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現象主義の流れ(2) [宗教/哲学]

現象主義の流れ(2)

カルナップ
マッハ

マッハ
Mach,Ernst

[生] 1838.2.18. モラビア,ツラス
[没] 1916.2.19. ミュンヘン近郊ハール

  

オーストリアの物理学者,哲学者。ウィーン大学卒業。グラーツ大学 (1864) ,プラハ大学 (67~95) の教授を経て,ウィーン大学科学哲学教授 (95) 。上院議員 (1901) 。空気中を動く物体の速さが音速をこえたときに空気の性質に急激な変化が起ることを指摘し,マッハ数の概念を導入した。また実験心理学的知見をふまえた新たな科学の認識論を展開。世界の究極的構成要素は,感性的諸要素 (色,音,熱から空間,時間をも含む) であるとする要素一元論を説き,諸要素間の連関を思惟経済の原則に従って記述することが科学の本分であるとした。むろん科学においては経験的に検証されない言明は無意味なものとして退けられる。こうした立場から,当時絶頂にあった力学的自然観の特権性を否定し,古典力学の理論体系の絶対時空間,因果律などの形而上学的性格を暴露してみせた。彼の思想はアインシュタインの相対性理論誕生に重大な影響を与えるとともに,ウィーン学団を中心とする論理実証主義的科学哲学に受継がれた。『感覚の分析』 (1886) ,『力学の発達-その批判的,歴史的考察』 (83) ほか著作多数がある。





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カルナップ 1891‐1970
Rudolf Carnap

哲学者。論理実証主義の創設者の一人。またアメリカにおける分析哲学の発展に指導的役割を演じた。ドイツに生まれ,最初は物理学を専攻した。後にフレーゲと B. A. W. ラッセルの影響の下に哲学に関心をもち,1926年ウィーン大学の私講師となり,シュリックらとともにウィーン学団を結成し,その中心人物となる。当時ベルリンにいたライヘンバハとともに雑誌《エルケントニス(認識)》を刊行し,論理実証主義の思想を世界に広めた。後にナチスを逃れて,35年アメリカに渡り,シカゴ大学,カリフォルニア大学で教え,その地に新しい哲学を植えつけた。その学風の影響の下にクワインらを起点とする現代アメリカ哲学が育った。彼の哲学思想の発展は大きく3段階に分けられる。第1段階は《世界の論理的構成》(1928)における過激な現象論的経験主義の時代であり,その立場から,多くの哲学的命題は擬似問題として退けられ,また,《言語の論理的シンタックス》(1934)において,哲学とは科学言語の論理的シンタックス(統語論)であるという立場が示された。第2段階として,《検証可能性と意味》(1936‐37)において,その立場はいわゆる物理主義へと弱められ,また第3段階として,アメリカの哲学者との交流を通じて話題を広げ,意味論的諸概念の分析,物理学や帰納論理の基礎づけを試みた晩年がある。日本にはアメリカの哲学者を通じて第2次大戦後はじめて本格的に紹介されたが,まだ十分な評価がなされていない。近時,世界的に彼の哲学の再評価の試みが現れている。          坂本 百大

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カルナップ,R.
カルナップ Rudolf Carnap 1891~1970 哲学者。論理実証主義運動における中心的人物。→ 実証主義

ドイツに生まれ、イエナ大学とフライブルク大学で数学、物理学、哲学をまなぶ。フレーゲ、ラッセルの影響をうけ、論理実証主義者の集まりであるウィーン学団を結成する。1930年にライヘンバッハとともに機関誌「エルケントニス(認識)」を刊行する。35年にアメリカに亡命して、シカゴ大学、カリフォルニア大学でおしえた。

カルナップは、哲学の仕事は論理的な分析にあると考え、唯一意味があるとみとめられる科学における言語を分析した。「世界の論理的構成」(1928)において、彼は感覚にあらわれるものを記述する言語を基礎にすえ、多くの哲学的問題を否定した。「言語の論理的シンタックス」(1934)では、哲学は科学の言語の論理的なシンタックス(構文論)にすぎないと考えた。カルナップは、形式的で論理的な言語体系をつくることによって、哲学の諸問題を言語の問題へと解消しようとしたのである。

また、確率論の研究や帰納論理の基礎付けもこころみた。ほかの著作には「検証可能性と意味」(1936~37)、「物理学の哲学的基礎」(1966)などがある。


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シカゴ学派
シカゴ学派

シカゴがくは
Chicago school

  

J.デューイ,G.ミードらの「人間のあらゆる認識を行動の場でとらえる」ことを目指すプラグマティズムと,1930年代シカゴ大学に来たウィーン学団の R.カルナップ,C.ヘンペルなどの科学記号の論理的解明を目指す運動の2つが合体して成立した記号論研究集団をさす。初めウィーン・シカゴ学派と呼ばれ,のち,特にシカゴ大学のメンバーだけをシカゴ学派と呼ぶようになった。 A.コージブスキーの『科学と正気』 Science and Sanity (1933) による一般意味論──記号とその刺激による人間の行動を問う──との関連が深い。 38年シカゴに一般意味論研究所が設立された。





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シカゴ学派
シカゴがくは Chicago school

〈シカゴ学派〉という用語は経済学・社会思想のほか,政治学(C. E. メリアムらを中心に科学的政治学を唱道),社会学(A. W. スモールらの第一世代は実証的方法を提唱,R. E. パークらの第二世代は都市社会学で成果をあげた),人類学などの分野でも用いられる。いずれもシカゴ大学がそれぞれの分野で,ある時期に世界的影響を与えたことから発生した用語である。経済学・社会思想の分野におけるこの学派は1940年代の F. A. ハイエクに代表され,ハイエクがシカゴを去ったのちには,マネタリズム(新貨幣数量説)の提唱者でもあるM. フリードマンがその代表的学者と考えられることが多い。ハイエクの思想はアダム・スミスの考えを現代的に深化・拡大したものであり,最もすぐれた現実的社会経済体制は民主主義のもとにおける市場経済であることを,一つの社会経済理論として確立した。すなわち市場経済のもとでは,企業や個人が市場の分業体制のもとで一定のルールにもとづいて自己の利益を追求する。この過程で個人が自己がもつ,あるいは入手できる情報(知識)をその自発性にもとづいて最大限に利用するため,結局社会全体としてその社会に分散して存在する知識の利用が最大となる。これに対して中央集権的計画経済のもとでは,このような個人の自発性にもとづく知識の最大利用は体制的に不可能である。この理論にもとづく思想は新自由主義(ネオ・リベラリズム)とよばれる。ハイエクはこの視点から,共産主義(社会主義)や高度の政府介入を認めるケインズ主義,平等を極度に強調する福祉国家論等を,社会科学的無知にもとづくものとして根本から批判した。フリードマンの主張はハイエクと異質なものも含むが,ハイエクやその他のシカゴ学派の学者の主張を一部受け継いでいる。とくにほとんどすべての政府の経済への介入を批判し,ケインズ派の財政・金融政策による経済への介入が有害であると主張した。さらに財政政策は元来無効であることを強調した。そして正しい貨幣政策はその実施に当たって,そのときどきの政府の干渉を排し,つねに貨幣量を一定の増加率でふやしていくという長期ルールにもとづいて行われるべきであることなどを主張した。
                        鬼塚 雄丞

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プラグマティズム
プラグマティズム

プラグマティズム
pragmatism

  

1870年代の初めアメリカの C.パースらを中心とする研究者グループによって展開された哲学的思想とその運動。ギリシア語のプラグマから発し,プラグマティズムとは,行動を人生の中心にすえ,思考,観念,信念は行動を指導すると同時に,逆に行動を通じて改造されるものであるとする。そして行動の最も洗練された典型的な形態を科学の実験に求め,その論理を哲学的諸問題の解決に応用しようとするもの。代表的哲学者は,パースをはじめ W.ジェームズ,J.デューイ。彼らの理論は,明治の頃日本に紹介されたが,特に第2次世界大戦後デューイの教育理論は,教育思想に大きな影響を与えた。





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プラグマ

プラグマ
pragma

  

ギリシア語で行為,事実,事物,重要事,問題の意。行為や事実としてのプラグマには理論 logosが,事物としてのプラグマには名辞 onomaや言語 logosが対応する。ことに後者の対応関係はギリシア哲学において実在の解釈をめぐる基本的な問題であった。





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パース
パース

パース
Peirce,Charles Sanders

[生] 1839.9.10. マサチューセッツ,ケンブリッジ
[没] 1914.4.19. ミルフォード

 アメリカの哲学者。プラグマティズムの祖とされ,また形式論理学,数学の論理分析にも貢献。ハーバード大学卒業後,主として合衆国沿岸測量技師として活躍。晩年は隠栖して哲学研究に没頭。 1878年の論文『われわれの観念を明晰ならしめる方法』 How to Make Our Ideas Clearにおいて,概念の意味はその概念によって引出される実際の結果によって確定されると主張し,この説は友人の W.ジェームズにより「プラグマティズム」と命名された。しかしパースは自己の説を「プラグマティシズム」と呼んで,前者から区別した。死後8巻から成る論文集が編纂された。





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ジェームズ
ジェームズ

ジェームズ
James,William

[生] 1842.1.11. ニューヨーク
[没] 1910.8.26. ニューハンプシャー,チョコルア

アメリカの哲学者,心理学者,いわゆるプラグマティズムの指導者。小説家 H.ジェームズの兄。 1861年ハーバード大学理学部へ入学,のち同大学の医学部へ移籍。 67~68年ドイツに留学し,フランスの哲学者 C.ルヌービエなどの影響を受け,心理学,哲学に心をひかれた。 69年卒業,学位を得たが開業せず,療養と読書に過した。 72年ハーバード大学生理学講師。のち心理学に転じ,伝統的な思考の学としてではなく生理心理学を講じ,実験心理学に大きな貢献をした。また,ドイツの心理学者 C.シュトゥンプを高く評価。さらに宗教,倫理現象の研究に進み,その後哲学の研究に入った。その立場は根本的経験論に基づく。そのほか,82年頃から心霊学に興味をもち,アメリカ心霊研究協会の初代会長をつとめた。主著『心理学原理』 The Principles of Psychology (1890) ,『信ずる意志』 The Will to Believe and Other Essays in Popular Philosophy (97) ,『宗教的経験の諸相』 The Varieties of Religious Experience (1901~2) ,『プラグマティズム』 Pragmatism (07) ,『根本経験論』 Essays in Radical Empiricism (12) 。





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デューイ
デューイ

デューイ
Dewey,John

[生] 1859.10.20. バーモント,バーリントン
[没] 1952.6.1. ニューヨーク


プラグマティズムに立つアメリカの哲学者,教育学者,心理学者。哲学のプラグマティズム学派創始者の一人,機能心理学の開拓者,アメリカの進歩主義教育運動の代表者。バーモント州立大学卒業後ジョンズ・ホプキンズ大学で心理学者 G.ホール,哲学者 C.パースなどに学んだ。 1888~1930年ミネソタ,ミシガン,シカゴ,コロンビアの各大学教授を歴任。その間日本,中国,トルコ,メキシコ,ソ連などを旅行し社会改革の実情を視察した。またトロツキー査問委員会委員長,アメリカ平和委員会の一員として政治的,社会的にも活躍。その哲学の特色は,伝統的哲学の絶対性や抽象的思弁を排し,哲学的思考は経験によって人間の欲求を実現するための道具であり,哲学的真理は善や美と並ぶ目的価値ではなく,それらを実現するための手段とみなすところにある。このインストルメンタリズムと呼ばれる立場を教育学に応用して進歩主義教育の理論を確立,その他政治学,社会学,美学などの分野にも貢献した。主著『心理学』 Psychology (1887) ,『民主主義と教育』 Democracy and Education (1916) ,『経験と自然』 Experience and Nature (25) ,『確実性の探求』 The Quest for Certainty (29) ,『人間の問題』 Problems of Men (46) など。





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インストルメンタリズム

インストルメンタリズム
instrumentalism

  

道具主義,器具主義などと訳されるように,観念,知識,思想などを人間の行動のための道具,生活のための手段と考える立場。プラグマティズムの一派で,J.デューイが代表者。実験主義とほぼ同意。





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デューイ 1859‐1952
John Dewey

アメリカの哲学者,教育学者,社会心理学者,社会・教育改良家。哲学ではプラグマティズムを大成して,プラグマティズム運動(20世紀前半のアメリカの哲学および思想一般を風靡した哲学運動)の中心的指導者となり,その影響を世界に広めた。教育においてはプラグマティズムに基づいた新しい教育哲学を確立し,アメリカにおける新教育運動,いわゆる〈進歩主義教育〉運動を指導しつつ,広く世界の教育改革に寄与した。心理学では機能主義心理学の創設者のひとりで,社会心理学,教育心理学の発展にも多大の貢献をしている。
 バーモント州のバーリントンに生まれ,1879年にバーモント大学を卒業,3年間高校の教職に就いたのち,82年にジョンズ・ホプキンズ大学大学院に進み,2年後に博士課程を終えて学位を取得した。84‐94年ミシガン大学で教え(ただし,88‐89年はミネソタ大学の招聘教授),94年にシカゴ大学に招かれて哲学,心理学,教育学科の主任教授,1904年にコロンビア大学に転任,30年に退職するまでそこにとどまった。デューイはシカゴ大学在任中に二つの画期的な仕事をした。その一つは,アメリカにおける進歩主義教育運動の原点となった〈実験学校 Laboratory school〉をシカゴ大学に設置したこと(1896。その教育原理を《学校と社会》(1899)として刊行),もう一つは,1903年にデューイと彼の同僚たちによる共同研究《論理学的理論の研究》が出版され,そこにプラグマティズムの新しい一派,いわゆる〈シカゴ学派〉が形成されたことである。デューイのこれらの仕事はコロンビア大学に移って大きく開花し,全国的な教育改革運動,プラグマティズム運動に発展した。
 デューイの哲学および教育思想の核心を成しているのは彼の〈経験〉の概念である。経験をもっぱら知識論の問題として,つまり認識論的概念として取り扱ってきた伝統的哲学の主知主義的偏向を排して,デューイはそれをわれわれの日常的生活そのものとして,人間の生活全体の事柄として――生活すなわち経験,経験すなわち生活として――とらえる。彼はまた,自然と経験,生物学的なものと文化的・知的なもの,物質と精神,存在と本質などの隔絶を説くいっさいの二元論を否定し,それらの連続性を主張し強調する。人間は〈生活体〉であり,そして生活体としての人間はまず自然的・生物学的基盤の上に存在している。人間の本性は,もとより人間の社会的・文化的・精神的営為にあるが,しかしその人間の本性は決して自然的・生物学的なものとの断絶によってではなく,それとの連続性の上に成り立っているのである。このデューイの連続主義は人間の経験すなわち生活が自然的・生物学的なものから発し,さらに世代から世代への伝達によって連続的に発展することを説くもので,人間性を自然的・生物学的なものに単純に還元解消するいわれのない還元主義ではない。生活のもう一つの基本原理は,生活は空虚のなかで営まれるものではなく,生活体とその環境(生活体の生活を支えかつ条件づけるいっさいの外的要因)との不断の相互作用の過程であるということである。そしてこの原理によれば,思考とか認識とか,その他人間のあらゆる意識活動は,その相互作用の過程の中で,そこに起こる生活上の諸困難,諸問題を解決するために,道具的・機能的に発生し発展する。
 デューイは人間経験の本質をいま述べた生活の二つの基本原理――連続性と相互作用の原理――に求める。そしてこの二つの原理から,デューイのあらゆる思想――知識道具主義,精神機能論,探究の理論としての論理学説,自然と人間経験の世界を連昔する〈自然の橋〉としての〈言語〉の概念,自由な社会的相互交渉と連続的発展を基本的特色とする生活様式としての〈民主主義〉の概念,生活経験主義的教育原理など――が導かれる。デューイは多作家で,M. H. トマスが作成した著作目録は150ページに及ぶ膨大なものである。その中から主著として,《民主主義と教育》(1916),《哲学の改造》(1920),《人間性と行為》(1922),《経験と自然》(1925),《論理学――探究の理論》(1938)などを挙げることができよう。なお彼は,著作活動だけにとどまらない行動する思想家であり,中国,トルコ,ソ連などへの教育視察・指導旅行,サッコ=バンゼッティ事件での被告弁護活動などは特によく知られている。⇒プラグマティズム                 米盛 裕二

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コージブスキー
コージブスキー

コージブスキー
Korzybski,Alfred Habdank Skarbek

[生] 1879.7.3. ワルシャワ
[没] 1950.3.1. コネティカット,シャロン


ポーランド生れのアメリカの哲学者。一般意味論の創始者。 1915年軍務を帯びてカナダ,アメリカ滞在中,ロシア革命によるツァーリ没落を知り,アメリカ市民権を獲得。 21年の処女作"Manhood of Humanity"において,人類はその観念や経験を世代から世代へと伝達しうる能力 time-binding capacityをもつ独自の存在者であると述べ,この能力を基本にした新しい倫理学を提唱。さらに『科学と正気』 Science and Sanity: An Introduction to Non-Aristotelian Systems and General Semantics (1933) では,アリストテレス論理学を批判し,これら観念や経験の世代的蓄積を基本にした言語学を提唱し,これを一般意味論と呼んだ。







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[ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 2008]


一般意味論

いっぱんいみろん
general semantics

  

記号,特に言語が人間に対してどのような役割を果し,また人間がいかに反応するかを研究する言語理論。ポーランドの数学者 A.コージブスキーが,『科学と正気』 Science and Sanity (1933) で体系づけた。言葉の抽象的な意味とそれが具体的場面で指示する事物との混同から生じる,言語生活上の障害を防ぐことをおもな目標とする。そのために,不用意な断定を避けること,文脈を重視すること,言葉の抽象性の度合いに気をつけること,二値的思考をやめること,などを説く。国際一般意味論協会 International Society for General Semanticsが結成されており,機関誌"ETC"を発行している。


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ロスビー
ロスビー 1898‐1957
Carl‐Gustaf Arvid Rossby

アメリカの気象学者,海洋学者。建築技師を父とし,ストックホルムで生まれる。ストックホルム大学を卒業後,V. F. K. ビヤークネスに招かれ,1919年,ベルゲンの地球物理学研究所に入り,極前線論の研究を始める。26年アメリカに渡り,気象局に勤め,28年にはマサチューセッツ工科大学の気象学の助教授となる。39年にはアメリカに帰化し,気象局の副局長となり,研究と教育部門を担当。41年にはシカゴ大学の気象学主任となり,各国の気象学者を集め,ジェット気流,偏西風波動などを多面的にグループで研究し,いわゆるシカゴ学派のリーダーとなった。また,この頃プエルト・リコ大学に熱帯研究所をつくることにも努力し,50年以後はストックホルム大学の教授を兼任,同地に国際気象研究所をつくった。また,この頃ウッズホール海洋研究所において海流についての重要な研究も行っている。気団分析に用いるロスビー図の考案,絶対渦度の定理の大循環への適用,ロスビー波の発見,アイセントロピック解析など多くの重要な研究を行った。また,アメリカの《気象学雑誌 Journal of Meteorology》やスウェーデンの気象学雑誌《Tellus》などを創刊している。優れた研究者であると同時に優れたリーダーであり,オルガナイザーとしても国際的に活躍した。多くの世界の一流の気象学者,海洋学者が影響を受けた。              高橋 浩一郎

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ロンドン学派
ロンドン学派
ロンドンがくは

1930~40年代に,ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスを中心に集まり,イギリスにおいてローザンヌ学派の流れをくむ一般均衡理論を代表し,マーシャル経済学の伝統を継承するケンブリッジ学派としばしば対抗的な見地に立った自由主義的経済学者を指して(日本において)用いられてきた総称。完全競争的市場機構の資源配分機能に固い信頼をいだき,民間の自発的経済活動に対する政府の干渉を強く排斥する点に特徴をもつ。この派の代表者とみなされているのはロビンズLionel Charles Robbins(1898‐1984)と F. A. vonハイエクである。ロビンズは処女作《経済学の本質と意義》(1932)において,有名な〈経済学の希少性定義〉を与えるとともに,相異なる個人の基数的効用の比較可能性を前提とする A. C. ピグーの〈旧〉厚生経済学の基礎を厳しく批判した。厚生経済学から分配に関する〈非科学的〉価値判断を放逐し,資源配分の効率性の確保にのみ科学としての厚生経済学の可能性を認める N. カルドア,J. R. ヒックス,A. P. ラーナーらの〈新〉厚生経済学は,ロビンズによるこの批判を契機として誕生したものである。一方ハイエクは,オーストリア学派の資本理論を継承・発展させた《資本の純粋理論》(1941)を著すとともに,L. E. von ミーゼスにより先鞭をつけられた,社会主義経済における合理的経済計算の可能性についての論争においても重要な役割を果たし,価格機構の情報伝達機能に関する深い洞察を示した。J. R. ヒックスの《価値と資本》(1939)も,この学派の知的環境の中から誕生した重要な著作である。このように現代経済学に多大な遺産を残したロンドン学派であるが,ハイエクが1950年にシカゴ大学に移って後は,その自由主義的伝統はいわゆるシカゴ学派に継承されていくことになった。   鈴村 興太郎

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ファース,J.R.
I プロローグ

ファース John Rupert Firth 1890~1960 イギリスの言語学者。音韻論と意味論の分野で独自の学説を展開し、「ロンドン学派」とよばれる言語学の一派の創始者となった。

イギリスのヨークシャーに生まれ、リーズ大学で歴史学を専攻した。1919~28年イギリス領インドのラホールにあるパンジャブ大学の教授をつとめた。その後、ロンドン大学にむかえられ、44年にはイギリスで最初の一般言語学の教授となり、56年までその職にあった。

II 「プロソディー分析」と「場面の脈絡」

音韻論の分野では、ファースは、個々の音の範囲をこえた強勢、声調、リズムなどをプロソディーとよび、これを語の形態や文の構造との関連でとらえるという、「プロソディー分析」の方法を提唱した。一方意味論の分野では、言語を構成する音、単語、文などのそれぞれのレベルで意味の分析をおこなうべきであり、意味は「場面の脈絡」とよばれるものに依存していると考えた。

ファースの言語理論は、音韻や形態(→ 形態論)といった言語の個々のレベルを独立して分析するのではなく、言語のすべての要素の体系的な関連性を重視するという立場をとるものであった。その理論は難解ではあるが、ハリデー、ライオンズ、ロビンズ、パーマーなどのイギリスの言語学者たちに大きな影響をあたえた。


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ローザンヌ学派
ローザンヌ学派
ローザンヌがくは Lausanne school

経済学における限界革命の主役の一人 L. ワルラスがスイスのローザンヌ大学の教授であったことから,ワルラスおよびその後継者など初期の一般均衡理論の研究者たちを指す。《純粋経済学要論》(1874‐77)により経済の諸部門間の相互依存関係を強調する一般均衡理論を創始したワルラスは,1892年にローザンヌ大学の教授を辞し,イタリア出身の V. パレートがその後を継いだ。パレートは《経済学提要》(1906)において,効用概念を避け無差別曲線による選択理論を展開,さらにパレート最適の概念を創始した。その後のイタリアにおける M. パンタレオーニ,バローネ EnricoBarone,アモロゾ Luigi Amoroso,フランスにおけるアントネリ ⊇tienne Antonelli,ディビジアFranぅois Divisia などを後期ローザンヌ学派とよぶこともあるが,一般均衡理論はすでに一学派の専有物ではなく,現代経済学の共有財産となっている。                      根岸 隆

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ケンブリッジ学派
ケンブリッジ学派
ケンブリッジがくは

A. マーシャルを創設者とするケンブリッジ大学中心の経済学の流れをケンブリッジ学派または(狭義の)新古典派経済学あるいは新古典学派,新古典派とよぶ。しかし普通,新古典派というときは,この学派のほかにローザンヌ学派,オーストリア学派をも含めた限界分析を基礎とする均衡理論を総称することが多い。したがって,〈長期〉〈短期〉の時間区分や〈期待〉などの要因を重視する場合は,それらの学派と区別する必要がある。
 ケンブリッジ学派が形成・展開されたのは,ビクトリア時代から第1次大戦を経て第2次大戦に至る時期である。イギリスでいわゆるビクトリア黄金時代とよばれる1850‐60年代の経済的繁栄は,対外的にはドイツやアメリカなどの新興資本主義諸国によってしだいに脅かされつつあったが,他方,他の諸国とともに植民地の獲得にのりだしつつある帝国主義の時代でもあった。国内的には1825年以来周期的に恐慌が発生し,植民地からの剰余価値の恩恵もあって他国よりは穏やかではあったが,労働者階級がその地位の改善を要求しはじめていた。しかし全体としては,イギリス経済は高い資本蓄積率に支えられて,まだ発展過程にあると考えられていた。マーシャルが主著《経済学原理》(1890)を出版したのはこのような時期であったから,彼は資本家,企業家,労働者という階級間の調和的発展に基本的関心を向け,短期では労資の対抗関係があるようにみえるが,長期では〈国民分配分 national dividend〉(国民所得と同義。厚生経済学的に使われた)が増大するため,両者の調和が可能であると考えたのである。これに対し,マーシャルの後継者 A. C. ピグーの《厚生経済学》(1920)は,第1次大戦前後のイギリスの経験に立って理論が展開されている。第1次大戦はイギリスの〈世界の工場〉としての地位を決定的にゆるがせてしまった。世界市場からの後退,植民地の自主独立などにより,海外からの収入は減少し,資本家階級は生産力の担い手としての自信を失いつつあった。ピグーが経済的厚生増大のための生産,分配,安定に関する三つの命題を掲げたことに示されるように,本書は全体として〈光より果実を求める〉ケンブリッジ学派の実践的性格を反映したものであった。このうち第三命題は後に《産業変動論》(1927)へと発展させられたが,景気変動論はむしろ,彼の後継者 D.H. ロバートソンの《産業変動の研究》(1915),《銀行政策と価格水準》(1926)などを通じて早くから展開されていた。
 イギリス経済は,その後29年の大恐慌後の不況期に多量の失業者と遊休設備に悩まされるようになったが,そのなかで J. M. ケインズの《雇用・利子および貨幣の一般理論》(1936)が出版され,〈供給は需要をつくりだす〉という〈セーの法則〉に立って完全雇用のもとでの資源配分を取り扱ってきた従来の経済学に批判を加え,いわゆる〈ケインズ革命〉をひき起こすことになった。彼の理論はやがてケインズ学派を生みだしていくことになった。                     山田 克巳

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オーストリア学派
オーストリア学派
オーストリアがくは

経済学における限界革命において,L. ワルラス,W. ジェボンズとともにその三大巨星であったウィーン大学の C. メンガー,およびその流れをくむ経済学者たちの学派。ウィーン学派とも呼ぶ。限界革命の中心的概念は限界効用であるが,ワルラスにとってはそれが一般均衡理論の一つの道具にすぎなかったのに対して,オーストリア学派にとっては限界効用の意義ははるかに大きい(限界効用理論)。古典派経済学の労働価値説,生産費説が価格を費用により説明するのに対して,オーストリア学派の効用価値説は効用により消費財の価格を説明する。そして費用とは失われた効用であると考える機会費用の概念が説かれ,生産要素の価値はそれから生産される消費財の効用にもとづく価値が帰属するものであると考えられた。
 C. メンガーは1871年に《国民経済学原理》を刊行,翌年それによりウィーン大学の私講師となり,79年に経済学正教授に就任した。《原理》においてメンガーは,効用の意義を強調するだけでなく,完全な市場を分析の対象としたワルラスとは異なり,不完全な市場に関心をもち,したがって価格だけでなく商品の売れやすさ,つまり販売力を問題とし,販売力最大の商品として貨幣を考察した。また,《原理》を無視し経済理論の研究を軽視していた新歴史学派が当時のドイツにおいて支配的であったので,メンガーは理論的研究の重要性を主張するために83年に《社会科学,とくに経済学の方法に関する研究》を公刊し,シュモラーと有名な方法論争をおこなった。
 メンガーの主要な後継者の一人であるベーム・バウェルクは,95年以降三たび蔵相を務めたが,1904年にウィーン大学の教授となった。彼は大著《資本および資本利子》の第1巻〈資本利子論の歴史と批判〉(1884)において労働価値説にもとづく搾取利子説をはじめ多くの学説を論破し,第2巻〈資本の積極理論〉(1889)において有名な利子の3原因を説き,とりわけ搭回生産の重要性を強調した。このオーストリア資本理論は,のちに北欧の経済学者 J. ウィクセルにより,ワルラスの一般均衡理論に導入される。また,メンガーのもう一人の主要な後継者 F. ウィーザーは,1889年に《自然価値論》を刊行,1903年にメンガーの後を継いでウィーン大学教授に就任し,14年には《社会経済の理論》を公刊した。彼は帰属価格の厚生経済学的意味を明らかにし,先駆的な社会主義経済理論を展開している。さらに,企業者による革新を強調して《経済発展の理論》(1912)を説いたJ. シュンペーターもこの学派の出身であり,またオーストリア資本理論を基礎にした景気変動論や自由主義論で名高いノーベル賞受賞経済学者 F.ハイエクは現代におけるオーストリア学派の代表的な存在であるといえよう。⇒経済学説史
                         根岸 隆

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ノイラート
ノイラート 1882‐1945
Otto Neurath

オーストリアの経済学者。また,論理実証主義の哲学者として,ウィーン学団の創設にあずかった。はじめ,マルクス主義的経済学を唱えたが,やがて,社会科学全体を物理学と同一方法による時空的経験科学とする物理主義へとおもむき,〈統一科学〉という運動を推進した。科学哲学国際会議を創始し,統一科学協会をハーグ(現在はボストンにある)に設立し,科学哲学の普及に尽くした。                     坂本 百大

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ノイラート,O.
I プロローグ

ノイラート Otto Neurath 1882~1945 オーストリアの社会学者、経済学者、哲学者。ウィーンに生まれ、ウィーン大学、ベルリン大学で数学、経済学、哲学をまなぶ。1907~14年ウィーン新経済専門学校で教鞭をとったのち、ウィーンを本拠に東欧、オランダ、ドイツなどヨーロッパ各地で政治、経済、都市計画、視覚教育などじつに幅広い分野で活躍した。40年にイギリスのオックスフォードに移住し、同地で没した。

II ノイラートの船

ノイラートははじめマルクス主義経済学から出発したが、しだいに論理実証主義(→ 実証主義)にかたむいた。カルナップやシュリックらとともに1929年のウィーン学団創立に参加し、この学派の指導者になった。物理学的言語を唯一の科学的言語とみなして、自然科学のすべての命題をこの言語によって表現し、統一する「統一科学」を提唱、36年、ハーグに統一科学協会(現在はボストンにある)を設立した。

彼の立場はきわめてラディカルな真理の整合説といってよい。われわれの知識には絶対的な基盤などないのであって、真理とは規約によってえらばれた一群の基本的原理との整合性のことだと彼はいう。こうした考え方をみごとに表現しているのが、「ノイラートの船」とよばれる比喩(ひゆ)である。知識の絶対的基盤づくりをめざす伝統的な哲学が、不動の「アルキメデスの点」をさがす試みであったとすれば、ノイラートが考えていた哲学者は「修理のために船をいれるドック(知識の絶対的基盤)をもたず、大海の上で船を改造しなければならない船乗り」である。この発想はクワインなど現代の分析哲学に大きな影響をあたえている。→ 分析哲学と言語哲学


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エアー
エアー 1910‐89
Alfred Jules Ayer

イギリスの哲学者。オックスフォード大学,クライスト・チャーチ・カレッジの出身。卒後ウィーン大学で何年かを過ごして論理実証主義の動向に接し,後に母校の講師,フェロー,ロンドン大学教授を経て,1959年オックスフォード大学教授。36年刊の《言語・真理・論理》によりイギリスでの論理実証主義の代弁者となる。ただし,エアーはその源流をイギリス古典経験論に求め,たとえば,分析的判断と総合的判断の峻別という,この派の根本的テーゼをヒュームに跡づけた。彼は,言語の用法のとりきめのみによって真偽の決定される論理・数学の命題と,直接経験への還元によって検証される経験命題の2種類だけを有意味な言明と考えて,伝統的な形而上学,神学を否定し,倫理や美学の価値,規範の表現を単なる情緒の表白にすぎないとする情緒説を唱え,哲学の職務を概念の明晰化にあると主張した。彼の大胆な発言は大きな刺激を与えたが,多方面からの批判,とくにネオ・プラグマティスト(クワイン,ホワイトら)から根本的で適切な批判を受けた。以上のほか《経験的知識の基礎》(1940),《思考と意味》(1947),《知識の問題》(1956)等で,知覚,言語,他我問題等の伝統的な認識論の諸課題の相互連関やそれらの私的・公共的性格,錯覚の議論を一例とする懐疑主義の問題,心身問題,人格の同一性,帰納や確率等々の多くの主題への思索を示している。                      杖下 隆英

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エアー,A.J.
エアー Alfred Jules Ayer 1910~89 20世紀の分析哲学(→ 分析哲学と言語哲学)において重要な役割をはたしたイギリスの哲学者。オックスフォード大学でまなび、同大学およびロンドン大学でおしえた。

エアーは「言語・真理・論理」(1936)において、論理実証主義(→ 実証主義)の立場を明確にうちだした。彼は、意味のある文というのは、言葉の取り決めにより真偽のきまっている論理学の命題と、感覚による観察によって真偽のきまる経験的な文だけだと主張した。したがって宗教、形而上(けいじじょう)学、倫理学などについての言明は無意味な文として否定される。ほかの著作には「経験的知識の基礎」(1940)、「知識の問題」(1956)などがある。


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科学哲学
科学哲学
かがくてつがく philosophy of science

科学に対する哲学的考察,あるいはその哲学的基礎づけの作業の総称。また,内容的に,あるいは方法論的に科学に接近した哲学傾向一般を指す場合もある。
[歴史的背景]  科学哲学の歴史は,哲学の歴史とともに古い。そもそも,古代ギリシアにおいて哲学が始まったとき,それは〈アルケー=万物の根源〉を問うものとして現れたものであり,それは直ちに,科学そのものの課題の起点でもあったと考えられる。その意味で,哲学は元来,広義の科学哲学として開始されたとも言いうる。現代に直接連続する科学哲学の原型としては,近世初頭のデカルトの哲学を挙げることが至当であろう。彼は当時の数学や自然科学を範型として,いわゆる〈方法的懐疑〉を遂行し,コギト(われ思う)の明証性に至り,心身二元論の哲学を構築し,やがて現在に至る科学哲学への道の先鞭をつけることになる。また,カントの哲学でさえ,その最大の動機の一つがニュートン物理学の基礎づけであるという意味において,科学哲学の一つの範例であったと見ることができる。さらに,イギリス経験論とドイツ観念論の対立論争そのものが科学的認識の基礎づけに関して争われたものであると言える。F. ベーコンの科学方法論への洞察,ロックの実験的精神,D. ヒュームの因果性の分析,G.バークリーの知覚論,さらに,新カント学派諸家の科学批判などはすべてこのような背景の中から生まれたものである。また,科学方法論を直接テーマとしたのは J. S. ミルであった。科学的帰納推理に関する彼の研究は現代科学哲学の一つの源流と考えられる。この帰納的方法論の尊重はやがて,マッハやデュエムの実証主義の基礎を築き,そして,遂に,現代の科学哲学を生み出すことになるのである。
 現代科学哲学の成立と興隆をもたらした直接の契機は,科学と哲学の両面の中に求めることができる。まず,科学の面において,19世紀初頭以来の科学の急展開の結果,科学の細分化が行き尽くし,そこに,科学全般を通ずる方法,課題,概念に対する全的,統一的視野が要求されるに至った。また,他方,物理学を頂点とする科学的世界像は非日常化の一途をたどり,われわれの生活世界との乖離は著しく,ここで改めて,われわれの生活体験と科学的概念,科学的体系,科学的説明などとの関係が新たに,また厳しく問われることになったのである。他方,哲学の領域においては,とくに,20世紀初頭以来,過去の思弁的形而上学に対する反感と批判がさまざまな形の言語分析の哲学を生み,すでに,一種の科学批判の学として成立していた現象学とも間接的に相たずさえて,科学内部における問題意識にこたえて科学哲学を生み出すのである。かくして現れた最初の科学哲学が,マッハ,ポアンカレ,デュエムらの科学者による科学論であり,そして,1930年前後のウィーン学団の新しい活躍の中で,〈科学哲学〉という名称が現代的な意味において徐々に定着していくことになるのである。
[科学哲学の課題]  (1)科学的世界観の確立 現代の科学哲学は1930年代の論理実証主義の勃興を機に始まったと考えられるが,そこでまず急務とされたのは,過去の形而上学的世界観を排して,科学に基づく新しい世界観を確立することであった。そのために,実証的,経験的命題を認識の唯一の根拠として許容するという厳しい態度がとられ,そこで,経験的命題をほかから識別する規準,いわゆる経験的意味の検証規準が規定される必要があった。しかし,経験的ということを感覚的報告という意味にとるとそこに個人的感覚の私性の問題が生じて,科学としての客観的公共性に至ることができないという難問が起こり,単なる感覚の寄せ集めではない〈物〉を含む言語が科学的世界記述のために必要であるという見解に至らざるをえなかった。この私的な感覚的経験と物世界との関係をめぐる問題はその後も一貫して科学的認識の根拠に関する基本問題として生き続けている。ウィトゲンシュタインによって深められたと言われる〈私的言語〉の問題もその一例である。
(2)科学理論の構造 また,現実の科学理論がいかにして構築され,いかなる構造をもち,また,それがいかに対象に妥当するかということも科学哲学の基本的課題である。ミル以来,科学の方法は本質的には経験からの帰納であると言われてきた。しかし,現在〈帰納の正当化〉はひじょうに困難であると見られている。さらに,現代諸科学は単に帰納法によって構築されると見ることは不可能であり,たとえば,物理諸科学に見られるように数学を含む演繹的方法の役割が大きく介入し,〈仮説演繹法〉が科学方法論の基本的形態であると一般に評価されるようになった。これに関連して,ポッパーの〈反証可能性理論〉による帰納の否定の議論は注目に値する。また,これら議論に伴って,科学法則や科学的説明の本性をめぐって多くの新説が現れた。とくに,それらにおける演繹性の強調が大きな特質である。この話題に関してはとくにヘンペルの業績が大きい。また最近,科学史からの教訓として,〈観察と解釈〉の問題が話題を呼んでいる。一般に科学理論は現象の観察から得られるとみなされているが,しかし,実は,この関係は逆転しているおそれがある。すなわち,われわれにとって純粋で中立的な観察というものは元来ありえず,すべてはすでに現に存在している理論や解釈によって汚染されているのであり,したがって,科学革命というものも,新しい観察の出現によってなされるというよりは,むしろその時代の理論的パラダイムの転換によってなされると考えるべきであるということになる。この話題では T. クーン,ハンソン R. Hanson,ファイヤアーベントなどの業績が大きい。
(3)決定論と自由の問題も一つの重要テーマである。ニュートン物理学が決定論的自然観を明瞭に示しているのに対し,現代量子力学は非決定論の立場に立つように見える。この対立をいかに解釈するかということは,科学の本質に直接かかわる課題である。
(4)心身問題がいわゆる心身科学の急展開に伴って科学哲学の中心的テーマの一つになりつつある。これはまた精神と物質の二元論をいかにして超克するかという哲学それ自体の根本問題に直結する。
(5)論理や数学の本性を問う問題も一つの中心問題である。これらのいわゆる〈必然的真理〉の根拠は,たとえばカントにより,その先天的総合性に求められたりしたが,現代数学や論理学の実態からはこの解釈は困難となり,公理主義や規約主義の考え方が大きく進出する。また,とくに先天性の問題に関しては,たとえば,ローレンツらによる生物学からの挑戦もあり,今後の議論の高まりが予想される。
(6)その他,倫理学や社会科学に関しても類似の科学哲学的考察がそれぞれの領域に浸透している。倫理言語の構造,社会的規範性の根拠,それらにおける経験の役割などが大きなテーマとなる。⇒分析哲学∥論理実証主義    坂本 百大

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感覚
感覚
かんかく sensation

感覚器官に加えられる外的および内的刺激によって引き起こされる意識現象のこと。
【哲学における感覚】
 仏教用語としては古くから眼識,耳識,鼻識,舌識,身識(これらを生じさせる五つの器官を五根と称する)などの語が用いられたが,それらを総称する感覚という言葉は sensation の訳語として《慶応再版英和対訳辞書》に初めて見える。日常語としては坪内逍遥《当世書生気質》などに定着した用法が見られ,また西田幾多郎《善の研究》では知覚と並んで哲学用語としての位置を与えられている。
 哲学史上では,エンペドクレスが感覚は外物から流出した微粒子が感覚器官の小孔から入って生ずるとしたのが知られる。それに対しアリストテレスは〈感覚能力〉を〈栄養能力〉と〈思考能力〉の間にある魂の能力の一つととらえ,それを〈事物の形相をその質料を捨象して受容する能力〉と考えた。一般にギリシア哲学では,感覚と知覚との区別はいまだ分明ではない。感覚が認識論の中で主題的に考察されるようになったのは,近世以降のことである。デカルトが方法的懐疑の途上で,感覚に由来する知識を人を欺きやすいものとして真っ先に退けたように,大陸合理論においては一般に感覚の認識上の役割は著しく軽視されている。カントにおいては,感覚は対象によって触発されて表象能力に生じた結果を意味するが,〈直観のない概念は空虚であり,概念のない直観は盲目である〉の一句に見られるように,彼は感性的直観と概念的思考の双方を重視した。他方イギリス経験論においては,感覚はあらゆる認識の究極の源泉として尊重され,その思想は〈感覚の中にあらかじめないものは知性の中にはない〉という原則に要約されている。ロックによればわれわれの心は白紙(タブラ・ラサ tabula rasa)のようなものであり,そこに感覚および内省の作用によってさまざまな観念がかき込まれる。ここで感覚とは,感覚器官が外界の可感的事物から触発されることを通じて心に伝えるさまざまな情報のことである。また感覚の要素的性格は,〈単純観念〉がいっさいの知識の材料であるとする考えの中に表現されている。ロックの思想はバークリーおよびD. ヒュームによって受け継がれ,さらに19世紀の後半マッハを中心とする〈感覚主義〉の主張中にその後継者を見いだす。マッハは伝統的な物心二元論を排し,物理的でも心理的でもない中性的な〈感覚要素〉が世界を構成する究極の単位であると考えた。その思想は論理実証主義によって展開され,〈感覚与件理論〉として英米圏の哲学に浸透した。〈感覚与件 sense‐datum〉の語はアメリカの哲学者 J. ロイスに由来し,いっさいの解釈や判断を排した瞬時的な直接経験を意味する。代表的な論者には B. A. W. ラッセルおよび G. E. ムーアがおり,そのテーゼは事物に関する命題はすべて感覚与件に関する命題に還元可能である,と要約される。マッハに始まるこれら現代経験論の思想は,要素心理学や連合心理学の知見,およびそれらの基礎にある恒常仮定(刺激と感覚との間の1対1対応を主張する)とも合致するため,19世紀後半から20世紀初頭にかけて大きな影響力をもった。
 しかし20世紀に入ってドイツにゲシュタルト心理学が興り,ブントに代表される感覚に関する要素主義(原子論)を批判して,われわれの経験は要素的感覚の総和には還元できない有機的全体構造をもつことを明らかにした。メルロー・ポンティはゲシュタルト心理学を基礎に知覚の現象学的分析を行い,要素的経験ではなく〈地の上の図〉として一まとまりの意味を担った知覚こそがわれわれの経験の最も基本的な単位であることを提唱し,要素主義や連合主義を退けた。また後期のウィトゲンシュタインは,言語分析を通じて視覚経験の中にある〈として見る seeing as〉という解釈的契機を重視し,視覚経験を要素的感覚のモザイクとして説明する感覚与件理論の虚構性を批判した。このように現代哲学においては,合理論と経験論とを問わず,純粋な感覚なるものは分析のつごう上抽象された仮説的存在にすぎないとし,意味をもった知覚こそ経験の直接所与であると考える方向が有力である。いわば認識の構造を無意味な感覚と純粋の思考という両極から説明するのではなく,両者の接点である知覚の中に認識の豊饒(ほうじよう)な基盤を見いだそうとしているといえよう。日本では近年,中村雄二郎が個々の特殊感覚を統合する〈共通感覚〉の復権を説いて話題を呼んだ。⇒意識∥感覚論∥知覚       野家 啓一
【感覚の生理】
 われわれの体には,内部環境や外部環境の変化を検出するための装置がある。この装置を受容器という。受容器を備えて特別に分化した器官が感覚器官である。内・外環境の変化が十分大きいと,受容器は反応し,次いでそれに接続した求心神経繊維に活動電位が発生するが,これを神経インパルスあるいは単にインパルスという。求心繊維を通るインパルスは脊髄あるいは脳幹を上行し,大脳皮質の感覚野に到達する。普通,生理学的には,感覚は〈感覚野の興奮の結果生ずる,直接的・即時的意識経験〉と定義される。これらのいくつかの感覚が組み合わされ,ある程度過去の経験や記憶と照合され,行動的意味が加味されるとき知覚が成立する。さらに判断や推理が加わって刺激が具体的意味のあるものとして把握されるとき認知という。例えば,われわれが本に触れたとき,何かにさわったなと意識するのが感覚であり,その表面がすべすべしているとか,かたいとかいった性質を感じ分ける働きが知覚であり,さらにそれが,四角なもので,分厚く,手に持てるといった性質や過去の同種の経験と照合して本であると認知されるのである。受容器から出発して感覚野に至るインパルスの通る経路を感覚の伝導路という。受容器,伝導路および感覚野によって一つの感覚系が構成される。環境の中のいろいろな要因のうち,受容器に反応を引き起こすものを感覚刺激といい,特定の受容器に最も効率よく反応を引き起こす感覚刺激をその受容器の適当刺激 adequate stimulus という。例えば眼(感覚器官)の光受容器は,電磁波のうち,400~700nmの波長帯域すなわち光にのみ反応する。このことから受容器は多数の可能な感覚刺激の中から特定のものを選び分けて,その情報をインパルス系列にコード化し,中枢神経系に送る一種のフィルターとして働くとも考えることができる。大脳皮質に達した神経インパルスは,ここで処理され,その情報内容が分析され,さらにいろいろな受容器からの情報と組み合わされて,総合的情報が形成され,それが感覚野の興奮に連なるのである。
[感覚の種類]  受容器を適当刺激の種類により分類すると表1のようになる。またシェリントンCharles Scott Sherrington(1857‐1952)は,受容器と刺激の関係から受容器を外部受容器exteroceptor(体外からの刺激に反応する受容器)と内部受容器 interoceptor(身体内部からの刺激に反応する)とに分けた(1926)。前者は,さらに遠隔受容器 teleceptor(身体より遠く離れたところから発せられる刺激に反応するもの,視覚,聴覚,嗅覚の受容器)と接触受容器 tangoceptor(味覚や皮膚粘膜にある受容器)に,後者は固有受容器proprioceptor(筋肉,腱関節,迷路などの身体の位置や,四肢の運動の受容器)と内臓受容器visceroceptor(内臓にある受容器)に分けた。このような受容器の相違に基づき感覚は種 modalityに類別される。古くから五感といわれた視覚,聴覚,触覚,味覚,嗅覚のみならず,平衡感覚,温覚,冷覚,振動感覚,痛覚なども種である。さらに同じ感覚種内でも個々の受容器の特性の違いから起こる感覚の内容の違いを質 quality という(表1)。例えば視覚では,受容器として杆(状)体,錐(状)体の2種類がある。杆体の働きにより明・暗の感覚が,錐体の興奮により赤,黄,緑,青といった色づきの感覚が生ずる。これらを質というのである。表2に臨床的感覚の分類を示す。視覚や聴覚のように受容器から大脳皮質まで判然とした形態学的実体をもったものと,そうでないものという観点から,前者を特殊感覚,後者を体性―内臓感覚とするものである。
[感覚の生理学的研究方法]  感覚の生理学的研究方法には,主観的方法と客観的方法とがある。主観的方法では刺激とそれによって引き起こされる被検者の感覚の大きさを被検者自身が評価するもので,精神物理学的方法ともいわれる。客観的方法は主として神経生理学的方法によるもので,例えば微小電極をしかるべき感覚系の特定の部位に刺入し,個々のニューロンのインパルス反応を記録することにより,感覚の神経機序を研究対象とする。最近では,行動科学的手法による感覚の研究も行われている。これはオペラント条件づけの方法を用いて,感覚刺激とそれによって引き起こされる行動の変化を観察,計測するものである。例えば視覚でよく知られている暗順応の時間経過をハトを使って行った実験が有名である。ハトに,刺激光を見たときに A のキーをつっつき,刺激光が見えないとき B のキーをつっつくようオペラント条件づけの方法で学習させる。ハトを明るいところから暗いスキナー箱に入れ,目の刺激光を点灯する。ハトは刺激光が見えるので A をつっつく。すると刺激光はしだいに暗くなっていき,ハトは見えなくなるまで A をつっつく。刺激光が見えなくなってはじめてハトは B をつっつき,見えるまで B をつっつき続ける。ハトは A とB のキーを操作することによって刺激閾(いき)を決定するわけである。このようにして時間的に刺激閾が低下する,いわゆる暗順応曲線がハト自身の行動によって描かれるのである。
[感覚の受容機構]  受容器(具体的に細胞を指すときは受容器細胞または感覚細胞という)はそれ自身がニューロンであって,軸索が第一次求心繊維として働くものと,それ自身は上皮細胞に由来する非ニューロン性細胞で,これに感覚ニューロンがシナプス結合しているものとある。前者を一次感覚細胞(例,嗅細胞),後者を二次感覚細胞(例,内耳の有毛細胞)という。
 感覚の受容機構を甲殻類の伸張受容器を例にして簡単に説明しよう(図1)。この受容器細胞は大型の神経細胞で筋繊維の近くに存在する。細胞体からでる樹状突起 dendrite が筋繊維の表面にくっついており,筋繊維が伸ばされると,樹状突起も引っ張られ変形を受ける。このとき細胞の膜電位は脱分極を示す。この脱分極の大きさは伸長が大きくなればなるほど大きくなるという性質をもつ(この性質をもつ反応を段階反応 gradedresponse という)。脱分極がある一定の大きさを超えると,このニューロンの軸索に全か無かの法則によってインパルスが発生し,軸索を中枢に向かって伝わる。インパルスの頻度は受容器電位の振幅と直線関係をもつ。内耳の有毛細胞では,機械的刺激によって毛が屈曲するとき膜電位が変化するが,動毛側への屈曲で脱分極,不動毛側への屈曲で過分極が生ずる。脱分極性の受容器電位の場合には,有毛細胞からその振幅に相応した量の化学伝達物質がシナプス間隙(かんげき)に放出され,この伝達物質の作用を受けて求心繊維の終末が脱分極する。このシナプス後電位の大きさが十分大きいとき,求心繊維にインパルスが生ずる。一次感覚ニューロンでみた受容器電位は,直接インパルスを発生させる原因になるところから起動電位 generator potential ともいわれる。一次求心繊維の放電頻度の時間経過をみると,一定の大きさの刺激を持続的に与えているにもかかわらず,しだいに低下してくる。この現象を順応 adaptation という。これに相当する現象はすでに受容器電位(または起動電位)にも起こっていることが確かめられている(図2)。順応の速い受容器を速順応性 quickly adapting(略して QA),遅いものを遅順応性 slowly adapting(略して SA)という。感覚にみられる順応現象がすでに受容器で起こっていることを示すものである(もちろん,感覚の順応には受容器の順応のみでは説明できない部分がある)。
[感覚の基本的特性]  個々の感覚はいくつかの基本的特性(属性)によって規定される。質,強さ(大きさともいう),広がり(面積作用)および持続(作用時間)の四つが主要なものである。
(1)感覚の大きさ 一つの感覚系について,感覚刺激の強さを十分弱いところからしだいに増していくと,やっと感覚の生ずる強さに達する。感覚が生ずる最小の刺激の強さを,その感覚の刺激閾(絶対閾)という。またある強さ I と I+ぼI が識別できる最小の強さの差 ぼI を強さに関する識別閾という。この場合,ぼI/I の比を相対刺激閾という。この比がそれぞれの感覚について,ある刺激の強さの範囲内でほぼ一定であることが E. H. ウェーバーによって見いだされた。この比をウェーバー比 Weber ratio という。この比の値はだいたい次のようである。光の強さ1/62,手で持った重さ1/53,音の強さ1/11,塩の味1/5。絶対閾は,光覚で10-8μW,音の強さ10-10μW/cm2(このとき鼓膜を10-9cm足らず動かすにすぎない)などである。感覚の大きさと,刺激の強さの関係を示す式として,ウェーバー=フェヒナーの式とスティーブンス S. S. Stevens が提唱したスティーブンスのべき関数が知られている。感覚の大きさを R,刺激の強さを I,刺激閾を I0とすると,
 R=KlogI+C (ウェーバー=フェヒナーの式)
 R=K(I-I0)n (スティーブンスのべき関数)
ともに K と C は定数である。スティーブンスのべき指数 n の値は暗順応眼の点光源の明るさについては0.5,砂糖の甘味1.3,腕の冷覚1.0,圧覚1.1などである。中耳の手術の際に鼓索神経からインパルスを記録し,味覚刺激の濃度とインパルス頻度の関係を求めたところ,主観的計測で求められたのと同じ n の値をもつべき関数が得られた。感覚神経から記録されるインパルスについては,〈刺激の強さが増すにつれてインパルス頻度が増し,また放電活動する繊維の数も増す〉ことが知られている。これをエードリアンの法則 Adrian’slaw という。
(2)感覚の空間的特性 感覚は大脳皮質感覚野の興奮に起因する現象であるが,このときわれわれは感覚刺激が外界の,あるいは身体の一定の場所に与えられたものと判断する。これを感覚の投射 projection という。感覚のこの性質によって刺激の位置および部位を定めることができる。この性質は,受容器の存在する受容面と感覚野との間に整然とした場所対場所の結合関係が存在するからである。このことを感覚野に部位再現topographic representation(皮膚感覚の場合には体部位再現 somatotopy,視覚の場合には視野再現 visuotopy または網膜部位再現retinotopy)があるという。ある強さの刺激が感覚を起こすためには,ある広さ以上の面積を刺激する必要がある。この面積を面積閾といい,ある面積以内では刺激の強さ I と面積閾 A との間に I×A=一定の関係が成り立つ(これをリッコーの法則 Ricco’s law という)。同一種の刺激を二つの異なった2点に与えた場合,2点を分離して感ずることができる。しかし2点間の距離を小さくしていくと,ついには2点を2点として区別できなくなる。弁別しうる2点間の最小の距離を二点弁別閾または空間閾という。
(3)感覚の時間的特性 刺激が感覚を起こすのには,ある一定時間以上受容器に作用しなければいけない。この最小作用時間を時間閾という。例えば光の感覚では,光の強さ I と時間閾 T との間には,ある時間範囲内において I×T=一定の関係が成り立つ。これは光化学反応におけるブンゼン=ロスコーの法則に相当するものである。閾上の感覚刺激を与えても,その強さに相当する大きさの感覚が生ずるまでには,ある時間の経過が必要である。すなわち感覚はしだいに増大(漸増という)する。また刺激を止めたときも,もとの状態に復帰するまで感覚は漸減する。刺激を止めた後に残る感覚が残感覚 aftersensation で,その性質が初めの感覚と同じ場合,陽性残感覚,反対のとき陰性残感覚という。同じ刺激を反復して与えるとき,その周期が十分短いとき,個々の感覚は融合して,ある一定の大きさの連続した感覚となる。例えば点滅する光を見たとき,その点滅の周期が十分短いと,もはや点滅の感覚はなく,連続した一様な明るさの光として感じられる。この現象の起こる最小の点滅頻度を臨界融合頻度 criticalfusion frequency(略して CFF)という。
(4)感覚の感受性の変化 同じ刺激を続けて同じ受容器に与えているとき,感覚の大きさは順応によってしだいに低下していく。触覚は順応の速い感覚である。身体を動かさない限り,着衣の感覚が失われるのはこの性質による。このほか,感覚にみられる特殊な現象に対比 contrast といわれる現象がある。例えば一定の明るさの灰白色の小さい紙面の感覚的明るさは,その紙を黒い大きな紙の上に置くときより明るく(白く)見えるし,もっと白い紙の上に置くときは暗く見える。この現象を同時または空間対比 simultaneous or spatialcontrast という。灰白色の紙が大きいときは,黒い紙と接する部分が中央の部分よりより白く見えるし,また白い紙と接する場合はより黒く見える。この現象を辺縁対比 border contrast という。また,白い紙を見て次に黒い紙を見ると黒い紙はいっそう黒く見え,黒い紙を見て次に白い紙を見ると白い紙はいっそう白く見える。この現象は継時または時間対比 successive or temporal contrastといわれる。
[感覚系ニューロンの受容野]  微小電極を感覚系のいろいろな部位に刺入して,ニューロンの活動を記録するという方法(微小電極法)の導入により,神経系が感覚情報を符号化(コード化)する機構についての研究がひじょうに進歩した。研究成果のなかで最も重要な発見は受容野ということである。例を視覚にとろう。1本の視神経繊維からインパルスを記録する。繊維により光で網膜を照射すると,インパルス頻度が増すものと,逆に減り,光を消したとき増すもの,および照射の開始と終了時に一過性に頻度を増すものがある。第1のような反応を ON 反応,次のものを OFF 反応,最後のものを ON‐OFF 反応という。照射面積を直径100μmくらいに小さくすると,網膜の特定の範囲を照射したときのみしか反応しない。この範囲はほぼ直径1mmくらいである。このように一個の感覚系ニューロンの放電に影響を与える末梢受容器の占める領域を,そのニューロンの受容野 receptive field という。ネコやサルの視神経繊維(または網膜神経節細胞)の受容野は,ON 領域と OFF 領域が同心円状に配列した構造をしている。中心部が ON 領域でそれを取り巻く領域がOFF 領域である受容野を ON 中心 OFF 周辺型,これと逆の配列をしているものを OFF 中心ON 周辺型という。一般に受容野の中心部と周辺部とは互いにその作用を打ち消し合うように働くため,受容野全体を覆う光刺激に対しては反応は弱く,中心部のみを照射するときは最も強い反応が得られる。このような中心部と周辺部の拮抗作用は網膜の神経網内に側抑制または周辺抑制の機構が存在することによるもので,辺縁対比の神経機構と考えられる。視覚系では脳幹の中継核である外側膝状体のニューロンの受容野も視神経繊維のものと本質的には同じものであるが,大脳皮質の第一次視覚野ではニューロンの受容野の性質は一変する。すなわち,視覚野ニューロンの受容野は一般に方形状で,長軸方向に伸びた細長い ON 領域と OFF 領域から構成されている。したがって受容野全体を覆う光に対しては,皮質ニューロンはまったく反応しない。細長い ON 領域のみを覆う線状の光に対して最大の反応を示す。つまり,このような受容野をもつ皮質ニューロンは,受容野の軸の方位に一致し,受容野のON 領域のみを覆うスリット状の光に選択的に反応するという特性をもっているということができる。このような方位選択性が皮質ニューロンに共通にみられる性質である。皮質ニューロンの受容野は,ON 領域と OFF 領域がはっきりわかるもの(単純型)ばかりでなく,これらの領域がはっきりしない複雑型,さらに受容野の両端に抑制帯がある超複雑型が区別される。いずれにしても皮質ニューロンは,自分の受容野の性質に従って,特定の条件に合う刺激を選択する性質をもっている(これを特徴抽出機能という)。視覚野が行ったこのような分析結果は,さらに高位の皮質中枢(連合野)に転送され,視覚情報の異なった側面についての分析と統合が異なった部位でなされている(分業体制)らしいことが,最近の研究により明らかになりつつある。サルの上側頭溝にある皮質ではヒトやサルの顔に特異的に反応するニューロンのあることが報告されており,また19野の一部では特定の色に選択的に反応するニューロンのあることが報告されている。他の感覚についても,皮質の感覚野では感覚刺激の特徴抽出を行うニューロンのあることが報告されている。オペラント条件づけの方法と微小電極法を駆使することにより,最近は感覚よりはむしろ知覚についての神経機構を解明すべく努力がなされている。⇒神経系
                        小川 哲朗
【感覚器官 sensory organ】
 体の外部または内部から与えられた刺激を受容して興奮し,その興奮を中枢神経系側(求心側)に伝える器官を感覚器官という。一般に多数の受容器の集合よりなる。感覚器官は,適当刺激を選択したり,刺激を効率よく感覚細胞に伝えるのにつごうがよい構造をしていたり,そのための付属装置をもつ。例えば目のレンズや虹彩,耳の鼓膜や耳小骨などがこれに相当する。単純に見える昆虫の感覚子でも,クチクラ装置は,受容される刺激の種類によりひじょうに異なる。例えば嗅感覚子ではにおい分子がクチクラを通過するための嗅孔が数多くクチクラ壁に見られるが,味感覚子では味溶液は通常一つの味孔により感覚細胞の受容部と接触している。
 感覚器の刺激受容部には,一般に感覚細胞と支持細胞が見られるが,ときには感覚細胞の興奮を求心側に伝えていく二次神経細胞や三次神経細胞が存在することもある。また,脊椎動物の味蕾(みらい)や嗅上皮のように,将来,感覚細胞に分化する基底細胞があることもある。
 感覚器官は,感覚の種類によって視覚器,聴覚器,味覚器,嗅覚器,平衡器,圧覚器,触覚器,痛覚器,温覚器,冷覚器,自己受容器などと呼ばれることもあるが,感覚器官が受容できる適当刺激によって分類されることもある。適当刺激により分類すると光感覚器,機械感覚器,化学感覚器,温度感覚器,湿度感覚器,電気感覚器などに分類できるが,さらに細分された場合には,例えば振動感覚器などと呼ばれることもある。適当刺激による感覚器の分類は,とくに,ヒトには見られず動物に特有な感覚器,例えば電気感覚器や赤外線感覚器,あるいは水生無脊椎動物の化学感覚器などを扱うときにつごうがよい。動物には磁気感覚をもつものもあると報告されているが,磁気感覚器は見つかっていない。また,感覚器官には,検知する対象が体から離れた遠い所にある遠隔感覚器と体表に接して起こる事象に関する接触感覚器の区別もある。前者には視覚器,聴覚器,嗅覚器などが含まれ,後者には皮膚感覚器や味覚器が含まれる。
 感覚器官の活動を知る指標として,感覚器官全体の電気的活動が用いられることがある。例えば網膜電図は目を光刺激したときに網膜に発生する電位変化を記録したもので,光刺激により最初に現れる電位変化は,脊椎動物では角膜側が負,無脊椎動物では正の波として現れ,感覚細胞の受容器電位の集合と考えられている。嗅粘膜をにおいで刺激したときに発生する電位を記録したものは嗅電図,昆虫の触角をにおいで刺激したときに発生する電位を記録したものは触角電図と呼び,においの有効性の検知などのために使われる。しかし,これらの電位変化は多くの種類の細胞の活動の集合であるので,感覚器官内の特定の細胞の活動を調べるためには微小電極法などの別の手段による観察が必要となる。
                        立田 栄光

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経験論
経験論
けいけんろん empiricism

人間の知識,認識の起源を経験とみなす哲学上の立場。合理論ないし理性主義に対立するが,この対立の代表は17~18世紀の西洋の大陸合理論対イギリス経験論である。W. ジェームズはこの対立を,諸原理によって進む硬い心の人と諸事実によって進む軟らかい心の人との気質の対立として説明した。経験論という邦訳語は《哲学字彙》(1881)以来定着している。人間は生存のために行為するが,生存に役立つ事物は効果がなければならず,この効果はまず感覚に訴えて験(ため)される。一般に験し・試みを経ること,積むことが経験(experience(英語),Empirie(ドイツ語),Erfahrung(ドイツ語))である。西洋古代以来,験し・試み(ペイラ peira(ギリシア語))の中にあること(エンペイリア empeiria(ギリシア語)),験し・試みに基づいていること(エクスペリエンティア experientia(ラテン語))が,技術知(テクネー techn^(ギリシア語))や理論知(エピステーメー epist^m^(ギリシア語))の地盤とされている。この場合,経験は経験知としてすでに知識の一端に組みこまれている。それは試行錯誤を介して人間の獲得した知の一種である。この試行錯誤でも感覚に訴えることが基であり,ここから経験を感覚ないし感性の対象界に限定する感覚論,感性的現象界に制限する現象論,感覚ないし感性によって事物の措定(そてい)や定立を確証する実証主義が経験論の主流として成立する。19世紀末以来のプラグマティズム,20世紀前半以来の論理実証主義は現代の経験論に数えてよい。前者の代表者の一人 W. ジェームズは直接に経験されるものおよびその関係を純粋経験とし,純粋経験はその外部の別の経験との関連であるいは物的存在あるいは心的存在と呼ばれると見,感性的経験論を根本的経験論へと徹底させ,初期の西田幾多郎に影響を与えた。論理実証主義は従来の知覚ないし感性による実証では位置があいまいとなる形式科学を分析的な知として認め,経験の範囲を広めはしたが,哲学や倫理学を位置づけうる経験の範囲には至りえず,物理学を模範とする科学的経験の分析にとどまった。経験論は科学的経験をも含む人間的な経験の理論,歴史的・社会的経験の理論への展開が必要である。⇒イギリス経験論
                        茅野 良男

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経験主義
経験主義 けいけんしゅぎ Empiricism すべての知識の起源を経験において、生来の観念の存在を否定する説。おもに17~19世紀のイギリスで主流であった思想をさす。

はじめて経験主義を体系化したのはロックである。しかしロックの独創的な見解のいくつかは、すでにイギリスの哲学者ベーコンにあらわれていた。ロックの思想は、イギリスのバークリー、ヒュームによって展開され、イギリス経験論が形成される。さらに、ロックの著作はコンディヤックやディドロのようなフランスの啓蒙思想家にも影響をあたえた。

経験主義に対立する哲学思想は合理主義である。合理主義者たちは、理性、つまり経験とは別に本来人間にそなわっている能力によって、現実が知られると考える。合理主義は、フランスの哲学者デカルト、オランダの哲学者スピノザ、17~18世紀のドイツの哲学者ライプニッツとウォルフといった思想家によって主張された。ドイツの哲学者カントは、経験主義と合理主義を和解させようとした。彼は、知識を経験の領域に制限することで経験主義をみとめている。しかし、心には感覚印象をうけいれる能力が生まれつきそなわっていると主張した点で、合理主義に同意している。

近年になって経験主義という言葉はもっとひろい意味でつかわれるようになった。現在では経験をあつかうすべての哲学体系が経験主義とよばれている。アメリカではジェームズが自身の哲学を「根本的経験論」とよび、デューイは自分の経験に対する考え方を「直接経験主義」とよんでいる。

→ 西洋哲学


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現象主義
現象主義
げんしょうしゅぎ phenomenalism

われわれの認識の対象は知覚的現れ,すなわち〈現象〉の範囲に限られるとする哲学的立場。ヒュームにおいて一つの明確な哲学的主張となって現れ,現代の経験主義に受け継がれている。実在論が意識から超越した実在を認めるのに対し,現象主義は意識内在主義の立場を取り,世界および自我を〈知覚現象の束〉として説明する。現象には外的知覚による物的現象と内観による心的現象とが含まれる。現象主義は現象の背後に意識から独立の超越的実在をいっさい認めない立場と,このような実在(例えば〈物自体〉)を認めはするがそれは不可知であるとする立場とに分かれる。前者の経験主義的方向にはヒュームやマッハが属し,後者の観念論的方向を代表するのはカントである。方法論の上からは,一方に物理的事物を〈現実的かつ可能な感覚的経験〉に分析する古典的形態,すなわち〈事実的還元〉の立場があり,J. S. ミルが物質を〈永続的感覚可能性〉と定義したのはその一例である。他方その現代的形態は〈物理的事物に関する命題は感覚与件 sense‐data に関する命題に分析可能である〉という主張に見られるごとく〈言語的還元〉の方向を目ざす。上の主張は〈物理的事物は感覚与件からの論理的構成物である〉と言い換えることができ,このテーゼを忠実に展開したのがカルナップの《世界の論理的構築》(1928)である。ほかに G. E. ムーア,B. A. W. ラッセル,エアーら分析哲学の流れに属する哲学者たちがこの〈言語的現象主義〉の立場を代表する。日本では大森荘蔵の〈立ち現れ一元論〉が現象主義の一つの到達点を示している。また,現象主義はマッハを経由して初期の論理実証主義に大きな影響を与えたが,〈プロトコル命題論争〉を通じてしだいに物理主義に取って代わられた。現在では現象主義には,感覚与件を唯一の直接的経験と見なすことの是非をはじめ,感覚与件の私秘性が独我論を帰結しかねないこと,物理的事物に関する命題が有限個の感覚与件命題には分析しつくせないことなどさまざまな難点が指摘されており,その先鋭な主張は後退を余儀なくされている。⇒現象∥実在論    野家 啓一

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独我論
独我論
どくがろん solipsism

唯我論,独在論ともいう。ラテン語の solus(~のみ)と ipse(自我)とをつないでできた言葉で,一般には自我の絶対的な重要性を強調する立場のことをいう。古くは実践哲学の領域で,自己中心的もしくは利己的な生活態度や,それを是認する道徳説に対して用いられたが,今日では認識論的,存在論的な見解をあらわす言葉として使うのが普通である。すなわち全世界は自我の意識内容にほかならず,物や他我の実在を確実に認識することはできない,またそれらに自我と並ぶ実在性は認められないとする見解をいう。
 デカルトやカントに代表される西洋近世・近代の観念論哲学では自我が探究の原点であり,すべての事物を自我の意識内容もしくは観念とみなす立場で認識問題や存在問題の考察を始めるのがたてまえである。この傾向の哲学的思索は独我論と結びつきやすく,たとえばカント哲学の一面を継承したフィヒテは,非我の存在はすべて自我により定立されるから独我論こそ観念論哲学の正当な理論的帰結であり,物や他我の実在は実践的,宗教的な〈信〉の対象であるほかないと説いた。類似の見解は17世紀のデカルト派や,ロック以後のイギリス経験論者にも見られる。一方,観念論哲学に反対の立場からは,独我論への傾斜をもってこの哲学の根本欠陥とする批判が繰り返されてきた。20世紀ではウィトゲンシュタインが,独我論についてもっとも深く考察している。彼は《論理哲学論考》で,私の理解する言語の限界がすなわち〈私の世界の限界〉であり,したがって私と私の世界とは一つであると述べ,言語主義的独我論とも呼ぶべき思想を提示した。その後彼の見解は変化し,遺著《哲学探究》では《論考》の独我論や,その背景となった哲学的言語観,すなわち言語の意味の源泉は個我の意識内容にあるとする〈私的言語〉説に徹底的な批判を加えている。 黒田 亘

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倉田百三と『善の研究』
倉田百三と「善の研究」
『善の研究』のあたえた衝撃

西田幾多郎の『善の研究』に強い影響をうけた劇作家倉田百三(1891~1943)が、青春時代に書きためたエッセー的な論文をあつめた『愛と認識との出発』を世に出したのは1921年(大正10)であった。人が青春の日に苦悩するすべてがここに書かれているといわれたこの書物は、当時の旧制高校生の必読書であった。そのベストセラーの中の有名な一節が、ここに紹介する場面である。『善の研究』を買った日の感動を著者が情熱的にかたっているこのくだりを読んで、西田哲学に接した学生も多かったといわれている。

[出典]倉田百三『愛と認識との出発』(『現代日本文学大系』第40巻)、筑摩書房、1973年


倉田百三『愛と認識との出発』



 ある日、私はあてなきさまよひの帰りを本屋に寄つて、青黒い表紙の書物を一冊買つて来た。その著者の名は私には全くフレムドであつたけれど、その著書の名は妙に私を惹(ひ)きつける力があつた。
 それは「善の研究」であつた。私は何心なく其の序文を読みはじめた。しばらくして私の瞳は活字の上に釘付けにされた。
 見よ!




個人あつて経験あるにあらず、経験あつて個人あるのである。個人的区別よりも経験が根本的であるといふ考から独我論を脱することが出来た。




とありありと鮮(あざや)かに活字に書いてあるではないか。独我論を脱することが出来た!? 此の数文字が私の網膜に焦げ付くほどに強く映つた。
 私は心臓の鼓動が止まるかと思つた。私は喜こびでもない悲しみでもない一種の静的な緊張に胸が一ぱいになつて、それから先きがどうしても読めなかつた。私は書物を閉ぢて机の前に凝(じっ)と坐つてゐた。涙がひとりでに頬を伝つた。
 私は本をふところに入れて寮を出た。珍らしく風の落ちた静かな晩方だつた。私は何とも云へない一種の気持を守りながら、街から街を歩るき廻つた。その夜蝋燭(ろうそく)を点(とも)して私はこの驚くべき書物を読んだ。電光のやうな早さで一度読んだ。何だか六ケ敷(むづかし)くてよく解らなかつたけれど、その深味のある独創的な、直観的な思想に私は魅せられてしまつた。その認識論は私の思想を根柢より覆(くつが)へすに違ひない。そして私を新しい明るいフィールドに導くに相違ないと思つた。この時私はものしづかなる形而上学的空気につつまれて、柔かに溶けゆく私自身を感じた。私は直ちに友に手紙を出して、私はまた哲学に帰つた。私と君とは新しき友情の抱擁に土を噛(か)んで号泣できるかも知れないと言つてやつた。友は電報を打つてすぐ来いと云つてよこした。私は万事を放擲(ほうてき)してO市の友に抱かれに行つた。
 操山の麓(ふもと)にひろがる静かな田圃(たんぼ)に向つた小さな家にわたしたちの冬ごもりの仕度(したく)ができた。私は此の家で「善の研究」を熟読した。この書物は私の内部生活にとつて天変地異であつた。此の書物は私のErkenntnistheorieを根本的に変化させた。そして私に愛と宗教との形而上学的な思想を注ぎ込んだ。深い遠い、神秘な、夏の黎明の空のやうな形而上学の思想が、私の胸に光のごとく、雨のごとく流れ込んだ。そして私の本性に吸ひ込まれるやうに包摂されてしまつた。
 私等は進化論のやうに時間的に空間的に区別せられたる人間と人間との間に生の根本動向から愛を導き出すことは到底不可能である。ここから出発するならば対人関係は詮(せん)ずるところ利己主義に終はる外はない。併しながら私等は他のもつと深い内面的な生命の源泉より愛を汲(く)み出すことが出来るのである。直ちに愛の本質に触れることができるのである。愛は生命の根本的なる実在的なる要求である。その源を遠く実在の原始より発する、生命の最も深くして切実なる要求である。
 然(しか)らばその愛の源流は何であるか。それは認識である。認識を透して、高められたる愛こそ生命のまことの力であり、熱であり、光である。
 私は自己の個人意識を最も根本的なる絶対の実在として疑はなかつた。自己がまづ存在してもろもろの経験はその後に生ずるものと思つてゐた。併しながら此の認識論は全く誤謬(ごびゅう)であつた。私の一切の惑乱と苦悶とはその病根をこの誤謬の中に宿して居たのであつた。実在の最も原始的なる状態は個人意識ではない。それは独立自全なる一の自然現象である。我とか他とかいふやうな意識のないただ一のザインである。ただ一の現実である。ただ一の光景である。純一無雑なる経験の自発自展である。主観でもない客観でもないただ一の絶対である。個人意識といふものは、この実在の原始の状態より分化して生じたものであるのみならず、その存在の必須(ひっす)の要件として之に対立する他我の存在を予想してゐる。客観なくして主観のみ存在することはない。
 それ故に個人意識は生命の根本的なるものではない。その存在の方式は生命の原始より遠ざかりたるものである。第二義的なる不自然なる存在である。それ自身にて独立自全に存在することの出来ないものである。これは個人意識が初めより備へたる欠陥である。愛はこのDefectより生ずる個人意識の要求であり、飢渇である。愛は主観が客観と合一して生命原始の状態に帰らんとする要求である。欠陥ある個人意識が独立自全なる真生命に帰一せんがために、己れに対立する他我を呼び求むる心である。人格が人格と抱擁せんとする心である。生命と生命とが融着して、自他の区別を消磨し尽くし、第三絶対者に於て生きんとする心である。
 それ故に愛と認識とは別種の精神作用ではない。認識の究極の目的は直ちに愛の最終の目的である。私等は愛するがためには知らねばならず、知るがためには愛しなければならない。我等は畢竟(ひっきょう)同一律(Gesetz der Identitat)の外に出ることは出来ない。花のみよく花の心を知る。花の真相を知る植物学者は自ら花であらねばならない。すなはち自己を花に移入(einfuhren)して花と一致しなければならない。この自他合一の心こそ愛である。
 


愛は実在の本体を捕捉(ほそく)する力である。ものの最も深かき知識である。分析推論の知識はものの表面的知識であつて実在そのものを掴(つか)むことはできない。ただ愛によりてのみこれをよくすることができる。愛とは知の極点である。(善の研究、知と愛)




 かくの如き認識的の愛は生命が自己を支へんための最も重々しき努力でなければならない。個人意識がかりそめの存在を去つて確実なる、原始なる、自然なる、永遠なる真生命に就かんとする最も厳(おごそ)かなる宗教的要求である。この意味に於て愛はそれ自ら宗教的である。かくてこそ愛は生命の内部的なる熱と力と光との源泉たることを得るのである。
 私はO市の冬ごもりの間に思想を一変してしまつた。我欲な戦闘的な蕭殺(しょうさつ)とした私の心の緊張はやはらかに弛(ゆる)み、心の小溝(こみぞ)をさらさらとなつかしき愛の流れるのを感じた。私はその穏やかな嵐の後の凪(なぎ)のやうな心で春を待つた。春が来た。私は再び上京した。



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大森荘蔵
大森荘蔵
I プロローグ

大森荘蔵 おおもりしょうぞう 1921~97 平易な言葉をもちいて、哲学の問題を精緻に、また徹底的に解き明かすことをこころみた、20世紀後半を代表する日本の哲学者。

岡山県に生まれる。東京帝国大学で物理学をまなんだのち、哲学に転じた。アメリカに留学後、東京大学教養学部、ついで放送大学でおしえるかたわら、専門の枠にとらわれず一般読者を対象に精力的な著作活動をおこなった。

II 立ち現れ一元論

分析哲学を背景にしながらも、現象主義、独我論をつらぬく姿勢で書かれた「言語・知覚・世界」(1971)は、人間のくらす世界は見たり聞いたりふれたりする風景であって、世界の科学的描写はこれと独立に存在するわけではなく、ましてや知覚風景がみえることの原因をえがきだすわけでもなく、知覚風景の上に時空的に重ねてえがかれた像であるとした。また科学理論による説明とは科学的描写の提示にほかならないとし、根拠への問いを無意味なものとみた。

「物と心」(1976)は、言葉の働きを「声振り」、すなわち、声を身の一部、身振りの一部とし、表象を言葉の意味として措定しない。対象は表象などの仲介なしにじかに立ち現れるとする一元論をとり、知覚されていない対象は、想起的に立ち現れるとした。実体を排して、同一性というのは立ち現れの「同一体制」に属することだと解釈し、その決定要因としては、生活と密着する知覚的立ち現れが優位にたつとした。

III 常識のドグマの否定

「流れとよどみ」(1981)、「新視覚新論」(1982)、「知の構築とその呪縛(じゅばく)」(1983)、「思考と論理」(1986)、「時間と自我」(1992)、「時間と存在」(1994)、「時は流れず」(1996)などの著作は、その一元論を基盤にして、多岐にわたりつつ、問題を微妙にことなる角度から幾度も解きほぐす哲学的思索の足跡で、常識のドグマの否定に力点がおかれた。たとえば心的事象は大脳に生じるという、大脳の状態に立ち現れの原因をみる考え方を否定した。また、ゼノンの逆説を分析して軌跡から考えられた運動は矛盾をふくむとし、点時刻の軌跡から理解されるような時の流れを否定した。→ 時間


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実証主義
実証主義
じっしょうしゅぎ positivism

一般に,経験に与えられる事実の背後に超経験的な実体を想定したり,経験に由来しない概念を用いて思考したりすることを避け,事実のみに基づいて論証を推し進めようとする主張をいう。positive という形容詞には,negative(〈否定的,消極的,陰性の〉)と対をなす〈肯定的,積極的,陽性の〉という意味もあるが,それとは意味論的に区別され,negative とは対をなさない〈実証的,事実的〉という意味もあり,それは次のような事情で生じたものである。この形容詞はラテン語の動詞ponere(設定する)の過去分詞がそのまま名詞化された positum(設定されたもの)に由来するが,このばあいこれは〈神によって設定されたもの〉を意味する。つまり,この世界にはとうてい神によって設定されたとは思えない悪や悲惨なできごとが数多く存在するが,しかし人間の卑小な理性にはどれほど理解しがたいものであろうと,それもやはり神によって定められた事実,神のおぼしめしとして人間が受けいれるしかない事実である。そこから positum に〈不合理だが厳然と存在する事実〉という意味が,そして positive に〈事実的〉という意味が生じた。18世紀の弁神論的発想から生じた語義であり,〈既成性〉と訳される初期ヘーゲルの用語 Positivit∵t も同じ文脈に属する。
 〈実証主義〉は積極的主張としても軽蔑的な意味合いでも使われる。19世紀初頭に C. de サン・シモンやコントによってこれがはじめて提唱されたときは,むろん積極的主張であったが,19世紀末に〈実証主義への反逆〉がはじまると,それは〈唯物論〉〈機械論〉〈自然主義〉などと等価な蔑称として使われた。自然科学的認識方法を無批判に人間的事象に適用する当時の支配的な思想傾向が漠然とこの名で呼ばれ,批判されたのである。だが,同じ世紀末でも,マッハやアベナリウスの経験批判論が実証主義と呼ばれるのは,肯定的な意味においてである。彼らは科学的認識からいっさいの形而上学的要素を排除しようと意図する。実体間の力の授受の関係を予想する原因・結果の概念はもとより,精神や物質という概念,したがって心的・物的の区別さえもが排除され,ただ一つ経験に与えられる基本的事実である〈感覚要素〉相互間の法則的連関の記述だけが科学的認識の目的として指定されることになる。1920年代には,このマッハの伝統の上に,B. A. W. ラッセルやウィトゲンシュタインによって完成された論理分析の方法を採り入れたウィーン学団によって論理実証主義が提唱され,30年代以降これがイギリス,アメリカに移され,現代哲学の主流の一つとなった。実証主義がこのように肯定・否定両様に解されるのも,そこで考えられている〈事実〉が何を指しているかによる。19世紀の実証主義が批判の的にされたのは,その事実概念が古典的自然科学の狭い認識論的前提に制約されたものだったからである。                木田 元
[社会科学における実証主義]  社会科学の領域での実証主義は,C. de サン・シモンが自然科学の方法を用いて人間的・社会的諸現象を全体的かつ統一的に説明するために最初に提唱したのに始まり,コントに継承されて体系づけられて以来,19世紀後半から20世紀にかけて西ヨーロッパをはじめ全世界に及ぶ科学的認識論の支配的な立場となった。
 サン・シモンは《19世紀の科学的研究の序説》(1808)や《人間科学に関する覚書》(1813)において,従来の社会理論は単なる推測に基づいた独断的で形而上学的なものにすぎないと批判し,これに代えて,経験的現象の背後に神とか究極原因といった超経験的実在を認めず,〈観察された事実〉だけによって理論をつくり,経験的事実の裏づけによって実際に確証された理論こそ〈実証的positif〉で科学的なものとみなされなければならないとした。そして,この見地から,天文学,物理学,化学,生理学という順序で実証的になってきた科学的方法を用いて社会現象を研究し,政治,経済,道徳,宗教などを含むいっさいの人間的・文化的・社会的事象の相互関連性を総合的・統一的に説明すべきであると主張し,それを〈社会生理学〉と命名した。コントはサン・シモンの基本構想を引き継ぎ,さらにいっそう体系化し,《実証哲学講義》全6巻(1830‐42)において〈実証的〉という語を定義し,〈架空〉に対する〈現実〉,〈無用〉に対する〈有用〉,〈不確定〉に対する〈確定〉,〈あいまい〉に対する〈正確〉,〈消極的,否定的〉に対する〈積極的,建設的〉などの特徴をあげた。そして実証的とは〈破壊する〉ことでなくて〈組織する〉ことであると説き,人間の知識と行動は〈神学的〉―〈形而上学〉―〈実証的〉になるという〈3段階の法則〉を提示し,社会現象についての実証的理論を〈社会学 sociologie〉,実証的知識に基づいて自然界,精神界,社会界を全体的に一貫して説明する理論を〈実証哲学 philosophie positive〉と呼んだ。
 コントの説はイギリスの J. S. ミルに高く評価され,ミルは《コントと実証主義》(1865)を書き,〈コントこそは実証主義の完全な体系化を企て,それを人間の知識のあらゆる対象に科学的に拡大した最初の人であった〉と述べた。これ以降,実証的すなわち科学的という通念が世界的に普及した。フランスの社会学者デュルケームはこの立場をさらに徹底させて比較法や統計的方法を用いてすぐれた社会研究の業績をあげ,これによって社会科学における実証主義が確立された。天与の自然法という考えを排して現実の実定法だけを研究対象にする法実証主義はこの流れをくむものであり,調査によって得られた事実的資料に基づいて理論をつくるという今日の社会科学における方法論もこれに立脚している。このように実証主義は個々の事実の収集から一般理論の形成に進む帰納主義的立場をとるが,ポッパーは事実の観察や収集がそれ自身すでに一定の観点と仮説に基づいたものであって,個々の事実の集積から一般理論は生まれず,また理論は個々の事実によって確証されないことを論理的に明らかにして実証主義に鋭い批判を加えた。            森 博

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実証主義
I プロローグ

実証主義 じっしょうしゅぎ Positivism 経験一般と、自然現象についての経験をとおした知識にもとづく哲学の体系。経験をこえたものを対象にする形而上学や神学などを、じゅうぶんな知識の体系とはみとめない考え方。

II 成立と発展

19世紀フランスの社会学者・哲学者のコントによってはじめられた実証主義の考えのいくつかは、サン・シモン、あるいはヒュームやカントにまでさかのぼることもできる。

コントは人間の知識の発達を3段階にわけ、自然をこえた意志によって自然の現象を説明する神学的知識の段階から、自然をこえた説明はするが擬人的ではない形而上学的知識の段階をへて、経験的事実のみで説明をする実証的知識の段階へいたると説いた。最後の実証的知識の段階では、事実を事実で説明し、自然の現象の背後にそれをこえたものを想定したりはしない。

このような考えは、自然科学の発達にともない19世紀後半の思想に大きな影響をおよぼした。コントのこの考えは、ジョン・スチュアート・ミル、スペンサー、マッハなどによりさまざまにうけつがれ発展した。

III 論理実証主義

20世紀前半になると、伝統的な経験的事実にもとづく実証主義とはことなった、論理実証主義という考え方がおこった。マッハの考えをうけつぐこのグループは、ウィトゲンシュタインやラッセルの影響のもとに、論理分析により科学や哲学を考察した。ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」(1922)の影響をうけた論理実証主義者たちは、形而上学や宗教、倫理についてかたることは無意味であり、自然科学の命題だけが、事実とてらしあわせて検証することにより、正しいか正しくないか判断できると考えた。このような考え方は、その後さまざまな修正や発展をへて、多くの哲学者に影響をあたえた。


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直観
直観
ちょっかん

日本に初めて西洋の思想が紹介される際,intuition(英語,フランス語)の訳語には初め〈直覚〉が当てられていたが(例えば,西周《心理学》,1875‐79),それがしだいに〈直観〉にとって代わられ,今日に至っている。intuition は,〈凝視する〉とか,ときには〈瞑想する〉といった意味を有するラテン語 intueri に由来し,一般に直接的知識を意味するが,ドイツ語の Anschauung も,事物への接近・接触などを表す接頭辞 an と,意志的な見る行為を意味する schauen とからなり,やはり同様の知のあり方を意味する。日本語の〈直観〉も,それらの訳語として,総じて推理(推論)や伝聞によらない直接知を指す。ただし,内容的には,どのような知識を直接的と見るかによって,意見が分かれてくる。例えば,日常的には,一種の〈勘〉や〈予感〉のようなものもときには直観と呼ばれるが,これらは本物の〈知〉かどうかが確かではないから,哲学などではあまり問題にされない。
 哲学では,何よりもまず,感覚にもとづく知が直観と呼ばれる。それこそは,推理によらない知の典型だからである。したがって,例えば,眼前の机を机として認知するのは一つの直観である。しかし,机のようなものにおいては,まったく別な物が机に見えるということもありうるから,その認知には知としての十分な資格が欠けているともいえる。そう考えた場合,〈直観〉の呼称は,対象との直接的接触によって得られた,知以前のあるものに限られることになる。例えば,カントのいう〈直観の多様〉がそのようなものであった。しかし,仮にそれ自身が完全な知識ではないにしても,われわれが現実界の個物について何かを知ろうとするかぎり,そのような直観の役割を軽視することはできないであろう。
 一方,知識そのものに関しては,幾何学の公理に類した〈ア・プリオリ〉な命題が,ときに直観と呼ばれる。それは,推論によって得られたものではなく,むしろすべての推論が前提にすべきもっとも基本的な命題と考えられるからである。例えば,デカルトは,〈同一の第三者に等しい二つのものは互いに等しい〉といった公理をその例にあげている。彼にとっては,〈三角形は三つの直線によって限られている〉とか,さらには〈私は存在する〉といった命題でさえ,理性によって直観される〈生具観念〉であり,そしていわゆる〈演繹〉も,ただ直観の運動にほかならなかった。
 命題ではなく,概念的な普遍者やそれらの関係の把握にも,直観を認める考え方がある。例えば,カントは〈空間〉や〈時間〉の表象を,経験からの抽象以前に一挙に把握されているア・プリオリな直観とみなしたが,フッサールのいう〈本質直観〉もそのようなものであった。それらは,個々の語によって意味されているある本質的なものについての直接知であり,すべての言語使用に前提されているはずのものなのである。さらに,とくに言語化を拒むものの把握に〈直観〉が語られることがある。ベルグソンにとって,時間的な〈持続〉は,われわれがみずから直接に体験しうるだけで,言語による固定化を嫌う流動であったし,一般に神秘的なものの存在を認める立場では,そのような意味での直観が重んじられる。
 もっとも,19世紀末に非ユークリッド幾何学をはじめとする新しい数学や,その基礎づけを目ざす新しい論理学が起こるにつれて,直観への信頼は薄れてきたといえる。例えば,公理についても,現代では,それ自体として明証的な直観の表現ではなく,〈何か土台になる題目について成り立つと思われる命題〉(ワイルダー)とするのが普通である。それは,単純であるとか,そこから他の命題を導出するに便利だという理由で選ばれるだけであって,その数も恣意的であり,より少数の公理からより多くの命題を導出することを理想としてきめられるにすぎない。したがって,例えば〈点〉や〈線〉といった語が使われるにしても,それらの語は,公理の中で指定されている関係を満足させる任意のものを代表しうるのである。こうして,例えば20世紀の初めに出現した論理実証主義やある種の分析哲学では,直観としては経験的直観だけが認められ,概念の本質などに関する問題は,語が各体系の中で整合的に使われているかどうかという言語使用の問題に還元されるに至った。言語の意味とはその使用規則なのであり,言語の理解も,意味の直観といった心的過程ではなく,一定の規則に従った言語の使用能力と解されるわけである。ただし,一般に論理実証主義の先駆とされているウィトゲンシュタインが,言語使用の条件として,語の配置などのような内部構造や諸形式が〈示され〉ていることを要請していたのは注目に値する。彼にとって,〈示される〉ものは〈語られ〉えず,ただ直観されるべきものだったのである。⇒知識                   滝浦 静雄

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直観
I プロローグ

直観 ちょっかん Intuition 直観は哲学においては、経験からも理性からも独立した、認識の一形態である。直観能力や直観的知識は、一般に心の内的な性質とみなされる。さまざまな哲学者にさまざまな(ときには相反する)意味でつかわれてきたので、個々の著作にあたらなくては、この語を定義することはできない。

直観という概念には、明らかに2つの源泉がある。ひとつは数学で考えられる公理(証明を必要としない自明な命題)であり、もうひとつは神秘的な啓示(知性の力をこえた真理)という考え方である。

II ピタゴラス派

直観はギリシャ哲学、とくに、数学の研究と教育に力をいれたピタゴラスとその学派の哲学者たちの思想で重要な役割をはたした。また、多くのキリスト教哲学でも重視された。人間が神を知る基本的な方法のひとつと考えられたのである。直観に重きをおいた哲学者としては、スピノザ、カント、ベルグソンがあげられる。

III スピノザ

スピノザの哲学においては、直観は認識の最高形態であって、感覚から生じる「経験的」認識と、経験に根ざした推論から生じる「理性的」認識の両方をこえている。直観的知によって、個人は、宇宙を秩序ただしい統一的なものとして理解でき、そうすることで個人の精神は「無限なるもの」(神=自然)の一部になることができるというのである。

IV カント

カントは直観を知覚、つまり「現象」に限定するが、そこには心の働きも関与している。彼は直観を2つの部分にわける。ひとつは知覚される外的対象からくる感覚与件(うたがいようのない感覚)であり、もうひとつは心の内にある知覚の「形式」、つまり感覚与件の受け入れ方である。人間はかならず空間と時間という形式でものを感覚する。この形式だけを感覚与件なしに、あらかじめとらえる直観が、「純粋直観」といわれる。空間と時間という純粋直観に数学はもとづいているとカントは考えた。

V ベルグソン

ベルグソンは、本能と知性を対置し、直観を本能のもっとも純粋な形式とみなす。知性は物質的な事物を考察するのには適しているが、生命や意識の基本的な本性を知るのには適さない。直観とは、生命の本能が直接くもりなく自覚されたものである。直観によって人は、意識に直接あたえられる生命の流れにはいりこみ、概念や記号によっては表現しえないものと合一することができる。

これに対して知性は、分析することしかできないが、分析とは、絶対的な物や独自な物をとらえるよりも、むしろ対象のもつ相対的な側面に光をあてるものなのである。真に実在する絶対的な物は直観によってのみ理解されうるとベルグソンは考えたのである。

VI 直観主義者たち

倫理学者の中にも、直観主義者あるいは直覚主義者といわれる人たちがいる。彼らは、道徳的価値(善悪)は直観によって直接知られると考え、道徳的価値が経験から生じると考える経験主義者とも、理性によってきまると考える合理主義者とも対立する。


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分析哲学
分析哲学
ぶんせきてつがく analytic philosophy

哲学的問題に対し,その表現に用いられる言語の分析から接近しようとする哲学。論理分析logical analysis,哲学的分析 philosophicalanalysis ともいう。言語の分析にかぎらず広く言語の考察から哲学的問題に迫ろうとする哲学をすべて〈分析哲学〉と呼ぶこともあるが,これは不正確である。
 言語分析は20世紀の初頭,B. A. W. ラッセルとG. E. ムーアによって始められたといってよい。彼らは当時イギリスにおいて盛んであった,世界は分析しがたい一つの総体だとするヘーゲル的思考に反対して,世界は複合的なものであり,要素に分解しうるとし,この考えを実体間の外在的関係の理論によって論理学的,形而上学的に基礎付けた。ムーアは物や時間,場所など常識が存在するとするものをすべて実在すると考えたが,それらの概念を綿密に分析することによって言語分析への通路を開いた。これに対してラッセルは,〈黄金の山を論ずるときにはある意味で黄金の山は存在しなければならない〉とするマイノングの考えに反対して記述理論に到達したが,それは,たとえば〈現在のフランス王ははげである〉という言明の主語が見かけ上のものであって本当は主語ではないとするというような言語分析であった。ラッセルは存在論に言語分析から迫ったのである。彼はこの記述理論の他方で経験世界に関する多くの言明に登場する名前を消去して,真に存在するものの名前とそのような存在者を指す変項だけしか登場しない言明に置き換えていった。このとき,ラッセルにとって真に存在するものは,1910年代から20年代にかけては,個別的な〈感覚与件〉ないし〈事件〉であって,物や心,時空的位置のような他の存在者は前者から構成されるものであった。このような構成の手引となったものは,彼自身その構成に寄与した数理論理学の言語であった。日常言語による表現はかならずしも存在構造をそのまま反映するものではない。むしろ論理学の人工言語こそわれわれに存在の構造を教えてくれる。彼が若きウィトゲンシュタインの影響のもとに書いた《論理的原子論の哲学》(1918)はこの思想をよく表している。
 ラッセルに影響を与えたウィトゲンシュタインは《論理哲学論考》(1922)において,ラッセルよりもさらに徹底して世界を単純・独立な〈事態〉の複合として,〈事態〉をまた〈対象(実体)〉の連鎖としたが,それは世界を完全に明瞭に表現したときの言語表現に〈示される〉ものと考えた。20年代の後半から30年代にかけて盛んとなった論理実証主義は《論考》時代のウィトゲンシュタインから大きな影響を受けたが,一方先鋭な実証主義,反形而上学,科学主義とくに物理学主義をもって知られる。しかし論理実証主義者,とくにその代表者カルナップは《論考》の思想を規約主義的に変形して理解し,哲学的活動を一種の言語分析として規定した。それは形而上学に対してはその言明の無意味性を主張し,特殊諸科学に対してはその言語の統語法を論ずる論理的統語論を構成することであった。形而上学的言明が無意味であるとはその真理性が検証できないことである。その原理は有意味性の規準を検証可能性におくことである。ラッセルとウィトゲンシュタインの思想を受け継いで論理学と数学はトートロジーとし,言語を数理論理学の言語になぞらえて一種の計算体系として,人工言語として再構成されるとする。それは学問の各分野に即した別々の言語として行われるが,その構成は一意的なものではありえず,構成の成果に照らして修正される規約的なものである。しかしこの考えは実証主義と言語論の両面から間もなく行き詰まる。検証可能性による意味論はせまきにすぎて,自己を含めたすべての哲学を無意味にするばかりでなく,科学の多くの表現が無意味になってしまうことがわかってきた。その上,ある言語の考察は,たとえ人工言語に対するものであっても,統語論の角度だけでは不十分で,意味論的考察が必要であることが,タルスキーの真理論などを機縁に明らかになってきた。そこでカルナップは,タルスキーの真理論の示唆によって分析的真理や様相概念を意味論的に定義しようとした。
 以上のような分析哲学の動向に対しては,二つの角度からの痛烈な批判が50年代になされることとなる。一つはクワインを代表とするものである。それは伝統的な哲学においてもカルナップにおいても当然のものとして前提されていた分析的言明と統合的言明との原理的区別を否定するものであった。それは〈意味とは何か〉という問題を改めて提起した。クワインは一般に意味,内包,属性,命題を実体的なものとしてとらえることに異議を唱えたのである。もう一つは日常言語に着目する角度である。それまでの言語分析は論理学や数学の言語を範型にとった人工言語を主要な対象としたが,がんらい言語とは日常言語であり,日常言語のあり方を子細に点検すると従来の言語分析の方法は根本的に誤っていることがわかるとするものである。その代表的な論者は後期のウィトゲンシュタインであった。彼は〈真の言語形式は実在形式を写し出している〉という《論考》の根本思想を一擲した。言語の現実の機能を具体的に吟味してみると,名前が対象を指し,単純文が原子的事態を表すというような素朴なことはいえず,同じ文も場面が違えば違った役割をする。言語とは世界の写し絵ではなく,人間の相互交流の一形式,生活形式であるにすぎない。〈言表の意味とはその使用である〉。こうして50年代にはとくに日常言語学派がイギリスにおいて隆盛を極めることとなったが,それは語や文の意味や指示をその使用の状況・脈絡において考察するものであった。日常言語が重要なことは,心の働きや行為を表す語が基本的に日常言語であることによってわかる。言語分析は日常言語の考察に至って初めて伝統的な哲学的問題の解明に寄与することができたといってよい。しかしその方法はすでに言語分析の枠を超えているともいえる。またあまりにも事例主義的な日常言語学派の方向も行き詰まり,最近では論理学におけるモデル理論を援用したり,新しい言語学の成果を取り入れたりして日常言語の解明が進んでいる。⇒論理実証主義
                        中村 秀吉

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