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認識論の流れ(1) [宗教/哲学]

認識論の流れ(1)
認識論

にんしきろん
Erkenntnistheorie; epistemology

  

知識論,知識哲学ともいう。哲学の一部門で,認識,知識の起源,構造,範囲,方法などを探究する学問。「認識論」という言葉自体は近代の所産であり,Erkenntnistheorieが最初に用いられたのは K.ラインホルトの『人間の表象能力新論の試み』 (1789) においてである。 epistemologyはギリシア語の epistm (知識) +logos (論理,方法論) に由来するが,この言葉が最初に用いられたのは J.フェリアーの『形而上学原論』 (54) においてである。もちろん認識の哲学的考察は古代,中世においても神の認識をめぐってなされたが,人間の主体の認識問題として哲学の中心部門に位置を占めるにいたったのは近世においてである。 J.ロックの『人間悟性論』はこの認識の問題の転回点に立つものであり,D.ヒュームらイギリス経験論により認識論の近代的性格はさらに明確にされ,I.カントにおいて大成された。カントの認識論は,認識を事実問題としてではなく権利問題とした点で「認識批判」の意味をもっている。認識論は形而上学と並んで哲学の二大部門をなすが,両者の関係については立場によって異なり,ロック,デカルト,カントらによれば認識論は形而上学に優先し,B.スピノザ,ヘーゲル,S.アレクサンダー,A.ホワイトヘッドらによれば逆であるとされる。





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認識論
にんしきろん epistemology∥Erkenntnistheorie[ドイツ]∥レpistレmologie[フランス]

知識の本質,起源,根拠,限界などについての哲学的な研究または理論をいう。〈認識論〉と訳される英語,フランス語は,ギリシア語のエピステーメー epist^m^(知識,認識)とロゴス logos(理論)を結びつけて作られたもの。これらの言葉が広く用いられるようになったのは19世紀も半ば以後のことであるが,知識をめぐる哲学的考察の起源はもちろんそれよりもはるかに古く,たとえば古典期ギリシアにおいてソフィストたちの説いた相対主義の真理観にはすでにかなり進んだ認識論的考察が含まれていたし,ソクラテスもまたその対話活動のなかで,大いに知識の本質や知識獲得の方法につき論じた。
[プラトン,アリストテレス]  こうして深められた認識論的な問題意識に体系的な表現を与え,その後の展開の方向をさだめたのがプラトンである。彼は人間の知的な営みを〈知識 epist^m^〉と〈思いなし(臆見)doxa〉という二つの種類に分けて考察した。知識とは〈誤りえぬもの〉のことで,たまたま事実にあたって真であるにすぎない思念や信念,すなわち〈思いなし〉とは違って,十分な根拠をもつもの,証明可能なものでなければならない。プラトンの試みた〈知識〉の定義の最終形態は,〈ロゴスを伴った真なる思いなし〉というものであった。〈知識〉と〈思いなし〉のあいだに認められたこの区別の意味をさらに徹底的に究明する,という課題をプラトンは後代に残したのである。なお,同じく古代ギリシアではアリストテレスが,演繹(えんえき)推理の規則を体系化してはやくも古典的形式論理学の基礎をさだめ,また感覚,記憶,想像,思考など認識に関連する心の諸機能について綿密に考察するなど,認識論の歴史に重要な位置を占める哲学者である。プラトンとアリストテレスの認識に関する見解はかなり異なっており,その間の相違,対照は近世以後の合理論と経験論の間のそれと通うところがある。
[近世以後の新展開とその背景]  西洋のキリスト教思想家にとっては,啓示に基づく超自然的な真理の把握と,理性の行使によって得られる知識との境界や相互関係を明確にすることが重要な思想的課題になる。ことに中世における認識論的研究は,信仰と理性の調和はいかにして可能か,という問題設定によって基本的に枠づけられていた。近世以後においては,科学のめざましい発展が伝統的思想の惰性的な安定を破り,世界像の変革を促す動因となった。認識論的な問題の多くは科学と哲学のあいだの緊張関係から生まれたもので,とくに近世から現代にいたる認識論の展開はこの関係をおいては語ることができない。
 しかしその間も,知識をめぐる哲学的探究は,ほぼプラトンの敷いた軌道に沿って展開したといえる。基本の方向は,〈知る〉とはいかなることかという問題を,〈知識〉の主張を妥当ならしめる根拠は何か,われわれの思念・信念はどういう根拠に支えられるとき正真正銘の知識になるのかという問いに置きかえ,もっぱらジャスティフィケーション(正当化)の論脈から〈知識〉の本質に迫ろうとするものであった。カントは《純粋理性批判》で,自分が考察するのは認識に関する〈権利問題 quidjuris〉であって〈事実問題 quid facti〉ではないと述べたが,これは西洋における認識論研究の基本傾向を簡潔に言い表している。たとえば17世紀末に公刊されたロックの《人間知性論》は近世の認識論を代表する古典であるが,これはその序論が示すように,〈知識〉の確実性と明証性の由来を究め,蓋然的な〈意見〉や〈信念〉の本性と根拠を検討し,それによって両者の境界を鮮明にすることを目ざした書物である。近世以後の哲学を大勢的には認識論的哲学として方向づけたこの著作も,プラトン的な知の理念を受けつぎ,根拠への問いを〈知識〉考察の中心としていた。
 近世の認識論は合理論,経験論という二大潮流に分けて考察するのが慣例になっているが,この二つの立場の対立には近世初頭の精神的状況が反映している。その当時,既存の概念体系や存在分類にはとらわれず,もっぱら観察と実験によって経験法則を探求する実証的・帰納的な方法が自然研究の諸分野で成果を挙げはじめていた。また,事象を単純な因子に分解し,諸因子の関数的関係として再構成する〈分析と総合の方法〉(G. ガリレイ)があらたな力学的世界像を提示し,仮設演繹的方法の有効性を実証したし,それに伴って数学的解析の発展も著しかった。こうした情勢にこたえて,合理主義者たちは少数の明証的原理から論理的な帰結を演繹するア・プリオリな(原理からの)認識方法を重んじ,数学を確実な知識の典型とみなした。この方法で認識論を構成した哲学者としてはデカルト,マールブランシュ,スピノザ,ライプニッツなどが著名である。一方また,ロック,G. バークリー,D. ヒュームなど,おもにイギリスの哲学者たちが展開した経験主義の認識論(イギリス経験論)は,観察と実験,帰納的一般化など,ア・ポステリオリな(帰結からの)方法に重きをおいて信念や知識の解釈を行い,現実世界にかかわる言明に対しては感覚的明証の裏づけを求めるのを原則とした。
[カント]  カントは合理論と経験論の争点となった諸問題を深く考察し,近世における認識問題の解釈としては決定的ともいえる緊密な理論体系を築いた。カント認識論の根本課題は〈先天的総合判断 synthetisches Urteil a priori はいかにして可能であるか〉という問いに要約されている。平易に述べなおせば,なんらかの仕方で経験と実在にかかわり,しかも〈知識〉の名に値する普遍的・必然的な判断はいかにして成立するのか,またその客観的妥当性すなわち実在との適合性はどのように立証されるのか,というのがカントの根本問題であった。彼の立場は,知識の成立を経験可能の範囲に限り,伝統的な形而上学の諸命題の多くを否定し去ったという点で経験主義の思想に結びつく。しかし当時の数学やニュートン力学の根底になっている原理的な知識とその諸条件を析出し,それらによって〈可能なる経験〉の基本構造を再構成することを理論的作業の中心とした点では,カントは近世合理主義の継承者でもあった。
 カント認識論の立場は超越論的観念論あるいは超越論的主観主義と呼ばれている。彼の考えかたでは,科学的認識の対象である自然の基本構造は主観の形式によって,すなわち感性や悟性の形式(時間・空間,カテゴリーなど)によって決定されているが,この主観は個人的・経験的な意識主体ではなく,経験的自我の根底に向かう哲学的反省によってはじめて明らかになる意識の本質構造であり,意識一般とも呼ぶべき超越論的主観transzendentales Subjekt である。認識問題をもっぱら主観‐客観の関係から考察する近代の哲学的思考法をほぼ定着させたという点でも,カントが認識論の歴史に残した足跡は大きい。その思想は多くの追随者を得て,とくにドイツでは認識論の正統とみなされてきた。
 科学的認識との関係から見れば,カントの認識論も当然時代の制約を免れなかった。また数学的自然科学にもっぱら定位して,歴史や社会の認識に多くの考慮を払わなかったという点でもその限界は明らかで,カント以後,これらの不備を補う研究は活発に行われ,認識論的考察の視野も大いに拡大された。しかし認識論の課題と方法に関する理念や,科学的認識に対する態度などについて,カントの見解を大きく乗りこえる理論はまだ現れていないと言ってよいだろう。19世紀末から20世紀初頭にかけて隆盛であった新カント学派の認識論や,続いて台頭し,有力学説の地位を占めたフッサールの超越論的現象学などは,基本的にはカント認識論の理念をなぞった学説である。
[現代における認識論]  しかし今日,〈科学の基礎づけ〉という超越論的認識論の理念にとどまることはもはや不可能であろう。認識問題をめぐっての科学と哲学の相対関係も最近20~30年のあいだに大きく変化している。たとえば大脳生理学や遺伝子工学,コンピューター・サイエンスにロボット工学など,認識における主体‐客体関係の解釈を大きく左右するような知的開発が急速に進展しているとき,それらがもたらす知見は〈事実問題〉の領域に属するとしてかっこに入れ,ひたすら〈権利問題〉の考察をこととする自閉的な認識論哲学には,おそらく多くの余命は残されていない。現に認識過程を制約している歴史的・社会的な諸条件を捨象して,知識の永遠不変の構造を問うことにどういう意義があるのか,あらためてわれわれは問うべきであろう。英語圏の諸国では言語分析の方法による認識論,科学論が圧倒的優位を占めているが,元来専門哲学者よりも数学者,自然科学者の方法論的ないし基礎論的な反省から発展したこの分析的認識論は概して,また比較的には科学的探究との連係を維持しえている。しかし科学的な事実よりも事実を語る言語の枠組みを対象にするというこの派のたてまえが,伝統的認識論と同様に,事実問題と権利問題の不毛な分断に結びつくという一面も見逃せない。
 しかし,以上のような観察に基づいて現代における認識論の終末を結論するとすれば,それは短見であろう。超越論的な認識論の解体と,認識論そのものの消滅は別のことである。科学研究の専門分化と技術の高度化,巨大化が圧倒的な情勢であればあるほど,人間の生の営みにとっての科学的・技術的な知識の意義が根本的に問いなおされねばならない。プラトンの対話編《カルミデス》が美しく述べているように,たんなる〈知〉ではなく〈知の知〉を求めるということが人間に固有の営みであり,それをもっとも自覚的,徹底的に行うことが哲学という活動の本質的な特徴であろう。知的探究とそのための諸制度にかかわる知識,すなわち認識論は,むしろ今日において,もっとも現実的な課題を抱えているといえよう。かつて超越論的哲学の理想を追ったフッサールが晩年には〈生活世界の現象学〉に思いをひそめ,はじめは〈論理形式〉を基本概念の一つとして認識の言語の本質構造を照明したウィトゲンシュタインは,やがて〈生活形式〉を究極の支えとする言語ゲームの哲学に転じた。もちろん偶然の一致ではあるまい。そのいずれにも,認識論の過去と未来に関する,もっとも深く切実な認識が表現されているのである。                       黒田 亘
【インドの認識論】
 細かな点を除いて,インドでは認識(知識)は記憶と新得知とに分類される。また一般に,認識が成立するということは,認識と認識手段と認識対象と認識主体の四つがそこにあるということであるとされる。そこで,新得知は,認識手段の違いに応じて,直接知,推理知,類推知,言語知などに分類される。いくつに分類されるかについては学派によって見解を異にするが,どの学派も認めるのは直接知である。直接知は,ニヤーヤ学派,バイシェーシカ学派によれば,対象が感官と接触し,その感官に意(内官)が接触し,さらにその意が自我(アートマン)に接触して成立するとされる。また,不二一元論ベーダーンタ学派によれば,内官のいわばアメーバのような変容態が,感官を通って外界に流出し,対象と同じ形態をとることによって成立するとされる。⇒真理∥存在論∥知識
                        宮元 啓一

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認識論
I プロローグ

認識論 にんしきろん Epistemology 知識についての哲学的問題をあつかう哲学の一分野。知識の定義・起源・基準・種類・度合いや、知る人と知られる物との関係などを研究する。

II ギリシャと中世の問題

前5世紀のギリシャのソフィストたちは、確かで客観的な知識の可能性をうたがった。代表的なソフィストのひとりゴルギアスは、何物も存在しない、たとえ存在したとしても知りえない、知りえたとしてもつたえることはできないと論じた。プロタゴラスは、判断はそれぞれの人間によってきまるのであり、共通の基準などありえないといった。

ソクラテスとその弟子プラトンは、これらの考えに対して、イデアという、感覚をこえたかわることのない世界を想定した。その世界が、われわれに確かで客観的な知識をあたえるのであり、みたりさわったりできるものはその世界のコピーにすぎないと彼らはいう。したがって本当の知識をえるためには、イデアについての学問である数学と哲学をまなぶ必要があり、感覚にたよっていてはあいまいでいい加減な知識しかえられない。このイデアの世界について哲学的に探究することが、人間の使命だと彼らは考えた。

アリストテレスの考えは、イデアについての知識が最高の知識であるという点では、プラトンと同じだが、その知識にいたる方法はちがっている。アリストテレスによれば、ほとんどすべての知識は、経験によってえられる。その際必要なのは、注意深い観察と、アリストテレスによってはじめて体系化された論理学の規則の厳密な適用である。

ストア学派とエピクロス学派は、知識が感覚から生まれるという点ではアリストテレスと一致するが、哲学が人生の目的ではなく、実践的な導きであると考える点で、アリストテレスやプラトンと意見がことなる。

中世では、スコラ学のトマス・アクィナスなどの哲学者が、合理的な方法と信仰をむすびつけた。トマスは、感覚から出発し論理学によって確かな知識をえるという点で、アリストテレスの考えをうけついだ。

III 理性と感覚

17~19世紀の認識論の問題は、知識を獲得するのは理性によってなのか感覚によってなのかというものであった(→ 合理主義:経験主義)。理性によってであるというデカルトやスピノザやライプニッツは、知識は自明な原理や公理から演繹的に推論することによってえられると考えた。いっぽう、ベーコンやロックは、知識の源泉とその吟味は感覚、つまり経験によるものと考えた。

1 イギリス経験論

ベーコンは中世的な伝統を批判し、個別的な事実の観察、実験から一般法則をみちびく帰納法をはじめとする近代科学の方法を確立した。ロックは、知識は自明な諸原理から獲得されると考える合理主義者たちに対して、すべての知識は経験からえられるのであり、感覚によって外の世界の知識をえ、反省によって心の内部の知識をえると主張した。したがって、錯覚があるかぎり、外の世界についての人間の知識はけっして確実なものとはならない。

バークリーは、感覚によってのみ事物を知ることができると考え、「存在するとは知覚されることである」といった。ヒュームは、数学や論理学における、確実ではあるが世界についてはなにもいっていない知識と、感覚によって獲得される事実についての知識をわけた。事実についての知識は因果関係にもとづいているが、因果関係は論理的な関係ではないため、未来におこることについてはなにも確かなことはいえない。したがって、もっとも確実な自然法則でさえ、正しいものでありつづけるかどうかはわからない。この考えは哲学の歴史に重大な影響をあたえた。

2 カント以後

カントは、以上のような合理主義と経験主義をむすびつけようとした。たしかに合理主義者がいうように、数学や自然科学において確実な知識は存在するが、いっぽう、感覚経験からは確実な知識がえられないという点では、経験主義者のいうとおりである。では、なぜ数学や自然科学の知識は確実性をもつのか。

人間にはもともと、対象を認識するための一定の形式がそなわっているというのが、カントの答えである。人間は、そのような形式によってしか対象を認識できない。たとえば、因果性というのも認識の形式のひとつである。感覚経験自体からは因果関係の確実性は生じないが、物理学の因果的法則は、人間の側にそなわった因果性という認識形式にのっとっているために、すべての経験にかならずあてはまるはずなのである。

それはたとえば、すべての人間が緑のサングラスをかけて世界をみた場合、「世界は緑である」という発言がすべての人間にとって正しい発言とみなされるのに似ている。このように、知識の確実性の根拠を世界の側にではなく、認識する主観の側にもとめたカントの方法は、天動説に対して地動説をとなえたコペルニクスになぞらえて「コペルニクス的転回」とよばれている。

19世紀になるとヘーゲルは合理主義的な考えを復活させ、「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」といって、人間が歴史とともに発達することによって、絶対的で確実な知識に到達すると主張した。

プラグマティズムという考え方が、パース、ジェームズ、デューイなどによって19~20世紀にアメリカでおこった。経験主義的なこの考え方は、知識は行動のための道具であり、あらゆる信念は経験にとって役にたつかどうかで評価されると主張した。

IV 20世紀の認識論

20世紀になると認識論の問題はさまざまに議論され、多くのことなった考えを生んだ。フッサールは、知る行為と知られる物との関係を明らかにする現象学という方法を確立した。現象学では、知るためには知られる物にむかっている意識(志向性)があり、ある意味でその意識の中に知られる物はふくまれていると考える。

20世紀初め、ウィトゲンシュタインの影響下に2つの学派が生まれた。ひとつは論理実証主義(→ 実証主義)で、オーストリアのウィーンで生まれ、またたく間に英米にひろまった。論理実証主義者の主張によれば、科学的な知識だけが本当の知識であり、この知識は経験とてらしあわせることによって真であるか偽であるかがきまる。したがって、哲学がこれまで議論してきた多くの事柄は、真でも偽でもなく、たんに無意味なものとなる。

もうひとつの学派は日常言語学派で、言葉の分析を哲学のおもな仕事と考え、伝統的な認識論とはかなりちがった方向をとる(→ 分析哲学と言語哲学)。彼らは認識論でつかわれる知識や知覚といった用語が実際どのようにつかわれているかをしらべ、まちがったつかわれ方を正しいものにあらためて、言葉の混乱をなくそうとした。

→ 懐疑主義:形而上学


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ラインホルト
ラインホルト

ラインホルト
Reinhold,Karl Leonhard

[生] 1758.10.26. ウィーン
[没] 1823.4.10. キール

  

ドイツの哲学者。 1787年イェナ,93年キールの各大学教授。カント哲学の影響を強く受け,その普及に貢献した。主著『カント哲学についての書簡』 Briefe ber die Kantische Philosophie (1786~87) 。





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人間悟性論
人間悟性論

にんげんごせいろん
An Essay Concerning Human Understanding

  

イギリスの哲学者 J.ロックの著書。 20年間にわたってまとめられ,1690年刊。「生得観念について」「観念について」「言語について」「知識について」の全4巻から成る。この書は近世認識論の発端をなし,G.バークリー,D.ヒュームなどに引継がれ,また心理学,宗教論ではイギリス,フランスの啓蒙主義に多大な影響を与えた。





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人間知性論
にんげんちせいろん An Essay Concerning Human Understanding

17世紀のイギリスを代表する思想家ロックの主著。1689年刊。従来《人間悟性論》と訳されてきたが,〈悟性〉がカント的な意味で〈感性〉および〈理性〉との範疇(はんちゆう)的な区別を想起させること,ロックが understanding に相当するラテン語として intellectus を予定していたことを根拠に,最近では《人間知性論》と訳されることが多い。知識の起源を〈経験〉に求めつつ人間の認識メカニズムを内観した本書は,経験論を定式化した作品として,またカント的批判哲学の先駆として哲学史上に重要な位置を占めている。しかし,本書の直接的意図が,自然科学の認識論的基礎づけにあったか,道徳と啓示宗教とのための予備学を確立することにあったかについては,思想史家の評価はなお一致していない。           加藤 節

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J.ロック
ロック

ロック
Locke,John

[生] 1632.8.29. ブリストル近郊リントン
[没] 1704.10.28. オーツ

イギリスの哲学者。啓蒙哲学およびイギリス経験論哲学の祖とされる。オックスフォード大学で哲学と医学を学び,シャフツベリー伯の知遇を得て同家の秘書となったが,同伯の失脚とともに 1683年オランダに亡命。彼は認識の経験心理学的研究に基づいて悟性の限界を検討し,知識は先天的に与えられるものではなく経験から得られるもので,人間は生れつき「白紙」 (→タブラ・ラサ ) のようなものであると主張して本有観念を否定した。さらにこの考えを道徳や宗教の領域にも応用し,道徳においては快楽説,宗教においては理神論の先駆となった。政治論においてはホッブズの自然法思想を継承発展させ,当時の王権神授説を批判し,社会契約による人民主権を主張した。主著『人間悟性論』 An Essay Concerning Human Understanding (1690) ,『統治二論』 Two Treatises of Government (90) 。





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ロック 1632‐1704
John Locke

ホッブズとともに17世紀のイギリスを代表する哲学者。その決定的な影響力のゆえに,〈17世紀に身を置きながら18世紀を支配した思想家〉(丸山真男)とも評される。サマセット州リントンに生まれ,ピューリタニズムに基づく家庭教育を受けた後,ウェストミンスター校からオックスフォードのクライスト・チャーチに進む。その間,医学や自然科学に深い関心をもち,またガッサンディやデカルトの哲学に強い影響を受ける。1659年から64年にかけて《世俗権力二論》《自然法論》を,67年に《寛容論》を執筆。同年,後のシャフツベリー伯宅に寄寓,以後彼の腹心として行動をともにする。71年,《人間知性論》に着手。チャールズ2世とシャフツベリーとの対立が先鋭化した〈王位排斥法案をめぐる危機〉の最中,80年前後に《統治二論》を執筆。83年身の危険を感じてオランダに逃亡し,名誉革命直後の89年に帰国するまで亡命生活を送る。後年,89年と93年にそれぞれ刊行された《寛容書簡》や《教育に関する若干の考察》は,この亡命生活の所産にほかならない。帰国後は,新体制に参画する一方,89年に《統治二論》《人間知性論》を,95年に《キリスト教の合理性》を公刊し,時代を代表する思想家として圧倒的な名声を確立した。それとともに,寛容や神学をめぐる論争に巻き込まれたが,晩年はマシャム夫人の保護の下に比較的平穏な日々を送り,エセックス州オーツで死去。未完に終わった《パウロ書簡蔦釈》が〈学者〉としてのその最後の仕事であった。
 こうした経歴の中で形成されたロックの思想は,その一貫性を疑わせるような複雑な構造をもっている。第1に,認識論,道徳哲学,政治学,宗教論等彼が理論化した各ジャンル相互の関係が必ずしも明確ではないからであり,しかも第2に,各ジャンルの内部で視点に重要な変化がみられるからである。二大主著《人間知性論》と《統治二論》との架橋が困難な事実は第1の例であり,認識論の内部で独断論から不可知論への,政治学の内部で権威主義から自由主義への視座の転換がみられるのは第2の例にほかならない。しかし,こうした複雑さをもつにもかかわらず,ロックの思想は,全体として,一つのきわめて単純な宗教的枠組みの中で展開されたということができる。激動する時代状況の中で解体した人間の善き生の条件=規範を,神の意志に照らして再確認しようとする一貫した関心がそれである。事実,この関心は,ロックの多様な思想ジャンルの結節環であった。その認識論は〈啓示宗教と道徳原理〉の認識論的基礎づけを,その道徳論は〈神と同胞への義務〉の論証を,その政治学は政治の世界における人間の義務の探究を,その宗教論は聖書によるそれらの義務の確証をそれぞれ意図したものであったと考えられるからである。もとよりその場合,ロックが前提とした人間像は〈合理的で勤勉な〉主体,自己判断に従ってみずからを規律する自律的な個人であった。ロックの思想にみられる一連の特徴,すなわち,認識論における生具観念の否定と経験の重視,政治学における労働・自然権・政治社会を作為する人間のイニシアティブ・抵抗権の強調,寛容論における宗教的個人主義への傾斜は,すべて主体的な人間のあり方を前提にしたものにほかならない。その点で,例えば,ロックの認識論が自律的な人間の能力を内観し批判した近代認識論の出発点とされ,またその政治学が,〈人間の哲学〉を政治認識に貫いた近代政治原理の典型とされるのは決して不当ではない。しかし,同時に注意すべき点は,ロックにおいて,人間の自律性,人間の自由が,つねに神に対する人間の義務と結びついていたことである。ロックにとって,人間は,〈神の栄光〉を実現すべき目的を帯びて創造された〈神の作品〉であり,したがってその人間は,何が神の目的であるかを自律的に判断し,自己の責任においてそれを遂行する義務を免れることはできないからである。その意味で,世界を支配する神の意志と人間の自律性とが矛盾せず,むしろ両者の協働の中で,思考し,政治生活を営み,信仰をもつ人間の生の意味を規範的に問い続けた点に,ロックの思想の基本的な特質があったといえるであろう。⇒イギリス経験論
                         加藤 節

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ロック,J.
I プロローグ

ロック John Locke 1632~1704 経験主義を創始したイギリスの哲学者。

サマセット州リントンに生まれる。オックスフォード大学にまなび、1661~64年に同大学でギリシャ語、修辞学、道徳哲学をおしえる。67年イギリスの政治家アントニー・アシュリ・クーパー、のちの初代シャフツベリー伯との交際がはじまり、その友人、助言者、家庭医として、シャフツベリー伯から一連の官職をあたえられる。69年に公務のひとつとして、北アメリカのイギリス植民地カロライナの地主たちのための法律を起草したが、実施されなかった。

1675年リベラル派のシャフツベリー伯の失脚にともない、持病のぜんそくの治療のためフランスにわたった。79年イギリスに帰国するが、チャールズ2世のローマ・カトリック優遇政策に反対し、83年オランダに逃亡。名誉革命直後の89年までこの地にとどまる。96年に新国王ウィリアム3世により通商弁務官に任命され、1700年に健康上の理由で辞職するまでこの地位にあった。04年10月28日、エセックス州オーツにて死去した。

II 経験主義

ロックの経験主義は、知識の探究において、直観的思弁や演繹よりも感覚経験の重要性を強調する。経験主義的学説を最初に擁護したのは、17世紀初頭のフランシス・ベーコンだが、ロックは「人間知性論」(1689)において、この学説に体系的な表現をあたえた。彼は、生まれたばかりの人間の心はタブラ・ラサ(なにも書かれていない板)であり、そのうえに経験によって知識がきざみつけられていくのだと考え、直観も生得観念の理論も信じない。ロックはまた、人間はすべて生まれつき善であり、自立的であり、平等であると主張する。→ 認識論:西洋哲学

III 政治理論

ロックは「統治二論」(1689)において、ホッブズが考えるような王権神授説や自然状態を攻撃した。ロックによれば、主権は国家にではなく市民にあり、国家が至高のものであるのは、それが市民といわゆる自然法によって拘束されている場合だけである。自然権、財産権、政府がこれらの権利を保護する義務、多数決原理などについてのロックの思想の多くは、のちにアメリカ独立宣言や合衆国憲法に具体化される。

またロックは、革命は権利であるばかりか義務でさえあるとし、さらに統治における三権分立を主張した。彼は権力の乱用をふせぐために国家の統治権を立法権・行政権・連合権の3つに区別し、そのなかでも立法権を上位においた。彼はまた、信仰の自由や、教会と国家の分離も主張した。

近代哲学におけるロックの影響はきわめて大きい。ロックは、経験的分析を倫理学、政治学、宗教に適用したことによって、もっとも重要で議論の的となる哲学者でありつづけている。上記のほかに、「教育論」(1693)、「聖書に述べられたキリスト教の合理性」(1695)などの著書がある。


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タプラ・ラサ
タブラ・ラサ

タブラ・ラサ
tabula rasa

  

ろうなどを引いた書字板の字を削り消して何も書き込まれていない状態にした書字板,すなわち白紙状態の意。感覚論において魂は,外部からの刺激による経験をまって初めて,観念を獲得するとされているが,その経験以前の魂の状態をいう。この立場では観念の生得性は否定され,知覚において精神は受動的に働くと考えられる。ロックの用語とされるが,古くからある概念。プラトン,ストア派,特にアリストテレスに同様の考えがあり,タブラ・ラサというラテン語はアリストテレスの訳語としてローマのアエギディウスが考案したとされる。その後アルベルツス・マグヌス,トマス・アクィナスが用いて定着した。





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統治二論
統治二論

とうちにろん
Two Treatises of Government

  

イギリスの哲学者ジョン・ロックの政治哲学に関する最も重要な著作。 1690年刊。第1論文では R.フィルマーの王権神授説を論駁し,第2論文ではホッブズの『リバイアサン』などで述べられている統治の絶対主義理論を反駁しながら市民デモクラシーの基礎原理を展開している。名誉革命に理論的支持を与え,のちのアメリカ合衆国憲法,フランスの人権宣言に影響を与えた。





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[ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 2008]


統治二論
とうちにろん Two Treatises of Government

17世紀のイギリスを代表する哲学者 J. ロックの政治学上の主著。1689年に匿名で刊行された。《市民政府二論》《政治論》などとも訳される。R. フィルマーの王権神授説を批判した第1部,契約説に依拠して〈政治的統治の真の起源,範囲,目的〉を論じた第2部からなる。1688年の名誉革命を正当化するために執筆されたと長らく考えられてきたが,現在ではラズレット Peter Raslett らの文献学的考証によってその執筆時期は名誉革命期よりも早く,むしろ1679年から81年にいたる〈王位排斥法案をめぐる危機〉の時代にまでさかのぼる事実が明らかにされている。本書でとくに強調されているのは,政治権力の正統性は人間の同意に由来すること,政治権力の目的は自然権としての所有の保全に限定されること,国民は信託違反権力に対する抵抗権を保持していること,の3点である。政治権力の絶対性を否定してその目的による制限を説くこうした主張のゆえに,本書は政治的自由主義の金字塔として,たとえばアメリカの独立宣言やフランスの人権宣言に大きな影響を与えることになった。しかし最近では,本書の巨大な歴史的影響力に注目してその近代的性格や革命的性格を強調する従来の傾向に対し,本書の実像を,ロック自身の真意に照らしてより厳密に洗い直すべきであるとの主張がなされている。神学を〈すべての知識を包含したもの〉とみなすロックの視点に着目しながら,本書を神に対する人間の義務を強調するロック独自の神学的思考枠組みの内部で解釈しようとする傾向は,そうした研究状況の中から生み出された最も重要な成果である。                      加藤 節

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統治二論
I プロローグ

統治二論 とうちにろん Two Treatises of Government 17世紀イギリスの哲学者、政治思想家のジョン・ロックの代表的著作。表紙には1690年とあるが、実際には89年10月に市場にでていた。「市民政府二論」「統治論」「政治論」などとも訳出される。ロックは、イギリス経験主義哲学の始祖であり、また、18世紀の近代啓蒙主義(→ 啓蒙思想)の先駆けとなった政治思想家、政治理論家である。彼の政治哲学のエッセンスは、この「統治二論」にある。

II 刊行の動機

本書刊行の動機は、1688~89年にイギリス市民および議会がおこなった名誉革命の理論的正当化ないし合理的根拠付けである。この名誉革命において、国王ジェームズ2世がフランスに亡命したあと、オラニエ公ウィレムとメアリー妃が、権利宣言(のちに立法化され権利章典)を承認するという議会の条件を了承して共同君主になったことは、議会が国王の地位におよぶ権限を有するということであり、革命的であるからこそ、世界にむかってイギリス市民の正当かつ自然の権利を弁護しなければならなかったのである。

III 本編の構成

本編は、2部構成をとっている。第1部では、国王の伝統的支配を正当化する理論としての王権神授説批判を目的として、R.フィルマーの「パトリアーカ」(族父論または家父長制論。1680刊)をとりあげ、批判をおこなう。そして、第2部において、ロックの考える自由主義的政治のあり方とその根拠付けを積極的に展開する。

IV 第1部―王権神授説批判

フィルマーの説く族父論は、聖書にもとづいており、神がアダムにあたえた絶対的支配権および、子に対する父の自然的権限である。すなわち、すべての人間は自由ではなく、支配者に服従すべきものであって、アダムのもっていた支配権は族父に、そして国王にうけつがれているのであり、国王は絶対的な権力を有すると説く。ロックはこの理論を批判して、政治社会は生命、自由、財産をふくむ所有権の維持と規制のためにもうけられた共同社会であるとする。

V 第2部―ロックの政治思想

第2部において、ロックの政治思想の中核が明らかとなる。ロックの立場は、国家と社会を分離して国家以前の社会をみとめる。そして、自然法思想の立場から、自然状態の平和な生活、貨幣の出現と混乱、所有権をまもる政治社会の必要性へと論理展開する。

その中で、第1に、市民的自由ないし基本的人権を、自然法的に、すべての人は自由で平等かつ独立しているという点から、理性法を根拠にその保障の必要性を説き、また、その内容としては中世ヨーロッパの経験的世俗的表現として「生命・自由・財産」をもちいる。

第2に、すべての人が安全かつ平和な生活をいとなむために協同体をつくり、そしてそのために政府はもうけられたものであるとして、国家の技術的必要性を説くと同時に、政府の正当性として被治者の信任ないし同意をあげる。

第3は、立法権の重要性を説き、議会に最高権力をあたえ、行政権に対する立法権の優位を根拠づける。

第4に、市民的自由と政府の目的から、当然に市民の抵抗権ないし革命権を根拠づけている。

VI 後世への影響

ロックの説いた統治二論による政治理論は、近代市民革命の正当化を理論的におこなうものであったので、1776年のアメリカ独立宣言や、89年のフランス人権宣言(→ 権利宣言)に大きな影響をあたえることとなる。また、日本国憲法第13条に保障されている「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」の思想的淵源は、アメリカ独立宣言をとおってロックにまでさかのぼることができる。


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リバイアサン
リバイアサン

リバイアサン
Leviathan

  

イギリスの哲学者トマス・ホッブズの主著。 1651年刊。「教会および市民のコモンウェルス (共同体) の内容,形態,権力」という副題をもち,緒論,結論を除き4部 47章から成る。リバイアサンとは旧約聖書『ヨブ記』に出てくる巨大な永生動物の名で,ここでは教会権力から解き放たれた国家のことをさし,本書はこの国家の成立を論じる。人間は生れつき平等ではあるが,自然状態においては「万人は万人に対して戦い」の状態にある。この自然権の自己否定を脱するため,理性がみずから発見する自然法によって自然権を制限し,さらに絶対主権設立の社会契約によって国家の成立へと導かれる。彼は専制君主制を理想と考えているが,その主権の基礎を人民の自己保存権においており,そこに彼の自然主義の立場がみえる。本書が法・政治思想上に果した役割は大きい。





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リバイアサン
Leviathan

17世紀を代表するイギリスの政治哲学者 T. ホッブズの主著。1651年に英語版(ロンドン)が,68年にラテン語版(アムステルダム)が刊行された。書名は,《ヨブ記》に記された〈地の上に並ぶものなき〉怪獣の名に由来するが,彼はそれによって,内乱を克服し平和を維持するために絶対主権をもって君臨する国家を象徴した。しかし本書の意義は,国家主権の絶対性を弁証したその結論にあるのではなく,むしろ,感覚に始まる人間の認識能力と情念に動機を置く人間の実践能力とを吟味しつつ,人間を〈素材とし創造者とする〉国家の成立メカニズム,その構成原理を見通した深い哲学性にある。本書によって初めて,自然の世界と人格の世界との範疇(はんちゆう)的区別の上に人間の文化形成の論理を築いた近代哲学は,みずからにふさわしい政治認識を獲得したからである。その意味で本書は,時代の制約ゆえに多くの理論的不備と論理的不整合とを残しながら,政治哲学の近代的転換を画した記念碑的な作品といってよい。本書のそうした性格は,それがスピノザ,ロック,ルソー,ヘーゲルらに与えた巨大な影響力からもうかがうことができる。なお日本でも,本書は明治期に《主権論》(1883,文部省編輯局訳。第2部のみ)の表題で民権論に対抗するための武器として使われた歴史をもっているが,第2次世界大戦後,自然権哲学に基礎を置くその近代的側面の研究が本格的に開始され,福田歓一の《近代政治原理成立史序説》(1971)を始めとして多くの優れた業績が生まれてきている。しかし,本書の過半を占めるキリスト教論の解明など,今後に残された研究課題も少なくない。       加藤 節

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リバイアサン
I プロローグ

リバイアサン Leviathan 17世紀イギリスを代表する政治哲学者トマス・ホッブズの主著。ピューリタン革命における内乱の経験から、人間の生命や自由を確保できる平和で統一的な政治社会を確立するために、政治理論に社会契約論(→ 社会契約説)的な理論構成を導入することで、政治学の近代的革新をはたした。

II 国家の形成

1651年に公刊されたこの作品の名称「リバイアサン」とは、「旧約聖書」にでてくる海の怪獣のことであり、地上で最強の存在を象徴している。ホッブズの場合、この最強の存在とは、ほかならぬ人間自身がつくりあげた「国家」であった。

当時の反スコラ的な思想と近代的な自然科学の方法から機械論的な自然観をまなんだホッブズは、政治社会をその究極的な構成要素である人間にまで分解し、そこから逆に政治社会を再構成していく方法によって、近代的な思考様式による政治像を提出した。

原著に付された有名な口絵には、無数の小さな人民によって構成された巨人が剣と杖(つえ)を左右の手にもち、平和な都市をまもっている様子がえがかれている。これは人民の構成する国家が、聖俗の手段によって国家の平和を維持するという、本書の主旨を端的に象徴している。

III 政治論への影響

全体は4部から構成されるが、人間論、政治論を基礎に、宗教ないし教会論へと展開される。本書がその後の政治理論にあたえた影響は、とくにその人間論、政治論の部分にある。自己保存をはかる利己的な存在としての人間が、各人の自己保存の自然権を行使すると、自然状態においては「万人の万人に対する戦争」が現出する。そこで、人間は理性の発見する自然法によって各自の自然権を放棄する社会契約をむすび、その遵守(じゅんしゅ)を保障する共通の権力として国家を設立する、というのがその主旨である。

この国家は、国家創設後の意思決定の絶対的権限を授権された主権者と、それに対する人々の服従義務によって特徴づけられ、人民の抵抗権は排除されているが、「利己的な諸個人から、いかにして社会秩序が生みだされるのか」という機械論的な問題構成は、「ホッブズ的問題」としてその後の政治・社会理論に大きな影響をあたえた。


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ホッブス
ホッブズ

ホッブズ
Hobbes,Thomas

[生] 1588.4.5. マームズベリー
[没] 1679.12.4. ダービーシャー

イギリスの哲学者,政治思想家。オックスフォード大学卒業後,家庭教師をつとめたが,のちフランス,イタリアなどを旅行し,哲学,政治思想,自然科学思想を養った。彼の立場はイギリスの経験論と大陸の機械論的自然主義,唯物論の総合であり,哲学を神学から区別し,また思弁的形而上学を排した。 1651年『リバイアサン』 Leviathan刊行後は無神論者として異端視された。認識論的には,感覚論を基礎とする唯名論の立場に立ち,一切の思考は概念による計算であるとした。政治哲学的には,自然法から出発し,国家契約説の立場を取る。倫理学的には,功利主義の立場に立った。主著『哲学綱要』 Elementa philosophiae (1642~58) 。





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ホッブズ 1588‐1679
Thomas Hobbes

イギリスの代表的な政治思想家。主著《リバイアサン》の名や〈万人の万人に対する戦い bellumomnium contra omnes〉の主張で有名。政治認識の哲学的構成を貫いた点で,近代政治学の創始者の一人とも評される。英国国教会牧師の次男として,ウィルトシャー,マームズベリー近郊に生まれた。1608年学位(バチェラー・オブ・アーツ)を得て,オックスフォード大学モードリン・ホールを卒業後,第2代,第3代デボン伯,F. ベーコンらの個人教師や秘書を務める。この間,3度にわたる大陸旅行を通してメルセンヌ,ガッサンディ,デカルト,ガリレイらと知り合い,知的視野を拡大する機会を与えられた。ピューリタン革命直前の40年,処女作《法学要綱》を非難されてパリに逃亡,11年間の亡命生活を強いられる。42年の《臣民論》を経て,主著《リバイアサン》を出版した51年,ひそかに帰国して共和国の新政権に帰順,以後,政争から離れて自己の学問体系の完成に努めた。そうした中で,《臣民論》とともに〈哲学三部作〉を構成する《物体論》(1655)と《人間論》(1658)とが順次出版されたが,それに応じてホッブズを無神論者とする批判が決定的となり,自由意志や自然像をめぐる深刻な論争に巻きこまれることになる。晩年のホッブズは,そうした論争を続けながら,内乱史《ビヒモス》(1679)を執筆するなど旺盛な著述活動を続けたが,済神(とくしん)を理由とする宗教界や王党右派からの激しい非難の中で著作の公刊を禁止され,不遇のまま91歳で世を去った。
 こうした経歴が示すように,ホッブズの思想の骨格は〈内乱と革命〉の時代状況と対峙する中で形成された。そこからホッブズは,秩序と静謐(せいひつ)とを愛する生来の性格にも規定されて,解体する恐れのない国家像の構築をその主要な理論的課題として負うことになる。しかも,ホッブズの鋭さは,この課題に哲学的に取り組み,国家の成立メカニズムを,いっさいの実在を運動する物体とみなす物体論,人間を〈生命と感性と理性とをもつ物体〉と規定する人間論の上に基礎づけた点にあった。そこに提示されたのが,(1)自己保存への自然権をもつ人間が,〈暴力的死の恐怖〉の中で向き合う自然状態,(2)自己保存の手段の判定権を,特定の人格に絶対的に授権する契約の締結,(3)絶対主権への服従を存立条件とする国家状態の成立,を基本内容とする〈服従契約としての社会契約説〉にほかならない。絶対主権の正統性を社会契約説によって基礎づけたホッブズのこうした所説には,もとより,多くの矛盾や論理の飛躍が認められる。ホッブズが,認識論の不備に制約されて,欲望に支配される自然人が〈理性の戒律〉に従う契約主体へと転化する過程を理論化しえなかったこと,また,自己保存の手段の判定権を国家主権にゆだねることによって,自然権哲学の〈開かれた〉可能性をみずから閉ざしてしまったことは,しばしば指摘されるその例にほかならない。しかも,ホッブズの契約説は,人間の自由意志や原罪を否定し,教会に対する国家主権の優位を肯定するそのラディカルな主張のゆえに,キリスト教が支配的な時代の精神の中で孤立する運命を免れがたかった。しかし,こうした論理的不整合や思想的孤立にもかかわらず,ホッブズ主義は,近代の哲学史において画期的な位置を占めている。人間を〈創造者〉とする政治社会の成立過程を明らかにしたホッブズの努力によって,近代哲学ははじめて,〈文化形成の論理〉を政治認識に貫き,哲学の名に真に値する政治学を獲得したからである。その意味で〈国家哲学は私の《臣民論》に始まる〉と主張したホッブズの判断は,決して的はずれではなかったのである。なお,ホッブズ研究には残された課題が少なくない。それらのうち,伝記的事実の確定,トゥキュディデス研究や《ビヒモス》に示された歴史意識の解明,《リバイアサン》の過半を占める宗教論の考察などは,今後の研究がまたれる特に重要な課題となっている。
                         加藤 節

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ホッブズ,T.
I プロローグ

ホッブズ Thomas Hobbes 1588~1679 イギリスの哲学者・政治理論家。その機械論的・自然主義的理論は、政界や教会の世界に懸念と論争をまきおこした。

II フランスへの旅と亡命

マームズベリーに生まれ、オックスフォード大学のモードリン・ホールにまなぶ。1608年、ウィリアム・キャベンディシュ、のちの第2代デボン伯の家庭教師になる。はじめはデボン伯と、のちにはその息子とフランスを何度か旅行し、その旅行の間に、ガリレイ、デカルト、ガッサンディといった当時の進歩的な思想家たちと知りあった。

1637年、イギリスにいる間に、国王チャールズ1世と議会との憲法論争に興味をもち、国王特権を擁護する論文の執筆に着手する。この著作は40年に「法学要綱」の表題で手稿のままに回覧され、50年に2部にわけて出版された。この著書の件で議会に逮捕されることをおそれたホッブズは、パリにのがれ、11年間の亡命生活をおくる。

III リバイアサン

1642年に統治論を展開した「臣民論」を書きあげ、46~48年にはパリに亡命中であったウェールズの王子、のちのチャールズ2世の数学教師となる。ホッブズのもっとも有名な著作「リバイアサン」(1651)は、彼の主権論の力強い展開である。だが、この著作は、亡命中の王子の追随者たちにはイギリス共和国を正当化するものと解釈され、またいっぽうでは教皇権を攻撃している内容から、フランスの官憲の嫌疑をまねいた。ふたたび逮捕をおそれた彼は、イギリスに帰国した。

1660年、共和国時代がおわり、かつての生徒であったチャールズ2世が王位につくと、ホッブズは王の厚遇をえた。だが、66年に無神論の嫌疑で「リバイアサン」を調査すべしという法案が下院を通過したために、彼は多くの草稿を焼却し、「ビヒモス?イングランド内乱の諸原因の歴史」「哲学者とイングランド・コモン・ロー学者との対話」「教会史」の出版をみあわせた。84歳のとき、ラテン語の韻文で自伝を執筆。それにつづく3年間に、ホメロスの「イーリアス」と「オデュッセイア」を英語の韻文に翻訳した。1679年12月4日、死去した。

IV 政治学と倫理学

ホッブズの哲学は、宗教改革が主張する良心の自由に対する反動である。彼の主張によれば、こうした良心の自由は無政府状態をもたらすものである。彼は、イギリス哲学をスコラ学からきりはなし、物質界を支配する物理学の原理を、社会の制作者でもあれば素材でもある人間に適用することによって、近代の科学的社会学の基礎をおいた。

ホッブズは、自然主義的な基礎にもとづいてみずからの政治学と倫理学を展開した。自然状態では、すべての人間はおたがいにとって恐怖の対象であり、そのために、世俗的事柄に関しても、宗教的事柄に関しても、国家の絶対主権に服従せざるをえないと主張したのである。


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自然法
自然法

しぜんほう
lex naturalis; natural law

  

実定法に優先して存在し,それを拘束する永遠普遍の法をいう。このような法観念はストア派が宇宙を貫徹する理法を自然法としたことに由来し,中世スコラ哲学においてはキリスト教神学と結合して雄大な体系をもつにいたった。そこでは自然法は究極においては神の法と考えられた。次いで近代に入ると,自然法は人間の理性に内在する普遍の法則と考えられた。そして特に自然権の観念がその中心を占め,革命的性格を帯びるにいたった。しかし自然法思想に内在する法則性と規範性との二義性が意識されるようになって以後は,ネオトミズムなどの一部を除いては後退することになった。





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自然法
しぜんほう natural law∥Naturrecht[ドイツ]∥droit naturel[フランス]

この語は実定法との対比で〈超実定法〉といった意味でいわれることもあるが,これではあまりに漠然としており,しかも法律学の分野でまれに使われる非本来的な用法である。自然法はもともと,哲学や倫理学の用語である。その固有の意味では自然法は,人間の本性 natura humanaにかかわるもので,人間の〈本性の法則 lexnaturalis,jus naturale〉である。ただしこの〈本性〉ということが,プラトン哲学やアリストテレス哲学においてもった意味と,デカルト以後の近代的思考(観念論や唯物論)の中でもった意味とで大いに異なるので,自然法の意義にも重大な差異があることに注目しなければならない。
[古代,中世における自然法]  伝統的な存在論哲学では自然法は,人間の〈存在〉充足に関連していて,それは人間存在充足の形而上学的条件である。つまり人間をもしそれが何であるか,と問う観点からみれば人間の〈本質 essentia〉が問われ,同じ人間をそれは存在するかどうかを問う観点では人間の〈実存 existentia〉が尋ねられているのであるが,個々の具体的な人間は,この本質と実存との不可分的合体である。そしてプラトンはこの本質をイデアと呼び,アリストテレスやトマス・アクイナスはこれを形相(エイドス)と呼んだ。この形相が人間を人間として規定して,犬や樹木や石から人間を異ならしめる。しかもこの形相の含む〈規定性〉に対応した人間固有の働きが,〈本性の傾き inclinatio naturae〉つまり本性の法則,〈自然法〉である。そして自然法に従って行為してのみ人はその実存の充足度を増し,〈存在〉を獲得し,より人間らしくなる。反対の場合にはみずからの存在を失い自己疎外におちいる。したがって自然法は伝統的存在論では,つねに自己の存在の獲得を目ざして歴史的・具体的な状況のなかで生きる個々人に内在した非抽象的な,歴史的な法則である。またそれは,人間の自由意志にかかわらぬ物理的・生物的自然法則とも区別された倫理法則である。自然法が非歴史的で抽象的で観念的な法則となったり,〈自然法則〉に近いものになったりするのは,後述の近世啓蒙期自然法論以降のことである。
 また伝統的存在論は,自然法の認識論を伴ってきた。プラトン,アリストテレス以来の伝統では,同じ理性認識にも二つの様態が区別される。一つは意識化し概念化しての認識(事物をその根拠から説明する学知的認識(エピステーメー epist^m^)や,その説明がつたなく漠たるものである臆見(ドクサ doxa))であり,他は意識化・概念化以前に事物の本質的核心を洞見している本性適合的なconnatural 認識(ヌース nous の洞見)である。自然法についても,その自然法〈論〉的・概念化的認識と,あらゆる人間が自己の存在のうちで本性の法則そのものに支えられて主体的に理屈抜きに洞察している自然法の諸基本原則への本性適合的認識とが区別される。後者の自然法認識は,洋の東西,民族の区別なく全人類的な普遍性をもち,その認識内容の中核は共通的・万民一致的であり,人間が人間であるかぎり恒常・不変である。これに反し,前者の概念化的自然法認識は,ヨーロッパ,インド,中国,日本(例えば,中江藤樹)など各地で多様な展開をみせ,時代とともに推移する相対的なものである。
 そこで東洋の自然法論はさておいて,西洋の自然法論の系譜をたどってみよう。伝統的自然法論の先駆的なものは,すでにギリシアのヘラクレイトスや悲劇作家ソフォクレス(《アンティゴネ》参照)にみられ,人為の所産として生み出された実定法ではなく,むしろその批判基準となる,事物の本質にかかわる不文の所与的・実在的な法が意識された。ソフィストたちは臆見的な概念化的認識に基づいて自然法を相対化し,ある者は強者の,他の者は弱者の法(=権利)を自然法的なものとした。こうした混乱の反作用として,ソクラテス,プラトン,アリストテレスの存在論哲学とその自然法論が生じたのであった。
 ところでプラトンにおいてすでに人間本性の法則が,他の宇宙論的法のうちに位置づけられていたが,ストア哲学の中で,全宇宙を支配する神的摂理の法すなわち〈永久法〉と,人間存在に固有の〈自然法〉,それに各国家ごとの〈国法〉が区別され,さらに各民族ごとに多少とも異なって自覚されながら共通に自然法のなごりをとどめる〈万民法〉(私有財産制,一夫一婦制,外交使節の尊重など)が加えられる。この分類はウルピアヌスなどローマの法律家たちに影響した。
 他方,キリスト教においても,パウロによりすでに異教徒にとっての自然的な〈心の則(のり)〉としての自然法がいわれており,それはアウグスティヌスによって詳論されるが,彼は上記の4種の法に,超自然的啓示の法としての〈神法〉(モーセの十誡や教会法)を加える。このアウグスティヌスにあっては,いまだ自然と超自然との区別の哲学的原理が不明確であったが,13世紀のトマス・アクイナスは,自然的理性の〈光〉(明証性)と超自然的理性の〈光〉との区別を明確にすることによって,自然の世俗的世界と超自然の啓示の世界,自然と恩寵,哲学(および自然神学)と啓示神学,国家と教会,政治と宗教の差異を明らかにした。人間の本性,その法則としての自然法は,人間の国家的本性に基づく国家やその法(人定法)と同じく,本来的に自然的理性の共通の広場で(信徒であろうとなかろうと)万人により認識されているもの,これに対し神法は恩寵の超自然的光に接したキリスト教信徒にのみ妥当するものとされた。しかしトマス・アクイナス以後,ドゥンス・スコトゥスやオッカムの後期スコラ学の唯名論的・主意主義的哲学が17世紀にかけて盛行して,自然法の実在性や法規範の(理性のみが認識しうる)一般性,ルール性が閑却される。またこれが法を主権者の恣意的意思の所産とみる近・現代の主意主義的法観,ひいては国家法のみを法とする法実証主義の誕生を促した。
 それにしても16世紀スペインのスコラ学派(ビトリア,モリナ,スアレス等)においても,グロティウスにおいてすらも,トマス・アクイナスの伝統は保持されていた。グロティウスの有名な言葉〈もし神が存在しないとしても,自然法はある〉は,自然法の自然理性による認識を強調するトマス・アクイナス説の継承である。またこのスコラ学派は,トマス・アクイナスの自然法論に詳細な注解を加える一方,当時のスペインの海上帝国的発展の現状に適合した自然法の応用理論を展開し(例えば,ビトリアの《インディオと戦争権》(1557)),その間に近代的な〈国際法〉的原則の数々を生み出した。今日においても,新トミズムの自然法論として復活している自然法論は,自然法の歴史性を強調し,現代の状況への詳細な応用自然法を語っている(例えば J. メスナーの《自然法》(第6版,1965))。
[近世啓蒙期以後の自然法論]  以上のような伝統的な自然法論と近世の啓蒙期自然法論とを判然と区別しなければならない。デカルトの霊魂・肉体を二つの異なった実体とする二元論は,近代特有の唯物論と観念論との思想的系譜を生ぜしめた。近世啓蒙期自然法論の真の創始者は,ホッブズである。彼はその全体としての唯物論哲学に矛盾して,デカルトの観念論的側面,つまり超肉体的な人間離れした天使的知性を,その自然法論に持ち込む。そこでは万人対万人の自然状態を克服するための〈理性の戒律〉(自然法)が,〈平和を維持せよ〉という第一原理から必然的な演繹的推論をもってひき出された20ばかりの掟として語られる。信約 covenant を結んで国家状態にはいれ,主権者の無制約的立法意思の所産たる国法に服せよ,などはその主要なものである。
 自然法をこのような推論的知性の帰結だとする観念論的思考が,スピノザ,ライプニッツを介して,プーフェンドルフ,トマジウス,C. ウォルフなどの壮大な自然法体系となった。そこでは経験的事実を超えて〈理性〉が第一原理から繰り出す,日常生活のこまごまとした規定に至るまでの〈自然の法典〉が,永久・不変の法規範と宣せられる。フランス革命を経てナポレオン民法典にも,その起草者ポルタリスを媒介してこうした自然法論が影響を与え,近時に至るまで〈自然法〉といえば,この種の自然法を考えるのが通例であった。また近世啓蒙期の自然法論の要目は,ロック,ルソー,モンテスキュー,カントにおいてもそれぞれのしかたで変型されながらも,近代の自由主義・個人主義政治思想とその政治的実践に作用し,イギリスの名誉革命,アメリカの独立革命,フランス革命の達成に大きな影響を与えた。
 しかしこうした近世啓蒙期自然法論は,19世紀の初め,サビニーをはじめとする〈歴史法学〉派によってその非歴史性が批判された。第一原理からの必然的演繹の永久的帰結とされるものの中に,実際には当時の法曹界で意識されていたそのころの慣行や通俗的臆見が多分に盛り込まれていて,永久・不変のものでないことがあらわにされた。
 19世紀にあっては,こうした自然法論に代わって国家法のみを法とする法実証主義(ナポレオン法典を金科玉条とするフランス注釈学派,実定法規の概念構成に没頭するドイツの一般法学派)が盛行し,自然法論は衰退する。
 20世紀初頭からの自然法論の復活は,ドイツの R. シュタムラーに始まる。彼は法認識の形相と質料とを分かち,万人に妥当する正義の認識範疇的原理は不変であっても,その質料(経済的などの社会的現実)の可変性のゆえに内容の可変的となる自然法をいう。しかし彼の新カント学派的形式主義では,結局,内容空虚な自然法しか述べえなかった。同じころフランスでは,シャルモンJoseph Charmont(1859‐1922)の《自然法の再生》(1910)が反響を呼び,他方民法学者 F. ジェニーはトマス・アクイナスの自然法論をみごとに復活して現代における法律家のトミストの祖となった。それがベルギーの J. ダバンに受け継がれる。また M. オーリウやその徒ルナール GeorgeRenard(1847‐1930)の〈制度理論〉もトマス・アクイナスからインスピレーションを受けている。今日ではパリ大学の法律家たち,ビレー Michel Viley(1914‐ ),プレロー Marcel Prレlot(1898‐1973),ビュルドー George Burdeau(1905‐ )などが,新トミズムのフランスでのおもな担い手である。
 ドイツではことに第2次大戦後,ナチスによる実定法悪用の事態が,自然法復興の機縁となった。新カント学派の G. ラートブルフが戦後はじめて明白に自然法の客観的存在を承認する立場へと転向した。今日トミストの自然法論者としては,カウフマン Arthur Kaufmann(1923‐ )が代表的である。実存主義哲学は人間の実存の側面を強調するが,その本質の側面を否定しないかぎりで自然法を語る余地があり,この法の法学者フェヒナーErich Fechner(1903‐ ),ウォルフ Erik Wolf(1902‐ ),マイホファー Werner Maihofer(1918‐ )は自然法論者である。またアリストテレス復興を志向するハルトマン=シェーラーの新形而上学に立脚して自然法内容をいっそう積極的にいう者に,H. コーイング,H. ウェルツェルなどがいる。オーストリアでは,新カント派のケルゼン主義から転じたトミストの A. フェアドロス,トマス・アクイナスとハイデッガーを接合するマルチッチRenレ Marcic(1919‐ )が自然法論を説く。アメリカではハーバード大学の L. フラーが一種の自然法を語る。
 プロテスタント神学では,原罪による〈人間本性の破壊〉をいうルター,カルバン以来自然法をとりたてていう余地はなかった。しかし近年フランスのエリュール Jacques Ellul(1912‐ ),スイスの E.ブルンナー,アメリカの R. ニーバーなどはある程度自然法を強調する。プロテスタントのうちでも人間本性の破壊をいうことの少ないアングリカン・チャーチの伝統のもとでは,P. ラムゼーその他,自然法を認める者が多い。⇒法実証主義 水波 朗

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自然法
I プロローグ

自然法 しぜんほう Natural Law 自然(本性)にもとづいて成立する法則や規範。もとは哲学と倫理学の用語。法律学では立法や裁判、慣習などを通じて人間がつくる実定法に対置される。自然法は実定法よりも高次にあり、普遍的に適用できる法として、実定法のあるべき姿を表現して実定法を正当化しまたは批判する理念とされる。これに対して、自然法の存在をみとめず、実定法以外に法は存在しないとする立場があり、これを法実証主義という。自然(本性)をどう理解するかによって、自然法の内容や自然法に違反する実定法の効力などについては自然法論者の間でも見解がことなる。

II 古典的な自然法理論

自然法理論と類似の発想は老荘思想など東洋にもみいだせないことはない。しかしふつうは、古代ギリシャ以来の伝統をもつヨーロッパの政治思想・法思想の中から生まれた自然法をさす。アリストテレスは2種類の正義を区別した。「どこにおいても同じ妥当性をもち、われわれの承認を必要とはしない正義の法は、自然法的である。本来はどのようであってもさしつかえないが、いったんさだめられれば、そうでなくてはならないような正義の法は、人為法的である」。

体系的な自然法理論を構築したのは、ストア学派、とくにクリュシッポスであった。ストア学派によれば、全宇宙は、神、精神、運命などとよばれる能動的原理によって合理的に支配されている(→ ロゴス)。人間の本性(自然)もまた宇宙の一部であり、自然法則にしたがうことが善である。人間以外の自然物はその衝動にしたがうことが自然だが、人間にとっての自然とは理性にしたがうことである。このような自然法の観念はローマ帝国にもひろまり、自然法は人間であるかぎり平等に適用される理想の法として理解された。前1世紀の弁論家キケロは「国家論」において、自然法の有名な定義をあたえている。「自然と調和したただしい理性こそ真の法である。真の法は普遍的に適用可能であり、不変にして永遠である」。

III キリスト教の自然法思想

ストア学派の自然法理論はキリスト教の信仰と一致した。パウロは、「律法をもたない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、…自分自身が律法なのです」(「ローマの信徒への手紙」2章14節)とかたった。6世紀のスペインの神学者イシドルスは、自然法は自然の本能によってどこでも遵守されると断言した。イタリアの学者グラティアヌスは、1140年ごろにあらわした教会法の教科書「グラティアヌス教令集」の冒頭にこのイシドルスを引用し、スコラ学者たちの間に広範な論争をまきおこした。

トマス・アクィナスは「神学大全」(1265~73)において、神が被造物を理性的にみちびく働きを「永遠の法」とよんだ。永遠の法はすべての存在者に、それにふさわしい活動と目標への道筋をあたえる。おのれの活動を方向づけ、ほかのものの活動をみちびく理性的な被造物は、神の理性そのものをわかちもっている。理性的な被造物がわかちもつ永遠の法が自然法である。トマスの理論は後世にも影響をあたえ、現代の自然法論では基本的に彼の理論に依拠する新トミズムが主流となっている。

IV 近代の自然法理論

近代の自然法理論の創始者は、オランダの法学者グロティウスである。それまでは個人から独立に、神の意志などにもとづいて客観的に自然法が存在するとされていたが、グロティウスの、神が存在しなくても自然法は妥当性をもちうるという主張は、神学的前提と絶縁し、17~18世紀の純粋に合理主義的な理論への道を準備した。

17世紀のイギリスの哲学者ホッブズは、歴史の始まりに個々人が自然権をもつ自然状態を仮定し、そこから社会矛盾が生じ社会契約へいたるという理論をたて、万人の万人に対する闘争を克服し平和を維持するための自然法理論をつくりあげた。自然はどのような支配的権威もおかしえない権利を人間にあたえたというロックの自然法理論は、民主的政治体制と革命権を正当化することで市民革命の思想的な支えとなり、フランス革命やアメリカの独立宣言に具体化された。

いっぽう、ドイツの大学ではじめて自然法の講座を担当したプーフェンドルフらは、日常のこまごまとした規定までふくむ壮大な自然法の体系をつくりあげた。

V 自然法理論の衰退

19世紀後半になると法実証主義が台頭し、自然法理論は衰退していった。自然法の内容がすでに実定法にとりいれられてきたこともあったが、「…である」をあらわす自然から「…べきである」と強制する法をみちびきだすことはできない、自然法の存在は証明できない、価値判断は個人の主観的意欲にすぎず人それぞれでことなる、など自然法の基礎に対する批判と懐疑が強まったことが大きい。イギリス功利主義の哲学者ベンサムやイギリスの法学者ジョン・オースティンらがその代表的な論者で、オースティンは、法は主権者の命令にのみもとづくと主張し、価値判断を排除した実定法分析をすすめ、法学を一個の科学として確立した。

VI 自然法理論の再生

20世紀初めにフランスで自然法の再生を説く動きがあったが、実定法をこえる規範への関心をふたたびよびおこしたのは、第2次世界大戦中のナチス・ドイツによる残虐行為であった。ナチスの悪法に司法官が追従したのは法実証主義が原因だという見解が強まり、自然法の再生をもとめる潮流が復活した。現在では新トミズムのほか、プロテスタント、現象学、実存主義などいろいろな立場からの自然法理論が存在する。

→ 倫理学:法


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実定法
実定法

じっていほう
positive law

  

国家機関,特に立法府の制定行為,および慣習,判例などの経験的事実に基づいて成立し,その存立を経験的,歴史的に実証される法。したがって実証法ともいわれる。事物もしくは人間の本性に基づいて成立する永遠普遍の法である自然法に対置され,可変性,歴史的相対性をその特徴とする。なお,自然法の存在を否定し,実定法のみを法とする立場は法実証主義 legal positivismと呼ばれる。





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実定法
じっていほう positive law∥positives Recht[ドイツ]∥droit positif[フランス]

人為によって生成存立し時間的・場所的に制約された可変的内容をもつ法をさし,人間の本性とか事物の本性などに基づいて自然的に存立し普遍妥当性と不変性をもつとされる自然法の対立概念として用いられる。実定法という語は,中世の神学者や法学者によって,自然的な法 jus naturaleに対して,権威的意思に基づく法 jus positivumとして使われはじめ,その後,とくにヘーゲルやJ. オースティンらによる詳細な概念規定を経て,実証的 positif ということを現実に存在し経験的事実によって確認できるものと規定するコントの実証哲学の影響とも相まって,ほぼ現代におけるような意味で一般的に用いられるようになった。歴史的には,実定法の実定性(実証性)の理解のしかたに応じて,実定法の範囲も変化してきており,広義には,権威的意思による創設という契機だけに着眼して,神の法・掟(おきて)も実定法に含ませる見解もあった。狭義には,国家的ないし人間的意思による制定という契機を重視して,人定法と同意義に解され,制定法や判例法などに限定されることもあった。最も一般的な現代的用法は,現実に社会で行われている現行法と同意義に解し,制定法・判例法だけでなく,慣習法や条理などをも含ませるものである。
 実定法の核心的意味は,人々を義務づける規範的効力(妥当性)をもつことである。この規範的効力の問題は,法が事実上一般私人によって遵守されたり裁判所その他の公的機関によって適用されたりしているという,法の実効性とは次元を異にする問題である。一定の法体系内の法の規範的効力の有無は,だいたいにおいて実効的な法体系の存在を前提として,法の制定・改廃に関する規準,手続を規定した基礎的な組織(構成)規範に合致しているかによって識別される。法実証主義が,このような基礎的規範に合致した法の妥当根拠をそれ以上さかのぼって問うことを形而上学的・イデオロギー的として拒否するのに対して,自然法論は,伝統的に,実定法の究極的妥当根拠を高次の法たる自然法に求め,自然法に反する実定法の規範的効力を否認してきた。⇒法
                        田中 成明

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自然権
自然権

しぜんけん
natural rights

  

法的規定以前に人間が本性上もっている権利をいう。伝統的「自然法」を社会形成の積極的な構成原理に援用した際に生れた近代的な観念である。思想的先駆は T.ホッブズで,彼は個人の生存の欲求とそのための力の行使を自然権として肯定した。自然権は政治的変革を正当化する原理として歴史的に重要な機能を果すとともに,現代の人権思想の根底ともなった。 J.ロックは「生命,身体および財産」への権利であるとし,国家はこの自然権を保障するための組織であるから,いかなる国家権力も自然権を侵害することは許されず,そのような侵害に対して人民は抵抗権をもつと主張した。このロック的な自然権は,アメリカ独立宣言とフランス人権宣言において成文化された。





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自然権
しぜんけん natural rights

人間が国法その他に先立ち,自然法によりあるいは生まれながら人間として有している権利をいう。日本では天賦人権ともいわれた。自然権は人間をあらゆる政治的・社会的制度に先立って権利をもつ存在と考える点で,それまでの特権中心の権利観を根本的に転換させた。自然権の概念をそれ自体として積極的に展開し,社会の構成原理の基礎に据えたのはホッブズである。ホッブズは個人の生存の欲求とそのための力の行使を自然権として肯定し,これに基づく戦争状態こそを自然状態とした。そして,この状態を克服するためのものが自然法であるとして,自然権の優越性を説いた。自然権は当然人間の自由・平等と結びつき,政治的・社会的関係をすべて人為的にみずからつくり出していくという視座をもっている。ロックによって自然権はより明確な政治的・社会的権利として位置づけられた。社会契約説による政治社会の構成を,自然権を保障するためのものとした。自然権の核心をなすのは自己保存であり,そして自己保存に適合的な手段を採る権利である。それは論理的に実定法に先行し,したがって政治権力の侵しえない権利である。もし,それが侵害されるならば,支配者の解任を含む革命権の発動も認められる。このように自然権は近代政治理論の中心的概念として,人間の自由と平等との決定的優越性を凝縮した概念といえよう。⇒社会契約説∥天賦人権論              佐々木 毅

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自然権
自然権 しぜんけん 人間が人間であること自体によってもつ権利。論理上、国家そのほかの社会制度に先行してあらゆる人間に平等にみとめられるもので、国家によっても侵害されない超実定法的な権利とされる。日本には明治時代に「天賦人権論」として紹介された。自然権の内容とされるものは時代・論者により相違がある。

その源流は古代ギリシャや中世自然法論にみいだすことができるが、明確に自然権の概念を提示したのはホッブズである。彼は自己保存を内容とする自然権から理性の推論により平和の規則としての自然法をみちびきだし、近代自然法論の創始者となった。ホッブズは絶対的な権力をもつ国家を正当化したが、その後ロックが自然権を市民革命に対応するものへと発展させた。ロックは自己保存の権利のほか所有権を自然権にふくめ、その自然権にもとづき同意によって成立する民主的国家と、国家により自然権を侵害された場合の抵抗権とを正当化したのである。このような自然権の思想はバージニア州憲法(1776)、アメリカ独立宣言(1776)、フランス人権宣言(1789)においてとりいれられ実定化された。日本国憲法11条が基本的人権を「侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる」としているのも、この伝統の延長上にある。すべての人に権利能力(→ 行為能力)があるとするのは民法の基本原理であるが、これも自然権の思想を背景に成立したものである。


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ネオトミズム
ネオトミズム

ネオトミズム
Neo-Thomism

  

現代のトミズムをいう。 19世紀イタリアでイエズス会を中心にトマス哲学の再興が企てられていたとき,1879年教皇レオ 13世の回勅「エテルニ・パトリス」がカトリック神学はトマス・アクィナスの説をよりどころとすべきことを宣言,ネオトミズムが現代の一大思潮となった。方向としては,トマス・アクィナスの思想をその時代背景のなかでとらえる歴史研究と,現代の課題への適用をはかる努力の2つがある。研究の中心はベルギーのルーバン大学のメルシエ枢機卿の講座であった。 (→新スコラ哲学 )  





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トマス・アクィナス
トマス・アクィナス

トマス・アクィナス
Thomas Aquinas

[生] 1225頃.ロッカセッカ
[没] 1274.3.7. フォッサヌオバ

  

聖人。イタリアのドミニコ会士,神学者,教会博士。アキノのトマともいう。「天使的博士」 Doctor angelicusとあだ名された。アルベルツス・マグヌスに学び,1252年パリ大学教授となった。そこで托鉢修道会を攻撃する教区付司祭教授たちに反駁した。3年後イタリアに帰り,活躍。 1269年再びパリ大学教授,アリストテレス説をめぐる論争に参加。中庸的立場でこれを擁護し,その原理を批判的に摂取してカトリックの信仰を体系的に説明し,あわせて自律的哲学を樹立した。可能態としての本質領域に対して,現実態としての存在領域の優位,豊かさを洞察し,存在の類比によって神の秘義を不完全ながら探求すると同時に,人間本性の深い理解を求めた。 1272年パリを去り,ナポリにおいて新設の大学の充実に専念した。主著『存在と本質について』 De ente et essentia (1254~55) ,『対異教徒大全』 Summa de veritate catholicae fidei contra gentiles (→スンマ・コントラ・ゲンティレス ) ,『神学大全』 Summa theologiae (→スンマ・テオロギアエ ) などのほか,聖書,アリストテレスその他の注解,討論,詩など。





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トマス・アクイナス 1225ころ‐74
Thomas Aquinas

イタリアの神学者,哲学者,聖人。スコラ学の黄金時代を築いた思想家の一人。
[生涯と著作]  皇帝フリードリヒ2世に仕える騎士アクイノのランドルフォとロンバルディア出身のテオドラの間の末子(3人の兄,5人の姉がある)として,父親の居城ロッカセッカで生まれる。領地がローマとナポリのほぼ中間,教皇領と皇帝領の境界線に位置していたため,一族はたえず紛争にまきこまれ,トマスは武具の響き,軍馬のいななきにかこまれて幼年時代を送った。5歳のとき,近くのベネディクト会修道院モンテ・カッシノに送られ,初等教育を受けたが,両親はトマスが将来ここの修道院長となり,一族に声望と富を加えてくれることを期待したようである。1239年モンテ・カッシノ修道院が皇帝の軍隊によって占拠されるという不穏な事態が生じ,トマスは創設まもないナポリ大学に移って勉学を続けたが,ここで彼を精神的および学問的に方向づける二つの出会いが起こった。すなわち,福音の理想と学問研究とを2本の柱として教会に新風を吹きこみつつあった説教者修道会(ドミニコ会),およびアリストテレス哲学との接触である。44年ドミニコ会に入会したトマスが直面したのは家族の猛反対であった。古い伝記によると,トマスは1年以上もロッカセッカ城に監禁され,美女による誘惑という手段に訴えてまで彼の決心を翻させようとする試みがなされたという。しかし45年,トマスはナポリのドミニコ会修道院に復帰することを許され,ただちにパリ,ついでケルンに赴いて修業を続ける。とくに48年以降は同じドミニコ会士で,博学をもって聞こえたアルベルトゥス・マグヌスの指導を受ける。体賭が巨大で沈黙がちなため〈シチリアの何(おし)の牛〉とあだ名されていたトマスの天才を見抜いたアルベルトゥスが,〈やがてこの何の牛の鳴声は世界中に響きわたるであろう〉と予言した逸話は有名である。なお彼はこの時期に司祭に叙階されている。
 52年,トマスはアルベルトゥスの推薦により,パリ大学神学部教授候補者としてパリに派遣される。規定に従って聖書およびペトルス・ロンバルドゥス《命題論集》の注解講義を終え,56年には学位を得て教授としての活動を開始したが,大学紛争のため,教授団に正式に加わったのはその翌年であった。聴講者たちはトマスの講義の主題,方法,論証などの新しさに強く印象づけられた,と伝えられる。この時期の著作には前述の《命題論集注解》のほか,みずからの哲学的立場を簡潔に述べた《有と本質について》,重要な学問論を含む《ボエティウス三位一体論注解》,中世大学独特の授業形式を反映する《定期討論集・真理について》がある。またイスラム教徒,ユダヤ教徒に対してキリスト教真理を弁証することを目ざした体系的大著《対異教徒大全》が着手されたのもこの時期である。ドミニコ会有数の学者に成長したトマスはパリ大学教授の任期を3年で終え,続く約10年間イタリア各地のドミニコ会学校で教授・著作活動に従事する。この時期の思想的成熟に関して特筆すべきはギリシア語に堪能(たんのう)な同僚ムールベーカのギヨームの協力を得て,アリストテレスおよび新プラトン主義哲学の本格的な研究を行ったこと,およびギリシア教父神学の研究に打ち込んだことである。この時期のおもな著作には前記《対異教徒大全》のほか,《定期討論集・神の能力について》や《ディオニュシウス神名論注解》,〈黄金連鎖〉の名で広く知られた《四福音書連続注釈》などがあるが,最も重要なのは彼の主著であり,今日にいたるまで数多くの注解(部分的注解も含め約750)や研究書の対象となってきた《神学大全》である。
 68年秋,当時の教皇庁の所在地ビテルボに滞在していたトマスは,ドミニコ会総長の命令によって再度神学部教授に就任するためパリに向かった。トマスの出馬が要請されたのは50年代の終りに鎮静化した教区司祭教授団による托鉢修道会(ドミニコ会とフランシスコ会)攻撃が再燃したのに対抗するためであったが,パリにおけるトマスはこの正面の論敵のほかに,なお左右両面からの攻撃にさらされた。その一つはアリストテレス解釈をめぐる,シジェ・ド・ブラバンを中心とするアベロエス派との論争であり,もう一つはトマスがアリストテレス研究を通じて導入した哲学的革新を危険視する,保守的なアウグスティヌス派(フランシスコ会神学者を中心とする)との対決である。ところで論争に明け暮れたともいえる約3年半の第2回パリ時代は,トマスの著作活動が頂点に達した時期でもある。すなわち,《神学大全》第2部の完成,アリストテレスの主要著作のほとんどすべてについての注解,いくつかの重要な定期討論集,論争的著作など,通常の多産な著作家の一生の仕事に匹敵するほどのものを,このわずかの期間になしとげたのである。トマスは同時に3ないし4人の秘書に異なった内容の口述をすることができた,という伝説が生まれたのもおそらくこの時期の著作活動に関してであろう。
 72年春,ドミニコ会の新しい神学大学を設立する任務を授けられたトマスは,その場所として故郷ナポリを選び,残された生涯の最後の数年をこの神学大学の充実にささげた。この時期,彼は聖書および若干のアリストテレスの著作の注解のほか,《神学大全》第3部を書き進めていたが,73年12月6日聖ニコラウスの祝日のミサの後,いっさいの著作活動を放棄した。著作の続行を懇請する同僚に対して,彼は〈私にはできない,私が見たこと,私に啓示されたことに比べると,私が書いたものはすべてわらくずのようだ〉と答えた,と伝えられる。翌年初頭,教皇の要請に従ってリヨン公会議に出席するため病気をおして旅立ったが,途中で病が重くなり,ローマの手前,フォッサヌオーバのシトー会修道院で3月7日に没した。77年パリ司教およびカンタベリー大司教による異端宣言の中には明らかにトマスに帰せられる命題が含まれ,この後もトマスの学説に対する攻撃が続いた。他方,ドミニコ会内部ではトマスの学説に特別の権威を付与する動きが強まり,それと並行して列聖運動が推進され,1323年教皇ヨハネス22世によって正式にカトリック教会の聖人の列に加えられた。
[思想史的意義]  思想史におけるトマスの意義は,信仰と理性との統一を目ざして形成され,この統一が破れたときに崩壊したスコラ学との関係において明らかにされる。すなわち彼は,信仰と理性とを分離したうえでそのいずれかの優越を主張するのではなく,あくまでこの2者の内的総合を追究し,信仰の超越性(神中心主義)と人間理性の自律性(人間中心主義)とを,緊張をはらみつつ両立させるという,一見不可能ともみえる企てを成功させたのである。この〈トマス的総合〉の根底に見いだされるのが,アリストテレスや新プラトン主義哲学を継承し,それらをさらに展開させることによって成立したトマスの独創的な〈存在 esse〉の形而上学であるが,それは彼においては徹底した経験論的立場と両立していた。またトマスはアリストテレス流の厳格な学の条件を満たす,〈学としての神学〉を成立させたが,同時に神についての最高の知は無知の自覚であることを強調してやまない〈否定神学〉の提唱者であり,神秘主義者であった。⇒トミズム           稲垣 良典

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トマス・アクィナス
I プロローグ

トマス・アクィナス Thomas Aquinas 1225~74 イタリアの哲学者、神学者。スコラ学の最重要人物であり、ローマ・カトリック神学の指導者のひとり。「天使的博士」、「スコラ哲学の王」ともよばれる。

II ドミニコ会に入会

アクィノ近郊のロッカセッカの貴族の家庭に生まれ、ベネディクト会のモンテ・カッシーノ修道院とナポリ大学にまなぶ。1243年、大学在学中にドミニコ会に入会。この決意をかえさせようとした母に1年以上もロッカセッカの居城に監禁されたが、45年にはゆるされてパリで研究を継続。ドイツのスコラ学者アルベルトゥス・マグヌスにまなび、48年、彼にしたがってケルンへおもむく。

III アベロエス派との論争

1250年に司祭に任ぜられ、52年パリ大学で講義を開始した。この時期の主著は、イタリアの神学者ペトルス・ロンバルドゥスの著書「命題論集」を注解した「命題論集注解」(1256?)である。

1256年にパリ大学で神学の学位を取得し、哲学教授になる。59年、教皇アレクサンデル4世によりローマに召喚され、教皇庁の顧問兼講師として活躍。68年パリにかえり、フランスの哲学者シジェ・ド・ブラバンを中心とするアベロエス派との論争にまきこまれる。

IV アリストテレスの解釈をめぐって

西洋思想におけるこの論争の決定的な重要性を理解するには、それが生じた経緯を知る必要がある。トマスの時代以前に西洋思想を支配していたのは、4~5世紀の偉大な教父アウグスティヌスの哲学である。アウグスティヌスは、真理の探究における心的体験の重要性を強調した。いっぽう、13世紀初頭、アリストテレスの主著と、イブン・ルシュド(アベロエス)をはじめとするイスラム学者によるアリストテレス注釈書がラテン語訳され、西洋に紹介された。このアリストテレス思想は、経験的認識を重視し啓示からの哲学の独立を強調する、アベロエス派として知られる哲学の学派をつくりだした。

人間の霊的原理を強調するアウグスティヌス派と、感覚的認識の自立性を主張するアベロエス派を和解させようとして、トマスは、信仰の真理と感覚経験の真理は完全に両立可能だと主張する。彼によれば、すべての認識は感覚に由来するが、知性の活動によってのみ理解可能になる。知性は思想を高めて、人間の魂、天使、神といった非物質的なものを理解できるようにする。しかし、宗教がかかわる最高の真理を理解するには、啓示の助けが必要である。

V 後半生

トマスがその成熟した立場を最初にうちだしたのは、「知性の単一性について」(1270)である。この論文は、シジェ・ド・ブラバンの「知性的魂について」における知性の普遍的単一性の主張に反駁(はんばく)し、人間の個人的霊魂の不死を論証したものである。

1272年、トマスはナポリにおもむき、ドミニコ会の神学校を新設した。74年、教皇グレゴリウス10世の招きによりリヨン公会議におもむく途中、病にたおれ、3月7日、フォッサヌオーバのシトー会修道院で死去した。

1323年、教皇ヨハネス22世により聖者の列に加えられ、1567年には教皇ピウス5世により教会博士とされた。

VI 評価と影響

トマスは、信仰と知性を和解させようとして、さまざまな思想の壮大な哲学的総合をなしとげた。それらの思想の中には、アリストテレスをはじめとする古典的哲人たち、アウグスティヌスなどの教父たち、イブン・ルシュド、イブン・シーナー、その他のイスラム学者たち、マイモニデスやイブン・ガビロールなどのユダヤ思想家たち、スコラ学の伝統にたつ先行者たちの思想がふくまれている。

トマスの業績は膨大である。それは哲学史上まれな高みにたっている。トマス以後、西洋の哲学者は彼に謙虚にしたがうか、まったくちがう方向にむかうかしか選択の余地がなかった。彼の死後数世紀の間は、ローマ・カトリックの思想家たちにおいてさえ、第2の選択肢を採用するのが支配的傾向であった。しかし、19世紀後半になると、トマス哲学への関心がよみがえりはじめる。教皇レオ13世はその回勅「永遠の父について」(1879)で、トマス哲学をすべてのローマ・カトリック学校の教育の基礎にするよう推奨し、さらにピウス12世は「人類について」(1950)という回勅で、トマス主義の哲学がローマ・カトリックの教義のもっとも確実なガイドであると断言した。

トマス主義は、現代思想の指導的な学派のひとつでありつづけており、その代表者に、フランスの哲学者マリタンやジルソンがいる。

トマスはきわめて多作な著作家であり、80冊以上の著作が彼のものとされている。その中でもっとも重要な著作は、「対異教徒大全」(1261~64)と「神学大全」(1266~73)である。後者は3部(「神論」「人間論」「キリスト論」)からなり、第3部は未完である。


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トミズム
トミズム
Thomism

トマス・アクイナス自身の哲学・神学体系,および後世の人々によるトマスの基本的立場ないし学説の体系的解明および展開をさしていう。トマスがアリストテレス,新プラトン主義哲学,アウグスティヌスをはじめとする教父たちの思想,アラビアおよびユダヤの哲学思想などを総合してつくりあげた独自の哲学思想は,同時代人および直後の世代の理解を超えるものであった。13世紀の終りにかけてドミニコ会とフランシスコ会神学者,およびガンのヘンリクスとアエギディウス・ロマヌスの間でトマスの学説をめぐって論争が行われたが,前者は神学的正統・異端に関する争いであり,後者はトマスにおける〈存在 esse〉と〈本質 essentia〉との区別の誤解にもとづく論争であった。このあと,14,15世紀にヨーロッパ各地で創設された大学においてトミズムは学問的に高く位置づけられた。ドゥンス・スコトゥス,ガンのヘンリクスをはじめとするさまざまの対立的立場に対してトミズムを弁護したヨハネス・カプレオルスの《聖トマス神学の弁護》はこの時代のトミズムの代表的著作である。トミズムは,宗教改革運動に対抗してカトリック教会内部で改革の気運が高まったのに応じて,新しい時期に入った。その代表者は16世紀においてはイタリアのカエタヌスおよびフェラーラのシルウェステル,およびスペインのビトリアであり,17世紀においてはスペインのスアレス,ヨハネス・ア・サンクト・トマスである。前3者はトマスの著作への優れた注解で知られ,後2者は教科書的著作を通じて大きな影響力を及ぼした。なお1570‐71年に教皇ピウス5世の命によって最初の《トマス全集》が公刊されたこともトミズムの歴史における重要なできごとであった。
 18,19世紀にかけて多くの注解書やトマスの基本的立場にもとづくと称する教科書が現れたが,それらはデカルト,ロック,C. ウォルフなどの影響を受けた折衷的内容の著作であり,トマス自身の学説に忠実であろうとする努力は見られなかった。これに対して19世紀中ごろからまずイタリア,ついでドイツにおいて〈トマス自身に帰れ〉という声が起こり,トマスおよび他のスコラ学者の真正の学説を再発見することを通じて,当時のヨーロッパの知的・社会的危機に対応しようとする哲学運動(新トミズム,新スコラ主義)が勢力を得た。この運動に対して強力な支持を与えたのは教皇レオ13世の回勅〈エテルニ・パトリス〉であり,彼とその後継者たちによってトマスの学説には教会内部で特別の権威が付与された。《トマス全集》の批判版の計画を推進したのもレオ13世である。20世紀に入ってトミズムがカトリックの大学や神学校の囲いを超え出て,広く学界や思想界で研究,論議の対象となったのは2人のフランス人哲学者マリタンとジルソンの力によるところが大きい。第2バチカン公会議以後,トミズムは教会の公的教説たることから解放され,多極化の時代に入っている。⇒トマス・アクイナス              稲垣 良典

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