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認識論の流れ(2) [宗教/哲学]

認識論の流れ(2)
功利主義
功利主義

こうりしゅぎ
utilitarianism

  

19世紀,イギリスで盛んになった倫理,政治,社会思想。広義には幸福主義,快楽主義と共通する点をもち,R.カンバーランド,F.ハチソン,T.ホッブズ,J.ロック,D.ヒュームなどにもその傾向がみられるが,狭義には J.ベンサムやミル父子などに代表される経験論的功利主義をさし,最大多数の最大幸福をスローガンとする。彼らは幸福と快楽とを同一視し,苦を悪としたが,ベンサムでは快楽は量的にとらえられ,快楽の計量可能性が主張され,J.ミルでは快楽に質的差異が認められ,精神的,倫理的快楽が注目された。この思想は,イギリスでは H.シジウィックの合理主義的功利主義,H.スペンサーの進化論的功利主義に引継がれ,ドイツではイェーリングらに影響を与えた。特にイギリス政治史上に果した役割は絶大で,根強い保守的風潮を破って改革の機運をつくり出すことに成功した。いうならば功利主義は産業革命の哲学であった。そしてこの旗のもとに多くの知識人や新興中産階級が結集し,古い秩序に対して一大改革運動を推し進めていった。 1822年から 29年にかけての法典整備や刑罰規定の改正,34年の救貧法改正,35年の地方自治法制定や教育制度改正などはその成果である。なかでも「1832年革命」といわれるリフォーム=アクトの成立こそは功利主義の最大の勝利であった。





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功利主義
こうりしゅぎ utilitarianism

主として19世紀のイギリスで有力となった倫理学説,政治論であり,狭義には J. ベンサムの影響下にある一派の思想をさす。ベンサムは《政府論断片》(1776)のなかで,〈正邪の判断の基準は最大多数の最大幸福である〉という考えを示した。彼はこれを立法の原理とすることによって,従来の政治が曖昧な基礎にもとづく立法に依拠していたのをただそうとしたのである。〈功利 utility〉という語はすでにヒュームの《人間本性論》(1739‐40)で用いられており,幸福(快楽)をもたらす行為が善で不幸(苦痛)をもたらす行為が悪だとする考えは,常識のなかには存在していたといえるが,ベンサムはそれを学問的な原理に高めようとしたのである。そして〈最大多数の最大幸福〉という原理は,個人の利害と一般の利害とを合致させることをめざしている。彼の《道徳および立法の原理序説》(1789)は,この功利の原理を展開したものである。すべての人間の行為の動機がつねに快楽の追求と苦痛の回避であるとすればすべての行為が正しいことになってしまうこと,自分の幸福と他人の幸福とが衝突することがあること,ベンサムの説く快楽の計算は実際にはきわめて困難なことなど,ベンサムの功利主義には種々の欠点があった。しかし,立法の原理として〈最大多数の最大幸福〉を提示することは,当時の立法者の少数有力者のための立法とそれにもとづく政治を批判する理論的根拠として有効であった。中産階級の人々にとっては〈幸福〉の具体的内容についての大体共通する理解があったからである。
 ベンサムの強い影響を受けた J. ミルは,ベンサムの思想を整理し,その宣伝に努めた。そして《人間精神の現象の分析》(1829)を書いて,功利主義をハートリー David Hartley(1705‐57)の連合心理学によって基礎づけようとした。また彼は,功利主義の立場から代議制民主政治を主張し,《経済学要綱》(1821)においては功利主義にもとづく経済学思想を展開した。J. ミルの子 J. S. ミルはベンサムの強い影響を受け,《功利主義論》(1863)を書いて,功利主義に対する種々の批判に反論したが,同時にベンサムが幸福(快楽)に質の相違を認めなかったのに対し,質の差別を認めた。〈満足した豚よりも満足しない人間である方がよく,満足した愚者であるよりも満足しないソクラテスである方がよい〉という彼の有名な言葉は,質の差別を示している。また彼は〈観念連合〉の原理を導入し,快楽を追求する利己的個人のなかに利他的行動を起こす心理的要因があるとし,もともと人間には〈共感〉や〈仁慈への衝動〉が存在すると説いた。
 功利主義を提唱したベンサムとその影響下にある人々は,政治的な活動をおこない,1832年の〈選挙法改正案〉の議会通過に大きく貢献した。この〈改正案〉は中産階級の政治的発言権を拡大することになる。この政治的党派は〈ベンサム主義者 Benthamites〉または〈哲学的急進派philosophic radicals〉と呼ばれた。彼らは政治的には代議制民主政治の確立をめざし,経済的には自由放任主義を主張し,それを議会での立法を通じた改革によって実現しようとしたのである。
 J. S. ミル以後,H. スペンサーは新しい学説として注目を集めていた〈進化論〉にもとづいて功利主義を基礎づけようとした。またイギリスの哲学者シジウィック Henry Sidgwick(1838‐1900)は,心理的な事実としての快楽から道徳的原理を引き出すことはできないとし,実践理性の直覚する公正の原理こそが道徳の基礎であると説き,それに功利の立場を結びつけた。そして彼は J. S. ミルと同じく快楽の質の差別を認め,質の高い快楽をめざすべきだと説いた。このように,ベンサムに始まる功利主義は,倫理思想であるだけでなく,社会思想としても展開し,19世紀のイギリス,そしてヨーロッパ全体に大きな影響を与えた。 城塚 登

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功利主義
I プロローグ

功利主義 こうりしゅぎ Utilitarianism 役にたつものが善であるという倫理学の考え方。この考えによれば、行為の倫理的価値は、その結果が役にたつかどうかできまり、道徳的行為の最終目的は「最大多数の最大幸福」であるといわれる。ここでいわれている最終目的は、あらゆる法律の目標でもあり、社会制度の究極の基準でもある。功利主義における倫理観は、良心や神の意志や本人だけ感じる快楽などを基準とする倫理観に対立している。

II ペーリーとベンサム

イギリスの法学者で哲学者のペーリーは、功利主義を個人的な快楽と神の意志にむすびつけ、神の意志にしたがって人類の永遠の幸福をめざさなければならないと考えた。ベンサムは「道徳および立法の原理序説」(1789)において、功利主義的な考えを倫理学の基礎にすえるだけではなく、法律や政治改革の基礎にもすえた。彼は、多数者の利益のためには少数者の犠牲はやむをえず、どんな事柄でも少数者よりも多数者を優先すべきだと考え、「最大多数の最大幸福」を社会の倫理的な最終目標にした。

III ベンサム以後

ベンサム以後の功利主義の代表的人物としては、イギリスの法学者オースティンやジェームズ・ミル、ジョン・スチュアート・ミルの親子などがいる。

オースティンは「法理学の領域決定」(1832)の中で、功利主義をもとに法実証主義を説いた。ジェームズ・ミルは、ベンサムが創刊した機関誌「ウェストミンスター評論」で功利主義の考えを展開し、一般にひろめていった。ジョン・スチュアート・ミルはベンサム以後の功利主義のもっとも有力な思想家で、快楽の強さだけではなく、質の違いにも言及した。ベンサムがあらゆる快楽を同じように計算することができると考えたのに対し、ミルは「満足した豚よりも満足しない人間であるほうがよい」といい、快楽の質の違いを強調した。

イギリスの哲学者シジウィックは、快楽から道徳をみちびきだすことを否定し、道徳の基礎を直覚におき、その考えを功利主義にむすびつけた。ダーウィンによって提唱された進化論(→ 進化)をあらゆる現象に適用したスペンサーは、功利主義と進化論の総合をめざした。アメリカのプラグマティスト(→ プラグマティズム)であるジェームズやデューイも、功利主義の影響を大いにうけている。


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快楽主義
快楽主義

かいらくしゅぎ
hedonism

  

行為の標識として快楽 hdonをとる理論。幸福主義の一形態。キュレネ学派,なかんずくアリスチッポスは瞬間的快楽のみを善とし,可能なかぎり多くの快楽を集めることに幸福が存するとした。これに反しエピクロスは,そうした感覚的,瞬間的快楽を否定し,至高善たる快は持続的な,したがって精神的なものでなくてはならないとしてアタラクシアを説き,快楽に質的区別を認めた。ほとんど禁欲的な生活をおくったエピクロスへの世人の誤解は,快楽主義への偏見の典型である。古代のこの2学派は快楽主義の2つの典型であるが,近代にいたってベンサムはそこに社会的観点を導入した。彼は功利主義に立って,快楽の量的差に基づく快楽計算を提唱,最大多数の最大幸福を主張した。なお,物質的快楽の追求は多くの困難に遭遇することになり,苦痛を増す。それゆえ快楽の放棄こそ快楽への道であるという考えが生れるが,これを快楽主義的逆説と呼ぶ。また美学の領域では,美的快楽を美の本質的要素とする説を美的快楽主義と呼ぶ。 (→エピクロス主義 )





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快楽主義
かいらくしゅぎ hedonism

快楽(ギリシア語 h^don^)こそ善の最終的な判断の基準であると考える倫理的立場。一般には肉体的快楽,とくに性的快楽を追求する立場をいうが,哲学史的には,何を快楽とするかは,各体系によって異なる。ソクラテスの弟子アリスティッポスは,人生の目的を快楽の追求とした。ただしこの快楽とは肉体的放縦の所産ではなく,逆に魂による肉体的欲望の統御から生まれると考えた。この態度は次代のエピクロス学派に続く。エピクロスとその学派は魂の平静(アタラクシア ataraxia)を重んじ,健康で質素な共同生活を通して得られる精神的快楽を重んじた。彼の学園ではつねに快活な笑いとくつろいだ喜びが絶えなかったという。一方インドのチャールバーカ派あるいは順世派では極端な唯物論の立場をとり,感覚的実在以外に何も認めず,輪廻も業も否定した。とすれば人生の目的は感覚的快楽の追求もしくは苦痛の回避しかないと考えた。この立場はもっとも素朴な世俗的人間が無意識にいだいている信念だといえよう。
 近代のその代弁者はフランス唯物論者,とくにエルベシウスである。《精神について》(1758)の中で,彼は人間の本性を次の4項のもとでとらえた。(1)あらゆる人間の能力は結局は感覚に帰する。(2)人間は快楽を愛し苦痛を恐れる利己的存在である。(3)人間はすべて平等の知性をもつが,ものを学ぶ意欲にはばらつきがある。(4)適切な教育を受けた支配者は適当な立法化を行って環境を自分の優位に変更し,それによって自利を増進することができる。ここには浅薄ではあるが,大多数の人間を支配している快楽原則を見抜いた冷徹な世知がある。功利主義の提唱者ベンサムや J. S.ミルは〈最大多数の最大幸福 the greatesthappiness of the greatest number〉を標語として掲げ,幸福とは人間の求める善であり,それは快楽を求め,苦痛を避ける合理的行動によって達成しうると考える。個人の合理的利己的行動こそ政治の干渉さえ受けなければ,かえって社会の自然の調和を生み,最大善・最大幸福に寄与しうるという。                    大沼 忠弘

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快楽主義
I プロローグ

快楽主義 かいらくしゅぎ Hedonism 人間には快楽をもとめ、苦痛をさけるという基本的な考えがある。それをもとに、人生の究極の目的は快楽にあるとする倫理学説。

II 古代ギリシャの快楽主義

古代ギリシャでは2種類の快楽主義がとなえられた。1つはキュレネ学派の利己的、 感覚的快楽主義で、もう1つはエピクロス学派の理性的快楽主義(エピクロス主義)である。

キュレネ学派によれば、われわれの知識はすべて瞬間ごとにきえていくはかない感覚に根ざしているから、現在感じられている快楽と未来におこるかもしれない苦痛を比較できるような知識体系をつくることはできない。したがって個々人は、現在の一瞬だけを実在とみなし、自分が現在感じている快楽に身をゆだねるべきであるとされた。これに対して、エピクロス学派は、刹那(せつな)的な快楽はかえって苦痛をひきおこすのであって、むしろ自制や思慮によって感覚的快楽をたつことが、真の快楽をえる方法だと考えた。

III 最大多数の最大幸福

近代においては、利己的、感覚的快楽主義が18世紀のフランスの唯物論哲学者エルベシウスによってとなえられた。しかし近代の快楽主義でもっとも影響力の大きかったのは、18~19世紀のイギリスでベンサムやジョン・スチュアート・ミルがとなえた功利主義である。これは、快楽主義を社会の考察にまで広げた一種の社会的快楽主義である。個人が快楽の追求に幸福をみいだすのと同様に、社会もまた「最大多数の最大幸福」が実現したときによい社会になるとし、そうした社会の倫理的最終目標を達成するために、彼らは選挙制度の改革など社会改良につとめた。


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J.ベンサム
ベンサム

ベンサム
Bentham,Jeremy

[生] 1748.2.15. ロンドン
[没] 1832.6.6. ロンドン

イギリスの法学者,倫理学者,経済学者。富裕な中産階級の子として生れ,ウェストミンスター,オックスフォードのクイーンズ・カレッジ,リンカーン法学院を経て,同学院で法律制度や思想を研究,18歳でマスター・オブ・アーツ。 1776年に無署名で最初の著書『政府論断片』A Fragment on Governmentを公刊,最大多数の最大幸福こそ正邪の判断の基準であるとし,功利主義の基礎を築いた。その後『高利擁護論』 Defence of usury (1787) において,スミスの法定利子論を批判するなど,スミスよりも徹底した経済的自由主義者としての側面をもつ。また,政治的には『道徳および立法の諸原理序説』 An Introduction to the Principles of Morals and Legislation (89) などを著わし,哲学的急進主義者として議会の改革などに関する政治運動にもたずさわり,ミル父子やリカードに影響を与えた。





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ベンサム 1748‐1832
Jeremy Bentham

イギリスの法学者,哲学者。弁護士の息子としてロンドンに生まれ12歳でオックスフォード大学クイーンズ・カレッジに進み,63年15歳で卒業。その後,母校でマスター・オブ・アーツを目ざすかたわら(18歳で取得),ロンドンのリンカン法曹学院で法律実務を学び,72年弁護士資格を取得。しかし弁護士業に興味がもてず,法改革,法典化の問題に取り組んだ。76年ブラックストンの《英法釈義》序論の一部を批判した《統治論断片》を匿名で出版。そこでは社会契約論,自然法論を批判するとともに,ヒューム,エルベシウスらから影響をうけた〈功利の原理 principle of utility〉を提示した。この,〈正邪の判断基準は最大多数の最大幸福である〉という功利の原理を体系的に説明し,立法の分野に適用したのが,主著《道徳と立法の諸原理序説》(1780執筆,89刊行)である。幸福は快楽および苦痛のない状態とされ,快楽苦痛の種類,計算方法,法によって禁止されるべき有害な違反行為,違反行為と罰とのつりあい等が考察されている。82年に執筆された続編《法一般論》では,法および法体系の構造的特徴,各法部門の区別,法典化の問題等が検討されている。以上の立法の基礎理論に基づいて,刑法,民法,訴訟法,証拠法,国際法,憲法といった各法部門の立法原理の考察へと進み,最終的には,多少の修正を加えればどこの国にでも応用できる〈完璧な法典〉の構築を目ざした。彼は自己の立法論を実践してくれる国々を求め,ロシアに旅行したり,フランスの議会制度・司法制度の改革案を発表したりした。92年にフランス名誉市民の称号を国民議会から与えられたのはそのためであるが,フランス人権宣言には批判的であった。彼の名前が大陸諸国等で広く知られるに至ったのは,スイス人 E. デュモン Dumont(1759‐1829)の協力,とくにベンサムの草稿を整理し仏訳した1802年《立法の理論》によるところが大きい。
 他方,1791年《パノプティコン》を発表して円形の理想的刑務所建設計画の採択を政府に進言した。みずからの資金で土地を購入して計画実施の準備を進めたが,1811年,最終的に議会で不採用が決定された。晩年,議会改革を唱え,政治的急進主義者に変わったのは,この計画の失敗とも一部関係している。09年《議会改革問答集》を執筆し,17年《議会改革案》を公表。24年哲学的急進派の機関誌《ウェストミンスター評論》を創刊。30年,政治改革への関心の集大成であり,〈完璧な法典〉構想の最後の課題であった《憲法典》を刊行。そこでは国民主権,一院制議会,毎年改選,平等選挙区,秘密投票,普通選挙(女性,文盲は除く)を骨子とする代表民主制が主張されている。死後,彼の影響をうけた人々によってイギリスの中央・地方の行政制度,司法制度の諸改革が精力的に開始された。ベンサム主義の影響の度合いについては評価が分かれているが,彼の業績は,近代法,近代国家の在るべき姿を功利の原理からする具体的な改革案をとおして示し,実践しようとしたことにあった。
 なお執筆活動は法学関係だけでなく,幅広い分野に及んだ。哲学,倫理学では,《行為の動機表》(1817),ボウリング編《義務論》(1834)等がある。経済学では,A. スミスの影響によって経済的自由主義を説いた《高利弁護論》(1787)や,植民地論,貨幣論等についての論稿がある。政治学では,ビンガム編《誤呈論》(1824)があり,ほかにも教育論,宗教論についての論稿がある。ベンサムの著述は J. S. ミルらに影響を与えた。著述全体の中核にあるのは幸福であり,その促進を妨げる政策,法律,制度への批判,幸福の促進を阻害するために用いられる観念,思想への批判であった。⇒功利主義                 深田 三徳

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ベンサム,J.
I プロローグ

ベンサム Jeremy Bentham 1748~1832 功利主義という思想をとなえたイギリスの哲学者・経済学者・法学者。

II 生涯

ロンドンに生まれ、3歳ころから神童ぶりを発揮し、12歳でオックスフォード大学に入学、15歳で卒業した。その後弁護士資格をとるが弁護士にはならず、法体系の徹底的みなおしや、法や道徳の一般理論にとりくむ。1789年に「道徳と立法の諸原理序説」を刊行し有名になる。その後、ジェームズ・ミルやその息子ジョン・スチュアート・ミルも属していた哲学急進派のリーダーとして「ウェストミンスター評論」を創刊、編集し、さまざまな改革案を提出した。

1832年に死去後、本人の希望にしたがって遺体は友人の前で解剖された。

III 思想

ベンサムは、「道徳と立法の諸原理序説」において、功利の原理をつかうことによって、道徳的にただしいものを科学的にきめることができると主張した。彼は、ある行為がただしいのは、それが「最大多数の最大幸福」を生みだす場合であると考えた。このとき、幸福とは快楽のことである。そして快楽と苦痛について数学的に計算をすることで、ただしい行為とただしくない行為を区別できるといい、快楽と苦痛によってさまざまな価値がきまってくるのであれば、人間の快楽や苦痛とはかかわりなく存在するとされる生得権や自然法という考えは、意味のないものとなると論じた。

ベンサムの考えは、19世紀後半のイギリスの政治改革や刑法、民法などの司法制度に多大な影響をあたえた。ほかの著作に「行為の動機表」(1817)、「義務論」(1834)などがある。


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J.ミル
ミル

ミル
Mill,James

[生] 1773.4.6. ノースウォーターブリッジ
[没] 1836.6.23. ロンドン


イギリスの歴史家,経済学者,哲学者。 J.S.ミルの父。エディンバラ大学卒業後,ロンドンで評論家として活動中,ベンサム,リカードと知合い,功利主義とリカードの学説の普及に努めた。『英領インド史』 History of British India (3巻,1817) が機縁となって東インド会社に入社。ほかに,友人ベンサムの思想を連想心理学の立場から擁護した『人間精神の現象分析』 Analysis of the Phenomena of the Human Mind (29) がある。





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ミル 1773‐1836
James Mill

イギリス功利主義の代表者の一人で,J. ベンサムの協力者として学派の形成に貢献した。経済学者としても知られる。長男 J. S. ミルに,功利主義の継承者たらしめるべく厳しい早教育をほどこしたのも,その一端である。スコットランドの農村の貧しい靴屋の家に生まれたが,ある裁判官がその才能を惜しんでエジンバラ大学で神学を学ばせた(1790‐97)。説教の免許を得て巡回説教をやってみたものの,人気がなく,職を求めてロンドンにでたミルは,ジャーナリストとして成功し,1808年にはベンサムを知って,その最初のイギリス人の弟子となった。9人の子どもをかかえながら,精力を傾けて書いた大著《イギリス領インド史》(1817‐18)によって名声を確立するとともに,東インド会社に職を得て生活を安定させることができた。彼の著作は,スコットランド啓蒙思想の成果のうえに立っているので,功利主義への改宗後でさえ,ベンサムとのあいだに微妙なずれがある。とくにミルが東インド会社に就職してからは,人間関係も以前のように緊密ではなくなった。なお著書としては,ほかにリカードの経済学を平易にした教科書《経済学綱要》(1821)や《自伝》(1873)がある。
                         水田 洋

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ミル,J.
ミル James Mill 1773~1836 イギリスの哲学者・経済学者。ジョン・スチュアート・ミルの父。ベンサムのイギリス人の最初の弟子で、ベンサムの功利主義の考えをくわしく説明し展開した。

スコットランドに生まれ、エディンバラ大学でまなぶ。雑誌の編集をし、1806~18年に「イギリス領インド史」を執筆、有名になった。その後、東インド会社に就職。さらに、経済学者リカードの考えをもとにして哲学的急進主義をとなえ、この考えを「経済学綱要」(1821)にあらわしている。


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J.Sミル
ミル

ミル
Mill,John Stuart

[生] 1806.5.20. ロンドン
[没] 1873.5.8. アビニョン

  

イギリスの思想家,経済学者。 J.ミルの長男。父の厳格な教育を受けて育ち,10代から哲学的急進派の論客として活躍。 1823年ロンドンの東インド会社に入社,56年まで在職。 26年の精神的危機を転機として,それまでの狭義のベンサム主義から脱してドイツの人文主義や大陸の社会主義,コント思想などにも関心を寄せるようになる。 65~68年下院議員となり,社会改革運動にも参加。社会科学も含めた科学方法論書でもある『論理学大系』A System of Logic (2巻,1843) 公刊後,19世紀中葉の経済学の再編成期にあたり『経済学原理』 Principles of Political Economy (48) で古典派経済学の体系を独自の方法で整理し,生産法則と分配法則とを分離して,前者を歴史を貫く不変の原則とし,後者は社会進歩とともに変革しうると説き,静学と動学の区別を導入し,労働階級の将来を論じ,定常状態に独自の解釈を加えるなど,かなりの期間大きな影響力をもった。『功利説』 Utilitarianism (63) で快楽に質の差を導入したことでも著名。政治論では代議制と行政上の分権制の意義を強調した。ほかに『自由論』 On Liberty (59) ,遺稿『ミル自伝』 Autobiography (73) ,遺稿『社会主義論』 Chapters on Socialism (79) など著書,論文多数。トロント大学によりミルの『全集』 Collected Works of John Stuart Millが刊行されている。





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ミル 1806‐73
John Stuart Mill

イギリス19世紀中葉の代表的な哲学者,経済学者。とくに,その晩年に書かれた《ミル自伝》によって,幼少時からの一生を通じる思想展開を詳細に後づけることが可能な数少ない例として知られている。父ジェームズ・ミルの異常ともいえる教育熱心によって,3歳からギリシア語を,8歳からラテン語を学び,12歳までに多くの古典を読んだ。この間に初等幾何学や代数学ならびに微分学の初歩を学び,13歳のときには経済学の課程まで終えていたという。父ジェームズは D. リカードの親友であり,その経済学の礼賛者かつ解説者であったから,ミルは少年期に徹底的にリカード経済学を仕込まれたわけである。また父からは論理学も学んでいる。また父を通じて J. ベンサムの功利主義から強い影響を受けた。14歳以後は一人立ちで勉強したが,幼年期からの教育によって一種の純粋培養的な学者となったといえる。一生の間に《論理学体系》(1843),《経済学原理》(1848),《自由論》(1854年に書かれ59年出版),《功利主義論》(1861年に雑誌に発表,63年単行本),《女性の隷従》(1869),遺稿の《社会主義論》(1879)その他多くを著したが,それらはすべて自分の見聞に照らして,より正確に真理を究め世に問おうとする誠実な努力の結果であった。彼ほど世俗の利害や党派的な感情に惑わされない人物はまれであったといえよう。
 経済学者としてのミルは古典派経済学の完成者と呼ばれ,同時にイギリス社会主義の父とも呼ばれたが,正確にいえば,古典派を頂点まで理解することによって,その限界をも知るに至り,体系を拡張したということである。そのことは彼の《経済学原理》の初版と第3版(1852)との差異に見ることができる。ミル自身は労働階級への関心の高まりを,彼が愛し後に結婚(1851)したテーラーHarriet Taylor の影響に帰しているが,要はミルが生活経験の乏しさから〈イギリス交際社会の低級な道徳の調子をまったく知らなかった〉ために,古典派の〈私益追求〉の概念をあまりに性善説的に解釈していたことへの反省にほかならない。ミルのリカード派からの脱皮は,イデオロギー的なものではなく,〈富の分配〉を〈富の生産〉と同様な自然法則であるかのようにみなすことが事実認識上の誤りであることに気づいたためであった。《経済学原理》における労働時間規制論は,市場均衡論にもとづく最初の分析的記述となっている。《論理学体系》においては,それ以前の演繹(えんえき)法偏重をいましめ,帰納的な実証主義の重要性を指摘した。
 また功利主義についても,ベンサム流の数量評価が質的側面を見落としていることを指摘した。ミルは徹底して個人の自由を尊重することから,男女平等の政治的民主主義を主張し,同時に多数決において少数者の意思表示の自由を留保することを忘れなかった。ミルが矛盾撞着(どうちやく)を含む過渡期の思想家と評されたのは,既得の真理に新たな知識を加えるという進歩発展への彼の苦闘の過程を表面的に見たものにすぎない。
                      嶋村 江太郎

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ミル,J.S.
ミル John Stuart Mill 1806~73 イギリスの哲学者・経済学者。19世紀イギリスの哲学、経済学だけではなく、政治学、論理学、倫理学などに多大な思想的影響をあたえた。

父のジェームズ・ミルにより、3歳からギリシャ語、8歳からラテン語といった並はずれた早期教育をうける。17歳で、ギリシャ文学と哲学、化学、植物学、心理学、法学を完全に習得する。ロンドンの東インド会社にはいり、勤務のかたわら思想活動にとりくんだ。会社解散後、フランスのアビニョンの近くにうつりすむ。1865年にイギリスの下院議員となるが、68年に落選。アビニョンにもどりそこで死去した。

ミルは、18世紀の自由、理性、科学への関心の高まりと、19世紀の経験主義、集産主義的傾向の橋渡しの役割を演じた。哲学においては、父ジェームズ・ミルやベンサムの功利主義の考えを体系化し、知識を人間の経験に基礎づけ、人間理性を強調した。経済学の分野では、個人の自由を尊重し、社会や政治の専制が自由に対して脅威となる可能性について論じた。彼自身は社会主義者にはならなかったが、マルクス以前の社会主義を研究し、労働者の条件の改善のために活動した。国会では、男女平等や産児制限などを支持したことから、急進派とみなされていた。

著作には「経済学原理」(1848)、「自由論」(1859)、「女性の隷従」(1869)などがある。


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シジウィック
シジウィック

シジウィック
Sidgwick,Alfred

[生] 1850
[没] 1943

  

イギリスの哲学者。命題はなんらかの意味で具体的応用が不可能なときは無意味であると主張して,形式論理学を批判し,実用的論理学の立場に立った。主著『論理学の応用』 The Aplication of Logic (1910) ,『要素論理学』 Elementary Logic (14) 。





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功利主義
こうりしゅぎ utilitarianism

主として19世紀のイギリスで有力となった倫理学説,政治論であり,狭義には J. ベンサムの影響下にある一派の思想をさす。ベンサムは《政府論断片》(1776)のなかで,〈正邪の判断の基準は最大多数の最大幸福である〉という考えを示した。彼はこれを立法の原理とすることによって,従来の政治が曖昧な基礎にもとづく立法に依拠していたのをただそうとしたのである。〈功利 utility〉という語はすでにヒュームの《人間本性論》(1739‐40)で用いられており,幸福(快楽)をもたらす行為が善で不幸(苦痛)をもたらす行為が悪だとする考えは,常識のなかには存在していたといえるが,ベンサムはそれを学問的な原理に高めようとしたのである。そして〈最大多数の最大幸福〉という原理は,個人の利害と一般の利害とを合致させることをめざしている。彼の《道徳および立法の原理序説》(1789)は,この功利の原理を展開したものである。すべての人間の行為の動機がつねに快楽の追求と苦痛の回避であるとすればすべての行為が正しいことになってしまうこと,自分の幸福と他人の幸福とが衝突することがあること,ベンサムの説く快楽の計算は実際にはきわめて困難なことなど,ベンサムの功利主義には種々の欠点があった。しかし,立法の原理として〈最大多数の最大幸福〉を提示することは,当時の立法者の少数有力者のための立法とそれにもとづく政治を批判する理論的根拠として有効であった。中産階級の人々にとっては〈幸福〉の具体的内容についての大体共通する理解があったからである。
 ベンサムの強い影響を受けた J. ミルは,ベンサムの思想を整理し,その宣伝に努めた。そして《人間精神の現象の分析》(1829)を書いて,功利主義をハートリー David Hartley(1705‐57)の連合心理学によって基礎づけようとした。また彼は,功利主義の立場から代議制民主政治を主張し,《経済学要綱》(1821)においては功利主義にもとづく経済学思想を展開した。J. ミルの子 J. S. ミルはベンサムの強い影響を受け,《功利主義論》(1863)を書いて,功利主義に対する種々の批判に反論したが,同時にベンサムが幸福(快楽)に質の相違を認めなかったのに対し,質の差別を認めた。〈満足した豚よりも満足しない人間である方がよく,満足した愚者であるよりも満足しないソクラテスである方がよい〉という彼の有名な言葉は,質の差別を示している。また彼は〈観念連合〉の原理を導入し,快楽を追求する利己的個人のなかに利他的行動を起こす心理的要因があるとし,もともと人間には〈共感〉や〈仁慈への衝動〉が存在すると説いた。
 功利主義を提唱したベンサムとその影響下にある人々は,政治的な活動をおこない,1832年の〈選挙法改正案〉の議会通過に大きく貢献した。この〈改正案〉は中産階級の政治的発言権を拡大することになる。この政治的党派は〈ベンサム主義者 Benthamites〉または〈哲学的急進派philosophic radicals〉と呼ばれた。彼らは政治的には代議制民主政治の確立をめざし,経済的には自由放任主義を主張し,それを議会での立法を通じた改革によって実現しようとしたのである。
 J. S. ミル以後,H. スペンサーは新しい学説として注目を集めていた〈進化論〉にもとづいて功利主義を基礎づけようとした。またイギリスの哲学者シジウィック Henry Sidgwick(1838‐1900)は,心理的な事実としての快楽から道徳的原理を引き出すことはできないとし,実践理性の直覚する公正の原理こそが道徳の基礎であると説き,それに功利の立場を結びつけた。そして彼は J. S. ミルと同じく快楽の質の差別を認め,質の高い快楽をめざすべきだと説いた。このように,ベンサムに始まる功利主義は,倫理思想であるだけでなく,社会思想としても展開し,19世紀のイギリス,そしてヨーロッパ全体に大きな影響を与えた。 城塚 登

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産業革命
産業革命

さんぎょうかくめい
Industrial Revolution

  

通常は 18世紀後半から 19世紀前半にかけてイギリスにおける技術革新に伴う産業上の諸変革,特に手工業生産から工場制生産への変革と,それによる経済・社会構造の大変革を産業革命と呼ぶ。広義にはこのイギリスにおける産業革命が 19世紀から 20世紀初頭にかけて他の欧米諸国や日本に波及したので,特にイギリスに限らず資本主義確立期にみられる生産技術,社会構造上の大変革一般の意味として用いられる。さらに最近ではより拡大解釈して,発展途上国の工業化問題などとの関連で (特に資本主義化とは結びつけずに) ,技術革新に伴う工場制生産の大規模な導入とそれに呼応する社会構造面での大変化の意味として用いられることもある。イギリスにおける産業革命は J.ケイの飛杼 (とびひ) の発明 (1733) に始り,J.ハーグリーブズのジェニー紡績機 (64~67頃) ,R.アークライトの水力紡績機 (69) ,S.クロンプトンのミュール紡績機 (79) ,E.カートライトの力織機 (87) という相次ぐ発明によって飛躍的に生産力を高めた新興の木綿工業を中心に発展した。さらに J.ワットの蒸気機関 (69) や 18世紀初頭の A.ダービーのコークスを燃料とする製鉄法,H.コートのパドル式練鉄法 (83,84) ,J.ウィルキンソンの中ぐり盤 (74) などの開発に伴う機械工業への移行,マニュファクチュアの発展による資本の蓄積,市場の準備を背景とした工場制度への移行,さらには農業革命と第2次エンクロージャーによる大規模な自由労働力の創出などのほか,著しく発達した交通機関,政治的条件を基礎に発展し,これによって近代資本主義経済が確立した。イギリスの産業革命は表面上は軽工業中心であったが,19世紀中期以降は重化学工業や電力,運輸,内燃機関などにも技術革新が続出し,それに伴って後発国の産業革命は必ずしも軽工業主導の古典的なイギリス型をとらなくなる。その形態は種々あるとしても,通常フランスでは 1830~60年頃,アメリカでは 40~70年頃,ドイツでは 48~70年頃,ロシアや日本では 90年以降に産業革命が起きたとされている。なお場合によっては軽工業中心 (60~1830) の産業革命を第1次産業革命,19世紀の第4四半期頃から欧米で起きた重化学工業面での大変革を第2次産業革命,そして第2次世界大戦頃から起りはじめた生産技術や経済面での変革を第3次産業革命と呼ぶこともある。





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[ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 2008]


産業革命
さんぎょうかくめい industrial revolution

【産業革命論の変遷】
 〈産業革命〉という言葉そのものは,K. マルクスやフランスの A. de トックビルらによっても用いられたが,厳密な学術用語としては,1880年代になってイギリスの社会改良家 A. トインビーによって確立させられた。トインビーは,ケンブリッジで教鞭をとるかたわら,ロンドンのイースト・エンドなどのスラム改良に活躍した人物で,今もトインビー・ホールにその名をとどめている。彼にとって〈産業革命〉とは,18世紀後半,つまりジョージ3世登位以降,19世紀前半までのイギリスが,生産活動の機械化・動力化,工場制の普及,その結果としての工業都市の成立,産業資本家層と工場労働者の階層の勃興など,農村社会から資本主義的工業社会へ〈急激に〉大転換を遂げたことを意味した。それは,いかにも劇的な変化であったから,〈革命〉の名が与えられたのである。
 ところで,トインビーやハモンド夫妻のように,19世紀末から20世紀初頭にかけて〈産業革命〉論を展開した人々は,ほとんどが近代都市における貧困や失業,犯罪,疾病,労働や生活の環境の悪さなど,現実の社会問題と取り組んだ社会改良家であった。こうした近代都市の社会問題は,かつての農村共同体の中ではあまり目だたなかったことばかりで,産業革命とそれに伴う都市化の産物というほかない。産業〈革命〉という経済・社会のカタストロフィーがあって,牧歌的だった〈古き良きイギリス〉が,〈暗くて惨めな〉工場労働を主体とする貧困と犯罪の都市的・工業的社会に変えられてしまった,と彼らが考えたのも無理はない。革命的な激変があったことと,それが社会問題をもたらしたという二つの発想が,こうしてまず第1期の産業革命論の柱となったのである。産業革命による労働者の生活水準の低下を主張しているという意味で〈悲観説〉派とも呼ばれるこれらの人々は,婦人や児童の工場や鉱山での労働が低賃金のうえ,労働環境が極度に悪かったとして,とくにこれを問題にもした。
 しかし,資本主義世界が相対的に安定した1920年代になると,産業革命がもたらした現代社会への肯定的姿勢が強くなり,近代経済学的な発想法の影響もあって,〈楽観説〉が成立する。実質賃金統計などを作成してみると,労働者の生活水準は,産業革命期にもむしろ上昇しているとするこの立場は,J. H. クラッパムによって整えられ,T.S. アシュトンらに受け継がれて,欧米では通説の位置を占めた。産業革命前の社会も,悲観説が想定したほどのパラダイスではなかったし,〈産業革命〉と呼ばれている現象自体,数世紀にわたる連続的な変化の集合であって,短期の〈革命〉的激変などではない,というのが楽観説派の立場である。しかし,楽観説の立場にも,実質賃金統計の不完全さや,計量不能な要因,たとえば心理的な不満などをどう考えるかといった問題が残されており,今なお悲観説を強く支持するホブズボーム Eric J. Hobsbawm のような史家も少なくはない。
 いずれにせよ,以上二つの立場では,産業革命は現代イギリス社会の起源をなしたできごとととらえられている。つまり,産業革命は,イギリス史上の歴史的固有名詞と考えられており,英語では The Industrial Revolution と表記された。ただ,悲観説はそれが生んだ現代イギリスが多くの社会問題を含み,改良を要する社会だとし,楽観説はそれを肯定的にとらえただけの違いなのである。しかし,その後まもなく,産業革命の概念は二つの方向に拡大適用されるようになる。ひとつは,他の国々における同種の歴史的動向にその名がかぶせられ,〈フランス産業革命〉や〈ドイツ産業革命〉といった用語法が成立したことである。もうひとつは,〈13世紀の産業革命〉や J. U. ネフの提唱した16世紀の〈初期(早期)産業革命〉,19世紀末以来の,化学と電力を主体とする〈第2次産業革命〉といった,イギリスないし世界史上のいろいろな時期に,この言葉があてられるようになったことである。歴史的固有名詞であった The Industrial Revolution は,一般名詞の industrial revolutions に拡散してしまう傾向を示しているのである。本来の〈産業革命〉を指すために,〈最初の〉とか,〈古典的〉とかいった形容詞をつけなければならなくなっているのは,このためである。
 しかし,さらに20世紀後半,南北問題が深刻になると,産業革命の問題は〈工業化〉の問題として,世界史的な視野の中におかれはじめる。工業化,つまり農業社会から工業社会への移行という概念は,ロストー Walt Whitman Rostow 以来,〈近代的経済成長〉つまり〈1人当り国民所得の持続的成長〉の開始の問題と結びつけられることが多くなっている。しかし,1人当り国民所得の成長を指標として,各国が同一の発展段階を次々とたどる――とくに各国の産業革命期にあたる,決定的な〈離陸 take‐off〉の段階を過ぎた国は,〈持続的成長〉をもつ国,つまり開発された北の国になる――というロストー的発想では,工業化や〈持続的成長の開始〉は要するに〈各国産業革命〉の概念の言換えにすぎないともいえる。これに対して,工業化を18世紀のイギリスに始まり,いまだに完了しない世界史上の一過程ととらえる立場もある。成長経済学の立場でのガーシェンクロンAlexander Gerschenkron(1904‐78)やマルクス経済学的な〈新従属派〉理論の見方は,その例である。
 したがって,1950年代までは,産業革命の一国内(とくにイギリス)での社会的帰結に関心が集中していたのに対し,成長経済学的な工業化論では,産業革命つまり〈離陸〉や工業化は当然〈望ましい〉ものであったとして,むしろその原因論に興味を示した。さらに近年になると,世界史は単一の歴史であり,一部の地域の工業化こそが,他の地域を低開発化し,現在の南北問題を生んだと考える立場が強くなっている。また,社会史への関心の高まりもあって,ふたたび庶民生活への産業革命の衝撃が問題にされるなど,社会的帰結への関心の逆戻り現象も認められる。⇒経済発展
【イギリス産業革命】
[前提]  産業革命の概念そのものが多様なだけに,その始期と終期についても見解は必ずしも一定していない。かつては,綿業における重要な発明の時期などを手がかりに,漠然と1760年代から19世紀前半くらいに措定されていたが,始期については,人口増加や1人当り所得の成長の起点との関係で,1740年代説や80年代説が出されたし,その終期についても,新たな技術体系の一応の完成を意味する機械工業の確立――機械そのものの機械による生産――や産業資本主義の確立を意味する資本制恐慌の始期(1848)などが提唱されている。
 いずれにせよ,18世紀のイギリスで最初の産業革命が起こったのだとすれば,その前提条件は何だったのか。それが産業資本主義の確立を伴ったという意味では,資本と労働の供給,原料供給や製品市場が問題となる。これらの条件を歴史的に準備したのは,エンクロージャーをはじめとする農業の変革(いわゆる〈農業革命〉)と,重商主義帝国の形成を背景とした貿易の成長(いわゆる〈商業革命〉)であったといえよう。エンクロージャーやノーフォーク農法(輪栽式農業)の採用によって,一方では農民は土地に対する権利を失って賃金プロレタリアート化したが,他方では,農業の生産性が高まって,人口増加が可能になった。商業革命も,商業資本の蓄積を進めながら,当面ほとんど無限ともいえる原材料――たとえば綿花――をもたらし,また広大な製品市場をも与えた。
 さらに,毛織物工業を軸として,各種の製造工業がひろく展開していたことも,毛織物工業が産業革命の主導部門になったわけではまったくないが,資本・賃労働関係の展開を促進したことはまちがいない。
 以上のほかに,たとえば人口増加の問題がある。人口増加と経済発展との因果関係は複雑で,前者を産業革命の前提条件とみるか,むしろその結果とみるか,議論の分かれるところである。しかし,1740年代から急激に人口が増えはじめたことが,労働力の供給を容易にしたことは事実である。
[綿業――軽工業]  技術革新と生産規模の劇的な拡大に象徴される産業革命の過程そのものは,まず綿織物工業を主導部門として始まった。主導部門とは,とくに成長率が高く,波及効果の大きい部門のことである。イギリスの綿業は,J. ハーグリーブズや R. アークライトの発明を契機として,1760年代後半から急成長を遂げ,たちまち国民経済の中核をになうようになる。1802年には,輸出でも毛織物を凌駕してしまうのである。17世紀には綿織物は,イギリスでは生産されず,東インド会社の主要輸入品であったことを思えば,その成長は驚異的である。1700年と20年に制定されたキャラコ禁止法が,インド産綿布の輸入を禁止したこともその成長の一因であったが,毛織物とは違って原料の綿花がすべて輸入品であっただけにその供給に制約がなく,その市場も熱帯を含む全世界に広がりえたことなどが,有利に作用したのである。綿業は,紡績部門と織布部門とに大別されるが,両部門の技術革新が跛行的に進行し,互いに刺激を与え合ったことも,その急成長の一因であった。1785年に J. ワットの蒸気機関が紡績に利用されるようになると,それまでの水力紡績機とは違って,工場の立地や生産の集中に対する制約がなくなり,ランカシャーを中心に,大工場の林立する綿工業都市が多数成立した。
 軽工業である綿業の創業資金は比較的少額であったうえ,株式会社こそ法によって禁止されていたものの,〈パートナーシップ〉制などによって負担を分散することができたから,その創業者は社会のほとんどあらゆる階層から出現した。ただし,著名な発明家で経営者として成功した者は,アークライトを除いてまずないし,社会的地位の高かった地主=ジェントルマンも,綿業に手を染めることはまれであった。
[製鉄業と石炭鉱業――重工業と交通革命]  綿業は本質的に軽工業であっただけに,その波及効果には限界があった。したがって,産業革命が社会・経済の根底からの転換を引き起こすようになったのは,製鉄業のような重工業が拡大しはじめてからである。16世紀のイギリスでは,木炭を燃料としてかなり大規模な製鉄業が展開していたが,建築,造船などとともに,この産業が木材を乱用した結果,〈森林の枯渇 deforestation〉が起こり,17世紀には停滞してしまう。しかし,1708年,コールブルックデールの A. ダービーによってコークス製鉄法が開発され,75年にはワットの蒸気機関がコークスを燃やす際の送風用に導入されて,この隘路が一挙に切り開かれた。またこのことによって,製鉄業と石炭鉱業が不可分に結びつけられ,産業革命の中核をなしていくことになる。84年には,H. コートによるかくはん式精錬法(パドル法)が発明され,銑鉄のみならず良質の錬鉄をもコークスによってつくれるようになった。主要な製鉄業地帯は,バーミンガムを中心とするミッドランド,南ウェールズ,スコットランド南部などであったが,銑鉄1tの生産に石炭10tを要しただけに,製鉄所の多くは炭田に近接して設立されたのである。
 他方,石炭鉱業のほうも,すでに16世紀の〈早期産業革命〉においてもかなり重要な位置を占めていたが,なお石炭の主要な用途はロンドンを中心とする家庭用で,1700年ころでも年産200万t余にすぎなかった。しかし,ダービーの発明以来,その需要は急増し,1800年の生産量は1100万tを超えた。T. ニューコメンの大気圧機関を改良したワットの蒸気機関も,本来は炭坑の排水用に使われたものだが,1769年に認められたワットの特許を商品化するのに力を貸したスコットランドの J.ローバック,バーミンガムの M. ボールトンがいずれも製鉄業者であったことは,鉄と石炭と蒸気機関の密接な関係を象徴している。
 1781年にこれもワットがクランクの装置を発明し,往復運動を回転運動に転換することが可能となり,紡績機や機関車などに蒸気機関が利用される道が開かれた。製鉄業と石炭鉱業にとっては,運輸コストが決定的に重要でもあったから,鉄と石炭と蒸気機関は一体となって交通・運輸革命をもたらした。内陸交通の手段が馬車しかなかった時代には,穀物や石炭,木材のような重い物資は,海岸沿いの地方や航行可能な河川の流域以外には供給しにくかった。馬車交通そのものも,ローマ時代から進歩のない舗装技術に頼っていたために,道路の状況が悪く,十分には機能しなかった。したがって,河川改修とともにターンパイク,つまり有料道路の建設が交通革命の端緒を開く。最初の有料道路は1663年に議会で承認されているが,法律上その建設が認可された総延長距離は1730年までに898マイル(約1440km),50年までには1382マイル(約2210km)に達し,50,60年代にはさらに激増した。18世紀末になると,舗装技術そのものも,J. L. マッカダムや T. テルフォードによって改良された。
 しかし,馬車交通では輸送能力が限られる。1760年代から運河の開削熱が高まり,ミッドランドやランカシャーを中心に,全国に運河網が広がった。〈運河マニア(運河狂時代)〉の典型とされるブリッジウォーター公が,ワースリーの自領からマンチェスターまで開通させた運河は,マンチェスターでの石炭価格を半減させたともいう。さらに1825年,G. スティーブンソンによって蒸気機関車が実用化されると,1830年代から50年代にかけての〈鉄道マニア〉時代を経て,鉄道が国内交通の核となる。国内の鉄道が延べ6000マイル(約9650km)を超え,ほぼ全土が鉄道網でおおわれた1850年には,新規の鉄道建設に投じられる資金と既設のそれからあがる利潤がほぼ均衡した。
 有料道路や運河の建設には,議会の承認を要したうえ,必要な資金も膨大だったから,地主が計画に参画しているケースが多く,財団 trust の形式をとるのがふつうであった。鉄道建設となるとますます巨大な資金と大量の労働力が動員されたし,営業が始まると,人間や物資の流通を一挙に高め,生産の集中や大都市の成立を可能にするなど,各方面へのその波及効果は計り知れないものがあった。イギリスでは,鉄道網の完成がほぼ産業革命の完了期にあたるとされるのは,このためである。
 イギリス産業革命をリードしたのは,以上にみたような目だった技術革新を経験した部門だけではない。たとえば,スタッフォードシャーを中心とする陶器業は,技術的には大きな変化を経験しなかったが,製品の規格化や労務管理,マーケティングの方法などの改善を通じて大発展を遂げた。初代の商工会議所会頭となった J. ウェッジウッドは,こうした〈非典型的産業革命〉のチャンピオンであった。
[社会的帰結]  産業革命は,経済革命である以上に社会革命であった。第1にそれは,産業ブルジョアジーと賃金労働者という二つの階層を勃興させ,伝統的な支配階級である地主=ジェントルマンを含めて,社会を三つの階級に分裂させていった。もっとも,上流=地主貴族と中産階級であるブルジョアジーとは,ともに有産階級として,その利害をしだいに一致させてもいく。産業革命はまた,17世紀末でも総人口の4分の3を占めた農村人口の比率を低下させ,都市住民との比率を逆転させた。
 とすれば,近代的な二つの階級の成立と都市化という現象が,庶民生活をどのように変えたといえるか。悲観説・楽観説両派による〈生活水準論争〉は泥沼化して決着がつかないが,論争の過程で,たとえば次のような変化の実態はしだいに明らかになってきている。工場労働における低賃金と労働時間の長さが同時代にもしきりに問題にされたことは,12時間労働を規定した1833年の工場法などをみれば明らかである。また初期の工場法が婦人労働と児童労働をとくに保護の対象としたことも事実である。しかし,産業革命期に生じた最大の問題は,長時間労働や低賃金そのものにあったのではない。雇用の不安定さを別にすれば,問題の焦点はむしろ,定められた時刻から時刻まで集中的に労働を続けなければならないこと(〈タイム・ディシプリン〉の問題)や,労働が家族集団とはまったく別の編成で行われる結果,生産単位としての家族の紐帯が切られたこと,などにあった。かつての農業労働が祭りやレジャーと混然一体となっていたのに比べると,いまや資本家に売り渡された時間――出来高賃金から時間制賃金への移行が背景にある――と残りの時間との区分が明確化したのである。こうなると,労働者としては,〈労働時間の短縮〉は当然の要求となった。実質賃金についていえば,産業革命期にそれが顕著な低下を示したとするには無理がある。婦人や児童の工場労働がとくに過酷で,低賃金であるという主張もよくきかれたが,以前の農業社会で婦人や児童が労働をまぬがれていたわけでもない。そこでは家族単位の労働――農業であれ,家内工業であれ,大半の商業であれ――がふつうであったから,労働の報酬は戸主が一括して受け取っており,むしろ妻子の労働はいっさい金銭では報われないのがふつうであった。したがって,婦人や児童の労働についても,本当の問題は家族が離れ離れに労働を行わなければならず,母たる者が,もはや子供の衣服を縫ってやることもできないという,旧来の家族構造の崩壊という事実にあった。生産単位としての家族の崩壊は,それがもっていた職業などについての教育機能をも失わせた。産業革命の初期に識字率が著しく低下したかどうかは論争があってよくわからない。しかし,家庭や共同体やギルドがもっていた教育機能が失われた以上,公的な初等教育の制度が整う1870年までの間は,民衆の教育水準があまり上昇しなかっただろうという推定はできる。
 産業革命が庶民生活にもたらした変化の多くは,都市化の結果でもある。この点で象徴的なのは,当時の労働者が一般に故郷の農村からあまり遠くへは行きたがらなかった事実である。全体としてのイギリスにおける人口の重心は,ランカシャーやミッドランドに産業都市が多数成立した結果,北西方へ移動したが,個々の労働者は故郷からあまり遠くない都市――せいぜい隣の州――くらいまでしか移動しなかったことは,A. レッドフォードらによって証明されている。もとの共同体との関係をできるだけ残したいという心情が,そこに働いているといえよう。逆に,新興都市には,それだけ共同体的紐帯がなかったわけである。住宅をはじめ,上・下水道や街灯,公園,消防,警察,救貧などの諸施設・制度の整備以上に,共同体的紐帯の確立が産業革命期の都市の最大の課題となったのは,このためである。友愛組合のような組織は,そうした努力の表れである。しかし,都市労働者の紐帯をもっともはぐくんだのは,結局パブであった。パブを核とする労働者の生活文化は,中産階級からの厳しい批判――禁酒運動や動物虐待禁止運動はそのもっとも目だった動きである――にさらされつつ,根強く生き残った。
 産業革命による社会構造の転換は,政治の面にも投影され,1832年には一般にブルジョアジーの政治参加を認めたといってよい第1次選挙法改正が行われた。しかし,労働者に選挙権を認めた第2次選挙法改正は,激しいチャーチスト運動があったにもかかわらず,1867年まで成立しなかった。1846年に穀物法が,49年に航海法がそれぞれ廃止されたことも,地主や商業資本家に対する産業ブルジョアジーの政治権力の強化を示唆している。1835年には,都市自治体法が成立して,都市行政の近代化の礎石も築かれた。
【その他の欧米諸国の産業革命】
 世界にさきがけて産業革命に成功したイギリスは,その圧倒的な経済力を生かして,自由貿易主義の原則を打ち出した。自由競争こそは,イギリスの優位を保障するものだったからである。しかし,このことは同時に,フランスやドイツ,アメリカ合衆国などの後発国にとっては,イギリス商品による国内市場の席巻を意味した。これらの国々が,一方ではイギリス商品の流入を防ぎながら,他方では先進的なイギリスの技術や制度を吸収して自国の工業化(産業革命)を熱心に追求したのは当然といえる。こうして一般に,イギリス以外の国の産業革命は,多少とも意図的・政策的に促進されたものである。この傾向は,ドイツ,日本,ロシアのように,より後発的な国になるといっそう強くなり,〈上からの産業革命〉とでもいうべき状況が生じる。また,イギリスが世界市場をおさえた結果,後発諸国の工業化は自国の国内市場開発を主体に進めなければならなかったケースが多い――とくに,フランスやドイツ,アメリカ合衆国――が,その際,決定的な役割を果たしたのが,イギリスから導入された鉄道である。イギリスで産業革命の完了を意味した鉄道網の完成が,他の国々ではその開始を示す指標とさえ考えられるゆえんである。
[フランス]  フランスでは,イギリスで発明されたほとんどの紡績,製鉄などの先進技術が1780年代末までに導入されたが,散発的に特権的な企業家がこれを利用したにすぎず,それが急速に普及するのは,フランス革命を経て,各種の産業規制が廃止されてからである。綿糸の紡績工程にミュール精紡機が普及した1810年前後が,フランス産業革命の一応の始期といえる。しかし,イギリスと違って世界市場を握りえなかっただけに,フランスでは綿業が圧倒的な比重をもつことはなく,麻類や絹織物が重要な位置を占めた。絹織物業は産業革命初期の段階では綿業より高い成長率をもち,大衆消費財よりは奢侈的な高級品生産を志向してきたこの国の経済構造をよく示している。製鉄業も,1820年ころからパドル法が導入されて急激な成長を遂げた。42年から48年までの鉄道ブームによって,鉄道網も42年の665kmから48年の932kmにのびた。続いて50年代後半から60年代にかけては,工業生産に占める鉄道投資の比率がピークに達し,70年には延べ1万8000km程度にまで達した。大まかにいって,1850年代以降は,鉄道と製鉄業がフランス産業革命の主導部門となった。また,52年,クレディ・モビリエと呼ばれる大投資銀行が成立したことも,ナポレオン3世治下の高度成長を支えた。60年のイギリス・フランス通商条約は,フランスが対イギリス自由貿易政策に転換したことを意味するが,このような転換は,フランス自体の産業革命の完成を意味しているといえよう。
[ドイツ]  ドイツの産業革命は,およそ1830年代から70年代にかけて進行した。ここでも綿業などにおけるイギリスの先進技術は,ほとんど18世紀のうちに導入されたが,ドイツ関税同盟が成立するまでは国内市場も未統一だったために,普及しなかった。19世紀初頭にも全輸出の4分の1を占め,軽工業の中心をなしていた亜麻工業が,機械化になじみにくかったこともある。したがって,1835年にニュルンベルク~フュルト間に最初の本格的な鉄道が敷かれて以来,鉄道網が急速に広がり,それを軸として石炭業と製鉄業が急速に展開し,この国の産業革命は,初めから重工業に高い比重がかかっていく。製鉄業に関していえば,すでに30年代初めにコークス炉やパドル法が導入され,普及した。ドイツ産業革命の特徴の一つは,政府の役割が非常に大きかったことで,たとえば57年のプロイセンの鉄道の半分近くが国営であった。また,産業革命が本格的に進行した時期に,なお国家の政治的統一が完成していなかったこと,東部のプロイセンのシュレジエン地方とルール地方などを中心とするエルベ川以西の経済発展がよほど跛行的だったことなども,この国の産業革命を複雑なものにしている。
[アメリカ]  アメリカ合衆国は,本格的な封建制度をもたなかったこと,植民地という特異な状況から出発したことなどの点で,経済発展のコースもイギリスやフランスとはかなり違っていた。たとえば南部の綿花生産地帯は当初,もっぱら旧本国イギリスの綿業に結びつけられていたが,1812‐14年の第2次英米戦争などを契機に政府が保護貿易主義を打ち出したため,国民経済自立(いわゆる〈アメリカ体制〉の確立)を求める気運が高まった。こうして,1830年代には,元来南部からイギリスへの綿花の輸出を握って利益をあげてきたニューイングランドに,綿織物工業が〈ウォルサム型〉工場の形態をとって急速に展開する。〈ウォルサム型〉工場とは,ニューイングランド北部に始まった紡・織一貫の大工場のことで,同じニューイングランドの南部に発達した紡績中心の〈ロード・アイランド型〉工場と区別される。しかし,広大な国土に比較的少ない人口が分散している当時のアメリカでは,運河や鉄道を中心とする交通革命が先行しなければ,国内市場の形成,本格的工業化の進展はありえない。この意味で,40,50年代にイギリスからの輸入によって行われた鉄道網の完成(1857年に4万kmとなり,当時のイギリスの2.5倍程度)がもった意味は大きい。鉄鋼業もすでに50年代に,ペンシルベニア,マサチューセッツなどを中心に発展しはじめていたが,南北戦争が北軍の勝利となって終わると,原料・食糧供給地としての南部や西部が,イギリスではなく北東部に従属するようになり,国内の再生産軌道が――つまり〈アメリカ体制〉が――確立する。したがって,アメリカ史上,〈産業革命〉をどの時期に措定するかについては,必ずしも一定した学説はないが,第2次英米戦争から南北戦争の前後にかけての時期をあげるのがもっとも一般的となっている。いずれにせよ,この後も相対的労働力不足の状態におかれたアメリカでは,19世紀を通じて労働集約的な技術革新が進行する。
 このほか,ロシア,日本などにも相ついで産業革命が起こる。ロシアのそれは,1830年代から70年代末,80年代初頭に措定されており,日本の場合は日清・日露両戦争期を中心に考えられている。                       川北 稔
【日本の産業革命】
 日本の産業革命は,松方財政による紙幣整理と広範な農民の没落を前提にして,1886‐89年の企業勃興をもって始まり,日清・日露戦争の間に急速に進展し,日露戦後の1910年ころに終了し,日本資本主義の確立をみるにいたる。1886‐1909年の工場数・労働者数の増加に示されるように,その過程で工場制工業の発達を主導したのは,紡績業と製糸業を先頭とする綿・絹2部門の繊維工業であった(表)。そのほかでは,官営工場の比重の高さと,運輸通信業・鉱山業における労働者数の増加が注目される。以下,主要な工業部門について産業革命の過程をみよう。
[紡績業]  紡績業は繊維工業の中でも機械制大工業としてもっとも顕著な発達を遂げた。政府の助成をうけて発足した各地の2000錘紡績がいずれも不振を極めていたときに,渋沢栄一の指導下に1882年に設立された大阪紡績会社は,1万錘規模の機械を昼夜二交替制で稼働させて高利益をあげたが,それに刺激されて,1886‐89年に鐘淵紡績,三重紡績,尼崎紡績,摂津紡績など,東京,大阪周辺でつぎつぎと大紡績工場が設立された。大紡績は,当時輸入綿糸の中心であったインド綿糸および在来手紡糸,ガラ紡糸との国内市場での競争に打ち勝って急速に発展した。一方で原料を国産綿花から輸入綿花へ転換することにより,1896年綿花輸入税免除を画期として国内綿作の鰻落を決定づけ,他方で国内市場を制覇するや否やいち早く輸出を志向し,94年の綿糸輸出税撤廃と日清戦争の勝利を契機として朝鮮および中国市場への本格的進出を開始した。このような急速な発展を支えた条件として,(1)株式会社組織による主として都市商人層の資金の集中,(2)イギリスからの紡績機械(ミュールからリングへ転換)の輸入,(3)若年女子の低賃金労働の昼夜二交替制での利用,(4)原料としての安価な輸入綿花への依存があげられる。1900年以後,一時輸出が停滞するが,10年以降中国市場を中心に綿糸輸出が再び急増し,13年には中国市場で日本綿糸輸入量がインド綿糸輸入量を超えるにいたる。
[製糸業]  工業のなかで最多数の工場労働者を吸引した製糸業は,欧米の生糸需要に誘引されて1870年代後半から工場生産を開始し,90年代以降は対アメリカ輸出依存度を高めつつ急速に発達し,1905‐09年にはアメリカ市場においてヨーロッパ糸および中国糸を凌駕して,日本の貿易収支を支える最大の輸出産業としての地位を確立した。この間,初期の官営模範工場の富岡製糸場や小野組の器械製糸会社が不振に陥ったのに代わって,洋式器械を模造した繰糸器と蒸気力または水力を用いた工場制の器械製糸と,在来の座繰器を改良し,揚返しまたは荷造り工程だけを工場化した問屋制または組合組織の座繰製糸という,二つの形態が各地に発展したが,1890年代以降の生糸輸出の発展を主導したのは器械製糸,とくに長野県諏訪地方を中心とする緯糸用普通糸を作る器械製糸であった。1900年代後半には,片倉製糸など諏訪糸大製糸による普通糸の優良化と,それまで普通糸生産の周辺にあった郡是製糸などの優等糸生産とが相まって経糸市場へも進出し,アメリカ市場を制覇していった。群馬県,福島県などの座繰製糸は,1894年に器械製糸に追い越され,1910年以後は衰退に向かい,国内向けとして存続していった。労働生産性がフランス,イタリアの約2分の1であった日本の製糸業が,ヨーロッパ糸および中国糸を圧倒していった最大の根拠は,養蚕農民が供給する安い原料繭と農村からの出稼ぎ女工の低賃金・長時間労働とによる生産費の低減であり,それに1900年代後半以後は生糸品質の優良・斉一化と一定の生産性向上が加味された。そして,低賃金のもとで女工の労働意欲をかきたて品質を高めていったものは,賞罰採点式等級賃金制と呼ばれる独特の賃金制度であった。
[織物業]  織物業では日露戦後の1900年代後半まで問屋制家内工業(出機(でばた)・賃機制度)が支配的であった。とくに久留米,川越などの内地向け綿織,西陣,桐生などの内地向け絹織においては,問屋制家内工業が大正期まで強固に存続した。しかし綿織物業では,輸入綿糸の使用とバッタン機の導入によって輸入綿布に対抗し,1880年代末までに国内市場を支配し,90年代には紡績会社兼営の機械製綿布と在来綿布とが並んで朝鮮および中国へ輸出される。1900年代には兼営織布の輸出が順調に進むとともに,その後半に泉南,知多など先進綿布産地を中心に国産力織機(りきしよつき)と電動機を用いた力織機工場が成立してくる。先進綿布産地における力織機工場化は1910年前後に急速に進展し,家内賃織が解体して農家婦女子が織布女工へ転化していった。この転換は国内市場での競争のなかで生じたものであるが,力織機工場生産はやがて輸出向けとして発展していく。兼営織布を中心とする綿布輸出は,日露戦争の勝利による朝鮮の植民地化と中国東北部への軍事的・政治的進出を背景に急速に進み,1910年ごろにはイギリス,アメリカ製綿布および土産綿布を駆逐して朝鮮市場を独占し,中国東北部市場をも支配するにいたった。絹織物業でも1890年代から1900年代にかけて石川,福井および福島の諸県を中心に輸出羽二重(はぶたえ)生産が急速に発展するが,その生産形態は手工制工場,賃織,独立家内工業が並存していた。しかしここでも日露戦後に急激に力織機工場が展開し,賃織が解体し,家内工業が衰退していった。
[重工業]  日本の産業革命においては,機械・金属工業などの重工業は,生産技術の世界的水準との極端な格差のために発展がきわめて困難で,重工業製品の多くを先進国からの輸入に頼らなければならなかった。そうしたなかで,官営の〈軍事工場〉八幡製鉄所および財閥傘下の大規模造船所だけが,軍事的・政治的必要から国家資金を集中的に投下されて突出的に発展した。殖産興業期に創設された陸・海軍工宜を中心とする官営軍事工場は,軍艦・兵器生産の自立を課題に日清・日露戦争を通じて拡充され,小銃などの自給を達成するとともに,その生産技術も著しい躍進を遂げて,日露戦争前後に世界的水準に到達する。軍工宜は鉄鋼や工作機械まで自製して自足生産を目ざすが,しかし日露戦争には軍艦,鋼砲,鋼材などを輸入に依存せざるをえない限界が露呈され,その後急速に八幡製鉄所の拡充,民間造船所・製鋼所との結合を進めて軍器生産の国産化を達成していった。
 軍用・官用鉄鋼の自給を課題として日清戦後に創設された八幡製鉄所は,技術と機械設備を先進国に依存し,鉄鉱石・コークス炭を中国・朝鮮に求めて生産を軌道にのせ,日露戦後には一応銑鋼一貫体制を成立させた。それは,同じころ銑鋼一貫作業を開始した釜石製鉄所,日露戦争前後に設立され多くは軍官需と結びついた住友鋳鋼場,神戸製鋼所,川崎鋳鋼場,日本鋼管などの財閥系資本による鋼材生産と相まって,鉄鋼の自給率を高めていった。しかしなお第1次大戦前には鋼材自給率は34%にとどまった。
 官業払下げに起点をもつ三菱,川崎などの大規模造船所は,造船奨励法,航海奨励法(ともに1896)による政府の助成をうけ,海運業の発達と対応しつつ,機械工業のなかで突出的に発展した。1900年ごろには造船技術が国際水準に接近し,日露戦後には海軍工宜との結びつきを強めて軍艦製造へも進出し,造船業の自立化が達成された。造船以外では,鉄道の発達にともなう客貨車生産を中心に車両業が自給化を進めたこと,三井の支配下の芝浦製作所による発電機,汽缶など大型機械製作の成功,ほとんど唯一の工作機械専門メーカーである池貝鉄工所による旋盤の完全製作などが注目されるだけで,機械工業の工場生産は低位にとどまった。
[日本産業革命の特徴]  日本の産業革命が展開した19世紀末~20世紀初頭には,欧米先進諸国ではすでに重化学工業の発展を基礎に独占資本主義体制が成立し,これら欧米列強による世界の帝国主義的分割が進行しつつあった。日本の産業革命は,欧米列強に資本・技術・市場面で従属しつつ,その従属からの自立を課題とする国家の政策に支えられ,とくに朝鮮,中国への軍事的・政治的進出を契機に展開した。官営軍事工業を中心とする重工業の発展が,軍事的・政治的必要にもとづく国家の政策的支援と,朝鮮,中国からの軍事力を背景とする原材料の確保によって可能とされただけでなく,紡績業,製糸業などの繊維工業の発展も日本銀行を頂点とし特殊銀行,都市銀行を通ずる政策金融に支えられ,朝鮮,中国への綿製品の輸出の増大も軍事力・政治力に支えられていた。こうして産業革命による日本資本主義の発展は同時に日本の帝国主義への転化をもたらし,日本帝国主義の形成は先進諸国による東アジアの帝国主義的分割の重要な契機となった。
 また日本の産業革命においては,多くの産業が相互に関連して工業化を進める関係が乏しく,若干の戦略的産業が国家の政策と外国貿易に依存して突出的に発展したため,産業部門間に極端な発展の不均等が生じた。頂点に労働者1000人以上を雇用する軍工宜,造船所,紡績工場が聳立する一方で,労働者30人未満の手工制工場が繊維・食品工業だけでなく機械・化学工業にも多数存在し,さらに底辺には家内工業が織物,和紙,畳莚などの生産分野に大量に存続していった。そして,中小工場,家内工業はもちろんのこと,機械制大工業の発展も農村から不断に供給される低賃金労働に依存していた。とくに産業革命を主導した紡績・製糸・織物業では,若年女工の遠隔地募集が拡大するにつれ,彼女らを劣悪な条件で拘束する寄宿舎制度が成立し,それが長時間労働と相まって彼女らの肉体をむしばみ,数々の〈女工哀史〉を生んだ。出稼ぎ女工を供給したのは地主制下の零細農家であるが,日本の産業革命は半封建的地主制を解体させることなく,むしろ米と繭の生産を軸とする小農生産を拡充することによって寄生地主制の全国的拡大をもたらした。
 産業革命は日本でも都市化を進めたが,日本の場合とくに東京,大阪などの大都市に人口を集中させ,そこに日雇,土工,人夫などの都市雑業層を中心とする劣悪な生活条件の都市下層民を形成させた。重工業や鉱山・運輸業で形成された近代的労働者階級の生活状態も,第1次世界大戦前までは,都市下層社会の水準から抜け出ることができず,その労使関係にも前近代的関係が温存された。                大石 嘉一郎

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産業革命
I プロローグ

産業革命 さんぎょうかくめい Industrial Revolution 伝統的な農業中心の経済から、工業製品の大規模生産を基礎とする経済への広範な移行をさす。産業革命がおきた時期は国によりさまざまである。

II イギリスの産業革命

世界ではじめて産業革命を経験したのは18世紀末のイギリスで、そのきっかけとなったのは森林資源の乱用によっておこった薪炭不足であった。この深刻なエネルギー危機をイギリスは石炭への代替によって切りぬけた。これ以降、ワットの蒸気機関などの発明やさまざまな技術革新を介して製鉄、鉄道、綿工業を主とする産業の大規模な工業化へと波及していった。

これによりイギリスの経済と社会は大きく変化した。1次産品の生産から工業製品やサービスの生産に労働力がまわされて、かつてない大量の工業製品が生産されるようになり、生産効率は大きく向上した。生産性の向上は、科学知識を製造工程に体系的に応用することにより達成されたが、多くの作業場を1カ所に集中させることによっても生産性の向上がはかられた。こうして、産業革命は都市化、すなわち農村から都市への人口移動をもたらした。

おそらく、もっとも重要な変化は労働力の変化だったと思われる。生産は家庭や荘園ではなく、企業でおこなわれるようになり、仕事はしだいに規格化され専門的になった。工業生産は資本に大きく依存するようになり、効率向上のために道具や機械の利用がすすんで専門化にますます拍車がかかった。

専門化の進展と工業生産への資本の応用は、生産手段をみずから保有または管理しているという点で労働者とは明確にことなる新しい階級、資本家階級を生みだした。

世界で最初に産業革命を経験したイギリスは、しばらくの間、「世界の工場」の立場を保持した。18世紀のロンドンは世界の貿易ネットワークの中心となっており、このネットワークを通じて工業製品の輸出が拡大していった。輸出市場は繊維その他の産業にとってかかせない市場となり、これらの産業では新技術の導入によって急速に生産が拡大した。イギリスの輸出成長率は1780年以降、めざましい伸びをしめし、輸出収入のおかげで製造業者は原材料を輸入する購買力を獲得し、貿易商人は国内の商業の発展にも役だつ貴重な技能を習得することができた。

III 工業化の拡大

しかし、世界の工場の地位をイギリスがいつまでも独占することはできなかった。他国の産業革命の時期については諸説があるが、一般にフランス、ベルギー、ドイツ、アメリカの産業革命は19世紀の中ごろ、スウェーデンと日本は19世紀末、ロシアとカナダは20世紀の初め、ラテンアメリカ、中東、中央・南アジア、アフリカの一部は、20世紀の中ごろから後半にかけてとされている。

工業化の成功は人口1人当たりの所得の増大につながり、所得配分、生活水準、労働条件、社会行動などにも変化をもたらした。イギリスでも他の国でも、産業革命の初期には、労働者の購買力の低下、生活水準の悪化などの弊害が生まれた。

IV 日本の産業革命

日本の産業革命は日清戦争(1894~95)のころに第1次革命が、日露戦争(1904~05)のころに第2次革命が進行した。第1次では蒸気動力による製糸・紡績など軽工業が、第2次では電気動力による重工業がその中心だった。

明治政府は富国強兵をはかるため、殖産興業政策を強力におしすすめた。すでに産業革命を成功させていた先進諸国から近代的技術や近代的資本制をとりいれ、ひろく民間産業の育成と保護をはかった。とくに1880年代以降には蒸気機関を動力とする大機械をとりいれた紡績業が、90年代には製糸業が飛躍的に発展するなど近代的軽工業が成立、日清戦争の勝利もあって朝鮮・中国などの海外市場も拡大した。しかし、これが、わかい女性労働者(女工)の低賃金や劣悪な労働条件に支えられていたことも見のがせない(→ 女工哀史)。1900年代にはいると石油動力や電動式の力織機(りきしょっき)工場があいついで開設され、日露戦争の勝利が海外市場への進出をさらにうながした。

軽工業にくらべて重工業のたちおくれはいちじるしかった。大規模な造船所など官業払下げの民営工場が少数あるだけで、成長は大きくおくれた。政府は1901年(明治34)官営八幡製鉄所を設立して鉄鋼業振興をはかり、日清戦争後の軍事・政治両面の必要から、そのほかの官営軍事工場にも集中的に資金を投入した。その結果、造船、兵器生産を中心に技術は大きく進歩し、日露戦争後にそれらは世界的水準に達したのである。しかし、製鉄・製鋼業や機械工業など民間の重工業生産高はまだ低く、多くを海外の先進諸国に依存していた。


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