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認識論の流れ(3) [宗教/哲学]

認識論の流れ(3)

イギリス経験論
イギリス経験論

イギリスけいけんろん
British empiricism

  

合理論と拮抗する形で 17~18世紀のイギリスに現れた哲学思潮。哲学史的分類としては,大陸合理論,ドイツ観念論などに対して用いられる。すべての哲学概念の有効性を人間経験の裏づけから判断するもので,一般にロックを確立者とするが,淵源はすでにフランシス・ベーコンやアイザック・ニュートンにある。この説はロック以後バークリー,ヒュームおよびその後継者により展開された。その関心事は,(1) 観念の起源,(2) 真実の可能性の探究にあった。ロックは当時の本有観念説に反対し,心は元来白紙 (→タブラ・ラサ ) で,その内容は感覚と反省から得られると説いた。この傾向は,「在るとは知覚されること (エッセ・エスト・ペルキピ ) 」であるとするバークリーの主観的観念論に展開され,さらには認識の形而上学的客観性を否定するヒュームの不可知論にいたった。このような人間の合理性の権利を主張する考えは,当時の市民社会形成の基盤ともなり,フランス革命を思想的に準備し,ドイツではカント哲学を生み出した。





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[ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 2008]


イギリス経験論
イギリスけいけんろん British empiricism

多くの場合,大陸合理論と呼ばれる思想潮流との対照において用いられる哲学史上の用語。通常は,とくにロック,G. バークリー,D. ヒュームの3人によって展開されたイギリス哲学の主流的傾向をさすものと理解されている。通説としてのイギリス経験論のこうした系譜を初めて定式化したのは,いわゆる常識哲学の主導者 T. リードの《コモン・センスの諸原理に基づく人間精神の探究》(1764)とされているが,それを,近代哲学史の基本的な構図の中に定着させたのは,19世紀後半以降のドイツの哲学史家,とりわけ新カント学派に属する哲学史家たちであった。とくに認識論的な関心からカント以前の近代哲学の整理を試みた彼らの手によって,ロック,バークリー,ヒュームと続くイギリス経験論の系譜は,デカルト,スピノザ,ライプニッツ,C. ウォルフらに代表される大陸合理論の系譜と競合しつつ,やがてカントの批判哲学のうちに止揚された認識論上の遺産として,固有の思想史的位置を与えられたからである。その場合,例えば,ロックの認識論がカント自身によって批判哲学の先駆として高い評価を与えられた事実や,ヒュームの懐疑論がカントの〈独断のまどろみ〉を破ったと伝えられるエピソードは,そうした通説にかっこうの論拠を提供するものであった。
 確かに,イギリス経験論の代表者をロック,バークリー,ヒュームに限りつつ,それを,大陸合理論との対照において,あるいはカント哲学の前史としてとくに認識論的観点から評価しようとする通説は,次の2点でなお無視しえない意味をもっている。第1点は,ロックからバークリーを経てヒュームに至るイギリス哲学の系譜を,感覚的経験を素材として知識を築き上げる人間の認識能力の批判,端的に認識論の発展史と解することが決して不可能ではないことである。ロックの哲学上の主著が《人間知性論》であるのに対して,バークリーのそれが《人知原理論》と名付けられており,ヒュームの主著《人間本性論》の第1編が知性の考察にあてられている事実は,バークリーとヒュームとの思索が,ロックによって設定された認識論的な問題枠組の中で展開された経緯をうかがわせるであろう。そこにまた,先述のリードが,ロック,バークリー,ヒュームを懐疑論の発展史的系譜の中に位置づけた主要な理由もあったのである。
 従来の通説がもつ第2の意義は,それが,大陸合理論とイギリス経験論との対比,カント哲学によるそれら両者の統合という図式を提示することによって,錯綜した近代哲学史の動向を描き分けるのに有効な一つのパースペクティブを確立したことである。思想の歴史を記述する場合,個々の思想家を一定の歴史的構図の中に配置して時系列における相互の位置関係を確定する作業が,いわば方法的に不可欠であると言えるからである。
[経験的世界の解明]  けれども,ウィンデルバントの言う〈近代哲学の認識論的性格〉を極度に強調しつつ,イギリス経験論の系譜を認識論の発展史と解してきた従来の傾向は,イギリス経験論の成果をあまりにも一面的にとらえすぎていると言わなければならない。例えば,イギリス経験論の確立者と評されるロックの思想が,人間の経験にかかわるきわめて多様な領域を覆っている点に象徴されているように,イギリス経験論がその全行程を通して推し進めたのは,単に狭義の認識論の理論的精緻化ではなく,むしろ,人間が営む経験的世界総体の成り立ちやしくみを見通そうとする包括的な作業であったと考えられるからである。しかも,このように,イギリス経験論を,人間の経験とその自覚化とにかかわる多様な問題を解こうとした一連の思想の系譜ととらえる場合,そこには,その系譜の始点から終点へのサイクルを示す思想の一貫した動向を認めることができる。端的に,人間と自然との交渉のうちに成り立つ自然的経験世界の定立から,人間の間主観的相互性を通して再生産される社会的経験世界の発見に至る経験概念の不断の拡大傾向がそれである。こうした動向に注目するかぎり,イギリス経験論の歴史的サイクルは,通説よりもはるかに長く,むしろ F. ベーコンによって始められ,A. スミスによって閉じられたと解するほうがより適切であると言ってよい。その経緯はほぼ次のように点描することができる。
 周知のように,〈自然の奴隷〉としての人間が,観察と経験とに基づく〈自然の解明すなわちノウム・オルガヌム〉を通して〈自然の支配者〉へと反転する過程と方法とを描いたのは,〈諸学の大革新〉の唱導者ベーコンである。力としての知性をもって自然と対峙する人間精神の自立性を確認し,自然的経験世界における人間の主体的な自己意識を確立したベーコンのこの視点は,イギリス経験論に以後の展開の基本方向を与えるものであった。その後のイギリス経験論は,自然的経験世界に解消されえない経験領域の存在と,その世界を認識し構成する人間の能力との探究を促された点で,明らかにベーコンの問題枠組を引き継いでいるからである。その問題に対する最初の応答者は,ホッブズとロックとであった。彼らは,ともに,国家=政治社会を人間の作為とし,人間の秩序形成能力を感性と理性との共働作用のうちに跡づけることによって,自然的経験領域とは範疇的に異なる人間の社会的経験世界のメカニズム,その存立構造を徹底的に自覚化しようとしたからである。けれども,彼らが理論化してみせた社会的経験世界は,たとえ人間の行動の束=状態として把握されていたとしても,なお,現存の社会関係に対置された als ob,すなわち〈あたかもそうであるかのごとき〉世界として,現実の経験世界それ自体ではありえなかった。彼らが,人間の行為規範として期待した自然法は,あくまでも理性の戒律として,現実の人間を動かす経験的な行動格率には一致せず,また,彼らが人間の行動原理として見いだした自己保存への感性的欲求は,どこまでも単なる事実を超えた自然権として規範化されていたからである。
 〈道徳哲学としての自然法〉に支えられた規範的な経験世界を描くにとどまったホッブズとロックとに対して,人間の主観的な行動の無限の交錯=現実の社会的経験世界のメカニズムを見通す哲学的パラダイムを提示したのがバークリーであり,ヒュームであった。バークリーが,〈存在とは知覚されたものである〉とする徹底した主観的観念論によって,逆に他者の存在を知覚する主観相互の〈関係〉を示唆したのをうけて,ヒュームは,人間性の観察に基づく連合理論によって,個別的な主観的観念をもち,個別的な感性的欲求に従って生きる人間が,しかも,全体として,究極的な道徳原理=〈社会的な有用性〉〈共通の利益と効用〉に規制されて間主観的な関係を織り成している経験的,慣習的な現実への通路を見いだしたからである。もとよりこれは,道徳哲学を,超越的規範の学から人間を現実に動かす道徳感覚の理論へと大胆に転換させたヒュームにおいて,権力関係を含む国家とは区別される社会,すなわち,個別的な欲求主体の間に成り立つ間主観的な関係概念としての社会が発見され,その経験的認識への途が準備されたことを意味するであろう。
 ヒュームのそうした視点をうけて,〈道徳感情moral sentiment〉に支えられた人間の間主観的相互性を原理とし動因として成り立つ社会のメカニズム,その運動法則を徹底的に自覚化したのが言うまでもなくスミスであった。彼は,有名な〈想像上の立場の交換〉に基づく〈同感 sympathy〉の理論によって,主観的な欲求に支配され,個別的な利益を追求する経験主体の行動の無限の連鎖=社会が,しかも調和をもって自律的に運動し再生産されていく動態的なメカニズム,すなわち社会の自然史的過程を解剖することに成功したからである。もとよりこれは,ベーコン以来,人間が営む経験的世界総体の自覚化作業を推し進めてきたイギリス経験論が,現実の経験世界への社会科学的視点を確立したスミスによってその歴史的サイクルを閉じられたことを意味するものにほかならない。しかも,人間の経験的世界は,それが,どこまでも経験主体としての人間によって構成される世界であるかぎり,必ず歴史的個体性を帯びている。したがって,そうした経験的世界の構造を一貫して見通そうとしてきたイギリス経験論は,実は,イギリスの近代史がたどってきた歴史的現実それ自体の理論的自覚化として,明らかに,固有の歴史性とナショナリティとをもったイギリスの〈国民哲学〉にほかならなかった。その意味において,イギリス経験論の創始者ベーコンが,イギリス哲学史上初めて母国語で《学問の進歩》を書き,また,その掉尾を飾るスミスの主著が《国富論(諸国民の富)》と題されていたのは,けっして単なる偶然ではなかったのである。        加藤 節

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ドイツ観念論
ドイツ観念論

ドイツかんねんろん
deutscher Idealismus; German idealism

  

カントからヘーゲルにいたる思潮を中核に,18世紀後半から 19世紀なかばにかけてドイツを中心に展開された観念論的思想運動,現代にいたるまでその影響は大きい。カントは人間の本来的な認識能力の批判的分析により,独断的形而上学を排し真の形而上学を樹立しようとした。フィヒテはカントの純粋統覚の概念を自我と結びつけ,外的世界を非我とし,この自我と非我との弁証法において絶対自我が得られるとして,絶対的観念論の基礎を築いた。さらにシェリングは外的世界をも絶対自我の弁証法的自己展開の一契機と考え,同一哲学を形成した。このシェリングの意図を弁証法的論理をもって完成させたのはヘーゲルである。自我は理念として,現象世界を自己疎外と自己止揚の反復を介して展開し,最後に自己自身へ回帰する。ここにドイツ観念論はその体系的完成をみるにいたった。





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ドイツ観念論
ドイツかんねんろん deutscher Idealismus[ドイツ]

〈理想が現実を支配する〉という考え方に焦点を合わせて,ドイツ理想主義とも訳される。カント以後,19世紀半ばまでのドイツ哲学の主流となった思想。フィヒテ,シェリング,ヘーゲルによって代表される。彼らはカントの思想における感性界と英知界,自然と自由,実在と観念の二元論を,自我を中心とする一元論に統一して,一種の形而上学的な体系を樹立しようとした。ドイツ観念論の中心的主張は自我中心主義にあり,フィヒテがこの傾向を一貫して保持したのに対して,シェリングは神と自然へと,ヘーゲルは国家と歴史へと自我の存立の場を拡張し,前者はショーペンハウアーの非合理主義に,後者はマルクスの社会主義に大きな影響を与えた。
 デカルト以後,西欧近代哲学は全体として自我中心主義の性格を持つが,ドイツ観念論は,自我に何らかの意味で実在の根拠という性格を見いだし,自我を中心として観念性と実在性との統一を企てる。フィヒテによれば〈すべてのものは,その観念性については自我に依存し,実在性にかんしては自我そのものが依存的である。しかし,自我にとって,観念的であることなしに実在的なものは何もない。観念根拠と実在根拠とは自我において同一である〉。実在性と観念性との相互関係の場を見込んでいる点では観念論も唯物論(実在論)も同様であるが,両者の統一を観念性の側に意識的に設定するのが観念論の立場である。フィヒテは,人間の自由が可能であるためには,観念論の立場をあえて選ぶべきだと考えた。また自我が何らかの意味で実在性の根拠になる以上,自我の能動面である悟性が,実在性の受動面である感性とひとつになる場面が自我自身の内にあると考え,それを〈知的直観〉(直観的悟性)と呼んでいる。カントは,本来,能動的である悟性が,実在に関与する感性とひとつになるならば,それは主観が実在を創造するのと同じことになると考えて,〈知的直観〉を神の知性に特有のものとみなした。知的直観の有無に神と人間との,絶対者と有限者との区別を置いたのである。この両者が〈あらゆる媒介なしに根源的にひとつである〉(シェリング)とみなす立場は,神と人との区別を否定するという危険をはらむ。フィヒテやシェリングは,観念論の立場を前提としながらも,神の人間化を避けようとして,神秘主義の傾向に走った。
 ヘーゲルは,〈絶対的なもの〉が人間知の到達できない〈彼岸〉にあるという考え方をきびしく退けた。哲学は人間知の〈絶対性〉にまで達成しなければならない。すなわち,感覚から始まる人間知の歩みは〈絶対知〉にまで到達しなければならないと考えた。宗教は,まだ絶対知ではない。宗教の最高段階であるキリスト教は,人間知の絶対性を内容としながらも,神人一体の理念をイエスという神格に彼岸化し,その内容を表象化している。この彼岸性,表象性,対象性を克服したところに〈絶対知〉がなりたつ。ヘーゲル自身は,宗教と哲学とは同一内容の異なった形式であると主張して,無神論者という自分に対する疑いを晴らそうとした。しかし,ヘーゲル左派は,ヘーゲル哲学の本質が神の彼岸性を否定する点にあると解して,〈神学の秘密が人間学にある〉(L. A. フォイエルバハ)と説いた。ドイツ観念論は,神秘主義と唯物論との対立という結果を招いたのである。
 カント的な二元性を〈ただひとつの原理〉から導くことによって,克服すべきだという主張を掲げたのは,ラインホルト Karl Leonhard Reinhold(1758‐1823)である。彼は〈意識そのものには,対象との区別の側面と,対象との関係の契機が含まれる〉という〈意識律〉を第一原理とし,意識そのものに,実在性(対象との関係)と観念性(対象との区別)という契機を含みこませた。フィヒテは,同じく自我そのものに両契機を設定するに際して,ラインホルトのように〈意識の事実〉(表象の事実)に拠ることは誤りだと考えた。〈事実は何ら第一の無制約的な出発点ではない。意識の中には事実よりも根源的なものがある。すなわち,事行 Tathandlung である〉。実践的・能動的な自我に事実以上の根源性を見いだすことからフィヒテは出発した。そして A=A と同じ真理性をもち,なおかつより根源的なものとして〈我=我〉を導き出す。ここから彼は自我の内に非我もまた定立されることを独特の論理で展開する。〈絶対我は,我と非我とを内に含み,しかもこれを超越するところのものである〉。A=A(同一律)は,たんに言葉の使用規則ではなく,あらゆる事物が感性の多様性に解体されることなく自己同一性(単一性)を保つ根拠として考えられていた。もし同一性の根拠が,我=我(見る我と見られる我の同一)にあるとしたら,物の存在そのものに,見る―見られる(主―客)の同一性という,〈対立するものの同一性〉という構造があることになる。ここからヘーゲルは弁証法論理を樹立するにいたる。
 ドイツ観念論の時代的背景には,英仏における近代化に〈おくれたドイツ〉という事情がある。それゆえかえって近代主義が内面化・観念化されて,哲学の内に体系化される。後進性の特徴として,宗教批判が無神論に達することなく汎神論となり(スピノザ主義の受容),個我の解放が個人主義とならずに能動的自我の絶対化となり,近代社会の現実的確立ではなく理念化された法哲学の確立(フィヒテ,ヘーゲル)となる。他方,観念化された先進性のあらわれとして,主客二元論の構図が打破され,唯物論,現象学を生み出し,自我中心主義はロマン主義と結びついて神秘主義,実存主義の下地となり,理念化された国家共同体論は社会主義に影響を及ぼした。なお,イギリス経験論のドイツ観念論への影響は,ラインホルトにみられるようにカント哲学の心理主義的解釈となって現れ,自我の能動性を絶対化する方向で〈カントの限界〉を克服することが,経験論の克服になると考えられた。経験論との根本的な対立点は,存在者一般の同一性の根拠として,ドイツ観念論が能動的自我の同一性を原理とした点にある。自我論における対立は現代哲学にも及び,観念論・実存主義・現代存在論と,経験論・唯物論・精神分析学との間に,顕在的にせよ潜在的にせよ,さまざまの論点の違いを生み出している。⇒イギリス経験論                      加藤 尚武

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観念
観念
かんねん

ギリシア語のイデア idea に由来する英語のアイディア idea やドイツ語のイデー Idee に相当する語(ただし,ドイツ語のイデーは〈理念〉と訳されて,特別の意味をもつことがある)。イデアは元来,見られたものごとの形,姿などの経験的,具象的な対象を意味した。しかし,プラトンによって,それは経験的な個物を超越した不変,永遠の存在の意味を負わされるに至った。イデアには数学的対象や今日一般に抽象概念と呼ばれるものも含まれるが,とくにプラトンでは倫理的概念が重視され,その頂点に位するのが万人の究極的に追求すべき善のイデアとされることによって,イデアは同時に理想,理念の意味をも担う。また,イデア的な存在を重視する哲学が,いわゆる観念論の重要な一形態とみなされるゆえんもプラトンにある。プラトンの伝統をひく古代ギリシア末期の新プラトン派では,イデアは万物の流出と創造の根源となる一者(to hen,絶対者)の精神の中に永遠に存在する,万物の原型の意味を持つに至った。また,中世思想においても,それは唯一絶対の創造主である神の中の諸物の原型と考えられた。この種の超越的で非経験的なイデアの意味が逆転し,再び人間の精神の直接の対象として経験的,具体的な存在を意味するようになったのは近世哲学においてである。たとえばデカルトは観念に次の3種を区別した。第1は,人が先天的に所有している生得的,あるいは本有的な観念(生具観念)であり,公理的な諸真理,因果など,とりわけ神の観念がそれである。第2は,外来的,つまり外部から必然的に受容を迫る形で感覚に入ってくる熱,音などの観念であり,第3は,仮想的,つまり半神半魚の女神のように想像や空想が作り出した対象である。以上から明らかなようにデカルト的観念の重要な一部は先天的に存在し,しかも,その内容は形而上学的性格を持つもので,とくに神の観念が含まれることによって神の存在の本体論的証明に活用された。そして一般に,理性論の哲学では形而上学などでの重要な観念は先天的観念と認められていた。
 観念を真に経験的な意味での人知の対象へと徹底させたのは近世におけるイギリス古典経験論であった。ロックは人間の知識や信念の可能性,限界を探究するという,認識論,知識哲学の創始者となったが,それには精神の直接の対象である観念の探究が必要であるとして,観念の博物学,観念理論とよばれる方法を唱導した。ロックの観念はおよそ心の対象となるすべてのものをいう最広義の存在で,概念をも含んでいたが,ロックは観念の発生源上の分類として,感覚と反省の2種を区別した。感覚の観念とは五官が外部からうけとる色,味,におい,寒熱などや形,運動などの観念であり,反省の観念とは人がみずからの心を省みることによって得られる,心の機能や感情の観念である。この区分にロックはさらに単純と複合の区分を交差させる。単純観念とはもはやそれ以上に分割されない究極の単位で,複合的なそれは,単純観念からの合成によって成立し,単純観念へと解体される観念をいう。ロックはどれほど崇高で複雑,抽象的な観念もすべて感覚,反省の二つの窓口を通じて得られた単純観念に由来すると述べて,デカルトの認めた生具観念を否定し,経験論の立場を積極的に表明した。しかし,複合観念という合成説の構想は,認識の発生的始源と知識の論理的単位との混同による要素心理学的錯誤の源泉ともなった。だが経験的観念の理論によって,実体などの観念もさまざまな経験的単純観念の複合体以外には考えられなくなり,それらの背後にあって統一を与える基体といった伝統的実体概念は批判されるに至る。
 ロックの観念の用法や考え方は,概念の意味は除いてバークリーにも継承された。バークリーは能動的作用としての精神とその唯一の対象である観念のみを認めて抽象観念を批判し,とりわけロックでは妥協的に許容された物体的実体を徹底的に排除した。しかし,他方で彼は精神を唯一の実体と認め,しかも究極的にはそれを神と考えて被造物によって知覚されていないときの観念の原型を神の心の中に永遠に存在するとみる,新プラトン派的な万有在神論の一面をも見せた。バークリーに続くヒュームは,心の対象を知覚と命名し,それを印象と観念とに二分したが,前者は外的感覚から得られた直接の与件であり,後者は記憶,想像におけるその再生であるが,さらに,前者から直接的にか,後者から間接的に心の中に生じるのが反省の印象だとする。観念と印象との差は力と生気の点で後者が前者にまさることに求められる。ヒュームはバークリーの不整合を矯正し,物体的実体のみならず精神的実体をも〈知覚の束〉と規定した。観念的存在を基本とする哲学は一般に経験論,実証主義的傾向を示し,種々の変形をうけて現象学や現代論理実証主義などにも継承された。他方,観念に相当する現象とその背後の物自体という考え方はカントに継承され,また,理性論的で形而上学的な観念の理論はドイツ観念論の発展に示されている。⇒イデー∥概念∥表象                      杖下 隆英
[仏教語としての〈観念〉]  仏教語としては真理や仏名や浄土などに心を集中し,それを観察して思い念ずること。仏教ではもともと三昧(さんまい)を追求することが基本となっている。三昧とは禅定(ぜんじよう)ともいわれ,心を集中して心が安定した状態に入ることである。禅定の追求が継承されていくなかでその方法が具体的に形成されることとなり,観仏・観法などの修行の仕方が明らかにされていく。観仏とは,釈梼や阿弥陀などの仏のすがたやその功徳(くどく)を心に思い浮かべて禅定に入っていくことで,観法とは,心を集中し真理を心に思い浮かべて,それを観察し念ずることである。観念とは,このように,禅定の方法が中国・日本において,具象的なものをふまえて,微妙に変化したものといえよう。      渡辺 宝陽

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観念論
観念論
かんねんろん idealism

観念を原理とする哲学上の立場。実在論,唯物論,現実主義に対立する。明治10年代,《哲学字彙》では,idea の訳語に仏教用語の観念を当て,idealism は唯心論と訳したが,idealism を観念論と訳すのは明治10年代の後半,とりわけ30年代からである。この観念という訳語は(1)客観的実在としての形相すなわちイデア,(2)主観的表象としての想念,概念,考えすなわちアイディアないし観念,(3)理性の把握しうる概念すなわちイデーないし理念,(4)現実に対するアイディアルすなわち理想などを包括しており,これに応じて観念論も客観的観念論,主観的観念論,理想主義に大別しうる。西洋では実在論,実念論と比較して観念論は新しい用語であり,17世紀末から18世紀以来の成立である。当初,感性的質料を守る質料主義者,唯物論者に対して形相を原理とする形相主義者が観念論者とされた。この型の観念論は形相主義,イデア主義としての客観的観念論であり,実在論と言いうるが,イデアの認識に関しては主観なしにはありえない。他方,17世紀以来の英仏哲学では,主観ないし心の表象,意識内容としてのアイディア,イデーが観念と呼ばれ,〈在るということは知覚されることであり心は知覚の束である〉と説く G. バークリーの主観的観念論が成立する。この型の観念論は主観内の観念の外部の事物を扱わぬ傾向があり,実在論や唯物論の非難の対象になる。カントは理論的認識を現象界に制限して経験的実在論を説く反面,認識を可能にする条件を主観の形式すなわち主観における客観的形相の分析に求め,形式的観念論ないし先験的観念論を主張,リッケルトや E. ラスクの客観主義的観念論の先駆となる。またイデアは希求と願望の理想であり,近世的には理性概念すなわち理念として感性界に実現されるべき目標となる。ここに理想の追究ないし理念の実現を目ざす理想主義が近世の観念論の一つの型となり,フィヒテの倫理的観念論を代表とする。日本では左右田喜一郎と桑木厳翼とがカントとリッケルトの観念論を文化主義として継承した。         茅野 良男
[インドの観念論]  インド思想の一般的な特徴は,それが必ずなんらかの宗教体験の上に立って展開されているということであり,この点をはずしてそれが観念論か否かを問うのは危険である。ただ,あえて言うならば,インド思想のほとんどは観念論だということになろう。たとえば,《ウパニシャッド》文献に端を発するベーダーンタ学派,サーンキヤ学派の考えによれば,われわれが経験するこの世界は,われわれが自己の本体(アートマン)が何であるかを知らないこと(無知,無明)がきっかけとなって展開したものであり,つまりわれわれの日常的認識(分別,迷妄)が作り出したものであるとする。これは仏教でも基本的には同様であり,《華厳経》の〈三界唯心〉,瑜伽行派の〈唯識無境〉〈識の転変〉なども,日常生活における主客対立の見方である〈虚妄分別〉の心作用がこの世界を形成すると説いている。世界はいわば〈観念〉の所産であることになる。したがって,自己についての真実にめざめたとき,われわれはこの苦しみの経験世界を脱却できる。これが解脱である。
 これに対して,チャールバーカ,ローカーヤタ派などと称せられる人びとは,世界も心も物質の所産であると唯物論的な考えを表明している。ウパニシャッドの哲人ウッダーラカ・アールニ,原子論を唱えるニヤーヤ学派,バイシェーシカ学派にもそうした傾向が皆無ではないが,それでもなおこの経験世界を迷妄の所産とし,そこからの解脱を希求するなど,全体としては観念論というべきである。                    宮元 啓一

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観念論
I プロローグ

観念論 かんねんろん Idealism 広義には、意識や精神的なものを原理とする哲学上の説をいうが、さまざまな立場がふくまれる。形而上学においては、精神を真の存在とする唯心論の立場を意味し、精神も物質的な要素や過程に還元できるとする唯物論に対立する。しかし、観念論は本来、外界の事物は精神の観念にすぎないとする認識論上の立場であり、この場合には実在論に対立する。実在論は精神から独立した実在を主張するため、実在の本当のあり方は認識できないという懐疑主義におちいりがちである。観念論はこうした懐疑主義に対しては、実在の本質は精神であり、したがって実在は精神によってのみ認識されると主張する。

また観念論は、理想の追求や理念の実現をめざす生活態度をもさし、この場合は理想主義の意味になる。

II プラトン

観念論idealismという用語は、プラトンの「イデアidea」に由来する。イデアとは、知性によってのみとらえられうる超感覚的で普遍的なものである。つねに変化する個々の感覚的なものは、自らの理想的原型であるこのイデアのおかげで存在しうるし、認識しうると、プラトンは主張した。

III バークリーとカント

近代になって、このプラトンのイデアが意識の表象とか観念と解されるようになると、主観的観念論が成立する。その代表者は、18世紀アイルランドの哲学者バークリーである。彼によれば、あるということは知覚されるということであり、心は知覚の束である。そして外界の対象の真の観念は、神によって直接人間の心のうちにひきおこされるのである。

これに対して、ドイツの哲学者カントは、認識の材料を外界にもとめる点では経験的実在論をとるが、この材料をまとめあげ、認識を可能にする条件を、人間の直観と悟性の形式にもとめる点では観念論を主張する。彼によれば、人間が知りうるのは、物が現象する仕方だけであり、物それ自体がどのようなものかは知りえない。彼の観念論は、超越論的観念論とよばれる。

IV ヘーゲル

19世紀ドイツの哲学者ヘーゲルは、物自体は認識できないとするカントの見解を批判して、絶対的観念論を展開する。絶対的観念論は、すべての物の実体は精神であり、すべては精神によって絶対的に認識されうると主張する。ヘーゲルはまた、人間精神の最高の成果といえる文化、科学、宗教、国家などが、自由で反省的な知性の弁証法的な活動を通じて生みだされてゆく過程を再構成してみせた。

カントにはじまり、フィヒテ、シェリングをへてヘーゲルにいたる観念論は総称してドイツ観念論とよばれる。また、こうした観念論思想の流れは、19世紀イギリスのブラッドリー、19世紀アメリカのパースやロイス、20世紀イタリアのクローチェなどにもみいだされる。

→ 西洋哲学


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F.ベーコン
ベーコン

ベーコン
Bacon,Francis, Baron Verulam

[生] 1561.1.22. ロンドン
[没] 1626.4.9. ハイゲート

  

イギリスの哲学者。近代イギリス経験論の創始者。ケンブリッジ大学に学んだのち,パリに渡ったが,父の死後帰国し,国会議員などの政治活動に入った。 1621年汚職のため公職を退き,以後著述に専念した。彼はアリストテレスの『オルガノン』に代る新しいオルガノン『ノブム・オルガヌム (新機関) 』 Novum Organum (1620) を著わし,経験的方法を重視し,演繹法に対し帰納法を提唱した。すなわちアリストテレス的スコラ哲学の三段論法による4つのイドラ,すなわち (1) 種族のイドラ,(2) 洞窟のイドラ,(3) 市場のイドラ,(4) 劇場のイドラを排除し,客観的観察,実験的方法による学問を主張した。ユートピア物語として『新アトランティス』 Nova Atlantis (27) がある。ほかに『学問の進歩』 The Advancement of Learning (05) 。





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ベーコン 1561‐1626
Francis Bacon

絶対主義時代イギリスの政治家,哲学者。エリザベス朝の国璽尚書ニコラス・ベーコンの八男としてロンドンに生まれた。12歳でケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジに入学,3年後退学してグレー法曹院に入り,1576年駐仏大使に従ってフランスに渡った。3年後父の死のため帰国,84年下院議員となった。この後国会ごとに下院議員として活躍したが,念願の官職に就くことがなかなかできず,ジェームズ1世のもとで初めて法務次官となった。以後は法務長官,枢密顧問官,国璽尚書を歴任,1618年には大法官,男爵,21年には子爵となった。同年失脚,その後復帰を認められたが隠退して著述と研究に専念,26年ハイゲートに向かう途中に病気となり,4月9日没した。
 彼は政治家,法律家,歴史家としては,一貫してイギリス絶対主義の確立のために活躍したが,他方,思想,哲学,科学においては古代や中世を乗り越える学問・思想の〈大革新〉を企てた。すなわち,中世的思想に対し古典古代の学芸を復活するだけでは不十分であることを見てとり,これまでのあらゆる学問に批判的検討を加えて,未開拓の新研究分野を明らかにした。彼の〈大革新〉のかなめは〈人間の生活を新しい発見と資財によって豊かにすること〉が学問の目標であるとすることである。したがって学問のための学問や名声を得るための学問を批判する。そのような新しい学問は,個人的天才によってではなく人類の共同作業であると彼は考えた。そこで提案された方法は,独断論(合理論)と経験論をともに批判し,帰納と演繹の二つの道を総合する方法であった。したがってベーコンの立場はアリストテレス主義でもプラトン主義でもない,経験論と合理論を総合した新しい学問の立場であった。彼はこの方法に従ってみずから自然研究に従い,大著《大革新》に集大成しようとした。しかし実際に書かれ刊行されたのはその一部で,未来の人々が完成してくれることを期待していた。《大革新》の第1部をなすのは《学問の尊厳と進歩》で,すでに1605年に《学問の前進》と題して英語で刊行された書物の増補ラテン語版である。これは独自の基準によって学問分類を行い,当時の学問を概観すると同時に,あるべき学問についても示したものである。すなわち学問を人間の持つ三つの知的能力,記憶・想像・理性に対応させて大きく歴史・詩・哲学に区分し,それぞれをまた細区分するしかたであった。その中で,技術史や機械学などその後に発展した学問を提案している。また情報伝達の技術についても1巻を捧げている。《大革新》の第2部は自然研究の方法論で《ノウム・オルガヌム》と題されている。第3部は《宇宙の諸現象》の自然誌で,ベーコンは個人で完成しえないものと考えていたが,結局国家の援助が得られず膨大な原稿が残された。一部分は生前に出版されたが,ここでも自然誌だけでなく多くの技術誌を提案しかつ書き残している。ベーコンは死ぬまでこの努力を続け,死の翌年《森の森》と題して出版された。第4部の《知性の梯子――別名,迷宮の糸》は序論の原稿だけが残っている。第5部と第6部の《第二哲学》の部分も短い序文しか残っていない。他の著作としては,もっとも早く出版され広く読まれてきた《随筆集》(1597),久しく忘れられていたが近年重要視されつつある《古人の知恵》(1609),大著《ヘンリー7世治世史》(1622),遺稿となった理想郷物語《ニュー・アトランティス》(1627)がある。
 ベーコンを前提としてデカルトによる近代哲学の確立があり,またベーコン的な態度はローヤル・ソサエティやフランスの百科全書派(アンシクロペディスト)に受け継がれた。日本では明治以来《随筆集》で知られてきたが,最近はその〈人類のための科学〉という思想があらためて注目されてきている。                    坂本 賢三

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ベーコン,F.(哲学者)
I プロローグ

ベーコン Francis Bacon 1561~1626 イギリスの哲学者・政治家。近代科学思想の先駆者。

II 政治家としての生涯

ロンドン、ストランド街のヨーク・ハウスに生まれ、ケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジにまなぶ。1584~1614年の間下院議員として活躍。エリザベス女王の特別顧問官になり、かつての親友エセックス伯を反逆罪で処刑台におくる。女王のあとをついだジェームズ1世のもとで出世し、1603年にナイト爵に叙され、法務次官(1607)、法務長官(1613)、枢密顧問官(1616)、大法官(1618)をへて、18年にヴェルラム男爵、21年にセント・オルバンズ子爵となる。「学問の前進」(1605)はジェームズ1世にささげられている。

1621年、国会において収賄罪で告発され、禁固刑をうけ、一切の公職就任を禁止された。これ以後、ベーコンは著述に専念する。1626年4月9日、ロンドンにて死去した。

III 著作

ベーコンの著作は、哲学的著作、文学的著作、専門的著作の3種類に分類できる。哲学的著作としては、当時の学問状況の概観である「学問の前進」と「ノウム・オルガヌム」(1620)が重要である。「学問の前進」は英語で書かれたが、その増補ラテン語訳が「学問の尊厳と進歩」(1623)として出版されている。

1 ベーコンの論理学

ベーコンは、人間は自然のしもべにして解釈者であり、真理は権威に由来するものではなく、認識は経験の果実であることを強調する。そして、抽象的な三段論法を基礎とする従来のアリストテレス的論理学に、新しい論理学を対置する。演繹的方法にかわって、帰納法、つまり、実験にもとづいて個々の事例の比較と吟味によって自然の一般法則を発見するという方法を提唱したのである。帰納法により、科学的仮説の更新を通じて経験的真理に近づく道がひらかれた。これは科学の方法の根本的進歩であった。

2 ノウム・オルガヌム

「ノウム・オルガヌム」は、科学に精密な観察と実験とをもちこんだ。この著書において、ベーコンはただしい知識獲得の妨げとなる偏見や先入観をイドラ(偶像)とよび、4種のイドラをあげている。(1)人間性一般につきものの「種族のイドラ」、(2)個人の特殊な条件によって生じる「洞窟のイドラ」、(3)言語が精神におよぼす影響によって生じる「市場のイドラ」、(4)既成の哲学体系やあやまった論証方法から生じる「劇場のイドラ」の4つである。「ノウム・オルガヌム」の基礎にある諸原理は、それ以後の経験主義思想の発展に大きな影響をおよぼした。

3 随筆集その他

ベーコンは生涯を通じて評論や文学作品を書いている。「随筆集」(1597)はひろく受読されてきた。「ヘンリ7世治世史」(1622)は、ベーコンの学者としての才能をしめしている。空想的な「ニュー・アトランティス」(1627年著。死後出版)では、科学アカデミーの設立が提案されている。専門的著作としては、法廷での弁論と法律論文をあつめた「法律についての格言集」(1630)などがある。


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ノブム・オルガヌム
ノブム・オルガヌム

ノブム・オルガヌム
Novum organum scientiarum

  

『新機関』と訳され,近代の経験主義哲学の創始者といわれるフランシス・ベーコンの主著。 1620年刊,全2巻。伝統的な哲学の転換を企図した『大改革』 (全6巻,未完) の第2,3部として書かれたもので,アリストテレスの『オルガノン』に代るものとして,演繹的方法に対し帰納的方法を提唱した。科学の社会化,社会の科学化を構想し,転換期の思想に深い影響を与えた。





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新アトランティス
新アトランティス

しんアトランティス
Nova Atlantis

  

フランシス・ベーコンの著書。 1627年刊。新しい哲学の原理が政治的機構と国家の指導のもとに遂行される理想国家を記述したロマンで,のちに理想的共和国家の法律が追加される予定だったが,実行されなかった。トマス・モアが 1516年にギリシア語の ou+topos (not+place)から Utopiaなる語を作る前に,プラトンの『国家編』以来,このような考えは存在し続けてきたのであり,アトランティス大陸の伝説と 15世紀以来の東洋航路開発の機運とともに,実際的なものとしてデザインされるようになった。たとえば A.フランチェスコの"Doni Mondi" (1552) ,F.パトリッツィの"La Citt Felice" (53) ,T.カンパネラの『太陽の都』 Citt del Sole (1602) で,ベーコンも,そのような機運に刺激されたとみることができる。さらにこの機運が,「新大陸」でユートピアを築こうとするピューリタン (→清教主義 ) の具体的行動も生んだ。





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ニュートン
ニュートン

ニュートン
Newton,Sir Isaac

[生] 1642.12.25. リンカーンシャー,ウールズソープ
[没] 1727.3.20. ロンドン

  

イギリスの数学者,物理学者,天文学者。農家に生れ恵まれない少年時代をおくったのち,叔父の助力でケンブリッジ大学トリニティ・カレッジを卒業 (1665) 。 1665年のペストの流行で一時帰郷。この間に二項定理,微分法の発明,光と色の性質に関する研究,反射望遠鏡の発明のほか,万有引力の基本的着想を得たといわれる。 67年ケンブリッジに戻り,師 I.バローを継いでルーカス数学教授に就任 (69) 。ロイヤル・ソサエティ会員 (72) 。国会議員 (88) 。造幣局長官 (99) をつとめ,大学を辞める (1701) 。 1705年ナイトの称号を授かる。ケプラー,ガリレイ,ホイヘンスらの 17世紀力学,天文学の主要業績を包摂し,絶対時空間の概念,運動の法則,万有引力の法則を基礎とする普遍的力学理論体系 (古典力学) を構築,主著『プリンキピア』 (1687) として公刊,近代の数学的自然科学のモデルとして科学史上最大の業績を打立てた。一方 1672年に発表した,白色光は種々の色光が混成したものであり,各単色光はそれぞれ物質に対して一定の屈折率と反射能を有するという考えは,従来の光学概念を根底から変えたばかりでなく,彼の化学 (ないし錬金術) の実験的研究と結びついて,自然物体の色を通して物体の微細構造を解明しようとするものであった。彼は薄膜干渉色の数学的研究 (ニュートンリングの研究として知られる) から光の周期的性質を明らかにし (75~76) ,さらに光と物質,あるいは物質粒子間の相互作用の問題を中心に据えて光学・化学現象の研究を発展させ,大著『光学』 (1704) にまとめた。特に巻末に付された「疑問」は,18世紀科学者への広範で実り豊かな問題提起として,実質的には『プリンキピア』より大きな影響を与えたともいえよう。晩年はロイヤル・ソサエティ会長 (03) として多くのすぐれた弟子を育てるとともに,神学,聖書年代学の研究にも没頭した。





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[ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 2008]

ニュートン 1642‐1727
Isaac Newton

イギリスの科学者。リンカンシャーのウールスソープの自作農の家に生まれた。ウールスソープで初等教育を終えたのち,グランサムのキングズ・スクールに学び,1661年にケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジに入学した。当時のヨーロッパの大学では自然科学はほとんど教えられていなかったが,ニュートンはこの時期にデカルトの《幾何学》やケプラーの《屈折光学》を読んだ。さらに幸いなことには,ケンブリッジ大学にはルーカスHenry Lucas(?‐1663)によって〈ルーカス講座〉が創設されており,その初代教授としてバローIsaac Barrow(1630‐77)が就任し,数学や光学の講義がなされていた。ニュートンは,この師のもとで数学,光学,そして力学を学び,その才能を認められて,69年には彼のあとを継ぎ,ルーカス講座の教授となった。72年には,のちにニュートン式反射望遠鏡と呼ばれることになる望遠鏡の発明を評価されて,ローヤル・ソサエティの会員となり,89年にはケンブリッジ大学選出の国会議員となった。96年に造幣局監事に任命されたため,ロンドンに転居し,その後造幣局長官となった。1703年,ローヤル・ソサエティの総裁に就任し,生涯その地位にあった。
 ニュートンの主要な業績は力学,数学,光学の三つの分野で打ち立てられたが,これらの研究はいずれも,1665年から66年のペスト流行期に大学が閉鎖され,ウールスソープに疎開していたときに大きく進展したことがわかっている。有名なリンゴのエピソードがあるように,万有引力の法則の着想はこのウールスソープで得られたのであり,彼は地上の重力が月の軌道にまで及んでいると確信した。そして,その後の彼の研究によって,万有引力の法則と力学の3法則を使えば,地上の物体の運動だけではなく,潮の満干や惑星の運動すら説明できることが示された。この力学研究は87年の《プリンキピア》にまとめられたのであるが,この結果,以前には独立して取り扱われていた天上の世界と地上の世界が同一の法則によって支配されており,単一の世界を構成しているということが明らかになった。彼の二項定理の発見,流率法,つまり,今日の微積分法の発見も1665年にはすでになされており,彼の力学研究に大きく貢献した。
 彼は光学についても,66年にプリズム実験を行い,同じ屈折率の光には同じ色が属しているということを発見した。この発見は屈折望遠鏡の改良を彼に断念させ,反射望遠鏡の発明へと向かわせることになった。また,この発見をめぐってその後に生じたわずらわしい論争の中でも,ニュートンは光学の研究を続け,それらの成果が1704年に《光学》として発表されるのであるが,この書物には光や色についてだけではなく,彼の自然観も表明されている。つまり,ニュートンが光学研究を通じて意図していたのは,微視的な領域においても,巨視的な領域と同じような力学法則が支配しているということを示すことだったのである。このような意図は完全には成功しなかったとはいえ,彼の力学理論とともに,18世紀の科学者に受け入れられた。
 ところで,《プリンキピア》の巻末につけられた〈一般注〉や《光学》の最後に提出されている〈疑問〉からもうかがえるが,ニュートンは神学や錬金術にも強い関心をもっていた。実際,20世紀になって競売に付された彼の膨大な手稿や蔵書目録から,錬金術の実験,神学の研究,キリスト教的年代学の研究は余技ではなく,力学や光学に劣らないほど彼の学問の本質的部分を占めていたことがわかる。もちろん,これらの研究は彼の自然科学の研究と無関係ではなかった。彼は重力の原因を神の存在に求めようとしていたし,《光学》においては,自然哲学,つまり自然科学の主たる任務を〈仮説を捏造(ねつぞう)することなく,……結果から原因を導き出して〉,第1原因,つまり神に到達することだと明言していたのである。逆に,キリスト教によって示された歴史的事件を研究する年代学にも,彼の天文学的知識が駆使されていた。そして,このような歴史への興味は,それだけにとどまらず,自然界ばかりか歴史においても一定の秩序を見いだそうとする彼の努力を示しており,神の被造物である自然と神の預言の成就としての歴史のいずれにおいても同一の普遍的な統一性が存在するという確信の結果であった。このように,ニュートン手稿の再収集に努力した経済学者の J. M. ケインズの〈ニュートンは理性の時代の最初の人〉ではなく,〈最後の魔術師〉であったという発言もなるほどと思われる。いずれにせよ,今日の科学は近代的合理主義の所産であると考えられているが,その合理主義は宗教的情熱と無関係ではなかったということをニュートンは端的に示している。             田中 一郎

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ニュートン,I.
I プロローグ

ニュートン Isaac Newton 1642~1727 イギリスの数学者・物理学者・天文学者。科学のさまざまな分野に卓越した業績をのこした偉大な科学者。その発明、発見と理論は科学に画期的な進歩をもたらした。数学の分野では微積分法をドイツの数学者ライプニッツとは別に発見し、物理学の分野では光と色の光学の諸問題を解決し、運動の3法則をうちたて、万有引力の法則をみちびきだした。→ 重力:力学

ニュートンは、当時のユリウス暦で1642年12月25日(今日のグレゴリオ暦では1643年1月4日)、リンカンシャーのグランサムに近いウールスソープに生まれる。3歳のとき母親が再婚し、祖母にひきとられた。その後グランサムのグラマー・スクールに進学し、61年夏にケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジに入学した。

1665年に学士号をえるが、ペスト流行をさけて約1年半帰郷し、その後トリニティ・カレッジに特別研究員としてもどり、68年に修士号を取得。大学では従来のカリキュラムの大半を無視し、興味のある数学や自然科学の分野を研究した。ほとんど独力で当時の数学の最先端に達して二項定理を発見し、また自然を複雑な機械のように考える新しい自然哲学の展開を探究し、科学研究をささえる基本的な事柄をすぐに発見した。

II 流率法

最初の業績は数学分野のものだった。曲線の接線をもとめる問題を解くものとして、運動する点の座標の瞬間的変化、つまり流率という考えから流率法(微分法)を案出した。また、曲線でかこまれた面積をもとめる逆流率法(積分法)を発見し、1666年秋にこの2つをあわせて数学の新しい分野(微積分法)をひらく。微積分法の導入は、ギリシャ幾何学をこえる数学上の革新だった。

ニュートンは微積分法を発見したにもかかわらず、発表しようとはしなかった。いっぽう、ドイツのライプニッツは、1675年に別個にほぼ同じ方法に到達し、これを微分法と名づけて公表している。それゆえ、ニュートンが1704年に流率法についての詳細な論文を発表するまで、ライプニッツは発見者の名誉を独占していた。公表によって批評にさらされるのをきらったニュートンは、その発見を長く自分だけのものとしていた。しかし、ニュートンの豊かな才能をみぬいた彼の数学の師アイザック・バローは、1669年にみずからその職を辞し、ニュートンにケンブリッジ大学のルーカス数学教授職をゆずった。

III 光学

光学も、初期の主要研究テーマだった。ニュートンは望遠鏡の対物レンズを色の縞(しま)がでないように改良するため、非球面レンズやプリズムの研究をしていた。非球面レンズはできなかったが、対物レンズのかわりに反射鏡をつかい反射望遠鏡を発明した。1672年に彼はロンドンの王立協会にくみたてた反射望遠鏡をおくり、王立協会はニュートンを会員に選出した。

ニュートンは反射望遠鏡を発明する過程で、もうひとつ大きな成果をえている。彼がプリズムの実験をしているとき、白色光がプリズムにあたると多くの色の光に分散することを発見したのである。つまり、白色光がすべての色の混合であり、白色光はプリズムでことなる角度で屈折して各色の光に分離されることを明らかにした。この色と光に関する論文を同じく1672年に王立協会におくったが、これが協会の学術誌「哲学会報」に掲載されると、イギリスの物理学者ロバート・フックら多くの無理解による批判や批評がよせられて論議をよび、ニュートンの発表恐怖症はますます強まることとなった。以後、ケンブリッジでの孤独な研究生活にひきこもっていたが、1704年には「光学」を出版し、詳細にその光の理論を説明した。

IV プリンキピア

1684年の8月にイギリスの天文学者であり数学者のハリーがケンブリッジにひきこもっていたニュートンをたずね、2人は天体の運動について議論をかわした。学生時代に力学の研究をしていたニュートンは当時すでに万有引力について基本的な考察はしており、ハリーの来訪を機にこの問題にふたたびとりかかることにした。後世につたえられるリンゴの木の話は、故郷の農場でのこととされているが、真実かどうかは明確ではない。

その後2年半かけて、物体に力がはたらいて運動するときの3法則をうちたて近代力学の基礎をきずいた。さらに3法則とケプラーの法則とをくみあわせて、万有引力の法則をみちびきだしている。地上でも天上でもおよそありとあらゆる物体は引力(重力)の影響をうけていると説明し、それらの運動を統一した理論を樹立した。この理論はハリーに援助されて、1687年刊行の「自然哲学の数学的原理」(一般にはプリンキピアと略称される)に展開された。この書はまさしく科学史上に転換点をもたらすものとなり、ニュートンの名声を決定的にした。「プリンキピア」の著者は二度と孤高の生活にもどることができなかった。

「プリンキピア」が刊行された1687年、国王ジェームズ2世がケンブリッジ大学をカトリック化しようとしたことに対して、ニュートンは、これに反対する大学の委員として活躍した。翌88年の名誉革命によりジェームズ2世がイギリスから追放されると、大学代表の国会議員のひとりにえらばれた。つづく4年間、プリンキピアの成功にはげまされて精力的に著作活動をすすめ、初期の仕事をまとめていった。93年夏に強度のうつ状態におちいったが、やがて心身の健康を回復した。しかし、彼の創造的な時代は幕をとじることになった。

V 晩年期

政府高官など新体制勢力との交友によって造幣局監事に任命され、1696年にロンドンにうつり、99年造幣局長官となった。1717年には政府に1ギニー金貨を銀21シリングとすることを提言し採用される。イギリスが実質的な金本位制をとった始まりである。1703年には王立協会会長にえらばれ、以後、生涯その地位にあった。05年にはアン女王からナイトの称号をさずけられた。ニュートンは王立協会会長として、ハリーとともに初代王立グリニッジ天文台長フラムスティードに強くはたらきかけ、その観測記録を早急に出版させた。自分の月軌道理論を裏づけるためにその観測記録が必要だったからである。しかしながら、この強引な出版はフラムスティードが承認したものではなく、フラムスティードは4分の3を回収して処分したという。

また、このころにライプニッツとも微分法の発見をめぐって、いずれが先かではげしくあらそった。ニュートンは、ライプニッツが盗作したと主張したが、一般に今日ではライプニッツが独自に微分法を確立したとみとめられている。

ニュートンは数学、光学、力学のほか、錬金術、神秘学、神学にも深い興味をもっていたことがわかっている。これらの問題について、彼のノートや著作の膨大なページがさかれている。しかし、ニュートン研究家は、彼の科学上の業績とこれらの問題への知的かかわりとの間にどのような関係があるのかを解明してはいない。


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G.バークリー
バークリー

バークリー
Berkeley,George

[生] 1685.3.12. キルケニー
[没] 1753.1.14. オックスフォード

  

イギリスの哲学者,聖職者。 1700年ダブリンのトリニティ・カレッジに入り,07年以後同カレッジ研究員。『視覚新論』 Essays towards a New Theory of Vision (1709) や主著となった『人知原理論』A Treatise concerning the Principles of Human Knowledge (10) を著わした。 13年ロンドンに出て,J.スウィフト,A.ポープらと交わり,2度にわたってフランス,イタリアなどに遊学し,21年ダブリンに帰った。 29年植民者と北アメリカ先住民の教化のための大学をバミューダに設立すべく新大陸に渡ったが失敗して 31年帰国。 34年クロインの監督となり,著述と司牧に専念した。彼の思想は同時代には多くの賛同を得なかったが,死後にスコットランド学派 (→常識哲学 ) や D.ヒューム,J.S.ミルを経て 20世紀の経験論にまで大きな系譜を残している。





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バークリー 1685‐1753
George Berkeley

イギリスの哲学者。ロック,D. ヒュームらとともにイギリス経験論の伝統に連なる。アイルランドの生れで,一生アイルランドとの縁が深かったが,彼の家系はイングランドの名門貴族につながり,信仰の面でもきわめて敬虔な国教徒であった。ダブリンのトリニティ・カレッジで助祭に任命されて以来,聖職を離れたことがなく,30歳代には新大陸での布教を志し,バミューダ島に伝道者養成の大学を建設するため奔走した。政府の援助が続かず計画は挫折したが,1734年にはアイルランドのクロインの司教に任ぜられ,教区の住民に対する布教,救貧,医療に力を尽くした。哲学の著作としては20歳代半ばに発表した《視覚新論》(1709)と《人知原理論》(1710)がとくにすぐれている。しかしこの2著で展開された非物質論の哲学にしても,近代科学の〈物質〉信仰を無神論と不信仰の源とみなし,これに徹底的な批判を加えたもので,背後には護教者の精神が一貫して流れている。
 そのころバークリーが熱心に研究したのはマールブランシュとロックの哲学であるが,いずれに対しても自主独立の態度を持し,むしろふたりの学説を批判的に克服することで独自の立場を築いている。《視覚新論》では当時学界の論題であった視覚に関する光学的・心理学的な諸問題に独創的な解釈を施しつつ,非物質論の一部を提示している。彼によれば視覚の対象は触覚の対象とはまったく別個で,色や形の二次元的な広がりにすぎず,外的な事物と知覚者の間の距離は視覚によっては直接に知覚できない。対象のリアルな大きさ,形,配置なども同様である。われわれが視覚でこれらを知るのは,過去の経験を通じて両種の観念の間に習慣的連合(観念連合)が成立しているからで,デカルトやマールブランシュが説くように幾何学的・理性的な判断の働きによるのではない。全体として,数学的・自然科学的な概念構成の世界から日常的な知覚の経験に立ち返り,その次元で存在の意味を問いなおそう,というのがこの書の基本精神である。一方,《人知原理論》では,視覚対象は〈心の中〉に存在するにすぎないという前著の主張が知覚対象の全体に広げられ,〈存在するとは知覚されること(エッセ・エスト・ペルキピ esse est percipi)〉という命題が非物質論の根本原理として確立される。何ものも〈心の外〉には,すなわち知覚を離れては存在しないとすれば,もはや〈物質的実体〉の存在を認める余地はない,というのである。《人知原理論》は現象主義的な認識論の古典とみなされているが,バークリー自身の哲学は〈観念すなわち実在〉の主張で終わるものではなかった。むしろ観念とはまったく別個な,あらゆる観念の存在を支える〈精神的実体〉こそ真実在である,というところにその眼目がある。バークリーにとって,世界は究極的には神の知覚にほかならない。          黒田 亘

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バークリー,G.
バークリー George Berkeley 1685~1753 アイルランドの哲学者、牧師。近代観念論の創始者のひとり。物質は精神から独立に存在しえないと主張した。いっぽう、感覚現象は、人間の精神につねに知覚をよびおこす神の存在を前提とするとも考えた。

アイルランドのキルケニに生まれ、ダブリンのトリニティ・カレッジにまなび、1707年このカレッジの特別研究員となった。1710年、「人知原理論」を出版。その理論があまり理解されなかったために、その通俗版である「ハイラスとフィロナスの3つの対話」(1713)を出版したが、この両著作における彼の哲学的主張は、生前にはほとんど評価されなかった。しかし、24年デリー大聖堂首席牧師に任じられ、聖職者としてはますます有名になっていった。

1728年に渡米し、バミューダ島にアメリカのわかい植民者と先住民族の人々を教育するための大学を建設しようとした。この計画は32年に放棄されたが、バークリーはアメリカの高等教育の向上につとめ、エール、コロンビアその他の大学の発展に貢献した。34年、クロインの司教となり、引退するまでこの地位にとどまった。

バークリーの哲学は、懐疑主義と無神論に対する回答である。彼によれば、懐疑主義は経験ないし感覚が事物から切りはなされるときに生じる。そうなれば、観念を介して事物を知る方法はなくなるからである。この分離を克服するには、存在するとは知覚されることである、ということがみとめられねばならない。知覚されるものはすべて現実のものであり、知覚されるものだけが、その存在を知られうる。事物は観念として心の中に存在する。

しかし他方、バークリーは、事物は人間の心と知覚から独立に存在するとも主張する。というのも、われわれは自分がもつ観念を自由に変更することはできないからである。この矛盾を解決するために、彼は神のような無限に包括的な精神を要請し、この神の知覚があらゆる感覚的事実を構成すると考える。

バークリーの哲学体系は、物質的外界の認識の可能性をみとめない。彼の哲学体系そのものはほとんど後継者をもたなかったが、独立した外界と物質の概念を主張する根拠に対するその批判には説得力があり、その後の哲学者に影響をあたえた。上記以外の著書に、「視覚新論」(1709)、「サイリス」(1744)などがある。


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ヒューム
ヒューム

ヒューム
Hume,David

[生] 1711.5.7. エディンバラ
[没] 1776.8.25. エディンバラ

  

スコットランドの外交官,歴史家,哲学者,政治および経済思想家。エディンバラ大学に学んだ。 1734~37年フランスに滞在し,『人性論』A Treatise of Human Nature (1739~40) をまとめた。 44年エディンバラ大学,51年グラスゴー大学に職を求めたが,いずれも無神論の疑いでいれられなかった。 52年エディンバラ弁護士会図書館司書,63年駐フランス大使の秘書,67~69年国務次官をつとめたのち,エディンバラに引退した。哲学的には,ロック,バークリーと展開したイギリス経験論を徹底化し,因果法則をも習慣の所産であるとし,あらゆる形而上学的偏見の排除を試みた。主著『道徳の原理論』 An Enquiry Concerning the Principles of Morals (51) ,『人間悟性論』 An Enquiry Concerning Human Understanding (58) 。





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ヒューム 1711‐76
David Hume

18世紀のイギリスを代表するスコットランド出身の哲学者。その多面的な思考活動のうち,従来は,懐疑論に基づく独断的形而上学批判,宗教現象の実証的分析,社会契約説批判,歴史主義的思考態度などの側面がとくに注目されてきたが,最近では,むしろ A. スミスやスコットランド啓蒙思想(スコットランド学派)との関連を重視する立場から,近代〈市民社会〉の存立メカニズムを経験科学的に解明した思想家として評価しようとする傾向が有力になっている。
 ヒュームはスコットランド南東部ベリクシャーのナインウェルズに生まれた。父親はジェントリー階層に属する弁護士であり,母方の祖父もスコットランド高等法院長の重責をになう法曹であった。1723年からほぼ2年間,エジンバラ大学で古典とともにロックやニュートンの〈新しい学問〉を学ぶ。18歳ころ,おそらく神の存在を因果律によって論証する伝統的立場への深刻な疑問を媒介として〈思想の新情景〉を経験し,以後ヒュームは,ニュートンの自然学とロックの認識論とを主たる導きの糸としながら〈真理への一つの新しい手段〉の探究に着手することになる。その最初の成果が,34年から37年まで滞在したフランスで執筆され,39年と40年とにロンドンで出版された《人間本性論》であった。その後精力的な執筆活動を続け,41年から62年までに,《人間本性論摘要》《道徳・政治論集》《人間知性研究》《政治論叢》《イギリス史》や,〈宗教の自然史〉を含む《小論文四篇》などを次々と刊行,思想家としての地位を不動のものとする。しかしその間,伝統神学に否定的な宗教思想のゆえに,エジンバラ,グラスゴーの両大学から教授就任を拒否され,職業的学者になる機会を失う。46年から48年にかけてセント・クレア(シンクレア)将軍の大陸遠征に随行。52年エジンバラ法曹会図書館司書,63年駐仏大使ハートフォード縁秘書,65年には代理大使を務める。66年ルソーを伴って帰国し保護に努めるが,ルソーから誹謗の張本人と誤解され確執に悩む。67年国務次官の職に就いた後,69年以降はエジンバラに定住,指導的文筆家として満ち足りた晩年を送る。宗教思想上の主著《自然宗教をめぐる対話》が刊行され,ヒュームの思想の全貌が明らかになったのは,死後3年を経た79年のことであった。
 こうした経歴の中で形成されたヒュームの思想は多様な主題を扱っており,統一的な理解は必ずしも容易ではない。しかしヒュームが全体として何を意図したかに注目する限り,彼の思想に一貫する関心は比較的明瞭である。人間が営む日常的な経験世界の〈観察〉を通して確実な〈人間性の原理〉を解明し,その〈人間の学〉の上に〈諸学問の完全な体系〉を確立しようとの意図がそれであって,処女作《人間本性論》で宣言されたこの立場こそ,ヒュームの全思考活動を貫く方法であり目的であった。標語〈人間的事象 moral subjects に実験的推論方法 experimental method ofreasoning を導入する試み〉とともに有名なこうした意図との関連において,ヒュームの思想は包括性,実証性,歴史性の三つの大きな特質をもつことになる。
 上にみたように,ヒュームの思想の対象は,所与としての人間が営む経験的世界であった。したがってその思想は,この経験世界を構成する多様な人間的事実,端的に,知性,情念,道徳感情をもち,政治,宗教,学芸を営む全人間的事象を覆う包括性を帯びざるをえない。その意味で,ヒュームの思想の包括性は人間的事象の多様性に対応するものであった。しかも,ヒュームの場合,そうした全人間的事象からの帰納によって導かれる〈人間性の原理〉や〈諸学問の体系〉は,いっさいの抽象的独断や先験的実体化を拒否する実証性をもつことになる。〈経験と観察〉を重視するヒュームにとって,それらの知識は,原理上経験の範囲を超えることはできず,したがってまた経験的事実による検証に耐えうるものでなければならなかったからである。
 ヒュームの思想を貫くそうした実証性は,例えば,彼の懐疑論が経験的事実としての人間の可呈性の認識論的反省として成り立ち,それによって,常識的な経験知への信頼の上に習慣的な観念の連合に高い蓋然性を与える視点が導かれ,人間本性に付随する道徳感情に即して道徳の事実学が展開された点からうかがうことができるであろう。しかも,こうした実証性の系として,ヒュームの思想は豊かな歴史性をもつことになる。彼の思想の対象が時間的に限定された所与としての経験世界であった限り,それはまた,人類の多様な経験がいわば重層的に蓄積された歴史世界以外の何物でもなかったからである。ヒュームにおいて,国家の歴史的起源が共通利害の一般的な感情の事実性に求められ,多神教から一神教へと発展した宗教の〈自然史〉が解明され,歴史の動態の中で国家から自立した〈社会 civilsociety〉の運動法則が私的利害を公共善へと媒介する〈共感〉の作用に見いだされている事実は,ヒュームの思想がいかに強く歴史性に貫かれているかを示すものにほかならない。しかも,こうした実証的な歴史的性格のゆえに,ヒュームの思想は,イギリス経験論をロック的な内観の哲学から経験科学の基礎学へと大きく転回させることになった。ヒュームの関心は人間が営む多様な経験的現実の存立構造に向けられていたからであって,〈在るところのもの〉の了解の哲学として一見保守的なヒュームの思想の積極的意義はまさにそこに求められるであろう。ヒュームと A. スミスとの関係が問われるゆえんにほかならない。
                         加藤 節

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ヒューム,D.
I プロローグ

ヒューム David Hume 1711~76 懐疑主義と経験主義の発展に貢献した哲学者。スコットランドに生まれ、12歳でエディンバラ大学に入学した。病弱で、しばらく商業に従事したのち、フランスにわたった。

II 生涯と著作

ヒュームはフランスで、1734~37年にかけて思弁哲学の問題に没頭し、その原稿をイギリスにもちかえり、もっとも重要な著作である「人性論」(1739~40)を出版した。しかし、この著作は不評で、彼の言い方によれば、「死産」であった。

ヒュームは「人性論」出版のあと、倫理学と政治経済学の問題に注意をむけ、「道徳・政治論集」(全2巻。1741~42)を刊行し、好評をえた。信仰に懐疑的との理由で、エディンバラ大学の教授就任を拒否されたのち、アナンデイル侯爵の家庭教師となった。1746年、イギリス軍のブルターニュ遠征に法務官として従軍。48年、「人間知性の探求」を発表した。

1 ルソーとの交友と絶交

1751年、エディンバラに居をさだめる。52年、「道徳原理研究」を発表。大学教授の就任にふたたび失敗し、エディンバラ法曹会図書館の司書となる。54~62年にかけて「イギリス史」を刊行。62~65年パリのイギリス大使館秘書をつとめ、同地の文学サークルで歓迎され、ルソーと知りあう。

迫害の脅威にさらされていたルソーをイギリスにつれかえるが、ルソーから迫害計画の張本人と誤解され、絶交する。1767~68年ロンドンで国務次官をつとめたのち、エディンバラに隠棲(いんせい)し、この地で没した。79年、「自然宗教をめぐる対話」が死後出版される。

III 思想的特徴

ヒュームの哲学思想は、イギリスの哲学者ロックとバークリーの影響をうけている。ヒュームもバークリーも、理性と感覚を区別する。しかし、ヒュームは、理性と理性的判断はさまざまな感覚や経験のたんなる習慣的な連合にすぎないという大胆な見解を提出する。

1 形而上学と認識論

ヒュームは因果律という基本的な観念を否定して、こう主張する。「理性は対象相互間の連関をしめすことができない。したがって、ある対象の観念ないし印象から別の対象のそれに心がうつる場合、この移行は理性によってではなく、これらの対象の観念を連合し、想像力において統一するある原理によって規定されている」。ヒュームによる因果律の否定は、科学的法則の否定をふくんでいる。科学的法則は、ある事象は別の事象を必然的にひきおこすという一般的な前提にもとづいているからである。こうしてヒュームは、事実の認識は不可能であることを説く。

とはいえ、実際問題としては人は原因と結果によってものを考えざるをえず、自分の知覚の妥当性を前提とせざるをえないことは、ヒュームもみとめる。そうでなければ、人は気がくるってしまうだろう。

ヒュームの懐疑主義は、バークリーが要請するような精神的実体も、ロックの「物質的実体」も否定する。それどころか、彼は個人の自己の存在までも否定する。人は独自な存在としての自分についての知覚をつねにもつわけではなく、自我とは「知覚の束」にすぎない。

2 倫理学と経済史的思想

ヒュームは、善と悪の概念は合理的なものではなく、自分の幸福への関心から生まれると主張する。彼の見解によれば、最高の道徳的善は博愛、つまり利他的な社会福祉の尊重である。

歴史家としてのヒュームは、戦争と国事の年代記的報告という伝統的な歴史記述をやめて、イギリス史においてはたらく経済的知的要因を記述しようとした。「イギリス史」は長く古典とされた。

ヒュームは、富は貨幣ではなく商品にもとづくという思想を展開して、経済に対する社会情勢の影響をみとめ、その経済理論によってアダム・スミスとその後の経済学者に影響をあたえた。


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エッセ・エスト・ベルキビ
エッセ・エスト・ペルキピ

エッセ・エスト・ペルキピ
Esse est percipi

  

「あるとは知覚されることである」とするバークリーの主観的観念論の立場を表わす命題。すなわち彼は,感覚的性質をになうものとして考えられた物質的実体なるものは不可知で,無意味であるとして,個々の物体はわれわれの精神のなかにある感覚,表象の結合と考えた。この命題がカントにより不可知論と批判されたことは有名。





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主観的観念論
主観的観念論

しゅかんてきかんねんろん
subjektiver Idealismus

  

個人の意識作用を離れてはなにものも独立には存在しないとする観念論の一つの立場。 F.シェリングが自己の観念論を I.フィヒテのそれから区別するため,後者の観念論を主観的,自身のそれを客観的観念論と呼んだ。ヘーゲルは自己の観念論を両者の総合であるとして絶対的観念論と呼んだ。





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F.シェリング
シェリング

シェリング
Schelling,Friedrich Wilhelm Joseph von

[生] 1775.1.27. ウュルテンベルク,レオンベルク
[没] 1854.8.20. ラーガツ

  

ドイツの哲学者。ドイツ観念論の系譜のなかで,フィヒテの知識学から出発し,そこでは排除されるべきものとして考えられていた自然をも,精神と同一の原理において把握するために独自の自然哲学を立て,のちに同一哲学として体系化した。特に芸術を哲学のオルガノンないし証書としてこれに高い位置を与えたことなどから,当時のロマン主義者たちから大きな共感を得,その哲学的代弁者と考えられた。その後ヘーゲル哲学が主流を占めるようになってからは,みずからの同一哲学をもヘーゲルの絶対的な弁証法と同じく,絶対者として神そのものにいたりえない消極哲学にすぎないとして,積極哲学を説いたが,世に受入れられず不遇のうちにこの世を去った。主著『先験的観念論の体系』 System des transzendentalen Idealismus (1800) ,『人間的自由の本質についての哲学的考察』 Philosophische Untersuchungen ber das Wesen der menschlichen Freiheit (09) 。





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シェリング,F.W.J.von
シェリング Friedrich Wilhelm Joseph von Schelling 1775~1854 ドイツの哲学者。ドイツ観念論およびドイツ・ロマン主義の指導的人物のひとり(→ ロマン主義の「ドイツ」)。ビュルテンベルク州レオンブルクに生まれ、ヘーゲル、ヘルダーリンとともにチュービンゲン大学(→ チュービンゲン)にまなぶ。1798年にイエナ大学講師となる。イエナ時代、ヘーゲルと親交をむすんだが、ヘーゲルが「精神現象学」でシェリングを暗に批判したために、両者の関係は疎遠になった。1803年ビュルツブルク大学教授、20~26年エルランゲン大学教授をつとめ、41年にはヘーゲル学派に対抗してふたたびベルリン大学の教壇にたった。54年、スイスのラガツにて死去した。

シェリングは哲学的立場をめまぐるしくかえた。はじめカントとフィヒテの影響のもとに自我哲学を展開したが、やがて主観と客観の同一性を原理とする同一哲学を主張。同一哲学は汎神論的性格をもち、神を宇宙の力や法則と同一視する。しかし、後期になると、汎神論や、ものの本質だけしか問題にしないヘーゲルの論理学などを消極哲学として否定し、その現実存在をもとらえうるような積極哲学を主張した。彼の後期の哲学は、実存主義の先駆となっている。

主著には、「超越論的観念論の体系」(1800)、「わが哲学体系の叙述」(1801)、「人間的自由の本質」(1809)などがある。


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絶対的観念論
絶対的観念論

ぜったいてきかんねんろん
absoluter Idealismus; absolute idealism

  

ヘーゲルが自己の哲学的立場を言い表わした言葉。彼によれば世界は絶対者の自己展開であり,カントの哲学は主観に依存する点において主観的観念論であるとし,これと区別した。またヘーゲルはフィヒテの哲学的観念論,シェリングの哲学を客観的観念論といい,自己の哲学を絶対的観念論として区別したが,この場合,絶対的観念論はフィヒテとシェリングの哲学との対立を絶対的主体としての精神によって解決したのであって,いわゆるドイツ観念論哲学の完成を意味している。 (→世界精神 , 精神現象学 )  





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不可知論
不可知論

ふかちろん

  

(1) agnosticism 超経験的なものの存在や本質は認識不可能であるとする哲学上の立場。認識の可能領域は現象界に限られ,超越的なものは類比的認識すらも不可能であるが,神や死などの究極的問題について判断を中止することはかえってそれらの存在を認めることになり,信仰に根拠を与えると主張するのは I.カントで,認識可能領域を明示する点で懐疑論と異なる。この認識の限界づけの思想はあらゆる実証主義や現象論の根底にある考え方で,A.コント,H.スペンサー,W.ハミルトンなどはその系列にあり,論理実証主義はその最も極端な例とみることもできる。 (2) ajnavda インドでは六師外道の一人サンジャヤが唱えた。彼は,来世が存在するか,善・悪業の果報は存在するかというような形而上学的な問題に関して,ことさら曖昧な返答をして確定的な返答を与えなかった。ここに形而上学的問題に関する判断中止の思想が初めて表明された。原始仏教における無記の思想の起源とみられる。





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不可知論
ふかちろん agnosticism

一般に,事物の究極の実在,絶対者,無限者,神は知られえぬと説く立場を指す。原語の中の〈知られえぬ agnostic〉という言葉は,T. H. ハクスリーが1869年,《使徒行伝》でパウロの伝えるアテナイの〈知られえぬ神に agnヾstヾ theヾ〉と刻まれた祭壇に言及しつつ自己の立場を語った講演が起源である。訳語は明治40年代からのものである。ハクスリー以外では,人間の認識を有限なものの経験に制限し,無限で絶対的な神については学的な認識はありえず,ただ信仰による道徳的確信をもちうるのみと説く W. ハミルトン,進化の法則で現象界を説明し認識しうるが,相対的な現象,事実の認識は科学的には思考されえぬ実在ないし力,すなわち〈知られえざるもの theUnknowable〉を前提するとし,現象や事実をその〈表明〉とみなす H. スペンサーなどが不可知論者に属する。すなわち不可知論は,絶対者,無限者は知られえない(知られうるのは有限者,相対者のみである)とするか,理論的・対象的には知られえない絶対的なものが,理論的認識,科学以外の人間の態度にとっては存在すると説くか,二つの型に分かれるのである。         茅野 良男
 インドでは古くから,一般に事実はことばによっては表現されえない,つまり概念的思考によっては把捉されえないという考えが支配的であった。したがって,インドの神秘主義者のほとんどは同時に不可知論者でもあった。例えばウパニシャッドの哲人ヤージュニャバルキヤは,アートマンは〈そうでない,そうでない〉としかいいようのないものであるとし,大乗仏教の中観派の論者ナーガールジュナ(竜樹)は,世界は不生不滅,不一不異,つまり空であり固定的言語表現による真如の把握は不可能とした。また,宗教実践上の観点から,さまざまな世界のものごとについての判断は無用である,ないしそのような判断を停止したほうが心の平安が得られるとする考えも有力であった。例えば,〈鰻のようにぬらぬらとしてとらえがたい議論〉を用いたサンジャヤ・ベーラッティプッタ,来世の存在などの形而上学的な問題に答えなかった釈梼などはそうした考えの持主であった。
                        宮元 啓一

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不可知論
不可知論 ふかちろん Agnosticism 神や霊的実在の存在について、確証がないために肯定も否定もしないとする説。英語のagnosticismはギリシャ語の「わからない」agnostikosからきているが、これを英語に導入したのは19世紀イギリスの生物学者T.H.ハクスリーである。不可知論的態度は、神や霊的実在が存在することを確信する有神論とも、そのような存在を否定する無神論ともことなる。

通常は懐疑主義の一形態とみなされるが、不可知論はもっと範囲がかぎられている。不可知論が否定するものは、信仰すべてではなく、形而上(けいじじょう)学的・神学的信仰の確実性のみだからである。近代不可知論の基礎はイギリスの哲学者ヒュームとドイツの哲学者カントの著作にうかがえる。両者はともに、神と霊魂の存在に関する伝統的な議論には論理的な誤謬(ごびゅう)があると指摘した。


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A.コント
コント

コント
Comte,(Isidore-) Auguste (-Marie-Franois-Xavier)

[生] 1798.1.19. モンペリエ
[没] 1857.9.5. パリ

フランス実証派哲学者で社会学の創始者。数学者でもある。 1814年からパリのエコール・ポリテクニクで学び,16年からパリで数学教師。 32年にエコール・ポリテクニクの演習指導員となったが,42年に学校当局と衝突してやめ,その後は J.S.ミルやフランスの後援者に助けられながら研究生活をおくった。コントは社会史を人間の知識の発展史とし,神学的,形而上学的および実証的な「三段階の法則」 la loi des trois tatsを主張した。そして,当時最も遅れていた社会学をその最後の段階とした実証的段階に引上げることを自己の課題とした。彼の社会学は社会静学と社会動学に区分され,前者で社会構造を後者で社会変動を取扱っている (→社会静学・社会動学 ) 。主著『実証哲学講義』 Cours de philosophie positive (6巻,1830~42) ,『実証政治学体系』 Systme de politique positive (4巻,51~54) 。





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コント,A.
コント Auguste Comte 1798~1857 フランスの実証主義哲学者で、社会学の創始者。

コントは1798年1月19日、モンペリエに生まれた。はやくから生家のカトリック信仰をすてて、自由主義的な革命思想をもつようになった。1814年、パリの理工科学校に入学するが、2年後に学生ストライキの首謀者として退学させられる。その後、パリで有名な社会主義者サン・シモンの秘書を数年間つとめた。コントの著作にはその影響がかなり反映されている。コントは精神の病におかされながら、自宅で講義をつづけ、大著をのこした。57年9月5日、パリで死去した。

当時の科学、社会、産業の革命に対応して、コントは社会秩序を知的、道徳的、政治的に再組織化しようとこころみた。そして、そのためには科学的態度が重要になると考えた。

彼は、歴史的過程とくに相関する諸科学を観察と経験にもとづいて研究することによって、人類の進歩を支配する「三段階の法則」が明らかになると論じている。この3段階は彼の主著「実証哲学講義」(6巻。1830~42)で綿密に検討される。人間の本性にしたがって、どの科学も、つまり知識のどの部門も「ことなった3つの段階、すなわち神学的あるいは空想的段階、形而上学的あるいは抽象的段階、そして最後に科学的あるいは実証的段階」を経由する。

神学的段階では、出来事は幼稚な神学的方法で説明される。形而上学的段階では、哲学の抽象概念によって現象が説き明かされる。科学的段階になると、原因の完全な究明は放棄される。各現象のかかわり方にだけ注目すれば、観察は法則化されるからである(→ 科学的方法)。

この3段階を経由する科学を、コントは6つの基礎科学に分類している。それは、下から順に、数学・天文学・物理学・化学・生物学・社会学という配列で、対象が抽象的である学ほど下位におかれる。抽象的な対象をあつかえば精密に論じやすいが、対象が具体的であるほどそれは困難になる。したがって、もっとも最後に確実性に達する社会学が上位におかれる。コントの思想は、経験科学を唯一のよりどころとした古典的な実証主義であった。

この3段階は政治の発展にも対応している。神学的段階には王権神授説が対応する。形而上学的段階には、社会契約、人類の平等、主権在民などの思想が対応する。実証主義的段階は、政治体制への科学的、「社会学的」(コントによる造語)アプローチを必要とする。民主主義にはかなり批判的だったコントがいだいていた構想は、科学エリートが科学的方法をもちいて人間的問題を解決し、社会を改善して安定した社会をつくる、というものだった。

コントは信仰をすてたにもかかわらず、社会安定に役だつという意味で宗教の価値をみとめていた。「実証政治体系」(4巻。1851~54)の中で、社会にとって有益な行いをひろめるために「人類教」を提案している。しかし、ここにコントの本領はみられない。実証主義の歴史的発展において彼がはたした役割こそ、重要だったのである。


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H.スペンサー
スペンサー

スペンサー
Spencer,Herbert

[生] 1820.4.27. ダービー
[没] 1903.12.8. ブライトン

  

イギリスの哲学者。学校教育のあり方に疑問を感じ,大学に入らず,独学であった。ダービーの学校教師を3ヵ月つとめたのち,1837~41年鉄道技師となる。その後,『パイロット』紙の記者を経て,48年経済誌『エコノミスト』の編集次長となったが,53年伯父の遺産を相続したため退職し,以後,著述生活に入った。終生独身で,大学の教壇に立たず,民間の学者として終った。進化論の立場に立ち,10巻から成る大著『総合哲学』 The Synthetic Philosophy (1862~96) で,広範な知識体系としての哲学を構想した。哲学的には,不可知論の立場に立ち,かつ哲学と科学と宗教とを融合しようとした。社会学的には,すでに『社会静学』 Social Statics (51) を著わしたが,社会有機体説を提唱した。日本では,彼の思想は外山正一らの学者と板垣退助らの自由民権運動の活動家に受入れられ,『社会静学』は尾崎行雄により『権理提綱』 (72,改訂 82) として抄訳され,また松島剛 (たけし) により『社会平権論』 (81) として訳されたほか,多数の訳書がある。ほかに『教育論』 Education (61) ,『社会学研究』 The Study of Sociology (73) ,『自叙伝』 An Autobiography (1904) 。





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スペンサー,H.
スペンサー Herbert Spencer 1820~1903 イギリスの社会哲学者。社会学の創始者のひとりにかぞえられることが多い。ダービーに生まれ、学校教育をうけることなく、独学で多数の著作をのこした。ラマルクの影響をうけた独自の進化論にもとづき、科学の分化した知識を包括し統合する総合哲学の体系を構想した。

スペンサーの社会学は、進化の法則を社会発展にあてはめたもので(→ 社会ダーウィニズム)、小規模の部族社会から国民社会への変化を、統合化と分化のダイナミズムによって説明している。人為的な規制を脱するところに進歩があるとする彼の自由放任主義的な考え方は、アメリカをはじめ、明治初年の日本にも受けいれられ、自由民権運動に思想的な根拠をもたらした。著書には、「社会学原理」3巻をふくむ「総合哲学体系」全10巻(1862~1896)がある。


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六師外道
六師外道

ろくしげどう

  

ゴータマ・ブッダ在世当時に活躍した,6人の代表的なインドの自由思想家たち。王権が伸張して旧来のバラモンの威信が次第に衰え,また貨幣経済が発展し,物質的生活が豊かになっていった時代を背景に現れた思想家たちであるが,彼らを総称して,「つとめる人」 sramaa (→沙門 ) と称する。これらのなかで「六師」と呼ばれる思想家たちは,道徳否定論を説いたプーラナ・カッサパ,7種の要素をもって人間の個体の成立を説いたパクダ・カッチャーヤナ,輪廻の生存は無因無縁であるとし決定論を説いたマッカリ・ゴーサーラ,唯物論を主張したアジタ・ケーサカンバラ,不可知論を唱えたサンジャヤ・ベーラッティプッタ,ジャイナ教の祖師であるニガンタ・ナータプッタ (→マハービーラ ) である。それぞれの主張のうち,共通するものは,祭祀,供犠を否定して,反バラモン的態度を明らかにした点にあり,それらはインド思想史における変革期をもたらした。





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サンジャヤ
サンジャヤ

サンジャヤ
Sajaya Belatthipua

生没年未詳

  

前6~5世紀頃のインドの思想家。インドで都市が出現し非正統的な一般自由思想が勢力を得た時代に活躍した。仏教の釈尊 (ゴータマ・ブッダ) とほぼ同世代の人。一種の不可知論者で,形而上学的問題に関する判断中止の思想を初めて明らかにしたといわれる。釈尊の二大弟子であるサーリプッタ (舎利弗) とモッガラーナ (木 連) とはもとサンジャヤの弟子であった。原始仏教の思想は,この懐疑論を乗越えたところに現れたものである。





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認識批判
認識批判

にんしきひはん
critique of knowledge; Erkenntniskritik

  

一般には人間の認識や認識能力に対する学問的考察,吟味をいうが,歴史的には特に 18世紀のヨーロッパ哲学における形而上学の可能性をめぐる認識能力の起源,本質,限界などに対する一連の考察をさし,その代表者は J.ロックおよび I.カントといわれる。前者が認識はどのように成立しているかを事実的に問おうとしたのに対し,後者は認識がどのように成立するかを権利的に問うた。これは当時の社会の精神的基盤であった神についての理性的認識の根本を問うものとして重大な影響を及ぼし,したがって哲学とは認識批判を根底においた認識論であるとの観さえ呈し,この傾向は 20世紀初めまで持越された。
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J.ロック
I.カント
カント

カント
Kant,Immanuel

[生] 1724.4.22. ケーニヒスベルク
[没] 1804.2.12.

  

ドイツの哲学者。近世哲学を代表する最も重要な哲学者の一人であり,またフィヒテ,シェリング,ヘーゲルと展開した,いわゆるドイツ観念論の起点となった哲学者。批判的 (形式的) 観念論,先験的観念論の創始者。 1740~46年生地の大学で神学,哲学を学んだ。卒業後,家庭教師を長い間つとめ,55年ケーニヒスベルク大学私講師。その後,エルランゲン,イェナ各大学から招かれたが固辞し,70年ケーニヒスベルク大学の論理学,形而上学教授となった。 96年老齢のため引退。主著『純粋理性批判』 Kritik der reinen Vernunft (1781) ,『実践理性批判』 Kritik der praktischen Vernunft (88) ,『判断力批判』 Kritik der Urteilskraft (90) 。





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カント 1724‐1804
Immanuel Kant

ドイツの哲学者。西欧近世の代表的哲学者の一人。東プロイセンの首都ケーニヒスベルク(現,ロシア領カリーニングラード)に馬具商の長男として生まれ,幼児期に敬虔主義の信仰篤(あつ)い母から大きな影響を受ける。当地のフリードリヒ学舎を経てケーニヒスベルク大学に学び,当時ドイツの大学を支配していたライプニッツ=ウォルフの哲学に触れるとともに,師 M. クヌッツェンの導きのもとに,とりわけニュートン物理学に興味を寄せる。大学卒業後ほぼ10年間家庭教師をつとめながら研究を深め,1755年《天界の一般自然誌と理論――ニュートン物理学の原則に従って論じられた全宇宙の構造と力学的起源についての試論》を発表,ニュートン物理学を宇宙発生論にまで拡張適用し,のちに〈カント=ラプラスの星雲説〉として知られることになる考えを述べる。同年,ケーニヒスベルク大学私講師となり,論理学,形而上学はじめ広い範囲にわたる科目を講ずる。60年代に入り,ヒュームの形而上学批判に大きな衝撃を受け,またルソーにより人間性尊重の考えに目覚める。70年ケーニヒスベルク大学教授となる。就職資格論文《可感界と可想界の形式と原理》には,空間,時間を感性の形式と見る《純粋理性批判》に通じる考えが見られる。81年,10年の沈黙ののちに主著《純粋理性批判》刊行。さらに,88年の《実践理性批判》,90年の《判断力批判》と三つの批判書が出そろい,いわゆる〈批判哲学〉の体系が完結を見る。ほかに主要著作として,《プロレゴメナ》(1783),《人倫の形而上学の基礎》(1785),《自然科学の形而上学的原理》(1786),《たんなる理性の限界内における宗教》(1793),《人倫の形而上学》(1797)などがある。
[カント哲学の基本的性格]  〈世界市民的な意味における哲学の領域は,次のような問いに総括することができる。(1)私は何を知りうるか。(2)私は何をなすべきか。(3)私は何を希望してよいか。(4)人間とは何か。第1の問いには形而上学が,第2のものには道徳が,第3のものには宗教が,第4のものには人間学が,それぞれ答える。根底において,これらすべては,人間学に数えられることができるだろう。なぜなら,はじめの三つの問いは,最後の問いに関連をもつからである〉。カントは,《論理学》(1800)の序論でこのようにいう。彼の考える哲学は,本来〈世界市民的〉な見地からするもの,すなわちいいかえれば,従来の教会のための哲学や学校のための哲学,あるいは国家のための哲学といった枠から解放されて,独立の自由な人格をもった人間としての人間のための哲学でなければならなかった。カントは,そのような哲学を打ちたてるために三つの批判書を中心とした彼の著作で,人間理性の限界を精査し,またその全射程を見定めることに努めたのである。
 〈私は何を知りうるか〉という第1の問いに対して,カントは,《純粋理性批判》で,人間理性によるア・プリオリな認識の典型と彼の考える純粋数学(算術・幾何)と純粋自然科学(主としてニュートン物理学)の成立可能性の根拠を正確に見定めることによって答える。すなわち,これらの学は,ア・プリオリな直観形式としての空間・時間とア・プリオリな思考形式としてのカテゴリーすなわち純粋悟性概念の協働によって確実な学的認識たりえているのであり,霊魂の不滅,人格の自由,神などの感性的制約を超えた対象にかかわる形而上学は,これらの学と同等な資格をもつ確実な理論的学としては成立しえないというのが,ここでの答えであった。
 〈私は何をなすべきか〉という第2の問いに,カントは,《実践理性批判》で,感性的欲求にとらわれぬ純粋な義務の命令としての道徳法則の存在を指示することによって答える。道徳法則の事実は,理論理性がその可能性を指示する以上のことをなしえなかった〈自由〉な人格の存在を告げ知らせ,感性的制約を超えた自律的人格とその不可視の共同体へと人々の目をひらかせるとされるのである。こうして,道徳法則の事実によってひらかれた超感性的世界への視角は,さらに第3の問い〈私は何を希望してよいか〉に対しても答えることを可能にする。すなわち,ひとは,理論的な認識によって決定不可能な霊魂の不死,神の存在といったことどもを,自由な人格による行為が有意味であるために不可欠の〈実践理性の要請〉として立てることが可能になる,とカントは考えるのである。
 カントは,このようにして,ニュートン物理学に代表される近世の数学的自然科学の学としての存立の根拠を明らかならしめ,ヒュームによる形而上学的認識への懐疑からも多くを学びながらそれにしかるべきところを得せしめ,さらに,ルソーによる自由な人格をもつ自律的人間の形づくる共同体の理想をいわば内面的に掘り下げ,西欧形而上学のよき伝統と媒介せしめる。ここに,人間の知のすべての領野を,近世の自由で自律的な人間理性の上にあらためて基礎づけるという作業が,人間としての人間とその環境世界の具体的日常的あり方へのカントの生き生きとした関心に支えられて,ひとまずの完成をみる。カントの哲学が,その後フィヒテからヘーゲルにいたるいわゆるドイツ観念論からさらには現代哲学のさまざまな立場の展開にかけて,たえず大きな影響を及ぼしつづけて今日にいたり,日本においても,とりわけ明治後期から大正時代における新カント学派の移入このかた,大きな影響を及ぼしているのは,以上のような彼の哲学の性格のゆえと考えられる。                       坂部 恵

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カント,I.
I プロローグ

カント Immanuel Kant 1724~1804 ドイツ啓蒙期の哲学者。ケーニヒスベルク(現ロシアのカリーニングラード)に生まれ、終生この地にとどまった。9年余りの家庭教師生活ののち、1755年にケーニヒスベルク大学の私講師、70年に同大学の論理学および形而上学正教授となる。81年、「純粋理性批判」によって、合理主義と経験主義を総合した超越論主義を主張。つづいて、88年「実践理性批判」、90年「判断力批判」を発表し、みずからの批判哲学を完成した。

II 純粋理性批判

カントの批判哲学の根幹をなすのは「純粋理性批判」であり、その目標は人間の認識能力をみきわめることにあった。その結果明らかにされたのは、人間の認識能力は、世界の事物をただ受動的にうつしとるだけではなく、むしろ世界に能動的にはたらきかけて、その認識の対象をみずからつくりあげるということである。

つくるとはいっても、神のように世界を無からつくりあげるわけではない。世界はなんらかのかたちですでにそこにあり、認識が成立するには、感覚をとおしてえられるこの世界からの情報が材料として必要である。しかし、この情報はそのままでは無秩序な混乱したものでしかない。人間の認識能力は、自分に本来そなわる一定の形式をとおして、この混乱した感覚の情報に整然とした秩序をあたえ、それによってはじめて統一した認識の対象をまとめあげるのでなければならない。

カントによれば、人間にそなわるその形式とは、直観の形式(空間と時間)と思考の形式(たとえば、単一か多数かといった分量の概念や、因果性のような関係の概念など)である。そうだとすれば、「すべての物は時間と空間のうちにある」とか「すべては因果関係にしたがう」という命題は経験的には証明できないにもかかわらず、すべての経験の対象に無条件にあてはまることになる。というのも、空間や時間や、因果関係といった形式によってはじめてその対象が構成されるからである。それはたとえば、すべての人間が緑のサングラスをかけて世界をみた場合、「世界は緑である」という発言がすべての人間にとって正しい発言とみなされるのに似ている。

この理論によって、カントは近代自然科学の世界観を基礎づけることに成功する。しかしその代わりに、人間が知りうるのはこうした形式をとおしてみられた世界、つまり現象の世界だけであり、世界そのもの、つまり物自体の世界は不可知だということになる。また、これらの形式は、経験される現象世界についての判断にもちいられるものであるから、その範囲をこえて「自由」や「存在」といった抽象概念に適用することはできない。無理に適用すると、たがいに対立する主張が同時に真だと証明されてしまうこまった事態が生じるとカントはいい、この事態をアンチノミー(二律背反)とよんだ。

III 倫理学と美学

カントは理論理性につづいて、「実践理性批判」で実践理性を分析し、「人倫の形而上学」(1797)においてみずからの倫理学体系を確立する。彼の倫理学は、理性こそが道徳の最終的な権威だという信念にもとづいている。どのような行為も、理性によって命じられた義務の意識をもっておこなわれなければならない。理性による命令には2種類がある。「幸福になりたければこのように行為すべし」というふうに、ある目的のための手段として行為を命じる仮言的命令と、無条件に「このように行為すべし」というふうに、人間一般につねにあてはまる定言的命令である。カントによれば、定言的命令こそが道徳の基礎である。カントは、さらに「判断力批判」において、美学と有機的自然(物理的、無機的自然とはちがう生物の世界)をあつかい、彼の批判哲学を完成することになる。

IV その他の著作

カントの著書には上にあげたほかに、批判哲学以前のものとして、「天界の一般自然史と理論」(1755)などがあり、批判哲学以後のものとして、「プロレゴメナ」(1783)、「自然科学の形而上学的原理」(1786)、「たんなる理性の限界内における宗教」(1793)、「永久平和のために」(1795)などがある。

V カント哲学の影響

カントはもっとも影響力の大きかった近代思想家である。彼の弟子であるフィヒテ、それにつづいたシェリングとヘーゲルは、カントの現象と物自体の対立を否定して、ドイツ観念論という独自の観念論哲学を展開していく。また、ヘーゲルとマルクスが駆使した弁証法は、カントがもちいたアンチノミーによる論証法を発展させたものである。ケーニヒスベルク大学におけるカントの後継者のひとりであるヘルバルトは、カントのいくつかの観念をみずからの教育学の体系にくみいれた。


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純粋理性批判
純粋理性批判

じゅんすいりせいひはん
Kritik der reinen Vernunft

  

ドイツの哲学者イマヌエル・カントの著書。彼のいわゆる批判期を代表する最初の主著で,1781年に刊行され,哲学史上,一時期を画した。大陸の合理論とイギリスの経験論の欠陥が洞察され,経験から独立した認識能力の批判,すなわち純粋理性能力の意味と限界が批判された。本書は

 原理論と方法論、原理論は先験的感性論と先験的論理学とに分かれ、先験的論理学は先験的分析論および先験的弁証論へと分類される。




から成る。先験的感性論,先験的分析論では真なる認識の条件が考察されたが,それは「先天的総合判断はいかにして可能か」という問いであり,感性的直観の先天的形式としての時間,空間と,悟性の先天的概念としての純粋悟性概念 (すなわち範疇 ) とが構想力 (想像力) を媒介にして総合されることにより先天的総合判断が可能であるとされた。その際,総合の可能性の根拠は意識の根本的統一作用としての先験的統覚 (純粋統覚) であるとされ,かくて数学的認識,自然科学的認識の成立の可能性が論証された。先験的弁証論では形而上学的認識の可能性が考察され,合理的心理学では霊魂の不滅,合理的宇宙論では世界,合理的神学では神の存在が問われたが,理論的に認識されうるのは現象界であって,現象界の背後にある物自体 (英知界) ではない。かくて霊魂,世界,神の存在論的証明は不可能とされた。したがって理論理性による形而上学的認識は不可能となり,実践理性の補完を待つことになる。 (→実践理性批判 )  





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実践理性批判
実践理性批判

じっせんりせいひはん
Kritik der praktischen Vernunft

  

ドイツの哲学者カントの道徳哲学に関する主著。三批判書の一つで,第二批判ともいわれる。予備学『道徳形而上学の基礎づけ』 (1785) のあとに,1788年刊行された。第一批判 (理論理性の領域) では理性の諸理念 (霊魂の不滅,自由,神の存在) は消極的なものにとどまったが,実践の領域では理性の諸理念は道徳の対象となり,理性により積極的に要請される。本書は

原理論と方法論からなり、原理論は純粋実践理性の分析論と純粋実勢理性の弁証論に分岐してゆく。

から成り,原理論が本書の大半を占める。分析論では純粋理性による意志の決定の可能性が考察され,意志が実践 (道徳) 的原理に従うことが論証される。すなわち行為者の意志を規定する実践的原理は行為者の主観にのみ妥当する主観的原理すなわち格率にすぎず,したがって普遍的必然的に妥当する原理が考えられなければならず,それが道徳的法則である。道徳的法則は仮言的命法ではなく,絶対的に従うことを命令する定言的命法であり,それに従うときに意志の自律としての自由が成立するとされ,行為の道徳性は義務のためにのみ義務を果すことによってしか成立しないとされた。かくて道徳的法則は自由の認識根拠であり,自由は道徳的法則の存在根拠であり,弁証論では徳と幸福との一致としての最高善を目指す無限の前進のために,霊魂の不滅と自由と,道徳と幸福との一致を保証する神の存在が実践理性の要請の形で積極的に説かれるのである。





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判断力批判
判断力批判

はんだんりょくひはん
Kritik der Urteilskraft

  

ドイツの哲学者イマヌエル・カントの著書。 1790年刊。三批判書の一つで,第三批判ともいわれる。『純粋理性批判』では悟性の,『実践理性批判』では理性の先天的原理が考察され,それぞれ自然概念,自由概念が基礎づけられたが,本書では悟性と理性の両認識能力の中間にある判断力の先天的原理が究明され,カントはこの仕事をもって批判の仕事がすべて完了すると考えた。本書の前半では美的判断を趣味判断として論じ,後半では崇高や合目的性を論じている。





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[ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 2008]
イドラ
イドラ

イドラ
idola

  

偶像。 (1) 神を象徴するものとして信仰,礼拝の対象としてつくられた像。聖書では偶像礼拝は禁じられており,異教の神々はすべて偶像であるとして預言者たちにより激しく攻撃された。 (2) F.ベーコンの用語。経験の正確な観察のために排除すべき先入見として4つの偶像,種族のイドラ,洞窟のイドラ,市場のイドラ,劇場のイドラ,をあげている。





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偶像
ぐうぞう

偶像という漢語は本来は人形のことであるが,中でも崇拝の対象となる像をいう(《漢書》)。この意味では神像や仏像と同じであるが,とくに〈偶像〉という場合には,真のものではない別の姿ないし中間に介在するものという意味合いを含んでいる。哲学用語としては姿とか像を意味するラテン語のイドラ idola(単数形 idolum,英語のアイドルidol の語源)の訳語であるが,ルネサンス期に G.ブルーノが本当のものを見えなくさせる先入見の意味でこの語を用い,ついで F. ベーコンが〈人間の知性をとりこにしている偶像〉を分析して,人類なるがゆえに人間本性にひそむものを〈種族の偶像 idola tribus〉,個人のもつ先入見を〈洞窟の偶像 idola specus〉,社会生活から起こる偏見を〈市場の偶像 idola fori〉,学説から生じるものを〈劇場の偶像 idola theatri〉と名付け,ありのままの認識が困難であることを示した。とくに生得的な偶像は取り除くことができないとベーコンは言っている。⇒偶像崇拝              坂本 賢三

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