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存在論の流れ(1) [宗教/哲学]

存在

そんざい
being; tre; Sein

  

有ともいう。哲学における最も根本的な概念。それゆえ十全に定義することはできない。通常,(1) 何か「がある」,(2) 「何か」がある,(3) 何かは何か「である」 (内的規定) の3様の意に用いられ,それぞれ,(1) 実存または実在,(2) 存在者,(3) 本質とも呼ばれる。中世スコラ哲学では可能態である (3) が,現実態である (1) によって現実化され (2) となると説明される。 (3) の観点から主語となって述語とはならない実体と,その逆の偶有が区別されている。また (1) と (3) との間には現実的な区別が存するか否かが大論争された。近世以後,存在は客観的に存してこれを主観がとらえるとする立場と,主観が構成するものとする立場とに分れた。 M.ハイデガーは存在者とその規定根拠としての存在を峻別する。
[ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 2008]

存在
I プロローグ

存在 そんざい 古代ギリシャの昔から現代にいたるまで多くの哲学者たちを探究にかりたてた哲学上の重大なテーマ。存在と生成、存在と仮象、存在と思考、存在と当為というように、他の用語と対になってつかわれることが多い。

II さまざまな「存在」の意味

対置される概念に応じて、「存在」の意味はことなってくる。「生成(変化)」と対置される場合は、「かわらない永遠不滅なあり方をしていること」を意味する。「仮象(または現象)」と対置される場合は、「そのようにみえるのではなく本当にそのような状態にあること」を意味する。「思考(観念)」と対置される場合には、「心の中でそう考えられているだけではなくそういう状態で心の外に実在すること」を意味する。「当為(~すべきである)」と対置される場合は、「どうすべきかはとにかく事実はこうこうであるということ」を意味する。

そのほかにも対になる概念に応じて「存在」はさまざまな意味をもつので、どのような文脈で「存在」がつかわれているかをじゅうぶん見きわめることが大切である。

III 「である」と「がある」

また日本語の「存在」という訳語は、西洋語のesse(ラテン語)、be(英語)、sein(ドイツ語)、etre(フランス語)などと意味がかならずしも重ならないから、誤解しないようにしなければならない。というのもbeは、日本語の「~がある」という意味だけでなく、「~である」というときの「ある」も含意するが、日本語で「存在」というともっぱら「~がある」の意味に解されかねないからである。この2つの「ある」の区別が、すでに重要な哲学的テーマとなる。

IV 本質存在と現実存在

「~である」というときの「ある」が「本質存在」、「~がある」というときの「ある」が「現実存在」または「事実存在」とよばれて、2つの「ある」は古くから区別されている。たとえば、理想の国家とは社会の隅々まで正義がいきわたっている国家「である」というのは、理想国家の本質や定義をのべたものである。しかしそうした国家「がある」かどうかは別問題である。この国家が現実にあるかどうか、つまり現実存在は、そのような国家の本質存在とは別のことなのである。

V 「存在」観による分類

「存在」という概念がもつこの2つの意味のどちらを重視するかによって、西洋哲学の主要な哲学者をわけることもできる。一般に合理主義的な傾向をもつ哲学者は「本質存在」を重視し、経験主義的な傾向をもつ哲学者は「現実存在」を重視する。

1 合理主義者

最古の合理主義者パルメニデスは、「思惟(しい)することと存在することは同じひとつのことだ」といい、「あるものはあり、ないものはない」ともいうが、こうした謎(なぞ)めいた言葉も、「存在」や「ある」を本質存在と解すると、理解しやすい。プラトンのイデアもそうした用語法の延長上にある。個々の家が家「である」といえるのは、家のイデアによるのだとプラトンはいう。イデアがまずあって、それにあわせて個々の物がつくられると彼は考えた。

2 経験主義者

これに対して、経験を重んじたアリストテレスは、まず現実に存在する個々の物から出発する。まず個物「がある」。個物には、何からできているか(質料)と何「である」か(形相)の2つの側面がかならずそなわっているが、この形相こそプラトンのいうイデアだとアリストテレスは考えた。

しかしこの形相がどのようにして生じてくるかの説明に関しては、アリストテレスはプラトンに近づく。つまり形相はあらかじめ個物の質料の中に可能性としてやどっていて、それが現実に存在するようになっただけだと考えた。いずれにしろ、形相を個物の成立より前にあるものと考えた点ではプラトンと同じである。

→ 形相と質料

VI 神の存在証明

本質存在と現実存在という対概念は、中世以降神の存在証明においても利用されている。神は全知「であり」、最善「であり」、全能「であり」、そして存在「である」。だから神は存在する。神の本質存在、神の定義にはその現実存在がふくまれているという証明である。中世のアンセルムスにはじまるこのいわゆる「存在論的証明」は、形をかえて近代のデカルトやスピノザの哲学にもながれこんでいる。

→ 神の「神の存在の論証」

VII カントの「存在」観

「~である」に「~がある」がふくまれる場合があるとするこの議論を決定的に論駁(ろんばく)したのは、カントである。カントは現実存在と本質存在を明確にわけて、いくら理性で本質存在をくわしく論じても、現実存在はえられないと主張した。カントによると、何か「がある」と認識するためには、感覚や経験が必要である。他の点では合理主義者のカントは、この点では間違いなく経験主義者ヒュームの弟子である。

VIII ハイデッガーの存在論

カント以後、「存在」は哲学の中心的な話題となることがあまりなかったが、20世紀になってふたたび脚光をあびた。これにはハイデッガーの哲学が大きな役割をはたした。

ハイデッガーは存在者と存在を区別する。あらゆる学問はそれぞれ特定の存在者を研究するが、それらの存在者を存在するものたらしめている根拠までは問わない。そこにせまるのは哲学だけである。科学も宗教も芸術も人間によるなんらかの存在了解から生じる。その大本の存在了解をまず解明するのが哲学であり、彼のいう「基礎的存在論」である。

人間は、物や動物のようにただ存在しているのではなく、自分の存在を了解しながら存在している。しかも、その了解の仕方がその存在の仕方を(自覚していなくとも)きめている。その無自覚的な存在了解を自覚化する作業が哲学である。

ふつう人間は自分の存在をさほどリアルに感じていないが、たとえば自分の存在の終わり(死)に直面したときには、自分がいま現に存在していることをありありと感じる。人間は自分が時間的に有限な存在者であることを自覚できる。神や動物にはそれができない。人間だけが無を媒介にして存在をテーマにできる。人間とは存在があらわれでる場だとハイデッガーは考えた。

→ 観念論:形而上学:現象学:死:死学:実在論:実存:実存主義:ノモスとピュシス:唯物論:唯名論:論理学


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存在と時間
存在と時間

そんざいとじかん
Sein und Zeit

  

1926年8月8日トトナウのスキー小屋で脱稿され,翌 27年春公刊されたハイデガー前期の大著。この書の究極的目標は存在一般の意味を問うことにあるが,公刊された第1部では,時間性へ向けての現存在の解釈,および存在についての問いの先験的視界としての時間の解明のみがなされ,予定された第2部以降は発表されなかった。





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[ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 2008]

存在と時間
そんざいとじかん Sein und Zeit

M. ハイデッガーがその最初の主著に付した表題。1927年刊。ただし,この表題の著作ははじめ2巻に分けて発表される計画であったが,後に第2巻に相当する部分は公表を放棄されたので,実際には前半のみの表題としてとどまっている。この著作の主旨は,存在(存在者をさまざまな意味において存在するものたらしめている根拠)の諸相をそれの統一的意味へさかのぼって解明すること(これが哲学である),その諸相と統一的意味とをそれぞれの根源的体験の文脈へさしもどすことによって,伝統的存在論の凝結した図式性から解放すること,そして結局はさまざまな存在者の存在を人間存在の根本的意味としての時間性から解釈することにある。この最後の点は《存在と時間》の後半部分で具体的に展開される予定であったが,前半の発表後まもなく,ハイデッガーは存在と時間との連関について一見逆転ともみえる根本的な再考を必要と考え,人間存在の意味としての時間性から存在とその諸相をみちびき出すのではなく,むしろ逆に,存在そのものに相属する時間から人間存在の意味を照明する方向へ力点を移していった。〈存在と時間〉から〈時間と存在〉への転回がハイデッガーの後期思索の歩みであると言われるゆえんである。この経緯は《ヒューマニズムについての書簡》(1947),《真理の本質について》(第2版,1949)の中でもっとも直接的に表明されているが,この思索の歩みは,前期の《存在と時間》の中ではまだ表立っていなかった〈ヨーロッパのニヒリズム〉との苦しい対決の中で切り開かれたものと考えられている。     細谷 貞雄

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ハイデッガー 1889‐1976
Martin Heidegger

ドイツの哲学者。西南ドイツの小村メスキルヒでカトリック教会の職員の長子として生まれ,普通教育のあと司教に嘱望されて1909年フライブルク大学に入学し,はじめ神学を,やがて哲学を修めた。この転向については,F. ブレンターノの《アリストテレスにおける存在の多様な意味について》(1862)という学位論文の精読から得た感銘が契機になったと伝えられる。はじめリッケルトや E. ラスクの代表する新カント学派の影響を受け,ついでフッサールの《論理学研究》(1900‐01)から決定的な啓発を受け,15年に同大学の私講師に任ぜられると同時に,フッサールの助手としてその指導のもとにアリストテレスの現象学的解釈にたずさわった。この哲学史研究を深めていくうちにフッサールの超越的観念論とたもとをわかち,アリストテレスの形而上学のうちに余映をとどめている初期ギリシア思想の存在経験の傾向を深化させ,これによって〈cogito,ergo sum〉を拠点としたデカルトに始まる近代的思惟の限界を突破することに努めた。23年マールブルク大学教授に転じ,ヨーロッパの形而上学の歴史についての多彩な解釈を展開するかたわら,新約聖書学者ブルトマンとの親しい対話のなかで西洋哲学の根本的基調を対比的に体得するに至った。この時期の思索の蓄積が主著《存在と時間》(1927)として公表され,1920年代のドイツ哲学界に深刻な衝撃を与えた。その構想はさしあたり,人間の実存から出発してそこへ帰着すべき解釈学的存在論と,これの基礎づけの提唱として表明された。この腹案は計画通りの完結をみるに至らなかったが,28年フッサールの講座後継者としてフライブルク大学に移り,そこで活躍するうちに,根本から変容された。彼は各学期の講義でヨーロッパ哲学史の由緒あるテキストの克明な解釈と根源的な批判を通じて,ますます近代哲学の限界を明らかにし,同時に《存在と時間》の本旨を深化して新しい地盤をたしかめることに努めた。その歩みはのちの多くの論著,なかんずく《ニーチェ》(1961)のうちにたどることができる。
 33年ハイデッガーは不本意ながらフライブルク大学総長となり,ナチスの大学再編にもそれなりに荷担せざるをえなかった。そのドキュメントは《ドイツ大学の自己主張》(1933)と題する講演である。しかし,在任わずか1年でヒトラーの文教政策に失望して辞任,それ以後は深い孤独の中で,きびしい時代批判のなかから《存在と時間》の問題の再考に沈潜し,とりわけヘルダーリンの詩とニーチェの形而上学との批判的体得という作業のなかで新しい思索の深化と集中に努めた。この時期の思索の境涯はほとんどすべて,第2次大戦後にはじめて多くの著作の中で公表されたものである。45年ドイツの敗戦とともに休職し,50年にフライブルク大学に復帰,いわばハイデッガーの後期思想とも呼ぶべきものが相次ぐ論究の出版によって明らかにされた。このハイデッガー思想の〈転回〉は1935年ごろから顕著な形をとりはじめ,その後の歩みは《存在と時間》に匹敵すべき体系的主著に集成されることなく,おびただしい解釈と論述の形でかなりの紆余曲折をたどっているので,明快な形で簡単にまとめることはできない。彼が自分の思索の様式を伝統的な体系とか理論とか方法の型に合わせず,率直に〈思索の道〉と呼んでいるのは,このためである。
 若きハイデッガーの思索がどのような境涯と系譜から由来していたかを椿議することは困難な作業であるが,とにかく存在者の存在の意味を人間の実存的存在経験へ立ち帰って解明しようとして,その限りでフッサールの(デカルト的な)観念的予断を批判的に克服することに努めながら,問いつつさかのぼるべき根源的存在経験としては,なおキリスト教的実存(キルケゴールからブルトマンに至る血脈)にあまりにも深く連帯していたということは否めない事実である。キルケゴールへの一時的共鳴やブルトマンとの親交が,このことを証拠だてている。この意味で当時の実存思想が結局はやはり一種の(神学的な)世界疎外によって条件づけられていたということがしだいに摘発・自覚され,この自覚が後期への転回の強いモティーフになったことは明らかである。〈転回〉の時期がヘルダーリン解釈(《ヘルダーリンの詩の解明》1944)とニーチェ批判によって占められていたことが,その間の内情をうかがわせる。なぜなら,ニーチェによって素描されていたものがキリスト教への反逆的な拘束を刻印されていることを明示するハイデッガーのヘルダーリン,ニーチェ解釈の主旨が,伝統的存在論(プラトン主義)の継承によって覆われていた悲劇的世界経験の再興をめざし,あるいはそれに対応することに向けられていたからである。
 ここまで来ると,かつて《存在と時間》のなかでいわば形式的に導入されていた〈世界内存在〉という概念における〈世界〉もしくは〈世界性〉という概念が否応なしにある具体性を帯びてくることになる。存在・真理・世界は,決してその相関性を失うことはないが,その内実は変遷する。それも人類の歴史の重要な転換期ごとに存在・真理・世界がそのつど別な現象の系列として出現するというだけではなく,それらがきわめて早期からそれぞれの人間的意味を減衰させ,ついには存在と世界の喪失へむかって滔々と流れていくという含みを帯びてくる。すなわち後期ハイデッガーの思想は,その先端において〈ヨーロッパのニヒリズム〉との,ニーチェのそれとはまったく異なる対決へと呼び立てられるのである。この世界はギリシア人のいうコスモスでも,キリスト教徒の信じる摂理の舞台でもなく,もはやいかなる体系化も意味づけをも不可能にする渾沌,無へと突きすすんでいく過程そのものにほかならない。それゆえに,この動向に対応する哲学は,それ自身ある――いな特別の――歴史性を帯びざるをえない。〈故郷の喪失が世界の運命となる。それゆえに,この世界を存在史的に思索することが必要となるのだ〉とハイデッガーは述べて,彼の思想全体をつらぬくモティーフを明言している。彼が後期思想において語り出そうと努めているのは,このように無化しつつある世界の不安な消息であり,そしてこの世界を背景とも地盤ともして到来しつつあるヨーロッパの歴史全体の運命なのである。なお,主著には上記のもののほか,《カントと形而上学の問題》(1929),《ヒューマニズムについての書簡》(付《プラトンの真理論》。1947)などがある。 細谷 貞雄

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ハイデッガー,M.
I プロローグ

ハイデッガー Martin Heidegger 1889~1976 実存主義的現象学を展開したドイツの哲学者。20世紀のもっとも独創的でもっとも大きな影響力をもった哲学者である。

バーデンのメスキルヒに生まれる。フライブルク大学ではじめにカトリック神学、ついで哲学をまなんだ。同大学で現象学の創始者フッサールの助手になり、1915年に同大学の私講師となった。23~28年マールブルク大学教授。28年にフライブルクにかえり、フッサールの後任として哲学教授になる。33、34年にヒトラーとナチズムを公然と支持したことで、敗戦後の45年、教授活動を禁止された。59年の退職にいたるまで、彼の大学での地位については論争がたえなかった。

II 存在と時間

ハイデッガーがフッサール以外にとくに影響をうけたのは、ソクラテス以前のギリシャ哲学者たち(→ ギリシャ哲学:西洋哲学)、およびキルケゴール、ニーチェである。ハイデッガーはみずからの理論を展開する際に、伝統的な哲学の用語法をしりぞけて、むしろ過去の思想家の著作をひとつひとつ解釈してゆく。彼は個々の言葉や表現に独創的な意味や語源をあてがい、多くの新しい合成語をつくりだした。

もっとも重要で影響の大きかった著書「存在と時間」(1927)は、存在とはなにかという問題をあつかう。この問題こそ哲学の本質的な問題であるとハイデッガーは主張する。しかし、この問題にこたえようとすれば、人間とはどのような「存在」かという問題にこたえなければならない。ハイデッガーによれば、人間は自分がつくったわけではない世界になげこまれている。この世界は、自然の物も文化的な物もふくめて、潜在的に有用な事物から構成されている。これらの物は過去から人間のもとにとどき、未来の目的のために現在つかわれる。したがって、ハイデッガーは、物と人間と時間構造のそれぞれの存在様式の間に、日常的関係とは別の基本的な関係を設定する。

しかし、実際の人間は、こうした基本的な関係のうえではなく、より日常的な世界に生き、紋切り型のあさはかな大衆的行動などに埋没する危険につねにさらされている。人間は不安という感情によって、死と人生の最終的な無意味さに直面させられるが、これによってはじめて、存在と自由の真の意味がえられる。

III 存在の了解

1930年以降ハイデッガーは、「形而上学入門」(1953)などの著作において、西洋の特殊な存在概念の解釈をおこなうようになる。彼の考えによれば、古代ギリシャの畏敬(いけい)の念にみちた存在概念とは対照的に、現代の技術社会はひたすら効率的処理という態度を助長し、この態度は存在と人間の生活から意味をうばっている。彼はこの状況をニヒリズムとよぶ。人間はおのれの真の使命をわすれてしまっている。人間は、古代ギリシャ人たちによってなしとげられ、後代の哲学者たちによってみうしなわれた、より深い存在了解を再発見し、新しい存在了解をうけいれなければならない。

IV 実存主義その他への影響

人間の有限性、死、無、真正といった主題の独創的な論述のゆえに、ハイデッガーはしばしば実存主義とむすびつけられ、その著作はフランスの実存主義者サルトルに決定的な影響をあたえた。しかし、ハイデッガーは、自分の著作の実存主義的解釈を結局は否定した。彼の思想から直接的な影響力をうけたのは、フランスの哲学者フーコーとデリダ、ドイツの社会学者ハーバーマスである。1960年以降、ハイデッガーの影響力はヨーロッパ大陸をこえて、世界じゅうにますますひろがりつつある。


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風土
風土
I プロローグ

風土 ふうど 和辻哲郎の代表的著作。正式の名称は、「風土?人間学的考察」。副題に「人間学」とあるように、これは哲学的人間学の書である。

1925年(大正14)、京都帝国大学助教授に就任した和辻は、27年(昭和2)ドイツに留学、このときの船旅の印象が本書成立のきっかけをつくった。帰国直後の京大における講義草案を原型とし、35年岩波書店より刊行、読書界の大きな反響をよんだ。

II 人間存在把握の契機

全体は、第1章「風土の基礎理論」、第2章「三つの類型」、第3章「モンスーン的風土の特殊形態」、第4章「芸術の風土的性格」、第5章「風土学の歴史的考察」の5章からなる。第2章でしめされた東南アジアにおける「モンスーン」型、西アジアの「沙漠」型、ヨーロッパの「牧場」型という3分類は、船旅の印象的叙述とあいまって本書を著名ならしめた個所である。

本書の意図するところは、自然環境と人間生活との関係を考察するのではなく、「人間存在の構造契機としての風土性」を明らかにすることにある。和辻のいう「風土」とは、たんなる自然環境ではなく、人間存在の自己了解の仕方としてとらえられた空間体験、自然環境を意味している。

1927年、ベルリンでハイデッガーの「存在と時間」を読んで大きな刺激をうけた和辻は、一方で、人の存在を時間的構造としてとらえるハイデッガーの主体が、あくまでも個人的主体にとどまり、実践的行為的連関としての人間の具体的現実がじゅうぶんにとりこまれていないことに限界を感じる。このことが、人間存在の把握に主体的空間性の契機を回復しようとする構想をみちびき、和辻独自の「風土性」の概念を生むきっかけとなった。したがって、本書の構想は和辻の倫理学体系との密接な関連のもとにある。

そもそも、本書の副題にある「人間」は、和辻倫理学固有の「間柄」としての主体を意味している。そして、主体を間柄としてとらえるための必須の契機として、「風土」の概念はみちびきだされたのである。本書の内容は、のちに和辻の著書「倫理学」(1937~49)第4章「人間存在の歴史的、風土的構造」の中に、整理、発展されてとりいれられている。

III 直観力による風土叙述

しかし、本書は、そうした存在論的な考察よりも、「イデエを見る眼」(谷川徹三)と評された直観力にもとづく印象的な風土叙述によって世間の人気を博した。日本の風土性の特色を端的にのべた、「しめやかな激情、戦闘的な恬淡(てんたん)」という言葉には、和辻風土論の叙述の特色がよくしめされている。

なお、和辻の風土性の理論は、近年フランスの地理学者オーギュスタン・ベルクによって発展的に継承されており、環境論や風景論の分野でふたたび脚光をあびている。


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死に至る病
死に至る病
I プロローグ

死に至る病 Sygdommen til Doden デンマークの哲学者キルケゴールの主著。アンティ・クリマクス著キルケゴール編として偽名で1849年に公刊された。「教化と覚醒を目的とするひとつのキリスト教的、心理学的論述」という副題をもつ本書は、実存主義の古典といってよい。

「死に至る病」というタイトルは、新約聖書の「ヨハネによる福音書」(11章4節、ラザロの復活物語)のイエスの言葉「この病は死に至らない」からとられている。希望をもつ者はたとえ肉体が死をむかえても、死に至らない。これに対して死に至る病とは、「絶望」という病である。それは、ある意味で肉体の死によってもおわることのない精神の病である。

II 絶望の諸形態

人間は常に相反する2つのものの調和をもとめる関係において存在しており、いやおうなく、「いまここにある」この自分にかかわって生きている。にもかかわらずこの自分自身への関係を直視しようとしない人々がいる。それが、絶望の状態にある人間である。わたしたちは肉体の病気にかかっていなくとも、真の自己たろうとしないかぎり、もっとも重い精神の病にかかっているのである。本書は、いわば、この病を診断し処方箋(せん)を書こうとする試みである。

全体は2部にわかれている。第1部ではさまざまな形態の絶望が分類され分析される。絶望はかならずしもあからさまに気づかれているとはかぎらない。たとえば、真の自己になることをこばんでいながら、自分ではそれを意識せず、絶望していることを知らずにいる人がいる。もちろんそれも、絶望の一種、しかも救いようのない「無知の絶望」である。また絶望が意識されていても、絶望して自己自身であろうと欲しない「弱さの絶望」におちいる人もいれば、逆に絶望して自己自身であろうと欲する反抗的な「傲慢の絶望」におちいる人もある。このようにして、第1部では絶望の諸形態が詳細に分析されていく。それにつづいて第2部では、絶望はいっそう深く、「罪」としてとらえなおされる。と同時に、信仰によってしか、絶望から脱出することができないこともしめされる。

III 20世紀実存哲学への影響

本書は、ハイデッガーやサルトルといった20世紀の実存主義哲学の思想家に大きな影響をあたえた。この影響は、たとえば、ハイデッガーの「存在と時間」の重要な用語「死への存在」(Sein zum Tode)が「死に至る病」のドイツ語訳(Krankheit zum Tode)を意識してつくられていることからもわかる。


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現象学
現象学
I プロローグ

現象学 げんしょうがく Phanomenologie 意識にあらわれるがままの経験の諸構造を、自然科学などほかの学問の理論や前提にたよらずに記述することをめざす、20世紀の哲学運動。

II フッサール

現象学の創始者であるドイツの哲学者フッサールは、19世紀後半の支配的風潮であった実証主義を批判して、意識現象を客観的世界内部の出来事として客観的に研究するのではなく、主観にあらわれるがままの意識現象の記述をめざす、記述的心理学として現象学を構想した。

あらゆる出来事を自然科学的な法則性にしたがってとらえようとする実証主義は、それ自体世界についての特定の先入観にもとづいて成立している。その先入観とは、客観的世界なるものが存在するということへの素朴な信頼にほかならない。フッサールは、そうした客観的世界の想定は、日常経験の積み重ねの中で形成された思考習慣にすぎないとして、そうした無反省な自然的態度をいったん停止することが必要だと考えた。

ここから現象学は、たんなる心理学の改造という枠をこえて、悪しき実証主義に汚染されていた人間諸科学全体の根本的改革の企てとなる。フッサールは、おのれの意識体験を世界内部の一事実とみるのではなく、逆に意識こそが、そうした客観的世界の想定そのものがでてくる根源的な場だとみた。そして、世界内部的に存在するもろもろの存在者の多様な存在意味が、この意識のうちでどのように形成されるかを分析することが自分の現象学の課題だと考えた。これが、「純粋現象学と現象学的哲学のための諸考想」(通称「イデーン」)第1巻(1913)に代表される中期の思想である。

意識に中心をおくこの思想に対しては、独我論的観念論にすぎないという批判がくわえられた。そうした非難にこたえようとする中から、後期の思想が成熟してくる。われわれは世界を客体化してみることになれてしまっている。しかし、それに先だってわれわれは世界を生きているのであり、この生きられるがままの世界における世界経験を明らかにすることが、現象学の本来の課題だとみなされるようになる。こうした構想は、「ヨーロッパ諸科学の危機と超越論的現象学」(1936)において体系的に展開された。

III ハイデッガー

このような現象学の思想は、それまでの哲学とどのような関係にあるのか。その問題をひきうけ、現象学に新たな展開をもたらしたのが、フッサールの弟子のハイデッガーであった。

中期フッサールの考えによれば、世界内部的存在者の全体およびその包括的地平としての世界の意味は、主観の意識のうちで対象として構成されるものであった。こうした構成のおこなわれる場としての意識を、それ自身、世界内部的に存在する事実的人間の意識と同一視するわけにはいかない。ハイデッガーも、構成的主観が世界内部的存在者ではないということには同意する。しかしそこからハイデッガーは、では世界がそこで構成されるような存在者のあり方はどのようなものなのかを問う必要があると考える。

そしてハイデッガーは、そのような構成は人間的実存のもつひとつの可能性だと主張する。「存在と時間」(1927)では、こうした人間的実存の基本的存在構造が「世界内存在」という術語で定式化され、「世界内存在」としての人間が、世界および多様な世界内部存在者との間にとりむすぶさまざまな関係の総体が、日常性という視点から分析されている。

IV フランスの現象学

1930年代になりナチスが政権をにぎると、現象学はフランスに移植されて新たな展開をとげる。フランスの実存主義者サルトルの現象学者としての業績は、第2次世界大戦以前の著作にかぎられる。「情緒論粗描」(1939)や「想像力の問題」(1940)は、中期フッサールの方向にそった現象学的心理学の成果である。戦後のフランスの現象学をリードしたのは、メルロー・ポンティであった。彼の「知覚の現象学」(1945)は、後期フッサールの生活世界の構想に示唆をうけた身体の現象学的分析として、現象学研究の新たな領域を切りひらいた。→ 実存主義

現象学は20世紀の思想にひろく影響をおよぼした。現象学的な視点をとりいれた神学、社会学、心理学、精神医学、文芸批評などが展開されており、今なお現代哲学運動のもっとも重要なもののひとつである。


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解釈学
解釈学
I プロローグ

解釈学 かいしゃくがく Hermeneutik 表現されたものやつたえられたものから、表現した人や発信者の意図、体験、意味するところを解釈し理解する方法を哲学的に論ずる学問。ギリシャ神話で神々の言葉をつたえるメッセンジャー、ヘルメスの名に由来するギリシャ語hermeneuein(解釈する)が語源。

もともとヘルメーネウティケー(解釈の術)とよばれたのは、夢や占いを解釈する技法であった。その後解釈学は、ギリシャ、ローマの古典文献の解釈、法の条文の解釈、聖書の章句の解釈など、さまざまなテキストの意味を解釈する技術として個別に発達した。

II 一般的解釈学

近代になって、個別に発達した解釈術を統一する一般的な解釈理論をうちたてようとする気運が生じた。代表的なものが19世紀のシュライエルマッハーの試みである。彼は聖書の釈義学と古典文献学の双方の解釈技術を統合して「一般的解釈学」をつくろうとした。これが今日の哲学的解釈学の出発点になった。

どんな分野のテキストでも、その解釈にはいつでも解釈する側の主観がはいってくる。そこでシュライエルマッハーは、テキストの解釈を通じて過去の著者の自己了解にどのようにせまればいいかという問題にとりくんだ。結局彼は、著者その人よりもテキスト自体を重視して「著者が自己了解する以上に著者を了解する」という立場にいきついた。

III ディルタイの精神科学

19世紀末から20世紀にかけて活躍したディルタイも、シュライエルマッハーがいきついた一般理論を継承し発展させた。ディルタイは、科学を自然科学と精神科学にわけて、解釈学を精神科学の方法論として位置づけた。彼のいわゆる「精神科学」は、人間、社会、歴史に関する学問、つまり今日の人文社会科学をさす。

彼によると、自然科学は「説明」を手段とする学問であり、精神科学は「了解」を旨とする学問である。実際、地震や雷を「説明」することはできるが「了解」することはできない。他方、歴史の史料はディルタイによると「生(せい)の表現」であるから、歴史学は文献(広い意味でテキスト)をとおして他人の生や体験を了解する学問だということになる。

IV ハイデッガーの存在論

「解釈によって生を了解する」という考えを、さらに一歩おしすすめたのがハイデッガーである。彼の主著「存在と時間」(1927)は、解釈学の名を哲学の世界で不動のものにした。

あらゆる学問が人間によるなんらかの存在了解から生ずると考えるハイデッガーは、その大本の存在了解をこの書で解明する。それが彼のいわゆる「基礎的存在論」であるが、その際つかわれる方法が解釈学である。

人間は、物や動物のようにただ存在しているのではなく、自分の存在を了解しながら存在している。しかもその了解の仕方がその存在の仕方を(自覚していなくとも)きめている。その無自覚的な存在了解を自覚化して遂行するのが、ハイデッガーの考える解釈学である。彼の解釈学が対象にするのは、テキストというよりはむしろ人間であり、その存在であった。

V ガダマーの解釈学

ハイデッガーの弟子のガダマーは、存在論へと急旋回してしまったこの解釈学をもういちど精神科学の方法論とむすびつける。ガダマーは主著「真理と方法」(1960)で、人文科学の学問手段を「真理」とよんで、自然科学の手段である「方法」と区別している。彼はハイデッガーの存在論的な解釈学をふまえたうえで、ディルタイ的な解釈学にたちもどっているのである。

ガダマーは現代の哲学的解釈学の代表者であるが、ほかにも、神話論(→ 神話)、現象学、記号論などに解釈学をとりいれて独自の哲学を展開する哲学者は少なくない。

VI 日本への影響

なおハイデッガーの解釈学は、日本人哲学者にも影響をあたえた。三木清の「パスカルに於ける人間の研究」(1926)、和辻哲郎の「人間の学としての倫理学」(1934)、九鬼周造の「いきの構造」(1930)などは、ハイデッガー的な解釈学の影響のもとで生みだされた作品である。


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スピノザ
スピノザ,B.de
I プロローグ

スピノザ Baruch de Spinoza 1632~77 オランダの合理主義的哲学者・宗教的思想家。きわめて徹底した近代の汎神論者。

II 生涯と著作

宗教的迫害をのがれてポルトガルから移住したユダヤ人の子孫として、アムステルダムで生まれた。ヘブライ語による正統なユダヤ的教育をうけたが、のちに物理学やスコラ学、ホッブズ、デカルトなど近世の著作を研究し、その影響により正統的ユダヤ主義からはなれた。そのためシナゴーグから脱退し、1656年には無神論者として破門された。スピノザはレンズ磨きで生計をたてていたとされているが、これは彼の簡素な生活ぶりを象徴的につたえる伝説である。

この時期に書かれた最初の著作「神、人間および人間の幸福に関する短論文」は、のちに展開される哲学的体系の輪郭をすでにしめしている。「神学政治論」は1670年まで出版されず、また学位論文「知性改善論」は77年まで出版されなかったが、両著作ともおそらくこの時期に書かれたものと思われる。

1660年にレイデン近郊のレインズビュルフに転居する。2、3年後には、ハーグからさほど遠くないフォールブルフに、さらに70年にはハーグにうつる。その後73年にハイデルベルク大学の哲学正教授としてまねかれるが、スピノザは知的活動の自由をまもるために、この誘いをことわった。また著書を献呈すれば年金を支給するというフランス国王ルイ14世の申し出も辞退している。

III 哲学
1 実体

スピノザの思想がもっとも完全に表現されているのは「エチカ」(1677)である。この著書によれば、神は先行する原因をもたないがゆえに、あらゆるものの「実体」であり、したがって世界はこの神と同一である(→ 一元論)。スコラ学に由来するスピノザの実体概念は、物質的実在ではなく、形而上学的存在であり、現実にとっての包括的・自己充足的な基盤をなしている。

2 思惟と延長

実体は無限の属性をもつが、人間に知られるのはそのうちの2つだけである。ひとつは、延長もしくは物質界、もうひとつは思惟である。延長と思惟は、究極的実在である神の内に存在すると考えられた。因果関係は、延長という属性をもつ個体的な物体(すなわち物理的物体)の間に、あるいは思惟という属性をもつ個別的な観念の間には成立しうるが、しかし物体と観念相互の因果関係は成立しない。そこで、物体と観念の間の、見掛け上の因果的な相互作用を説明するために、スピノザは有名な心身平行論をとなえた。この説によれば、どの思惟も対応する延長をもち、どの延長も対応する思惟をもつのである。

3 所産的自然と能産的自然

スピノザによれば、物体にせよ観念にせよ、個別性とは実体の特殊な様態である。あらゆる特殊な物体は延長という属性における神の一様態である。またあらゆる観念は、思惟という属性における神の一様態である。様態は、無限に多くの仕方で変化する個体であり、神の必然性から生じる一切のものである。これは「所産的自然」とよばれる。実体すなわち神は、それ自身の本性の必然性によって活動する自由原因である。これは「能産的自然」とよばれる。

様態は一時的で、その存在は時間的な形態をとる。神は永遠であらゆる様態の変化を超越している。したがって個物は、その延長も思惟も有限ではかない。それにもかかわらず、破壊することのできない世界はやはり存在している。世界は、実在する個体の内にではなく、本質の内にみいだされるからである。人間が神を直観的に知っていることは、神への知的愛の源である。これは神が自分自身を愛する無限の愛の一部なのである。

→ 直観

4 本質と個物

本質に関するスピノザの概念は、スコラ的「実在」概念およびプラトンのイデアの概念と密接に関連しているが、ある重要な点でこの両者とことなっている。というのもスピノザは、神を表現するものとして本質は個物にそなわっているというのである。

スピノザにとって実在と本質の根本的相違は、実在は時間的に存在するが、本質は時間の外にあるということであった。時間的に存在するものだけが死という宿命をせおっているのだから、無時間的である本質の領域は永遠でなければならない。それにもかかわらず、本質の領域は個物の領域をなしているのである。

5 因果連鎖と自由

すべての個物は因果連鎖に規定されているのだから、延長においても思惟においても個物の存在は限界づけられている。しかし、いっぽうあらゆる実在は、普遍的、本質的性格をもっている。このような本質を実現化するためには、個物特有の形態を超越しなければならない。つまり個物自らの構造の限界から自由でなければならない。本質は実在の時間的限界をわかちもたないとはいえ、実在に内在する原因というかたちで実在領域に存在する。スピノザの形而上学にしたがえば、内在的原因とは自己原因であり、自己原因は自由を意味している。このような訳で、スピノザは、本質の領域でのみ獲得されうる善として自由論を展開した。

個別的な物体と観念はすべてほかの物体や観念に服しており、その存在の仕方もほかのものによって決定される。したがって非時間的な自己原因的存在、つまり普遍的で内在的な存在にとってだけ、完全な自由は可能である。実体もしくは神との一致によってのみ、不死とともに平和も獲得されるのである。

IV 伝統的なものの否定

スピノザは摂理と意志の自由を否定した。その非人格的な神の概念は、多くの同時代人に敵意をもってうけとめられた。哲学史におけるスピノザの位置はさまざまな面で独特である。彼はいかなる学派にも属さず、またいかなる学派もつくらなかった。

その業績のいくらかは先達に、とりわけデカルトの思想にもとづいている。しかし、先人をたんに継承したとみなされるには、あまりにも独自な体系をきずいた。その深さと壮大さ、まれにみる総合の力強さという点で、スピノザはもっとも偉大な哲学者のうちにかぞえられる。

スピノザは1677年に没したが、1世紀後には再評価されている。後継者はいなかったが、カントをのぞけば、彼以上にひろく影響をおよぼした近代の哲学者はみあたらない。哲学者だけでなく、ゲーテ、ワーズワース、シェリーといった詩人たちも、スピノザからインスピレーションをえている。


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ガダマー
ガダマー,H.G.
I プロローグ

ガダマー Hans-Georg Gadamer 1900~2002 現代ドイツの哲学者。いわゆる「哲学的解釈学」の代表者。マールブルクに生まれ、マールブルク大学で哲学と古典文献学をまなぶ。また、当時講師に着任したハイデッガーに師事して解釈学をまなんだ。ハイデッガーの高弟レービットはこの修業時代の友人である。マールブルク、ライプツィヒ、フランクフルトの各大学の教授を歴任し、1949年にヤスパースの後任としてハイデルベルク大学の教授となり、68年まで同地で哲学をおしえた。

II 哲学的解釈学

彼のいわゆる「哲学的解釈学」は、もともと文献のテキストを解釈するための技法だった解釈術を、人間存在の哲学的分析の方法にまで高めたもので、ハイデッガーの「存在と時間」から大きな影響をうけている。その方法は主著「真理と方法」(1960)に集約的に表現されている。1986年以降ドイツで「ガダマー全集」が出版されているように、その該博な古典的知識と解釈学のするどい手法は、現代哲学に今も大きな影響をあたえている。なお、哲学的自伝「哲学修業時代」(1977)を読むと、彼の思想形成と同時に20世紀前半のドイツの思想状況がわかる。


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存在と無
存在と無

そんざいとむ
L'tre et le nant-Essai d'ontologie phnomnologique

  

フランスの哲学者ジャン=ポール・サルトルの主著。初版は 1943年。 E.フッサールの現象学に立脚し,M.ハイデガーの影響が認められる。意識は常になにものかについての意識であるが,意識の対象となるのは端的に存在する即自である。これに対する意識は存在ならぬもの,無であり,我は自己を脱して存在を意識するものとして実存している。このあり方は対自と呼ばれ,無を生み出していく自由である。人間は同時に他者に対する対他でもあり,彼の自由は状況のなかにおかれている。この状況における自由こそ,その後のサルトルの主題となったものである。





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[ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 2008]


サルトル 1905‐80
Jean‐Paul Sartre

フランスの作家,哲学者。第2次大戦後の世界の代表的知識人。パリで生まれ,パリで死去。早く父を失い,母の実家に引き取られる。3歳のとき右眼を失明。12歳のときに母が再婚。サルトルは養父との折合いが悪く,その少年時代は幸福とはいえなかった。高等師範学校に学んだころの彼の周囲には,P. ニザン,R. アロンなど,後にそれぞれ一家を成した友人たちがいた。とりわけ24歳のときに知り合ったシモーヌ・ド・ボーボアールは,最初は恋人として,後には思想上の同志として,生涯をともにする唯一の伴侶となった。
 1933‐34年にベルリンでフッサールの現象学を学んだサルトルが,後の著作や活動の哲学的な基盤となる思想(現象学的存在論)を体系的に展開したのは,《存在と無》(1943)においてである。しかし彼の名前は,それ以前にすでに小説《嘔吐》(1938)で知られていた。これは発行と同時に好意的な批評に迎えられ,その直後には短編集《壁》(1939)を著し,たちまち彼は前途有望な作家として注目されるにいたる。第2次大戦中はドイツの捕虜になったがやがて釈放され,長編小説《自由への道》(1945‐49)や戯曲などを書きつつ,ひたすら連合軍の勝利を待ちこがれていた。
 第2次大戦後の45年10月,サルトルは M. メルロー・ポンティ,ボーボアールらと《レ・タン・モデルヌ Les Temps Modernes》誌を創刊し,その編集長として,アンガージュマンの立場を主張し,華々しく論壇に登場。彼の名は一躍有名になり,〈実存主義者サルトル〉として,たえずマスコミの話題になる。と同時に,政治・社会の状況に応じ積極的に発言する知識人としての姿勢もこのときに確立された。
 戦後のサルトルの活動は,ほぼ4段階に分けられる。第1期は米ソ両大国の冷戦下で,〈第三の道〉を主張しつつ,ダビッド・ルーセらと〈革命的民主連合〉をつくった時期だが,これはほどなく瓦解する。第2期は朝鮮戦争勃発(1950)以後で,これを契機に彼は急速に共産党に接近するが,ハンガリー事件(1956)で再びその関係は冷却する。第3期はそれ以後で,共産党とは絶縁したものの,彼はマルクス主義の基本的立場を受け入れ,スターリン主義が停滞させてしまったマルクス主義を,〈発見学〉の方法として活性化することを目指した。またそのあいだにも,アルジェリア戦争やベトナム戦争をめぐって,彼は解放戦線を支持する発言を展開し,先進国内での第三世界への理解を深めるのに努力した。第4期は68年以後で,いわゆる〈五月革命〉によって,物を書き壇上から訴える知識人の存在そのものが異議申立てを受けていることを悟ったサルトルは,さらにその行動を深めるべく,毛沢東派と呼ばれる極左グループの支援を開始する。しかし73年には,残った左眼もほとんど失明状態になり,それ以後は肉体も急速に衰えて,晩年はほとんど活動不可能であった。それでも彼が80年に他界したときは,数万の大群衆がすすんで葬儀の列に加わり,この第2次大戦後の世界の代表的知識人の死を悼んで,墓地まで数kmの道を行進した。
 このように彼が一時代の代表的知識人と見なされたのは,むろん彼の思想が他に類のないほどスケールの大きなものだったからであるが,同時に彼が時代とともに滅び去るつもりで,ひたすら同時代人に語りかけたためでもあった。その著作は膨大な量に上るが,上記のもののほか重要な作品は,まず第3期の理論的到達点である《弁証法的理性批判》(1960),また〈実存的精神分析〉を縦横に駆使しながら作家の形成を解明した《聖ジュネ》(1952)と《家の馬鹿息子――フローベール論》(1971‐72),戯曲として《出口なし》(1944),《汚れた手》(1948),《悪魔と神》(1951),《キーン》(1953),《アルトナの幽閉者》(1959),それに,〈文学とは何か〉や〈共産主義者と平和〉など,そのときどきの状況に応じて書かれた文章を集めた《シチュアシオン》全10巻などである。
 なお,サルトルが第2次大戦後の日本に与えた影響はきわめて広く,また深い。哲学では竹内芳郎,文学では野間宏や大江健三郎などが,サルトルの思想を自分の仕事に生かした顕著な例として挙げられる。しかし,そうした著作家の場合よりもさらにいっそう注目されるのは,1960年代の終りごろまで多くの若者が,サルトルの作品や生き方に導かれながら物を考えたり,政治にコミットしたりするのを学んだことである。同時代の外国人が,このように長期間にわたって,日本の若者の熱い注目を浴びる〈指導的知識人〉として機能したのは,ほとんど稀有のことと言わねばならない。⇒実存主義                 鈴木 道彦

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サルトル,J.P.
I プロローグ

サルトル Jean Paul Sartre 1905~80 フランスの哲学者・戯曲家・小説家・政治ジャーナリストで、実存主義を主導した代表的人物。

II 生涯

1905年6月21日にパリで生まれ、パリの高等師範学校でまなぶ。29年からいくつかの高等中学校で哲学をおしえていたが、このころボーボワールとであい、契約結婚する。33~34年にはドイツに留学し、フッサールやハイデッガーの哲学をまなぶ。第2次世界大戦がはじまると兵役に服し、40~41年にドイツ軍の捕虜となった。釈放後、フランスのヌイイーやパリで教壇にたち、レジスタンスに参加した。しかしドイツ当局は、それにきづかず、反権威主義的な戯曲「蠅(はえ)」(1943)の上演や哲学上の主著「存在と無」(1943)の出版を認可した。

1945年、サルトルは教育活動を放棄し、政治と文学に関する雑誌「レ・タン・モデルヌ(現代)」を創刊、編集長をつとめた。47年以降は、冷戦下のソ連にもアメリカにも批判的で、党に属さない社会主義者として活躍した。のちにソ連の立場を支持したが、依然としてソ連の政治にしばしば批判をくわえた。50年代の著作の大半は文学と政治にかかわる問題をあつかっている。64年にノーベル文学賞の受賞を拒否したが、これは、そうした賞をうけることは作家としての誠実性を否定することになるという理由であった。

1980年4月15日にパリで没した。

III 著作と思想

サルトルの哲学的著作は、フッサールの現象学と、ヘーゲルやハイデッガーの形而上学と、マルクスの社会理論をむすびつけて、実存主義とよばれるひとつの視点で統一したものである。哲学的理論を生、文学、心理学、政治活動と関係づけるこの視点は、きわめて一般的な関心をひき、その結果、実存主義は全世界的な運動となった。

1 存在と無

初期の哲学書「存在と無」において、サルトルは人間を、社会や伝統的倫理や宗教的信念の助けをかりることなく、自らの行為に対する人格的な責任をひきうけ、権威に反抗することによって自分自身の世界をつくりあげてゆく存在とみなした。

彼は人間的実存と非人間的世界とを区別したうえで、人間的実存とは無、すなわち否定し反抗する能力によって特徴づけられると主張。あらゆる人間が自分自身の決断に対してのがれることのできない責任をおい、だれもが絶対的な選択の自由をもっているとみとめることが、真の人間的実存にとって不可欠の条件であるとする。

彼の演劇と小説に表明されているのは、自由と責任の受諾が生における主要な価値であり、個人は社会的あるいは宗教的な権威よりも自分の創造的な力にたよらねばならないという信念である。

2 弁証法的理性批判

後期の哲学書「弁証法的理性批判」(1960)において、サルトルの強調点は、実存主義的な自由と主観性とからマルクス主義的な社会決定論へと移行。現代社会の個人に対する影響はきわめて大きく、個人は社会の中に序列化され自己を喪失するため、個人の力と自由はただ集団的な革命行為によってのみ、たもたれうるとした。しかし、サルトル自身はけっして共産党に加入はせず、ソ連による1956年のハンガリー侵攻や68年のチェコスロバキア侵攻を批判する自由はもちつづけた。

3 他の著作

そのほか、小説としては「嘔吐(おうと)」(1938)や未完の連作「自由への道」(1945~49)、戯曲には「出口なし」(1944)、「恭しき娼婦」(1946)、「悪魔と神」(1951)、「アルトナの幽閉者」(1959)などがある。また、ジャン・ジュネの伝記「聖ジュネ」(1952)、フローベールの伝記(全3巻。1971~72)、自伝に「言葉」(1964)がある。


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フランス哲学の可能性と不可能性
フランス哲学の可能性と不可能性―ポスト・フーコーの道
フランス哲学の可能性と不可能性―ポスト・フーコーの道

松葉祥一

ここ数年、G.ドゥルーズ、E.レビナス、J-F.リオタールが、次々に亡くなった。ここにM.フーコー、L.アルチュセールをくわえれば、1968年以後のフランス哲学(あるいは少なくともフランス語による哲学)を代表してきた固有名の多くが墓碑にきざまれたことになる。

しかし、彼らにつづく世代は、新たな哲学的潮流をつくりだすにはいたっていないようにみえる。彼らの死とともに、フランス哲学は終わりをつげたのか。

「哲学の死」ののちに

事実、リュック・フェリーとアラン・ルノーは、「哲学の終焉(しゅうえん)」を宣告する。いや、彼らによれば、哲学の死亡時刻はさらに時期をさかのぼる。すなわち、「『存在と無』が出版された年は1943年であるが、その年からすでに50年もの月日が経過しているのに、たったひとりの新しい哲学者も生まれていない」(『サルトル―最後の哲学者』)からである。

フーコー、ドゥルーズ、デリダらの「68年の思想」は、埋葬ずみの形而上学を掘り起こして新たな死刑宣告をくだしたにすぎない。そして「80年世代」を自称する彼らは、思弁哲学から実践哲学への転換を主張し、カント的啓蒙理念にもとづいた「ポスト形而上学的ヒューマニズム」の確立を要請するのである。

エリック・アリエズも、『現象学の不可能性―現代哲学について』において、その挑戦的なタイトルがしめすように、サルトル、メルロー・ポンティ以後、多かれ少なかれフランスの「思弁哲学」の参照軸となってきた現象学の死を宣告しているかのようにみえる。確かに、アリエズは、ジャニコーのいう「現象学の神学的転回」を批判している。

すなわち、近年のフランス現象学が、「存在の外の呼び声」(ジャン=リュック・マリオン)や「外部なき生の内在」(ミシェル・アンリ)に、すなわち「現象からひきこもったところにあるものに現象の規定を与える」ことによって、神的絶対者をよびもどすことになったと批判するのである。

フーコー、ドゥルーズ以後の地平で新たな問いをどうたてるか

しかし、アリエズは、だからといって現象学そのもの、ましてや哲学が無効であると宣告するわけではない。彼は、「世界の謎(なぞ)」の意味を問うた晩年のメルロー・ポンティや、「最後の現象学者」フーコーの問いが、現象学の可能性と不可能性の分水嶺をあゆむ試みであったと評価し、その足跡をひきつぐよう要求するのである。

いいかえれば、内在に閉じこもることも超越者にうったえることもなく、フッサールが構成可能な客観性の手前に初めて切り開いた作業現場で、ねばり強い思考作業をつづけるようもとめるのである。その実践例としてアリエズが提示するのが、ドゥルーズの「概念の現象学」、あるいは内面性を全面的な外部性としておりかえす「襞(ひだ)の現象学」であり、アラン・バディウの「数学の存在論」である。

アリエズは、同様の試みが、他の作業現場にもみいだされるという。それはたとえば、科学哲学におけるイザベル・スタンジエール、政治哲学におけるジャック・ランシエール、美学におけるリオタール、中世哲学史のアラン・ド・リベラらである。

彼らに共通しているのは、科学的真理や政治的正義、美、近代性といった普遍的価値―真理を批判しつつ、かといって相対主義におちいることなく、カオスや不和、崇高、二重真理といった概念を導きの糸として、両義的な領域を探索する困難な作業をつづけていることである。われわれは、このリストに、「複数単数存在」を問うジャン=リュック・ナンシーや、「市民主体」を問うエチエンヌ・バリバール、そしてさまざまな領域で「他者」を問いつづけるデリダらをつけくわえることができるだろう。

彼らの課題は、絶対的真理や普遍的正義が失効したのち、フェリーやルノーたちが要求するような新たな普遍的理念の構築にむかうことではなく、ましてや神的絶対者をよびもとめることではない。あるいはまた、真理や価値の相対性を確認し、その「共生」をとなえることでもない。問題は、フーコーやドゥルーズ、デリダらが、普遍的なものと相対的なもの、内在と超越、全体と個といった二項対立の手前に切り開いた地平にたち、新たな問いをたてることである。その作業は、まだ端緒についたばかりである。

文献案内(最近の概論的著作に限った)



●エリック・アリエズ『現代フランス哲学―フーコー・ドゥルーズ・デリダを継ぐ活成層』、毬藻充訳、1999年、松籟社(原文は、オンラインで読むことができる)。
●クリスチャン・デカン『フランス現代哲学の最前線』、廣瀬浩司訳、講談社、1995年。
●L.フェリー、A.ルノー『68年の思想―現代の反-人間主義への批判』、小野潮訳、法政大学出版局、1998年。
●ドミニク・ジャニコー『現代フランス現象学』、北村晋・阿部文彦・本郷均訳、文化書房博文社、1994年。
●キース・A.リーダー『フランス現代思想』、本橋哲也訳、講談社、1994年。
●ジャン=リュック・ナンシー編『主体の後に誰がくるのか? 』、鵜飼哲・港道隆他訳、現代企画室、1996年。
●小河織衣『フランス現代思想の系譜』、駿河台出版社、1998年。
●久米博『現代フランス哲学』、新曜社、1998年。



エンカルタ 百科事典 イヤーブック 1999年9月号より

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フランス文学
フランス文学
I プロローグ

フランス文学 フランスぶんがく 11世紀の終わりごろから今日までにフランス語で書かれた文学。9世紀までフランスの文語はラテン語であった。

II 中世―宗教からの脱却
1 武勲詩

フランス語による文学は「武勲詩」にはじまった。「武勲詩」とは、キリスト教の騎士たちの武勇をものがたった長詩の総称である。おそらくはジョングルールといわれた吟遊詩人たち(→ トルバドゥール)が創作し、巡礼者(→ 巡礼)や中世の宮廷をたのしませた。武勲詩の源泉はおもに3つの系統があり、それに応じて分類できる。フランスの系統、ブルターニュの系統、古代物語の系統である。

フランスの系統は、宗教に剣をささげたフランス人の英雄を主としてとりあつかう。中心人物はシャルルマーニュ(→ カール大帝)であり、彼はキリスト教の守護戦士とされる。この系統でもっとも有名なのは12世紀初頭につくられた「ローランの歌」である。

ブルターニュの系統はケルト民話(→ アーサー王伝説)に大幅に依拠している。主たる詩人としては12世紀後半のクレティアン・ド・トロワがあげられる。

古代物語の系統はオリジナルの度合いがもっとも低く、したがって重要度も低い。詩人たちは古代の古典から題材をとり、アガメムノンやアキレウスやオデュッセウス、さらにテーベ、トロイア、ローマの英雄たちをキリスト教化した。この系統でもっとも著名なのは、12世紀をとおして成立していった「アレクサンドロス大王物語」である。

2 韻文の物語―「狐物語」「薔薇物語」

武勲詩と競合し、それよりも人気の高かったのが、韻文で書かれた短編物語である。初期のころは宗教的なテーマだけをあつかい、ローマ・カトリック教会が文学を支配していたことがわかる。のちになると、教会に属さない作家たちが世俗的な作品を書きはじめ、教会による文化の独占はやぶられることになる。ファブリオーが12、13世紀を通じてもてはやされ、この時期に「狐(きつね)物語」や「薔薇(ばら)物語」などがあらわれた。

「狐物語」は3万2000詩句(のちには10万詩句)におよぶ動物の寓話であり、聖職者や貴族など、いくつかの中世の社会階級を痛烈に批判する。こうした文学の背景には、12世紀に古代の動物寓話が収集されたことや、とくにマリー・ド・フランスがえりぬきの寓話を韻文に翻訳したことがあげられる。

13世紀に書かれた「薔薇物語」(2万1000行をこえる)では、寓意の度合いがさらに高まる。そこではバラが愛を象徴し、抽象的な理念が擬人化されるからである。最初の4058行はギヨーム・ド・ロリス(生没年不詳)が作詩し、ジャン・ド・マン(1240頃~1305)が残りをつけくわえた。この詩は17世紀にいたるまで、ヨーロッパ全体に影響をおよぼした。

3 抒情詩

アカデミーがコンクールをもよおし、賞をあたえたおかげで、抒情詩(じょじょうし)はとくに南フランスでしだいに人気を博すようになった。中世フランス最大の抒情詩人は、疑いなくフランソワ・ビヨンである。彼の代表作「小遺言詩集(形見)」(1456)、「大遺言詩集(遺言)」(1461)は、滑稽(こっけい)な遺言というかたちで書かれており、後者にはバラードがちりばめられている。両者をあわせると2500行以上になるが、これらはフランス詩に強烈な個性の表現をもたらした。そこには中世的な罪の意識や死の不安が感じられるが、生への強い欲求をもった男の自己発見がある。このように、表現力と個性をもったビヨンの詩は、今日の抒情詩にまで影響をあたえつづけている。→ 抒情詩

4 中世の演劇

フランス中世文学が宗教から脱却していく過程は、とくに演劇においてはっきりあらわれる。11世紀の「典礼劇」は、聖書から引用したラテン語散文の警句からなっており、一般的にキリストの生誕と受難をテーマとしていた。12世紀になると平俗の役者があらわれ、「俗劇」をフランス語で演じたが、聖書のエピソードを依然としてもちいた。13世紀にはレパートリーが広がり、聖人や聖母マリアの奇跡を演じるようになる。→ 宗教劇

この時期にはまた、最初の田園劇であり、最初のオペラ・コミックともいわれる「ロバンとマリオンの劇」がアダン・ド・ラ・アルによって書かれた。14世紀を通じてこのまれた主題は、依然として聖母マリアの奇跡であり、宗教劇では歌謡の演劇化がよりいっそうすすめられた。15世紀には民衆の演劇に対する関心が高まり、演劇は教会の影響力から解放される。

5 散文作品

フランス文学における16世紀以前の散文は、歴史的にみれば興味をひくものの、文学的にはさほど価値がない。長編の「冒険小説」はたんに歌謡を散文化したものにすぎなかった。

歴史の分野であげるべき作家はさほど多くない。十字軍を記録したジョフロワ・ド・ビルアルドゥアン、聖人の伝記(→伝記の「教化目的の聖者伝」)を書いたジャン・ド・ジョワンビル、宮廷生活を優雅な韻文にしたクリスティーヌ・ド・ピザン、アザンクールの惨敗(→ アザンクールの戦)を韻文でつづったアラン・シャルティエなどである。これらの作家を凌駕(りょうが)しているのがジャン・フロワサールで、彼の「年代記」は騎士道の時代を生き生きとえがいた。フィリップ・ド・コミーヌは彼と同時代を生きたイタリア人、マキアベリと類似した思想をもっていたが、彼の「回想録」(1524~28)は、フランスではじめて政治家の観点からなされた、政治事件の解説となっている。

III ルネサンス文学の開花

16世紀のフランス文学はイタリア・ルネサンスの圧倒的な影響下におかれた。ペトラルカの詩形や古典的概念、とくにプラトン哲学の概念が熱狂的にうけいれられ、これらは、当時のフランス文化の中心となったナバール王妃マルグリット(マルグリット・ド・ナバール)の宮廷で支持された。

1 ルネサンスの詩人たち

初期フランス・ルネサンスを代表する詩人は、16世紀のモーリス・セーブである。彼の作品はルネサンスの知性を反映している。ビヨンやのちのプレイヤード派の詩人が内的感情を表現するのに対し、セーブは知覚や知識を様式的に表現する。この点や、その難解な暗示性を考慮すると、彼の詩は20世紀詩の主要な様式につながりをもつということができる。

ルネサンスは次の世代の詩人たちにいたって完全に開花した。ロンサールにひきいられた7人の詩人(プレイヤード派)が新たな文学の時代を開いた。「恋愛詩集」(1552)や未完の叙事詩「フランシアード」(1572)の中でロンサールがこころみたオードやソネット(十四行詩)は大いに模倣され、彼は16世紀最大の詩人とされた。彼は、デュ・ベレーの詩論をうけて、古代ギリシャ・ローマ詩を手本とし、詩の形態を練磨して、古典主義の到来を準備した。

2 ユマニスムの文学

ルネサンスの新思想、とくにユマニスム(人文主義)という新概念が、まずはっきりとあらわれたのは、ラブレーの著作においてであった。巨人のコミカルな叙事詩的物語5巻のうちで有名なのが「パンタグリュエル」(1532)と「ガルガンチュア」(1534)である。ラブレーは後者によって、ユマニスムの自由と可能性を具体化した(→ ガルガンチュア)。彼の道徳観は寛容である。それはパンタグリュエリスムとよばれ、現実を合理的にうけいれ、人間性のあらゆる要求を満足させることであった。彼はリアリズムを創始する。それは中世の寓話、「薔薇物語」に芽生えていたものだが、ラブレー以降、17世紀の劇作家モリエールの喜劇にふたたびあらわれる。ラブレーはもっとも力強いフランスの散文家のひとりであり、彼の活力と独創性、そして人間の精神に対する無限の信頼は注目に値する。

モンテーニュは、典型的なフランスのユマニスト、学者である。彼は自画像として「随想録」(1580、88)を書き、関心をひくあらゆる主題について哲学的私見をのべた。彼はゆるやかであるが普遍的な懐疑主義をすすめ、挫折や幻滅からのがれ、人生の幸福を達成する哲学的手段とした。彼の考えた教育法は、知識の詰め込みよりも、判断力の養成に重きをおく。政治、宗教の面では、彼は社会と個人の平穏を追求する保守主義者だった。「随想録」はオネトーム(教養ある紳士)のあり方を定義した最初の書物である。

IV 17世紀、古典主義の時代

グラン・シエークル(大世紀)として知られる17世紀は、フランス文学の古典主義時代にあたる。それはルイ14世の長期統治があった時代で、フランスはヨーロッパの政治文化に対する影響力の点で絶頂をきわめた(→古典主義の「フランスの古典主義」)。やがて、18世紀になって啓蒙主義の時代がおとずれると、フランスの国力はおとろえ、知的エネルギーは変化と改革にそそがれた。

1 文学サロンとアカデミー・フランセーズ

古典主義時代を代表する作家はマレルブである。彼は詩人としては凡庸だったが、純粋理性、常識、作法の完成など、17世紀文学の評価基準を規定した。この基準が承認された背景には、ランブイエ公爵夫人のサロンとアカデミー・フランセーズがあった。

ランブイエ公爵夫人は、言葉、作法、才知を刷新させる「プレショジテ」を創始したとされる。その気取りと誇張のために、のちにモリエールが「才女気取り」(1659)の中で風刺することになるのだが、プレショジテとは、言葉と感受性と社会関係を洗練させることを目的としていた。ランブイエ公爵夫人は同時代の大部分の文学者を自分のサロンにあつめた。文学の形式と内容という問題が当時の論争の中で最大の課題であり、それを示唆しているのが、イザーク・ド・バンスラード作の「ヨブへのソネ」とバンサン・ボワチュール作の「ユラニーへのソネ」という2編のソネ(ソネット)に関しておこなわれた論争である。文学思潮に影響をあたえた夫人はほかにもいたが、とくにマントノン公爵夫人があげられる。→ サロン

アカデミー・フランセーズは最初、学者たちの私的な集まりだったが、1635年にリシュリュー枢機卿の申し出によって公的な団体となった(→ フランス学士院)。アカデミー会員が辞書、文法書、修辞学書を作成することが提案されたが、完成、出版されたのは、辞書だけであった。この辞書編纂作業の多くをおこなったのがクロード・ファーブル・ボージュラであり、彼の「フランス語に関する覚書」(1647)は言語使用の標準化に大いに貢献した。特記すべき他のアカデミー会員として、最初の秘書官となったバランタン・コンラール、ジャン・シャプラン、フランソワ・メナール、ラカン公爵、バンサン・ボワチュールなどの詩人がいる。アントワーヌ・フュルティエールは62年に会員となったが、アカデミー採択のプランにしたがわずに辞書を編纂したとして85年に追放され、辞書は90年まで出版されなかった。しかし、今日ではフュルティエールのプランのほうが論理的であったとされている。

2 古典主義の理論的支柱

ボワローは古典主義を代表する文学理論家、批評家である。彼の影響力はヨーロッパ全体におよび、たとえばイギリスの大家、ドライデンとかポープなどの作品に影響をあたえた。理性と自然の法則を信じ、正確な定義をこのんだ彼は、文学を科学のような厳密な学問にするための規則をうちたてようとした。主要な詩作品に「風刺詩」(1666~1711)、「書簡詩」(1674~98)、「詩法」(1674)がある。

ジャック・ボシュエもまた同様に、強い文学的影響力をもっていた。彼はルイ14世時代最大の説教師である。王太子の教師、高位聖職者を歴任し、フランス教会の代弁者となった。彼の説教、追悼演説は、古典的修辞学の手本である。

3 古典主義演劇

コルネイユは、フランス悲劇の最初の大作家である。彼の最初で最大の成功作は「ル・シッド」(1637)であった。彼はアリストテレスのいう三一致の規則(時、場所、筋の一致。三統一とも)を自作の悲劇に適用しようとしたが、彼の悲劇の劇的緊張は心理的なものであり、意志の力で偉業をなしとげようとする登場人物たちの野望と挫折に由来する。

コルネイユの後にでたラシーヌの評価はさらに高い。彼の作品は修辞学や形式にさほどとらわれず、より自然である。後期作品に活気をそえたのは、抒情的なせりふや、合唱、劇的な舞台装置を使用したこと、また、「ベレニス」(1670)、「フェードル」(1677)における古典的主題から「エステル」(1689)、「アタリー」(1691)におけるキリスト教的主題へと転換していったことによる。悲劇の主人公はすべて女性であり、劇の緊張感は主として恋の変転から生まれている。

17世紀の有名な劇作家として、フランス喜劇の大家、モリエールもいる。その作品が今日の観衆にもうけるのは、彼の洗練された演劇感覚を証明しているが、この感覚は彼自身が俳優であり演出家であったことと無関係ではあるまい。もっとも著名な喜劇は、「才女気取り」(1659)、「タルチュフ」(1664)、「人間嫌い」(1666)、「町人貴族」(1670)である。モリエールは、文学サロンに軽薄なあこがれをいだいたりする同時代人の短所や、偽善、だまされやすさ、貪欲(どんよく)、憂鬱症(ゆううつしょう)など人間のもつ欠点を風刺した。哲学的には、ラブレーやモンテーニュに近く、個人が自己の好みに応じて成長する権利を主張した。

→ 悲劇:喜劇

4 古典主義の作家たち

ジャンセニストはイエズス会に対抗したピューリタン的カトリックの一派だが、彼らはこの時代めざましい働きをした(→ ジャンセニスム)。当時もっとも精力的で独創的だったフランスの作家、思想家の何人かはジャンセニストだった。神学者で論争をこのんだアントワーヌ・アルノーやピエール・ニコルがいたし、なによりも、哲学者、物理学者、数学者、神秘思想家であるパスカルがいた。「パンセ」(1670)の中で、彼は懐疑をもちいて、懐疑主義を論駁(ろんばく)しようとし、精神におけるある種の現実は人間の理性を超越しているという結論をのべた。

この時代の他の著名な作家として、ラ・ロシュフーコーとラ・ブリュイエールがいる。ラ・ロシュフーコーは、あらゆる時代を通じてもっとも偉大な箴言(しんげん)家のひとりとみなされている。「箴言集」(1664)の中で、彼は心理的洞察を珠玉の仕上がりと密度をもった簡潔な警句でのべる。貴族としての社会的地位が、宮廷生活に対する彼の判断に権威をあたえた。彼の箴言の本質は人間の自負や闘争にひそむ虚栄心をつくことであったから、ジャンセニストたちは、彼を盟友として支持した。

ラ・ブリュイエールが同時代にくだした道徳的判断はラ・ロシュフーコーより辛辣(しんらつ)で、また範囲が広い。彼の主要作品「人さまざま」(1688)は、箴言と性格研究をあつめたものだが、当時の悪徳と弱さを具現する人物を風刺的に描写している。

古典主義時代の代表的な小説家にはラファイエット夫人がいる。彼女の「クレーブの奥方」(1678)は、その心理的洞察力のために、近代小説の幕開けと目されている。魅力的な文体で書かれたこの小説は、効率のよい構成で知られている。主要人物は恋人2人だけで、小説は彼らの関係の推移に終始する。

ラ・フォンテーヌはラシーヌに匹敵する詩人であり、偉大なモラリストたちと肩をならべる古典主義時代の大作家のひとりである。「寓話(ぐうわ)」(1668~94)の中で、彼はイソップの訓話的寓話を枠組みとしてもちいたが、それぞれの寓話に短編小説の物語的な楽しさをくわえた。きびしい検閲にもかかわらず、登場人物に動物をもちいることによって、機知や空想やユーモアを発揮し、人間の弱点を自由に観察することができた。

V 18世紀、啓蒙の時代

18世紀が啓蒙時代といわれるのは、教会や他の制度的教義についての無知や迷信を打破するために、多大な知的エネルギーがそそがれたからである(→ 啓蒙思想)。その先駆者として、フランソワ・フェヌロン、フォントネル、ピエール・ベールがあげられる。「神託の歴史」(1687)の中でフォントネルは、古代ギリシャ・ローマ人の軽信を暴露するふりをよそおいつつ、奇跡を根拠とするキリスト信仰と教会を攻撃した。フェヌロンの「テレマックの冒険」(1699)は、彼の生徒、王太子のブルゴーニュ公爵のために書かれ、宗教的寛容を擁護した。両者ともに、際だった文体の魅力をもっている。

1 理性と「知」への志向

ベールの「彗星(すいせい)雑考」(1682)、とくに「歴史批評辞典」(1697)は、彼を旗手とみなす作家や思想家を生みだした。彼の膨大な学識の背後にあるのは、論証と実例に裏づけられた、宗教に対する妥協のない懐疑である。

啓蒙思想の精神を体現したのはボルテールであった。「哲学書簡」(1734。「イギリス書簡」ともいう)では、人間の弱点につけいる教会のやり方を攻撃した。彼はまた、有神論的、楽観的な思想をもつ哲学者、神学者、改革論者を批判した。ドイツの哲学者ライプニッツと、イギリスの博愛家、シャフツベリー7世伯爵アンソニー・クーパーにはとくにきびしかった。ボルテールは当時、なによりも哲学者とみなされていた。そのため、「カンディド」(1759)のような風刺的作品は哲学的作品の陰にかくれてしまい、日の目をみたのは後世のことだった。

フランシス・ベーコンとジョン・ロックのイギリス経験主義をうけついだフランス人哲学者として、エティエンヌ・コンディヤックがいる。「哲学党」を自称したフランス合理主義者たちはスコラ哲学を排し、新たな機械論的概念を提唱した。こうした概念は、人類の全知識を包含し、体系化することをめざした「百科全書、あるいは科学・技術・手工業の解説辞典」(通称「百科全書(アンシクロペディー)」)にも体現されている。この壮大な試みを監督したのがディドロだった。彼は機知にとんだ「ラモーの甥(おい)」(1761~73年執筆)のほか、多くの作品をのこしたひじょうにクリエイティブな作家だった。アンシクロペディー編纂時に彼は、博物学者、民族学者、哲学者、経済学者、政治家など、多くのすぐれた同時代人の協力をえた(→ アンシクロペディスト)。

啓蒙時代を代表する著作に、モンテスキューの「法の精神」(1748)がある。この著作は近代政治思想に大きな影響をあたえた。

博物学者ビュフォンは、大作「博物史」(36巻。1749~88)の編纂に一生をささげた。それは、18世紀の博物学者たちがとりくんでいた動植物の再分類という膨大な作業の一部をなしている。

ルソーといえば、今日わたしたちは「告白録」(1782、89)を思いおこすが、「社会契約論」(1762)は当時の政治思想に革命的な影響をあたえた。彼は、個人と社会は契約関係にあり、個人は地位の平等と相互援助と引き換えに自己の個人的権利のいくつかを放棄するとした(→ 社会契約説)。フランス革命の指導者たちはみずからを彼の弟子とみなした。彼はまた、「エミール」(1762)によって教育思想に、そして、ロマン主義を予告する「新エロイーズ」(1761)によって文学にも革命的な影響をおよぼした。

2 恋愛小説と抒情詩

18世紀の物語文学は、ボルテールなどの哲学小説をのぞけば、「クレーブの奥方」風である。アベ・プレボー作「マノン・レスコー」(1731)や、マリボー作「マリアンヌの生涯」(1731~41)は、「クレーブの奥方」同様、主人公が2人しかおらず、彼らの恋愛の危機が筋をつくっている。ピエール・ド・ラクロ作の「危険な関係」(1782)はもっと手がこんでいる。それは、社交界の陰謀をえがいた、しゃれた、スキャンダラスな小説である。

最後に、31歳でギロチンにかけられたシェニエをあげておかなければならない。彼はおどろくべき数の珠玉の詩をものにしたが、ちょうど英国詩人ジョン・キーツのように、成熟期にさしかかったところで他界してしまった。キーツ同様、彼の詩も、純粋な美によって際だっている。シェニエは18世紀最大の詩人とみなされている。

VI 19世紀の潮流

19世紀のフランスには、数々の文学グループがあらわれた。ロマン主義、写実主義、高踏派、自然主義とつづいていく。

1 ロマン主義運動

フランス革命につづく王政復古期を代表する作家は、アンシャン・レジーム(旧体制)の栄光へのノスタルジーをのべたジョゼフ・ド・メーストルと、宗教の復活をとなえたシャトーブリアンである。シャトーブリアンのバイロン的個人主義、熱狂的な自然礼賛、宗教の審美的な価値の重視は、ロマン主義運動を先導する一助となった。

スタール夫人は、政治的には急進派であり、小説においては、後世代のロマン主義者たちの関心と方法を先取りした。彼女の傑作とされているのは「コリンヌ」(1807)である。

初期ロマン主義のリーダーはラマルティーヌであった。彼は感傷的な作家であるとともに、熟練した職人であった。ロマン主義者たちは規則をやぶり、古典主義的拘束を無視して、わきたつ感情のおもむくがままにした。彼らのうちでもっとも多産で戦闘的だったのはユゴーである。彼は「エルナニ」(1830)の上演において、劇場をロマン主義的理念を提唱するための公開討論の場とした。彼を支持したのは、小説家のデュマ(父)とゴーティエ、そして詩人のアルフレッド・ド・ビニー、ミュッセ、シャルル・ノディエだった。ロマン主義者の著作は、ドラクロワやアンブロワーズ・トマなど、絵画、音楽における類似した潮流と相互に影響しあう関係にあった。

1815年の王政復古後における、革命派と反動派との闘争は文学の世界にもおよんだ。保守派を代表する作家は上にあげたが、急進派には次のような作家がいる。後期詩編に表現された共和国派的見解のために2度投獄された詩人ピエール・ベランジェ。社会小説の草分けともいえる作品も書いた小説家で、フェミニストのはしり、ジョルジュ・サンド。フランス革命を賞賛した歴史家ジュール・ミシュレ。サン・シモン、シャルル・フーリエ、ピエール・プルードン、ルイ・ブランなどの社会主義の先駆者。歴史家ギゾー、アドルフ・ティエール、オーギュスタン・ティエリーの著作や、コンスタンの作品には中立的な見解があらわれた。コンスタンは「アドルフ」(1816)の作者としておもに知られており、その中でスタール夫人との波乱にとんだ恋愛をかたったが、この小説には政治的な含みはない。

2 写実主義への移行

バルザックは、ロマン主義運動と、それにつづいた写実主義運動を橋渡しする存在といえるかもしれない。彼は、強大な力、多様性、独創性においてロマン主義作家につらなる。他方、唯物論的気質、緻密(ちみつ)な観察力、詳細な事実へのこだわりの点で、彼は最初の写実主義者である。20年余りをついやして書かれた彼の野心作「人間喜劇」(全91編。1829~48)は、相互に関連した長編および短編小説からなっている。この作品群の特徴は、ほとんどすべての社会階級や職業を包含し、19世紀フランスのさまざまな現実生活の具体的細部の描写をとおして、当時の社会状況を浮き彫りにしたことである。

写実主義者にはほかに、スタンダール、フローベール、メリメがいる。バルザックはスタンダールのするどい心理的洞察をみとめ、賞賛したが、これは近代の心理小説を先取りするものだった。スタンダールの主要な小説は「赤と黒」(1830)、「パルムの僧院」(1839)である。フローベールの細密な写実主義をよくあらわしているのは「ボバリー夫人」(1857)である。彼の書き方は微妙な効果をもっている。というのも、注意深く観察した詳細を丹念につみ重ねていくことによって、人物や状況がしだいにうかびあがってくるからである。メリメはある種のロマン主義的気質をもっているが、心理的真実をまじえた彼の性格描写を考慮すれば、写実主義者にくわえてよいだろう。代表的な短編小説は「カルメン」(1845)と「コロンバ」(1840)である。

フランス最大の批評家、サント・ブーブも、写実主義者の仲間にいれてもいいかもしれない。彼は最初、ロマン主義に賛同したが、のちには写実主義の支持者となった。批評家の主たる務めは判断をくだすことではなく理解することであるとの信念から、一作家の作品に影響をおよぼす伝記や環境という要因を研究した。彼の研究は社会学的、心理学的批評の最初で、おそらくは最良の例といえるかもしれない。主要作品は「月曜閑談」(15巻。1851~62)、「女性の肖像」(1844)、「現代作家の肖像」(1846)、「ポール・ロワイヤル」(1840~59)である。

3 高踏派と象徴主義者

ロマン主義に対する反動は、詩の分野では、かつてロマン派のリーダーであったゴーティエの「螺鈿七宝集(らでんしっぽうしゅう)」(1852)にはじまった。この運動は高踏派とよばれるグループによってさらに推進されることになる。中心的詩人には、ルコント・ド・リール、シュリ・プリュドム、エレディアがいる。彼らは、限定された、非人格的で彫刻的な美をもとめ、それを達成しようとしたが、その作品は、ロマン主義からの前進というよりは、古典主義への回帰とみなしうる。

ボードレールの作品はことなる。彼の詩の技術的練磨は高踏派に通ずるが、彼は自己の苦痛、苦悩、絶望にまったく個性的な表現をあたえる。彼の傑作詩集は「悪の華」(1857)だが、その出版は、いくつかのスキャンダラスな詩句を削除するまで許可されなかった。

ボードレールに霊感をえて、彼にしたがったのが象徴主義の詩人であるが、彼らは軽蔑的(けいべつてき)に退廃派とよばれることがある。作品はとくに自由詩での実験を特徴とする。象徴主義の詩人として、ベルレーヌ、アンリ・ド・レニエ、マラルメ、ロートレアモン、トリスタン・コルビエール、シャルル・クロ、ラフォルグ、アメリカからの移住者フランシス・ビエレ・グリファンとスチュアール・メリルがいた。ロートレアモンの詩集「マルドロールの歌」(1869)は、のちにシュルレアリスムに影響をあたえた。ベルギー人の象徴主義者には、ジョルジュ・ローデンバック、エミール・ベルハーレン、メーテルリンクがいた。もっとも影響力の大きかった象徴主義詩人はランボーだったが、その強烈な詩の大部分は彼が19歳になる前に書かれた。象徴主義の詩は暗示的であり、その点でモネなどの印象主義絵画と、ドビュッシーなどの印象主義音楽につながる(→ 印象主義)。

散文の分野で、象徴的効果をねらった作家がいた。文芸批評家レミ・ド・グールモン、意識の流れの手法を先駆的にとりいれて「月桂樹は切られた」(1888)を書いたエドゥワール・デュジャルダン、著名な象徴主義詩人アンリ・ド・レニエなどである。

4 自然主義の作家たち

19世紀後半、フローベールの作品にみられるような写実的傾向から、自然主義運動が生まれた。これは、環境と遺伝が人間の行為を決定すると考える運動であって、それを方向づけたのが、「イギリス文学史」(1864)を書いた歴史家、批評家イポリット・テーヌである。彼は、美徳、悪徳のような人間の価値も、砂糖や硫酸塩と同じような生成物であり、人間の文化は人種や風土の影響によって形成されると考えた。エドモンとジュールのゴンクール兄弟は共同で執筆し、「ジェルミニー・ラセルトゥー」(1864)のような小説において自然主義の先駆者となった。弟の死後、エドモン・ド・ゴンクール(彼はフランスの権威ある文学賞、ゴンクール賞の基金を寄付した)はひとりで数冊の小説を書いた。彼の影響をうけて写実的な小説を書いたのがドーデである。彼はプロバンス地方を活写した「風車小屋だより」(1869)で有名だが、その作品にはディケンズ風のユーモアがある。

自然主義文学の作家中傑出しているのはゾラであり、自然主義を文学の根本原則とした。この用語を彼は、テーヌ風の歴史的決定論を特徴とする自作の内容と目的をのべるためにとくにもちいた。彼の文学論がよくあらわれているのは「居酒屋」(1877)、「ナナ」(1880)、および「ジェルミナール」(1885)である。ゾラの文学論はあまりに過激であったため、1887年には、彼の小説「大地」に抗議文を出した反対グループが、エドモン・ド・ゴンクール、ドーデほか、ゾラの5人の弟子によって構成された。「弟子」(1889)の作者として知られる小説家ポール・ブールジェもゾラを批判した。彼は環境の要因よりも心理的要因を重視したが、これはゾラの自然主義が無視したものだった。

短編小説で重要な作家はモーパッサンである。彼は「女の一生」(1883)、「ベラミ」(1885)、「ピエールとジャン」(1888)などの長編と「メゾン・テリエ」(1881)、「月の光」(1884)などの短編集をのこした。フローベールを文学の師とあおいだモーパッサンは、短編小説の分野では傑出している。

テーヌの唯物論とミシュレのロマン主義的個人主義に対立したのが、影響力をもった歴史家、批評家エルネスト・ルナンである。彼は代表作「キリスト教起源史」(7巻。1863~83)でキリスト教の成立を実証的に論じ、ピエール・ロティ、バレス、アナトール・フランスなどの小説家に影響をあたえた。

アナトール・フランスはゾラに近い社会観をもっていたが、その表現には皮肉をもちいた。彼の著作は社会の非合理的な力についての論評であり、弱者への哀れみと、権力の乱用に対する怒りがみちている。代表作は写実的な短編「クランクビーユ」(1901)、風刺的な空想物語「ペンギンの島」(1908)、「天使の反逆」(1914)などである。

もうひとりの偉大な19世紀作家は、博物学者ファーブルである。彼の昆虫の生態に関する研究はたのしく読むことができ、フランスばかりでなく世界じゅうで大衆的な科学論文のモデルとなっている。

VII 20世紀の破壊と創造

20世紀のフランス文学は、文化全体の動揺と変化から強い影響をうけた。象徴主義の革新にくわえて、外国からの衝撃があった。アメリカの舞踏家イサドラ・ダンカンがもたらしたモダンダンス、バレエ・リュッスにはじまるモダンバレエ、ロシア人の作曲家ストラビンスキーの音楽、プリミティブ・アート、そして文学では、ロシア人の小説家ドストエフスキーや、アイルランド作家ジョイスなどである。これらはたがいに影響しあい、きわめて急速に変化していったので、全体をみわたすためには時間が必要である。

1 個人主義者の試み

「スワン家の方へ」(1913)は、プルーストの「失われた時を求めて」(16巻。1913~27)の第1巻であるが、これは一般に、心理小説の最高傑作とみなされている。ロマン・ロランは「ジャン・クリストフ」で有名だが、彼はその10巻を1904~12年の間に書いた。第1次世界大戦中はスイスにのがれ、兵士たちに平和への呼びかけをおこなった。彼の反戦思想は小説「クレランボー」(1920)に表現されている。「背徳者」(1902)の中で、ジッドは、自由自体はすばらしいが、それにともなう責任をひきうけることはむずかしいという確信を表現した。このテーマをさらにおしすすめ、彼は「狭き門」(1909)を書いた。ジッドの作品は、思想と表現の独自性において際だっている。マルタン・デュ・ガール作の「ジャン・バロワ」(1913)は広く読まれているが、この小説は1880年代における、神秘主義的な背景と科学的精神の間の葛藤(かっとう)をあつかったものである。

カトリック作家としては、神秘主義的詩人、小説家フランシス・ジャムとモーリヤックをあげておこう。モーリヤックの作品には、教訓をおしつけたり、改宗をせまったりするようなところはまったくない。それは悪、罪、弱さ、苦悩に関する考察にささげられている。彼の小説、戯曲、詩には、小説家ではなく、パスカル、ラシーヌ、ボードレールの影響が感じられる。彼らはみな悲劇の感覚によって、超然とした姿勢と強い文体を生みだした人たちであった。

コクトーはさまざまなジャンルで活躍した。代表作として、詩集「平調曲」(1923)、小説「恐るべき子どもたち」(1929)、戯曲「地獄の機械」(1934)、映画「詩人の血」(1931)があり、その他批評やバレエも書いた。

ジロードゥーは最初、「田舎の女たち」(1909)でフランスの地方生活を写実的にえがいて注目をあびた。力強く、独創的な作家だという印象は、写実的戦争小説によって強められた。また、その1冊はバルザック賞をえた。のちに彼は、劇作家としても同様の地位を獲得した。戯曲「アンフィトリヨン38」(1929)と「シャイヨの狂女」(1945)は国際的に成功した。彼のほとんどの作品には独創的な物語と優雅な文体がある。

ジュール・ロマンはまず劇作家だったが、その後小説を書きはじめた。「善意の人々」(27巻。1932~47)において彼は、近代フランス人の人生全体をえがききろうとした。この構想はユナニミスム、つまり、個人と個人の生きる社会は一体であるという考えにもとづく。彼は一社会の集合的な精神をえがいた。

アポリネールは文化的マニフェスト(声明文)の詩人であり、作家であった。彼の「キュビスムの画家たち」(1913)は絵画におけるキュビスムを確立するのに役だった。詩集「アルコール」(1913)と「カリグラム」(1918)はわかきシュルレアリストの間で人気を博し、大きな影響力をもった。→ シュルレアリスム

カトリックの詩人、劇作家、そしてその擁護者、クローデルは、いかなる文学グループにも近づかなかった。彼の作品には宗教感情が色こくただよっているが、それが、「五大讃歌」(1910)、「三声による頌歌(しょうか)」(1914)などの抒情詩、「クリストファー・コロンブスの書」(1930)などの戯曲に霊感をあたえている。

象徴主義から詩にはいったバレリーは、当時もっとも偉大な哲学的な詩人のひとりとなった。技巧をこらしつつ、彼は厳密な形式の枠内で抽象的思考を表現しようとした。ボードレールは、19世紀のアメリカ人作家エドガー・アラン・ポーの翻訳とみずからの作品によって、フランス近代詩のひとつの傾向を生みだし、マラルメとバレリーはそれを継承した。それは音に対する特別な関心といえる。バレリーは象徴主義を定義して、新たな詩は詩に帰属するものを音楽から奪還するとのべた。しかし、実際には彼は古典的な韻律を復活させた。詩を書くという行為は、有用な拘束に意志を屈従させることだと考えていた。

モンテルランの小説の主題は幅広く、スポーツ(「オリンピック」1924)から現代社会における女性の問題(4部作「若き娘たち」「女性への憐憫」「善の悪魔」「癩(らい)を病む女たち」1936~39)にまでおよぶ。モーリヤックやジロードゥーのように、彼も演劇にむかい、「死せる女王」(1942)のような歴史的悲劇やいくつかの現代劇を書いた。

コレットは、大きな大衆的成功をえ、ひじょうに多作であったために(全部で80冊以上を出版)、本格的な作家としてみとめられるまでに時間がかかったが、結局、フランスではプルーストやジッドに、イギリスではサマセット・モームにみとめられた。「シェリ」(1920)や「ジジ」(1945)などの小説の文体はのびのびとしていて優雅であり、そのするどい知覚でコレットは世界のすぐれた心理小説家たちと肩をならべる。

2 第1次世界大戦の体験

バルビュスは「砲火」(1916)で、第1次世界大戦をリアルにえがいたが、それに霊感をえたロラン・ドルジェレスは「木の十字架」(1919)を書いた。この2人は、1920年代のフランスばかりでなく、ドイツ、イギリス、アメリカにあらわれた反戦文学の先駆者である。随筆家モーロワは、「ブランブル大佐の沈黙」(1918)の中で戦争をユーモラスにえがいた。彼は、「シェリー伝」(1923)以降、次々に伝記の傑作をあらわした。デュアメルは「殉難者の生涯」(1917)の中で、やさしいアイロニーをまじえて戦争をあつかったが、彼の立場は戦争賛美派とも戦争反対派とも袂(たもと)をわかつものである。その後の小説ではフランス中産階級をえがいた。

3 ダダとシュルレアリスム

第1次世界大戦直後のフランス、ドイツ、スイス、アメリカで、ダダと命名されたわかい詩人や画家たちの運動が広まった。すべての伝統的芸術形式に反抗した彼らは、芸術を破壊すると宣言し、それに着手した。1923年ごろ、その何人かがブルトンにしたがってダダをはなれ、新たな運動をはじめた。それはアポリネールが考案した用語をもちいてシュルレアリスムと名づけられた。

運動の理論家でありリーダーであったブルトンは医学生として文筆活動にはいった。1916年、彼は、常に「狂気」のうちに生きたいと公言していたジャック・バシェの影響をうけ、このほとんど伝説的な人物のもたらした印象やブルトンが熱狂したランボーの詩から、もっとも重要な価値は潜在意識からもたらされるという芸術と人生の哲学が生まれた。シュルレアリスムはフランスで非難されたが、運動の源泉はフランス文学にある。その直接の先人はロートレアモン、ボードレール、クロ、ランボー、そして一般的には象徴主義詩人であった。

ブルトンの独裁者的性格が、運動参加者の自由と競合関係にあったために、参加者の顔ぶれはいつも変化していた。運動にかかわったことのある作家のうち、重要な何人かを紹介しよう。

アラゴンははじめダダイストだったが、1924年からシュルレアリスムに参加し、「自由思想」(1924)などの詩集をだした。しかし28年には、「文体論」の中でシュルレアリスム作品の背後にある動機を非難し、30年には共産主義者となって、シュルレアリスム運動から追放された。彼の小説「バーゼルの鐘」(1934)、「美しき街」(1936)は国際的に絶賛された。第2次世界大戦中フランスがドイツに占領された際には詩にもどり、「断腸詩集」(1941)、「エルザの瞳」(1942)で自国の敗北をなげいた。

エリュアールはシュルレアリスム最大の詩人であろう。ダダイストとして出発したのち、客観化したイメージをつらねた詩集「人生の必然と夢の結果」(1921)を出版した。1923年ごろからシュルレアリスム運動にくわわり、「死なずに死ぬこと」(1924)、「苦悩の首都」(1926)において、イメージをおりあげて普遍的精神の一部としての愛を凝視した。このような作品におけるイメージは、詩人自身からの純粋な発露となっており、分離した存在としての自然とはいかなる関わりももっていない。シュルレアリスムとは密接な関係はないが、彼の第2次世界大戦中の詩集「詩と真実一九四二年」(1942)、「ドイツとの待ち合わせに」(1944)では、同様のイメージの技巧をもちいて自国の敗北をなげき、その後のレジスタンスを賞賛した。

4 他の様式と主題

シュルレアリストとはちがったやり方で、時代の精神を表現しようとした小説家がいた。マルローは革命と反革命を経験し、「人間の条件」(1933)では中国の革命を、「侮蔑(ぶべつ)の時代」(1935)ではドイツにおける反ナチ地下運動を、「希望」(1937)ではスペイン市民戦争(→ スペイン内乱)をあつかい、つねに死ととなりあわせた生をえがいた。アメリカ人を両親にパリに生まれた小説家ジュリアン・グリーンはフランス語で創作し、不思議な幻想世界をえがいたが、そのおそろしい雰囲気はユーモアによってもやわらげられていない。彼は「アドリエンヌ・ムジュラ」(1927)や「レビアタン」(1929)などでフランスのいなか生活を、「モン・シネール」(1926)、「モイラ」(1950)でアメリカの生活をあつかった。グリーンの最初の戯曲、「南部」(1953年パリ上演)は、古典的悲劇である。

飛行家サンテグジュペリは、「夜間飛行」(1931)、「人間の土地」(1939)などの作品で空を征服した偉大な作家として知られるようになった。彼の人道的な態度は、大人子供を問わず世界じゅうで人気を博した「星の王子さま」(1943)にもあらわれている。他方、人間嫌いの点では、セリーヌの小説にまさるものはめったにない。「夜の果ての旅」(1932)では救済の望みのない破局をえがき、「なしくずしの死」(1936)では、人間のあらゆる願望を侮蔑的にあてこする。

ブリュッセルで生まれ、フランスとアメリカの市民権をもつマルグリット・ユルスナールは、ひじょうに古典的な文体と知的な幅の広さで絶賛されている。「ハドリアヌス帝の回想」(1951)などの歴史小説や、自分の家族の伝記「敬虔(けいけん)な思い出」(1974)を書いた彼女は、1980年、女性ではじめてアカデミー・フランセーズの会員となった。終戦直後の作家のひとりであるサガンは、ユルスナールと対照的に、半自伝的な今日風の恋物語を書いて人気を博した。処女小説「悲しみよこんにちは」(1954)は批評家賞を受賞し、彼女の名声を確立させた。

サン・ジョン・ペルスは20世紀最大の詩人のひとりである。「遠征」(1924)は、社会と距離をたもちつつも、社会に深くかかわっている詩人の逆説をえがいている。象徴主義的な態度が解脱(げだつ)であるとするならば、シュルレアリスムのそれは攻撃性である。だが、ペルスはよりバランスのとれた古典的態度を代表し、人生を凝視しながら、それに参加する。この態度は、彼の最長の詩「航海標識」(1957)に明確にあらわれている。ルネ・シャールは、同世代の詩人の中で際だった存在だった。彼は1930年代にはシュルレアリスムを支持したが、40年代初頭レジスタンスに参加して態度をかえた。彼の最良の詩は1940~44年にかけて書かれ、「眠りの神の手帖(てちょう)」(1946)に収録されたが、それは戦争という主題を超越している(→ 戦争文学)。

5 実存主義の提起

1940年代に実存主義とよばれる、否定的で悲観的な哲学、文学運動がおこったが、そのリーダーは哲学者、劇作家、小説家であるサルトルだった。彼が「存在と無」(1943)で概説した実存主義の中心的命題は、人間の実存は無意味で希望がなく、人間は実際のところ個人的な経験の総和にすぎないというものであった。戯曲「蝿(はえ)」(1943)、「出口なし」(1944)、「汚れた手」(1948)でサルトルは、短編集「壁」(1939)の中ですでに提起していた問題を発展させた。3部作「自由への道」(1945~49)では、幻想から解放され、社会のあらゆる役割を演じなければならないことを意識した人間をえがこうとした。

サルトルをもっとも敬愛した弟子は生涯の伴侶(はんりょ)であったボーボワールであるが、彼女は「レ・マンダラン」(1954)を書いて、ややぼかしながらも、フランスの主導的実存主義者たちの関係をあつかった。「別れの儀式」(1981)は、サルトルを回想した書物である。

カミュは、とくに戯曲「カリギュラ」(1944)では実存主義者といってもいいくらいだったが、彼の二大小説「異邦人」(1942)と「ペスト」(1947)で、人間の努力の望ましさ、そしてその必要性までもみとめた。

6 アンチ・テアトルとヌーボー・ロマン

1950年代のフランスには、2つの実験的流派がおこった。不条理劇あるいはアンチ・テアトルを代表する劇作家として、ルーマニア生まれのイヨネスコ、第1次世界大戦後からフランス語で書きはじめたアイルランド人ベケット、そしてジュネがいる。代表的な作品には、評判をとったベケットの「ゴドーを待ちながら」(1952)、ジュネの「バルコン」(1956)、「屏風(びょうぶ)」(1961)がある。不条理劇は実存主義の心理分析と哲学的傾向に反対した。

「アンチ・テアトル」と同時に、ヌーボー・ロマンとよばれることになる「アンチ・ロマン(反小説)」が登場した(「アンチ・ロマン」の語はサルトルがナタリー・サロートの小説にあたえたのが最初である)。ヌーボー・ロマンは、おもにナタリー・サロート、クロード・シモン、ロブ・グリエ、ミシェル・ビュトールの小説と文芸理論を通じて、相当な注目をあつめた。新しい小説家たちは、新しい劇作家同様、心理小説に反対した。彼らは事物の純粋に客観的な世界を重視する。感動や感情はそのまま描写されることがない。というより、それがどうなっているのかを、読者は登場人物たちと事物との関係をさぐることによって、自分で想像しなければならない。サロートの「見知らぬ男の肖像」(1948)が口火を切り、同じくサロートの「あの彼らの声が…」(1972)、ロブ・グリエの「嫉妬(しっと)」(1957)、ビュトールの「心変わり」(1957)がつづいた。シモンは意識の流れの手法を多用して、濃密な構成をもった歴史小説を書いている。代表作は「フランドルへの道」(1960)である。

文芸批評、文学の構造主義の新たな一派が、フランスの人類学者レビ・ストロースの影響をうけながら1960~70年代に構成された。この一派を代表するのがロラン・バルトであった。彼の「記号学の原理」(1964)は記号学入門書である。近年、デコンストラクション(脱構築)とよばれる分析方法が流行しているが、これを創始したのは哲学者・批評家のデリダである。→ 文芸批評

7 最近の傾向

1980年をおおよその境として、それまで遠ざけられていた「私」がフランス文学にもどってきた。その口火を切ったのが、みずから構造主義批評をリードしてきたロラン・バルトである。「彼自身によるロラン・バルト」(1975)や「恋愛のディスクール、断章」(1977)は、彼がそれまでこころみてきた客観的テクスト分析の対極にある。そこではロマン主義的な主体がみずからについて臆面もなく語り、それまでのタブーが一挙にとりはらわれたかのようだ。

自分について語ることをかたくなに拒否していたヌーボー・ロマンの作家たちが、ただちに反応した。ナタリー・サロートの「子供時代」(1983)、ロブ・グリエの「ロマネスク」3部作(1985~94)、クロード・シモンの「アカシア」(1989)には作者の自叙伝的要素が色こくとりいれられている。同様にマルグリット・デュラスは、「愛人」(1984)で思春期の恋をはじめて自伝的にものがたり、一般読者の大きな支持をえた。

1990年代の動向を、現時点で確定的にのべるのはむずかしい。膨大な量の作品群の中で何がのこるかを決定するのは歴史だからだ。ただ、90年代を通じて明らかになりつつある傾向のひとつは、フランス本土の外で生まれた作家たちがパリの文学を活性化していることだ。外国語を母語としながらフランス語で表現するこうした作家として、チェコ人のミラン・クンデラ、ハンガリー人のアゴタ・クリストフ、モロッコ人のタハール・ベン・ジェルーン、ロシア人のアンドレイ・マキーヌ、フランス海外県のラファエル・コンフィアンなどがあげられる。


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