彼岸》(1886),《道徳の系譜学》(1887),《偶像の黄昏》(1889),《ニーチェ対ワーグナー》(1888脱稿),《ワーグナーの場合》(1888),《アンチキリスト》(1888脱稿),そして自伝的著作《この人を見よ》(1888脱稿)などがそうした作品群である。それらの中でニーチェはヨーロッパの形而上学,つまりキリスト教的プラトン的理念と価値観を,無の上に立てられた楼閣であり,基本的にはニヒリズムの現れであると論破し,このような旧来の価値の転換を〈力への意志〉と永劫回帰によって果たそうと試みている。《悲劇の誕生》の形姿で言えば,ソクラテスに代わるディオニュソスの美と力を価値の源泉にしようとする試みである。
 だがこうした哲学的な面と並んでニーチェのアフォリズムの中には,ドイツ文化についての深い洞察,モンテーニュ,モーツァルト,ハイネなど,敬愛してやまなかった人々への美しいオマージュがあることも忘れてはならない。さらに彼がワーグナーの対極に位置する南国的音楽として愛したビゼー,鋭い臭覚で見いだしたモーパッサン,バルザックなどフランスの作家たち,そして最晩年に強く関心を抱いたドストエフスキー,キルケゴールについてのアフォリズムや書簡を見ると,ニーチェがまさに19世紀の思想的危機を全身で生きていたことがわかる。
 だがそういうニーチェも特に《ツァラトゥストラ》以後は思想界から完全に忘れられた存在であった。たまに訪れる人があっても,結果として孤独感を深めることの方が多かった。ところが87‐88年ころになるとフランスのテーヌが好意的な評価を示し,デンマークの G. M. ブランデスが講義に取り上げ,再び顧みられる兆候が現れはじめた。しかしその直後89年1月ニーチェはトリノの街頭で発狂する。発狂後は妹と母親に引き取られ,影のような生活を送ったのち,1900年ワイマールで死去した。
[ニーチェ受容史]  1892‐93年ころからニーチェの名はしだいに広まり,90年代の終りには,ブランデスやザロメの評伝も手伝ってヨーロッパ中にニーチェ・ブームともいえるほどの熱狂が生じはじめた。ジッド(特に《地の糧》)や G. B. ショー(特に《人と超人》)の仕事にもニーチェの著作は大きな影響を与えたし,またドイツでもホフマンスタール,ムージル,T. マン,そして表現主義を含むモデルネの文学に深く多層的な影響を与えている。哲学的に本当にニーチェが消化されはじめたのは,第1次世界大戦によってニーチェの予言したヨーロッパのニヒリズムが顕在化した1920年代以降といえるが,やがてハイデッガー,ヤスパース,レーウィットなどのすぐれた解釈が陸続と現れはじめる。ナチスがニーチェを政治的に悪用したこともあって,第2次大戦後は一時期タブー視されていたが,ようやくフランスでのニーチェ受容をきっかけにして,今日ポスト構造主義的な読まれ方がドイツでも行われはじめている。
 日本ではすでに1901年に高山樗牛が,《太陽》掲載論文《美的生活を論ず》の中でニーチェを持ち上げて以来,特に《ツァラトゥストラ》が,やがては《人間的な,あまりに人間的な》などのアフォリズム群が広く読まれはじめた。13年に出た和嶋哲郎の《ニイチェ研究》は当時としては世界的に見てもきわめてすぐれた解釈である。しかし全体的には大正教養主義以降の知識人たちの中では,ニーチェはヨーロッパの思想史的コンテクストを離れて人生論的に語られることが多く,ようやく第2次大戦後になって氷上英広や,ハイデッガーを介した渡辺二郎らによって本格的研究が進み,ヨーロッパ思想の枠組みに置き入れ直されたニーチェとの思想的対決が行われはじめたといえる。⇒ニヒリズム                   三島 憲一

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ニーチェ,F.W.
I プロローグ

ニーチェ Friedrich Wilhelm Nietzsche 1844~1900 ドイツの哲学者・詩人・古典文献学者。19世紀末から20世紀にかけてきわめて刺激的な影響力をもった思想家である。

II 生涯と著作

プロイセンのレッケン生まれ。ルター派の牧師であった父が5歳のときに死に、母親にそだてられた。ボン大学とライプツィヒ大学で古典文献学をまなんだのち、24歳でバーゼル大学の古典文献学教授としてまねかれた。彼は病気がちで、終生弱視と偏頭痛になやまされていた。79年に病気が悪化したため、大学をやめ、その10年後に発狂。回復することなく、ワイマールで死亡した。

ニーチェに影響をあたえたのは、古典文献学研究でまなんだ初期ギリシャ哲学、意志の哲学をといたショーペンハウアー、進化論、そして音楽家のワーグナーである。

じつに多作であったニーチェの著作のうち重要なのは、「悲劇の誕生」(1872)、「ツァラトゥストラはこう語った」(1883~85)、「善悪の彼岸」(1886)、「道徳の系譜学」(1887)、「アンチキリスト」(1888)、「この人を見よ」(1889)、そして遺稿「力への意志」(1901)である。

III 思想

ニーチェの基本的発想のひとつは、キリスト教によって代表されるような伝統的価値が当時の人々の生活において効力をうしなったという洞察である。この洞察を彼は「神は死んだ」という言葉で要約した。彼によれば、伝統的価値は「奴隷道徳」を体現している。この道徳は、強者に怨念(おんねん)や恨み(ルサンチマン)をいだいた弱者がつくりあげたもので、やさしさとか温情といった言葉で形容される行動をほめあげるが、しかし、こうした行動は弱者の利益にかなうものでしかない。彼はこうした伝統的価値にかわる新しい価値の創造を提唱し、そうした価値の体現者として「超人」をえがいてみせた。

ニーチェにいわせれば、むれて徒党をくむ大衆が伝統的価値に迎合するのに対して、超人は不撓(ふとう)不屈の孤高の人間である。彼の感情は人間存在の深淵(しんえん)にとどきながらも、自制心をうしなわない。超人は、宗教が約束する来世の因果応報をきっぱりと拒否して、人生においてさけがたい受難や苦痛もふくめた現世を肯定する。彼が創造する「君主道徳」とは、既成のすべての価値から自由な人間の強さと自立のあかしである。こうした超人の創造力としてニーチェが想定したのが、「力への意志」である。ショーペンハウアーの「生への意志」が誤謬(ごびゅう)を生む消極的な概念であったのに対して、「力への意志」には、創造性にとって不可欠な「自分自身をのりこえる」という意味がこめられている。

こうした主張の背後には、ニーチェの辛辣(しんらつ)な西洋哲学批判があった。彼は、西洋思想の歴史は、プラトンのイデアやキリスト教道徳といった本当はありもしない超越的な価値を信じてきたニヒリズムの歴史であるとし、このニヒリズムが表面にあらわれてくるわれわれの20世紀を予言した。そして、ニヒリズムの極限形態としての「永遠回帰」を肯定し、「力への意志」をもつことで、このニヒリズムを克服しなければならないと考えた。

IV 影響

ニーチェの超人思想は、奴隷制社会を肯定し、全体主義を正当化するものとして解釈されたこともある。実際、ナチズムがこうした曲解によってニーチェを利用した。しかし、こうした誤解にもかかわらず、彼の思想はドイツ文学や現代哲学に大きな影響をあたえた。文学への影響はムージルやトーマス・マンあるいは表現主義にその足跡をたどることができるし、哲学ではヤスパース、ハイデッガー、カミュ、サルトルといった実存主義の哲学者にニーチェの影響がみとめられる。日本では1901年(明治34)に高山樗牛がニーチェを紹介してから、大正教養世代の人生論の必読書になった。


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超人
超人

ちょうじん
bermensch

  

中間者としての人間が克服された結果,存在することになった絶対者のこと。この超人の概念はすでにルキアノスの hyperanthrposというギリシア語に始まり,アダム・H.ミュラー,ヨハン・G.ヘルダー,ヨハン・ウォルフガング・フォン・ゲーテ,テオドール・ゴットリープ・フォン・ヒッペル,ジャン・パウルらにおいて見出されるが,思想として哲学的に深められたのはフリードリヒ・W.ニーチェにおいてである。ニーチェは著書『ツァラトゥストラはかく語りき』で,超人の具体像こそはツァラトゥストラであり,キリスト教の神に代わる人類の支配者で,民衆はその服従者でしかないと唱えた。また超人の正反対の存在として末人 der letzte Menschがあるとも記した。ニーチェの超人思想はのちの時代,たとえばナチスにより曲解されたこともあったが,現代では実存主義哲学の立場などから新たな光があてられている。





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超人
ちょうじん ンbermensch[ドイツ]

ドイツの哲学者ニーチェの著作《ツァラトゥストラ》(1883‐85)の中で,人間にとっての新たな指針(和嶋哲郎の用語では〈方向価値〉)として情熱的に説かれた言葉。その熱っぽさが,19世紀末の微温的市民社会と精神的閉塞状況からの脱出を願う青年知識層に広く迎えられた。超人は民衆を離れ,孤高の中で人間の卑小さの絶えざる克服をめざす。超人は人間という〈暗雲〉からひらめく〈稲妻〉〈狂気〉である。〈人間は動物と超人とのあいだに張りわたされた一本の綱なのだ〉。人間の新たな可能性を求めるこの超人を導く原理は,生と芸術の根源に潜む〈力への意志〉である。既成のキリスト教道徳を否定した,新たな美的で情熱的な生への志向がここにある。後に G. B. ショーはこのテーマを男女関係の次元で戯曲化し《人と超人》を書いた。しかし超人概念は,〈金髪の野獣〉といったニーチェの言葉とともに,やがてナチスのイデオロギーの中で悪用されることにもなる。
                        三島 憲一

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永遠回帰
永遠回帰

えいえんかいき
ewige Wiederkunft

  

古来,ピタゴラス学派,ヘラクレイトス,ストア派などによって説かれた,世界の出来事は円環運動を行なって永遠に繰返すという思想に,ニーチェは道徳的な意味を付与した。すなわち,生の各瞬間はもはや単に過ぎ行く現象ではなく,無限回も生起し回帰するがゆえに永遠の価値をもつものとされる。彼岸の生活などに希望を託さず,その一切の喜びや苦悩とともに現実の生を英雄的に肯定するという立場から説かれる。





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ピタゴラス
ピタゴラス学派

ピタゴラスがくは
Pythagoreans

  

前6世紀前半クロトンでピタゴラスにより創設された宗教的学問的教団。清浄な生活と学問の研鑽を目的とし,きびしい戒律と固い団結を有していたといわれる。アリストテレスは世界解釈の原理としての教論をピタゴラス派の人々に帰しているが,初期の学徒も書物を残さなかったので確かなことはわからない。ピタゴラスはみずからの正統的後継者を Pythagoreioiと呼び,それに従う者を Pythagoristaiと呼んだ。しかし彼の死後学統はアルキタスやアリストクセノスら特に数学や音楽など学問に志す学問生 mathmatikoiと,教団の倫理的宗教的伝統を継承する人々akousmatikoiに分れた。





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ピタゴラス
Pythagoras

前6世紀に活躍したギリシアの哲学者。ギリシア語で正しくはピュタゴラス。生没年不詳。サモスの商人ムネサルコスが,妻を伴ってデルフォイのアポロン神殿(ピュティア)に参詣したとき授かった子なので,〈アポロンの代弁者〉という意味でピタゴラスと名づけられたという。若いころサモスでイオニア哲学を修め,親友のポリュクラテスとともに政治改革に乗り出した。この試みは成功を収めるが,ポリュクラテスがしだいに独裁者となっていくのを批判し,故国を出奔した。30歳前後のころと思われる。その後30年間,世界各地に密儀伝授を求めて遍歴し,エジプト,ペルシア,中央アジア,ガリア,インドと足跡の及ばぬ所はなく,当時のありとあらゆる学問を身につけたと伝えられ,その博学多識は多くの古代作家に驚嘆されている。60歳前後,南イタリアのクロトンに居を定め,そこに密儀の学校としてピタゴラス教団を創立した。この教団はたちまち隆盛を極め,その影響下でクロトンは南イタリアの覇権を握った。90歳のころ,教団と世俗権力の確執が激しくなり,過酷な弾圧を蒙るようになった。彼はメタポンティオンに追放され,そこで没した。死後も弾圧は続けられ,教団は各地に散らばり,やがて秘密結社化した。
 ピタゴラス教団ではいっさいの教説がピタゴラスのものとされた。彼は絶対的権威をもった教祖であった。ここでは男女は平等に扱われ,〈ピタゴラス的生活〉を送るように指導された。清浄を保ち,肉食を断ち,沈黙の中で自己の魂を見つめる修行が課された。ピタゴラスによれば,魂は元来,不死すなわち神的な存在であるが,無知ゆえにみずからを汚し,その罪をつぐなうために肉体という墓に埋葬されている。われわれが生と呼んでいる地上の生活は,実は魂の死にほかならず,その死から復活し,再び神的本性を回復することが人生の目的である。それに失敗して無知な人生を繰り返すと,輪廻転生の輪から永久に脱け出せない。この苦しみから解放されるには魂は知恵(ソフィア)を求め,それによって本来の純粋存在に立ち帰らなければならない。〈知恵の探求(フィロソフィア)〉こそ,解脱(げだつ)のための最も有力な方法なのである。
 この教団には宗教的解脱を求める聴聞生と学問的研究に打ち込む学問生の2派があったといわれているが,ここでは学問は宗教的解脱と不即不離の関係にあるので,この2派は顕教と密教,または新参者と熟達者の区別と考えた方がよいだろう。知恵に達するための準備的課程として,四つの学問(マテマタ)があった。第1に〈数の学〉,第2に〈形の学〉,第3に〈星の学〉,第4に〈調和の学〉である。この四学は後に,中世からルネサンスに至るまでヨーロッパの学問の中枢をなしていたが,近代的意味での数学,幾何学,天文学,和声学とは現象的にはともかく,本質的には異なることに注意しなければならない。それは古代的な〈数〉の観念に基づいた一種の瞑想体系であった。
 1は最初の自然数あるいは単位数であるだけではなく,始原,全体,究極,完全を意味した。同様に2は2個の単位数ではなく,対立,分裂,闘争,無限を,3は調和,美,秩序,神性を,4は事物,現実,配分,正義などを意味する。数は量ではなく,存在の元型的形相だったのである。〈万物の原理は数である〉と彼がいうとき,世界は量的関数関係から成り立つ数学的秩序をもっているといったのではなく,万物は数の存在分節機能によって秩序立てられ,存在の各層には同一の数の類比関係が働いているということを意味した。このことを象徴的に表しているのが図に示すような〈四元数(テトラクテュス)〉である。この1,2,3,4から成る10個の点は,大宇宙と小宇宙に共通する世界秩序(コスモス)を表す曼荼羅(まんだら)となっており,ピタゴラス教団ではこの図形の前で誓いを立てたと伝えられている。
 このような〈数〉の重視は,数学史上において,ピタゴラスあるいはピタゴラス学派に帰せられる多くの業績を生むことになる。三平方の定理(ピタゴラスの定理),ピタゴラス数,無理数の発見などのほか,数論と結びついた音階理論が特に有名であるが,近年は古代メソポタミアの数学の影響も注目されており,その独創性についての評価は定めがたい。
 数を万物の原理とみなすピタゴラス主義は,以降のヨーロッパ思想史,科学史に決定的な影響を与えた。エンペドクレスの四大論,デモクリトスの原子論,ソクラテス,プラトンの哲学もその圏内にある。地動説の最初の提唱者とされるフィロラオス,立方体の倍積問題の解決で有名なアルキュタスらはピタゴラスの学徒であった。前1世紀にはローマとアレクサンドリアで新ピタゴラス主義が興り,宗教的伝統に数学的な光を当てた。テュアナのアポロニオスはこの代表であり,イアンブリコスにも新ピタゴラス学派との結びつきが認められる。さらに近代を開く象徴的事件であったコペルニクスの宇宙論やケプラーの宇宙モデルも,ピタゴラス学派の思想がヒントになっている。自然を数学的に記述しようとする近代自然科学の方法論は,少なくともその重要な一部分を16~17世紀のピタゴラス復興運動によって支えられている。ルネサンスとはある意味で,プラトンと並んでピタゴラスの再生運動であったともいえ,当時の音楽,絵画,建築,文芸などにもピタゴラス的宇宙論の反映を指摘することができる。     大沼 忠弘

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ピタゴラス
I プロローグ

ピタゴラス Pythagoras 前582?~前500? 古代ギリシャの哲学者・数学者。最近は、数学者や哲学者ではなく、教団をひきいた宗教的な存在という評価がかたまりつつある。その思想はプラトンに大きな影響をあたえた。

エーゲ海のサモス島に生まれ、タレス、アナクシマンドロス、アナクシメネスらイオニア学派の思想をまなんだ。つたえられるところでは、ポリュクラテスの専制政治に嫌気がさしてサモス島をはなれ、前530年ごろ南イタリアのギリシャ植民都市クロトンに移住した。ここで彼は、宗教・政治・哲学にまたがる独自の教えを説いて、みずからの教団をつくりあげた。

II 基本思想

ピタゴラス教団が信奉した神秘思想は、オルフェウス教にかなり似ている。その中核にあったのは魂の不死と輪廻への信仰である。小犬がぶたれているところに通りかかったピタゴラスが、「やめろ、それはわたしの友人の魂だ」とさけんだという話がのこっている。彼は肉体を魂の墓とみなし、魂を解放する手段としてさまざまな儀式を実践した。教団では恭順と沈黙が重んじられ、断食や瞑想が励行された。また、衣服も質素で、財産は共有であった。

III 数の理論

ピタゴラス教団は数学を幅ひろく研究したが、なかでも奇数と偶数、素数と平方数の研究が知られている。この算術的な視点から独特の数の考えが生まれた。それによると、数は宇宙におけるあらゆる比率、秩序、調和を生みだす原理になる。こうした研究によって、学問としての数学の基礎がきずかれることになった。幾何学の領域では、「直角三角形の斜辺の長さの2乗は他の2辺の長さの2乗の和に等しい」というピタゴラスの定理を発見した(→ 数学的証明)。

IV 天文学

ピタゴラス教団の天文学は、古代科学の中でとくにすぐれている。というのも、地球はほかの天体とともに中心火のまわりを回転する球体であるという考えがはじめてとなえられ、これがのちにコペルニクスの地動説にヒントをあたえたからである。こうした考えの背景にあったのは、すべてをふくむたった一つの宇宙の中で物体が数学的法則にしたがって運動し、この運動が調和を生むという原理である。だからそれぞれの天体も、和音を生みだす弦の長さに対応する間隔でならんでおり、この天体の運行から音楽が、つまり「天体の調和」が生まれると彼らは考えた。

→ 西洋哲学

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ヘラクレイトス
ヘラクレイトス

ヘラクレイトス
Hrakleitos

[生] 前540頃
[没] 前480頃

  

古代ギリシアの哲学者。エフェソス出身。孤高の生涯をおくり「泣く哲学者」「暗い人」と称される。万物流転 (パンタ・レイ) 説や火を原理としたことで知られるが,生成消滅を繰返す世界の理法として相対立する諸傾向のうちに逆向きの調和を認めた。著作としては『自然について』 Peri physesの名が伝えられるが現存しない。「知とは,みずからにではなくてロゴスに聞いて万物の一なることを認めることである」との言葉には彼の哲学が集約されている。 (→戦いは万物の父であり,万物の王である )  





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ヘラクレイトス
H^rakleitos

ギリシアの哲学者。生没年不詳だが,前500年ころがその活動の盛期とされる。エフェソスの王家の出身。火を万物のもとのものとし,その万物は変化してやまぬと説いた哲学者とされてきたが,いわゆる〈すべては流れる(パンタ・レイ pantarhei)〉という有名な言葉もプラトンやアリストテレスの批判的解釈を継承したシンプリキオスの言葉であって,彼自身の直接の発言ではない。火や流動についてもたしかに述べてはいるが,それは彼の哲学の一面であって,もっとも重要なのは〈ロゴス〉についての考えである。〈事実,すべてはこのロゴスにしたがいて生ずるにもかかわらず,人々はなお,そを経験せざる者のごとし〉(断片1)。〈われに聴かずにロゴスに聴きて,ロゴスに従いつつ,すべては一なりと述べるこそ賢かりけれ〉(断片50)。
 例えば彼は,弓や琴のような日常的な小道具を手がかりにしてそのロゴス支配の事態を説明しようとする。弓の弦や琴の弦は二つの逆方向に働く力の結合によって成立するが,このような対立的なものの統一的結合という理法こそが彼の強調するロゴスである。その対立的な面に注目して,彼はまたロゴスを比喩的に〈戦い〉と呼ぶ。〈戦いは万物の父,万物の王なり〉(断片53)。こうしたロゴスの支配は人事の場面のみならず,ひろく全宇宙に及んでいる。昼と夜とは明暗の形で対立し,人々はその区別にこだわるが,実は昼は夜に,夜は昼になるのであって,その過程を通じて両者は結合して一体をなしているのである。また,火と水,水と土とはそれぞれ対立して異なるが,実は火は水に,水は火に転化し,水は土に,土は水に転化する。この宇宙論的転化の過程に注目すれば,やはり火も水も土も〈一なり〉という道理が理解されるはずなのである。だが彼のいうその道理,すなわちロゴスは人々に理解されなかった。そこに彼のいらだちと孤独があった。〈大多数の輩(やから)はさながら家畜のごとく飽食するなり〉(断片29)。                 斎藤 忍随

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ヘラクレイトス
ヘラクレイトス Herakleitos 前540?~前475? 古代ギリシャの哲学者。小アジアにあった古代ギリシャの都市エフェソスに生まれた。万物のアルケー(もとのもの)は火であり、世界全体はたえざる変化のうちにあると考えた。生涯孤独を愛し、その哲学には難解さと人間嫌いな面がみられることから、「闇の哲学者」「泣く哲学者」ともよばれる。

ヘラクレイトスの思想は、ギリシャ哲学のイオニア学派の流れをくむものではあるが、ある意味では彼はギリシャ形而上学の創始者ともいえる。彼は火が第1の実体ないし原理であり、これが凝縮と希薄化をとおして感覚世界の現象を生みだすと考えた。それ以前の哲学者たちの「存在」の概念にくわえ、「生成」あるいは「流転」ということを重視し、これこそが、どれほど恒常的にみえようともあらゆる事物の基礎にある根本であるとする。倫理に関しては、新たに社会的な観点をとりいれ、徳は宇宙の合理的な調和の法則に個人が服するところになりたつと考えた。彼の思考はそのころの信仰に強く影響をうけたところがあるが、自らは当時の民間信仰の思想や儀礼をはげしく批判していた。

今日ヘラクレイトスのものとみなされている著作は「自然について」ひとつだけで、その断片の多くがのちの著述家たちによって保存され、編集されている。

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泣く哲学者
泣く哲学者

なくてつがくしゃ

  

前 500年頃の古代ギリシアの哲学者ヘラクレイトスのこと。彼の孤独な境涯とその暗い人生観によるあだ名。「暗い人 (闇の人) 」ともいわれる。これに対してデモクリトスは「笑う哲学者」と呼ばれた。





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戦いは万物の父であり、万物の王である
戦いは万物の父であり,万物の王である

たたかいはばんぶつのちちでありばんぶつのおうである
Polemos pantn men patr esti,pantn de basileus

  

ギリシアの哲学者ヘラクレイトスの言葉。万物のうちに存する相反する傾向 (冷と熱,乾と湿など) 相互の戦いないしは対立抗争は生成の世界を貫徹する普遍的,恒常的法則であり,「万物は対立抗争と負い目とに従って生じる」との意。ヘラクレイトスはこの恒常的な戦いのうちに「逆向きの調和」すなわち「秘められた調和」を見出し,これを「あらわなる調和」にまさるものとした。 (→多と一 )





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多と一
多と一

たといつ
polla (panta) kai hen; plurality and unity

  

アリストテレスは反対概念のすべては存在と非存在とに,あるいは一と多 (たとえば静→一,動→多) とに還元されるとした。エレア学派は一と多の対立のうちに純粋な唯一の存在と生成消滅する仮象的世界の対立をみた。一方ヘラクレイトスは対立と調和の原理によって万物の流転を説明する立場から「すべて (多) から一が生じ,一からすべて (多) が生じる」という有名な命題を導出している。プラトンはイデアと感覚的個物の対立を一と多の対立としてディアレクティケを多を一へ総括する能力としてとらえた。またプロチノスは多の絶対的始源として存在の全体を統一するものを一者 (ト・ヘン) あるいは第一者 (ト・プロトン) とし,多様な世界を本源的一者からの流出とみなしている。 (→同一と他 )





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同一と他
同一と他

どういつとた
tauton kai to heteron; the same and the other

  

アリストテレスによると物事が同一であるというとき,(1) 付帯性において同一である場合と,(2) それ自体として同一である場合に区別され,さらに (2) は質料が種あるいは類において一つである場合と本質が一つである場合 (たとえば等しい等角の四辺形) に分たれる (『形而上学』5,10巻) 。あらゆる存在はあらゆる存在に対して同一であるか他であるかのいずれかの関係に立ち,この意味で同一と他とは対立的であるが,他方,他 (他者) は一者との対立関係に立つ。プラトンは形相ないしイデアとしての一者に対し感覚的個物を,あるいは一に対し多を他者とみなす (『パルメニデス』『ティマイオス』) 。新プラトン主義では本源的一者から流出しみずからの内に認識主体と認識対象 (イデア) の両極を含むヌースを一者に対して他者とし,スコラ哲学では世界に対する神の啓示を神に対して他とする。ヘーゲルでは他者は一者の否定であり,一者はみずからの内に固有の他者を弁証法的契機として含むとした。





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質料
質料

しつりょう
hyl; materia

  

一般に物質であるが,質料と訳されるときには形相の対概念として特別な意味をもつ。質料形相論の確立者はアリストテレスであるが,手仕事を土台に考えており,質料と形相はそれぞれ素材と形に対応する。すでにプラトンは相対的非存在で形がない物体の母としての質料を考えていたが,アリストテレスはこれを可能的な存在で無規定的なもの,形相による規定を受入れる原理とした。質料も形相も相対的概念であり,木は材木の質料だが材木も家の質料となる。すべてのものはより高次なものの質料である。これらをすべて第2質料と呼び,その根底にいかなる形成も受けていない純粋な質料を想定して第1質料と呼ぶ。質料は偶然的,非論理的なものの原理でもあり,アビセンナはこれを個体化の原理とした。これを受けて,論理的に検討を加えたトマスは,指定質料 materia signataをこの原理とした。





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一者
一者

いっしゃ
to hen

  

プラトン,プロチノス哲学において,世界の根源をなす第一の,最高の原理をいう。ここから,一ならざるもの,すなわち多者が発出する。これは近世形而上学においても,さまざまに形を変えて (神,主観,自我,実存など) 現れている。





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イデア
ヌース
笑う哲学者
笑う哲学者

わらうてつがくしゃ
gelasinos (philosophos); laughing philosopher

  

ギリシアの哲学者デモクリトスにつけられたあだ名。「泣く哲学者」とか「暗い人」といわれたヘラクレイトスと対照的。世のわずらわしさを笑い,快活を理想とした彼の倫理学的な態度による。





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[ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 2008]
ストア派
ストア派

ストアは
Stoics

  

キティオンのゼノンがアテネのストア・ポイキレに創設した哲学の一学派。その学派は前期 (前 312~129) ,中期 (前 129~30) ,後期 (前 30~後2世紀末) に分れる。前期には厳格と節度の人ゼノン (ストアの) ,その忠実な後継者で『ゼウスの賛歌』を残したクレアンテス,ストア派最大の権威クリュシッポス,天体論を研究し,科学を神のロゴスについての研究と規定したアラトスらが,中期には『義務について』の著者パナイティオスやポセイドニオスらが,後期,ローマの帝政時代には貴族出身のセネカ,『省察録』を書いたマルクス・アウレリウス,奴隷出身のエピクテトス (弟子による『語録』が有名) がいた。彼らは哲学を論理学,自然学,倫理学に分け,哲学は実践上の知恵を教える学であるとの立場から倫理学を最も尊重した。





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ストア学派
I プロローグ

ストア学派 ストアがくは Stoicism ヘレニズム時代に創設された古代ギリシャ哲学の学派。エピクロス学派、懐疑学派とともにこの時代の3大学派をなした。ストア学派は、ソクラテスの弟子であるアンティステネスによって創設されたキュニコス学派に起源をもつ。

II 歴史

ストア学派は前300年ごろにキプロスのゼノンによってアテネで創設された。キュニコス学派のクラテスにまなんだゼノンが彩色柱廊で知られたストア(柱廊)に学校を開設したのが、その始まりである。学派の名称もこれに由来する。第2代学頭のクレアンテスが書いた「ゼウス賛歌」はその断片が現存しており、そこでは、最高神は全能の唯一神にして道徳的統治者であるとのべられている。クレアンテスの後継者になったのはクリュシッポスであり、これら3人が第1期ストア学派(前300~前200年)の代表者である。

第2期(前200~前50年)になると、ストア学派の哲学はかなり普及し、ついにはローマにも知られるようになる。ストア学派を本格的にローマにつたえたのはパナイティオスである。パナイティオスの弟子のポセイドニオスは、ローマの有名な演説家キケロの教師であった。

第3期はローマ時代になる。共和制末期の小カトーはすぐれたストア哲学者であったし、帝政期にもセネカ、エピクテトス、皇帝マルクス・アウレリウスのローマの3大ストア哲学者があらわれた。キリスト教がローマ帝国の国教になったのちも、ストア学派は大きな勢力をもちつづけ、その影響はルネサンス期にまでおよんだ。

III 思想

ヘレニズム期のほかの学派と同じく、ストア学派も倫理学に強い関心をしめした。幸福が人々の最大の関心事になったからである。しかし倫理学をかためるために、論理学と自然学の理論を開拓したところに、この学派の大きな特徴がある。概念、判断そして推論の理論としての論理学はストア学派によってその骨格が形成され、とくに仮言三段論法の発見はこの学派のもっとも重要な功績である。

ストア学派の自然学によると、世界は物質からなる。しかし物質そのものは受動的であって、これとは別に、世界をうごかし世界に秩序をあたえる能動的な原理がある。この原理はロゴスとよばれ、神の理性であるとともに、ある種の微細な物質とも考えられた。そこで、「息」あるいは「火」ともよばれたが、これはヘラクレイトスが宇宙の根源とみなしたものにあたる。

人間の魂は、このロゴスの現れである。それゆえ、このロゴスにしたがって生きることは、神がさだめた世界(自然)の秩序にしたがって生きることであり、この生き方がわれわれ人間の務めになる。「自然にしたがって生きる」というこの見解は、自然法思想の展開において決定的なものになり、ローマ法に甚大な影響をあたえることになった。

善とは外的なものではなく魂の内部にあるというキュニコス学派の考えが、ストア学派の倫理学の原理になっている。ストア学派はこの魂の内的状態を思慮あるいは自制心と考えた。つまり、日常生活においてわれわれの心をかきみだすものは情念や欲求であって、こうしたものから解放されて不動心(アパテイア)をえるために必要なものが、思慮や自制心だというのである。

この自制や克己ということが同時代のエピクロスの快楽主義(→ エピクロス主義)とするどく対立し、現在の英語のストイックstoicという言葉に「禁欲的」という意味がくわわるもとになった。

ストア学派のきわだった特徴のひとつに、コスモポリタニズムがある。この考えによると、どの人間も唯一の普遍的な神の現れであるからには、人間どうしの付き合いでは社会的地位とか貧富あるいは民族の違いといった外的なものはまったく意味をもたず、万人はひとしくコスモス(世界)の市民である。したがってストア学派は、キリスト教が誕生する以前にすでに、全人類は生まれつき平等であり、たがいに兄弟のように愛しあわねばならないと考えていたのである。


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ストア学派
ストアがくは

ギリシア・ローマ哲学史上,前3世紀から後2世紀にかけて強大な影響力をふるった一学派。その創始者はキプロスのゼノンである。彼はアカデメイアに学び,後にアゴラ(広場)に面した彩色柱廊(ストア・ポイキレ Stoa Poikil^)を本拠に学園を開いたのでこの名がある。
 ストア学派の思想によれば,あらゆる認識の基礎をなすのは感覚である。世界は感覚的認識の総体であり,それゆえ物質的存在である。しかしその中には物質に還元できない英知が宿っており,それが物質世界に一定の秩序を与えている。この事物を秩序立てる力を〈神的火〉,または〈運命〉と呼ぶ。人間は内在する英知を自覚することによって,世界という秩序(コスモス kosmos)を認識しなければならない。人生の目的は,この自然の秩序にのっとって生きることであり,それが最大の幸福をもたらす。それが道徳であり,義務であるとともに宇宙と一体化する修行法なのである。世界は巨大なポリスであり,人間は〈世界市民(コスモポリテス kosmopolit^s)〉として,この世俗においても一定の役割を果たさなければならない。宇宙秩序に対する透徹した観照から,情念や思惑にかき乱されない〈不動心(アパテイアapatheia)〉を養い,厳しい克己心と義務感を身につけてこの世を正しく理性的に生きること,これをストア学派的生活と呼ぶが,この事情は英語のストイック stoic,ストイシズム stoicism などの語に反映されている。
 ゼノンの高邁(こうまい)な生き方は,クレアンテス,クリュシッポスに受け継がれた。これを古ストア学派と呼び,論理学,自然学に多大の業績を挙げた。前2~前1世紀の中期ストア学派に属するパナイティオス,ポセイドニオスは道徳的,実践的局面を強調し,人事における神的英知の介入として〈摂理〉を説いた。新ストア学派にはセネカ,エピクテトス,マルクス・アウレリウスなどが属する。またパウロや初期キリスト教の教父,さらにはルネサンス期のリプシウス,F. ベーコン,T. モア,グロティウスなどに与えた影響も無視できない。
                        大沼 忠弘

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アモール・ファティ
アモール・ファティ

アモール・ファティ
amor fati

  

ラテン語で「運命の愛」の意。ニーチェの運命観を表わす用語。彼によれば,運命は必然的なものとして人間にかぶさってくるが,これに忍従するだけでは創造性がない。むしろ,この運命の必然性を肯定して自己のものとし,愛しうるとき,人間の本来的な創造性を発揮しうるという。





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A.キルケゴール
キルケゴール

キルケゴール
Kierkegaard,Sφren Aabye

[生] 1813.5.5. コペンハーゲン
[没] 1855.11.11. コペンハーゲン




デンマークの哲学者,神学者。現代実存哲学の創始者,プロテスタンティズムの革新的思想家として知られる。コペンハーゲン大学で神学を学んだ。父の死後 (1838) 本格的研究を決心,1840年 17歳のレギーネ・オルセンと婚約したが,翌年破棄した。 41年ベルリンで F.シェリングの講義を聞き,42年帰国,著作活動を始めた。哲学的にはヘーゲル,シェリングの観念論の批判から出発し,「単独者」「主体性」などの概念を中心にして実存論的思索を展開した。神学的には当時のデンマークの教会のあり方を攻撃し,教会的キリスト教の変革を説き,信仰と実存の問題を深く掘下げた。主著『あれか,これか』 Enten-Eller (43) ,『おそれとおののき』 Frgyt og Baeben (43) ,『反復』 Gjentagelsen (43) ,『不安の概念』 Begrebet Angest (44) ,『人生行路の諸段階』 Stadier paa Livets Vei (45) ,『死に至る病』 Sygdommen til Dφden (49) 。





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キルケゴール 1813‐55
Sがren Aabye Kierkegaard

デンマークの哲学者,宗教思想家。コペンハーゲンに生まれ,毛織物商の父の特異な教育下に想像力を養われて成長。母は父の先妻の死後に下女から後妻となった女性。1830年にコペンハーゲン大学神学部に入学,学生時代をロマン主義のもとに送り,ドン・フアンやファウストの伝説研究を試みたが,やがて時代精神にアハシュエロス(さまよえるユダヤ人)的な絶望の状況を認めるに至った。34年までに2人の兄と3人の姉と母とが相次いで死亡。次々と襲う家族の不幸に神の呪いを感じ,38年(一説に35年)にはそれを,先妻死亡以前に暴力的に母を犯した厳父の罪と結びつけて,みずから〈大地震〉と呼ぶ体験に吸収,以後,死の意識と憂愁の気分のとりこになる。40年には10歳年下のレギーネ・オルセン Regine Olsen と婚約したが,内的苦悩から翌年には婚約を一方的に破棄する。しかし彼女への愛は変わらず,この〈レギーネ体験〉を背景に,その愛の内面的反復の可能性を数々の作品に結実させることとなった。41年に論文《アイロニーの概念》を大学に提出してベルリンに旅立ち,シェリングの積極哲学の講義を聴く。
 43年以降は,学位論文で確認した〈ソクラテス的アイロニー〉のもつ否定的弁証法を著作活動に生かし,実名で刊行した多くの宗教講話に並べて,偽名で《あれか―これか》《反復》(以上1843),《哲学的断片》《不安の概念》(以上1844),《哲学的断片への後書》(1846),《死に至る病》(1849),《キリスト教における修練》(1850)などの文学的・哲学的・宗教的な著作を発表。大地震体験における罪の内面深化とレギーネ体験に基づく愛の内的反復とが,これらの作品を通して〈いかにして真のキリスト者になるか〉という課題に昇華され,当時のヘーゲル主義的思弁の哲学や神学に対して,主体的な実存の立場を打ち出すこととなった。その間,46年には風刺的大衆誌《コルサール(海賊)》の人身攻撃にあい,9ヵ月に及ぶ執拗な漫画入り河笑記事のために衆人の侮辱を浴びた。この〈コルサール事件〉の渦中で体験したものは,大衆に判定をゆだねる陰で責任の主体が失われてゆく時代の水平化現象であり,時代の客観性にあえて逆らう単独者の道こそが真理へ通じる方途であるとの確信であった。晩年には大衆化的世俗主義の水平化をルター派のデンマーク国教会の体質の中に見て取り,正統信仰の復興を目指して激しい〈教会攻撃〉に立ち上がった。時代の批判者たる例外者の意識を強めつつ,国教会の偽善を糾弾する小冊子《瞬間》(1855発刊)を9号まで続刊し,10号の原稿を残したまま路上にたおれ,病院に運ばれて没した。
 人間は生きる上での普遍的な基準をみずからの内に持っているわけではない,と考えるキルケゴールは,近代思想が人間の本質を理性に限定してそれを基準に真理を合理的客観性とみなしてきたことに反発し,理性に尽くされない自由な生き方に人間らしさを認めて,これを〈実存〉と呼ぶ。実存は無根拠の自由にさらされた〈不安〉や〈絶望〉を実相とし,そのもとで真実の生き方を主体的に作り出してゆくものである。〈主体性が真理である〉と言えるためには,衆にたのまぬ〈単独者〉として神の前に立ち,自己の無力と自己の責任とを正しく知ることが求められる。具体的には,時間を永遠者の介入する〈瞬間〉ととらえて,論理を越えた〈逆説〉の神に出会うことであり,神の愛の啓示であるイエスのできごととの〈同時性〉を,主体的内面的に〈反復〉していくことである。このキルケゴールの思想は,20世紀の激変する時代の中で注目され,哲学界ではニーチェとともに実存哲学の祖と称されるに至った。またバルト神学に受容されて弁証法神学に大きな影響を与えたほか,実存心理学や,リルケ,カフカ,カミュ,サルトル,椎名麟三などの実存主義文学にも吸収されている。⇒実存主義                 柏原 啓一

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キルケゴール,S.A.
I プロローグ

キルケゴール Soren Aabye Kierkegaard 1813~1855 デンマークの宗教思想家、哲学者。個人的実存を中心にすえたその思想は、現代の神学、哲学、とりわけ実存主義に多大な影響をあたえた。

II 生涯

キルケゴールは、1813年5月にコペンハーゲンに生まれた。父親は富裕な商人だったが、厳格なルター主義者で、その陰欝(いんうつ)な、罪悪感に支配された信仰心と活発な想像力はキルケゴールに強い影響をおよぼした。コペンハーゲン大学で神学と哲学をまなび、ヘーゲル哲学を知るが、強い反発をおぼえた。享楽的な学生生活をおくる時期もあったが、38年の父の死後、神学の勉強を再開した。

1840年、10歳年下のレギーネ・オルセンと婚約するが、自分の深く考えこむ性分は結婚と両立しないのではないかとなやみ、翌年唐突に婚約を破棄、この体験はその後の彼の思索にひじょうに大きな影響をあたえた。同じころ牧師になる気がないことに気づき、著作に専念するようになる。父の遺産のおかげで著述業だけでくらしてゆくことが可能であった。その後の14年間に20冊以上の著書をのこした。大量の執筆による過労や、彼に対する新聞の批判的記事にはじまる論争によるストレスは、徐々に彼の健康をむしばんでいった。55年10月に路上で卒倒し、翌11月にコペンハーゲンでなくなった。

III 哲学的な姿勢

キルケゴールは、その著作を意図的に非体系的にし、その多くは当初偽名で出版された。彼は自分の哲学をしめす言葉として実存をもちいたが、それは、哲学とはヘーゲルの考えるような一枚岩的な体系ではなく、どこまでも個人の生の考察の表現だと考えたからであった。ヘーゲルは、人間の生と歴史についての完全な合理的理解に達したと主張したが、キルケゴールは、最高の真理は主観的なものであるから、生の根本的な問題は合理的客観的な説明をこばむものであると主張した。

IV 生の選択

キルケゴールによれば、体系的哲学は、人間の実存についてのあやまった見方をおしつける。また生を論理的必然性の見地から説明するために、個人の選択や責任を排除する手段となる。彼の信じる個人とは、おのれの選択によってみずからの本性をつくりあげてゆくもので、この選択は普遍的客観的な基準によって決定することはできない。

最初の主要な著作「あれか?これか」(2巻。1843)の中で、キルケゴールは、個人が選択することになる実存の2つの段階、つまり美的段階と倫理的段階について記述している。感性的で美的な生き方とは純化された快楽主義であり、そこでは個人はいつも、退屈をさけてつねに多様性と目新しさをおいもとめるのだが、結局は退屈と絶望に直面せざるをえない。そこから倫理的な生き方がひらけてくる。

倫理的な生き方は、社会的宗教的義務への情熱的な献身をせまる。しかしキルケゴールは、「人生行路の諸段階」(1845)などののちの著作で、義務への無条件的な服従では個人の責任がうしなわれることに気づき、新たに3番目の段階として、宗教的段階を提起した。

宗教的段階において、人は神の意志に全面的にしたがうものとなり、それによってのみ真の自由がえられるのである。「おそれとおののき」(1843)の中で彼は、アブラハムに息子のイサクを犠牲にすることを命じる神の命令(創世記22章)をとりあげている。アブラハムは、神の命令の意図が理解できないが、断固としてそれにしたがおうとすることによって、信仰のあかしをたてている。最終的な絶望をとりのぞくためには、人は単独者として神の前にたち、アブラハムのような「信仰の跳躍」をおこない、宗教的生活へいたらねばならないと彼は考えた。

V その後の著作

キルケゴールは、ルター派のデンマーク国教会を現世的で堕落したものとみるようになった。「死に至る病」(1849)に代表される後期の著作は、キリスト教に対してつのる絶望の思いを反映し、苦悩こそ真の信仰の本質であると強調している。また現代ヨーロッパ社会をもはげしく攻撃し、「現代の批判」(1846)で、現代が情熱をうしない、すべてを量的価値ではかる時代であると非難している。

VI 影響

キルケゴールの影響は、最初スカンディナビアとドイツ語圏のヨーロッパに限定されていたが、プロテスタント神学やカフカなどの小説家に強い衝撃をあたえた。第1次世界大戦後に実存主義の思想がヨーロッパ全体をまきこむにつれ、彼の著作は各国で翻訳され、現代文化に大きな影響力をもつ人物とみなされるようになった。

→ アイロニー

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アイロニー
アイロニー

アイロニー
irony

  

反語。単語または文章において,表面の意味とは逆の意味が裏にこめられている用法。多くは嘲笑や軽蔑を表わす。ソクラテスが議論において意図的に無知を装ったのはその典型で,これを「ソクラテス的アイロニー」と呼ぶ。他方,語り手がみずからのおかれている状況を十分に認識していないために,その言葉に他人からみれば意図せざる意味が加わる場合,これを「悲劇的アイロニー」または「ソフォクレス的アイロニー」と呼び,悲劇的人物のせりふにしばしば認められる。





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アイロニー
irony

語源はギリシア語のエイロネイア eirヾneia で〈よそおわれた無知〉を意味する。イロニーともいう。(1)ソクラテスは無知をよそおう問答法で相手を真の知識に導いたといわれ,これを〈ソクラテスのアイロニー〉と呼ぶ。その後,修辞学でその積極的な活用法が論じられ,相手に強い印象を与えるための修辞法の一つに数えられた。(2)文学では,とくに作劇の一つの技法として注目され,〈劇的(ドラマティック)アイロニー〉〈悲劇的(トラジック)アイロニー〉などの術語がある。劇中人物が自己の置かれた劇的状況を理解しないままで台詞を語り,これを観客が聴いて真の状況とのギャップを印象づけられれば,その状況の劇的(悲劇的)性格は強烈に意識される。これが劇的アイロニーの効果である。《マクベス》のなかで,自分を殺す計画があることを知らぬダンカン王が,マクベスの居城や人柄をほめたたえるのは,このアイロニーの有名な例である。(3)〈ロマンティック・アイロニー〉はドイツ・ロマン派に始まる概念だが,その後一般化されて,イリュージョンの形成と自己破壊,それに伴う自己憐憫(れんびん)と自己河笑の交錯がもたらす文学的効果をさす。(4)しかし近年の文学理論でとくに重視されるのは,詩的言語の主要な特性としての〈アイロニー〉である。1930年代から50年代まで英米の批評界の主要な勢力であった〈ニュー・クリティック(新批評家)〉たちによって強調され,しばしば〈パラドックス(逆説)〉と近いものとみなされた。すなわち詩的言語は人間的真実の複雑で多義的な状態を,そのまま把握し表現しうる屈折した言語であり,そこには表層と深層のギャップがある。これが〈アイロニー〉であるとされた。このとらえ方は文学の本質を言語レベルで定義せんと試み,〈異化〉された言語を詩的言語とみなした〈ロシア・フォルマリズム〉の文学理論の系統に属するものといえよう。          川崎 寿彦

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アイロニー
I プロローグ

アイロニー Irony 「皮肉」と訳されるアイロニーは、ギリシャ語の「エイロネイア」(eironeia。偽装、そらとぼけ)に由来する。ドイツ語ではイロニーといい、哲学者にはこちらをつかう人もいる。

一般にアイロニーは、次のような要素からなる複雑なレトリックである。第1に、一つの言葉に2つの意味がこめられている。第2に、話し手は言葉の表面上の直接的意味とは裏腹に、その正反対の意味をかたろうとしている。第3に、聞き手にその言葉の真意(正反対の意味)がつたわり、聞き手が裏の意味を理解できるようでなければならない。この第3の条件は重要である。この条件が欠けると、話し手は聞き手にただ嘘(うそ)をついていることになるからだ。

つまりアイロニーは、あくまでも相手に何かをつたえることを目標とする。ただし、そのコミュニケーションの手段が直接的なものではなく、間接的な伝達なのである。

II ソクラテスがもちいたエイロネイア

エイロネイアを駆使して哲学を展開したのは、ギリシャ時代のソクラテスである。ソクラテスは対話で哲学を実践したが、その際彼は「自分は知らない」という態度で無知をよそおった。あるテーマについて知っていると自称する対話の相手に、ソクラテスは、「私は知らないのだから教えてください」といって、質問した。相手から答えがかえってくると、その答えについてさらに質問をあびせかけた。どこまでもソクラテスは質問をしつづけ、相手は答えつづけることになるが、しまいには相手の主張の中に矛盾点や問題点がみえてくる。これによって相手は、自分もじつは無知だったことが判明する。

「問答法」といわれるこのやりとりにおいて、ソクラテスは自分の意見をいっさいいわないで相手の意見を吟味する。だからこの議論で絶対にまけることはない。相手のほうが無知をさらけだして恥をかくだけである。こうしたやり方はいかにも卑怯(ひきょう)な論法のようにみえる。しかし、ソクラテスのエイロネイアの根底には、相手がもっているあやふやな知識をとりのぞき、いっしょになって真の知識を追求しようという情熱があった。

もし教育的・研究的情熱をともなわなければ、アイロニーはただの無礼な態度、鼻持ちならない気取りになるだろう。こうした事態を考慮してドイツの哲学者ニーチェは、「皮肉(イロニー)は弟子との交渉に際しての、教師の側からの教育手段としてもちいられてのみ、しかるべきものである」とのべている。

III ロマン主義における技法

かたられている言葉とはちがうところに真意があることをあからさまにみせるという意味では、近代の「ロマン主義的アイロニー」も同じ技法である。これは、物語作家が突然物語の中にわりこんできて、その物語が虚構であることを読者に暴露する幻想破壊の皮肉である。芸術家はこのアイロニーによって、自分が作品に拘束されない自由な創造者であることをしめす。19世紀のロマン主義哲学者たちは、ここに、有限な作品(被造世界)にしばられない世界精神(神)の無限な働きをみた。表現や対話の方法だったアイロニーは、こうして世界観にまで拡張されたのである。

なお、デンマークの哲学者キルケゴールは倫理的・宗教的立場から、ロマン主義的アイロニーを、「虚無とどこまでもたわむれる美的態度にすぎない」と批判している。

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『ツァラトゥストラはかく語りき』
ツァラトゥストラはかく語りき

ツァラトゥストラはかくかたりき
Also sprach Zarathustra

  

ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェの4部からなる哲学的散文詩。 1883~85年成立。『万人に与える書,なんぴとにも与えぬ書』という副題をもつこの書は,キリスト教の聖書に対抗して書かれたものといわれ,ニーチェの思想が象徴的な美しく力強い詩文で語られている。





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ツァラトゥストラ
Zarathustra

ドイツの哲学者ニーチェの主著《ツァラトゥストラはこう言った Also sprach Zarathustra》(1883‐85)の略称。全4部から成る。主人公ツァラトゥストラの名称は,古代ペルシアのゾロアスター教の予言者ゾロアスターのドイツ語での慣用発音である。こうした東洋風の名が採られたのは,プラトン主義やキリスト教というヨーロッパ的理想主義――それは潜在的には〈無の上に立てられており〉,ニヒリズムと等価である――を批判するニーチェの脱ヨーロッパ志向に基づいている。描かれているのは,人間の超人への変貌を希求するツァラトゥストラの種々の説教,さまざまな経験を経たのちの永劫回帰の思想の覚知,その思想に耐えられる存在への自己変革の過程である。説教は〈世界の背後を説く者〉〈聖職者たち〉〈学者〉等々と題され,主としてキリスト教的道徳および,ニーチェによればその末裔である近代の科学的思考や民主主義等が手厳しく批判されている。その文体は多くの点で新約聖書におけるイエス・キリストの説教への揶揄(やゆ)となっている。そして永劫回帰の思想は単なる客観的認識ではなく,それを説きうる存在への自己変革こそ重要であるため,それへの熟成の過程が,ときには無気味な幻影やなぞによって,ときには海原を前にしての自然経験を通じて描かれる。その散文の美しさは,全編の背景をなす地中海的風景とあいまって,他に類を見ない。だが,この作品はニーチェの晩年まではほとんど顧みられず(当時ドイツにいた敏感な森宝外も気がつかなかった),特に第4部などは自費出版でわずか45部印刷されたのみであったが,1890年代の半ば以降にドイツの文学・思想界に爆発的な影響を与え,20世紀思想の先駆的作品となった。なお,本書の邦訳は生田長江訳《ツァラトゥストラ》(1911)が最初で,その後も登張竹風訳《如是経》(1921)など多くの翻訳が出,邦題も《ツァラトゥストラかく語りき》ほかさまざまである。   三島 憲一

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『権力への意志』
権力への意志

けんりょくへのいし
Der Wille zur Macht: Versuch einer Umwertung aller Werte

  

ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェの遺稿断片のなかから実妹エリーザベトが"Studien und Fragmente"の副題のもとに選択編集したもの。初め彼女の3巻の伝記の一部として出版。のち 1901年1巻にまとめられ,さらに 06年大改訂が施されて2巻本として現在の表題で刊行。個々の思想はニーチェのものであるが,全体としては編集者の解釈が入り,「主著」といえるか疑問視されている。従来の思想,特にパウロ的キリスト教を,この世での弱さを来世での完成の問題にすりかえるとして批判し,さまざまな可能性を秘めた人間の内的,活動的生命力を根底とする高貴な新人間像の形成を説いている。





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『善悪の彼岸』
善悪の彼岸

ぜんあくのひがん
Jenseits von Gut und Bse

  

ニーチェの用語,あるいは『道徳の系譜』 (1887) と姉妹編をなす書物の題名 (86) 。ニーチェは奴隷道徳とみなされる伝統的道徳 (ことにキリスト教道徳) の善悪の規準を否定し,従来の一切の価値の価値転換を通して,古典的なギリシア人のうちにみられるような,善悪の観念をこえた無垢 Unschuldの人間像を追求し,力強い生の肯定と結びつく道徳を樹立しようとした。





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